モテたければこどもっぽく – ネオテニー

最近an・anで、向井理がヌードになったのをご存知だろうか。この人身長は高いが「男らしい」とは言いがたい。男性が胸やお尻が大きな女性らしいヌードを好むのに比べて、女性があまり男らしくない体を好むのはどうしてだろうか。
久しぶりに『幼児化するヒト』を読んだ。科学論文ではないのでストーリーは追いやすいが、類推に類推が重なっていて、そのまま引用していいかどうかはよくわからない。
筋をまとめると、人間はチンパンジーの子どもに似ている。こうした進化を「ネオテニー」と言う。成熟したオスは攻撃的だが、コドモのままでいると群れを維持するのに便利である。
これが生き残りに有利だったため、女性はより幼い男性を好んだ。男らしいオスは魅力的だが、長期間婚姻を維持できない可能性が高い。最後に、子どもっぽさを維持することで、学習能力、知的好奇心、遊び好きな性格などが発揮される。
男性の幼児化が進み過ぎて、同性愛、小児性愛などの逸脱が発現するようになったのだという。こうした人たちは、新奇性(つまり創造力など)が高い人が多い。だから芸術家などには同性愛の人が多いと、推論される。また、この本は、東洋人は特に幼児化が進んだ人種なのだと言っている。幼児化が進んだ人たちは新しいモノの興味があり、学習能力も高いとされる。
この論を引くと、an・anで向井理が好まれるのは、性的に成熟しているものの過度に男らしくもないからだということになる。モテたければ筋トレは控えて、有酸素運動でヤセた方がよいらしい。
科学的な研究書ではないのでわかりやすい例が多く(著者は、動物の行動について勉強したあと、テレビの企画を書いている人だ)、いろいろな現象を考えるきっかけを与えてくれる。しかし実際に起きている事象も同時に見てみないととんでもない結論を導きだす危険性もありそうだ。

ヨブのいない世界に戻れるか?

ヨブ- 奴隷の力という本を読んだ。著者はアントニオ・ネグリという左翼運動だ。逮捕されて、国会議員に当選、その後特権を取り消され、フランスに亡命したという人(後イタリアに帰って服役)が考えるヨブ論なので、よくわからないところが多い。特にマルクスはよくわからない。ネグリは「数値にして計る」世界を起点にしてヨブと折り合いをつけようとしている。だが、多くの人にとってヨブがこれほど問題になるのはどうしてか。
このヨブという人、神を信じていたにも関わらず、悪魔からそそのかされた神様にこてんぱんにされる。完璧な絶望の中で人がどういう境地に陥るかというお話である。
日本の自然神道にはヨブはありえない。神様はもともと赤ん坊のように不合理な存在だし、何か悪い事があれば「神罰が下った」と考えるからである。悪い事があってもなくても厄年にはお参りする。ある信仰を守るためなら神道の形をとっても仏教の形をとってもどうでもいいと考えてしまう。ロゴスがなくても形式さえ整えば信仰は保持できるのである。
ヨブのような存在が生まれるのは、聖書の神様が「論理」だからである。論理は光のようなもので、光がさす所には影も生まれる。だから「神の論理に従ったのに」「とことん不幸だ」という人の存在が問題になるのだ。しかもタチの悪い事に神はヨブを殺さない。神の恩寵がないのに、そこに存在するわけだ。
ネグリはヨブ的な存在に二つの解決策を用意する。「連続的にこの論理の中にいるか」「非連続にそこから逸脱するか」である。この逸脱こそが、創造性の恐ろしい側面である。神の範疇にない唯一の存在なので、彼の理解者は一人もいない。これは聖書を読んでみると良くわかる。

私たちを転倒させる悲劇を基盤として、人間の創造的力を照らし出すのは、後者のシステム(注:非連続的なもの指す)である。私がヨブと呼んでいるのは、創造性、こうした理性の希望と危険である。

キリスト教には論理がある。新約聖書には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という文章がある。言葉によらないものは一つもないのである。
ヨブは希望を持っていた。しかしそれは奪い去られ、人や神と言葉による対話を重ねるものの、ついには沈黙を余儀なくされ「私にはわからない」と告白する。しかし同時に、今まで耳で聞いたしかない神を見ることになるのだ。すると嘘のように災いは去る。論理を越えたところで、最後に神は鎮まった。ここに矛盾はないのか。このように、ヨブ記はいくつかのロジックが積み重なり、全体としてどこかを崩すか、そこを越えてみないと解けないようなパズルを構成している。
さて、ヨブの苦悩を取り去るために、日本の神道のような世界に戻る(何か悪い事があったら、それは罰だと考える)ことができるだろうか。そもそもヨブとヨブの友人たちが「神の論理」を見なければ、ヨブの苦しみはなかったはずである。しかし、残念ながら一度知ってしまったものを「忘れる」ことはできない。
ヨブ記が教えてくれるのは、「それを知っていて」「そこから逸脱してしまった人たち」だけが、それを乗り越えることができるということだろう。聖書はそんなことは言っていないが、ヨブに触れることで神は以前のものとは違うものに変質してしまったといえる。それがヨブの創造性の本当に破壊的なところだ。ヨブを持たない世界にはこの破壊力はない。

