松本人志式解決でうやむやにされるのは何か

吉本興業と宮迫博之さん・田村亮さんの事件が新しい展開を迎えた。地上波ではなくネット放送で会見をしたのだ。この結果一気に「吉本興業がテレビと組んで情報を隠蔽しようとした」という構図が生まれた。会見の時点で「テレビはどう解決するんだろう」という興味があった。






だが、この件の推移を見ていて「本質的な問題」は解決しないんだろうなと思った。ここでいう「本質的な問題」とは芸人と事務所の雇用問題や近代的なマネジメントである。また吉本興業が反社会勢力とどのように決別してゆくかというコンプライアンスの問題も「本質」である。ハフポストはその「本質」が改革されることを期待した記事を書いている。だが、日本ではこうしたドライな本質はフィクションでしかない。

代わりに日本人が本質だと考えているのは情緒的な村落のつながりである。人々は口々に昔のように丸く収めてほしいと主張した。全ての関係が丸く収まれば昔どおりにテレビを楽しめるのにと考えてしまうのだ。ビジネスインサイダーは大阪のテレビマンが昔を懐かしむ様子をウエットな「本質」を伝えている。

テレビ局はこのウエットな「本質」を捉えてコンテンツの保護を計画し、潜在的なリスクを抱えることになった。

当初は「ネットで会見をした!これは画期的だ」と興奮した。だが、よく考えるとAbemaTVはテレビ朝日との関係があり、テレビ朝日はアメトーークを抱えている。さらに現在(2019/7)の吉本興業の株主構成は次のようになっている。テレビ朝日も株主として「利益共同体」に入っている。

株式会社フジ・メディア・ホールディングス / 日本テレビ放送網株式会社 / 株式会社TBSテレビ /株式会社テレビ朝日ホールディングス / 大成土地株式会社 / 京楽産業.株式会社 / BM 総研株式会社(注)/株式会社テレビ東京 / 株式会社電通 / 株式会社フェイス / 株式会社ドワンゴ / 朝日放送株式会社 / 株式会社三井住友銀行 / ヤフー株式会社 / 大成建設株式会社 / 岩井コスモホールディングス株式会社 / 株式会社MBSメディアホールディングス / テクタイト株式会社 / 松竹株式会社 / KDDI 株式会社 /
三井住友信託銀行株式会社 / 株式会社みずほ銀行 / 関西テレビ放送株式会社 / 讀賣テレビ放送株式会社 / 東宝株式会社 / 株式会社KADOKAWA / 株式会社タカラトミー / 株式会社博報堂 / テレビ大阪株式会社 / 株式会社博報堂DY メディアパートナーズ / クオンタムリープ株式会社

今回、テレビ局は「かわいそうな芸人」と「隠蔽会社」という構図は作ろうとしているようだが、かといって吉本興業が抱える社会問題には触れない。それを解決するのは「社内の人間関係だ」というのだ。

今回伝えられているのは、岡本社長にも宮迫博之さんにも「人望のある」松本人志さんの介入だ。彼が、岡本社長から芸人を預かり新しい事業会社なりディビジョンを作ることで、社内のマネージメントシステムや意識を改革することなく「改革した」という雰囲気を作ろうとしている。社内の組織改革で人間関係を一新するのは行き詰まりつつある会社ではよくあることだ。AERAは次のようにまとめている。

松本は、吉本興業の中に「松本興業」のようなものを作って、宮迫や田村らを引き取りたいと提案したことも明かした。会社側も「受け入れてくれた」としている。明石家さんまも同じような提案をしていたという。

松本人志の爆弾発言で吉本社長会見へ「全部わかると、何だったかとなりかねない」(関係者)

吉本興業は芸人を「従業員ではない」として雇用主として保護していない。契約も口頭によるもので明確ではないから裁判で業者側(つまり芸人)が権利保護を訴えることもできないる。派遣される職場であるテレビ局と事務所は資本関係がある。派遣のもっと悲惨な形式であるわけだ。さらにグッズの権利を曖昧なまま吉本興業が独占的に扱える共同確認書という「よくわからない書類」へのサインも求められているという指摘もある。この記事の中では「地位の優越を利用した独禁法違反なのでは」という指摘までされているがテレビ局はこうした事情について触れることはない。

先月末の段階で、筆者はこの一件が吉本興業の体質からなる構造的問題だと指摘した(「吉本芸人の『闇営業』を生んだ構造的問題」2019年6月26日)。ギャラが低く、マネジメントは機能せず、契約書もなく、実質的に移籍の自由もない──この問題は現在もまだ解決の糸口が見えない。

【独自】吉本興業「共同確認書」の中身とは──コンプライアンスの問題を抱えているのは誰だ?

それでも、文書で契約は作らず、問題の総括もせず、人間関係でなんとかすると言っている。

日本の組織はこうして内向きになり現実への対応能力を失ってゆく。そしてそうした対応能力を失った会社に多額の税金が吸い込まれる。その意味ではこれは政治問題でもある。この件が「松本人志さんの尽力」で丸く収まってしまうと問題解決はさらに難しくなるだろう。

安倍政権は大阪で芸能事務所を味方につければ選挙対策になると考えたのだろう。安倍首相を新喜劇に登場させたりした。若者対策の一環だという観測も出ている。一方、吉本興業側はクールジャパンの一環として政府が100億円を出資する「ラフ&ピース マザー」へ参画する。もともと暴力団と関係があった企業が「日の当たる場所」に出ている。

今回の吉本興業の件は相撲協会内で暴力事件が多発しそれを防ぎきれなかった相撲協会に似ている。国やテレビ局との関係が強まると社内のガバナンスがおろそかになる。つまり本来の収益源を大切にしなくなるのである。それは明らかな衰退の印なのだが組織はそれを改善しない。そして変化は外から訪れる。次第に新しくて面白い競合が出てきて彼らは徐々に忘れられてゆくのである。

宮迫・田村会見で明かされたのは、吉本興業が「闇営業した」企業のスポンサーがかつて吉本興業のイベントにも出資していたという「好ましくない」つながりである。松本劇場でうやむやにされかねないのは実はこの反社会勢力との関係であり税金投入先として吉本興業がふさわしいのかという問題なのである。

テレビ局はジャーナリズムではなく利益共同体としてこの問題をなかったことにしようとしている。そしてそれを可能にするのが「いろいろあったけど雨降って地固まったね」という日本式解決法なのだ。

だが、視聴者や納税者たちがそれでいいやと感じるならそれでもいいのかなと思う。衰退を直視せず、変化を望まず、お笑いで視線をそらし続けるというのもそれはそれで選択肢だからである。ただ、相撲がそうだったように吉本興業は度々コンプライアンス上の問題を引き起こすことになるだろう。

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安倍晋三・世襲が作った嘘の政治家

先日来「なぜ安倍首相は嘘をつきつづけるのか」ということを考えている。そんな中、安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密という面白い本を見つけた。記者は共同通信で長く安倍首相近辺を取材されていた方のようである。インサイダーではないので安倍賞賛にはなっていないが、かといって反発する目的で書かれたものでもなさそうである。

この本には安倍晋三という個人の虚言癖についての記述が多いので、その筋の人たちからは「反日」というレッテルを貼られているようだ。特に宿題をやっていないのに「やった」と嘘をついたという話が有名で、ネットで「安倍首相の嘘」で検索をすると簡単にこの話を見つけることができるというのも安倍信奉者の怒りを買っている。

ただ、本を読む限りでは反安倍と呼ばれるほどの内容にはなっていない。そしてこの本を読むとなぜ安倍晋三が嘘つきになったかということよりも、どうして嘘つきが首相にまで上り詰めたかということに構造的な問題があることがわかる。構造的な問題を作ったのは小泉純一郎である。ではなぜ小泉が自民党をどうぶっ潰したのかということが次の問題になるだろう。

もともと岸信介と安倍寛という政治家の孫として生まれた安倍晋三は特に父親の愛情を知らずに育った。安倍晋太郎は生後80日で両親が離婚しており母親には会えず、家族をどう愛していいかわからなかったという記述がある。安倍晋太郎も父親を早くに亡くしており、政治的には岳父である岸信介からの影響を受けている。親の愛に恵まれなかった晋三は岸信介のおじいちゃん子として育つのだが、三男が岸家に養子に入ったために岸信介から政治的な思想を引き継ぐことはなかった。安倍晋三は岸信夫が養子だということを知っていたようだが、岸信夫は長い間その事実を知らなかったそうだ。

