Sketch UPで部屋の模様替えの計画を立てる

最近部屋の模様替えをした。元来無計画なタチで模様替えをするときにはいきなり家具を動かす。
だが、部屋の広さの割には家具がたくさんあって、いつも嫌になって途中でやめてしまう。パズルみたいになってしまうからだ。だから、部屋がごちゃついていてとても乱雑な感じになっている。
ようやく、これは馬鹿らしいということに気がつき、今回は家具の大きさを計測してIllustratorで平面図を作って「ああでもないこうでもない」とやった上で家具を動かした。
頭の体操をしてから家具を動かすと生理ができるのでいくらかはましになる。部屋がごちゃついている原因は多分、モニターや背の高い観葉植物が部屋のど真ん中にあることだと思えた。視界を遮って部屋を分断しているのだ。そこで、こうした背の高いものを壁際に移動させてゆく。その上で空いたスペースに観葉植物などを配置した。
で、終わってから、3Dソフトを使えばもっと具体的なイメージがわきそうだと思った。とはいえ3Dソフトは高そうだし、操作が難しそうだ。そこで、昔試しに使ったことがあるソフトを思い出した。それがSketch Upだ。かつてのSketch Upは正確に大きさが測れなかったような記憶があった。適当にものを置いてゆくのであまり正確なものが作れなかったように思う。毎年更新されているらしく、今年のバージョンはSketch Up2017という名前がついている。30日間のお試しでProバージョンも使える。
一番簡単なのは四角形を作ることだ。なのでひたすら四角形を作ってゆく。これは平面図を作ってあったので簡単に終わった。数字を入力すると実寸大の四角形がたくさんできる。それを押し出して立体にするのだが、これも高さが数字で指定できるようだ。これだけでもなんとなくイメージが湧く。この段階で家具の配置を変えてみてもよさそうだ。おじさんを立たせてみる。Sketch Upのスタッフの人だそうである。

モニターとかパソコンなどの素材はフリー素材がたくさん準備されている。モデラーの人たちが無償で提供しているらしいのだが、とても精度が高い。使い方は簡単で単にコピペして部屋に配置するだけである。すべて実寸表示なので机にモニターが乗り切らないところまで正確に表現できた。

やっているうちに欲が出てきて、無印良品の棚を自作で再現してみることにした。本物の棚を組み立てるのと同じ要領で組み上げてゆく。Illsutratorだと整列を使って端を揃えてゆくのだが、Skecketh Upは要点同士がスナップするようになっていて、意外ときっちり合わさる。コツはグルーピングだと思う。立体を作っただけでは線と面の組み合わせなのでオブジェクトとして選べない。これをグループ化し、さらにユニットをグループ化する。こうして最終的なオブジェクトを作るのだ。この棚の場合、支柱と棚板が独立したグループになっていて、これを組み合わせて棚一段分のグループを作る。さらにこれを組み上げて棚を一つのグループにするのだ。

組み立てた家具を配置して、壁も設置したところ。全体図はこんな感じだが「家具を減らした方がいいのかなあ」などとも思う。もっとちゃんとやろうと思えば多分窓の配置などもできるはず。

植木鉢なんかを作っているモデラーの人もいるので植物を使わせてもらった。白い植木鉢はなかったので自作してから他の人が作った植物を植える。実際には左側にはベゴニアが植わっている。今は植物でごっちゃごちゃになっているスペースなのだが、多分植木鉢を減らした方がよいことがわかる。

このツールのすごいところはお昼頃に思いついて開始してから何の予備知識も訓練もなしにそれなりの計画図が作れてしまうことではないかと思う。パソコンの速度もそれほど早いものではないので、ずいぶんお気軽に3Dソフトが使えるようになったのだなあと思った。
なお、Pro版はかなり高価で12万円程度するようだ。商用で使う場合にはProを購入する必要があるという。他ソフトとの連携にもPro版が必要なのだが、このレベルの使い方だと無料版でも十分に使えそうだ。
今回は天空に浮いたようになっている板が数枚あるが、実はこれは細かいアールのついた二本の支柱で壁に凭れかかるタイプの本棚だ。こうした細かいアールは他のソフトとの連携が必要かもしれない。身近なものだとコーヒーメーカーとか電気ポットのようなものが実はかなり複雑な曲線で構成されていた。試しに作ってみたが直線ではちょっと無骨になった。一応大きさはわかる。
もうじきゴールデンウィークなので、まとまった時間に部屋の模様替えなどいかがだろうか。実際には並べなおすよりも計画している時の方が楽しいのだ。いったん部屋のモデルができたら、あとはお気に入りの家具などの形状を計測して、部屋においたらどう見えるかをシミュレーションすることもできる。まあ、実際に家具を買うのは高いし、失敗しても簡単には捨てられないけど、パソコンの中なら無料でいくらでも試すことができる。特にIKEAの家具などは豊富に揃っている。実際に家具を買うわけではないのでいらなくなったらデリーとすればいいだけだ。

