教育勅語とか国歌・国旗を強制する教師を密告せよ!

先ほどの、自民党の密告フォームの件、考えれば考えるほどだんだん腹が立ってきた。ロイターにも掲載されたので海外にも紹介されるはずだ。そこで思ったのだが、有志でサイトを立ち上げて匿名で(自民党の場合は実名で報告することになっている)特定の思想に偏った教師の名前を募集して、サイトに公表するというのはどうだろうか。
教師が政治的に中立でないのがいけないなら、例えば次のような教師もいけないはずだ。民主主義の敵だ。

  • 教育勅語を生徒に強制する。
  • 国歌や国旗への敬礼を強制する。
  • 家族の価値観をやたらに誇張し、女性は男性にだまってついてくるようにという自説を滔々と述べる。

告発が真実であろうがなかろうが構ったことではない。そういう先生には校長なども多いだろうから、国民が一丸となって反対運動を展開するべきだ。民主主義はみんなで守らなければならない。これは正義を巡る戦いだ。もちろん、善意の市民として教育委員会にも圧力をかけるべきだろう。
さて、実際にこんな動きが起きたらどうなるだろうか。気に入らない教師を貶めようとする人たちが殺到するだろう。それは同僚かもしれないし、我が子が「不平等な扱いをされた」と考える親たちかもしれない。
一度、反人権教師のレッテルを貼られたらそれを挽回するチャンスはない。これは自民党のシステムでも同じことだ。一度「アカ」のレッテルが貼られたらその教師には出世の見込みがなくなってしまう。つまり、かつてあったレットパージと同じことなのだ。前者はネットで悪評が出回ることになるのだが、後者の場合は人事評価で一生消えない烙印が押されることになる。
さて、ここで提示されているのは、実は深刻な問題ではないだろうか。つまり「誰が誰をどのように裁くのか」ということである。ここで取り扱っているのは、思想・信条という人間が生きて行くために欠かせないものだ。もちろん何の思想がなくても人は生きて行ける。しかし「自分の人生は何のために使うのか」という意識なしで、本当の人生を生きていると言えるだろうか。誰かに強制された思想の枠組みから外れてはいけない人生というのは、本当にその人のものなのだろうか。
もちろん、誰かに自分の思想を押し付けて強制することはいけない。それは他人の人生を奪うのに等しい行為である。だが、そうでない限り、誰かが表現の自由を奪ってはいけない。それを奪われた人生は(少なくとも自由主義の国では)本物の人生とは言えない。
どの教師がどんな政治的思想を持っているのかということを密告しあうするような社会が作られれば、教育現場は確実に萎縮するだろう。自分の子供たちが「周囲の目を気にしながら、自分の信じる道を歩けない社会」が作りたいのなら、このフォームを掲げた政党をどうどうと支持するべきだろう。
自民党が教育現場の萎縮を狙ってこのフォームを掲げたとは思えない。ロイターの記事には木原稔文部科学部会長の名前が載っているのだが、支持者を喜ばせたり、党内で誰かにほめられたくてやったのではないかと思う。自分たちが何をやっているのか、何を扱っているのか、どんな帰結を導くのかこの人たちは分かっていないのだ。

