安倍首相がオバマ大統領の招きでハワイを訪れて真珠湾で祈りを捧げるという。平和のための営みであって、これはこれで否定されるべきものではない。だが、これを素直に喜ぶ気にはなれない。なぜか。
安倍首相という人はコンプレックスを抱えている。コンプレックスとは何か。それは相反する感情が複雑に結びつきつつ同居しているということである。彼が「力強いリーダーシップ」という時、そこにあるのは「誰かについて行きたい」という依存心だ。そもそもリーダーシップというのは滲み出るものであって、自分が希求するものではないのだが、リーダーシップを知らない安倍首相にはそんなことは理解できないのだろう。
さらに「戦後レジームからの脱却」は「戦前への回帰」を示しているし、「一億層活躍」は「搾取」の言い換えである。活躍は自発的な行為だが「活躍を無理強いする」というありえないことを主張しておりその矛盾に気がつかない。
これをよく表現したのが「積極的平和主義」である。地域利権の獲得と地域覇権を表した言葉なので、それを裏打ちするのは暴力なのだが、それを「反対の言葉」である平和に包んで言い換えているのだ。
オバマ大統領はリーダーの善意に訴えかけることで平和を実現しようとした。それはリーダーだけが積極的に状況を変えることができるからである。しかし依存心が強い安倍首相はそれを恭順の印として利用しようとしている。最後まで折り合わなかったのである。
テレビではしきりに献花の様子などを映している。これは天皇の平和を希求する行為の劣化コピーだ。常に誰かを模倣することしかできないのである。対ロシア外交も父親の劣化コピーだった。形への過剰な関心は、感情を理解していないことを示しており、共感力のなさを示す。
安倍首相のリーダーシップのなさが非常に危険なのはコンプレックスに覆われた人は自分の感情に向かい合えておらず、従って最後まで責任を取らないからだ。自分の依存心を満たすために状況を変えはするのだが、最後まで責任を取るつもりはない。それは「最終的には誰かがなんとかしてくれる」と考えているからである。
このため安倍首相がやったことには何一つ出口がない。つまり彼の人生は全てが中途半端であり「道半ば」なのだ。誰かが常に尻拭いをしてくれるから気にかける必要がないのだ。従って、周りにいる人に嫌われてまで状況を変えようとする気概はない。彼は自分が周囲に依存していることを知っており、周りにはそれなりの対価を支払わなければならないことを理解している。そこで周りには安倍首相に依存したい人たちが集まってくる。
さて、このように人格に欠陥がある安倍首相はなぜ首相になれたのか。それは偶然だったのか。そうとは思えない。最近「尻拭い案件」がいくつも出ている。生活のために状況を変えはしたが最終的に責任が取れなくなると丸投げしてしまうのだ。
例えば国が「最後は面倒をみます」と国際した東京オリンピックは「やはり金は出せない」ということになり「関連する県で面倒をみてくれないだろうか」という話になりつつある。森元首相はリーダーシップを発揮し「俺は知らなかった」と言っている。
国は原発政策を推進したが東京電力が事故を起こすと「他の電力会社も事故処理費用を負担すべきだ」と言い出した。これは間接的に「安全に対する費用は出さなくてもいいですよ」と言っているのと同じことになる。自発的に設備投資をしても誰も面倒は見てくれないが、事故を起こすと誰かが面倒をみてくれるということだからだ。
面倒なことに政治家は、依存心を持っているからといって「では国民を大切にしよう」という気持ちにはつながらない。コンプレックス型の依存心の恐ろしいところはそれが支配欲と結びついているという点だ。依存することによって支配するという相反する気持ちが持てるのだ。決して責任を取らない人たちの中には「日本人には天賦人権は向かない」という人が多い。これはかつての寄宿階級だった武士が支配層として振舞っていたのに似ている。彼らは依存しているからこそ「自分たちだけが支配者になれる」と考えることができるのだ。
ドミノピザ炎上
メリークリスマス! ドミノピザが炎上したらしい。とはいえピザが燃えたわけではない。
ドミノピザは1枚買ってお持ち帰りするともう一枚が無料になるというキャンペーンをやっている。ずいぶん前からコマーシャルをやっていたので、うまく機能していたと思うのだが、これがクリスマスに重なった。普段からピザを食べる習慣のあるアメリカ人と違って、日本人にとってピザというのはお祭りの食べ物なので「クリスマスを特別なものにしよう」という人々が殺到したらしいのだ。システムがパンクして「どれだけ予約が入っているかわからない」という状況になった店舗が出たという。
本部の無責任体制が問題を大きくした
ドミノピザのカスタマーセンターに問い合わせたところ、今の時点では「どれくらいの店がこのような状況になったのかを公表するつもりも、何らかの謝罪をするつもりもない」ということだ。
ネット上では「キャンセルしてかえって来ればよいではないか」という声や「別の店にすればよい」という意見もある。ドミノピザは受け取らなかったピザについて料金は取らない(クレジットカードでも)と言っているのだが、これが周知されていたかはわからない。さらに、キャンセルはお店に連絡することになっている。だが、品物を作れないほど追い込まれており、システムがパンクし状況がわからなくなった店がキャンセル電話を受け入れられるはずもない。
