核なき保守思想にいかに対峙すべきか

まさかこのブログで保守思想について書こう日がくるとは思わなかった。そもそも哲学や思想が苦手でそういうものは避けてきたからだ。

最初は現在の保守というのは切断を意味するというような定義の話をしようと思ったのだが、たいして面白くならなかった。そこでそもそも保守には核がないので相手にする必要はないという結論にした。

一晩考えてもっと単純な例えを思い出した。例えばある人が優れている場合「他人と比べてこういうことが得意」というのが特徴になる。例えば歌がうまい人というのは、大勢に歌わせてみて「ああ、この人の歌は違うな」ということがわかる。だが、歌のコンテストに出たことがない人は「自分の歌は凄いに違いない」という妄想を抱く。そして「唯一絶対無二である」と考えるだろう。しかし、この人はコンテストに出て歌を歌うことはできなくなるはずだ。そこで他人の歌を聞いて「あれは違う」などと言い出す。現在の保守には「問題を切断して現状維持を目指す」という側面があり、内向きにはそれで用が足りてしまうのだが、本当の問題は外と向き合えなくなっていることなのではないかと思う。

保守という考え方を規定するためにはまず「自分たち」が何なのかということを規定しなければならない。つまり守るべきものの範囲が確定してはじめてそれをどう守るのかという議論ができるからである。

ところが日本人は自分たちが何者なのかという自己規定ができなかった。文明の衝突(文庫上巻文庫下巻)では日本は中華圏から独立した独自の文化圏とされる。日本語も琉球語を方言とみなせば一系統一言語であり近縁の言語がない。さらに統一的な政権が早くできたことから国としてもまとまってしまっており、神道を一つの宗教とみなせば宗教圏としても単一である。他者がいないので自分たちが何ものなのか規定しなくても済んだといえるしできなかったと考えることもできる。

小熊英二の「単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜」には海外を模倣して帝国期に入った日本が朝鮮のように大きな社会を飲み込みながらも帝国としてどのように自己を再構成するのかという議論に失敗したことが書かれている。

よく「歴史が長くて日本は独特でユニークな国だ」といって喜んでいる人がいる。確かにその通りなのだが、裏を返せば自分たちが何者なのかを他者を通して規定する機会がなかったということを示している。歴史が長いことやたまたま円錐形のきれいな火山を持っていることしか誇れることがないということになる。

それでも日本が外に拡張しているときにはこのことは大した問題にはならなかった。戦前、中国大陸に向けて拡張するときに朝鮮人を割当制度なしで受け入れたところをみると「朝鮮人が入ってきて国が乗っ取られてしまうかもしれない」などという心配はしなかったのだろう。選挙権を与えてハングルによる投票まで許していたのである。さらに戦後になっても経済的に拡張している間は、日本人が自分たちが何者なのかということを考える必要はなかった。せいぜい日本が気にしたのは外国人からみて日本がどう見えるかという日本人論だったが、これも内側から問題を指摘するよりも外圧を利用したほうが意識改革がしやすかったという程度の日本人論だった。日本人がユダヤ人になりすまして書いた「日本人とユダヤ人」には、だからそれほどの危機感は見られない。

日本人が「保守」を気にするようになったのはバブルが崩壊して経済の先行きが見えなくなって以降なのだが、最初はサブカルチャ的な位置付けだった。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年だが、この頃にはバブル崩壊はよくある周期的な不況の一つだろうと考えられていた。しかし状況は変わらず、人々の不満は徐々に旧弊な自民党政権へと向かって行く。全体として「日本は改革できるはず」という期待があったからこそ逆張りも可能だったということになる。ゴーマニズム宣言は初期の段階では「ゴーマンなことを敢えて言える俺たちはカッコイイ」と言えたのである。

自民党に代わる政権は状況を打開することができず、内紛によって離合集散を繰り返す。民主党政権時にピークに達して崩壊した。「やってもダメだったじゃないか」というわけである。そしてゴーマンな逆張りは期せずして「安倍時代」の主流のイデオロギーになってしまった。

安倍時代のイデオロギーの特徴は幾つかある。まとめると先送りと切断ということになる。これまでの政権は構造的な分析を提示しないままに「どうにかしないと日本は大変なことになる」といい続けていた。ところが安倍政権は「みんなが変わらなくても日本はもう大丈夫」という言い方で「改革の呪縛」から日本人を解放した。ブクブクと太っていてダイエットができなかった人が「鏡と体重計を変えればいいじゃない」と気がついたのである。そして新しい保守思想のもとで日本人は鏡が見られなくなった。

ただ、これが嘘であるということに人々はうすうす気がついている。だから、保守の人たちはなにかというと反日という言葉を持ち出す。安倍政権に逆らう人たちはすべて反日である。社会党や共産党は中国をスポンサーにした反日だと言っていたのだが、最近では自民党内の石破茂も反日であり、天皇陛下も「反日認定」されることがある。自分たちが理解できないものをすべて「反日」と規定することで自分たちは変わる必要がないと自分たちに言い聞かせ続けているのである。

だから、現在の新しい保守思想に語るべき価値はない。そもそもサブカルチャ的な「ゴーマン」を許していた頃には本流の保守思想は消えていたと思わざるをえない。

確かに「レイプされた女性には問題がある」とか「日本人には天賦人権は似合わないから取り上げるべきだ」とか「北海道には先住民族はおらずすべてはなりすましだ」などと言われると腹が経つのだが、もともと「敢えて世の中に逆らってみる」のがかっこいいという程度の話なので、それに反発してもあまり意味はなさそうだ。問題なのはそういう「外に逆らって見るのがかっこいい」と思っているのが、一般庶民だけではないという点である。政権そのものが嘘を擁護するようになっている。

なぜそうなってしまったのかはよくわからないが、結局頑張っても変われなかったという諦めが現在の停滞につながっているとしたら「それではいけない」と思っている人が自らのリーダーシップで新しい一歩を踏み出すべきなのではないかと思う。

改めて現代の保守とは何かと考えると、それは諦めからくる欺瞞と切断による自己保身の別名なのだと言えるだろう。

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保守思想と先住民族とDNA

先日Twitterである投稿を見た。アイヌ民族について連続して発言しているアカウントである。なぜかアイヌ民族などいなかったと主張したがる人たちがおり彼らに反発しているようなのだが「アイヌ人などいない」とか「和人の方が先にいたから先住民族ではない」などという人たちが後を絶たないようだ。彼らは今回は遺伝子を引き合いに出して「アイヌは先住民族でなかった」とか「いまアイヌを自称している人はなりすましだ」などと言っている。ただ、それに反対する側も遺伝子を引き合いにだして「遺伝的にある傾向があるはずだ」と主張していた。

これは問題だなと思ったのだが、誰にとってどんな問題なのかを考えるとこれがなかなか一言では言えない。アイヌ系の日本人への人権侵害や中傷であることは確かなのだが、実はヤマト系の日本人にとっての問題を方が切実である。特に真面目に本邦の保守思想を考えたことがある人にとっては、自己規定というのは大問題のはずなのだが、未だに民族をDNAで規定できると考えているということは、おそらく真面目に考えたことがない人たちが大手を振って「自分たちは保守思想家でございます」と言っているというのが空恐ろしい。

日本人は実は民族について真面目に学校で教わることがない。これは教育の不備というよりも国の事情による。あまり他者と触れ合ってこなかったので自己規定が必要なかったのである。この点においては平和主義の議論と似たところがある。日本は大規模な戦争に直面してこなかったのであまり平和について突き詰めて考えることがない。憲法の平和主義を理解し擁護するためには当時の国際状況と現在の国際状況を見なければならないのだが、護憲派も改憲派も第二次世界大戦直後の状況認識が変形したものを抱えたままで論争を続けている。

民族についても同じことが起きている。先住民の権利保護は比較的新しい考え方なので、歴史的な経緯を踏まえないと「なぜ先住民の権利を保護すべきなのか」という論拠が立てられないのである。

まず、民族という概念からおさらいしてみよう。

韓国人と日本人を比べた時に「純粋な韓国人」という遺伝的マーカーも遺伝子の組み合わせもない。日本はなぜかチベットと同じ遺伝傾向(ハプロタイプD)を持った人たちが多く暮らしており、アイヌ系の中にも同じ遺伝傾向を共有する人たちが多数いる。一方で日本にはハプロタイプOという朝鮮半島と同じ系統の人たちもいる。だがハプロタイプDの人は韓国にはあまりいない。

