籠池諄子さんと統合されない母親

籠池諄子さんが大阪市役所で大騒ぎしたらしい。これを見てこの人の問題点がわかったように思えた。と同時にこういう人を相手にしたときにどう対処すべきなのだろうかと考え込んでしまったのだが、なかなか良いアイディアは浮かばなかった。
籠池諄子さんは当初「大阪市役所は保育園を潰そうとしている」という認識を持っていたようだ。話はかみ合わなかったらしいが、最終的には「大阪市役所が保育園の存続を認めてくれた」と感じたようだ。つまり認識が180度変わったことになる。しかし、後から大阪市役所に確認をすると、大阪市役所は「保育士が6名にならないと続けられないですよ」と言っただけだったようである。ただ、大阪市役所は籠池諄子さんに暴れられると困るので「存続できるためにはどうしたらいいか考えましょうねえ」という調子で話したらしい。
籠池諄子さんが「大阪市は保育園を認めてくれた」と思ったのは、市役所が「保育所を続けるにはどうしたらいいか」というような話の仕方をしたからではないかと考えらえれる。だが、そこには「条件が合わないと続けられないんですよ」という含みがあったはずだ。つまり、大阪市にはある期待があり、その期待に籠池諄子さんが応えたら保育園が続けられるということだ。ところが籠池諄子さんには「保育園を邪魔する悪い大阪市」と「保育園を許可してくれる良い大阪市」という極端に2つの像を持っており「悪い大阪市」に直面するとパニックを起こして泣き叫ぶ。一方で「良い大阪市」を認識すると、自分は全面的に肯定されたと思い込んでしまうのだ。
ここには対人関係に関する根本的で極めて深刻な問題があるように思える。極めて深刻なのだが、人間が成長するときには必ず通る道でもある。モデル化された生育論では、赤ん坊は良い母親と悪い母親という統合されない母親像を持っているとされている。これが統合されると母親を人格として認識できるようになる。この結果生じるのが人格の独立である。対象となっている人を多面的に捉えることができるようになり、自分もまた相手と同じように多面的であるということを理解してゆくのだ。
母親から独立していない赤ん坊は乳が与えられなくても「私に何か悪いことがあるのかもしれない」などと内省したりしない。ただ泣き叫ぶだけである。籠池諄子さんの大阪市に対する対応は乳を与えてくれない母親に対する態度に似ている。しかし、肯定的な態度に出られると、今度は全面的に信任されたと思い込んでしまうのだ。大阪市の話によれば「保育士は6名いる」という決まりが理解できず、勝手に3人くらいで十分でしょと言っていたという。
ここからわかる第一のポイントは、依存している相手が全面的に自分の期待に応えてくれないと感じて苦しんでいる人は、自己と相手の距離を置いてみて冷静に関係を分析することで、その苦しみを軽減することができるというものだ。相手を「良い悪い」に極端に分けてしまうというのは赤ん坊と同じ状態でいわば対人依存だ。自分の願望がすべて叶うことはないわけで、例えば50%だけ叶えられてもそれが不満に繋がってしまう。これはかなり苦しい人生だろう。相手と距離を置いて、必要最低限のことは叶っていると考えれば苦しみは軽減できるかもしれない。
ここで考え込んでしまったのは、籠池諄子さんのように良い人間悪い人間というくっきりとした対人関係しか結べない人が老年期を迎えてしまったとき、私たちに何ができるかということだ。噛んで含んで自分の主張を教えようとしても「悪い人」と認識されてしまったが最後、何も話を聞いてもらえず、その場で足をばたばたさせて泣き出してしまう老人だ。話し合いは成り立たず、その場の雰囲気は険悪なものになるだろう。
その場しのぎの対応はしないで冷たく拒絶するくらいしか対応策がないようにも思える。もはや、相手と調整してうまくやって行くという技術が獲得できないからだ。普通に考えると「なぜ学校経営者の娘なのにそんなことになってしまったのか」と思うのだが、生育歴だけで説明できるものではないのかもしれない。とはいえ、こうした症状から「あの人には妄想癖がある」とされて投薬治療に回されてしまう人もいるらしい。精神疾患はゴミ箱のように扱われており、薬で行動力を奪って「対処した」ということになってしまうのだ。
籠池諄子さんのような人格の研究はまだまだ進んでおらずしたがって対処が難しい。それが、こうした感情の激しい人に振り回され人生を無茶苦茶にされる多くの被害者を生んでいるのだ。

あなたの周りにいるトランプさんと付き合う方法

トランプ大統領が誕生した。橋下徹弁護士がいう「プライドの高いインテリ」であるところのマスコミは未だに納得できないようだ。意外とわかりやすい人だなあと思うので、トランプ大統領にはあまり興味がないのだが、身近にトランプみたいな人がいたらどうすればいいのだろうということを考えると意外と面白かった。
「トランプさん」はこんな人である。