本部は一切責任を取らずに店に責任を取らせるという仕組みになっており(キャンセルをお店に仕切らせるというのはそういうことだ)これが問題を大きくしたのだと言える。
しかし、よく考えてみれば注文を受けたのは店ではなく、本部が提供したシステムだ。店側から注文を断れる仕組みがないとすれば、責任の大部分は本部にあると言える。問題は警察が出動して周囲の駐車違反を取締まるというところまで大きくなっており、企業の社会的責任が問われるだろう。
注文を差配するのはシステムだがパニックボタンがない
実際に予約システムを触ってみた。システムは受取時間を自動的に裁くことにになっているので、やろうと思えばお断り(時間の提案)もできたはずだ。これがうまく機能しないのは例外処理が増えるに従ってテトリスのようにたまってゆくからだろう。こうしたオーバーヘッドは通常のオペレーションでは無視できるのだが、蓄積されると標準的なオペレーションでは捌けなくなる。それが積もって誰か他の人がバックアップに回るようになると無駄な時間が増えて、ついにはダウンしてしまうのだ。
つまりシステムダウンは線形的な予測ではなく、非線形的に起こる。ところがシステムはこれを線形的にしか予想しないので、ずれが生じたものと思われる。こうした非常時対応を機械で行うためには高度なAIが必要になるが、それよりもパニックボタンをつけた方が早い。
これがないというのはシステ設計の過ちと言える。
お客さんは馬鹿正直に待ち続けた
日本人が「お得」に弱くなっている様子は。決してピザが買えないほどお金がないわけではなく、なにか得なことがないと動かなくなっているのだろう。合理的に考えると、割高なピザを買っているだけ(1枚2500円のピザを買っているわけではなく配達員の給料を払っているだけ)なのだが、自分で動いてピザが安くなると考えただけでピザ屋さんに殺到してしまうのだ。
だが、日本人は一度「ピザの頭になったら何時間でも待ち続けた」ようだ。先に確かめたように品物を受け取らなければお金を払う必要はなかったのだが、電話番号やメールアドレスを取られているし、クレジットカード番号も収めたから支払を強要されるのではという頭があったのかもしれない。「並んでいたかが買えなかったから今日はピザはなし」で済む話なのだが、「ピザのお腹」になっていてほかのことが考えられなくなっていたのかもしれない。周りが騒がしくなり冷静な思考が奪われたとしたら、もはや集団思考状態だ。
企業は炎上しないと反省しない
今回の炎上案件はまとめ記事が作られたことで広がっているわけだが、もしかしたらほんの一部の地域で起こっただけなのかもしれない。しかしテレビ局が取り上げず、従ってドミノピザも謝罪会見などを開かないので、あたかも全てのドミノピザでオペレーションが滞ったかのような印象になっている。結局「炎上」によってしか企業は動かない。これが日本で炎上事件が頻発する原因になっているのだろう。
ドミノピザはソーシャルメディアに乗ることで宣伝を加速させようという戦略をとっているようだ。過去にはイケメン投票が炎上しキャンペーンを取り下げたことがあるそうだ。最近ではトナカイにデリバリーをさせテレビのパブリシティ効果を狙ったこともある。だが、クリスマスのドミノピザ炎上はそれ以上に広がってしまう。宣伝としては効果的だが、ブランドイメージにとっては明らかに逆効果だった。
安倍政権と認知的不協和
面白いことが起きている。南スーダンに武器を入れないようにしようというアメリカが出した決議を関係国が拒否した。日本は中国やロシアとともに棄権に回り欧米と対立する。アメリカはこれを非難する声明を出した。
なぜこれが面白いのか。
これまで多くの人が日本はアメリカに追従していると思ってきた。憲法問題は例外だったがこれを一貫して説明できる法則はなく「良いアメリカ」と「悪いアメリカ」を分離して理解してきた。GHQは共産主義者に支配されていた悪いアメリカなので憲法には従わなくて良いという理屈だ。ネトウヨは共産主義者に支配されていたGHQは日教組に受け継がれ中国と結託して日本を売り渡そうとしていると考えている。
だが国連でアメリカと日本が対立するということが頻発するようになるとネトウヨの世界観は崩壊するだろう。彼らは保守を偽装しているが実際には体制におもねることで安心感を得たいだけの人たちなので「アメリカに嫌われるかもしれない」という可能性は彼らを逡巡させるだろう。
一般の人たちはもっと違った見方をしているかもしれない。「アメリカはいろいろうるさいことも言ってくるが、とにかくついて行けば大丈夫」という感覚だ。経済というのは株価によって表されると考えているので、株価さえ維持できれば文句は言わないだろう。だが経済政策がおりあわなくなれば動揺するのではないだろうか。
もちろんこれは仮説にしか過ぎないが「犬のように親米的な安倍政権」というのは安倍政権が支持され続ける原因になっているのではないかと思う。これに株価を合成したのが「安倍首相の成果」なのだ。
