日本で徒弟制度はなぜ発達したか

Executive Summary

徒弟(弟子)制度は暗黙知を伝えるのに向いている。暗黙知が中心の世界では職人は早く技術を習得できない。最初は給与並の働きができないが、そこで辞められると後継者が育たない。だから、日本では弟子制度を作って「職人を育てていた」のである。なぜ日本人は暗黙知を中心の情報伝達をしていたのだろうか。変化が少なく均質な環境が影響していたのではないかと考えられる。しかし、終身雇用制度が崩れ、技術革新のペースが早くなってきており暗黙知中心の職業訓練制度は曲がり角を迎えている。

暗黙知と形式知

マニュアルに書ける知識のことを形式知と呼ぶ。例えばレシピを基に寿司を握る場合、レシピが形式知だ。しかし、寿司屋では寿司のレシピは教えてもらえない。寿司のレシピは湿度や温度など様々なパラメータによって変化しうる。職人はこれを経験で覚えているのでレシピは定式化できない。マニュアルに書けない知識を暗黙知と呼ぶ。寿司屋を寿司屋らしくしているものは寿司だけではないだろうから、寿司の作り方をマニュアル化しただけでは寿司屋にはなれない。
暗黙知は伝えるのが難しい。寿司屋の場合には10年程度の修行が必要かもしれない。しかし、いったん覚えてしまうと幅広く応用が利く。一方、形式知は早く覚えることができるが、条件が変わると応用が難しい。このように暗黙知と形式知には一長一短があり、一概にどちらかが優れているとは言えない。
暗黙知中心の世界では、職人は早く技術を習得できない。最初は給与なみの働きができないのだが、そこで辞められると後継者が育てられない。だから、日本では弟子制度を作って「職人を育てていた」と考えられる。

西洋では暗黙知は比較的最近に「発見」された。マイケル・ポランニーが「暗黙知の次元」という本を書いたのが始まりとされる。次元というくらいなので「隠れている」という含みがある。ところが、日本では暗黙知は一般的な知識の伝え方だった。野中郁次郎がナレッジ・マネージメントについて研究し、アメリカにも取り入れられた。ちょうど、アメリカの経営者の間に「日本に習え」というブームがあったころだ。

日本から暗黙知を学んだアメリカ人

製造業の現場レベルでは品質管理のためにボトムアップの改善活動が盛んであり、製造業成功の秘訣として研究が進んだ。当初、アメリカ人は日本の品質管理運動を模倣しようとしたのだが、うまく行かなかった。品質管理に必要なカイゼンは「職人のコツ」などを含んでいてよくわからなかったからだ。それをなんとか定式化(形式知化)したのが、シックス・シグマなどの品質管理技法だ。もともと日本の品質管理はアメリカのデミング博士が持ち込んだものだったが、日本で暗黙知の概念を取り入れ、再びアメリカで形式知化された。

日本はなぜ取り残されたのか

暗黙知と形式知に着目すると、なぜ日本の成長が失われたのかということが分かる。日本の終身雇用は内部から崩壊し、暗黙知の断絶が起こった。職場のノウハウや職人のコツといった暗黙知が伝わらず、差別化ができなくなった。さらに、産業技術革新のスピードにもついて行けなくなった。技術革新のスピードについてゆくためには分業と知識の共有が必要だが、そもそも自分たちが持っている知識を体系化して棚卸しできないのだから共有はできない。
この傾向は非正規化が進むといっそう悪化した。
日本人は形式知による情報伝達が苦手だ。非正規雇用者がスキルを学べないということが盛んに問題になるが、おおくの場合これは「暗黙知の継承ができない」ことを意味している。政府の職業教育は形式知の取得ばかりに力を入れるが、これで育成できるのは専門職であり、たいていの場合、専門職は非正規だ。
また、IT産業や金融産業のように変化が早い産業では新しい技術にできるだけ素早くキャッチアップすることが必要だ。とても、長い時間をかけて暗黙知を習熟している時間はないだろう。日本人は暗黙知の世界にも戻れず、かといって形式知中心の職場にも馴染めないという状態が続いている。これが「失われた20年」の正体だ。

淘汰される職人技

今回の例では暗黙知型産業の代表として寿司屋について考えている。かつてはじっくりと技術伝達できた寿司職人だが、機械化と寿司職人の非正規化が進んだ結果、以前の「奥深い味」が失われてしまった。すると、お客にも寿司の味が分かる人がいなくなり、いっそう職人が活躍できる寿司屋が失われる。結果的に寿司と言えば回転寿司ということになりつつある。「サーモンが一番美味しい」という子供が増えているという。このようなことは様々な業態で起こっているのではないかと考えられる。あの「ほろほろと崩れる感じが良い」といくら寿司職人が主張してみても、それを支える客がいなければ成り立たない。このように市場と知識の間にはスパイラルの関係がある。

暗黙知と文脈依存文化

なぜ、日本で暗黙知に頼った徒弟制度が温存されたのかは興味深い問題だ。第一に日本の産業があまり変化しなかったという事情がありそうだ。寿司の作り方は長い間変化しなかった。だから、10年程度かけて学んでも、その後寿司職人として十分に食って行けただろう。伝統芸能には形式知によらない知識伝達をするものが多い。歌舞伎、落語、文楽などが挙げられる。多くの場合「家」が情報伝達の主体になっている。生まれてから死ぬまで同じ仕事に従事していたのだ。
次に日本人が文脈依存の文化を持っていることも見逃せない。アメリカのように多民族の文化では「口に出して」「明確に」知識を伝達することが求められる。日本人はあまり多くを語らなくても「分かってもらえる」文化だ。比較的均質性が高いからこのようなことができるのだろう。「とても複雑で一言では説明できない」と聞いて戸惑うアメリカ人は多そうだが、日本人は「ああ、分かる」と思うのではないだろうか。

まとめに変えて

産業構想が変化した現在、日本人は形式知中心の世界に慣れる必要がある。ビッグデータの活用ができるようになり、かつては暗黙知だと思われていたものをそのまま形式知として取り扱う事ができるようになった。
すると「現代では形式知中心の文化の方が優れている」という結論を出したくなる。しかし、アメリカが暗黙知を習いたいと考えていたことがあるのも事実だ。この二つは状況に合わせて使い分けるべきで、どちらかが優れているというものではないのである。
いずれにせよ、ナレッジについての理解なしに終身雇用や非正規の問題を語ることはできない。単に終身雇用にも戻れといっても、それは無理なのだ。かといって、日本の経営者は定型知識ベースの経営にも慣れていない。「体で経営を覚えた」人が多いからだ。暗黙知・形式知について今一度考える必要がある。

