経済学という名前のカーゴカルト

高橋さんは、経済状況は好転しつつあり、日本人の給与はそのうち上がり始めるだろうと言っている。すべてはアベノミクスのおかげだ。これを批判する民主党は自らの経済音痴ぶりを披瀝しているだけなのだそうだ。
アベノミクスは物価を上げる。物価が上がると実質賃金が下がる。すると人件費が安くなる。需給曲線の示すところによると、人件費が下がると需要が上がるので、雇用が生まれる。現在、失業率は低く押さえられているので、そのうち人手不足に陥り、今度は賃金が上がって行くだろうと言っている。
wageさて、実際はどうだろうか。日本人の給与総額は2000年頃をピークに下がり始めている。バブル崩壊後も終身雇用体制が残ったために給与調整が進まなかったのだが、その後労働市場の「規制緩和」が起こり、非正規労働へのシフトが起こった。給与所得者の数はそれほ変化しなかったので一人当たりの給与は下がった。つまり、労働市場には構造変化が起きていたということになる。この構造変化はアベノミクスとは全く関係がない。
また、実感としても給与が上がる気配はない。終身雇用の一翼を担っていた家電産業は総崩れ状態で、テレビ・パソコンなどの事業を切り離して、ブランドだけの会社になりつつある。一方で家電に変わる新しい経済の担い手は出現していない。日本の産業は資産の付加価値化に失敗しつつあるように見える。投資資金は潤沢にあるが、それを活かせる経営者がいないのだ。
また、多くの業種で多重請け負い化が見られる。もともと建設業界で見られたものだが、ITやコンテンツ産業(特にテレビなど)では、末端の従業員は「個人請け負い業者」であり、労働者として保護されることはない。価格競争力が低いので賃金は底辺に張り付いたままだ。時間辺りの賃金で見ると「コンビニで働いた方がマシ」という人たちに「あなたの賃金はじきに上がりますよ」と説得してみると良い。嘲笑されるか袋だたきにあうだろう。
確かに、需給曲線理論は教科書的には正しそうだが、理論が成り立つためには前提が必要だ。需給曲線は自由交換に基づいた理論だ。労働者は労働市場を自由に移動でき、需要に見合った給与が得られるというのがその前提であろうと思われる。
しかし、実態は終身雇用制と非正規雇用の二重構造が見られる。いったん終身雇用から滑り落ちてしまうと、低い賃金しか期待できないので、移動が抑制される。非正規から正規への移転はない。さらに、給与は労働力への需要で決まるわけではない。同一労働に正規・非正規という二重の賃金体系ができているからである。
もっとも、高橋理論は「自由な市場」であるパート労働の世界では実現するかもしれない。そこには自由な移動があり、時給を上げなければ人が集らない。つまり、正規から非正規への移転が完了してしまえば、理論が成就する可能性がある。多くの労働者が生産性の低いサービス産業に貼付けられており、製造業も中進国と競争するという世界だ。
多分、介護や福祉などの現場ではこうした現象が起き、人が集らなくなるだろう。外国人研修生は「情報」を利用して賃金の高い現場に脱走する。いずれにせよこの場合、2000年以前の給与水準グラフは「なかったこと」にしなければならない。故に「高橋理論」は、民主党政権時代と安倍政権時代だけを切り取っている。
この世界では、中進国と価格競争するために、給与を下げる必要がある。そこで国民を貧しくしてしまえば、価格競争力が増し製造業が誘致できるというわけだ。この考え方は宗主国が植民地に対して抱いている願望に似ている。
いわゆるリフレ派の理論は既に破綻している。お家元のクルーグマンが「実質的に」失敗を認めているからである。(クルーグマンは、ものすごく思い切った財政政策を取れば回復するかもしれないが、政治的には無理なんだろうなあというようなことを言っており、全面的に間違っていたと認めた訳ではない。)原油価格がさらに下落する(アメリカが原油輸出を解禁するのだという)ことが予想されるので、物価が下がることも予想されるが、これも財政政策とは関係がない。高橋理論に従えば、物価が下落すれば失業率が上がるだろう。
もっともこの件で経済学を糾弾するのは間違っているのかもしれない。クルーグマンは実態を見た上で「自分の理論のどこがまちがっていたのか」を考察している。日本の経済学はそれを輸入して自説に合わせて料理する。その意味ではカーゴカルトの一種なのだろう。もしくは自分のフィールドである財政学に合わせて理論を構築し「すべては財政を中心に回っている」と考えているわけで、これは天動説の一種だ。
つまり、日本には経済学などないのだ。

