なぜ日本人は説明責任が理解できないのか

アカウンタビリティについて書いたところTwitterでコメントをいただいた。これについて考えていたのだが、かなり足元で補足が必要なのかなという結論に達した。アカウントという概念がよくわからないという人がいるのではないかと思ったのだ。






試しにビジネス辞書を検索してみると次のような定義が出てきた。account forという言葉が訳せないせいで、なんともふにおちないかんじになんとも腑に落ちない感じになる。

The obligation(義務) of an individual or organization to account for its activities, accept responsibility for them, and to disclose(公開する) the results in a transparent (透明)manner. It also includes the responsibility for money or other entrusted property.

Read more: http://www.businessdictionary.com/definition/accountability.html

アカウンタビリティという言葉には日本語訳がない。一般的には説明責任と訳されているがあまりきちんと理解されていないようで、新聞でさえあやふやな使い方をしてる。一般的には「不祥事の釈明」に説明責任という用語を割り振ることが多いのではないだろうか。

なんだか、深淵で難しい言葉に思えるのだが、実はそれほど難しい概念ではない。実は企業経営では「説明責任」はよく使われる言葉なのだ。ちなみに英語のaccountは、単に証拠や説明という意味であり、日本語でよく使われる会計は派生的な用法だ。(英語の辞書ではこんな感じになる)経営を数字で説明したものがaccountなのである。だから英語で話を聞いても「説明するってどういうことですか」ということは議論の対象にならないのだ。

だが、自分にとって自明だったとしても受け手には受け入れられていないことがあるんだなあと感じた。これはコメントをもらわないとわからないことではあるのだが、少し反省している。

投資家はリソースを持っており、役員はそれを増やす能力(ケイパビリティとコンピタンスに分類できる)を持っている。どちらも単独では何の役にも立たないのだが、交換することで事業を行うことができる。が、情報が対象ではないので、投資を円滑にするために執行者の側に説明責任が生じるのである。

かつては投資家だけがステークスホルダーだったのだが、最近ではお客さん・従業員・出入りの業者などが含まれるようになっている。政治におけるアカウンタビリティは、企業の関係を有権者と政治家に置き換えている。税金を「投資だ」と考えていることになる。こうした人たちのことを「エージェント」と呼んでいる。。

利害関係が明白なら、アカウンタビリティという言葉を理解するのはそれほど難しくないはずだし、実際に日本の政治にも支持者と政治家の間に利害関係が存在する。

だが、エージェント・ステークスホルダー・ケイパビリティ・コンピタンス・エージェント・エグゼクティブなどの言葉にはぴったりの日本語がない。どうやら日本では「代理人たる執行者に何かをやらせて後で説明を受ける」という文化がないのではないかと考えられる。文化そのものがごっそり抜け落ちているので、アカウンタビリティという言葉が定義できない。しかし、説明責任という言葉自体はよく知られているので、いろいろな誤用が起こることになる。

安倍首相は自分の考えをだらだらと垂れ流しにすることを「説明責任だ」と本気で考えているようだ。また、マスコミ側も国会議員が秘書を殴ったり、浮気した時に「政治家の説明責任は」などという。これは説明責任という言葉がうまく理解されていないことから起こるのだが、背景には代理人システムが理解されていないという事情があるのではないだろうか。

もちろん、政治は単なる事業ではなく「より良い社会を創造する」というイデオロギーが含まれるのだが、そのイデオロギーを実現するのも事業なので、説明責任は単にお金の運用だけではなく、イデオロギーとの整合性を語らなければならない。がそれは企業経営でいうところの「ビジョン」なので、必ずしもアカウンタビリティがカバーする領域ではないかもしれない。

説明責任は政治家だけで完結するものではなく、それを誰が評価するのかというのが重要だ。西洋の民主主義社会ではマスコミが伝えて有権者が受け取ることになっている。が、日本でそれが成り立ちうるかどうかは別途考えた方が良いのかもしれない。集団性が強い文化なので「公共は成り立たない」という考え方もできるし、無党派層がこれほど増えたのだから、利益集団に頼った政治は行えないという考え方もできる。

だが、いずせにせよ「account」という言葉の背景にある代理人と情報の非対称性を理解しないと、いつまでも不毛な議論が続くことになるだろう。

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アカウンタビリティとは何か・なぜ重要なのか

public goodという言葉を「公共善」と訳していたのですが、どうやらgoodsのgoodではないかと思った。辞書によると単に公益や公共財のことを指すそうだ。ということで一部書き直した。一応書き直したのだが、つじつまの合わない箇所が残っているかもしれない。






いつも答えを書いてばかりなので、Quoraに自分の疑問も書いてみようと思った。英語にはアカウンタビリティという言葉がある。これが大切なことはわかるのだが、なぜ大切なのだろうか。政治がうまく行われているなら、説明責任などいらないのではないかと思ったからだ。

しかし、この質問には回答がつかなかった。多分あまりにも当たり前のことだからかもしれない。Quoraには回答をリクエストするという仕組みがある。すると二つだけ答えが来た。最初の回答はかなり基本的な線を抑えていて、こんな感じになる。

政治家は市民に選ばれた公僕です。彼らは公共のために税金を集め、よりよい社会を作るために法律を制定し、インフラを整備し、役人・軍人・法の執行官を任命したり採用したりします。いろいろなレベルの政治家いますが、低位の政治家であってもアカウンタビリティはあります。そもそも政治家の仕事の中にはアカウンタビリティが含まれています。

いくつかポイントがある。

  • 政治は公共のための行為である。
  • 市民は税金を政治家に委託しているので、それを何に使ったのか、なぜ使ったのかなどを他の人にわかるように運用する必要がある。

この2つは民主主義社会の基本なので、そもそも証明する必要がないと考えられているのだろう。だから「政治家にとってアカウンタビリティはなぜ重要なのか」ということは民主主義国ではそもそも考える必要がない問題なのだ。

もう一つの答えは学生によるものだ。大学はイギリスのケント州にあるそうだ。この回答は次のように始まる。

アカウンタビリティとは画家の署名のようなものであり、説明責任を果たせば信頼が得られ、収入も上がる。以下省略

画家がいるということは画商と買い手がいるということである。ここでいう画商とは有権者のことになる。大学生だけあって、論文としての体裁を抑えている。日本人の政治家にこういう文章を書ける人はいないのではないかと思った。一般論を端的な文章で押さえたうえで、現在の政治において説明責任を果たすことが難しくなっているという現状が語られ、最後にはトランプ政権について言及している。