  • 全てが競走であり、競走には勝たなければならない
  • 私たちか敵かという二項対立

トランプさんの世界には競走しかないので、トランプさんに敵だとみなされないようにしなければならないのだが、さらに危険なのは「なんとか抱き込める」と考えることだ。例えばトランプさんにアドバイスしたとしよう。するとトランプさんは「俺のほうがいいアイディアを持っている」と主張するだろう。そもそも、あなたのアドバイスを理解できないかもしれない。
ここがトランプさん理解の肝だ。
相手のアドバイスを理解するためには、まず相手が何を考えているかを理解しなければならない。相手には相手の世界があり、考え方の道筋があるからだ。普通の人はこれを自動的に行う。このパスを「共感」と言っている。ところがトランプさんはこれがわからない。逆に「共感の回路が壊れている」と考えるとトランプさんが理解できるのだ。
トランプさんの頭の中には「私」しかいない。アドバイスどころか、代わりにやってやるのもやめたほうがいい。「私のほうがうまくできるのに」と考えて腹をたてるだろう。逆に「やらせてみたけどうまくできなかった」ことにはあまり腹を立てないだろう。自分が世界で一番うまくやれると信じているトランプさんにとって、それは当り前のことだからである。だから、トランプさんには何もしてやらないほうがいいのだ。
トランプ大統領はマイクロマネージメントで知られる。これは彼が「自分の目の前にあることを自分でやりたがる」からなのだが、逆にいえば「自分の目に入らないこと」はないのと同じことだと考えているということになる。多分、トランプ大統領は4年の間競走に忙しく、その他のことに興味を持つほどの余裕はないはずだ。同じようにトランプさんたちは毎日の闘争に忙しい。それがトランプさんの幸せなのである。
ここからまとめると、トランプさん対応は比較的簡単だ。

  • トランプさんにとって役に立たないし脅威にもならない無力な存在になる。
  • トランプさんには期待せず、協力もしない。

トランプ大統領はクリントン候補のことをボロカスに言っていたが、もうライバルではないとわかった途端に「偉大なぼく」ぶりを見せるために寛容な態度を取った。逆に新しくショーの司会者になったアーノルドシュワルツェネッガー氏には敵意を燃やした。「俺のほうが視聴率を取れる」というわけである。
トランプさんが何かを勝手にやるぶんには構わないし、トランプさんが介入してきたら「なかったもの」として諦めたほうがいい。トランプさんが自分のアイディアを自分で遂行する分には「これはだめだったんだなあ」と気がつくわけで、それを待っていれば良い。トランプさんに何かを言われたら「逆らわず」に従おう。反論すればトランプさんは「勝つため」になんでもするだろう。
トランプさんが何かを言ってきたら褒めて欲しがっている証拠なので賛同しよう。かといって、自分の言葉で賛同するのは無意味だ。トランプさんはあなたが何を言っているのか理解ができないからだ。怠惰なわけではなく、その回路がぶっ壊れている。つまり、単に言葉を繰り返して賛同して見せるだけでいい。もしあなたが親切ならトランプさんの理論で賛成しよう。気に入られたくなってトランプさんより過激にトランプさんの理論を語りたくなる人もいるかもしれないが、それは無意味だ。そもそも人の話を聞いていないからである。
トランプさんはあなたが本当に何を考えているかは分からないし、多分興味もない。逆に怒っていても気にする必要はない。あなたが原因である可能性は低い。トランプさんは自分の世界を生きているので、大抵「敵」のことを考えて怒っている。
トランプ大統領は家族や身内を優先する政策を取っている。だから身内扱いされるにはどうしたらいいかを考えたくなるかもしれない。しかし、それはあまり意味がないのではないか。なぜならトランプ大統領は誰が身内かを自分の心証で決めており基本的にコントロールできない。同じようにアメリカ人の手にアメリカを取り戻すと言っているが、これも期待しないほうがいい。アメリカ人は「我々」ではなく、単なる競走の道具にすぎない。最悪、家族すら「自分を偉大に見せる」道具なのかもしれない。
トランプさんとブッシュ(息子)さんは、等しく「我々」について語る。しかし彼らのいう「我々」は違っているのではないかと思う。ブッシュ大統領は、明らかに信条(端的にいうとキリスト教だ)によって我々をくくっており、敵(悪の枢軸は全て非キリスト教国だった)には何をしてもいいのだと考えていた。だが、トランプさんは日々競走しているので、競走のために敵が必要なのだ。ブッシュさんの敵は変わらないが、トランプさんの敵は日々入れ替わっている。
ここまで書いてくると、この欠落に病名をつけたくなってくるが、こうした人格に病名はついていない。社会的に破綻しないからだろう。また、闘争に忙しいので悩んでいる暇はない。葛藤しないので社会生活が送れないほど落ち込んだりはしないのだ。
ここまで考えてくるとトランプ演説の最大の違和感が何だったのかがわかる。トランプ大統領は「アメリカはかつてないほど勝つ」と言っている。だがなぜ、勝たなければならないのかということは語られない。そもそもそこには理由はないのではないだろうか。さらに、アメリカを偉大にすると言っているが、何が偉大なのかということは語られない。トランプ大統領にとっては「相手に勝つこと」が偉大であるということだからだ。
そこに理屈はないので、あの演説をいくら分析しても全く無意味なのではないだろうか。
 
 

