安保法制の議論が分からないのは何故か

法律整備の手順がめちゃくちゃ

今回の一連の法律には2つの上位になる体系がある。1つは憲法であり、もう1つは日米安全保障条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」1960年成立)だ。日米安保条約の下位に日米ガイドラインがある。今回はまず、集団的自衛権の行使を否定してきた憲法解釈を閣議決定で変更し(2014年7月1日 ハフィントンポスト)、ガイドラインを改定(日本時間で2015年4月28日日経新聞)し、アメリカ議会で夏までの成立を約束してから(2015年4月29日 外務省)、法律を改正することにした。
そもそも憲法と日米安保に互換性があるかどうか議論のあるところに、法案を無理矢理当てはめた為にパズルを組み合わせたように複雑になった。これが、諸々のそもそも論の大元になっている。法案の背景にある論理が破綻しているという議員もいるし(柿沢未途)、他国の領域で戦闘行為は行わないとした安倍首相とできると答えた中谷防衛相の間に矛盾があるという指摘(田原総一郎)もある。また、集団的自衛権が違憲なのではないかといった議論があり、さらに日米安保条約の守備範囲からの逸脱も見られるのだという意見もある。

全体像が見えない

推進派(自民党の議員や読売新聞・産經新聞)の説によると、今回の法整備の目的は日米安保の更なる強化と平時から有事までのシームレスな対応などらしい。ところがこの説明を聞きながら国会中継などを見ているとつじつまが合わないところが出てくる。自衛隊が協力する相手がアメリカ軍に限定されておらず、オーストラリアやインドなどの名前が挙っている。7月1日の閣議決定(前出派フィントンポスト)を読むと「日米同盟の強化」を唱う一方で「どの国も1国で平和を守ることができない」と言っている。
アメリカ議会での演説を引くと、日米同盟の守備範囲が太平洋からインド洋にかけての広い範囲を自由で、法の支配が貫徹する平和の海にするらしい。
どうやらもっと広い協力体制の構築が念頭にがあるらしい。このような視点からインターネットを見ると、APTO – アジア太平洋条約機構(もちろん現在このような構想はない)とTPP体制について言及している人たちがいる。アメリカが主導して作る経済と軍事の国際的な枠組みだ。ヨーロッパのNATOとEUに該当し、中国の封じ込めを目的にしている。これを国民に説明せずに議論が進んでいるので議論が錯綜している。
APTOもTPPも国家主権の一部放棄につながる。この放棄が正しいかどうかは、枠組みが戦略的に合理的かどうかという問いになる。ところが全体像が見えないために、議論そのものが成り立たない。
この不整合を合理的に説明するために「安倍首相は現状が分かっていない」とか「おじいさま(岸信介)への思いから暴走している」と主張する人もいる。(佐藤優 リテラ

歴史的な経緯

日本の軍備に関する状況は、外的要因の変化が積み重なって、お互いに整合しないままなんとなく成立している。まず、第二次世界大戦後日本が再び地域の脅威にならないように憲法で再軍備が禁止される。その後ソ連と中国が台頭し、朝鮮半島情勢が緊迫したために、アメリカは日本に再軍備を求めた。しかし、吉田茂首相は、自衛隊の基礎になる組織を発足させたものの、憲法第九条を盾に、軍事費を最低限に抑えて経済発展を優先させる政策を取った。これを吉田ドクトリンと呼ぶ。結果的にこうした経緯が積み重なり第九条と自衛隊のねじれた関係が生じた。その後、冷戦が終わり状況が複雑化し、アメリカは日本に応分の負担(リスクと金銭的負担)を求めるようになったが、日米安保条約も憲法もそれに合わせた改訂が行われていない。
日米同盟強化を指向する人たちは、アメリカという極に寄り添っていれば、自動的に日本の安全が守られると推定している。しかし、この期待は裏切られるだろう。リスクの分担と応分の負担が求められているからだ。安倍政権は今回の法改正でリスクが高まることはないといっているか「嘘をついている」か「現状とアメリカの要求を誤認しているか」ということになる。どちらなのかは分からない。
日米安保は日本防衛のために必要な枠組みと説明されている一方で、日本の軍事大国化防止が目的だという見方がある。(ヘンリー・スタックポールの「瓶のふた」発言 日経新聞
こうした諸々の事情から、日本の憲法第九条を巡る議論は硬直化した護憲派と現状を認識していない改憲論者に支配されてきた。全体像が見えないために多くの国民は複雑な議論についてゆけず、無関心なままである。