広島少年院暴行事件 – 現在のミルグラム実験

ひさびさにアクセスで拾ったネタ。広島少年院で元首席専門(47歳)を含む4人が、特別公務員暴行凌虐の疑いで逮捕された。複数の教官を集め、目の前で暴行を加えさせていたのだという。首を絞めたり、塩素系ガスを吸わせようとしたりと「やりたい放題」だった。この人は1996年に仕事をはじめ、2005年に安倍首相の訪問を受ける。今回発覚した事件は2008年から2009年の115件のうち42件だそうだ。結局事件が発覚したのはこの人が奈良に転任してからだった。
中国新聞の記事によると発達状況に応じて処遇を実践するプログラムを生み出し、模範少年院だとされていたようだ。
この事件について読んでまず「ミルグラム実験」を想起した。ミルグラム実験では人に指示を与え、電気ショックのつまみを回させる。実際に電気ショックにかけられる人たちはサクラで、大いに苦しんでみせる。最初は「こんなことをしてはいけないのでは」と言っていた被験者も、最後には平気でつまみを回すようになる。役割が倫理を吹っ飛ばす瞬間だ。同類の実験に「スタンフォード監獄実験」というものがあるのだが、こちらは囚人役に対して監視役が度を過ぎた対応をするようになり、やがて実験を中止せざるを得なくなる。
今この「ミルグラム実験」関連で懸念されるのは裁判員裁判だ。もう少し見てみないとわからないのだが、普段は雲の上の人だと思っている裁判官に丁重に扱われると「一般の市民」は簡単に権力側に寄り添った価値基準を持ってしまうのではないだろうか。裁判員裁判の報道はわかりやすい裁判、時間のなさが主な関心事になっているが、いわゆる一般庶民が権力に寄り添った時どんな行動を取るようになるのかを、時間をおいて検証した方がよいだろうと思われる。また裁判員たちは「これが終わればこの緊張から抜け出せる」と考えるはずで、だったら裁判官に言われるとおりのことをしておいたほうがいいと思うかもしれない。裁判官は裁判官で「これは市民のお墨付きを得ているのだ」と考え過激な判決に傾くことも考えられる。集団無責任体制が生まれてしまうだろう。
さてアメリカやヨーロッパの社会学者はナチの残虐性に震撼して(もしくはそれを説明しようとして)ミルグラム実験を行なった。ミルグラムはユダヤ人だ。この種の実験は、最近ではアブグレイブに震撼した人たちの間で見直されている。つまり人々の間に「(誰か他のヒトではなく)我々は実は恐ろしい存在なのではないか」という懸念と「いや、やはりそうであってはいけない」という意識があるように思える。被害感情に訴えるのではなく、出来るだけ科学的に証明しようという点にこの実験の重要性がある。
翻って見ると日本では「これは誰か他のヒトの事で」「悪い事したんだから人権なんかなくてあたり前」という見識に触れることがある。アクセスのコメントでも。被害を受けた収監者に対して「ざまあみろ」という意見が散見された。これが単に日本の「人権教育が足りない」のか「自尊心が低下している」(ある意味アブグレイブ化している)のかが懸念される所だ。つまり「実は規範や倫理に関して、かなり危険な淵に立っているのではないか」という懸念です。実は少年院で起きていることよりも、こちらの方が危険だと思われる。
さてこの論題では「再犯率の低い」「あの」広島でというのがクセモノだった。ミルグラム実験が示唆するところは、我々は条件さえ整えばかなり残虐なことをやりかねない存在だということだ。それは実は成果とはなんの関係もない。
一方、確かに成果が上がることにより監視が甘くなる可能性はある。成果主義の危険の一つは、専門性のあるスタッフとマネージャー(この人たちは業務についてはよく知らない)の間に知識的なギャップがあり、成果が上がっていることにより隠蔽されてしまうということだ。金融機関で時々こういう問題が起こることがある。マネージャーは問題には敏感なのだが、平穏な状態には注意を払わない。逆に成果が上がれば何をしてもいいだろうと考えた可能性はあるかもしれない。
今朝になってアクセスのページを見てみると、「少年院に入ったくらいだから何をされても当然」という意見には影響を与えることはできるようだ。放送が始まってからの書き込みを見るとすこしずつトーンが沈静化している様子がわかる。これもグループダイナミクスの一つだ。空気を読みつつ意見を変えてゆく人たちが少なからずいる。
人が「群衆」化を防ぐにはリーダー、管理者、有識者といった人たちの果たす役割が大きい。
若干権威主義的なアプローチだが「アメリカで行なわれた社会実験によると…」というのも、特定の人には効果がある。そういった訳で、多分この設問じたいがちょっとした社会実験になっているように思える。

