自民党は何のために憲法が改正したいのか、憲法前文を見て考える

独自憲法をの制定は自民党の党是だという話がある。実際は吉田派がGHQと勝手に結んだ憲法をその当時戦犯指定されていた人が気に入らないという意味で、あまり中身とは関係のない議論だ。しかし改憲案はそれなりに整備されつつある。

ここで二つの憲法案の前文を観察する。前文をみれば彼らがどのような気分で憲法を作りたいのかが見えてくると思うからである。

この文章は改憲否定のポジションで書いている。つまり書いている人は自民党下での憲法改正には反対しているということだ。しかし、現在の護憲派はこの長々とした文章を読んで「つまらない」と思うはずである。憲法を改正したら安倍が戦争を始めるというような論調にもなっていないし、民主主義や立憲主義が否定されるという結論にもならないからだ。問題にするのは「我々」が何を意味しているかという国語の問題だ。イデオロギーなしに読めるが議論そのものはとても退屈だ。

手始めにアメリカ合衆国の憲法前文を見ておく。必ずしもこの通りにやらなければならないということはないのだが、参考にはなると思う。アメリカ憲法前文はとても短い。Wikisourceの訳文は次の通りで、憲法のオブジェクティブになっている。憲法は契約なので「何のための契約書なのか」(オブジェクティブ)を書くのが前文なのである。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

この前文は人々がイギリスの支配を否定している。当時のイギリスには厳しい階級差があり、宗教権威が世俗権威に結びついていた。こうした社会体制を逃れて人々が自らの国を作ろうとしたのが合衆国なのである。

なおこれからあげるつの原文は適宜改行されているが、改行は削除した。2012年案は句読点が多く却って読みにくい文章になっているが、それはそのまま残した。

中曽根氏案(2005年)

我ら日本国民は、アジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。 我らは今や、長い歴史の上に、新しい国家の体制を整え、自主独立を維持し、人類共生の理想を実現する。 我が日本国は、国民が主権を有する民主主義国家であり、国政は国民の信頼に基づき国民の代表者が担当し、その成果は国民が享受する。 我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する。 我らは国際社会において、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その実現に貢献する。 我らは自由かつ公正で活力ある日本社会の発展と国民福祉の増進に努め、教育を重視するとともに、自然との共生を図り、地球環境の保全に力を尽くす。 また世界に調和と連帯をもたらす文化の重要性を認識し、自国の文化とともに世界文化の創成に積極的に寄与する。 我ら日本国民は、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、ここに新時代の日本国の根本規範として、我ら国民の名において、この憲法を制定する。

中曽根案は悪名高い民族ポエムから始まる。このポエム型前文は中華人民共和国(中国の憲法はとても長い前文を持っている)や韓国(こちらは「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は」と控えめなものしかない)でも見られるそうである。だが、中国と韓国に見られる「あるもの」がない。

周縁部を統合してきた歴史がまるまる無視されているという点は極めて深刻だ。つまり沖縄やアイヌはこの民族国家の中でどう位置付けられるのかということが全く考えられていない。さらに統治・植民地支配(評価が別れるので併記しておく)の時に統合した朝鮮系(統治下では日本人だったが今でも北朝鮮籍も韓国国籍も取得しなかった人たちがいる)の扱いも不明確なままになっている。

中曽根康弘は今の「ネトウヨ保守」よりも日本の保守についてはまとまった知見を持っているはずだが、それでもこの程度の理解しかできない。戦前の日本観から脱することができなかったのだろう。

中曽根は多民族国家であるアメリカにも蔑視感情があり「知的水準発言」でアメリカ政府から反発されている。この文脈で単一民族発言も行っており、これがアイヌ系日本人に反発された。日本は明治維新のあと「日本人とは何者か」ということを考えないまま朝鮮や台湾を併合してしまったため周縁や少数者(朝鮮は人口が多かったので少数者ともいえないのだが)の扱いが極めて曖昧になっている。この曖昧さは現在にも受け継がれておりネトウヨの人たちは大和民族ではない日本人をなかったことにしたがる。彼らは実は日本をうまく扱えないのだ。

ポエムの要素の強い憲法草案だが、これはまだ日本語の文章としてはまともである。主語が「我々」でほぼ統一されているからだ。国について説明する部分のみ「我が日本国は」となっている。皮肉なことに、中曽根が日本民族=日本人=日本国民という比較的単純な日本感を持っていたために主語を揺らす必要がなかったのだ。

このポエムのような憲法前文は2012年案からは削除されている。すると実質的には何も残らない。アメリカのように建国の意義があるわけでもないし、権力者から統治権を奪取した歴史もない。つまり否定するべきものが表立っては言えないのである。自民党の憲法草案にはそうした不健全な後ろ暗さがある。

韓国や中華人民共和国の憲法には民族の伝統というような「ポエム型」の前文が見られる。その意味では日本の憲法には東洋回帰が見られるとも言える。だが、同時に中国や韓国は長い民族の歴史を前提にはしているが非継続国家であり建国の目的がある。また中国は漢民族=中国とはしておらず、各民族が中国共産党の指導の元で独立したという体裁が理論化されている。国と民族が比較的はっきりと定義されている。これが中曽根案にはなく、したがって2012年案にも見られない。

自民党憲法草案(2012年)

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

最初に目につくのは、句読点の乱用と主語の不統一だ。中曽根案では民族としての日本人が長い間国家を作ってきたということになっているが、新案では国が最初にあったということになっており、最後には国家を守ることが憲法の意味だと書かれている。これは国民主権と矛盾する。国民主権は国民一人ひとりが幸福なりWelfareなりを追求するためのものだが、目的がこっそりと書き換わっているのだ。さらに「話を尊ぶ」とか「家庭や社会が助け合う」というどうとでも取れる道徳が挟まれている。

二つ「日本国民は」と書かれたところがあるが、最初のものは国民に義務を課す条項になっている。相手の基本的人権を尊重し、和を尊び(今風の言い方をすると同調圧力に意義を唱えるなということだろう)国に頼らず家族と社会で助け合い、防衛に協力しろということを言っている。次のものは国体を維持するために憲法があるという規範になっている。

以前観察した教育勅語は天皇主権を理論的に正当化できなかったところから出発している。そこで、当時あった「わかりやすそうな」儒教的道徳観念と天皇主権を接ぎ木してできたものだった。どうとでも取れるうえに否定しにくい内容だったので、作戦失敗の責任を回避したかった軍部が若者を片道切符で敵兵に突撃させるための規範として利用された。自民党はそれをまとめた形で憲法に混ぜ込もうとしている。