国語を勉強すれば国民の英語力は簡単に上がる

Twitterで英語に関する議論が流れてきた。高校生の段階で「話せない」「書けない」ということが問題視されているらしい。
「受験用の英語なんか勉強なんかしても仕方がない」「日本の英語教育がよくないという意見が多いようだ。これは本当なのかなあと思った。日本の英語教育はかなり充実していると思う。実用には十分なレベルだろう。
まず最初に大きな誤解から解いておきたい。日本人のTOEICの成績は世界で最低レベルにあるが、それはTOEICを受験する人の数が多いからだ。諸外国ではTOEICはあまり用いられていない上に、受けたとしても企業などで必要に迫られた人だ。一方、日本では多く(あまり英語が必要のない人も含めて)の人がTOEICを受験するので総合点が下がってしまうと言われている。だからTOEICのテストスコアの国際比較にはあまり意味がない。
聞けるけど話せないという人はいない。聞けないから話せないのだ。だから「話すテスト」を実施しても会話力は上がらないだろう。発音ができないということは発音の仕組みが理解できていないということだが、これは数をこなすうちに自然に慣れてくる。「耳」ができると、そのとおりに発音さえすれば会話はできるようになる。
話すのに重要な基礎は2つある。基本的な文法と語彙だ。基本文法の数は少ないので、語彙の蓄積が特に大切なのだと考えられる。語彙の蓄積のような退屈なことは使い道がなければ「効果がない」としか思えないのではないかもしれない。だから、学校で「強制」する必要がある。だから学校の授業って大切なのである。
この議論で不思議に思うことがある。なぜ学校関係者は「中学では話せていたのに、高校では話せなくなってしまうのか」という点に疑問を持たないのか。中学の時には無邪気に話せていても高校になると「正しい英語で話さなければ」と思うのだろう。ここでぶち当たる壁は「日本語で言えたあれは英語でなんて言うんだっけ」というものだ。学術的な語彙の日本語を直訳しようとして失敗するのだ。
英語で話したり書いたりするためには、普段から英語で考えなければならない。その元ネタを得るためには英語で読む事が重要だ。読みは比較的できているわけだから、原因は明確だ。つまり「考えたことがない」のだろう。
すると、英語で話すためにはどうしたらいいかということが分かってくる。それは「自分の頭で考える」時間を増やす事だ。日本の教育は暗記重視なので、自分の頭で考える訓練をしない。大学生レベルでも「考えるレポート」をネットで調べて書き写す人は多いのではないかと思う。
日本には討論の授業はないので、せめて国語の時間に討論を勉強する必要がある。テーマを与えて下調べをした上で話をさせるとよいのではないかと思う。
もっとも英語を話す簡単な方法は他にもある。とにかく英語を話さざるを得ない環境に身を置くことだ。アメリカにはヒスパニックが多く、ファストフード店やコールセンターなどで働いている。彼らがペーパーテストで良い点数を取れるとは思わないが、とにかくよく喋る。ただし発音はめちゃくちゃだ。特にアカデミックイングリッシュにこだわらないのなら、こういうやり方もあるかもしれない。

スウェーデン好きを表明すると日本で嫌われるのはなぜか

今回の原発問題で脱原発を唱った嘉田由紀子さんは、選挙期間中に大いに罵倒された。中でも多かったのが「嘉田さんはスウェーデンが好きだが、スウェーデンというのは…」という批判だった。今日はこれについて考えてみたい。
思い起こせば、民主党も北欧モデルを福祉国家の理想として取り扱ったことがある。しかし、国民からはあまり受け入れられず、結局はフランスの事例を持ち出すことが多くなった。「北欧は日本とはあまりにも違いすぎる」という意見が多かったからではないかと思う。いったい、何が違うのだろうか。
ホフステードの研究によれば、北欧諸国は「女性的傾向」が強いとされる。(『多文化世界 – 違いを学び共存への道を探る』などを参照のこと)。ホフステードは企業文化を比較している。だから、この場合に「女性的傾向が強い国」というのは、企業などにおいて、共助・協調性が高い国のことを言う。ライフタイムバランスへの取り組みに熱心なのも、女性的傾向が強い国の特徴だ。生活の質への意識も高いからだ。
これに比較して日本は極めて男性的な社会(リンク先でMASと呼ばれるスコアを参照)だとされている。リンク先にある説明はこうだ。

日本は、社会は競争・達成・成功を重んじ、他人を慮ったり、人生の質を追求したりといった関心は低い。男性的な国では勝つ事に価値が置かれ、女性的な国では自分がやっていることが好きかどうかが重要視される。

