デリー・アグラ近辺のイスラム建築の写真を整理する

いつもの政治経済ネタとは全く関係がないのだが、昔行ったインドツアーの写真を整理することにした。このブログに掲載したのは単に他にハコがないからである。だから政治ネタに興味のある人は読み飛ばしていただきたい。

航空券とホテルの一部だけを予約して行ったのだが、ツアーは現地のものを利用した。英語のツアーがたくさん出ているので、ツアーを見つけるのにはそれほど困らない。ついでにインドは安宿も多いので宿泊先に困ることもそれほどない。ただし、長距離鉄道は安いので予約が埋まりやすい傾向にある。事前の予約をお勧めする。

現地のツアーを利用したのは良かったのだが、ムガル朝の歴史に詳しくないためどれも同じに見えてしまい、帰ってからどこに行ったのかがわからなくなってしまった。そこで時系列に整理することにした。もしかしたら日本に外国人にとってはお城もお寺も同じように見えるかもしれない。お墓も御所も同じように見えるのではないか。整理できるようになったのはグーグルのイメージ検索のおかげだ。写真をアップすると場所を特定してくれるのである。

整理してみると、意外にムガル朝の歴史を網羅していることがわかる。知らないって怖いことなんだなと思った。市内ツアーは200円で1日がかりのアグラツアーは2,000円弱(朝飯と昼飯付き)である。それほど高くはない。現在の価格を調べてみたがそれほど値上がりはしていないようである。

ムガル帝室はこの地域に進出してから、アグラとデリーの間を行ったり来たりしている。アグラとデリーの間は230kmほど離れているのだが、どちらもヤムナ河沿いにある。この両都市にジャイプールを加えるとちょうど一辺が200km強の三角形になり一週間程度で回れるコースができる。地図で調べるとヤムナ河とガンジス河に囲まれた地域が平原になっており、農業に適した土地だったのではないかと思われる。ムガル帝国はこの地域に目をつけたのだろう。

ムガル帝国

中央アジア出身のバブールによって成立した。父親はモンゴル系のチムール朝の王族で母親はテュルク・モンゴル系の遊牧民族だった。バブールは中央アジアからインドに移ってインドで帝国を作った。ムガル朝はイギリスに滅亡させられるまでの間、モンゴル系統のチムールの末裔を主張していたとのことである。ムガルはモンゴルの意味を持つペルシャ語系の他称だそうだ。

バブールが生まれた地域は現在のウズベキスタンに当たり、ムガル朝はよそから来た他民族王朝だったことがわかる。ただしその系統は複雑である。前身であるチムール朝はモンゴルの後継だったが、言語はすでにトルコ語化していた。これをチャガタイ・トルコ語と呼ぶそうである。しかしながらムガル朝はフマユンが一時ペルシャに逃れたこともあり建築などにペルシャ様式を残した。だからムガル帝国の公用語はペルシャ語だった。さらにチムール朝の前身はチャガタイ・ハン国だったが、これはトルコ・イスラム化したモンゴル系国家だった。チャガタイ・ハン国のイスラム化は徐々に進展した。

つまりムガル朝時代のインドはモンゴルの伝統、トルコ系の伝統、ペルシャ系の伝統が複雑に入り混じってできたものだと考えられる。今でも中央アジアにはイラン系の白人とトルコ系、モンゴル系のアジア人が入り混じった他民族国家が多くある。

インドとイスラム

インドというとヒンディ語という印象があるのだが、ムガル帝国の歴史を見るとわかるように史跡はほとんどペルシャの影響を受けたイスラム様式である。ただし、イスラム教そのものはペルシャ経由ではないという複雑さがある。一方、デリー近辺にいるヒンディ語を話す人たちにも「ヒンディ人」という民族意識があるわけではなく、単に言語によって民族を規定しているような状態になっているそうだ。彼らはムガル朝より前にペルシャあたりから東進・南下してきたアーリア系の子孫が現地の人たちと混血してでき他民族だと考えられる。この混血具合が違っており、現在の複雑なカスト制度ができている。

デリーで最初に宿泊した土地にはモスクがあり早朝からコーランがスピーカーで鳴り響いていた。朝の暗いうちからお祈りで出てくる人がおり、彼らを目当てにチャイとトーストを振る舞う店がある。インドはイスラム系のパキスタンとヒンズー系のインドにわかれたのだと教科書で習っただけだったので、これは少し意外だった。

重層的なデリーの街

デリーは古くからイスラム系勢力の支配地域だった。その最初は「奴隷王朝」という聞いたことがあるような名前の王朝だ。しかし勢力は安定せず帝国と呼べるような国は出なかった。

デリーとその近郊には緑豊かな平原が広がっている。これはガンジスとその支流のヤムナによって作られたものである。山がなく緑が多いので農業に適した土地が広がった豊かな場所だったことがわかる。ここから200km西に行くとラジプタン州になるのだが、ここは砂漠地帯である。しかし、さらに南進するととても暑い地域が広がっており、さらにガンジスの下流域では洪水なども起こったのではないだろうか。

さらに、ペルシャや中央アジアからインドに来ると必ずこの地域を通るので交通の要衝でもあったのだろう。そのため度々他民族から侵攻された。

幾つかの小さな王朝が攻防を繰り広げた後、最終的にムガル朝の本拠地となる。イギリスが支配を始めた時の中心都市はコルカタだったがやがてデリーに移ってインド支配を本格化させた。イギリス時代の建物はムガル朝の首都よりやや南にありニューデリーと呼ばれている。ただしニューデリーができたのは比較的新しく20世紀に入った1911年のことだったようである。

旧デリー市街はゴミゴミと活気のある町並みなのだが、ニューデリー地域は広々とした空間に建物が広がっている。この写真では向こうの方にかすかにインド門が見える。

かつては地下鉄網が発展していなかったために空港から市街地に出るのは一苦労だった。ガイドブックには「市街地に行くのに騙されないようにするにはどうしたらいいか」というページがあったほどである。のだが、最近では地下鉄が整備され旅行が安全になった。ニューデリー駅の近くには安宿が点在しており予約なしでもそこそこのホテルに泊まることができる。ただし、女性には性被害が頻発しており昔よりは一人旅が難しくなっているかもしれない。

フマユン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユンの墓として作られた。フマユンはいったんペルシャに逃れた後、北インドに戻りデリーとアグラを征服したのち1556年に亡くなった。

ペルシャの王朝はサファヴィ朝でありもともとはトルコ系だったということである。サファヴィ朝は、その成立過程で宗教的に先鋭化し、スンニ派からシーア派になった。その後イランは今でもシーア派が主流の地域になっている。そしてその影響を受けたムガル帝国もシーア派化した。ただし、現在のパキスタン・インドのイスラムはスンニ派だということなので、帝室の伝統は必ずしも現地のイスラム教の伝統とはならなかったようだ。

このお墓はアクバル大帝の時代になってペルシャ出身の皇帝母によって建築されたのでペルシャ式になっている。この頃からムガル帝国はペルシャ語化してゆく。

1857年にムガル帝国が崩壊した時、最後の皇帝パハドゥル・シャー二世がフマユン廟に逃げ込んだところをイギリス軍に捉えられ帝位を剥奪された歴史もあるそうだ。

フマユン廟は地下鉄駅から離れているのでツアーを使ったほうがよさそうだ。近くにハズラト・ニザーム・ウッディーン(ハズラト・ニザムディン)駅という国鉄の駅がありアグラに行く新しい急行列車ガティマン・エクスプレスが出ている。

通常、アグラやジャイプールに行くにはニューデリー駅からのシャタブディ・エクスプレスを使うのだが、朝が早いのでこちらのほうが時間的には便利なのかもしれない。(写真はニューデリーを出発してジャイププールジャンクション駅に着いたシャタブディエクスプレス。この後、アジメールまで向かうのでアジメール・エクスプレスと呼ばれる。)

急行列車はかなり人気なので、チケットは前もってとったほうが良い。数日の余裕をもって行動したほうが良さそうだ。なおインドには特急というクラスはないようで、すべてエクスプレスと呼ばれているようだ。

アグラ城塞(アグラ城)

デリーからアグラへ遷都するのに皇帝アクバルが築城し1573年に完成した。その後3代、シャー・ジャハンまで皇帝の居城だった。シャージャ・ハーンの息子アウラングゼーブが重病(催淫材の多量服用が原因とされるそうである)の父親を幽閉したのちデリーに移った。

今でもアグラ城からタージマハルを眺めることができる。

門には文字が書かれているのだが多分コーランなのではないかと思う。お墓に経文を彫るようなものなのだろう。

アグラ城塞とタージマハルは駅(アグラ・カントンメント)から離れているので、ツアーを使ったほうが良いように思える。アグラ城とタジマハールも若干離れている。デリーから出発する日帰りのツアーも探せるし、特急を使えば1日で帰ってこれる距離である。

シカンドラのアクバル廟

アクバル1世はフマユーンの子供として生まれたのち、宰相から権限を奪い皇帝権を確立した。日本でいう徳川三代将軍みたな感じの人らしい。

帝国領域が拡大し非イスラム教徒が増えたため人頭税を廃止して税制を改革した。この後ムガル朝の最盛期になるのだが、アウラングゼブが再び人頭税を復活させた後、治世が安定しなくなり崩壊に向かった。

アクバルは1605年にアグラで亡くなった。ちょうど関ヶ原の合戦のころの人ということになる。

なおこの建物はアグラ中心部から10kmほど離れたシカンドラという街にある。アグラは公共交通が発達していないので現地でツアーを利用したほうが良いと思う。

ホールのボタニカルな文様は鮮やかで見ごたえがあるが、墓室そのものは質素なものだ。

タジ・マハル

シャー・ジャハンが妻のムムタズ・マハルのために建てたお墓。タジ・マハルは建物の名前ではなく皇妃の名前が省略されたものだそうである。

1632年に着工して1653年に完成した。ムムタズ・マハルは14人の子供を産んで36歳で亡くなったということである。夫が元気だったので大変だったのだろう。

シャー・ジャハンは放蕩の末、息子に幽閉されて居城からこの墓を見ながら亡くなったという。丸屋根の高さは53mだそうだ。周囲の尖塔は42mということで遠くからでもはっきり見ることができる。

この建物の向こうにヤムナ河が広がっており、河を挟んでシャー・ジャハンの墓を作る計画があったそうだ。

レッドフォート(ラール・キラ)

別名はラール・キラー。ムガル帝国五代皇帝シャー・ジャハンがアグラから遷都してデリーに居城として築いた。1639年に着工し、1648年に完成した。シャー・ジャハーンは重病となりアグラに帰り、その後息子(アウラングゼーブ)に幽閉された。