爆発的な進化

眼の誕生にも書かれていたグルードのワンダフル・ライフを読んだ。時代的にはちょっと古い本で、スティーブン・ジェイ・グルードもすでに亡くなっている。本はバージェス生物群についてを扱ったもので、カンブリア大爆発よりちょっと後の次代の生物だ。とりあえず彼の主張はこう要約される。

生命はたくさんの枝を分岐させ、絶滅という死神によって絶えず剪定されている樹木なのであって予測された進歩の梯子ではない。

これだけ読むとなんだかあたりまえのような気もするが、人間がこのようにすべての生物を支配できるのは人間が優れている(霊長)からだと信じていた人たちからすると、かなりショッキングな主張だったようだ。
グルードたちの考える進化は、悲運多数死(トライ・アンド・エラー)の時期があり、それが次第に安定するという姿だ。この考え方はアメリカ人の考えるイノベーションに影響を与えている。最初に試行錯誤の状態がある。規制を緩やかにして変化を誘発する。それを煮詰めていって生き残る製品を絞り込むというやりかたが取られる。必ずしも「デザインされた方向がある」というわけではないと考えるのが、この流派の進化観なのだ。なので人間が生まれたのも「単に運がよかっただけ」ということになる。
ちょっと脇道にそれるが、これは植物が伸びてゆく姿と少し似ていて、すこし違っている。植物は重力や日光といった伸びる方向が決まっている。しかし風が吹いて枝が折れれば脇から芽が(この場合たいてい数が増える)伸びてくる。もし、主になる幹が折れていなければ、脇芽は伸びなかっただろう。半分デザインされているが、事故にも対応できるのが実際の生物なのだ。
さて、グルードはどうしてバージェス生物群のような多様な生物群がこの時期に生まれたのかについて明確な回答を出していない。フロンティア(ニッチ)が多くあり、遺伝システムが比較的単純(もしくは変化に対して脆弱だったのかもしれない)だったということを挙げつつ、ステュ・カウフマン(本の名前などは言及されていないがスチュアート・カウフマンの自己組織化と進化の理論を示しているものと思われる。)の論に少しだけ言及している。
こうした進化・イノベーション観は日本人が持っている改良型のイノベーション感とはかなり異なっている。日本人の場合、既にでき上がった素地があり、それを地道に改良することによって、ある目的に達するというのがイノベーションだ。あるいはある目的のために試行錯誤を繰り返し、ブレイクスルーになる技術に出合う事で目標を達するというイノベーションもあるかもしれない。どちらにも、「明確な目的」が存在する。(多分、プロジェクトXを見るとこうした話がたくさんでてくるのではないだろうか)
しかしコアになるなんだか面白そうな製品がありこれは何かに使えないかというアプローチのイノベーションにはあまり興味がないようだ。それから市場を新しくつくるということはあまりしてこなかった。とりあえずたくさんアイディアを出してみる多産型のイノベーションも効率が悪いといって嫌う傾向があるかもしれない。
はてなあたりでささやかれている、現在「希望がない」という世界観は、ニッチがうめられていて新しい進歩の余地が残されていないことを意味しているのだと思う。漸進的な変化はやがて究極層に行き着いてしまい(パソコンのCPUはこれ以上早くなっても意味がない)クリステンセンのいうイノベーターのジレンマに陥ることになる。
さて、この本のもう一つの魅力は、奇妙な生物とそれを巡る人たちのお話だ。つまりグルードの主張はともかくとして読み物としてもとても面白い。とくにアノマロカリス(奇妙なエビという意味だそうだ)の姿はプラモデルっぽい。形も大きくてかなり気持ちの悪い生き物だったろう。多くは絶滅してしまったので、悲運多数死は出来損ないをつくるだけだという気がしないでもないが、こういった生物を眺めるだけでも結構楽しめる。そしてこのようなへんてこな生物がまぎれもなくかつてこの地球上にいたということが生き生きと描かれているのが、この本が人気を博した理由だろう。