分からないと何が起こるのか

護憲派(特に憲法第九条の)の現状認識は第二次世界大戦直後から変化していない。このため「現状認識が甘い」ものとみなされ積極的な賛成が得られない。中には、アメリカに反対するということは、対中追従だから反日である、という単純化した議論も見られる。
改憲派と現在の政権担当者は、歴史的に堆積し、お互いに整合性があるかどうかよく分からない体系に無理矢理現状を合わせている為に複雑な説明を強いられている。また、潜在的には「アメリカが押しつけた憲法やアメリカが押しつけた戦争観(東京裁判史観)を脱却すべきだ(自主独立派あるいは修正主義者とも)」という人たちと「現状を甘受し日米安保を堅持すべきだ(対米追従者あるいは現実主義者)」という対立がある。
国民の無関心は政権にとって好都合のように思えるが、政策についての理解が広がらず、従って積極的な賛成が得られない。誰も主体的な判断ができず、結局どっち付かずのうちに状況に流されることになるだろう。国民も政治家も主体的な動きができないので、戦争に巻き込まれるかどうかは運次第ということになるだろう。

ジャニーズの解けそうで解けないパズル

なつかしい歌手につられて日本テレビの「音楽のちから」という番組を見た。改めて歌番組っていいなと思った。筋を追わずだらだらと見られるからだ。
「音楽のちから」は嵐が前面に押し出されていてジャニーズ祭りの様相を呈している。が、なぜかSMAPが出ていない。なぜだろうと検索してみるとジャニーズには派閥があるという噂に行き当たった。広く知られているらしい。その証拠に、別の日に放送されたTBSの「音楽の日」という似た名前の番組には嵐は出ていないのだそうだ。
噂によると、日本テレビは嵐を押し出しており、同じ派閥のTOKIO、V6、NEWSなどが出ている。一方SMAPを前面に押し出しているTBSにはこれらのグループは全く顔を出さない。これは、ジャニーズが派閥を持っている証拠なのだという。派閥の背後には二人の女性幹部がいるのだそうだ。
ネットにあまたある噂のなかには、それを否定するもの、ファンを軽視していると嘆くもの、規定事実として受け入れるものと様々なものがあり、なかなか興味深い。本当のところはよく分からないが、グループ名まで名指しされているのを見ると、何らかの内部事情があるのかもしれない。
「音楽のちから」には7グループがバラバラになり総勢40名でメドレーを行うというものがあった。スゴイと思う人もいるだろうが、誰がだれかも分からない。トランプがシャッフルされて床に散らばっているかのよう。この背景にはデビューできなかった人もいるわけだから、ジャニーズAとBに別れているのも別にいいんじゃないのか、などと考えた。さらに嵐とSMAPが競演する番組でSMAPをトリに持ってきたりすると、並び順はどうするのだ、全く解けないパズルが出現するのではないかと思う。40名メドレーも並び順を気にしないですむ苦肉の策なのではと邪推してしまった。
ジャニーズといえば、朝のTV番組の司会がNHKとTBSでバッティングしたという「問題」で知られている。どちらかが降りるのではという噂があったが、事務所が大きくなっているのだから、うまくやらないと様々なジャンルで同じような問題が起こるはずだ。そしてバッティングが起きると、いちいちネット上で問題視されることになる。
歌手は明らかに大事務所化しているようだが、いろいろな方法でこの問題を解決している。他にも48グループ(事務所はバラバラなようだが…)やEXILEなどを輩出するLDHがある。48グループは選挙を行い序列の問題を解決している。
すでにレコード会社が歌手を売出す時代は終わり、興行(ライブや握手会など)やファンコミュニティの運営を通じて歌手を売出す時代になっているのだろうなあ、と考えた。その中でグループの大型化が進み、いろいろな対策が講じられているようである。
ジャニーズが他の会社が行っている劇場やスクールに興味を持たないはずはないと思って調べてみるとジャニーズにも総勢40名のジュニアを選抜し、入れ替えるグループ「Twenty・Twenty」という構想があるそうだ。