安倍様に認めてもらって天国に行こうという思想

さて、気の変な人がかわいそうな人たちをたくさん殺した、ということになりつつある津久井の事件は扱いが難しいのか、テレビでの露出が減ってきた。たいていの場合、殺された人たちを引き合いに出して「悲劇感」を盛り上げるのだが、今回は匿名になっていてできなかったからなのかもしれない。
興味深いのは、ヨーロッパで大量殺人が起きると「イスラム過激派のテロだろう」と決めつけるのに、日本だと異常者の殺人だと思いたがる傾向だ。やはり「自分たちの社会だけは安全だ」と思いたいのだろう。
植松容疑者は安倍晋三首相に代表される右派の主張に共鳴していたようだ。ヨーロッパで未来を感じられない若者はイスラム過激主義に反応するのだが、日本の若者は安倍首相に賛同するのだなと思った。
このように書くと「イスラム教と愛国的な政治家を同列に並べるな」という反論をする人がいるのだろうが、イスラム教は伝統的な宗教であり中東では権威だと見なされている。また、テロを起こす若者はイスラムの伝統から切り離されたホームグローンの人でありイスラム教の権威とは離れている。ということで、図式はかなり似通っている。
政治的な意図を暴力を通じて実現しようとしたわけだから、これはテロなのだ。
「公的な秩序を守るために、個人の人権は制限されるべき」という主張は、西洋の民主主義社会では異端だが、この国では正統として認知されかかっている。そろそろそういう思想に染まった人たちが社会にでる頃合いだ。昭和の終わりから平成の初めまでに育ってきた人たちとは異なった意識を持っていることになる。
安倍首相だって憲法と従来の解釈を変えて「自分が考える正義」を貫こうとしたわけだから、一般国民だって障害者を皆殺しにして5億円貰えると考えても「それが直ちに狂った思想だ」とは言えない。
海外では「これは障害者に対するヘイトクライムである」という非難声明が出されている。彼らににとっては、基本的人権とは大地であり、絶対に侵犯してはならないものなのだ。しかし、安倍首相は海外のイスラム系テロの時は「テロとの戦いを……」という声明を出すが、今回は部下に再発防止策を丸投げしただけだった。
「人を押しのけて自分の主張を通したい」という空気を安倍首相が作ったとは思えない。バブル崩壊後「他人を犠牲にしてでも自分だけは生き残りたい」という思想が生まれて「押しのけられてもそれは努力が足りなかったのだ」という自己欺瞞の論が蔓延した。その結果生まれたのが現在の政治状況だ。だから、安倍首相を視界から消したからといって、この空気がなくなることはないだろう。
本来はこうした犯罪を未然に防ぐため、また国民の信頼を維持するために、「隠れた崇拝者」たちに、こんなことは間違っていると言うべきだったのだ。だが、彼はそれをしなかった。民主主義や国民の統合という問題に全く関心がないのだろう。つまり、それが作られた物で、人々の日々の努力で維持されているという意識がないのだ。
それはきわめて危険なことではないかと思う。

津久井事件と排除の理論

津久井の障害者施設殺人事件問題は「精神に異常がある人がやった事件」ということになりつつあるようだ。気持ちは分からなくもない。日本では欧米のような格差と差別に根ざしたテロ型犯罪は起らないと思いたいのだろう。テロが起きたとしても、それはイスラム教のような過激な思想(これも無知からくるものだが)が起こしたものだと考えたいのだと思う。「異常者が起こした犯罪で、障害者が殺された」としてしまえば、「正常」な人たちは安心して眠ることができるのだ。
しかし、実際には植松容疑者のように、役に立たない人には生きている価値はないと考える人は多い。いわゆる「自己責任」論だ。名をなした高齢者が「高齢者は死んでしまえ」と主張することも多い。自分は名前を残したから生きていてもいいが、無意味な人は死んでしまえという意識を持っており、賞賛されたりしている。賞賛を求めるフォロワーがこれを真似しても何の不思議もない。
なかには、イルミナティを信じていることなどを挙げて「支離滅裂だ」と考える人もいる。しかし、これもネット上に広がっている陰謀論の一種だ。この手の話を信じている人が全て精神異常だとしたらかなり大変なことになるだろうし、ムーは禁書にしなければならない。「大学教育を受けても陰謀論を信じる人がいる」というのはショックではあるが、かといって特定の人を異常者だと認定するほどの材料にはならない。
普通の人は、精神異常というのは白黒のはっきりした状態だと考えているのではないかと思う。だが、植松容疑者が入院させられたときの医者の見立ては2人とも異なっていた。要するに異常で反社会的な言動があり、それに名前を付けているだけなのだ。この人は「誇大」であり、その原因は「大麻」だということだが、10日あまりで放免してしまったことから、何が起きていたのかよく分からなかったことになる。
確かに「障害者を殺して日本を救う」というのは異常な主張に見える。しかし「憲法を改正して国民から主権を奪い、自分たちの指導のもとで美しい国家建設を目指そう」などという構想は精神異常だとは見なされない。同じスタンダードを当てはめれば「安倍首相の精神はおかしい」ということになりかねないが「安倍首相はおかしい」と公共の場で叫んだら拘束されるのはこちら側かもしれない。つまり、言い方や根回しの違いで、異常か正常かが判断されるわけであって、思想そのもので白黒の判断はできないということになる。
入れ墨を危険視する人もいる。あまり多くの人には賛同してもらえないと思うのだが、これは施設側がおかしいと思う。アメリカやヨーロッパの男性ファッションモデルには入れ墨がある人が多い。「ちょっとしたタブーを犯していてカッコイイ」というイメージがあるためだ。愛する女性の名前を彫って「変わらない思い」を表現したりする。しかし、日本では反社会勢力とのつながりを想起させる。学校の先生にはなれないし、施設は大騒ぎして警察に通報したようだ。だが、障害者福祉施設が「包摂」をモットーとしていれば多様な文化の一部としてこれを受け入れるか、その人の考えを理解しようと努めていたはずだ。だが、実際には日本型村落の排除の論理が働いてしまったのである。
植松容疑者は「とにかく誰かに認められたい」というヒーロー願望を持っていて、そのためになみなみならぬ努力をしている。わざわざ衆議院議長公邸に出かけて主張し、50分という短い時間に45名を刺した。1人にかけた時間は1分程度だったと考えられる。承認欲求が人よりもかなり強かったことは間違いがなさそうだ。
マスコミ報道の目的は「日本の社会は大丈夫なのだ」と確認をすることだから、この人の動機に関心が払われないのは当然だろう。だが、「承認欲求」は見過ごされていると思う。
どうやら父親は教育者だったようで、一部報道では養護教育に携わっていたと伝えられている。容疑者が父親に承認されたくて教員免許を取ったのは明白だ、しかし、仲間にも承認されたいと考えていたようだ。大麻を扱っていたり、タトゥーを入れるような友達がいたのだろう。家族にとっては理解できない「文化」だ。結局、家族は容疑者を扱いきれなくなり、家に一人残したまま別の土地に移っていった。容疑者は承認どころか許容さえされなかった。
結局、容疑者が承認欲求を満たすためには、父親の路線に沿って弱者のサーバントとして生きるか、何か大きなことをしでかすかという二者択一が残ったのではないかと考えられる。あるいは「障害者」と「自分」が比較されていたのかもしれない。「どちらを愛してくれるの」ということになる。「愛してくれなくてもいいから、注目してくれよ」ということもあるかもしれない。
しかし、教育・福祉分野というのはかなり閉鎖された村落空間だったようだ。タトゥーが見つかるくらいで警察が呼ばれてしまうくらい均質な空間なのだ。彼はそこでも排除されかける。
もし植松容疑者が「自分が承認されたい相手の意識を独占している人を排除することで自分に注目を集めたい」と考えていたとしたら、彼の目的は45名の命と引き換えに達成されたことになる。自分の周りに集まるカメラを見て強烈な快楽を得ていたようだが、これが容疑者にとっての「報酬」なのだ。
マスコミは「これは異常な事件なのだ」という印象を植え付けることで、異常事態を排除しようとしている。だが、皮肉なことにこれが次の「示威行為」を作り出す可能性があるという結論が得られる。
実は「異常な犯罪を犯しそうな人はまとめてどこかに閉じ込めておけ」というのは「障害者は役に立たないから死んでしまえ」というのとあまり変わらない。もっと言えば「入れ墨をしている人を職場から排除したい」というのも「異質で脅威だから目の前から消え去ってほしい」と考えているわけだから、同質のことなのだ。そういう意見を否定はしないが、容疑者と同じ側で語っているという意識は持っておいたほうがよいと思う。