どんな時に爆発的な変化が起こるのか

イノベーションを考えるとき「多種多様な状態」が何を示唆しているのかを知る事はとても重要だ。進化はなだらかに起きるのではなくある日突然爆発的に発生することが知られている。こうした進化の形態を断続平衡説と呼ぶそうだ。地球の生物にこういった変化が起こったのは、5億年前のカンブリア紀だ。これをカンブリア大爆発と呼んでいる。3種類しかなかった生物のグループ(門)がこのころ38にまで増えたのだそうだ。人間、魚、鳥といった動物からホヤに至るまでは脊索動物門という一つのグループに分類される。
「これがどうして起こったのか」については今の所定説がないようだ。この本では眼の誕生がカンブリア大爆発の原因になったのではないかと主張している。これ以前、光を感知するシステムはあったものの、光を脳で受け止めて像を結ぶシステムはなかったのだという。眼ができたことで補食活動が活発になった他、外観も重要になる。被捕食者は殻を作ったり運動能力を高めたりして生き残り競争が始まる。捕食者になったものは豊富な栄養が摂取できるようになる。カンブリア紀の三葉虫に眼が作られ、三葉虫の種類は爆発的に増える。その後なぜか「バージェス動物群」というように多種多様の動物群が現れた。三葉虫はペルム紀(約2億5000万年前)に絶滅してしまった。
この歴史を一般化すると、次のようになる。「最適」はストレートに生まれるわけではなく、壮大なムダの上に築かれているのだ。

  1. あるイノベーションが起こる。
  2. 過当な競争が生まれる。
  3. 試行錯誤の結果、種類が多様化する。
  4. それが整理され落ち着く。

過当な競争の結果進化が加速されるというのはなんとなくわかるようなわからないような考え方だ。競争圧力が強まるのだからだからそのまま絶滅するものが大多数なのではないか。これに応えるのがニッチという考え方だ。どうやら生物学でいうニッチは「AとBのすきま」という意味ではなく、新しい生活圏という意味らしい。例えばすべての生物が海に暮らしているとき陸はニッチだし、鳥などの飛ぶ動物がいない時には、空はニッチだ。ニッチに進出するには2通りの方法がある。一つは肺などの仕組みが発明され、陸に進出すること。もう一つは古い生物が絶滅して、その生物が占めていた所が空白になる方法だ。
カンブリア大爆発を起こした原因をイノベーションに求める説の他に、地球が冷えて(これを全球凍結という)環境が変化することに求める人たちもいる。恐竜の絶滅を説明するのによく引き合いに出される小惑星の衝突も環境的な変化だ。(ちょっと古いがWiredに記事が見つかった。)
一方、古い生物群が消滅するのにもいくつかの原因があるようだ。新しい競争に耐えられなくなるか、最適化が進みすぎて(大きくなりすぎたり、機能が亢進しすぎたりして)内部崩壊を起こすといった具合だ。だから閉塞的な状態が永遠に続くことは考えられない。だだし「変化」がいつもすべての人に快適なものだとは言えないし、変化の過程にいる人たちにとってそれはカオスにしか見えないだろう。

共感脳とシステム脳

さて、今日のお話は「共感脳」と「システム脳」について。この本は男性の脳、女性の脳というアプローチで男性脳=システム脳(物事をルールで判断する)、女性=共感脳(相手の表情を読んで適切な対応をとる)に分けている。このうち「空気を読む」能力を担当しているのは共感の能力だ。
作者によれば共感には2つのパーツがある。一つは相手の立場に立って考えるという「脱中心化」(これはピアジェの用語だそうだ)の能力。そしてもう一つの能力は相手の感情を見て適切な感情をフィードバックする(これをシンパシー=同情と呼んでいる)というものだ。
それでは共感能力がないと成功できないのだろうか。作者は極端にシステム脳が亢進した状態をアスペルガーだとしている。200人に1人のアスペルガー症候群の人たちは人の表情を読み取るのが苦手でコミュニケーション能力に欠ける。しかしながら一つのことに集中し、他の事に興味を持たないという能力は研究者にとっては必須の力だ。ただし群れ全体が共感を欠く状態になれば維持がむずかしくなる。
作者はそうは言っていないが、システム化脳が「問題を解決し、発展させる」脳だとすれば、共感脳は「維持し、調整する脳」だということになる。システム化傾向、共感化傾向といった方がよいかもしれない。大抵(95%くらい)は両者がバランスした状態にあるのだそうだ。極端なシステム化傾向は2%強ということだ。とにかく、システム化した人たちばかりでは群れはばらばらになってしまうだろうが、共感するばかりでは群れは発展しない。
ここまで細分化が進めば、対抗するシステム化傾向が顕著だが普通に生活ができていた人たちが「コミュニケーションが苦手」な部類に押し流されるであろうことも予測できる。世の中が閉塞的になり、ますます現状に押しつぶされてゆくのにはこういった理由もあるのではないかと思う。
コミュニケーション能力なしで成功する事は可能だろうか。また、それは良い事なのだろうか。
例えば、コミュニケーション能力が高そうに見える首相に小泉純一郎がいる。彼は「脱中心化」ができるので、メッセージが完結で分かりやすかった。小泉純一郎が首相になるためには適切なコミュニケーション能力が必要だったのだろう。
しかし、生まれながらに地位が約束されているタイプの政治家には「相手の身になって考える」ことができない。例えば、麻生太郎には「脱中心化」の力がなさそうだ。しかし半径5mの男と言われるように、相手の感情を見て適切なフィードバックを与えることはできるのではないかと考えられる。麻生太郎さんは周りの人が顔色を読んでくれるので脱中心化する必要はなかっただろう。
同じように首相を輩出した家柄に生まれた安倍さんは空気が読めず(つまり、相手のニーズが分からず)福田さんは言葉と表情が拙かった。
この記事のオリジナルを書いたのは2009年だった。この後で民主党政権が破綻し、安倍晋三は首相に返り咲いた。彼は「国民の気持ちが分からず」政権を失った。その後3年間考えた結果、国民のやりたい事と自分がやりたい事は違うということに辛うじて気がついた。しかし、相手の気持ちが分からないという欠点は克服できなかったらしく、周囲が止めるのも聞かずに靖国神社に参拝し、アメリカから「失望した」と宣告されてしまった。 このように、人間の共感能力には生まれつきの部分があり、なかなか全てを努力で乗り越えるのはむずかしいらしい。
2009年8月4日初稿 – 2013年12月29日書き直し 
 