スターウォーズと日米のコンテンツ産業

もともと大陸間弾道ミサイルを開発したのはヒトラーだった。敗戦でその技術がソ連とアメリカに移り、ミサイル技術は核爆弾と結びつく。と、同時に同じ技術を応用して人を宇宙に送る計画が米ソで立ち上がる。最初に人を送り込んだのはソビエトだったので、アメリカ人は大いに自尊心を傷つけられた。そこで、登場したのがアポロ計画である。月に人を送り届けようというのである。
アポロ計画は1960年代初頭に始まり1969年に最初の宇宙飛行士が月に立った。この様子はテレビ中継され、いよいよ宇宙旅行というものが現実味を帯びるようになった。
ジョージ・ルーカスはもともと戦前の宇宙活劇『フラッシュゴードン』を制作したかった。しかし、権利が買えなかったために映画化を断念し、代わりにオリジナル脚本を書いた。これが『スターウォーズ』の前進になるプロットだ。当初のプロットは『フラッシュゴードン』のような勧善懲悪のストーリーだったと言われる。
ルーカスはやがて、エンターティンメントの基礎として、神話や古典などの要素と、好きだったウェスタンや黒澤映画などを混ぜ合わせて、3話分のストーリーを作り上げた。しかし、予算や時間上の制約から3話分を盛り込むことができず、さわりとなる一部だけを映画化することにした。同年(1977年)に公開された『未知との遭遇』の予算が2000万ドルだった一方で、『スターウォーズ』の予算は1300万ドルと比較的低予算だった。
基本的に勧善懲悪の分かりやすいストーリーで、狭い世界にいる若者が広い世界を探検するという親しみやすい要素も盛り込まれている。それに加えて、神話の要素を加えたので、スターウォーズには子供が良い父親と悪い父親像を統合するという心理学的な要素がある。ユングによると、長く語り継がれる神話や伝説にはこうした基本的な構造が見られるとされる。こうした要素は「元型」と呼ばれている。
SFは単に子供向けのエンターティンメントと見なされるか、芸術性で難解なものが多かった。スターウォーズはこの両方を統合して興行的にも成功した。このため、テレビドラマだったスタートレックなども映画化されることになった。しかし、スターウォーズの成功がもたらしたの影響はそれだけではなかった。
スターウォーズで培った映像制作技術はコンピュータを使った特撮技術の発展に一役買った。ルーカスフィルムのアニメ部門だったピクサーは1979年に独立し、アップルを退社していたスティーブ・ジョブズに買い取られた。ジョブズはもともとピクサーをハードウェアの会社にしたかったようだが、後にソフトウェアとコンテンツ制作の会社になった。
デジタルビデオ技術の発展はコンピュータの需要を作り、技術革新に貢献した。今ではパーソナルコンピュータレベルで、かつてのワークステーションレベルの仕事をこなすまでになっている。
ピクサーは顧客獲得に苦労するが、アニメーションの制作コストを削減したかったディズニーとの関係を構築する事に成功した。その後、ディズニーはピクサーを子会社化し、最近ではルーカスフィルム本体を買収した。ルーカスは『スターウォーズ』の最後の3部作を制作するつもりはなかったようだが、ディズニーによって制作が継続されることになった。
スターウォーズは、物語に元型の要素を加えて普遍化を図った。文化依存性が低いので、世界各地で興行的な成功を収めた。その資本で高度な演算能力が必要なコンピュータグラフィックス技術を発展させた。つまり、コンピュータ技術の発展にも一役買っている。ディズニーも労働集約的な産業構造から脱却するためにコンピュータグラフィックス技術を積極的に採用した。
ハリウッドやベイエリアには世界各地からハリウッド映画に憧れた才能が集ってくる。こうした移民の多様な才能が映画産業やコンピュータ産業を支えている。最近のハイテク業界ではインド人のCEOが「トレンド」である。また、ハード、ソフト、コンテンツのような異なった文化を統合することに成功している。文化統合はアメリカの得意分野なのだ。
一方、日本の映画界はどうだったのだろうか。
戦後、映画は唯一の娯楽であり、1950年代には1000万人の動員数を誇っていた。日活が映画業界に参入するのを防ぎたかった映画会社五社は1953年に「五社協定」を結び、監督や俳優を囲い込んだ。その後、テレビが登場すると映画産業は斜陽の時代を迎える。1000万人いた動員数は、1965年頃には400万人にまで落ち込み、1970年代には200万人頃まで下落した。
結局、斜陽に陥った映画産業は所属俳優を雇いきれなくなり、1971年に協定は崩壊した。新規参入組だった日活はロマンポルノに活路を見いだし、大映や東映もテレビコンテンツを作る会社になった。
映画を救ったのはテレビだった。21世紀に入り興行収入の面では映画黄金期を上回っている。また、テレビで露出の高い俳優やコンテンツが人気を集める一方で、俳優になじみのない洋画は敬遠される傾向がある。このため、テレビで人気のある俳優を声優として起用する「日本語版」が人気を集めている。
スターウォーズが公開された1977年には、日本の映画業界はすでに斜陽化していた。スターウォーズがすばらしい興行収入を納めたというニュースが伝わると、便乗しようという話が出た。しかし「どうせ、子供相手の宇宙チャンバラだろう」とされ、スタッフはやる気を見せなかった。1978年に作られたのが『宇宙からのメッセージ』だ。やる気のなさが反映された駄作となった。後にテレビシリーズも作られたが、視聴率は芳しくなかった。
とはいえ、日本人にコンテンツ作りの才能がないというわけではない。確かに、SFやアニメは子供向けのコンテンツだと見なされていたのだが、社会性を織り込んだものも多かった。例えば、ゴジラには原子力への不安が反映されており、ウルトラマンには、アメリカに頼らなければ存立ができない日本の不安定な心情が織り込まれていると言われている。アニメの分野では手塚治虫が少ない予算でできるだけ質の高い作品を作ろうと腐心した。作り手はエンターティンメントと社会性のバランスを取りながら、コンテンツ制作をして来たのだ。
しかし、日本の産業はこうした才能や資産を活かしきれているとはいえない。異なった文化を統合できないために、映像コンテンツのような複雑な産業に対応できないのかもしれない。
1989年、資産バブルで儲けていたソニーは、コカコーラから独立していたコロンビア映画などを買い取り、ソニーピクチャーズを作った。1993年にはソニーコンピュータを設立しており「総合エンターティンメント企業」への移行を目指したものと思われる。
ソニーは2005年にハワード・ストリンガーを会長兼CEOにした。その頃から企業文化が怪しくなり、本流であった日本人のエンジニアたちの離反を招いた。また、各種の資産を活かしきれているとはいえず、ゲーム事業は当初赤字が続き、2014年にはVAIO事業も売却した。映像コンテンツやゲームコンテンツとハードウェアの統合ができず、日米の文化差も吸収できなかったものと思われる。
日本のアニメは海外から高い評価を受けているが、アニメ産業はかなり悲惨な道を歩んでいる。
初期には手塚治虫のような偉人が出たが、アメリカのような技術革新が起こらず「手書きこそが芸術的である」という認識が強かった。面倒な職人技が尊ばれる文化があるのだろう。ヒット作を生み出す監督への依存も大きく、世代交代が進まなかった。このため、労働集約的な企業文化が温存された。
アニメ産業はITや建設と同じような多重請け負い構造になっている。権利関係は出版者やテレビ局が押さえているので、制作者に金が回らない仕組みになっているのだ。結果的にアニメ産業に携わる人たちの年収は上がらず「若者の夢を食いつぶす」構造になっている。
動画担当者の平均年収は100万円を少し越える程度で、個人事業主が多いという。個人事業主には労働基準法が適用されない。最近では安い労働力であるアジアへの受注なども広がる。アメリカが移民を競争力の源泉にしているのと比べて、日本は移民を安い使い捨ての労働力だと捉えていることが分かる。
庵野監督は「アニメ業界はもってあと数年」と発言している。潰れることはないかもしれないが、不安定な状況が温存されているのが問題だと考えているようだ。一方で、日本政府は搾取労働に依存する産業を「クールジャパン」として売り込もうとしている。
御存知のようにジョブズはAppleに戻り、ハードウェアとコンテンツの統合を果たした。Appleから出ていたときの人脈や経験がiPhoneの成功につながっている事は疑いがない。ルーカスは制作会社を手放すことによってスターウォーズに新しい可能性を加えた。アメリカではこのように経営者が循環することで、文化統合が図られている。これが複雑な産業への対応を可能にする。
一方、日本の経営者は技術や利権を囲い込む傾向がある。このことは5社協定の時代から変わっていない。日本の経営者は、技術的に優位性で先進的な市場を持っていたモバイルフォンを「ガラパゴス化」してしまった。ガラパゴス化の背景には、一つの事業や会社から離れない経営者の存在があるものと思われる。安い賃金で夢を食いつぶし、持て余すとリストラしてしまうのだ。

