なぜネトウヨ的マインドセットは世界から嘲笑されるのか

今回のお題はネトウヨメンタリティは世界に通用するのかというものである。結論からいうとネトウヨ的メンタリティは世界から嘲笑されることになる。大きく分けるとネトウヨが笑われる理由は2つある。

安倍首相がついにアメリカとの間での二国間貿易協定の開始を宣言してしまった。ワイドショーは「とんでもないことになるのではないか」と戦々恐々である。これが日本にとって得になることはないのだろうが、どれほど損になるかはよくわからない。日本は最後の一線を守っているからである。この件は韓国が先行しているので韓国の失敗から学ぶことができる。

韓国は鉄鋼の報復関税を回避するためにFTAの改定を受け入れてしまった。韓国がアメリカとのFTAにコミットしなければならないのは、米軍への依存度が高く経済的構造も日本と比べると単純だからだろう。FTA自体が改訂可能なものになっていたのも問題だった。

日本はFTAのような協定を結んでいない。だから、だらだらと交渉プロセスを長引かせながらトランプ大統領の任期切れまで逃げ切れれば「勝ち」となるだろう。アメリカはすでにこれを見越しており「二段階で成果を受け取りたい」としている(ロイター)のだが、日本はこれに従う必要はない。次の政権を見越した官僚組織も安倍政権には従わないだろう。彼らも長くても3年待ては安倍政権から解放される。

今のアメリカとはいかなる包括的な二国間協定を結ぶべきではないことがわかる。包括的な二国間協定を結んでしまうとアメリカは一方的に攻めてくる。トランプ大統領は選挙で負けると弾劾から逮捕というコースも予想されるので死ぬ気で押してくるに違いない。トランプ大統領の言動は日々その支離滅裂さを増しており、中国を名指しして選挙に介入しているとまで言い出している。トランプ大統領はロシアから支援されて大統領になったという批判があり現在捜査が続いている。そこで民主党は「あのアメリカから仕事を奪っている」中国から支援を受けていると言いたいのだろう。(ロイター)これはネトウヨが「民主党政権も同じことやっていた」と必死で言い張るのにも似ている。

トランプ大統領はアメリカに有利な条件を引き出して「公平でWin Winだ」と喧伝したがる癖がある。これは安倍首相のようなネトウヨメンタリティが自分たちに都合が良いファンタジーを「公平な事実だ」と言いたがるのに似ている。相手に対する共感能力が欠けているという点では共通点がある。

協力を前提として切磋琢磨のための競争がある総体を「社会」とすると、ネトウヨもオルトライトも反社会的である。この反社会的行動は嘲笑の対象になる。トランプ大統領は国連総会で国際社会から嘲笑され、安倍首相はプーチン大統領から突然の提案を突きつけられてニヤニヤと笑ってごまかすしかなかった。どちらも、協力を前提としていない上に自分のやりたいことだけを押し付けようとしたので、拒絶の笑いで歓待されたのである。

彼らは自分がなぜ笑われているかがわからないという点も似ている。トランプ大統領は「自分が笑われたというのはフェイクニュースであって、みんな自分と一緒に笑ったのだ」と言い訳してまた笑われた。安倍首相はプーチン大統領は本気だからあのようなことを言ったのだと言い訳している。

しかし、アメリカと日本には大きな文化的な違いがある。日本人は上下という固定的な関係を前提として関係性を築きたがる。つまり、ネトウヨは安定性を求めている。安倍首相が「ウチ」と「ソト」を分けているというのも同じ動機から来ているのだろう。

だがトランプ大統領は家族以外は信用しない。このように、トランプ大統領もアメリカ社会も安定的な社会構造を作ろうとは思わない。彼らの頭の中には「今利用できる」か「利用できないか」である。利用できるとみなされると賞賛と脅しで揺さぶられる。一方利用できないと中国のように「敵認定」され利用される。賞賛されたとしてもインサイダーになれるわけではない。

安倍首相は「自分が目下になりながらもインサイダーになる」ことをゴールにするのだが、トランプ大統領にはそのつもりはない。だから、関係性を求めて妥協してきたら「もう一押しすればもっといけるのではないか」と考えることなるのだ。

それでもかつては固定的な関係があったではないかという人がいるかもしれない。しかしこれも日本に利用価値があったからである。つまり、共産主義がアメリカ国内にも広がるかもしれない」という恐怖心があり、それを外から守るために東アジアのどこかに基地が必要だった。ただそれだけである。

共産主義の脅威が消え、北朝鮮ともコミュニケーションパスができた今、アメリカが「個々の国と個別に協議することでおいしいところを最大限につまみ食いしよう」と考えるのはむしろ当たり前のことで、実はこのこと自体は驚くことでもなんでもない。

ところが、上下関係を作りたがるネトウヨにはこれが世界の終わりに見える。彼らは自分の中に価値の体系をもっておらず、相対的な体系に依存している。だから体系が崩れると世界が崩壊してしまうのだ。

日本人の中にも「状況が変わったから賢く立ち回ればいいのに」と考える人は大勢いるだろう。だが、世界が終わると思っているネトウヨは「受け入れてくれ」としがみつくことになるはずである。

アメリカは各国をバラバラな状態にして、それぞれからつまみ食いすることを目指している。だが、トランプ大統領はこのバラバラな人たちが団結するという図式は予想していない。アメリカが圧力を強めると、結果的にそれらの国がお互いに協力したりロシアや中国といった別の国と結びつくとは思っていないのだろう。彼らの世界観はエゴ(自己)セントリック(中心)である。例えば韓国を起点として中国やロシアが結びつく図は認知的に理解できないのである。

