高齢者にやさしいPCとはどんなものか

PCデポの問題について考えているうちに、高齢者はパソコンのメンテナンスでカモにされやすいということがわかった。であれば、メンテナンスフリーのパソコンを作ればいいわけだ。高齢者の人口は増え続けているわけだから、ニーズもありそうだ。
では高齢者に優しいパソコンとはどんなものだろうかと思った。

シングルタスク

最初の問題はマルチタスクである。これがなぜ問題なのか、高齢者に接していないと分からないのではないだろうか。例えば、次のような動作を考えてみたい。金融機関のオンライン作業をしている。承認のためにメールによるワンタイムパスワードが求められる。メーラーを立ち上げてURLをクリックするとブラウザーに戻る。実に簡単な動作である。
だが、パソコンが分からない人はこの作業ができない。アイコンをクリックすると別ウィンドーが立ち上がるということは理解できるようだが、ブラウザーとメーラーが別のウィンドウであるということが分からない。アプリケーションという概念がないのだ。そこで「メーラーを立ち上げたらブラウザーのウィンドウがなくなった」ということが理解できないのである。アプリを切り替える、コマンド+タブがあるじゃないか(これはマックの場合……)と思うのだが、アプリという概念がないために、コマンド+タブが何をするものかが理解できないのである。
これの解決は簡単だ。マルチタスクをなくしてしまえばいいのである。すると普段の動作からアプリを切り替えることを強制されるようになる。

データバックアップと障害対応

次に困難なのが不具合になった時のデータレスキューである。普段からバックアップを取ればいいじゃないかと思うのだが、そもそもバックアップが分からないし、外付けのハードディスクの設定もハードルが高い。だから、オンラインに直接接続できてバックアップを取ってくれる仕組みがあればいいことになる。システムは外から復旧すればよいので、設定だけが残っていればよい。
もう一つが障害対応だ。突然立ち上がらなくなったりするとどうしようもなくなるのだが、もしハードウェアの診断などがレポートで出てくれば、それを電話で確認することができる。問題の切り分けが楽になるはずだ。これはサポートスタッフとのやり取りも楽になるはずだが、家族の間のやり取りも楽になる。子供が遠くに離れている両親のために機械を買ってセットアップして置いておくということがあるのだが「いきなり画面が真っ黒になった」と言われてもよく分からないのである。
最後の課題はOSのバージョンアップだ。Windowsはアップデートのたびに騒ぎを起こし、iOSもパスコードを要求されたりと、すんなり行かないことがある。できればアップデートしないで欲しいと思うのだが「セキュリティ」などと言われると拒否もしにくい。

音声入力

ここまで「高齢者」をひとくくりにしてきたのだが、高齢者にも二種類いる。株式投資をしたいためのパソコンを持っているような人たちもいる。いつ覚えたのかは定かではないが、キーボードの操作はできるらしい。しかし、キーボードの操作が全くできない人たちもいる。こういう人たちにとってはフリック入力すら難しいので、音声入力が求められる。しかし現在の音声入力は画面上のボタンを押さなければならない。ところがキーボードに拒絶反応がある人というのは、画面に描かれた絵とUIボタンの区別ができない。
フリック入力が難しい人でもガラケーの文字入力はできたりする。どうやらソフト的に表現されたボタンが苦手なようなのだ。
そこで、音声ボタンを独立させるほうがよい。主に利用するのは検索とメッセージサービスだ。LINEのようにそのままメッセージが残せるサービスもあるが、基本はテキストメッセージングサービスなので、ボタンを押して言葉を吹き込めば文字化されたほうがよさそうだ。電話は知っているのでボタンすらなく、受話器をあげたら音声文字入力ができるというものでもよいかもしれない。

拡張性

ここまで考えてくると「それってiPadに近いのではないか」と思える。iOSはマルチタスクに対応しておらず「使いにくいなあ」と思えるのだが、間違いが減るというメリットがある。
一方、iPadの最大の弱点は対応するプリンターが少ないところかもしれない。写真、レシピ、などやたらと紙で印刷したがるのだが、AirPlayに対応するプリンターがなかなかない。iOSは基本的に画面で楽しむことが前提になっているからだろう。もう一つは年賀状なのだが、これは対応アプリがあるようだ。iPadにはキーボードがないので住所録の整備が難しいという問題がある。Bluetoothのキーボードを使えばよいとは思うのだが……