鬱積・行き詰まり・書くこと・時期

先日「魂の殺害者」というエントリーが多く読まれた。調べてみると2009年の記事だったのだが中身はほとんど忘れていた。こういう記事は他人が書いたものとして気軽に読めるし、自分の記事なので書き直しも自由だ。てにおはや語尾を直したりしたが、なかなか面白かった。
「魂の殺害者」は精神病を患った人の話なのだが、背景には父親の抑圧があり、さらにその背景には時代の空気がある。第二次世界大戦前のドイツの話が今読まれるのは、こうした時代背景が現代と共通していてある程度の切実さがあるからだと思う。
数年前の記事なので下手なのかと思うのだが、文章としては今のものより面白い。一冊の本を読んでじっくりと書かかれていて、誰かに読ませようと思って書いていないのだ。そのため、よく思われようとか、相手に印象付けようという無駄な自意識が全くない。
ここに至る前は「社会はくだらない」というような話を書いていた。切実に読んでほしいと思っていたが、需要も文章力もなかったのだろう。全く読まれなかった。今ある穴から抜け出したいという気持ちもあったのだ、もちろん何も起こらない。
今「魂の殺害者」の感想みたいな文章は書けないなあと思う。理由はいろいろある。個人の移ろいというのももちろんある。書物の実力はあまり進歩しないが、プログラムは過去のロジックやライブラリーが溜まってくるのでできることが増えてゆく。するとじっくり何かを読むよりは、手を動かして何かを作ったほうが楽しくなる。
個人の変化だけでなく、時代背景も大きい。2009年は民主党政権ができた時期で人々は「これで誰が(つまり政治家なのだが)がなんとかしてくれる」と思っていた。だが実際に民主党で関係者の話を聞いてみるとディテールが曖昧でいい加減な人たちが群がっていた。これは早晩破綻するだろうなと思っていたら案の定3年ちょっとで思った通りに破綻してしまった。
つまり、その頃に個人の行き詰まりを書いても誰も共感してくれなかった。しかし、現在は政権がわかりやすく行き詰っているために不満が渦巻いている。政府や地方自治体の言っていることは明白にでたらめなので、それを「落ちる」言葉で説明するだけで需要が生まれてしまうのだろう。「なぜ日本人が複雑なプロジェクトを扱えなくなったのか」という疑問も多くの人に共有されている。これ自体は実行は難しいが説明自体は簡単なので、大した知識がなくても書けてしまうし、それが驚くほど多くの人に読まれることもあるのだ。
多くの人がフラストレーションを感じているかもしれないのだが、これは闇市に多くの人が集まっているような状況だとも言える。所得倍増計画前の状況に似ていて、先見性のある人なら「これを活かせば活力を取り戻すのは容易だろうなあ」と思える。さらに他人とつながること自体はとても簡単になった。ソーシャルメディア技術が発展して、発信したり人の意見を聞いたりできるからだ。ここまでの技術は数年前には見られなかったし、そもそも観客になる人たちがいなかった。
面白いことに、不満が内部に鬱積している状況で感情に出口がないという状況は無駄にはならない。個人の不調というのは時代が追いついていないだけでやがて共有されることになるのだと思う。逆に鬱積した時期でないとできないことも実は多い。それを他人や政権のせいにしても仕方ないとは思うのだがその感情も無駄にはならない。結局「他人を責めても何も変わらなかった」と実感しない限りその先へ行けないからだ。その意味ではそれは穴ではなく別の通路の始まりだったことになる。
ただし、こういう記憶は容易に失われる。たとえば本を読んだことも覚えていなかったし、その時何を感じたかということも記憶になかった。文章を誰でも読むことができるところに残しておくと、誰かが見つけて思い出させてくれることもある。つまり、書いて記録を残しておくという行為も決して無駄になることはないのだ。

