豊洲の減価償却による赤字は無視していいという欺瞞

ちょっときついタイトルだが、減価償却についてのお話。豊洲移転問題について見ていて「減価償却による赤字は無視して構わない」というツイートを発見した。こうした専門知識を持ち出されるとなんとなく「わからない」と思う人が多いのではないかと思う。こうした時、人は2種類に別れるのではないだろうか。1つは専門知識でケムに巻こうとして怒り出す人と、わからないからとスルーしてしまう人だ。
まあ、ここはちょっと辛抱して減価償却について勉強しようではないか。
減価償却は、簡単にいうと大きな資産を購入したときの費用を数年に分けて分割しようというものだ。例えば大型冷蔵庫という資産を買うとそのメリットは数年は享受できるので、費用も数年に分けて負担しようということになる。こうすることによって、大きな資産を買った時いきなり大赤字になり、そのあと黒字になるというような「簿記上の見え方」がなくなる。
これは、簿記で正しく経営を判断しましょうねという考え方に基づく。簿記がないと「いったいいくら儲かっているのか、お金の流れだけを見ていてもよくわからない」ということになってしまうのだ。
ところが、法律上は「必ずしも減価償却しなくてもいいですよ」ということになっているらしい。パラパラといろんなウェブを見たのだが、減価償却についてのアドバイスとして「銀行からの融資を受ける時には黒字に見せたいので減価償却費を計上しない」で「税金の支払いが多いときには減価償却費を使って赤字にする」みたいないことを書いてあるものもあった。つまり、そういう「なんちゃって経営」の小手先のテクニックがかなり横行しているらしい。小手先のテクニックに溺れると、儲かっているのか儲かっていないのかがわからなくなってしまうのである。
減価償却を正しく配分しないと正しい経営判断ができなくなる。つまり、事業判断ができなくなってしまうということがわかった。細かいことはいろいろあるだろうが、経営者でないかぎりこれ以上のことは知る必要はないのではないだろうか。
そう考えてから中嶋よしふみさんというファイナンシャルプランナーの記事を読むと「たちが悪いなあ」と思う。この文章は2つの正しい概念を並べている。減価償却はキャッシュの支出が伴わないので無視して良いと書いてあり、これは正しい。さらに、過去の支出は取り戻せないサンクコスト(埋没費用)なので将来の事業収支計算には参入しないというのも正しい。ということで、正しいことを2つ重ねると結論も正しいような気になる。
確かに一度決済されてしまっており、支出は別の財布から行われるのだろうから(よく考えてみるとどういうお財布から何年計画でキャッシュが出て行くのかについて研究した人は誰もいないみたいなのだが)豊洲がキャッシュ不足になることはないだろう。が、だったらいったん既成事実さえ積み重ねてしまえば何をやってもよいことになってしまう。つまり、豊洲新市場は事業規模からみると明らかな過剰投資だったが、もう作っちゃったので仕方ないよねというのが、この文章が言いたいところなのだ。
さらにたちが悪いことに予防線もしっかり張ってはる。記事をよく読むと「公益のために作ったので過剰投資で赤字になって当然」とちゃんと書いてあるのだ。
そもそも豊洲新市場の問題は「赤字の隠蔽」から始まっている。つまり、都の事業の赤字を隠蔽するためにいろいろな事業の帳簿を合わせたり分割したりして「やりくり」しようとしたことが出発点になっている。結局、東京都の百条委員会はうやむやになってしまったようだが事業の単位を操作することによって、赤字が出ていないように見せていたことが都政の大きな問題だった。民進党や都民ファーストの人たちが攻めきれなかったのは、経理について一通り勉強した経験がないからなのかもしれない。
中嶋さんの記事によると、豊洲単体では赤字になるが、別の市場の会計と合算するので都全体ではバランスを取れているという説明がされているようである。つまり別の市場が頑張って魚市場の過剰投資の尻拭いをするという説明がされているらしい。これも予防線の一つだ。つまりタイトルだけ見て噛み付くと「いやそんなこと言ってないし」と言えるようになっているのである。
築地を守るのは公益性が高いという説明なら話はわかる。築地は観光資源にはなっているが、高級寿司屋に代表されるような手間のかかる魚食文化は衰退していて、なくなってしまう可能性も高い。一般庶民は手間のかかる魚料理を食べないし、接待で高級料亭に行くような人たちも減っているからだ。一方豊洲に代表されるような効率的な魚食文化は市場経済に任せていてもなくなることはないだろう。コストコや西友に公費を入れる必要は特に感じられないし、多分公費を入れずに土地だけ開放すればもっと効率的な流通施設(それを市場と呼べるかはまた別の話だが)を作るのではないだろうか。
多分都政に携わる人たちは枝葉末節のテクニックをたくさん持っていて、こうした操作は過剰投資を引き出すために欠かせない智恵だったのだろうが、そんなことをされていては納税者としてはたまったものではない。
中嶋さんはいちおう冷静に書いているのだが、タイトルは問題が大きい。この結論だけを受けて「問題ない」と言っている人たちは、これを知っていてごまかそうとしているか、著しく倫理観にかけていて問題を感知できないのかのどちらかということになるだろう。
最後に、減価償却費は問題にならないと言っていた人が誰なのかを明かしてこの文章を終えたい。