このスコアがジェンダーと結びつけられていることに異論を唱える人は多いかもしれない。実際には女性管理職の中にも「競争が好き」な人はいるだろう。また、男尊女卑の国にも「女性的」な国が存在する。いずれにせよ、日本のMASインデックスは突出して高い。反対に、スウェーデンのMASインデックスは極めて低い。つまり、日本とスウェーデンの価値観は対極的なのだ。
これを覆すにはかなりの時間がかかるだろう。
今回の選挙中は女性が「社会が育み育てるという」価値観を否定する議論があった。男性が女性を嘲笑するのはなんとなく理解できるのだが、男性社会に適応した女性までもこうした共助の価値観を否定するケースがある。
政治経済や企業活動の文化では「他人を大切にしたい」とか「話し合いで解決したい」というような意見は、あからさまに攻撃される可能性が高い。またそれを嘲笑しても、社会的にはあまり批判されることはない。政治経済の現場では女性的な態度(つまり、他人を大切にし、協調して社会を維持して行こうという姿勢)は受け入れられないのだ、と感じているのかもしれない。
どうして日本社会がこうした男性的な企業態度を持つに至ったのかは、よく分からない。第二次世界大戦を通じて作られた富国強兵文化が企業文化に引き継がれたのかとも思えるが、競争や自己責任など政治的な主張も極めて男性的だ。
国際的に競争しないと負けてしまうとか、アジアの中で軍拡してでも競争しなければならないという主張がおおっぴらに語られる一方で、不況や震災で困っている人たちを助けたいという主張はあまり受け入れられない。領土問題を平和裏に話し合いで進めるべきだという主張は嘲笑される傾向がある。「弱腰で女っぽい」と思われてしまうからだ。
不況になると、企業社会で競争心を満たすことができなくなると、それが政治に向かうのかもしれない。女性は社会では低位にいる存在で、従ってその意見も取るに足らないものだという気持ちがあるのかもしれない。
いずれにせよ、女性的な価値観を全面に押し出した社会民主党は存亡の危機にあるし、女性を全面に立てた日本未来の党は出だしから躓いた。女性閣僚を多く登用すると女性からの支持は得やすくなるが、やはりサポーティングロールであって、全体的な雰囲気を支配するまでには至らないのが通常だ。
一方、スウェーデンなどの北欧社会がどうして女性的なのかも分からない。男性が海に出てしまい、政治やコミュニティ維持の現場でも女性が活躍したからだという説がある。同じように女性的傾向が強い国にはノルウェー、ポルトガル、オランダなどがある。
いずれにせよ「女性がスウェーデンを持ち出す」と、いろいろな理屈で意見が否定されるわけだが、これに正面から論争を挑んでもあまり意味はない。そもそも「文化的な偏見」だからだ。興味深いなと思えるのは、「女性的な意見」をあからさまに否定する人は、必ずしも社会的に成功している人ではない。競争に執着していて「勝てる相手を選んでいる」ようにも見える。今回「勝ちすぎた」といわれる自民党は、こうした勇ましい議論を引っ込めてしまった。選挙に勝ったことで、議論によって勝つ必要がなくなったからではないかと思う。強い人が弱者をことさらにいじめるのは「男らしくない」わけだ。
日本社会はあまりにも男性的なので、放置すると競争が自己目的化することがある。しかし、それを補正するために「女性的な価値観」をあまり強調しすぎると、男性のみならず女性からも嫌われてしまう。人生の質を向上させたり、協調的な政策を成功させるためには、こうした偏見をなんらかの形で乗り越える必要がある。
最近はイクメンブームだが「育児は実は知的なのだ」とか「シゴトができる要領のよい男性ほど育児に参画しやすい」といった、競争的な側面を強調した言い方がされることがある。「遅くまで残業している男は余裕がない」というのも価値観の転化だ。また、男性は優しくて力があるからこそ、女性を助けることができるというのも、男性的な理由づけである。
同じように、原発の問題でも「古いスキームにしがみついているのは、知的レベルが低いからだ」とか「新しい電力供給スキームの開発競争こそが知的ゲームである」といった方が、競争を促進しやすいのではないかと思える。
また、領土問題にしても「話し合いで平和的に解決しよう」というよりも「戦略的に相手を誘導すべき」という上から目線の言い方の方が好まれそうである。「弱いイヌほどよく吠えるから、軍備を増強しようといった、女々しい態度に出る」というリポジショニング(まあ、たんなるラベル貼りなのだが…)もできるだろう。男らしく正々堂々と協議で渡り合うべきだ、と言った方が男性的な価値観の中では、支持者を増やすことができるだろう。

ヒトはどうして夢を見るか

脳は眠らない 夢を生みだす脳のしくみを読んだ。夢にはいくつかの機能がある、昼間の経験を再編成し、いらないものをふるい分け、感情との擦り合わせを行う。長期的に覚えている必要があるものを記憶する。まだ起こっていない経験をシミュレーションして、未来に備える。こうして、私たちは定期的に自己認識や経験の意味を再構成している。
夢を見ない(つまり眠らない)と人は死んでしまう。実際に眠れない病気「致死性家族性不眠症」があり、脳が壊れて亡くなってしまうのだという。眠れないから亡くなるのか、脳が深刻なダメージを受けるから眠れなくなるのかはわからないという。例えば、ナショナルジオグラフィックのこの記事を読むと、ヒトが眠る理由は良くわからないと書いてある。『脳は眠らない』を読むと、幾分断定的な感想を抱く。
どうしてヒトは眠るのか。眠っている間は周囲の情報を遮断しているので、敵に襲われる可能性が増えるわけだが、それよりも「メリット」が大きかったということになる。ただし、眠るのはヒトだけではない。本によると、ネコは夢を見ている可能性があるらしい。寝ている間は行動を起こさない仕組みがあるのだが、ここに損傷を与えると、寝ている間に動き出すのだそうだ。その間にシミュレーションを行っているのだろうと考えられている。つまり学習が進んでいるということだ。一方、原始的なほ乳類は夢を見ている形跡がない。つまり進化の過程で、眠ってでも記憶を再構成した方が「トク」だということになったのではないかと考えられる。結果、高度な情報処理ができるようになったのである。
さて、ヒトは夢を見る事で感情の処理も行う。夢はネガティブな感情と結びつく事が多いそうだが、夢で自己認識を改訂することで、こうしたネガティブな感情を処理していると考えられている。しかし鬱病の人は夢を見てもネガティブな感情が更新できない。従って夢を見るたびに、さらに悲観的になり、長期的には悪い影響を与えることになるだろう。ということで、鬱病の人に「夢を見させない」という治療があるのだそうだ。
このように、夢には学習機能がある。いったん全ての外部情報を遮断し、脳内で再構成するという「振り返り」の機能である。こうしたギャップがあるおかげで、私たちは自己認識を新たにし、行き詰まったアプローチとは違う発送を持つ事が可能になる。朝起きたら、新しいアイディアが浮かんだり、昨日は練習してもできなかったことができるようになっているのはそのためだ。そして、大抵の場合努力してそれを行う必要はない。基本的なOSに組み込まれているからだ。
これを読みつつ、常に、情報に晒されて、いつも考え事をしているのは良くないのだろうと思った。つまり時々は情報を遮断して、再構成をする時間が必要だということである。進化の過程を「効率のよい情報プロセスの解」として受け入れるのなら、いったん休んだ方が、連続して情報処理を続けるよりも効率的に問題解決が図れるだろう。もし、山ほどの情報を出し入れしているのに「何も解決しない」のであれば、もはや問題解決に資する情報解決を志向しているとはいえないのではないか。
夢についてはまだまだ解明されていない点がたくさんある。しかしながら、科学者たちは、寝ている人を観察したり、動物の脳に電極を差し込んだりして、夢の解明に努めている。もともと何の意味もないと思われていた夢だが、実は私たちの記憶や学習に決定的な役割を果たしていることが、徐々にわかり始めているところである。