アベノミクスという収奪劇

消費税増税の議論が明後日の方向に向かいつつある。同時に「増税を延期すべきだ」という議論まで出てきた。来年の参議院選挙では「消費税増税を延期する」というアジェンダを設定した政党が躍進する可能性もありそうだ。しかし、諸処の議論は局所だけを見ているようで、全体像がよく分からない。
そこで冷静になって全体を眺めてみたい。
アベノミクスは「トリクルダウンセオリー」という理屈を持ち出して、企業を優遇すれば国民が潤うと約束した。日本経済は輸出主導なので、円安誘導すれば輸出企業の収益が向上し、国内に工場が戻り、給与がアップするというシナリオが描かれた。
その為に、紙幣を増刷して円安に誘導する政策が取られた。すると資金が調達しやすくなった企業が投資し、インフレを招く。インフレになればめでたく不況から脱出できるだろうというわけだ。また、政府としては日銀に国債を引き取らせることができるので一石二鳥だった。
しかし、円安誘導は国民の財産を減らして企業に移転するという政策でもある。円安で国民の預貯金はドルベースで40%も減価した。同時に燃料や食料の価格が高騰し国民の負担になった。一方で企業が持っている海外資産の価値は増し、輸出企業の業績も上がった。企業は手元に300兆円相当の余剰資金を持っており、会計的には正しくないが「内部留保」と呼ばれている。一方で、貿易額は期待していたほどは伸びなかった。
共産党が「内部留保に課税しろ」と言っていたときは「資本主義を知らない」とか「会計の基礎から勉強しろ」と批判されたのだが、最近では財務省が冗談めかして、資産課税を仄めかすようになっているということだ。ただし、世界的に企業の資産に課税している国はない。
経済の「国内部門」にフォーカスすると、海外への資金流出が続いている。原油価格が下落しているのでその規模は縮小しているが、2015年上半期の貿易収支は1.8兆円の赤字だった。一方「国際部門」の収支は上々だ。経常収支は8.6兆円の黒字だった。日本は輸出して稼ぐ国ではなくなりつつあり、海外に持っている資産から稼ぐ国に変わりつつある。
企業は順調に収益をあげているが、安倍政権はさらに海外に資金を「バラまいて」もいる。原資は税金と国債で、間接的に海外に進出した企業に仕事が配分される。仕事を国内で調達すれば、赤字になっている国内部門にはプラスの効果がある。これは良い政策だということになる。しかし、現地で調達すれば国際部門の収支になるので、国内部門は縮小してゆくだけだ。
企業の「内部留保」が300兆円以上あるところから考えると、企業がダムのように海外から流入する資金をせき止めている可能性が高そうだ。企業は正社員を非正規雇用に置き換えて人件費の削減を行っている。内部留保が増えている背景には人件費削減も貢献しているだろう。
「国内部門」が赤字構造なのだから、給与が上がらないのは当然のことなのかもしれない。「就業者数が増えた」と宣伝されているが、一人当たりの給与は減り続けている。全体の給与総額は微増である。また、給与生活者が減り、年金生活者が増えている。年金は基本的に「国内部門」のやりくりだ。結果的に消費者は消費を控えるようになった。そのように考えると、最近の消費税議論というのは、干上がって行く湖の水をどこに引くかという争奪戦なのだ。
income
クルーグマンは政府が積極的に支出すればインフレが起きて不況から脱出できるだろうと予測した。しかし、この予測は成就せず、クルーグマンは事実上予測を撤回した。支出は「国内部門」すなわち何らかのモノを買うために使われるべきなのだが、実際には「国際部門」すなわち何らかの資産を買うのに使われてしまう。人々は合理的に国内部門が縮小することを予測している。生産・消費人口が減ってゆくのだからある意味当然の予測といえる。
合理性を越えて行けるのは政府だけなので「健全なインフレ」を起したければ、政府はモノを買う為にお金をバラまくか、資本に課税する(あるいはマイナス金利を課して資産の魅力を下げる)必要があるが、政府は実行しそうにない。
企業が余剰利益を蓄えているということは、儲かっているということだ。しかしながら、税法上大企業は儲けていないことになっている。トヨタ自動車はつい最近まで法人税を納めていなかった。
本来ならば、税金は儲かっているところから取るべきだ。しかし、財務省は「国際部門」からの収益を捕捉できないと考えているのだろう。そこで、収縮しつつある「国内部門」から徴税することを考えた。これが法人税を減らして、消費税を増やす動機になっているものと思われる。しかし、「国内部門」は縮小しているのだから、消費税増税はさらに「国内部門」を冷え込ませることになる。
日銀が国債を買い受けて資金を供給しているのに企業投資が増えないと政府は首を傾げてみせる。しかし、すでに300兆円も持っているのにさらに追加資金を借りる必要はない。実際の目的は日銀に国債を引き受けさせる事なのだろう。
もし、「内部留保」と日銀の当座預金が市中に流出すれば、コントロール不能なインフレが起こるかもしれない。その意味では日銀の当座預金は国債の乱発から市場が混乱するのを防ぐダムのような役割を果たしているのかもしれない。なお図では「日銀」が政府から直接国債を引き受けていることになっているが、こうした行為は禁止されている。また、200兆円を持っているのは日銀ではなく銀行である。
さて、国民の預貯金と政府の負債の総額は「偶然にも」一致している。結果的にこれは同じものである可能性が高そうだ。つまり、自民党と公明党の代議士さんたちは、国民の預貯金をバラまいて票を買ったり、支持者団体に還流したりしているのだ。国会議員は、他人の預貯金をバラまいて給料をもらっていると考えてよいかもしれない。
日本全体を見ると、資金は足りていることが分かる。問題はそれが貯め込まれており、必要な人に回っていないという点である。その流れは一定の方向に向かっている。これが意図的な収奪行為なのか、不作為の結果なのかということはよく分からない。アベノミクスが悪いという訳ではない。全体的な流れの一部にアベノミクスが組み込まれているだけだ。現在の財政議論は、足りないところからいかに取るかという議論だ。やればやるほど苦しくなるのは目に見えている。
冷静に考えると、企業が税金を払いそれを政府が貧困家庭に10,000円給付しても、10,000円分の食料を買えば全体に必要なキャッシュの量は増えない。結局は売上げとして企業に還流するからだ。そもそも給与として配分すれば政府を通す必要すらない。一方、企業が貯め込んでも10,000円は10,000円だ。しかし、この場合、誰のお腹も膨れないし、寒さも凌げない。
しかし、お金をどのように使うべきかというのはイデオロギーの問題である。「他人が飢えて死んでもいい」と言い切るのも、個人の選択の問題だといえる。