実はこうした脱アメリカの動きはすでに現れている。前回はFTAで追い詰められた韓国が極東開発に望みを託す様子を観察したがヨーロッパにも脱アメリカの動きがある。どちらも「橋を燃やして」退路を断つわけではなく「バックアップは用意しておこう」という構えだ。

ヨーロッパにはPESCOというEUとは別の防衛の枠組みがある。アメリカがNATOが恫喝しても、別の供えを持っている。日本ではあまり取り上げられないPESCOだが産経新聞の記事を見つけた。

EUをさらに駆り立てるのが、トランプ米政権の存在だ。北大西洋条約機構(NATO)による同盟関係への不安は拭えず、「一国に頼れる時代は過ぎた」(メルケル独首相)との危機感が募る。

一国の運命がかかっているのだからリスクを分散させるというのは当たり前のことである。アメリカはエゴセントリック世界しか見えないが、ネトウヨには関係そのものが見えないという違いがある。ではなぜネトウヨには見えないのか。

安倍首相やネトウヨの人たちのメンタリティは固定的な関係を目指している。前回のエントリーで見たように協力のスキルがなく不安定さに耐えられない。彼らは固定的な関係を作り、対外的にはアメリカに諂(へつら)ってでも内政はアメリカの威光を使って「上」の関係を作りたいと考えているのだろう。しかし、これは結果的に日本が取り得る外交的なオプションを減らし、日本をアメリカとの真っ向勝負に追い込む可能性が高い。

例えば北朝鮮には北朝鮮の政体を維持したい。韓国も朝鮮半島がアメリカのおもちゃにされて核戦争に突入するのを防ぎたい。ドイツはドイツをロシアなどの脅威から守りたい。つまり、彼らは自分たちが何者であるかということを知っており、だからこそそれを保持しようとする。つまり、彼らは自分という起点を持ち、なおかつ自分を起点にしない世界も想像しながら生き残りを図る。

だがネトウヨにはこの起点がないのではないかと思う。彼らは何者でもないからこそ関係性を作ってその中で自分たちを位置づけるしかないのである。そのためには依存する存在と見下すことができる敵が必要なのだろう。つまり彼らは「LGBTより上の自分」とか「アメリカの子分」という関係性で世界を理解しているので、構造が消えると自分も消えてしまうのだろう。

よくネトウヨが日本を破壊するという言い方をする人がいる。これは間違っているのではないかと思う。なぜならば彼らはそもそも自分たちが何者かがよくわかっていない。だからそもそも破壊するという行動に出ることはできない。普通の日本人は「英語が話せるわけでもないし、中国人とも似ていないから多分自分たちは日本人なんだろうな」と思うだけだが、ネトウヨは常に「中国より偉い自分たち」という関係がないと日本人を規定でいないのだ。

この関係を作ってからことを優位に進めようというマインドセットは憲法改正でも破綻しつつある。自民党は公明党と事前に協議した上で憲法改正案を提起しようとしていたようだが、これを公明党に拒否された。公明党は創価学会というはっきりとした総体を持っているのでこれを守ろうとする。彼らが守りたいのは創価学会なので自民党が利用できるときには利用する。憲法改正は保守派同士の内輪揉めなので彼らはそこに一つ線を引いているということになる。(毎日新聞

いずれにせよ、守るべきものがわからないのだから、彼らの行動はいずれは敗北することになる。彼らにできるのは何もしないことと、彼らが考えている世界に浸ってそこから出てこないことだけだ。