Twitterの議論が不毛なのはそこに智恵がないから

今日のお話はいささかお説教めいている。すこし身近にしたいので「Twittter」という誰もが不毛だなあと考えている題材に落とし込むことにした。Twitterにはなぜ俺より馬鹿なやつしかいないのかという問いを置いてみた。
Twitterには多くの情報が乱れ飛んでいるが、解決策は落ちていない。
情報とはデータをある目的のために並べたものである。Twitterではデータはしばしば「Fact(事実)」とか言われる。事実には、原因とその結果が含まれるようだが、これらはごっちゃにされることが多い。情報には物語も含まれる。これはどちらかといえば情報が先にあり、情報に合うように事実を並べたものである。
宇宙を例に出すとわかりやすい。データや事実に当たるものは星だ。これを宇宙を航行するために並べ替えたものが情報になる。神様が宇宙を創ったからという理由で地球を中心に並べた惑星図を物語といい、「あの星がペテルギウスの形に見えるのはペテルギウスが空に昇ったからである」というのも物語である。物語は事実を解釈したものだが、解釈に沿って事実を並べ替えることもできる。これは「原理主義的な」と言われたりする。
さて、情報が必要になるのはどうしてなのだろうか。星の例で言うと宇宙を航行する必要があるからだろう。つまり行動が伴うと情報が必要になる。行動が必要なければ情報はいらないのだ。Twitterの議論がくだらないのは人々が行動しなくなったからであると置ける。
さて、ここまではデータを動かないものとして考えているわけだが、実際にはデータが蓄積されてくると、ある程度の予測ができるようになる。行動指針のことを「洞察(インサイト)」などと呼ぶ。さらに重要なのは、星と違って人間が作った事実は変わりうるし変えうるということだ。変わらないものを受け入れて、変えられるものを変えてゆくことにはいろいろな呼び名があるのだろうが、ここでは智恵と名付けたい。
智恵はTwitterだけではなく、あらゆるところで欠如している。最初のうちには「みんな馬鹿だから」智恵がないのだと思っていたのだが、どうもこれは正しくないようだ。そもそもTwitterで他の人が馬鹿に見えるのは、人の位置がそれぞれ異なっているからだ。つまり、その人の立ち位置から見える「事実」はその人が一番よく知っている。どう見えているかというのも事実の一種なので、他の人よりもいろいろなことを知りうる立場にいるということになる。だから他の人が馬鹿に見えるのだろう。
日本人が智恵を扱えない原因の一つとして考えられるのは、日本の教育がデータと簡易的な処理方法の詰め込みに力を入れており、得られた知識をそれをどう生かすかということについてはあまり力点を置いていないからだろう。これはキャッチャップ型の工業後進国には即したやり方だが(物理法則は変わらないので事実の変化を伴わない)のだが、サービス産業主体(ソリューションベース)の先進国にはふさわしくなかった。
次の理由は社会のプレイヤーが智恵の領域にアクセスしないことによって生じる。例えばマクドナッルドのバイトは来たお客さんにできあいのハンバーガーを提供するという仕事だけを行っている。ここに来て、お客が自分のニーズを伝えて「それに合うようなものを作ってくれ」と頼んでみると良い。マクドナルドのバイトは多分怒り出す。さらにバンズの置いてある位置やバーナーの位置をちょっと変えてみる。多分、バイトはハンバーガーが提供できなくなってしまうだろう。
たぶん、これと同じことが社会全体に起きている。時代が変わると経年劣化や変化が起こるので、事実そのものが変化してくる。ところが日本の教育は変化を扱えないので、溜め込んだ知識にほころびが出てくる。するとほころびを取り繕うために時間を取られるので、知識を洞察に変えたり智恵を溜め込んでゆく時間がますますなくなる。つまり忙しいので智恵を貯める時間がないということになる。智恵が貯まらないと現実に即して行動を買えてゆくことができないのでますます忙しくなるというわけだ。
本来は「我々は智恵を持つべきか」というようなことを書きたいのだが、これはマクドナルドのバイトに経営マインドを持つべきだと言っているのと同じことなので、言うだけ無駄だと思う。しかし、データだけがいくら集まっても、それが智恵に昇華するということはない。どちらかというとたまり続けるデータとその加工に翻弄されることになる。これはビックデータを扱った人なら経験があることだろう。だが、この感覚もデータに埋もれてみないとわからないことだ。
つまり、データの氾濫に疲れ果てて「なんとかしなければならないのでは」と思った時に大きなチャンスがあると言える。疑問と違和感の中には解決のために鍵が隠されているのはずなのである。

ファッション雑誌はいらない – オンラインの現状

先日、ファッション雑誌には足りないものがあり、ネットには新しい可能性があるだろうと書いた。まあ、理屈としてはわかるのだが、実際を調べてみた。
「私をまとめる」という機能はないが、スタイルごとに情報をまとめるくらいはできるようになっている。多分、スマホ世代で「雑誌でしかファッション情報を取らない」という人がいれば、かなりの情報弱者だろう。ファッション雑誌が、読者モデルのスター化を進めたり、中高年を相手にしなければならない事情がよく分かる。ファッション情報の提供という意味ではすでに遅れた存在なのだ。

WEAR : 参考になる人を見つける

zozost
ZOZO Townのメールマガジンにショップスタッフのコーディネートが出ている。身長や体重の記述があるので、似ている属性のスタッフさえ探せれば参考になるかもしれない。実際にはWEARのシステムを使っているようだ。
スタイルはタグ付けされており、気に入ったスタイルを探すこともできる。ちなみに大人カジュアルを検索するとこんな感じになる。ショップ現場の情報なので雑誌編集者のバイアスが入っておらず、生の声に近いと言えるかもしれない。一方でデザイナーが新しいスタイルを提案したいと考えても、現場が納得しなければ導入は難しいだろう。ファッションは却って保守化しそうだ。
各コーディネートはアイテムに結びついているので、どのような着方がされているのかを勉強することもできる。性質上、購入前情報の提供が主眼になっているが、購買後の研究にも使える。
プロのモデルとの一番の違いはポーズのバリエーションが少ないことなのだが、洋服とはあまり関係がない。

Lookbook

lookbookこのWEARの元になっていると思われるものがLookbookだ。こちらは消費主体の発信になっているのだが、長く続けている人はポートフォリオをまとめたい写真家などのようだ。
Lookbookはポートフォリオ形式だ。見せたいのはその人らしさであって洋服ではない。WEARには目に線が入った人がいるのだが(日本人は目が特定されると魂が抜かれると考えているのかもしれない)Lookbookにはそれは見られない。
日本人の参加者もいるのだが、活動はあまり活発ではないようだ。

