森友事件に忖度などなかったのではないだろうか

さて、先日面白いTwitterのまとめをみた。森友学園事件で籠池理事長が外国人特派員協会に招かれた。そこで忖度という言葉が訳せず、そのままSONTAKUと訳されて報じられたというような筋だ。最初に書こうと思ったのは「日本は集団主義で主語が曖昧だから忖度のような独自概念が生まれる」というような内容だったのだが、ちょっと頭の中で転がしていて「そもそも忖度なんてなかったのでは」と思い始めた。
忖度とはある人が別の人の気持ちを汲み取って行動することを意味するので、直訳するとReading between the lineということになる。こうした表現は英語にもあり、実際に外資系では忖度が行われることもある。マネージャーが部下を雇うのでマネージャーに嫌われるとクビになってしまう可能性があり、日本よりもシビアな忖度が行われる。普通のアメリカは個人主義文化なのでボスはなんらかの手段で基本的なルールを示しているはずだが、イタリアマフィアのように集団主義が進むとこれが薄まるので、普通のアメリカ人はsontaku is yakuza’s ruleのように捉えるはずである。
日本で忖度が行われるのは周りの人々が同じ空気を共有しているからだ。つまり忖度の裏側には、長年非言語的に蓄積された経験とか共有された人間関係の認識などがある。超能力者でもない限り人の心は読めないわけで、暗黙知の共有度合いが高いほど「類推があたる」可能性が高くなるわけだ。つまり忖度は暗黙知的なコミュニケションが円滑に行われているということを意味する。
あるいは安倍首相は日本会議からの支持を期待して日本会議の主張を具現化するような教育に肩入れしていた可能性もある。これは、expectationとdealであり、その場合は官僚になんらかのプレッシャーをかけていた可能性がある。これは忖度ではなく不当な指示であり英訳には困らないし、忖度のような非言語的な一体感で不可解さを説明する必要はない。
だが、森友事件の場合、籠池理事長との関係が露呈すると安倍首相はその関係を切り捨ててしまった。また森友夫妻も「神風が吹いた」とか「素人がわからないまま政治に関与すべきではない」というようなことを言っており「よくわからないけど官僚の態度が変わったので、だれか有力な先生がなにかしてくれたんだろう」という感触を持っていたことがうかがえる
少なくとも安倍首相にはそれほどの思い入れがなかったことが想像できるので、官僚は(暴走する昭恵夫人や安倍首相との関係を騙る籠池理事長のせいで)勝手に誤解していたこととなる。もし官僚がちゃんと忖度できていたとしたら、このような危険な(少なくとも財政上は破綻する可能性が高かった)ディールには肩入れしないように安倍首相と夫人に報告できていたはずだ。
安倍首相は人事権を握り官僚を恫喝しているので、官僚との間にコミュニケーション上のディスコネクションができていたことが想像できる。するとこれは忖度ではなくディスコネクションの問題ということになり、これも英訳可能である。小池晃議員は「指示もないのに勝手にやったってことになるんですか」と質問しているのだが「そうだった」ということになる。
背景がわからない外人に説明しようとすると説明不能な箇所がいくつもでてきてしまうのは、我々が実はこの問題がわかっているつもりになっているが、本当はなにが起きたのかよくわかっていないということを意味する。すると不協和が発生するので「官邸と官僚が阿吽の呼吸でなにかしたにちがいない」というブラックボックスをおいて、不協和を解消しているだけということになってしまう。それが忖度なのだ。
それを助長しているのは実は情報を秘匿している官邸サイドなのだが、多分彼らはそれに気がついていないだろうし、気がついていても引き返せないほど騒ぎが大きくなってしまっている。
つまり、外人に向かって「日本人にはお前たちがわからない複雑なコミュニケーション様式があるんだよ」などと考えてしまうと、却ってことの本質がわからなくなる。官邸と官僚組織の間には、お互いのことがよくわかっていて忖度できる関係ができていたわけではなく、Because of Abe’s poor communication skill, beaurocrats misunderstood his will and lost their mindあたりが正しいのではないだろうか。つまり、忖度などなかったのだ。
背景には安倍首相の一貫しない指示があるのではないかと思う。民主主義を尊重して中国に対抗すると言ってみたり、日本を戦前の価値観に戻すと言ったりしている。すると周りにいる人々は安倍首相の意思を合理的には読み込めなくなるので、籠池さんのような気違いじみた教育理念を持った人が近づいてきても「あるいはそういう人に肩入れしているかもしれないなあ」などと考えて、不当な土地の値引きなどをやってしまうのかもしれない。考えてみれば国民に人権があるのはおかしいといい、国会で私人を吊るしあげようというきちがいじみた人が国会議員をやっているのだから、そう考えてもなんら不思議はない。彼ら日本会議系の国会議員は普段から官僚を恫喝しているのだろう。
つまり野党が心配すべきなのは忖度できるほどの濃密な関係ではなく、寸断されたコミュニケーションなのではないだろうか。つまり、安倍首相は官僚機構をコントロールできなくなっている可能性が高いのだ。つまり「忖度がなかった」ということを証明するのは安倍首相を支持するものではなく、逆に総理としての資格がないということを証明することになるのだ。