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籠池夫人は何に怒っているのか。なぜ怒っているのか。

女性週刊誌に籠池夫人の異常な言動が書かれていた。息子の通っている道場に怒鳴り込みに行ったり、レストランなどで突然怒り出したりするそうである。これを読んで、この人にはなんらかのセラピーが必要なのだろうなあと思った。いつも怒っているのは苦しいだろう体。テレビのニュースなどをみても、総理夫人を責め立てたり「もうだめだ夫が逮捕される」とパニックになっていたようだ。悲観的で現実に対処する能力がない。
彼女は自分がコントロールできないものを許容できなかった。だからコントロールできない子供を虐待するのは当たり前のことなのだ。最初から幼稚園教育などには携わってはいけない人だった。
しかし、彼女の怒りを決めつけるようにして書くのも何なので「怒り」についての本でも読んでみようと考えた。図書館で怒りというキーワードで検索したところヒットした本を取り寄せることにした。「怒りの精神分析」というタイトルである。1980年に書かれた本のようで、交流分析という簡易版の精神分析メソッドに基づいて書かれた本のようだ。当時の常識で書かれてあって、例えば同性愛は成長が阻害された結果起こるというような決めつけもある。
交流分析では自分を、親・大人・子供に分類する。感情的な内面が子供で、これを分析的に捉えるのが大人である。その他に子供を抑圧したり規範を与えたりする親というパートが存在する。スーパーエゴなどの心理学的な理論に基づいているのだろう。
子供は様々な感情を持ちうるのだが、内面化された親の規範があり、感情を表に出すことができない。すると、その感情が様々な形で表出する。いろいろなルートがあるようだが、怒りを感じたとt気に、1)自分を罰したり、2)代替を攻撃したり、3)普段は我慢しているが突然キレたりなどという現象が起こる。この本はそのバリエーションを細かく分類してメカニズムを考察している。
怒りはかなり幅広い形を取りうる。例えば相手を操作することも怒りだし、善人のフリをしたりするのも怒りの形である可能性があるということである。例えば、過剰にきれい好きな人がいるが、相手がくつろいでいるのに掃除をしたがる人も「怒っている」可能性があるとのことである。掃除を通じて相手を支配しようとするのだ。
籠池夫人の怒りの原因がどこにあるのかはわからないが、依存の問題があることは明確だ。首相夫人に「なんとかしてくれ」といい、それが叶わないとなると怒りをぶちまける。また、レストランでも「自分の期待通りに相手が動いてくれない」ことに対して怒りを持ってしまうと、それが制御できなくなってしまうのだろう。
籠池夫人が「なぜそんな状態に陥ったか」ということはわからないのだが、親がなんでも要求に応えてくれていたのに突然打ち切られて怒っている可能性もあるし、学校理事長の娘ということを考え合わせると、両親が他人の子供にばかり優しく自分はかまってもらえなかった可能性もある。情緒的に自分をコントロールすることができず、かといって独立して自分の力で自分を甘えさせることもできなかったのだろう。だから「どうしてそうなったのか」を分析するのはもはや意味がないのかもしれない。
いっけん籠池夫人とは対照的に見える安倍総理夫人だが、実は籠池夫人と共通点が多い。お嬢様であって何不自由なく育てられている一方で、自立するための方策は何も与えられなかった。誰かに依存して生きてゆくしかなく、したがって人生に目的がない。
そこで総理夫人は一方的な被害者ではないという可能性が出てくる。怒りには「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」という形もあり得るからだ。つまり安倍昭恵さんは自分の人生が思い通りでないこと、あるいは自分の感情的なニーズが満たせないという怒りを「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」ことで満たしているのかもしれない。こうした自滅的な態度は著作の中では「キックミー」と表現されている。
怒りの表現は人それぞれなのだが、この精神分析では「怒りを手放しましょう」とは言わない。逆に自分の中にある「子供」を認めることのほうが重要だ。この精神分析が目指すところは「人が再び成長を目指せるようになる」ことだという。人には成長したいという欲求があり様々な抑圧がありそれが妨げられているという見立てである。抑圧はフロイト的な考え方だが、成長はユングのいう個性化にも似ている。西洋には一般的に、成長は内在化された神の意志であるというような考え方があるのかもしれない。
籠池夫人は常に他人を当てにしていて、他人が自分の言う通りに動いてくれないとその怒りをぶちまけるという性質があるようだ。たまたま子供を相手にする仕事をしているのだが、子供は言うことを聞いてくれないので、ついつい虐待してしまう。ここから、社会的に不適格であるということは間違いがなさそうである。
だが、シャドウである総理夫人の問題は見えにくい。ちょっと不思議な言動はあるものの、表層的には極めて良い妻だからだ。夫人の問題は、夫や夫の母親から承認されないからどんなに理想を追求しても自分の中にある親がそれを認めてくれないということになるだろう。女性週刊誌では面白おかしく、自立できない夫と何にでも口をはさみたがる姑に囲まれて「居場所がない」昭恵さんの様子が伝えられている。つまり、彼女は成長を目指しているにもかかわらず、それがいつまでたっても成就されないという点にある。成長を目指してあれこれやってみるが、そのやり方すらわからないのだ。
安倍首相は母親の欲求に応えることが人生の目標だが、規範に対して強い恨みを持っているようだ。周りが押し付けてくるルールが大嫌いで自分の好きなように振る舞いたがる。特に女性議員への蔑視は甚だしい。一方で、自分より強いものと同列に見られたがるという傾向もある。非常に子供じみた性格が残っている。これは「親」が弱いからそうなったというよりは、親の抑圧が強すぎて「反抗すること」が人生の目標になっているのだろう。お友達に便宜を図ってやっているという噂があるが、彼らとの間に「ボーイズクラブ」的な連帯を持っているようである。内在化された父親の不在と、強すぎる母親を感じさせる。
なので、安倍首相が夫人のニーズに応えることは絶対にできない。母親が夫人を絶対に認めてくれないのだから、それを自分が認めるわけにはいかないからである。安倍首相は「昭恵さんの怒りと暴走」自体を直視することができないようで、子供のように怒り狂っているという報道もでている。森友問題を認めてしまうと自分が妻を「虐待」していることが露見してしまうからだろう。
そう考えて行くとこれは子供っぽい依存が作り出した悲劇であり、ニーズが満たされない人たちが相互に依存しあって起きた出来事と言えるだろう。それが政権を揺るがしているのだから、世の中何が起こるかわからないものだ。