それは猪瀬直樹元東京都知事だ。確かに経理上は正しいことをおっしゃっているのだが、猪瀬さんは「豊洲は過剰投資だったのだが、誰か別の人が支払うから問題ないよね」と言っていることになる。
経理を知らずに専門家のいうことを鵜呑みにしているのか、それとも知っていて言っているのかはご本人にしかわからないのだが。が、もう辞めてしまわれた方なのであまりいろいろ言ってみても仕方がないようにも思える。

安倍政権の暴走を止めて政権交代を起こすにはどうしたらいいのか

今朝書いた「犬と憲法の話」の続き。今日もTwitterを見ていたら「安倍が何の反省もしないで憲法改悪を企むのはけしからん」というような怨嗟の書き込みで溢れている。かなりイライラが溜まっているようで長い文章は読んでもらえなさそうなので、これを止めて再び政権交代を起こすにはどうしたらいいのかだけを抜き出して書いてみたい。

  1. 政治とは国民生活に社会がどの程度関わるかを決めること。方向としては「関わりを減らす(規制改革)」と「関わりを増やす(セーフティーネットの充実)」がある。それに付随して、権力の暴走を止めたり、どのような形で(中央集権・地方分権/社会・家族)関わるかを決め流必要がある。
  2. 政党の役割は個人が持っている感覚をまとめること。これを合意形成機能と呼びたい。これがまとまったものが「提案力」になる。相手勢力の反対を主張するのが提案力ではない。
  3. 現在の状況は「権力側」のみが提案力を持っていて、市民側が防戦一方という状態にある。これは市民側に合意形成機能がないからだと考えられる。
  4. ゆえに市民側は批判に注力するのではなく、合意形成を目指すべきだ。
  5. 合意形成なのだから、まず有権者が何を望んでいるかを聞くべきだ。

もちろん「自衛」は必要なので、権力側の無茶な要求にはNOというべきなのだろうが、これは自衛隊が戦っているようなもので、本来の政党の機能ではないはずだ。支持が集まらないということは、合意形成ができていないということなので、まずこれを認めるべきだろう。国民の多くが「政治に参加しても政治は変わらない」という調査があり実感とも合致しているので、いわゆる非顧客が何を考えているかを調査すべきなのかもしれない。
つまり反安倍人たちが戦うべきなのは、安倍政権ではなく、政治に期待できない人たちなのではないだろうか。

犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。
犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。
私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。
例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。
「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。
こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。
ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。
「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。
市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。
だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。
さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。
つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。
リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

