石原証人喚問という猿芝居を見た後の虚しさ

石原元都知事への証人喚問が終わった。「よくわからなかった」という感想が多いみたいだ。最初は細かい経緯をあまり知らずに聞いたのだが、あとで調べてみて「ああこれはひどいな」と思った。で、さらに別の話を聞いてかなり打ちのめされた。この感じはなかなか説明できそうにない。ちょっと長くなるが順を追ってまとめてみたい。

最初の感想

まずは経緯を知らないでNHKの中継を聞いた。感想は「まあこんなもんだろう」というものだった。
第一に石原さんは「海馬異常で記憶が曖昧」と言っていたので「豊洲移転について都合の悪いことがあるが言えない」と告白しているんだと思った。石原さんが海馬に異常を持っているのなら、過去の実績も忘れてしまっていたはずだ。選択的な記憶の分別は海馬にはできないからだ。しかし、自分が何を成し遂げたかということについてはよく覚えており、小池都知事を糾弾するネタも仕込んできたらしかった。
海馬は新しい記憶を収集する役割があり一度獲得した記憶には関係がない。嘘はつけないので記憶にございませんと言うのがお約束なのだが、知っている人が聞いたらすぐに露見するような科学知識のぞんざいな扱いに呆れだ。
自民党の質問は豊洲移転の正当化なので特にコメントする必要はないと思うが、公明党も選挙用に「自分たちは石原さんと対決している」ということを印象付けたいだけという感じだった。面白いのは民進党の質問だ。東京ガスの元社長と会っていたことについては記憶にないという答弁を引き出していた。つまり会っていたので言えなかったのだろう。このことから、東京ガスとの個人的なつながりを勘ぐられることは都合が悪いということも石原さんは理解していたことになる。だが、なぜか追求はそこ止まりだった。
音喜多都議の一連の質問が誘導しているのは、東京ガスが土地汚染に関して免責になることを東京ガスと浜渦さんが知っており、なおかつ都の関係者が知らなかったということだ。つまり「都議会は騙された」と言いたいのだろうということがわかる。
それでも、石原さん怪しいという印象がつけばあとは有権者が判断するだろうから、まあこんなもんでいいんじゃないのかと思った。つまり「豊洲移転は石原さんとお友達がおいしい思いをするために東京ガスと密約し重要な情報を都民に知らせなかった」という印象さえ残ればそれでいいだろうと考えたのだ。

実は民進党も含めて猿芝居だったらしい

さて、ここでちょっとしたバックアップのつもりで過去の経緯について調べてみた。石原さんが繰り返し言っていた「浜渦に任せていた」という浜渦さんだが、民主党(当時)の議員に「やらせ」の質問をさせたことを糾弾されて辞任しているそうだ。当時の浜渦副都知事を追い落としてたのは自民党の内田茂さんだと噂されているという。じゃあどうして浜渦さんと内田さんが対立したのかということはよくわからなかった・
これまでの経緯をおさらいする。かなり観測と類推が混じるすっきりしないストーリーだが一応つじつまの合うお話が作れる。

銀行も頓挫させていた石原都知事は新都心開発が巨額の赤字をなんとかする必要に迫られており(事実)、これを築地の土地売却などで穴埋めしようとしていた(類推)。しかし、めぼしい移転先がなく、多摩地域に移転させるというアイディア(本人証言)も周囲から一蹴される。唯一残っていた土地が東京ガスの工場跡地だった。しかし、東京ガスはここに市場を持ってくることが現実的でないことを知っており、売るのをためらっていた(関係者証言)。そこで「豪腕」浜渦さんが「土地の処理は東京都で行う」という密約を交わした(音喜多質問より類推)。都知事は「なんとしてでもあの土地を買いたかったが東京ガスは売りたくなかったので、豪腕浜渦氏を起用した」と証言している(本人証言)。

一方で、民主党は豊洲移転に反対していた(事実)。こちらの対策は内田茂さんに頼った(「いわゆる事情通」の観測)。内田さんは民主党議員をひとりづつ切り崩して行ったとされている。民主党議員がどうして転向したのかということがわかる資料はない。

土地の処理に東京都の費用が入るのは問題にならなかった。むしろ多ければ多いほどよいとされたのかもしれない。なぜならば石原都知事の関係者が土地処理に関連していたとされているからだ(事情通の類推)。これが「豊洲利権」と呼ばれるようになったようだ。築地を売ることは利権にならないが、土地浄化事業が利権になったということになる。

石原さんのこの完璧な計画には二つの誤算があったようだ。一つは浜渦さんと内田さんが対立してしまったこと。旧東京都庁(大手町)の処理で二人が対立したことが原因だと噂されているようだ。結局、石原さんはこの対立を安定させることができず、子飼いだった浜渦さんを退任させている。もう一つはこれだけの巨費を投じたものの土壌処理がうまくできなかったということである。赤字にまみれた東京都を救おうとして始めた事業なのかもしれないが、結局関係者の食い物にされてしまったのである。
すると共産党と生活者ネット(もしかしたら音喜多さんたちも)以外はこの問題に連座していたことになり、都議会はとても石原さんを追求することはできないだろうことが予想される。石原さんが逆ギレして「お前らもおいしい思いをしただろう」といえば大変な騒ぎになる。だから石原さんは笑っていられたのだなと思った。結局は猿芝居だったようだ。

