安倍首相の無力感

安倍首相が記者たちの前に出てきて「アメリカからすべての選択肢がテーブルの上にあるという力強い発言があった」と発言した。みなさんはこれをどう捉えただろうか。
安倍首相を応援する側は、ああこれでアメリカの力強い支援が得られたと感じて安心したかもしれない。民進党のように頼りない政党が政権についていたらきっとアメリカとは仲良く連絡が取れず、日本は危険にされされていただろう。この際、日本もアメリカのお墨付きを得て敵基地攻撃能力を持ち、ならず者の北朝鮮を叩いてしまうべきだと考えた人もいるだろう。安倍さんはこれだけトランプ大統領とツーカーなのだから、きっと要望を聞いてくれるはずだ。
一方、安倍首相が嫌いな側にいれば、アメリカの選択肢には北朝鮮への武力攻撃が含まれており、これは却って日本に災いをなす可能性があるのではないかと反論したくなるかもしれない。やはり北朝鮮には外交を持って交渉すべきで、戦争の危険のある「好戦的な」態度は慎むべきだと思うだろう。安倍首相は戦争ができる国づくりを目指していて、これは安倍首相とお友達が儲けるためなので断じて許容できない。
この2つの基本的な政治態度は幾つかの危うさを抱えている。それは情報の少なさが見込みによって補完されているからだ。つまりこのニュースの本質は「情報が少なく、不確かだ」という点にある。
いくつか懸念すべきニュースが出てきている。北朝鮮が発射した「飛翔体」の正体が特定できていない。情報が錯綜しており、成功したか失敗したかということもよくわからないようだ。これについて「米中首脳会談を前に事態を矮小化しようとしたのではないか」という説さえでている。トランプ政権は就任式の数字を水増しして発表したり「もう一つの現実(オルタナティブファクト)だ」などと言ったりすることがあり、阪神された情報に信憑性がない。日本はアメリカから情報をもらえないと、北朝鮮が何をしているのかがさっぱりわからないという状態なので、これはとても危険なのだ。
もう一つはバノン氏が国家安全保障会議から外れたというニュースだ。最終的に北朝鮮を攻撃するのかを決めるのはトランプ大統領だが、経済(しかも彼が考えるところの)にしか興味がない。このため周囲の情報のインプットが大切なのだが、既存の軍人、官僚との間の権力争いだけでなく、トランプ大統領のお友達と身内の間にも権力争いがあるらしい。様々な思惑が絡めば情報が錯綜し、分析が遅れ、その間に事態が悪化する可能性が大いにあるし、逆に不確かな情報の元間違った決断が下される可能性も高まる。一歩対応を間違えると目も当てられなくなってしまうだろう。
ここから得られる結論は極めて単純だ。アメリカが正しい情報を持っているのか、持っていたとしてそれをきちんと伝えてくれるのか、さらに正しい情報をもとに正しい情報判断をしてくれるのか、ということが何もわからない。テレビの人たちはこれをきっちりと理解しているようで、かなり疑心暗鬼になっているようだった。ただし、表立っては「アメリカは当てにならないのではないか」とか「日本は独自で意思決定できないですよね」などとは言ってはいけない「空気」があるようだ。冷静に「わからない」ということを伝えられればいいのだが、コメンテータは専門分野について解説するのが仕事なので「わからない」と言えないのだろう。
日本はアメリカに影響を与えることもコントロールすることもできず、単に言われたことに「はいはい」と従うしかない立場にある、安倍首相に生育歴をみると「逆らえない人には絶対に逆らわない」性格のようだ。しかしそれでは無力感を感じることになってしまうので「親が言っていることを実はボクも考えていた」と思い込むことによって、その無力感を隠蔽している。これも今流行の「忖度」の一種だが、実は自己欺瞞の一種だと言える。
例えばトランプ大統領が「北朝鮮と戦争だ」と決めれば、日本は黙って従うしかない。すると、周囲が混乱するのを押し切って憲法も無視して正当化を図るだろう。それしかできないのだが、これを自分の意思による「力強いリーダーシップだ」と言い張るしかない。これに従っている人たちも、自己保身のためには安倍首相を「忖度」するしかない。
このようにトップの心理状態が歪んでいると、その部下たちも「何が自分の意思で、何が忖度なのか」がわからなくなってゆくのだろう。だが、それが一旦言葉として発信されてしまうと、それに無条件に賛同する人や、逆に無条件に反発してゆく人たちが意見を増幅させてゆく。
これが安全保障上極めて危険であるということに早く気がついた方がよいのではないだろうか。実は何もわかっていないのだから意思決定などできるはずがないし、それを批判できるはずもないのである。