普通に読めば「政治家の家ってそうだよな」と思えるのだが、改めて考えてみると不思議な点がある。家業が優先され、家庭が本当に教えるべき父親の役割がないがしろにされているのはなぜなのだろうということだ。日本の「イエ」は密室になっていて、父親がどのように子供の内的規範を作るのかという点がとてもぞんざいに扱われている。男は家の外のことで忙しく、子供にかまっている暇はないので、日本の子供は父親の存在を知らずに過ごすことになる。

石破茂は厳しい母親の影響を受けて育ち、慶応大学在学時には弁論大会で一位の成績も取っている。しかし安倍晋三にはそのような経歴すらない。周囲の働きかけと政治的な思惑があり神戸製鋼に入社するが周囲は腰掛けとして扱った。そして海外の営業先開拓の仕事に面白みを感じかけたころに父親から秘書の話をもちかけられて、反抗しつつも秘書になってしまう。一方石破茂も父の急逝に伴って銀行を3年で辞めている。

冒頭で「必ずしも安倍晋三を貶めるないようになっていない」と書いたのだが、それには理由がある。第一に、安倍晋三が中身がないまま政治家になった裏には親にまともに愛してもらえず、特別扱いしてもらっていたおじいちゃんも弟に取られるという事情があるというようにかなり同情的に書かれている。

もう一つ好意的に扱われている箇所がある。腰掛けのつもりで入った会社で面白い仕事を見つけた時期があったのだという。もし安倍晋三を貶める目的で書かれたほんならば削除されていたかもしれない項目だ。人柄も明るく周囲は「アベちゃん」と言って可愛がったそうだ。製鉄所の現場では気難しいブルーカラーの人に頭を下げなければならないのだが、海外営業では大きなプロジェクトを獲得した経験もあるのだそうだ。安倍青年の性格が営業向きであったことは間違いがなさそうであり、必ずしもダメな坊ちゃんが政治家になったから失敗したというような話ではないのだ。

安倍晋三には安倍晋太郎の秘書だった時代が10年弱あるのだが「安倍家の出自についてはあまり触れたがらず、岸の血筋ばかりに言及する」というところからわかるように、愛情を注いでくれなかった上に無理やり秘書にした父親には一定の反発があるようである。一方で尊敬する岸に政治的な薫陶を受けているわけではない。

この断絶についてはあまり細かな記述がない上に、当時の政治的状況がわからないと「意味が取れない」箇所が多い。日本は戦前・戦中体制を否定する過程で中国的な思想や政治哲学を忘れてしまう。当時の思想を持った人たちも根こそぎ公職から追放されてしまったからである。さらに、当時の先生や教授などのインテリ層には「革新」と呼ばれた左派の影響が強かった。この影響から「左派が嫌いだから」という理由で保守を名乗った人が多いのである。このため日本で保守を名乗る人の中には「思想的な根がない」人が多い。

この根のなさを語る材料の一つとして入れられていると思えるのが映画監督のエピソードである。安倍晋三少年は映画監督ごっこが好きだったそうだ。映画監督になりたい人には二種類がある。一つは映画が好きな人であり、もう一つは人に指図するのが好きな人だ。この本では安倍晋三少年は「人に指図したかったから映画監督ごっこが好きだった」というほのめかしがある。つまり、やりたいことがあったから政治家になったのではないというほのめかしになっているのだろう。

さらに、安倍晋三新人代議士は政治家になってから急ごしらえで西部邁らの薫陶を受けるのだが、西部は高校まで政治的な意識がなく在学中に学生運動的な左派に遭遇した後で反発を感じ保守に転向したという経歴の評論家である。中国の政治史や思想史に影響を受けた「正当な保守」という感じでもなさそうだ。

いわゆる現在保守と呼ばれている人たちは戦前から続く中国史の影響を受けた伝統的保守とは異なっている。もちろんこれが悪いとは言わない。しかし、日本の思想史や政治史は「中国との距離」で決まるようなところがあり、代替する思想的なバックボーンがない。よく言えば包摂的に何もかも受け入れてしまう優しい土壌であり、悪く言えば背骨がない。

この本には書かれていないのだが西部邁の経歴の出発点は東大内部の闘争になっている。西部邁は保守界隈では評価されたが、東大で中沢新一を助教授に推挙しながらも通らず不満を持ち東大を辞職している。また安倍も議員になった当初から権力闘争に巻き込まれる。

学内対立に失望した西部邁が評価を得るのは「朝まで生テレビ」のような言論の鉄火場だった。同じように安倍晋三が衆議院議員になった時代は自民党が政権を失いかけていた混乱の時代であり、まとまりのない保革合同が横行していた。この本の後半では実務経験をあまり持たないままで幹事長や官房長官に祭り上げらえる様子が書かれている。

かつて自民党が安定して支持を受けていた時代には順番に経験を積ませてから人材を育てるようなパスがあったはずなのだが、小泉純一郎は目先の選挙を優先し人を育てるようなことはしなかったようだ。また、郵政民営化に反対したというだけの事情で仲間を切ったりもした。「自分の頭で考えられる」優秀な人材がいなくなったら、あとは準備のできていない人で埋めるしかない。こうして小泉は郵政で自分のいうことを聞く政治家を国会に多く送り出し、重要ポストに「準備のできていない」政治家を充てた。

政治家の家に生まれたというだけで、何のために政治をやりたいのかわからないままに政治家になった人が混乱の中で実績を積まないままに押し上げられる。じっくりとブレーンを育てるような時間は持てなかっただろうことは容易に想像ができる。

石破茂の方が安倍晋三よりマシという話が出回っているが、石破茂もまた父親が急逝し3年で銀行を辞めさせられている。2人とも腰を据えた社会人経験はないので、経済的なアイディアが出てくる可能性は極めて薄い。実経済への共感もなく、世襲でやりたいこともなく、さらに議員になった当初から党内の権力闘争や政党の分裂などを経験した政治家にまともな政策立案などできるはずはない。

しかしながら、バブルの崩壊により企業も同じような状況にあった。銀行は信頼できず、生き残るためには正社員を削減して非正規労働に割り当て流しかなかったという時代である。さらに「朝まで生テレビ」や「TVタックル」がメインストリームの政治討論番組になったことからもわかるように政治思想や哲学の面でも「短い時間でどうアピールできるか」というTVポリティックスが横行していた。SNSもなかったのでテレビで垂れ流された情報はそのまま印象として定着してしまい、検証する時間もその材料もなかった。今考えると恐ろしい話だが、各種新聞を読み比べることも検証記事を読むこともできなかったのである。

改めて考えるとバブル崩壊後、日本ではいろいろな分野で「砂漠化」が進行していたことがわかる。世襲が必ずしも悪いというわけではないと思うのだが、世襲政治が成り立つのはそれを支える人たちが実力主義で登ってくるからである。社会が全体的に砂漠化してしまうと、世襲政治は単なる嘘つきの集まりになってしまう。そして安倍も石破もその構造の中の一つにすぎないということになり。どちらが選ばれても自民党の衰退は避けられないだろう。

ただ、この本には書かれていない残酷な続きがあると思う。

安倍や石破に中身がないのは「実社会での経験」も「政治の統治の経験」もないのにいきなり権力闘争に巻き込まれたからであろうと分析した。安倍の場合は明らかに小泉純一郎が使い潰している。だが、小泉はそれでも構わないと思ったのではないかと思う。息子の小泉進次郎は決して政争には近づかず雑巾掛けに徹していることから、大切な息子には「使い潰されるな」と教えているのではないかと思うのだ。

つまり、安倍は使い潰されたが大切な息子にはお前はそうなるなと言っていることになる。安倍の父親は志半ばで亡くなっており、石破の父親も早くに亡くなっている。彼ら二人には「本当に大切なこと」を教えてくれる存在がいなかったのだ。

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日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか

最近、スポーツ界の一連の騒ぎを見ていて違和感を感じるようになった。暴力は絶対悪だという認識ができたところまではよかったのだが、誰かが勇気を持ったコメントをしてマスコミが取り上げたあとに「あの人は気に入らなかった」という人が続々と出てくる。「なぜその時に言わなかったのか」と思うのだ。

答えは簡単だ。マネジメントの側に聞く姿勢はなく、また管理される側にも異議申し立てをする技術がないからである。

潜在的には常に相互不信の状態にあり「成果」だけがその不全を正当化する。だから成果が上がらなくなると一気に問題が噴出し制御不能に陥ってしまうのである。スポーツの場合はオリンピックに出てメダルをとることや伝統的な大会に出て優勝することがその成果にあたり、政治の世界では当選することが成果になる。次のオリンピックでどうしてもメダルを取りたい人が騒ぎ始めたり、選挙で勝てなくなった政党が党首の悪口をいって組織を壊滅させてしまうのはそのためである。

