色の好みを知ってクライアントを攻略する

フェイバー・ビレンは、色についての研究を進めるうちに、色と性格には関係があるのではないかと思い始めた。12色の色紙を好きな順に並べさせて、好き色と嫌い色を見つけさせる。それを「性格」と結びつけようというのだ。
この人がこういう研究をしたのは、色が占いやオーラの色といったようなスピリチュアルなものと結びつけられがちだからだ。もっと「科学的な」やりかたはないかと考え、このテストを探求したのだった。しかし一方で、1950年代の研究なので今の心理学と異なっているのも確かだ。
また、当時のアメリカの価値観を反映していることには注意をしなければならないだろうと思われる。
このテストいろいろな応用方法があると思うのだが、ここではクライアントと話をしているWebデザイナーが、どのような色を提案すればいちばん手戻しが少ないかという視点で説明して行きたいと思う。お客さんの中にはどういう色を選んでいいかわからない癖に、デザインを仕上げてゆくと「これ違うんだよね」というヒトが少なくない。それを見ていちいちむかついたりするわけだが、やはりお客さんのいうことなので聞かないわけにはいかない。ただ、なんちゃって理論なので失敗しても当局は一切責任を負わない。成功を祈る。

人間が好む色の傾向はたいてい決まっているそうだ。それは赤、青、黄色という原色だ。その中でも人気が高いのが赤。だから赤か青を選んでおけば当たる可能性が高い。情熱と興奮をあらわす。外向的な性格のヒトは赤を選ぶ可能性が高いという。そして、喜怒哀楽が激しいヒトは赤が好きな可能性が高い。なかにはおとなしいのだが、こういった外向的な性格に憧れる人たちがいる。そういうヒトも赤を好む可能性がある。
現に赤は欲求と関係のあるところで多く使われている。例えばマクドナルドは赤を使っている。食欲の赤だ。

一方、冷静に見られたい、理知的になりたいというヒトも青を選ぶ。なのでビジネスシーンではよく使われる色だ。アメリカの金融機関を見ると、スーツの青よりも、若干薄めな青が選ばれている。すこし若々しい感じを出したいのかもしれない。こうした輝度や彩度の違いはビレンの本には出てこないし、50年代にはこうした嗜好はなかったのかもしれない。

黄色

企画力があり、いろいろなことを知っている。しかし実行段階になるといろいろな調整はめんどくさいと思うタイプ。ビレンの黄色の項目を読んでいるとそんな人物像が浮かんでくる。黄色をメインに使うことはあまりないだろうと思うが、刺し色に使うことはあるかもしれない。企画会社とかで提案してみてはどうだろう。

オレンジ

ビレンはオレンジが好きなヒトは精神的な欠点がないといっている。オレンジのあるヒトには社交性があるのだという。IT企業でオレンジを使うところって結構あるような気がする。みんなと仲良くやってゆきたいタイプ。ビレンはアイルランド人と結びつけている。

安定を求めるタイプ。今の状態に甘んじたいという気持ちもあるのだそうだ。アメリカ人がいちばん好きな色だと書いてあるので、昔のアメリカにはそういう気質があったのかもしれない。今「エコ」がキーワードなので、緑は受け入れやすい色になっているかもしれない。緑が好きな人たちは変化を嫌う。

青緑

ビレンによればヒトは原色を好むのだという。青緑が好きな人は、後天的にこういう色が好きになったことを意味しているのだと彼は考えた。こだわりとナルシシズム。実際には増えてますよね、こういう色。単純な青で「ちょっと違うんだよね」と言われた場合にはつかえるかもしれない。

紫には神秘的、哲学者、芸術家といった、実務的な要素とはかけ離れた傾向がある。これがラベンダー色くらいに転ぶと家で悠々自適の生活をする主婦が好むような色合いになるそうだ。いずれにせよ難しい色には違いがないように思われる。

茶色

堅実派。しかし肛門期的な性格を示唆しているともいう。親に厳しく躾けられると、茶色で汚く絵を塗りつぶす子どもがいるそうだ。このようにビレンの分析には精神的な問題と関係している記述がある。多分この頃にはアースカラーという選択肢はなかったに違いない。