最初の写真が城門にあたり、次の写真が皇帝が謁見した建物だそうである。

アウラングゼーブ帝は父親のように幽閉されることはなかったが、晩年自分も同じように息子から廃位されるのではないかとか、息子たちが争うようになるのではないかと思い悩むことになる。

その予想は半ばあたり、息子たちが争うようになる。この後ムガル帝国は緩やかに衰退してゆくことになった。

レッドフォートは珍しく地下鉄駅が近くにある。バイオレットラインのラール・キラ駅が最寄りだが、チャンドニ・チョウク駅からも歩いて行けるくらいの距離だ。チャンドニ・チョウク駅からはジャマ・マスジッドにも行くことができるくらいの距離感である。この地域はオールド・デリーなどと呼ばれている。

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神戸製鋼の改ざん問題について勉強する

神戸製鋼所で品質改ざんが問題になっている。この問題については「モノづくり大国日本の敗北の象徴だ」などという感情的な感想が聞かれるのだが、少し新聞を読むだけでさらい深刻なことが起きていることがわかる。長年、現場で実際にモノづくりを担当する人たちがどのような気持ちで不正を働いていたのかを考えると暗澹とした気分になるほどである。と、同時にこの手の問題を右から左に片付けることでジャーナリズムは構造的な不調を深く考えないように<国民を洗脳>していることがわかる。つまり、もう仕方ないから考えないという諦め癖をつけようとしているのかもしれない。

かつて日本の企業は、労使がお互いに依存し合うことで成り立ってきた歴史がある。つまり経営者が稚拙であってもなんとか経営が成り立ってきたのだ。この依存関係が崩れて稚拙な経営者が企業を滅ぼしてしまうというようなことが起きていると言える。依存という言い方が嫌いなら「絆」とか「信頼」などと言ってもよい。

ではなぜ、労使お互いの信頼関係は壊れてしまったのか。細かな経緯はよくわからないのだが、労働者の間にある漠然とした将来への不安がすこしづつ企業の信頼を蝕んでいたのではないだろうか。


一度この記事をリリースしてからDIAMOND ONLINEの記事を読んだ。ソ連と接近したから粉飾を覚えたのではないかという因縁めかした話が書かれている。これはこれでひどい記事だと思うが、一応リンクを貼っておく。業績が悪化しても世界一のプライドから抜けられなくなってゆく様子はわかる。


神戸製鋼所は日本では第3位の製鉄会社だ。かつて日本には神戸製鋼所を入れて5つの製鉄会社があった。新日鉄、住友金属、川崎製鉄、日本鋼管である。しかしながら神戸製鋼所以外の4社はお互いに合併してしまい、神戸製鋼所は製鉄業者としては世界の上位50位程度の規模になってしまった。しかしながら、鉄鋼への依存度は4割程度しかないという意味で「多様化」には成功している企業だと見なされていたようである。さらに経済系の雑誌などは神戸製鋼所の歴代の社長を変革者だとみなして持ち上げていたようだ。

現在の社長の説明によると神戸製鋼所の問題点は次の通りである。

  • 国内の業界再編(鉄・銅)に乗り遅れた。
  • 中国の鉄鋼メーカーが高品質な製品を作れるようになってきている。

このため現社長は神戸にある高炉の一つを止めるという決断をしたそうだ。高炉は阪神淡路大震災の復興のシンボルでもあり会社の魂とも言える。社長としてはこれがショック療法になり、会社が一丸となって「自分たちが変わらなければ」という変革心を呼び覚ますことを期待したのだろう。だが、この経済誌は現場のバックアップなどはとらなかった。もし取っていたとしても、広報部にアレンジしてもらって現場をさらうくらいだったのではないだろうか。それはまるで北朝鮮の監視付きツアーみたいなものだ。

だが、今回の事例を見ると社長は社員と気持ちを共有していなかったようだ。そこで社長の経歴を見てみた。

川崎博也、かわさき・ひろや。日本の経営者。「神戸製鋼所」社長・会長。和歌山県出身。京都大学大学院工学研究科修了後、神戸製鋼所に入社。IPP本部建設部長、加古川製鉄所設備部長、執行役員、常務執行役員、専務執行役員などを経て社長に就任。

IPPは発電プラントを意味するようだ。さらに、鉄の技術者ではなく製鉄設備の担当を経て役員になっている。つまり、よそ者が勝手に神戸製鋼所の魂を壊してしまったと受け止められかねないキャリアだし、実際には製鉄業に強すぎる思い入れがなさそうだから社長に抜擢されたのかもしれない。

では前任者はどうだったのだろうか。前任の佐藤廣士氏は鉄の技術者出身者だったが、リーマンショックの直後に社長になり高炉を止めるか(冷やしてしまうと二度と使えなくなってしまうので、常時温めておかなければならない)どうかという選択を迫られていたという。研究者出身らしく鉄に思い入れがあったかもしれない。

佐藤氏の文章を読むと神戸製鋼所が苦境に陥っていた理由がわかる。これ自体は労働者が努力をしなかったからでも、経営者が無能だったからでもない。日本の置かれた状況そのものが変わってしまっているのだ。中国などが鉄鉱石を買いつけるので鉄鉱石の値段は上がっているのだが、ライバルの中国で安く鉄が作られるようになり製品の値段が下がるといジレンマに陥っていた。そこで業績が傾き高炉を止めるかどうかの判断を迫られるところまで来ていたということだ。

前回、内部留保のところでみたように日本の企業は人件費を安くしてほしいとか法人税を安くしてほしいなどと要求している。消費者や労働者から見るとフリーライディング的な恫喝行為だが、経営者サイドから見ると切実な要望なのだろう。だが、少なくとも、豊富な農村部からの労働力が利用できる中国やインドなどと人件費面で太刀打ちができるはずはない。人件費を多少落としたとしてもインドなみにはならないだろう。かといって高品質の鉄を作れば良いということも言えない。超高品質の鉄を作ることもできるだろうが、それほどの需要は見込めないだろう。

この中で最も心が痛むのは、佐藤前社長が就任当時からコンプライアンスが大切だということを訴えていたということだ。10年くらいは不正があったことを経営者が認めているということなのだから、兆候はあったのだろう。では前社長は何をしたのか。文章を抜粋する。

これは現場の人にとっては迷惑な話かもしれません。後ろに数百人の仲間がいて、その前に立って社長に向かい、「今の社長の話に対し、私たちはこういうふうにやります」と表明するのは、緊張するでしょうし、責任も生じるでしょう。だけど、それを私は真剣度だと思うんです。失敗するかもしれないし、世の中が変化して最初の方針が変わるかもしれない。でも、今こう思っていることを口に出して言うということには大変意味があります。

この次の段落で「現場の人たちは緊張で震えていた」と回顧しているのだが、今にして思えば嘘がばれるのが怖くて震えていたのかもしれない。つまり現場では偽装が横行していたのに社長の前ではコンプライアンスについて唱和させられていた。しかも経営陣から何か指導があるわけではなく「現場の提案」を強要されていたのだ。経営者側から見れば「自発的な提案」であったかもしれないが、これは受け取り方の問題に過ぎない。

中には直属の上司から偽装を求められた人もいたかもしれない。このように板ばさみになっていた人がどのような気持ちでコンプライアンスについて宣誓していたのかを考えると身震いがするようだ。

さらに、当時の神戸製鋼所が高炉を止めるという決断を迫られていたことも見逃せない。つまりリストラの危機があったということである。労働者からすると「自分が切られるかもしれない」ということである。直属の上司に逆らえば切られるかもしれないが、社長はコンプライアンスを守れと言ってくる。ダブルバインドの状態に置かれていたことが想像できる。だが、経営者は何も教えてくれず、支援もない。ただ「どうするのかみんなの前で提案しろ」というのである。

前社長の思いがどうだったのかということは話からないのだが、結果的には経営者の自己満足だったということになる。しかし、それも仕方ないかもしれない。前社長の専門は研究者であって、経営の専門家ではないし、労働者の心理や変革管理について学術的に学んだことはないはずだ。

しかし、その影響は甚大だった。東京商工リサーチは次のように伝える。鉄は部品に加工され、最終的に車、鉄道、航空機などになるため、どこで使われているのかは調べないとよくわからない。

 神戸製鋼所は10月8日、検査の未実施やデータ改ざんの製品の納入先は約200社と公表。だが、11日には鉄粉事業や子会社でもデータ改ざんがあり70社増えた。さらに13日の会見では、その後の調査で約500社に膨らんだことを明らかにした。
同時に、データ改ざんに関わった製造会社名や出荷重量も公表(表参照)した。出荷した製品は最終的に国内外の自動車メーカーや鉄道、航空機などで使用されている。メーカー名公表の意図を問われた川崎社長は、出荷先や最終納入先の名前名は「複雑なサプライチェーンの中で加工され、どういった中で消費者の手に渡っているかわからない。

当初は10年ほど前から行われていたと報道されていたようだが、毎日新聞社は実際には40年以上もやっていたという声を伝えている。つまり現場としては「話をしたくてしかたがなかった」ことになる。また多角化が進む中で複雑な子会社組織が作られていたことがわかっている。当初は傍流の銅やアルミの部署で行われているだけだろうと思われていたのだが、実は本流の鉄鋼部門でも不正はおこなわれていた。

リストラやシンボル的な高炉の停止などで士気が著しく下がる中、状態はさらに悪くなってゆく。鉄鉱石の値段が上がっていたということは少なくとも需要があったということだが、中国で建築バブルがはじけてしまったからである。ただし、急激に弾けるというよりは徐々に需要がなくなってきたようである。中国のバブルが急激にはじけたという実感はないようだ。

もうこうなると鉄を諦めて他の事業で稼ぐしかない。高炉も一時停止ではなく永久に閉じなければならない。しかしながら、神戸製鋼所は中国で稼ぐためのノウハウもそれに必要な管理職も持っていなかった。つまり、トップにも経営的な知識がなかったが、将校レベルにもそれなりの知識がないまま前線に送り出してしまったことになる。だが「とりあえず現場に行ってなんとかしてこい」と言われている正社員はどこの会社にも多いのではないだろうか。

日経新聞の記事によると、建築機械について中国の代理店に頼った商売をした結果、代理店から手酷く裏切られている。倒産がわかった時にはすでに担保になっていた建築機械がよそに売り飛ばされていたようだ。GPSを外して追跡できなくしたり、キャタピラ社のものに偽装するために黄色く塗り直したりなどなんでもありの状態だった。とにかく売り上げをあげなければならないというプレッシャーがある中で無垢な日本人を騙すことなど彼らにとってはそれほど難しくなかったはずである。