いわゆる日本人の臣民化だが、天皇主権とは言えないので、全体をみるとよくわからない文章になっている。このブログでは国民主権の制限などと書くことがあるのだが、実際に行われているのは意味の無効化である。「本当は国民主権とは言いたくない」という自民党の気分が透けて見える。

このように思想的に股裂きになっているので、「我々」に至ってはそれがいったい何なのかがさっぱりわからない。これを政府と取れば政府が義務を負うことになるし、国民はとすると国民が勝手にやってくれということになる。多分書いた人にもわかっていないのではないだろうか。

中曽根案では我が日本国民(実態は少数者や移民が排除されているのだが)が省略され我々になっているという構造はわかる。だが、新案ではそれが主権を持った日本国民を意味するのか、国体があってそのサブジェクトである日本臣民があるのか、それとも民族体の日本民族であるのかが決められない。書いた人がよくわからずに書いたか、わかっていてごまかして書いたのかすらわからない。

憲法前文なので、平和主義や国民主権などいろいろなことを指摘したくなるのだが、誰のために書かれた憲法なのかということが決められないのが一番の問題だろう。この背景がどこにあるのかはわからないが、政権が否定されて下野したことと、国民から非国民のように非難されていた時代に今のネトウヨの前進になった国家神道信奉者が自民党を支えたことが影響しているのではないかと思われる。

文章を歪めて国体主義を埋めこもうとした結果、国体主権は天皇も超えてしまっている。つまり、個人としての天皇も国体に従うべきで、その国体をよく知っているのは一部の人たちなのだという気持ちがあるのだろう。先日辞任した靖国神社の宮司の天皇否定発言を見てもその気持ちがよくわかる。

このメンタリティは戦前の軍部が統帥権の名の下に暴走したのとよく似ている。現在の自民党は統計を書き換えたり、政府文書を改竄したり隠したりしている。つまり、2012年の被害妄想的なメンタリティは未だに温存されているということになる。

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護憲派はアメリカの元での戦争を容認しているという説

今日はこのTweetを肴に「護憲派はアメリカの元で戦争に協力している」という主張をします。次回護憲派の人に会ったら、ぜひ教えてあげてほしいと思います。批判をすると対案を出せと言われるので対案も考えて最後に掲載してあります。「これは気に入らない」という方も多いと思うので、みなさんの考える憲法第9条草案を出してみませんか?コメント欄で募集しております。コメントにはDisqusのアカウントが必要です。

ということで英文に当たってみました。

Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce(放棄する) war as a sovereign right(国家主権)of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state (国家が交戦する権利)will not be recognized(認識しない).

日本語では戦争放棄ということになっていますが、原文には「国家主権(a soverign right)としての戦争を放棄」と書いてあります。これを主権を保持したまま戦争を自主的に放棄しているとは読めません。主権の一部を諦めて誰かに委ねるという意味になります。そのために、陸海空軍やその他の武力も持たないし、交戦する権利も認められないとしてあります。ただし放棄する主権は国際紛争を解決する手段であり、自衛についての言及はありません。

さて、これを厳密に解釈すると、日本は主権国家として、国際紛争を解決する戦争はできないが、自衛についてはよくわからないということになります。

しかし、この憲法ができた当時にはそのことを心配することはありませんでした。なぜならばそもそも日本は主権国家ではなくアメリカが日本の防衛を担当していたからです。

もっともアメリカは日本に対して「憲法を金輪際変えてはいけない」などとは言っていません。むしろ「状況が変わったら」自分たちで憲法を変えるだろうと思っていたかもしれません。日本が独立した以降の憲法改正は国家主権に関わることなので、アメリカが指示することはできません。しかし、なぜか日本人は独立しても憲法を変えるという主張はしませんでした。

この経緯から、この状況で護憲を貫くことは、被占領下の状況をそのまま受け入れるということになります。「国家主権としての軍隊は持てないのだから、指令系統を占領時の状態に戻してアメリカのスーパビジョンのもとで自衛網を整備するべきだ」としなければなりません。護憲派は解釈による集団的自衛件の行使を認めていないのですから、解釈によって日本国民が自衛について決まりを持たず、国際紛争時の軍事について国家主権を放棄していることを都合よく決めることはできません。

日本は戦争種する主権を持たないということは、誰かが日本の代わりにそれを決める可能性があるということを意味しています。戦後の経緯からそれはアメリカであることは明白です。米軍を日本から追い出してしまえば関係は切れるかもしれませんが、依然米軍は日本に駐留していますし、朝鮮戦争の後方支援部隊が日本に存在します。この点で日本は継続する戦争の当事国です。

日本国民は主権者なので国家主権を首相に移譲できますが「持っていない権利」を主張することも行使することもできません。それを持っている主体は必ずしも明確ではないのですが、占領下の状況を引き継いでいると考えると「アメリカが戦争をすると決めたら日本も参加するのだ」ということになり、それを禁止する条項も原文にはないということになります。

もし自衛隊がなければ戦闘行為を行う主体がないので従う必要はないですが、自衛隊は他国を攻撃する能力を持っているので、軍事行動も可能です。しかし、日本はそれを主体的に動かす権利を放棄しているか決めていないのです。

伊勢崎さんのTweetの狙いは「独立を回復したのだから主権を回復しなければならない」ということだと思うのですが、防衛や国のあり方に関心がない国民は意外と今の現実をすんなりと受け入れてしまうのではないかと思います。国民的な視点で日本的な憲法第9条を考えると次のようなものになると思うのですが、ご賛同いただけるものかどうか、確信は持てません。みなさんのご意見はいかがですか。

 

あの第二次世界大戦はひどいものだった。しかし、責任の所在が曖昧なので、誰がどうしてこんなことを引き起こしたのかわからない。そこで、国際問題を解決する手段としての戦争のような面倒なことは主権国家としては一切考えない。また、よその国が攻めてくるなどと考えると言霊が働き現実のものになってしまうからそれも考えないことにする。
軍隊やそれに似たものを持つと戦争したくなってしまうから、そういう面倒なものは今後一切持たない。
幸運なことに日本を守ってやると言ってくれている奇特な国があるので、ご機嫌を損ねないようにしながらその好意に頼ることにする。なにぶん大きな国なのでよその国が攻めてくることもないだろう。ご機嫌を損ねると面倒なので、とりあえず必要な人とお金はできる限り出してやることにするし、責任を取らされないことが保障されるなら海外にも出かけて行く。国際的なお付き合いも大切だからである。

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憲法第9条は変えた方がトクなのかソンなのか

本日は憲法改正について考えたい。「憲法第9条は変えるべきかいなか」ではなく「変えたほうがトクなのか」という議論である。現在、三つの案が出ているのでおさらいしておこう。