トランプ大統領が豹変したように見える人向けの解説

Twitterのタイムラインを見ていると「トランプ大統領は豹変した」という人がいる。行動には明快な論理があると思うのが、意外とわかりにくいと感じる人がいるらしい。
トランプ大統領は選挙運動期間中口汚ない言葉で敵を罵ってきた。オバマ大統領もその中の一人だ。だが、勝利宣言はおとなしいものであり、実際にホワイトハウスでオバマ大統領と接すると態度が変わった。これを「豹変」と考えた人がいたわけだ。
これを説明するのは意外と簡単だ。トランプ候補は目の前にいる聴衆に聞こえの良い事を言っていた。彼らを団結させるのは敵を作るのがよい。敵の存在が身内意識を強めるからである。
だが、大統領になった瞬間に(少なくとも彼にとっては)目の前にいる人はマイピープルになった。オバマ大統領も敵ではなく、彼の先代なのだから同類で同格である。彼の行動原理は溢れるように出てくるとりとめもないアイディアと、マイピープルに対する責任感で成り立っている。責任感が勝ったので発言がおとなしく見えたのだ。
トランプが混乱して見えるのは、この内と外が彼の主観によって決まるからだろう。
日本政府は彼と接する時、やってはいけないこと2つある。まず一つは彼の思いつきに対して決して反対しない事だ。他人から否定されると燃え上がるタイプなので実際にやらせてみて(しかし自分は距離をおく)破綻するのを待つ方がいい。もう一つは決して競争相手にならないことだ。彼にとっては「外」を意味する。それよりも身内であることを協調した方がよいだろう。
「アメリカが世界のリーダーであり続けるのか」という疑問があるわけだが、これも愚問であると言える。もともとアメリカは「理念」を広げる装置だと考えられてきた。それをリードするのがアメリカなのである。安倍首相がロボットのように繰り返す「価値観を共有している」というのはそういうことである。が、アメリカのいう自由と民主主義というのはキリスト教的価値観のことなので日本人は決してそこには入れないわけだが、理念なので違和感がなかったわけである。
しかし、トランプが重視するのは合理性と家族意識なので、世界のリーダーであるというのは家長であるということだ。トランプ大統領はアメリカを慕ってくる国のリーダーでありたいと考えるだろう。つまり、アメリカが世界のリーダーでありたいという政策は維持されるかもしれないということだ。
ここから先は調べてみるとわかると思うのだが、彼にとって家族とは事業の共同体のようなもののようである。最初の妻とは離婚したが、妻は事業を始め、別の金持ちと結婚した。離婚の理由は浮気だったそうである。彼は二回の離婚歴がある。
だが、子供達は手元に残り事業を手伝っている。誰が身内であるかということは「自分にとって役に立つか」ということで決まっているのではないかと考えられる。つまり価値観を共有するという事はそれなりの貢献が求められるわけで、それを「自分の金・他人の金」などと分けてはならないという事になる。
だが、誰を家族にするかというのはトランプ大統領次第なので、貢献した挙句捨てられたということも多いに考えられる。
 

劣等機能は飼いならせないのではないか

夢を見た。家族が集まっている(とはいえ知らない人たちだ)席でいろいろと準備をしているが、なかなかうまく行かない。そのうち「いつも準備してもらうばっかりで、男の人はいいわよね」と言われた。すると風呂釜が蒸気を吹き出し大混乱になる。どうしていいか分からなくなり「もう俺は誰とも口をきかないぞ!」と宣言した。
目が覚めて「ああ、自分の劣等機能って感情なんだなあ」と思った。ということで昨日の話の続き。昨日は「劣等機能は、感覚・感情」であり、感覚を鍛えるべきだと書いたのだが、どうやら劣等機能とは意識下にあるものではなく、コントロールもできないらしい。まさに「暴れ馬」で、立腹のあまり目が覚めたくらいだ。
夢解きは簡単だ。普段から人間関係の波風を立てないように感情を殺して、できるだけ相手に沿うようにしているのだ。ただ、それはかなりの抑圧を伴うらしい。平たく言えば「ストレス」なのである。これが過ぎると風呂釜から蒸気が突沸するように感情が爆発し(怒っているとさえ言えないわけである)全ての人間関係を一方的に遮断したくなるのだろう。
では、徐々に練習して感情をコントロールするようにすればいいのかなあ、などと思った。例えば不快な人間(名前のある人に絡むと、横から意味不明なTweetをしてくる人がいる)に「あなた様の考えはどのようなものですか」などと聞かずに「アホかお前は」と言えばいいのだろうか。しかし、そもそもコントロールできないものを不用意に使うと大惨事になりかねないような気がする。
少なくとも「自分の感情を殺して、相手の教師になってやるつもりで優しく接する」みたいなことはしない方がよさそうだ。それは抑圧をさらに強める。「ああ、俺はこいつにむかついているなあ」くらいのことは思っておいた方がよさそうである。感情の吐露は別の方法を見つけた方がいいかもしれない。そう考えると、書くこともセラピーの一つになり得るのだなあと思った。
これも書いた後に感情を手放すことが重要なのだろうと思う。そのためには怒り(人によって劣等機能は異なるはずだ)を意識下に置く必要がある。ちょっとした違和感や怒りというものをないがしろにしない方がよさそうだし、いろいろなことに興味を持っておいた方がよいのではないかと思う。引き出しが多いとそれだけソリューションも増えるからである。
よく介護士や先生がとてつもない犯罪行為に手を染めたというニュースを聞く。職業的な倫理観から、相手に対する(それは被介護者や生徒とは限らない)攻撃性を抑圧しているのかもしれない。そういうニュースを見たときに「この人はもともと適性がなかったのだ」などと決めつけるのはよそう。と同時に「倫理」はときおりとてつもない暴発行為を生み出すのだということが言えそうだ。学校がよく「管理の徹底に努めます」などと記者会見を開くことがあるが、あれは圧力がかかっている蒸気釜にいっそう大きなふたをするのと同じことなのではないかと思う。

劣等機能 – Twitterにはなぜバカが多いのか

Twitterには「バカ発見装置」という別名が付いている。では、Twitterにはなぜバカが多いのだろうか。それは社会的に許容されるべきなのだろうか。真剣に考えてみたい。