舛添人民裁判でマスコミが抱えたリスク

舛添都知事叩きが終わった。叩いている都知事が辞めたからだ。都議会はリオデジャネイロオリンピックに派遣団を出すようだが、高額な支出が問題になっている。しかし、都議会議員を辞めさせろというほどの盛り上がりは見せないだろう。結局、何も変わらなかった。
しかし、今回の件で「危険だな」と思ったことがある。マスコミは家族のところに押し掛けたようだ。子供がいじめられ、奥さんも精神的な苦痛を伴う対応を迫られたようだ。「政治で飯を食ってるんだから、当然」などと思う人もいるだろうが、BPOにでも提訴されれば、確実に是正勧告が出そうだ。
舛添さんがBPOに提訴したり、裁判に訴えるとは思えない。今行動を起こせば叩かれるだろう。同じように「この人は訴えてこないだろう」という人に市川海老蔵がいる。まだ治るか分からない奥さんの病状を暴き、本人が何度も「もう取材は遠慮してほしい」と言っているのに付け回している。しかし市川海老蔵の場合はテレビで食べてゆかなければならないため、関係を断ち切れない。雇い主でもあるテレビ局はそのことをよく分かっているのだろう。報道は子供の目にも入るわけで、立派な人権侵害と言える。「コンプライアンスにうるさい」と言われるテレビ局だが、実際には人権そのものには無頓着なのだ。
しかし、舛添氏は既に悪役認定されているのでマスコミを利用して商売ができるとは思えない。故に、勝てる裁判なら対決する可能性も低くないだろう。公人で安心だと思って叩いたのかもしれないが、大きな訴訟リスクに晒されていることになる。
週刊誌も裁判を多く抱えているが、裁判対策も行っているそうだ。記者を使って「勝てる」材料を集めたり、裏取りをしたり、最終的には「これは本当は白ではないか」という裏取りもするそうである。週刊誌を真に受けて政策判断する人もいないわけで、最初から毀損される「信頼性」はない。大きな新聞社は正義の側に立ち、口答えできない人たちを叩くことに馴れているので、攻撃されると弱いのではないかと思う。訴訟で毀損される(従って失う)信頼も大きい。
大手マスコミは扇情的な報道で数字が取れることを学んでしまった。と、同時に大衆も麻薬のような煽動報道によって「正義の側に立つ」快感を覚えてた。今「舛添ロス」に陥っている視聴者は多いのではないかと思う。しかし、それはマスコミが今後大きな訴訟リスクを抱えるということを意味する。数字を追求すれば信頼性は毀損され、訴訟リスクも増すのだ。

限界を迎えたAKB総選挙

AKB総選挙を見た。今までは「なんとなくグロテスクだなあ」と思っていたのだが、それでもエンターティンメントの一種だと思っていた。だが、今回は「もう辞めた方がいいんじゃないか」と思った。それはある参加者が「摂食障害」を口にしたからだ。にも関わらず視聴者たちはさほど反応せず「なかったこと」にしたうえで、目の前で繰り広げれる競争に一喜一憂した。
摂食障害を起こした参加者は18歳ということだった。つまり、ハイティーンの時代に他の女性たちと競争していたことになる。数週間具合を悪くしていたが「直った」ので出てきたのだそうだ。また「これを公表したら嫌われるかもしれない」と思ったそうである。周囲の大人はどうしてこの人に「治療に専念するように」と言わなかったのか、なぜ公衆の面前でストレスを与えて病状を告白させたのか、フジテレビの人たちはなぜコンプライアンス上の問題を認識しなかったのかと思った。
摂食障害は自尊心の欠如から来る症状だ。容姿を比べられている人が「このような姿では人に愛されるはずがない」と思ったとき、食べなければやせられるのではないかと感じるわけである。ティーンエージャーの自尊心は大人ほど固まっておらず、この種のストレスに弱いと考えられる。故に「容姿による競争」が摂食障害の原因になっていることが考えられるわけで、その競争は病気を悪化させる可能性がある。「嫌われるかもしれない」というメンタリティはストレスの原因が全く取り除かれていないことを示唆している。「好かれるか嫌われるか」は相手次第であり、なおかつそれによってその人の人格の全てが決定されてしまうということだ。
摂食障害と言われて思い出されるのはカレン・カーペンターだ。悲惨な結末を最近の人は知らないのかもしれない。
AKB総選挙自体は悪くないかもしれない。多様な価値観があり、そのうちの1つが選挙だと考えることができるからだ。指原莉乃のようにバラエティでも活躍できて選ばれるというのは健康的な姿だろう。だが、そう思っていない参加者もおり、追いつめられてしまうのだ。
でも彼女たちは職業として競争社会に身を置くことを選んだのだし、別に自己責任だからよいのではないかと考える人もいるかもしれない。三点考えてみたい。
第一に、この競争は女性に悪影響を与えうる。女性は「選ばれる性」であるというメッセージを広める。女性の地位は容姿次第であって、容姿の完全なコントロールはできない。男性に受け入れられるためにはスレンダーでなくてはならず、規格外であれば無理なダイエットをしてでも受け入れられる「努力」をしなければならないという考えを広めかねない。総選挙に出るのは可憐な「かわいい」女性ばかりで、大柄の女性は出てこない。その方が「よく売れる」からだ。
例えばフランスではやせすぎたモデルの使用が禁止されているという。モデルの異常な体型が少女たちに間違ったメッセージを与えかねないからだ。生きたマネキンとして生気のない体型が好まれるのだが、それは健康的な姿とはいえない。そして、ティーンエージャー時代の栄養の欠如はその後の人生に壊滅的な影響を与えうる。
次にこの競争はCDを売るための演出として行われている。票は一人一票ではなく、CDの枚数によって決まる。多感な時期の女性の健康を搾取してまでCDを売るべきだろうかという問題がある。そのうえ病気の告白というセンセーショナルな話題でさえ「苦難に耐える女性が競争に打ち勝つ姿は美しい」という演出装置として利用されている。言い方はきついかもしれないが、これは搾取の一形態である。
しかしこの二つの問題は、最後の問題に比べると取り立てて大きな物ではないかもしれない。視聴者は女性が競争に苦しむのを見て、それをエンターティンメントとして楽しんでいるのである。テレビの向こうで起っていることは現実感が乏しく、参加者たちが大きなストレスに晒されていると感じにくい。ちょっとした苦痛はスパイスであり「いいぞ、もっと戦え」という気持ちにさえさせられるわけで、獣と戦士を戦わせて熱狂する古代ローマ人と変わりはない。見ている側の人間性が少しずつ蝕まれてゆく訳なのだが、そうまでしてCDのプロモーションにおつきあいする必要があるのか、今一度考えた方がいいと思う。

