病跡学(パソグラフィー)

今回、パソグラフィーというカテゴリーを作った。日本語で病跡学。もともとは有名人の精神的な状態を調べる学問だそうだ。ここに載せているのは、有名人の精神状態、殺人事件、および反社会性障害などである。
御存知のように自然界のいろいろなものは正規分布するという特徴がある。正規分布は平均の山があり、裾野に行くに従って少なくなって行く釣り鐘のような形をしている。我々が「正常」と言っている状態は山の頂上にあたる。正常は「平凡」でもある。この山の一方の端は「天才」と呼ばれる領域である。そしてもう一方の山はその「反対」だ。ところがこれは結果論にしか過ぎないと思う。天才の中にも異常な精神的状態に苦しむ人たちがいるし、殺人を犯した人たちの中に創造的な遺物を残す人たちもいる。これが異常な領域に興味を持つ最初の理由だ。つまり、異常を考えることは創造性を考えることなのだ。ここでのポイントは「創造性の最初の段階はコントロールできない」という点だろう。
第二の理由は「うつ」と創造物に関係があるからだ。中年期に引きこもりを経験する学者や芸術家は多い。もともとそういう気質を持って生まれるのかもしれないし、正常から逸脱することが結果的にうつ的な状態を生み出すのかもしれない。アンソニー・ストーの天才はいかにうつをてなずけたかという著作に詳しい。
現代の日本には、うつに苦しんでいる人が多い。社会を動かしているシステムがあまりにも緊密になりすぎると、そこからはみ出る人が出てくる。もし人間が工業部品だとすると、こうした人たちはラインから排除してしまった方がいい。不良品が多いと社会の効率は悪くなる。ところがこうした人たちが不良品であるかどうかは、実は分からない。なぜならばこうした「逸脱」状態は創造性と関係しているかもしれないからである。つまり「不良品」と考えられていた人たちを排除することで、社会は結果的に創造性を失ってしまうかもしれない。
うつ病は医者にとっては収益源だ。故に、原因を特定しないまま、薬で状況を緩和させる場合もあるそうだ。薬が利かなくなると、別の薬を処方する。こうした状況は実は社会に原因があって起こるのかもしれない。第二次世界大戦前夜の日本やドイツのように社会全体が一つの価値観に向けて暴走することがある。この時にこの流れに乗れなかった人たちは「異常者」と見なされるだろう。平均の山が異常な状態にあっても数では負けてしまう。逸脱した多数が正常な少数を薬で黙らせている可能性もあるわけだ。
引きこもりはこうした社会から距離を置く事で、自分自身の人生や社会について考える機会を得る事でもある。これを積極的に評価したのが、ユングの中年の危機だ。ところが社会が柔軟性を失うと、結果的にこの「生まれ変わり」の機会を逸してしまうことになる。出世競争やリストラの恐怖、家のローンなどに負われていて「引きこもる」機会を得られない人は多いはずだ。社会を牽引する人たちが社会のあり方を問い直せないことは、変革の機会を自ら放棄してしまうことになる。
社会が安定している時には、社会変革について真剣に考える必要はないかもしれない。しかし、これほどまでに「このままではまずい」と言われているにも関わらず、誰も社会変革に踏み出せないとしたらそれは大きな問題だといえる。
最後の理由は個人的なものだ。新聞やテレビが殺人犯を「叩いている」時に、どうしてこの人はこういう精神状態に陥ったのかと考えてしまう。つまりそうした状態に引きつけられてしまうのである。また、反社会性人格障害のように、「こんなやつらがどうして社会的に成功するのか」というような人たちもいる。進化学的に考えると「異常な遺伝子」を持っている人たちは、長い進化の間に淘汰されてしまうはずである。しかし、実際はそうはなっていない。高い精神性を得た代償としてこうした症状が現れるのかもしれないし、実際は「異常ですらない」かもしれないのである。
創造性の最初の源流は「異常さ」の中から現れるとも言えるし、そもそも多様性の一部として積極的に評価すべきだとも思えてくる。自分たちを正常だと考えている人たちが、全てを平準化してしまった果てにあるのは、繁栄ではなく、均衡状態という名の死かもしれないのである。