私たちは何を売り渡してしまったのか

当然、マスコミもこのことを知っていたはずで、お笑いタレントなどに「いやあ真実がわかりませんでしたねえ」と言わせていたことになる。つまりはみんながグルになって、何の意味もないショーを見せられたのかもしれない。だが、まあ世の中ってそういうものだよねと思った。
そこまで考えたところ、Twitterに建築エコノミストの森山さん書いた記事が流れてきた。この対談を読んでまた気持ちが揺れた。日本の魚河岸文化と築地の継承についてストレートに論じている(リンク先はPDF)のだが、猿芝居を見た後では眩しすぎて正視できない感じだった。バブルの失敗を隠蔽するために自民党も民主党も魂を売った上に生活(議席)のために敵味方に分かれて猿芝居を演じているのだが、それが売り渡そうとしたものの正体は我々のおじいさんやおばあさんたちが真面目に積み上げてきた暮らしやなりわいの集積だったということになる。
石原元都知事の薄っぺらい愛国を責めることもできるのだろうけど、あまり意味はないように思えた。表面上の対決を面白がって見ていた自分を含めて、もう本当に大切なものをかなぐり捨ててしまったんだなと思えたからだ。本当に貧乏って辛くて惨めなものだなと思った。
石原さんは周りにいる人たちを抱き込むために巨大なプロジェクトを必要としていたのだろう。このあとオリンピックを言い出して、国を巻き込んだ騒動に発展している。大企業が利権に群がるために、これも巨額の赤字が予想されている。オリンピックは戦後復興を成し遂げた日本人の誇りだったオリンピックだが、今回は「日本人はもう国を挙げて大きなプロジェクトを成し遂げられないほど衰退してしまったんだ」ということを直視する大会になるだろう。でも、お腹が空いた関係者に食べさせるためには、もう「誇り」とか「伝統文化」などは捨ててもいいような取るに足らない存在だったのだ。


森山さんからこのようなツイートをもらったのだが「はいそうですね」などという返事は簡単にできなかった。何かとても情けない気持ちでいっぱいになってしまうのだ。

豊洲の青酸マグロ

前衆議院議員の川内博史さんという人が「豊洲には青酸マグロの可能性がある」みたいなことを訴えていた。


民進党のことは信じていないので、テレビに乗りたくてウケ狙いで危ないこと言ってるんだろうなど考えて、軽〜くツイートしたらご本人から返信が来た。答弁を調べろという。ちゃんとURLつけてくれればいいのにとブツブツいいながら調べたら答弁が出てきた。リンク先はPDFだ。拙い理解なのだが要点は次の通り。

  • 環境省の基準は飲み水についてのもので、揮発したものがどういう影響を及ぼすかということは考慮に入れられていない。
  • 実際に対策を取るのは東京都と農水省なので環境省としては豊洲の危険性についてコメントする立場にない。
  • モニタリングもちゃんとやるから危険があればちゃんとわかるはず。

まあ、豊洲について日頃からウォッチしている頭のいい文化人のみなさんはちゃんとこのあたりを読みながら議論しているんだろうけど、暖かい春の陽気でぼーっとなっている上に森友学園の面白いおっさんに夢中になっており、豊洲で何が起きているのかということはきちんとフォローしていない。ずいぶん前に環境基準は飲み物についてのもので魚市場などのための基準ではないみたいな話を昔聞いたことがあり、最近は「飲み水は水道だから大丈夫」というような説明を聞いた気がする。小池さんもコンクリで固めてあるから平気なんだけど消費者の理解が得られないみたいなことを言っていたような気がする。
答弁を読む限りは「シアン化合物が飛散してマグロについたら青酸マグロになる可能性があり、その可能性はゼロではないけど、わし(環境省)は知らない」であり、シアンが出たらか即青酸マグロになるというわけではなさそうだ。そういう意味では川内さんは言い過ぎである。だから、シアン化合物が検出されたとしたら、マスコミは下記のことを調べるべきなんだろうなと思った。

  • これがある程度永続性があることなのか、地下水モニタリングシステムの稼働に伴う一時的なものなのかを調べること。
  • 付着するんだとしたら、食べたら死ぬのか、お腹を壊すくらいなのかということをきっちり説明してもらうこと。

そこで新聞を調べてみた。日経新聞はシアン化合物は猛毒なんだけどコンクリートで覆われているから大丈夫みたいなことを言っている。漏れた時の想定がないのでちょっと怖いなあ〜と思う。NHKもシアン化合物がどのように危険なのかは書いてない。笑ったのは時事通信で

会議後の記者会見で平田座長は「地上は大気の実測値を見ても安全。地下も対策をすれば(有害物質を)コントロールできると思う」と述べる

思うってなんだよという感想を持った。多分平田さんはなんかあっても責任とらないですよね。
まあ、よく考えたらわざわざ毒がある土地を買い取って市場なんか作らなきゃいい話で「何やってんだ」くらいの感想にしかならない。浜渦さんは「難しい交渉をまとめて褒められてもいいくらいだ」などと言っていた。何言ってんのかわかってんのか。なんかロシアンルーレットみたいだけど、青酸というと「毒入り危険食べたら死ぬで」だ。
驚いたのはこれが民主党政権下での質問だということで(別に民主党の監督が不行き届きだったということを言いたいわけではないのだが)同じところをぐるぐる回っているんだなあと思った。日本の土木技術というのはそれなりに優れていて、なおかつ世界に輸出しようというくらいなのだと理解をしていたのだが、魚市場も満足に作れないわけで、それほどでもないものなのかもしれない。
小池都知事はいろいろ言っても「もうトップが変わったのだから、これからはきっちりマネジメントします」みたいなことをいうのかなあと考えていた。しかし「青酸マグロ」が出てくる可能性があるとしたら、もうアウトなのではないかと思う。実際に被害が出たらシャレにならないし、ここまでいろいろなことがわかって許可したら、もうこれは間違いなく小池さんの責任になってしまうからだ。
だが、みんななんとなく他人事に見える。マスコミも「小池さんがなんとか決めてくれるだろう」という姿勢らしい。でも自分の口に入る可能性のある食べ物については自分で判断したくないですかと言いたい。新聞はそのために必要な情報を提供すべきだろう。それともみんな魚なんか食べないんだろうか。