この二つにはいくつかの発見がある。最初の答えでは「役人を雇う」のが政治家の責任になっているのだが、これは日本の制度とは明らかに違っている。考えてみれば、自分が組織した集団だから責任が取れるわけで、何をやっているのかわからなければ説明はできないだろう。日本の官僚組織は所与なので、そもそも政治家には責任の負いようがないとも言えるのである。

企業でもマネージャーが部下の採用権限を持つのは当たり前だ。つまり、まずは仕事があり、それを実現するためにお金を預かり、人を雇って実現するのが民主主義だという理解なのだろう。他人おお金を預かるから、それを何に使ったかを説明しなければならない。

が、もう一つの答えは政治家の善について焦点を当てているように思える。絵の良し悪しは利害だけでは語れないからだ。回答者はコメント欄の中でこれが必ずしも正しい答えではなく、一つの側面にすぎないことを認めている。画商や絵の買い手が良い絵を正しく評価できるから、画家は良い絵を書けるということになる。同じように有権者が善を追求するから、政治家は良い政治を行うということになるだろう。

ここから逆に考えると日本の政治が民主主義を忘れてしまったわけではなく、そもそも民主主義とはかなり異なっているということがわかる。日本の政治は個人ではなく<集団>を基礎にしている。ここでいうカギカッコ付きの<集団>とは安全保障と事業の単位を意味する。その集団が代表者を出して物事を決めるのが集団指導体制だ。この体制では説明責任は集団の内部にあるということになる。

では集団とは何かということになるのだが、例えば自民党とか公明党といった政党だったり、政党の中の派閥だったりする。政府という単独の集団はなく、各省庁が集団を形成している。文部科学省と内閣府が内部闘争を起こしたり、麻生副総理が安倍首相の退陣を画策するのはそのためだ。

では政治の役割とは何だろうか。それは水面下で行われる取引を最終的に表に出して政党なものにするための儀式である。つまり、ありがたみがあればそれでよいわけで、議論そのものに大した意味があるわけではない。その意味では安倍首相は極めて真っ当なことをしている。

安倍首相の決定の裏には彼を支えている各組織の思惑がある。調整は水面下で行われるし、利益もそうした集団に配分される。これをマスコミは「お友達」と呼んでいるようだが、例えばアメリカなども利益集団の一つとして認識されているのだろう。

しかし有権者もそれを承知している。だから「損さえ被らなければ」とそれを黙認している。ゆえに説明はなんとなくもっともらしければ良い。

安倍首相にとって計算外だったのは、私益を追求すると内部に「抱き込めない人たち」が出てくるということだろう。例えば民進党などは本気で政権が取れると錯誤してしまっているので、政権に挑みかかってくる。もともと儀式にすぎなかった民主主義で「本気で説明責任を果たせ」などと言ってくるわけだ。これは正月に神社に行ったら「神様はいない」と叫ぶ人がいて、正月の厳かな気分が台無しになるというのと同じである。

「私」の行使はあくまでも水面下で行われるべきだったということだろう。が、籠池さんや萩生田さんのような人が次から次へと湧いてきて、表立って周囲を蹂躙する。「公共だという主張すれば、国民が文句を言えないように憲法を変えよう」などと言い出して周囲を大混乱に陥れている。

そもそも「公共」というのは、個人が集団を作って契約を結ぶという概念と対をなしてるようだ。行為に紐付いた目的別の集団が作られるから、説明責任を果たすことができるわけである。日本の場合の「公共」とは村の境にある共有地くらいの位置付けになるのではないだろうか。ゆえに説明責任などというものはそもそも存在しないのだ。

安倍首相は国会が終わった後で記者会見を開いて「説明責任」を果たしたつもりになっている。周囲にいる政治記者たちを抱き込んで共犯にした上で、儀式的に説明責任を果たしたつもりになっている。正月に神社に行って厳かな気分に浸っていたら、去年殴った人たちから罵声を浴びせられた。正月気分が台無しになったので自宅に神社を作って参拝をやり直したというような感じだ。が、塀の外にはたくさんの恨みを持った人たちが騒ぎを起こしている、ということになる。

今回ちょっとショッキングだったのは、英語だと学生でもかなりまともな議論ができるのだということがわかったことである。理路整然としており、懸念も表明されている。もちろん、実名で荒れにくいという事情もあるわけだが、それだけではなく、短文でも考えがまとめられるように訓練されているのだろう。これから日本語のTwitterを覗くのだが、ちょっと憂鬱な気分になるのではないかと思う。

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アウフヘーベン

小池都知事が豊洲移転を決断した。アウフヘーベンと言っていたが、結局は玉虫色の解決策で、ある意味極めて日本的なやり方と言える、つまり日本人は何も決めないことを決めていることになる。表で決めると誰かの顔が潰れるからである。小池都知事は誰の顔も潰さないことを決めたことになる。

この解決策の良かった点は、やっと魚市場の定義ができたことだろう。誰がどうみても、今の築地市場には2つの全く異なった役割がある。これを分離して現代化すべき部分を豊洲に、伝統として残しておくべきところを築地にという整理をしたのはよかったと言える。

が、よかったのはそれだけである。小池都知事が決めたこと(あるいは言ったこと)はいくつかあるので整理して行こう。冷静に考えればわかる話ばかりなので、気がついた人は意外と多かったようだ。

築地の開場を5年後に設定したこと。小池さんが5年後に都知事であるという保証はない。多分、今回の発表の目的は都知事選挙での争点を潰しだったのだろう。自民党を中心とした議会がしっかりと役割を果たせていないということさえ証明できれば、築地問題そのものはどうでもよい問題だったのではないだろうか。その意味では石原元都知事と似ている。都政は道具なのだ。

都が新たな支出をすることを決めたこと。豊洲だと赤字が膨らむと言っているのだが、築地を市場として残しても赤字が解消できる理由がわからない。ワイズスペンディングだと言っていたので、実はスペンディング(お金を使うこと)を決めたのだが、英語だったので記者たちにはよくわからなかったようだ。が、反対意見がでないように、具体策は何も出さなかった。いわば「白紙委任状をください」と言っている。

都に政策立案能力がないことを認めたこと。これからいろいろな人の意見を募ると言っていた。有識者会議でも立ち上げるのかもしれないが、これは都に政策立案能力がないということを認めたことになる。であれば規制を緩和して民間に任せればよいのだが、関わりは持ち続けたいらしい。

このことからネット上では様々な懸念の声が聞かれた。日本人はあまり積極的には政治に関わらないが、実務的な人たちには問題がわかっていたようだ。実は極めて冷静な民族なのである。