安倍政権がロシアと接近することでこの図式が崩れかかっている。「当然アメリカとは話がついているのだろう」という観測を流す人達がいたが、彼らが持っている潜在的な不安がよく表れている。もっとも安倍政権がロシアを手玉にとれるほどの狡猾さを持っているなら、あまり心配はないのだが、もともとがお坊ちゃん育ちで、家から与えられたものを周りの人たちに配ることによってしか権力を維持できないという首相にそのような芸当ができるはずはない。
安倍政権がどうして武器禁輸に賛成しなかったのかはわからない。いつかの仮説が考えられる。中国がアフリカに進展している。資金協力を申し入れてプロジェクトを獲得したあと、中国人を大量に送り込んでインフラ利権と仕事を確保するのだ。日本は形式上は自由主義経済なのでこうした国家ぐるみのことはやりにくいのだが、南スーダンは状況が違った。インフラ整備を軍隊が行っているからである。このため安倍政権は、利権の確保を狙って南スーダン政府に食い込もうとした可能性がある。
もしオバマ大統領が「日本はこの件に賛成するように」と釘をさしていれば話は違ったかもしれない。「ボスにさえ気に入られていればいいのだ」と考えているとすれば、安倍政権の外交方針は今後大きく展開するだろう。だが外側から見るといろいろと一貫しないところが出てくるわけで、気が狂ったように見えるだろう。
一連の観測が正しければ日本がアメリカに協力したのは単に中国を牽制する目的があったからだということになる。これを展開して行くとアメリカと協力したのは単にアメリカの威光に利用価値があったからだという結論に行きつつ。オバマ政権には理想主義的な傾向がありこれが中国を牽制するのに利用可能だった。トランプ政権はアメリカ第一主義なので、安倍政権は威光が利用できない。すると日本政府はアメリカに追従しなくなるだろう。
国際関係を研究する人の中には、トランプ政権が生まれることで安倍政権は自由に動けるようになると言っている人がいる。だが、日本の有権者がこれに不安を覚えれば内閣の支持率は低下するだろう。
また中核の支持者層であるネトウヨの人たちは強い日本という幻想にすがって生きている。背景にあるのは世界で一番強い国の一番の友達である俺たちはすごいという幻想なので、アメリカからの離脱によって著しい認知的不協和が生まれるのではないだろうか。
ただし、これが直ちに安倍政権の支持率の低下に結びつかない可能性はある。トランプ大統領はよくわからずに中国を刺激している。うまく利用できれば今後も中国に対抗することは可能だが、対立に抑制的だったオバマ政権とは違って抑止的なメカニズムがなくなる。中国が経済圏から切り離されると日本は経済成長することになり、引き続き安倍政権は支持され続けることになる。実はこれが最悪の可能性だと言える。ブロック経済化が進んでいるということになる。これは第二次世界大戦の日本と同じ状況に中国が追い込まれるということなのだ。
子供を産まないことで政府に抵抗する日本人
少子化が止まらないみたいで、ついに100万人を切ってしまった。安倍政権は様々な少子化対策を行っているが、なにも成果が出ていないことが明らかになった。日本人は安倍政権に対して反対意見を唱えたりはしないし、デモに出て子育て環境の充実を訴えたりはしない。その代わりに「子供を産まない」ことで政府に対して抵抗している。もちろん母親だけの問題だけではなく、父親も大きく関わっている。
少子化対策には幾つかのアプローチがあるが、最終的には結婚の解体や家族の解体が答えになりそうだ。
最初に考えられるのは、母親のキャリアの柔軟化である。子供を数人産もうとすると、女性はキャリアの最初と途中に子育てで数年職場を離れる必要がある。現在は正規社員の非正規化が進んでいるので育児休暇が「首切り」の絶好の機会になっている。女性を非正規転用することで、正規職員並みのスキルを持った労働力を安く使えるのだ。
このため女性は職場に止まりギリギリまで子供を作らない男性もこのあたりの事情は一緒で「家庭をとるか、職場をとるか」の選択を迫られかねない。つまり「子供を育てることは損」ということになる。そのような選択をした人が生き残り経営トップになるという適応が行われるので、自然と子育てに向かない会社が作られる。
企業は格差を作り出すことによっても少子化社会を作り出している。大学を卒業しないとまともに家庭が維持できるような仕事が得られないので教育費がかさむ。競争が過剰になると大学の学費も上がる。そこに行き着くまでにもお金がかかる。もし職人レベルでも生活が維持できて家庭が持てて老後が安定するならば、大学への進学は減り学費も低下するだろう。
そもそも日本の大学は技術養成の役には立っていない。企業は新卒者に「自前の教育」をするのが前提になっている。文学部を出た人がSEになれるのはそのためだ。大学が選考されるのは経営者とその候補者が大学を出ているからだ。経営に興味がない技術職は本来ならば専門学校を出ただけで就職できるはずなのだし、そもそも学校に行かず企業が教育をつけてもよいはずなのだ。