竹馬経済

占領下の日本財政覚え書は、占領下の日本で日本政府とGHQの連絡係を担当した大蔵官僚渡辺武の手記だ。GHQは間接統治を行い、国民の不満が直接GHQに向かうことを避けようとした。渡辺は本社との連絡に奔走する外資系サラリーマンのように見える。
当初、アメリカは日本を非軍事化・民主化試みていたが、徐々に経済の健全化と自立を求めるようになった。日本経済が不安定化すると共産化する危険性があったからだ。実際、中国と朝鮮半島では共産主義勢力が台頭し、いずれ極東アジア全体が東側ブロックに組み込まれる恐れがあった。
しかし、日本政府は足下で政争を繰り返し予算を緊縮することができなかった。どうしても支持者にいろいろな「約束」をしてしまうのだ。渡辺はファイン博士という人から「日本の自力による国政運営能力が世界から注視されている際に、このような政争を繰り返すと、対日援助も困難となるだろう」と言われた。
当時日本は、物資不足と政府の過剰支出が原因でインフレが起きていた。物資不足を改善するためにアメリカは援助物資を日本に送り始めたのだが、国庫からの補助金は1949年度予算の29%を占めるまでになっていた。日本の政党は現状を自力解決しようとは考えず、バラマキ競争を繰り広げた。最終調停者としてGHQがおり「最後にはなんとかしてくれるだろう」と考えていたのではないかと思う。政府は預金封鎖などのその場しのぎの対策を打ち出巣一方で、闇経済が成長した。当初、政府は毎月500円で生活するように国民を指導していたのだが、23年6月には3700円をベースにしようと話し会うところまでインフレが進行た。
そんな中で、ドッジが来日した。ドッジにはアメリカと西ドイツのインフレを沈静化させた実績があり、最初の会見で日本は対外援助と補助金という2つの援助による「竹馬」のような経済構造になっていると訴えた。竹馬が伸びてゆけばそのうち転んでクビの骨を折るだろうと警告したのだ。
ドッジは予算を均衡させようとした。大方の予想通りインフレは収まり、デフレが進行した。この不況はドッジ不況と呼ばれ、朝鮮戦争特需まで回復しなかった。ドッジ・ラインには二つの極端な評価がある。ある人は不況を生み出したといい、別の人は持続不可能なインフレをおさめたと肯定的に評価する。
当時の状況は今でも残っている。

  • 諸派が入り乱れて、最終調停者をにらみつつ自己の主張(というよりは支持者への約束)を繰り返すという構造がある。
  • 郵便貯金・年金・国債といった資金は、債権ではなく政府の税外収入であるという認識がある。この認識は戦時から変わっていないようだ。だが、実際には国民の蓄積した資金であり、政府の持ち物ではない。
  • 国民は政府の説明を額面通りには受け取っていない。長期的な視座もなく、表面的な条件や他の人たちの動向をにらみながら「合理的な判断」を下す傾向がある。