マーケティング

高齢者向けに製品を作ったら「簡単に使えますよ」というようなマーケティングをしたくなる。しかし、実際の高齢者は「弱者扱い」されることを極端に嫌うようだ。実際の商品コンセプトはタブレットに近い訳だから「おしゃれで使いやすい」製品だという位置づけが必要かもしれない。

当事者には意外と分からない、かも

これを書いていて思うのだが、当事者に「高齢者に使いやすいパソコンとはどのようなものか」と聞いてもよくわからない。自分はまだまだ現役だと考える人もいるだろうし、何が分からないのか分からないという人もいるだろう。だから、顧客にリサーチをかけても分からないのだ。逆に、カスタマーサポートをまじめにやっている人たちは知っているはずだが、開発現場とは切り離されていることが多いのではないかと考えられる。

発達障害を問題視することの何が問題なのか

「発達障害に気がつかないままに大人になるとどんなことになるのか」というビデオをYouTubeで見た。これは非常に危険なメッセージだなあと感じ、最後まで見ることができなかった。
ビデオの主人公は大学生なのだが、部屋が片付けられず、履歴書がきっちりと手書きできない。何かに夢中になると他のことが分からなくなるために、バイトに遅れたりするという特徴を持っており、人の話が聞けない。このために就職できない。だから「障害だ」というのである。
だが、バブルが崩壊するまではこういう人でもきっちりと就職ができた。大学には入れているわけで、基本的な学力はあるものと考えられる。コミュニケーションが取れない職人気質の人というのも珍しくなかった。こういう人たちは「研究者気質だ」と言われて尊敬されすらしていた。特に理系の場合には研究室からの紹介制度があり、コミュニケーション能力だけでその人の適性が図られることはなかったのだ。
どうしてそれが成り立っていたのかを説明するのは少々難しい。イノベーションについて知らなければならないからだ。イノベーションには2つの段階がある。最初の段階は「カオス」でありマネージできない。そして、それを精緻化してゆく。精緻化のためには組織力が必要である。さらにそれを売り込むためには高度なマネジメントが必要だと考えられる。これは「ろうと」に例えられる。クレイトン・クリステンセンによれば「失敗を認めない」文化が(少なくともイノベーションの初期の段階には)必要だ。
いわゆる「発達障害」に当たる気質はイノベーションには欠かせない。既存のルールに捉われず、一つのことに夢中になるからこそ、既存のルールを超えて行くことができるわけである。
一方、現在の就職活動は「きっちり管理する能力を測る」ことで、この管理できない「カオス」を排除している。ここはある意味ムダな領域なのだが、そのムダな領域がないと新しい価値は生み出されない。つまり、日本人は日々の努力を通じて、イノベーションの芽を摘み取っているのだ。
では、なぜ日本ではイノベーションの芽が摘み取られているのだろうか。それは生産段階では邪魔な気質だからである。例えば日本の品質管理に学んだというシックス・シグマは失敗をはじくための手法だ。マネジメント層は失敗をする人が求められるのだが、被マネジメント層は失敗してはいけない。被マネジメントからマネジメントに上がるパスがあると、失敗ができる人を排除してしまうことになってしまうのだ。
では日本人が失敗を排除する合理的な思考を持っているかと言われるとそれも疑問だ。
この典型が手書きの履歴書である。履歴書は情報をつめた物だから、合理的に考えれば手書きでなくても構わないはずだ。データとしての共通書式があれば、効率化ができるかもしれない。アメリカの場合にはパソコンを使って、書式を自分で工夫して書く。担当者が読みやすいように数枚のレジュメにするのが一般的だ。人事担当者は職が空いたときにそれを見るのだ。しかし、日本人はそれをやらない。苦痛を与えることで精神修養を目指すという独特の価値観があるからかもしれない、と考えられるが、実際には一括採用するからだろう。効率化と称して一括採用をやるのだが、これが実際に効率的なのかはよく分からない。毎年ルールが代わり、そのたびに人事部と学生が振り回されている。繁忙期にリソースが集中して通期でみるとムダも多い。
このやり方は会社に入ってからも続くのだが、生産性に大きな影響を与える。「手書きする時間があったら、合理化して企業研究に充てたい」というような、個人が生産性を上げる工夫は通りにくい。例えば、ムダの多い先例を忠実になぞるようなプログラミングで業務支援プログラムを組んだりするのがその典型である。IT化が遅れ、日本の生産性は向上しなかった。
このために不合理なルールが残り「空気を読める」人たちだけが抽出されることになる。そこで思い切った発想ができる人などが排除されてゆくことになる。
発達障害のビデオに戻る。例えばリマインダーを作ることで、課題やアルバイトの期日を管理したり、履歴書をコンピュータ管理したりすることで、いくらでも「障害」をバックアップできるはずだ。だが、それを日本人はそれを嫌がるのだ。
「発達障害」とか「コミュニケーション障害」といった言葉がどの程度蔓延しているのかは分からないのだが、これは厳密には「障害」とは言えないと思う。しかし、それを実感するためには英語を習得することが重要なのだろう。