映画会社は斜陽時代にどのように対応したか

映画産業は1950年代に黄金期を迎えたが、その後テレビの台頭があり1960年代に急速に斜陽産業化した。ピーク時の動員数は年間11億人で、日本全国に7,400以上の映画館があった。(トピックス: 日本映画産業のピークと斜陽のはじまり
各社は人気俳優に依存する「スターシステム」を取り、「五社協定」(後に六社協定)として知られる俳優の囲い込みを行っていた。しかし、人気のある俳優の引退や流出が相次ぎ、テレビドラマが本格的に作られるようになって有名無実化した。
斜陽への映画会社の対応はそれぞれ異なる。
日活は性風俗を扱う映画(日活ロマンポルノ)を制作するようになった。しかし1980年代には再び行き詰る。アダルトビデオ(AV)の登場でニーズがなくなったからだった。その後、1990年代に一度倒産する。「〜をする」に注目せず、「形」にこだわったことによる失敗と言える。
東映から別れた新東宝や大映のように斜陽産業化してすぐに倒産してしまった会社もある。1980年代に大げさな演出の「大映ドラマ」で知られる大映テレビは大映本体から別れて生き残ったテレビ制作会社なのだそうだ。
「〜をする」に着目した会社は斜陽時代を乗り切った。東映・東宝がその例だ。結局映画会社の強みはコンテンツの制作や経験の提供だ。
例えば東映太秦映画村のようなテーマパークを作ったり、テレビ朝日に出資しテレビコンテンツを作るようになった。また、東宝も多角化し、テレビの制作事業や芸能プロダクションを立ち上げた。1980年代にはアイドル映画も制作するようになる。2000年代には東宝シネマズというシネマコンプレックスを立ち上げ成功を納めている。
ある産業が斜陽化したときにうまく対応するためには多角化が良いということが分かる。結果的に映画制作会社は「コンテンツ制作」という強みを活かし、テレビやテーマパーク向けにコンテンツを制作するのが最も成功率が高い生き残り方である事が分かる。一方、日活のように映画という形にこだわると苦戦する。いったんは乗り越えたと思っても、また別の形(日活の場合はAV)にとって代わられることになる。
興味深いことに、斜陽産業化した映画はその後極端に動員数を減らすことはなかった。つまり、かつて程の勢いはないが全く消えてしまうこともなかったのである。
さらに、テレビと映画の関係はその後面白い展開を見せる。2006年に洋画と邦画の関係が再度逆転した。(邦画と洋画のシェア逆転)背景にあるのはテレビとの連係だ。テレビがヒットすると、スペシャルドラマを作る感覚で映画が作られる。これをテレビで宣伝し流行らせるという方式である。かつては映画を斜陽に追いやったテレビが邦画ヒットの原動力になっているという点は皮肉といえば皮肉といえる。

価値観がぶつかる – イルカ漁問題の「非人道性」

100x100看過できない問題を説明するために使われる「非人道性」。ところが「シリア内戦」や「無人機による市民の虐殺」など「非人道的」と見なされる行為は多く、ラベリングしただけでは問題は解決しない。
キャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使のイルカ漁に反対するコメントが感情的な対応を生んでいる。
『キャロライン・ケネディ大使がイルカ漁に反対声明、自民の佐藤正久氏「地元の伝統文化」と反論』(HUFF POST)
いろいろ考えて「日本人はコンテクストを重視する」という理論を考えたのだが、どうやらそれは正しくないようだ。逆に日本の首相や駐米大使が「日本政府はマクドナルドの非人道的な牛の大量虐殺に深い懸念を表明する」というステートメントを考えてみればわかる。多分、いろいろな憶測を生むだろう。
つまり、ケネディ駐日大使の発言は唐突であり、従っていろいろな反応を生んだものと考えられる。
例えば、駐米大使がアメリカ人向けに「マクドナルド発言」をすれば、アメリカ人はなんらかのアクションを予期するだろう。日本にあるマクドナルドの営業を停止するとか、アメリカからの牛の輸入を「非人道性」を理由に禁止するなどの措置だ。つまり、偉い人の発言にはそれなりの意味合いがあり、行動を伴う。
ところがケネディ駐日大使に「意図を聞いた」人はいない。誰も大使が何かするとは思っていないからだ。彼女の発言は「アメリカ政府を代表している」というよりは、彼女個人のその場の思いつきだと捉えられることになるだろう。
当初は、これを「彼女個人の」と考えたのだが、これも違っているようだ。例えばシリアで虐殺が起きていて、これを非難するヨーロッパのレポートにも「非人道的な」という表現が使われている。世界各国の非キリスト教国で様々な事態が起きている。例えばシリアの国内で殺し合いはとても看過できるような事態ではない。しかし現実には戦闘は止まないので「非人道的」という言葉が登場する。イルカ漁も駐日大使から見ると、シリアの大量虐殺と同じような「ゲームハンティング的イルカの殺戮」行為なのだ。
背景には「理解できない行為」を全て「人道的でない」と置き換える習慣があるのだということが分かる。ところが、アメリカ政府も「非人道的な」行為に手を染めている。例えば、「アメリカも外国に無人機を飛ばして戦争に関係がない市民をゲームのように虐殺しているではないか(CNN.co.jp : 米無人機が結婚式の車列を誤爆、14人死亡 イエメン)」と非難する事は可能だ。米軍側から見ると「意図してやったわけではなく、誤爆」なのだから非人道的ではないという理屈になるのだろう。
価値観の擦り合わせをしたいなら、大使に対して「イルカ漁を考え直す代わりに、非人道的な無人機による外国市民の殺戮を中止する用意があるか」などと冷静に聞いてみてもよいだろう。
このように「非人道性」を巡る議論は大変難しい。これを読んで「伝統的イルカ漁をシリアの大量虐殺と同列に扱うのはいかがなものか」という反発は当然予想される。また、日本の伝統を守りたいと考えつつも、アメリカとの同盟を大切だと考える人たちもいるだろう。そういう人たちは「話しをややこしくするな」と考えるだろう。
ところが現実的にはこれらはすべて「非人道的」というラベルが付けられているというのも事実なのだ。