いったんガスのように溜まった不満に引火すると、次から次へと「もともと気に入らなかった」とか「早く問題を解決すべきだった」という声が出てくる。

だが「聞く技術も異議申し立てする技術もない」世界では同じような問題が繰り返されることになる。ボクシング連盟はマイノリティ出身で必ずしも法的な枠組みに保護されていなかった人が「体で覚えた恫喝術」による組織マネジメントが行われていた。このニュースは後追いしていない人が多いと思うのだが、新しく会長になった人にも恐喝の逮捕歴がある。すでに公表されておりマスコミ的には「問題がなかった」ことになっているのだが、少し強面の人でないと組織運営ができないことになっており、組織側もそれを容認していることになる。いったんおさまったことになっているが、将来また同じような問題が起こるのかもしれない。

日本人は心の中ではマイナスの感情が渦巻いていても普段はそれを口に出すことはない。だが、怖いから言わないだけであり、何かのきっかけで噴出すると制御ができなくなる。顔出ししなくてもよいならなおさらである。世間の関心を代表するマスコミは問題解決がしたいわけではなく組織が動揺して誰かが堕ちてゆくところがみたい。自分たちには関係がないところで騒ぎが起こると視聴率を稼ぐことができてお金儲けができるからだ。マスコミにとっては所詮他人事でるばかりか、パンやワインに変わる価値のある「燃える水」なのだが、燃やされる方はたまったものではない。

だからマスコミは「あの人がこう言っていたがあなたはどう思うか」などと告げ口をして回る。こうして、SNSとマスコミの共同作業で作られた爆発自己は、炎に酸素を注いでもりあがる。それを見ている人も自分たちの不満をその炎上にぶつけているのだろう。

これを防ぐためには普段から問題が起こった時に自分の気持ちを素直に表現することが重要になってくる。実は選手の側の技術というより危機管理対策として重要なのである。これを英語ではアサーティブという技術にまとめている。英語圏のマネージメントではこのアサーティブさを学ばせる。つまり、問題があったらその都度解決できるようにしておかないとガバナンス上の問題になり得ることを知っているからなのだろう。

英語圏でも同じような爆発事故は起こる。最近ではMeToo運動が起きてエンターティンメントの大物が追放された。カトリック教会では少年への性的暴行問題が起きておりこれも問題に蓋をした結果、取り返しのつかない告発が日々繰り広げられている。英語圏でも性的な話題は「恥の対象」とされており表に出てこないのだろう。だが、日本の場合は「みんなが従っているのに組織の問題をあげつらうこと」も文化的タブーとされており、天然ガスのように地下に蓄積して最終的にはSNSとマスコミの力で爆発する。いったんそれがお金に変わることがわかったらあとは石油堀りの人たちが次の油田を探して火をつけて回ることになる。

政治でも同じようなことが起きている。だがこちらは視聴者の関心が薄まりつつありなかなか火がつかない。自民党の党首選びが盛り上がらないのは、石破茂が安倍晋三に掴みかからないからだ。そこで安倍陣営が「石破派の応援団を恫喝している」というのがトップニュースになる。

よく考えてみると「アサーティブさ」を学校で学んだ記憶がない。個人的に小学校の時にひどいいじめを受けた経験があるのだが、日本人の先生は大抵見てみないふりをする。しかし、英語圏出身の人は「自分の気持ちをきちんと伝えるべきである」というような指摘をしていた。しかし、家庭で「自分の意見をきちんと言う」というような価値観は教えられておらず「父親は面倒だからごちゃごちゃ言わずに黙って従っていればよいんだ」という教育しか受けていなかったので、それがどういう意味かわからずに小学校と中学校(一貫教育だった)ではいじめられ続けた。「いじめられるのが嫌だ」と言えれば状況は変わっていたかもしれないと思う。

このことから、その時代から英語圏では「自分の気持ちをきちんと訴えることができるようになるべきだ」という主張は文化コードに埋め込まれてはいたことになる。ただし「アサーティブさ」という概念はなかったのだろう。そして、日本には「自分の考えを伝えるべきだ」というような価値観そのものがなかったことになる。最近、YouTube韓国のバラエティばかりを見ているのだが、韓国では不満を口に出して親密な関係の人にいう文化があるようだ。社会によって異議申し立ての方法は異なっているが、日本の文化はやはり独特で、捌け口を作らず内側に溜め込む傾向が強いのだと思う。

時代はかなり変化して、英語圏には「アサーティブ」という概念が生まれて経営学の現場でも教えられるようになった。ところが日本では家庭にもそのような考え方はないし、学校でもそれを教えない。現在の道徳教育が学校現場でどのように推進されているのかはわからないが、文部科学省のカリキュラムをみる限りは次のようなことが強調されているようだ。つまり「管理しやすい」子供を作っていることになる。

  • 自己をきちんと管理する。
  • 決まりを守って良い子になる。
  • 親や先生のいうことをよく聞く。

最終的には国のいうことをよく聞く管理しやすい国民が作られることが目標になっているのだが、違和感を持って眺めると「お互いの意見を調整して決まりを作る」ことや「嫌なことがあったら意思表明をする」というような項目は見られない。つまり、誰かが「みんなが納得できる決まり」を決めてくれることが暗黙の前提になっていることがわかる。この対極にあるのが日本型のいじめなのだろう。漠然とした不満を持った子供が他の生徒を捌け口として利用する。そして不満を整理したり調整したりできない先生が問題を黙認したり場合によっては加担したりしてしまうということになる。誰か特定のいじめのターゲットがいない場合には明らかに社会的コードを逸脱した人たちを公開の場に引っ張りだしてみんなで石を投げることになる。2017年のそれは不倫であり2018年はパワハラ指導だったのだろう。

実際にやってみるとわかるのだが「自分の意見を組み立てて相手にわかる形」にするのは難しい。そしてそれができないと相手の気持ちを聞くという技術も習得できない。そこで代わりに跋扈するのが「恐怖によって支配する」という体罰型のスポーツ組織マネジメントだったり、ポジションを使って相手を恫喝する自民党政治だったりするわけである、

実は日本の道徳教育には「自分の意見を相手にきちんとわかってもらう」という項目が著しく欠落しており様々な混乱を生んでいるということは知っておいても損はないと思う。「自己責任」を叫ぶ人は実は自分の問題もきちんと整理できていない「社会的な言語を持たない」未開な状態の人なのである。万能のトップリーダーがいればそれでも構わないのだが、そんな人はいないので、様々な問題が解決されずに次から次へと天然ガスのように蓄積して方々で爆発事件を起こすことになる。

このような状態では、優秀なアイディアも「どうせされにもわかってもらえないだろう」と潰れてしまう。実力のある選手が異議を申し立ててもいつの間にか組織内紛に発展し、当人の問題は結局無視されてしまう。ワイドショーのつまらない「炎上」がどれくらい個人の生産的な時間を浪費したのか1日数えてみれば、その経済損出額の膨大さに気がつくのではないだろうか。

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女性を医者にしないことの本当の弊害

本日は真面目に女性を医者にしないことの弊害を考える。とはいえ、この問題に異議を申し立てる上で合理的な理由を述べる必要はない。「女性差別だからいけない」という理由で十分なので、当事者は引き続き怒りを社会に伝えたい方が良いと思う。

現代の先進国においては人間が基本的人権の元で平等に扱われるのは当たり前のことで、その当然の権利を感情的に疲れることなく表現するアサーティブさを日本人は学ぶべきだと思う。さらに、人権上の保護を求める上で「かわいそう」であることは前提条件ではない。最近、Twitterで同性愛者のアカウントをフォローしているのだが「やはり社会的弱者であることは確かなので保護されるべき」という論を持っている人がいる。多様さを許容しない社会は間違っておりこれは社会全体として正されるべきである。

とはいえ、女性がなぜ差別されているのかを考えるのは面白い。実は女性差別にはある隠された目的がある。家庭と職場というもののバランスをとる傾向が強い女性を貶めることで反対側の価値観を強調しているのである。「私生活を投げ打って組織に貢献のが正しい」というほのめかしだ。よく考えてみれば「社畜として生きること」と男らしさの間には何の関係もない。単にそう思い込まされている人たちがいるだけのことである。

最初の段で多様さを許容しない社会は間違っていると書いた。社会全体が多様さを許容しないことで歪められているといえるからだ。確かに、ワークライフバランスを考慮しない医療は社会とぶつかり持続できなくなる。今回はいわゆる先進国のスタンダードとあまりにもずれているために「日本は女性差別のある国である」という評判が立ちつつあり、安倍政権も選挙対策上許容できないと考えているようだ。これが石破派に利用されかねないからである。