ポケモンGOは禁止すべきか

ついにあのポケモンGOが日本でも配信された。
配信前にはかなりのプロモーションが行われた。アメリカで流行っている、崖から落ちた、原発に入った、車にはねられたなどというニュースがさかんに流されたのだ。NHKまでもが(ミッキーマウスですら、例のあのネズミと呼ぶのに)ポケモンを連呼していたせいで、高齢者までが「ポケモン」という言葉を覚えてしまった。
このポケモンGOが危ないという論が出ている。検挙者や逮捕者まで出たからだ。ゲームをやらない人たちがおもに「あれは危ない」と主張しており、ゲームをやる人たちが反発している。はたして、ポケモンGOは規制されるべきなのか、それともそうではないのか。
依存という概念がある。何かに頼らざるを得なくなる状態が依存だ。依存そのものは問題ではないのだが、健康に影響が出たり、社会生活が営めなくなると「依存症」になる。いわば程度の問題で問題になるのだ。
合理的な判断が効く状態では「自転車に乗るときには前を見なければならない」などと思えるわけだが、スマホ依存症になるとそれが分からなくなる。実際に事故が起きているということは、この人はスマホ依存を起こしていることになるだろう。依存を自分の意思で止めることは難しいので社会的に何らかの介入が必要になるのだ。未然に防止しなければ事故につながる。
「じゃあなにか。お前はゲームを禁止しろとでもいうのか」という声が聞こえてきそうだ。これは非常によい質問である。つまり、これはゲームの問題ではないのだ。ポケモンGOは、バーチャルとリアリティを融合したフィールドでの始めての成功例となった。つまりこれは、AR(拡張現実)と呼ばれる分野で何が起り得るかという壮大な社会実験なのである。ARは現実に情報を付加するという方向性で考えられることが多かったのだが、実際には逆の形で成功した。つまりゲーム空間が現実に登場するARが最初の社会現象を起こしたのだ。
ポケモンGOの成功でARには没入感と中毒性があることがわかった。もともと、このゲームは影響力を受けやすい人たちの間で広がっているようである。合理的な判断ができる人もいるだろうし、そうでない人たちもいるのだ。自分たちの合理的な判断で「やる・やらない」を判断できないとしたら、社会が介入する必要があるということになるだろう。つまり、ポケモンGOは規制の対象にすべきだということになる。
どのような規制が考えられるかというのは、つまりどうしたらARを安全に運用できるのかというのと同じ問題なのだ。
この問題は検討されるとしても、たぶん「ゲーム脳」のような扱われ方をするのではないかと思うのだが、実際にはもうすこし広範な現象を扱っている。もしくは「あぶない恋愛が描かれたマンガを規制する」というのと同じ対応になるのかもしれない。つまりは、たんなるサブカルチャーいじめとそのカウンターという運動になってしまうのだ。これは「使う人」対「使わない人」の対立だ。
、現在多くの議員たちが「人工知能や拡張現実はお金になる」という認識を持っている。この問題を規制は多分大きな問題が起るまで先延ばしになるのではないだろうか。何か起きたときにパニック的に何かを決めるのだったら、今から準備しておくべきではないだろうか。
 

