バモイドオキ神

「神様」が成立する過程を調べてみたくなった。最初はゾロアスター教でも調べようかと思ったのだが、バモイドオキ神を見ることにした。完全にプライベートな一神教の神様だからだ。
そこで、子どもの変調に「まったく気づいていなかった」と主張している父と母の手記を読んだ。
父親は、過干渉な父親に育てられた。だから、子どもにはいろいろなことを強制しなかった。息子には、勉強ができないなら高校に行く必要は無いが団体の規律がしっかりした自衛隊に入隊するか新聞配達でも始めればいいという。自分は父性を示さないが、誰かに代行して欲しいということだ。本来、父性には、善し悪しの規範を示す・子どもの存在を肯定する・期待をかけて課題を与えてるなど、いくつかの役割があるだろう。
また、妻は白黒付けたがる人だと、仄めかすように言っている。
このような背景を見ると、父親はやさしい鷹揚な人なのだとも思える。ただし、彼は突発的に怒りだすことがあったようだ。一度はこれが原因で少年は発作に近いような症状を見せ、医者に連れてゆかれる。
一方、母親は7歳で父親を亡くした。外で好きな事をするような人だったということだ。
共感や関心は母性の機能だが、彼女には欠落していたようだ。足が痛いと泣いた子どもを医者に連れて行ったところ「もっと構ってやるように」と言われたが、よくあることだと思った、と書いている。
母親は、事件発覚後「両親に会いたくない」といわれ「そんなはずはない」と考えた。社会に出るときにも「本当にあなたがやったの」と聞いているように、事件を否定しつづけた。実際には母親はかなり厳しい躾をしていたようだ。
この少年が書いた作文「まかいの大ま王」によると、どうやらよい母親と、悪い母親が存在していたように見える。

そんな家庭の中で、母方の祖母の存在は大きかった。父親は息子の供述を読んで「どうして祖母の話ばかり出てくるのかわからない」と書いているが、祖母が実質的な母親の役割をしていたようだ。祖母が亡くなり、死を実感したところから、「奇行」がはじまることになる。それは死への執着とそれに伴う性的な興奮だった。
草薙厚子の取材するところによると、矯正の過程では「育て直し」が行われたようだ。教育に混乱があったと認定されたのだろう。父性も母性も人格を安定させる役割を果たしているはずだ。そして、父性も母性も親や保護者から受け継ぎ伝えて行くものだ。この家庭にはどこかに欠落があり、「育て直し」が必要とされたのだろう。
ただ、これだけでは神は作られない。

混乱を混乱したまま受け取る

こうした混乱に満ちた世界で、条件付きでしか自分を肯定されなかった人がたどり着いたのが、バモイドオキという神様だった。「これはキチガイの戯言(ざれごと)で、宗教ではない」と考える人がいるかもしれない。確かに、彼の混乱した行為を正当化するために少年が自ら作り出したようにも見える。しかしバモイドオキは善悪を越えた存在で、彼に生きてゆくための使命を与えた。
一般的にこれは一種の切り貼りだと考えられているようだ。有田芳生の2005年の記事はオウムと結びつけている。少年と犯罪の中で小田晋は「コラージュ的織り交ぜ」を見ている。『懲役13年』という文章があり、これがいろいろな書物からの影響を受けているからだ。もちろんこの中にオウムの影響が入っていた可能性は否定できない。少年はバモイドオキ神のマークを「ハーケンクロイツ」だと説明している。しかしユングのシンボル学では4は安定の数字でもあり、統合の象徴のようにも取り扱われる。
少年は直感像素質者だったそうだ。
確かに入ってくる情報と解釈がめちゃくちゃになっていた可能性がある。しかし「めちゃくちゃさ」は宗教と狂気を分ける基準にはならない。キリストも狂人だと見なされ十字架にかけられたのだ。ユダヤ教にも先行の宗教があり、完全なオリジナルではない。
だから、バモイドオキが宗教になりえなかったのは、教義が作られた仮定が狂っているからではない。単に、教義が他人と共有されなかったからだろう。「酒鬼薔薇」という彼が作った人格が創造した教義を誰かが再解釈すれば、作った本人の意思とは関係なく宗教として成立する可能性は否定できない。教祖誕生である。
かつては「人知を越えたところにも何かがあるかもしれないな」というのりしろのようなものがあり、「妄想」の領域も扱うことができた。中には「意味」というフィルターを通さずに、混乱に満ちた現実をダイレクトに直視してしまう人たちがいる。ただし、多くの人は単に混乱を再生産するだけで、これが人に伝わるのにはまた別の要素が必要になるのだろう。
書き直し(2012.3.24, 2013.7.28)