ピンク

主婦が好きな色。安穏な暮らしをしている。大人がこの色を好む時には純粋さを失いたくないという気持ちがあるという。例えば赤ちゃん本舗はピンクでした。

白が好きな人は純粋でいいヒトではないかと思ったのだが、ビレンは「わざわざ色が使えるのに白を選ぶのは怪しい」と考えている。自分の気持ちに正直でない、隠したいという気持ちを感じ取っているのだ。マックス・ピスターのカラーピラミッドの研究によると、統合失調症のヒトが作るカラーピラミッドには75%以上の確率で白が出てくるということだ。健康な人たちは赤、黄色、青を選ぶ傾向がある。
しかし、一方で白で構成されたサイトは写真で構成されるコンテンツを邪魔しない。何が来るか分からないところでは白は有効な選択肢になりそうに思える。

灰色

隠れて平安を求めたい色だとビレンは言っている。このモノトーン系、よくアルマーニでは使われる色合いだ。色を使っても彩度が低い傾向にある。多分ウェブサイトで灰色を前面に押し出すということはないと思うのだが、洋服などではよく使われる。別のところに興味深い記述がある。人間は最初色に反応を示す。鮮やかな色であればなんでも好きなのだ。やがてその傾向は崩れ始め、形への興味へと変わってゆく。大人になっても色に執着を持つ人たちには何か問題があるに違いないという。
アルマーニはシルエットで見せる服だ。これが大人の洗練を演出するのだろう。逆にモノトーンを使うということは形やプロポーションに対して関心を払わなければならないということになるように思える。

黒が好きな人には世間を呪いたいという気持ちがあるのだとビレンは言う。しかし一方で、都会的で洗練されたヒトも黒を好む。こういう色が好きになるのは後天的なものではないかというのだ。ビジネス指向。濃紺のスーツがどんどん暗くなると、どんどん黒に近づいてゆく。別の本によると、黒の人気は年々高まっているのだそうだ。これが隠遁したい気持ちを現しているのか、どんどん洗練されてきているのかは分からない。
例えば、Appleは年々使う色が少なくなって来ている。今では黒とメタリックなシルバーそして白が使われる。一方、画面の中では青や紫といった色が使われている。一方マイクロソフトは安心感を現す青を使っている。

まとめ

多分、デザイナーの人たちは既に分かっているはずだが、こうした色の中から同系統のものを使うと統一感がでる。ユーザーはコンテンツや中身に集中することができるだろう。一方、違った色を使うと「注意を喚起する」ために使われる。好きな色を聞くために「どんなウェブサイトが好きか」を聞いたりすることがあるが、意外と言葉では説明できない理由でそのサイトの色合いに引きつけられていることがあるのかもしれない。
色の研究は今では脳波を調べたり、カメラで行動を観察しながらユーザーのリアクションを取ったりというところまで進んでいる。しかし、普通のデザイナーがいちいちこのようなリサーチを行なう事はできない。ビレンの研究は初歩的なものではあるがいろいろなヒントを含んでいるように思える。