プラスティック鉢はどうやって受け入れられたのか

肥料の本を読んでいる。結局、化成肥料ばかりを使っていると土が荒れる(微生物がいなくなるので、固くなるのだそうだ)ので、有機肥料を混ぜて使えと書いてあるだけだった。しかし、有機肥料には即効性はなく、臭いが付いたり、虫が湧いたりする。だから、化成肥料と有機肥料を使いわけろということである。
だが、肥料とは別に面白い話を見つけた。プラスティック鉢がどうして普及したのかという話である。高度経済成長時代が始まると、人々は生活を豊かにしたいと考えるようになった。当時は「団地」が庶民のあこがれだったので、室内に飾る植物が普及するようになった。だが、植木鉢と言えば「素焼き」が一般的だった。
それが劇的に変化するのはオイルショックなのだそうだ。プラスティックの原料は石油なのでプラ鉢の価格が高騰しそうに思えるのだが、実際には素焼き鉢の価格が上がった。鉢を焼くのに燃料が必要だからなのだそうだ。
しかし素焼き鉢メーカーは欠品を補うような対策をとらなかった。その隙間を縫ってプラ鉢が普及したのだ。最初にプラ鉢に目をつけたのは生産者だった。鉢が普及すると、それに合わせて用土が変わる。具体的には水の通りが良くなるように用土が改良された。赤玉土やピートモスなどが普及した。以前は庭の土をそのまま素焼き鉢に入れていたのだそうだ。
生産農家はプラ鉢を歓迎した。パートの人にとって軽くて扱いやすいからだ。これがベランダ園芸に取り入れられるようになり、今の状態になっている。プランターのような大きな物はほとんどがプラスティックに置き換わっている。
プラスティックが安物に見えてしまうのは仕方がないことなのだが、最近ではリメイクが流行しているらしい。鉢の上にテクスチャを貼ったり色を塗ったりして自分好みの鉢を作るのだ。
また、スリット鉢と呼ばれる切り込みの入った鉢もある。通常の植木鉢では、根が底に巻く「サークリング」と呼ばれる現象が起る。これを防ぐためにスリットを入れると、土を有効に活用できるようになるのだという。スリットのおかげで通気性もよくなるそうだ。
加工が簡単なプラスティック鉢にはいろいろな可能性があるのだが、もしオイルショックがなければ、現在も植木鉢は素焼きが主流だったのかもしれない。

振り込め詐欺がなくならないのは金融機関のせいかもしれない

高齢者を対象にした詐欺がなくならない。警察は膨大な費用をかけて広報しているがそれでもなくならない。そこで「騙される高齢者が悪い」という話になるのだが、これは金融機関の怠慢かもしれない。より正確に言えば「100%安全」を追求した結果、新たな危険が生まれているかもしれないのだ。
最近、フィンテックという言葉が流行っている。ITを使って便利な金融サービスを作ろうという動きである。いくつかの領域があるらしいのだが、アメリカでは電子メールを使ってお金のやり取りができるようになっている。クレジットカード(その場で引き落としができるデビットカードも一般のキャッシュカードに付帯している)で支払う人も多い。レストランでの割り勘もできるそうだ。
キャッシュレス支払いは記録も取りやすいので付随するサービスが発展する。例えば家計簿をまとめたり、人工知能を使って節約方法を提案するなど、いろいろなサービスが考えられる。
こうしたサービスができるのは、ユーザーがキャッシュレス支払いに馴れているからだと言える。何故馴れているかというともともと小切手が発達していたからだ。小切手が発達したのは現金取引より安全だと見なされていたからだ。現金は盗まれる心配があるが、小切手は引き落とされる前に止められ、安全性が高いと考えられている。メールによる送金は小切手をなくしたり盗まれる心配すらないのでさらに安全だと考えられている。
少額決済サービスは現金に比べて安心だ。特に口座の身元がはっきりしている場合にはトランザクション(お金のやり取り)が可視化されるので透明性が増すことになる。つまり2つの条件が重なると、お金がらみの犯罪は減るのだ。