デザインする事と描く事

20131015_mock少なくとも描く事ができなければ、実行することはできない。デザインの現場では手描きを軽視するべきではないだろう。少なくとも描いたものと作ったものは合致しているべきだ。だから、スナップ全盛なら、スナップで使われるボディラインも描けるようにならなければならないということになる。
毎日のように服の記録を取っていて思ったことがある。直立姿勢を別にして(これはこれで難しいのだが)バリエーションを付けるのは難しい。写真を見ただけでは、どのように姿勢を作っているのかが分からないのだ。見よう見まねで作ってみるが、どこかぎこちない。すぐに動けなければ意味がないし、特定の場所だけでできても「できた」とは言えない。
いろいろと考えた結果、スタイルを暗記することにした。そこで紙と鉛筆を取り出す。標準的なものをいくつか選び、それを描いてみる。お手本があるとなんとか描けるが、なしで描くのは難しい。つまり、覚えていないわけで、覚えていないものは描きようがない。そして覚えていないことはできない。
この関係は、音楽と楽譜の関係に似ている。中には聴いただけで弾けるという人はいるだろうが、たいていの場合は音楽をそのまま暗記するのは難しい。だから、楽譜を見て覚えるのだ。
ファッションの場合、楽譜に当たるシステムはないと言いたいところなのだが、実際には人のポーズの描き方には決まりがある。丸、四角、円柱といった形を組み合わせて人体を形作って行く。特に肩のあたりに特徴があり、肩を柔軟に動かすことによってバリエーションが作れるようである。
描けるようになったからといって即座に実行できるというものでもない。しかし、最初の一歩にはなる。例えば、描いた通りにやってみてできないことがあるのだが、この場合、正面は描けていても横が描けないといった具合に理解できていない部分があるのだ。描けるということは理解ができているということなので、あとはその通りに実行できるように練習すれば良い。
このように考えてみると、新しく何かを作るということは、頭の中にあるものを「記述する」ことができるということであるということが分かる。記述するにはベーシックな決まり事があり、それを一つひとつ覚えて行かなければならないのだ。
「絵が描けない」という気持ちが強いので、とても抵抗がある。毎日少しずつ覚えて行けば、プロ並みとはいかないまでも「なんとかなる」くらいには仕上げられる。また、分からない形があったとしても基本的な形に落とし込んで行けば、理解の助けになる。音楽でいう楽譜のようなシステムが作られるのだ。
さて、この「手を使って描く」というのは、実はなかなか難しい。パソコンが導入されてしばらく経ち、デザインの最初から手描をしないということがあり得る。グラフィックデザインの現場でも「最初からPhotoshopで」ということはあり得るだろうし、そもそも先生が手を使ってデッサンが描けないということだって考えられるのだ。
何が何でも絶対に鉛筆でなければならないということでもなさそうなのだが、全てをIT化してしまうことも難しい。特に、身体的な行為が関係している場合、手を使って線が引けるということは、形を手が理解しているということにつながる。だから、手描きを軽視すべきではないだろう。
ファッションデザインには確立された「きれいな人体のフォルム」というものが存在するらしい。いわばバレエの基本ポーズみたいなものだ。しかし、ストリートやスナップが全盛の今「崩した身体」がきちんと描けるデザイナーというのは、どれくらいいるのだろうかとも思う。標準化されていないものをちゃんと描くのはなかなか難しいはずだ。