神道って本当に宗教なのか

籠池理事長の家族がTwitterをはじめたらしいので早速フォローした。いろいろなリーク情報があって面白いのだが、あるツイートにひっかかりを感じた。


多分、発信者は愛国人脈がまじめなお父さんを仲間外れにしようとしているということを世間に訴えたいのだと思うのだが「え、神官の資格って一年で取れるの?」と思ったのだ。仏教の修行でもそれなりの時間がかかりそうだし、キリスト教の司祭職だともっとかかる。少なくとも他の信仰を捨ててその宗教に帰依することが求められるわけで気持ちが揺れない(あるいは一時の気の迷いではない)ことを証明する必要があるからだ。しかし、神官の場合は通信講座で一年勉強すれば取れてしまうらしい。
さらに驚いたことに、学校がそれを取り消せばそのお勉強はなかったことになるようである。多分國學院としては累が及ぶのを恐れたのだろうが、「騒ぎが起きたから信仰心も否定する」というのはあまりにもご都合主義と言えるだろう。確かに籠池夫妻の信条にはいろいろな問題があるわけだが、だったら1年のカリキュラムで気がつくべきだ。とはいえ通信教育ではそれはわからないだろう。
これにひっかりを感じたのは、神官がいると神社を名乗ることができて宗教法人の資格が取れるからだ。そうすると税制上の優遇が受けられるというわけである。神道は他宗教を拒絶しないので(多神教なので拒絶する必要がないのだが)別の宗教を信じたままで信徒になることも可能で、通信教育で1年勉強すれば司祭的な資格さえ得られてしまう。これは「税の公平」の面で如何なものかと思うのだが、まあ税制上の優遇を求めて神社になる法人も多いのかもしれない。「なにぶん便利だから」ということだ。神道ってその程度のものなのだ。
何を常識と考えるかというのは人によって違うのだが、これから神社を見てもあまりありがたく思えない気がする。多分通信教育で教えられるのは儀式のやり方とか歴史などの外形的な知識だと思うのだが、神道には統一した儀式体型みたいなものはない。多分、各神社がそれぞれ伝統的なやり方を引き継いでいるはずだ。つまり日本在来の土着宗教をまとめて神道と言っているのではないかと思える。にもかかわらず外形的な知識が存在するということは、誰かが何かからコピペしてきて作ったということではないか。
例えば橿原神宮とか明治神宮も明治時代にできた新興宗教みたいなものだから、それを古くからある神社と一緒に考えるのは間違っているのかもしれない。福岡(宗像神社など古い神社が結構多い)とか京都・奈良(それこそ古い神社がいくつもある)の人たちにはなかなか信じがたいことである。
でも東京の人はありがたがって明治神宮にお参りをして「自分は伝統的な日本人だ」というような気分に浸るわけだから、ある意味開けているというかあっけらかんとした民族だなあとも思う。こういうこだわりのないところが日本人のいいところなのかもしれない。だからこそ箔をつけるために「2600年の歴史」とか「世界一古い皇統である天皇家」などという権威づけが必要になるのだろう。