一つ目の案は「憲法第9条を変えると戦争になるから絶対に変えてはダメ」という案である。主に立憲民主党・社民党・共産党などの野党が提案してる。次の案は自民党の石破茂議員らが提案している案で自衛隊の交戦権を認めて国際的な軍に格上げするというものである。最後の案はこの「間をとった」と称される案だ。提案者は安倍首相で、今までの憲法をそのままにして「自衛隊は合憲である」と書き込もうというものだ。

安倍首相は何を考えているかわからないからとにかく反対という意見もあるだろうが、首相の動機は多分「おじいちゃんがそういったから」というものだろう。岸信介首相は「吉田派が勝手にGHQ と相談して決めたみっともない憲法だ」と考えていて、それが気に入らないのである。しかし、岸信介首相には人望がなかった。本来は日米安全保障条約を改訂してから憲法に着手するはずだったのだが、説明不足から大混乱を招き、結局首相に返り咲くことはなかった。そのルサンチマンが現在まで続く「議論」の全てではないだろうか。

こうした経緯を置いて個人の意見を述べる。個人的には石破案に賛成である。自衛隊は実質的には軍隊であり国連の安全保障活動でも軍隊として行動している。にもかかわらず交戦権が認められない(あるいは曖昧)ということは、すなわち自衛隊を海外に派遣している政府やそれを黙認している国民として非常に無責任である。国連から引き上げるという手もあるだろうが、国連の活動は不安定化する国際情勢に対応するためには必要不可欠になっており、撤退するのは得策ではないしまた撤退すべきでもない考える。自衛隊を軍隊にしたら戦争になるというのは確かだが、実際にはその戦争はもう始まっている。しかしそれはかつてあったような国と国との間の争いではなく、いわばがん細胞のように広がるテロリストや不満を持った個人なのだろう。

もっともこの筋立てが多くの人に共有されているとは思わない。石破論考える集団的自衛権は多分日米同盟のことを言っており、改憲派の人たちの本音は「中国が怖いから日本の軍備を強化したい」というものだろう。

しなしながら、今回は国際情勢については考えない。むしろ考えたいのは国民にとってこれが「損なのか得なのか」である。

現在の国会答弁を聞いているとよく出てくるフレーズがある。それは「相手に手の内をさらしてしまうから何も答えられない」というものだ。国防議論はすべて答弁上は「黒塗り」になっており、これが当然のように使われている。国会議員は国民の代表なのだからこれは「国防については国民は知らなくて良いですよ」と言っていることになる。つまりあくまでも表面上の主語は「敵」なのだが、日本人は簡単に主語を転換させてしまうので、実際の主語は別のところにあるのかもしれない。

ではなぜ国民に知らせてはならないのか。三つの理由があると思う。第一の理由は日本が主体的に戦争(防衛)に関与していないために国民の理解と予算の承認が必ずしも必要がないという事情である。この意味では日本の国防というのは第二次世界大戦前と似ている。すなわち国会は軍隊を監視することはできず「統帥権」という名目で独立しているのだ。もちろん戦前と違って現在の自衛隊は内閣に参加していないので、自衛隊が気に入らないからといって内閣が瓦解することはない。また、天皇もスルーされており内閣はアメリカと直接やりとりをしている。つまり、天皇が一段下がった形になっている。それ以前の内閣はこれほどあからさまに国会を無視しなかったから、安倍内閣は日本国民は日本防衛の当事者ではないと見なしていることになる。

次の理由はこれと似ているが異なった理由である。日本はアメリカの軍隊を補完する形になっており当事者ではない。つまりそもそも情報が入ってきていないという可能性である。アメリカには独特のラインがあり軍隊と国務省は別の動きをしているようである。これを統合するのは大統領なので、外から動きを見ていても最終的に大統領がどう決断しそれを議会がどう承認するか(あるいは承認しないか)がわからない。つまり日本の防衛について最終的に決めるのはアメリカ議会なのだ。最後までわからないのだから日本政府が勝手に自分たちが作ったストーリーを正当化する議論を積み重ねることはできない。だから何も言えないのである。

ここまでの敵は例えば北朝鮮や中国だろう。つまり日本政府が憶測でものをいってアメリカの作戦を邪魔してはいけないという遠慮があるのだろう。日本人は軍事的にアメリカに依存することに対して抵抗はないので、日本人の運命を最終的に決めるのはアメリカの納税者なのだということを受け入れていることになる。

最後の理由はこれとは少し違っている。すでに国内の議論が形骸化しており、実際には憲法や法体系をかなり踏み越えた運用が行われている可能性がある。つまり、これまでの議論をオープンにしてしまうとこれまでの議論が単に「議論のための議論だった」ということがわかってしまうばかりか「憲法など最初から度外視されていた」ことがバレてしまう。すると国内左翼が騒ぎ出す。安倍政権はこれが面白くないのではないだろうか。例えば、オバマ大統領が核兵器廃絶を訴えた時日本政府の姿勢は慎重だった。国内の「サヨク」にいい思いをさせてはならないと考えたからだ。つまり「敵に手の内を見せてはならない」の「敵」とは国内政治の政敵のことなのである。

つまり、日本人は自分たちの運命を自分では決められないのだから、最低限何かに巻き込まれないようにするのがトクということになる。よく自衛隊を軍隊にして自分たちの身を守らなければならないなどと言っている人たちがいるが、それは「お花畑」であり現実を見ていないと言える。

よく、改憲派の人たちの中に「憲法第9条があっても中国が明日攻めてきたらどうするんだ」ということをいう人がいる。「そんなことはありえないだろう」などと言ってみても「100%ないのか」と言われれば言葉に詰まってしまう。これは中国との間にラインがなく相手の出方がわからないといことが背景になっている。つまり、信頼できないから備えなければならないということになる。

しかしながら、おなことがアメリカに対しても言える。「アメリカが日本を見捨てたらどうするのか」とか「自国防衛のために利用したらどうするのか」という質問ができる。中国が攻めてこないことが「絶対にない」ことはないのと同じように、アメリカが日本を見捨てないという可能性も絶対にない。アメリカ人は100%いい人なのかもしれないが、防衛という究極の状況では自分たちの身の安全を優先するだろう。

もちろん自分たちで何かができるならどうにかすべきである。しかし、問題の本質は「国民から見て政府がどのように動くかわからないし、そもそも当事者能力があるのかすらわからない」という点にある。よくゲーム理論で「囚人のジレンマ」ということが言われる。二人の囚人が意思疎通ができる場合とできない場合では最適な戦略が異なるというものである。もちろん協力して示し合わせるのが最適解なのだが、そうでない場合には自分の身の安全のみを考えたほうがよい。それは「いかなる取引にも応じず、何も協力しない」ということになる。