広島少年院暴行事件 – 現在のミルグラム実験

ひさびさにアクセスで拾ったネタ。広島少年院で元首席専門(47歳)を含む4人が、特別公務員暴行凌虐の疑いで逮捕された。複数の教官を集め、目の前で暴行を加えさせていたのだという。首を絞めたり、塩素系ガスを吸わせようとしたりと「やりたい放題」だった。この人は1996年に仕事をはじめ、2005年に安倍首相の訪問を受ける。今回発覚した事件は2008年から2009年の115件のうち42件だそうだ。結局事件が発覚したのはこの人が奈良に転任してからだった。
中国新聞の記事によると発達状況に応じて処遇を実践するプログラムを生み出し、模範少年院だとされていたようだ。
この事件について読んでまず「ミルグラム実験」を想起した。ミルグラム実験では人に指示を与え、電気ショックのつまみを回させる。実際に電気ショックにかけられる人たちはサクラで、大いに苦しんでみせる。最初は「こんなことをしてはいけないのでは」と言っていた被験者も、最後には平気でつまみを回すようになる。役割が倫理を吹っ飛ばす瞬間だ。同類の実験に「スタンフォード監獄実験」というものがあるのだが、こちらは囚人役に対して監視役が度を過ぎた対応をするようになり、やがて実験を中止せざるを得なくなる。
今この「ミルグラム実験」関連で懸念されるのは裁判員裁判だ。もう少し見てみないとわからないのだが、普段は雲の上の人だと思っている裁判官に丁重に扱われると「一般の市民」は簡単に権力側に寄り添った価値基準を持ってしまうのではないだろうか。裁判員裁判の報道はわかりやすい裁判、時間のなさが主な関心事になっているが、いわゆる一般庶民が権力に寄り添った時どんな行動を取るようになるのかを、時間をおいて検証した方がよいだろうと思われる。また裁判員たちは「これが終わればこの緊張から抜け出せる」と考えるはずで、だったら裁判官に言われるとおりのことをしておいたほうがいいと思うかもしれない。裁判官は裁判官で「これは市民のお墨付きを得ているのだ」と考え過激な判決に傾くことも考えられる。集団無責任体制が生まれてしまうだろう。
さてアメリカやヨーロッパの社会学者はナチの残虐性に震撼して(もしくはそれを説明しようとして)ミルグラム実験を行なった。ミルグラムはユダヤ人だ。この種の実験は、最近ではアブグレイブに震撼した人たちの間で見直されている。つまり人々の間に「(誰か他のヒトではなく)我々は実は恐ろしい存在なのではないか」という懸念と「いや、やはりそうであってはいけない」という意識があるように思える。被害感情に訴えるのではなく、出来るだけ科学的に証明しようという点にこの実験の重要性がある。
翻って見ると日本では「これは誰か他のヒトの事で」「悪い事したんだから人権なんかなくてあたり前」という見識に触れることがある。アクセスのコメントでも。被害を受けた収監者に対して「ざまあみろ」という意見が散見された。これが単に日本の「人権教育が足りない」のか「自尊心が低下している」(ある意味アブグレイブ化している)のかが懸念される所だ。つまり「実は規範や倫理に関して、かなり危険な淵に立っているのではないか」という懸念です。実は少年院で起きていることよりも、こちらの方が危険だと思われる。
さてこの論題では「再犯率の低い」「あの」広島でというのがクセモノだった。ミルグラム実験が示唆するところは、我々は条件さえ整えばかなり残虐なことをやりかねない存在だということだ。それは実は成果とはなんの関係もない。
一方、確かに成果が上がることにより監視が甘くなる可能性はある。成果主義の危険の一つは、専門性のあるスタッフとマネージャー(この人たちは業務についてはよく知らない)の間に知識的なギャップがあり、成果が上がっていることにより隠蔽されてしまうということだ。金融機関で時々こういう問題が起こることがある。マネージャーは問題には敏感なのだが、平穏な状態には注意を払わない。逆に成果が上がれば何をしてもいいだろうと考えた可能性はあるかもしれない。
今朝になってアクセスのページを見てみると、「少年院に入ったくらいだから何をされても当然」という意見には影響を与えることはできるようだ。放送が始まってからの書き込みを見るとすこしずつトーンが沈静化している様子がわかる。これもグループダイナミクスの一つだ。空気を読みつつ意見を変えてゆく人たちが少なからずいる。
人が「群衆」化を防ぐにはリーダー、管理者、有識者といった人たちの果たす役割が大きい。
若干権威主義的なアプローチだが「アメリカで行なわれた社会実験によると…」というのも、特定の人には効果がある。そういった訳で、多分この設問じたいがちょっとした社会実験になっているように思える。