これまで僻地医療に医師を派遣したり忠誠を誓わせたりすることはそれほど難しいことではなかっただろう。耳元で「女のようにわがままをいうのか」と囁けばよかったからである。こうしたことは正社員と派遣の間にも成り立つ。派遣などの非正規職員を差別することで正社員に「お前は彼らとは違うよな」と言える。「あなたは正社員なのだから申し越し無理をしてもらわねば」といえる。ただ社会の価値観とぶつかった時そのマネジメントは成り立たなくなってしまうのである。

医療の世界で女性差別の問題は常態化しているというのは常識らしい。これは医療制度になんらかの問題があり医療の世界がブラック化しているということを意味する。ただこれが騒ぎになっているところをみると同じように持続可能性を欠いた産業がいくつもあるのではないかと思えてくる。もちろん、社会の写し鏡である政治の世界でもこのスケープゴーティングが蔓延している。

最近、杉田議員や長谷川豊元候補者のような人たちが差別発言を繰り返している。杉田議員の場合は女性を貶めたり在日外国人を攻撃することにより首相の目に止まり自民党から出馬し当選することができた。これが羨ましいと思ったのか長谷川元候補者も同じように過激な発言を繰り返している。このように安易に政権に近づくことができるため、保守と呼ばれていた思想はすっかり形骸化してしまったようだ。あるヘイト漫画家は「保守とはメンテナンスのことだ」と発言し社会から失笑された。のちに取り繕っているようだが他人をあげつらっていれば「保守のふり」ができるわけだから、特に保守思想について勉強する必要はない。中国の古典が読めなくてもフランス革命当時の政治状況を知らなくても「保守を名乗ること」ができてしまうのだ。これも「他人の差別を前提に優遇された人たち」が優遇なしではやって行けなくなったという実例であろう。

安倍政権はこうした人たちを大いに利用してきた。中にはもう少し「頭の良い」人たちがいて行政組織を恫喝することで嘘をつかせたり記録を改竄させたりしてきた。まず「当たり障りのない」他人を叩く別働隊みたいな人たちがいて、その裏には「あなたたちもそうなりかねませんな」とほのめかして組織の意思決定を歪める人たちがいるという行動がある。ネトウヨ議員は実は単に面白おかしく他人を叩いているわけではない。めちゃくちゃが許容されているということを社会に示し、内側にいる人たちに「銃口が向いている」ことを意識させているのである。

岸田文雄議員のようにすっかり怖気付いてしまい、総理に許しを請い「どうしたら優遇してもらえますか」と泣きついたとされる人も出ている。自民党の保守本流はすっかり骨抜きにされてしまっているようだ。岸田議員にはすでに日本のリーダーとしての資格はないと考えて良いだろう。弱腰の彼が誰かのために戦うことはないからだ。改革派とされていた河野太郎外務大臣も最近では外交の席で「ネトウヨ的な」主張を繰り返している。

ただ、安倍政権のこうしたアプローチは成り立たなくなるだろう。もちろん社会からの反発もあったが安倍政権には「大したことがない」問題だった。問題は内側で「優遇される見込みはない」と考える人が出てきた点にある。

安倍政権が成り立っていたのは、誰を優遇して誰を排除するかということを曖昧にしてきたからである。ところが政権が長期化するとこの構造が固定化する。するとあらかじめ「今更支持を表明しても取り立ててもらうことはできないだろう」という人たちが出てくる。岸田派の堕落を傍で見ていた竹下派の一部はさらに遅れてきた我々が優遇されることはないだろう」と感じたようだ。では良心に従おうということになり石破茂を応援するように決めた。今後彼らが処遇されないと内部告発のようなことが増えてゆくだろう。

安倍政権で目立つためには反社会的なことをわざと言えば良い。それが却って安倍支持者たちへの信仰告白になるからだ。男性医師が「家庭を顧みないことで大学に貢献します」というようなもので、つまり反社会性が忠誠心の証になるのである。ボクシング連盟でも「奈良判定」をすれば会長に恫喝されずにすむ。だが、こうした体制は長くは続かない。優遇された側が増長し、それに反発した人たちが秘密裏に離反するからだ。

これが差別をベースにした忠誠心を担保にしたシステムが崩壊してゆく基本的な仕組みだと言える。こうして被差別層を犠牲にしてマネジメントを維持してきた組織は内側から崩壊してしまうのである。

ただし、こうしたことは「彼ら」の問題である。スケープゴートにされてしまった人たちは対等に扱われる権利を主張するべきである。誰にでも対等に扱われる資格があるし、そうするべきである。他人のごまかしに加担するために犠牲になる人などいてはいけないのだ。

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日本は本当に集団主義なんだろうか

前回はボクシング連盟を引き合いにだして韓国と日本の文化を比較した。主に調べたのは「集団主義」である。同じ集団主義といっても、日本が比較的人工的な集団を作るのに比べ、韓国の集団はもっと緊密であり個人の意思で抜けたり好きなところだけを利用することはできないというような分析になった。独自研究のように思えるかもしれないが、集団主義の違いについての報告は多い。オンラインだとHofstedeが参照できるし、書籍であれば「文化が衝突するとき」などが面白い。

韓国の社会では血縁や地縁を個人で抜けるのは難しいがメンバーだと認められると徹底的に面倒を見てもらえる。こうした関係は友人関係にも反映される。おごったりおごられたりというのが当たり前なのだが、自分が韓国で接待を受けたら反対に日本2小隊しなければなない。費用はすべてこちら持ちである。つまり韓国における助け合いは相互的だ。そしてその関係を周囲に提示するのも当たり前だ。アメリカ人にはこのような感覚はない。すべては個人と個人の約束の問題になる。こちらが良かれと思って何かを勧めても嫌ならばノーと言われる。ただこれも相互的である。つまりこちらも嫌ならばノーと言って良いのである。日本人はこのどちらでもなく「なんとなく遠慮」しながら間を詰めて行くのが当たり前である。しかし、いったん契約ができてしまうと「いやでもなんとなく断れない」ことがある。つまり、関係性は「縛り」として機能するが加入するかどうかは当人に任せられるという社会である。

日本にも「足抜けが不可能な関係があるのか」と考えてみた。もともと血縁や地縁にそれほど強いこだわりがないので、家を人工的に拡張して企業に発展させることができた。韓国では企業にも家や地縁が持ち込まれるので、経営者と労働者が「使う側」と「使用人」の身分に別れてしまうことがある。また政治にも地縁が持ち込まれる。だが、日本にはこのようなことは起こりにくい。ボクシング連盟は「奈良判定」をしたり大阪に本部機能を移して身内だけで意思決定していたようだが、日本人はこうしたことを嫌うのである。

日本人は表向きは平等な組織文化を持っているがそれは「プロパー」の間だけのことである。日本の組織には正社員ではないというような層がいて、それは頭数に入れずに使い倒して良いという暗黙のルールがある。この正規のメンバーの資格は極めて曖昧である。新卒で採用されて定年までを同じ会社で過ごすのが正規メンバーの条件だ。その間に足抜けすることは許されないし外から入ってくることも許されない。人工的に作った上に明示的な契約がないので長期的な関係を担保にするしかないとも言えるし、長期的な見込みを元に社会を形成するのだとも言える。

このような特徴の影響が見られるのが東京医科大学の女性差別問題である。男性は企業に忠誠心を示すために「家のことを顧みない」という選択肢が与えられる。それが忠誠心の踏み絵になっている。いったん踏み絵を踏むと僻地医療に貢献したり24時間働いたりすることになる。だから「人が足りないから忙しい」のではなく、忙しさに社会的機能があるかもしれないのである。

女性は性質上出産の前後は少なくとも数ヶ月は企業を離脱しなければならない。実際に子供を10ヶ月宿して出産するので企業の他に関心事ができてしまう。これは潜在的に「裏切るかもしれない」人たちだということを意味している。女性は家庭を考えて仕事を調整するので「わがままだ」と見なされるのである。

ただこれは当事者たちにはあまり意識されていないようである。特に女性医師の間には「私たちはこうした差別を乗り越えてきたのだから変える必要はない」などという意見が見られる。適者生存なので離脱した人たちの意見は採用されにくい。彼らは社畜であり奴隷とは思っていないはずで、むしろプロパーなので組織に埋没するのは当たり前だと考えているのではないかと思う。

こうして日本の組織には周りを見えなくする作用がある。

日本は集団主義だから同調圧力をかけるという見方もできるのだが逆の言い方もできる。一人ひとりが協力する文化がなく、かといって集団が徹底的に面倒を見るという文化もない。そこで逃げられないようにしつつ、他に関心事ができたときには「もう会社第一ではなくなった」といって見放してしまう。そして、それが当たり前だという人しか組織に残らない。