わいせつについて考える – このブログエントリーのお子様の閲覧はお控えください

少し前のことだが、女性の大切な部分のコピーかなんかを配布した女性が「わいせつ電磁的記録頒布罪」容疑で逮捕されて話題になった。これ何が問題だったのだろうか。
第一に男性のものだはおおっぴらに大人のおもちゃとして売られている。3Dプリンター用に雛形を配布しても罪には問われないだろう。故に電磁的な記録を作ったからと言って罪に問われる訳ではないらしい。もっとも女性好きの男性から見れば、女性のおもちゃは気持ちが悪いだけだろう。故に男性目線で何が猥褻かを決めている可能性はある。
kandamyojin次に公に晒してみるとどうなるかを試してみる。もしこれが犯罪なら、電磁的な記録を公開したということで逮捕されてしまうだろう。この写真を見て「あれ、これはどこが卑猥なのか」という人がいるかもしれないのだが、この像を裏から見た事がないか日本の歴史を良く知らない人だろう。この像は秋葉原とお茶の水の間にある有名な神社に白昼堂々と陳列されており、正月には多くの参拝客が拝んで行く。表向きは豊穣の神ということになっているが、豊穣とは男性の繁殖力のことなのだ。
開運招福と書いてある。ここで言う「福」とはどう考えても、男性は快楽が得られますようにという意味だし、女性は繁殖力のあるいい男に出会えますようにという意味だ。正月から何を考えているのだろう。
日本人は古くからこのような繁殖力信仰を持っている。男性のものは金精と呼ばれ、女性は宝登と呼ばれることがある。「ほと」で有名な地名には横浜の保土ヶ谷や埼玉の宝登山神社などがある。宝登山神社の由来を調べたところ「火を止めたから」という理由付けになっていた。地元の人でも知らない人が多いのではないかと思う。
いずれにせよ「文明国ではない」ということになりかねないので国連には黙っておいたほ方がいいかもしれない。「恥ずかしい」と思う人もいるのではないだろうか。
ということで、おおっぴらに公開しても罪に問われることはないのではないかと思う。公開しても問題ないみたいだ。では何が問題なのか。
第一に「個人が特定されるものはだめ」なのだろう。人間には自分の立派な持ち物をひけらかしたいという気持ちがある。それはだめなのだ。司法の方というのは、自分の持ち物に自信がないか、「劣情」に関して強いコンプレックスを持っているのかもしれない。
第二に女性が自分の持ち物をひけらかしてはいけないのかもしれない。草笛光子さんによると戦後すぐには「足は出してもいいが、おへそはだめ」という時代があったらしい。今ではなんとなくトップレスはだめということになっている。
サウジアラビアでは髪の毛は女性的すぎるという理由で夫ではない男性に晒してはいけないことになっている。西洋諸国は「サウジアラビアは後進的だ」と感じるのだが、古来の日本のように女性の部分をおおっぴらに露出することにも抵抗があるのではないだろうか。西洋の進んだ倫理観というのも実はいい加減であやふやなものなのだ。
考えてみれば、男性が性的な興奮を覚える対象は何も女性の大切な部分だけではない。ハイヒールに興奮する人もいれば、高校生の体操服を盗みに入る人もいる。マンガ『変態仮面』では女性のパンティーがその対象になっているが、突き詰めれば単なる木綿、シルク,化学繊維に過ぎない。対象物の選択は極めて個人的であり、実は胸や局部だけがその対象ではないのである。