不関与層と憲法改正論議

最近、豊洲の問題とか憲法の問題などについて考えていて壁にぶつかっている。
例えば、全く関係のない人たちが豊洲問題について後出しジャンケンのように意見を言い出すのはなぜかという問題がある。部外者なのに意見が言えて当然だと考えている人がたくさんいるようなのだが、豊洲移転は少なくとも形式上は民主的に決められてきた。つまり、都民なら当然豊洲の決定には関与しているはずだし、そうでない人たちには関係のない問題のはずだ。だが「責任を持って決めました」という人が誰もいない。
この現象を合理的に理解しようとすると、都政には「自分たちは都政には関与していない」という意識の人たちが大勢いて、何か問題があると騒ぎ出すということになる。
もともと政治関与しない人たちは「ポリティカルアパシー」などと呼ばれてきた。つまり政治的には無力だと考えられてきたのだ。しかし、彼らの物言いを見ていると上から目線でとても「無力感」を持っているようには思えない。実際に話をしても「自分たちは政治的に無力だ」などとは思っておらず、ワイドショーなどを見ながら政治家を下に見ているような様子すらある。左翼系の人は首相を「安倍」と呼びつけにするし、右翼にいたっては天皇すら利用すべき存在だと考えているようだ。こういう人たちをアパシーと言って良いのだろうか。
実際に日本人がどの程度の政治参加意識を持っているかはわからないのだが、なぜか若者に関する調査だけは幾つか見つかった。両方とも内閣府の調査のようだ。これを読むと、若者は自分の将来には希望が持てず、政治にも関心はないが、自分の関係することだけには意見を聞いて欲しく、自国に対する肯定感だけは高いという、めちゃくちゃな若者像が浮かび上がる。社会貢献したいという人はそこそこいるようだが、具体的にできることを思い浮かべられる人は少ないという分析もあるようだ。(内閣府不破雷蔵
どうしてこうなったのかはわからないものの、直近の政治状況が影響しているのは間違いがなさそうだ。NHKの2004年と2014年の比較調査では「政治への参加意欲」は減退しているという結果が出ている。レポートは民主党政権への失望とアベノミクスの一応の成功で「今のままでいい」と考えている人たちが増えているのではないかと分析している。「俺たちは関係ないから勝手にやってくれ。でも今の制度は壊すなよ。」と思っている可能性があるし、無力感の裏返しとして仮想万能感がある可能性も高い。
共謀罪ができて政治について話せなくなれば、彼らは黙って従うだろうなどと思う人もいるだろうが、そうはならないのではないだろうか。政治にコミットしない分、政府には何の義理もないわけで、国民を何かに動員しようとしても動いてはくれないはずだ。
左翼の人に自国の素晴らしさを説くネトウヨの人たちは、具体的に社会に貢献をするつもりなどないという可能性がある。
独裁国家が独裁国家してやって行けるのは、独裁者たちが独占すべき富を持っているからだ。多くの場合それは天然資源である。現在、独裁が懸念されているのは政府が国家予算を独占しているからなのだが、その半分は国民からの借金で、これもいつまでも続かない可能性が高い。唯一、持っているのは勤勉な国民だが、独裁希望の人たちはそれに気がついていない可能性が高い。
ただ、「上から目線で無関心」という人たちがこれほど多い国というのは世界中探してもどこにもなさそうだ、この人たちがどの程度いて、政治にどんな影響を与えるのかは誰にもわからない。
ただ、アベノミクスを見ていると、自分たちのリソースは確保したままで社会には還元せず「お手並み拝見」としている人たちが多いようには思える。
その意味では憲法改正議論ができるタイミングになっているのかもしれない。憲法ができたときには「民衆の憲法だ」と考えられ、多くの国民に支持された。だが、政治にうんざりした今となっては、誰も政治に貢献したり決定に責任を持とうとは考えていない。だから「勝手にすれば」ということになる。ただ、結果が気に入らないと大騒ぎになるし、権力を独占しても、そこは空っぽの空間かもしれない。