このため日本で組織に入った人は家庭を省みる余裕がなくなる。子育ては誰かにやってもらうか諦めるかという二者択一になる。企業は従業員を支援する余裕を失っており、したがって諦めることだけが選択肢になる。実際に日本の人口は急激に減少している。ただ、これも適者生存の原則が働くので「周囲の無理解の中で子育てできるのだから社会の助けは必要ない」という人だけが意見を述べるようになるだろう。

企業が行き詰っている理由もこの辺りにある。企業を出て勉強し直して会社に戻ってくるという選択肢がない。いったん「外の空気を吸って自由民になった人」は潜在的な裏切り者だからだ。最近の産業は常に新しい知識を身につけて行かなければならないので、いったん知識の陳腐化が始まると取り返しがつかないことになる。知識の陳腐化が起こるとできることは人件費の削減だけである。

つまり、日本は自分たちがもっていた集団性を人工的に拡張することができたがゆえに、その集団性に閉じ込められているということがわかる。

前回の記事では「トップが韓国系だから問題が起きた」と書いた。これは自動的に「在日差別だ」という感情的な反発を生み出すかもしれない。しかしながら、これは逆に「潜在的に韓国文化を日本より下に見ている」ということである。アジアにはアジア的な問題処理の仕方があり、そこに上と下があるわけではない。ただ我々と違っているだけである。そして我々自身も強みと限界を持っているのだが、これは他の文化と比較しなければ見えてこない。私たちは「差別」に腹を立てる前にこのことを理解する必要がある。

ただ、個人が組織に埋没するのが正当化されるのは「勝てる組織」だけである。やがて視野狭窄と知識の陳腐化が起こるので日本の組織には賞味期限がある。そして勝てなくなった組織は内部でつぶしあいと牽制を始める。

現在の日本には中心のない集団が誰かを攻撃してみたり、極端な意見をいう人が「みんなが言っていることを代弁しているだけだから大丈夫だろう」と開き直ったりすることがよくある。ネトウヨにはこの傾向が強いが、反政府のデモにも同じような態度が見られる。また、学校では決まりがあるから何もしてはいけないが成果だけは出せと要求される。集団は「個人に圧力をかけたり脅しをかける装置」として機能してはいるが助け合いの装置にはなっていない。これは勝てなくなった組織がお互いに「何もしないこと」を矯正しているからだと思う。本当にこれが集団と呼べるのか、よくよく考えたほうがいい。こうした統制のない集まりを普通は「群れ」という。勝てなくなった組織は群れになって他人を攻撃するか内部でお互いを潰し合うようになるのである。

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すでに高プロ的働き方をしている小池都知事に学ぶ

本日は議論のための議論なので、ほとんどが仮説である。高プロ制度は日本を滅ぼすという答えをあらかじめ用意して論を展開する。だからこれに反対するのはとても簡単である。仮説を攻撃するのではなく「この制度によってインセンティブが増す」という事例を持って来れば良いのだ。

高度プロフェッショナル制度については、実証済みのデータで検証したいのだが、良し悪しについて考えることができるフレームもデータもない。厚生労働省は労働についてのガバナンスを放棄しており政策決定に必要な統計調査が行われていないからである。そこでまず「高度プロフェッショナル制度を導入すると成果が上がりやすくなり企業が成長する」という仮の題を置く。それだけでは心もとないので適当に検索して「成果主義が機能するための条件」を提示することにした。

「成果主義」が成功する要因を見て行こう。実は、英語に成果主義という言葉はない。かわりにあるのは「結果志向マネジメント」という言葉である。result  orientedとかresult drivenなどという。それは「結果を意識して動こう」というような意味である。試しに適当に検索して最初の記事を読んでみた。

  • 最終目標(=成果)を念頭に置く。これは成果主義の言い換えになっている。つまり常に結果にフォーカスして動こうという意味である。西洋文化なのでもともと対象物志向なのだが、それでもプロセス重視に陥りやすいということを意味している。
  • 過去の事例から学びそれを継承する。つまり、成果を上げるためには過去事例の蓄積が大切である。
  • 試行錯誤する。つまり失敗の可能性が織り込まれているが、最終目標にフォーカスしているので失敗ではなく試行錯誤だと解釈される。失敗を恐れていてはいけない。
  • 継続的な援助を惜しまない。成果主義をリードするのはマネージャーである。
  • 状況をモニターし調整する。成果主義をリードするのはマネージャーである。

次に、すでに「高プロ的な働き方をしている」人たちについて考える。まず結果を提示して契約を結ぶという意味では、都知事や府知事といった人たちは高プロ的働き方をしている。彼らには勤務時間という概念はない。彼らは地位に立候補して「このような成果を出せます」と宣言する。そしてそれを実行した上で次の選挙で再評価されるという仕組みである。

本来なら都知事は過去事例などに学びながら、目標を設定して、継続的に都の職員を「エンカレッジ」して結果にコミットすべきである。だが実際にはそうはなっていない。

彼らは長期的に地位にコミットしなくなる。代わりに華々しいプレゼンをしてそれが成功しているかのようにお芝居を始める人が多い。都民も継続的に都政を監視しているわけではないのでお芝居が成功しやすい。小池都知事を見ているとそのことがよくわかる。さらに政治も大切なので職場に寄り付かなくなる。支援者周りをしたりその他の政治活動に忙しく「細かい問題」にか待っていられないと感じるのだろう。石原都知事などはほとんど都庁に出勤しなかったそうだ。つまり、日本の高プロ社員たちは「評価だけ」を気にするようになってしまうのである。

諸条件の中に「試行錯誤」が出てきたが、都知事は問題が起こっても責任を取らない。あれは部下(あるいは他部門がやったこと)として逃げ回るようになる。周りの人たちも原因を真摯に反省して次回に生かしてほしいなどと鷹揚には考えず「すぐにやめろ」の大合唱である。

どういうわけなのかはわからないが「結果にコミットする」働き方は日本では失敗する可能性が高そうだ。そしてそれは労働時間ではなく「成果主義が機能しない」という点にありそうだ。日本で成果主義を導入すると花形プレイヤーのお芝居に変わってしまう。企業ではこれを「あの人は政治家だから」などと揶揄する場合がある。周辺はやる気をなくしチームワークが徐々に失われる。場合によっては自己保身の嘘が蔓延する場合もある。

では、これを拡大適応して一般社員たちに当てはめてみよう。高プロが適用されるということは二つのことを意味している。それは終身雇用が意味をなくし残業してもお金が儲けられないということである。二つの選択肢がある。終身雇用を諦めてより賃金の高い会社に移動するという方法がある。もう一つは高プロのような花形を諦める方法である。給料は低くても「働いただけお金をもらえる」方がよいからだ。おそらく二つのことは同時にしかもなし崩し的に起こるだろうと思われる。

もちろん過労死する人も増えるのだろうが、彼らは「仕事を断りきれず」「政治が得意な人たち」の犠牲になる人たちだ。つまり成果主義の人が過労死するわけではなく、成果主義の犠牲になって過労死する人が増えるのだろう。人間ピラミッドの上の方では高プロの人たちが歌舞伎を踊っており下の人たちがその振動を支えきれず潰れてしまうということで、これは現在の安倍政権で起きていることである。

日本で成果主義がうまく根付かないのはなぜかについてはよくわからないとしかいえない。一つにはそもそも「成果」や「役割分担」がうまく機能していないという問題がありそうだ。さらに仕事には「失敗」がつきものなのだが、これを学びと捉えることができなければ、失敗が絶対化してしまい成果主義は根付かないのである。

都政では児童相談所の問題は「失敗」と見なされた。そのため、言葉は穏やかながらもポインティングフィンガーが始まっている。日経新聞は都知事よりの姿勢を崩さずこれを公平に伝えなかった。足元の福祉関連部局には警察との情報提供に強い拒絶反応があるようで、調整を諦めているのだが、それを言葉には出さず「国がやっていただけたら従います」と言っている。何もやらないのならそれは「国の責任」だと言いたいのだろう。このやり方だと失敗したのは国になるので自分たちの失敗は防げる。これが高プロ的生き方である。

一方、東京都も児相の体制強化に乗り出した。小池百合子知事は13日に新宿区の都児童相談センターを急きょ視察。終了後に「全国どの児相も同じ問題を抱えていると思う。国で統一ルールを作っていただけたら」と述べ、都として厚生労働省に自治体間の情報共有の強化を求める「緊急要望」を提出した。

小池知事は15日の記者会見で「国の権限で制度を変更するなら、現場もそれに応じて変えていくのは当然のこと」と指摘。「国と連携しながら、各道府県とも情報共有の点なども含めてスピード感をもって進めていきたい」と強調した。