安倍首相と籠池理事長に学ぶ危機管理

両陣営に別れた議論はいろいろあると思うので、できるだけニュートラルな立場から、国会での籠池理事長の吊るし上げと安倍首相の危機管理能力について考えたい。この件で、安倍官邸はいくつかの明確な間違いを犯しているからだ。反安倍人たちは安倍政権のグダグダぶりについて再確認できるが、安倍首相を支持される方も、組織の危機管理についての洞察が得られる。
もともとこの話は土地の不正取得の件が問題になっている。しかし、籠池さんとの関係を保ったまま「関係はあるが違法行為はない」といえば終わっていた程度の問題だった。だが、安倍首相のちょっとした行動の間違いから大炎上してしまった。この意味では安倍支持派の言っていることは正しい。忖度は犯罪ではないし、忖度を問題にしている限りは野党は何もできなかったはずだ。ちなみに蓮舫さんの認識はこの程度だった。


第一に、安倍昭恵さんがセキュリティホールになっていたことは明確だ。安倍首相は夫人をコンロールできていない可能性がある。夫人は私人か公人か曖昧な上に政府の情報にアクセスしている。だが、安倍昭恵さんは安倍晋三さんと暮らしているので「黙らせる」ことができる。まずかったのは野党の追及を恐れてつい「私人である」と閣議決定してしまった点だろう。すると私人が国家公務員を私物化して調査させているという議論が成り立ってしまうのだ。正直が一番の策であるという点も忘れられている。これは倫理的な問題ではなく自由度が増すからだ。文脈をコントロールできないのにストーリーを作ると選択肢が限られてゆく。


それでもいったん秘密にしたのだから、なんとしてでも隠し通す必要があった。
そもそも安倍首相は籠池一家を嫌いだったようだ。だから関係そのものを隠そうとしたのだろう。安倍首相が健全な支持者に囲まれていたならこうような胡散臭い危険な人と付き合う必要はなかったといえ、安倍首相と夫人は大変危険なゲームを行っていたといえるだろう。夫妻はどちらも良家の子女であって、こうした人たちと対抗するような喧嘩のスキルはなかったはずである。なぜ、表沙汰になると困るような人たちと付き合っていたのだろう。
安倍首相は朝日新聞の報道を受けて騒ぎが始まってから籠池理事長とのコミュニケーションラインを「こんな人は知らない」と言って一方的に断ち切ってしまった。もともとあまり親密でなかった関係を断ち切ってしまったことで、その後籠池理事長は疑心暗鬼になり、もともとセキュリティーホールであるうかつな安倍昭恵さん経由でつながっているにすぎず、安倍側から籠池理事長がどのような行動に出るかがわからなくなった。
加えて安倍首相は「関係や介入があれば首相をやめる」とまで言い切ってしまった。ここで野党は「籠池さんの関係を証明さえすれば、安倍さんは辞めてくれるんだ」と受け取ってしまった。しかも、部下である議員たちは安倍首相や昭恵夫人から詳細な情報を取れなくなった。詳細に話が聞けたなら、もう少し具体的な反論ができたはずだが「ない」という前提のために詳細な話が聞けなかったのだろう。西田議員は「夫人から直接話を聞いた」と言っているようだが、長い時間をかけても籠池さんの人格否定と「ここで嘘をつくと偽証罪になるんだぞ」という恫喝だけしかできなかった。これは不遜な印象を与えるだけでなく、攻撃材料がない(つまり具体的なことを聴取できていない)ということを露呈してしまっている。
本来なら籠池理事長の人格を貶めてしまえば「あの人の話は信頼できない」となって終わったかもしれないが、もともと怪しい人物にもかかわらず証言の一つひとつが妙に具体的なのでひょっとしたら真実が含まれているのではないかというような印象になっている。なぜこんなことが起こるかというと事前に籠池さんの人格を貶める印象操作をやっていたからだ。印象操作が裏切られてしまうと逆に「あれ、話と違う」という疑念が生まれるのである。
自民党側は「お金がないのになぜ学校を建てられたのか」とか「安倍首相の名前を騙って寄付金詐欺をしているのでは」などと攻撃しているのだが、それは公知であり特に驚きはない。「であればどうしてそんな人たちに学校の認可を与えたのか」という反論になる。これはそもそも籠池さんに聞くべき問題ではない。これが最後の問題だ。つまり、自民党の議員にはそもそも質問を組み立てる能力がないのだ。維新の党も質問ができずに籠池さんを恫喝していた。
なぜこんなことが起こったのだろうか。普段は無茶苦茶な官邸のリクエストを官僚が寄ってたかってサポートしているのだろう。しかし今回は官僚が疑われているので籠池さんの追求に加われなかったのではないか。もし追求に加わろうとすれば当事者に話を聞く必要がある。しかし忖度はなかったことになっているので当事者から話が聞けなかったのだ。
今回質問に加わったディフェンダーの国会議員は民主主義の基礎さえ理解していない。これは偶然ではなく関係者(西田、葉梨、下地)は日本会議国会議員懇談会の所属なのだ。つまり、国会議員は官僚のサポートなしにはまともな質問さえできず、民主主義や人権を軽視しているということが露見してしまった。つまり日本会議から脱会した人を日本会議の人が公開で恫喝するという宗教裁判のがあの数時間の正体なのである。
安倍政権には安倍首相のコミュニケーション下手という大きな欠点があるのだが、つまり安倍首相が部下や周辺に規範を示すことができなくなっているということがわかる。私人である夫人が国有地の売却に関与し、官僚は首相の顔色を伺って国有地を不公平に払い下げている。さらに日本会議は国会を使って背教者を晒し者にしている。これらはすべて私物化である。国民は政治には関心がなく、この脆弱性は放置されるだろうから、安倍政権そのものが日本の危機管理上の弱点であるという結論が得られる。
 