マスコミの態度は一貫していい加減だ。過去記事では鉄だけでは食べて行けないから多様化すべきだという経営者の変革魂を持ち上げていた。しかし今度は行き過ぎた多角化をどう戒めるか考えるべきだなどと言っている。結果論ではあるが、切るならばバッサリと切ってしまうべきだったということになるのだが、これは許容される可能性は少なかっただろう。例えば神戸や加古川などでは重要な雇用の受け皿になっているはずで、地元が猛反発していたことは間違いがないからだ。しかし、これもマスコミがいけないとは一概には言えないだろう。ジャーナリズム学科をダブルメジャーで卒業して新聞や雑誌の記者になった人などいないはずなのだから。

そうなると、結局このような不正で崩れるしかなかったということになる。日本人は何も民族として優れているから不正を働かないわけではない。企業が人生を保証していると考えるからその環境を保全しようとしているだけなのだ。この前提が失われてしまうと、今度は一人ひとりが自己保身を図ることになる。

こうした現実を受け止めない限り同じような問題は繰り返されることになるだろう。しかし、日本人はそれぞれの持ち場で必要な知識を与えないまま現場でなんとかするように強要しているのだから、どれもこれも仕方がないことなのかもしれない。

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内部留保について勉強する

内部留保への課税は愚策だが何が愚策なのかよくわからない

希望の党が内部留保に課税するといっている。経済がわかる人からは「希望の党にはまともな経済ブレーンがいないのか」と呆れられているということなのだが、経済がわからない人から見ると何の話だかわからない。しかも、経済がわかる人たちは企業へ批判が向くことを恐れている。そこで「何かを隠しながら」内部留保に課税できないという説明をすることになる。

そこで内部留保について調べてみた。教科書として大和総研の「内部留保は何に使われているのか」を使った。が、難しすぎて何が書いてあるのかよくわからない。

そもそも企業とは何か

わからないことは単純化して考えたほうがいい。そもそも企業とは何だろうか。企業はお金を増やす機械である。企業は誰かからお金を借りて商売をする。すると売り上げがあがるので誰かに分配する。それだけである。だから企業はお金を溜め込んではいけない。

生産と売り上げはわかるのだが「お金を外に出す」というのはなかなか見えにくい。この行為を分配と呼ぶことにする。分配先にはいつかの種類がある。労働者に支払われるのが賃金であり、投資家に支払われるのが配当である。さらに設備投資をすると設備を作る会社にお金が渡る。これを投資と呼ぶ。

分配が行われないと、企業は現金を溜め込む。しかし現金が溜まっていると通常は株主が文句をいう。単にお金を貯めているのなら利益を株主に配当しなければならないからだ。そこで、配当しないで新しい事業を始めたり、工場を立てたり、株の売買などを通じて国内外の企業を買収することがある。将来の配当が約束されるので株主は納得する。ゆえに分配がないこと自体は悪とは言い切れない。

資金の調達には二種類がある

内部保留について考えたいところだが、まずはお金の調達先について知らなければならない。これはレポートにも書かれている。

企業は水を流すようにしてお金を流し続けなければならない。お金の調達先には二つある。一つは内部調達と言われる。今までの儲けを貯めておいて使うのである。もう一つは外部調達と言われる。銀行からお金を借りる。外部調達には利子がかかるのでいっけん内部調達の方がよさそうなのだが、実はそうではないようだ。

企業は出資者からお金を借りてそれを運用させてもらっているだけなので、内部調達でも出資以上のお金を返さなければならない。このため、内部調達の方が資本を借りるお金(これは資本コストなどと呼ばれる)は大きいのだそうである。これは考えてみれば当たり前だ。出資者から見ると、企業にお金を出資するのは単に貯金するよりも利率が高いからだからだ。つまり貯金より株式の配当や株価の値上がりのほうがうまみがあるからこそ、株への配当が行われるわけである。

外部調達のメリットは社会全体から見て資本が効率的に運用できる点にある。企業はいつもお金を必要としているとはいえない。ある企業がお金が必要な時に別の企業はお金が必要ではないかもしうれない。そこで金融機関が仲だちになってお金を融通することになる。しかしながら日本では金融機関があまり信頼されていない。

日本で金融機関が信頼されないのは、バブル崩壊期に容赦ない貸しはがしが起こったからだと考えられている。つまり、銀行は企業が儲かっているときは沢山貸してくれるが、本当に必要な時には助けてくれないという認識を多くの企業が持っているのである。政府もこれに一役買っている。バブル崩壊後には銀行や証券会社自体がつぶれたりしたのだが、政府は金融機関の救済を長年放置していた。そこで金融機関は自己保身に走らざるをえず、信頼を失ってしまったのである。

ここからわかるのは企業は国内の金融機関に頼って資金調達するのをやめてしまったということである。これがレポートに書かれている「外部調達が少なくなっている」の意味である。外部調達が少なくなるということは、ここでは資本が国内を還流しなくなるということを意味している。

日本企業は大切な何かを失いつつある

国内にお金が還流しなくなったもう一つの理由は企業活動そのものにある。

国内の消費は低迷するようになった。国内消費が低迷している理由については諸説あり一定しない。調達とは関係がないが状況を見て行きたい。

バブル期以降しばらくは終身雇用の人たちを切れなかった。そのためこうした人たちを非正規に置き換えてゆく動きが起こり、賃金が下降してゆく。このことは一般的に2つのものを失わせた。日本市場は恒常的に停滞するようになり、なおかつ知的資産が失われている。

だが、自民党政権も民主党政権もこれを放置し続けた。よく政治の世界では「自民党のほうが民主党政権よりマシ」とか「自民党政治を許すな」などということが言われるが、トレンドを見ると「どっちもどっち」としか言いようがない。

まず、自民党は非正規雇用を追認する政策を行い(いわゆる小泉竹中路線)、民進党は連合を支持母体にしているので、非正規雇用にはそれほど関心を持たなかった。このため国民の給与総額は落ち込んでいる。お金が流れて行かないのだから消費が低迷するのは当たり前である。10年もすると、国民はあまり消費しない生活に慣れるようになった。中古市場ができ、スマホを使って使いかけの化粧品を売るような市場までできている。

さらに、非正規化に伴い形式化されていない知識が失われ、企業はますます弱体化している。

BBCは日本企業が全体として凋落してゆく様子を痛々しく書いている。人材や設備への投資をしなくなったことで、最低限の品質すら確保できず、不正に手を染める企業が増えてきているのである。それに加えて資金の内部調達に頼ることで株主への依存が強くなったことにも原因があるのかもしれない。銀行は利子さえ返してくれれば経営には口を出さないが、株主は経営者を変える権限を持っていて、四半期ごとにパフォーマンスをあげることを要求するからである。労働者に賃金を払わないのにもっとパフォーマンスをあげろと言われれば、パフォーマンスをごまかすしかない。

この結果、国内市場が冷え込むばかりでなく、メイドインジャパンへの信頼が失われることになった。

蓄積した富が日本をすり抜けて行く

企業は国内の金融機関を儲けさせることをやめて独自で資金調達することになった。さらに国内の企業活動が低調なので海外の企業を買収してそこから利益を配当としてもらうようになっている。これは日本国内のGDPに反映されないので国内から見ると「余剰の資本が単に滞留している」ように見えてしまうのだが、実際には経済活動が国内から逃避しているということを意味するにすぎない。このことはレポートに書いてある。ただし「海外でM&Aなどの活動をしているから問題がない」となっている。

内部留保の問題というのは実は日本をスルーして儲けが勝手に海外で還流してしまうことなのだということがわかる。だが、企業が潰れても誰も助けてくれないのだから、これを一概に非難することも難しそうだ。

企業は問題を直視しようとせず政府に無茶な要求を突きつける

それでは企業は「自分たちも頑張るから助けてくれ」と懇願するだろうか。レポートの最後の部分を抜粋してみた。

この点、2015 年 11 月 26 日に開催された「第3回未来投資に向けた官民対話」では、日本経済団体連合会の榊原会長が「事業環境の国際的なイコールフッティングの確保」を求めた。具体的に必要な対応として①法人実効税率の早期引き下げ、②設備投資促進策、③規制改革の更 なる推進、④TPPの活用促進と経済連携協定(日中韓 FTA、RCEP、日 EU EPA)の早期妥結、⑤安価で安定的な電力の確保、⑥次世代技術の開発・実用化に向けた政府のイニシアティブの発揮、 ⑦研究開発促進税制の維持・拡充、⑧女性・若者・高齢者の活用促進、外国人材の積極的受入れ、⑨労働規制の更なる緩和、の9点を指摘しており、この9点が改善されることを前提とす れば、国内での設備投資は 2018 年度に 81.7 兆円になると述べている(2015 年度の設備投資を 71.6 兆円と推計し、3年間で約 10 兆円増える計算)。

まとめると「税金をもっと負けないと海外に出て行くぞ」ということと「国のカネを我々にもっと振りむけろ」といっている。それはばりか「安い人材を使えるようにしないと海外に出て行くぞ」という脅しも入っている。あまり国に貢献しようという気持ちはないようだ。

では安倍政権は「お前らいい加減にしろよ」と言ってくれれば問題は解決するかもしれない。だが、安倍政権の政策は例えば「残業代をゼロにして企業に儲けてもらおう」とか「法人税を引き下げよう」というものである。しかし、世襲が多い自民党政権は企業経営がわからないのだから、経営者のいうことを鵜呑みにするしかない。官僚にも経営の経験はない。

では、野党はこれを批判しているだろうか。こちらは経済すらわからないようで「安倍政権は気に入らない」くらいのことしか言わない。さらに維新の党は民営化すればおのずからうまく行くのだと言っている。どの党も日本企業の現状については目を向けない。ただ、それも仕方がない。共産党と社民党を除く企業は、経営者か正規労働者の組合が支持母体になっていて、企業を非難できないのだ。

いずれにせよ内部留保に課税はできない

ここで問題になるのは、内部留保に課税するというのが何を示すのかということである。もし企業の預金に課税するということになれば、実は預金そのものはそれほど増えていないのだから大した課税にはならない。では、企業の株式売買の際に課税するということも考えられるわけだが、海外の市場で調達してしまえば課税機会はない。そもそも、内部留保という費目はないので、そもそもそれに課税することはできず、たとえできたとしてもそれはそれほど大きな課税額にはならないということになる。

ここまでいろいろとややこしく書いてきたが、実は問題になっているのは企業が儲けを溜め込んでいることではないようだ。問題は企業活動が国内をスルーするようになっているということなのではないだろうか。つまり日本の大企業は国内に本社を置いているだけで、多くの活動を海外で行っている。だから日本に課税する必要もないし、工場を作る必要もない。さらに日本人の労働者に賃金を支払う必要はないということである。こうした地盤沈下が均等に起きているので、特定の企業だけが潰れるということもない。時々、偽装が起こり大騒ぎになるだけである。こうした企業はやがて中国企業に買われてゆく。