魂の殺害者

人を殺すと犯罪者として処罰される。だが「教育」という名前の迫害を加えて、子どもの人生をめちゃくちゃにしても、その人は裁かれることはない。
魂の殺害者―教育における愛という名の迫害は、息子の1人をピストル自殺に追いやり、もう1人は42歳で精神病院に入院させてしまった父親の物語だ。この物語は後にフロイトが研究対象にして有名になった。
もちろん、この教訓は実際に苦しんでいる人たちへの個人的な洞察を与えてくれるのだが、社会や国など時代の雰囲気が個人の生育にどう影響を与えるのかという側面も無視できない。
高級官僚だった息子ダニエル・パウルは42歳で神秘体験を含むパラノイア症状を経験して入院する。議員選挙に落選したことが直接的な原因だったようだ。回想録が書けるまでに回復し「シュレーバー回想録」を書いたが、その後も症状が安定することはなかった。「シュレーバー回顧録」はフロイトの研究で有名になった。
ダニエル・パウルの父親は「教育とは厳しい規律で自由を制限することである」という理念を持っており、自分たちの子どもに実践して多くの著作を残した。本の中にはその例が出てくるのだが、教育というより調教に近い。図式と息子の妄想に一致点が多い。畳み掛けるようにして図式と息子の妄想が例示されるのだが、その繰り返しにはかなりの迫力がある。
父親 のダニエル・シュレーバーは迫害者というよりも、高名な教育者として知られている。今でも「クラインガルデン」と呼ばれる菜園と公共緑地を組み合わせたような施設があるそうなのだが、その概念はシュレーバーが提唱し、義理の息子に受け継がれた。シュレーバー教育法も当時のドイツでは好意的に受け入れられたそうだ。このため、息子シュレーバーの病例を分析する際、父親の教育法との関係は全く考慮されなかったということである。
当時のドイツには「一九八四年」のダブル・スピークを想起させる「自由とは権威への服従だ」(これはフィヒテの言葉として紹介されている)といった主張があった。だからダニエル・シュレーバーが際立って狂っていたというよりは、そういう気分の中で生まれたのがシュレーバー教育法なのだろうと分析されている。こうした空気はやがてナチズムとして結実する。社会的な閉塞感と個人の教育の問題はつながっているのではないかもしれない。
ただし、ダニエル・シュレーバーがこうした教育法を発想したのには、個人的な理由もある。息子の診察記録の中に、父親は「殺人衝動を伴う強迫観念に悩んでいた」というものがあるそうだ。彼は子どもの中に「弱い(すなわち悪い)芽」を見ていたのだが、これは実際には「自分の中にあるコントロールできない認めがたい特性」だった可能性があるのではないか。人には、自分の内面のふさわしくないものを投影したり、理想化された自己像を相手に見てしまうことがある。父親の生育記録がないので、どうしてこのような内面的な怒りを持つに至ったのかはわからないが、著作の中には弱いものを認めたくないという気持ちが込められている。
母親は夫を賛美しており、父親の行き過ぎた「教育」に対して異論を唱えなかった。そのため、初期の幼児体験で重要な無条件の自己の受容が得られなかったのだろう。二人の息子の人生の初期においては問題は露呈しなかったし、むしろダニエル・パウルは成功者だった。だが、それは中年期に破綻する。息子は自分の中に巻き起こる様々な感情を正しく認識できず、ついには発狂してしまうのだ。
父親からの「教育」の結果、さまざまな身体症状が出るのだが、「尊敬する父親に何か間違ったことをされた」と考えることを自分に禁止して身体症状を直視しなかった。なんらかの説明が必要なので、「神」という概念を持ち込んで身体的な苦痛を神が与えた奇跡だと認識することになる。
こうした妄想にはいくつかの表現形態がある。病的な妄想を絵画や小説に残す人もいるし、客観的に認識して理性的に押さえ込むこともあるだろう。この人の場合は妄想を神秘体験として著述し、自分は狂っていないのだということを証明しようとした。
シュレーバー親子の事例は父親と息子が書き残したものが残っており詳細な研究が可能だ。これがシュレーバー症例を特別なものにしている。これは、不安定な両親(この場合は父親だが、母親が教育者になる場合もあるだろう)と補完機能の不在(例えば家庭での父親の存在が希薄だとか、母親が行き過ぎた教育に対して異議を差し挟まないとか)などが、教育の受け手が自律的に人生を切り開くのに必要な何かを奪い去ってしまうという物語だ。
自分の中に指針がなく、人から与えられた指針を生きるようにプログラムされた人たちにとって、自分で人生を選び取りそこから満足感を得なければならないというのは極めて残酷なことだろう。選択肢が多い現代にはこうした残酷な選択を迫られている人がたくさんいるに違いない。
さて、最後にこの本には解決されない疑問がある。それは神の存在についてだ。ドイツ語や英語には主語が必須だ。「父親が」という主語を使って自分の症例を説明することができないために、ダニエル・パウルは「神」という主語を選んだのかもしれないと仮説している。著者は主語がない世界ではどのような説明がなされるだろうかという疑問を差し挟む。
これは逆に一神教のない日本人にはよく分からない。神という概念を日本人がよく理解できないのは主語の不在のせいかもしれない。神はitの代わりに使われているのだろう。
日本人は主語を使わずに思考することが可能だ。ほとんどの人が学校で英語を習うので、主語がある言語とない言語の違いも認識ができる。それでは日本人にとって、神に代わる得体の知れないものとは何だろうと考えたところ、それは時代の気分とかその場の空気とか言ったものなのだろうと思った。見えない主語に支配されると、それにあらがうことはできないのではないか。