Lookbook : スタイルを探す

explore
Lookbookはしばらく見ないうちにかなり進化していた。中でも面白そうなのが「Explore」機能だ。どのような仕組みで選ばれているかはわからないが、トレンドになったタグやタイトルが集められている。このため、スタイルやトレンドに合わせて服を選ぶことができる。例えば「Yogaをやりに行くときにはどういう格好がよいのか」ということが探せる
日本のサイトはどうしても「服を売りたい」という視点で作られるのだが、Lookbookは自分を表現するということがテーマだ。だから、服はそのための道具の扱いである。
日本人がどうしてLookbookのようなサイトが作れないのかという仮説はいくつかある。一つ目の仮説は専門性のサイロ化が進みやすいという供給側の事情だ。次の仮説は同調傾向が強く「私らしさ」を打ち出すよりは「みんなと同じものを着て安心したい」という傾向が強いからかもしれない。二番目の仮説を取ると「売れ筋」のような企画に人気が集まり、私らしさを打ち出す企画には人気がないことが予想される。

プロはどう発想をまとめてゆくのか

ファッションデザインは西洋の考え方がデファクトスタンダードになっている。『ファッションデザイナーの世界』を読むと、どのようにコレクションを作るのかがよく分かる。概念の説明ではなく具体的な資料が多いので、グラフィックデザインを扱いた人は一度は目を通しておくべきかもしれない。
デザイナーはコレクションを作る前にテーマを決める。そのテーマを想起する写真素材を集めてボードを作る。そして、その世界観を実現できる素材を探して、最終的にスタイルを決めてゆく。
ファッションデザイナーを扱ったテレビドラマなどで天才デザイナーがいきなり着想を得てサラサラと白い紙にペンを走らせるようなシーンが出てくるが、何の準備もなしに着想できる人などいないのだ。
仮にいたとしてもその人は現在のデザインシーンでは活躍できないだろう。ファッションの世界は分業化が進んでいて、着想したものをインドや中国のスタッフに伝えなければならない。日本人はクリエイティブを演奏家のように考える傾向があるが、実際にはオーケストラの指揮者に近い。
pinterest以前にも紹介した通りコレクションボードを作って共有するのはとても簡単になっている。ピンタレストというサービスがあり、ネットにある写真をピン留めして整理してくれるのだ。新しい素材を発見するのも簡単で、機械が自動的にお勧めを教えてくれる。ビジュアルデザインを扱う人で知らない人はいないと思うのだが、トレンドを扱う事務方の人の中には知らない人もいるかもしれない。
このボードは「昭和の懐かしいもの」というタイトルをつけた。面白半分のコレクションだが、こうしたコレクションであっても招来何かの役に立つかもしれない。役に立たないとしても眺めているだけで楽しい。

まとめ

ファッションデザインだけでなく、雑誌は情報整理の最先端ではなくなりつつある。キーになりそうな要素はいくつかある。

  • より多くの人が提供できる。(集合知)
  • 集合知が定型化されていて、タグ付けができる。
  • タグ付けされた(データが情報になった)ものを、個人が整理できる(マイページ)
  • データが評価される。(フィードバック)
  • 評価に基づいてデータが自動的に収集される。

ネットは相互学習のプロセスなのだということがよく分かる。この相互学習のことをインターラクティブと呼んでいるのだ。
 

劣等機能 – Twitterにはなぜバカが多いのか

Twitterには「バカ発見装置」という別名が付いている。では、Twitterにはなぜバカが多いのだろうか。それは社会的に許容されるべきなのだろうか。真剣に考えてみたい。

この問題を考えるためには「バカとは何なのか」ということを真剣に考えてみなければなるまい。バカとは社会的に訓練されていない機能のことである。例えばユングは人の機能を4つにわけて分析している。それは思考・感情・直感・感覚の4種類である。人には得意な機能がある。と、同時にその対になる不得意な機能を持つのだ。
Twitterで「バカ」を発露する人は、自分の得意でない機能を発揮していることになる。例えば感情的にしかものを見ることができない人が「思考」に捉われたとき、その人は「バカ」であるということになる。発信している人は「独り言」のつもりだが、それが世間に晒されてしまうのである。
では「人はバカであってはいけないのか」という問題が出てくる。バカな機能(すなわち劣等機能)は制御できない形で表面化する場合がある。劣等機能の暴走は人生を壊滅的に破壊する可能性があるとされる。社会的に慣らされていないばかりか、使われないことで無意識に抑圧されているからだ。
これを防ぐためには「劣等機能を意識し、それを育ててゆく」ことが必要だと考えられている。が、実際にはどれが劣等機能かということはその人には分からない。無意識に抑圧されているのが劣等機能だからだ。故に「それを意識して育ててゆくこと」は不可能ではないのだろうが難しい。
で、あれば「様々な自己」を発露する場を作っておいて、それを社会的に馴化してゆくしかないということになる。つまり、ソーシャルネットワーキングサービスを馴化の場として利用することができるわけである。
もちろん、ソーシャルメディアと言っても様々な種類がある。例えば実名が前提のFacebookは比較的強いつながりで構成されている。そこで劣等機能の馴化を始めると「人々が驚いて引いてしまう」ことが十分に考えられる。例えば、普段政治の話をしない人がFacebookで政治の話を始めるとどうなるだろうかということを想像すると分かりやすい。一方、Twitterは実名が前提になっておらず馴化の場としては利用しやすいかもしれない。
さて、日本のソーシャルネットワーキングには別の危険性がある。集団で劣等機能を発現するという選択肢が残されているのだ。
例えば、日本の男性は社会的共感というものを訓練する場がないが故に、共感機能は劣等機能化しやすい傾向があるかもしれない。ところが何らかの事情でこれが表面化することがある。「家族」や「つながり」と言った価値観は、まず高齢者が読み手であるWillなどの右翼系雑誌で劣等機能として発現した。そこに野党化した自民党が結びつき暴走を始めることとなった。再び与党に返り咲いた安倍自民党が一部の人から嫌われるのは、彼らにとって「思いやり」や「共生」といった概念が彼らにとって明らかに社会的に馴らされていない劣等機能だからである。
一方、日本の女性は「共感すべき」とされており思考が劣等機能化しやすい。そこでそうした人たちが集まると科学的にめちゃくちゃなことが「事実」としてまかり通ることとなる。当然、女性の中にも思考的な人がいて「ああ、めちゃくちゃだなあ」と思うわけである。だが、当人たちは意に介さない。そもそも「感情を説明するために思考を利用しているだけ」だからだ。
劣等機能を馴化しないことは社会に取って大いなる害悪をもたらすのだということが言えるだろう。それを防ぐためには、個性化が「個人の不断の努力」である必要がある。Twitterの「バカ」は個人である限りには、学習の一環として容認することができる。しかし、それが社会的に結びつき、振り返りを忘れたとき、社会的な害悪となってしまうのである。