<子ども>のための哲学

ということで、<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネスを読んだ。永井均さんは「哲学をする」と、「哲学を鑑賞する」ということを分けて考えているようだ。そして「人の考えていることは分からない」という考えを明確に持っている。金沢真大事件に触発されて読んだのだが、別の意味で意義深かった。この本の言わんとしているところは単純で、自分の問題について考えざるを得ないという衝動を持った場合には、とことん考えてみようという主張だ。
彼が主張する哲学の秘訣は「自分自身がほんとうに納得できるまで、決して手放さないこと」ただそれだけだ。これは哲学だけではなく、いろいろな答えのない問いに当てはまるように思える。一文のトクにもならないことを考えざるを得ないと実感している人たちには心強い応援になるかもしれない。
この本よりも興味深かったのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」の小泉義之さんの困惑だった。形勢はあきらかに小泉さんに不利だ。というのも、永井さんは「考えによってはいいとも悪いとも言える」という結論と分離した立場にいるのだが、小泉さんは最初から「殺人はいけないことで、そうしないと大変なことになってしまう」と考えている。
この考えが彼らのポジションに現れる。

  • 永井さんは「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。」と主張する。
  • 小泉さんは「他人が洒落た回答をしなかったら、他者が応答することすらできなかったら、あなたはどうするつもりか」と反論する。

とりあえず「洒落た」といっているあたりに、そこはかとない劣等感すら感じてしまう。そして「どうするつもりか」と感情的な反論をしてしまうのである。
もちろん、私は人に殺されたいとは思っていないし、今の所人を殺したいと考える予定もないので、社会は殺人を容認しない方がいいと思っている。永井さんの数式にも似たロジックを読んでみたが、よく分からなかった。
今日読んだ別の本に「ヤノマミ族」があるのだが、前にも書いた通り、ヤノマミ社会には報復としての殺人が存在する。殺された場合もそうなのだが、漠然とした不安(病気や事故で人が死ぬと、呪われたと考えるのだ)から報復合戦に発展する場合がある。殺人が容認された社会は実際に存在するのだ。つまり、我々の社会は殺人の連鎖に陥る危険を現実の問題として抱えている。これを認識した上で、それでも殺人はよくない(ないしは嫌だ)ということを互いに納得させつづけなればならない。
皮肉なことに「人を殺してはいけない」という点に固執すると、逆にここから先に進めなくなってしまうわけだ。小泉さんはこの論点に近すぎて、却って結論から遠ざかってしまっているように思える。

1984年を再発見

古い荷物の中からジョージ・オーウェルの「1984年」が出て来た。これを読んだのは大学生の頃でちょうど1980年代だったと思う。全体主義と思想統制の陰惨さが書かれている。独裁者や統制者をあらわすビッグ・ブラザーというのはこの本がオリジナルのようだ。この用語を使っている人たち自体が思想統制や歴史の正当化を目的にしていたりするので、ややこしい限りではあるが…
この社会では戦争が恒常的に行われており、歴史改ざんの結果「本当に何があったのか、もうよくわからない」状況が出来上がっている。言語すら改ざんされはじめていて反体制的な事は考えることすらできない。Wikipediaに要点がまとめられている。党のスローガンはこんな感じで、矛盾する事が一つのフレーズにまとめられている。これも言語が持つの特性だ。形が成り立てば、そこからコンセプトを作る事ができるのである。

  • 戦争は平和である(WAR IS PEACE)
  • 自由は屈従である(FREEDOM IS SLAVERY)
  • 無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)

主人公は反体制的な思想を持ち始めるのだが、その端緒は「何も書かれていない本に自分の考えをまとめる」ということだった。最初は自分がどうしてそんなことをしているのか分からない。ただ、徐々に、自分が反体制的な思想を持っていることに気づいてしまう。一度その考えに取り憑かれたらもう止まらない。衝動的に体制を罵倒する言葉を書き連ねる。「書く」ということには、確かにこういう側面もある。
ところでオーウェルはもともと「新聞記事を書くつもり」だったのだが、体験記はあまり売れなかった。結局退潮が悪化し、30代後半から療養しながら、小説を書くようになる。結局46歳で結核で亡くなるまぎわに完成したのがこの『1984年』だそうだ。最後はジュラ島に引きこもり、そのまま亡くなってしまったという。(略歴はWikipediaでも見られるが、翻訳者新庄哲夫のあとがきを要約した感じになっている。)
新庄哲夫が指摘するように、この小説は、折々の脅威に関して使われ、違った読み方をされる。それが漠然とした不安に対する標識になっているからだろう。この小説でオーウェルが生み出したコンセプトが欧米で共通語のように使われるのは、その不安が時代を越えて人々に共有されているからなのだと思う。