天才と分裂病の進化論

クリエイティビティ- 抽象化する能力

部長が今月の営業成績が悪いといって部下を怒っている。部下は一応聞いているフリをしているが、実際にはお昼に何を食べようか考える。今日は金曜日だからシーフードカレーの日だなといった具合だ。進化人類学者によれば、この機能が人間をサルと分ける大きな特質の一つだ。大脳が発達しており「今起きていること」と切り離して「頭の中の抽象的な世界」を持つ事ができるのは人間だけなのだそうだ。部長がこのまま成績が悪ければ俺が責められかねないと未来を予測するのも、部下が話を聞いているフリをできるのもこの特質のおかげだ。
よく「クリエイティブな人」という言い方をするが、クリエイティビティは「頭の中の抽象的な世界」の働きだ。これが亢進されるとよりクリエイティブな人になれるのだろうか。

統合失調症 – 抽象化能力の暴走

「天才と分裂病の進化論」は、この疑問に一部だけ答えてくれる。分裂病(統合失調症)は脳の中の仮想の世界が暴走している病状のようだ。この本は「事実」と「仮定」から成り立っており、明確に「天才と分裂病に相関がある」という結論には達していない。統合失調症は人種を問わず0.7%から1%程度見られる、人類が共通に持っている特質である。作者は人間が脂肪を蓄積できるようになった結果、脳の中に抽象概念を扱う領域が発達したと考えている。
作者が注目したのは、科学者やノーベル賞受賞者の中には統合失調症的な資質を持っている人たちがおり、子息や親戚に統合失調症を患った人たちも多いという点だ。こうした資質は遺伝するので(3〜5の遺伝子が関連しているのではないかと考えられている)、天才と統合失調症には関連があるのではないかというのである。
例えば、読字障害がある人の中に、三次元の立体化がうまい人がいる。この人たちは全身運動は苦手だが手先は器用だ。音楽、哲学、宗教などに高い関心を持つ人たちがおり、想像力が亢進するとシャーマンになる。この段階に至ると「他の人たちに聞こえない声」が聞こえたりするそうだ。病気ではなく「分裂症的な人」は全人口の10%〜20%くらいいるのではないかと類推している。かなりの数だ。

論の問題点

この論の第一の問題は「天才」の定義が明確でない点だろう。次の問題点は、いうまでもないがサンプリングの問題だ。奇行を持った天才は取り上げられやすく、記憶にも残りやすいので「天才となんとかは紙一重なんだなあ」と考えているだけかもしれない。
発明大好きな工学博士がシゴトから疲れて帰ってくる。奥さんは近所の噂話をはじめる。この奥さんは団地のすべての人たちのポスト、人間関係を把握しているばかりではなく、3か月ごとに新しくなるドラマの人間関係についても事細かに把握している。工学博士が退屈して自分の新しい発明に対して話そうとすると、奥さんはこういって遮るだろう。「私、難しいことはよくわからないの」
抽象的な数式をまるで母語のように取り扱う工学博士は確かに天才的だが、100人はくだらないと思われる人々の人間関係を把握している奥さんの才能もかなりのものだ。
工学博士ばかりがいる社会や奥さんばかりがいる社会を想像してみるとわかる。工学博士ばかりの社会では群れは大きく広がらないだろう。協力して何かを成し遂げるよりも研究室に引きこもっていたいタイプだからだ。一方奥さんばかりの社会は群れを発展させることができない。現状に完璧に満足しており、世の中をより便利にする工夫はあまり起こらないかもしれない。