大学の最後の2年は就職活動の期間になっていてまともに勉強することもない。論文は記念のようなものであり、その後の人生で役に立つことはあまりいない。つまり、日本の大学は社会にとって余剰支出になっている。だがその余剰支出ができない人は搾取される側に回ってしまうのである。
ここまで2つの問題の核には「縮小する経済」がある。搾取される側を作り出そうとしているのだが、搾取されるくらいならそもそも搾取される人を作らないということになっているわけだ。一人なら搾取する側に回れるかもしれないが、同じ資産で二人育てると二人とも搾取されかねないわけである。
企業の問題を解決すれば少子化は止まるはずなのだが、それには長い時間がかかりそうだ。ここで直面するのが「結婚」という不思議な制度だ。
現在の結婚制度は正社員制度の崩壊とともに破綻した。現在の結婚は正社員個人の資格で企業と契約して二倍の給料をもらったうえで、それを対価にして家政婦を雇い子供を育ててもらうという制度である。これが維持できなくなり結婚して子供が作れる人が減った。
また、すべてが経済化する中で「家事は労働」と捉えられるようになった。地域のつながりがなくなり「家にいる主婦は社会から切り離されている」とさえみなされている。本来は地域には子育てや見守りといった経済的に計数できない役割があり、主婦は忙しかったはずである。これも経済化し「ボランティアか搾取」ということになった。正社員制度と地域が崩壊した結果、結婚は意味をなくしているようだ。
当人同士がそれぞれの状況に合わせてパートナーを選び(パートナーは単数とは限らない)子供を作るという「契約婚」は現在では「不倫」と呼ばれる。コパートナーシップ制度がないので、子供(すべてが婚外子になる)を核にした財産経営はできない。例えば、経済的に余裕のある男性が2人の女性との間に子供を設ければ少子化は解消するが、財産を2つに分けて母親と共同で運営することも、経済的に余裕のある女性が「遺伝的な父親になってくれる男性だけが欲しい」ということもできない。実家が裕福な女性は結婚しなくても子孫さえ持てれば別に良いわけで結婚にこだわる必要はないはずなのだ。
自民党の憲法草案は「家」を中心にした制度にすることで「日本人らしい」家のあり方を模索している。個人を否定しているのだが、これだけでは不十分だ。本来の家は事業体なので、これまでのような個人と企業の契約に基づいていた正社員制度を維持するか、それとも家を事業体にした制度に回帰するのかという議論が必要になる。すると自然と「事業体を持たない家」(もともとは小作階層だが、現在の企業人はすべてここに収まる)をどう捉えるかという大問題に行き着く。現在の憲法議論は戦争に負ける前の特殊な事情への回帰という側面があるので、それがどういう意味を持っていたのか、果たしてそこに戻るのがよいのかという根本的な議論がない。
年金制度では事業体としての家は冷遇されている。これは年金制度が兵士保証を起源としているからだと考えられる。国家が個人としての兵隊を処遇するための制度が、個人主義化した憲法下で発達したという経緯がある。戦前の日本にこうした発想がなかったのは企業が丁稚奉公人の一生を面倒見ており、最終的に実家に帰って暮らすか、のれん分けさせるかという配慮をしていたからだ。つまり、憲法をいじるとこのあたりの制度をすべて再構築する必要がある、ということになる。
少子化対策というのは実は保育園を作ることではない。しかし、これを真面目に考え始めるとかなりの時間とは話し合いが必要になる。現在の国会議員ではこうした議論には耐えられないのではないだろうか。
経済が分からない左翼と英国の原発への投資問題
イギリスで原子力発電所を建設するために日本が資金提供する用意があるというニュースをTwitterで見た。イギリスにくれてやるなら貧困対策に回せというような趣旨だった。またサヨクの人が騒いでいるなと思った。
調べてみたところイギリスではニュースになっておらず、業界紙の他にはNHKとJapan Timesの記事が見つかっただけだった。どうやら日本政府がイニシャルの資金を提供するという話らしい。これを普通の経済用語では投資という。イギリスに「くれてやる」わけではなく、基本的にはあとで回収すべきものである。
社会学系の先生が多分「援助」と「投資」の違いがわかっていない点は問題だ。英語は堪能なはずで調べれば状況はよくわかったはずである。が、投資と援助の違いはもしかしたらわかっていないのかもしれない。あるいは原発なので脊髄反射的に反応した可能性もある。
この投資の背景には何があるのだろうか。資金調達の問題があったとする業界紙を見つけた。もともとイギリス政府は自国の税金で開発のイニシャルコストを賄おうとしていたのだが、住民が反発したためにそれを日本政府が肩代わりしますよということのようだ。
日本人がこのディールに反発しないのは、納税者が政府支出の半分しか負担していないからだろう。現在政府はほぼ無利子で資金調達ができてしまうので、政府調達資金についてもあまり危機感を持たないのだろう。ヨーロッパ諸国は政府の借金を制限する方向にあるので、大きな温度差が生まれることになる。