タルコフスキーのストーカー

文章を書いていると、時々「何のために書いているのか」分からなくなる事がある。何かを探しているはずなのだが「一体何を探しているのか」「本当に探しているものは見つかるのか」とか、そんな疑問が浮かび上がってもくる。そもそも他の人ではなくどうして自分がと思う事もある。周りの人もあまり幸せそうな顔はしない。
ということで、本を読むのをやめて、「ストーカー」という映画を見た。大学のときに一度見た事があるのだが、眠かった記憶しかなかった。どうしてそんな映画が見たくなったのかすらわからなかった。
この映画はSF仕立てになっているが、筋書きは単純だ。ストーカー(密猟者)と呼ばれる人が、絶望を抱えているらしい作家と教授を連れてゾーンと呼ばれる所に行く。ゾーンに入るのは非常に危険で、逮捕される危険性がある。運良く入ることができても、殺されることすら覚悟しなければならない。ただ、ゾーンの中には「すべての希望がかなう部屋」があるのだ。妻は「こんどは仕事を見つけて働くっていったじゃないの」と、泣いて止める。
「希望」を探す人たちが、希望がかなう目前で戸惑う。それぞれの「希望」に対する態度は異なっている。最後にストーカーは帰って来て、本がたくさんある部屋で涙ながら妻に不満をぶちまけて泣き崩れる。「結局、作家も学者もインテリっていうのは、希望なんか本気で追求していないんだ」結局、幸せは探していた所にはなかったが、身近にあるということが暗示される。しかし、まだストーカーはそのことに気がついていないようだ。
意味ありげな映像なのだが、何かを意味しているわけではないようだ。(実際にはチェルノブイリ事故を意味するのではという説がある。)「探査」「探求」をできるだけ純粋に象徴するようにくみ上げられているようだ、ということが本人のエッセーから読み取れる。本人曰く、奥さんに象徴される「純粋な愛の価値」を書きたかったのだそうだ。奥さんは最後に見る人に「いろいろあったけれど、後悔はしていない」と言い切る。
ただ映画の伝えることは「幸せは近くにあるのだから探索をやめろ」ということでもなさそうだ。ストーカーは同じ場所に戻ってくるだけなのだが、その世界は探索をする前と後で違っている。そもそもゾーンには絶望した人でなければ入る事はできない。つまり本物の絶望をくぐり抜けてこそ、何かを見つけることができるということだろう。そしてそれは探索の結果見つかるものではない。作家は部屋の近くで「いばらの冠」を見つけ、分かったぞとつぶやくのだが、本当に分かったかどうかは怪しい。探索という行為自体が何らかの意味を持っているのであるが、そこに分かりやすい記号が隠れているわけではない。
人間は「探索せざるを得ない」気持ちになることがある。そこには何もないかもしれない。なぜ生きてゆくのかという問いに意味がないのと同じように、なぜ探し求めるのか、どうして探索に取り憑かれるのかという問いにも意味がないのかもしれない。
もし、引きこもっている人や、これから引きこもろうという人がいたら、心行くまで絶望して、引きこもり続ければいいのだと思う。だが、そんな人は決して独りではないはずだ。私たちはそうやすやすと絶望に折れてしまうほど弱くはないのだと思う。

平気で嘘をつく? あの人たち

よく、殺人事件の容疑者の実家にマスコミが押し掛けて、両親を吊るし上げることがある。つるし上げのために「生育歴」という言葉が使われる。これを批判して「子どもの自己責任だから親を吊るし上げるのはおかしい」という人たちもいる。一体どちらが正しいのだろうか?
「平気でうそをつく人たち」にショッキングな話が出てくる。ある子どもが銃で自殺する。その弟の成績が下がってくる。鬱病を発症したらしい。弟は診療を受けるのだが、医師はショッキングな事実を知る。両親は弟に、兄が自殺で使った銃をプレゼントしていたのだ。医師は「これは、兄と同じように銃を使って死ねということですか?」と聞いてみるのだが、両親は話をはぐらかす。医師はどうやら、本当に治療が必要なのは両親ではないかと考えるが、彼らは自分たちが精神的に問題を抱えているとは思わない。

多くの人は精神的に問題があると「なんらかの罪悪感や苦痛」を感じ、社会的な活動が制限される。だが、ごく希に罪悪感も苦痛も感じない人もがいる。こういう人たちをサイコパスとかソシオパスと言う。彼らの犠牲になるのは周りにいる人たちで、子どもは真っ先に犠牲者になる。

最初の質問に戻る。ということは「殺人事件を起こした人がいるのなら、親も一緒に捕まえてくればいいだろう」ということになるのだろうか。残念ながら、話はそんなに簡単ではない。

私たちの中で完全な人格をもった人なんか一人もいない。また、自分の嫌いな人を「あの人は社会的じゃないからサイコパスに違いない」と言い出したらキリがない。社会的に不安が溜まれば溜まるほど、こういった疑念は広がってゆくだろう。どうやら一体どちらが正しいのだろうかという質問自体に問題がありそうだ。