指摘として多かったのは「金がいくらかかるかわからない」というものである。日本は内需が縮小し続けているので公共事業にはさまざまな業者が群がってくる。賢く使いましょうというのはうわべだけで、自分たちが持っている技術をいかに高く売りつけることができるのかということに熱心な人たちばかりだ。都の側はアイディアがなく、お金は出しましょうということだから、小池都政はこうした人たちのよいカモになることは間違いがない。

さらに「観光」という概念を持ち出してしまったことで、収支計算がますますややこしくなった。観光なので「面白くすれば集客が見込める」ということになる。競争相手はディズニーランドだ。が、真剣にディズニーランドと競争したらどうなるだろうか。多分、忍者の格好をした仲卸に魚を捌かせたりすることになるのだろう。テーマパーク化というのはそういうことである。築地の人たちは懸念を表明している。伝統の支え手ではなく「見世物になれ」と言われているからだ。

築地にバリューがあるのは「立地がよく、しかも見学そのものにはお金がかからない」からである。収益をあげようとして入場料をとったらそれだけで築地は成り立たなくなってしまうだろう。その意味ではディズニーランドとは違っているし、役所がそれを実現できるとはとても思えない。

さて、豊洲新市場はさらに悲惨な運命が待ち受けているような気がする。一つは除染のための実験場という位置付けである。安心・安全を区別しなかったことで「除染にはいくらお金がかかっても構わない」ということになりつつある。よく考えてみれば食糧流通の市場なので採算が取れるところに持って行けば終わりなのだが、豊洲にこだわってしまったことで、割高になっている。その上に有毒な場所を選んでしまったために、除染にいくらお金がかかるかがわからないということになりそうだ。

一見悪そうな話だが、裏を返せば「いくらでもお金をかけていい」利権が生まれたことになる。都民が安心を求めていますといえばいくらでもお金が使えるのだ。多分、冷静に聞いてみれば食べ物倉庫にお金をかけるより、保育所を増やしてくれという意見の方が多いだろうが、多分しばらくそういう議論はないだろう。そもそも都心の一等地に食べ物倉庫を作ることそのものが採算性が取れない話なのである。

さらにIT化をオブジェクティブに入れたのも実はまずかったのではないだろうか。ITというのは目的を達成するための手段なのだが、豊洲市場のIT化はには実は目的がない。あれば発表していたはずだ。もし、それがなければ大手ベンダーが先進的な技術を自分たちのリスクを追わずに実験する場所として豊洲を使えるということになる。成功しようが失敗だろうが、それはベンダーにはどうでもよいことだ。リスクを追うのは都民だからである。さらにITベンダーは自分たちでそれをやることはないだろう。どこかの業者に下請けに出して終わりである。

目的もなく、責任を追う人もいないというのは、政治家や役人にとってはまさに天国のような状態だ。

東京都民には二つの選択肢が提供されたことになる。一つは諸手を挙げて額面の入っていない小切手を小池都知事に渡すか、これまでの小さな利権を温存したがっている自民党の人たちを追認するかだ。

普通の感覚だといい格好をして逃げるなどということは許されそうにないが、それが許されてしまうのが任期付きの政治家なのかもしれない。

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安倍政権の内閣支持率が急落した

安倍政権の支持率が急落した。安保法制のときに少し下がったということだが、このところ安定していた。前回書いたように、有権者は政策ではなく「身内に贔屓しているかどうか」という人格を見ていたことになる。つまり、政治を見つめる目線が村落的なのである。

安倍政権は憲法を曲げ、歴史を歪曲し、官僚を黙らせてあらゆる法律を作ることはできる。しかし、決してそれを行使することはできないということだ。日本人は決まりごとをあまり信じておらず、それがどう使われるかということに関心があるのではないだろうか。極めて「人治主義的」に政治を理解していることになる。

政治は意思決定というより、意思決定に権威を与える役割を果たしているのかもしれない。例えば築地・豊洲問題のように一度ケチがついてしまうと、その後はどう「説明責任」を果たそうとも、納得しない人が出てくる。もともとは大手卸と仲卸の対立なのだが、あのまま豊洲に移っていれば、あまり力がなく財政基盤が弱い仲卸の人たちは黙って移るか廃業するしかなかったはずだ。手続きそのものは<民主的>に進められていたわけだし、議論の過程も一応は公表されていて検証可能な状態にあった。だが、いったん内部抗争が表沙汰になると、聖なる権威が失われて、それを収める方法がなくなる。もともと表立った話し合いで何かを決めるという文化がないのだろう。

また、安全保障の問題も、法律そのものにはあまり関心が向かなかった上に、自民党は実は何も決めていない。南スーダンの派遣そのものは民主党政権時に決まったことだし、結局犠牲者が出て「判断が間違っていた」と指摘されるのを恐れて、思い切った活動は何もできなかった。いったん誰かが亡くなるような事態が起きてしまえば、それが実は仕方がなかったことでも、結果責任を取らされることになる。有権者はそもそも説明を求めておらず、単に目の前の不愉快な出来事を非難できる人を探す。

同じように骨太の方針もどんどん骨抜きになってゆく。どうやら改革には消費税増税が必要との見方が多いようなのだが、それをやってしまうと、結果的にアベノミクスは詐欺だったということを見つめてしまうことになるので、骨抜きにするしかない。

つまり安倍政権は決められる政治ではあるが、同時に何もできない政治でもある。問題は先送りされ、やがてどこかで破裂する。

このように考えると、安倍政権の支持率の動向にはあまり意味がない。このままずるずるといろいろな内部情報がリークされて沈んでゆくのかもしれないし、持ち直すのかもしれない。しかし、身内に贔屓をすることはできないだろうし、首相の権威を使って自分の支配欲を満たすこともできないだろう。すると、政権は求心力を失うことになる。

この件でもう一つ重要だと思われるのは、国民は政策には興味がなく、したがってそれに反対するデモにもそれほど興味がないだろうということではないだろうか。政党支持率そのものはあまり変わっていない。安倍政権(もしくは安倍首相)がお友達を贔屓したということだけが、政党支持率に影響を与えていることがわかる。デモを支援して民共で連携しても、それはほとんどの国民にとって「どうでもよい」ことにすぎないということになる。

さらに、政策はあまり重要視されないので、飾りとしての安倍晋三さんのありがたみが薄れてしまえば、それは去年のしめ縄のように取り替えられることになるだろう。もともと、日本では聖なる場所を区別するためのものは紙や藁で作られてきた。古びてしまえば燃やされるだけである。このようにして、新しい正月飾りを準備するように、粛々と交換が進むのではないかと思われる。