生き残るためにはどちらが有利か

狭く、緊密な環境では一人が好きで突飛な考えを持った人は排除されるかもしれない。この群れが危機的な状況を迎えると、群れを統合したい、新しくて得体のしれないものを排除したいという傾向はさらに大きくなるはずだ。
すべての人が抽象的な概念を取り扱うようになるべきだとも思えない。第一に、現実世界にどんな影響を与えるかを全く気にしないで空想世界を現実に当てはめることには危険が伴う。また、この本が示唆するように、創造性と病的な状態は紙一重である。人類があまりにも創造的になりすぎたら、もはや正常ではいられないかもしれないのである。

バモイドオキ神

「神様」が成立する過程を調べてみたくなった。最初はゾロアスター教でも調べようかと思ったのだが、バモイドオキ神を見ることにした。完全にプライベートな一神教の神様だからだ。
そこで、子どもの変調に「まったく気づいていなかった」と主張している父と母の手記を読んだ。
父親は、過干渉な父親に育てられた。だから、子どもにはいろいろなことを強制しなかった。息子には、勉強ができないなら高校に行く必要は無いが団体の規律がしっかりした自衛隊に入隊するか新聞配達でも始めればいいという。自分は父性を示さないが、誰かに代行して欲しいということだ。本来、父性には、善し悪しの規範を示す・子どもの存在を肯定する・期待をかけて課題を与えてるなど、いくつかの役割があるだろう。
また、妻は白黒付けたがる人だと、仄めかすように言っている。
このような背景を見ると、父親はやさしい鷹揚な人なのだとも思える。ただし、彼は突発的に怒りだすことがあったようだ。一度はこれが原因で少年は発作に近いような症状を見せ、医者に連れてゆかれる。
一方、母親は7歳で父親を亡くした。外で好きな事をするような人だったということだ。
共感や関心は母性の機能だが、彼女には欠落していたようだ。足が痛いと泣いた子どもを医者に連れて行ったところ「もっと構ってやるように」と言われたが、よくあることだと思った、と書いている。
母親は、事件発覚後「両親に会いたくない」といわれ「そんなはずはない」と考えた。社会に出るときにも「本当にあなたがやったの」と聞いているように、事件を否定しつづけた。実際には母親はかなり厳しい躾をしていたようだ。
この少年が書いた作文「まかいの大ま王」によると、どうやらよい母親と、悪い母親が存在していたように見える。

そんな家庭の中で、母方の祖母の存在は大きかった。父親は息子の供述を読んで「どうして祖母の話ばかり出てくるのかわからない」と書いているが、祖母が実質的な母親の役割をしていたようだ。祖母が亡くなり、死を実感したところから、「奇行」がはじまることになる。それは死への執着とそれに伴う性的な興奮だった。
草薙厚子の取材するところによると、矯正の過程では「育て直し」が行われたようだ。教育に混乱があったと認定されたのだろう。父性も母性も人格を安定させる役割を果たしているはずだ。そして、父性も母性も親や保護者から受け継ぎ伝えて行くものだ。この家庭にはどこかに欠落があり、「育て直し」が必要とされたのだろう。
ただ、これだけでは神は作られない。