だからハプロタイプOの人を連れてきて遺伝子解析してもこの人が韓国人なのか日本人なのかということはわからない。ハプロタイプDの人はおそらく韓国人ではないだろうが、この人が日本人なのか、日本に同化したアイヌなのか、アイヌなのかということもわからないのである。つまり、遺伝子と民族性というのは関係がないことはないが、遺伝子で民族は特定できないことがわかる。

にもかかわらず日本人は民族性と遺伝子が関係していると思い込んでいる人が多い。おそらくは多民族と接したことがないので「民族性というのは血によって決まるのだ」と漠然と信じているからではないかと思う。韓国は半島国家なので少し状況が違っていて「氏族」が自分たちがどこから来たのかということを伝承して書き残している。古く中国からきたと自認する人もいれば、最近アメリカ人と韓国人のハーフが創立した新しい氏族もある。

天皇中心の世の中ではもともと渡来系の家系と在来系の人たちを明確に区別しており、天孫と呼ばれるおそらく古い外来系の人と渡来系の人も分かれていた。だが、日本が武士の時代になると氏族の乗り換えが起こるようになった。例えば徳川将軍家はもともと藤原を自称していたが将軍家は源から出るということで源に変わり、最終的に徳川という氏族を創設したことになっている。

外敵がいないので氏族について考える必要がなかった日本人だが、明治維新期に日本人という枠組みが作られて、国語という概念もできてゆく。主権国家には領域という概念があるのでロシアとの国境画定を急ぐ中で「系統の明らかに異なるアイヌ人をどう扱うか」という問題が起きた。しかし日本政府はこれを棚上げしたままで「なかったこと」にして領域の確定だけを急いだ。数が少なかったのであまり問題にならなかったのだろうが、本州以南の習俗や社会を押し付けたという意味では侵略と一緒である。

もっと大きな問題が起きたのは台湾と朝鮮を併合した時だった。急激に大きな人口を飲み込んだでしまったからだ。この時日本にはいくつかの選択肢があった。日本を多民族国家として朝鮮人や台湾人を固有のグループとして扱う道、日本を単一民族国家として規定し朝鮮人や台湾人を同化する道、さらに植民地として切り離して本土とは区別するという道だった。だが、優柔不断な日本人は一つに決めることができなかった。内地にきた朝鮮人には日本人と同等の選挙権が認められ衆議院委員も出た。植民地としては破格で寛大な待遇と言える。一方で東洋拓殖という会社を使って農地を収奪して日本人の植民も計画した。これは後々大いに現地の恨みを買うことになる。

この裏返しとして日本人の自己規定の問題がある。自らの国家についてまともな議論ができなかったのである。政党同士の小競り合いから天皇機関説が糾弾されると議論そのものが萎縮してしまい、日本はどのような人たちからなるどんな国家なのかという議論ができなくなってしまった。

実はこの文章を書く時に「日本民族」とか「日本人」という言葉を使って良いのか迷いながら書いている。例えばヤマト系と書くと他の原住民族や外来の人たちを認めることになるのだが、政府として「ヤマト系」の定義はないはずだ。だからアイヌ系日本人という言葉もないし、帰化した朝鮮系の人たちを朝鮮系日本人とか新渡来人などと呼称することもない。つまり、よく考えてこなかったから学校でも教えられないのだ。実はアイヌ系が誰なのか規定できないということはヤマト系の人たちが規定できないということなのだが、この文章を読んで「ああ、そうだな」などと思う人はいないだろう。

このように日本人は曖昧に周縁に拡張してきたので「他民族を侵略した」という意識が持ちにくい。故意に隠蔽している側面もあるだろうし、意識していないのでよくわからないという側面もあるのだろう。

次に、先住民を保護すべきという機運はどのようにして生まれたのかということを考えたい。

調べてみると1970年代から議論が始まり1980年代に固まった新しい権利のようである。まず最初に日欧米の主権国家とそれ以外の地域があり主権国家はそれ以外の地域を植民地化してもよいことになっていた。これが破綻して植民地域にも主権国家という扱いをすべきだということになる。これができたのが1945年である。この時に自決権の塊として人工的にに定義されたのが「民族」という概念だった。民族という概念は帝国が崩れたときに国家の構成主体として考えられた「アイデンティティを同一にする一団」のことである。

これが落ち着いて「国家格を持っていた人たちにも権利を拡張しよう」と考えられるようになったのが1970年代なのではないかと思われる。つまり、歴史的に国家格を持ってこなかった人たちにも自決権を認めようという流れである。アメリカの事例を見ると黒人の主権を認めてゆく公民権運動の影響を受けてアメリカ原住民の権利を認めて行こうという動きもあったようだ。

つまり、固定的な領域概念だとされていた「民族」や「国家」に移動の概念が取り入れられていることがわかる。日本やアメリカ合衆国のように周辺に伸びてゆくときにもともといた人たちの権利が蹂躙されるということもあるだろうし、アフリカから連れてきた黒人の人権をどのように守るかということでもある。

この時にぶつかった壁が「民族とは何か」という問題である。世界には様々な民族集団がいる。例えば言語をとってみても「方言なのか言語なのか」という問題があり民族が自明に見えるヨーロッパでは一部で独立運動も起きている。また遺伝的には同じ集団でも「イスラム教を受け入れた」という理由で異なった民族を自認する人たちもいる。もっとも極端なケースとしてヨーロッパ人が勝手に見た目で割り振ってIDカードを使って固定したケースもある。ソビエトが人工的に民族を規定した中央アジアでは歴史的な民族の呼称と今の人たちの遺伝的傾向が異なっていたり、一つの民族概念に異なる人たちが含まれる国もある。例えばウズベク人の中にはトルコ系の人とペルシャ系の言語を話す人たちが含まれるそうだ。

「民族とは何か」とという概念もないのだから、そもそも先住民族とは何かという定義ができない。アムネスティですら「定義はない」と言っている。

世界には、およそ3億人の先住民族が暮らしていますが、彼らの暮らしや文化、社会はさまざまです。そのため、国際的に決まった先住民族の定義は存在しないという指摘もあります。

そもそも定義がないのだから、遺伝情報を取り出して勝手に「ある」とか「ない」などと議論しても全く意味はない。アムネスティは次のように続ける。

先住民族とは、自らの伝統的な土地や暮らしを引き継ぎ、社会の多数派とは異なる自分たちの社会や文化を次世代に伝えようとしている人びとである、という定義もあります(ILO169号条約、国連コーボ報告書など)。

つまり自認が大切だというのである。

ところが自らの自己決定をあまり信じずに他人からの承認を重んじる日本人にはこの「自己決定権」という概念がそもそもよくわからないのかもしれない。だから「みんながないと言い出せばなかったことにできるのではないか」と思ったり、逆に「なんとかして科学的な民族の証を求めよう」という話になる。要するに民族を意識するかしないかにかかわらず固有の社会集団としての歴史があり、なおかつそれを今後も存続させたいという集団がいるとき、その人たちは「民族として扱われる」ということである。

現在の保守を定義すると「問題を先送りしたり切断したりすることで自己保身を図る」というものだと思う。だから自分と主義主張が異なる人を「反日」として切断したり「在日認定」して切り捨ててしまうことになる。安倍政権もこれまでのお友達を「あの人たちのことは実は最初から信頼していなかった」などといって切断し、最近では石破茂までも「安倍政権に反旗を翻すから反日だ」と言われる。中には天皇陛下を反日と呼ぶ人もいるそうだ。もともとの定義を考えると不思議な話だが、保守の本質を切断処理だと考えれば特に不思議に思うことはない。

だが、これはタマネギやキャベツの皮を向いたら何も残りませんでしたというのに似ている。

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障害者雇用の数字水増しを許してはいけないのはなぜか


本屋では雑誌以外はめったに立ち読みしないのだが、たまたまある本を手に取った。障害者自立の話である。漫画なので簡単に読めたのだがとても感動した。だがなぜ感動したのかがよくわからなかった。多くの人に読んでもらいたいと思ったのだが、自分も立ち読みなので「買ってくれ」とはいえない。

どうやらNHKでドラマにもなったようだが全く見逃していた。NHKはオリパラを盛り上げるプログラムの一環として扱ったようだが、できれば朝ドラか大河ドラマにしてほしいと思った。

この本を読んで、前回障害者雇用の水増しの件について観念的にしかわかっていなかったなと反省した。そして。この本を読むと官僚たちが踏みにじってきたものの大きさがよくわかる。