自民党が籠池理事長らの参考人招致なんかできるはずがないだろうと思う訳

Twiterでは安倍首相が疑念を持たれないためには籠池理事長を参考人招致すべきだという声がある。しかしそれは無理だと思う。そんなことをしたら自民党そのものの自己否定になってしまうからだ。
自民党はある意味宗教政党だ。明文化された教義はない。では自民党は何を崇拝しているのだろうか。これをテレビやソーシャルメディアで知るのは難しいのではないだろうか。
ちょっと前に地元の市議会議員に話を聞きに行ったことがある。自民党の現役の先生は相手してくれなかったのだが、先代が話をしてくれた。きっと暇だったのだろう。千葉市は東京圏から家を求めてやってきた人に土地を売って潤った歴史があり、不動産売買は政治家の大きな利権だった。
それでも売れ残るような評価額が低い土地は市に買い取らせた。例えばゴミ処理場とかモノレールの基地などは浸水しやすい場所にある。もともと地元の人たちは高台に住んでいて、川沿いの田んぼに耕作にでかけていた。火山灰が降り積もってできた土地なので、水に削られた谷があるのだ。そこを造成して住宅地にした上で「〜台」という名前をつけて売るのだが、それでも浸水するところが出てくる。公共工事で治水対策をし、それでもどうしようもないところはできるだけ高い金で市に買わせるのだ。「いかに知恵を絞って高く土地を買い取らせるかが腕の見せどころだった」そうである。
先代はこれを「自慢げに」話していた。高度経済成長期なので国や地方自治体にはお金があり、人口も増えていたので将来の税収に困ることもなかった。自民党はイデオロギーベースの政党ではなく既得権を持った利権集団の集まりなのでこういうことが「自慢」になるのだろう。おじさんがバブルを自慢するのと同じようなメンタリティなのかもしれない。
つまり、自民党の宗教は高度経済成長だったということになる。
こうしたマインドセットはその後も変わらなかった。民主党が政権を取り「公共事業はいけないことだ」という雰囲気になった時にも、自民党の人は、みな判で押したように「公共事業にはいい公共事業もある」などと言っていた。その調子は「政治なんか知らない素人のあんたに教えてやろう」というような調子だった。同じような顔の人をソルトレイクシティで見たことがある。モルモン教徒の人も「お前は無知だから神の道を知らないのだ」と言っていた。
かつての成功を懐かしむ気持ちもなんとなくわからなくもないのだが、自民党が推していた市長が収賄容疑で逮捕された時期だった。それでも公共事業と土地を回して潤うことを否定されるのが許せなかったのだろう。土地への強い執着がわかる。
そう考えると、森友学園が自民党議員に働きかけて土地を安く手に入れるなどということは、別に今までもあったことなのだろう。そもそも土地の取得に違法性がないということからわかるように、いろいろな制度は自民党に都合よく作られているはずだし、そこから政治家にキックバックするというのもそれほど珍しいことではないのではないだろうか。
森友学園の話を「倫理的でない」とか「違法ではないが不適当」と認めることは、共産党がマルクスが間違っていたと認めるのと同じようなものだ。これに群がっておいしい思いをした人もいるはずで、つまり国民も一方的に犠牲者とは言えないということになる。
だが、これはかなり悲劇的な状況だ。自民党はもともと高度経済成長期に最適化した政党なのだから、その存在意義も失われたということだ。そこで新しい教義を作ろうとした結果が戦前回帰だったのだ。既存の高度経済成長という宗教に取って代わったのが森友学園に代表される狂った宗教だ。
しかし、自民党だけを責める訳にも行かない。そもそも日本そのものが高度経済成長に代わる価値を見つけることができなかった。だからいまだにありもしない教義にしがみつかざるをえない。民主党は自民党の公共事業という宗教を否定したが、それに代わる宗教を見つけられなかった。いまだに原発のない国という宗教を教義に加えるかどうかで逡巡しているようだ。
それでは新しく自民党が見つけた宗教は何なのだろうか。それは「公」を語りつつ人々を従わせて搾取するというのがその教義だ。
政府の言い分では「学校は公共性が高いから」という理由で土地売却を急いだということになっているが、実際には国有財産の私物化と個人的な滅茶苦茶な価値の押し付けを「公共性が高い」と堂々と宣言しているにすぎない。かつての古い自民党が公共事業を推進していた時には、曲がりなりにも地域が発展するという名目があった訳だが、自民党の考える「公」はここまで劣化した。自民党は新しい憲法でこの「公」が個人の人権を凌駕すると言っているのだが、彼らが言う「公」とは実際には仲間内の利益でしかないわけで、その意味でも「国家の略奪」を堂々と宣言していることになる。
それでも日本人は民主党の失敗を懲りており「まがい物でもいいから宗教に頼って生きていたい」と考えているのだろう。