共感脳とシステム脳

さて、今日のお話は「共感脳」と「システム脳」について。この本は男性の脳、女性の脳というアプローチで男性脳=システム脳(物事をルールで判断する)、女性=共感脳(相手の表情を読んで適切な対応をとる)に分けている。このうち「空気を読む」能力を担当しているのは共感の能力だ。
作者によれば共感には2つのパーツがある。一つは相手の立場に立って考えるという「脱中心化」(これはピアジェの用語だそうだ)の能力。そしてもう一つの能力は相手の感情を見て適切な感情をフィードバックする(これをシンパシー=同情と呼んでいる)というものだ。
それでは共感能力がないと成功できないのだろうか。作者は極端にシステム脳が亢進した状態をアスペルガーだとしている。200人に1人のアスペルガー症候群の人たちは人の表情を読み取るのが苦手でコミュニケーション能力に欠ける。しかしながら一つのことに集中し、他の事に興味を持たないという能力は研究者にとっては必須の力だ。ただし群れ全体が共感を欠く状態になれば維持がむずかしくなる。
作者はそうは言っていないが、システム化脳が「問題を解決し、発展させる」脳だとすれば、共感脳は「維持し、調整する脳」だということになる。システム化傾向、共感化傾向といった方がよいかもしれない。大抵(95%くらい)は両者がバランスした状態にあるのだそうだ。極端なシステム化傾向は2%強ということだ。とにかく、システム化した人たちばかりでは群れはばらばらになってしまうだろうが、共感するばかりでは群れは発展しない。
ここまで細分化が進めば、対抗するシステム化傾向が顕著だが普通に生活ができていた人たちが「コミュニケーションが苦手」な部類に押し流されるであろうことも予測できる。世の中が閉塞的になり、ますます現状に押しつぶされてゆくのにはこういった理由もあるのではないかと思う。
コミュニケーション能力なしで成功する事は可能だろうか。また、それは良い事なのだろうか。
例えば、コミュニケーション能力が高そうに見える首相に小泉純一郎がいる。彼は「脱中心化」ができるので、メッセージが完結で分かりやすかった。小泉純一郎が首相になるためには適切なコミュニケーション能力が必要だったのだろう。
しかし、生まれながらに地位が約束されているタイプの政治家には「相手の身になって考える」ことができない。例えば、麻生太郎には「脱中心化」の力がなさそうだ。しかし半径5mの男と言われるように、相手の感情を見て適切なフィードバックを与えることはできるのではないかと考えられる。麻生太郎さんは周りの人が顔色を読んでくれるので脱中心化する必要はなかっただろう。
同じように首相を輩出した家柄に生まれた安倍さんは空気が読めず(つまり、相手のニーズが分からず)福田さんは言葉と表情が拙かった。
この記事のオリジナルを書いたのは2009年だった。この後で民主党政権が破綻し、安倍晋三は首相に返り咲いた。彼は「国民の気持ちが分からず」政権を失った。その後3年間考えた結果、国民のやりたい事と自分がやりたい事は違うということに辛うじて気がついた。しかし、相手の気持ちが分からないという欠点は克服できなかったらしく、周囲が止めるのも聞かずに靖国神社に参拝し、アメリカから「失望した」と宣告されてしまった。 このように、人間の共感能力には生まれつきの部分があり、なかなか全てを努力で乗り越えるのはむずかしいらしい。
2009年8月4日初稿 – 2013年12月29日書き直し 
 

意味がわからん

毎日、わけのわからない投稿をしているのだけど、定期的な購読者がいるようである。多分ほとんどの人が会った事もなければ、これから会う事もない人たちだろう。これはこれでとても不思議なことだ。そんな中、「意味がわからない」と、たった一言のコメントが来た。ああわからないんだなと思ったのだが、よく考えてみるととても不思議なコメントである。投稿してくるくらいだからやむにやまれぬ気持ちがあったのかもしれぬ。今日はこれについて考えてみたい。

わからないということ

先日、パソコンがわからない人を観察する機会に恵まれた。メールに添付されている写真を電子アルバムの記憶装置にコピーするという作業ができないのだ。どうやら各種のプロンプトが全く役に立っていないらしい。
装置をさしこむと、画面隅の方で「この装置をさしこんだら何をするか」というプロンプトが出る。これはモーダルといって、その処理をしないと先に進めないことになっている。しかし下に出ているだけなので、写真を移動させることで頭が一杯の人には目に入らない。(よく見てみると、モーダルがハイライトしていることがわかったはずだが、こういう人はハイライトの意味もわからないのだ)
次に、写真を「うっかり」ダブルクリックすると、PhotoEditorが開く。すると、写真はドラック・アンド・ドロップできなくなってしまう。つまりアイコンと、PhotoEditorの開かれている写真(こちらは編集エリア)の区別ができないのである。
これをモードの違いがわからないと表現する。Windowsに限らずGUI系のOSには3つの世界があるのだ。一つひとつをモードという。