ヨハネス・イッテンの色彩論

色彩論を読んでいる。イッテンはバウハウスで色彩論を教えていた人で、今でもグラフィック・デザインの世界では、まず最初に学ぶべき本の一つだとされている。

バウハウスの教師の中にはクレーやカンディンスキーというような芸術家がいた。しかし、イッテンは生粋の教師だった。教師といっても、国が作ったカリキュラムをそのまま教えるのではない。自身で絵の具を混ぜて、色彩の調和について研究したのである。色彩論にはこうした独自の探究心がよく分かる。

音楽と違って視覚芸術には理論が少ない。バウハウスの時代は科学万能時代の幕開けであり、視覚芸術に携わる人たちは、視覚芸術の理論化を試みる。しかし、意外な事に(今回読み返して、意外だなと思ったのだが)イッテンは理論化には慎重な姿勢を見せている。

色の理論化はある程度まで進んでいる。しか色が見える仕組みについてはよく分かっておらず、標準的な色空間のモデルも存在しない。工業的には赤・黄・青は三原色ではなくなっているのだが、このエントリーに出てくる赤・黄・青の色相環モデルもいまだによく使われる。これについては別途エントリーを準備した。

たいていの人間は生まれたときから色のある世界におり、視覚芸術家(バウハウスは工芸学校なので、この言い方にも賛否両論があるだろうが)は、色や形に関する天性の資質を備えている。フランスの「技術者は教育によって作られるけれども、色彩の芸術家は、生まれつきのものである」ということわざがあるそうだ。

デザイナーをしている人たちも「であるから、色については教えられない」と言われたことがあるはずだ。これはある程度正しいとイッテンは考える。天性の直感がある場合、色の理論はあまり役に立たない。理論は「不慣れな人たち」のものである。つまり、理論は「調和しているもの(あるいは不調和なもの)」を説明するには役に立っても、理論的にきれいなのだから、この芸術作品はきれいなはずだということにはならないということだ。

また、色に対する感性は人によって異なっている。つまり「主観的」なのである。ここがイッテンの教師として優れている所だと思われる。イッテンは「調和する色彩」について教える。すると生徒は「それは調和的ではない」と文句をいう。もしあなたが教師で、ついでに文部科学省の作ったカリキュラムを元に教えているとしたら、どう反応するだろうか。きっと「この理論が正解である」というに違いない。しかし、イッテンは「調和する色彩」を実際に描かせて、差があることを観察するのだ。イッテンは生徒の「調和」について記録を取っている。整理ができるのは、自分なりに理論ができているからでもある。

では、どうして理論化できないものを教える必要があるのだろうか。

イッテンは色彩に対する態度を3つに分類している。一つは「教師に言われた通りに色を塗る亜流の人たち」だ。多分流行している色を、よく見るからという理由できれいだと感じる人はこのグループに入っているだろう。ここから抜け出した「独自の色彩感覚」を持つ人たちがいる。しかし、その人たちが感じる「調和」は限定されている。どのような絵を描いても同じような色遣いをするのだそうだ。そして、そこから抜け出した人だけが、様々な可能性を組み合わせた色を使えるようになるのである。

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実験を行うためには理論化と実験が必要だ。教師にできるのは「最初の実験のやり方」を教えることだけだ。これを旅に模して、最初は馬車に乗って行くがその内に自分の脚で歩くようになると言っている。その人の持っているポテンシャルを広げて行くために、理論が必要なのだ。

造型については天性の才能を持っているが、色についてはよく分からないという職人がいる。この人はこのままでは立派な工芸家にはなれないかもしれない。しかし、理論化の助けがあれば、造型の才能を活かすことができるようになるだろう。また、イッテンがいうように、固い色彩を好む人が、スチール家具の設計者として成功するということもある。つまり、探求の結果、適性を見つけることもできるわけだ。つまり人材を活かし、その才能をより広範囲で活かすことために、理論の助けが必要なのである。