アッキード事件と議事録

瑞穂の国安倍晋三記念小学院を扱ったいわゆるアッキード事件で不思議なことがある。なぜ守るほうも責めるほうも「議事録」をそんなに気にするのだろうか。
議事録がないと誰が何を決めたかが分からないということは、意思決定が集団で行われているということを意味する。だから議事録がないと誰が売却価格を設定したのかということが分からないのだ。
だが誰かが何かを決めたのは明白だ。同じ価値の土地が豊中市に高値で売却されており、なおかつ地下埋設物の撤去費用は豊中市が支払っているので、森友学園側に有利な計らいがあったことは明らかなのだ。
当初このことを考えたとき「西洋流のジョブディスクリプションが決まっていないから議事録でことの経緯を追うしかないのだろう」と考えたのだが、役所なのでジョブディスクリプションはしっかり決まっているはずだ。
つまり、集団の中でなんとなく物事が決まってゆくというのは実は普通のことではない。プロセスは法律で厳格にで決められており、責任者が何重にも管理しているはずの組織だ。しかし、そこまでやっても誰が何を決めているのか分からないわけで、日本人の意思決定の強い癖が分かる。
官僚システムは「誰も責任を取らない」。官僚は普段は法律で決まったことしかやらないと言い張ることで責任を取ることを回避している。しかし、法律がすべてを想定できるわけではないので、想定外のことが起こると外部からプレッシャーがかかり、責任を分散させて「なんとなく」物事を決めてしまうのかもしれない。
国会は形式が遵守されなかったことを問題にしているのだが、もし本当に役人が法律できまったことしかやらなくなれば役所は全く何の仕事もしなくなってしまうだろう。そこで「責任を取るから」と介入するのが国会議員の仕事になっている。その国会議員たちが「役所が決まったことを逸脱した」と騒いでいるのだから救いようがない。
なぜこうしたことが起こるかというと日本人が絶対に「個人に権限を渡して任せるが、何かあれば説明してもらうし責任を取ってもらう」ことをやらないからだ。。一方で中にいる人も責任を取らされる立場には立ちたくないので、このような環境を甘んじて受け入れてしまうことになるのかもしれない。
だが、森友の件にしても豊洲の問題にしても「大事なことがなんとなく決まってしまい、あとで大騒ぎになる」という事例が散見される。
森友の件は「安倍を追い落とせ」とか「そのうち沈静化してサヨクが悔しがって飯ウマ」などというように語られているのだが、実際にはもっと深刻なことが起きているのではないだろうか。
官僚は「いざというときには政治家が責任を取ってくれるから」という理由で情報を上げたりいうことを聞いてやったしているわけだが、実際には最近の政治家は責任も取らないしいざとなったら逃げ出してしまう。すると政治家には利用価値がないわけだ。いうことを聞いてやる理由はなく、そのまま機能不全に陥ってしまうことになるだろう。
気になるのは、こうした「責任を取らない」政治家が増えているという点だ。組織が肥大化するとドメインが固まるので、そこに手を突っ込んでこない人が好まれるのだろう。適当に祭り上げていれば気持ちよくおみこしに乗ってくれるような人たちだ。
だがおみこしに乗ってくれるような人たちは責任も取ってくれない。何か問題が起こると、膨大な時間をかけて「誰が責任を取るべきか」という追求が始まり、その間必要な議論はすべてとまってしまう。
しかし、時間をかけて追求しても実際には明確な責任者がいないままでなんとなく物事が決まったということが分かるだけなのかもしれない。これは第二次世界大戦への参戦を決めた責任者が誰もいないというのと同じことだ。
とういことはつまり「結果責任を取らせる」という方法を取るのがよいのではと思う。フェアでない裁定が分かれば、政治家の関与などを一切考慮せず、ジョブディスクリプション上の責任者を裁いてしまうのだ。GHQは議事録を見て「戦争はなんとなく決まったんだね。仕方なかったね」などとは言わなかったわけで、フォーマリティだけを問題にするなら、それを徹底すべきだろう。
