イギリスでもアメリカでも日本でも野党はまとまらないものらしい

Brexitで混迷を深めるイギリスで12月の総選挙が決まった。事実上の二回目の住民投票と考えられているそうなのだが「脱EU反対」野党への支持が集まらない。どうやら幾つかの政党に分散しているようだ。そのため直前まで野党側は総選挙を回避したがっていた。






なぜ労働党に支持が集まらないのかを調べてみたのだが直接の答えがない。そこで色々探し回っているうちに見つけたのがスコットランド独立運動である。グラスゴーではスコットランド独立に向けた住民投票を実施するように要求するデモが行われたという。AFPが伝えている。

Wikipediaによると、スコットランド出身のトニー・ブレアがスコットランドの自治権拡大に動きその中で生まれた政党がSNPなのだそうだ。つまり地方分権を推進したのは労働党政権だった。だが、皮肉なことにこの政策が労働党の支持基盤を弱くした可能性がある。スコットランドにおいて労働党支持者がSNPに移ったのかもしれないからである。

これで検索すると個人ブログらしいブログが見つかった。下記のような状況があるようだ。

まず労働党がエスタブリッシュ向けの政党だと見なされるようになっているのだという。日本の民主党にも同じ批判がある。立憲民主党・国民民主党はかつては労働組合を支持基盤にした政党だったわけだが、非正規雇用の伸長を背景にして労働組合は既得権益になってしまっている。アメリカ民主党もエスタブリッシュメント政党になり環境問題に関心がある層と社会の援助を期待する若年層の間に乖離が生まれているという。後者は若年層を中心に社会主義的な政策を望んでいるが、自主独立を重んじる成功した民主党支持者にはそれが受け入れられない。イギリスも同じような背景があることになる。

さらに労働党支持者がSNPに乗り換えているというのも事実のようである。成長に取り残された人というアイデンティティよりも民族アイデンティティのほうが他人に訴えやすい。これも自民党が弱者を「日本人」として惹きつけるのに似ている。

このブログにある目新しい情報は北海油田の石油価格暴落である。スコットランドが経済的な独立をするための後ろ盾になりそうな北海油田からの収入が期待できなくなった時点で「イギリスから抜けてしまって大丈夫か?」という不安があったのだろう。今度は「EUから抜けて大丈夫なのか」という不安に変わっても不思議ではない。つまりスコットランド独立の意味合いが変わってしまったことになる。スコットランドはイングランドよりもヨーロッパについたほうが経済的メリットが大きいと考える人が出てきているのかもしれない。

当初労働党は12月の再選挙には反対していたそうだ。5月の欧州議会選挙においてスコットランド労働党は支持を失っており代わりにSNPが伸長していたという。スコットランドにおいてはナショナリズムへの転換が進んでいるのだろう。12月の選挙で労働党とSNPが連合してもEU離脱を阻止した時点でまとまれなくなる可能性はある。これは日本の野党がまとまれないことからの類推である。日本との違いは「まとまれないなら別れよう」とするところだろう。

イングランドにも経済弱者はいるはずである。イギリスがEUから離脱すれば真っ先に打撃を受けそうな人たちがなぜかEU離脱を支持している。また、イギリスには先進的な課題(自由主義・環境)などを受ける進歩派リベラルの受け皿がなくなっている。

イギリスという括りではアングロサクソンの多数派になるので「イギリス人の好きにやりたい」という意見が勝ってしまい、既存政党へ支持が集約されるのだろう。つまりいろいろなオルタナティブが「多数派である」という安心感に取って代わられてしまう。このようにアイデンティティというのは一様ではなく他者が合理的に決められるものでもないのだなということがわかる。

こうした動きは外から見ると合理的には見えないのだが、日本の経済弱者層が却って保守というナショナルアイデンティティをまとって自民党を支持するのに似ている。一方で弱者救済とリベラリズムを唄っている政党が「実は金持ちの道楽」と見なされているというのも日本と共通しているのかもしれない。日本人だけでなく誰しもが「保護されるべき存在」とは見られたくないのだろう。