写真から色を取って洋服のデザインに活かす

20140101一度やってみたかったのだが、意外と簡単にできたので、発表してみる。写真からカラーパレットを抜き出して、Illustratorで使える人形に色をつけるプログラムだ。
まずは、Illustratorなどで人形を作り、それをSVGにして出力する。SVGファイルは直線だけで作る必要がある。
次に、写真を読み込んでパレットを出力するプログラムを使って、パレットを抽出する。使い方は簡単で、イメージのURLを読み込むだけだ。PHPとGDライブラリが必要。
さらに、jQueryを使って、パレットをドラッグ可能にする。ドロップできる箱を準備して、そこにチップをドロップするとSVGのクラスの属性が変わるようにする。
今度はPinterestなどを使って、きれいな画像を集める。この画像を読み込むと、中で使われている色から上位25が抽出される。
あとは、好きなように組み合わせて人形に色をつけて行く。
「簡単に使える」とは言っても、ブラウザーの制約を受ける。例えば、jQuery-uiはiPadなどでは動かない。また、SVGをHTMLに読み込めるブラウザーも限られているらしく、手元で試したところではSafariでは動いたが、FirefoxやOperaでは動かなかった。
光がある条件下にある時のパレットが「調和してみえる」という特性があるらしい。また、サラダなど「おいしそう」に見えるものにも調和してみえる特性があるようだ。カラースキームは補色などをつかって説明されるのだが、実際は視覚的な記憶が調和色を作ってみるものと思われる。
図の写真はPinterestで見つけたもの。もともとはアフリカの日暮れだそうだ。このパレットをAfrican Sunsetなどという名前で登録する事もできる。MacintoshにはWebサイトをプリントするようにしてPDFで出力する機能がある。このファイルをIllustratorで開くとパレットを読み込むことができる。
ちなみに、写真には著作権があり、人形のシェイプにも著作権があるはずなので「右から左へデザインが作れて便利ですね」と主張するつもりはない。しかし、美しく見える写真からインスピレーションを受けることは可能なので、学習に使ったり、コラボレーションの一貫として利用するにはよいのではないかと思う。
下記はWikipediaのサラダの写真から抜いたもの。トマトとサラミの赤がきれいだ。
20140101-02