安倍政権はなぜ人気なのか

実にくだらないどうでもいい話なのだが「安倍政権はどうして人気があるのか」について考えた。これだけいろいろな問題が噴出しているにもかかわらずそれほど支持率は落ちていない。ということは安倍政権は有権者が欲しがる何か大切なものを提供しているのだと思ったのである。
とはいえ個人的には安倍政権が嫌いなので答えが見つからない。そこでなんとはなしにTwitterを眺めていたら面白い記事を見つけた。官僚は土木技術に疎くめちゃくちゃな答弁をしているのだが、野党も同じように何も理解していないという記事である。その記事では「土地の値引きありきで評価額を下げるためにゴミの量を定義した」と指摘していた。
まあおかしな話なのだが、わからなくもない。答えがわからなくなった受験生が問題を書き換えてしまうみたいなものだからだ。正解があるのだが既存の法律を当てはめると正解に導けない。であれば現実を変えてしまえば良いのである。この時、妙に詳しい知識を持っていると教科書が書き換えられないから現場の技術に詳しい人は排除されてしまうのだろう。
官僚というのは東大を出た頭の良い人たちだが、自分の頭で考えることはできない。いわば永遠の受験生だ。受験生は現場で汗を流したりしないから土地評価の実務を知らないし、組織をまとめるためにリーダーシップを勉強したりもしない。いわゆる東大脳とはできるだけ多く正解を暗記することに特化した才能だ。政治的な正解もはっきりしていて、安倍晋三の関わった学校なのだから絶対に認可しなければならない。だが財務状況はめちゃくちゃだし、法律上も値引きできそうにない。使える法律を総動員して導き出した結果が「ゴミの量を捏造して値引きする」ことだったのだろう。実に理にかなっている。
この筆者によると今では評価された時価というわけのわからない概念まで登場しているそうである。時価とはその時の市場価格であり、評価額とは税の算出などのために用いられる標準的な値段のことで「評価された時価」という概念はありえないのだそうだ。だが彼らは頭がいいのでこういう概念が創造できてしまう。実務をやっていたら罪悪感を感じていたかもしれない。
官僚はただの受験生ではなく、先生を操って問題を書き換えることができる受験生だ。なにせ先生は何も知らないのだから、正解を囁いてあげればいいのだ。そうやって問題を書き換えると絶対に100点が取れる。受験生にとっては理想的な環境ができあがあることになる。つまり官僚の目的は問題を解決することではなくテストで100点を取り続けることなのだ。
このことから安倍首相が官僚に人気がある理由がわかる。安倍首相は正解を与えることで官僚を安心させていたのではないだろうか。もしあなたが受験生で問題を解いたのに正解がわからないとしたらどうするかということを考えてみればいい。きっと怒り出すことだろう。官僚の信条はこれに近いのではないか。また、問題を解いている時に「この問題の正解は倫理的か」などということを考えるだろうか。もしそんなことを考え始めたら問題を解く時間がなくなり100点は取れなくなる。
明治期には西洋が正解でありとりあえず西洋の真似をするのが成功への近道だった。戦争では大陸に進出して植民地を作るのが正解になり、一度挫折するものの、今度はアメリカについて行って民主主義というものをありがたがるのが正解ということになった。つまりその時のモデルを「ノートを書き写すように」何も考えずにコピペするのが成功の秘訣だったことになる。この頂点に君臨するのが東京大学だ。
その意味ではB層と官僚は似ている。「政治的知能が低い」人たちは日本民族は素晴らしいという単純な正解を信じるが、官僚はもっと複雑な正解を信じているのである。問題の程度が違うだけなのではないだろうか。
日本全体は一度正解がわからなくなった時期がある。とりあえずものを売る(あるいは買う)のが正解だという時期があり、そのあと土地さえ売り買いすれば儲かるという時代があった。しかしみんなが効率的に正解を追い求めた結果土地・資産バブルが起こり、それが弾けてしまった。このあと、日本人はいきなり「正解を自分で考えなければならない」という自己責任の時代を迎える。自主的な民主主義を経験したことがなかった日本人には自分たちで正解を見つけるということが耐えられなかった。100点が取れない。それは日本人にとっては悪夢なのだ。
この頂点が民主党政権で「自分で考えろ」と国民と官僚に強制した。生まれた時から正解を指示されるのになれていた官僚組織はそれに耐えられなかったのかもしれないし、あの民主党政権のことだから官僚に「正解を教えろ」と迫ったのかもしれない。そこに地震と原発災害が追い打ちをかけた。津波が全てを押し流し国土が汚染される。こうした異常事態には正解なんかありえない。100点が取れない。どうしよう。
 
安倍首相が行ったことは実はそれほど多くないことになる。国民には「今まで通りで大丈夫」と保証し、官僚には「俺の友達を優遇すれば悪いようにはしない」と言ってやったのだ。こうすることでお互いに話し合うことなく、心ゆくまで正解が追求できる。また100点が取れる。官僚は頭が良いので「すぐに正解を理解し」て「現実を曲げることで法律にも触れず、政権にも逆らわず」という方法を見つけたのではないだろうか。それが森友学園が支出できる金額を答えとし、そこに法律で決まった式を当てはめることだったのだ。
となるとあとは国民が今回の一連の顛末をどう見るかということだが、一番簡単なのは「問題が起きたのはたまたま運が悪かった」か「一部の不心得者がおりちょっとした間違いを犯した」と理解した上で、今回の出来事をなかったことにすることだということになる。もしそれでも不具合が起きるなら、今度は「安倍が間違っていた」ということにすればいい。すべて元どおり。
この見立てが正しいかはわからないが、もし正解だとすれば日本人は自分で自分の正解を導き出す必要がある民主主義というものを信じていないことになる。何が正解かを自分で考えるという悪夢のような事態を避けるためなら、喜んで民主主義を破壊するのではないだろうか。

ズボンにシャツを入れるのはどうしてダサくなったのか

先日、Men’s NON-NOの1989年3月号を手に入れた。当初の予想通りゆったりとしたスーツを着ている人が多い。そもそもスーツを普段着にするというのは今ではありえないことでバブルを感じさせる。当時の人にこれが贅沢品だという認識はなかったはずだが、経済状況が悪化し、2009年にはユニクロでもいいのではないかという「ユニバレ」が提唱されそのまま定着してしまった。

当時のスタイリングで特に目を引くのは腰よりもかなり上にあるパンツだ。シャツはほとんどすべてがたくし込まれており、中にはトレーナーを中にたくし込むコーディネートさえある。当時はこれが当たり前だったのだ。

面白いことに2004年のMen’s NON-NOを見てもシャツはたくし込まれており、2008年になるとシャツが外に出ている。つまりMen’s NON-NOだけを見るとシャツを出すようになったのは2004年から2008年までのどこかということになる。古い雑誌はオークションで落としてくるしかないので、この間に何があったのかを連続して調べるのはちょっと難しそうである。

そこで目を移してインターネットの記事を調べてみることにする。タックインという言葉を時代を区切って検索するのだ。すると面白いことがわかった。2003年以前にはタックインという言葉はあまり一般的ではなかったようなのだが、2003年から2005年頃に突然と語られるようになる。どうやら秋葉原と結びつけて語られているようである。当時のアキバコーデについての認識はこんな感じだがこれはオタク差別としかいいようがなく、胸が傷んだ。