日本の最弱者層はおそらく既に民主党系から離反しており、れいわ新選組などが推進する消費税増税中止運動に連帯意識を感じているのではないかと思われる。彼らが目指すのは国債発行による「緊急経済対策」だろう。要はバラマキポピュリズムである。ただこれを救済策とは言わず「大胆な財政出動」などと大きく見える用語でまとめている。こうした動きはアメリカでも広がっている。アメリカで社会主義が広がっているという。だが、彼らも弱者なので救済してほしいとは言わないのである。

今のところバイデン元副大統領がトップ候補であり、ウォーレン候補とサンダーズ候補が協働しても旧来の民主党支持者には勝てそうにない。日本でもれいわ新選組がマジョリティになることはしばらくはなさそうだ。やはり弱者・敗残者というレッテルのもとで支持を集めるのは難しいのかもしれない。「弱者を救ってあげる」という上から目線のリベラル左派政党はナショナルアイデンティティかポピュリズムに取って代わられる以外にないということになる。

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2020東京オリンピック札幌マラソンと庶民の嫉妬

IOCの鶴の一声から始まった「2020東京オリンピック札幌マラソン」騒動がひと段落したようだ。これを見ていると日本人の村落的な問題解決方法とその欠点がよくわかる。日本は「協力してはいけない社会」になった。協力すればするほど誰かに吸い上げられるという社会なのである。






日本人は勝利を宣言してはいけない

北海道新聞(どうしん電子版)によると、札幌市長と北海道知事がマラソン札幌決定を受けて記者会見したそうだが、札幌市職員から「笑ってはいけない」とアドバイスを受けたそうだ。

これを見てモンゴル出身力士がガッツポーズをとって「横綱の品格にかける」と非難されたのを思い出した。相撲は皆様のおかげで勝てましたと言わなければならない社会だ。つまり、勝利の喜びはファンやサポーターに取り上げられてしまうという社会である。日本人力士がそれに耐えるのは現役を頑張れば自分が巻き上げる側に回れるからである。モンゴル出身者はそれができるかどうかが明確ではない。そこで軋轢が起きたのだった。

札幌は「棚ぼた式」でオリンピックが転がり込んできたと見なされているようで、中には泥棒と非難する人までいるという。札幌を泥棒呼ばわりした人は東京都民である自分がマラソンを所有していると思っている。合理的に考えるとめちゃくちゃな話だが、日本人の道徳では明白な勝利というのは周囲に対する盗みだとみなされてしまうのだ。相撲ファンが自分がモンゴル人力士を勝たせてやったと信じているのと同じことが起きているのだ。

努力は努力した人が勝手にやればいい話であって、勝利の名誉はみんなに分配される。日本は潜在的には収奪社会である。勝者が勝利を表明することは名誉の私物化にあたり掟破りなのである。これを面倒だとか遅れているという人はいるのだろうが、実際に自分が敗者の立場に立てば多分同じような感覚を抱く人は実は多いはずだ。

札幌はこれまでにマラソンを成功した実績があり今回のオリンピックを勝ち取ったのだろうしこれからも成功に向けて誰からの支援もなく努力しなければならない。ホテルも足りないようだし冬には準備作業ができないのでこれからが大変だ。だが部外者はがそれに同情も協力もしない。代わりに「労せず得したな泥棒め」という罵声を浴びせ続けることになるだろう。

事前調整がないと揉める

こうした表向きの勝者を嫌う文化だが、さすがに儲けがないと誰も投資はしなくなってしまうだろう。だから、儲けの配分と支出については入念な裏でのネゴシエーションをする。表に出してしまうと取られてしまうので、裏で話し合うのである。日本人が意思決定を避け「持ち帰り」で議論を重ねるのはそのためである。では、それを無視して意思決定するとどうなるのか。

今回はIOCという決定権者が決断をしたことが非難された。自分たちに何の相談もなかったというのがその理由である。TBSのワイドショーでは恵俊彰氏が「納得行かない」と言い続けていた。「話を聞いていない」から私は協力しないというのはサラリーマン社会では実によく見られる話であるが一司会者であっても「俺に相談がない」と言えてしまう社会なのである。恵さんがオリンピックに支出するわけではないのでおかしな話だが、これに賛同した視聴者は多かったのではないだろうか。恵さんもまたオリンピックを所有した気になっている。