どっちかにケリをつけたいと我々が考えているとき、そこにあるのは漠然とした不安感だ。疑念がありそうな人たちを独り残らず精神病院に送りつけても不安感は消えないだろう。

サイコパスにとって、社会正義の名の下に人を罵倒できるポジションは活躍の場所である。普通の神経を持っている人であれば聞けないような事を平気で聞く事ができるだろうからだ。

こういった人たちの中には社会的に成功している人も多い。罪悪感はある種「ブレーキ」になっている。この制約から解き放されると活躍しやすくもなる。自己啓発書の中には罪悪感から解き放たれることを勧めるものも多い。

最初の「平気でうそをつく…」の例は分かりやすかった。銃を子どもに贈るなんて、どう考えてもおかしいからだ。しかし、必ずしも分かりやすい事例ばかりとはいえない。それではどうすればいいのか。結局どっちが「悪いのか」とか、「是」か「否」かという質問から離れてみる必要があるということじゃないだろうか、というのがだらしない今日の結論だ。

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スパイト行動

このブログで何回か取り上げたスパイト(いじわる)行動。
元になった論文はコチラ
この論文から私が読み取ったのは次の点だが、どうやら「1」は正しい理解ではなかったようだ。

  1. 筑波大学の学生は(カリフォルニアの学生に比べ)公共財のフリーライドを目指す傾向がある。
  2. 筑波大学の学生は自分の利得を削ってでも、フリーライドを禁止する傾向が高い。
  3. これにより、フリーライダーは協力せざるを得なくなる。

これについて、ゲーム理論で解く (有斐閣ブックス)で、もう少し調べた。ご本人の論文よりもこちらの方が分かりやすかった。他にも面白い例がたくさん掲載されている。ゲーム理論は一昔前の流行と見なされているフシもあるが、いろいろなヒントを与えてくれるようだ。

公共財供給とスパイト行動 (西条他)

  1. 公共財とは一人が消費することによって別の人が消費できなくなるという性質を持たないもの。(私的財に対応する言葉)
  2. アクセスに制限を儲ける(有料テレビのように)ことで、排除可能な公共財を作る事もできる。
  3. 公共財はただ乗り(フリーライド)が起こるため、協調によって得られる最大利得行動がナッシュ均衡にならない。
  4. ただ乗りを防ぐためには、制度設計が重要(Groves&Ledyard, 1977)
  5. 社会の全部が自発的に公共財投資を行うインセンティブを常に持つ戦略を立てるのは不可能(Saijo & Yamato, 1997/1999)
  6. 経済実験(Saijo, Yamat, Yokotani & Cason 1999)では、このようなゲームを繰り返し行う事で参加68%,不参加32%という均衡戦略に到達するかどうかの実験が行われた。(※いつも2/3、1/3になるというわけではなく、利得表で調整しているものと思われる。)
  7. しかし筑波大学の実験では参加率が95%まで上がった。それは自分の利得を犠牲にしてまでも、相手のただ乗りを阻止する選択をする人が多かったからだ。これをスパイト行動と呼ぶ。
  8. このような違いがなぜ起こるのかは、解明されていない。

自分の利得を削ってでもただ乗りを防ぐ努力が抑止力になっているという説明だが、インプリメンテーションはなかなか難しい。普通に読み取ると、相互監視的な抑止力がなくなると「普通程度」にただ乗りが起こるコミュニティーができあがるということなのだろう。ただ、フリーライド抑制のメカニズムは他にも存在するかも知れない。

食料管理制度と米の流通

食料管理制度と米の流通

第二次世界大戦での物資逼迫は当然米などの食料品にも及んだ。1942年に東条英機は食料流通を国家統制することに決めた。もちろん国家統制が及んだのは食料だけではなかった。自由競争よりも国家統制により「強い国づくり」を目指したのは、その当時の大きな方針だったといえる。

1960年1月3日の新聞記事(出典なし)によると、戦後の闇米の事情は次のようなものだったという。
戦後食料難が続き、国家配給米では国民の必要を満たす事はできなかった。国民は闇米と言われる自主流通米を手に入れることで、飢えを満たした。農家は売れる米は闇米として高値で流通させ、あまりおいしくない米を政府米として納入するようになった。価格差はなかったのだが、現金収入になり、課税されない闇米の方が魅力的だったのだという。政府もまずいことを承知で米を売ったので、政府米に対する信頼は失われた。米穀店も政府米だけではなく、闇米を扱っていたのだが、これは公然の秘密だった。政府米は売れ残ることになるので、米屋は政府米を混ぜて闇米を売った。「闇米もそんなにおいしくない」ということになり、政府米が売れだしたのだという。