この分析は「悲観的すぎる」という人がいるかもしれない。分析が悲観的で間違っているから「聞く必要はない」というわけである。彼らが代わりに提示するべきなのは「残業代を減らしたら成果が上がるようになる」という事例である。例えば給与を高く設定するとインセンティブが維持できる。だがこれでは人件費が高騰する。逆に「インセンティブ」のツールを人件費削減に利用してしまうと「所詮サラリーマンにプロフェッショナル的な働き方はできない」となるだろう。

さらに日本独特の「集団に関する」くせができつつある。「成果があったあったら事後的に自分のもの」にして「不都合は部下に押し付ける」のが成果主義であるという「新しい理解」である。

他人を非難して地位を手に入れたり、成功の秘訣を後継者に教えないことで自分の成果がより際立つ仕組みになっている。さらに、役割分担が曖昧な上に成果だけでなく一時の結果によってなんとなく判断を下してしまうことで「最終目標を念頭に置く」ことが難しい。成功すれば「勝てば官軍」とばかりによろこび、失敗すれば指の差し合いが始まる。さらに、何が成果なのかを一部の人たちが勝手に決めるようになるとますます混乱が深まる。

高プロがどのように運用されるかによってその結果も異なったものになるだろう。日本の企業は「勝てなくなって」きており、かつてのような営業社員が花形ではなくなりつつある。代わりに伸長しているのはルールを決める経営側のスタッフたちである。かつてのお側用人のような人たちだ。彼らは制度設計ができる地位を利用して成果が自分たちのものになるようにルールブックを書き換えたり、都合の悪い情報を経営者にあげないことで成果を支配する。

お側用人が高プロの対象になれば企業の私物化が始まるだろう。彼らはルールを書き換えることで好きなように他人の成果を横取りすることができるようになる。仮にルールを決められないが外から収益を持ってくる営業社員が高プロ対象になれば彼らはルールメーカーを攻撃し始めるはずである。彼らは横取りされる側であり、かつ収益という「声」を持っている。一番悲惨なのはリベラルな人たちが心配するように「一般の声なき社員」たちが高プロに巻き込まれることだが、その場合は淡々と下を向いて何もしないことが生き残りの最善策になるのではないだろうか。

派遣労働が増えた時に「日本の企業は知的な経験を蓄積できなくなって衰退するだろうな」と感じたのだが、その通りのことが起きている。だが、それに気がついている人はそれほど多くないようである。多分、高プロについても同じようなことが起きるだろうが人々はそれに気がつかないかもしれない。

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高度プロフェッショナル制度はなぜ労働者を地獄に突き落とすのか

最近Twitterに高度プロフェッショナル制度に反対するコメントが溢れている。だが、ピント外れのものが多いので元の法案を見てみようと思って調べてみた。すると、法律そのものの問題以前に重要な欠陥が見つかった。加えて、日本人は「どうやって働けば幸せになれるのか」ということがわからなくなっている様子も伺える。このエントリーでは働き方改革についての諸問題を考察してみる。直ちに答えは見つからないだろうが、なんらかの参考になるかもしれない。

例によって反対派のコメントは極端だ。この制度を導入すると労基署が介入できなくなり日本の労働者が働かれ放題の地獄に突き落とされるのだそうだ。もっとも、憲法第9条について検討すると明日戦争が始まると言っている人たちなので、これも仕方がないのかなとは思う。

そこで「そんなことはないですよ」という主張を書こうと考えて法案を検索してみたところ、厚生労働省が出しているらしいPDFを見つけた。これを一読すると何が問題がわかった。高度プロフェッショナル制度には年収規定があるのだが省令で変更できることになっている。また、チェックの医療体制があるのだがこれをどのように充実させてゆくのかという具体論がない。つまり、運用によってどうにでもなる制度なのである。例によって安倍首相の口約束は全く信頼がおけず、厚生労働省には当事者意識も対処能力もない。そこで反対派が騒ぎ出す。野党は最悪の見込みを持って政府に詰め寄り、政府は悲観しすぎだといって応じない。だから全く議論ができないのだろう。

政府を信頼していない人は「どうせろくに運用もされないだろう」し「年収の規定もすぐに変わってしまう」と考える。経営者にポイントを稼ぎたい政治家たちは「あとは産業界がよし何やってくれるだろうから自分たちは考えなくても良い」と思う。さらに厚生労働省は「やってあげてもいいけど、こんな予算じゃ何もできない」と投げ出してしまう。すでに集団思考に陥ってしまっており、あとは問題が起きた時に指の差し合いが始まることになるだろう。

もともとこの制度はホワイトカラーエグゼンプションと呼ばれていたはずだ。アメリカの制度をコピーしたものと思えるが、背景には日本型の正社員をホワイトカラーに置き換えようとする動きがあったのだろう。だが、考えてみるとわかることだが、残業代をゼロにしても正社員はアメリカ流のホワイトカラーにはならない。そもそも日本の経営者はアメリカの成功例しか見ていないのだろうし企業の経営のやり方も全く異なっている。

確かに、アメリカの企業にも残業についての規定はない。だが、アメリカには過労死という概念そのものがないのでKAROUSHIという言葉をそのまま使っている。英語版のWikipediaでは高度経済成長期から日本ではよく見られる現象であって、韓国でもよく見られると書いてある。ここから導き出される結論は単純なものである。つまり、高プロ制度が導入されれば過労死は増えるだろうが、かといってできなくてもなくならない。

この裏には「日大内田流の根性マネジメント」がある。日大内田流というのはマネジメントノウハウを持たない素人がパワハラによる恐怖と支配でチームをがんじがらめにしてゆくという最悪のマネジメントスタイルである。思考力を奪われた労働者は「これ以上働いたら死んでしまう」という判断力すら奪われてしまうことになる。日本人は「いいなりになる人間」を「囲い込みたい」と考える。それはマネージメントの知識がなく「パワハラで服従させる」という陸軍式スタイルが唯一の広範に知られたマネジメントだからである。嘘と過労死が蔓延するのは現場が正常な判断力を奪われるからだ。さらに日本の経営者は満足な給与すら与えたくないらしい。

アメリカ人が過労死を不思議に思うのは、「殺されるくらいなら別の仕事を探せばいいのに」と思うからだろう。さらに、マネージャー(課長)クラスでも裁量がはっきりしており「やらされる」という仕事が少ない。つまり、自分なりにスケジュールを設定することができるのである。

それでもアメフトには「どうしたら勝てるか」というルールがあるのだが、企業にはルールがない。だから、どうしたら勝てるかを自分で考えなければならない。そのためには情報をどこかから仕入れてくる必要がある。アメリカの企業は優秀な人材を引きつけることでこうした知恵を外部から幹部が取り入れている。ところが日本はこうしたやり方をしない。ここでスクロールを止めて「自分の働いている企業ではどこから情報をとってきているのか」を考えていただきたい。

日本の家電産業や自動車産業はサービスやメンテナンスを系列にやらせることで顧客から情報を取っていた。彼らから情報を集めてそれを新製品に生かしていたのである。これはサービス産業でも同じ「お客様の声」を取り入れることでサービスをアップデートした。このため日本型の提案は「カイゼン」とか「稟議」という形で下から上に上がって行き、それが計画になって上から下に降りてゆくという循環構造になっている。

このやり方だと、外から情報を取り入れる必要はない。せいぜいライバル他社の動きをモニターしておくだけで良い。代わりに、豊かな中間層と系列をメンテナンスしてゆく必要がある。社員や系列に時間をかけて価値を共有してもらわなければならないからである。

資産バブルが崩壊した後の日本はアメリカ型を模倣して再建を図ろうとした。そこで日々のオペレーションを人材派遣などに丸投げするようになった。実は日本人はこうやって情報源を時間をかけて絞め殺していった。さらにお客さんも殺気立つようになり、コンタクトセンターはクレームで溢れており、現場の人たちは「提案なんかしても黙殺されるに決まっている」と投げやりになっている。つまり、このやり方を取るなら経営陣とプロフェッショナル人材を流動化させて風通しをよくすることで外から情報をとらなければならなかったのである。

日本人は「抱え込んで支配したい」と考えるので、高度人材を正社員化したがる。社畜化して周りが見えなくなった高度プロフェッショナルという概念は、法案の良し悪し以前にそもそも成立しえない。さらに、外からコンサルタントを雇ってもパートナーではなく下請けとして扱ってしまうので、ここからも新しい情報が入らない。経営者は正社員上がりで経験則でしか経営理念を学ばないので、情報的に取り残されると最終的に行き着くのは内田流の「支配による恐怖政治」になる。他にやり方を学んでこなかったからである。