小池百合子都知事は北方領土でやればいいなどと言い放ってわがままぶりを発揮していたが「お金を払わなくていいし、セレブレーションマラソンをしてはどうか」とオファーを受けたようである。表立った意思決定を嫌う社会では意思決定に対する懲罰が行われる。と同時に「話を聞いていない」と言って協力姿勢を見せない人が得をするという「ごね得の社会」でもある。日本人は徹底的に表での協力を嫌がるのである。

合理的に考えると、せっかく招致が決まったのだからみんなで協力してオリンピックを成功させたい。ところが日本人にはそんな気持ちはない。だから誰も協力しないで負担を押し付けあう姿勢ばかりが報道される。劣化したわけではなくSNSでそうした日本の文化が露呈しただけなのかもしれない。

そればかりか国民・都民・道民はさらに負担を強いられるだろう。

東京セレブレーションマラソンは追加で費用がかかるはずである。貴族の集団であり地代で生活を支えられてきたIOCは庶民が進んで財産を差し出すのは当たり前だと思っているはずだ。IOCを作った貴族たちにとっては封建社会で権益が失われた現在で生き残るための新しい地代がスポーツイベントと広告なのであって、そこから利益を得るのは当然のことなのである。それをいけないことだと思うのは、我々が庶民だからである。貴族たちは選ばれた身分の人間が周囲から支えられるのは当たり前だと思うだろう。

広告費は現在の地代であるからいくら取っても構わない。取れなくなれば国が債務保証をするというのが最近の契約である。安倍首相はブエノスアイレスで高らかにこう宣言した。庶民の代表としてマリオという道化に扮してまで勝ち取ったプロジェクトなのだ。

さらに申し上げます。ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります。

IOC総会における安倍総理プレゼンテーション

パラリンピックマラソンは東京でやるのでマラソンコース整備の負担金が減るわけでもないのだから、東京都民は追加負担を迫られるはずである。小池さんは都知事であるということだけを根拠に都民から税金を徴収することを自分の権益だと主張できる。さらに北海道も何も金を出さないというわけには行かないだろう。

小池百合子都知事は広告代理店などにプロジェクトマネーを追加で分配できる。まず準備不足で汗をかく北海道が責められ、黙って金を出す国民・都民・道民が負担を強いられるが議会があるわけではないので異議申し立てはできない。オリンピックは現在に蘇った封建社会だ。東京都議から国政に転じた音喜多議員は「IOCにお金を出してもらうために国際世論に訴える」などと言っているが、そんなアピールが国際社会に聞き入れてもらえるとは思えない。民主主義ではないからである。

封建社会では庶民は上から言われたら言われた分だけ差し出さなければならない。今回の騒動は、庶民的な道徳感情を核にして搾取される東京都民が同じ身分である北海道民を泥棒呼ばわりしているというだけの話なのである。

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「イートイン脱税」という些細な反倫理的行為を裁く愚かなフリーライダー達について考える

イートイン脱税という言葉があるそうだ。これがけしからんという通報が相次ぎイートイン施設を閉鎖するところも出てきたとNHKが伝えている。税制の改悪によってイートインスペースという準公共的な場所がなくなりつつあるということだ。国税庁は「店側がちゃんと管理すればいい話だ」と言っているのだが、「2%ぶんトクをする」というのが許せないという人が多いのだろう。彼らの正義はその愚かさゆえに公共空間を奪っている。






日本人は見かけ上の平等に過剰にこだわる。また、自分が法律を守っているという自信が他人を罰するライセンスになる。村人はすべて警察官の役割を担っていいという一億相互監視社会だ。もともとこうした監視装置は公共への投資を促進していたのだろうが、イートイン脱税を裁いても公共投資は促進されない。実際のフリーライドはもっと別のところにあるからだ。

別のNHKのニュースは介護保険の見直しについて伝えていた。こうしたスキームは常に「足りない」状態に置かれ結果的に膨張するという不思議な性格を持っている。そしてそれには理由がある。