もちろんこれは国益を大きく損なう可能性がある。しかしその問題を作っているのは「敵に手の内を知られては困るから」といって何も説明しない政府であり、我々には何の落ち度もない。

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日本の憲法第9条をめぐる議論はなぜ不毛になるのか

小川和久さんという人が朝日新聞のある記事に反論している。もともと対米追従派で安保法制制定時に「独自防衛をすると何倍もお金がかかるようになるから絶対にダメだ」というキャンペーンを張っていた人なので、反発の理由はわかる。つまりはポジショントークなのだろう。

最近の政権側のポジショントークはだんだんおざなりになりつつある。野党側が自滅してしまった上に、ほとんどの国民がそもそも興味を持っていないことに気がつきつつあるのだろう。だが、記事を読んだだけでは何がめちゃくちゃなのかがよくわからない。

最初に目につく問題は、リベラルを応援し人権擁護を訴える立場を「日本の知的エリート」と決めつけている。実際には「社会に影響力があり政権に協力的でない人たち」を叩きたいだけなのだが、そうは言えないので「リベラルは」などというレッテル貼りをするわけである。

次の問題は筋の立て方である。日米同盟が対米追従なのであれば、イギリスなどを含むアメリカの同盟国は対米追従になると言っている。NATO加盟国はソ連との対抗上「選択的に」アメリカとの軍事同盟を結んでいるのだが、日本が選択的にアメリカとの関係維持を求めたことはない。岸内閣が安保体制を維持したことを引き合いにして「民主的に選択した」と言い張ることはできなくはないが、これは説明不足もあり国民から猛反発を受けた。また、広島の上空で危険なオペレーションを行っても日本は抗議できないし、沖縄(忘れているかもしれないが沖縄は日本の一部だ)でヘリコプターが落ちて国民の財産権が侵害されても日本政府は何もしない。加えて横田空域はアメリカに占有されたままである。これは同盟そのものよりも運用や協定によって不平等な運用がなされているからである。いずれにせよ、成り立ち上からも、運用上からも、日米同盟は対等な軍事同盟とはとても言えない。ヨーロッパではこのような対等ではない契約にはなっていないようなので、半占領状態にあるといっても良い。

日本がアメリカと軍事同盟を結んでいるのは日本のためではない。アメリカの支配下に置かれることで、日本が周囲に軍事的に進行するのを抑えているわけである。小川さんは多分このことがわかっているのだが、ポジションとして日本はアメリカに大いなる協力をしているパートナーだと言い張っている。

しかし、最大の問題は実は日米同盟そのものにはない。小川さんはアメリカが喜望峰までをカバーするためには日本に基地を置かなければならないと言っている。しかし、なぜアメリカは喜望峰までを独自にカバーしなければならないのかよくわからない。もし、喜望峰までカバーする必要があるのだったら、どこか別の国と同盟を結べばいいだけの話だし、技術革新によって遠隔地からカバーする方法にも触れていない。さらに、現在では国連などの国際的協調の枠組みがあるのだから、かつてのようにプライベートな同盟関係で経済権益を守るというやり方を取る必要があるのか疑ってかかる必要がある。

喜望峰の近辺にアメリカの同盟国がないのはなぜなのだろうか。それはその近辺に旧植民地支配国がないからである。つまり、日米同盟を含むアメリカの同盟というのは実は旧帝国主義リーグなのである。

では小川さんの論がおざなりだということはカウンターの勝利を意味するのだろうか。反論されている加藤典洋という人の文章もピンとこない。こちらもなんとなく変だなという感じはするのだが、よくわからないので細かく見てみよう。

  1. フランス革命に対する反動として保守が生まれた。
  2. 保守には共通の目標が必要だ。
  3. しかし、安倍政権は保守ではない。単なる対米追従だ。
  4. 日本国家の目標は対米独立であり、安倍政権はそれを放棄しているから保守とは言えないのだ。
  5. 憲法第9条の改定も独立を装ってはいるが、実は対米追従策に過ぎない。
  6. 国難を叫ぶ’風潮は大正デモクラシーの後にも見られた。当時と現在の状況は似ているので、これを研究しなければならない。
  7. リベラルに否定的な空気があるが、これは大正デモクラシーが否定されてゆく動きと似ているので枝野さんは頑張るべきだ。

まずは、小川さんから片付けてゆくと、加藤さんの文章の「対米追従」という言葉に脊髄反射しているだけなので、特に文章に対する反論にはなっていない。一方、加藤さんの文章の言いたいのは「俺は大正デモクラシーについて研究しているのだが、これをもっと取り上げてくれ」ということなのではないかと思う。つまり、研究所の宣伝なのである。

それを我慢して読んでいると「日本の目的は対米独立なのだ」という論の展開に無理があることがわかる。なぜならば、日本とフランスの状況は異なっているからだ。つまり、日本には革命(あるいは急進的な社会変革)がないので、保守が存在しえないである。ゆえに、その後の論がすべて無効になってしまう。

加えて、現状維持を目指しているのがいわゆる日本の左派リベラルで、現状を変えようとしているのがいわゆる日本の改憲派保守だ。つまり、革命勢力は「保守の側」というわけのわからない領域に突入する。日本の保守運動を復古的な動きだとする人もいるかもしれないが、彼らが目指すところは自民党などの政党の一党独裁体制であり、どちらかといえば中華人民共和国に近い。中国は共産党の独裁になっているのだが、日本ではそれはあからさまなので「公」という概念をおき、それを守護するのが自民党だという筋立てになっている。

後半は本当に言いたいこと(つまり研究の宣伝)なので論が通っている。これに政権批判をくっつけてしまったことでやや破綻した仕上がりになっている。この蛇足部分に小川さんが反論して、おざなりで現実を見ていない日米同盟論をいつものように連呼している。

だから、この<議論>に何か意味がありますかと問われると「ありませんね」と答えるしかない。

冷静に考えてみると加藤さんも小川さんもそれで構わない。なぜならば加藤さんは本が売りたいだけなのだろうし、小川さんは対米懐疑派を潰していればそれなりに仕事が回るのだろう。だから、この手の議論は特に何かを解決しようとしているのではないということがわかる。

では、こうした論をつぶさに見てゆくことには全く意味がないのだろうか。論を観察してみると、どちらもが「国連を通じた世界的な枠組みづくり」について全く触れていないことがわかる。一方はアメリカが日本を対等な軍事同盟の相手として認めてこなかったという歴史にルサンチマンを感じていることがわかるし、もう一方はどう考えてもバカにされている相手についてゆくために「実はアメリカが成功しているのは日本のせいなのだ」という心理的合理化を図っていることがわかる。