つまり見せしめにして再発防止を図れということだが、本当にこれしか責任をとらせる方法がないだとしたら情けない気持ちになる。

ショッカーはなぜ幼稚園バスを襲うのか

大学生のころサークルでよく聞く冗談に「世界征服を狙うはずのショッカーはなぜわざわざ幼稚園バスから始めるのはなぜかか」というものがあった。この答えは簡単で、子供向けの番組なので、ターゲット層にとって切実な問題を扱ったからなのだろう。
だが、よく考えると世界征服のために洗脳しやすい子供から始めるショッカーの作戦にはある程度の妥当性がある。だが、ショッカーの幼稚園に子供を通わせる親はいないからショッカーは幼稚園バスを襲うしかないのだ。
さて、そんなことを考えたのは、瑞穂の国安倍晋三記念小学校の件が政治的な大騒ぎになっているからだ。森友学園は幼稚園児を洗脳し次には小学生を洗脳しようとしていた。いわばショッカーが幼稚園を経営していたようなものだ。
そこで問題になるのは親がショッカーと分かって子供を通わせていたかそうでないかという点なのだが、今のところは「分からなかった」ということになっているようだ。ただしいろいろとおかしな兆候はあったようであり、全く気がつかなかったといういいわけも立ちにくい。
保護者たちは必ずしも愛国的教育にシンパシーを感じていたわけではなく「そこしかいくところがなかった」という親もいるそうだ。もし、近くにもっとよい幼稚園があればこのような幼稚園に子供を通わせる親はいなかっただろう。
ここで新しい疑問が沸いてくる。なぜ他の教育機関は稚園を作らなかったのだろうか。ここで、幼稚園とか小学校とかは面倒な事業になっており、まともな企業は手を出したがらないのではないかという可能性が見えてくるのだ。
学校に「洗脳」という側面があるというのは疑いようのない事実だ。例えばミッション系の学校はキリスト教を広めるために非キリスト教地域に作られる学校を意味するし、民主主義を学校から広めるのも「洗脳」と言えなくはない。ただし、善い考えは押し付けるものではなく「内面からよいと信じさせる」ものであるべきである。
今回の森友騒動(一部では疑獄と呼ばれているようだが)は安倍首相が「もし土地の斡旋に関与してたら俺は辞めてやる」などと口走ったおかげで「首相夫人を証人喚問しろ」とか「検察でてこい」みたいな話になっている。だがそれだけが問題なのだろうか。
教育というものに情熱を持つ人がいなくなっており」「変な政治的主張を展開するため」か「補助金を食いつぶすため」か「将来土地を高値で転売するため」だけに教育機関を作るような人たちしか残っていない末に生じた問題だと考えると、大分見方が変わってくる。
つまりショッカーが問題なのではなく、ショッカーくらいしか学校や幼稚園を作らなくなった(つまり誰かを支配したいという病的な欲求を持った人たちしか教育に興味がなくなった)世界だということになり、われわれ側の問題になってしまう。さらにこの問題は有毒物質の存在を政府が隠蔽したのではないかという疑念も呼んでいる。もし掘り返して何かが出てきたとなると、政府が知っていながら子供を危険にさらしたことになってしまうのだ。
言い古された言い方なのだが、日本にはたいした資源がなく、もう人的資源くらいしか未来を託することができるものはない。だから社会が子供を育てるのだというのはおおむねコンセンサスとして受け入れられてきた。そんな国で誰も教育に情熱を傾けなくなったとしたら、国には何が残るのだろうか。
保育園にいたっては、企業もお金を出したくないし、保護者もお金を出せないというような状況になっているようだ。給料も出せないので保育園を作ることすらできない。
高度経済成長期のショッカーは幼稚園を経営できないので幼稚園バスを襲うのだが、もしショッカーしか幼稚園を経営する意欲がないような世界ができてしまったら仮面ライダーも手の施しようがないのではないだろうか。
意外とそんな情けない社会になってしまっているのかもしれない。