実は情報をどこから得るかに着目すると、日本型の企業をどう変えてゆくのかという議論ができる。日本流のやり方を通してもよいし、アメリカ型に変えても良い。アメフトと違ってそれはそれぞれの企業の自主性に任されている。情報に着目すると、現在のような「擬似イデオロギー」的な対立から脱却できる。企業情報は政治的にはニュートラルであって議論の対象にはならない。それぞれの企業が「勝手に変えれば良い」だけのことだからだ。

いずれにせよ、どのような制度を作っても「情報は入ってこない」が「勝たなければならない」プレッシャーが蔓延すればすべての企業ばブラック化する。日本の企業は確実にパワハラと過労死が蔓延するかなり悲惨な世界になるはずだ。

与党と野党が一切の妥協も話し合いもできないというところに問題の深刻さがある。これは経営者と労働者が話ができていないことの合わせ鏡になっているものと思われる。さらに、労働者の代表である連合がフラフラと与党に歩み寄ったり中抜きの商売の派遣業経営者がラスプーチン的に政治に影響を与えたりして、状態を混乱させている。

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ビートたけし事務所独立騒動について最初の感想

ビートたけしがオフィス北野から独立したことについて弟子の何人かがコメントを出した。署名がたけし軍団一同となっている。どうにもよくわからない。文章には経緯はたくさん書かれているのだが「弟子たちがどうしたいのか」という要求が書かれていないのが原因だと思った。

日本人は要求を先に書かずに経緯を書く傾向がある。これは自分の欲求を人に伝えるということがいけないことだという文化的なバイアスがあるうえに、外からの裁定者に「どちらが悪いのか」判断して欲しいと思う気持ちが強いからだろう。「俺たちは私利私欲のためにやっているんじゃない」が「相手が間違っていることを証明わかってもらいたい」というわけなのだろう。極めて村落的な態度なのだが、これがこの騒動を複雑なものにしている。

この独立騒動はこれまで見てきた村落共同体では解析できそうにない。この件は村と村の際で起きている問題ではなく裏方とタレントという問題だからである。無理やり当てはめると「タレント村」と「スタッフ村」が分かれているということになるのだが、どちらの村も同じ収益源を当てにしており、厳密には村とはいえない。

ビートたけしは浅草の古い演芸の世界で育ったので「くらしの成り立たない芸人を囲う」という文化を持っているのだが、多分森社長も「食べてはいけないが将来有望な若手を囲う」という文化の中で育ったのではないだろうか。演者側の弟子たちはそれが容認できなかったのだろう。つまり誰もが「誰かのため」という大義に自分の欲求を混ぜ込んでいる可能性がある。

もしこうした企業の内紛を経験している人であれば痛感していると思うのだが、こうした内紛には時間をさく価値がない。どっちもどっちなのだから、大抵は誰の責任かわからずにうやむやに終わってしまう。会社のガバナンス上勝つのは経営者なのだが、従業員が収益の元になっているような非設備投資型の企業であれば収益を失ってしまう可能性が多い。さらにそもそも経営者というのは「人を働かせてお金をもらっても罪悪感を抱かない」人たちなので価値観のすり合わせも難しい。さらに、芸人たちは法的な手続きや弁護士との付き合いもうまいとはいえないはずだ。

だから、彼らには二つの選択肢がある。誰かが芸人を諦めてマネジメントに徹するか別のマネジメントを探すことである。

その意味ではビートたけしの決断は正しかったと思う。つまり、自分の名前で稼げるのであれば整理するものを整理して別の会社に移るなり独立してしまえばよいのだ。「反省」を求めていろいろ言ってみてもしかたがないと判断したとすればビートたけしの判断は正しい。

ということで、たけし軍団の人たちは自分たちが自分の名前で稼ぐことができるのか、それとも事務所に依存しないとやって行きたいのかを考えた方が良いと思う。今回の件で驚いたのは彼らがすでに60歳代という年齢に差し掛かっていたということだ。もう師匠と呼ばれてもよいような年齢だ。弟子というステータスに居心地が良かったことはわかるのだが、もう少し大人になってもよかったのではないだろうか。

吉本興行などの大手の場合には独立すると圧力をかけられたりするのだろうが、たけし軍団ではそのようなことは考えにくい。名前も売れているのだから自分で店を構えて、できるなら弟子をとって養ったほうが良い。ビートたけしに唯一非難されるべきところがあるとしたら「弟子システム」を継承可能なものにしなかった点なのだろうが、それを今さら言ってみたところで仕方のないことだ。ちなみに落語は弟子システムが継承可能なものになっている。立川流は独立して一家を構えたのだが、弟子たちはそれぞれ独立して自前で何人か弟子を育成しているようだ。落語は継承芸なのでこうした仕組みにある程度の合理性があるが、お笑いの場合に継承されるものはあまりないのだから近代的なプロダクションに移行すべきだろう。

このニュースが今後盛り上がるかはわからないのだが、ワイドショーの扱いはそれほど大きくなかった。ビートたけしの不倫というような派手な要素があまりない上に、ビッグネームであるビートたけしをセンセーショナル扱うことににテレビ局は躊躇しているようだ。

いずれにせよ、我々とは関係がなさそうなニュースなのだが、例えばソフトウェアハウスとかデザイナーの事務所など「人がそのまま資本」になっているところで働いている場合はちょっと役に立つ視点があるかもしれない。

こうした職場で働いていてフリーになれるのなら、企業の内紛に参加しても疲れるので「もらえるものをもらったら」あとはあまり気にしない方がいい。弁護士を探して内容証明付きの郵便を出すなどの作業は慣れていないと疲れる上に、それほどの効果はない。「敵」はたいていのことは準備してから悪いことをするからである。付け焼き刃の法律知識で通用するほどマネジメントの世界は甘くない。それはデザイン会社の社長が「パソコンを操作したらデザインくらい起こせるだろう」と思うのに似ている。

急な独立騒ぎの際に問題になるのは仕掛り中の案件なのだが、会社に話した上で埒があきそうになかったらクライアントに直接事情を説明して直接契約にしてもらうか、あるいはそのプロジェクトだけを仕上げてやめた方が良いと思う。仕事を途中で投げ出したということがわかるとその噂が回り回って後で後悔することにもなりかねない。

今回の件の裏には、日本の映画界が先細っていてスタッフを常時食わせて行くだけの力のあるプロダクションがなくなっているということがあるのかもしれない。よく若い俳優が「日本の映画界は元気がない」というようなことを言っている。だから取材をすれば森社長側にもそれなりの言い分はあるということがわかるのかもしれない。だが、零細テレビ製作会社を使い倒しているテレビ局がそのような問題を取り上げるとは思えない。このニュースを見ながらそんなことを考えた。

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貴乃花の変節からわかる日本の組織がいつまでも変わらない理由

前回のエントリーではマクドナルドという古い企業がなぜ新しい技術を導入できないのかを考えた。そして、その原因は日本の村落的な仕組みと責任もって物事を進めるプロジェクトリーダーの不在にあった。では責任を持って物事を前に進めようとするとどうなるのかということを考えたくなるのだが、それにぴっったりな事例が見つかった。それが貴乃花親方問題である。

貴乃花親方の変節を見るとなぜ村落共同体が自浄作用を働かせることができないのかがよくわかる。貴乃花親方の目的は相撲をより魅力的な競技にするために暴力を排除するという、誰が見ても否定できないものだった。だがそれは実現しなかった。この問題だけを見つめていると、単にもやもやして終わりになるのだが、実は問題は簡単に解決する。

貴乃花親方が変節した理由は簡単だ。白鵬の暴力を罰しようとして世論誘導をしていたのだが、今回貴公俊が同じ立場になってしまったので「報復」を恐れたからである。逆に考えると、報復を恐れて拳を振り下ろしてしまったことで白鵬の告発が「報復」であったことを認めてしまったことになる。相撲界は部屋という村落の共同体なので、報復の目的は村落的な競合関係から抜け出して優位な立場に立つことである。つまり、組織全体の改革が親方同士の内乱に矮小化されるという構造的な問題があるのだ。それを解決できるのは理事長だけなのだが、理事長も村おさたちの利権を守る互助会の長にすぎないので抜本的な解決を目指さない。

加えて、改革を訴えた人は人格否定をしているように捉えられてしまう。つまり、暴力追放という目的ではなく、親方の人格に焦点が当たるのだ。マスコミで大きく報道されたこともあって「相撲界はダメなのではないか」という印象が広がったと怒りを感じている親方が多かったのではないだろうか。これが貴乃花を角界から追放しろという声につながった。それに対する八角理事長の答えは「貴乃花は人気だけはあるから、改革などという余計なことはしないで、客寄せとして頑張れ」というものだった。つまり、利用価値があるから黙らせて使うべきだというのである。