つまり、どちらもアメリカに過剰なまでにとらわれている。だが、よく考えてみると冷戦構造が崩れ、中国やインドなどの国が大きなプレイヤーとして経済に組み込まれた状態で、アメリカとヨーロッパを中心とした連合体だけで世界秩序の維持をしつづけなければならない理由は見つからない。逆にこうした枠組みに過剰にこだわると却って分断が進んでしまうことになる。

さらに、当事者であるアメリカにも世界の警察官であり続ける意欲はないようだ。TPPのような枠組みすら国益のために脱退するという状態になっている。しかし、アメリカは世界で一番強い国で、日本はその隠れたサポーターなのだと考えているうちは、とてもこうした世界的な変化にはついて行けないだろう。

日本の第9条の議論が不毛になるのは、その前提になる「防衛と秩序づくり」の議論の参加者がアメリカしか見ていないからなのだ。

参考文献

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犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。
犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。
私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。
例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。
「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。
こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。
ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。
「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。
市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。
だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。
さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。
つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。
リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

「憲法で教育無償化を」と叫ぶ人たち

いろいろごちゃごちゃと書いたのだが、教育が無償化されると、実質的にすべての教育は国営化されて「国鉄化」するんだろうなあと思った。


安倍首相が改憲して教育を無償化したいといっているそうだ。もともとは維新の提案であり、与野党協力体制をアピールして「国民の合意を得られた」という空気を作りたいのだろう。無料に反対する人は誰もいないわけで「改憲への拒否反応」が弱まる可能性はある。これは憲法第9条改正に対する拒否反応を弱めるのかもしれない。
しかし、これほどまでに空虚な政治的提案というものを見たことがない。それは何のために教育を受けるのかという議論がないままに「タダ」という言葉だけが先行しているからだ。
一般のレベルでは人々は競争に優位に立つために教育を受ける。教育は投資なのだ。教育無償化を喜びそうな人は「これでお金がないからといって脱落することはなくなる」と一安心するかもしれないが、競争社会を生きている人は「無料で誰にでも手に入れられるものは競争には役に立たちそうにない」ことを知っている。つまり無料で受けられるものには実は大した価値はない。
それにも増して教育の無償化は実は教育を荒廃させる可能性がある。実際に教育にかかる予算は削減傾向にある一方で、保護者の要求は際限なく高まりつつある。つまり無償化に伴って「共有地化」が起こる可能性があるのだ。共有地化はフリーライダーを増やす働きがある。すると誰も維持管理を行わなくなり荒廃する可能性があるわけである。実際には保護者のボランティアに頼って地域教育を維持しようという動きもある。主婦労働は無償だと考えられているため、介護や教育に「動員」されかねない。ちなみに家族が社会を支えるべきだという考え方も改憲に組み入れられている。
では教育の無償化は悪いことなのだろうか。
いわゆる「無償化」が成功している国は、社会が教育コストを支えるのだという意識のある社会だ。つまり「無償化」ではなく「社会化」である。納税者が教育費用を負担しているのだ。加えて日本は国債発行残高が高く、極めて納税者意識が低いという現実もある。負担はしたくないが受益はしたいという人たちが多い。「憲法による無償教育」はこのような人たちにあらぬ幻想をふりまくことになるだろう。
さらに国には「国家に忠誠を誓わせて一部の政治家に都合のよい思想を持った人たちを大量に生産しよう」という目論見があるようだ。こうした動きを支持する人が多いのは、主婦や子供などは年長の男に従うべきだという搾取思考が根深いからだろう。つまり、無償教育は余剰の教育資金を持たない国民を洗脳する装置になりかねないという危険性がある。
つまりこれは「国民を無償教育という罠に閉じ込めて都合よく搾取しようという政府の企みだ」と考えることもできるし、左派の人たちはその線で反対するのではないかと考えられる。「無料で戦争教育するのだろう」という批判はすでに行われているようだ。しかし、それすらも希望的観測というより他ない。それは、教育を受けた人たちが「戦争する意欲がある」ということを前提にしているからである。戦争は中国と戦うことではなく、企業戦士として死ぬまで働くことかもしれない。
意思がある人たちは無償でない教育を受けることになるだろうが(多分国内にはその機会はないかもしれない)意思のない人たちは国が吹き込んだ知識をそのまま丸暗記し「やることはやったからあとはなんとかしてくれ」と集団に望みをかけつつ、弱い人たちを罵倒するような未来が待っているのではないだろうか。大量の指示待ちくんが量産されるというような未来が見えてしまうのだ。
教育無償化の議論に欠けているのは、誰が社会を切りひらき、どのような貢献をするのかという意思だということが言える。

高校生の政治活動届出制について

今度の選挙から18歳以上に選挙権が認められるようになる。自民党は当初、自党への支持が広がると考えていたようだ。しかし、SEALDsなどの台頭を受けて「高校生の政治活動参加は届出制にするべきだ」という議論が出てきた。過去にも学園闘争が高校生に波及した例があり、過激な活動を警戒しているのだろうと思われる。実際に大学では政治活動が過激化して、授業が継続できないことが起きた。
だが、これはなかなか不思議な議論だなと思った。
政治結社の自由や集会の自由は憲法で守られた最も基本的な権利のひとつだ。もし仮に、高校がデモに参加した学生を退学処分にしたら何が起こるだろうか。多分、主権者たる高校生は「思想信条の自由を侵されて不利益をこうむった」として高校を訴えることができるはずだ。これは明確な憲法違反だ。だから、学校から許可が得られなかったからといって何の意味もない。
そもそも、これは議論になるほうがおかしいのだ。逆に「じゃあ一度退学処分でも出してくれますか」とお願いしてもいいくらいだろう。
同じことが校内でも起こるはずだ。共産党(あるいはなんらかの過激な思想でもかまわない)の支持を訴える学生が退校処分になったら「言論の自由が奪われた」として高校を訴えることができるだろう。
こんなことが書けるのは、基本的人権に制限がかかっていないからだ。学校や文部科学省のお役人は高校生を脅かすことはあっても実際の処分はしないだろう。彼らは馬鹿ではないので、実際に強権を発動したら何が起こるかをよく知っているはずだ。政治家たちは憲法の人権条項の強力さを知っているいるからこそ「公共の福祉」を拡大したがるのである。拡大さえすれば「道徳的におかしい」などという理由をつけて主権者を縛ることができるからだ。
18歳以上の高校生も主権者として差別されることはないはずだ。憲法に「高校生の主権は限定的だ」などと書いた条項はない。ただし、これは国や地域の意思決定に加わるということを意味する。それに伴う責任の大きさには心を留める必要がある。だが、それなりに情報収集して政治的な意見を持っているのだから、そんなお説教はしなくてもよいのだろうとは思う。
むしろ、やたらと「あいつらはわがままなやつの人権は制限されるべき」だという普通の主権者のほうが危険だろう。誰がわがままかを決めるのは一般国民ではなく権力者だからだ。だが不思議なことにそう思っている一般国民も多い。気分の上だけでも正義の側にたったつもりになれるからかもしれない。