この問題を考えるためには「バカとは何なのか」ということを真剣に考えてみなければなるまい。バカとは社会的に訓練されていない機能のことである。例えばユングは人の機能を4つにわけて分析している。それは思考・感情・直感・感覚の4種類である。人には得意な機能がある。と、同時にその対になる不得意な機能を持つのだ。
Twitterで「バカ」を発露する人は、自分の得意でない機能を発揮していることになる。例えば感情的にしかものを見ることができない人が「思考」に捉われたとき、その人は「バカ」であるということになる。発信している人は「独り言」のつもりだが、それが世間に晒されてしまうのである。
では「人はバカであってはいけないのか」という問題が出てくる。バカな機能(すなわち劣等機能)は制御できない形で表面化する場合がある。劣等機能の暴走は人生を壊滅的に破壊する可能性があるとされる。社会的に慣らされていないばかりか、使われないことで無意識に抑圧されているからだ。
これを防ぐためには「劣等機能を意識し、それを育ててゆく」ことが必要だと考えられている。が、実際にはどれが劣等機能かということはその人には分からない。無意識に抑圧されているのが劣等機能だからだ。故に「それを意識して育ててゆくこと」は不可能ではないのだろうが難しい。
で、あれば「様々な自己」を発露する場を作っておいて、それを社会的に馴化してゆくしかないということになる。つまり、ソーシャルネットワーキングサービスを馴化の場として利用することができるわけである。
もちろん、ソーシャルメディアと言っても様々な種類がある。例えば実名が前提のFacebookは比較的強いつながりで構成されている。そこで劣等機能の馴化を始めると「人々が驚いて引いてしまう」ことが十分に考えられる。例えば、普段政治の話をしない人がFacebookで政治の話を始めるとどうなるだろうかということを想像すると分かりやすい。一方、Twitterは実名が前提になっておらず馴化の場としては利用しやすいかもしれない。
さて、日本のソーシャルネットワーキングには別の危険性がある。集団で劣等機能を発現するという選択肢が残されているのだ。
例えば、日本の男性は社会的共感というものを訓練する場がないが故に、共感機能は劣等機能化しやすい傾向があるかもしれない。ところが何らかの事情でこれが表面化することがある。「家族」や「つながり」と言った価値観は、まず高齢者が読み手であるWillなどの右翼系雑誌で劣等機能として発現した。そこに野党化した自民党が結びつき暴走を始めることとなった。再び与党に返り咲いた安倍自民党が一部の人から嫌われるのは、彼らにとって「思いやり」や「共生」といった概念が彼らにとって明らかに社会的に馴らされていない劣等機能だからである。
一方、日本の女性は「共感すべき」とされており思考が劣等機能化しやすい。そこでそうした人たちが集まると科学的にめちゃくちゃなことが「事実」としてまかり通ることとなる。当然、女性の中にも思考的な人がいて「ああ、めちゃくちゃだなあ」と思うわけである。だが、当人たちは意に介さない。そもそも「感情を説明するために思考を利用しているだけ」だからだ。
劣等機能を馴化しないことは社会に取って大いなる害悪をもたらすのだということが言えるだろう。それを防ぐためには、個性化が「個人の不断の努力」である必要がある。Twitterの「バカ」は個人である限りには、学習の一環として容認することができる。しかし、それが社会的に結びつき、振り返りを忘れたとき、社会的な害悪となってしまうのである。

石坂浩二と内向的な性格

MBITにEとIという性格特性が出てくる。ユングの心理学理論を基にしており、外向性と内向性と訳される。内向的な性格というと内気だという印象があるのだが、これは間違っているらしいが実感としてよく分からない。ところが、最近、石坂浩二さんのニュースを見ていて、内向的な人が少し分かったように思えた。
石坂浩二さんが『なんでも鑑定団』という番組で2年間干されていたという。いろいろ話をしているのだが、全く放送には乗っていないというのだ。普通の人ならここで「なぜ、自分の場面がカットされるのか」と不満に感じてよいところだが、石坂さんは全く意に介さない。フジテレビのインタビューに対して「個人で思うところはあるが、それは個人のも問題」だとした上で「テレビ東京の問題はテレビ東京に聞くべきだ」と言っている。
普通にこれを聞くと「相手や立場を慮っているのだろう」と考える。しかし、そうではないのかもしれない。
石坂さんは浅丘ルリ子さんと結婚をしていた。ところが実際には長い別居だったのだそうだ。ところが、ある日突然離婚を切り出した。「女優に母親を介護させられない」というのが表向きの理由だった。ところがその5日後、身の回りを世話してくれていた女性と結婚してしまった。回りの人たちは、石坂さんとこの女性が付き合っていたとは思っていなかったという。
このことから、石坂さんは人間関係に関心がないことが分かる。関係が切れていても実質的な問題がなければ特に気にならないのだろう。ところが、身の回りの世話をしてくれていた女性にきっちりと法的な関係を与えなければならないとなると、ためらいなくその関係を切ってしまうのだ。
『なんでも鑑定団』で自身の発言が放送されなくても(放送は毎回見ているようなので、切られていることは知っているらしい)気にしなかったのではないだろうか。使われない事が分かっていながら、お宝に関する蘊蓄は毎回話していたのだという。内部に価値観の源があって、それを披瀝できていれば、特に回りが反応してくれなくても満足なのかもしれない。
石原さんの趣味は幅広い、絵を描いたり、プラモデルを作ったりと「内側にある創造性」を追求したい人なのではないかと思われる。インタビュー記事によると、プラモデルを眺めながらいろいろ考えを巡らせるのが好きということだ。思いを巡らせ色々調べるうちに様々な蘊蓄が蓄積して行くのだろう。あるインタビューでも「作品に没頭することで回りが見えなくなるくらいが良い」と語っている。全く見えなくなるのもダメで全体を俯瞰しているくらいがよいのだそうだ。
石坂さんは「内的な世界」を気にするという逸話はまだ残っている。石坂黄門は短命(2シーズン)で終った。表向きは病気の為の降板ということになっているのだが、実際には周囲との関係が悪かったからだという説があるそうだ。もともと髭を生やして印籠をかざしているいる印象が強い水戸黄門だが、石坂さんは「史実と違う」という理由でこれを拒否していた。長年蓄積されたTVショーとしての歴史や視聴者の愛着よりも「史実」の方が重要なのだ。
東映京都撮影所は撮影の調整を暴力団に依存していたという話がある。代々の水戸黄門はこの関係を保とうとしていたが、石坂さんはこれを断っていたというのだ。退院してから「面倒な仕事がなくなって清々した」というような発言をしたという逸話が残っている。
石坂さんにとって重要なのは内的世界を構築し、それを他人に披瀝することなのだろう。それがどう使われて、どのような評判を得るかということはあまり関係ないことなのではないかと思われる。
「内向的な性格」というと、話しべたで自分の気持ちを伝えられない人という印象がある。しかし、石坂さんは社交的で女性にももてるそうだ。自分の意見もしっかりと持っていて、人に伝えることもできる。また、内向的な人は内側に閉じこもるので主観的であり客観性に欠けるのだという人もいるが、石坂さんは客観的で冷静な印象がある。
外向的・内向的という性格特性は誤解されやすく、様々な性格診断でも「暗い人=内向的」となっている場合も多い。むしろ、動機の源泉がどちらにあるかということなのではないだろうか。