  • 現金取引が少ない
  • 各口座の身元がはっきりしている

振り込め詐欺がなくならないのは、誰の物か分からない口座(多分偽名でも口座が作れるのだろう)が蔓延しているからだろうと考えられる。個人が番号で特定できるようになった今、こうした幽霊口座をなくそうと思えばなくせるはずだが、未だに身元がはっきりしない口座はなくならない。
現金を宅配便で送らせるという手口もあるようだが、これも個人決済が遅れているからだろう。日本の場合は「セキュリティ上の理由」で振込がとても複雑なのだが、なぜ、アメリカでできていることが日本でできない理由が分からない。事故のリスクを分散する態勢ができてないからではないかと思われる。
日本で非現金決済が定着しない理由はもう一つある。。低金利で貯蓄に金利が付かないために手数料収入に頼る傾向にある。だから、金融機関が非現金決済で利ざやを稼ぐ戦略にでている。デビットカードはそもそも数が少ない上に年間手数料がかかるのが一般的なのだ。消費税の税率が2ポイント上がるだけでこれだけ文句が出るのだから、手数料を避けたいと思う人も多いに違いない。そこでいつまでも現金決済がなくならず、従って振り込め詐欺のような犯罪が減らないという経路になっている。
日本人は、日本以外の金融機関を使うことがないためにサービスが比較できず、不便なサービスでも、これが当たり前だと考える。もちろん、欧米の銀行にも悪い所はある。新しいサービスを作るのも早いが儲けがないとすぐにやめてしまう。また、手数料収入に依存している点も共通しており、低所得者を中心に銀行に口座を持たない(あるいは持てない)という人が出てくる。
日本の金融機関は政府の統制が厳しく、新しい商品を出しにくいのだろう。一方で「間違わない」ことに力点が置かれる。100%の安全・安心というのは良いことのように思えるのだが、実際には別の危険性を誘発している可能性があるということは知っておいた方がよいと思う。
いずれにせよ、非現金決済が減り、口座の身元が確かになれば、振り込め詐欺のような被害は大幅に減るだろう。

フィンテックに乗り遅れる日本の金融機関

新しい成長分野として「フィンテック」という言葉が流行している。ITを使った金融サービスを指すようだ。日本では言葉だけが一人歩きする状況なのだが、日本の金融機関はこの流れに乗り遅れるだろう。乗り遅れるにはいくつかの理由がある。

  • セクショナリズムに走る金融機関の組織運営
  • 全ての問題を完全に排除したがる極度の潔癖さ
  • ITリテラシの低い顧客

アメリカ人の間では小切手が廃れ、小口のやり取りを電子メールで行う機会が増えているそうだ。相手のメールアドレスを登録するだけでお金のやり取りができるのである。小切手のようになくす心配がないと宣伝されている。これは、フィンテックとしては簡単な部類である。
電子メールでお金のやり取りができれば、ATMの長い行列(時間がかかるのはたいては振込だ)は短くなるだろう。これは国全体の生産性を著しく向上させるに違いない。だが、日本ではこのようなことは望むべくもない。「電子メールでお金を送るなんて危ないことできない」という感想が一般的なのではあるまいか。小口でも振込にはワンタイムパスワードが必要なのだが、それでも問題が起るらしい。セキュリティは日に日に厳しくなってゆく。
先日こんな体験をした。東京三菱UFJ銀行がアプリを更新した。古いiOSでは利用ができなくなった。そこで銀行に「どうすればよいか」を聞いたのだが、1時間かけて5人の人と話をしてやっと「どうしようもない」ことが分かった。担当者が変わったのは、専門分野を統括している人がいないからだった。つまり、全体を見渡している人がいないのだ。5人に最初からいちいち経緯を話すことになる。生産性という立場からは有害だ。顧客の時間を奪う上に、問い合わせの人の生産性も上がらない。だが、日本ではこれを「サービス」と呼んでいる。
全体を統括する人がいないということは、生産性以外にも問題がある。IT業界は「ユーザーエクスペリエンス」を気にするが、金融機関の人にはこの概念がそもそも存在しないのだろう。彼らが問題にしているのは「自分の仕事が完全に間違っていない」ことだけなのである。誰も全体を設計していないのだから、一つの部署の変更で顧客に不便を強いるようなことが出てくる。「日本人は中心を空白にして、誰もリーダーシップを発揮しない」ということが分かっていても、かなりイライラする体験である。
銀行のいうワンタイムパスワードには振込用のものとログイン用のものの二種類があるらしい。ここまでセキュリティをガチガチに固めても安心できないのだろう。別の銀行では、携帯キャリア以外のメールにはワンタイムパスワードを送らないということにしたらしい。それでも問題が起るのではないかと思う。
アメリカ人が普通にやっていることが、どうして優秀な日本人にできないのだろうか。顧客のITリテラシーが決定的に劣っているか、全ての間違いを排除しないと気が済まない過剰な潔癖さのせいかどちらかだろう。アメリカでも問題は起きているはずなので、保険でカバーしているのではないだろうか。問題は決してなくならないが、総合的なコストは低く抑えることができる。これが生産性を上げるのだ。だが、日本人の顧客は100%安全でなければ安心できないのだろう。そのためには低い生産性で我慢する必要がある。いわゆる「安心・安全」のコストである。
しかも、手続きには窓口に行く必要があるらしい。アプリのワンタイムパスワード(振込)をカードに切り替えるための手続きはオンラインではできないというのだ。だが、なぜか海外送金の申し込みはマイナンバー登録なしで、窓口に行かなくてもできるらしい。ただし、日本に在留している必要がある。
日本が経済成長を目指すのは意外と簡単だということが分かる。文章にすると簡単なのだが、この簡単なことができないのだろう。