日本人のアイデンティティクライシスと無駄な憲法論議

前回、太宰府天満宮が「日本人らしさ」を見出そうとして失敗したのを観察した。これといった特性が見出せなかったために「挨拶をして食事をきれいに食べるのが」日本人というまとめになったようだ。日本人は外国人と接してこなかったために、アイデンティティを確立する機会に恵まれなかったのだろうと分析した。
Twitterでは別の記事が出回っている。それは愛国右翼の人たちが、GHQによって否定されたある本をコピペしているという内容である。取るに足らない内容だが、愛国右翼の人たちはそれほど気にしないということである。
日本は明治維新で全く自分たちとは異なる外国人を見て驚く。そこで、西洋の真似をしようとして、髪型を変えたり服装を変えたりした。しかし、海外と植民地の獲得で衝突するようになると揺り戻しが起きる。西洋の序列に異議申し立てをしなければならず、そのために民族の独自性を主張する必要に迫られたからだった。
だが実際には日本オリジナルなものは何も見つけられなかったので、外国から取り入れた文化を自分たちなりに精緻化したという理解がされたようだ。さらに、その優位性を強調するために、西洋流の一神教的な伝統が加えられている。結局は「つぎはぎこそが日本文化だ」という独白に過ぎなくなっている。
その思想は多くの事実誤認に基づいている。特に権威に対する考え方は完全な誤解だ。日本は権威を空白化させることによって体制を安定させてきた。嫉妬心が強い社会なので強いリーダーは極力排除する必要があるためだ。民族がせめぎ合う中華圏は、各民族や王朝が折り合えないから強い権力で押さえつけ、それが失敗すると革命が起こるわけだが、日本には強力な他者が多くなかったために極端な革命が起こらなかったのだろう。だが、こうした成り立ちの違いは完全に無視されていて「神話で無謬性が保障されているから万世一系なのだ」という説明がされたらしい。
このように「私は何か」ということを定義しようとして「〜でない何か」の蔑視になってしまうというのはよくあることだ。日本の場合は、欧米流の民主主義と個人主義を否定し、同時に中国的な革命の否定になっている。が、自分たちの社会の成り立ちをうまく規定できないために、持続不能な社会ができてしまうのである。
ドイツの例を見ても「民族のアイデンティティ」などが強調される時代背景には経済的な困窮があった。ドイツの場合には、国内経済の行き詰まりがあり、東方に新領地を展開するために「ゲルマン民族の優位性」というエクスキューズが必要だった。さらに「自分」をうまく定義できず、ユダヤ人という「非ヨーロッパ系」を持ち出してきて彼らを差別することで、自我を守ろうとした。
ドイツ人は「ドイツ語話者」という共通項はあるが、統一国家を作ることはなかった。東方にはドイツ人が支配階級で、「山の民」のような扱い方をされていたスラブ人を支配していた国もある。つまり、ドイツは第一次世界大戦に負けるまで、まとまった民族意識を持ってこなかった。
さて、一連のことを考えていてここで行き詰った。ドイツや戦前の日本には経済的な困窮があり、それを打開するための理由付けが必要だった。民主主義的なプロセスではそれが打開できなかった。そこでできた理由付けにはどこか病的なものが含まれている。それが他者の否定と差別だ。
だが、今の状態が病的なのかということを考えようとしても、思い当たるものは何もない。確かに不況が20年以上も続き、経済的な困窮を抱えている人が多いのは確かだ。が、日本人が非難されているわけではないので、他者を否定してまで自分を守る必要はない。
だが、「日本人とは何か」という議論は憲法改正の根幹になっている。憲法は「日本の民族性」の上に成り立つべきものなのだが、その民族性がとてもあやふやで他民族との比較の上にしか成り立たないものである。砂の上に楼閣をたてるみたいなもので、議論の途中で倒壊する可能性が高い。もしアイデンティティ探しが病的な要素を含んでいるとしたら、憲法も病的なものになるだろう。
この議論は、例えて言えば、そろそろ先が見えてきた中年サラリーマンが「俺っていったい何だったのか」ということを考え始めるのに似ている。いわば中年の危機だ。しかし、もともとの人生の目標が外にある(つまり他人の評価のために生きてきた)ために、中には見つからない。そこで、同期を思い出して「あいつより俺の方が優れていた」と思うようになる。そして「あいつがやっていないことをやるのが俺なのだ」という結論になってしまうのだろう。
思い当たるとしたら戦後すぐに存在を否定された指導層のルサンチマンなのだが、一部の人たちだけが病的な動機を抱えており、それに「そこまで政治に依存していない」人たちが付き合わされるだけという可能性が高い。日本は財政的に慢性疾患のような状態にあり、それを解決しない限り、じりじりと衰退する可能性が高い。にもかかわらず政治的リソースが「自分探し」に浪費されるとしたらそれは大変危険なことのようにも思える。

わざわざ政府の心配をしてやることはないのだが……

共謀罪の成立する可能性が高まっているという。多くのリベラルの人たちが監視社会を心配しているようだが、個人的にはあまり心配していない。なぜなら日本社会はもともと相互監視の強い「縛りあいと我慢の押し付けあい」社会だからだ。
小田嶋隆さんが次のように心配している。


これも今でも「警察が職場に来ただけであいつは怪しいのでは」となってしまうのだから、まああまり変わらないのではないかと思う。こういうあけすけな無神経さは今でも一般に浸透している。

が、心配事もある。
もともと、日本の相互監視はかなり高いコストがかかっている。職場では常に居酒屋会議が開かれ、学生はLINEで24時間仲間を見張っている。PTAも監視に忙しいので働いている女性は実質参加できないのだという。
共謀罪の趣旨は、国民を監視して誰も政府に反抗しないようにすることなので、国民全体が監視の対象になるだろう。するとこの監視コストを誰かに担わせなければならない。東ドイツにはシュタージという体制維持のための国民監視網があり、記録も残っていた。しかし記録が残せたのはドイツが比較的低コンテクストの社会だったからだ。
日本は高コンテクストの社会なので、監視は非公式のコミュニケーションルートを対象にしなければならない。情報量が莫大になってしまう。しかし東ドイツが「比較的容易だった」とはいえ、家族の間でも監視が行われていたそうである。日本政府の今の提案では「誰が監視を担うのか」ということが明確にされていない。これは政府に反抗する(政権交代を望んでいるだけの人も含む)があまり多くないからだ。警察だけで対応できると考えられているのだろう。
「メールの盗聴システムもあるから安心」となるかもしれないが、メールやSNSで政府を礼賛しておいて、FAXで政府転覆を働きかけることもできる。逆に偽装工作がしやすくなる可能性もある。やはり、足で監視する人たちが必要になる。が、政府の覚悟は「ぱっと見でわかりますよね」という程度らしい。