無税国家論

橋下徹さんがツイッターで国債について呟いている。国債は「借金」だということになっているのだが「資本」でもあるだろうというのだ。「借金」だと返さなければならないが、資本であるならばある程度は持っていても構わない。だから、増税が先送りできるという「理論」に結びつけたいのではないかと思われる。
それを証明するために経済学者の高橋洋一さんに知恵の借りようとしているらしい。そもそも大枠が高橋洋一さんの発案なのかもしれない。もともと「反財務省」よりのポジションを取っており「増税なんか必要ない」というような意味の主張を繰り返しているからだ。もともとリフレ派だったのだが、理論的支柱だったクルーグマンが「アベノミクスの失敗」を事実上認めるような発言をしているので、新しい看板が必要になったのかもしれない。
この話、いろいろと面白い点がある。選挙にはスローガンが必要だが、与党に対抗する野党は現在の政治手法を根柢から覆すものでなければならない。しかし、それだけではダメなようだ。橋本さんは「シニョリッジ」という聞き慣れないワードを持ち出した。なんとなく専門的なので「ああ、そういう理論もあるのかなあ」と思わせる効果がある。経済理論への信仰心を利用しているのだ。
この通貨発行益(シニョリッジ)があるから、それが財源にできるのではないかという主張には「問題」がある。紙幣の通過発行益を享受するのは日本政府ではなく日本銀行である。高橋理論はこの二つを意図的にごっちゃにしている。二つが分離されているのは、ルールを定める政府が発行益を所持すると財政規律が緩むからではないかと思われる。分離することにより通貨に対する信頼が保たれるのだ。通貨の信頼が失われると、ジンバブエのようなインフレが起きる。日本も戦後ハイパーインフレを経験している。確かに政府の借金は帳消しになったが、国民の財産も失われた。究極の平等化政策だという見方もできる。
もっとも、高橋さんが理論化に成功できれば、究極の無税国家が作られる。すべての費用をシニョリッジでまかない、その利益を国民に配分すればいいからだ。橋下さんは「政治家がやる気になれば、教育費をすべて無料化できる」と言っている。極論すれば、通貨発行益があれば人々は税金を納める必要も働く必要がない。そう考えると高橋先生を応援したくなってくる。
さらに税金をなくして、すべてを国債で賄う国家というものが考えられる。橋下さんの論(国債は資本である)を延長するとそうした構想を練ることは可能だ。株式会社の目的は資本家から資本を集めて、収益の上がる事業に投資をすることだ。国債国家の「収益」は徴税権なので、徴税に代わる収益源を見つける必要がある。考えられるのは、国家が所有する土地から収益を得たり、国民を労働力として稼働しその収益を国債購入者に配分するというようなものだ。そう考えて行くと、無税国家は「奴隷化」と「国有財産の収奪」だということが言えるだろう。実力のある人が成果を得るべきだと考える新自由主義者との相性は良さそうだ。
もっとも株主と違って国債購入者には投資の使い道に対する決定権がない。無税国家を実現するためには、国債の所有者に統治を認める「株主総会」を開けるように憲法を改正する必要があるだろう。
このことは却って、なぜ国民が税を納める国家が先進国になったのかということを考えるきっかけを与えてくれる。明治維新後の歴史を見ると、もともとは限られた納税者だけが議決権を持っていた。しかし、戦費を広く調達する必要があり、庶民から税を徴収した。さらに、兵隊も調達する必要があったが、この担い手も庶民だった。「負担を強要するなら、口も出させろ」というのが、民主化の動機だったのだと考えられる。
究極の国家事業が戦争だったので、敵国の脅威が民主化を進めたと考えることができる。つまり、戦争がなくなったから民主化が後退しつつあるのだということになる。成長や国際競争さえ諦めれば、一部の資本家だけが富を独占する国家を作ってもよいのだという理屈が生まれるのである。
「税金を払わなくていいよ」と言われれば生活の苦しい庶民は喜んでその政党を支持するかもしれない。それが後になって高い代償として返ってくる可能性がある。
橋下さんの政治センスはすばらしい。今回のピエロは経済学者の池田信夫さんだった。高橋さんを嘘つき呼ばわりしたのだ。すると「思想家には実行力がない」と批判した。庶民のインテリ層への反発(口先が達者な人がトクをしているに違いない)は根強い。つまり、専門家が反対すれば反対する程、橋下さんへの支持が広がる仕掛けになっている。今回出てくるかもしれない「高橋理論」は、日銀と政府を一体化を前提とするものであり、普通の経済学者なら色をなして反対するはずである。法律学でいうところの「立憲主義の否定」に似ている。つまり、否定が強くなればなるほど「専門家への反発」を支持へとつなげることができるのだ。
皮肉なことに、このポジションは池田さんが法律専門家に対して取ったのと同じものだった。「憲法さえ守られれば国がどうなってもいいのか。大切なのは現実である」と主張していたのである。

最低賃金を上げると幸せになれるのか

最低賃金引き上げを求めるデモが起きているらしい。これは喜ばしい動きだ。安保闘争のデモは将来不安のすり替えのような意味合いを含んでいるが、最低賃金デモは正面から将来不安の問題に対峙しているからだ。
経済学者は最低賃金の引き上げには否定的な見方をする人が多い。貧困対策にならず、格差を助長するというのだ。
確かに最低賃金を上げても貧困対策にはならない。最低賃金を引き上げると企業が労働者を減らし、ITや生産設備への投資を行うインセンティブになる。最低限のスキルしかない人(多くの若年層が含まれるだろう)は雇われなくなる可能性がある。このようにして単純労働者は仕事を失うかもしれない。
また、最低賃金が上昇すると最低賃金クラスの労働力に頼っていた小規模企業は消えてしまうだろう。これは生産性の低い企業が淘汰され資本が解放されるという意味ではよいことだが、小規模企業への死刑宣告でもある。結局は貧しい企業の経営者が犠牲になるということでもある。
大企業は労働者一人当たりの生産性を上げるかもしれないが、全体のパイが広がらなければ企業が必要とする労働力は減少してしまうだろう。また、生産性を上げる知恵のない企業が「精神論」に走る可能性もある。労働者の数が減ってしまうので、残った兵隊でどうにかしろというわけだ。そのような企業ばかり残れば、全体としての環境は悪化する。
最低賃金が労働市場にどのような影響するかについては、経済学者の間にコンセンサスがないようだ。労働者が自己啓発に努めるのでスキルが上がるだろうとか、やる気のある労働者が増えるという人もいる。また、日本のように慢性的に労働力が不足している市場では失業率は上がらないかもしれないと予想することもできるだろう。だが、急激に最低賃金が上がったケースは多くないので、実証研究がないのだという。
理論的な是非はともかく「今生活が成り立たないから、最低賃金を上げてもらわなければ困る」という人もいるだろう。
では、どうやったら最低賃金が上げられるだろうか。アメリカでは地方議会が中心になって最低賃金を上げている。最低賃金近辺で働く労働者は福祉に頼らざるを得ないので、地方財政が悪化する。こうした負担に絶えかねたところから制度が変わって行くようだ。
逆説的に言えば、低所得者が我慢しているうちは、こうした問題は顕在化しないことになる。生活保護レベルにも関わらず「恥ずかしいから」といって福祉の対象になることを選ばなければ、政府はその対策に本腰を入れないだろう。
福祉給付手続きは大変煩雑で分かりにくい。対象者になっていても制度を知らないせいで申請をしない人もいるだろう。気が弱い人は市役所の窓口で丸め込まれてしまうかもしれない。デモは大切かもしれないが、正しい情報が伝わるような窓口を作り、啓蒙活動や申請の援助を行う必要がある。政府はやってくれないだろうから、政党やNGOがそうした役割を担う必要があるだろう。
このように考えてくると、最低賃金の問題というのは、最低賃金で働く人、比較的低所得の人、低賃金労働に依存する中小零細企業、福祉の担い手(政府)の間の「負担の押しつけ合い」なのだということが分かる。
日本経済は貿易レベルでは赤字、投資レベルでは黒字という状態が続いている。政府の「トリクルダウン」という説明を聞いた国民が円安を是認したためにこの傾向は拡大した。また、政府は海外投資を通じて海外の日系企業の仕事を増やそうとしている。つまり、安倍政権の政策とは国民の税金(及び政府の借金)を企業に移転する行為だといえる。
儲けている企業は国内の生産活動に頼らずに収益を上げているものと思われるので、給与を通じて資金を再還流させることは難しそうだ。資本による儲けは、消費税を使っても捕捉できない。こうした儲けを国内に再還流させない限り、パイの奪い合いは続くだろう。