こうした問題が起こるのは、日本の政治家が世襲に頼っていて政治以外のことがわからないからだろう。企業は直接政治にアクセスできないので身勝手な要求を突きつけるだけになり、政治家は経営がわからないのでその恫喝を鵜呑みにするしかない。そして、やることがなくなった企業は「北朝鮮が攻めてくるから大変だ」などと言ったり「憲法を変えることが日本政治のプライオリティなのだ」と騒ぎ立てるのである。

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極右とは何か – オーストリアからの視点

オーストリアで反移民的な政策を掲げる政党から31歳の新しい首相が出そうだというニュースが流れてきた。ただしこの国民党は「中道保守」と記述される。第二党になったのが極右と記述されるオーストリア自由党である。ヨーロッパではどの程度で極右と呼ばれるのだろうかと気になって調べてみた。






オーストリアは人口が870万人程度の連邦制の共和国である。第二次世界大戦はドイツと一体化して戦い、反戦の後には分割統治されたのち永世中立国として再独立した。永世中立とはこの場合、東側陣営にも西側陣営にも属さないという意味合いだったのだろうが、その後東西冷戦が集結しEUにも加盟しており、中立かどうかには議論の余地がある。ただし、経済的にはヨーロッパと統合されてはいるが、軍事的にNATOとの連携を主張する人がいるのだという。山間の永世中立国というと平和なイメージがあるが、徴兵制が敷かれている。オーストラリアは南のという意味だが、オーストリアはドイツ語で東のというような意味である。つまりドイツ語圏の東の辺境地域に当たる。

ヒトラーを直接選んだドイツと違い、オーストリアは戦後「ナチスの最初の被害者」という認定になった。ドイツは脱ナチズムを徹底しなければならなかったが、オーストリアではナチス思想が完全には淘汰されなかった。これは日本に似たところがある。日本国民は軍部にだまされたという位置づけになったために、日本からも戦前の思想が完全に淘汰されることはなかった。

オーストリアは最近まで、中道右派と中道左派の連立(これを大連立と呼ぶそうだ)だったのだが、移民が国内に流入し、寛容な左派に懐疑的な姿勢が強まり、中道右派が右傾化したとされる。この右傾化を主導したのが今回首相になると言われているクルツ氏である。中道左派政党との関係を絶ってしまった上に、単独では政権運営できないので極右政党と連立するのではないかと言われている。クルツ氏は左派との連立を「馴れ合いだ」と主張しているようだ。

このニュースだけを聞くとオーストリアの右傾化は今始まったように思えるのだが、実際には90年代頃から予兆があったようだ。事務総長にもなったワルツハイム大統領がナチスの将校だと分かった80年代には非難を受けたが、90年代に入ると自由党のハイダーがナチス思想へのシンパシーを示すようになった。しかし、ハイダーがオーストリア政界から排除されることはなく、一定の支持を得た。

オーストリアの国民の90%はドイツ語を話す。しかしながら、ドイツとの再統合を目指す動きはほとんどないそうだ。ドイツ人というとプロテスタントのイメージがあるが、オーストリアはハプスブルク家の本拠地なのでカトリックが強い。特に自由党はカトリック系の支持が強いということだ。つまりドイツとオーストリアは宗教が違っており、言語が一つだからといって単純に統合すべきだということにはならない。

大ドイツ主義への傾倒があるわけでもない自由党が極右とされるのは、その出自が戦前のドイツ民族主義に根ざしているかららしい。テレビでは「ナチス残党が結成した」などと紹介されることもあるようだが、ナチス党とは同じ民族主義政党でありながら競合関係にあったと説明する文章もあり一定しない。いずれにしてもナチスの影響を受けていることが、自由党が極右だとされる一つの要因になっている。

復興の都合上国民党や社民党は独立後選挙に復帰できたのだが、自由党は再独立後は選挙に参加することはできなかった。しかしながら左派と協調する右派の人たちに反発する人たちの受け皿となってきたという歴史があるらしい。つまり中道というのはお互いに妥協が可能な程度の左右の違いということを意味するのだろう。単純に言えば資本主義経済のもとで競争して成長を目指すのが右で、競争から脱落しそうな人を競争に戻す手伝いをするのが左である。

そこから外れて別の体制を目指すのが極右や極左ということになるはずなのだが、オーストリアの極右はそこまで脱体制的でもないようだ。どちらかというと、ナチズムやファシズムの再興を防ぐための周囲からのプレッシャーという意味合いが強そうに思える。オーストリア自由党は、例えば昔のオーストリア帝国を再興したいとか、ヨーロッパの集団自衛体制を抜けて独自の軍事力を持って外国に侵入できるようにしたいなどという野望を持っているわけではなさそうである。

自由党のハイダーが極右的と言われるのは次の3つの理由によるとされているというブログを見つけた。ただし、ハイダーが活躍したのは90年代のことである。

  • ナチスの政策の一部を評価した。
  • ヨーロッパ協調ではなくドイツ人ファーストの主張を持っている。
  • EUからの脱退をほのめかした。

この程度のことが極右だとすると、自民党も希望の党も極右ということになる。麻生太郎副総理は常々「ナチスの手口に学べ」と言っているし、小池百合子東京都知事の主張も都民ファーストである。日本の「極右政党」である自民党は戦前の政体へのシンパシーを隠さないが、アメリカとの自由連合的枠組みからの離脱を訴えていない。ゆえに少なくともアメリカからみると極右には見えないのだろう。極右、極左というのは極めて便宜的なラベルなのだということがわかる。

ハイダーはナチス擁護発言を繰り返しながら自由党からリベラル勢力を追い落として党内権力を固めた。だが、結局自由党を見限って新しい政党を立ち上げた。と同時に、ハイダーは民営化を軸とした新自由主義者。この辺りは維新の党や小池百合子に似たところがある。しかし、ハイダーが国家指導者になることはなかった。そのあと休止してしまったからである。

現在の自由党を率いているのはシュトラーヘは、イスラム排斥の主張で知られるそうだが、あまりカリスマ性はないようで、シュトラーヘについて書かれた記事はあまり見つけることができなかった。

ハイダーについて着目できるのはドイツ民族主義と新自由主義の奇妙な関係である。この点に関して分析している文章を見つけた。

つまり、ハイダーは新自由主義者だったが、新自由主義は下層国民を不安にさせるので、この人たちにドイツ人としての帰属意識を持たせるて新自由主義的な不安を払拭しようとしているというような主張である。問題はなぜ自由党が新自由主義を提唱するのかということだが、経済的に停滞しているというわけではなく、中道に傾いた(多分極右の側から見ればリベラルによりすぎた)政権から権力を奪取するために手段だったのではないかと考えられる。つまり、現在の体制を批判するためには、その勢力が腐敗していると言わなければならず、そのためには彼らが持っている既得権益を破壊しなければならない。その手段が民営化なのである。

しかし、既得権に守られた主流派の人たちがいるわけだから、彼らには別の帰属意識を与える必要がある。それが民族だということになる。

この図式で最初に思い浮かんだのが小泉政権である。小泉政権が郵政民営化を言い出した理由は、彼が自民党内での権力闘争に勝つために敵陣営の支持団体を潰す必要があったからである。半公務員的特権を持っている特定郵便局の職員たちが利権集団だったのだ。そこで「自民党をぶっ壊す」と言って郵政民営化を提唱し、それに反対する人たちを「抵抗勢力」と決めつけて駆逐した。

この流れを引き継いだ勢力が二つある。一つは民営化政策をコピペして大阪自民党からの権力奪取を画策した日本維新の会である。市民病院を売払い、今度は地下鉄を民営化するそうだ。もう一つが小泉純一郎のやり方を間近で見ていた小池百合子だ。こちらは東京自民党から権力奪取をするために、停滞する豊洲・築地問題やオリンピック問題を利用した。しかし小池はあまり東京都での民営化には興味がないようで、国政への再進出を画策中である。

しかしながら、日本人はあまり新自由主義に懐疑的になることはないようで、民族主義的な主張は行っていない。多分、競争社会になれば自分は勝者になれるという楽観的な見込みを持っている人が多いのではないかと思う。

一方自民党は既得権を持った利権集団が高齢化のために崩れてきているので、別の支持者達を集める必要があった。どちらかといえば旧体制への回帰や民族主義を標榜している人たちは自民党に多い。一度政権から脱落した際に否定された傷がトラウマ担って残っており、これが恨みとなっている。だから自民党の憲法草案には「日本国民から天賦人権を取り上げるべきだ」という主張があるのだ。その代わりに「民族の一員として奉仕せよ」という全体主義的な主張があり、これが一部の人たちに熱狂的に受け入れられている。それはあたかも公営の新興宗教のような色彩を持っている。

しかしながら、現在の自民党の経済政策はどちらかといえば「無政策」である。小泉政権時代の小さな政府主義が温存されたままで、国民保護的な政策も同時に打ち出されているからである。

例えば、商工中金は民営化されることが決まっているが緊急時対応を行っており、株式はまだ国が持ったままである。大学も国の保護を外れて自主的に経営されることが求められているのに、無償化しようという声がある。全てがこのような調子で一体何がしたいのかよくわからない。

日本の状況を見ていると経済的な不調が新自由主義と復古的な民族主義を生み出すのだと結論付けたくなるのだが、オーストリアは経済が好調だ。だから経済的な不調から右傾化が進むという状態ではなさそうである。日経新聞は次のように書いている。にもかかわらず右傾化が進むのは移民の流入によるところによるもののようだ。しかしその源流は移民ではなくEUという大きな枠組みの変化なのだろう。

ドイツ、オーストリア、チェコはいずれも経済が堅調で、失業率も低下傾向にある。現政権に追い風が吹いてもおかしくない状況だが、くすぶり続ける難民問題への不安がポピュリズム政党の伸長につながっている。

「自分たちで決められない」という不満と政治家同士の権力闘争が、新自由主義や復古的な民族主義を生み出すと考えるべきなのかもしれない。

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自民党が勝ち続ける理由

今回のお話は自民党政治を支える二つの原動力について考える。一つは正統への憧れであり、もう一つは成果へのこだわりだ。民主主義は他者との絶え間ない接触から生まれた政体だが、日本人は日本列島という孤立した空間で育まれた独特の感性を持っている。そこですでに賞味期限が切れた権力体が生き残りやすい土壌がある。この二つの感性を克服できれば自民党政治を終わらせることができるのかもしれないが、現在の状況を見ているとそれは無理なようである。従って、政治は全体に腐敗したままでそのまま継続することになるだろう。