籠池夫人は何に怒っているのか。なぜ怒っているのか。

女性週刊誌に籠池夫人の異常な言動が書かれていた。息子の通っている道場に怒鳴り込みに行ったり、レストランなどで突然怒り出したりするそうである。これを読んで、この人にはなんらかのセラピーが必要なのだろうなあと思った。いつも怒っているのは苦しいだろう体。テレビのニュースなどをみても、総理夫人を責め立てたり「もうだめだ夫が逮捕される」とパニックになっていたようだ。悲観的で現実に対処する能力がない。
彼女は自分がコントロールできないものを許容できなかった。だからコントロールできない子供を虐待するのは当たり前のことなのだ。最初から幼稚園教育などには携わってはいけない人だった。
しかし、彼女の怒りを決めつけるようにして書くのも何なので「怒り」についての本でも読んでみようと考えた。図書館で怒りというキーワードで検索したところヒットした本を取り寄せることにした。「怒りの精神分析」というタイトルである。1980年に書かれた本のようで、交流分析という簡易版の精神分析メソッドに基づいて書かれた本のようだ。当時の常識で書かれてあって、例えば同性愛は成長が阻害された結果起こるというような決めつけもある。
交流分析では自分を、親・大人・子供に分類する。感情的な内面が子供で、これを分析的に捉えるのが大人である。その他に子供を抑圧したり規範を与えたりする親というパートが存在する。スーパーエゴなどの心理学的な理論に基づいているのだろう。
子供は様々な感情を持ちうるのだが、内面化された親の規範があり、感情を表に出すことができない。すると、その感情が様々な形で表出する。いろいろなルートがあるようだが、怒りを感じたとt気に、1)自分を罰したり、2)代替を攻撃したり、3)普段は我慢しているが突然キレたりなどという現象が起こる。この本はそのバリエーションを細かく分類してメカニズムを考察している。
怒りはかなり幅広い形を取りうる。例えば相手を操作することも怒りだし、善人のフリをしたりするのも怒りの形である可能性があるということである。例えば、過剰にきれい好きな人がいるが、相手がくつろいでいるのに掃除をしたがる人も「怒っている」可能性があるとのことである。掃除を通じて相手を支配しようとするのだ。
籠池夫人の怒りの原因がどこにあるのかはわからないが、依存の問題があることは明確だ。首相夫人に「なんとかしてくれ」といい、それが叶わないとなると怒りをぶちまける。また、レストランでも「自分の期待通りに相手が動いてくれない」ことに対して怒りを持ってしまうと、それが制御できなくなってしまうのだろう。
籠池夫人が「なぜそんな状態に陥ったか」ということはわからないのだが、親がなんでも要求に応えてくれていたのに突然打ち切られて怒っている可能性もあるし、学校理事長の娘ということを考え合わせると、両親が他人の子供にばかり優しく自分はかまってもらえなかった可能性もある。情緒的に自分をコントロールすることができず、かといって独立して自分の力で自分を甘えさせることもできなかったのだろう。だから「どうしてそうなったのか」を分析するのはもはや意味がないのかもしれない。
いっけん籠池夫人とは対照的に見える安倍総理夫人だが、実は籠池夫人と共通点が多い。お嬢様であって何不自由なく育てられている一方で、自立するための方策は何も与えられなかった。誰かに依存して生きてゆくしかなく、したがって人生に目的がない。
そこで総理夫人は一方的な被害者ではないという可能性が出てくる。怒りには「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」という形もあり得るからだ。つまり安倍昭恵さんは自分の人生が思い通りでないこと、あるいは自分の感情的なニーズが満たせないという怒りを「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」ことで満たしているのかもしれない。こうした自滅的な態度は著作の中では「キックミー」と表現されている。
怒りの表現は人それぞれなのだが、この精神分析では「怒りを手放しましょう」とは言わない。逆に自分の中にある「子供」を認めることのほうが重要だ。この精神分析が目指すところは「人が再び成長を目指せるようになる」ことだという。人には成長したいという欲求があり様々な抑圧がありそれが妨げられているという見立てである。抑圧はフロイト的な考え方だが、成長はユングのいう個性化にも似ている。西洋には一般的に、成長は内在化された神の意志であるというような考え方があるのかもしれない。
籠池夫人は常に他人を当てにしていて、他人が自分の言う通りに動いてくれないとその怒りをぶちまけるという性質があるようだ。たまたま子供を相手にする仕事をしているのだが、子供は言うことを聞いてくれないので、ついつい虐待してしまう。ここから、社会的に不適格であるということは間違いがなさそうである。
だが、シャドウである総理夫人の問題は見えにくい。ちょっと不思議な言動はあるものの、表層的には極めて良い妻だからだ。夫人の問題は、夫や夫の母親から承認されないからどんなに理想を追求しても自分の中にある親がそれを認めてくれないということになるだろう。女性週刊誌では面白おかしく、自立できない夫と何にでも口をはさみたがる姑に囲まれて「居場所がない」昭恵さんの様子が伝えられている。つまり、彼女は成長を目指しているにもかかわらず、それがいつまでたっても成就されないという点にある。成長を目指してあれこれやってみるが、そのやり方すらわからないのだ。
安倍首相は母親の欲求に応えることが人生の目標だが、規範に対して強い恨みを持っているようだ。周りが押し付けてくるルールが大嫌いで自分の好きなように振る舞いたがる。特に女性議員への蔑視は甚だしい。一方で、自分より強いものと同列に見られたがるという傾向もある。非常に子供じみた性格が残っている。これは「親」が弱いからそうなったというよりは、親の抑圧が強すぎて「反抗すること」が人生の目標になっているのだろう。お友達に便宜を図ってやっているという噂があるが、彼らとの間に「ボーイズクラブ」的な連帯を持っているようである。内在化された父親の不在と、強すぎる母親を感じさせる。
なので、安倍首相が夫人のニーズに応えることは絶対にできない。母親が夫人を絶対に認めてくれないのだから、それを自分が認めるわけにはいかないからである。安倍首相は「昭恵さんの怒りと暴走」自体を直視することができないようで、子供のように怒り狂っているという報道もでている。森友問題を認めてしまうと自分が妻を「虐待」していることが露見してしまうからだろう。
そう考えて行くとこれは子供っぽい依存が作り出した悲劇であり、ニーズが満たされない人たちが相互に依存しあって起きた出来事と言えるだろう。それが政権を揺るがしているのだから、世の中何が起こるかわからないものだ。