アーティストと狂気

ある夜、夢を見た。とても怖い夢だ。ただし、夢には形がある。感情に彩られて言葉にできないイメージが抽象化したのだろうと思う。これを形にしたいという欲望がうまれた。粘土なんかがあれば「狂ったように」作業したかもしれない。しかし、そのまま狂ってしまいそうになったので、代わりにぶるぶると震えながらお祈りをすることにした。しばらくすると、時間の感覚というかリズムのようなものが戻ってきた。
一瞬、狂いかけたのだと思う。その後眠れなくなったので、アートについて考えた。まだ、少し狂っていたのかもしれない。
アーティストになる基礎知識 (BT BOOKS)』という本が出ている。本の冒頭では村上隆さんが後進の指導をする様子が紹介されている。すでに、欧米や中国で高い支持を受けている村上さんは、若者に社会性を植え付け、ディテールをつめるように追い込んで行く。そして、できるだけ長くアーティスト活動が続けられるようにと、プロジェクト管理の手法を教えるのだった。さらに、本には留学してアーティストビザを取得する方法などが紹介されている。つまり、アーティストになるためには、海外に留学するのがよいみたいだ。
面白いことに、本の内容がITプログラマーが日本を飛び出して海外で起業するという本にそっくりなのだ。多分、そのような時代的な背景があるのだろう。どちらも「最新の職業」であり、才能によって成功できるかもしれない可能性がある。
ここで、半分おかしくなりながら考察(あるいは妄想)したのは、アートについでだった。村上さんの方式では、テレビや映画などの共通の情報から「オリジナル」を作り出すという方向性で作風を確立しようとしているように見える。これは、古いアートの方向と変わりはない。西洋の画風というものがあり、そこにどうやって到達するかというのが、日本の画壇の最大のテーマだった。今では安定した社会ができていて、多分派閥のようなものもあるのではないかと考えられる。
例えば、狂気から出発した場合、方向性は全く逆になるだろう。狂気は人それぞれのカスタムメイドだ。つまりは、嵐の海で漂流しているようなものである。そこにイメージだけがあり、形になっていない。だから、扱い損ねて、狂ってしまうわけである。それをアートと呼ぶか狂気と呼ぶかは別にして、いったん取り憑かれてしまえば、形にしようと努力していない限りそのイメージの持ち主が精神の平衡を取戻すことはない。そして、同じ狂気を経験したという人に巡り会った時点で、漂流は終るのである。文章で言うところの「投瓶通信」に似ている。多分「オリジナルだ」という喜びはなく、他人と同じであるということを知った時点で安心するのではないかとすら考えられる。
考えついた結論は、どちらも「馬には違いがない」というものだ。西洋芸術を模倣していた時代には、西洋で見た美しい馬を自分でも飼ってみたいというようなものだったのだろう。一方、暴れ馬がいてそれを家畜化したのが、テレビや映画などの大衆芸術だ。そこから、馬を一頭連れ出して、野生に戻して行くのが現在のアートである、という具合である。
100x100しかし、どちらにせよ昔は野生だったわけで、それを飼いならそうとしている人もどこかにいるのではないかと思う。そういう人は、単に「気が変になった」のと考えられて終るのか、それとも飼いならすチャンスを与えられるのかということについては良くわからないし、安定した職業にして継続的にやってゆこうという境地にたどり着けるのかといったこともよく分からない。

自閉症と表情の読み取り

朝日新聞に面白い記事が載っていた。『自閉症、ホルモンを鼻に噴射して改善 東大チーム』
この記事を読んで面白いと思ったのは「経度の自閉症」と呼ばれる、意思疎通に問題を抱える人の症状についてだだ。記事によると彼らは、他人の表情や声色を読み取るのが苦手らしいのだが、その率は健常者の84%もある。これを0.96 X 0.84と計算してよいなら、正解率は8割もあることになる。もちろん「経度の」ということなので、個人差はあるのだろう。それでも「症状として認知される」くらいだから、問題は顕在化しているのだろう。つまり、今の社会で「お互いの表情を読み合う」能力はかなり高くなければならないということになる。
朝日新聞では東京大学の研究を掲載しているが、ネットでは金沢大学の取り組みがヒットした。オキシトシンと自閉症の関連を最初に見つけたのは金沢大学のようだ。金沢大学のページによると、オキシトシンによって表情読み取り以外にも生活の質が向上する事があるらしい。
この記事を読んで別の疑問も生まれた。最近では「自閉症」という言葉への理解が深まり、発見される率も増えてきているのだろう。しかし、例えば戦後すぐにうまれた人たちの中には、こうした「問題」を持ちつつも、自閉症という診断名を持っていない人もいるのではないかと考えられる。アメリカで自閉症が「発見」されたのは1943年の事だそうだ。また、知能が正常程度だがコミュニケーションに問題がある高機能自閉症はそれよりも遅れて認知されたらしい。(Wikipedia
こうした人たちは、他人の言っている言葉の意味が良くわからない。例えば、にやにや笑いながら、親愛の情を示すつもりで「バカだなあ」などと言われたときに、本気で怒り出してしまうということも考えられる。また、愛着が他のひとよりも薄い可能性がある。
男性の場合「男は黙っているべきだ」という価値観があるために、こうした問題は表面化しないだろう。しかし、表面化しないので「あの人は冗談が分からない」とか「家庭での何気ない会話(こうした会話は会話自体にはほとんど意味がない)に混じれない」といった、弊害があっても顕在化しないかもしれない。その弊害といっても経度の場合は、わずか2割程度の微妙な会話が分からないだけなのかもしれないのだ。
女性の場合には別の問題があるだろう。かつては「女であれば子どもさえ生まれれば即座に情愛が湧くはずだ」とされていたわけで、「子どもがカワイイと思えない」(オキシトシン不足なのだから当然なのだが)とか「子どもが自分に愛情を向けているのか分からない」などと言った問題が出てくる可能性がある。つまり「母性に目覚めない」のだが、それを「個人的な問題だ」と感じていた人がいただろうということである。
この記事では「既に自閉症だということが分かっている人」と「オキシトシン」について書かれているのだが、実際には「自閉的な傾向を持つものの、それが生涯発見されなかった人」と親子関係を持っている人が「親だったら当然持っているであろう親密な関係」を築けなかったという可能性も示唆しているのだと思う。
100x100戦後「家」は社会的制度からより親密でプライベートな存在へと変化してきた。このため、プライベートな空間で親密さを築けないことは、重大な問題になりえる。また、社会生活においても「表情を読み合う」必要性が増しており、ちょっとした表情が読めないことが深刻な問題になり得るのだ。