漫画の筋は簡潔だ。イギリスの研修で障害者スポーツを見た中村裕はこれを日本でも広めたいと思った。しかし研修先では「そういった日本人はたくさんいたが誰も実行しなかった」と言われてしまう。帰国して早速取り組み始めた中村だったが案の定病院からも当事者たちからも拒絶されてしまう。それでも自立したいという青年との出会いを通じて障害者スポーツに取り組み始め、自分の車を売って工面したお金で二人の選手を国際大会に派遣する。さらに中村の尽力は続き東京パラリンピックの開催にこぎつけた。

しかし話はそこでは終わらなかった。海外の選手は大会が終わった後街に繰り出すが、日本人選手はそれができない。海外の選手は自分で収入を得ることができるのだが、日本人障害者は社会のお荷物なので「大手を振って楽しむことなど出来ない」と感じていたからである。障害者に働く場所がないのである。

そこで中村は自分で工場を立ち上げる。しかし、生産性が低く取引を断られてしまう。また一ヶ月真面目に働いても従業員に2000円程度の給料しか渡すことができなかった。当然従業員たちもこれは事業ではなくお情けなのだと感じてしまう。ベルトコンベアを使えば障害者が動き回る必要がないということまでは着想するが、自力では工場が作れない。最終的にたどり着いたのが現在のオムロンだった。今でもオムロン太陽という会社があり雇用者のうち5割が障害者なのだそうだ。

個人的な感動ポイントはいくつかある。仕事を開拓した当時はとても給料が払える状態ではなかったという点に心を動かされた。これはやり直しを図った人が自力で再起を図ろうとしたときに最初に感じる壁だと思う。そもそも収入を得るということが難しい上に、収入が得られたとしても「この程度では仕事とは呼べない」と社会から拒絶されてしまうことがあるのだ。そこで諦めてはいけないのだろうが、やはり「道楽であり仕事ではないのではないか」と感じてしまうのに無理はない。

次の感動ポイントは中村の姿勢である。お医者さんとしての地位はあるわけだから、何も他人のためにそこまでしてやる必要はない。つまり、合理的に彼の行動を説明することはできないのだ。しかし人間には社会に貢献したいという内発的な動機があり、これはお医者さんであろうが「社会のお荷物」になってしまった障害者でも変わらないのである。そしてこの内心こそが社会を変えてゆくのである。

もう一つはオムロン側の対応である。障害者相手の「善意」なのだから「かわいそうなので助けてあげましょう」としても良さそうなものだが、ベンチャー企業を立ち上げたいと提案する。「損をしたら借金を負担するように」ということである。Wikipediaの太陽の家の項には井深大、本田宗一郎、立石一真という三人の名前が出てくる。日本の製品を世界に広めた人たちなのだが、自立についての見識を持った立派な人たちだったことがわかる。24時間テレビが障害者を利用して感動を押し売りし、官僚が数字をごまかして障害者の自立を妨げる現在では想像できないことだが、つい少し前には日本にも立派な経営者たちがいたのである。

興味を持って立石についても調べてみた。

オムロンの立石一真の経歴は面白い。戦前から働きはじめ、戦後に「自動化こそが新しい産業の鍵である」ということに気がついた。戦前にはすでに社会人だった「古い」世代の人なのだが、企業が社会貢献するにはどうしたら良いのかということを常に考えており、日本で最初の福祉工場の立ち上げにつながる。また、立石はサイバネティクスというビジョンを持っており、巨費を投じて「娯楽」と言われながらも研究所を立ち上げて次世代への投資をしたそうだ。このサイバネティクス技術の国産化がその後の高度経済成長を内側から支えた。

よく、日本には立派な経営者がいないとか、アメリカ流の合理的な経営を学んでいないという批判を目にする。実際にこのブログでもそのようなことを度々書いてきたのだが、海外の事例を探さなくても日本にも立派な経営者はたくさんいて、単に忘れているだけなのである。

漫画では立石一真が最初から障害者にコミットメントを求めていたような書き方がされているが、オムロンのウェブサイトには別の文章がある。つまり、どちらか一方が「見識があった」わけではなく、障害者、支援者、経営者たちの「社会を良くするためには何ができて何をすべきなのか」という熱意が出会い、徐々に社会を変えていったことがわかる。これも自己責任が跋扈し切断ばかりが目につく現代とは全く違った姿である。

立石一真 語録5 「企業の公器性」の意味

オムロン太陽電機の操業開始の日のことを一真は、次のように記しています。
「私はこの創業式で、重度身障者を前にしてあいさつをせねばならぬ立場にあったので、気が重かった。気の毒な境遇の人たちを、まともに正視できるかどうか心配でもあった。しかし、壇上に上がってあいさつを始めると、そんなことはものの五分もたたぬうちにすっかり忘れてしまった。というのは、「さあやるぞ!」といわんばかりの意欲のみなぎった顔がいっぱいで、工場が実に明るかったからである。フレンチ・ブルーの作業服にオムロンのマークを胸につけた二十八歳の吉松工場長が、車椅子で前に出て、凛々しいあいさつをしてくれるのを聞いて、私は胸が熱くなる思いであった」。これにより、一真の「企業の公器性」に対する想いは確信へと変わっていったのです。

立石太陽が設立されたのは1972年である。ここで障害者もセットアップ次第で生産性が向上させられることがわかる。障害者の雇用が義務化されたのは1976年だった。障害者の自立支援に尽力した人や、彼らの自立について「経営的なコミットメントが必要だ」と見なした経営者がいた一方で、官僚機構は裁判所を含めて、それを信じておらず「形だけ守った風に見せればいい」と考えていたことになる。

官僚機構が長い間何を踏みにじってきたのは、社会の偏見から解き放たれるために自ら踏み出した障害者たちと高い見識でそれを支えた経営者の勇気ある一歩であるといえる。社会はこれを許すべきではないと思う。

だが、支援する側が社会の偏見や常識に争ってここまで尽力したのはどうしてなのかがよくわからない。単にかわいそうな人たちを放置しておけなかったということもできるのだが、それだけではここまでのことはできないのではないかと思う。やはり、目の前にいる当事者たちの切実な気持ちが一人ひとりを動かしてきたのではないだろうか。ではその切実な気持ちとは何だったのかは受け手である我々一人ひとりが考えるべきだろう。

私たちは自分たちの手で「歩みなおすことができる社会」を作るか「一度つまづいたら社会から切断されて引きこもらざるをえなくなる社会」を作るのかという選択肢を委ねられていることになる。

常に生き残るために他人を追いおとし失敗を相手になすりつける競争社会に住んでいる政治家と官僚は、共助による歩み直しと共感することはできないのかもしれない。だが私たちはまたこうした人たちを許容するのか、それとも声を挙げるのかという選択肢を持っている。

改めてこの本の何に感動したのかを考えてみた。私たちは一人ひとりの行動によって社会を変えることができるという実証がパラリンピックとある医師の挑戦と中村の生き方にあるからなのだろう。

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現在の奴隷労働とそれを許容する日本人

先日Twitter毎日新聞の「外国人、借金返せず不法残留」という記事について知った。

仲介業者に125万円支払って日本に来た看護師が日本語学校の系列の病院を紹介されて週28時間勤務をこなした。しかし経費を差し引かれて2万円しかもらえなかった。そこで、失望して脱走してアルバイトに明け暮れたあと不法滞在で逮捕され、泣きながら謝罪したという記事である。

これを見て現在の奴隷労働だなと思った。つまり経済的に「働き」を搾取されているのである。

ところがこれについてつぶやいたところ「善意」で「ものごとを良く知ってそうな」人から、これは奴隷労働ではないという意見をもらった。狭義の奴隷は誰かに所有されている人の事をいうのだという。抵抗勢力の根強さを感じるとともに「知っている」ということでショックを和らげたいという気持ちの根強さも実感した。このことは逆に私たちの社会がもはや誰かの人権を犠牲にしてしか存続し得ないということを許容したいという気持ちの表れなのだろう。

ここから、戦前の慰安婦や強制徴用などの問題も形式的には「志願」で自発的に来ているとされているケースが多かったのだろうと思った。つまり、戦前から一貫して「見て見ぬ振りをしたい」という気持ちがあったのだろう。それは、日本人特有の感覚というよりは人類が共有している感覚なのではないかと思う。

戦前のケースでは日本人は二律背反的な気持ちを持っていた。アジアで最も優れた民族としてアジアを解放するのだという意識を持っていた一方で、朝鮮人を差別しているのだから何をされるかわからないという恐れもあった。このため日本の植民地政策は一貫せず、外から入ってきた民族をどう受け入れるかという思想がまとまらないままで戦後を迎えてしまう。それは日本が帝国として他民族化するか、それとも「純血の」日本人だけを日本人とするのかという感覚がまとまらなかったことを意味している。