治安維持法の必要性を叫ぶ人がいる

Twitterのタイムラインを見て久々に愕然とした。「彼らには治安維持法が必要」と言っている人を見つけたのだ。この問題はぜひ「民主主義は大切だ」と思う人に時間をかけて読んでもらいたいし、内容を理解した上で、自分の意見を拡散してもらいたい。
彼らとはSEALDsのことらしい。文脈は不明だし、どれくらい真剣に「治安維持法が必要」と言っているのかもよく分からない。
「治安維持法」を知らない人がいるかもしれない。第二次世界大戦中に言論弾圧のために用いられた法律だ。もともと共産主義と天皇制批判を取り締まる為の法律だったのだが、後に拡大され全ての政府批判が封じられたのだ。当時、第二次世界大戦は聖戦だと信じられていたので、それに疑問を持つ事は許されなかった。
拡大しつつあった戦争に対する庶民の反発を怖れた政府は投票権を拡大し普通選挙の実施に踏み切った。自分たちの選んだ政治家が決めたことならば多くの国民が従うと考えたからだ。一方で国民の政治意識が体制転覆に傾く事を怖れた政府は、普通選挙の実施と同時に治安維持法を成立させた。当時の脅威は共産主義の台頭だった。選挙権がない人が政府転覆に傾くのを怖れたのではないかと考えられる。関東大震災の際に発布された治安維持に関する緊急勅令なども参考にされた。
いったん作られた法律は後に拡大解釈されることになる。これが現在の憲法改正反対派が危惧している日本の歴史だ。決して単純に被害妄想を膨らませている訳ではない。
これが「問題だ」と思うのはなぜかを説明したい。現在の左派は安倍政権さえ倒せば戦争法案の危機は去り、立憲主義が守られると信じている。しかし、実際にはそれはあまりにも単純なものの見方と言わざるを得ない。「民主主義への疑い」を持っている一般国民は意外と多いのだ。この人たちを説得しなければ民主的なプロセスで国民の権利を制限する法律が通りかねないのである。
だが、現在の左派にそうした危機感はない。国政レベルでは「一致団結して安倍政権を倒す」などと格好のいい事を言っているが、地方ではまったくまとまりがなく、民主党が自民党を含む体制派の応援をするなどということは珍しくない。
ではなぜ治安維持法が必要という人が出てきたのだろうか。もともとは日本をアメリカが主催する「国際警察団」に引き込みたかった「ジャパンハンドラー」と言われる人たちがきっかけになっている。彼らは「中国が日本を狙っている」というイメージを植え込む事で、日本人たちの「目を覚まさせよう」としたのだ。実際に尖閣諸島を巡る争いが起きたので、これを最大限に利用した。
同時に、当時の民主党政権に対して「中国・韓国の意を汲む在日政党だ」という印象操作が施された。この結果右派雑誌には「このままでは日本は民主党によって中国に売られる」というような言説が見られるようになる。これを阻止するためには、憲法第九条を改正して軍隊を持たなければ、中国に侵略されると考える人が出てきたのだ。
治安維持法や緊急事態条項を支持する人たちが出てきたのは、このようなバックグラウンドによるものだと思われる。彼らは国内での争乱は中国や韓国の影響を受けた人たちの陰謀だと考えているのだろう。あれは民主的なデモではなく売国的な争乱行為なのだ。
だが、彼らを説得するのは難しい。実際に中国は野心を持っているからだ。ただし、彼らが挑戦しているのは日本ではなくアメリカを中心とした国際秩序だと考えられる。いわゆる「ジャパンハンドラー」はこれをアメリカの問題ではなく、日本の問題に転移することに成功したのだ。
しかし、アメリカは「梯子はずし」を始めた。防衛省に近いシンクタンクは、中国が尖閣諸島を侵略した際にアメリカが「巻き込まれれば」アメリカ本土へのサイバー攻撃を含めた反撃があるだろうと考えている。「わずか5日で陥落する」とレポートは結論づけている。だから放置しておけというわけだ。アメリカとしては日本の「ナショナリズム」が刺激されるのは好ましくないと考え始めているのだ。
ジャパンハンドラーとしては「中国の胸囲を煽れ」と推奨しているだけなので、特に結果責任は取らない。日本政府も仄めかしているだけだ。しかし、それを真に受ける人たちが出ているのだ。こうしたメッセージは1世代をかけて流布したので、すぐさまに修正することはできない。かといって真に受けて中国に喧嘩を売ると、防衛した自衛隊員だけが殺されて「日本の判断で決めたことだろう」と言われかねない。特に安倍政権だけを非難しているわけではない。野田政権が尖閣諸島を国有化した際に、中国の意向にあまりにも無頓着でアメリカ当局を呆れさせたという話も出ている。
この問題が深刻に思える点は、中国への脅威論の矛先が、国内の同胞(彼らは「反日勢力」だと思われているのだろうが)に向かう所ではないかと思われる。外国の干渉が国内の民主主義を蝕むというのは、多くの植民地で見られる現象だ。さすがにジャパンハンドラーたちが「国民の分断」を画策したわけではないと思うのだが、結果的にそのようになってしまう。
その結果、90年前に政府に押しつけられた法律を自ら欲しいと願うような人が表れるのだ。植民地の悲劇としか言いようがない。