宗教と憲法改正議論

接触できる情報が増えると却ってそれが私達を不安にする。地震の後の原発管理、中国からの大気汚染、さらに、北極の氷も溶けかけていることも我々を不安にさせる。
この「リスク」を解消する役割を期待されているのが政府だ。国民は政治には参加したがらないが、出力は期待する。
そもそも、心の安心・安全ということを考えた場合、政府の役割は限定的なはずだ。そもそも、私達は自分や家族がどこから来てどこに行くのかということを全て知っている訳ではない。これを解決する1つの手段は科学だ。西洋では「神の意志」を研究するところから科学が出発している。もう1つは、内面と対話したり、個人を越えた大きな枠組みについて考えるという行為だ。これは宗教そのものである。つまり、多くの社会では、政府ではなく宗教が「安心・安全」分野をカバーしている。
ところが日本では、個人が特定の宗教について語ることは、ほぼタブーだと見なされている。そもそも国民の多くが無宗教だとされていて知識が少ない。また、集団主義的な傾向があり、従順な人が多い社会なので、宗教の権威に飲み込まれやすい人が多いのも事実だろう。
個人は宗教に飲み込まれやすい。「地下鉄サリン事件」を通して、高学歴の人でも容易に洗脳されてしまうことが分かる。後から考えると寄せ集めにすぎない教義だったが、それでも多くの人が信じたのだった。また「イスラム過激派」という言葉と共に、宗教は怖いものだと考える人も多くいるだろう。
一方、既存宗教側も常に現世的な問題に悩まされている。お寺は家業になっている上に営業活動をするわけにもゆかない。一方で、家族を食べさせなければならないし、後継者問題もある。「非課税だから儲かっているのだろう」という見方もあるかもしれないが、必ずしもそういうお寺ばかりではないだろう。ここで「既存顧客」である檀家に依存しようとすると却って離反されてしまう。一般の人の中には「お寺はお金儲けなどするべきではないのに、いつもお布施の話ばかりしている」と考える人もいるに違いない。宗教と一般の人たちの距離は遠くなるばかりだ。
例えば、いくつもの仕事を掛け持ちし、最低時給で子どもを育てるという離婚した母親について考えてみよう。確かに、この人を救うことで「一生懸命子育てをしている『普通』の母親を差別していることになる」とか「子どもを持たない女性の税金をシングルマザーに使うのは不公平だ」という議論が生まれるだろう。これは、ある個人の選択を別の個人と比べて損得勘定をしている。だが、個人の損得勘定が行き過ぎると、さらに不安が広がるだろう。
「集団への依存」を宗教だと考えたとき、今一番「宗教化」を目指しているのは日本の政治家たちだと言えるだろう。やたらに家族の価値とか国家への忠誠などといった集団を示すキーワードが出てくる。
宗教教育には規範がつきものだが、倫理・道徳教育で国家主義的な思想を広めようと考えている人は多い。特に、老年期にさしかかり「人の人生を越えるもの」を考え始めた時に、こうした規範について考えるのは不自然なこととは言えない。
ところが、日本人には宗教の素養がないので、その時についつい自分が持っている規範やその人自身を「一段高いところ」に祭り上げようとしてしまう。個人の闘争を引き継いでいるので、支配の道具として考えてしまうのかもしれない。一般的には「個人の規範の神格化」だと考えられる。そして自分の持っている知識の範囲内で理論構築をする。だから、ついつい戦時体制への回帰のように見えるのだろう。
このように考えると、自民党が模索している憲法改正は「日本を再び戦争できるような国にする」という大それた目的の為に行われているわけではないかもしれない。つまり「個人がバラバラになってしまった」という認識の元に、自分が持っている知識だけを頼りに、日本の宗教化を目指しているのだ。
ここでは「宗教は悪いものではない」という議論をしているので、特に「宗教化を目指す」という動機が悪いものだと主張しているわけではない。出発点は悪くないかもしれないが、どこかで破綻するのではないかと思う。その場で誰かの上に立ったとしても、それは永続的なものではなく、安心・安全な感覚は得られないからだ。その上、そもそも国家が特定の思想(それを宗教と呼ぶかどうかは別にして)を国民に押し付けることができるのかという議論もあるだろう。