立ち泳ぎのやり方を覚える

あまり一般的でない考え方を一般的なフォームに納めると人は納得してくれるのか。
生きる意味があるのかというような文章を書いた。これがTwitterにのって広まる。メッセージがFacebookに乗ったところで、多分心配したのであろう昔の知り合いから「僕は散歩しています」というようなコメントが寄せられた。かなり唐突だったので、当惑しながらも「体を使う事をせよ」というアドバイスであろうと考えて「立ち泳ぎ」をしていますとコメントを返した。多分、僕が何か高級なことでも考えているであろうと思っているその知り合いは何か噛み合ない答えを返して来たので、構わずに立ち泳ぎはできるが、まだ5分保たないと返した。ようやく「人生の比喩かと思いました」と返して来たので、そのままにした。立ち泳ぎって、何の比喩だよ…と思ったからだった。
多分、類推するに「いろいろややこしい状況をなんとか泳ぎきって行く」というような意味なのではないかと思う。普通に生活していれば「クライアントさん」と「企業の倫理」のあいだに立ったり、シゴトと日常生活の間にあるバランスを取りながらなんとかやってゆかなければならない。しかし、別にややこしい状況は抱えていないので立ち泳ぎしてなんとかやってゆく必要はないわけだ。なんとか立ち泳ぎしてやっていますよ、という言葉には「僕は忙しいんだ」という自慢と、「水の下ではいろいろやっているが、水上では平気な顔をして見せていますよ」という企業社会独特のなんとなく自虐的でいやらしい世界観のようなものも見たような気がする。
ところがこの比喩の持つ意味は一転した。それが「星占い」だった。星占いの度数にはそれぞれの意味が割り当てられている。それは他人と比較されない個人から始まり、最終的に共同体的な価値観の共有で終る。このあいだに家族、会社、共同体という3つの集団を経由する。この中に「曲馬を乗りこなす」という度数がある。ここで、この知り合いの言葉と状況が結びついたのだった。大抵変化というと、ある岸にいられなくなり、別の岸に行く事を意味する。あるときは飛び越えて行くだろうが、あるときは両岸のあいだを泳いで行かなければならない。泳ぐ間は息を整えて、流動的な状況を「耐え忍ぶ」ことになる。人が変化を怖れるのは、飛び越えようと言うときか、水の中に飛び込もうとするときだ。泳いでいるあいだは、あまりいろいろなことは考えない。人が25m泳げますというのは、例えば転職のときに1年は暮らして行かれますというのと同じ事なのである。立ち泳ぎはこれとは違っている。曲馬というのは、変化しつづけているものを変化するまま乗りこなすというシンボルなのだが、立ち泳ぎも文字通り流動的な状況を流動的なまま受け入れるという練習だ。最初は水の中にうかんでいることもままならないのだが、その内人間はほとんど浮かんでいるということを理解できるようになる。そして体が水のさばき方を覚えると、やっと手と足を動きを観察してみようという気持ちになるのである。もしかしたら、この水と思えていたものが新しい土地のように感じられるようになるかもしれないし、じたばた仕手いるうちに新しい土地に泳ぎつくかもしれない。
実際に立ち泳ぎを覚えたいと考えたのは「何か新しいことを覚えたい」と思ったからなのだが、それがどうして立ち泳ぎだったのかはよく説明ができない。これに「ダイエットに良いから」とか(実際にはやせるわけではなくて、インナーマッスルという調整に使う筋肉が発達し、持久力が増すようだ。これは3か月くらいで経験できる)、なんとか後付けで説明を加えている可能性が高い。ここに何年も連絡がなかった知り合いからのメッセージと本の内容が加わり、あたらしい布置を生むのである。そしてそれはなんとなく「説明できなかったもの」を説明できている可能性が高いように思える。変化を怖れるあまり、既得権益の高い山に逃げ混もうとしている人は多い。経済も人口規模も縮小してゆくとされる中で、現状維持を心がけようとすると、なぜか閉塞につながってゆく。この島の土地は浸食されつつあり、使える土地はなくなりつつあるわけである。こうした中で変化するということは、向こう岸の見えない海に飛び込む事を意味している。それはそれはものすごい恐怖心だろうなと思うのである。こうした状況で変化するというのは、なんとか向こう岸に泳ぎつくという事ではない。変化を受け入れた上で、常に変化し続けるダイナミズムも受け入れて、そこで立ち振る舞って行ける方法を見つけるということなのだ。ここではじめて、変化に対する恐れは消えるだろう。しかし「もう年だから新しい技術を覚えるのはムリだ」と考えると、いつまでたっても飛び込むことはできない。逆に「人は最初から泳げる潜在的な能力を持っているのだ」と考えるほうが、気持ちはラクになる。
飛び込んで来たメッセージは「もう用済みの」置いて来た価値観なのだが、ありがたいことに、それでも新しい洞察を生むんだなと思った。

立ち泳ぎの練習法

立ち泳ぎはなぜ必要か

立ち泳ぎは次のような時に役に立つ。

  • 水の中で顔を出して静止することができる。
  • 足の付かないプールや海などで溺れずに浮いていることができる。
  • 水球やシンクロナイズド・スイミングのように立ち泳ぎが前提になっているスポーツもあれば、救命の為に必要とされる場合もある。
  • 立ち泳ぎは水中動作の基礎になっているので、練習すると、背泳や平泳ぎがマスターできる。





立ち泳ぎの練習法

プールに入る前に椅子に座って「巻き足」の練習をする。腕で確認するとよい。両腕を内側に巻き込む。同時に腕を内側に入れるとぶつかってしまうので動きを時間差で行う。これができるようになったら水中に入り練習する。これを巻き足という。

これとは別に平泳ぎのように踵をお尻に近づけて蹴り出す方法もある。これをふみ足という。

最初は水の中で安定して浮いていることができないので、ビート板につかまり前か後ろ(大抵後ろだそうだ)に巻き足で泳いで行く。

練習と時間経過

実際にやってみた。もちろん習得には個人差があると思う。

最初の年は「やっと浮いていられる」程度にしかならなかった。だが、ここで練習を中断してしまっても構わないようだ。体が動作を覚えていて、次の年はこれを思い出しながら練習ができるようになる。つまり、しばらく休んでいるうちに頭で情報が整理されて次のシーズンにはうまくできるようになるのだ。

しばらく練習していると技術がそこで止まってしまうので、課題を加えて行くとよいようだ。例えば、手を水中に出すと難しさが増す。また、立ち泳ぎの姿勢から泳ぎの動作へ移る練習をすると、水中でスムーズな動作ができるようになるだろう。

立ち泳ぎを巡る混乱

このように水泳の基礎とも言える立ち泳ぎだが、まともに解説した文書は少ない。また立ち泳ぎを研究した本も一般に売られていない。多分1冊の本にするほどの分量がないからだろう。子どもの頃から水泳の練習をしていると自然にできる人が多いので、取り立てて立ち泳ぎだけを覚えようという気にはならないのかもしれない。しかし、かなり泳げる人でも立ち泳ぎだけはできないという人もいるようだ。

最初に書いたように立ち泳ぎには二つのやり方がある。一つは足ひれをつけたようにして甲で水をかく「あおり足」。もう一つは平泳ぎのように足を蹴るふみ足だ。ふみ足では交互にキックを行う。

これを洗練させてゆくと、やがて巻き足と呼ばれる動きになる、とされるのだが(平泳ぎをやっていると自然に巻き足になると書いてあるものもある)実際にはそうはならない。また、ふみ足と巻き足の中間のようなやり方を「巻き足」として紹介しているものもある。

このように、本や解説者によって微妙に言い方が異なっているのも学習者にはやっかいだが、つまり人によっていろいろなやり方があり、自分の習得した方法を人に説明しているということなのだろう。目的さえ達成できれば解説がすべて理解できなくても構わないということになるのかもしれない。

人はそのまま浮いていると耳の線あたりまで浮かぶ。じっとしていてもほとんど浮いているわけだ。じたばたと動くことで逆に沈んだり、あらぬ方向に動いてしまったりする。練習すると一時的に事態が悪化するので、最初は「練習してもムダなのではないか」と思ったりする。

巻き足を文章で解説するのは難しい。この解説では、膝から下を左右交互に内側に向けて円を描くように回す。と言っているがほとんど意味不明だろう。これは実際の動きが三次元的であり、加えて水の中で行われるために自分がどのような動きをしているのかよく認識されないからだろうと思われる。自分でやってみると頭の整理ができない。が、ここであきらめずにジタバタしてから、しばらく時間を開けるのも手かもしれない。休んでいる間にも脳は情報を整理しているからだ。