特攻隊とジハードの自爆テロ

百田尚樹の『永遠の0』の中に「特攻隊と自爆テロ」に関する議論が出てくる。どういう議論だったかは忘れたが、特攻隊は自爆テロとは違うという結論になっている。まあ、当然と言えば当然である。
前回のエントリー「日本人の政治的態度」について検討した際に、国家神道について調べた。一連の議論の中に「国家神道は宗教なのかそうでないのか」という議論があるそうだ。明治政府は信教の自由を認めているので国家神道は「宗教ではない」ということにしたのだ、とWikipediaには書いてある。だから神社には葬式のような宗教行事がないのだそうだ。現在、葬式でお坊さんに来てもらうのにはそんな理由もあるようだ。
ところが、国家神道はやはり宗教だったという説がある。教義がないから宗教ではないという人もいるが、そのような宗教はいくらでもある。聖戦・英霊・顕彰の三点セットが認められ、人類学からみた宗教の類型に合致するのだという、菱木政晴という人の説が紹介されている。プロフィールを見ると護憲派の僧侶のようだ。
この説に従うと先の第二次世界大戦は聖戦だったということになる。イスラム教的に言うとジハードだ。
ジハードには2種類あるそうだ。一つはイスラム教の精神を外れないように努力する「内なるジハード」であって、もう一方は外敵や堕落したイスラム教徒に対する戦い「外向きのジハード」である。
イスラム国やアルカイダのいわゆる「自爆テロ」は、原理主義的なイスラム教徒から見た外向きのジハードの呼び方だ。コーランによると、自分の命を差し出すことによって天国での地位が約束されるのだ。ジハードに参加した戦士はムジャーヒド(ムジャーヒディーン)と呼ばれるのだそうだ。逆に外敵に背を向けるものは地獄に堕ちるのだという。
政府に属さないイスラム国やアルカイダは単なるならず者に過ぎないが「カリフ国を実現しよう」という意味では、ヨルダンやサウジアラビアなどのイスラム国と変わりはない。闘争がジハードと認定されるためには宗教権威者がジハードを宣誓し法的根拠を与えることが必要なのだそうだが、イスラム国やアルカイダの指導者が宗教的な指導者であるかどうかが、彼らの活動がジハードなのかそうでないのかを分ける基準になるのだろう。
国家神道には天国という概念はないが、代わりに靖国神社に祀られる事になっている。これは先祖霊と同一になるということを意味する。神から地位を与えられるということはないが、国体(家族や日本民族のことと思われる)が護持されて先祖供養してもらえる。聖戦を認定しているのは、現人神である天皇の権威だ。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦詔勅は「欧米が国際秩序を押しつけようとしている」という前提で書かれているという。欧米が押しつける秩序をはねのけて世界を安定させるのが、神の加護(天佑)を受けた日本の役割だ。その為に「国際法(すなわち欧米が押しつけたルール)」による宣戦布告にはなっていないのだそうだ。大東亜戦争は異教徒から世界を守る防衛的聖戦であり、その為に特攻して死んだ人たちはムジャーヒディーンなのだ。
故に特攻隊とイスラム原理主義者の自爆テロは同じ構造に基づいているということが分かる。
この結論を感情的に攻撃することは容易だ。現代の日本は西欧陣営に属している。西側の視点からみるイスラム国やアルカイダは世界平和を乱す単なるならず者にすぎない。彼らは地元住民を弾圧し、女性をレイプする。アフリカでは「ジハード」と称して、女性に爆弾を括りつけて市場に放り込んだりもする。日本軍の兵士は(多分)そんな卑劣なことはしなかったし、独立国に正規に雇われた兵士だった。
ただし、共通点もある。70年前の日本はグローバルスタンダードに異議を申し立てて神の加護の元に戦争を始めた。現在、同じような活動をしているのはイスラム原理主義者である。
70年前、日本は当時のグローバルスタンダードから脱却しようと戦争を始めた。そして今「戦後レジームからの脱却」と称して同じような挑戦をしている。しかし、何から脱却しようとしているのか判然としない。また、西洋と異なる国家体制にしても西洋諸国に受け入れてもらえるとは思えない。
現代の日本では国内に向けたジハードが進んでいる。右派政治家の中には国民が現状に甘んじた堕落した衆愚に見えているのだろうなあと思う人たちがいる。雄弁に「改革」を唄い、外向きのジハードを戦っているようだ。演説を見ると心理的にはすでに戦闘モードなのだろうなあと思う。
だが、政治家たちは自分で爆発したりしない。もっと弱い立場の人たちを見つけて彼らが前線で戦うように促すのだろう。そして他人が犠牲になっても「自分たちにはなすべきことがある」と言い訳するのだ。オウム事件では多くの実行犯が逮捕されたが、首謀者はサティアンの中に隠れていた。扇動者とはそうした人たちなのだ。
国家神道は長い間タブーとされてきた。そのため、従来の神道との関係が語られることはなかった。極端に美化されるか狂信として退けられるだけだったのだ。もともと海で大陸から隔てられていた日本には外敵に対峙することがなかったので、確立した教義も聖戦のような外敵排除の概念は必要がなかった。なぜ、聖戦を戦い抜き、同胞の命を差し出すというような教義が生まれたのかについては、もう少し研究をした方がよいのかもしれない。

民主主義や立憲主義はなぜ守られるべきなのか

安倍政権が暴走し「立憲主義」への危機感が強まっている。しかしながら、国民の多くは自民党を支持している。「国民は立憲主義などどうでもいい」と思っていることになる。そこで「立憲主義や民主主義は守るべきか」「守るべきだとすればそれはなぜなのか」という問題を考えてみたい。
話を簡単にするために「法律は中立である」という前提を置きたい。理屈さえ整えば法律学者は一切の価値判断をしない。国の目的は経済を発展させることとする。経済で政治体制を正当化するのだ。

民主主義と経済の関係

雑誌エコノミストの研究機関が出した民主主義指数というものがある。これを見ると「完全な民主主義国」は人口の12.5%しかカバーしていない。国数はわずか24カ国だ。つまり「完全な民主主義国」は普通の国とは言えない。守らなくて良いなら「立憲主義」はワールドスタンダードかもしれないが、あまり意味がない議論だろう。ちなみに日本は今の所「完全な民主主義国」だ。完全な民主主義国はアジアには2カ国しかない。日本と韓国である。ともにアメリカとの関係が強い。
米州からは北米2カ国(アメリカ・カナダ)、ウルグアイ、コスタリカがランクインしている。太平洋州からはオーストラリアとニュージーランド。残りは西ヨーロッパである。
このことから分かるとおり、完全な民主主義国はお金持ちの国ばかりである。試しにGDP(IMF/PPP)を掛け合わせてみると、人口の12.5%が世界のGDPの37.5%を占めている。統計を加工し終わってから思ったのだが、PPPではなく為替で調べるべきだったかもしれない。PPPは実質的な値であり、合計が意味を持たないからだ。PPPベースだと中国が米国を抜いて世界一のお金持ち国になる。GDP統計の中にパレスティナ、キューバ,ビルマ、北朝鮮が入っていない。

GDP合計 GDP割合 国数 人口
完全な民主主義国 40585.5 37.52% 24 12.5%
欠陥のある民主主義国 28892.72 26.71% 52 35.5%
混合政治体制 6911.81 6.39% 39 14.4%
独裁政治体制 31790.72 29.39% 52 37.6%