もちろん政策ベースで政治を動かすのが重要だとは思うし、有権者が関心を持って普段から政治の動向をチェックしたほうが良いとは思うのだが、何が起きているのかということを冷静に見つめないと、今後の判断を間違うのではないかと思う。

こうして政治を眺めていると、つくづく日本というのは「何も決めないことを決めている国だな」と思う。

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今日民主主義が死にました

今日、多くの人が「日本の民主主義が死んでしまった」と嘆いていた。が、まだできることはあるだろう。それは太陽が西に沈んでも、また東から昇ってくるようなものだ。ただし、待っていてもそれが起こることはないだろう。70年前、日本は民主主義を上からいただいた。が今度は自分たちで勝ち取らなければならないのではないだろうか。

民主主義とは何だろうか。それは日本人にとっての徳のようなものだろう。

安倍政権は徳を失った。加計学園問題で疑惑の目が自分に及ぶのを恐れて、国会を閉じる必要があった。恥ずかしくて国民に何があったかを説明できなかったからだ。

そこで共謀罪の成立を急いだ。しかし、無能な法務大臣のせいで日程が足りなくなってしまったので、委員会採決を飛ばして中間報告の末に共謀罪を成立させた。もともと問題のある法案だったが、さらに重い十字架を背負わせた。自分の地位の安定のために民主主義のルールを無視し法体系を歪めた罪は重い。公明党は都議会議員選挙で汚いイメージがつくのを恐れてそれに連座した。やはり恥ずかしいという意識を持っていたからだろう。

日本の民主主義は優れたリーダーのみによって行われるわけではなく、優れたスタッフによる提案によって支えられている。良い言い方をすると「和」が前提になっている。政治を実質的に支えているのは官僚なのだが、内閣府の青年将校のような人たちが現場の官僚たちを恫喝しているらしい。それを放任しているのは安倍首相だ。

先日、民進党が加計学園問題関連のPDFファイルを改ざんしているのではないかということを書いたのだが、実は文書は存在したらしい。照明はできないものの、同じ文書を解像度やフォントなどを変えて二度印刷したのではないかと類推される。もちろん証明はできないわけだが、こう考えると面倒な加工が説明できる。

印刷を二回してそれを継ぎ接ぎしたのかもしれない。電子ファイルは持ち出せないので印刷したのだろうが流出経路が印刷機によって特定されるのを恐れたのではないか。義家副大臣という青年将校じみた人の官僚への恫喝を考え合わせても、官僚が必死の思いで本来国民が知るべき文章を流出させたのではないかと考えてしまう。プリンターの特定を恐れていたとしたら、どれほどの恐怖心があったのかがわかる。

安倍政権がやっているのは、自分たちの身内を徹底的に贔屓し、それを邪魔する人たちを反乱勢力として粛清して行くという分断政治だ。共謀罪が成立し、政府が「誰が一般人か」を指定できることになったので、この分断政治はもうすぐ国民にも及ぶようになるだろう。坂道を転がり落ちるように警察国家化が進むはずだ。

もちろん、警察が国民を監視するということも考えられるのだが、このような悪政のもとでは警察予算がいくらあっても足りない。安倍政権に近い人たちを利権で優遇し、それに敵対するまっとうな徳の心を持った人たちを「反乱者」とか「抵抗勢力」という名前の元に排除するわけである。が、国民にスパイをやらせると罪悪感を感じるのでこれを「公益のため」と言い換えるのだ。公徳心の上着の下には、自分だけがいい思いをしたいというような醜い心が隠れている。

共謀罪の審議の際、何回も「普通の人は対象にならない」という言葉を聞いた。これは、政府に敵対する人はもはや普通の人ではないという宣言と取ることもできる。利権を餌にして反政府的な人を通報させる制度が作られるのではないか。すると、警察予算は抑制でき、国民を監視することもできる。たとえばあるジャーナリストは女性を準強姦した疑いが持たれているが、彼は安倍政権では「善良な一般市民」となる。

「そんなことは起こるはずはない」と思いたい気持ちはわかる。しかし、どうだろうか。数年前に、誰が内閣府が官僚を恫喝するなど想像しただろうか。が徳のない安倍政権はその一線を軽々と飛び越えてしまった。

確かに、日本人にとって民主主義は馴染まない制度で、儀式にしかすぎないのかもしれない。中国で作られた鏡をありがたがって神社に飾るというのと似ているのだろう。しかし、だからといってその鏡を打ち捨てていいということにはならない。安倍政権は織田信長が比叡山を焼き討ちしたように、民主主義を蹂躙したのだ。徳を失い私利私欲にまみれた手で民主主義という鏡を打ち捨てたのだ。

私たちが昨日今日という日をどう過ごしたのかはわからないが、家畜のように政権に従わないと反逆者の汚名を着せられる分断国家という未来を選んでしまったことになる。官僚組織ではもう起こっているようだ。「国民は何があったのかを知る権利がある」という極めて真っ当なことを言っている人が、地位に恋々としがみつく抵抗勢力だと罵倒される狂った世界を生きているのだ。

今、私たちにできることはあるのだろうか。デモをしても「それは一部の特殊な人たちのやっていることだ」として一顧だにされないのだろう。この際はっきり言っておくが、デモは単なるノイズにしか過ぎない。それは徳がないからだ。地位のために大衆の怒りを利用しようとしても支持は得られない。だから、民進党はあてにならないので放置しておこう。彼らは単に政権が欲しいだけで、すでに政治家としての徳を失っていると見られている。もちろん彼らが徳を取り戻すことはできるだろうが、それは彼らの仕事だ。

そこでできるのはまず自民党の政治家がどのような「良いこと」をしたのかを勉強することだ。つまり、徳を思い出させる必要がある。そして、自民党の政治家の事務所に電話して、今度の選挙でも先生を心から応援したいのだが、今の政権では無理だと言おう。もし仮に今まで民進党を応援していたとしても構うことはないし、別に自民党に入れるつもりがなくても構わない。自分たちだけでやっても無駄なので、できるだけ多くの人に同じようなことをしてくれるように頼んでみよう。

東京都に住んでいる人にはさらにできることがある。公明党の候補者に連絡するという手もあるが、フレンド票欲しさの創価学会員が近寄ってくるだろう。いつもなら軽くあしらうところだが、今回はできるだけ憂いを帯びた表情で「創価学会はついに徳を捨てましたね。日蓮さんはどうお思いでしょうか」と残念そうに言おう。「あなたは信仰心のある良い人だからぜひ応援したいのだが、今の安倍政権ではどうですかね……」というと良いかもしれない。別に日蓮さんを信じていない人は嘘をついていることになるが、これは世の中をよくする方便なので仏様も許してくださるはずだ。