立ち泳ぎの技術

立ち泳ぎにはいくつかの技術が必要だ。通常、技能とはみなされないものを含む。

  • 水の中で垂直に浮かんでいることができること。
  • 水の中でじたばたと動かず、また動きが下に沈む力にならないこと。
  • 足が柔軟に動くこと。

英語で巻き足のことをEggbeater Kickと呼ぶ。実際にやってみると分かるのだが、最初のうちは、蹴り下ろすときには大きな揚力が得られそうだが、逆に足を引き上げるときに下に沈んでしまう。また、かなりの柔軟性がないと足を引き上げることができない。さらに、腿の動きに気を取られると足首できちんと水をかけない。

別の解説によるとそれぞれのパーツの角度は90度になる。かなり持久力が必要だと書いてある。つまりある程度陸上で柔軟運動をしてから水に入る必要がある。

このように解説しているものもある。(サイト閉鎖のためにリンクは削除しました)

座位(椅子に座った姿勢)で膝を横に開き、下腿を左右交互に動かして推進力を得る技術。
膝をできるだけ広げ、片脚ずつ足と下腿で大きな円を描くように動かします。左脚は時計回りに、右脚は反時計回りに左右交互に動かします。脚の動きが電動式調理器の「卵かき混ぜ器」に似ていることからこの名がつけられました。指導現場においては、エッグビーターキックを通常「立ち泳ぎ」または「巻き足」と呼んでいます。

送信者 Keynotes

図だと難しいが動画だとこのような感じになるらしい。

水球で立ち泳ぎしている人はそれほど足が曲がっていない。

シンクロのサイトを見ると、水球のキックのように足を振り下ろしてはいけないと解説されているようにすら思える。つまり解説者によってそもそも理想されるフォームが異なっているのである。

初歩からの練習法

日赤の資格試験などでは手を使わずに5分ほど立ち泳ぎができなければならないとされるそうだ。この場合には専門のコーチについて練習するべきだろう。しかし「取りあえず浮いていればいい」のであれば、自分でも練習できる。

  1. まず、地上で正座をする。膝を曲げたままで足を横に広げお尻を直接地面につける。これは巻き足の最初の足のポジションと同じだ。
  2. 次に足の動作を地上で確認する。椅子に座って行うとよいらしい。
  3. さらに水の中に入り同じ動作を行う。
  4. 最初は水の中で安定して浮いていることができないので、ビート板につかまり前か後ろ(大抵後ろだそうだ)に巻き足で泳いで行く。推進力を確認する。
  5. 推進力が付いたら最終的に水中で静止しつつこの動作を行う。

しかし、このやり方だと「立ち泳ぎ」ができるのは最後の最後だ。人によっては1か月も2か月も全く成果が出ないことが考えられる。成果がでないと飽きてしまうかもしれない。

  1. まずは無意識に水中で足をまわすことができるように練習する。水の中ではなかなか意識的に足を動かすことはできない。
  2. 続いて、平泳ぎの足を交互にくり返し浮く感覚を覚える。水中で行うか(揚力が十分ないために浮き上がれない)ビート板を使って平泳ぎの足を行う。ビート板で首まで出るようになれば、実際にはビート板なしでも浮き上がれる程の揚力が得られている。しかし、手のポジションが変わると水の中でのバランスが崩れるので、手を前に組んでバランスを取るようにするとよいようだ。
  3. これが継続的にできるようになったら、手を使って揚力を補ってやる。すると辛うじて首を水の上に保持することができるようになる。
  4. この時点でふみ足が完成する。
  5. あとはこの動作に慣れ、徐々に足の柔軟性を増して巻き足に移行するのである。

このやり方は早く浮く事ができるようになるが、きれいな巻き足にはならず、なかなか検定に合格できるほどのフォームに移行することは難しいかもしれないが、どうにかして浮いてしまえば、あとは練習を繰り返しているうちに自分なりのやり方を覚えることができるだろう。立ち泳ぎにはこれといった正解がない。まずは水に浮いて静止できるようになってから、フォームを整えるのが良いのではないかと思う。

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立ち泳ぎを練習する

今週の土曜日から国体が始まる。それに先立って水泳系の競技が開催された。水球を見に行ったのだが、簡単に水の上に浮いているように見える。立ち泳ぎをしているからだ。足の届かないプールで泳ぐのに便利だなあと思い、練習してみることにした。なんせ、ものすごく簡単そうに見えるである。
まずインターネットを見て情報を集める。ネットには断片的な情報しかない。平泳ぎの足を交互にするといいだとか、椅子に座って練習するとかだ。実際やったけど、習得に時間がかかったという記述もある。また、簡単にできるようになったという人もいる。どうやらこの技術は「巻き足」というらしい。
実際にプールにゆき、足をつけずに浮いてみる。人間の体はほぼ水に浮かぶことになっている。肺に空気を貯めると比重が水より軽いからだ。とりあえず、足が動かせないんだなということは分かった。手をぐるぐると動かしてしまう。いろいろ考えた結果、平泳ぎを実践してみることにした。まずビート板を持ち、平泳ぎの足をやる。それを交互に出してみる。しかし平泳ぎはカエルのような動きだ。つまり、体を伸ばすときの推進力を使って前に進むのだ。これが巻き足とどういう関係があるのか、さっぱり分からない。
ここまでをおさらいする。

  • まず、お手本を見る事で「こういうことができるのだ」という目標ができる。
  • 次にやってみようと思う。「あれができたら、泳ぐのがラクになるに違いない」「足が付かないところでも大丈夫になるだろう」と考えるからだ。この段階をモチベーションがわくと言ったりする。
  • 実際情報を集めるのだが、各々の情報がバラバラで、どう目標に到達するのかが分からない。それでも実際にやってみるものの、この努力を続けてもムダになったりしないかと考える。

ここまでが2時間である。(後になってわかるのだが、立ち泳ぎの習得にはかなりの時間がかかるらしい…)
プールには無料の講習会があり、後日そこで10分ほどレクチャーしてもらった。コーチの登場である。30代くらいに見えるコーチはまず次の質問をした。

  • どうして、立ち泳ぎがしたいと思ったのか。
  • これまでにどういう練習をしたのか。

これを聞いたあと、実際に見せてくれる。やはりとても簡単そうに見える。そして、彼はこの習得に1か月かかったのだそうだ。この時点で2つの情報が加わった。

  • 実際のイメージ
  • 習得にどれくらいの時間がかかるか

さらに、コーチはプログラムを組んでくれる。なかなかやり手である。もう一つのポイントは、このコーチが実際に習得に苦労したという点だろう。自然にできていればこういうプログラムは組めなかったかもしれない。