この短いエントリーですべてを書くことはできないので、奴隷労働については人権の観点から分析するのだが、この問題を突き詰めてゆくと、海外から短期労働者を隷属的に受け入れることでしか維持ができなくなった国が、そのアイデンティティをどう作り上げて行くかというかなり本質的で根深い議論に発展するはずである。そして、その議論を妨げるのは多分無知な人たちではなく、今回遭遇したような「善意で」「教養のある」人たちなのだろう。

現在の日本の「奴隷労働市場」には単独の犯人はおらず、かなり巧妙な仕組みができている。一度考えてから浮かんできた疑問は「なぜ海外のブローカーが野放しになっているのか」という問題だ。

この外国人看護師が隷属的な労働に甘んじなければならなくなったのは元はと言えばブローカーから借金してしまったからである。そしてこれは日本政府が正規の紹介業者から紹介を受けた人だけにビザを与えるというようにすれば簡単に解決できる問題だ。ということは日本政府は、表立っては決して認めないだろうが、知っていてこの問題を放置していることになる。

さらに学校であるはずの日本語学校が「系列の病院」を持っていることが怪しい。正規の賃金は支払っているかもしれないが、いろいろな名目で天引きしているところから「最初から安い賃金で労働者を輸入して、その最低賃金さえも支払うつもりがなかった」ことがわかる。

先に述べたように、政府もこのような実態を把握しているはずで「知らなかった」とは言えないと思うのだが、介護業で人出が足りず、満足な給料も支払えないことを知っているのだろう。

つまり、三者がお互いに目に見えないトラップを作ることで、海外の有望でやる気のある若者を惹きつけているという実態がある。だが、彼らの間に直接の関係は見えないので、誰も責任を取らずに済むのである。

最初に述べたように、旧来の奴隷は所有者が奴隷の生存に責任を持っていた。しかし、今回の場合隷属的労働をさせても、奴隷の所有者はいないので誰も責任を取らなくて済む。つまり、現代の隷属的労働の方が罪が重いのだが、この人は自発的に来たのだから奴隷ではないと「切断処理」してしまうと、一切の問題を考えずに済んでしまうということになる。

同じことは慰安婦についても言える。慰安婦を集めたのは現地のブローカーだったのかもしれない。だが、だからといって軍が女性を使役したことが「問題がなかった」という証明にはならない。彼女たちは国でも差別されることになったのだが、これも日本軍がやったことではない。しかし、女性にとっては環境全体が問題であり、その原因を作ったのは戦争だ。

このように他人の人権を犠牲にして社会を維持する側には罪悪感が生まれるので、それを巧妙に隠蔽しようとする「智恵」が働く。だが、この「智恵」は内輪のものであり、世界的には通用しない。このズレが問題になりつつある。技能実習制度も研修生を隷属させているという懸念があるそうだ。日経BPは次のように伝える。技能実習制度もブローカーが暗躍して日本語学校と同じような状況にある。重要なのは政府がこれを知っているという点である。

 厚労省による実習生の労働状況の調査によれば、2016年、監督指導した5672事業所のうち7割に当たる4004事業所で労働基準関係法違反が見つかった。時間外労働が1カ月130時間を超える例や、月5万~6万円程度の低賃金で雇用して時間外労働に時給300円ほどしか払わない例も散見された。

「最大の問題は実習生が不満を言えない隷属した状況下に置かれていること」と、自由人権協会の理事、旗手明氏は指摘する。彼らは自国の送り出し機関に保証金を払い、ブローカーである監理団体の仲介で企業に実習に来る。住居費などを天引きされ、手元にほとんどお金が残らない例や、1部屋に3~5人押し込められる例もあったという。しかし「不満を言えば本国へ強制帰国させられ、保証金が戻らないばかりか、違約金を払わされることを恐れて意見を言えない」と旗手氏は指摘する。

この記事から海外ブローカーが日本にとって都合が良い存在であるということが見えてくる。つまり、彼らはすでに借金まみれになっている。つまり、最低賃金以下で働いている人は家族を人質に取られているのである。だから甘んじて「自発的に」隷属下に置かれるのだが、決して雇用者が「手を汚したわけ」ではない。研修生や日本語学校の学生は、国内の雇用者からは「進んでこの状態になった」人であり自分たちが「そうしたわけではない」という安心感が得られるということになる。だからブローカーは放置されているのだ。

このような状態を把握していながら厚生労働省は次のように言っている。

外国人技能実習制度は、我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的としております。

だが、冒頭の日経BPの記事はこのように指摘している。

こうした日本の人権問題に世界も懸念を示している。米国務省が2017年6月に発表した人身取引報告書は、日本の外国人技能実習制度が強制労働の温床になっていると指摘し、日本をこの人権問題における先進的な第1グループの国群から外した。

安倍政権が嘘をついて法案を通すことが問題になっている。これは内輪ではうまく行くのだが、海外には通用しない。だから日本と同じような調子で人を使うと、海外では「人権侵害だ」として訴えられたり、その製品の不買につながるリスクがあるということになる。

前回、韓国が海外資本を受け入れるためにワークライフバランスの確保に取り組み始めたという事例を紹介したが、日本は逆に今ある企業環境を守るために人権侵害の道を目指しているということになる。海外から資本を受け入れる必要がないので資本家を説得する必要もなく、従って人権侵害を是正する機運も出てこないという構造がある。

奴隷労働を許容しているということになる。さらに民主党政権時代の3年間にもこの制度に対する見直しがあったという話は聞かないので、野党も含めて加担していると考えて良いだろう。そして外国人に向いた「隷属的労働を許容すべき」という機運は、日本人労働者にも向かう。過労死が増え、成果主義で学校の予算を削るなどの動きが出ている。ところがいったん内向きの社会ができるとそれが是正できなくなってしまうのである。

我々は安倍政権を許容することでこの隷属的労働を許容している。一人ひとりが「これはいけない」と考えて変わってゆくしか、改善の道はない。ところが、いざ声をあげてみると「常識的な」人たちが「こんなのは奴隷労働とはいえず大げさに騒ぎすぎだ」と「善意」を装って近づいてくるのである。

今回一番印象に残ったのは「日本はまだ奴隷労働に依存しておらず、今後この状態が数年間続いてから騒げばいいじゃないか」というほのめかしだった。多分、日中戦争も「これくらいはいいじゃないか」というズレが徐々に拡大化して泥沼に陥ったのだろうと思う。現在でも同じようなことが起きているということになる。

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韓国ではどうしてサマータイムが実施できたのか

森元首相が「オリンピックでサマータイムを導入したい」と主張してからしばらく経った。総裁選を挟んで一旦休戦ということになっているが総裁選が終わればまた政治的なアジェンダに復帰するはずである。この件について韓国の事情を調べた。そこから見えてくるのは森元首相が自分を独裁者だと思い込んでいるという可能性だ。

韓国ではソウルオリンピックに合わせて時間が変えられた。もちろん韓国特有の事情もある。そもそも標準時の子午線が韓国国内を通っていないので標準時を決めると30分ずらすことになる。だがそれでは不便なので日本か中国のどちらかに合わせる必要がある。結局日本と同じ時間を使っているので普段から30分早い生活をしていたのである。さらに、この当時の韓国は全斗煥大統領時代だった。この第五共和政は極めて独裁色の強い政治体制だった。全斗煥大統領は前任が暗殺されたあとの粛軍クーデターで実験を掌握したのである。

軍を粛清して国を引き継いだ全斗煥大統領は、国民に妥協的な政策をとりつつ、国家プロジェクトとしてオリンピックを招致した。だがそれでも豊かになりつつあった国民の反発が強く形式的に体制改革を進めて第五共和政を実施するのだがこれが受け入れられずに暴動が発生した。そこでそこで当時の大統領候補が民主化宣言を出した。これが1987年の事である。ソウルオリンピックはパルパル(88)五輪とも呼ばれた。

治安が悪化した場合オリンピックがロスアンジェルスで代理開催されることになっており、これを避けたかった政権側は「政権を禅定する代わりにデモを収束させて欲しい」と国民に依頼したという経緯がある。つまり、オリンピックを成功させることを条件にして民主化を成功させようというのだ。後継に指名された候補は「民選にする」と約束して事態が収束した。朴全大統領が退陣した時のデモが話題になったが、韓国の大統領選挙はそもそも国民が獲得した権利だった。