まず手始めに見て行きたいのが、リベラルと保守という言葉の混乱である。

リベラルと保守という言葉が日本では違う意味で使われているようだ。リベラルは優しいとか包摂的だという意味で捉えられているようで、本来の「政府からの自由」というような意味合いはなさそうである。だがよく観察するとそれとは別の意味で使われることがある。どちらかといえば蔑称である。それとは逆に新しさの意味で使われたりしている。若い人たちは共産党や社民党を保守と捉え、その対極にある自民党や維新をリベラルだと思っているという調査がある。この場合のリベラルは単に新しいという意味なのではないだろうか。

一方、私は保守だという場合それは「正統である」という意味で使われているようである。こちらも人によって全く別の意味で使われることになる。なぜならば何が正しいかは人によって違っているからである。さらに、とにかく自分は正統だということをいいたいだけで「保守」を使う人もいる。最近では漫画家の小林よしのりが「わしは保守だ」と言っているのだが、この人はいろいろな政党を応援しては見限っているので、自分こそが正統だという意味合いしかないのだろう。一方、共産党が保守だという人たちは、単に漢字に引きずられているだけかもしれない。確かに非合法時代を含めると共産党は日本で一番古い政党である。

このことからわかるのは、そもそも日本人は西洋の政治形態を輸入してきたために、政治を表す言葉と実感の間に絶望的な乖離があるということである。このため用語一つとってもまるでバベルの塔に住んでいるかのように分断されている。

では、日本人が捉える政体とはどのように分類されているのだろうか。これは誤用されている保守という言葉を見ればわかる。

日本人が考える保守は「正しい」というような意味なのだが、この言葉には2つの意味に分解できるように思える。一つは男性的な価値観だ。つまり居心地の良さや優しさよりも競争と強さを好むという指向性である。次に不確実性の問題がある。日本人は不確実で先が読めない状態が嫌いだ。前者を取ると日本人は男性らしい競争的な状態を「正しい」と考え、後者を取ると日本人は成果が出ていて実績がある人たちを正しいと考えるということになる。実際にはこれらが交わった点に保守がある。闘争的でかつて成果を上げていたアプローチが正道保守なのである。

自民党は高度経済成長期の政権政党だったので、これをもってして成功実績だと考えられているのだろう。そのあとに経済的な不調が続き、これに代わる正解がでなかった。だから自民党以外に成果を上げた政党がない。こうした見方は若い人たちに顕著で、自民党は若年層から支持されているそうだ。一方で高度経済成長期を過ごした人たちは自民党の内部が腐敗混乱していても経済が勝手に好成績を上げていた時代を知っているので、特に自民党と成功体験を結び付けないのだろう。

この「正統性」は過去の政権交代が起きた時の首班を見るとよくわかる。周囲から担がれた(つまり選挙で選ばれたわけではない)村山富市を除いてすべてお殿様か自民党の人である。細川護煕、羽田孜、鳩山由紀夫などがこれにあたる。つまり、日本人は自民党が組織としてボロボロになっても新しいアイディアや組織を信頼することはなく、中から再生されることを望むのである。

小池百合子はその意味では「正しい」政治家だった。もともとはよそ者だったのだが男性的価値観をことさらに表に出すことで主流派に潜りこんだ。しかし、やはりよそものだったので、東京都連内部では冷遇されており、ほとんど意見が聞き入れられることがなかったようである。そこで、女性たちに「男性的社会で成功を収めた女性」という価値観を振りまくことで、東京都知事選挙で風を起こした。

若い人は高度経済成長期の復活を望んでおりそれを再現するのは自民党だと信じている。同じように女性は日本社会で成功するためには男性的な価値観を身につけなければならないと感じていて、ことさら男性的な女性を崇拝するのである。

だから、民進党の蓮舫元代表は「間違った」政治家であったことになる。第一に自民党出身ではなく、父親は台湾人だった。さらに女性らしい美しさを持っていて、国会でファッション写真のような写真を撮影させたりしていた。さらに双子の母親であるということが広く知られていた。こうしたことはすべて男性だけでなく女性からも「間違っている」と考えられる要素になる。ゆえに彼女がいくら「自分は保守政治家だ」などと言ってみても信じてはもらえない。

同じように野田聖子も母親になりたがったことで「女々しい女だ」とか「総理候補にはふさわしくない」と言われるようになった。母性というのは女性が社会的に成功するためには排除されなければならない属性なのである。だから皮肉なことだが、マスコミや広告代理店に入った女性が過労死する事例が散見される。女性はもともと弱い存在なのでそれだけでは成功し得ない。だから、死ぬまで働かなければ認めてもらえないと感じてしまうのではないだろうか。

この正統性の希求は対立軸を疲弊させる方向に働いている。希望の党を見ているとそのことがよくわかる。民進党は「正統」ではなく、支持が得られなかった。もともとは正統である鳩山由紀夫を追い出してしまったからである。鳩山は正統にしては包摂的すぎた。これは競争社会の否定であり「間違った弱々しい」主張である。だから追い出された。しかし、結局非自民党の人たちが正統性を認められることはなかった。「市民活動家上がり」の菅直人も「財務省に丸め込まれた」野田佳彦もシンボルとしては不十分だったのである。

彼らは自分たちに政策立案能力がないから支持が得られないのだろうなどとは考えなかった。実は彼らも正統性への強いこだわりがあったからである。そこで「外から首相候補を擁立すべきだ」などという論がまかりとおることになった。彼らが期待したのは小沢一郎と小池百合子だった。

だが、小池百合子も小沢一郎も「正しさ」とは縁遠い。どちらも党派で集団的な意思決定ができないから自民党にいられなかった人である。最初のうちは期待されるがどちらも「壊し屋」であるという評価が出てきて自滅してしまう。このように対立する軸がでてこないからこそ、自民党は安泰なのである。

一方で、立憲民主党を支える人たちも正統さへのこだわりを持っている。彼らはさらに屈折している。本当は競争者意識を捨てられないのだが、競争に負けかけているという実感を持っている。だからこそ「あなたこそ本当の勝者なのですよ」などと言われると「涙を流して」しまうのだろう。

だが冷静に考えてみると、彼らは主流派ではないがゆえに被害者意識を持っているわけだ。主流派でないのだから、彼らの主張が他人への共感を広げることはないだろう。つねに1/3程度は鬱屈した気持ちを抱えながら政治への恨みごととつぶやくことになる。

このことから日本人は政治家を政策ではなく「正しさに属しているか」ということで判断する。これは結果に対する評価なので将来がどうなるかということはわからない。さらに新しいアイディアは排除されてしまうので、既存のアイディアが役に立たなくなっても新しいアイディアを試すことはない。

しかし日本人は現在のやり方が有効でないということには気がつかないだろう。例えば「日本人は競争への過度なこだわりがある」などと言っても誰も信じないはずだ。「他人に優しくしなさい」と言われて初めて戸惑いをみせるのだが、それでも決して自分が競争的であるということは認めようとしないだろう。

特にこれで苦しんでいるのが女性である。女性は優しくて居心地がよい状態を求めるものだが、それは「弱々しい」ことなのであまり認めたくない。そこで「男性的に闘争して企業社会で生き残る」か「女性として家で子供を育てるが、企業社会からは敗者として認定される」かという二律背反の状態に自分を追い込んでしまう。さらに「子供を持っているにもかかわらず幸せそうな」女性を電車で見かけると「勝ったつもりでいるのか」などと攻撃してしまうのである。

また、新しいアイディアを試せそうな若年の人たちも「高度経済成長こそが自分たちを救ってくれるのだ」と考えて、自民党を支持することになる。正統性に帰依することが魂の救済をもたらすからである。

さらに野党議員も自分たちの政策がより良いということを証明するよりも、自分たちこそが正統であるということを証明するのに躍起になっている。安倍政権の経済政策や労働政策は失敗していることがわかっているのだから、新しいアイディアを試せる土壌を作ればよいのだが、それがなされることはないだろう。野党議員は被害者意識を持っているが、反主流の学者たちに間にも被害者意識があり、正統性を希求してしまうからである。

だが、これは彼らの自発的な選択なので、これを咎めることはできない。つまり、自民党政権が続くのは仕方がないことだと結論付けることができる。結局は我々がこれを選択しているのである。

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商工中金の問題について勉強する

世間は選挙で忙しいようだが、その合間を縫って商工中金のニュースが流れてきた。商工中金が何やらやらかした結果、社長が引責辞任するようなのだが、その背景がよくわからない。ということで調べてみた。

だが、これについて調べてみると、今日本の企業に何が起きているのかということが少し見えてくる。実はお金が余っているのだが、それを増やしてくれる企業が日本から消えかけているようなのである。

これについて知るためには、まず商工中金そのものと「危機対応業務」について知らなければならないようだ。商工中金ができたのは1936年(昭和11年)だそうだ。小泉政権下で一度民営化が決まったが、2008年のリーマンショックを受けて民営化が途中で止まった。現在は、とても宙ぶらりんな状態にあるようである。日経新聞を読んでいるような人はこの辺りの事情をよく知っているのだろう。新聞には解説がない。

危機対応業務は2008年に新しくできた制度だ。危機的な状況を察知した主務大臣が指定をする。すると国は利子を補給したり、返却が滞った時に支払いを肩代わりすることができるようになる。関連省庁は、金融庁、財務省、経済産業相のようである。

2008年はリーマンショックの発生当時であり、東日本大震災の前である。当時の麻生総理大臣の記者会見を読むと、100年に一度の経済危機対策の一環だったことがわかる。この政策には民主党(当時は小沢代表)も反対しなかったようだ。しかし、当時の麻生政権は内部で麻生降ろしが起きており、腰を据えた対応はできなかったのではないかと思われる。

以前に作ったグラフをみると、例えば電気機器の生産や輸出などはかなり壊滅的な影響を受けていたことがわかる。裾野が広い産業であり、影響も大きかったのだろう。つまり、この政策には一定の妥当性があった。

この後に東日本大震災が起こり、小さな落ち込みがあった。これも1000年に一度の地震などと言われた。ゆえにこの2つの状況は経済的に「国難」であり、国が中小企業の支援のために信用の増強枠を作ったことにも妥当性があると言えるだろう。

しかしながら、一度生き残ったこの制度はどうやら中小企業庁の「既得権益」になってしまったのではないかと思われる。あるいは安倍政権になってもそのまま放置された。その後も要件を曖昧にしたまま生き残り続けた。日経新聞は所管官庁の一つである経済産業省幹部が他人事のようにこう言っているのを伝えている。監督官庁とは名ばかりで、問題が表面化してから「どうにかしなければならない」などと言い出している。