消費税議論 – これはヤバい

軽減税率の議論がおかしい。財政健全化の議論をしているはずなのだが、いつのまにか「次の選挙のためにいかにバラまくか」という話に変わりつつある。増税議論なので税金を増えるはずなのだが、軽減税率なので財源が必要だという話になった。しかし、財源をどうしたらよいかよく分からないので棚上げにし(その前に選挙があるので決められない)1年の間に「財務省に決めてもらおう」という話でまとまりつつあるようだ。
安倍政権の歴史は国家収奪の歴史だと言ってよい。政権はまず、円安に誘導し、輸出企業への所得移転を行った。さらに海外への投資を行っている。最近ではインドに1.5兆円の投資枠を設定したばかりである。こうした投資や政策が悪いというわけではない。均衡を崩せば日本企業に仕事が回るからだ。しかしこうした政策が正当化されるのは、企業から国民に資金が再還流するときだけだ。しかし、企業は収益を貯め込んでいて、国民に還流するつもりはないらしい。
一方で、政府が積極的に財政出動すると政府の借金は膨らむ。それを「孫子の代までの借金だ」と、いかにも国民が借金したかのように装い、国民からさらにむしり取ろうとしているのが今回の消費税増税だ。そればかりか、増税に協力しなければ福祉の金を削るぞと恫喝まで始めた。
しかしながら、一連の消費税議論から感じる「ヤバさ」は、安倍政権の経済政策が間違っているというような類いの話ではない。例え間違った政策でもなんらかの意志があってのものならまだマシだといえる。
ところが、自民党の政治家には解決策を提示する意志がなさそうだ。つまり、政治家は解決策を提示するつもりがないらしいのだ。解決策を考えるのは日銀や財務省だ。これが一つ目の「ヤバさ」である。
二回目の安倍政権発足当時、政治家は「ソリューションは日銀に考えさせよう」と考えていた。そして今回は「財務省に丸投げ」した。政治家は、自分のお金(本来は国民から預かっているだけだがこう錯覚している)をいかに気前よく使うことだと考えている。選挙に勝ちさえすれば国民の税金の所有権が得られると考えているようなのだ。
バラマキを国際的なスケールで実行しているのが安倍首相だ。
二つ目の「ヤバさ」は安倍首相のリーダーシップの欠如だ。どうやら自分が何をしているのかよく分かっていなかったらしい。当初は党の幹部に対して「軽減税率は財源のメドが立つ枠内で」と指示していたのだが、官邸(これは、安倍首相ではなく菅官房長官のことのようだ)がひっくり返したとされている。
財務省からのレクチャーを受け「このままでは財政が破綻する」と言われ「ああ、そうなのか」と思ったらしい。しかし、官邸側から「このままでは公明党に選挙協力して貰えなくなる」と言われて「ああ、そうなのか」と思いなおした。そこで何か解決策を提示すればよかったのだろうが、そのままフリーズしてしまった。
この「官邸主導」の結果、党の税調の幹部が「もうどうにでもなれ」と言ったという話が伝わっている。つまり、やる気のあった人までやる気をなくしてしまったようだ。
三番目の「ヤバさ」は代替案の欠如だ。これは少し説明が必要かもしれない。野党は国民の支持がないと感じており、与党の間違いを証明しようと躍起になっている。その一方で、政権交代はまだまだ先だと感じているのではないかと思われる。そのため「今日、政権を取ったらどうしよう」という計画を立てられず、立てる意欲もわかないのだ。
与党政権は明日崩れるわけではない。もう崩れているのだ。最悪の場合財政破綻してから政権を委譲される可能性もある。だから、もう相手の間違いを指摘するフェイズにはなく、代替案を提示する必要がある。代替案が出ないのは、野党が「アイディアは官僚から得よう」と考えているからかもしれない。自称「政権を狙える」野党は政権に就けばバラマキ資金も得られるし、官僚の知恵を無料で使い倒せると考えているフシがある。
この図式は第二次世界大戦に突入する前の日本に似ているのではないだろうか。戦争突入期の国会議員には問題を解決する能力も意欲もなかった。にも関わらず「二大政党」の間で政争を繰り返した。そんな時に「知恵」を持っていて実際に行動したのが軍部だったのだが、本部から遠く離れた地で暴走が始まり、最終的に国民を巻き込んで破綻した。
この構図で軍部にあたるのが、日銀や財務省にあたる。もしくは年金を運営している機構などだ。大変優秀な人たちが集っているので問題が起きてもなんとかするだろう。裏を返せば彼らがどうしようもなくなってしまった時には誰も防げないような問題が露呈するのではないかと思われる。