オリンピックでサマータイムが導入されたのは1987年なので、これを決めたのは独裁の色彩が濃かった全斗煥大統領であろう。独裁的な政権だったからこそ導入ができたことになる。韓国は「漢江の奇跡」に代表されるように強い独裁的なリーダーシップのもとで国家事業を推進してきた歴史がある。オリンピックもこうした国家事業の一つであり国の時間を変えることも厭わなかったことになる。

ではなぜ韓国は時間を変えてまでオリンピックを実施しようとしたのか。それはアメリカのテレビ放送の都合である。京郷新聞は次のような記事を出している。()内の日本語はこちらで補足したが語順が日本語と同じなので何を言っているのかはわかると思う。

서머타임(サマータイム)은 해가 일찍 뜨는 여름철에 하루 일과를 빨리 시작하고 마감할 수 있도록 표준시간을 1시간 앞당기는 제도다. 우리나라는 1949~1961년까지 서머타임을 실시했다. 표준시를 135도로 옮기면서 폐지됐다가 26년 만인 1987년 5월10일 (1987年5月10日)다시 부활했다. 서울올림픽(ソウルオリンピック) 때문이었는데 이는 골든타임(ゴールデンタイム)을(を) 확보해(確保し) 미국(美国・アメリカ) 방송국(放送局)들로부터 중계권료(中継権料)를(を) 높게(高く) 받으려(受ける)는(ーという) 목적(目的)이(が) 있었다(あった).

원문보기:
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=201105092121025#csidxff77fb38228428eb4aa44cb57c1a383 

しかし、市民生活は混乱する。

당시(当時) 신문(新聞) 기사(記事)는(は) 서머타임(ソモタイム・サマータイム) 실시(実施) 첫(最初) 날을(日を) 이렇게(このように) 그리고(描いて) 있다(いる). ‘다방과(喫茶店) 음식점(レストラン)에는(は) 시간이(時間が) 엇갈려 (すれ違い)서로(お互い)를(を) 찾아(見つけ) 헤매는(迷うの) 풍경이 (風景が)이어졌고(続いて) 공중전화(公衆電話)의(の) 줄(列)은(は) 줄어들(減少) 줄(を与える) 몰랐다(知らなかった). 예식장과(結婚式場と) 터미널에(トミノル・ターミナル)서도(でも) 시간(時間)을(を) 착각한(勘違いした) 하객과(ゲストと) 승객들(乗客)의(の) 불만(不満)이(が) 끊이지(絶え) 않았다(なかった).’

원문보기:
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=201105092121025#csidx9eb1d267fb58e61a953e8a08c79481c 

Googleを頼りに和訳すると次のようになる。

当時の新聞記事は夏時間実施初日をこのように描いている。「喫茶店や飲食店には時間が行き違ってお互いを探し回る風景が続き、公衆電話の列が途切れることはなかった。結婚式場とターミナルでも時間を勘違いしたゲストと乗客の不満が絶えなかった。

中央日報は2007年に次のような記事を出している。

 次に88五輪当時、臨時に取り入れた経験が挙げられる。西欧先進国の都合に合わせるための制度という認識が根深く刻印された。その後、2年で廃止された。そのためサマータイム制導入と廃止でますます混乱は大きくなった。サマータイム制による混乱が大きくなると思う理由である。

国民生活を混乱させたばかりか、その後「サマータイムはこりごりだ」という認識が生まれたのである。

平昌オリンピックでも時差がないはずの日本人が「ゴールデンタイムにオリンピックの代表競技が見られない」という事態になったが、これもアメリカのゴールデンタイムに合わせたものをと思われる。ここでも韓国は放送権料のために「自発的サマータイム」を実施したのである。

日本でも同じようにアメリカのゴールデンタイムに合わせて放送権料を高く売りたいのだろう。しかし、それに合わせて電車の時間を早めてもらったりするとお金がかかる。ただでさえオリンピック予算は膨らみ続けており、これ以上予算を膨らませることはできない。「安くできるから東京でやりたい」と宣言してまでオリンピックを誘致してしまったために、後に引けなくなっているのだろう。

そこで土下座して頭を下げた上で「どうか協力して下さい」と泣きついてくるならまだ話はわかるのだが、上から目線で「ボランティアを供出するために夏休みは授業をするな」とか「銀が足りないから学校でも供出しろ」とか言い出すので世間の反発を買ってしまっている。今度は「省エネになりますよ」という嘘をついて自民党の数の力でサマータイムを導入しようとしている。

森元首相は今でも自分が国を動かしているつもりでいるのだろう。韓国で開発独裁的な政権しか成し遂げることができなかった上に国民生活を混乱させたサマータイムを持ち出し「よし俺が首相に直接掛け合ってやる」と考えたのではないかと思う。確かに個人的な力関係で話をするのは構わないが、安倍首相は「お友達の言うことならなんでも聞いてやろう」と考える一方、民主主義については全く理解をしていない。安倍首相が国会にサマータイムを持ち出せば国会は混乱するだろうし、もし仮に通ってしまえば国民生活はさらに混乱することになるだろう。

強引な政治手法が目立つ安倍自民党だが、その芽は少なくとも森元首相の時代にはあったということになる。しかし、現在の自民党はもはや政策論争ができるような政党ではなくなりつつあり、このように強引な手法を駆使する人たちが制圧する状態になっているのだろう。

問題は国民の側でこれを放置することの危険性だ。サマータイムが通るということは一部の人たちの失敗を糊塗するために国民生活を犠牲にすることを(少なくとも手続き的には)民主主義的なプロセスで容認してしまうことになる。これは実質的には「時間」という国家財産の私物化を容認することであり、民主主義の放棄である。

韓国は長い犠牲と国民の粘り強いデモによって民主主義を獲得したのだが、日本はその逆に民主主義を自ら手放そうとしているということになる。

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障害者雇用の水増しについて考える

障害者雇用の水増しについて考える。当初は社会が余裕をなくした結果切断処理が横行した結果「障害者雇用を水増ししていた」というお話を考えて記事を読み始めた。

だが、思い込みで記事を書くのはよくないなと感じた。最初に「ああ、思い込みだな」と思ったのは慣行は義務化当初の42年前から続いており、最近の世相を反映したものではないということがわかった時だった。もともとの全員の社会参加という理想を忘れ「単に数をあわせておけばいいんでしょ」と捉えられていたということである。1970年代には障害者の社会参加は今よりも遅れており「とても通勤して仕事をさせることなどできない」と最初から切り離していた省庁が多かったのだろう。そしてそれが現在でも続いているということになる。そうなると「切断」は昔から行われており、最近は「切り離された人」が声をあげられるようになったことでそれが表面化しているということになる。

この慣行が明るみに出たのは財務省が厚生労働省に問い合わせをしたからだそうだ。つまり、意図的に隠蔽したものがリークされたという類のものではない。財務省が5月に問い合わせをしたということなのだが、当時財務省は国有地の払い下げやそれに続くセクハラ問題などで揺れていた。これ以上隠蔽を疑われたら何を言われるかわからないという不安な気持ちと「麻生大臣は何もしてくれないだろう」という諦めから問題を早々に放出したのだろう。ところが蓋を開けてみるとこれは財務省だけの問題ではなく、どの省庁もやっていたことだった。そしてそれに対して官庁を所管しているはずの政治家たちは何もするつもりがなく何もできないのである。

一部の新聞はこれを政権批判に絡めようとしている。森友加計学園問題で「隠蔽」が話題になっているので、それをほのめかすことで「隠蔽している」という印象を与えることは可能なのだろう。東京新聞は「調査が10月に先送りになる」と言っている。総裁選挙への影響を避けた判断なのだろう。

実際に自浄作用が期待できるかどうかはわからないのだが、拙速に調査して「なかったこと」にするよりも、じっくりと調査したほうが良いのではないかと思う。いずれにせよ、一連の文書改竄問題とこの問題はリンクさせないほうがよさそうだ。

菅官房長官は年内に数合わせをするか雇用計画を出せと言っているようだが、これも問題があると思う。とにかく批判されたくない官庁は今度は拙速な数合わせに走ることになる。つまり「障害者手帳を持っているなら誰でもいいから動員しろ」ということになりかねない。いっけん良いことのように思えるかもしれないが「障害者」でひとくくりにして、戦力としてはみなさず単に統計上の数字としてしか見ていないというのがそもそも差別的である。麻生大臣は「障害者手帳の取り合いになりかねない」と発言しているそうである。