政治家はなぜ平気で嘘をつくのか

地位の高い政治家ほど平気で嘘をつく。この数十年日本人が貰う給与総額は下がっているのに「日本は貧しくなっていない」という。格差は広がっているというのに「そのような統計的事実はない」と言ってはばからない。

これは政治家が悪いのだろうか。もしくは、日本特有の現象なのだろうか。

アメリカの心理学者Paul Piff(ポール・ピフ)が社会的階層が人間の真理にどのような影響を与えるかということを調査している。この一連の調査によると、社会的階層が高いほど、他人に対して不誠実になることが分かっている。Piffの研究成果はTEDなどで見ることができる。

Piffの研究はアメリカ人を対象にしている。故にこれは日本独自の現象ではなさそうである。

Piffによると、モノポリーで「格差」を与えると、勝ち組の側は徐々に尊大な態度を取るようになる。そして、明らかに格差を認識しているにも関わらず「実力で勝ったのだ」と認識する。その間に必要な時間はわずか15分だそうだ。

お金持ちという自覚がある人は「取ってはいけない」と言われているお菓子を多く取る。

高級な車に乗っている人は歩行者に道を譲らなくなる。プリウスが最も「非倫理的な車種」だという。

Piffは解決策も示している。社会的地位の高い人に困窮者の実態を見せるとよいと言っている。一定の修正効果があるそうである。

日本の政治に当てはめるといろいろなことが分かる。

多分、安倍首相は「嘘をついている」わけではない。ただしその認知は間違っている可能性が高い。実力で現在の地位を築いたと思っており、貧乏人は努力が足りないからいけないのだと考えているかもしれない。認知に反する統計は「なかったもの」として処理されるだろうから、格差が広がっているという認識は「見なかった」ことにされるだろう。

森元首相がオリンピック関連で妄言を繰り返すのも仕方のないことだ。実力で資金集めをしたのだと考えているのではないだろうか。自分に決定権があるのも当然だと考えている事だろう。

もっとも厄介なのが「もともとお金持ちではなかった」が「地位を得てしまった」人たちである。例えば有力政治家の秘書になった人や有名作家や識者たちのおかげで地位を得た編集者などである。彼らは自分の実力で地位を築いたと思うだろうし、地位の低い一般の人たちに対していわれのない特権意識を持つ事になるだろう。

地位にある人はそれでも「自分の評価は他人から評価に支えられている」という意識がありそうだが、他人の地位で食べている人にはその自覚もない。偉い人にさえ気に入られればそれでいいからだ。

政権を取っている政党の政治家が「天賦人権論など良くない」と考えるのはある意味当然だろう。自分は特権的な地位にあり、法律さえ好き勝手に変えられる存在であるという意識と、それが貧乏人からの一票一票に支えられているに過ぎないのだという意識の間に葛藤が生まれるからだ。

心理学的に、政治家たちが「勘違い」しないようにする策はいくつかあるだろう。常に困窮者たちを視察することで、認知的なバイアスをいくぶんか取り去ることができる。いくら忙しいといっても、新聞社やテレビ局の偉い人と食事をする時間があるのだから、福祉的な活動への視察時間を義務化するとよいかもしれない。

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アシアナ事故と集団思考(グループシンキング)

サンフランシスコ空港でアシアナ機が着陸に失敗した。訓練中の副操縦士が起した事故だと考えられている。このニュースを見ていて、古いケーススタディを思い出した人も多いのではないかと思う。グループシンキングで良く用いられる教材である。
伝統的な韓国社会には上下の区別が厳しく存在する。目上の人に対しては絶対服従であって、意見が違う事は許されない。例えば副操縦士が異状に気づいていたとしても、操縦士が大丈夫だと思っていれば、おいそれとは意義を唱えられない。そもそも、教官が大丈夫だと言っているのだからと、違和感すら覚えないかもしれない。
ウォールストリートジャーナルの記事はこう指摘する。

調査官は、対気速度が危険なほどに下がった場合に発せられる、操縦室のさまざまな警告システムに、なぜパイロットたちが反応できなかったのか、その理由を問いただしている。そうした警告システムは、視覚的にも聴覚的にもはっきりとした警報を出すように設計されている。

少なくとも副操縦士以下は、その機の中で一番偉い機長が疑問を呈するまで「警告システムが」と指摘できなかった可能性があることになる。このように集団が明らかな危険性をなぜか見逃してしまうことを「グループシンキング(集団思考)」という。国際感覚に長けたパイロットに文化的バイアスなどなさそうだが、ウォールストリートジャーナルの別の記事はこう指摘する。

サンフランシスコ国際空港での韓国アシアナ航空機事故について、米事故調査当局は8日から、原因究明のため同機のパイロットに対し事情聴取を続けている。しかし関係筋によれば、英語力に限界があるため、聴取が順調に進んでいないという。