  • コマンドラインの世界
  • メニューバーの世界
  • ドラッグ&ドロップの世界

多分、一番マニュアルにしやすいのはコマンドラインの世界だろうが、すべてのコマンドを暗記する必要がある。ドラッグ&ドロップ(GUI)は直感的に操作できてよいのだが自由度が高いので、こうした混乱が起きやすい。

これがわかるようになるためには

パソコンではこのような比較的簡単な作業でも、2つ(コマンドを叩く人はあまりいないだろうから、GUIとメニュー)の世界を理解しなければならない。そのためにはOSの基本的な知識(たとえば今作業をしようとしているのはハイライトされているところだ、などなど)を覚える必要がある。この知識は作業とは独立した比較的抽象的な概念だ。いったん抽象的な概念が獲得されると、ファイルをコピーするにはドラッグ&ドロップしてもよいし、メニューから「新しい名前で保存する」を選んでもいいことがわかる。
しかし困難はそれだけではない。あの左上にあった「リムーバブル・ディスク」が、メニューでは「Fドライブ」だということがわからなければならない。2つのモードは話言葉が違っているだけでなく地図すらも異なるのだ。
パソコンを昔から使っている人はMS-DOSからシングルモードしか許容しないOSを経て、マルチタスクに至っている。つまり、こういった概念を10年以上かけて蓄積しているのだ。しかし、ある日いきなりこの混乱に満ちた世界を突きつけられた人たちはどうやって理解するのだろうか? そう考えるとなんだか暗い気持ちになってしまう。

わからないということ

ここでは、自分の行動とプロンプト(返ってくる反応)を結びつける地図が作られたときに「わかった」ことになる。現実世界では行動もプロンプトも具体的な作業と結びついているかもしれないし、抽象的なものかもしれない。
ものによっては、それが部品の一つに過ぎない場合もある。この場合は説明通りに組み立てたとしても最終成果物(例えば時計)は完成しないかもしれない。「考える」という作業ではこういうことが時々ある。
多分、投稿者の「わからない」にはいくつかの意味合いがあるのではないか。わざわざ「匿名」と書いて投稿されているので、これ以上の情報を得る事はできないのだが。

  • 読み進めてきたものの、地図が作られなかった。
  • 読み進めてきたものの、最終成果物が何なのかわからなかった。
  • 作者がなぜこんなことを考えているのか理由がわからない。

わかるということ

家電製品にはメニュー型が多い。プログラム上の制約なのだと思うが、一つの作業を行うために行なう操作が一通りしかないので「間違いが少ない」というメリットがある。携帯電話はこの世界だ。だから携帯電話は「わかりやすい」ということになっている。
日本の教育が暗記型に陥りやすいのは、こうした手順遂行型が一般化しているからだろう。手順を覚えてしまえば間違いは少ないのだが、不測の事態には対応できない。不測の事態というと大げさだが、一例を上げて説明してみよう。
例えばコンビニの店員さんの中に、作業をしている途中で話しかけられるのを極端に嫌がる人がいる。昨日ローソンで春巻を買ったのだが、醤油が付いているので「あー醤油が付いているんですね」と言ったら、店員の手が止まってしまった。醤油は使わないだろうと思ったので「入れないでください」と言おうと思ったのだが、そんな余裕はなさそうだった。
この場合、最初に「春巻きをください、ただし袋はいらないし、醤油も入れないでください」と言うのが正しい。コマンドを与えるタイミングは作業をはじめるとき1回しかないのだ。コマンド型の作業者は不測の事態を極端に嫌うのである。
もうひとつ「わかりやすい」の質がある。それはアタマの使い方の質の問題だ。抽象的なルールをわかりやすいという人(直感型)と、具体的な行為や光景がわかりやすい(感覚型)の人がいるのだ。日本の週刊誌は感覚的な人たちが「わかる」と言えるようにできている。だから、ほとんどの記事は次のように書かれている。「吉田茂の孫である麻生さんと、鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が争っているのが今の政治抗争の本質である。思えば、バカヤロー解散の時には…」日本の週刊誌が得意なのは、見知らぬ人を見知ったフレームの中に押し込めてゆく作業だ。「小泉純一郎は昔福田康夫の所で働いていて…」といった具合に既知の情報に新しい情報を足してゆくことになる。物事がフレームにはまったときに「わかった」ことになる。
この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。このタイプの「わかりやすさ」は変化に対応できないのだ。主に二つの理由がある。