結局誰が狂っているのか

ついに日本でもテロ事件が起きてしまった。福祉施設に男が押し入り、入所者45名を刺した。死者数は19名にのぼる。イスラム教徒が関係しないし、単独犯なので「テロではない」と考える人も多いのではないかと思うが、事前に「障害者は殺されるべきだ」という信念を大島理森衆議院議長に向けて表明しており、職場でも公表している。政治目的を果たすために凶行に及んだという意味では立派なテロ行為と言える。
この事件の大きな関心は、この人が狂っていたか正常だったかということだろう。心神喪失ということになれば罪に問えなくなるからだ。
ところがこの事件を見ていると「何が狂っているのか」ということがよく分からなくなる。植松容疑者は衆議院議長公邸を2日に渡って訪れており手紙を送っており強い信念が感じられる。一方で、内容には破綻も見られる。なぜ人を殺すと第三次世界大戦が防げるのかが分からない。
「役に立たない人は殺されて当然」という理屈がなぜ間違っているのかということを理路整然と否定するのはなかなか難しい。この質問は「誰が役に立つか立たないかを決めるのか」という問題につながり「その第三者に自分も殺される可能性があるのですよ」という問いを生む。しかし「自分は役に立っているから、殺されない」と言われればそれまでだし「殺されても構わない」などと思う人もいるかもしれない。
植松容疑者は観念的にこの問題を見ているわけではない。数年に渡って当事者だった。福祉の現場はこうした「確信犯」を排除できない。川崎で老人が突き落とされた事件を思い出す。
実際にこのような理屈による殺人は合法的に行われている。例えばアメリカ人の命を守るために、罪のない民間人をドローンで誤射するのは不法行為だとは見なされない。原爆も「大勢が殺されるよりも、広島と長崎の市民の犠牲だけで良かった」などと正当化されることがある。殺人まで至らなくても「我々の便利な生活を守りつつ、原発被害をゼロにしたければ、地域住民が出て行け」と言い放つ人がいる。いずれも、誰かの命と別の人の命を比べているのだ。
このような背景があり、植松容疑者の「合理性」は、多くの支持者を生んでいる。障害児(略してガイジというらしい)は死んで当然と思う人がかなりいるようで、匿名掲示板などでは賛意の書き込みがある。バブル後の「リストラ」が横行した1990年代に育った人たちが社会に多く出ている。
手紙の中で植松容疑者は「自分は狂っていると思われるかもしれない」と書いている。妄想に浸りきっているわけでもなさそうだ。そして、描いた通りのことを実行して証明してしまった。
とはいえ、植松容疑者が自身の行動がどのような問題を引き起こすのかを自覚していたとも思えない。数名以上を殺せば死刑は間違いないのだが「自分は良いことをした」あるいは「気が狂っている」という理由で助命されるだろうことを信じているようだ。その意味では正常な判断を下しているとも思えない。
報道もゆれている。正常な枠で分析して「文章に一貫性がない」と真顔で言う人もいる。NHKは大麻による影響だという見立てを報道したが、時事通信では「そう病」だったという見立てになっている。薬物の影響なのか、それとももともとその資質があったのかがよくわからない。
そう病の兆候はいろいろな所に見られる。目的は日本を第三次世界大戦から救うことだが、生活してゆくためにはお金が必要であり名前まで具体的に想定している。この「すばらしい計画」を誰かに伝えたくてたまらなかったのだろう。最終的には「日本で一番偉い人の所に行こう」と思い立ったようだ。
楽観的な見込みと行動の一貫性のなさは他にも表れている。尊敬する父親のようになりたいから先生になると言っているのに、入れ墨を彫って台無しにした。それでも父親のように障害者に関わりたいと思ったのか施設で働き「障害者は死ぬべきなのだ」という結論に達した。本人の中に二つの真逆の価値観があり、交錯している。
さて、ここまでは植松容疑者について見てきたのだが、実はそれはこの問題のほんのいったんにしか過ぎない。既に書いたように、この行動には一定の支持者がおり、彼らにいわせれば植松容疑者は合理的な判断に基づいて行動していることになってしまう。しかし、それよりも恐ろしい狂気は「この人が治った」といって放置してしまった人たちの側にありそうだ。
衆議院議長公邸は「この人は他人を傷つける恐れがある」と考え、麹町警察署に通報する。麹町警察署はこういう人たちに馴れているのだろう。地元の警察署に伝えた。地元警察署は相模原市に通報する。そこで措置入院ということになった。大麻の陽性反応が出て、そう病だと診断されたにも関わらず、12日で「治ったんじゃないか」という理由で解放している。当然、家族の監視があるべきだが、家族がよその自治体に住んでいるからという理由で連絡しなかった。
当初は「日本の法律では大麻を使っても持っていなければ逮捕できない」という説がささやかれたのだが、所持を捜査することはできたようである。
なお「人を傷つける可能性があるからずっと病院に閉じ込めておく」ということは現代の日本では認められていないようだ。治安維持法で予防拘禁が悪用された歴史があり、それに類推行為には慎重だからだ。最長で4週間のみ入院させることができる制度があるそうだ。しかし、だからといってそれ以降野放しにしてよいというわけでもないはずだ。
もし「この人が狂っていてこの犯罪を犯したのだ」と仮定すると、相模原市の判断は間違っていたことになる。結果的に殺したから「異常だった」という見方もできるわけだが、するとそもそも人が狂っているかそうでないかは結果次第ということになってしまう。つまり、正常と異常の境界線など最初から存在しないということになる。
私たちの「正常・異常」という線引きは実はガラス細工でできた脆い土台に過ぎない。それが分かるのはその線を越えてしまったときである。しかし、その線を越えてしまうと、自分が異常であるということを認知できなくなる。誰が狂っているかなどということは誰にも分からないのだ。