しかし、農業協同組合の組織率の高さを考えると、農家が好き放題に米を売っていたとは考えにくい。GHQは行政から独立した農業協同組合を作りたかったのだが、食料が逼迫していたことから国家統制を取り除くことができなかったのだという。農業協同組合は農林水産省の出先機関だそうだ。そして組織率の高さから票田として利用された。自由民主党の長期安定政権を支えていたのは農協だった。農協は金融機関も兼ねており、農村での権力は絶大だった。

大貫一貫の「ニッポンのコメ」によると、農家は自分の所で食べるということで米を闇米として流通させていたのだという。その他にも、農家が正規ルートに売り払った後に、流通経路を外れる米もあったらしい。

農村は農協によって守られている。農協は国から守られており自民党の権力を支えている。農村人口は全人口から見れば大多数ではないが、まとまりといった点では都市の浮動票よりも頼りになったのである。しかし一方で農村の倫理観はそれほど進展しなかった。悪い事をしても誰かがかばってくれるというような空気があったことは確かだろう。

発展途上国体制の終わり

農村は国が統制していた、といってもよい。農家、農業協同組合、農林水産省、自民党が一連の組織となって共存共栄の関係が続いていた。何か問題が起こったとしても内部で処理されたのだろうし、表沙汰になることはなかった。この体制は農家の収入を保証した。米価の暴落を防ぐためには、減反政策を取り、生産調整を強制することもいとわなかった。減反政策は1969年に始まったとのことである。
1992年には「オラを告発しろ」と自称ヤミ米商の川崎磯信が本を出版。300万円の罰金を課せられた。

1993年にコメが不作となり、国産米が暴騰した。タイ米が大量に輸入されたが日本人好みの味ではなかった。タイでは米の価格が高騰したのだが、日本人には人気がなく多くが廃棄されてしまったという。

1994年3月には闇米を大量に買い付けた量販店、城南電機の前に長蛇の列ができ、テレビニュースで取り上げられた。食糧庁は無許可販売として行政指導を行ったが、これが逆宣伝となり闇米を売った農友の取り引きは拡大した。
しかし食料管理制度は1995年に崩壊する。1995年にはミニマム・アクセス米が割り当てられ、安い米が輸入されることになった。

この事で分かったのは、闇米は違法としながらも、実際は20〜30%程度闇米流通していたという事情だった。農村は、農協や国に守られつつも、裏では、減反せずに余った米を闇米として流通させ続けていたのである。国もこれを大きく取り締まることはなく、いわばなれ合いの関係が続いていたということになる。

「ニッポンのコメ」によると、食管制度が変わっても生産者側では統制経済のような生産統制が続いているのだという。消費側は自由経済である。この制度、次の豊作時に破綻するかもしれないと言われているそうだ。


農政 – 過去のトラウマ

日本の農業は戦前、虐げられる小作農対地主という構図があった。このため、今でも農地を取得する場合には自分で農業をやる(自作農)ことが前提になっている。日本の農家は大規模資本家が乗り込んで来て多数の小作を抱えることを危惧している。農地取得には農業委員会の審査が必要だ。
農地委員会は市町村に置かれているのできめ細かな審査が可能なのだが、当然の事ながら地元の利権構造が影響を与えることになる。小規模の農家は大規模の農場には勝てない。しかし小規模農家の数は多いので農業委員会を支配することができる。つまり日本の農業はシステム的に新規参入が妨げられている。

また米は戦前投機の対象だった。江戸時代までは、貨幣の役割も果たしていた。最初の米先もの相場は1730年だそうである

三笠フーズの汚染米問題

事件の概要

GATTの取り決めにより、日本は外米を買い付ける必要がある。これをミニマム・アクセス米という。この米の中には発がん性のカビ(アフラトキシン)や禁止農薬(メタミドホス)に汚染されたもの含まれている。これらを事故米という。この事故米はノリなどの工業製品に使うことができるので、格安で払い下げられる。

大阪の米国販売加工会社「三笠フーズ」は事故米を買い入れ、二重帳簿を付けてごまかした上で、食用として2003年ごろから転売してきた。事故米は焼酎メーカーや米穀店に卸されていたと見られるのだが、どこの会社が買い入れたか分からない。従って、最終的に誰が食べたのかもよく分かっていない。どうやら、大手航空会社、駅弁会社、すしチェーン、スーパー、ホテル、外食産業、麺類、餃子やシュウマイの皮、レンジ加熱のご飯などに混ぜられていた模様だ。

当初は本社や経営者(冬木三男社長)は関与を否定していたのだが、最終的には指示したことを認めて「国民の皆様に多大なご迷惑とご心配をおかけし、心よりおわび申し上げます」と謝罪した。