引きこもりつつある日本経済

野口悠紀雄先生が各種統計を概観した上で、法人税を下げても設備投資には回らないのではないかと言っている。市場が縮小傾向にあるために、国内で追加投資をしても過剰になるだけだからだ。代わりに金融商品への投資が進むだろうと予測している。
これを読んで「だから法人課税を強化すべきだろう」とは思ったのだが、もっと別の疑問が浮かんだ。
法人課税を正当化するためには、「企業は成長のエンジンであるべき」であり「企業の主な活動は生産活動であるべき」という2つの前提を置かなければならない。しかし、これは必ずしも自明の前提ではない。ある種のイデオロギーだ。
生産活動よりも資本を直接投資した方が効率よく資本を増やせるのであれば、企業は生産を諦めて資本家に転じた方が合理的だ。足元の市場が縮小しつつあるのであれば、その合理性はさらに強まるだろう。
企業が生産活動を諦めれば、より少ない人数で経営資源を管理できる。故に多くの人は失業するが、人件費を削減できるということでもある。もしくは、最低限の生産活動さえ維持さえできればいいので、最低限の投資(給与や生産性向上)で運営するのが合理的な選択になる。
企業が資本家化するということは、生産から手を引くということだ。ベンチャー企業がなければ国内には生産の担い手がいなくなる。
こうしたことは既に起きている。不調に喘ぐ東芝はテレビ事業を切り売りすることにした。インドネシアにあった工場を海外のメーカーに売るということである。これは技術的資産を手放し、将来の派生技術も手放すという事だ。もしかしたら、特許技術やブランドといった権利だけは資産として手元に置いておくのかもしれない。
資本家になったといっても企業の経営者は投資のプロではない。新しい技術への目利きなどはできないだろう。その為に金融家という人たちがいるのだが、日本の銀行は技術の目利きとしての機能を発展させなかった。彼らは新規事業の善し悪しを見分けられないのだから、企業への投資はされないだろう。そもそも生産者がいなくなるのだから、投資のしようがない。では、その資金は何に投資されるのだろうか。
かつては土地が投機の対象になっていた。土地は必ず値上がりするだろうという見込みがあったからだ。しかし、現代ではこうした見込みは成り立たない。人口が減少しているので、東京などの一部の都市を除いて土地の値段が上がる見込みはないからだ。縮小することが分かっている資産に継続的に投資する人はいない。
当然、非リスク資産とは国債なのではないかということになりそうなのだが、そもそも誰も働かない(働きはするだろうが、生産性は向上しない)のだから、高い収益は得られそうにない。
こうした条件下では「一生懸命働くだけムダ」だ。生産による収益の拡大はそもそも期待されていないからである。慈善事業ではないのだから、経営層は従業員が楽になるような生産性を上げる工夫はしないだろうし、そもそも優秀な能力に対して給与を支払うインセンティブも湧かないはずだ。がんばったところで所詮は資本そのものから得られる収益には負けてしまうからだ。生産を噛まさない方が効率がよいということは「労働はムダ」ということを意味する。
ということは、高等教育を受けてもあまり意味がない。スキルを磨くだけムダだということになってしまう。学歴が意味を持つのは官僚になるごく一部の人たちだけだろう。しかし、官僚が企業の生産性に寄与するわけではない。受験勉強は「地頭のよさ」を計るものであって、スキルを計るものではない。この世界で成功を納めるのは、資本家集団、官僚、人材派遣会社などだろう。共通するのは誰かを働かせた上がりで食べて行く人だということである。こうした人たちは生産性の向上には寄与しない。
もっとも、こうした世界が成立し得ない訳ではない。例えば、江戸時代にはほとんど生産性の向上が見られなかった。生産性とは関係がない武士階級が一番偉いことになっており、商人が蓄えた金は返って来ないことが多かった。また、労働の担い手である農家には生産性を向上させるインセンティブがなく、工業従事者の地位も低かった。イノベーションを起す必要がなかったのだ。
日本人をイノベーションに駆り立てていたのは外圧だ。海外から植民地化されるかもしれないという怖れが富国強兵政策のインセンティブになっていた。第二次世界大戦後は「戦争に負けたが経済では勝つ」という意地のようなものが経済成長を支えていたのかもしれない。敗戦の記憶が遠ざかり、他国から植民地化される怖れもなくなってしまった。そこで「経済は成長しなければならない」という意志が失われてしまったのだろう。
こうした状態を停滞と呼ぶのか安定と呼ぶのかは人によって意見が分かれるところだろう。

チャドのテロリズムとボコハラム

2015年12月5日、チャド湖に浮かぶクルフォウア島で女性たちによる自爆テロがあった。30人が殺され80人が怪我をした。死傷者数は政府の発表によるもので、詳しい事は分かっていない。犯行声明は出されていないが、ボコハラムの犯行だと考えられている。
パリの同時多発テロのニュースと異なり日本のメディアは、チャドのニュースをほとんど報道しなかった。日本から離れているなじみのない土地なので無視されたのかもしれないし、特派員がいなかったのかもしれない。チャド湖の周辺では複数の自爆テロが起きており緊急事態宣言が出されていた。もはや30人くらいが殺されてもニュースにならないのだ。
近年の天候不順でチャド湖の周辺では干ばつが深刻だ。貧困が蔓延し、若年層の失業率は高い。若者は将来が見通せない。ボコ・ハラムはそうした若者をリクルートして残虐な活動に従事させている。周辺諸国は「気候変動の影響で水が干上がっている」と主張しているが、無計画な灌漑も状況を悪化させている。加えて砂漠化も進行中だ。このため、チャド湖は21世紀中には干上がってしまうかもしれないと言われている。
この干ばつの影響で国際的な人口移動が起きている。人口が集中する地域では水や農地が不足し、更なる衝突を生む。影響を受けている地域は、チャド、ナイジェリア、ニジェール、カメルーンなど広域に及ぶ。
チャドは長年、北隣に位置するリビアの干渉を受けて内戦が続いていた。近年では東隣のスーダンの内戦の影響を受けた。ダルフール扮装は南スーダンが独立してからもくすぶっている。加えて、ボコハラムがナイジェリアから勢力を拡大してきている。長年の内戦の結果、国内のインフラは脆弱で、国内経済は農業に依存する。石油が取れるのだが、国民の生活を豊かにすることはない。却って汚職が蔓延する原因になっている。
後期のチャド戦争はトヨタ戦争と呼ばれたそうだ。トヨタ自動車が壊れにくく戦場でもよく活躍したところから来たネーミングらしい。日本製品の優秀さが認められた結果ともいえる。
ナイジェリア発祥のボコハラムは西洋教育に対する排斥運動であり、自分たちの運動を「ジハード」だと認識している。中東のイスラム過激派と違って非アラブ圏の人たちが主体になっている。単純なイスラム教運動という側面の他に虐げられた少数民族「カヌリ人」の権利回復運動という側面がある。理屈抜きに略奪がしたいだけという人たちもいる。
ボコハラムは「西洋教育に毒された」女性たちを連れ去ったり、レイプしたりする。レイプされた女性たちの中には妊娠した人も少なくない。レイプは「キリスト教と戦う武器だ」と見なされている。レイプばかりでなく、捉えた女性たちに爆弾をくくり付けて自爆テロ犯に仕立て上げることもある。ジハードと言いながら自分たちは犠牲にならずに、女性を道具として利用するのだ。
アフリカのニュースはマスコミには取り上げられにくい。これはサブサハラの各国が未開の地であり、経済的に魅力がないと見なされているからだろう。しかし、その認識は間違っている。
ナイジェリアはアフリカで最大の人口と経済規模を誇る。2014年には世界一の成長を記録し、経済規模でみるとG20のすぐ下あたりに位置する中進国だ。中産階級の人たちも増えているので、欧米企業はナイジェリアに熱い視線を送っている。何よりも若年層が多く、今後成長が見込まれる。日本はアフリカ諸国との関係作りに出遅れているが、マスコミで取り上げられないので、これに気づく人は少ない。
一方、南部で取れる石油を巡る内紛も絶えない。国内に様々な民族を抱え、キリスト教徒とイスラム教徒が混在している。500以上の言語が話されるが、少数民族は政治や教育から事実上排除されている。北部のイスラム教圏ではイスラム法を取り入れた法律が制定され、イスラム化に危機感を抱いた中央政府との間に緊張がある。人口は北部が優位なのだが、石油が取れるのは南部だ。このために不満を持った南部住民が蜂起することも多い。腐敗が横行し住民には石油から得た収益の恩恵が回らない。
国内に過激派が多いので、鎮圧する軍部の対応も手荒くなる。市民が巻き込まれる事も多い。このために、市民には反軍感情がある。そこで、ボコハラムの掃討作戦がうまく行かないのは、地元住民の協力が得られないからだ。
参考