コンサルタントやコメンテータは何を売っているのか

ショーン・Kという人が経歴詐称で活動を自粛することになった。学歴を詐称しており、ハーフでもなかったという。個人的には整形すればハーフ顔になれるんだなあと、ちょっと関心した。西洋人の顔と日本人の顔の違いは実はそれほど大きくないのかもしれない。
ショーン・K氏の才能は嘘をついても顔色を変えないところだ。社会的に問題を起こせば反社会性の障害などといわれるが、却って高い地位に就く人も多い。
大学中退ということだが、テレビではそれほど困っていなかったようだ。コメンテーターとして活躍しており、その発言に専門性がないなどと疑問を持つ人は誰もいなかった。4月からは司会すら決まっていたようだ。つまり、視聴者もテレビ局の人もそれほど専門的な知識を持っていなかったことになる。MBAの基本的な知識を持った人ならば誰でも判断ができるくらいの違和感はあったと思うのだが、それが分かる人はテレビにはいなかったらしい。
では、人々は何を求めていたのだろうか。多分、経営の本場であるところのアメリカ帰りの人が持っている空気みたいなものにあこがれていたのだろう。これはかつてのファッションや音楽に似ている。その昔、パリやロンドンから帰国した人のファッションはおしゃれに見えたし、ロスでレコーディングというとなんとなく格好よく思えた。だが、本場のファッションや音楽というのが本当はどんなものなのか誰も知らなかった。
インターネットが発展した現代では、パリやロンドンからの情報もダイレクトで入手できるので、誰も「洋行帰り」をありがたがらなくなった。逆に日本人でもロスのライブハウスで活躍しているバンドもいる。ファッションでは却ってシンプルな方が格好よいという風潮すらある。受け手(消費者)の間に知識が行き渡ったからだろう。
ここから、経営学や経済というのは、実務の領域からファッションの領域に移りつつあるということが分かる。「イケメン実業家」は稀少で格好いいし、一般人は実業の知識など持ち合わせていないのだ。ショーン・Kさんはその流れにうまく乗ったのだろう。
皮肉なことに、日系アメリカ人のコメンテーターは、立派なキャリアがあっても、あまりありがたがられない。日本の文化に精通していないと「日本人が聞きたがること」を発言できないし、実力よりも肩書きや容姿のようなコンテクストの方が重要なのだということがよくわかる。パトリック・ハーラン氏も芸人出身である。日本人に何が受けるかを経験的に学んだのだろう。コメンテーターというのは基本的に「芸人仕事」なのかもしれない。
コンサルタントやコメンテータは夢を売っていることになる。ある意味お金では買えないものだ。
さて、本題とは全く関係がないが、ツイッターで「だからテンプル大学はいんちきだ」というような書き込みを見つけた。卒業生に一人としては心苦しい限りである。日本の学校制度に沿っていないので、そういう評判があることは知っているが、もともと「誰にでも学問の道を開こう」という趣旨で作られた大学であり、生涯教育にも力を入れている。日本の大学と違って「学びたい」時に学べる学校だ。学歴が欲しいというより、学びたいことがはっきりした社会人も多く通っている。生きた英語が学べるのでぜひ多くの方に興味を持っていただきたい。
 