  • セクショナリズムを排除して全体のプロセスを統合する
  • リスクを割り切りヘッジするための仕組みを考える
  • ITリテラシを養う

セルフブランディングと意識高い系

日本はなぜ成長できないのかについて考えている。原因の一つに、産業構造の硬直化があり、裏には労働移転の停滞がある。労働者としての個人が儲ける力がなくなった産業や組織から、儲けられる産業や組織へ移転できないのだ。労働者の中には起業家やマネージャーも含まれる。古い産業に労働資源が張り付いているのが問題なのである。
実は労働移転が模索された時代があった。
TwitterやFacebookが出てきたとき「セルフブランディング」という言葉がもてはやされた。会社とは別に自分のブランド価値を作ろうというような動きだった。Google Trendで探ると2004年頃には既に存在したようだ。なぜか日本ではLinkedInが流行らなかったのだが、こうした動きに注目したのが職歴のない学生だったからかもしれない。
ところがこの「セルフブランディング」は徐々にネガティブな色彩をまとうようになる。「地に足がついていない」とか「上げ底」と捉えられるようになってしまうのだ。そこから出てきた言葉が「意識高い系」である。もともと学生の間で言われていたようだが、流行らせたのは常見陽平という作家らしい。行き過ぎたセルフブランディング(盛ったプロフィールなどというように使われる)を冷ややかに見つめた。本が出版されたのは2012年12月らしい。ここから「意識高い系」という検索ワードが増えることになった。
ちょうどアベノミクスという言葉ができて「何もしなくても日本は大丈夫」と考えられるようになった時期に重なる。民主党時代には「自分だけはなんとかしなければ」という動きがあったのだが、救世主が表れてそのような機運はついえてしまうのである。
このセルブブランディングの変遷はフリーターという言葉の変遷に似ている。もともと自由に好きなことができる人という意味で出てきた言葉だったのだが、徐々にアルバイトしかできない収入の不安定な人という認識ができた。バブルが崩壊しこの言葉はネガティブな意味合いで定着し、現在に至る。今では「フリーターは国家的な問題だ」というような使われ方が一般的である。
この国では一貫して「好きなことを仕事にする」というのはネガティブに捉えられてきた。仕事とは苦しくて嫌な物なのだというのが当たり前に受け入れられている。いろいろな労働調査をすると「自分の現在の仕事を肯定的に受け入れられない」人の割合がきわめて高くなる。
嫌々仕事をやって生産性が上がるはずがない。言われたことだけをやって、時間が来たら帰るだけというような職場が作られるだろう。だが、それも許されず不効率な職場環境を残したままで、長時間労働を強いられる人と、パートとして短い時間で働く人に分かれている。
確かに「盛ったプロフィールは痛い」ものなのかもしれないが、何もしないよりはマシなのではないかと思える。しかし日本人は「何もしない」ことを選んで、チャレンジする人たちを揶揄することにしたのだ。
日本人は徹底してリスクを回避する。大学教授は研究開発費を得るためにポンチ絵を書かされるそうだ。審査するのは役人であり、その人たちのために「確実に投資が回収できる」絵を描かされているらしい。役人は「失敗」を国会で追求されてはならないのだから、危ない事業には手を出さないだろう。国がリスクマネーを出してベンチャービジネスを支援しようという動きもあるようだが、これを審査するのも役人と資金を出している大企業だ。彼らは従来の成功事例をもとに「確実に自分たちが儲かる事業」にしか支出しない。結局、関係者が税金を回収するための装置になっているようだ。
こうした動きは、社会主義の失敗に似ている。社会主義経済では「確実に達成できる目標」が優先される社会だったが、次第に計画は物語化していった。労働者(経済の担い手と言ってよい)たちの意思を組み込まなかった故に失敗したわけである。なぜそれがうまく行かないかというと労働者は消費者としての側面も持っているからだ。つまり、供給者=需要者などという図式は存在えしないのだ。
日本経済が成長しないのは、やりたくもないことを長時間かけてだらだらとやらされているからなのだが、それだけでなく、やっと出た「経済を成長させたい」という意欲を冷笑して摘み取ってもいる。つまり「成長しないようにがんばっている」社会なのである。