この認識が全国的に知られるようになったきっかけは脱オタクファッションガイドのようだ。ここでオタクはチェックのシャツをたくし込むという偏見が一般化してしまったらしい。そこで「シャツをタックインするのは」オタクみたいで格好悪いということになったのだ。その頃のオタクは気持ちの悪い存在とされていた。バブル期のオタクは差別の対象で、1988年から1989年に起きた宮崎勉事件などが記憶に残る。当時の世間はイタリア製やDCブランドのスーツを着て浮かれていたので、想像の世界に引きこもっているオタクは差別されたのだ。

大学生の当時妙に優しい先輩から紹介された経営学部の友達に渋谷のマルイに連れて行かれたことがあるのだが、今から思うと「服装をなんとかしろ」ということだったのだろう。だが、当時は気にさえしなければ特に自分たちの存在がおかしいとは思わなかった。Twitterはないので、世間がおっかけてくるということはなかったし、テレビは別世界の出来事だと思っていた。W浅野などが出てくるトレンディードラマを見ていた記憶はあるのだが浮世離れした恋愛ドラマを見て「あれはテレビだろう」と思っていた。

だが時代は徐々に変わってくる。「脱オタク」が叫ばれた当時は、2チャンネル発の小説「電車男」(参考資料:電車男 スタンダード・エディション [DVD])が話題だった。出版は2004年で「シャツをタックインするオタク」という像は山田孝之が広めたのかもしれない。さらに「オタクは差別される」という認識が一般化し「脱オタ」しなければならないというプレッシャーが生まれたのではないだろうか。何らかの理由でトレンドと一般が接近したのかもしれないのだが、景気が良かった時に許されていたサブカルチャーの存在が許容されなくなってきてるという事情があったのかもしれない。

個人的にはビジネスでアルマーニなどを着ていた。バブルの記憶を引き摺るソフトスーツだがこれにTシャツを合わせることもあった。つまりやはりトレンドからはズレていて「アルマーニ着てればオシャレなんでしょ」というマインドを持っていた記憶が残る。故に世間で何が流行っていたのかという記憶が全くないし、私服は今から思うとひどい格好だったのだが、渋谷西武などで服を買っていたので、今でもD Squared2などの「何でそんなブランドを知っているのか」というような服を持っている。

その後、ジーンズのローライズ化が進行し、一旦裾が広がり男性っぽいシェイプが好まれるようになる。その間もシャツをズボンに入れるのはオタクだという認識が強かったようだ。意外なことに2008年の2チャンネルには「シャツをズボンに入れるのはメンノン厨だ」という書き込みが見られた。また、メンズクラブはシャツインでもかっこいいという書き込みがあり、ファッション雑誌と一般が必ずしもリンクしていなかったことがわかる。つまりファッションとしてはかっこいいが普通の人は真似できないという認識があったようである。ジーンズはスリムストレート化が進行する。アバクロの銀座上陸が2009年だ。

2009年にはシャツをインしてはいけないのではないかという人がいる一方で、エディ・スリマンはタックインでもかっこいいではないかという記述が見つかった。この記事では流行としては遅れている(別の言い方をすると教科書的な)SMARTはタックアウトが主流とされる一方で、ハイウエストにタックインはやめたほうが良いという記述も見られた。さらに昔はシャツをタックインすることが秋葉系で今はシャツの裾を出しているのが秋葉系(電車男以降)とも書かれている。この間わずかに5年であるが、個人的な記憶と合致する。つまり、ラガード層も一足遅れで流行を追いかけるのだ。

ところがこの頃からMen’s NON-NOはタックアウト化が進展し始める。2008年のものでは短い丈で切り落としたようなシャツが増えてゆく。タックアウトされたシャツはやがて裾が長くなり最近ではロングシャツを合わせるというコーディネートも出ている。

このように一般と乖離していたトレンドだが、画期的な動きが起きる。2009年にユニバレという言葉が出てきた。ユニクロはマス層が着ていて無難な「教科書的な」服装だが、これが全国的に展開され「もうトレンドは追わなくて良い」ということになったのだ。

服に興味がない人が服を勉強しようとすると、渋谷のマルイに行ってトレンドを観察した結果、これは難易度が高いなあと考えて、その中にある無難なものを選んでくるという過程を辿るのだが、ユニクロに行けばそういう苦労はしなくて済むようになった。だが、当時はユニバレを避けるためにインナーだけをユニクロ二するという人が多かったようだ。つまりアウターはまだ既存の服が選択されていた。これもなし崩しになりやがてはMen’s NON-NOすらバリュー服の特集を組むようになる。

自分で撮影した2011年の秋葉原の写真をみるとシャツは外に出してる人が多かったが、これはこれで格好が悪く見える。秋葉原に集まる人は肥満体型の人が多いからだ。逆にどんな格好をしてもだらしなく見えてしまうのである。

さらに5年程度たつと状況がまた変わっている。2014年にはシャツをタックインしてドン引きしたという女性の声が語られており、2013年のMen’s NON-NOはタックアウト全盛である。しかし、その後「モデルたちは次のスタイルを実践している」というような特集が組まれる。古着を使ったビンデージ風コーデが好まれててタックインした服が選択されだす。2015年には、タックインするとカジュアルファッションが格上げされるというような書き込みが見られる一方で、スタイルが悪い人がやると様にならないというようなアドバイスが見つかった。