おせち料理の歴史的変化

ファッションにおける権威と民主主義について考えているうちに、 このプロセスが巡りしたらどうなるのだろうかということが知りたくなった。ファッションを見ていてもよい事例が浮かばないので、考えついたのが「おせち料理」である。
お正月は日本の伝統を感じさせてくれる数少ない機会だ。その伝統がどこから来ているかは分からないが、なんとなく朝廷料理から来ているような印象がある。つまり朝廷料理を基本とした「本物のおせち料理」というものがあるはずで、そこから逸脱した「偽物」もありそうだ。
冷泉家のお正月料理について記した本には次のような記述がある。それによると、ごまめ、カズノコ、タタキゴボウ、黒豆、くわいなどがお膳に載っている。また、塩鯛が1人に1匹付く。さらに、四重の重箱があるが、煮しめ以外には決まり事がない。つまり、おせち料理にとってお重はあまり重要ではないらしい。
聞き書・ふるさとの家庭料理〈20〉日本の正月料理この正月料理を考察している。全国調査によると、うどん・スシ・小皿料理などで、年始客をもてなす地方も多いらしい。重箱(これをお重詰めという)を使うのは名古屋と近畿圏が中心だ。「祝い箸」といって正月の間だけ箸を新しくするのは、京都と大阪でしか観測されない。さらに箸袋に名前を書くのは大阪だけだ。
この本の考察によると、正月料理には、年末の年取り膳、飾りの組重、正月のお膳、雑煮がある。このうち、関東で「おせち」と呼ばれていたのは、組重ではなく正月のお膳だ。今、私達が「おせち料理」と呼んでいる三段や四段のお重のことを、関西では昭和三十年代頃まではお重詰めと言っていたのだそうだ。
現在でも天皇家には正月に来客があり「お膳」が振る舞われる。しかし、その内容は質素なようである。そもそも普段の食事から質素なようで皇室の食卓によると、食べている魚も大衆魚だ。
今見られる豪華なおせち料理は「宮廷の儀式料理がルーツになっている」と主張する人たちも多い。これは、実際に口にする料理(お膳)と神様にお供えする飾り物(食積/重詰め)が混同されているからである。関西では三が日は鯛を食べずに重箱に詰めておく「睨み鯛」という習慣が残っている。この重詰めが、江戸や大坂の料理屋で洗練されて江戸時代には原型になるようなものが完成したとされる。つまり、現在のおせち料理の直系の先祖は料理屋の料理なのである。「皇室が権威だ」と考えるのであれば、豪華な料理は神様にお供えし、自分たちが食べるものは質素なものにしなければならない
では、今のような重箱詰めの「おせち料理」が完成したのはいつなのだろうか。関西でお重詰めが「おせち」と呼ばれるようになった昭和30年代から40年代頃なのだろうか。昭和50年に発行された土井勝の四季の献立 – おもてなしから毎日の献立まで (1977年)に出てくるおせち料理は、重箱料理ではなく大皿料理だ。土井勝はNHKの「今日の料理」に初期から関わっており、NHKが重箱詰めの料理を「おせち料理」として広めたという説も成り立ちそうにない。
となると、残るのはデパートだ。戦後核家族化が進み、テレビで「伝統料理」を学ぶようになり、徐々に本来あった正月料理が忘れられて行く。そして残ったのが、江戸時代の料理屋が枠組みを作り、デパートが継承した「おせち料理」だったというわけである。
100x100今でもおせち料理の本を読むと「おせち料理には決まりはない」と書いてあるものが多い。伝統を重視した場合「おせち」とすら言わず、「正月料理」と書いてある。にもかかわらず、再構成された伝統を見ている私達は、なんとなく正解のようなものを持っていて「中華風のおせち」とかお膳に盛られた「新作おせち」のようなものを見て眉をしかめたりするのである。