つまりはこういうことだ。日本は確かに民主主義国家ではなかったのかもしれない。しかし、民主主義というのは現代の徳なのだ。徳を失った政治家は天から見放され、災いをもたらすというのが日本の伝統的な姿である。安倍政権は一線を踏み外し、公明党の執行部も徳を失った。これを変えられるのは中にいる人たちだけなので、彼らの徳に訴えるべきなのである。もし今度の党首選挙で安倍政権が再任されれば今度は自民党が徳を失ったとみなされるだろう。

「自民党を応援する」と言っているのだから反逆者とはみなされないだろう。つまり、これは共謀には当たらないのではないだろうか。

政治家に徳を思い起こさせるのは主権者である大衆の仕事だと思うのだが、いかがだろうか。

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今の国会への疑問

本日はまとめないままのオープンクエスチョン。「俺は答えを知っている」という人はコメント欄まで。

参議院で共謀罪が強行採決されようとしている。採決は日をまたいで朝五時のニュースではまだ「これから採決が行われる」という状態なのだそうだ。担当大臣すら理解できない内容の法案であるばかりか、足元では加計学園問題がくすぶり続けている中での採決で、これが悪運用されたとき「議会政治のルールを曲げて採決した」と言われることは確実だ。もちろん安倍政権の稚拙な議会運営が招いた混乱だが、あたらめてどうしてこんなめちゃくちゃなことが起こったのか考えるとわからない点も多い。

加計学園問題における、国会の監視機能の不備と政策立案能力の欠如

国家戦略特区は、京都産業大学が外された時点でおかしくなっていたようだが、その時点でそのおかしさに気がついた人はいなかったのかという疑問がある。特区が歪められていたとしたら、その時点で問題が表面化していたことになる。その時点で警鐘を鳴らしていた国会議員はいないわけで、野党の監視機能や世論訴求能力が欠如していることがわかる。

東京新聞によると、文部科学省が「競合がない地域に限る」という限定を提示したのは2016年の11月9日だそうだ。

当時、民進党をはじめとする野党は戦略特区問題にあまり関心をもっていなかったのか。だとすれば、民進党は政権打倒にしか興味がないことになるわけだが、それはなぜなのだろうか。

一方で、地方では獣医が足りていないようだ。都市部では獣医は余っていて過当競争状態が起きており獣医師の供給がうまくいっていないのは確かだ。獣医の偏在について解決策を模索しようという動きが全く出てこないのはなぜなのだろうか。なぜ自民党は「足りていない」ことばかりを問題にし、野党4党は「余っている」ことだけを強調するのか。

日本農業新聞はこう伝えている。

 近年は“動物の医者”を主役にした漫画の登場もあり、獣医師は人気職業として注目を浴びる。しかし、国内の獣医師は「対応する獣種や地域による偏在がある」(農水省)。14年の全国の獣医師数は約3万9000人で、ペット関連が39%と最多。家畜防疫や家畜改良などを担う公務員獣医師は9%と少数派だ。

 統計では畜産の盛んな県を中心に公務員獣医師1人当たりの畜産農家戸数が多く、負担感を増している。獣医師1人当たりの戸数が少ない県でも「広大な地域をカバーできる人員数に満たない」(高知県)状況もある。農水省によると、獣医系学部の大学生は首都圏など都会出身が多く、地元の都会で獣医師職に就く場合が多い。団塊世代の退職もあり、地方部で公務員獣医師の恒常的な不足に陥っている。

野党と参議院の必要性

安保法案から共謀罪まで与野党が全く相容れないのはどうしてなのか。例えばチェック機能の充実など、擦り合せることはできなかったのか。背景には政権を取った政党だけが存在できるという現在のあり方に問題がありそうだが、その問題はどうして生まれ、どうやったら解消できるのか。なぜ野党は、政策によるコンペティションを目指そうという気になれないのだろうか。野党が政策立案能力を持たないとしたら、どうすれば政策立案能力のある野党が生まれるのか。

多様な意見が十分に反映されないという意味では、参議院の問題もある。共謀罪では参議院の委員会採決がスキップされたようだ。参議院の委員会は「やってもやらなくても同じ」もののようだが、そもそも参議院の委員会は必要なのか。衆議院のカーボンコピーで同じような不毛な対立が二度繰り返されるだけで、新しい視点などでないのだから、参議院は廃止すべきではないのか。もし、参議院が独自の視点を持つ必要があるならば(ダブルチェックの意味ではあるべきだと思うのだが……)どのように改革すべきなのか。

野党も参議院も別の視点から政策をチェックするという役割があるはずなのだが、それが持てないのは日本人がそもそも多様な視点を扱えないからなのか。それとも政治特有の問題があるのだろうか。

「民意」と「数の横暴」

自民党が議会で多数を握っているのは国民の選択であり民意なのだが、野党が「数の横暴で民意が踏みにじられている」というのはなぜなのか。野党が院外活動を繰り広げるのはなぜなのか。そしてそれは正当なことなのか。もし、院外が民意だとすると、それが国会議論に反映されないのはなぜなのか。つまり日本の民主主義には何か決定的な欠陥があるということなのか。

そもそも重要な政策で一部の国民が「全く置いて行かれている」と感じるのはどうしてなのだろうか。そしてTwitterを見たり普段の話を聞いたときに「置いて行かれている」人たちが多数を占めるように感じるのはどうしてなのだろうか。

国際社会への影響

今回の共謀罪は国際社会からかなり疑惑の目で見られているようだ。国際社会は日本がどんどん民主主義社会から離反しているように感じているようである。

そもそも、なぜ自民党は国民の人権を制限するような法案の整備を急ぐのだろうか。それは警察との取引なのだろうか。取引だとしたら何か弱みを握られているということになるわけだが、それは何なのか。

さらに、国際社会からの懸念にどう答えて行くつもりなのか。国際社会から人権後進国だと思われることに関して、国民生活にどのような影響があるのか。例えば法的安定性が揺るぐことがあれば、アジアを統括する支店は別の国や地域に置かれることになるだろう。投資に影響が出ることは間違いがないだろう。いったいどのような影響がいつ頃でてくるのか。

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なぜ安倍真理教の人は平気で嘘がつけるのか

面白いツイートを見つけた。こういうのは本当に調べ物の役に立つ。


実際に薬物を投与されている可能性もあるわけだが、人は脳内で薬物を利用している。それが脳内ホルモンである。そこで嘘つきとホルモンで検索をすると、イスラエルの学者らによる研究について言及している記事を少し見つけた。要約すると次のようになる。より詳細なまとめもある。