これをどう考えるかは微妙なところである。日本の原子力発電所開発はほとんど不可能な状態なので、産業を維持するためにはどこか別の国に頑張ってもらうしかない。しかし、そもそも原発が衰退産業化しており、ライフタイムのコストが予測できない(重大事故が予測できない上に損害が青天井になる)という致命的な問題を抱えている。つまり国のコストをかけてまで原発産業を守るべきなのかという問題がある。
イギリス人は自分で金を出すので真剣に議論するが、日本人には危機感が薄い。これが国債を無制限に発行することの最大のデメリットなのだ。このことは副次的な問題を生み出す。
日本政府の資金保証能力にはかなりの疑問符がつく。オリンピック招致の際に安倍首相はドヤ顔で「日本政府が資金調達を保証する」といったが、予算を膨張させた挙句「政府が出せ」とか「東京都が出せ」という話になってしまった。森元首相が予算を膨らませる中、何も言わなかった。予算保証するためには見積もりを取る必要があるのだが、日本政府には基本的に見積もりを精査する能力はなさそうだ。
これは例えれば、銀行が資金保証をする時にその見積もりを借り手に頼っているみたいな話である。家を建てる人が1000万円で家が建つと自己申告し、あとで「トイレを豪華にして、寝室を1つ増やしたい」ということだ。だから追加の5000万円を貸せということになる。そして「ない金は払えないからあるとき払いで頼むと」言う。庶民はこんなことはできないがオリンピックではこれが通ってしまうのである。
最後の問題は少し見えにくい。日本が南スーダンで非難されているという話を読んだ。もともと国連は現地政府の要請で入ったわけだが、政府そのものが暴力化しつつある。しかし日本は利権が欲しいので政府との関係を断ち切れないようである。現在は南スーダンに武器の流入を制限するかという問題になっており、日本とアメリカなどの先進国が国連で対立している。支援で調達した武器が政府を通じて民族浄化に使われているのである。
日本政府は法整備上も政府が機能しているという前提でしか自衛隊を派遣できない。自衛隊がいなくなるとこれまでのインフラ整備がただ働きになってしまう。そこでずるずるとアメリカなどに非難されながらも南スーダンにコミットしてゆくことになっているようだ。つまり、利権を確保するために物語を作ってしまう癖があり、状況の変化に対応できないのである。
背景には「自衛隊の人件費がタダ」という問題がある。つまり最初から投資という視点が働きにくいのだ。
サヨクの人たちが経済を理解しないので表面的で的外れな批判に終始してしまうのだが、実際には幾つもの問題があるわけである。まとめると次のようなことになる。多分経済記者などは分かっているはずだが何も言わない。つまり、まともな批判がないので、政府が堕落するのだ。
- 日本政府は資金調達に対して甘すぎる見通しを持っている。
- 日本政府にはプロジェクトの見積もり能力がない。したがって返済の見込みがなくてもお金を貸してしまう可能性が極めて高い。
- 日本政府は物語に従って投資を正当化するので状況が変わっても撤退ができない。そのため問題が取り扱い不能になるまで孫が膨らむ可能性が高い。
政府は国民の主権を減らして国が事業に直接関与するようになれば、競争力が増すと考えているよだ。これが憲法改正への動機の一つになっている。だが、実際にはかなり悲惨なことになりそうだ。多分国民は「非正規雇用化」されて、正社員(官僚)や役員(政治家)のために働くことになるのだろう。
ASKAさんと藪のなか
思いついちゃったので書くのだが、抗議がきたら取り下げようと思う。お茶から覚せい剤が出るルートは3つだ。本人、警察、お茶の業者である。
仮説1;ASKAさんはまだ覚せい剤を持っている。自分の著作の宣伝をしたかったので、お茶に覚せい剤を入れて提出し、おかしなことを言って逮捕された上で「あれはお茶だった」といった。トイレにはスポイドが常備されていた。全てASKAさんの事前の筋書き通り、科捜研はお茶と尿の区別はせず、覚せい剤だけに反応した。当然、計画通りなので覚せい剤は抜いておいた。マスコミはASKAさんの動向を伝えたので出版される本の名前やこれからの音楽活動の宣伝になった。一度誤認逮捕されてしまえば、逮捕されることはなくなる。
仮説2:警察はとにかく彼を挙げるつもりでいた。そのため証拠を捏造した。しかしASKAさんは事前にそのことがわかっており、お茶をコップに入れる動画かなんかを撮影し「ほら、証拠があるよ」と言った。警察は隠蔽しているわけだから当然再検査しようなどとは言い出さなかった。普段から警察がよくやる秘密の手口だったが証拠があっては仕方がない。警察の策謀は失敗に終わった。
仮説3:実はASKAさんがよく飲んでいるお茶は中毒性を出すために薬が混ぜてあった。中毒になるとリピートしてもらいやすくなるはずだからだ。だから、お茶には覚せい剤に似た成分が含まれていた。
安倍なれという由々しき問題
オスプレイ墜落事故の波紋が広がっている。四軍調整官が机を叩いて「パイロットは悪くない」と主張したせいで、新聞社が調整官の高圧的な写真を掲載したせいで、米軍はイメージアップ作戦に転じたようだ。米軍は地域と話し合う用意があるなどというプロパガンダとともに調整官が子供と一緒にいる写真を流してイメージアップ作戦を展開した。