  • まず、足を練習する。足をお尻近くにあげる。それを振り下ろす。そしてかかとをつける。これを交互に繰り返す。これをやるために日頃から「お姉さん座り」をすると良いだろう。足に柔軟性があることが重要だからだ。(とはいえ、この柔軟運動はかなり苦痛であることが判明する)
  • これができたら、足を使って、後ろ向きに進む。手を使わず、浮かない場合にはビート板を使うといいだろう。

この時点で、バラバラだった情報に体系ができる。しかし、体系ができたからといって実際にできるようになるとは限らない。実際に習得する期間が必要だからだ。
さらに1時間練習した。
1日経って、平泳ぎの動き(これは直線的な動きである)と巻き足の回転する動きの関係が分からなくなる。ということでいろいろネットで漁ってみるのだが、よく分からない。ここで役に立ったのがビデオ素材である。動きの中に「お姉さん座り」があるのが分かる。(とはいえ、片方づつなのだが)そして、回転に実は方向があることが分かった。右足が反時計回りで、左足が時計回りなのであった。(実はコーチングの時点ではこのことは出てこなかった)
インターネットが役に立つのは、このレベルからだ。情報が体系化されないと使い物にならないのである。そして役に立った情報はほとんど英語のものだった。これは後々課題にしようと思うのだが、日本人は不特定多数に向けて何かを説明するのがとても苦手か、意欲がないようである。
さて、最後になるが、ここまで見て来たのは、今回は新しい技能の習得について考えて行こうと思うからだ。前回のミニシリーズでは、陳腐化した技術をマーケティングで再活性化させようという試みだった。今回はイノベーション方向について考えてみたい。
見て分かるように、この立ち泳ぎの習得は、先行モデルのある技能習得である。イノベーションでは最終的にこれを先行モデルのない技術習得に拡張しなければならない。「学習する組織」はクラッシックな理論なのだが、これを実体験に照らしてもう一度再編成してみよう。

インストラクションの構造

インストラクションとは

インストラクションは、ゴール、手順、エラー指示から成り立つ

行動の指針を与えることをインストラクションという。例えば「自転車の乗り方」「卵料理の作り方」はインストラクションだ。『それは情報ではない』では、インストラクションは、ゴール(目的)、手順(目的に至る方法)、エラー指示(間違えた時の情報)を含む。
「ニュース」・「ファッション雑誌」も広い意味のインストラクションに含めることができる。たとえば「洗顔石けんを使うとお肌がつるつるになる」という広告では「お肌をつるつるにする」ためには「この石鹸を使え」というのがインストラクションだ。つまりマーケティングメッセージはインストラクションなのである。
しかし人は合理的な情報だけを頼りに行動しているわけではない。敵を発見した猿は警戒音を出す。すると他の猿たちは取りあえず逃げる。こうした情報を「アンビエント」と呼ぼう。インストラクションとアンビエントの違いは、インストラクションが合理的に行動を支援するのに対して、アンビエントは合理性を欠いているところだ。例えば、ジャーナリズムはインストラクションになり得るが、闇雲に危機をあおり立てるアンビエントにもなり得る。アンビエントは合理的な手順を与えないので、人々を不安に陥れることがある。情報が多過ぎると、人は合理的な判断ができなくなる。だからインストラクションをアンビエントとして捉えてしまうかもしれない。

優れたインストラクションとは

受け手のレベルを考慮した情報提供をしよう

優れたインストラクションは、受け手のレベルにあった情報を提供する。例えば、初心者は具体的で明確なインストラクションを求めるが、状況が変わったときに応用が難しい。「右にコンビニが見えたら曲がってください」という指示は具体的で分かりやすい、しかし、コンビニがなくなれば意味をなさなくなる。学習が進むと、頭の中に物事の因果関係をまとめた地図ができる。初心者は地図が白紙のような状態にあるので、関係のある手がかりを具体的に与える必要がある。しかし、地図が作られている人にとっては具体的過ぎる地図は煩雑なだけだろう。つまり、インストラクションを書く時には、受け手がどういう状態にあるのかをできるだけ特定する必要がある。

合理的でないインストラクションも考慮しよう

学習者が持っている地図は必ずしも合理的に形成されない。テレビCMで理想的な体型の美男美女がジーンズ着用しているのを見たとする。そのジーンズを着ても美男美女になれるわけではないのだが、見た人は「なんとなくそれを着るときれいになれそうな」気がする。テレビコマーシャルの多くはこうした連想手法を採用している。こうした可能性も排除せず考慮しよう。

インストラクションを並べてカリキュラムを作る

インストラクションを並べる体系を考えよう

個別の地図を作るだけでは、インストラクションとしては不十分だ。たとえば、水泳のインストラクションは難易度順に並べられている。人はインストラクションを通じて簡単な目標を達成すると、そのことに喜びを感じる。これが次の学習の動機になるだろう。優れたインストラクションは学習の動機が継続するように組み立てられている方がよい。逆に最初から難しい課題を与えると学習者はそこに到達する前に諦めてしまうだろう。学習過程を組み立てたものをカリキュラムと呼ぶ。カリキュラムは学習者の習熟に応じて組み立てられている必要がある。課題が単純すぎれば人は退屈するだろうし、難しすぎれば諦めてやめてしまうだろう。よいインストラクションは、学習者の状況、習熟度、好み、適性などに応じて注意深く組み立てられている。

インストラクションのモジュール化

学習者が一人の場合、その人に相応しいカリキュラムを作るのはそう難しいことではない。しかし学習者が1,000人いたら、それぞれの人に合ったカリキュラムを作る作業はより複雑になるだろう。現実的な対応策は学習プロセスを標準化することだ。公立小中学校は「学習指導要領」を作ってカリキュラムを標準kしている。
もう一つのやり方は学習目標を、ある目的に沿って細分化するやり方だ。たとえば「旅行で不自由しない程度の英語」とか「1年同じ卵料理を食べなくてすむ朝食の作り方」という具合にカリキュラムが組める。目的を設定すると、その目標を達成するために必要な道具立てが決まる。こうしたまとまりをバンドル(束)と呼ぶ事にする。
たとえば革細工を作る「男の革小物入門」という架空のインストラクションを見よう。このやり方は地図の作り方に似ている。最初に目的地を教え、地図を提示して、実際に歩いてもらうのだ。