  • オキシトシンという親密さと関係しているホルモンがある。
  • このホルモンが多くあると、チームのために平気で嘘がつけるようになる。
  • が、個人の利益のために嘘をついているわけではない。

オキシトシンは愛着を感じると多く分泌されるが、外から投与することもできる。そこで、オキシトシンを投与してチームプレイのゲームをさせたところ、投与したグループの方が嘘が多かったということである。

つまり、安倍政権の人たちは組織のことを大切に思っていて仲間を守るのに必死になっている可能性があるということになる。伝統的な日本の価値観ではむしろいい人たちなのだろうということだ。若干問題なのは彼らが嘘をついているのが日本国民だということだけだ。彼らは「一般の人たち」を守るために嘘をついているのだが、安倍政権を攻撃する人たちは「敵」に見えるのだろう。が、身内を守ろうとすればするほど、敵が増えてしまい、結果的に何も言えなくなってしまうということになる。

いずれにせよ組織防衛のために嘘をつく人は、嘘についてそれほど罪悪感を感じていない可能性がある。それは仲間を守る良いことであって、決して悪いことをしているつもりはない。悪いのは、親密な関係を崩そうとしている敵であり、彼らにとっては朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは、もはや一般紙ではなくテロリストと同列の破壊者なのかもしれない。

このような事情を含んで共謀罪関係の話などを聞いていると、彼らの心理が少なからず見えてくる。今、共謀罪が「一般人」を対象にするかということが問題になっているが、彼らにとっては政策の批判者であったとしても敵なのだし、自分たちの仲間を大切にするために、国民の財産を処分することもよいことなのかもしれない。つまりもはやニュートラルな一般人というものはありえない。敵と味方なのだ。

逆にテストステロンを投与されると嘘をつかなくなるという研究もあるそうだ。こちらは男性的な競争に影響しているので、内部の同調性は少なくなるのだろう。

まあ、この研究が直接安倍政権の嘘と関連しているかどうかということはわからないわけだが、いずれにせよ「倫理」で政治を語らない方がよいのかもしれない。何が「善いか」というのは人によってこれだけ変わり得るからだ。

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その居酒屋的議論の理由

つい先日、久しぶりに「仕事が大変だわ」という話を聞いた。この種の話は何のためにするのだろうか、と思った。これがなかなか終わらないのだ。

まず、これは実は間接的には自慢になっている。例えていえば、女性が高いバッグなどを「高かったのにたいしたことなかった」というのに似ている。つまり、本当はバッグを見せびらかしたいが「たいしたことないね」と言われるのも嫌なので、わざと「たいしたことない」と言ってみるという心理だ。

この時女性に「自分が選んだのだから仕方がない」と言ってみても意味はないし「では、ぴったりのものに変えてみよう」などと<建設的な提案>をしてもいけない。「いや似合ってますよ」などというのが正解だろう。女性は「そんなことないよ」といいながら満足するのだろう。

同じように「いや、頑張っていてエライと思うよ」などと言ってやるのが正解なのだろう。あやしてもらうことを期待しているということになり、実に面倒臭い。が、日本人にとってあやしあいは当然やってもらえる権利のようなものだ。

さらに、話を聞いている方も意外と満足げだ。つまり自慢されてしまうと「実は大したことがない」という感情が生まれるのだが、苦労していると聞くと逆に「自分のやりたいことをできていない」と安心するようだ。競合心と嫉妬心が強いのである。そこであの人も苦労しているのに頑張っているという感情になる。が、この競合心は意外と認識されていないのではないかと思う。

だが、居酒屋トークの一番の狙いは責任転嫁だろう。「いやいややらされている」と宣言することで「責任を取らなくてもよい」と考えるようだ。つまり、自分が好きでやったと考えてしまうと、いろいろうまくいっていないことに「これで良かったのだろうか」と考えてしまう。日本のサラリーマンは自発的意思を放棄することで、安心を買っている。会社のいう通りに転勤して、得意でないことをやらされる可能性があるのである。

最近では国内の市場が行き詰っているために、海外転勤をさせられることがあるようなのだが、海外に出てしまうと日本の法令について行けなくなってしまい、数年程度で使い物にならなくなってしまうそうだ。が、そこで「個人の成長」などということを主張してはならない。また、3年の約束で帰るということになっていたとしても、非公式ネットワークを通じて後継者を見つけた上で、その後継者にその役割を押し付けないと帰ってこれないこともあるそうである。

つまりもともと個人の成長を犠牲にしないと成り立たない仕組みになっている。いやいや仕事をさせられて誰も怒らないのは、使い物にならなかったとしても会社をクビになることはないからだろう。つまり、成長しなくなったとしても、失敗さえしなければ面倒だけは見てもらえるので、いやいや仕事をするのが最適な選択肢になるのだ。

もちろん問題点を指摘することはできる。

最初の問題はいやいや仕事をやることで仕事の効率が落ちてしまうということだ。多分、成り行きによって作られただけで何の意味もないルール縛られており、個人が効率化を追求できない。だが、現在では「それがなぜ行われているのか」を考る時間さえないそうである。なぜならばブラック企業批判があるために残業時間が制限されているからだ。

もともと企業の効率が落ちたのは人件費削減を通して技能の継承などができなくなってしまったからだと考えられる。このために新人が業務を継承できなくなっただけでなく、中間層も「人に技術を伝える」ということを習得できなかった。だが、時計の針は一歩進んでしまっていて、不効率になった状態を考えることすらできなくなってしまっているようだ。

企業もそのことはわかっているようで、社内研修をして「経営マインド」を持たせようとしたりしているらしい。例えば、経営的視点で業務改善をしてもらったり、後継者の育成を現場発でやらせようとするわけだ。

しかしながらこれは「会社に言われたらいやいやながら職場を移動する」という受け身の姿勢とは相容れない。ゆえに「研修は研修」として、実際には「誰も納得してないけど、生活のためには仕方がない」と言い訳して、結局何も変えないというようなことになってしまうのである。

が、これで企業価値が大きく損なわれるということはない。おそらく何も考えないことで表面上効率は上がるだろう。

おそらく後継者は育たないだろうが、それが表面化することはないかもしれない。10年以上かけて非正規化が進んだが、これが表面化することはなかった。問題は技術継承されず、非効率で意味のわからないルールで苦しめられるだけだが、自己責任だと思い込むに違いない。しかし、みんないやいややっているんだと気持ちをなだめながら生きて行くことになるわけだ。