現在では状況が完全に逆転しており、スタイルがいい人はハイウエストの服をタックインするが、スタイルが悪い人は足の短さがバレるのでシャツを出してシャツとパンツの境目をごまかしたほうが良いのだというように理解されることが多いようだ。1989年にはみんなタックインしていたのだからおかしな話なのだが、タックインが「憧れの対象ではあるが、普通の人はちょっと真似できない」という位置付けになっている。

また、数年前まではファストファッションすら戸惑っていた人たちが古着を選択するようになっている。つまりデフレがどんどん進行しており、アパレルそのものがトレンドから遠ざかって行くという動きが見られる。するとトレンド側が一般を追いかける(つまりモデルが古着を着る)という動きが見られるのだ。

シャツをタックインすると格好が悪いとされたのはスタイルの悪いオタクの人たちが流行がわからないまま取り残され、それがメディアで誇張されたからなのだろう。それが一般常識化して固定したのだと考えられる。しかし、後発層がキャッチアップすると今度は逆転現象が起こる。つまりファッションにはトレンドセッターだけでなく、逆トレンドセッターのような人たちがいる。しかし、そのどちらでもない人たちも存在し、そのどちらでもない層を追いかけて古着屋が増えるとトレンド側が古着を追いかけるようになるといった三極構造になっているのではないかと考えられる。

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総崩れする革新政党とその理由を考える

そろそろ千葉県知事選挙の投票先を決めなければならないので、いろいろ話を聞いてきたのだが、結果的にわかったのは革新系政党の崩壊だった。理由はいくつかあると思うのだが日本にはイデオロギ政党が生まれる土壌がないということに行き着くように思える。政治は生活の延長であり、決して「どう生きたいか」を実現する道具だとはみなされていないのだろう。

自民・公明

産経新聞の記事によるとこの2政党は現職を応援している。多分地方議会は共産党などを除いて軒並み翼賛気質が強いはずだ。千葉市は以前自民党が推していた市長が汚職疑惑で逮捕されているので対立的な雰囲気がなんとなく残っているのだが、県にはそのような雰囲気がないのだろう。しかしこの二政党は決して無党派層に働きかけたりはしないので、表面上は全く無風に見えるのではないだろうか。
ここから自民党と公明党が村を形成していて、村に属さない人たちに働きかけたりしないことがわかる。自民党の場合は事業が単位になっていて生活の延長としての側面が強そうだ。知らない人に働きかけたりしないのでそのためのスキルも身につかないだろうが、村の中で充足しているので、それほど困ったりはしていないものと思う。
彼らが困るのは前千葉市長とそれに群がっていた人たちのように法の枠組みを超えたときだが、たいていはうちうちで収めているのではないか。千葉市長の収賄疑惑が露見したのは建設会社の内部抗争があったという話を聞いたことがある。つまり不景気になり造反者が出ると一気に「風当たり」が強くなる。今、豊洲や豊中で起きていることも経済的な困窮があるのではないだろうか。

民進党

奥野総一郎事務所に問い合わせたところ、先生は現職を応援しているが、別の候補者とも関係があり、党として誰を応援するとはいえないとのことだった。議員も生業(なりわい)なので大勢についていたいという気分が強いのではないだろうか。
今回民進党は独自候補を立てられなかったのだろう。蓮舫党首にリーダーシップがなく党内がまとまらなかったのかもしれない。争点のない選挙だから当たり前のように思えるのだが、千葉は野田前首相の地元なので、党勢の顕著な衰退がわかる。
奥野議員の子分筋にあたる市議会議員がいて、近くに事務所があるのだが写真の通りだった。いつもシャッターが閉まっており。県知事選挙のポスターはない。
よく看板をみると市議の事務所看板には民主党のロゴが見える。民進党の波が千葉には来ていないことがわかる。もしかしたらマークがまた変わるかもしれないのでそのままでいるのかもしれないし、民進党にしたところで住民の注目が得られないことを知っているのかもしれない。
小西洋之参議院議員の事務所にはメールで問い合わせ中だ。

市民ネットワーク

市民ネットワークは会員への根回しができず団体としては特定の人たちを応援しないことに決めたらしい。ここまで小さくなると独自候補も立てられないし、立てたとしても地方部では相手にしてもらえないだろう。革新系の候補者は複数いて、個人的なつながりもあるようだ。だが、団体としては推せないということで事務所にはポスターも貼っていない。ただし現職は嫌だという認識はかなり強く共有されているそうだ。
ここに革新系の弱さが端的に表現されている。革新系は「戦争はいや」とか「原子力はいや」とか「安倍はいや」などというが、決して自分たちのアイディアを口にしない。そもそもアイディアがないかそれを口に出して表現するスキルがないのだろう。この点ではいわゆる革新系の人たちも自民党などと変わりはない。
自民党の人たちには生活という縛りがあるのである程度のまとまりができるのだが、革新にはその縛りがない。すると私を全部わかってほしいというような欲求が強まるのだが、かといって細かい違いには妥協できないし、そもそもそれを人に説明することもできない。結局「私にぴったりの候補者がいない」ということになってしまうのである。
自分の気持ちを伝えるすべがないのだから、それが集団的なまとまりのあるイデオロギーにならないのは当たり前だ。保守の極は「生活」が求心力となっており、革新の極では「何が嫌か」という点でまとまっている。