安倍晋三の悪い友達と大阪の荒廃

昨日の国会は森友学園祭りだった。大阪に新しく作られるという「安倍晋三」小学校がかなりめちゃくちゃなことになっていたからだ。Twitterから流れてくる話をまじめに読んでいると気分が悪くなる。
政治家が介入しないとあんなに不自然な取引は行われないはずだという声があるのだが、もしかしたらそういう話でもないかもしれない。NHKは安倍首相が「勝手に名前を使われて迷惑している」と態度を表明してからおずおずとこの件について報道しはじめた。それまでは「森友学園は支持者だ」などと言っていたので「なんか触るとやばいんじゃないか」と考えて調査していなかったのだろう。NHKは報道機関という名前を広報機関に変更したほうがよいと思うが、直接働きかけを受けたというよりも「官邸に脅されたらやばいな」と思っていたのかもしれない。
つまり官邸は、普段からやくざまがいの恫喝を行っていたことがわかるのだが、「森友学園」という安倍首相のお友達もかなりのタマだったようだ。俺のバックには首相がいるんだぞと嘯(うそぶ)きながら、土地を借り、それを原資にして各種補助金を引き出していた。途中から「ごみが出てきている」と難癖をつけて安い価格で土地を買い叩いた。政治家の斡旋があったかどうかは各機関が調査すればいいと思うのだが、本当に斡旋はなく「やばい人みたいだけど首相ににらまれたら厄介だから」と考えて言いなりになった可能性もある。「もう土地は要らないから後から難癖をつけてこないでね」という契約になっているようだ。
森友学園は安倍首相のお友達だ。安倍さんがおなかを壊して首相を辞めてから年寄りしか読まない右翼系の雑誌で「安倍さんが悪いんじゃなく、安倍さんを否定した世間が悪いんだ」などと盛り上げていた。「見かけは不良なのだが実はいいやつ」という評価なのだろう。しかしやっていることは怪しかったので、自分は合おうとせず奥さんをお使いに出していた。最終的には「私は知りません」と言えるからだ。安倍さんの国会でのあわてぶりをみていると「予想はしていたんだろうなあ」と思えてくる。
しかし安倍首相の愉快なお友達は「ワシは安倍首相と友達やねんで」と雑誌などで吹聴し、寄付金を集めていた。民進党が調査したところでは、森友にはお金がなく、当局もそれを知っていたようだ。そもそも学校が作れるかどうかすら怪しい団体だったのだ。
このように学校を補助金ビジネスにしようとしていた森友だが、運営している幼稚園はさらにひどかった。教育勅語を暗唱させ……などと言われていたが、実際には「右翼コスプレ」だったようだ。天皇・皇后の写真がぞんざいに飾られていて敬意などなかったのではという記事があった。
また「中国韓国に謝罪させるぞ」と幼稚園児に宣言させる一方で、子供がトイレに行かせるのが面倒なので時間にならないとトイレにいかせなかったそうである。汚物に腹を立てて子供のバッグにお弁当箱と一緒に突っ込んでいたそうだ。さらに、汚染物質が出てくるといっていた土も「お金がないから」という理由で敷地に埋め戻していたそうである。子供が遊ぶ土地だからきれいにしてやろうという気持ちは一切なかったようだ。
つまり子供は彼らの政治的な主張を刷り込む道具であって、子供の世話なんかどうでもよかったということになる。
ではさぞかし複雑な政治的主張があるかといえばそういうわけでもない。「中国と韓国はダメ」というような全く中身がないもので、中には「コーラは韓国人が飲むものだからダメ」というようなものもあったようだ。この理屈だとアメリカ人は韓国人ということになってしまう。
つまり「現在の愛国主義者」というのは俺の言うことを聞かせるための道具として天皇の権威や子供を利用するだけの人ということになる。安倍首相はそういうやばい人たちを「でも俺のファンだからだなあ(永田町用語では「私の考え方に非常に共鳴している方」)」といって放置していた。いつもマスコミや役所を恫喝していたので「安倍のお友達」を放置していた。
さて、ここまでは「森友学園ってひどいね」という話だがもう一つ驚いたことがある。かなりひどいことが知られていた塚本幼稚園だが「淀川区にはほかに通わせる幼稚園がない」という理由で通わせていた親が一定数いたそうだ。市立幼稚園がない地域もあるという。
さすがに「幼稚園がまったくない区」というのは関東圏では考えられないような気がする。淀川区がどんな地域かは知らないが、よほどの貧困が進んでいるのだろう。維新の党は国会でも全く中身のない質問を繰り広げているが、経済が荒廃するとこういう人たちが沸いてくるのだ。
もともと大阪は政治に信頼感がなく昔からテレビタレントなどを市長や府知事にしていた。これが貧困を生み、貧困がさらに中身のない政治家を増殖させるという構図があるのかもしれない。これを「日本の大阪化」と呼びたい。
日本が大阪化すれば憲法レベルで森友学園みたいな存在を容認することになるかもしれない。当然子供は単なる道具のように使われることになる。国家レベルで推進しなければならない事業なんかあるわけはないので、国の私物化が始まるのだろう。