10年ぶりに日本人力士が優勝したのを喜んではダメなのか

琴奨菊が優勝した。10年ぶりの日本人優勝ということで盛り上がったが、ネットでは「日本人が優勝したからといって喜び過ぎだ」「人種差別だ」という声が聞かれる。リベラルに聞こえるが、本当にそうだろうか。
応援している方も日本人なのだから、日本人が優勝して喜ぶのは当たり前である。大いに喜べばいいのではないだろうか。これがアンフェアに見えるのは、日本の出来事しか見ていないからだ。
近年のモンゴル人の活躍により、モンゴルでも相撲は人気だそうだ。TVでも相撲中継をやるそうである。当然、モンゴル人力士が活躍すればモンゴルでは盛り上がるだろう。「日本人が優勝した」ということでがっかりしたモンゴル人も多かったのではないかと思う。だが、それを「差別だ」とは言う人はいないだろう。
もし「日本人が優勝しないと盛り上がらないから」という理由で、モンゴル人を横綱にしなかったり、不利なジャッジをするようであれば、それは人種差別だと言えるだろう。しかし、そのような事態は起きていない。ルール上はフェアである。また、白人や有色人種も見た目で差別されることはない。中にはイスラム教徒の力士もいるが、「神道の伝統に反する」といって問題視されることもない。
もっとも、相撲界に問題がないわけでもない。
第一に、入門できる外国人力士の数は制限されている。理由は「客が郷土の力士を応援したいから」とか「外国人は問題を起すから」というものだ。明らかに人種差別的な動機に基づいている。制限は帰化人にも及ぶので「日本国民の法の下の平等」に反する。帰化者が「入門を許されなかった」として裁判すれば憲法違反で敗訴することだろう。
もし青森県出身の在日韓国人三世が国籍を理由に入門を断られたとしたらどうだろう。青森の人は「韓国系だから」ということでこの人を応援しないだろうか。また、日本で育ったのに「問題を起しやすい」とされたらどうだろうか。この人が帰化しても、やはり差別されるべきか。外国籍や帰化者に対する制限はこのような政治的な問題を含んでいる。
いずれにせよ問題なのは人数制限をしたとしても日本人が外国人に勝てないということだ。
次に「日本国籍でないと利権構造には食い込めない」ことになっている。こちらは帰化するという手はあるが、日本人の奥さんを貰って日本文化に忠誠を尽くす必要がある。「日本に骨を埋める」覚悟がないと利益共同体に加われないのだ。
日本人は文化的には意外に鷹揚で、外来の神様でもこだわりなく拝んでしまう。ところがいったん利権が絡むとなると話は全く別になる。出入り自由な外国人は嫌われるのだ。朝青龍のようにモンゴルに帰る前提がある人は利害関係者には加えてもらえない。
ただしこちらもいろいろあるようだ。相撲は本場所の他に地方や海外の巡業を行っている。もともとは勧進元主催だったが、「改革」と称して自主興行に変更された。しかし、興行は縮小を続けたので、もとの勧進元主催に戻したそうである。
朝青龍もモンゴル巡業を企画し誘致に成功した。相撲協会としても、政府関係者の調整など現地人の手引きがあったほうがやりやすかったのだろう。
現在の相撲人気は高齢者に支えられているのだと思う。時代劇のようなものだ。そう遠くない将来、日本での相撲人気が下火になったときに、モンゴル人部屋の解禁や外国人の積極的な誘致が行われるかもしれない。利権構造は人権意識ではなく、経済原理で決まるのだろう。