ここから、アメリカ人が現地の炎上を恐れている(つまり、民衆の怒りをシリアスに捉えている)ことがわかる。と、同時にアメリカ人が現地のコンテクスを全く理解ができないということでもある。アメリカは昔から植民地(ここでは沖縄のこと)の直接経営が苦手だ。多国籍の人たちが白人文化をもとに作られたアメリカ文化のもとにまとまるという理念のもとで運営されているために、アメリカ文化を持たない多様性にうまく対応ができないのだ。
これは日本人が突然ロシアの統治を任されたところを想像してみると良いだろう。ロシア人は信用できない人との交渉でことさらに自分を大きく見せようとする傾向があるそうなのだが、日本人は「ロシア人が過大な要求をするのではないか」と警戒するだろう。だからといって厳しめに接すると、現地のロシア人たちは怒り出すはずだ。彼らは過大な要求を通じてプレゼンスを確認したがっているからである。アメリカ人が日本に感じているのはこのような状況なのだが、中東でも同じような文化的な軋轢に直面している。
沖縄は基地運用に関わりたがっている。日本の文化圏では意思決定に参加することの方が、決まった事項そのものよりも重要だからだ。沖縄にとっての苦痛は「事前の根回しなしに」オスプレイの導入が決まり、事故調査に加わって影響度合いを確かめられないことなのだ。アメリカ人は契約をベースにして分担を決めるが(アカウンタビリティ、レスポンシビリティ、ジョブディスクリプションなどの用語が豊富にある)日本人は意思決定を誰かに任せたりせず全てを監視したがる。
ということで、アメリカ人に抗議をするときには、彼らの論法で抗議をする必要がある。と、同時に彼らの言語を使うことが重要だ。現在ではTwitterが革命につながることがあるくらいパワフルなツールとして認知されているので、英語で彼らに直接抗議をすることには多分想像以上の影響力がある。だから一般市民が「炎上」することが重要である。いわば「サイバーデモ」のようなものなのだ。
しかし、日本人は決して英語ではつぶやかない。最初は英語が苦手だからなのだろうと思っていたのだが、学者や著述家たちは日本語で「いかに米軍が横暴で、オスプレイ導入と運航再開は間違っているか」を話し合っている。多分、彼らは直接意思を伝える方法があることも知っているし、そのための能力は備えているだろう。
にもかかわらず彼らが決して英語でつぶやかないのはなぜなのだろうか。それは彼らが決して責任を取りたくないからなのだろう。もしオスプレイの件が炎上すれば、米軍は日本から出て行きかねない。そこで、間接的なやり方を好むのだということになる。それは日本政府に文句を言うことである。日本政府に文句を言っている限り、彼らは日本政府に協力する必要はなくなる。
沖縄のような切実さはない。彼らにとっては「日本政府に距離を置くこと」が重要なのであって、オスプレイなど実はどうでも良いのだ。同じコンテクスト依存文化なのに、沖縄が意思決定に関われないことに苛立っており、本土の日本人が意思決定に関わらないことに安心しているのはそのためなのかもしれない。
同じような構造はサラリーマンの居酒屋談義にも見られる。彼らは居酒屋で経営論を交わすが、決して経営会議で同じことは言わない。それはサラリーマンが責任を取らされることを恐れているからである。「じゃあ、あなたがそのプロジェクトをやって」と言われるのが嫌なのだ。経営に文句をいうことで自分のリソースが過度に利用されることを防いでいるのである。
その意味では安倍政権は極めて危険だ。安倍首相は幻想の世界を生きている。抗議は「一部の特殊な人がやっていること」であり、一部の特殊な人たちが推進する憲法改正は国民の声だ。これはイライラするように見えるが、全く責任を取りたくない人たちにとっては有利に働く。どんなにデモをやってもそれが結果に影響を与えることはないので、無責任なことがいくらでも言えるからである。
これを「安倍なれ」といっても良いと思う。安倍なれはとても危険である。左翼は安倍なれしている。
生産性と効率について考える
先日NHKを見ていたら、女性が働くことの難しさについての特集をやっていた。男女が共に働いているのに夫は家事を手伝わない。さらに子育てでキャリアは中断されるのだそうだ。いろいろなことを考えたのだが、最終的にはちょっとへんな方向に着地した。
あんぱんを作っている国があるとする。あんぱんの作り手が一日中あんぱんを作っているのだが、これを売る人はいない。あんぱん工場に買いに行くのだ。そこで分業が起こる。売る人が出てくるわけである。さらにあんぱん製造を効率化する人がでてくる。あんぱんの製造が効率化されるとクリームパンを作る余裕が生まれ、さらに子どもを育てたり外であんぱんを食べる(余暇)時間が生まれる。これが「成長」である。つまり、分業は成長をうむはずである。ちなみにこれを国際的に展開したのが自由貿易論である。
保育もこの分業の一部だということが言える。つまり、あんぱんを作ったり売ったりしている人たちが、さらに忙しくなったの子育てを分業するわけである。