しかし、政府にここまでの覚悟と予算があるとは思えないので、捜査機関の規律が乱れて冤罪が乱発されるだけに終わる可能性の方が高い。現行の官僚組織では忖度が横行しているが、その正体は非公式な意思決定なので、管理できなくなり暴走する可能性が高い。
警察はすでに複雑化する政治的犯罪には追いつけなくなっていて、昔暴れていた人たちを監視して「お仕事をしています」というふりをしているだけなので、テロを恐れて一般人に手を突っ込めば10年程度の時間を経て警察の威信は大いに低下するだろう。
すると、国民の大半は警察に懐疑的になる。すると政府の定義ではこうした人たちはすべて一般人ではないということになってしまうので、すべて監視対象になる。さらにそれに反発する人たちが増えるという図式が生まれる。
今、野党に賛同する人が多くないのは、見世物のような政治ショーが時々行われるからである。つまり末端の大臣などを叩くことで溜飲を下げている状態だ。これがなくなれば政府への反発は行き場を失い、政府に反発心を持つ人は増えるだろう。
だが、表立って政府に反抗するのはコストが高いので、国民はあえて反抗はしないだろう。しかし、反抗というのは提案の一種なので、有力な「別の選択肢」を抑えこんでしまうことになる。すると強力な野党や選択肢が生まれない。翼賛体質になり「この道しかない」といって破綻への道を突っ走ることになるだろう。
もう一つできるのは、監視をやめて国民を檻に閉じ込めておくという方法だ。例えばウィグル人が多い新疆ウィグル自治区はそのような状態になっている。しかしこれが成り立つのは資源が豊富にありウィグル人の労働力に頼らなくても資源収奪ができるからなのだ。日本で同じ状況が整いうるかを考えた方がよいのではないか。
共謀罪は国民の内心に政府の泥だらけで汚い手を突っ込むような大いなる挑戦なので、国民を縛り付けられる覚悟があって法律を作ろうとしているのか、金田法務大臣や安倍首相に聞いた方がよいのではないだろうか。