社会主義はなぜ失敗するのか

政府が導入しているETC2.0がかなり残念なことになっているようだ。ウリになっているのは、料金の引き下げ(ただし圏央道のみ)とインターネットによる情報サービスである。このレポートの筆者は、情報サービスをGoogleやYahoo!と比べている。
Googleは営利企業だ。そしてそこで働いている職員たちには2つのインセンティブがある。1つは個人的な達成で、もう1つはよい給与だ。よく知られているようにGoogleは自分たちの好きなように時間を使ってプロダクトを開発することが認められている。
ところが、役所が作るシステムにはそれがない。作り手は役所の言われた通りに作るだけである。念頭にあるのは「周辺に迷惑がかからず」「法令に違反しない」ということだけだろう。言われた以上のものを作ろうというインセンティブがない。もしくは言われた以上のものを作ろうとすると、懲罰を受ける可能性すらある。
こうした状況を打開するために、民間会社にオープンソースすればよいと考える人もいるかもしれない。しかし、それも望み薄だろう。実際に企画を作るのは会社の上のほうの人たちであって、実際に手を動かす人たちではないのだ。「やらされている」ことには違いがない。
実際に開発する人は作り手であると同時に使い手である必要がある。だが、それだけではだめで、実際の技術にアクセスがなければならないのである。
政府は今や一番の使い手となりつつある。つまり、国全体が社会主義化しつつあるということのようだ。社会主義国であるはずの中国が私財の蓄積を通じて成長しているのを横目でみながら、日本はソ連や東側世界と同じような理由で没落しつつあるのだ。