最初にこの文章を書いた当時は、民主党が政権を取ろうとしていた。民主党は政府の「隠し物資」を放出さえすれば増税しなくても国民生活は潤うと喧伝した。しかし、実際にはそんな資金は出てこなかったし、最後には消費税増税を発表し政権を追われた。政党は選挙のためだけに非現実的な約束を繰り返すしており、今もそれは変わっていない。政府が借りることができる原資は徐々に減りつつあるが、破綻はまだ先に見える。
2016年現在、選挙を前に自民党が「一億総活躍プラン」をまとめようとしている。いわばバラマキ政策なのだが、財源は選挙後に決めるようだ。この国の政党政治はGHQ占領当時から何も変わっていないのだ。
「日本はアメリカに支配されている」という人がいるが、不幸なことに現代の日本には調停・抑圧してくれるGHQのような存在はない。
今、ドッジが来日したらどういうだろうか。日本の経済は補助金と外需の2つの竹馬の足に支えられている。このまま竹馬が伸び続ければいつかはコケてクビの骨を折るかもしれない。


初出:2009年7月25日。書き直し:2016年5月22日

意味がわからん

毎日、わけのわからない投稿をしているのだけど、定期的な購読者がいるようである。多分ほとんどの人が会った事もなければ、これから会う事もない人たちだろう。これはこれでとても不思議なことだ。そんな中、「意味がわからない」と、たった一言のコメントが来た。ああわからないんだなと思ったのだが、よく考えてみるととても不思議なコメントである。投稿してくるくらいだからやむにやまれぬ気持ちがあったのかもしれぬ。今日はこれについて考えてみたい。

わからないということ

先日、パソコンがわからない人を観察する機会に恵まれた。メールに添付されている写真を電子アルバムの記憶装置にコピーするという作業ができないのだ。どうやら各種のプロンプトが全く役に立っていないらしい。
装置をさしこむと、画面隅の方で「この装置をさしこんだら何をするか」というプロンプトが出る。これはモーダルといって、その処理をしないと先に進めないことになっている。しかし下に出ているだけなので、写真を移動させることで頭が一杯の人には目に入らない。(よく見てみると、モーダルがハイライトしていることがわかったはずだが、こういう人はハイライトの意味もわからないのだ)
次に、写真を「うっかり」ダブルクリックすると、PhotoEditorが開く。すると、写真はドラック・アンド・ドロップできなくなってしまう。つまりアイコンと、PhotoEditorの開かれている写真(こちらは編集エリア)の区別ができないのである。
これをモードの違いがわからないと表現する。Windowsに限らずGUI系のOSには3つの世界があるのだ。一つひとつをモードという。

  • コマンドラインの世界
  • メニューバーの世界
  • ドラッグ&ドロップの世界

多分、一番マニュアルにしやすいのはコマンドラインの世界だろうが、すべてのコマンドを暗記する必要がある。ドラッグ&ドロップ(GUI)は直感的に操作できてよいのだが自由度が高いので、こうした混乱が起きやすい。

これがわかるようになるためには

パソコンではこのような比較的簡単な作業でも、2つ(コマンドを叩く人はあまりいないだろうから、GUIとメニュー)の世界を理解しなければならない。そのためにはOSの基本的な知識(たとえば今作業をしようとしているのはハイライトされているところだ、などなど)を覚える必要がある。この知識は作業とは独立した比較的抽象的な概念だ。いったん抽象的な概念が獲得されると、ファイルをコピーするにはドラッグ&ドロップしてもよいし、メニューから「新しい名前で保存する」を選んでもいいことがわかる。
しかし困難はそれだけではない。あの左上にあった「リムーバブル・ディスク」が、メニューでは「Fドライブ」だということがわからなければならない。2つのモードは話言葉が違っているだけでなく地図すらも異なるのだ。
パソコンを昔から使っている人はMS-DOSからシングルモードしか許容しないOSを経て、マルチタスクに至っている。つまり、こういった概念を10年以上かけて蓄積しているのだ。しかし、ある日いきなりこの混乱に満ちた世界を突きつけられた人たちはどうやって理解するのだろうか? そう考えるとなんだか暗い気持ちになってしまう。

わからないということ

ここでは、自分の行動とプロンプト(返ってくる反応)を結びつける地図が作られたときに「わかった」ことになる。現実世界では行動もプロンプトも具体的な作業と結びついているかもしれないし、抽象的なものかもしれない。
ものによっては、それが部品の一つに過ぎない場合もある。この場合は説明通りに組み立てたとしても最終成果物(例えば時計)は完成しないかもしれない。「考える」という作業ではこういうことが時々ある。
多分、投稿者の「わからない」にはいくつかの意味合いがあるのではないか。わざわざ「匿名」と書いて投稿されているので、これ以上の情報を得る事はできないのだが。