農林水産省も最初は、どこの会社が事故米を買ったのかを公表しないとしていたのだが、騒ぎが大きくなり、ついに公表に踏み切った。有名焼酎の宝山が含まれている。一部報道では宝山は2億円の被害を受けたという。

テレビは当初「事故米」と報道していたのだが「汚染米」というよりインパクトの強い名前に切り替えた。

三笠フーズ

三笠フーズは多額の利ざやを得たとされる。社長の申告が正しければ10年に渡って、利ざやによって「得をした」と考えられる。この後どうなるか分からないが、会社が小さければ倒産の危険性もある。短期利益と引き換えに経営の存続が危うくなっている。会社には「株主」「経営者」「従業員」などのステイクスホルダーがおり、仕事を失う従業員が仕事を失う可能性があるだろう。実際には三笠フーヅの社員・パートはすべて解雇され、一部が親会社に再雇用されるのだという。「この後、全員を雇用することはできない」としている。社長は国民に謝ったのだが、社員にも謝罪しなければならなかったのではないだろうか。しかし一方で「価格競争に勝ち抜くために工夫をしなければ、経営が立ち行かない」と述べている。仕方なくやった、自分も被害者だと考えているのかもしれない。

農林水産省

工業用の米としては売れ残っていたわけで、この米を売りさばく事ができた。いくらかの損金補填にはなったかもしれない。3トン1万円ということになればほとんど廃棄のための料金といってもよいだろう。(実際、朝日新聞では「利益共同体」というような記事が出ているが利益とまではいかないだろう。保存、廃棄に損金がかかるということなので、安く引き取ってもらいたかっただけなのだと思われる)検査体制が甘かったことは確かなので国民の目は厳しくなるだろうが、すぐに実害はないだろう。一方、食の安全に関わることであり、政争の具として利用されることもあり得る。すると農林水産省にとっては好ましくない事態も予想される。前回1995年に米で問題が起きた時には食管制度が見直され、食糧庁は解体した。官僚不振が叫ばれている昨今あまり目立つのはよくない。担当者は処分される可能性があるので「損」をしたと言えるかもしれない。

1933年の死なう団

1933年の死なう団

1933年には「死なう団」という団体が社会に大きなショックを与えた。彼らは祖国、主義、宗教、盟主、同士の為に「死のう」と主張して、題目に陶酔した。警察はこれを問題視し「秘密結社を組織した」ということにして殲滅しようとした。

しかし、てひどい拷問を加えて取り調べをしたにも関わらず、秘密結社を組織しようとしているという証拠は見つからなかった。そこで警察は新聞各社に「陰謀が発覚した」と伝え、新聞はそれをそのまま伝えた。結果的に彼らはテロリスト集団に仕立て上げられてしまったのだが、実際には自発的な運動だったようだ。
問題だったのは、ある宗教的な団体を警察が理解できなかったということである。そこで警察は犯罪の雛形に死なう団を押し込めようとした。そこれ彼らが使ったのが治安維持法である。
この事件の起きた1933年に日本は国連を脱退している。ドイツではヒトラーが首相に就任。いよいよ第二次世界大戦に向けて動き始めたという年である。それに先立つ1930年には昭和恐慌が起きており街には大学や専門学校を卒業した失業者としてあふれていた。第二次若槻内閣は半年ちょっとしか保たず、その後に続いた犬飼首相は暗殺された。その後、妥協の産物として挙国一致内閣が作られた。しかし、その斉藤内閣も早々に倒れてしまい、軍人が政治権力を握る時代へと傾斜して行く。それでも不透明感がなくなることはなく、軍人が政治を掌握すべきであると主張して青年将校たちが2.26事件を起こす。これが1936年である。死なう団は警察に監視され続けるのだが、1934年に報告書を書いた特高主任が割腹自殺をする。警察は示談を急ぐが結局果たされなかった。教団はこの後孤立を深め、1937年2月に都内各所でデモンストレーションのような自殺未遂事件を起こした。教団は教祖の死で1938年に完全に解体してしまう。

死なう団に対する世間の戸惑い

新聞はこの間右往左往している。最初は警察の発表を信じてテロ集団だと断定。その後特高主任が自殺すると警察を攻撃する。そして自殺未遂事件が起こると今度は戸惑いがちにそれを伝えた。
自殺を通じて社会にメッセージを伝えようとすることも、新聞各社が戸惑いつつも場当たり的な報道をすることも、現代に似ている。そして経済不安から社会情勢が安定せず、内閣が長続きせずより確実な方向に傾倒して行くのも2008年の現代とそっくりだ。国民が困窮し労働者や小作農を代表とする左派政党が台頭し、国民は不安から治安維持法の強化を求めた。その後日本はある確実なソリューションに傾斜してゆく。それが第二次世界大戦である。死なう団は先行きの見えない不透明な時代を背後にした事件だ。もしこれが、自分の利益の為に相手を殺してしまおうという集団であったなら、もう少し賢く処理ができただろう。しかし相手は勝手に死んでしまおうとしている。これは防ぎようがないし罰しようもない。我々の社会は、人は生きて行くために力を尽くすという前提で成り立っている。生きる意欲を失い消えてしまう人たちは想定外なので、社会に大きな戸惑いを生む。そして社会は大きな戸惑いを目にするとその原因を探そうとは思わずに、なかったことにしてしまおうとするのである。