今村復興大臣の何が間違いだったのか

大臣で初めて今村復興大臣が更迭(まあ、自分から身を引いたということになっているが)された。子分を切られた二階幹事長は納得がいかなかったようで記者団に不満を漏らした。舌禍事件を起こした大臣は多いが、更迭されたのは今村さんが初めてだ。今回は今村さんが何を間違えたのかを分析して行きたい。この違いを噛みしめることで、安倍政権がどのような論理で運営されているかがわかるはずだ。すると、私たち国民が政治に何を求めているかということもわかるのだ。
舌禍事件を起こした大臣やまともに答弁できない大臣はたくさんいる。にもかかわらず大した失策がない今村さんが罷免されてしまったのはなぜなのだろうか。
今村さんは、国政の視野に立って、関東地方と東北地方の被害を比べた。国政に携わり内閣の一員ともなると全体的な視野で俯瞰する癖がつくのだろう。これがまずかった。つまり、国政に携わる人は全体を俯瞰で見てははいけないのだ。ではなぜ俯瞰で見ることがいけないのか。
背景には直視しがたい現実がある。魅力のある産業がない東北地方は衰退して行くばかりだ。もちろん地震のせいもあるが、そればかりではない。若者たちが東京に惹きつけられるのは、面白いものはすべて東京にあるからである。秋田県の地震の被害はそれほどひどくなかったがそれでも人口が100万人を切ってしまった。さらに福島第一原発で毀損された福島県も元に戻ることはないだろう。国家予算と同じくらいのお金を全部つぎ込んでも完全な除染はできないのではないだろうか。
地方分権をしても東北は救えないだろうし、日本全体が衰退して行っているのだから東京からの援助もこれまでのようには期待できない。であればあとできることは「いやあ、東北はいつかは復興しますよ」と言い続けて、なおかつ何もしないことである。何かすれば「やっぱりダメだった」ということになりかねないからだ。つまり、復興担当大臣は、何もしないが「私たちに任せてくれれば大丈夫」と言い続ける人が求められるわけで、解決策を提案したり、国政全体の観点から「いくら復興費用をかけるのが妥当か」などということを考えてはいけないのである。
いろいろな人にいい顔をして口約束はするが決して何もしないというのはいろいろなところで見られる。最近では国防と外交に顕著だ。「誇り高い日本を取り戻す」などと言っても、アメリカから独立して日本を守ることはできないし、その意欲もない。が、それで構わない。どうせ、すべての人を満足させる解などはありえないのだし、国民もうすうすそれはわかっている。だから石破茂さんのように防衛に詳しい人を防衛大臣にしてはいけない。何かを決めることで、誰かが傷つくからだ。稲田さんのように最初から精神が崩壊している人のほうが都合が良いのだ。日本の国防政策が悪いわけではない。稲田さんの精神が変なのだと思えばこそ、みんなを納得させられるのである。
共謀罪もだれを満足させるための法律なのかはわからないが、もうめちゃくちゃなことになっている。これをぶち壊しにしようとしているのは法律に詳しく筋が通った副大臣だ。金田さんのように何もわからず、官僚の答弁を読み、馬鹿にされても黙っている人の方が大臣には適任なのだ。共謀罪が無茶なのではない。金田さんが変だと思える。
それでも都合が悪くなれば、資料を隠し、過去の内閣の閣議決定や答弁を歪める。佐川理財局長も無茶苦茶なことになっている。しかし、国民がそれに立腹することはない。なぜならば、国民も「過去とつじつまを合わせてまで現実を直視する」などということはやりたくない。つまり、国民が求めるているのは一時の麻薬的なまどろみなのである。
今村さんがいけなかったのは、この空気を読み取れず「国政ゴッコ」をしてしまったという点にある。大臣に求められるのは解決策ではない。サンドバッグのように叩かれても動じない精神力なのである。
政治は腐っている!と言いたいのはやまやまなのだが、こういうことはいくらでもある。例えば「レコード会社」に就職したい人は「音楽が好きでたまらない」とか「理想のアルバムを作りたいんです」などと言ってはいけない。レコード会社は「大衆が求めているようなレベルの」音楽を提供するべきだと考えられているからだ。理想を語る人は素人であり、プロの現場にふさわしくないとされる。同じように「本が好きでたまらない」人とか「理想の本を作りたい」人は編集者にはなれないのではないだろうか。それは「大衆が欲しがっているようなくだらないレベルのもの」を提供するのが編集者だからである。
そんなやる気のないことでは全体が沈んでゆくと考えるのが「頭のいい人」だ。頭がいい人ほど安倍政権の場当たり的な対応が許せなくなるはずだ。一方、ネトウヨは全体を統合できるほど頭が良くないので安倍政権の嘘が気にならないのである。理想の国家観を持って全体を統合しようとした瞬間にすべてが崩れ去ってしまう。合理的に考えると限界集落は打ち捨てられ、秋田、島根、鳥取、佐賀(秋田県を入れると全部で10県もある)などの100万人を切っている県はどこかと統合されるべきである。北海道の北部には人はいないのだから鉄道は廃止されるべきだし、銚子の近くには病院のない地域があって当然である。そして余った資本を人がたくさん住んでいる地域に振り向けるべきであろう。子育てに余裕のない世帯がたくさんある。
だが、どうだろうか。ネットの片隅で誰も読まない記事を書いているからこんなことが言えるわけで、有名人のブログだったら即炎上しているだろう。みんなそんなことはわかっている。だが言い出さないだけなのだ。
今村さんはそういう意味では頭がよすぎて、プロの政治家にはなれなかったのだ。政治家には国家観を語る資格などないのである。

Sketch Upで部屋の居心地をシミュレーションする

Sketch Upで部屋の模型を作った。手順を踏むと意外と簡単にできる。

枠組みを作る

まず、壁と窓を作った。本当はパンチングするとよいのだろうが窓を寸法通りに配置する方法がわからなかったので、壁を四角に分割して窓を当てはめた。ということで壁に変な線が入っている。枠線を取り除いてからグルーピングするという方法があるらしい。

家具を配置する

家具の寸法をかたっぱしから測って模型を作る。IKEAの家具は3Dデータが揃っているが、無印良品も少しだけ3Dデータが見つかることがある。基本的にユニットシェルフばかりを使っているので作業としては楽だった。

調度品を置く

Appleのパソコンなどは3Dデータがある。植物もデータを作っている人がいるので、植木鉢だけ再現した。別ファイルを作って、そこで作業して部屋に持ち込むのが一番簡単だった。
あとは100均で買ったボックスなどを入れて行く。本なんかもシミュレーションするとよいのだろうが、まあそこまでしなくても大体の雰囲気はわかる。

日当たり

日当たりをシミュレーションすることができた。北を設定するプラグインがあるので、これを導入して北を指定して、影をつけて行く。
近づくとこういう感じ。描画に時間がかかるが影が描かれている。