同性愛者は異常だ

海老名の鶴指市議が酔っぱらって「同性愛者は異常動物だ」と書き込んで大騒ぎになった。Twitterで物議をかもすのはまだしもNHKのニュースにまでなった。議員は発言を削除したが「撤回しない」と言っていたのだが、後に「あれは酒の勢いだった」と釈明している。
残念ながら、バッシングは同性愛理解につながらない。これを機会に同性愛についての議論が深まればよかったのだが、いつものように「政治家イジメ」で終ってしまった。こうした強力なリアクションを見てもわかるとおり、現代日本では同性愛問題は重大なタブーだ。やはり異常だと見なされているということになる。
「同性愛は異常だ」という人はいわゆる「保守」の人が多いのではないかと思う。同性愛は伝統を破壊するという理屈付けだ。いつものように、この歴史認識は間違っている。伝統的に貴族、僧侶の世界では男性同士の「恋愛」が珍しくなかった。この伝統は武士にも受け継がれた。そして、これがタブー視されることはなかった。禁止されるとしたらそれは男性同士が愛し合うことがいけないからではなく、それが主従関係より優先されてしまうからだった。それほどまでに強い結びつきだったのだ。
また、こういった指向を持った人が「生まれつき男しか愛せない」というようなものでもなかった。つまり、男性も女性も愛するということがおおっぴらに行われていたのである。武士の間ではこれを「極めるべき道」とみなす傾向すら見られた。
「同性愛が生まれつきのもので、本人が選ぶものではない」という意識は、少なくとも日本では、近年になって生まれたものだと考えられる。江戸時代の中期頃までは選択的に男を愛したり、女性との間に子供を作ったりする人がいたのだ。
だから、日本の伝統を大事にすると主張するのであれば、安倍首相は美形の側近(国会議員や秘書)を抱えて、生涯に渡って添い遂げなければならない。そして、キリスト教の伝統によって押しつけられた異性愛の伝統に意義を唱えるべきだ。だが、現代の日本ではそのようなことは起こりえないだろう。伝統は「少年愛」にも及ぶが、現代のスタンダードでは単なる児童虐待だ。同性愛者を社会に受け入れるべきだという「リベラル派」からも猛反発を受けそうな話ではある。
タブーなく話すというのはそれほど難しいのだ。
やっかいなことに、同性愛についての科学的な説明は難しい。なぜ人が同性愛者になるかについてはよく分かっていない点が多いのだ。遺伝子のせいだと言う人もいれば、胎児の時のホルモンの影響だという人もいる。脳に違いがあるという説があったが、脳には違いが見つからなかったという研究結果も出ている。原因が分からないのだから正常だという証明もできないし、異常だと決めつけることもできない。
同性愛者は遺伝子を残せないはずなので、「ダーウィン的」に考えれば、自然に淘汰されてしまうはずである。しかし、そうはならない。人類が同性愛者だらけになれば人類は滅んでしまうはずだが、こうした人たちは一定数以上出現しない。全体としてある種のバランスが働いていると考えるしかない。
だから、同性愛者を考える上では、異性愛者の行き過ぎた性的指向についても考察すべきだ。男性の中には「衝動を抑えきれず」不適切な場所で性的な行為に及んでしまう人がいる。この人たちにも理性というものがあり「この場で性行為に及べば人生が破壊される」ということが分かっている。それでも、行為に及んでしまうのだ。性衝動というのはそれくらい強力だということが言える。もし、こうした強い性衝動を持った人たちが支配的になれば、人類は滅んでしまうだろう。
「ノーマル」な人類は、特定の相手とじっくりと子育てをすることになっている。つまり、男性が男性的な性衝動を抑えて、適度に「女性化」しているということだ。性衝動の極めて強い男性と女性化した男性というのは、バランスの両端にあると考える事ができる。
乱婚型の類人猿から見ると人類は異常な猿だといえるし、人類から見ると乱婚型の類人猿は異常だといえる。
ただこの「バランス説」も、同性愛のほんの一部しか説明していない。男性の同性愛者を「女性っぽい」という前提に立った説明だからだ。学説の中には「極めて男性的であるが故に男性が好き」という可能性を示唆する研究もある。つまり「男が女性化したから男性が好き」という説明すら成り立つかどうか分からないのである。