死なう団の目指したもの

死なう団のモットーは「不惜身命」だった。命を惜しまずに、何か個人の命より大きなものに身を捧げるというような意味だが、いつのまにか死ぬ事が目的化した。教祖そのものは自殺には反対だったようだが周囲の圧力は収まらない。
死が魅力的なのは、そこに「私」と「あなた」の境目がないからだろう。それは生きているものすべてに対して圧倒的な現実であり、誰の前にも平等だ。そして死は生のように不安定ではない完成した形である。社会は不完全な生をつなぐために作られた不安定なシステムなのだから、これを完全に打ち崩して無に帰してしまう死への衝動は不安定な状態に対する解になってしまうのである。
旧憲法下の国家はこれを国を強くするための力として利用した。個人の命を投げ出した兵士を英雄視し、兵隊は「不惜身命」を誓った。一種のカルト宗教を作ったといってもよい。普通の人間はいい加減なので、これを便利に解釈して生きてゆくのだが、純粋な人たちはこの考え方を受け入れる。集団に帰依すると実際に高揚感が起こるのかもしれない。
しかしこれが一歩先に進むと、対象物そのものである死の崇拝に変わる。この世の終末がくれば、生という苦役が綺麗さっぱり終わりになる。オウム真理教やノストラダムスなど終末感が人を惹きつけることがあるのだ。
企業の競争や戦争といった高揚感のある時代には、この個人の死の指向(物理的に死んでしまうこともあるだろうし、個人の自由を我慢して集団に尽くすというのも含まれるだろう)は生産性向上の為に利用された。しかしどこに行けばよいのか分からない時代には、こうした集団に帰依したい気分は行き場を失い小暴発を繰り返すのである。

遅れて来た信者 三島由紀夫

「死なう団」について書かれた保坂正康の本はこの三島事件を受ける形で書かれている。
三島由紀夫は集団への陶酔と死への憧憬を持っていた作家である。だからなんらかの共通点を見出したのだろう。
確かに、三島が自衛隊で革命を叫んで割腹自殺したとき、三島は「大義のために死んだ」言われたかったのかもしれない。しかしその当時にはすでに国家は崇拝の対象ではなくなっていた。
だから周囲の自衛隊員は「昼食がとれない」事をヤジるなどあまり同情を寄せることはなかった。三島が死に陶酔していた間、周囲はお腹がすいたと日々の生を生きていたのである。しかし観客としてはどうだろうか。テレビ局や新聞社に囲まれ、自衛隊を舞台に、華々しい死(もしそんなものがあればの話だが)を演出することができたのである。そういった意味では三島の演出は成功だったとも考えられる。
「貴様と俺とは同期の桜同じ兵学校の庭に咲く。咲いた花なら散るのは覚悟。みごと散りましょう国のため」とういう一体感と死への陶酔は同じ郷愁を持った人々を惹きつける。だが、仕事として自衛官たちはこれを嘲笑した。これは三島にとっては悲劇的な最後だったが、これを見ていた自衛官たちにとっては単なる迷惑な行為か喜劇でしかなった。
三島由紀夫は生真面目な人だったようだ。生真面目な人には自衛隊の存在は許しがたい冒涜に思えたのかもしれない。理屈に合わない存在だからである。いろいろな人が語っているように老いて行く自分が許せないという気持があっただけかもしれない。人生が一つの作品だとすれば、ピリオドである死が惨めなものであれば、人生そのものが惨めになるのだと考えても不思議はない。
だが、それは自衛隊の人たちに理解されることはなかったのである。

食パンの歴史 – 白くてふわふわのイノベーション

ヤマザキのランチパック

ヤマザキのランチパックという商品がある。1984年発売開始で、その手軽さから結構なロングセラーだ。日経トレンディーネットの記事によると2005年にリニューアルし、女性向けに「ケータイするランチ」でマーケティングした結果、2001年に59億円だった出荷額が2008年には400億円を目標とするまでになっているという。1日に100万個を出荷しているそうだ。この商品、ネットにいくつかのコレクションサイトもある。種類が豊富で毎月違った商品が出るし、地方限定もあるのでコレクション魂に火がつくのだろう。
ランチパックはパンというより工業製品のように作られている。実際には製造過程で耳ができているのだが飼料やお菓子の材料としてリサイクルするらしい。