稲田大臣の嘘はいつまで続くんだろう

国会で稲田防衛大臣が森友学園とは関係がないと嘘をついていた。弁護士事務所が夫との共同名義になっているのだが「名前が載っているだけ」だというのだ。ネットでは籠池元理事長のビデオインタビューとともに面白おかしく稲田大臣との関係が取りざたされているので「この大臣は嘘つきだなあ」という印象が強まるわけだが、ご本人は「関係がない」という当初のお話を貫き通したいのだろう。よく考えてみると森友学園の弁護人になっていること自体は犯罪ではないわけで、逆説的に「隠し通さなければならない事情がある」と白状していることになる。
まず最初に「いったん嘘をつくとひっこみがつかなくなるんだな」と思った。去年の夏散々安保法制は憲法違反ではないという嘘をついてきた。あの時はそのうち嘘がバレて大変なことになるのではと思ったわけだが、嘘を嘘でなくすプロのような人たちに囲まれているので、それは嘘でないということになっている。南スーダンの状況は泥沼だが「一定の成果が出たのでミッションコンプリートだ」と言っている。現在版の転戦宣言だ。そこで嘘をつくのをやめればよかったのだが、いったん嘘依存になってしまうとそこから抜けられなくなってしまうようだ。
ところが今回はちょっと違っている。永田町と霞ヶ関のような村では口裏さえあわせておけば「嘘を嘘でなくす」ことができたのだが、籠池さんみたいな「おもろいおっさん」が出てきてしまった。彼は多分「大義があって偉い人のお墨付きがあれば何でも通ってしまう」と思っているのだろうが、嘘職人にはそれなりの「エンジニアリング技法」みたいなものがある。いわば国会議員と官僚は嘘職人なのだ。
籠池さんみたいな「おもろいおっさん」には嘘職人に対するリスペクトみたいなものがない。だからこういうおっさんが跋扈すると困ることになる。彼らの芸術的なストーリーが崩れてしまう。いったん崩れたら最後、連座した人たちは嘘アーティストではなく単なる詐欺師になってしまうだろう。そこで「記録がなくなった」とか「忘れた」とか「認知していなかった」などというしかなくなってしまう。
ではなぜ彼らは嘘をつかなければならないのか。まず思いついた理由は民進党がだらしないからというものだ。政権交代の可能性があれば政権も少しは「ぴりっと」するのだろうが、その可能性はほとんどない。だから政権は嘘をつき放題になってしまう。
じゃあなぜ民進党がだらしないからというとそれは政権を取れるくらいの大きな約束ができないからだろう。民進党は赤字国債を発行するか、消費税増税するという提案しかできない。しかし連合という「今のままでいいや」という既得権益層と「原発と戦争はいやだけどどういう社会にしたいかという具体的なビジョンはないし継続してどこかの政党を支持するつもりもない」という人しか相手にしてくれない。
現在日本が取れる道はいくつかあるが、どれもぱっとしない。一つ目の道は衰退とそれに伴う負担を平等に受け入れて行くという道でもう一つの道はこのままではダメだということを受け入れて自ら変わってゆくという道である。
民進党の支持者(というより安倍政権が嫌いな人たち)は、目の前にある現実を受け入れられないが、それを変えるための意欲をほとんど持っていない。それは自らの変革を意味するのだが、そんなことはとてもできそうにない。上野千鶴子さんが炎上したことからもわかる通り、衰退を受け入れることもできない。
そこで安倍首相が編み出した画期的な方法が「衰退を見なかったことにする」というものだ。つまり安倍首相の存在がそもそも嘘にに支えられているのだ。安倍首相がその地位にしがみつくためには、支持者に嘘をつき続けるしかない。誰かからむしり取って支持者たちに利益を分配するしか道はない。これは国家的収奪行為なので、いったん手を染めたらやり抜くしかない。
だが、支持者たちはこの嘘の魔術師の苦労を知らない。そこで、だんだん収集がつかなくなってゆくのだろう。

菅官房長官が大本営化しているのではないかという話

昨日の一連のニュースを見ていて菅官房長官が大本営化していて危険だなあと思った。大本営というと戦況をごまかして発表したことが想起されやすいが、ここでいう大本営化は意味合いがちょっと異なる。まあ、権威主義的に民主主義を捉えている人は「菅さんは嘘つきだ」という意味に捉えてもらっても構わない(ゆえにここから先は読まなくていい)のだが、組織の仕組みに興味のある人はちょっと読んで行って、自分たちの組織が「大本営化」していないか検証してみて欲しい。
Twitterでは森友問題を揉み消すために急ぎでもない南スーダンの撤退をかぶせたという観測が一般的なのだが、なんだかこれだと腑に落ちない。森友問題は籠池理事長というキャラがいるのでテレビに取り上げられやすい。南スーダンは問題にはこういうキャラはおらずテレビが持つとは思えない。ゆえに毒消しにはならないのだ。
だとすると、森友問題が南スーダンの毒消しだったということになる。
政府は南スーダンをリスクだと考えていたが野党に押されて撤退したと思われたくなかったのではないだろうか。つまり「自分たちのやったことは間違っていなかったが役割が終わったので撤退した」としたいが、暇ネタの多いときならばマスコミがネタ探しに騒ぎかねない。そこでマスコミが忙しい時期(森友問題に加えて、東日本大震災がある)を選んで発表してしまったのかもしれない。
ということは森友問題を「キャラの強いおじさんの詐欺事件」として片付けることにしたことになる。野党も南スーダン問題は突かないだろう。ポピュラーな森友問題に夢中になるだろう。つまり、籠池理事長は騒いでも政権に影響しない瑣末な問題だと見たことになる。具体的には森友学園と関係した役所の不始末ということにするが「悪いようにはしない」と言い含めているということが考えられる。
このことは、安倍政権が役所と自分たちの問題を切り離して考えているということを示唆する。作戦と監督が仕事の官邸は「役所が勝手にやったこと」とは言えないはずなのだが、そう思い込んでいるのだ。監督責任を放棄してしまっているのである。
これは自衛隊管理にも言えることだ。どうやら永田町内部の文脈作りだけが議員の関心事のようだ。自衛隊撤退時に長島昭久議員と佐藤正久議員が「PKO五原則は崩れていない」とつぶやいていたのが印象的だった。長島議員は五原則に次ぐ六原則で撤退だなどと言っている。これは一般国民にとってはどうでもよいことなのだが、永田町ではこれが重要なのだろう。
これは大企業でもよく見られる傾向で、作戦を立てる部門が陥りがちな傾向だ。作戦を立てるためには仮説作りが重要なのだが、作戦部門は実践しないので、仮説立案だけが絶対視されてしまう。これが「大本営化」だ。つまり仮説立案チームが広報を担うと「仮説の絶対視」が起こるのではないかと考えられる。すると仮説に合わせて現実の(実際には報告書)の改ざんが行われることになる。
これは統治機能の不全を意味しているのは明らかなのだが、影響はすぐにはわからないだろう。マスコミも大本営しか追わないので、何か起きたときには想定外に思えるはずである。たぶんそのとき彼らは「自分たちは本当のことを知らされていなかった」と居直るのではないだろうか。
仮説は仮説に過ぎないので現実に合わないときには棄却する勇気が必要だ。しかし組織が大きく複雑になるとこれが難しくなるのだろう。