麻生太郎財務相は28日の記者会見で、「障害者の数は限られているので、(各省庁で)取り合いみたいになると別の弊害が出る」と指摘。(毎日新聞

毎日新聞はこの辺りを丁寧に書いている。実際の雇用現場では限られた予算で目標を達成しなければならないので、一人ひとりの適性をみて苦労しながらリクルーティングをしているという。数合わせ的な制度が問題だとしているが、これは当事者たちにとっては当たり前の指摘だろう。生まれながらにして、あるいは病気や事故にあった人が障害者という「箱」に入れられて一律で「処理」される制度がまともなはずはないのだが、これがおおっぴらに行われているのが現代の日本なのである。

真の問題は多分障害者雇用とは関係がないところにあるのだろう。毎日新聞の別に記事では、健常の責任者が数字を合わせるために「自分も数に入れておけ」と指示したという話が出てくる。このことから査察という「村の外から」の目がなければ何をやっても良いという文化が42年間も温存されているということだ。辻褄合わせの文化が政治によい影響を与えるはずはない。

日経新聞は故意かそうでないかを問題にしている。日経らしい無神経さだ。故意の人もいただろうし、無関心だったという人もいただろう。だが問題は本人たちが自発的に「このままではいけないから状況を改善しよう」と思わなかったという点だろう。これまで調べようともせず、制度の目的も理解しなかったことのほうが問題である。故意にやったと言い出す人はいないはずで、10月の調査でも「知らなかった」とまとまる可能性が高いのではないかと思う。

問題は多い一方で、この問題には評価できる点もある。財務省が「まずい」と気がついたところだ。世間の苛烈な非難にさらされたからこそ「隠し事はためにならないな」と感じたのだろう。さらに、問題が起きても首相は官僚を「切断」するだけで責任は取ってくれないということが身にしみてわかったのではないだろうか。今後財務省が身を挺して政治家をかばうことは減ってゆくのかもしれない。

そうなると今後も官庁から様々な問題が放出されることになる。すると大臣たちは「なぜそんなことになったのかわからない」と首をかしげるばかりで、いままでお任せ政治が横行したことがじわじわと露見することになる。さらに政治家のライバルを封じ込めることしか頭にない首相はそもそも表にすら出てこない。誰がどう見ても「全くガバナンスが効いていない」ということがわかるわけで、多分これは安倍首相が交代するまで変わらないのではないだろう。

つまり、こうした状態だらだらとが3年続く可能性がきわめて高いわけだが、この状況に有権者国民がどれだけ耐えられるかは疑問である。自民党政権が今回この問題を軟着陸させることができたとしても空いた穴はふさがらないのではないだろうか。

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「不正」や「嘘」というと自動的に安倍首相が思い浮かぶ

面白いニュースがあった。石破茂総裁候補が「正直・公正」というスローガンを封印するかもしれないと言ったそうだ。党内で「今の総裁に批判的である」という批判がでたからだそうだ。

「正直、公正」は、学校法人「森友学園」「加計学園」の問題を念頭に石破氏が安倍晋三首相(63)の政治姿勢を批判したと受け止められている。しかし、自民党内では石破氏を支持する参院竹下派からも「個人的な攻撃には違和感がある」(吉田博美参院幹事長)という不満が出ていた。

だが、立ち止まって考えてみると「受け止められている」だけで、安倍首相を批判したものではない。にもかかわらず安倍首相が想起されており批判だと見なされてしまうという点にこの記事の真の考察点がある。

第一に自民党の中でさえ「安倍首相は嘘つきである」という認識が広まっており「正直」といっただけで首相批判が想起されてしまうということだ。このような組織でガバナンスが効くはずはない。自民党の中には嘘が蔓延し内部から崩壊することになるだろう。

次に、自分の内心に従って良心的な政治をするという当たり前のことですら自民党では「忖度」が必要ということだ。つまり、自民党はそれほど萎縮しているということである。

さらに、自民党の政治は支持されていると考えている野党が自民党に擦り寄ろうという気配もある。先日も玉木雄一郎という立憲民主党の議員が「老人に最低賃金は当てはめるべきではない」という極論を述べてネットで袋叩きにあった。長谷川豊という維新の候補者が暴論を振りかざすのも杉田水脈議員の「成功体験」を念頭に置いているのではないかと思う。これも彼らが「自民党のデタラメな政治に擦り寄りたい」という気持ちの表れなのなのだろう。

自民党の萎縮は「この先国が衰退してゆくであろうから、自分たちは今の政権にしがみついていなければならない」という恐怖心から来ているのだろう。自民党のガバナンスが内部から崩壊しても政権にい続けるとすれば、日本の有権者の多くがもはや政治になんら関心を持っていないか、嘘に依存しなければ維持可能ではないと考えているからなのだということになる。

こうした萎縮したマインドが蔓延した国で意欲にみちた経済運営ができるはずはない。その意味では今度の自民党の党首選はなんらかの意味での「最後の自民党総裁選挙」になるのかもしれない。

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なぜ国民民主党はこの日本から消える必要があるのか

もともとこのエントリーは携帯電話料金について書くつもりだった。しかしこれを書いている途中で玉木雄一郎議員の以下のツイートを目にしてタイトルを変えることにした。国民民主党はうんざりなので、はやく視界から消えて欲しいと思ったのである。

国民民主党というのは基本的に自民党に入れてもらえなかった人たちの寄り合い所帯である。もともと日本人には良心というものがないのでイデオロギーの持ちようがない。彼らの目的は自分たちをなんとなく立派な政治家っぽく見せることだった。内心に由来する良心がないので発言は一貫しておらず、つねにふらふらしており、その時の「かっこいい」思想に寄生したがるという悪癖がある。さらに内心がないので、自分が言っていることが現在の状況にあっているのかを考えるスキルも意欲もない。だから「最低賃金以下でも働ける」などという暴論が平気で出てくるのだろう。本人のスレッドを読んだが「ベーシックインカムも整備するので考えは変えない」という。誠に救い難い。

では、なぜ最低賃金以下の労働というのが危険な暴論なのかということを説明して行きたい。すでに分析したように日本は発展途上段階から成熟国段階に入りつつある。だが、発展途上の「稼いで溜め込む」という固定観念から抜け出せていない。そこで成人病のような状態になっているのだと分析した。お金は溜め込むのではなく流す必要があるのだが、誰かが不安から溜め込み始めると「囚人のジレンマ」のような状態になり、社会全体の功利が低下するのである。

具体的には企業が資金を蓄積しすぎており外から新しい価値観が入れられないことが問題になっている。さらに「自分たちの将来は危ういのではないか」という気持ちも持っている。そこで新しいサービスを積極的に受け入れる人たちにお金が回らない。このことでさらに市場が冷え込むという悪循環に陥っている。

例えば日本の企業はオリンピックを支えるために十分な資金を持っている。これをなんらかの形で労働市場に流せば、新しい(一見無駄に見えるだろう)サービスが生まれ、それを享受する人たちも育つ。オリンピックはお祭りであり、こうした無駄が許容される。このようにすれば日本は成熟国のお手本になれるのではないかと考えた。この考えが「無謀」に見えるのは無駄遣いが悪だと思われているからなのだろうが、それならオリンピックのようなお祭りをやるべきではない。さらにみんなはお金を使って欲しいが自分だけは溜め込みたいというのは「囚人のジレンマ状態」を加速させる。みんながお金を流さないのに自分だけは使ってしまうと結局使ったお金が戻ってこないからだ。

このことがよくわかる議論がある。正確には議論の中から抜け落ちているポイントに日本が成長できない理由が隠されていると思う。それが携帯電話である。

菅官房長官が唐突に「携帯電話の料金はもっと下げられる」と言いだした。普段は安倍官邸が何かを言いだすと決まって「反対」の声が出るのだがこの件に関しては反対の声は上がっていないのだが、何か裏があるのではないかと疑う人もいる。

この時期に言いだしたのは消費増税を控えていて「経済への悪影響を減らしたいから」というもっともらしい観測もあるようだがどうも後付めいている。人気があまり上がらずに根強いアンチのいる安倍政権で民衆が騒ぎ出さないように「政治への期待」を高めておきたいという理由があるのではないだろうか。企業をいじめて政府支出がない改革を誘導するという意味では極めて下劣なやり方ではある。実際に菅官房長官の発言で3大キャリアの株価が下がったわけだから訴えられても文句は言えないように思える。擁護論の中には国民から電波という資源を借りているのだから儲けすぎてはいけないという社会主義者のようなことをいう人もいる。普段左派を攻撃しているはずの立場の人が平気でこういうことを書けるのだから、やはり日本人には良心というものがないのだなということがよくわかる。