こうした社会ではそもそも問題を指摘することが人格否定につながってしまうので改革どころか問題の指摘すらできない。問題を指摘した人は反逆児と考えられて、社会から抹殺されるリスクにさらされてしまう。さらにそれは個人だけではなく部屋への報復につながる。今回もこの騒動が起きてから貴乃花部屋の力士の問題行動が伝えられたが、内部からのリークが多かったのではないかと思う。

前回のマクドナルド問題ではwi-fiという新しい技術をとり仕切るマネージャーがいないことが問題だった。マネージャーに責任だけを与えても本部もフランチャイズも責任を押し付けあって決して問題は解決しないだろう。その上「あいつは嫌な指摘ばかりをする」として出世競争から排除されてしまう可能性が高い。貴乃花問題ではさらに表ざたにしにくい暴力について扱うわけだからそれは新しい技術の導入よりも難しい作業になるだろう。

何か改革をしようとしたら、周りの人を怒らせることになるのは当然のことである。だから権限と責任が大切だ。しかし、日本の組織で「責任を取る」ということは運を天に任せるということになりがちなので、責任が取りたくても取れないという人が多いのだろう。ミドルクラスのマネージメントを経験した人なら多かれ少なかれ同じような経験をしているのではないだろうか。

日本の報道はこの村落を所与のものとして捉える。相撲界の仕組みには詳しくなったし、親方に序列があることもわかった。これはマクドナルドにフランチャイズと本部があることに詳しくなったり、財務省の中にも理財局や地方組織があるということに詳しくなったのと似ている。だが、どうしたら暴力がなくなるのかという問題についてだけは一向に答えが見つからない。

責任を透明にするために日本の民主主義社会は法治主義という制度を取り入れた。あらかじめ、法律で処分が規定されており第三者がどのような責任を取らせるのかということを「周りの人たちの気分とは関係なく」決めるのが法治主義だ。だから相撲界にも法治主義を入れて「相撲裁判所」のようなものを作って報復と切り離せば問題は解決する。親方が反省してもしなくても暴力について評価が出せる。

だが、ワイドショーを見ていると日本人はそもそも法治主義を理解していないので「公正な組織を作って判断すべきですよね」という声は上がらない。代わりに出てくるのは第三者機関なのだが、第三者機関の人選がマネージメントに左右されてしまうので、第三者機関を評価する第三者機関が必要ですねということになる。第三者機関というのはその人たちが人的に評価を決めるということだから、人治主義に人治主義を重ねても法治にはならないのである。

政治の世界も同様だ。日本には法治主義などはなく、その場の気分や内閣の都合で判断が歪められることが「望ましくはないが当然」と考えられている。よく「法治主義を取り戻せ」などというのだが、実際には法治主義などないのだから取り戻しようがない。さらにこう叫んでいる人も「安倍は絶対に怪しいから政権から引き摺り下ろせ」と人民裁判的な報復を叫ぶ。これは逆の立場になったときに同じことをされる危険があるということである。

いずれにせよ日本に法治主義がないことの弊害は、新しい技術を導入した、問題を解決できないことにあるということがわかった。日本マクドナルドはwi-fiを扱えないし、相撲は暴力問題を解決できない。そして、日本政府は透明で公正な行政を実現できないので国民と協力しあって国をよくすることはできない。

問題を解決したり、新しいスキルを導入することを世間一般では成長と呼ぶ。つまり、できるだけ公正なジャッジに基づく法治主義が根付かない国や社会は成長することができないのである。

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「大きな強制収容所」としての日本

前回までは村落の問題について考えているうちに、人々はなぜか成長を求めるという点について考えた。この成長という概念は日本の村落には見られなかったものである。

一口に成長といってもいろいろな種類がある。例えば環境を超克する分離型の成長もあれば、環境から分離して優れた能力を持っている人が環境に受け入れられるという統合型の成長もあった。またその統合が一人の善と悪という内面的なものであるケースもある。

その一方で、誰が成長するのかという点に着目すると次のような分類もできる。

  • 個人の成長
  • 集団の成長
    • 集団の中で我々が成長
    • 集団中で誰かを使役する成長

に分類できた。この中で特に問題が大きいのは集団の中で誰かを使役する成長である。前回はクラス、相撲部屋、国という三つの集団を見たのだが、この中で学校の先生と相撲部屋の親方が「誰かを使って自分の自己実現を目指す」人たちである。

例えば、先生たちは、周囲と張り合うことでより高い人間ピラミッドを目指す。これは先生の満足感にはつながるだろう。だが底辺にいる人たちはもはや負荷には耐えらえないし、事故が起これば障害を負う可能性すらある。先生たちは競争に夢中になっているので底辺にいる生徒たちのことは気にならないし、事故が起これば「あれは不運な例外だったのだ」と考えてしまう。

同じように相撲部屋の師匠は横綱や強い力士を育てることを自分の成長だと思い込む一方で、有力な力士を世話する他に力士候補を道具だと思うようになる。彼らの中にはバットで殴られて死亡したり、顎を打ち砕かれて一生味覚がわからなくなった人たちもいる。しかし、親方はこれらを「自分の成長に必要な犠牲だ」と考えてしまうようだ。

こうした役割に対する錯誤は「ミルグラム実験」で知られている。ナチスの残虐性について検証するために行われた社会実験である。役割を与えられると人は他人の苦痛には無関心になる。その意味で人間ピラミッドを作る学校もかわいがりが横行する相撲部屋も小さな収容所になっていると言えるのだ。

こうした事例はもちろん国にも持ち込まれ得るし企業でも同様な問題が起こるだろう。経営者や政治家と呼ばれる人たちは崇高な使命を背負っていると思い込んでしまい、従業員や国民について考えなくなる。すると、企業や国は大きな収容所になる。

大きな収容所というと北朝鮮を思い出す人が多いのだろうが、実は日本も大きな収容所になりかけている。

近頃、立憲民主党や希望の党の議員たちが声を荒らげて裁量労働制の問題を訴えている。確かに彼らの言動には歌舞伎的な大げささがあるのだが、かといってやはり労働法生の改正は労働者の人生を台無しにしかねない。にもかかわらず安倍首相にはもはや国民の声は耳に入らないようである。彼は人間ピラミッドを作る学校の先生のような気持ちになっているので、底辺にいる人たちが悲鳴をあげていても「大げさだなあ」としか思えないのだろう。つまり、国民は自分を成長させるための道具に過ぎないのだ。

安倍首相のにやけた顔を見ると、現在でもミルグラム実験の教訓は生きているということがわかる。

前回は、これから追い求める理想像とかつてあった状態を混同することにより周囲を混乱させる「ネトウヨ」の人たちについて考えた。彼らはたんに混乱しているだけなので、それほど深刻に考える必要はないと思う。しかし、彼らが「誰かを利用して自己実現したい」という人たちと結びつくことはとても危険性が高い。

特に安倍首相は、日本の命運は結局はアメリカ次第であると信じている。これはナチスで言う所の下士官や現場監督などと同じメンタリティだ。多分、無力な人ほど「支配できる人たちがいる」という万能感に屈しやすいのだろう。

現在社会では多くの人が成長や達成を求めているようである。もしかしたらこれは一種の宗教であり成長すべきなのだと思い込まされているのかしれない。国民が日本の首相に求めるのは「できないなら何もするな」ということなのだが、本人はそれに耐えられない。せっかく首相になったのだから歴史に名前が残る何かを成し遂げたいと感じているのではないかと思う。そして、それがさまざまな軋轢を引き起こす。

いずれにせよ、我々が過度に成長を動機付けられていることは明らかである。この一連の文章を書きながらテレビを見ているのだが、オリンピックの視聴率は軒並み高かったようだ。金メダルをとる人を見ることによって達成感を共有したいと感じていた人が多いのだろう。中にはこの達成感を何度でも味わうためにカーリングの選手がいちごを食べるシーンをこっそりと撮影したり、執拗に「そだね」と言わせたりする演出が溢れかえっている。

オリンピックの興奮を共有したいという感情はそれほど社会に悪い影響を与えるとは思えないのだが、他人を通じて自らの自己実現を図りたいと考えるのは有害度が高い。

なぜ人は成長したがるのか、あるいはそれは不可欠なのかということはよくわからないのだが、成長欲求の存在は否定しがたい。そして、この成長欲求を健全な状態に保つのは意外と難しいようである。ある種の創作物は人々の成長欲求を健全な状態に保つための<洗脳装置>担っているのかもしれないとすら思う。

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