影設定というウィンドウがあり、左上端にあるボックスをクリックすると影がつく。季節や時間ごとの調整も可能だ。

どうして安倍政権が野放しになるのか

市の施設で、ラックに押し込められるように置いてある資料を見つけた。わら半紙に両面コピーでびっしりとなにやら書き込まれている。多分、誰も手に取らないだろうなあと思ったのだが、中を覗いてみた。
中にはマニフェストに対応したアクションプランが掲載されていた。それぞれのプロジェクトにはタイムラインとKPIがある。もし変更があれば、変更点も書き込まれているようだ。
が、かなりたくさんのプロジェクトが走っているので、全てを把握することはできそうにない。資料としても重いので持って帰る人もいないだろう。いちおう工程表はPDFで公開もされているようだが、かなり細かい。そもそも市民はそれほどマニフェストには興味を持たないだろう。
担当部署に聞いたところ、ドキュメントそのものへの問い合わせはないそうだ。プロジェクトに興味がある人は担当部署で対応するので、どれくらいのリアクションがあるかもよくわからないという。担当者は誰かから引き継いだらしく、文章が作られた意義や経緯とか、他の政令市がどのような取り組みをしているかということは知らないらしい。つまり、作っている方もあまり関心がなさげである。
もちろん、自己報告なので嘘もつけてしまう。一応、市議会には報告が上がっているようであるが、市議会も真面目に見ているとはちょっと思えない。が、市民の注目度も高くないので嘘をつかなければならない動機はない。つまり、注目されないことにはメリットもある。
いずれにせよ、千葉市ではマニフェストは「選挙の時の口約束」になっていないというのは間違いなさそうだ。選挙の時の約束は行動計画にブレイクダウンされて行動計画は検証可能な目的を伴っている。たいしてテレビにアピールするような項目はないが、それでも着実に実行しようとすると、これだけのものになってしまう。注目度がそれほど高くないことを考えると、別にやらなくてもいいような仕事である。だが、それを真面目にやっているところに意味があるのではないかと思う。
現在の千葉市の市長は今は無所属だが、もともと民主党の市議だったという人だ。つまり、民主党政権が続いていることになる。かといって市政はめちゃくちゃにはなっていない。つまり、今の自民党政権がいうような「野党に政権を渡したら大変なことになる」というのはデマである。この工程表には「市民と行政を育てて行きたい」という市長の意気込みがあり、これが2009年以降、ずっと続いている。ちなみにさいたま市も同じような実行計画があるようだ。こちらの市長はもともと自民党の県議だったが、みんなの党と民主党の推薦と支持を受けたという人だそうだ。
国政でも民主党は2009年以降政権を担当したのだが、テレビ慣れした代議士が多く「とりあえず視聴率が取れることをやろう」という意識が強かったようである。そのためパフォーマンス重視の政権運用に終始し、最終的に「あの政権だけはダメ」という強烈な印象を残した。視聴率を稼ぐためには誰かを非難するのが一番手っ取り早い。しかし、誰かを非難して政権をつかむことと、着実に政権を運営することは全く別のことで、両立は難しいのだ。
もし、民主党政権が、3年の間に地道に政権運営していれば、我々が政権交代に対して持っていた印象はかなり違うものになっていただろう。今、森友問題や大臣の失言のように政権が吹っ飛びかねないスキャンダルが山積みになっても自民党が無傷なのは追求するのが民進党だからだ。
この国政での民主党の失敗は、のちに「安倍政権がどんなに無茶苦茶なことをやっても、とりあえず民主党よりはよい」という理解になり、安倍政権を増長させている。
千葉市は、財政が傾いて前の市長が汚職で逮捕されたあと、自民党に関わりのなかった市長が当選して今に至る。この市長は市議の経験があったので行政がどう動くかを理解していたこともあり、市職員も離反しなかった。自治会への依存度が高かったり、中心部が空洞化しつつあったりと、不調な点もあるが「前に比べるとマシ」という状態にあり、非自民への嫌悪感が生まれなかった。これが維新などのポピュリスト政党の台頭を防いでいる。国政を考え合わせると極めて幸運なことだったのかもしれない。
そう考えると国政レベルの「絶望」のかなりの原因は現在の民進党の執行部にあることになると思う。
ただ、政党だけに問題があるとは言えない。千葉市でもマニフェストに対する市民の関心はそれほど強くないはずだが、国政ではさらに関心が薄いだろう。千葉市長もちょっとしたツイートが反発を受けて、ジェンダー絡みの一部の人たちからは「敵認定」を受けている。地道な活動はあまり注目されず、ちょっとしたツイートだけで評価されてしまう。この意味で、政治は極めて「スマホ型」になっている。瞬間的に生じた印象で全ての評価が決まってしまうし、情報ソースが狭いのでいったん生じた印象が固定化されてしまうのである。
そこで生まれるのが小池都知事のような「劇場型」の政治家だ。劇場型政治は対立がそのまま政治だと理解される。例えば、築地・豊洲の問題ももはや本質的な議論とはいえない。本質的には「伝統的な魚食文化を守りつつ」「高度化した流通にも対応する」という両建ての議論が行われるべきだが、どちらかを二者択一で選択しなければならないという思い込みが生じている。だが、冷静に考えてみると「銀座久兵衛」と「すしざんまい」のどちらかしか寿司屋として残れないというのは乱暴すぎる議論だろう。
しかし、建設的な議論はそれほど面白くない。対立は人々を陶酔させる麻薬のような効果があるからだ。このブログでさえも他罰的な文章を書くとアクセスが伸びるくらいなので、経済的な要求のあるテレビや新聞などが他罰的で劇場型の報道に傾くのは無理がないだろうなあとは思う。
だが、いったん他罰型の統治機構を作ってしまうと、それに純化した人しか残らないので、いざ実務的な何かをしようと考えても、それを実行することができない組織ができてしまう。多分、安倍政権が増長する裏には、有権者の「他人を罰したい」というニーズがあるのではないだろうか。