これを理解するために使われるのがフリーライディング理論だ。フリーライディグ理論は公共財と誰でも利用できる財にタダ乗りする人たちについての考察だ。自分は持ち出しをしないでみんなのために提供されているものを利用すればトクになる。この持ち出しをしないことを「タダ乗り(フリーライディング)」と言っているのである。

Wikipediaにはフリーライディングを防ぐためには国が公共財を提供すればいいと書いている。税金で広く公平に負担するからフリーライダーが防げるという考え方だ。議会が税金の使い道を厳しくチェックしているならフリーライディングを防ぐことができる。

ところが日本ではこれがうまく行かない。例えば保育園は作っても作っても不足している。これはフリーライダーによってもたらされる「正の外部性」効果によるものだ。作れば作るほど「働きに出られる」お母さんが増える。するとそのお母さんの安い労働力をあてにした企業が増える。どんどん需要が掘り起こされ、持続できなくなるまで膨らみ続ける。そして、その間いつも「ちょっと足りない」という状態が続く。つまり日本の保育無料化は多分間違った政策なのだ。

この場合一義的な利益享受者はお母さんなので「お母さんがフリーライダー化」していると言える。そして実際に働くお母さんがバッシングされたりする。働くお母さんを攻撃するのはかつて働くことを諦めたお母さん達だ。こうしてお母さん同士がお互いに潰しあっている背後には福利厚生を負担しなくても済む企業がある。働きたいという女性はワガママだと批判されるが企業がワガママだと批判がされることはほとんどない。彼女達の視界には企業の存在は見えない。

また健康保険も不足が叫ばれるスキームである。おじいちゃんおばあちゃんがグチ半分で「腰が痛い」というと「湿布でも出しましょうか」ということになる。この場合フリーライダーはおじいちゃんとおばあちゃんだが、実際にはお医者さんもフリーライダーだ。処方箋に一行加えるだけで医療行為をしたということになるので「楽に稼げる」からである。

隠れたフリーライダーはお医者さんなのだが非難されるのはおじいちゃんとおばあちゃんであり、非難するのは制度の支え手である。支え手はやがて受益者になり同じような批判にさらされることになるだろう。正の外部性が働く世界ではなぜだか常に供給が不足するからである。市販薬を健康保険から除外すれば2000億円が浮くそうなのだが、これによって救われるだろう人よりもおじいちゃんおばあちゃんから湿布を取り上げるのは如何なものかという道徳的議論が先行する。

日本人は非難することでフリーライダーを未然に排除してきた。ところが、お母さんやおじいちゃんおばあちゃんを非難しても問題は解決しない。だから、常に不足と破綻の問題にさらされることになる。冷静な議論が必要であり、道徳的には防げない問題だ。

NHKが伝えるように介護保険でも同じような構造が出来ているのだろう。改革を検討すると常に不足にさらされている介護が必要な人たちをフリーライダー扱いすることになってしまうのだが、実際には隠れたフリーライダーがどこかにいるはずなのである。

この議論を難しくしているもう一つの要因は「みんなフリーライダーになっている」という現実である。ここで見てきたフリーライダーは働きたいお母さん、将来に不安がある高齢者、介護が必要な人たち、なんとか生きて行こうとしている中小企業の経営者、立派なお医者さんである。彼らにはシステムを食い物にしているという実感はないだろう。

つまり「誰かが悪い」と糾弾してその人達から取り上げるという行為は問題の解決にはつながらない。そして、費用が膨らむと消費税から取ろうということになる。これが最も簡単なソリューションだからである。

そしてこの消費税制度が、2%の「脱税」を生んだ。その結果として手軽な庶民の憩いの場であるイートインスペースがなくなってしまうのだ。彼らもまたレストランでは食事ができなくなった庶民でありイートインスペースは彼らなりの生活防衛だったはずである。もっとも彼らの多くは自分の車などのパーソナルスペースに逃げ場を見つけることになるのだろう。イートインスペースという企業が準備した準公共的な場所は正義によって奪われる。

本来は公共投資を促進するはずの正義が公共財を奪い。こうしたダウンスパイラルはまさに「真綿で首を絞めている」という表現がふさわしいが、実は真綿で首を絞めているのは一人ひとりの正義の行動の結果なのである。これが盲目的な道徳と正義の恐ろしさなのだ。

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