ヤマト運輸の動きにAmazonがほくそ笑んでいるかもしれないと思う訳

ヤマト運輸が「もう耐えられない」と言ってAmazonに運賃の値上げ交渉をしているらしい。これを見てAmazonはほくそ笑んでいるかもなあと思った。
もともと日本のサービス業は生産性が低い。これはITを適切に導入できなかったからだと言われているようだ。特に小売業はひどい状況だ。物流、特に中小の卸業者が整理されない状況で残っているとされており「世界一複雑」と言われている。以前、廃棄コロッケが再流通するという事件があったが、あの時に偽装に手を貸した人たちのほとんどは高齢だが生活のために仕事をやめられないというような人たちだった。こうした人たちがコンピュータやタブレット端末を使いこなせるとも思えないし、ITインフラが作れるとも思えない。
背景には複数の業者からお買い得品を仕入れるという商慣習があるようだ。卸を整理すれば物流は効率化されてモノの値段が安くなるはずだが。実際には零細企業を競争させたほうが有利な取引ができるだろう。メーカーから直接仕入れるということが少なく、間にいくつもの流通業者が残っている。膨大な人手が関わっているが、高いものは売れないという状態になっているのだ。
同じことが運輸業にも言える。ある程度は集約が進んでいるようだが、問題はラストワンマイルであると考えられる。ドライバーが足りなくなっているようで、制服を着ていない人が荷物を届けにくること多くなった。多分、大手三社(日本郵便・佐川急便・ヤマト運輸)の重荷になっているのは「全国各地に同じようなサービスを提供しなければならない」というユニバーサルサービスの呪縛だろう。このためフランチャイズ制度が切れないのだろう。
ついてきていないのはフランチャイズだけではない。大手三社はIT化を進めているのだが、ユーザーも必ずしもこれについてきているとは言い切れない。その気になれば配達時間を指定できたりドライバーとコミュニケーションを取ったりできる。スマホでも操作可能なのだが、これを知らない(あるいは調べるのが面倒だ)と考えている人も多いのではないだろうか。
ヤマト運輸は再配達にペナルティを課すことを検討しているようだが、これはある程度効果を生むものと思われる。経済的動機はユーザーが行動を変える強力なドライバーになるからだ。しかし、それでも「全国津々浦々に荷物を届けよう」という方針を維持しようとする限り、ITを使って劇的に生産性を向上させることなどできない。
そう考えてくるとふとある可能性が浮かんでこないだろうか。配送が面倒な遠隔地、ITについてこれない高齢者、何度も再配達させる割にあまり買ってくれない低所得層などを「切り離してしまえば」効率的な運用が可能なのだ。
Amazonは小売業者なのでユニバーサルサービスの規制対象にはならない上に、会員制サービスも持っている。余分なお金を出してコンテンツを楽しむという人たちなので、所得が高いことが予想される。さらにIT技術の操作にも苦労を感じないという「生産性の高い」顧客だけを手にいれることができるわけである。
ヤマト運輸はこれまで残業代を不当に搾取しており、今回の値上げ交渉に「利用した」形だ。一方で、言われるままに荷物を箱ばされている労働者側も難しいIT技術を駆使するようなモチベーションを持っているとは思えないので、生産性が低い形で温存されるだろう。一般小売業についてはもう絶望的に生産性が上がりそうもない。
同じようにコンビニエンスストアも物流改革を進めているのだが、こちらはフランチャイズシステム独特の弱点を抱えている。店舗に物理的な制約があるので品物が揃わないから価格を選ぶこともできない。
ゆえにAmazonだけが効率的な物流を作ることができる機会に恵まれていることになるが、これは高齢者や低所得層の切り捨てが前提になっている。高齢者でもパソコン操作に熟達している人がいるので、結局ITリテラシのない人ほど高い買い物をさせられるようになるのではないだろうか。
ヤマト運輸が撤退して困るのはAmazonではないのではないかと思う。