瑞穂の國記念小學院とファストファッション

今日は日本人とファッションについて観察している。個人的に興味があり別ブログを立ち上げたからだ。だが、ここのブログの読者はもっと「大きな物\語」が好みだと思うので、なぜネトウヨが増えたのかというところに着地させたい。
こじ付けだと思われるのだろうが、意外と共通点も多い。これは偶然ではなく、日本人の文化受容についてみているからだ。最近のファッションはユニクロ化している。楽でお求め安い服だ。現在「ネトウヨ」と呼ばれる思考形態はファストファッションに似ているといえる。
現在のアパレル業界の悩みは「服が売れない」ことなのだが、着る側にも正解が見えないという悩みがある。つまりちょっと努力したら抜きん出る何かがないと、何をしていいか分からなくなるのだ。
バブル期直前までのファッションには正解があった。馬場啓一という人が1980年に書いた「アイビーグラフィティ―シティ・ボーイのライフ・カタログ」に面白い記述がある。
馬場はアイビーファッションは「~道」好きの日本人に受け入れられたからだと説明する。アメリカ人のエリート階層のドレスコードを模倣したのがアイビーファッションなのだが、このドレスコードをどれだけ忠実に守れるかというのがアイビー道の肝なのである。
「~道」には正解があり容易にたどり着けないというところに本質がある。だからこそ道を究めた人は尊敬される。不思議なことに実際には本物を見たことがある人はほとんどいない。正解があるのに誰も見たことがないという意味では宗教に近い。つまり「~道」は神への道なのだといえるだろう。重要なのは神は外側にいるということだ。
アイビーファッションはアメリカ人のコスプレなのでファッションモデルも国人(しかもバブル期以前に外人といえば白人のことだった)だった。外国人とは違った美しさがある日本人の体型はまるっきり無視されているのだが、それでも構わなかった。日本人は鏡を見ないで、どちらかというとアイテムとその薀蓄に関心があった。
バブルが崩壊して20年以上たって、日本人は「鏡を見る」ことを学んだ。今の男性ファッション誌には日本人のモデルが採用されている。中にはアイドル雑誌のような売り方をしているものもあるのだが、より普通体型に近いモデルが採用されることも多くなった。受け取る側も「自分には何が似合うのだろう」と考えるようになり、SNSでファッション投稿している。
この結果、日本人はファッションを合理的に考えられるようになった。と、同時に大方の日本人はファッションに投資をしなくなった。極めるべきゴールがなくなり「無理をする必要がなくなった」からである。その結果出てきたのがユニクロだ。ユニクロは最小の投資で最大のリターンを得ることができる。
ネトウヨ的思想は、思考の合理化だといえる。民主主義はアメリカやヨーロッパの優れた理想なのだが、それは日本人の肌には合っていない。それを極めるのが「民主道」である。だが、情報が氾濫すると「もう無理しなくていい」ということになる。大方の人は政治を常識のレベルで語るようになった。「わがまま言わないでみんな仲良く」というレベルだ。
いろいろと考え合わせて自分なりの結論を得るというのは知的には負荷がかかる作業だし、そのために調べ物をするのも面倒だ。結局行き着く先は「俺は何もしないが、お前は変われ。そしたらすべての揉め事はなくなる」という思想だ。これが究極のラクチンファッションなのだ。