居酒屋議論的な愚痴を聞きながら、いろいろと愚痴を言いながら当事者たちはそれなりにハッピーなわけだから外からいろいろととやかく言うことはないなと思った。

問題があるとしたら、みんな誰かに何かをやらされているのでリスクをとって何かをするということはないし、誰も結果責任を取らないということくらいだろう。つまり、日本の組織というのはそもそも誰も責任を取らないために存在しているので、責任追及が始まっても結局誰が何をやったかがわからなくなってしまう。これは隠しているわけではなく、そもそも最初から誰も何も決めていないからなのだろう。

もともとそういう土台があるので、うっかりと誰かが「決める政治」を始めてしまうと、状況が大混乱するのだろうとも思う。豊洲や加計学園の問題を見ていると「何がどうなっているんだ」などと思うわけだが、これは政治家だけが悪いわけではなく、もともと決めない土壌が根を張っているからなのではないかと思う。

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大麻と共謀罪

共謀罪は政権に悪用されるだろう、が

テレビでニュースを見た。共謀罪法案への反対を訴える学生っぽい女性が「このままでは日本はめちゃくちゃになる」と言っていた。顔が歪んでいたので本当に心配しているのだろう。政治家が一般の市民にここまでの不安を与えるというのはとても罪深いことだなと思った。と、同時に日本が共謀罪で無茶苦茶になることはないだろうとも思う。
日本人には独特の政治的姿勢を持っている。まず、理論や理屈などにはあまり関心を持たない。しかし、利益を独り占めすることだけは「絶対に許さない」ので「自分の利益を削っても相手を困らせよう」とする。もしかしたら(というよりかなり確実に)共謀罪法案は政権によって悪用されるだろうが、多分大方の日本人は法的安定性などというものはそれほど気にかけておらず、誰がが捕まったとしても「何か悪いことをしたに違いない」と思うだけだろう。
日本人はあまり論理を気にしないといわれても「自虐的だ」と思われるだけかもしれない。ここで極端な事例について考えてみたい。

絶対に吸ってはいけない大麻

田中聖という歌手が大麻取り締まり法違反容疑で捕まった。捕まった途端に「大麻は絶対にいけない」とテレビで連呼するいわゆる「識者」の人たちが多かった。しかし、のちに「あれは自分の車ではないから所持していたかどうかは証明できない」ということになり、無罪放免となり、拳を振り上げていた識者たちは「なんだかがっかりだ」というようなコメントを出した。一つだけ言えるのは、彼らは大麻がなぜ悪いかを知らずに、田中さんを叩いていたのだということである。
スポニチによると松本人志は次のように言っている。

松本は田中の逮捕について「警察の勇み足的な部分もあったのかな」と感想を述べたうえで、「このニュースで、大麻って吸っていいんだ!と思わせてしまった。変な暮らしの豆知識を与えてしまった」と指摘。「(極端に言えば)後輩とかマネジャーとか知り合いに大麻を持たせておいて、吸わせてもらったらいいわけでしょ?そんなことを教えてしまったなと。逆に、吸ってなくても自分の指紋なりが付いた袋から大麻が出てきたら、俺逮捕されちゃうんだ!っていう、何とでも落とし込めるのもちょっと怖い」と法律の抜け穴に首をひねり、「おかしい、矛盾してるわ」と納得いかない様子。「大麻はあかん!って言っていた我々がアホみたい」と釈然としない表情だった。

もともと日本では大麻は禁止されていなかった。これが禁止されたのはGHQの要請によるものと言われている。理由は単純で、アメリカでは大麻が禁止されていたからである。ではなぜアメリカで禁止されたのかということなのだが、タバコ産業のロビーイングの成果であるという説がある。さらに日本の輸出産業を壊滅させる目的だったと指摘する人さえいる。これらの説の真偽のほどはともかく、常習性のある薬物のうちで大麻だけが禁止されてしまった。
一方、同じ有害植物であるタバコは政治家に守られている。健康への被害が深刻だということはわかっていて、西欧先進国では軒並み厳しい規制がかかっている。ハフィントンポストのこの記事を読むと、自民党の及び腰や世界標準のズレがわかる。

内心の自由ならぬ「内肺の」自由

いずれにせよ、日本で大麻を吸っていいのは、日本では麻はありふれた植物だったからだ。つまり、どこにでも自生する可能性がある。ということでわざわざ吸う人はいないにしても、雑草として燃やした時に空気を吸い込んでしまうことがあり得るのだ。つまり大麻は吸っても罪にはならないことになっているのにはそれなりの理由がある。共謀罪風にいうと「普通の人が共謀罪の対象にならない」というのが嘘なら「普通の人が大麻を吸うことは絶対にない」というのも嘘なのだ。松本さんが「大麻って吸っていいんだ」という認識を持ったとしたら、それはとても正しい。大麻は誰の肺からも検出される可能性があるが、表沙汰にならないのは大麻の抜き打ち検査が行われることなどないからである。
大麻は自生している。北海道が90%を占めるそうで、もともとは国策によって広まったそうだ。国策だったのは、大麻が有効な輸出品だったからである。つまり、絹などと同じ位置付けだったのだ。アメリカはナイロンなどの化学繊維を生産していたので、日本から輸出される安い自然繊維を脅威と感じていたのは間違いがない。いずせにせよ、北海道には今でも大麻が自生しており、これを刈り取って捕まる人が時折いるという。

大麻、タバコ、酒のうちなにが一番罪が重いのか

大麻が健康に被害をもたらすことは間違いがない。が、これはお酒も同じである。もしお酒が禁止されていたとしたら、みんな隠れて飲むことになるだろう。当然質の悪い密造酒ばかりになるだろうし、密売ルートに関わるうちにもっと「ヤバいもの」に手を出す可能性も高い。さらに、中毒症状を起こしても医者にかかることはできず(かかると捕まるので)中毒症状は増して行くことになるに違いない。実際にアルコール中毒というのはかなり深刻な状態なのだが、禁止しろという人は誰もいない。管理したほうが、結果的には健康被害が抑えられることがわかっているからだ。
タバコ・酒・大麻の中でどれが一番罪が重いだろうか。大麻で健康が蝕まれるとしても(健康によいという主張をする人もいるようだが)それは自分だけの問題である。鎮静効果があるので「ダウンした」気分になるそうだ。お酒の場合には気分が高揚して相手に乱暴を働くことがある、家庭内暴力の多くにお酒が絡んでいるのはそのためだ。周りに迷惑をかけるという意味ではお酒の方が罪が重い。さらに、タバコも周囲を巻き込む。副流煙被害によって健康を害する人が出てくるのだ。ゆえに他人に迷惑をかけるという意味ではお酒やタバコの方が罪が重いと言える。
にもかかわらず、大麻がこれだけ厳しく規制され、タバコは年齢制限こそあるものの野放し状態になっている。論理的にはまったく説明ができないが、それを気にする人はいない。日本人は論理をそれほど重要視せず「法律違反だから悪いことだ」と考えてしまい、単純に「悪い人は排除しよう」と思ってしまうからである。
大麻の場合には警察のお仕事になっているので、これを解禁すると警察で仕事をなくす人がでてくる。だから、解禁できないのだという説さえまことしやかに囁かれている。一方で、タバコが野放しになっている理由も中小の飲食店がタバコを吸う場所を提供するということで成り立っているからだろう。結局、現状が誰かの利権につながっていて、それを変えることが難しいというだけの話なのだ。