ポイントとなるのは、調査をしているのはアメリカ人だという点だ。アメリカ人は「個人が判断して言うべき事は言うべきだ」と教育されるため「みんなが死ぬかもしれないのに意義を唱えない」というような可能性自体が理解できないかもしれない。また、韓国人はアメリカ人に対して「恥ずかしさ」を覚えるかもしれない。いわば身内の恥と考えられる為に、問題などなかったと主張するかもしれないのだ。
母国語であればぼかしながら伝えられる問題も、英語だとうまく伝えられないだろう。NTSB側は慎重に事を進める構えのようだが、面子を重んじるアシアナ航空側がどのような対応を取るかは分からない。「管理には問題はなく、すべて機長の問題だ」と主張している。
このような書き方をすると、必ず「だから韓国人は…」と揶揄するような反応が出てくる。ネット上では「正しい態度」なのかもしれないが、マネジメントを学ぶ上では「正しい」態度とはいえない。
日本人にも意識しない文化的な特徴がある。例えば先生に指名されるまで自分の意見を言わないとか、周囲の空気を読みながら許容されることだけを話すというような態度は、世界的に通用するとは言えない。原子力発電所の問題も記憶に新しい。不確定な事柄に対して、身内でかばい合っているうちに、最悪の可能性が指摘できなくなってしまった。現在では逆のバイアスが働いている。いったん「大丈夫だ」と認めてしまうと同様のことが起きることが容易に予測できるために、何も認められなくなってしまった。誰も、全ての責任を取りたくない。
他国の文化を笑ってばかりいると自分たちの持っているバイアスに気がつく事ができない。
100x100日本人でも外国人の部下を持つ可能性が出てきた。例えば韓国人の部下は日本人の上司に対しても、全ての規範を提示してくれるものと期待する可能性がある。日本人はグループ内の調和を重要視するので、部下に意見を聞く。この態度が「上司としての責任を放棄している」と取られかねないのである。ここに意見をはっきりと伝えるアメリカ人の部下などが加わると、さらに状況はややこしくなるだろう。
いずれにせよこの事故は、何がグループシンキングを引き起こし、どうしたら防げるのかということを考える上でよいきっかけを与えてくれるものと思われる。今後の成り行きを注目したい。

ユングとクンダリニーヨーガ

ちょっとしたスケベ心もあり、ユングがクンダリーニについて言及している本(クンダリニー・ヨーガの心理学)を読んだ。ユングの4回のレクチャーに、付録と解説がついている。ちなみに、この本にはスケベ心を満足させるようなことは一切書いていない。主に人が個人の根源的な欲求から出発して、これを昇華させるまでの様子を西洋と東洋を比較しながら解説している。しかし、その態度は「実践はお薦めできない」というようなもので、理論を遠巻きに観察するという様子だ。一方、クンダリニーヨーガの神髄は実践にある。暴走の危険性もあるので、既にプロセスをマスターした師匠について学ぶべきだと考えられている。
西洋人は金融恐慌と「はじめての」世界大戦を経験していた。その時代になって「無意識」が「発見」される。ユングは少し進んでこの中から「個人を越える心理的な状態」というものを発見しつつあった。ところがインドの体系では、既に無意識や個人を越える心理的な状態というものは当たり前のように実践されていた。レクチャーにはカトリック教会が果たした役割について言及されている。キリスト教は「善」と「悪」を教会が分別するという方法を取った。このため、無意識下の働きのうち教会が悪だと考えたものは予め抑圧されてしまう。ユングは「悪い無意識」として否定されていたものに対して、新しい評価を与えようとしていたと考えられる。
ユングは晩年になって自分が作った体系を異質なものとかけあわせることによってリファレンスしようとしていたように思える。例えばこの本の中には例の「夜の航海」が出てくる。これはヨーガの修行の中では比較的低位のプロセスと関連して言及されている。いったん、情動に飲み込まれてしまう状態だ。双方に関連するキーワードは水で、人は「水に飲み込まれて溺れる」ような状態に陥るというのである。現代的にいうと「コラボ」だが、パウリと共同して物理学と心理学の「コラボ」も試みている。
日本人にとって興味深いのは、我々が可能性としてはインドに代表される東洋的な体系と、(ここでは)ユングが代表している西洋的な体系の両方を実感できるポジションにあるということだ。今回の考察で見て来たように、私たちは自明の事として「集団と個人を分けない」社会観を持っている。と、同時に「自分らしくあらなければならない」とか「それは自己責任だ」というように、西洋流の自分観を取り入れている。こうした見方の違いが子育てで抜き差しならない不調を事もあるし、ファッションに新しい価値を与えたりもするのだった。場合によっては気がつかないうちに「両方を使いこなす」必要にせまられるかもしれない。
インドの体系は仏教を通じて日本に流れ込んでいる。仏陀のレクチャーをまとめたものから出発した仏教は、中期に入ってヒンズー教との競争にさらされる。この過程で呪術的なものを取り入れる。中国人のフィルターを通じて日本に流れ込んで来たのが「密教」の体系だ。普段の言葉遣いにも仏教系の用語が豊富に含まれる。本の中には鈴木大拙の十牛図についての解釈が出てくる。いったん意識的に捕まえてしまえば「探索は意味を失う」というようなことだ。だから追いかけていた牛(牛だけではなく全てが消えてしまうのだが)は一度消えて、探索者は日常生活の中に戻るのだ。つまり、私たちは一度知っていたことを忘れてしまっただけかもしれない。
ユングは東洋の体系をそのまま理解することはできず、枠組みを見ているのだが、私たちは両方を理解しつつ、人が本来持っている意識、無意識、個人、集団といったものについて考察することができるわけである。
さて、この本のおもしろさは別のところにもある。議論の様子を読むので、その場の活気がなんとなく伝わってくる。ユングのレクチャーは人気が高かったようだ。参加者も熱心に無意識の問題について取り組んでいるのだが、質問を受けたユングは、辞典などを使わないで即座に世界のシンボルをリファレンスしながら質問に答えている。話がおもしろく、活気もあり、これは人気が出るだろうなあと思う。時代が体験した不調を出発点にして、人の心理構造について、より詳しく学ぼうという気運が高まった時期なのではないかと思う。