  • 読み進めてきたものの、地図が作られなかった。
  • 読み進めてきたものの、最終成果物が何なのかわからなかった。
  • 作者がなぜこんなことを考えているのか理由がわからない。

わかるということ

家電製品にはメニュー型が多い。プログラム上の制約なのだと思うが、一つの作業を行うために行なう操作が一通りしかないので「間違いが少ない」というメリットがある。携帯電話はこの世界だ。だから携帯電話は「わかりやすい」ということになっている。
日本の教育が暗記型に陥りやすいのは、こうした手順遂行型が一般化しているからだろう。手順を覚えてしまえば間違いは少ないのだが、不測の事態には対応できない。不測の事態というと大げさだが、一例を上げて説明してみよう。
例えばコンビニの店員さんの中に、作業をしている途中で話しかけられるのを極端に嫌がる人がいる。昨日ローソンで春巻を買ったのだが、醤油が付いているので「あー醤油が付いているんですね」と言ったら、店員の手が止まってしまった。醤油は使わないだろうと思ったので「入れないでください」と言おうと思ったのだが、そんな余裕はなさそうだった。
この場合、最初に「春巻きをください、ただし袋はいらないし、醤油も入れないでください」と言うのが正しい。コマンドを与えるタイミングは作業をはじめるとき1回しかないのだ。コマンド型の作業者は不測の事態を極端に嫌うのである。
もうひとつ「わかりやすい」の質がある。それはアタマの使い方の質の問題だ。抽象的なルールをわかりやすいという人(直感型)と、具体的な行為や光景がわかりやすい(感覚型)の人がいるのだ。日本の週刊誌は感覚的な人たちが「わかる」と言えるようにできている。だから、ほとんどの記事は次のように書かれている。「吉田茂の孫である麻生さんと、鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が争っているのが今の政治抗争の本質である。思えば、バカヤロー解散の時には…」日本の週刊誌が得意なのは、見知らぬ人を見知ったフレームの中に押し込めてゆく作業だ。「小泉純一郎は昔福田康夫の所で働いていて…」といった具合に既知の情報に新しい情報を足してゆくことになる。物事がフレームにはまったときに「わかった」ことになる。
この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。このタイプの「わかりやすさ」は変化に対応できないのだ。主に二つの理由がある。

  • フレームそのものが変化してしまうと、絵全体が崩れてしまう。これを昔の絵に当てはめようとするとわけがわからなくなる。
  • 作業の途中で状況が変化する。不測の事態の多い、わけのわからない状態だといえる。

我々は消費社会に生きている。消費社会では、製品やサービスの善し悪しを、生産者が消費者にプレゼンしてくれることになっている。だから「わからない」ことは十分クレームの対象になる。人は親しみのあるフレームで物事を捉える傾向があるので、学校や政治といった領域でも、消費社会のフレームを適用することがある。そうすると「わからない」人は、わかるように説明してもらって当然だという確信のようなものが生まれる。
そしてわからないニュースは売れないので、淘汰されて目の前から消えてしまう。
だから「わかる」フレームには、思っている以上にクセがついている。そしてそのクセには一長一短があり、わかりやすいことがいつもいいことだとは限らない。何がどうわからないかを考えてみることは意外と大切なのだと思う。
そこからパターンが抽出できれば、混乱にみちた世界が少しだけやさしく見えるかもしれない。

青騎士

なぜだが1914年の青騎士たちはハイテンションだったようだ。騎士たちのひとりカンディンスキーはこう書いている。

特定の時期になると必然性の機が熟す。つまり創造の精神(これは抽象の精神と呼ぶこともできる)が個人の魂に近づき、のちにはさまざまな魂に近づくことで、あこがれを、内的な渇望をうみだす。[中略]黒い手がかれらの目を覆う。その黒い手は憎悪するものの手である。憎悪する者はあらゆる手段を使って、進化を、上昇を妨害しようとする。これは否定的なもの、破壊的なものである。これは悪しきものである。死をもたらす黒い手なのだ。