マイナンバーカードとお役所のやる気のなさ

マイナンバーカードを取りに行ってきた。いろいろ考え込んでしまったことをだらだらと書いてゆく。目についたのは、国民と役所のやる気のなさだ。
「カードの受け取りをするように」という連絡はハガキでくるのだが、あらかじめ市役所側がマーカーで線を引いている。これは非正規の職員にやらせているのではないかとおもう。人件費の無駄だ。これは、ハガキが著しくわかりにくいためだ。多分、国には文書をわかりにくくするセクションというのがあって、そこを通過しないと文書が発出できないのではないかと思わせる。
わかりにくい理由は2つある。1つはAND条件とOR条件が複雑に絡んでいるからだ。「ないし」とか「または」というやつである。数回読んだが、箇条書きにすればいいのにと思った。あとは単純に字が小さい。多分優先順位がわかっていないのだろう。持ってくるものと、取りに行く場所だけ書いておけばいいのにと思う。
受け取りに行くと口を酸っぱくして「自己責任」の重要さを説かれる。これが非常にうざい。が、どうやら受け取りに来る人たちは想像以上にぼーっとしているらしい。「身分証明をもってこい」というのに持ってこない人が多く、通知カードの存在を忘れている人も多いそうだ。ちなみに身分証がないと受け取れないし、通知カード(に加えて住基カード)をなくすと紛失届を書かなければならない。
暗証番号が4つ必要なのだが、これを忘れる人も多いそうだ。カードを作った人が引越しの際などに手続きをするために市役所にゆき「番号を忘れた」などというと、そこでまた大騒ぎになる。そもそもなぜ同じような4桁のパスワードが3つあるのかもよくわからないが、それを同じにしても特に問題にならないというのもわからない。が、そもそもパスワードを管理できない人がいるのである。
しかし問題なのは利用者の側だけではない。電子証明は5年で切れてしまうのだが、再発行の通知はこない。これは自分で管理して自己申告で市役所に再発行をお願いしなければならない。が、そもそも暗証番号を忘れる人が多いのを見ると、彼らが自分で更新手続きをするようには思えない。また、カードの身分証明機能も10年で失効してしまうのだが、これもお知らせがこないそうである。
さらに、平成33年などと書かれているが、今年が平成何年かすぐに言える人がどれくらいいるだろうかという疑問もあるし、そもそも退位が予定されているので、平成33年という年はない可能性が高い。市役所の人に言ったら「ああ、考えたことがありませんでした」と感心されてしまった。
さらに10年後、どういう手続で再発行するかは決まっていないそうである。つまり、今カードを受け取った人は誰も更新手続がどんなものか知らない。つまり意識があっても知りようがないのだ。
高齢者なんか暗証番号も更新手続も忘れるでしょうねと言ったら「でも失効しても別に実害ないですし」と言われた。電子証明書を使うのはパソコンによる納税のときだけなのだが、これは専門のリーダを持っていないと使えない。こういう人はカードを毎年使うので当然意識するだろう。が、使わない人は忘れてしまうかもしれない。さらに身分証明機能もほとんど使う人はいないだろうから、失効しても気がつかなったという人が多そうだ。だったら何のためのカードなんだと思うわけだが、窓口の人も「持っても意味ないんじゃないか」と感じているらしい。「私がいうことでもないですが、別にそれほど困らないですよね」と言っていた。
ちなみにマイナンバーカードの普及率は8%程度なので、それを前提に民間がアプリケーションを作るなどということは考えられない。このまま普及しないだろうから、数年後には「ああ、そういうカードがあったね」ということになっているのかもしれない。
リベラル系の政党は「監視社会が到来する」と言っているのだが、監視社会になるほどの緻密さはなさそうだ。監視できるくらいのシステムを作ったら、その前に大規模な情報漏洩が起こりそうだ。もし、政府がカードの利用を無理強いすれば行政の現場がパンクするだろう。