クリエイティブな脳の作り方

日々、検索キーワードを眺めていると、いろいろ面白いものがある。今回は「クリエイティブな脳の作り方 本」というのがあった。クリエイティブってなんだよ、とひとしきり毒づいたあとで、気を取り直してこのテーマについて考えてみることにする。
「クリエイティブってなんだよ」と毒づくのは「ネットでクリエイティブって検索して、すぐに見つかるほど甘いもんじゃないよ」という気持ちがあるからだ。多分、検索して1時間くらい本を読んだら「クリエイティブになれる」くらいの安直なものを探しているのだろうなどと思ってしまう。
ところが、世の中にはそうした人たちに向けて書かれた本というのが実際に存在する。『リファクタリング・ウェットウェア – 達人プログラマーの思考法と学習法』の「ウェットウェア」とはつまり脳の事である。著者は「本書で紹介するテクニックを実践すれば、読者の学習スキルおよび思考スキルは向上、日々の生産性を20%から30%改善できる」と主張している。
この手の本はいくつも存在する。しかし、本が指南するのは生産性を上げる方法であって、それが「必ずしもクリエイティブであるか」とは限らない。
そもそもクリエイティブってどういうことなのだという問題は残されたままである。
次の本はウォートンビジネススクールが出版した『インポッシブル・シンキング 最新脳科学が教える固定観念を打ち砕く技法』という本だ。この本は「メンタルモデル」について書いている。
メンタルモデルとはいわば「固定概念」や「思い込み」の事だ。メンタルモデルを持つ事自体は悪い事ではない。メンタルモデルがあるおかげで人は様々な情報を知識として理解することができる。
しかし古くなったモデルは様々な問題を引き起こす。そこでモデルそのものを疑ってみる事で、新しいアイディアを得ようとするのがこの本のアプローチである。
この本の優れた所は「固定概念はいけないことだ」との断定を避けている点だ。逆に古いモデルを完全に捨ててしまうことで起こる不具合というものも存在する。また、新しいモデルを他人に受け入れてもらうためにはどうしたらいいのかという点 – いわゆるチェンジマネジメント – についても言及している。新しいアイディアを考えても、現実に受け入れられなければ意味がないという姿勢が見える。
最初の本『リファクタリング・ウェットウェア』は、自分の与えられている職務の範囲でのクリエイティビティを扱っていた。ゴールそのものには意義を差し挟まない。ところが、ビジネススクールは経営を扱っているので、チーム全体が生き残れるように最適なモデルを提供する必要がある。
同じ「クリエイティブ」でも、そのレイヤーによって違いがあるらしい。だんだんと「クリエイティブ」が何を意味するかということも明確になってきた。
次の本は名著『天才はいかにうつをてなずけたか』である。Amazonの書評は辛い。実際にうつ状態にある人が解決策を見つけようとして、この本を買うらしい。ところがこの本は「うつを克服する」方法には触れていない。「どう、てなずけるか」というのは「うつ状態」が持つ役割について理解する、折り合いをつけるということだ。
いっけん、クリエイティビティとは関係がなさそうだが、人間の創造性の破壊的な側面について書いてあるともいえる。創造力というのは、現在にないコンセプトやメンタルモデルを作り上げるということだ。
心理学、政治、物理学などの課題にまじめに取り組んでいると、革新的なアイディアに行き当たることがある。『インポッシブル・シンキング』と用語を揃えると、こうした「メンタルモデルの変更」は人生やキャリアそのものを大きく脅かすことがある。
しかしながら、それを乗り越えた所に偉大な業績がうまれることがあるのもまた事実だ。チャーチル、カフカ、ニュートン、ユングなどの事例を紹介しつつ、彼らの「創造性」について考察している。
このレベルの創造性は「社会的な常識との折り合い」が付けにくい。人が一生をかけて身を投じるレベルの「創造性」だ。また「創造的になろう」と思ってこのような境地に至ったということですらなさそうである。
多分「ネットでクリエイティブについて検索してやろう」と考えている人は、このようなレベルのクリエイティビティを求めているわけではないと思う。例えば、日々CMを作っている「クリエイティブなディレクタ」が、全く創造的な映像表現手法を思いついたとする。それは高い確率で「お茶の間にはそのまま流せない」ような映像のはずだ。この考えに取り憑かれたディレクタが、その後も仕事を続けたければ、その思いつきをきれいさっぱり忘れてしまう必要がある。
いずれにしても、クリエイティブであるということは、オリジナルであるということと同じ意味らしい。そのためにはキャリアの最初に「ただひたすら作る」とか「経験を積む」というスキルを伸ばす時期が必要だ。
今回、ご紹介した本は、例えば「オリジナリティのある帽子を作りたい」というような人には向かないかもしれない。しかし、考えてみれば専門学校を卒業した時点で何の蓄積もなく「オリジナルでクリエイティブな帽子」が作れるはずはない。もし、若くしてオリジナルな何かが作れるとしたら、それはその人が持っている特性とか経験や物の見方に根ざした何かがあるからだろう。また「クリエイティブな帽子」が出てきた背景には、なんらかのマインドセットの変更があるはずだ。
ことさらに「クリエイティブ」になろうと思わなくても、人間の脳には「クリエイティビティを指向する回路」というものが組み込まれているのではないかと思う。でなければ、人生が台無しになる危険を冒してまで創造性に生きようという人が出てくる理由が説明できない。