自己責任を主張して記者を罵倒する大臣のビデオがさらされる

今村復興大臣という方が炎上している。

ある記者が(一部の報道ではフリーだという)福島県から自主避難している人たちの困難を訴えているのだが「そんなものは自己責任」だと吐き捨てた上に、最後には記者をボールペンで指して罵倒した上「2度と来るな」と罵倒して去ってゆく。ビデオはまだ11万回程度しか再生されていないので「炎上」とまではいかないかもしれないが、まあネットで騒ぎになればテレビも取り上げざるをえなくなるだろう。
ピンときて調べてみたが、この人も安倍さんのお友達だった。つまり日本会議や創生日本などに所属する「保守政治家」なのだ。さらに九州(佐賀県)の選出だった。自分が九州出身なので「九州の政治家はこういう居丈高な人が多い」とは思われたくないのだが「異論は認めない、お前黙っていろ」みたいな人が多いのは確かである。
自称保守政治家には2つ特徴がある。1つは政治脳(PQと言っても良いかもしれない)が極めて単純で複雑さを扱えないという点だ。民主主義というのは多様な価値観をぶつけ合う作業なのだがそれを扱うだけの能力がないのだ。もう1つの特徴は自分の欲望には忠実という点である。日刊ゲンダイの過去記事「今村復興大臣の”怪しい財テク”……」が蒸し返されていた。安倍政権が復興事業で大切にしているのが、被害にあった方々ではなく、企業であることは明白だ。籠池さんというお友達でさえ平気で切り捨ててしまうのに、原発事故で被害にあった人たちなど気にするはずなんかないのである。
「身勝手な人」をみたら保守なんだなと思えばいいし、保守政治家を自認する人を見たら「この人は身勝手で相手への思いやりなどない人なんだな」と思えばいい。ボスにへつらい、目下を切り捨てるのが保守なのだろう。ニュースの中では「何かに頭を下げる」絵が使われているのだが「国旗に頭を下げている」という説がある。国家とは自分たちが利用できる権威であり、決して有権者のことではないのだろう。有権者は彼らにとっては統治して搾取すべき対象なのだ。
だから「保守をみたら泥棒と思え」だと考えて間違いはない。
一方で。ジャーナリズムを取り巻く環境は大きく変わったなと思う。この質問をした人はフリーのジャーナリストだということになっているそうだ。こうした人たちが例えば「売名して本を売りたい」と考えて、玉砕覚悟で記者会見に乗り込んだとしても、いったんフッテージの取得に成功さえしてしまえば、ある程度名前が売れる。テレビ局はフリーライドされることを嫌っていて(自分たちがフリーライドするのは平気みたいだが)名前を出さないが、フリーの人たちが独自ネタを掴んでしまえば、要求に応じざるをえなくなる。
ポイントになるのはすべてのジャーナリストを抱き込むことなどできないということと「安倍側」につくのがどれだけトクかという点だ。寿司友と指摘されたジャーナリストたちは世間の反発にさらされておりだんだん元気が無くなってゆく。どう考えても無理筋の擁護すらできなくなってしまうからである。一方で「反安倍」にいたほうが記事が売れ、世間の共感を集めるという状態になってきているのではないだろうか。
つまり、ジャーナリズムの世界ではテロを働いたほうが割がいいという世の中になっている。だが、実際に保守政治を破壊しているのは安倍首相なのだろう。このままどんどん破壊行為が続いて「保守という名前を使って周囲に威張り散らす」ような人たちが消えてなくなればいいんじゃないかと思う。そうでもしないと「魚食文化のような先祖の暮らしや伝統を次世代に継承して行こう」みたいな本物の保守政治家が出てこれないのではないだろうか。
 

なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。
だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。
記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。
ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。
うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。
一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。
もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。
誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。
「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。
つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。
これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。
つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。
 

街から魚屋さんが消える訳

先日エイプリルフールネタで、東京で刺身が禁止されるという話を書いた。そんなことはありえないだろうという前提で書いたのだが、どうもそうではないようだ。
豊洲の最大の汚染源は「ばい菌が繁殖しかねない魚」なのだから魚を禁止してしまえばいいのだというのが話の筋だ。そんなことは本末転倒なので「築地は汚い」という人のカウンターになるだろうと考えたわけである。
魚食について気軽に考えてしまった理由は近所に魚屋があることが影響している。若葉区には石毛魚類という魚屋があり、銚子漁港の魚を卸して公設市場のようなところで売っているのだ。高齢者はスーパーの魚には満足できないので、こうした魚屋に需要があるのだろう。豊洲の移転の問題に都民ほどの切実さを感じないのは、千葉市では産直の魚が気軽に食べられるからなのである。
しかし、他の地域ではこれはあまり笑えない話だったようだ。考えるきっかけになったのはTwitter上の「うちの近所から魚屋がなくなった」というツイートである。


近所から魚屋が消えれば、当然築地市場も縮小する。いろいろ調べてみると築地はピーク時から比べると1/2程度の取り扱い量になっているというエントリーも見かけた。豊洲移転は魚屋が消えてゆく駄目押しにはなるが、直接の原因ではないことになる。
だが、これは政府の陰謀ではない。実は消費者のニーズに応えた結果らしい。消費者は多くの品物が一度に手に入るスーパーマーケットを好んでおり、商店街での買い物を面倒だと感じている。この地域でも商店街は消えつつあるが、原因は駐車場の不足だ。働く人が増えて買い物の頻度が減り、多くの荷物を運ぶためには車が必要になるということだ。一度決めた区割りは実質的に変更できないので、都市計画は消費者の変化に対応できない。そこで空洞化が起きてしまう。空洞化したところには小口のスーパーマーケットが入るが加工食中心だ。人件費を削減しているから工業製品の価格は抑えられるが、生鮮品を手に入れるためには車が必要になる。
効率で収益をあげるスーパーも鮮魚を取り扱いたがらないし、消費者も面倒な調理を嫌う。このため、マグロ、サーモン、イカといった管理が簡単な魚が売れるようになり、自分で「三枚におろす」必要のある魚が敬遠される。このようにして魚の家庭内調理は敬遠されてゆくのだ。
冗談のエントリーでは「東京オリンピックを前にアジア的な魚食文化は後進的で恥ずかしい」と書いたのだが、実際には「面倒で手がかかり不衛生に見える」魚は避けたいという消費者の感覚が魚を遠ざけていることになる。