赤の書

いつも、すぐに役立つ情報を集め、実用的な言葉を発信しようなどと考えてしまう。ところが、世の中には誰にも見せるつもりがないのに、後世に残る作品を作り上げてしまう人もいるらしい。
その情熱はいったいどこから来るのだろう。
図書館でC.G.ユングの赤の書 – The“Red Book”を借りた。週刊誌で紹介されているからか後続には予約も入っていた。じっくり読めば一生かかりそうで、精読するのは諦めた。
まず原文が目に入る。一瞬「しまった、ドイツ語は読めない!」と思う。全て手書き。図表や絵が入っている。ユングの研究書を読むと、これは「芸術作品だから」という女性の説得を拒絶するエピソードが出てくる。なるほど助成の、このいうことも分かる。なぜか最後は筆記体になっていて、途中で終っている。文字には意味ありげに色がついていたりする。
この壮麗な本はどうやら公表するつもりもなかったらしい。まるで自分の聖書を自分のためだけに編纂しようとしているようだと、僕には思えた。
日本語訳はそのあとに続く。精読しないようにしようと思うのだが、時折あるエピソードに引き込まれる。ところどころが物語風だ。そして解釈が入る。もし隣のおじさんが電車の中で同じような話をはじめたら、キチガイだと思うだろう。ユングはこのように湧き出てくる妄想をおさえきれず、かといって現実との区別が曖昧になることもなかった。キリスト教を逸脱した妄想に罪悪感も持っていたようだ。
翻訳はハードワークだっただろうなと思う。もはや本は売れない。だからこの本も大して語られることはなく、いままでと同じように一部の人たちの聖典として扱われるのだろう。でも翻訳せずにはいられない人がいたに違いない。冒頭の第一次世界大戦の予知的な「妄想」の部分はまたじっくり読んでみたいなと思う。
この本を一本のエントリーで語り尽くせるとは思えない。ただ、このエントリーを書いておきたいなあと思ったのは「内面的な妄想」の重要さを感じたからだ。彼は自分自身の想像と向かい合った。この妄想が「外的な影響を受けていない」(つまり、根源的なものである)ということにかなりのこだわりを持っているようだ。
オリジナルがどの程度重要かということは、21世紀の現在にはまた別の解釈がありそうだ。20世紀の活動を経てリミックス、再編集、コラージュも芸術として受け入れられているからである。
とにかく、公表するつもりがなかったことから「外的な評価のために書いているのではない」という点が重要なのだろう。芸術ではないのである。よく「内向的な性格」というが、気軽に使ってくれるなよと思う。凄まじい内向である。
この壮麗なページ作りなどを見ていると「作品集」のように見えるのだが、彼はそのためにグラフィックデザインの知識、分かりやすい文章の書き方などの研究をすることはなかった。多分「物語の書き方」のような本も読んでいないだろう。ただ、内面と向かい合い、それに形を与え、最後に体系化することに成功したわけである。しかしでき上がったものは結果的に「美的な構造」を持っている。職業的なデザイナーは一度目を通してみるといいのではないかと思うくらいだ。
ユングの世界は、後世の創造物に影響を与えた。心理学としてのユングを知らなくても、スターウォーズなどのユングの影響を受けた作品を見た事がある人は多い。
何かを書くときに「どうしてこれを書くのか」「どう役に立つのだろう」などと雑念を持って向かい合う事が多い。絵がうまい人は、出来合いのキャラクターを真似た「作品」を作り出してしまう。それを褒められたりすると、創作物は徐々に内面から乖離してゆく。
一方「何かを書かずにいられないのだが、何のために書いているのか全く分からないし、発表するあてもない」という人もいるはずだ。外的世界に当てはまるものがないから書き続けているわけだから、外的世界と逸脱している事に悩み、評価される当てがないことに悩む。
しかし、内的な妄想も突き詰めて行くと、一つの時代や学派を作る可能性がある。これが今回言いたいことである。だから諦めてたり、疑問を持ったりせずに、進んでみるべきだと僕は思う。囚われてしまったことは不幸かもしれないが、その作業は無意味ではないだろう。
さて、この文章を書いたのにはもう一つ理由があるかもしれない。街を歩いているときに目の前がぐらぐらとした。鉄柱の多い街なのだが、鉄柱がきしきしと音を立てて揺れ、目の前でアスファルトにひび割れが入った。そして帰り着いたころに、いま来た方向から火の手があがり、どかーんという爆発音がしたのである。(どうやら化学工場が爆発したらしい)そんな中、普段は他人同士の人々はお互いに声をかけ情報を交換しあっていた。確実に存在すると思っていた地面が実は動いていて、私たちが思う程確かではないと実感したからであろう。
うすらぼんやりと思ったのである。こんな風にユングの地面は常に揺れ続けていたのだろうな、と。彼がこの本に取り組んでいた期間を考えると少なくとも十数年はそんな状態だったに違いない。だから彼は何かを書かずにいられなかったのだろう。
(2013/1/7:書き直し)