アメリカ人は日本人をどう見ているか

最近、国連絡みで日本人が大騒ぎをしているニュースを二つ耳にした。一つはユネスコが南京事件(大虐殺)を「認定」したというもので、もう一つは、日本の女子高生の13%が性的に搾取されているというレポートだ。日本人は中国人や韓国人が日本をどう捉えているかということにはたいした関心はないのだが、国際社会(つまり、欧米の事だ)が日本をどう思っているのかということを異常なまでに気にする傾向がある。
では、実際に日本人は西洋人からどのように見られいてるのだろうか。アメリカの例を考えてみたい。
よい点として、東洋人は一般的に「賢い」と見られている。東洋系の民族は子供を熱心に教育することで知られているからかもしれない。
しかし、悪く見られている点もある。第一に日本人は何を考えているのか分からない人たちだと考えられている。いったん「イエス」と言っても「訳の分からない言語」で「こそこそと」話し合い、結論を変えてしまう。スターウォーズにでてくる異星人(訳の分からない言語を話す集団)は日本人を揶揄しているのだと考えられる。西洋人は「フェアでストレートフォワードだ」という自己認識に基づく。日本人から見ると、西洋人には文脈(コンテクスト、所謂「空気」)を読み解く能力がないように見えるが、コンテクストに依存しない人たちはこれを薄気味悪いと感じるのだ。
東洋に詳しい人たちの中には、日本人は沖縄人(Okinawan)を差別しているという認識を持った人たちもいる。日本人の多くは沖縄県民を「日本人だ」と認識しているのだが、民族問題に詳しい人たちの中には「日本人は少数民族を差別している」と考える人たちもいるのだ。沖縄どころか、韓国や台湾の位置も答えられないアメリカ人も多いはずで、認識は二極化しているといってよいだろう。
それよりも一般的なのが、日本人男性は女性を所有物だと思っているというものだ。日本人は「アレンジメントマリッジ(お見合いの訳語だ)」をし、渋谷のセンター街(最近はこれが秋葉原になった)で女子高生を買っているというのは割と一般的な認識だ。
ラスト・サムライでは女性は従順に描かれているが、これは女性が男性の所有物だと信じられているからだ。また、女体盛り(裸になった女性の上に刺身が盛りつけられている)というのも割とよく知られているのではないか。日本人の男性は妻を支配し、外ではお金を出して女を買うのだという認識があるのだろう。
こうした認識が一般的なため、アメリカにいる日本人はステレオタイプを否定するような言動を見せる必要がある。日本人同士で話すときには「日本語でごめんなさい」と予め断りを入れる。頻繁に自分の気持ちを言葉にする。そして「自分が女性を平等に扱っているか」をひけらかすように話すのだ。
「沖縄人というのは存在しない」と否定するのは逆効果で、民族としての沖縄人に理解を示しているという言動の方が受け入れられやすい。「沖縄人」をいう言葉を知っているだけで、国際通だという自己認識があるのかもしれない。その知識を否定すると、やっきになって反論される場合があるのだ。
同じように「日本人は女性を差別していない」とか「女子高生搾取は存在しない」などと主張するのも逆効果なのではないかと思う。彼らの認識に合わせると「親の世代にはそういうこともあったが、今の世代は教育されている」と言った方が受け入れられやすいはずだし「政府はこのような対策を取っている」と具体的な施策を使って反論した方がいいだろう。相手は「日本人をよく知っている」という自己認識を持っているので、反対の主張をすると、整合性を取る為にリアクタンス(抵抗)が起こるからだ。
さて、このような話をすると「日本人は差別されている」とか「間違った認識は恥だ」と考える人が出てくるのではないかと思う。
しかし、こうした疑念を持たれているのは日本人だけではない。「白人は黒人や東洋人を差別している」と考えられている。このため、白人男性は自分がいかに人権意識を持っているかということを喧伝しなければならない。こうした言動は「ポリティカルコレクトネス」と言われる。最近ではポリティカルコレクトネスに疲れたアメリカ人も多く「非政治家系」の大統領候補を支持している。
こうした現状を知らない人は「正しく説明すれば必ず分かってもらえるはずだ」と考えるかもしれないのだが、いったん染み付いた認識というのは、例えそれが思い込みであったとしても、そう簡単に覆ることはないのだ。