だが、実際にはこの問題の肝は別のところにあるようだ。携帯電話料金を下げると日本の経済は縮小する。ところが、この「縮小のマインドセット」が日本国中に染み渡っておりこれに反対する人が出てこないのである。

日経新聞は面白いことを書いている。世界では携帯電話会社がコンテンツを提供しており、そのコンテンツを利用する際の通信料を取らなくなっており携帯電話料金だけを比較しても仕方がないというのである。日本人が「携帯電話料金がさがらないかなあ」と思っている時「面白いコンテンツを見ることができないかな」と思っている国もあるのだ。

これは産業が垂直方向に移動していることを意味している。昔は単に移動手段だった車はいつしか何処かに遊びに行くための手段になった。このようにして製造業から始まった産業はいつしかサービス産業化し最終的には遊興などを含めた「コンテンツ」に注目が集まるようになる。タイヤ会社がミシュランガイドを出すようなものである。携帯電話もかつては連絡手段だったのだが、いつしかSNSのような自己表現の場になり今ではテレビのようなコンテンツ産業になりつつある。

日本は「オリンピックのようなどうでもいいイベント」もできなくなっているのかと思う人もいるかもしれないのだが、実はオリンピックが扱えないというのはとても重要なことだ。つまり、楽しみを扱えないということを意味している。だから日本はオリンピックというと「体育館が建てられてひょっとしたら高速道路も伸びてくるかもしれない」ということになる。築地の問題もその典型だ。伝統産業やコンテンツ化した築地をわざわざ高層マンションに変えて自分たちだけで儲けようとしているのだ。

ところが、いやいや長時間働いている日本人はこの「楽しみ」のビジネスをうまく扱えない。とてもそんな余裕がないからだろう。それどころか自分の地位や生活が今後どうなるのか不安で仕方がない。日本はお金持ちの国になったが預金通帳を毎晩取り出しては「明日はどうなっているのかわからない」と震えている国なのである。

つまり、実際にやるべき議論は「携帯電話料金がいくら下げられるのか」という話でも「携帯電話の値段に政府が介入すべきなのか」という話でもない。「どうやったら新世代のプラットフォームを使って新しい商売ができるのか」ということであり「成功した芽を枯らさないように移植して海外に持って行くことができるのか」という議論であろう。ところが消費市場が不安で冷え切っているのでまずそこを温めるところから始めなければならない。

そのためにはまず「今後の生活に不安がなくなる」ということがとても重要である。だから高齢者が働きたいと言ったら最低賃金以上を稼げるようにしなければならないのは当然である。問題になるのはむしろ体調にあった時間で働けることなのだろうが、これは高齢者に限ったことではない。子育て世代でも柔軟な時間設定は促進されるべきである。

ところが玉木雄一郎という議員は「大変だ大変だ」という悲観論にどっぷりはまっている。しかも党としての人望もないため「日本はマインドセットを変えるべきだ」という議論を主導することはできない。

さらに玉木議員は本当は自分は「生産性の高い選ばれた人間である」と思っているのだろう。ベーシックインカムに最低賃金以下の労働を組み合わせるというのは障害者雇用と同じ考え方である。つまり「労働力として早くに立たない半人前の人を企業様に使っていただくには給料を安くするしかない」と高齢者を侮っている。日本にはこうした「生産性神話」があり「障害者もみんなと同じようには働けないのだからせめて社会参加させていたけるように最低賃金以下でも働け」という差別的な法体制がある。これを国会が主導するのは彼らが選民思想をもっているからだ。これは普通でないというレッテルを貼られた人たちに「自分は半人前で生産性がないののだが、社会参加させていたけるなら仕方がない」というスティグマを生み出す。こうした思想を煮詰めて行くと杉田水脈議員のようになる。要するに「普通でない人は生産性がないから大きな顔をせずに世間の片隅で申し訳なさそうに生きて行け」という思想だ。玉木議員はこれを高齢者に広げようと画策しているのである。

こうした性根を持った人は政界から早くいなくなるべきだと思う。国政政党としての国民民主党は消え去る運命なのだろうから別に放置しても構わないと思うのだが、こういう思想を持っている人が国会に議席を持っているということ自体がとても腹立たしい。

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時代にあったオリンピックにするためには参加者に破格の給料を支払うべき

今回は、現代にあった東京オリンピックについて考える。前回のオリンピックは日本が戦後復興の最初のフェイズを終えていよいよ成長過程に乗ろうというときに始まった。このためには海外からの投資が必要だった。東京オリンピックは投資を呼び込むための起爆剤になり、東名高速道路や東海道新幹線などが整備された。今回のオリンピックは成長が一段落して次のフェイズをどうしようというときに行われるオリンピックなので、その姿は前回と大きく異なっているはずである。

結論からいうと、東京オリンピックは些細な仕事をたくさん作り出して破格の給料を支払うオリンピックにすべきである。できれば日本の将来を牽引する職種にお金を支払うべきなのだが、今のおじいさんたちに目利きはできないので、とにかくなんでもいいから仕事を作って給料をばらまくべきである。「成果を気にせずにお金をバラまける」機会はほとんどない。

リベラルあるいはポピュリズムだという非難がありそうだが、実は、経済学的な理由がある。今の日本は努力してこれを成し遂げる必要があるのである。


前回までは石破茂が首相になれないということを起点に日本の立ち位置について考えた。石破茂には日本を成長させるアイディアがない。ただ、アイディアを持っていないのは石破だけではなく、立憲民主党にも、国民民主党にも安倍首相にも成長のアイディアはない。だから「建設的な討論」が起こらない。

そこでなぜ成長がないのかを考えた。まず、成長がある国について観察し「海外からの投資を呼び込む」ことが新しいアイディアの導入につながるのだとした。皮肉なことに海外からの投資を呼び込むということはすなわち国にお金がないということを意味している。そこから考えると日本はお金があるから経済が成長していないという、我々の肌感覚とは全く違った仮説が得られた。

そこで経済の発展段階について調べたところ、被投資国から投資国になるというステップがあることがわかった。だが、発展段階が長いので、投資国がそのまま永続的に投資国でいられるのか、それとも再び成長を初めて被投資国に戻るのかということは必ずしも明らかではないようである。

加えて蓄積したお金は「成人病」を引き起こすことがある。例えば、オランダは資源が発見されたことで通貨の価値が上がり製造業が圧迫された。そこでワークシェアリングを通じて分配政策を見直した。つまり、国が豊かになると、却って経済的な被害を被る地域や階層が出てくるのである。

このことはマクロに仮説ができる。ある大企業に投資を行うセクションと実務を行うセクションがあるとする。成長市場に投資する投資セクションに比べて、成熟市場を相手にする国内セクションの効率や生産性が低いのは当然のことである。企業はこの二つを比べて国内から投資を引き上げてゆく。だから、成熟投資社会では国内の給料が下がるのだ。日本での経済活動が停滞すると税が得られなくなる。企業も国も教育投資をしなくなるので、それでなくても停滞している成長点が壊死してしまうのだろう。

人間は長い間飢餓の時代を生きてきたので「食べ物があったら食べよう」と考える。しかし栄養が過多になると肥満が起こる。肥満は運動不足と結構の停滞を起こす。日本はどうやら豊かになったことで同じ状態に陥っているのではないだろうか。

だからなんらかの機会を作って企業が蓄えた資金を放出しなければならない。とはいえ資本主義国では政府が強制して企業に出資させることなどできないのだから、このような祝祭を積極的に利用すべきなのだ。

つまり日本は「少し痩せる必要があり、オリンピックはその良い機会である」と言える。国内に給与が行き渡れば消費は活発になる。老人ではなく現役世代が消費を活発にすれば、それが探索活動となり次世代につながる成長点が探索される。

前回のオリンピックでは「壊れたものの修復も終わったし、空腹もなんとかなってきたので、さあこれから稼ぐぞ」というオリンピックだった。だから、オリンピックは海外からの投資を呼び込むためのきっかけとして利用された。だが、今回はフェイズが違っているので、同じことをやろうとしてもうまく行かないのは当然である。

現在の日本は紆余曲折はあったものの、これまでの働きが実を結びそれなりの成果が出たというフェイズに入っている。普段から社会のネガティブな問題にばかり着目しているのでとてもそうは思えないかもしれないのだが、当時最先端だった「平和主義」や「自由通商」というイデオロギーをいち早く取り入れて繁栄することができたという感謝を世界に向けて示すべきではないかと思う。