混乱を混乱したまま受け取る

こうした混乱に満ちた世界で、条件付きでしか自分を肯定されなかった人がたどり着いたのが、バモイドオキという神様だった。「これはキチガイの戯言(ざれごと)で、宗教ではない」と考える人がいるかもしれない。確かに、彼の混乱した行為を正当化するために少年が自ら作り出したようにも見える。しかしバモイドオキは善悪を越えた存在で、彼に生きてゆくための使命を与えた。
一般的にこれは一種の切り貼りだと考えられているようだ。有田芳生の2005年の記事はオウムと結びつけている。少年と犯罪の中で小田晋は「コラージュ的織り交ぜ」を見ている。『懲役13年』という文章があり、これがいろいろな書物からの影響を受けているからだ。もちろんこの中にオウムの影響が入っていた可能性は否定できない。少年はバモイドオキ神のマークを「ハーケンクロイツ」だと説明している。しかしユングのシンボル学では4は安定の数字でもあり、統合の象徴のようにも取り扱われる。
少年は直感像素質者だったそうだ。
確かに入ってくる情報と解釈がめちゃくちゃになっていた可能性がある。しかし「めちゃくちゃさ」は宗教と狂気を分ける基準にはならない。キリストも狂人だと見なされ十字架にかけられたのだ。ユダヤ教にも先行の宗教があり、完全なオリジナルではない。
だから、バモイドオキが宗教になりえなかったのは、教義が作られた仮定が狂っているからではない。単に、教義が他人と共有されなかったからだろう。「酒鬼薔薇」という彼が作った人格が創造した教義を誰かが再解釈すれば、作った本人の意思とは関係なく宗教として成立する可能性は否定できない。教祖誕生である。
かつては「人知を越えたところにも何かがあるかもしれないな」というのりしろのようなものがあり、「妄想」の領域も扱うことができた。中には「意味」というフィルターを通さずに、混乱に満ちた現実をダイレクトに直視してしまう人たちがいる。ただし、多くの人は単に混乱を再生産するだけで、これが人に伝わるのにはまた別の要素が必要になるのだろう。
書き直し(2012.3.24, 2013.7.28)

平気で嘘をつく? あの人たち

よく、殺人事件の容疑者の実家にマスコミが押し掛けて、両親を吊るし上げることがある。つるし上げのために「生育歴」という言葉が使われる。これを批判して「子どもの自己責任だから親を吊るし上げるのはおかしい」という人たちもいる。一体どちらが正しいのだろうか?
「平気でうそをつく人たち」にショッキングな話が出てくる。ある子どもが銃で自殺する。その弟の成績が下がってくる。鬱病を発症したらしい。弟は診療を受けるのだが、医師はショッキングな事実を知る。両親は弟に、兄が自殺で使った銃をプレゼントしていたのだ。医師は「これは、兄と同じように銃を使って死ねということですか?」と聞いてみるのだが、両親は話をはぐらかす。医師はどうやら、本当に治療が必要なのは両親ではないかと考えるが、彼らは自分たちが精神的に問題を抱えているとは思わない。

多くの人は精神的に問題があると「なんらかの罪悪感や苦痛」を感じ、社会的な活動が制限される。だが、ごく希に罪悪感も苦痛も感じない人もがいる。こういう人たちをサイコパスとかソシオパスと言う。彼らの犠牲になるのは周りにいる人たちで、子どもは真っ先に犠牲者になる。

最初の質問に戻る。ということは「殺人事件を起こした人がいるのなら、親も一緒に捕まえてくればいいだろう」ということになるのだろうか。残念ながら、話はそんなに簡単ではない。

私たちの中で完全な人格をもった人なんか一人もいない。また、自分の嫌いな人を「あの人は社会的じゃないからサイコパスに違いない」と言い出したらキリがない。社会的に不安が溜まれば溜まるほど、こういった疑念は広がってゆくだろう。どうやら一体どちらが正しいのだろうかという質問自体に問題がありそうだ。

どっちかにケリをつけたいと我々が考えているとき、そこにあるのは漠然とした不安感だ。疑念がありそうな人たちを独り残らず精神病院に送りつけても不安感は消えないだろう。

サイコパスにとって、社会正義の名の下に人を罵倒できるポジションは活躍の場所である。普通の神経を持っている人であれば聞けないような事を平気で聞く事ができるだろうからだ。

こういった人たちの中には社会的に成功している人も多い。罪悪感はある種「ブレーキ」になっている。この制約から解き放されると活躍しやすくもなる。自己啓発書の中には罪悪感から解き放たれることを勧めるものも多い。

最初の「平気でうそをつく…」の例は分かりやすかった。銃を子どもに贈るなんて、どう考えてもおかしいからだ。しかし、必ずしも分かりやすい事例ばかりとはいえない。それではどうすればいいのか。結局どっちが「悪いのか」とか、「是」か「否」かという質問から離れてみる必要があるということじゃないだろうか、というのがだらしない今日の結論だ。

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