業務を始めるには担当大臣が金融危機やテロ、大災害といった「危機」を認定する必要がある。現状では解除の要件が曖昧なため「ずるずると続いた」(経産省幹部)。「平時」になった段階で速やかに解除できるようにし、危機名目での新規融資を止める。

プレッシャーを解決するケイパビリティがない時汚職が起こるのはよくあることだ。商工中金はいずれは民営化して自分たちで儲けなければならないというプレッシャーがあったのだが、かといって民間並みの業務知識はなかったようだ。日経新聞には次のような記述がある。

問題化しそうなのが危機対応融資以外の業務で不正が疑われる案件だ。例えば企業のサポート業務。補助金の申請や経営力向上計画の作成などで取引先に代わって国への申請事務を請け負うサービスだ。取引先の意向に沿う計画書を作ったり、他の取引銀行が作った計画をあたかも商工中金がまとめたように社内で報告し、自分たちの実績としてカウントするなどしていた。

この民営化圧力については共産党が「無理な民営化欲求があったからノルマ追求に走った」と指摘しているが、麻生大臣はリベラル勢力の指摘には一切耳を傾けない方針なのだろう。指摘には当たらないと突っぱねている。赤旗は「麻生氏は「完全民営化をやめるところまでは考えていない」と背を向けました。」と書いている。

だが、特に「復興融資」の名目が立ちやすい東北地方では商工中金などが生き残りの危機感から民間では無理な融資を行っていたようで、民業圧迫が起きていた。日経新聞はこう書いている。

 上場地銀の17年3月期決算を見ると、貸出金利回りが最も低かったのは0.89%の東邦銀行(福島県)、2番目に低いのが0.93%の七十七銀行(宮城県)。1%を下回った地銀7行のうち上位2行が東北の地銀だ。地銀の経営に詳しいある証券アナリストは「政府系金融が復興支援を名目に低利で融資するため、その競争で地銀も金利を下げている」と見る。

どうやら地域によってはお金を借りてくれる企業が少なくなっており、地方銀行と商工中金が融資先を争いあっていた様子が伺える。労働者はお金が足りず消費が停滞するという状態になっているのだが、実は銀行にはお金が余っており「借りてくれる人がいない」という状態になっているのだ。平たく言えばお金が必要なところに回って行かないのである。

これを一般的にはデフレ的状態と呼ぶのではないだろうか。だが、どうして地方にお金を借りてまで事業を拡大・継続したい企業が育たないのかということはわからない。わからないのだから対策が立てようがないということになる。

これを複雑にしているのが安倍首相の「デフレではないところまで復活した」発言だろう。政府は公式にはデフレではないと言っているので、デフレ対策はできない。しかしながら政策によってはデフレだからという認識で過剰な融資が行われているのである。よく安倍首相は言っていることがでたらめと言われる。積極的平和主義といって戦争を推進してみたり、改憲しなければならないといいながら解釈改憲してみたりといった具合である。今回も「もはやデフレではない」と言っているのに、一方ではデフレ対策の名目で企業への貸付を続けていたのである。

いずれにせよ、政府は問題意識を持っていないようだ。「危機対応業務」をどうしたいのかということが全く伝わってこない。日本の政界は選挙に夢中になっているので仕方がないのかなとも思えるが、商工中金に業務改善命令が出たのは2017年5月のことである。朝日新聞は不正が発覚したのは2014年だとしている。安倍政権は対応しようと思えば対応はできたはずなのだが、いわゆる森友加計問題で手一杯になりそれどころではなかったのだろう。また野党側もこの問題を放置し続けていた。

本来なら所管大臣(偶然なのか現在の所管大臣は麻生副総理だ)が危機を明確に認定することでガバナンスができる仕組みになっていたはずなのだが、実際には有識者会議を作って11月頃から<議論>を始めるそうだ。麻生元総理は普段から「自分は経営経験があるので企業についてよく知っている」というようなことを言っているのだが、実際にはガバナンスができていないということがわかる。

いくら政府が抜本的な生産革命をすると言ってみたところで実際にそれをやってくれる人たちがいなければ何も達成できないだろう。しかし、実際にはお金を準備してみたがそれを使って事業をやってくれる人がいないという状態が起きているのではないかと思われる。

かといって野党側も経済への知見がないので、これに対して有効な対策が打てない。現在野党が言っているのは「安倍政権が許せない」ということと「憲法で決まっている通りに国会を動かせ」という二点だけである。政権を取る見込みがないので、政権を取った時の対応を考えてこなかったのだろう。

安倍首相は、自分で蒔いた種から国会を混乱させておきながら、それを国難だと言い換えることで、心理的に自己の救済を図っている。安倍首相が自己の救済で頭がいっぱいになっている裏では、無法状態が進行していることが伺える。

現在の情勢では自民党が優勢だということなので、この状態は継続するものと思われる。マスコミにもそれほどの知見はないようなので、商工中金の社長と企業モラルを追求して終わりになるのではないだろうか。

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地方分権について考える

しばらく選挙戦では「誰が気に入らない」というような話が続くだろうから、あまり人気がなさそうな話題を取り上げて行きたい。その一つが地方分権である。地方分権議論を見ていると日本人が長い間に自分たちの国の有り様を設計できなくなっているということがわかる。この人たちが一生懸命に自主憲法の制定をやりたがっているのだから、身の程知らずというのは恐ろしいものだなと思う。

地方分権が最初に議論されたのは小泉政権下だった。資産バブルが崩壊し人口も減少するだろうという予測があったので、小泉政権では小さな政府構想が推進された。のちに一連の政策は、強いものだけが生き残る新自由主義と批判されることになる。

小泉政権が地方分権を言い出したのは、地方交付税交付金がまかないきれなくなるだろうという予想があったからだろう。しかし、小泉政権は税源の移譲を十分に行わずに交付金を削減しようとしたために、地方がこれに警戒感を示した。結局、三位一体の改革と言われたリフォームプランは頓挫し、平成の大合併という市町村合併だけが推進されることになった。つまり地方自治体の数を減らせば議員や庁舎が減らせるから経費が削減できるだろうというようなプランに矮小化されてしまったのだ。

しかし、日本人が全て建設的な制度設計ができないというわけでもない。この頃から大前研一が道州制を推進し始めた。日本をアメリカのような州に分割した上で、分散型の国家にしようと考えたのではないかと思う。これに乗った政党が現在の日本維新の党である。しかし、維新の目論見もまた矮小化されてゆく。大阪に首都機能の一部を移転すれば、大阪が儲かるだろうという皮算用に変異していった。あるいは単に「東京が羨ましい」という気持ちを票に変えるだけのスローガンだったのかもしれない。最終的には東京の真似をして特別区を作れば大阪が繁栄するという単純化した議論に変わっていった。そのあとに聞こえてくるのは、病院を民間に変えたら事業者がいなくなったとか、公立の幼稚園が消えたというような話ばかりである。

大前研一の道州制論を読むと、行政単位をヨーロッパの国程度の大きさに分けた上で思い切った権限移譲をすべきだと提案していることがわかる。例えばリンクした記事では、九州をアジア経済のハブにするためは九州が独自で税制の制度設計ができるようになるべきだというような話が書かれている。

こうしたリージョン設計はアメリカでも主流の考え方だった。都市政策に興味を持っている人ならクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるは読んだことがあると思うのだが、書かれたのは2009年である。都市には産業生態系が作られるようになり、他地域よりも優位に立てるだろうというようは話である。これは州間・都市間で競い合うアメリカの地方制度が基本になっている。つまり、都市が競い合うことで複数の産業ハブができるだろうという構想だ。ヨーロッパにも複数のリージョンがあり、お互いに競い合っている。

ところがこの道州制の議論はうまく進まなかった。財務省は徴税権を手放したがらず、総務省は交付税の配分権限を手放したくなかった。地方も税源は欲しいが責任は負いたくないのでリスクをとって地方分権を進めようという機運は生まれなかった。さらに悲劇的なのは政治家が国家レベルの構想力を持たなくなってしまったことである。

この間の政治家の動きを見ていると「日米同盟を強化して世界に誇れるべき国を作るべきだ」などという主張が横行することがわかるのだが、この着想の元になっているのは第二次世界大戦前の列強が帝国域を競い合っている頃の世界モデルである。日米同盟に頼って高度経済成長を成し遂げ毛亭待ったので、70年の間彼等の世界観はアップデートされなかったのだろう。

結局、小泉政権の後継は政権維持に失敗してしまったため地方分権の議論は沙汰止みになり、次第に荘園型モデルに変質してゆくことになる。安倍政権の特区は許認可権限や徴税権を保持したままで地方に小さな特区を作ろうという試みなのだが、行政単位が小さすぎるのでヨーロッパの国家レベルの効果を挙げられないばかりか不正の温床になっている。加計学園問題も中期的な見方をすると意識変革の堕落と失敗の象徴と言えるのだが、有権者の頭の中にも都市間で競い合って成長競争をするというモデルがなく、単に「安倍首相はずるい」というような話に落ち着いてしまうのである。

この問題は解決したわけでもなく、かといって政権が放棄したわけでもないので、燠火がくすぶるように政権にとっては火種であり続けるだろう。さらに問題なのはいつまでたっても成長モデルが作れないということだろう。

この辺りに日本の難しさがある。一億人以上の人口を抱えており行政単位としては大きすぎるということが一つと、一度に一つのアイディアしか試せないという変革時間の遅さがある。例えば東京が独自に意思決定できれば東京の成功モデルが作れるかもしれないのだが、「国政に進出しなければ変革できない」と都知事に言わせてしまう背景がある。大阪や近畿圏も勝手に自分たちのアイディアを試してくれればいいのだが、東京に出てきて「大阪はうまく言っています」と嘘をつかなければならない。その中間にある名古屋は比較的おとなしい。トヨタ自動車を中心としたエコシステムができているので「この税金を自分たちだけで使えればなあ」と考えているわけである。

この道州制の議論の背景にあるのは、民主主義的な政体がどれくらいの大きさをひとつのまとまりにするのが効率的かという算術問題だ。計算はできないかもしれないが、経験的な数値は得られる。

一般に国が大きくなれば市場としては効率的になる。一つのルールで商売ができるからである。だが、意思決定は遅くなるので小さな単位にしたほうが生産性が増すという予想ができそうだ。