アーティストと狂気

ある夜、夢を見た。とても怖い夢だ。ただし、夢には形がある。感情に彩られて言葉にできないイメージが抽象化したのだろうと思う。これを形にしたいという欲望がうまれた。粘土なんかがあれば「狂ったように」作業したかもしれない。しかし、そのまま狂ってしまいそうになったので、代わりにぶるぶると震えながらお祈りをすることにした。しばらくすると、時間の感覚というかリズムのようなものが戻ってきた。
一瞬、狂いかけたのだと思う。その後眠れなくなったので、アートについて考えた。まだ、少し狂っていたのかもしれない。
アーティストになる基礎知識 (BT BOOKS)』という本が出ている。本の冒頭では村上隆さんが後進の指導をする様子が紹介されている。すでに、欧米や中国で高い支持を受けている村上さんは、若者に社会性を植え付け、ディテールをつめるように追い込んで行く。そして、できるだけ長くアーティスト活動が続けられるようにと、プロジェクト管理の手法を教えるのだった。さらに、本には留学してアーティストビザを取得する方法などが紹介されている。つまり、アーティストになるためには、海外に留学するのがよいみたいだ。
面白いことに、本の内容がITプログラマーが日本を飛び出して海外で起業するという本にそっくりなのだ。多分、そのような時代的な背景があるのだろう。どちらも「最新の職業」であり、才能によって成功できるかもしれない可能性がある。
ここで、半分おかしくなりながら考察(あるいは妄想)したのは、アートについでだった。村上さんの方式では、テレビや映画などの共通の情報から「オリジナル」を作り出すという方向性で作風を確立しようとしているように見える。これは、古いアートの方向と変わりはない。西洋の画風というものがあり、そこにどうやって到達するかというのが、日本の画壇の最大のテーマだった。今では安定した社会ができていて、多分派閥のようなものもあるのではないかと考えられる。
例えば、狂気から出発した場合、方向性は全く逆になるだろう。狂気は人それぞれのカスタムメイドだ。つまりは、嵐の海で漂流しているようなものである。そこにイメージだけがあり、形になっていない。だから、扱い損ねて、狂ってしまうわけである。それをアートと呼ぶか狂気と呼ぶかは別にして、いったん取り憑かれてしまえば、形にしようと努力していない限りそのイメージの持ち主が精神の平衡を取戻すことはない。そして、同じ狂気を経験したという人に巡り会った時点で、漂流は終るのである。文章で言うところの「投瓶通信」に似ている。多分「オリジナルだ」という喜びはなく、他人と同じであるということを知った時点で安心するのではないかとすら考えられる。
考えついた結論は、どちらも「馬には違いがない」というものだ。西洋芸術を模倣していた時代には、西洋で見た美しい馬を自分でも飼ってみたいというようなものだったのだろう。一方、暴れ馬がいてそれを家畜化したのが、テレビや映画などの大衆芸術だ。そこから、馬を一頭連れ出して、野生に戻して行くのが現在のアートである、という具合である。
100x100しかし、どちらにせよ昔は野生だったわけで、それを飼いならそうとしている人もどこかにいるのではないかと思う。そういう人は、単に「気が変になった」のと考えられて終るのか、それとも飼いならすチャンスを与えられるのかということについては良くわからないし、安定した職業にして継続的にやってゆこうという境地にたどり着けるのかといったこともよく分からない。

自閉症と表情の読み取り

朝日新聞に面白い記事が載っていた。『自閉症、ホルモンを鼻に噴射して改善 東大チーム』
この記事を読んで面白いと思ったのは「経度の自閉症」と呼ばれる、意思疎通に問題を抱える人の症状についてだだ。記事によると彼らは、他人の表情や声色を読み取るのが苦手らしいのだが、その率は健常者の84%もある。これを0.96 X 0.84と計算してよいなら、正解率は8割もあることになる。もちろん「経度の」ということなので、個人差はあるのだろう。それでも「症状として認知される」くらいだから、問題は顕在化しているのだろう。つまり、今の社会で「お互いの表情を読み合う」能力はかなり高くなければならないということになる。
朝日新聞では東京大学の研究を掲載しているが、ネットでは金沢大学の取り組みがヒットした。オキシトシンと自閉症の関連を最初に見つけたのは金沢大学のようだ。金沢大学のページによると、オキシトシンによって表情読み取り以外にも生活の質が向上する事があるらしい。
この記事を読んで別の疑問も生まれた。最近では「自閉症」という言葉への理解が深まり、発見される率も増えてきているのだろう。しかし、例えば戦後すぐにうまれた人たちの中には、こうした「問題」を持ちつつも、自閉症という診断名を持っていない人もいるのではないかと考えられる。アメリカで自閉症が「発見」されたのは1943年の事だそうだ。また、知能が正常程度だがコミュニケーションに問題がある高機能自閉症はそれよりも遅れて認知されたらしい。(Wikipedia
こうした人たちは、他人の言っている言葉の意味が良くわからない。例えば、にやにや笑いながら、親愛の情を示すつもりで「バカだなあ」などと言われたときに、本気で怒り出してしまうということも考えられる。また、愛着が他のひとよりも薄い可能性がある。
男性の場合「男は黙っているべきだ」という価値観があるために、こうした問題は表面化しないだろう。しかし、表面化しないので「あの人は冗談が分からない」とか「家庭での何気ない会話(こうした会話は会話自体にはほとんど意味がない)に混じれない」といった、弊害があっても顕在化しないかもしれない。その弊害といっても経度の場合は、わずか2割程度の微妙な会話が分からないだけなのかもしれないのだ。
女性の場合には別の問題があるだろう。かつては「女であれば子どもさえ生まれれば即座に情愛が湧くはずだ」とされていたわけで、「子どもがカワイイと思えない」(オキシトシン不足なのだから当然なのだが)とか「子どもが自分に愛情を向けているのか分からない」などと言った問題が出てくる可能性がある。つまり「母性に目覚めない」のだが、それを「個人的な問題だ」と感じていた人がいただろうということである。
この記事では「既に自閉症だということが分かっている人」と「オキシトシン」について書かれているのだが、実際には「自閉的な傾向を持つものの、それが生涯発見されなかった人」と親子関係を持っている人が「親だったら当然持っているであろう親密な関係」を築けなかったという可能性も示唆しているのだと思う。
100x100戦後「家」は社会的制度からより親密でプライベートな存在へと変化してきた。このため、プライベートな空間で親密さを築けないことは、重大な問題になりえる。また、社会生活においても「表情を読み合う」必要性が増しており、ちょっとした表情が読めないことが深刻な問題になり得るのだ。