本物のピザを求めて

ピザはイタリア発祥とされる食べ物だ。小麦粉で作った生地の上にトマトソース、チーズ、その他の具材を載せて食べるのが一般的に知られたピザの作り方である。

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レバノン料理に付いていたピタ。レバノンではクマージュと呼ぶそうだ。

最初のピザがいつ頃作られたのかは分からないようだが、地中海沿岸で丸い発酵パンが広く食べられていたのは間違いがなさそうだ。中東のピタという丸い薄焼きパンが知られている。こうした丸い発酵パンの文化圏はナンやチャパティを食べるインドにまで広がっている。
イタリアのピザにはナポリ風とローマ風があるという。ナポリ風の方が元祖だとされているそうだ。ナポリ風は厚目のパンの上に単純な具材の載せて食べる。モッツラレラチーズ、トマトソース、バジルを使ったマルゲリータなどが有名である。
チーズ、トマトソース、バジルの葉だけで作られたマルゲリータ。具材というよりも台の小麦粉の風味を楽しむ。
チーズ、トマトソース、バジルの葉だけで作られたマルゲリータ。具材というよりも台の小麦粉の風味を楽しむ。

日本でもイタリア風の窯を備えた「ナポリ風」のピザ屋がよく見られるようになった。アンチョビを載せたビザをシチリア風と呼ぶそうだが、シチリアで食べられているのか、ナポリの人がそう呼んだのかは不明だ。このシチリア風ピザにはチーズは使われていない。
ローマより北ではピッツァ・アル・タッリョと呼ばれる量り売りの長方形のピザが売られているという。つまり、ピザは丸いとは限らないらしい。
イタリアでは庶民の食べ物として知られるピザだが、日本では別の捉えられ方をしている。一つはアメリカを経て伝わった「アメリカ風」のピザだ。もう一つは「ナポリ風」を唱っているピザだが、日本ではむしろ高級料理だと見なされている。高級な小麦粉が使われていて独特の風味を楽しむことができる。
シチリア風という名前のついたナポリ風ピザ。白金のISOLAで作ってもらったものを持ち帰って、有り合わせの安いワインと一緒に。
シチリア風という名前のついたナポリ風ピザ。白金のISOLAで作ってもらったものを持ち帰って、有り合わせの安いワインと一緒に。

イタリアの移民が多かったアメリカでもピザは食べられている。トウガラシやパプリカ入りのサラミ(ペパロニ)を使った薄い生地のピザなどが有名だ。ニューヨークではこれを大きめに焼いてスライスに分けて売り出している。学生が食べる安い食べ物というイメージでごちそうとは呼べないのだが「懐かしくて食べたくなる」という人も多いのではないだろうか。作り置いたものを食べるので「だらり」とした印象がある。焼きたてのピザを食べさせる「イタリア風」とは違っている。
一方、シカゴでは厚い鍋で焼いたピザが食べられるそyだ。中にトマトソースやチーズなどが詰まっており「シカゴスタイル」「ディープディッシュピザ」「スタッフド」などと呼ばれるという。
カリフォルニアの人たちはこうした素朴なアメリカ料理に飽き足らず、イタリア料理などを参考にして、カリフォルニア・キュイジーヌというものを作り上げた。カリフォルニアスタイルのピザはニューヨークのものよりも小降りで1人で1枚を食べる。日本でもウフルギャング・パックで食べられる。
日本でピザ屋のチェーン展開を始めたのはシェーキーズだそうで、宅配ピザを始めたのはドミノピザということである。どちらもアメリカの会社なので、一般的に知られているピザはアメリカ式ということになる。しかし、日本のピザは具材が豊富で、豪華さがウリになっているものが多い。そこで本場のものを食べると「味が単調でつまらない」という印象を持つ人もいるかもしれない。
イタリア人はピザを単純な具材で食べる。作り置きもしないので、新鮮で小麦粉の味をしっかりと味わうことができる。具よりも台を楽しむのがイタリア風と言えるかもしれない。一方、アメリカ人の食べるピザは作り置きで湿気を含んでいる。気軽に食べられるファストフードといった印象である。
日本の偉大な発明にピザトーストがある。トーストにトマトソース、ピーマン、チーズを載せた「ピザ風」の軽食だ。日本では主に喫茶店フードとして知られている。こちらは発祥の場所が分かっている。銀座の珈琲館紅鹿舎が発祥の地とされているとのことである。