政治について語ることが悪いことになる時代がやってくるかもしれない

共謀罪もこれと同じようなことになるだろう。警察にしょっ引かれたからあの人は何か悪いことをしたに違いないということになるだけで、一般の人たちはさほど関心を持たないはずである。なぜならば、そもそも政治に参加しようなどという気持ちはないからである。
多分、共謀罪の一番の問題は、内心に踏み込んでしまい法的体系をめちゃくちゃにしてしまうということだと思うのだが、多分国民にとって一番大きな問題は「政治について話すことは悪いことだ」という意識が定着することだと思う。それは大麻を吸うような場所に出入りするのは悪いというのと同じ話だ。タバコを吸う喫茶店に出入りしても社会的に抹殺されることはないが、大麻を吸う場所に出入りするのは「ヤバい」ことなのだ。と同じことが政治にも起こりかねない。
これはいっけん政権にとって都合がよさそうに思えるが、日本人は誰かが利権を独り占めすることだけは絶対に許さないので、誰も政治に関心を持たないが、バッシングだけはひどくなるという状態が生まれるのではないだろうか。誰も政治については表立って話さないが、バッシングの時だけは一致団結するというような社会になるのかもしれない。
 

なぜ加計学園問題だけが安倍政権の支持率を下げたのか

徐々に、政府がなぜ文部科学省の内部調査をやり直すのかという理由がわかってきた。TBSの報道特集によると、記者の追求に耐えかねた菅さんが安倍首相にアドバイスしたということらしい。支持率も下がっているということなので、やっと「まずい」ということになったのだろう。
これまでも散々悪事を重ねてきた安倍政権だが支持率が下がることはなかった。そこで世論調査自体がうまくいっていないのではないかとか、日本人は政治への関心が失われたのではないかなどと考えてきたわけだが、どうやら日本人はもっと単純に政治を見ているらしい。それは「報復」だ。
平和安全法制の問題は一部の人を猛烈に激怒させたが、それほど高い世間の関心を集めなかった。これは平和安全法制が普通の人たちには「何も関係がない」問題だったからだろうということは容易に想像がつく。自衛隊が外で何人なくなろうがそんなことは「知ったこっちゃない」し、日本の平和国家としての評判に傷がついたとしてもそれは関わりのないことなのだ。同じように東京電力の問題も「福島のかわいそうな人たちの問題」とされてしまった。他人が損害を被ってもさほど気にしないのだ。
森友学園の問題は籠池理事長が「得をしかけた」ことで少しは影響があったが、結局は収束した。籠池理事長が全てを失うことで怒りが爆発しなかったのだろう。大阪市が「保育園もダメですよ」とやったので、怒りが安倍政権に向かわなかったのではないだろうか。
山口敬之氏の問題もさほど注目されなかった。女性が無理やりにお酒を飲まされてそのあとでレイプまがいのことをされたとしても、それは世間の関心を集めないということだ。この件で誰も得をしたわけではないからである。今後、山口氏が出てくることはないわけで、ジャーナリストとしては社会的に死んでしまった。もし山口氏がコメンテータとして復活したとしたらテレビ局には抗議が殺到するだろう。被害者への同情はないが、得をして逃げおおせることは社会が許さないということになる。
が、加計学園は様子が違う。京都産業大学やその他の学校が政府が作る条件によって締め出されてしまった。これは加計学園を「贔屓」するためだと多くの人が思っている。つまり、誰かを出し抜いて自分たちだけが「美味しい思い」をすることだけが、日本人を怒らせるのだ。その意味では「男たちの悪巧み」は支持率に影響を与えたのではないかと考えられる。
多分、内部調査をやって資料が出てきませんでしたと説明しても国民は納得しないだろう。法的プロセスなどはどうでもよく、結果的に加計学園が美味しい思いをしていると思われてしまうからである。が、銚子市の例なども知られてきており、加計学園の獣医学部が認可されることはないのではないだろうか。それによって「得をしてしまう」人が出ることが許されるとは思えないからだ。
消費税の時もそうだった。役人や国会議員が痛い思いをしないのに国民に負担がくるということに怒って懲罰行動が起きた。つまり「誰かが得をするのはずるいから許せない」という行動原理があって「ずるいことをしたら報復する」ということになっていると考えられる。
これをうまく利用したのが小泉郵政選挙である。郵政選挙では郵政族と呼ばれる人たちが槍玉にあげられ抵抗勢力とみなされた。彼らが美味しい思いをしているから、自分たちの生活がよくならないとやったわけである。このやり方に学んだのが小池百合子現都知事で、自民党がオリンピック利権で私腹を肥やしてますよとほのめかして圧勝した。
前川さんが持ち上げられているが、この人は文部科学省の天下り問題の時には叩かれていた人である。天下り問題では仲間で甘い汁を吸っている人だったが、今回は安倍首相が国民の目を盗んで甘い汁を吸おうとしているのを救済した人になっている。立場によって評価が180度変わるということだから、継続性など誰も気にしていないのだ。
一方で、行動原理とか法的安定性というものはそれほど重要視されない。例えば憲法がめちゃくちゃになっても日本人はさほど気にしないだろうし、それで表現の自由がなくなったとしても「なんか、きっと悪いことをやったんでしょ」と言って終わりになるはずだ。誰かの損害が正しいことをしている自分たちのところにくるはずはないという根拠のない自信を持っているからである。
つまり、日本人は法律などの「なんだかよくわからない」ものが公平に運用されることで平等を保つなどということは全く信じていない。しかし、誰かが突出しようとすると、全員で叩くわけだ。つまり、法律を歪めて権力を手にすることはできるが、それを使って得をすることはできないという、権力者にとっては割と呪われた社会なのではないかと考えられる。