そこで、実際に一人当たりのGDPを上位30位分抜き出した上で産油国を取り除いた。こうして取り出したGDPと人口をプロットしてみた。

一つ目の成功例は、連邦制を採用した人口にまとまりのある国だ。アメリカ合衆国、ドイツ、オーストラリアがそれにあたる。アメリカは単独の市場を形成しており複数の州が参加するという形になっている。ドイツはそれ自体が連邦だがさらにEUに加盟しておりこれが市場になっているという具合である。オーストラリアも連邦だが単一市場としては数億人の単位がない。そこでアジアでの連携を模索している。

次のまとまりが一千万人から五百万人程度の国や地域だ。ヨーロッパにはこのような国が多く、香港とマカオは中国経済圏に組み込まれている。これらの国はアメリカでいう州のような恩恵を受けていると言えるだろう。イスラエルやニュージーランドのように数億人規模の経済圏と切り離された国も入っている。例外はリヒテンシュタインだが金融のハブになっているようである。リヒテンシュタインの人口規模は都市レベルだ。

最後のまとまりが中央集権が進んでいる国家群である。イギリス、フランス、スペイン、イタリア、日本などがこれにあたる。

このうちイタリアとスペインには分離運動がある。スペインはカタルーニャ地方がGDPの20%を占めているそうだが、スペインの他の地域に税金が使われるのが許せないという声があるようである。カタルーニャはスペインで唯一産業革命が成功した地域だが、国の全域にその動きが波及することはなかったようだ。同じようにイタリアも北部は工業化が成功しているものの南部がお荷物になっている。

ヨーロッパは単一市場があるのだが、単一市場の中央にあるフランスを除いてこうした分離運動が起きているのは偶然ではないかもしれない。

日本はこの中でとても中途半端な位置にある。一億人以上の人口がありながら単一の行政単位だ。このため身動きが取れない上に、都市の稼ぎを地方が吸い取るという状態が続いている。だが、日本ではこのことに対して不満が出ない。国の借金が制限されていないために「稼いだぶんしか使えない」という制限がないからだろう。もし、日本がヨーロッパと同じ基準でしか財政支出できなければ、政府支出は6割程度に抑えなければならないはずなので、暴動や分離運動が起こるかもしれない。日本は国民が蓄えた貯金を国があたかも税金のように支出することで、なんとか破綻を先延ばしにしている状態だと言える。

自民党は憲法改正を主なアジェンダとして挙げているのだが、中には県で参議院議員が出せるように憲法を改正するという項目がある。県は補助金を受け取るための単位となっているので、これを既得権益として抱えたいのだろう。しかし、明治維新期に偶発的に作られた行政単位がいつまでも継続できるという保証はない。

道州制の議論がいつのまにかバラマキの議論に変わってしまうのは、国が簡単に借金できてしまうからである。と同時にファイナンスできている間は道州制の議論はたいして進まないものと予想される。その間、不人気な政権が空虚な憲法改正論を推進し、政治的リソースを精進するというかなり絶望的な状況が続くのかもしれない。

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各政党の政策集を読み直す

入れたい候補がいないので選挙が面白くない。だが、愚痴っていても仕方がないので、各政党の政策集を見直してみたい。2009年の選挙では事務所にでかけていってマニフェストをもらわなければならなかったのだが、最近ではインターネットでダウンロードできる。便利な時代になったものである。ただし印刷して配布すると公職選挙法に触れるそうである。

今回見たのは、自由民主党公明党希望の党立憲民主党日本維新の会共産党社民党の各政策集だ。

どこの政党も政策そのものは似通っている

テレビでは三極化などといって違いを際立たせているが、実はどの政党もアイディアはだいたい似通っているということに気がつく。子供を大切にすべきだと主張し、お年寄りには心配しなくてもよいといい、北朝鮮の核実験はいけないことだと非難している。これを見て「みんな似たり寄ったりなんだから、仲良く政策について話し合えばいいのに」などと思ってしまう。が、実際には問題は解決しておらず国民は不安なままだ。そこで敵を設定して有権者の目をそらそうとしている。野党は安倍政権がいけないと言っており、唯一安倍政権だけが北朝鮮が国難だと主張する。

「日本は再配分がうまくいっていない」などと言われるが、各政党の政策集は再配分の話ばかりをしている。だから、再配分過剰選挙と言える。実際の問題は実は再配分が行われていないということである。いずれにせよ、問題になるのはその再配分の原資をどこから持ってくるかということだろう。これは各政党によって異なる。

一番の違いはどう稼ぐかという提案

わかりやすいのが共産党と社民党だ。儲けすぎている会社からとってくればよいと言っている。リアリズムを標榜する立憲民主党だが実は「稼ぎを増やす」ということについて言及がない。時間がなかったのか、それともアイディアがないのかがわからない。ということで、野党共闘で政権ができると、法人への課税強化がほぼ唯一の経済政策ということになる。これは法人が海外に流出する原因となるだろうがすでに海外法人は日本を避けて香港などを拠点にしているので、実際には影響はないかもしれない。

一方、自民党、希望の党、日本維新の会などは特区を活用したり規制緩和をしたりして稼ぐ力を増やそうという政策を持っている。自民党は生産性を劇的に向上させることによって生産性を向上させようと言っている。日本維新の会は特区ではなく地方分権で経済の活性化を目指そうと言っている。

希望の党は多分自民党のアイディアをコピペした上で「フィンテック」のような目新しい用語をかぶせているのが特徴だ。さらに左派リベラルのコピペもしていて内部留保課税などを公約に加えている。

地方分権に対する考え方

同じように見える自民党と日本維新の会だが、地方分権に対する考え方が異なる。自民党は地方分権については唄っていない。地方は創生されるべきものなのだが、中央からの再配分によって活性化されることになっている。生産性の向上は多分中央集権的に推し進められるべきだと考えているのだろう。希望の党は特区と地方分権を同時に唄っている。地方に権限が渡れば特区は必要ないはずなので、これが寄せ集めの政策であるということがわかる。日本維新の会の地方分権は大前研一のアイディアの引用なので(大前さんは手を引いているのではないかと思うのだが)地方分権と言いつつ、実際には大阪に首都機能を持ってこようという我田引水さが目立つ。なぜ地方分権が活力をもたらすかという理解がないのだろうと思われる。

ということで、自民・維新・希望の連立政権ができるとこの辺りはコンフリクトを起こすはずである。

世界の中の日本という項目が完全に消えている

実は今回の選挙から消えてしまった項目がある。それがTPPと自由貿易圏に対する考え方だ。日本にとって世界とはアメリカのことなので、アメリカが手を引いてしまったら世界から切り離されてしまうのである。だから、今回の選挙では世界とどうつながって稼いで行くかという視点が全くない。唯一自民党が「世界で尊敬される安倍首相」というページを設けている程度だ。

前回までは「どのように自由貿易を正当化すべきか」という項目と「なぜ自由貿易がいけないのか」という視点があった。だが、アメリカのプレッシャーが消えてしまったために、自由貿易を推進して日本の外貨獲得力を高めようとか、消費者が安い食料を手に入れられるようにしようというような項目が丸ごと消えてしまった。しかしながら、アジアとどう連携して行こうという記述があるわけでもない。なんとなく中国に苦手意識と蔑視感情があるからなのかもしれない。

同じことは国防にも言える。憲法第9条について考えるならば「アメリカ一極集中ではない世界でどう国防力を形成するか」とか「日本がどう平和維持に貢献すべきなのか」という視点があってもよさそうなのだが、それも消えている。立憲民主党は「専守防衛だけできればいいんだ」と言っているし、自民党も「北朝鮮が攻めてくるから大変だ」と言っているだけである。希望の党も緊急時の対応をなどと唄っているが、どこか概念的である。

実は世界に対する視座がないことが、経済停滞の原因の一つになっているのではないかと感じた。経済成長のための現状分析をするならば2つの視点を考える必要がある。一つは労働者や経営者がどうしたらやる気を出すかということなのだが、もう一つは世界の中で日本がどう稼いで行くかという視点である。確かに貿易依存率はそれほど大きくないのだが、海外貿易で得た収益を国内で回してゆくというのが日本の基本的立ち位置なので、世界に対する視座が欠けてしまうとすべてが破綻してしまうのである。

政策集の組み立て方がわからない日本人

それでは経済対策というのはどうやって組み立てるものなのだろうか。改めて考えてみたい。

例えば日本はものづくり大国としてやって行きたいとする。そのためにはまず軽工業(繊維など)でお金をためた上でインフラ投資をし重工業化することになる。そのためには資本の蓄積が必要なので、外資が参入しやすいようにするか、中央集権で資本を一括管理している。だから工業化のためには中央集権化した国の方が都合が良いのである。

一方で変化の激しいサービス産業型の国家の場合、都市間競争があった方が良く、規制は少ない方が良い。また、移民は開放すべきである。なぜならば移民の流入は知識の流入だからである。ゆえに地方分権的な国の方が向いているということになるし、金融に特化したいのなら都市国家化を目指した方が良いということになるだろう。

いずれに場合にも海外の動向を見つつ、その市場をライバルにするのか強調してやってゆくのかを検討しなければならない。しかしながら、日本の政治は再配分中心で来てしまったために国外の動向を分析しつつそれを政策に生かすということができないでいるのではないかと思われる。

このような視点で各政党の政策集の見直してみると、内向きに国内の勢力争いにばかり夢中になり、同じようなアイディアを違ったように見せようと腐心している様子が伺える。

だからどの政党が政権をとってもそれほど代わり映えのあるアイディアは出てこないだろう。一方で政権交代が進まないと腐敗のみが進行することになる。

いずれにせよ、政策集を読むときには、過去のものと照らしあわせるのが面白いと思うのだが、それはなかなか大変なので、少なくとも各政党のものを比較して読んでみるのが面白いと思う。

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落選挙権という提案

Twitterを見ていると「この政治家を当選させたい」という人がほとんどいないことに気がついた。中には立憲民主党のように応援が多い政党もあるのだが、よくみてみると、政策を応援しているというよりは安倍政権と一番くっつきそうがなく、安倍政権を終わらせたいという気分から応援している人が多いようだ。

実際に自分に置き換えて考えてみても、今回の選挙は自民党、希望の党、共産党の3人しか立候補しておらず、入れたい人がいない。この中では共産党かなと思うのだが、どんな人なのかよく知らない。

政治は民意を正しく反映させるべきだと考えると、民意には「あいつにだけは政治をやらせたくない」という気持ちが含まれていることがわかる。だから選挙権も「あいつだけには政治家をやってほしくない」という票を加えるべきではないだろうか。であれば、投票権を選択制にして「当選させたい人をリストの中から選ぶ現行の制度」と「全国の落選させたい人を自由に書く制度」に分けてはどうかと思う。