バカがバカを笑う- 安保関連法案を巡って

松本徹三という識者の方が石田純一氏を嗤っている。氏によると、安保法案に反対する石田さんはルックスはいいだけのバカなのだという。Twitterで突っ込んだら「自分の方が多角的に物事を考えている」という旨のご返信を頂いた。ちょっと呆れた。
安倍政権が安保法案を推進したのは、アメリカの要望に従ったからである。日本はアメリカの核の傘の下にあり、同じく核保有国である中国に対峙している。だから、アメリカに従うより他に現実的な選択肢がない。また、アメリカが日本に軍事基地を設置しているのは、日本を守るためではなくアメリカの軍事的なプレゼンスを守るためだ。日本はこれが「あたかも自分たちの国益である」ように行動しなければならない。それしか道はないからだ。
しかし、アメリカには余裕が無くなってきている。アフガンやイラクで多数の死者を出したのだから当然のことだ。そこで、自分たちは表に出ずに現地部隊を戦わせて、敵が弱ったところを無人機で攻撃するという路線に変えている。「自衛隊がアメリカ軍の為に犠牲を払うべき」というアーミテージの発言はこの路線に沿っている。現地部隊は朝鮮半島からも撤退しつつあるようだ。
さらに、安倍首相と中谷防衛大臣は、アメリカで「北朝鮮からアメリカに飛ぶミサイルは日本が撃ち落としてあげます」と言って拍手喝采を浴びた。「日本がアメリカ防衛をしてくれる」と受け取られたからだろう。
ところが、日本ではそのような説明はされなかった。安保関連法案を改正するのは「日本を防衛するため」であり、集団的自衛権と言っても個別的自衛権の延長のようなものだと説明したのだ。そして「自衛隊のリスクは増えない」と言い切った。そこから先の混乱は皆さん御存知の通りである。橋下徹市長と維新の党がベン図まで書いて「集団的自衛権」と「個別的自衛権」には重なるところがある概念だなどと説明したのが記憶に新しいが、これは概念としては排他的だ。
安倍首相が内外で行った説明にはお互いに矛盾がある。その矛盾が露呈しないののは「今までのように」何も起こらなかったときだけだ。何もなければ、お互いに日米郡司同盟をいいように解釈できるのだ。その意味では「津波は起こらないから安全」な原子力発電所に似ている。実は安倍政権も「戦争がない」ことを前提しているのだが、これをお花畑だと嗤うひとはいない。
確かに安倍首相の作戦は「賢い」だろう。日本人は「軍事的に主導権がない」ということを自覚せずに済むし、アメリカのプレッシャーからも解放される。おまけに米国議会から賞賛されて演説までさせて貰えた。良い事尽くめである。しかし、何かことが起こったらどうするつもりなのだろう、と思わずにいられない。自分たちだけで処理できると考えているのだろうとしか思えない。
議論の経緯を見ていると、何が起こるかどうかという想定はしていないようである。細かい想定は識者に丸投げしているように見えるのだ。例えばあるレポートから丸写しした「ホルムズ海峡」の事例がそれに当たる。イランとアメリカが再接近しつつあることに気がついていなかったようだ。ニュースでもやっていたが、交渉の意味が分かっていなかったのかもしれない。途中で合意が成立してしまったので、慌てて事例を取り下げ、野党が「立法事実がなくなった」と騒いだ。現状も分析できないのだから、未来予測が立てられるはずはない。もっとも軍事的な主権はないのだから「予測するだけムダ」なのかもしれない。意思決定する権限がないからだ。にも関わらず情報が足りないとぼやいていて、内閣に情報を集積する仕組み作りに躍起である。
日本が軍事的な行動を起こしアメリカを支援するためには日本国民の納得とコミットメントが必要である。そのためには、アメリカに余力がなくなっている現実を知らせたうえで、国民を説得するする必要があった。それをしなかった理由を「国民がバカだから」と考える事は可能だが、実際には説得する自信がないからなのではないかと思う。
軍事的に見れば日本は独立国ではない。これが一部の人たちには苦い現実になっているのだろう。それに直面しなくても済むように、内外で説明を使い分けているというのが日本の現状だ。「賢い」識者の人はうすうすそれに気がついているのではないかと思う。欺瞞によってしか平常心を保てないので、「もっとバカな」人を見つけて攻撃するのかもしれない。
石田純一さんが「バカ」だとしたら、それは政府の説明を真に受けているからだ。二国間軍事同盟を前提とすると、日本が集団的自衛権を行使するのは、日本がアメリカを守る為で、アメリカが日本を守るためである。ところが日本には憲法の制約があり、国民の意識(自分の国さえ守る事ができれば十分)もあって「集団的自衛権と言っても、個別的自衛権の延長」なのだという説明をしてきた。そこで「集団的自衛権は日本を守る為のもの」という奇妙な解釈が成立してしまったのだ。
この説明を真に受けた石田さんは「日本を守るのであれば個別的自衛権で十分ではないか」と言っている。「政府は嘘つきだ」と言いたいのかもしれないが、これは(日本の立場から見て)当たり前の事を言っているだけであり、叫ぶ程の事でもない。
また「今のままで良いではないか」とも言っているが、これも日本の立場から見れば当たり前のことである。安倍首相も「日本の負担も犠牲も増えない」と言っているので変える必要がないのは当たり前だ。変える必要があったのは、日本の負担と犠牲(ついでに責任も)が増えるからだ。これも無理矢理証明するべきようなことではない。
さて、この辺りで安保法案賛成派と反対派どちらが正しいのかという問いに移りたくなるのが人情だろう。しかし、この問いの立て方は正しくないように思える。
左派は正面から反対できないと思ったのか、国民が持っている不安と法案を結びつける事で反対運動をもり立てようとした。共産党や社民党はともかく、民主党の中にはわざとこれを実行した人がいるのではないかと思われる。その不安とは経済的な闘争に巻き込まれるという不安だ。背景には国の経済力の低下がある。これが「安倍政権が戦争をもたらす」という像につながっているようである。一億総活躍を一億総動員に置き換えるのはそうした心理状態の表れかもしれない。第二次世界大戦の敵はアメリカだったのだが、今戦う相手は「国の老い」なのだ。
ここから推測できるのは民主党が国力を回復させるような知恵を持っていない(あるいは持っているが党内でもコンセンサスが得られない)ということだろう。よいアイディアがあればそれを提案できたはずなのだが、解決できないので、感情的に訴えたのだ。
一方、賛成派も中国の脅威を念頭に置いている。しかし、実際に問題なのは中国の台頭ではなく日本の国力の衰退だ。そうした不安を直接解消することができないので「アメリカが味方してくれれば大丈夫だ」と言ってみたり「憲法を改正すればよい」と主張したりする。
実は、この2つの勢力は実は同根の問題に直面している。しかし、直接の解決策が見つからないので、お互いに嗤い合ったり叫び合ったりしているのである。
識者の一部はこの先を心配しはじめているようだ。左右が罵り合って膠着しているうちはいいのだが、その間隙をついてもっと過激な「ソリューション」が提示されたとき、国民は熱烈にそれを歓迎するのではないかということだ。実際にフランスの地方選挙では右翼勢力が大躍進し、アメリカではトランプ氏が過激な主張で人気を集めている。