最初にアイビーファッションを持ち込んだヴァンヂャケットは倒産してそのあとにブルックスブラザースが入った。しかしその後に起こったのはユニクロブームだった。同じようにTwitterを通じて情報が直接流れ込むようになると、思想もファストファッション化してしまった。今のネトウヨの源流は2ちゃんねるとSAPIOあたりだと思うのだが、もともとはサラリーマンの娯楽のような「大衆版」の情報源だった。
ユニクロは洗練されているのだがこれをいくら研究してももとのデザインを再生することはできない。
これをもう少し考えてゆくと面白いことが分かる。日本は西洋化する過程で自らの宗教体系がないということに気がついた。宗教が形として成立するためには折り合わない他者と一緒にいる必要があるのだが、日本人にはそれがなかったのだ。このため日本人は宗教の教義を洗練させてこなかった。つまり宗教がないのではなく、自分の精神的よりどころを他者に説明できないのだ。
そこで急ごしらえで作ったのが国家神道だ。結果、着物に西洋流のボタンやベルトを付けたようなものになった。もともと多神教的な世界観に無理やり一神教的な体裁を与えて、科学的な味付けをしたのである。例えば神話から日付を割り出して西洋暦に併せて紀元節を作ったりした。日付があいまいだと科学的でなく「恥ずかしい」と考えたのだろう。
最近「土地を不正取得したのではないか」という疑念を持たれている「瑞穂の國記念小學院」にはそれがよく現れている。そもそも神社は地域に信仰がありそれに形を与えられたものである。しかしこの小学校は学校を作ってからそこに神社を造営した。順序が逆なのである。そこに天照大神を祀っているのは天皇家の主祭神だからなのだろう。パテントがないのでフリーで使えてしまうのだ。
教育についての理念もまったく書かれていない。透けて見えるのは「国家神道的な体系を再構築すれば今の複雑な問題はたちどころに解決するだろう」という単純な目論見だ。一番面白かったのが「喧嘩はいけないけど、やるなら手加減しろ」というフレーズだ。居酒屋レベルだがこれが「ボクが一生懸命考えた教育」なのである。哲学の不足をジョーシキレベルで補っている。
よく考えてみると当たり前のことなのだ。もともとの思想体系を西洋流に置き換えたものをいくら探してみても、もともとの思想をリバースエンジニアリングすることなどできない。あとは「ボクの知ってること」で置き換えるしかない。
「日本人は正解があると熱心に勉強する」ということから考察をスタートした。そのあとに「自分にぴったりのオリジナルが構築できるようになるかもしれない」という望みがあった。つまり、外にあった目的意識(行動のドライブ)が内在化されるだろうという望みである。
瑞穂の國記念小學院を見ていると、必ずしもそうならないことが分かる。ネトウヨ志向の一番の危険性はつじつまが合わなくなったときに本人が悩まずに「理解できないお前が悪い」となってしまっているところなのだろうがこれはネトウヨの割と中核的な思想だ。
そこで一生懸命考えた結果が、子供に教え込むことと「法律にしてみんなに守らせる」ことなのだろう。先生も法律もエライからだ。しかしあるとき「法律は憲法に縛られる」ということを知ってしまった。そこで「ボクが考えた憲法」をみんなに守らせることが目的になってしまったのではないだろうか。だが「みんなのためにはわがままを言うのはやめよう」とか「家族で仲良くしましょう」という「思想」なのだ。
今回の文章はもともとファッションとの比較で始まった。洋服の場合好きなものを着ていればいいのだが「俺のファッションはカッコいいから法律にしてみんなに着させよう」と思った時点で、それは狂った思想とみなされるだろう。