だが、魚が敬遠されているのは、消費者が魚の味を嫌うようになったからではなく、魚の料理が面倒だと感じる人が増えたからである。水産庁のホームページでは水産資源の二極化の進行が報告されている。つまり、外食で使われる魚の需要は堅調なのだ。
このように魚食文化は変化しつつある。大量に供給できるサーモンなどが寿司ネタとして提供されているのだ。バンダイの調査(添付はPDF)によると、好きな寿司ネタランキングは、いくら、マグロ、サーモン、タマゴ、エビ、納豆の順番らしい。そもそもかつては子供が気軽に外で寿司を食べるということは考えにくかったわけだから、魚食文化は広がっていると言える。一方で、伝統的な大衆魚とされていたイワシやお祝いの代名詞だったタイは忘れさられてしまうかもしれない。こうした魚は骨を避けて食べるのが面倒だ。
中国などとの間で魚資源の獲得競争が起きて魚資源の枯渇も心配されているのだが、これは中国が日本に近づいているということもできるし、日本の魚食文化が単純化されている結果とも言える。つまり日本側でも「安く手軽に魚が食べたい」と考える人が増え、仕分けや調理が面倒な近海魚が淘汰されかけているということになる。
もともとは冗談から始まった話だったのが、意外と深刻な変化が起きているようだ。これを考えてゆくと、豊洲・築地の問題は、現代的な魚流通の要請に応えつつ、観光資源や伝統文化をどう守ってゆくかというテーマになることがわかる。これは伝統的な文化の継承を政治の根幹に掲げる保守主義の政治家にとっては重要な課題になりえるはずで、結果的に日本の保守主義の薄っぺらさを端的に示していることがわかる。
有害物質を生成していた場所に食べ物を扱う市場を誘致する感覚が政治家として不適格だが、伝統的な魚文化を「単に汚いもの」として切り捨ててしまったというのも信じがたい暴挙と言えるだろう。

東京都で魚の生食を禁止する条例ができるらしい

このほどの当ブログの独自取材で、東京都が魚の生食を全面禁止することがわかった。食の近代化を目指し、オリンピックにふさわしい国際都市の実現を目指す。
ことの発端は猪瀬直樹前都知事の「築地市場が人気なのはワイルドで野蛮なアジア趣味を覗き見にきている外国人が多いからだ」という趣旨のTwiterの指摘だ。猪瀬直樹さんは惜しまれつつ引退したのだが今でも根強い人気があり、その発言は重く受け止められていた。
そもそも築地市場が汚いのは、調理されていない魚を食べるというおぞましい習慣によるものである。こうした後進的なアジア性は科学的に克服される必要があるだろうという議論がTwitterを中心に巻き起こり、普段から環境問題に造詣が深い小池都知事もそうした世論を無視できなくなったようである。
さらに豊洲市場移転プロジェクトには自民党議員の利権が絡んでおり、もし豊洲移転が実現できなければ多くの議員が路頭に迷うばかりか東京湾に沈められてフグなどの餌になりかねないという事情もある。豊洲をより安全にするためには、最大の汚染源である魚を排除する必要があり、冷凍した魚を扱うのが一番安全であることは科学的に100%証明されている事実だ。魚を全て冷凍にしてパック販売すれば地下に溜まっているベンゼンなどの有害物質が付着する可能性も排除できる。このように魚の冷凍化のメリットは大きい。
この方針を徹底するために、小池都知事は都の小学生に副読本を配り「魚を生で食べるのは野蛮」と教えることを義務付ける。先進国で魚を生で食べる文化を持っている国はなく、魚は調理するのが国際的な潮流だ。と同時に電通に「魚を生で食べるのは野蛮だ」という800億円規模のキャンペーンの実行を依頼した。さらに、800人規模の「寿司Gメン」を発足させて、都に8000件以上ある日本食店を巡回する体制をとる。
日弁連は、都の新しい政策は、国民が自由に魚を料理する自由を侵害するもので憲法違反だという声明を出したが、裁判所が違憲判断を出した例は少なく議論への影響力は乏しいものと思われる。


ということで、エイプリルフールネタを書いてみました。みなさんお楽しみいただけましたでしょうか。今日も1日頑張っていきましょう!