彼らは官展への出展を拒否され、膠着した状態がそこにはあった。(黒い手とは彼らを拒否した芸術家たちを現しているのかもしれない)「内的な何か」がその膠着を打開するものだと考えられていた。日本の昨今の状況と異なっているのは、内的な何かがいずれ「さまざまな魂に近づく」つまりひとりの理解を越えて集団の理解に至るだろうと考えられていた点だ。同じ世界観がユングにも見て取れる。彼はそれを「集合的無意識」と呼んだ。彼らが単なるルサンチマンだと言われなかったのは、独創性のある作品を産み出したからである。また、それを評価する人たちもいた。
先ほどの議論を見ると、個人の内的世界はあくまでもプライベートなもので、それを理解させるためには「プレゼンテーション」が必要であるという前提がある。つまり、内的な何かはそのままでは理解されないだろうということだ。この「集団的何か」を信じるか、信じないかの違いは大きい。そして、日本人の識者たちがどうしてそうフレームするに至ったのかという点は考察に値するだろう。俺の内面はそのままの形では理解されないという仮定は、俺はお前をそのままの形では理解しないぞという宣言と同じだ。そこに相互理解や共感の入り込む隙間はない。
さて、このハイテンションなカンディンスキーはきっと若かったんだろうなと思ったら、そうでもなかった。1866年生まれとのことだからすでに40歳を少し過ぎていたことになる。フランツ・マルクはもう少し若くて1880年生まれ。こちらは第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで戦死して、パウル・クレーを大いに悲しませた。

通販市場がコンビニと百貨店を抜く

日経新聞が伝えるところによると、通販市場は2008年度に8兆円になり、百貨店やコンビニエンスストアを抜いた模様。コンビニはだいたい8兆円で、デパートは7兆2000億円。通販のうちファックスや郵便は2兆円でこれはあまり伸びていない。牽引役がネットだということは明らか。やったね、インターネット!
紙の新聞にはデパート、コンビニ、通販のグラフも付いている。これがクセモノで、これを見るとデパートの売り上げを通販が奪ったように見える。デパートが腐心だっていうしね。しかし、そーいう見方でいいのか、と思った所から私の迷走が始まるのだった。
このグラフの2000年の数字を全部足してみた所、9(デ)+6.5(コ)+2.5(通)で18兆円。そして2008年は、7+8+8=23兆円。そもそもこの前、GDP年率換算で12%減で、個人消費も低迷しているって聞いたばかりだ。なのに、どーして数字が増えているのさ…。日経新聞には書いていないのだった。多分日経新聞を読んでいる人は賢い人たちばかりなので、ちゃんとわかっているんでしょうね。でも、俺はムリです。これは「個人商店がヤバイ」っていう話なのでしょうか。「5兆円」増えとる。
思いあまってGDP統計まで引っ張って来たものの、そもそも消費は減っていない。(ただし、見た数字は額面の数字です。念のため。)あれ、俺たち貧乏になってたんじゃなかったっけ?(※確かに、年金生活者が増えているはずなので、総量が増えないということは給与所得者の取り分は減っているってことになるね…)働かないですむヒトが増えたってことは日本は豊かになったってことなの?
この間、サービスは数字としては一環して増えている。割合は微増で53%から57%と4ポイント増。逆に数字としても減っているのが「半耐久財」というカテゴリー。日本語とはとても思えないネーミングだが、調べると衣料品などを指すのだそうだ。つまりこれをまとめると、モノの消費は頭打ちで、GDPの伸びはサービスに依存していることになる。衣料に至っては長期的に減っている(※)のだ。どうりで安売り店が儲かる訳だ。医療はサービスに含まれるのだろうか…。(こちらは家計調査という別の資料がある。ただこちらはサンプル調査でサンプルの取り方には偏りも多い。)
さて、このニュース、誰か解説してくれるヒトがいないかと思って調べてみたのだが、ニュースを単純に参照しているヒトが多かった。日本通運の株も上がっているそうだが、確かに宅配業者のトラックも増えたね。
確かに景気の低迷にも関わらず通販市場は伸びているように見える。大枠だけでみると「モノ」を消費する時代から、どう消費するか(つまりサービス)という時代に突入しつつある様子がぼんやりとうかがえる。通販も「欲しいときに、より便利に」という流れの一つなのかもしれない。お買い物も、消費行動からエンターティンメントという感じだ。無為に物作りにコダわり続けていると、ちょっと違うんじゃない?と言われそうな気がする。
もう一つの流れは、例の「新聞没落」で見たネットへの移行だ。確かに既存ルートは行き詰まっているようだが、百貨店、コンビニ、通販の総量としては増えている。今までCMでブランド作りをして、チラシやSPで客寄せして、お店に来てもらうという通路しかなかったのだが、CMで認知度を上げて、そのままウェブサイトで集客、家でその日のニュースをチェックしながらついでにお買い物というパスも例外的な購買活動ではなくなりつつあるということなのかもしれない。
これをグラフにして「百貨店の凋落」として見ると、古い流通形態の没落と、新しい形態の勃興みたいにして見えてしまう。するとなんとなくありきたりの見方になり、これ以上の伸展が見られない。
経済の専門家ではないので、「本当はどう読むのか」はわからない。経済に詳しいヒトたちに、いろいろな仮説を含めた解説をしてほしいものである。