共感について考える

先日のエントリーでは、傷を負った社会が、どのようにそこから回復したかということを観察した。傷を負った地域を「切り離す」ことで、これをなかったことにしようとする一方、被災した地域と「そこに援助してあげる地域」という上下関係ができ始めているように見える。敏感な人たちが「絆」という言葉にちょっとした違和感を感じるのは、こうした治癒が必ずしも根本的な不安の解消につながらないからだろう。
こうしたエントリーを書いたのは、コフートの『自己の修復』を読んだからだ。
心理学者はコフートを安易に集団心理に適用したりはしない。そもそも一生かけて書いた三部作なので、1時間くらい読んで「はい、分かりました」という類いのものでもない。まず、この点をお断りしておく。
コフートはフロイトの心理学を受け継いで、さらに「自己心理学」という体系を作った。三部作の二作目に当たる『修復』にはいくつかの症例が出てくる。患者は共感の薄い母親を持って傷ついている。その後、父親を理想化しようとするのだが、父親の方はうまく対応できない。子どもはなんとか成長するのだが、ある時点で言葉にはできない無力感のようなものを感じるようになり、精神分析を受けにくる。
コフートの心理学の目的は、獲得しそこねた「共感」と傷を再確認することによって、患者が正常な状態に戻るように援助することだ。そして、いつ「治癒が終了するのか」(つまりは、何が正常なのか)という点についてしつこく考察している。子どもの時に獲得できなかった共感が治療によって得られるわけではない。つまり、傷がなくなるわけではない。
あるエピソードでは「言語的に優れていた父親」との関係を取り結ぼうとして失敗した男が著述業を職業にしている。つまり拒絶されたと感じたことを職業にして乗り越えようとするわけだ。ところがある時点でこれに満足感を感じられなくなって治療を受ける。治療が進むにつれてこの男は「学校」を作る事を思い立つ。自分と同じように「言いたい事をうまく言語化できない」人たちを手助けしようと考えたのだという。極めて個人的な動機に基づいているのだが、自分と共通する悩みを持った人たちを手助けするためにより創造的な分野へと進出して行くのである。
もちろん自己愛性人格障害に悩む人が全て「創造的」になるわけではないだろう。と同時に、個人的な不安が他人のニーズを汲み取ったソリューションの提供につながる可能性があるのも確かだ。コフートは共感を酸素のような存在だと考えている。つまり生きて行くのに必要不可欠の要素だ。
コフートの時代には「共感」がどうしてうまれるのか、それが人々の生育になぜ必要なのかということはよく分からなかった。脳の中に、共感と関連していると考えられるミラーニューロンのようなシステムがあるということが分かったのは1996年なのだそうだ。
他にも分からないことは多い。どうして母親の共感が損なわれるのか(器質的に損なわれているのか、心配事などがあり一時的に損なわれているのか、それとも共感が育ち損ねたのかということだ)ということは分からない。そして父親がどうして子どもの期待に応えられないのかも不明だ。父親の能力が欠けているからなのかもしれないし、子どもが父親の能力を超えて成長するからこそ「応えられない」のかもしれない。つまり、成長しつつある社会ではこうした「物足りなさ」は珍しくないのかもしれない。怖れや怒りのようなネガティブな気分が共感を損なうのではないかと思えるが、これも特に問題にはなっていない。
今回考えているラインは「共感を獲得し損ねる」「自分についての価値を感じられない」「気力や生きる意味を感じられなくなる」という感情について「自分は共感を得るのにふさしい存在だということを認識する(つまり自己愛を再獲得する)」ことで「成長が再開され」「共感を通じて、自分を愛せるようになるのと同じくらいに他者をも愛せるようになる」というシナリオだ。あらためてこうした苦痛を意識化することで、自然に共感を体得した人よりも深い自覚を得るだろう。つまりセルフ・プロデュースは「共感を得るのにふさわしい自分」を再認識するために使われる道具立てに過ぎない。
自己の修復には別のパスもある。どちらかといえば新興工業国では賞賛されてきた態度だ。母親と死に別れ、父を頼る事もできなかった青年が「寝ないで働き」お金を貯めて起業する。自分が克己したからという理由で従業員とも同じ文化を共有しようと考える。しかし、これが「過労死」を招く。ある人はこれを競争社会の成功例だと考え、別の人はこれを「ブラック企業」と呼ぶ。従業員を過労死させた同じ企業が福祉分野にも進出している。こうした人たちを「良い人」「悪い人」と単純に区分することはできない。福祉分野で働いているうちに従業員が過労死ということもなくはないし、これで助かった人がいるのも事実だろう。多分本人は自分のことを「共感力のある優しい人間」だと考えているのではないかと思う。
コフートの時代まではカウンセリングによる治療が一般的だった。時間がかかる上に高額な治療だ。こうした「贅沢」な治療は、その後投薬治療にとって代わられる。これで救われた人も多いだろうが、そもそも「薬で症状を押さえ込んで、今いる戦闘部隊に復帰させること」が正常化だとされているのも確かだ。「今やっていることに意義を感じられない」のは、失敗ではなく成長の証かもしれないのだが、極度まで効率化された社会からの離脱は贅沢であり、許されないこともあるわけだ。
つまり、効率的で洗練された上に、力強い社会が「成長」を妨げている可能性もあるのではないかと思う。