この制度にはいくつかの利点がある。

第一に死に票が減る。死に票が減ることで政治への参加が促進される。

第二に政治家や政治家になりたい人が話題作りのために暴言を言わなくなる。

第三に誰かを追い落とすために危険な代理人を選ぶリスクを軽減できる。

現在の政治は見世物のようになっていて政治参加が少ない。小選挙区制度のもとでは一人しか当選させられないので、多数意見以外は排除されてしまうからだ。どんなに頑張っても投票に行かない人が増えるので、政治参加が促進されない。だから「あれは自分たちの代表ではない」と考えてデモばかりがはやるのだ。

例えば「戦争法」に反対する人たちは、特に世界平和に興味があるわけではない。彼らは戦争を嫌なものと考えているので、それを封じ込めてしまえばそれ以上面倒なことを考えなくて済むと思っているだけかもしれない。だからデモをして「戦争に反対」と訴えさえすれば、自分たちは戦争に触れなくても良いなどと考えてしまうわけである。同じようなことはいくらでもある。例えば高齢者問題について考えないのは、自分が年を取らないと考えている人たちである。

だが、政治への不参加は結局不安を増やすだけである。見ないようにしても不機嫌な現実はやってくるからである。であれば、少しでも政治に参加して不安を解消するようにしたい。

民主的社会というのは、主権者である国民がいろいろな社会問題に興味を持ってベストな判断を下すことが前提になっているのだが、実際には面倒なことは見ないようにしたい、勝手に処理してもらいたいというバイアスが働くようである。このために極端なことを言って「問題などないのだ」と言いたがる人が増える。首相は日本の衰退は自分の力強いいリーダーシップで防ぐことができるなどと嘘を言う。これを意識の上で信じている人はいないと思うのだが、無意識的には信じている人が多いのではないだろうか。不安なことを考えなくて済むからだ。だから、どんなにひどい政治でも黙認されてしまうのである。

同じような動機で、不摂生で成人病になってしまった人の補助金を削減すべきだという人が政党の名簿で一位になったりする。成人病の人をいじめたいというよりは、こうした問題を考えないことでなかったことにしたいという気持ちが強いのではないだろうか。つまり、透析の患者がいなくなれば、透析という問題がなくなってしまうと錯誤するのだ。同じように、生活保護もなかったことにしたと考える人がいるようだが、生活保護の制度をなくしても日本から貧困がなくなることはないという単純な事実を認めようとはしない。

社会が複雑になるとこうした厄介な問題が増えてゆく。すると、面倒がる有権者に向けて「じゃあなかったことにしましょう」と訴える政治家が増えてゆくだろう。こうした政治家を排除するためには、それを排除するための権力を有権者に与えるべきだということになる。こうした人たちを落選させるためには、落選挙権しかない。

第三の理由はこれより少し複雑である。ある政党は現在の政権を打倒するために私たちに一票を入れてくださいということをほどんと唯一の政策にしている。だが、実際には誰が現在の首相に代わって代表者になるかということを一切提示していない。有権者が直接政治家を処罰することができるようになれば、こうした白紙委任状に頼る必要がなくなるだろう。

こうした白紙委任の一番危険な例はナチスドイツだろう。ナチスドイツはソ連などの共産主義を敵とみなしており、その敵の投射物として国内の共産主義者をターゲットにした。これをヒトラーの力強いリーダーシップで駆除してあげますから私たちに白紙委任をくれというのが、ナチスドイツの最初の政治的主張の一つだった。そうして国会を機能停止した上で大統領と首相を兼職した総統という役職を作り、権力を民主的に簒奪した。

ドイツ人はこれを信じたのだが、結果的にはユダヤ人が排除され、ドイツ人全てを巻き込んだ戦争に突き進んだ。不安を解消しようとして結果的にはより大きな不安と破壊が生まれてしまったのである。不確実性は明確な解答を求めるのだが、明確な解凍は破滅への道である可能性が高い。

もちろん同じような危機が日本で現実問題として起こるかどうかはわからないのだが、代理処罰のための白紙委任は合理的な判断を歪め、社会全体を破壊する可能性があるということは知っておくと良いだろう。

これらの3つの理由から、日本の投票制度は不信任票を導入すべきであり、棄権の代わりに落選票を投じることができる制度を設けるべきである。

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意外とでたらめではない希望の党の選挙公約

今回解散総選挙であまり語られないことの一つのメディアと選挙の関係がある。どうやら小池さんは無党派層をどう取り込むのかという作戦を立てたようだ。具体的にはビッグデータを取り込んで最大公約数を抽出してそれを公約化している。だが、これを政治評論家が見るとでたらめに見えるのではないかと思う。一人の人がイデオロギーや立ち位置に沿って発言すると考えてしまうからである。

つまり、これは算術問題である。算術問題なのでコンピュータさえあれば、どんなに複雑でも解くことができるとうことになる。

仕組みは簡単だ。有権者を所与のネットワークだと仮定する。このネットワークの多くの人が望むような答えを導き出せればそれが所与のネットワークに対する正解となる。だが、有権者はそれぞれバラバラな願望を持っているので、出てくる答えも当然バラバラなものになる。

有権者のネットワークはそれぞれに結びついていて、それぞれ影響を与え合いながら政治的発言をしている。だから、その発言を読むことができれば少なくとも彼らが何を望んでいるのかがわかるはずである。この一つひとつが有権者にとって「正解」である。だから、街頭や地方組織を通じて意見を集約する必要はない。

ここで問題になるのは、声の大きさが数に結びつかないということだ。例えば、左派リベラルは長い時間をかけて文脈を獲得しており、軍拡禁止・護憲・反原発などの様々な要望を持っている。だが数には広がりがない。広がりを捕捉するにはそれぞれのネットワークのつながり具合を調べれば良い。緊密に結びついている人たちは似通った人たちであるのでひとかたまりとして「演算処理」できる。

つまり、広がりを調べてクラスター化すればよい。全ての願望を叶える必要はなく1つ何か叶えてやれば良い。

できれば、この所与のネットワークを重複もないし漏れもないという状態で捕捉したい。これをMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)という。だが、軸が複雑すぎるので二次元や三次元のマップを作ってもMECEにはならない。だから、ネットワークをどうやってMECEに近い形で捕捉できるかということが重要になる。

つまりそれぞれ別の人たちを補足しようとするので、結果的な公約集はとりとめのないものになる。ある人は年金資金の確保を願うだろうし、別の人たちは熱心にベーシックインカムというアイディアを普及させようとしている。別の人たちはアレルギー症状に苦しむ。だったら、すべて公約化してしまえばよいのだ。

これを可能にしたのがTwitterである。これを使えばある程度ネットワークを補足できる。もちろん全員がTwitterをやっているわけではないが、少なくとも材料は揃っておりいろいろな声が拾えるはずである。

しかし、この仮説にはいくつかの問題がある。一つは政治的なメッセージを発しているからといって、その人たちが選挙に行くかどうかはわからないということである。選挙に行かない人たちはノイズなので取り除く必要がある。支持政党を表明していても選挙に行かない人も同様である。これは投票というフィードバックが必要である。

次に、有権者が総合的に政策を判断していないことが前提となる。あれもこれも公約にして結局何をやりたいのかわからないとなれば、その政党は支持が得られない。だが、実際の有権者の関心は案外狭いのではないかと考えられる。つまり、原発に反対している人はそれだけが重要だと考えており、他のイシューには極めて無関心だということだ。つまり、日本人の気持ちはバラバラで、お互いに関心を持たないから、アラカルト式でも構わないのだ。

これに似ているのがAKB48やSMAPだ。メンバーになんらつながりはないが、それぞれ好きなメンバーを見つけるとあとはグループ全体を応援してくれる。一方、80年代のアイドルにはそのアイドルの固定ファンしかつかない。

これは固定ファンではなく、無党派頼みの戦略なので、投票率が上がらなければ戦略そのものが破綻してしまう。無党派を巻き込むためには分かりやすい答えと敵の存在が不可避である。分かりやすい悪役がいれば有権者の他罰感情が刺激されるので投票率が上がるが、対立構造が作られなければ有権者は選挙には行かないだろう。

最後に重要なのが、有権者は選挙の時だけしか政治課題に興味を持たないのではないかという仮定である。つまり、選挙の時に脱原発を訴えさえすれば「いつかは必ず実現するだろう」と満足してしまいそれ以上この課題をフォローしなくなるという見込みである。脱原発派は安倍政権から徹底的に否定されてムキになっている。しかし、普段から政治を監視しようなどとは思わないのだから「工程表を作ってやっています」とさえ主張していれば、実は別に何もしなくてもよいということだ。

小池さんはこれをすでに豊洲と築地でやっている。豊洲には「安全に移転しますよ」といい、一方で築地の方には「五年後には戻ってこれますよ」と言っている。実際にはどちらも中途半端な状態になっており当事者は大騒ぎしているのだが、有権者は他人の問題には徹底的に無関心なので小池さんの人気が落ちることはなかった。だからこの作戦は一定程度効果をあげているのではないだろうか。

いずれにせよ、選挙のたびごとにTwitterなどでビッグデータをインプットしてやり、それをチューニングして行けば投票動向がわかる。何回か選挙を繰り返せば政策集がチューニングできるだろう。だから、そこからできあがる政策集は結果的には評論家から見るとめちゃくちゃでバラバラに見えるということになる。実は小池さんがめちゃくちゃでバラバラなのではない。日本人がバラバラなのである。

本来ならチューニングには投票行動が重要な指標になるはずだが、テレビで何が伝えられたのかということがわかれば、その結果支持率がどう動いたのかということがある程度つかめる。もし支持率が動かなければヒットしなかったということだし、支持率が上がればそれをある程度の所まで訴えればいい。だが、ある程度ゆくと支持しつの伸びが鈍化するはずだから、そこで別のネットワークに向けたメッセージを訴求すればいいということになる。つまり「選挙はテレビがやってくれる」のである。

選挙に勝つことだけが政治だと割り切れば、この作戦は有効に作用するだろう。政治はもはや問題解決の手段ではないということである。これは、入試問題を解くのに似ている。東大の入学試験ならばあらかじめ傾向と対策が決まっているのだが、政治課題は傾向と対策が決まっておらず、常に動いている。これを算術的に捕捉できれば、あとはその通りに振り付けて踊ればよい。政治評論家のいうことは一切無視しても構わないのである。

だが、政治家たちは算術計算の結果を見て振り付けを変えなければならないので、あらかじめ所信を表明したり、仲間同士で政策協定を結ぶことなどできないはずだ。だから白紙の協定にサインをしなければならないのである。

いずれにせよ、小池さんや希望の党がめちゃくちゃなのではない。政治不信の結果多くの人たちが社会から逃避してしまったために、有権者が政治に期待するものがめちゃくちゃになっているのである。

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