話を単純化するために、この国では全てのお金はあんぱんを売って得たものだとする。つまり、あんぱんが余計に売れるようになったので子育てを分業する余裕が生まれ、子育てを分業したことで効率がさらによくなる場合、保育の分業は正当化されるということになる。
しかし、実際にはそうはなっていない。現実をみると給与が増えていないにもかかわらず「子育て」という仕事が増えていることになる。ちなみに就業者数も増えていないので、明らかにみんな忙しくなっている(これも実は労働時間だけでは計れない。2つの仕事を掛け持ちしても労働時間は増えないが実感としては忙しくなったと感じるだろうし、24時間メールに返事をしなければならないとしても忙しいと感じるだろう)はずだ。
つまり、全体としては効率が下がり、生産性が低くなっているということが言えるだろう。子育てを分業してもあまり意味がないのは、これが効率化ができない仕事だからだ。病気になれば預かってもらえないので仕事が中断されるし、完全に機会化されていて100人の赤ちゃんの面倒を1人で見るということもできない。
ところが統計上は生産性はそれほど下がったことにはなっていないはずだ。番組の中には1か月に10万円を支払っている人の話がでてきたのだが、これは単純に10万円分経済が成長していることになってしまう。一人の雇用が確保されたことになる。ここから得られるのは単純な事実だ。つまり生産性の向上というのは、社会の効率化を必ずしも意味しないのだ。
売ったり効率化したりする人が正社員になっており、アンパンを作る人が非正規だということなのだが。非正規がそれほど必要なかったのは、成長に多くの資産を分配していたからである。もう成長しなくてもいいということになると、正社員は仕事をなくす。これが日本が経済成長しなくなった基本的な原理だと考えられる。だからといってこの人たちが経済から解放されて子育てや介護に戻ってくるということはない。なにか仕事を作っている。
アンパンを作るのは立派な仕事だが、実際にはどうやったらカレー味のあんぱんが作れるかという会議を開き、そのための先生役を引き受けたりした(つまりこれがコンサルタント)だけでも「対価」は発生する。これも統計的には生産性の計算式のなかに加えられるが、実際には効率が落ちている。中にはコンサルタントをまとめる会社を作ってそこの社長に収まった上で、一日中新聞を読んでいるという仕事もある。形式的には「責任をとる」のが仕事だ。
すると社会の効率が落ちるので、誰もあんぱんを食べる時間がなくなる。机であんぱんを食べるわけだ。すると「あんぱんが売れなくなった」という会議が開かれる。
いろいろと書いてきたのだが、一般の人が「生産性」という場合、社会の効率化を意味しているかもしれない。だが実際には「生産性」は投入した仕事量とアウトプットの比率のことを言っているだけなのだ。
どちらかの親が仕事をして、どちらかが家庭に収まった方が効率がいいに決まっている。また、仕事を3年程度離れても復職できた方が効率はよい。新しい知識を教えなくてもすむからだ。さらにコンビニは24時間営業でなく、きまった時間だけ空いていた方が効率はよいはずだ。その意味では明らかに社会は非効率になっている。だが、それは直観に過ぎない。それを改めて測った人は誰もいないのだ。
新しい戦前は始まっている – お国のために死んでくれの萌芽
先日Twitterを見ていて、かなりショッキングな記事を見つけた。軍事アナリストの小川和久氏の投稿だ。小川氏は先日来「アメリカ軍が不時着と言っているから不時着なのだ」と言い張っている人である。元テストパイロットの人が書いたFacebookへの投稿が貼ってある。概ね次のような内容だった。
オスプレイは構造上の難しさがあり操作が大変難しい。そんな中パイロット達は頑張って訓練を重ねている。だから周囲はそのことを理解すべきだ。
オスプレイを空中で揺れなくするためにはかなり高度な技術が必要なようである。印になるようなものが何もなく、常に危険と隣り合わせになるらしい。
投稿には書かれていなかったのだが、デメリットがあるにもかかわらずオスプレイが推進されるのはメリットがあるからなのだろう。費用が安くなるからなのかもしれないし、機動力の高さがあるのかもしれない。中国まで飛んで行けるので潜在的な抑止力があるという観測も目にした。
確かに、こうした意見には見るべきところがある。米軍は本島への被害を避けるために海に誘導したと主張しており、もしこれが真実であれば、この件は美談であるかもしれない。
さて、メリットがあるからデメリットも享受しなければならないという主張は正しいのだろうか。これは結果的に基地周辺にいる人に「墜落」のデメッリットを受け入れよと言っているのと同じことになる。今は沖縄だけなのだが、日本本土にも導入が検討されている。つまり、局地的に不利益を甘受すべきという土地が出てくる。つまり、これは突き詰めてゆくと、国益と同盟の利益のためにお前は我慢しろということになってしまうのだ。
これは戦前に「お国のために我慢しろ」というのと同じ理屈だ。現地の兵隊さんは頑張っているのだから、お前はヘラヘラするなということになる。大抵は全体の利益を考えてのことではなかった。地域や組織のマネジメント能力のない人が、この理屈を利用した。その技量の貧弱さを隠蔽するためだ。下手をすると略奪のための理論になったりもする。これが行き渡ったのが全体主義だ。