全てを流される

ある日突然、全てを流されたとする。ある人は自ら選んだことによってそうなるし、人によっては何の過失もないのに全てを失ってしまう。街一番の人格者も流されてしまうかもしれないし、とっさの判断で足まで流されそうになりながら助かった人もいるだろう。私は何か悪いことをしただろうか、これは何かの罰なのだろうかと思うかもしれない。人間の理解は限られていて、全ての意思を推し量ることはできない。それどころか、そうした意思があるのかさえ分からなくなってしまうだろう。
呆然としてその場に座り込む。何日も、あるいは何年も歩き回る人もいる。目的地はない。その間、自らを省みて「亡霊のようだ」と感じるかもしれない。そもそも全てを流されるということは生活の糧を失ってしまうということだ。それは人生の目的地を失うに等しい。大抵の場合、人々は日々の生活の糧を得る事を人生の目的にしている。生きる目的がないわけだから、それは「死んでいる」のと同じだと考えても不思議ではない。
次に、流されたものを元通りにしようとする。ある人はこれを復興とよび、また別の呼び方をする人もいるはずだ。しかし、流されたものは戻らない。作り直したとしてもそれはもとのような輝きを取り戻すことはない。新しいものを手に入れたとしても、それは失ったものとは別のものなのである。過去持っていたものは思い出の中にあり、実際以上に大切なものに思えるかもしれない。
人によってはその糸口さえ見つからない。人々の善意に頼り、時にはそしられたりもする。世の中には立派な人がたくさんいて、自分たちを立派だと思っている人たちもまた多い。ある人は「かわいそうだ」といい、ある人は「怠け者だ」というかもしれない。こうしたことが何年も続くことがある。自分が何か悪い事をしたからなのだろうか。それとも他の誰かが悪いのか。私には誰も味方はおらず、あるいは運もないのだろうかと嘆く。しかし事態は変わらない。結局は自分で歩き出すしかなかろうということになる。
いろいろとやってみるが、どれもつまらないものに見える。個人でできる事など限界があるだろうとも思う。生きていることに感謝しようと思うかもしれないが、無理に感謝してもその気持ちは長く続かない。その気持ちに負けて立ち止まることも多いだろう。しかし「運の悪い事に」まだ生きている。
何もない所に波を起こそうとしている。動きのないところに波は立たない。足をばたばたさせてみても大した波は立たないし、前に泳ぎ出すこともできない。そんな感じだ。周囲には大きな波があり、目の前を誰かがすいすいと泳いでゆくかもしれない。しかし、足を止めてしまえば沈んでしまう訳だし、そもそも退屈で何かせざるを得ないはずなのである。
さて、この体験は何か意味があってあなたに課せられたものなのだろうか。人には乗り越えられない試練などないのだろうか。そうなのかもしれないし、誰かがいうように、人生は何かの修行なのかもしれない。あるいはそうではなく、たまたまそこに居合わせたからなのかもしれない。知り得ないわけだから、この問いには意味がない。
意味のない問いを何回も繰り返し、時折小さな喜びを目にし、ちっとも前に進まないことにイライラする。波はまだ起きていないように思える。例えば、家族をなくしてしまった人たちは、目の前で咲く桜の花を見て、今年も春がきたと考え、そして大きな罪悪感に駆られるかもしれない。このようにもはや単純な喜びさえない。もはや他人の言葉では歌えない。いつも何か気がかりがあるような感じだ。これが全てを流されるということなのである。にも関わらず、小さな喜びは時折訪れる。これが生きていることの不思議なところだ。
ある日突然 – その日は多分ありふれた日の一つに過ぎないのだろうが – なんらかの兆候を見つける。その兆候を眺めているうちに、そのまままた流れてしまう。かつての記憶が蘇り、期待するのはやめようと思うかもしれない。そしてあるとき、また別の何かを見つける。いつものようなありふれた何かのようだ。しかし、そこから小さな何かを受け取る。そこで初めて、過去に始めた何かが実を結んだことを知る訳である。とてもありふれたもので、誰かに自慢したいと思うようなものではないだろう。しかしそれはあなたが起こした何かの結果なのだ。何もないと思っていたところから何かが生み出されたのである。
「流される経験」ということで、今回の震災を思い出す人がいるかもしれない。しかし、何かを流される経験は誰にでも起こる可能性がある。その経験に意味があるということはないし、意味がないということもない。良い経験というわけではなく、悪い経験ということもない。すぐに歩き始めてもいいし、しばらく呆然としていても構わない。誰かがそれを責めるかもしれないし、がんばってと声をかけてくるかもしれないが、それはあなたの経験であって、その誰かの経験ではない。無理に歩き出しても意味がない。しかし多くの場合、気がつかないうちに歩き出しているものだ。
流された経験には計るべき価値はない。あるのかもしれないが、私たちには分からない。何もないところからあなたが起こした、あるいは起こそうとしている何かには意味がある。何もないものを10,000倍に増やすことはできないが、小さい何かは何倍にも膨らむ可能性がある。この違いは大きい。一人で起こしたというわけではなく、無数の誰かが関わっているということが分かるはずだ。多くは会った事も、これから会う事もない人たちで、従って「ありがとう」と声をかけることはできない。しかし、無理に感謝してみようと思っていた経験があるからこそ、その感謝は以前のものとは違っているということが分かるのだ。
小さな何かが育つ前にまたしても流れて行くかもしれない。しかし、流されてもこう思えるだろう。私には何かを作り出すことができるのだと。失ったものは戻らない。しかし私たちはまた新しい何かを作り出す事ができる。
生き残ったということはどういうことなのだろうかと考えてみる。結局はまた歩き出せるということだし、何かをしたくなってしまうということなのだろうと思う。こうした経験を経て、人は、確かに自分の力で価値を生み出せるということを確信する。流された経験には意味がないが、新しく生み出された何かはどんなに小さくても意味を持っている。そうした力が人に備わっていることこそが、恵みと呼べるのかもしれない。そして、その小さな力だけが社会全体を変えて行く力なのだろう。全て押し流されたように見えて、一番大切な何かは残っている。だから悲観しても嘆いても誰かを責めてもいいのだが、決して諦めてはいけない。