価値観がぶつかる – イルカ漁問題の「非人道性」

100x100看過できない問題を説明するために使われる「非人道性」。ところが「シリア内戦」や「無人機による市民の虐殺」など「非人道的」と見なされる行為は多く、ラベリングしただけでは問題は解決しない。
キャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使のイルカ漁に反対するコメントが感情的な対応を生んでいる。
『キャロライン・ケネディ大使がイルカ漁に反対声明、自民の佐藤正久氏「地元の伝統文化」と反論』(HUFF POST)
いろいろ考えて「日本人はコンテクストを重視する」という理論を考えたのだが、どうやらそれは正しくないようだ。逆に日本の首相や駐米大使が「日本政府はマクドナルドの非人道的な牛の大量虐殺に深い懸念を表明する」というステートメントを考えてみればわかる。多分、いろいろな憶測を生むだろう。
つまり、ケネディ駐日大使の発言は唐突であり、従っていろいろな反応を生んだものと考えられる。
例えば、駐米大使がアメリカ人向けに「マクドナルド発言」をすれば、アメリカ人はなんらかのアクションを予期するだろう。日本にあるマクドナルドの営業を停止するとか、アメリカからの牛の輸入を「非人道性」を理由に禁止するなどの措置だ。つまり、偉い人の発言にはそれなりの意味合いがあり、行動を伴う。
ところがケネディ駐日大使に「意図を聞いた」人はいない。誰も大使が何かするとは思っていないからだ。彼女の発言は「アメリカ政府を代表している」というよりは、彼女個人のその場の思いつきだと捉えられることになるだろう。
当初は、これを「彼女個人の」と考えたのだが、これも違っているようだ。例えばシリアで虐殺が起きていて、これを非難するヨーロッパのレポートにも「非人道的な」という表現が使われている。世界各国の非キリスト教国で様々な事態が起きている。例えばシリアの国内で殺し合いはとても看過できるような事態ではない。しかし現実には戦闘は止まないので「非人道的」という言葉が登場する。イルカ漁も駐日大使から見ると、シリアの大量虐殺と同じような「ゲームハンティング的イルカの殺戮」行為なのだ。
背景には「理解できない行為」を全て「人道的でない」と置き換える習慣があるのだということが分かる。ところが、アメリカ政府も「非人道的な」行為に手を染めている。例えば、「アメリカも外国に無人機を飛ばして戦争に関係がない市民をゲームのように虐殺しているではないか(CNN.co.jp : 米無人機が結婚式の車列を誤爆、14人死亡 イエメン)」と非難する事は可能だ。米軍側から見ると「意図してやったわけではなく、誤爆」なのだから非人道的ではないという理屈になるのだろう。
価値観の擦り合わせをしたいなら、大使に対して「イルカ漁を考え直す代わりに、非人道的な無人機による外国市民の殺戮を中止する用意があるか」などと冷静に聞いてみてもよいだろう。
このように「非人道性」を巡る議論は大変難しい。これを読んで「伝統的イルカ漁をシリアの大量虐殺と同列に扱うのはいかがなものか」という反発は当然予想される。また、日本の伝統を守りたいと考えつつも、アメリカとの同盟を大切だと考える人たちもいるだろう。そういう人たちは「話しをややこしくするな」と考えるだろう。
ところが現実的にはこれらはすべて「非人道的」というラベルが付けられているというのも事実なのだ。