イノベーション – 既存の政治対立からの解放

リーマンショック前にまとめたイノベーションの資料を見つけた。ここにまとめたことは、今でも有効だとは思うのだが、現在これを信じる人はあまり多くないのではないかと思う。状況がかなり変わっているからだ。
しかし、イノベーションについて考えることは有益だ。少なくとも、今私たちが抱えている対立から解放されるにはどうしたらよいのかがわかるからだ。
イノベーションはかなり研究された学問分野で、社会学や心理学といったいくつかの領域にまたがって研究されている。取り扱うのは「正解のない問題をどのように解決するか」という領域だ。既に解のある問題はアウトソースするか機械化すればよいのだが、解のない問題はアウトソースができないからである。
例えば、ダニエル・ピンクはTEDのビデオの中で、内的動機付けと外的動機付けの問題について語っている。ダニエル・ピンクによれば、インセンティブ(外的動機付け)はイノベーションを殺してしまうことが多い。インセンティブは視野を狭める効果がある。集中力を高めるのには適しているが、視野が狭まると新しい解決策を生みにくくなるのだそうだ。
このインセンティブ(外的動機付け)は、成功時の報酬と罰を含んでいる。だから、ダニエル・ピンクの説に従えば、日本の労働環境はきわめて劣悪だ。インセンティブすら与えることができないので、罰せられる他人を見せることがインセンティブ代わりになっている。つまり「非正規で使い倒されるのが嫌なら、もっとがんばれ」というわけだ。労働者の側も慣れてしまっていて「非正規に転落しないようにできるだけ何もしない」か「非正規でそこそこ働くから、言われたことしかしない」というように変化しつつある。
つまり、我々が対峙しているのは「既に解決されている問題を、ほかの人たちよりも効率よくうまくやる」か「解決策のない問題を自ら解くか」という二択だ。
もし、前者を選ぶと日本は中国と戦うことになる。著作権すらなく、他人の発明をパクってくる社会だが、勝ちたければそもそも知財などに構っていてはいけないのだ。工賃も中国並みに押さえなければならない。価格が収斂してゆくのは当たり前である。中国ではイノベーションは起らないだろう。何かアイディアがあっても盗まれてしまうからだ。だが、それでも構わない。中国は背景に多くの中進国を抱えている。
だが、それに対抗するはずの自由主義社会も知財の囲い込みに走っている。知財保護はイノベーターたちのインセンティブになりそうなのだが、これもイノベーションを阻害するだろう。たいていの発明は過去の知財の組み合わせだからである。ジェネリック医薬品のように命に関わる問題もあり、諸外国では既に批判の対象になっている。TPPは自由貿易圏の獲得だといいながら、知財の荘園化が起きているのだ。
知財を巡る動きはこのように両極化していて、どちらも正解とは言いがたい。そのような理由もあり、イノベーションの科学は最近人気を失っているように思える。人々のやる気さえ投機の材料にされてしまっているようだ。
日本の政治を見ていると「自由主義」対「社会主義」という100年以上前に作られた枠組みが未だに支配的だ。だが、実際に選択しなければならないのは「これまでのやり方を続ける」か「正解のない問題に取り組む」かという二択なのだ。

ビーフカツロンダリング

廃棄になったココイチのビーフカツが転売されたとして問題になった。テレビ局はいつものように「企業倫理の向上が求められる」とお決まりの論評だ。しかし、この問題を企業倫理問題に矮小化してもよいのだろうか。
問題視されるべきは流通過程の複雑さだ。一部報道によると卸6社が介在していたそうだ。
卸の役割そもそも卸は何のために存在するのだろうか。教科書的には、卸は流通経路は合理化すると考えられている。5社のメーカーと5社の小売店が直接やり取りすると線の数は25本になる。しかし、卸が介在すると線の数は10本ですむ。これが品物の数だけ起こるので、卸は流通経路の合理化に役立つのである。
ところが、現実は違っているようだ。狭い日本の国土で80円程度のカツを調達するのにわざわざ6社もの卸を介在させている。もともと33円程度だったカツ(もしくは廃棄物)はこうした複雑な流通経路を経るうちに47円も中抜きされてしまった。中には2ヶ月以上かけて流通したものもあったという。
試しに5社のメーカー、5社の卸、5社の小売がある世界を考えてみると線の数は100になる。流通を合理化するはずの卸が流通を複雑化させてしまうのだ。これは日本経済の生産性を低下させる。
なぜこんなことが起こるのかを教えて人はいない。「日本の流通とはそんなものなのだ」とされるだけである。単に右から左へと品物を流しているだけの卸は生産性を向上させるのになんら役に立っていない。IT投資の遅れも不効率な流通が温存される原因のひとつだろう。小売は誰が何を作っているのかを小売が把握できないのだ。
流通経路の複雑さを考えると、インボイスが導入できない理由もわかる。中間業者は事務作業を効率化させることができないのだろう。卸の中には現金取引で伝票を残していない会社すらあったそうだ、事務作業の効率化どころか税金の補足すらできない仕組みになっている。そもそも税逃れのために伝票を残していない可能性すらある。つまり流通は地下経済化しているのである。これではまじめに消費税を払っている業者は払い損だ。
流通経路が複雑になる理由を合理的に説明してくれる人は誰もいない。メーカー本社は値崩れを防ぎたい。しかし、各部門は当期の売り上げを確保する必要がある。そこで出元がばれないように安値で商品を「処分」する必要に迫られるのではないかと思う。表向きは一定の価格で売ったことにして、安値で処分しているのかもしれない。
しかし、これは消費者便益を損なう。割高な食品を買わされることになるだけでなく、時には特売品としてゴミを食べさせられる可能性すらあるのだ。国は流通のIT化を促進して小さすぎる卸の淘汰を図るべきではないだろうか。