こうした工業製品のようなパンは日本だけのものではない。

フランスパンのイノベーション

アメリカ人がフランスパンについて書いた「パンの歴史」には、パンを作るのは重労働だったというようなことが延々と書いてある。とにかく朝美味しい焼きたてのパンを食べるためには夜に仕込みをする必要がある。足を使わなければさばけないような大量の小麦粉を湿っ気た夜の地下室で延々とこね続けるのだ。これを救ったのは機械化とドライ・イーストという発明だった。フランスでは1960年頃から機械化が進んだそうで、それに連れて昔のパンの味が失われて行くと本の著者は嘆いている。

フランスのパン業界では直轄式という製造方式が主流になった。パンを仕込む前にイーストを入れ込む方式で、これだと短時間でパンが焼ける。フランスでは戦後一貫して労働時間の短縮が命題になり、この流れにイノベーションが合致したのだ。労働時間の短縮だけを行うと生産性は低下する。これにイノベーションを加えることによって初めて品質の向上が可能になる。しかし本の著者が指摘するように、イノベーションの向上により失われるものもある。

近代化の象徴としての食パン(プルマンブレッド)

ランチパックはバターやおかずの肉汁などのしみ込みを防ぐために特別キメの細かい食パンを使っている。食パンのことをイギリスパンつまりEnglish Breadだという人もいるが実際にはイギリスにはマフィンもあり(これはイングリッシュ・マフィンという)明確にはイギリスパンとは呼べない。
それはさておき、この四角いパンは英語圏ではプルマン・ブレッドと呼ばれる。プルマン・ブレッドは1930年代に登場した。1931年にアメリカン・ソサイティ・オブ・ベイキングが「プルマン型の作り方」や「プルマンブレッドの切り方」というセッションを行ったのが記録されている。プルマンというのは列車の名前だそうだ。列車の車両に似ているからとも、そこの食堂車に並べるのにちょうど良い形になっているからだとも言われる。お店に並べるのに便利な形になっており近代的なパンだったと言えるだろう。
プルマン型は金属製の型に入れてパンを作る点に特徴がある。イギリスの食パンは上が空いた方を使うが、私達が食べている食パンはフタのついた型を使っている。こうすると均質で形が整ったパンが作られるし、トースターにも入れやすい。鉄道車両(当時は産業の花形の一つだったに違いない)の名前が付いている通り、工業化した近代にふさわしいパンだったのである。

食パン普及の背景にある近代ツーリズムの勃興

トーマス・クックという会社がある。今はドイツの会社になってしまったそうだが、イギリスで最初に旅行代理店を始めた会社だ。クックはプロテスタントの伝道師だ。教会の集会にたくさんの信徒を送り込むことを目的に、高価だった鉄道の切符を大量に引き受けやすく販売する団体旅行を企画する。これが起源となり近代ツーリズムが勃興した。
プルマン社は1859年に創業。その後アメリカに進出し、アメリカの旅客鉄道を独占することになる。1883年にはオリエント・エクスプレスを走らせて大成功させる。プルマンは高級寝台車の代名詞であり、そこで食べられたお洒落なパンが食パンだったのである。しかし独占のためにいろいろな問題が起こる。例えば、労働環境の悪化、サービスの低下などである。そして最終的には飛行機などに旅客を奪われ1960年代の終わりに会社がなくなってしまった。

日本で高級食パンというと、ホテルオークラとか、金谷ホテルなどが思い浮かぶ。やはり食パンは旅行の時の思い出の味なのだろう。日本のトーストがアメリカ軍を通じて伝わったのと同じように「憧れ」が食品普及には重要なわけだ。

トースターの発明

山型になったイギリスパンはトースターには入れにくい。トースターの歴史について調べたウェブサイトがある。1890年代にイギリス人(やはりイギリス人が最初に発明する!)が発明したトースターはあまり売れなかった。電気が一般的でなかったためのようだ。この後トースターは改良され続け、1915年にはGEがトースターを取り扱うようになる。スライサーの発明は1912年。1928年にはスライスされたパンがChillicothe Baking Coから売り出される。アメリカのウェブサイトによると1930年にThe Continental Baking Companyがスライスしたパンを売った。1930年代になるとアメリカ中に普及するのである。1933年にはスライスされたパンがスライスされていないパンの売り上げを抜く。1930年には120万台のトースターが販売されたそうである。これはプルマン型についての講習会が開かれた時期と一致する。

このようにイギリスとアメリカでは高級感や近代っぽさを背景にしてトースターとスライスされたパンが普及する。フランス人やイタリア人はこの動きにはあまり同調しなかった。伝統的にパンはこうあるべきという固定概念が強かったのかもしれない。