この数字をどう見るかは意見の別れるところである。もともと西ヨーロッパとアメリカなどの同じ価値観を持った「お金持ちクラブ」が富を独占しているだけだという可能性もある。
これより少しまともな答えは民主化した国から産業革命が起こったというものだ。経済的に成功した市民層が民主化を促進した。この2つが相乗効果を発揮した結果が現在の世界の富の配分だと考えられる。分厚い市民層が民主主義国の成長力の源泉なのだ。
この極端な実例の一つとして挙げられるのが韓国と北朝鮮だ。もともと北朝鮮が工業国で韓国は農業中心だった。北の方が豊かだったのだ。しかし今では北朝鮮のGPDが400億ドルしかないのに比べて、韓国は1兆6000億ドルだ。人口は北が2500万人で南が5140万人なので、人口のせいとは考えられない。勝負すら呼べない程の差がついてしまった。
北朝鮮の人民は経済成長を達成する動機がない。がんばってもどのみち搾取されてしまうだろう。であればだらだらと働いた方がよい。結局人は自分の暮らしをよくするためにしか努力しないのだ。南では私有財産が保証されている。これが違いを生んだのだと考えられる。もちろん、南側に豊かな国との経済的アクセスがあったことも見逃せないだろう。
この違いを民族性で説明することはできない。どちらも同じ民族で歴史を共有していたからだ。韓国も軍事独裁政権を経験しているが、豊かになり情報が広がるにつれて国民の民主化欲求を押さえられなくなった。逆に北朝鮮では民衆が疲弊しているので、民主化要求を行うほどの体力はないだろう。

独裁国の時代?

「民主化万歳」というまえに、悪魔とも相談してみよう。表を見れば独裁体制の国が富の約30%を占めているではないか。もしかしたら独裁の方が儲かるのではないか。安倍政権も独裁を目指せば国も良くなるのだろうか。
実は独裁国の中には多くの産油国が含まれる。クエート、ナイジェリア、カタール、UAE、サウジアラビアなどである。もし日本から油田が見つかれば、自民党の皆さんは、石油の富を適当に国民にバラまいて王様気分が味わえるかもしれない。下請け仕事はすべて移民(市民権は与えられない)が賄ってくれるだろう。
しかし、これだけでは説明ができない。独裁国の中にはロシアと中国が含まれる。台頭しつつある国だ。急進国のうちインド、ブラジルは「欠陥のある民主主義国」に当たる。中国の強みは国内格差だ。安い労働力を地方から呼び寄せることができる。これは国内に植民地を抱えているようなものだろう。ロシアは石油やガスなどの資源で支えられている。アフリカ一の経済発展を続けるナイジェリアも独裁国だ。
つまり、民主主義体制は「お金持ちクラブのノーム」ではなくなりつつある可能性もあるのだ。

民主主義のメリット

完全な民主主義体制のメリットとは何だろう。それは世界から才能のある人たちを引き寄せることだろう。才能のある人たちは自由を求める。それは経済的な自由だけではないだろう。生き方の自由も含まれるに違いない。例えば才能のあるゲイは、同姓結婚が認められる国や都市を好むはずだ。人が経済成長の源泉になると考える国は、域内の政治を透明で自由なものにしようとするだろう。才能は比較優位だ。つまり、個人が幸福を追求することが全体の幸せに貢献するという考え方である。

民主主義が維持できなくなる時

資源もなく、民主主義も守れない国はどうなるのか。大抵は国の中で富の奪い合いをしている。機会あるごとに軍がしゃしゃり出てきて「民主主義の失敗」を武力的に調停する場合もある。工業といってもたいがいはお金持ちクラブの下請けである。自由と民主主義を享受する人たちをもっと富ませるために働くのである。国民は保証を求めて社会主義的な体制を支持したり、軍に期待を抱くようになる。
西ヨーロッパの中には完全な民主主義国に至らなかった(あるいは民主主義が後退した)諸国がある。ベルギー、イタリア、ポルトガル、ギリシャだ。
ベルギーは国内のオランダ系とフランス系がまとまらず、首相が出せない混乱状態が長く続いた。イタリアは多党体制で連立の組み替えが頻繁に起こる。状況によっては首相が選出できないこともあり、政権が安定しないとのことである。
ポルトガルとギリシャは状況が異なる。ポルトガルは独裁体制のあと反動から社会主義路線を取った。植民地依存経済から脱却できずヨーロッパの成長から取り残された。ギリシャはアメリカの支援を背景にした軍事独裁政権が長く続き、後に社会主義化した。人口の多くが公務員といういびつな産業構成になり後に経済破綻した。

民主主義没落国のケーススタディとしてのアルゼンチン

さて、不景気が民主主義を壊した例もある。アルゼンチンは民主主義を体験したあと、軍事独裁や社会主義的体制(アルゼンチンではポピュリズモと呼ばれる)を揺れ動いた。
1880年代のアルゼンチンは自由主義経済路線を取り多いに発展した。食料の一大供給地になったのだ。すると民主化を要求する急進主義者が台頭したために、妥協の為に民主化が促進された。しかし、1929年に大恐慌が起こりアルゼンチン経済は崩壊した。すると、1930年には軍事クーデターが起き不正選挙の伝統も復活してしまう。
その後、ペロン大統領がポピュリズム政治を行ったが、第二次世界大戦で獲得した外貨を使い果たしてしまう。ペロンの治世は1955年まで続いたが、軍事クーデターが起きてペロンは亡命を余儀なくされた。その後も軍事クーデターなどが頻発し、政治は安定しなかった。アルゼンチン経済は復活せず、2001年と2014年にデフォルトを経験した。

民主主義を手放しつつある日本

このようにいろいろな事例を見てみると、立憲主義や民主主義を正当化するのは経済だということが分かる。経済が順調になると人々は自由を求める。自由が広がると経済も発展する。民主主義を維持しなければならないのは、民主主義が崇高なものだからではないのだ。
と、同時に経済が不調になると民主主義を維持できなくなる。人々は社会主義的な保証を求めるようになり、軍隊が民主主義の失敗を帳消ししてくれることを期待するようになる。
故に、バブルの崩壊で自信を失ってしまった日本では、自民党を支持する経済的に弱い人たちが、強い軍事力と立憲主義を否定するのはある意味当然のことなのだ。政治家はそれに追随しているだけと言えるか
もしれない。
と、同時に自由民主党の政策が社会主義的だということも分かる。
自由を失った国からは優秀な人が去って行く。強い経済は自由を求めるからだ。