リプリー氏の秘密

誰にでも秘密はある。開けっぴろげに自分のことを何でも話したがるのは下層階級に属している証だ。また、秘密を抱えているからこそ、その人は慎ましく、美しく見えるのだ。有閑階級のコスチュームを忠実にデザインしたアン・ロスの衣装デザインは最高だ。
パトリシア・ハイスミス原作、マット・デイモン主演の『リプリー [DVD]』を見るとそんな感想文が書きたくなる。1999年に作られたこの映画は、誰もが持っている他人になりすましたいという願望とその代償を主題にしている。
以下、あらすじを含むので、これから映画を見たいという方は、お読みいただかない方がよいだろう。
ニューヨークで貧しく暮らしていた「才能あふれる」リプリー氏は、偶然から知り合った大金持ちの父親から、イタリアで放蕩三昧の生活を送る息子を連れ戻して欲しいという依頼を受ける。しかし、イタリアで放蕩息子に惹かれて夢のような時間を過ごす。ところが、その夢のような時間は長くは続かない。途中から関係はぎくしゃくしたものに変わり、遂には口論の末放蕩息子を殺してしまう。リプリー氏はその「才能」をいかんなく発揮し、放蕩息子になりすましてイタリア中を旅行を続ける。途中で悪事が露見しそうになるのだが、父親はリプリー氏が自分の息子を殺したのだということを見抜けず、放蕩息子の財産を彼に与える。いっけん全てが順調に見える。しかし、その代償としてリプリー氏は「ありのまま」の自分を受け入れてくれそうになった愛する男性を殺さざるを得なくなる。リプリー氏は、遂には自分自身を喪失してしまうのだった。
映画だけを見ると「リプリー氏の秘密」は殺人を犯してしまったことであり、その原因になったのは社会に受け入れられることがない「同性愛」という彼の性的指向であると考える事ができる。ところが、話はそんなに単純ではない。
原作を書いたパトリシア・ハイスミスは「同性愛傾向があった女性」だそうだ。つまり、もともとこの話は男性の同性愛者の立場から書かれたものではない。同じ本を原作にした『太陽がいっぱい』というアランドロン主演の映画があるのだが、こちらは「犯罪が露見する」ことが仄めかされて終るのだが、『リプリー』では、犯罪は露見しない。しかし、リプリー氏は自分がやったことを後悔しており、最後は苦悩する場面で終っている。愛している人を殺したのだから当然だ、と見ている方は思う。
このリプリー氏の物語はシリーズ化されている。『死者と踊るリプリー (河出文庫)』まで、計五冊が書かれている。つまり、リプリー氏はその間警察に捕まることもなく、殺人を反省することもなかった。1991年に書かれた『死者と踊る…』でも過去の殺人が露見しそうになるが、結局のところ、殺人が露見しない。
また、リプリー氏は結婚しており、男性の登場人物と恋仲になることもない。つまり、シリーズの間に、同性愛そのものも「たいしたモチーフ」ではなくなっている。『太陽がいっぱい』の分析の中には、あれは同性愛が隠れたモチーフになっているのだというものがあるのだが(実際「映画」にはそのモチーフがあるのかもしれない)それは少なくとも最終作では消えている。
本の中には「ディッキー(最初に殺した放蕩息子)のことは後悔している」と書かれている。つまり、それ以外の殺人にはとくにためらいは見せていないということだ。また、リプリー氏は金持ちの女性と結婚していて、この同居人のような妻は特にリプリー氏に対して憎しみを抱いている様子はない。彼女はストーリーを面白くするためと、リプリー氏に活躍の舞台であるフランスの豪邸を与えるという「機能」がある。
殺人そのものにためらいを見せず、それが露見するかしないかということにドキドキするというのは、いわゆる「サイコパス」の症状だ。ところが、小説の中ではそのサイコパスが罰せられることはない。読者はあろうことか、「殺人がばれませんように」とサイコパス側の気持ちになって、リプリー氏を応援することになる。
映画には、なぜリプリー氏が他人のフリをすることに目覚めるのかという点に対する説明はなかった。そこで、観客は埋め合わせるように「他人への憧れが同一化をうむのだろう」というような想像をする。しかし、これは最初から間違った解釈らしい。そもそもリプリー氏には「ありのままに受け入れてくれる環境」がないか「ありのままの自分」そのものがなさそうだ。だからこそ、相手に自分を重ねて見たてしまったり、受け入れてくれそうになった人を殺そうとしたりというように両極端の態度を取る。距離間が掴めないのだ。
また、それを抑圧すべき「父権」というものも存在しない。映画『リプリー』では、父権的な存在としてグリーンリーフ氏とイタリア警察が出てくるが、どちらも不完全な形で存在している。警察は表面的なことだけを見てまともに事件を検証しようとはしないし、父親は私立探偵を雇って「隠された事実」(実はディッキーにも秘密がある)を知っているのだが、息子であるディッキーに何の同情心も示さないばかりか、最後には重大な事実を見過ごしてしまう。「母権」に至ってはさらに薄弱で、車いすに乗った母親というのが出てくるだけだ。リプリー氏の両親は幼いころに溺死したことになっている。また、舞台はヨーロッパであり、リプリー氏にとっての「落ち着ける故郷」の不在が示される。
「ありのままの自分」や「自己同一性」というものは、最初の他者である「父権と母権」によって支えられているのかもしれない。それがない(あるいは感じられない)と、他者への距離感というものが生まれない。
私達は「本当の自分」というものがあるという前提を生きている。それが「仮面で偽られている」からこそ「ばれるのではないか」と感じる。また「偽らざるを得ない」のは、父権的な権力に抑圧されているからだ。
ところが、ハイスミスのリプリーシリーズには、この論理がない。つまり「本当の自分がないからこそ、誰にでもなれる」わけだが、それではつまらないので「ばれるかもしれない」という危機が訪れる。しかし、抑圧してくるはずの相手は無能なので、結局スリルだけを味わって終わりになってしまうのだ。そして「相手との距離が取れない」ことになるので、相手の存在そのものが脅かされる危機が訪れるのである。
100x100多分「リプリー氏の秘密」とは、「実は、他者がなく、従って自分がない」ということだったのだと思う。『太陽がいっぱい』や「リプリー」ではその辺りがぼやかされていて、適度に感情移入ができるようになっている。
ハイスミスの立場に立ってみると「相手に対して、適当な距離と穏やかな感情を保てない」ことが重大な秘密だったのではないかと思う。殺人に感情を示す「水」が多用されている。また、叱って受け入れてくれる人はいないわけだし、所属先もないわけだから「警察から逃げ切れること」が幸せなのかどうかは分からない。
このように中身が空虚であるからこそ、映画のコスチュームはどれもとても美しく見える。第二次世界大戦後のアメリカ人の有閑階級のコスチュームを勉強するのには最適の映像素材ではないかと思う。適度に洗練されていて、適度にだらしがない。そもそもファッションに理屈や倫理など求めてはいけないのかもしれないとすら思えてくる。