全体主義が横行する背景には、アメリカ軍の費用削減と中国の台頭が背景にあるのだろう。そのために潜在的な危険性のある技術を使わざるをえない。その不利益を被るのは意思決定した人たちではなく、沖縄、佐賀、宇部といった限られた場所に住んでいる人だということになる。だが、よく考えてみると、中国の台頭とうまく付き合えないのは日本の政府が影響力を行使する技術を身が入ってこなかったからである。代わりに金をばら撒き影響力を買おうとした。
こうした近視眼は軍事組織でなくても起こり得る。例えばデザイナーはデザインのためには製品が不便になってもよいと考えるし、プログラマはプログラミングが美しくなるためには機能が生解されるべきだと考えるだろう。たいていの組織にはこれを補正する仕組みがある。つまり、関係者によって利害が対立するわけで、これを調整するのが本来の「政治」である。
だが、米軍と沖縄の関係をめぐっては「政治」は機能していない。日本の政府が現地の利益を代表しないのは問題だが、米国政府も実は米軍をコントロールできていない。性的犯罪が横行しており、男性が男性にレイプされるというような事件さえ起きているのである。
軍隊に政治を期待するのは無理だ。もともと、個を捨てて全体に準じるのが軍隊であり(でなければ勝てない)軍人が政治的能力を磨くことはない。四軍司令官が机を叩くのは当たり前である。問題は彼が表に出てきてしまい、駐日大使をはじめとした人たちが一切表に出てこないという点だろう。政治が軍を傍観しているのである。
米軍はオスプレイには問題はなかったとして運行を再開する予定だという。オスプレイの安全への懸念を軽視しており「運行停止」は儀式だと考えている様子がうかがえる。考えてみればシステム全体で機能しているのだから、給油と飛行を切り離しても何の意味もない。日本政府はこれを正しく伝えて米軍に再考を促すべきだが、これまで米軍に追随し影響を行使する努力を怠ってきたためになにも言えない。これが国内に懸念を作り出し、結果的に日米同盟を危機に陥れていることになる。
日本政府の弱腰は結果的に国民に対する過度に強気な態度として現れ「憲法を改正して国民の発言権を弱めたい」という倒錯した願望となって露呈しているのだろう。
北方領土と南方領土
安倍首相とプーチン大統領の共同会見を見ていて違和感を感じたことがあった。最初の違和感はロシアの最初の質問者がシリア情勢について聞いたこと。これはロシアは日本にはたいして興味がないということを示しているのだろうと思った。と、同時にロシア人が持っている大国意識を感じた。シリアはロシアの利権地域であり、それを守ることはロシア人にとってかなり重要だったのだろう。同じことはクリミア半島やウクライナにも言える。この地域にヨーロッパが進出することが許せないのだろうことが想像出来る。
次に面白かったのはプーチン大統領に対する最後の質問だ。通訳者がまずいためなのか、早口で何を言っているのかわからなかった。後で探してみたのだが、声明は見つかっただけでこの質問に対する答えを探すことはできなかった。うっすらとした記憶なのだが、沖縄を返還しないよという恫喝があったということを指摘していた。
調べてみると「ダレスの恫喝」という出来事があったそうだ。日本が南クリルのソ連への帰属を認めてしまうなら、沖縄をそのままアメリカが占領することも正当化されるだろうという主張のことだそうだ。ダレスの意図がはっきりしなかったので、様々な憶測を呼んでいる。曰く、アメリカは二頭返還論を認めなかったので日本の選択が狭まったとか、逆にそんなのはデマだという議論があるそうだ。
いずれにせよ、アメリカは南西諸島の主権を認めた上で基地利権を獲得したことになる。利権を確保しただけでなく基地の維持費用を日本に出させている。さらにアメリカは同盟関係まで結ばせて日本を経済圏として確保している。一方、日本利権に出遅れたソ連とその後継国であるロシアは「日本利権から締め出されている」ことになる。
これをイーブンにするためには、南西諸島からアメリカが出て行かなければならない。つまり、利権をさらに戻せば、交渉してやっても良いということになるだろう。日本は絶対に飲めない条件なのだが、それでも構わない。日本は北方領土に固執しているからいくらでも利益を提供してくれるからである。日本はATMのように機能するのだ。
日本人はなぜプーチン大統領の指摘を無視したのか。これについて考えてしまうと、日本が敗戦国でありアメリカに利権を提供しているという苦い事実に直面せざるをえなくなってしまうからだろう。代わりに日本は自発的に協力して力強いパートナーとして機能していると思い込みたいのだ。
大国が存続するためには各地に利権を持っていなければならないというのもある意味は物語だし、敵国からパートナーに昇格したというのも物語だ。どちらの世界に生きるのかは受け手次第なのだが、日本も利権を確保するために海外に軍隊を送る国になってしまったのだから、意識を変える必要があるのではないだろうか。それは「取るか取られるか」という世界への入り口でもあるのだが。