オリンピックは経済学的に見てもその配当を国民に配る機会にすべきなのである。

だが実際には、ボランティアの募集に支障が出るから夏休みに授業はするなとか、会場にエアコンがつけられないとか、銀メダルに使う銀が足りないというような「けち臭い」話に終始している。これは内部留保をためて成人病になった企業のメンタリティが飢餓の時代のままであることを示している。だが、このまま飢餓の思い出に支配されたまま太り続けると「あなた死にますよ」とみんなが言ってやらなければならない。

今の日本に足りないものがお金ではないというのは明白である。市場にいくらお金を流しても使ってくれる人がいないのが問題なのだ。ここはお願いをして「お金を使ってもらう」べきだということになる。ボランティアではなく、個人単位のプロジェクトにお金を使うようなれば、日本型のオリンピックは先行国モデルとして今後のよい手本になるだろう。残すのは時代遅れのサマータイムや箱物などの「レガシー」ではなく、次世代の「才能」であるべきなのだ。

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おじいさんの国日本はその後どうなるのか

先日来、石破茂が首相になれないという現象を起点にして、日本は成長しない国になったということを観察した。日本人はこれを受け止めて「諦める必要がある」というのが最終的な結論だった。つまり、一生懸命に労働することが素晴らしいという価値観を諦めるか、それでも頑張りたい人は韓国のような先進発展途上国に行くべきだと提案した。

アンチの人があまりこのブログを読むことはないだろうが、これをTwitterなどで主張すれば「自虐史観だ」と攻撃される可能性がある。日本人がダメな民族だからこうなったと捉えられかねないからである。だが、この現象はある程度普遍的に起き得るのではないかと考えた。つまり、韓国が優秀だから成長しているわけでも日本がダメだから成長しないわけでもないのではないかと思う。

これについて考えられる良いモデルはないかと探してみることにした。韓国が「お金集め」を動機にして新しい価値観を受け入れていることを観察したので、日本の対外債務に着目した。なお一言で「成長」といってもその方式は一様ではない。かつての大英帝国のように経済圏を拡大して成長を目指す国もあるし、イノベーションでも成長は起こる。

日本は海外にお金を貸す債権国になっている。このため新しい価値観や技術を受け入れて成長する動機がない。自前でなんとかなってしまうからである。だが、国内に投資機会もないので地方は潤わない。そして若い人たちが学習してもそれを活かせる場所もない。つまり格差が固定化される。この記事を書いている時に、日本では博士号や修士号を持つ人たちが少なくなっているという毎日新聞の記事が話題になった。先進国では一人負けなのだそうだが、未来に投資をしなくなったのは日本が老齢化しているからだろう。

そこでいろいろ検索してみると「成熟した債権国」とか「未成熟の債権国」という議論があることがわかった。どうも「国際収支発展段階説」というモデルがあるらしい。この中で日本がどの段階に入るのかということが話題になっているようである。2014年に日本は「成熟した債権国」に入ったという話を見つけた。いろいろな説があるようだが、バブル崩壊と同時に未成熟な債権国になり、リーマンショックあたりで成熟した債権国になったという説をいくつか見つけた。

その一方で、安倍政権時期に入ってから純資産は減少している。これは取り崩しを意味するので「再建取り崩し国」になっている可能性もあるし、円の価値が減少したことによる一時的な現象なのかもしれない。

日本は債権国であるという事実を取り出して「政府がいくら国から借金をしても大丈夫なのだ」という人がいるが、それとこれとは別の議論なのだそうだ。

日本が長く成熟した債権国でい続けるためには投資スキルを獲得して「賢い運用」を心がける必要がある。しかしこの状態を永遠に続けるわけには行かない。その時に「次の段階」にはいるわけだが、その時にはまた新しい飯の種が必要になる。この記事ではアメリカは先行してこの段階に入っていると言っている。アメリカはシェールガスの輸出国になりつつある。

昔稼いだお金の利子でやって行けると聞くと良いことばかりのようだが、今の日本を見ているとそうでないことがわかる。実経済に対する意欲が失われてしまうからである。お金持ちになると人は堕落する。かつて、オランダ病と言われる状態があった。天然資源を輸出するだけで外貨が稼げてしまうので実態経済が停滞したという現象である。ノルウェーのようにこれを未然に防いだ国もある。国が資金を管理して未来への投資に優先的に割り当てるのである。ちなみにオランダではオランダ病が克服できず最終的に「ワークシェアリングで痛みを分かち合う」という合意がなされるまで不況が続いた。Wikipediaのワッセナー合意のエントリーに詳しい説明がある。オランダがこの病気を克服できたのは民主主義が発展していたからである。もともとスペインの植民地から独立したオランダは自治の歴史が長かった。アフリカの国の中には天然資源をめぐって争いや政治腐敗が横行して成長の階段から転げ落ちてしまう国が多い。

中国はまた別のやり方をしている。彼らも海外債務を持っている債権国なのだが一帯一路政策をとり海外への投資をしている。つまり独裁を強化して強いリーダーシップを生み出し生き金を使うことで段階が成熟することを防いでいる。中国は国内投資が一段落したのでこれを海外展開しようとしているのだろう。しかし、このやり方は先進国とあまりにも違いすぎており、やがて「文明の衝突」を引き起こす可能性があるのではないかと思われる。

あまり投資に慣れていない日本人は貯まった金の使い方がよくわからないのだが、中国人は本能的に金が溜まりすぎると経済活動が停滞するということ知っているのかもしれない。この記事によるとこのため中国は「債務国」の段階にとどまっている。前回韓国の例を見たのだが、債務国の企業は海外投資を呼び込んで積極的にビジネス展開するので活力が失われない。つまり日本は老齢化により「取り崩し」段階に入りつつあるが、中国は時計の針を遅らせることで債権国になることを防いでいるのだとも言える。日本はオランダのように通貨高にはならなかったのだが(一説には人工的に抑えているとも言われている)がそれでも経済が老化し始めているのである。

ドイツも債権国なのだが、このPDFを見るとこれまでは移民が賃金を周辺国に還流させることと観光によってドイツ人がお金を使うことで黒字を減らしてきたようである。しかしこの流れは滞りつつあり「ドイツの一人勝ち」が生まれている。これはドイツにとって良いことのようだが、周辺国の不満を生んでいる。また急速に移民がなだれ込むことにより「極右」にラベリングされる政党が伸長し民主主義に危機が生まれている。だが、本当の問題は債権国状態が恒常化することにより、結果的に経済が「おじいちゃん」になることなのかもしれない。まだその兆候は現れておらず今後を注目したい。

ここまでを見る限り「成熟した債権国」でい続けることはあまりいいことではないようだ。カネ余りは成人病のような状態を作り出すからである。日本では未来と地方をしめころしつつある。現在の日本は国内に投資できる機会が減っている。このため地元経済や子育て世代にはお金は回らない。しかし企業はお金を抱えていて海外への投資を行っている。地元経済や子育てにお金が回らないので政府は借金をしてその穴埋めをしているという状態になっている。

新しい人たちや周辺部にチャンスがないので、結果的に経済がシュリンクしてしまうのだ。このままでは新しい経済段階を登り始める前に肝心の成長点が国から消えてしまっているということになりかねない。我々は構わないのだが子孫にたいへんにハンディを負わせることになるだろう。

やがてはまた新しい発展段階を登り始めるのだが、その前にとても子供を育てられる環境ではなくなり大学教育が根本から破壊されている可能性もある。そうなれば国としては終了である。数世代ののちに蓄えを使いつぶした後でどこかの国に吸収されることになる。そうならないようにするためには、まず政治家が現状を冷静に見極めた上で対策を講じる必要がある。アメリカのように新しい資源が発見されるということがないのなら、投資で集まったお金を優先的に未来や地方に投資するか、経済圏獲得のために外国に積極的に投資して権益を確保するというやり方があるのではないかと思うのだが、他にも方法はあるのかもしれない。

自民党の安倍氏・石破氏によると日本の最優先課題は憲法第9条を変えて70年以上前の清算をすることのようだ。確かに大切な課題なのだが、実際にはバブル期以降経済のフェイズが2つか3つ進んでおりまずその対応を急ぐ必要がありそうである。だが自民党には選挙対策本部はあっても経済シンクタンクはなくビジョネアーもいないので、国の方針を決める議論ができない。かつては中央省庁がこの役割を担っていたのだろうが、今では霞ヶ関で村を形成しており国全体のビジョンを策定する能力を持った人はいないのかもしれない。

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