共感の欠落と理系脳

このところ、日経サイエンスが面白い記事を載せている。一つはサイコパスに関するもの(日経サイエンス2013年2月号)。そして今月は理系脳と自閉症の関係(日経サイエンス 2013年 03月号)について書いている。

自閉的な傾向とは

「自閉的な傾向」とは相手の言っていることがうまく読み取れない特性だ。相手の気持ちを読み取れない代わりに、一つのことに執着する傾向を見せることがある。自閉的脳は世界を「パターン化・システム化」したがる脳だということが言える。そして、自閉症の子どもの親は有為に高い確率で科学者なのだそうだ。故に科学者の適性と自閉的な傾向にはつながりがあるものと類推される。数学が得意な学生も自閉的特性(AQ)が高い人たちがいる。調べてみると、胎児期に浴びるテストステロンの濃度などが関連しているらしい。
「自閉的傾向」といっても、ある境界で「正常」と「異常」が区切られているというようなものではない。故に、境界にいる人たちは「なぜか相手を怒らせてばかりいる」とか「空気が読めず、顰蹙を買う」というようなことが起こるかもしれない。「共感」とは相手の気持ちを読んで、その場で適切に対応する能力だ。特に「集団に従う」ことを要求される社会では居心地の悪い思いをする可能性もあるだろう。

自閉的傾向の人たちが集る地域と職業

こうした特性の脳が世界中が集ってくる地域がある。記事によると、シリコンバレーでは自閉症児の出現する確率が高いのだそうだ。金融高額やゲノム解析などに欠かせないプログラマの適性は高い付加価値をうむ。つまりこのような特性は「異常」というよりは、アウトライヤーである可能性が高い。逆に「お互いの気持ちを読み合うばかり」の教育が、こうした高い能力を持った人たちを排除してしまう可能性もある。潜在能力が高くても、「自分は社会からの落伍者なのだ」と認識してしまえば、その能力が伸ばされることはないだろう。

アウトライヤーが切り開く可能性

現代は「モノ作り」が一段落して、より高い精度で消費者と感性を一致させることが必要な時代だ。だからより「共感」が求められるのだと考えることもできる。ところが何が共感なのかと問われると、よく分からないことが多い。
まず、自閉脳とパターン認識の関連で見たように、消費者の反応はある程度パターン化できてしまう。このため、データさえ集める事ができれば、あとは自動計算ができるようになるかもしれない。また、相手と共感できないが故に「より適切に」共感関係を築くことができる特殊な人たちもいる。
サイコパスの人たちは、相手を思いやる回路に欠落がある。このため、大抵のサイコパスたちは、社会生活を破綻させてしまう。しかし中には過剰に適応している人たちがいる。この人たちは相手を騙すことをなんとも思わず、むしろゲームのように楽しむ事ができる「天性の詐欺師」のような人たちである。彼らは相手の思っていることが手に取るように分かってしまうので、表面的にはとても魅力的に見える。ところが実際には、相手とは全く共感していない。むしろ「どうやって、相手を騙してやろうか」などと考えているのである。

変わり続ける自閉的傾向の位置づけ

アメリカでは、サイコパスや自閉症という正常範囲から外れた脳の特性をどう位置づけるかについて、様々な研究や議論があり、最近も区分が変わったばかりだ。サイコパスという言葉自体も精神医学では使われなくなりつつあるそうだ。
詐欺を働くと犯罪者だが、このような能力はいろいろなところで活かすことができる。犯罪に手を染めさえしなければ、相手に心地よい言葉をささやきかけるマーケターになれるだろうし、お互いの協力関係がすべて利害につながっている企業のトップにも適した才能なのかもしれない。ビジネスの現場で「善悪の判断がつかない」ことが問題にならないことが多いのもまた事実である。

過剰な脳の進化によって支えられた危うい社会

日本は、集団で面接し相手の気持ちを読み合うような作業を延々とくりかえす。こうした作業の結果「共感できない」人たちが排除されてしまう可能性は否定できない。また「どうしても子どもを愛せない」という母親が期待される母親像とのギャップに苦しむことがあるが、女性も男性よりは確率が低いとはいえ、こうした傾向を持っている人たちがいるのだそうだ。さらに「共感」といっても、相手の気持ちを読み取る能力や相手の喜びを自分の喜びにすることができる能力など複数の能力の組み合わせになっていることも分かる。
もともと脳には多様性がありそれぞれ得意分野がある。これを活かす事ができれば、社会の成長に貢献するだろう。逆にヒトの脳は進化しすぎたために、社会生活を営むうえで正常と異常ぎりぎりのところで危ういバランスを取っているのだと考えることもできる。