アメリカのビッグブラザーとPRISM

CIAの元テクニカルアシスタント – エドワード・スノーデンが、イギリスの新聞社とのインタビューのために香港に滞在して問題になっている。アメリカが彼の身柄を引き渡して欲しいと要求しているのだが「政治犯」である可能性がある可能性があるからだ。香港はアメリカ政府との間に犯罪者引き渡しの協定があるそうなのだが、政治犯であれば亡命の対象になる可能性がある。特別行政区とはいえ、アメリカ人が中国に亡命するなどということは考えられなかったことだ。亡命者だということになれば、中国がアメリカ人の人権が侵害されていると主張する材料にもなりかねない。スノーデン氏自身はアイスランドへの亡命を希望しているというが、アイスランド政府は「来たら考える」と言っているようだ。
スノーデン氏の「罪」は秘密文書の漏洩だ。イギリスのガーディアンにPRISMと呼ばれる機密扱いのプログラムの情報をリークしたのである。このニュースを受けてアメリカやイギリスではちょっとした騒ぎが起きている。
名指しされた企業とアメリカの政府は、エドワード・スノーデンの主張は言いがかりだと言っている。企業の中には、Facebook、Skype、Google、Yahoo!などの有名なIT企業が含まれる。こうしたサーバーに直接アクセスして好きな情報を好きなだけ取ってくることができるというのだ。名指しされた企業とアメリカ政府はそのようなことはないと否定している。(CNET
この問題は日本ではほとんど話題になっていない。主に「IT分野」の問題だと考えられており、Twitterで一部触れられている他、ITメディアなどに翻訳記事が載っている程度だ。しかし、実際には民主主義の根幹に関わる問題を含んでいる。
100x100現在の資本主義と民主主義は「私有財産の保証」などを含む人権を擁護するという姿勢が基礎になって構築されている。プライバシー権も「政府に監視されない権利」という意味で人権の一部だと考えることができる。こうした民主主義の守護者の役割を自任しているのがアメリカ合衆国だ。アメリカはこの役割を前提にし、中国の人権状況に注文をつけたり「非民主的」だとアメリカが認定した国の政治に介入したりしてきた。日本もこうして作られた秩序の恩恵を受けている。
ところが、このニュースの意味する所は「アメリカ政府がアメリカの国民を監視している」ということだ。どうやら「監視している」という点は事実のようで、オバマ政権は「裁判所のコントロールのもとに合法的にやっている」と説明している。アメリカが民主主義の守護神であり、民主主義が絶対的な善であれば、その恩恵を受けている国民が国を裏切ることなどあり得ない。従って、国民を監視する必要などないはずである。しかし、実際のところテロリストの一部は「ホームメイド」と呼ばれるアメリカ国籍保持者である。
こうした監視ソフトは、例えば民主党の大統領が共和党の議員たちの活動を監視するのに使う事もできる。また「危険思想」を認定するのは権力者側だから、好きなようにテロ活動を認定することも可能になるだろう。確かに「取得した情報を限定的に使う」ことは可能だろうが、結果を見るのは人間であり、一度見た情報を都合よく忘れることなどできない。
さらに、エドワード・スノーデンのような存在も問題になる。彼はCIAに派遣されたコンサル会社の社員だったそうだ。日本のように終身雇用ではなく、契約体系も複雑なので、職員そのものがセキュリティホールになり得る。(この記事では本人がセキュリティホールだということを認めている。彼はインフラを管理する担当だったらしい)アメリカ政府は恒常的に財政難に直面しており、売名の為に解析した情報を売り渡す人が出てくる可能性もあるだろう。
アメリカではエドワード・スノーデンがヒーローなのか裏切り者なのかという点について議論が起きているようだ。
ちなみにこのニュースによく出てくる「ビックブラザー」はイギリスの作家、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』(『一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)』)に由来する。思想管理が徹底された全体主義的な国家が描かれていて、ビッグブラザーはその指導者であり、英語圏では「国民を監視する独裁者」という意味で広く流通する。
この小説ではテレスクリーンというデバイスが国民を監視しているのだが、現在のビッグブラザーたちは国民が自発的に記述した文章をコンピュータで分析して監視に使うという点が異なっている。