  • フレームそのものが変化してしまうと、絵全体が崩れてしまう。これを昔の絵に当てはめようとするとわけがわからなくなる。
  • 作業の途中で状況が変化する。不測の事態の多い、わけのわからない状態だといえる。

我々は消費社会に生きている。消費社会では、製品やサービスの善し悪しを、生産者が消費者にプレゼンしてくれることになっている。だから「わからない」ことは十分クレームの対象になる。人は親しみのあるフレームで物事を捉える傾向があるので、学校や政治といった領域でも、消費社会のフレームを適用することがある。そうすると「わからない」人は、わかるように説明してもらって当然だという確信のようなものが生まれる。
そしてわからないニュースは売れないので、淘汰されて目の前から消えてしまう。
だから「わかる」フレームには、思っている以上にクセがついている。そしてそのクセには一長一短があり、わかりやすいことがいつもいいことだとは限らない。何がどうわからないかを考えてみることは意外と大切なのだと思う。
そこからパターンが抽出できれば、混乱にみちた世界が少しだけやさしく見えるかもしれない。

スパイト行動

このブログで何回か取り上げたスパイト(いじわる)行動。
元になった論文はコチラ
この論文から私が読み取ったのは次の点だが、どうやら「1」は正しい理解ではなかったようだ。

  1. 筑波大学の学生は(カリフォルニアの学生に比べ)公共財のフリーライドを目指す傾向がある。
  2. 筑波大学の学生は自分の利得を削ってでも、フリーライドを禁止する傾向が高い。
  3. これにより、フリーライダーは協力せざるを得なくなる。

これについて、ゲーム理論で解く (有斐閣ブックス)で、もう少し調べた。ご本人の論文よりもこちらの方が分かりやすかった。他にも面白い例がたくさん掲載されている。ゲーム理論は一昔前の流行と見なされているフシもあるが、いろいろなヒントを与えてくれるようだ。

公共財供給とスパイト行動 (西条他)

  1. 公共財とは一人が消費することによって別の人が消費できなくなるという性質を持たないもの。(私的財に対応する言葉)
  2. アクセスに制限を儲ける(有料テレビのように)ことで、排除可能な公共財を作る事もできる。
  3. 公共財はただ乗り(フリーライド)が起こるため、協調によって得られる最大利得行動がナッシュ均衡にならない。
  4. ただ乗りを防ぐためには、制度設計が重要(Groves&Ledyard, 1977)
  5. 社会の全部が自発的に公共財投資を行うインセンティブを常に持つ戦略を立てるのは不可能(Saijo & Yamato, 1997/1999)
  6. 経済実験(Saijo, Yamat, Yokotani & Cason 1999)では、このようなゲームを繰り返し行う事で参加68%,不参加32%という均衡戦略に到達するかどうかの実験が行われた。(※いつも2/3、1/3になるというわけではなく、利得表で調整しているものと思われる。)
  7. しかし筑波大学の実験では参加率が95%まで上がった。それは自分の利得を犠牲にしてまでも、相手のただ乗りを阻止する選択をする人が多かったからだ。これをスパイト行動と呼ぶ。
  8. このような違いがなぜ起こるのかは、解明されていない。

自分の利得を削ってでもただ乗りを防ぐ努力が抑止力になっているという説明だが、インプリメンテーションはなかなか難しい。普通に読み取ると、相互監視的な抑止力がなくなると「普通程度」にただ乗りが起こるコミュニティーができあがるということなのだろう。ただ、フリーライド抑制のメカニズムは他にも存在するかも知れない。