青騎士

なぜだが1914年の青騎士たちはハイテンションだったようだ。騎士たちのひとりカンディンスキーはこう書いている。

特定の時期になると必然性の機が熟す。つまり創造の精神(これは抽象の精神と呼ぶこともできる)が個人の魂に近づき、のちにはさまざまな魂に近づくことで、あこがれを、内的な渇望をうみだす。[中略]黒い手がかれらの目を覆う。その黒い手は憎悪するものの手である。憎悪する者はあらゆる手段を使って、進化を、上昇を妨害しようとする。これは否定的なもの、破壊的なものである。これは悪しきものである。死をもたらす黒い手なのだ。

彼らは官展への出展を拒否され、膠着した状態がそこにはあった。(黒い手とは彼らを拒否した芸術家たちを現しているのかもしれない)「内的な何か」がその膠着を打開するものだと考えられていた。日本の昨今の状況と異なっているのは、内的な何かがいずれ「さまざまな魂に近づく」つまりひとりの理解を越えて集団の理解に至るだろうと考えられていた点だ。同じ世界観がユングにも見て取れる。彼はそれを「集合的無意識」と呼んだ。彼らが単なるルサンチマンだと言われなかったのは、独創性のある作品を産み出したからである。また、それを評価する人たちもいた。
先ほどの議論を見ると、個人の内的世界はあくまでもプライベートなもので、それを理解させるためには「プレゼンテーション」が必要であるという前提がある。つまり、内的な何かはそのままでは理解されないだろうということだ。この「集団的何か」を信じるか、信じないかの違いは大きい。そして、日本人の識者たちがどうしてそうフレームするに至ったのかという点は考察に値するだろう。俺の内面はそのままの形では理解されないという仮定は、俺はお前をそのままの形では理解しないぞという宣言と同じだ。そこに相互理解や共感の入り込む隙間はない。
さて、このハイテンションなカンディンスキーはきっと若かったんだろうなと思ったら、そうでもなかった。1866年生まれとのことだからすでに40歳を少し過ぎていたことになる。フランツ・マルクはもう少し若くて1880年生まれ。こちらは第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで戦死して、パウル・クレーを大いに悲しませた。