  • イントロダクション:革は昔から工芸に使われていた。革細工のやり方を覚えると、市販されている高価なアクセサリーと同じようなものも案外簡単に作る事ができる。また、世界に一つだけしかないオリジナルのデザインも簡単に作ることができる。イントロダクションでは学習のゴールが設定される。
  • 概要:革にはいくつかの種類があり、使い分けられている。また、革には塗装が施されている。革の部分によって繊維の伸びやすさが違い…。こうして学習者の頭の中に最初の地図を作る。
  • ツールボックス:まず最初に習得すべきは、革を切る、編む、穴をあける、革を張り合わせる、縫うという動作だ。これを覚えたら、ボタンやスタッズを付けるという作業を覚える。このために必要な道具は…。さらに、学習者が地図を持って歩く方法を教える。

いよいよ地図を片手に歩いてみる。革細工の本は簡単なプロジェクトを提案する。

  • まず、革に慣れるために、携帯ストラップを作ってみよう。携帯ストラップを作るために必要な技能は…。

もちろん全ての人が革のストラップを作りたいと考えているわけではないだろうが、ストラップ用の革ひもは入手しやすいし、必要な技術も少ない。だから、学習者は簡単にストラップを作る事ができる。一回散歩の楽しさを覚えたら次の挑戦は小さなポシェット作りだ。ポシェットは縫い込みの作業が必要なのだが、ボタンを付ける必要はない。ポシェットプロジェクトで学習者は革の側面を磨いたり、縫いひもをロウ引きしたりという基本的な作業を覚える。
こうしていくつかのプロジェクトを通して、学習者は当初の目的である革小物の作り方を覚えて行く。ここに業務用革カッターやミシンを使った作業が出て来たらどうなるだろうか。学習者は学習を継続できず、それ以上の学習を中断してしまうだろう。このようにバンドルは必要なツールボックスを定義するのだが、同時にツールボックスがバンドルを拘束する。だからこの本を読んでも革細工職人として生計を立てて行くことはできない。一方で全ての人がプロの革細工職人になりたいと思っていないのも確かだ。

インストラクションの課題1:サポートシステム

エラー処理は難しい

革小物の作り方は「完全インストラクション」だ。目標と道具立てが明確に結びついている。そして各カリキュラムで実行しなければならない行動も明確に理解できる。これはインストラクションの設計者が地図をつくりながら散歩コースそのものをデザインしているからだ。しかし、いずれ2つの問題が起こるだろう。本に書いてあるプロジェクトを全部こなしてしまって、何か新しいものをつくってみたくなるかもしれないし、問題にぶち当たるかもしれない。
新しいものを作ってみたい人は次のバンドルを探せばいい。しかし、サポートシステムは「想定外」の動作なので標準化が難しい。何が分からないかは学習者によって異なるということは、インストラクションの設計者が地図を持っていないということだ。ある人はツールの使い方に問題があるのかもしれない。またある人は地図が作られていないかもしれない。またある人はバンドルにない作業をやろうとしているのかもしれない。さらにインストラクションを誤解したまま学習してしまった人もいるだろう。エラー処理を定義するのは難しく、個別に覚えて行くしかないのである。
最初に行なうべきことは、想定外の行動をより多く集めることだ。それをまとめて情報として提供する。こうした情報は必ずしも体系化されていないのだから、いくつかの手法で検索用のインデックスを作るか、人力で必要な情報を探してやる必要がある。人によって検索用語が異なっているかもしれない。

インストラクションの課題2:不完全インストラクション

学習環境を全て定義できないこともある。

たとえば、ニュース番組は人々に行動の指針を与えるために提供されている。しかしながら、バリエーションが豊富に提供されると、もともと発信者が持っている地図と受信者が持っている地図がずれてくる。場合によっては受信者はまったく地図を持っていない場合があるのだが、発信者はそれに気がつかない。また受信者はどこで地図を得てよいかが分からない。地図がないのに、散歩コースばかりが提案されるのが「不完全インストラクション」だ。この問題の原因はニュースの発信者がニュース全体のデザインを担っていない事だ。どういう情報を持っていれば、新聞が理解できるのか、つまりどういうツールボックスが必要な情報バンドルなのかをニュースは定義していない。不完全インストラクションは、インストラクションの担い手がすべての情報を管理できないとき起こりやすい。不完全インストラクションの担い手は、受け手が持っている地図や目的地を確認しつつ、できうる限り明確なインストラクションシステムを再構成する必要がある。

インストラクション情報構築

今回のシリーズでは、インストラクション情報の構築について見てゆく。インストラクション情報構築について考察すると、たとえばこういうことができるようになる。

  • バラの育て方についてのウェブサイトを作ったり、本を書いたりすることができる。
  • 英語の勉強方法についての情報教材を作る事ができる。
  • 家電の操作マニュアルが作れる。
  • 新人教育のためのマニュアルを作る事ができる。

インストラクションとは「〜のやり方」という意味だ。たとえば、「モテるための服装改造」もインストラクション情報だ。そこからさらに発展させてゆくと「ファッション雑誌」全般もインストラクション情報ということになる。しかし、卵料理の作り方、英語の話し方、ファッション雑誌には、なんら共通点がないように思える。つまり、卵料理の作り方にはあって、ファッション雑誌にはないなんらかの情報があるのだろう。
このインストラクションの方法を構造化することで、次のような検討ができるようになる。

  • 本や雑誌に何を振り分けて、ウェブでどんな情報を与えることができるかを検討することができる。これを突き詰めて行くと、そもそも本にはどんな独自性があるのだろうかということを考えることができる。本当に紙の本はなくなってしまい、すべてが電子書籍に置き換わってしまうのだろうか。
  • ファッション雑誌の編集者は、卵料理の教材からヒントを得て、新しいコンテンツをつくることができるかもしれない。ニュース番組はファッション雑誌と同じ構造を持っているのだが、どうして池上彰さんがもてはやされているのかが分かる。
  • 「瓶入りオレガノ」のマーケティング担当者は、自分たちの製品を売るためのコンテンツを、独自で企画することができる。瓶入りオレガノは、トマト料理や卵料理にとってどのような意味を持っているのだろうか。

さて、インストラクションに入る前に、現在のウェブサイトやオンラインコミュニケーションの現状について見て行こう。流行したTwitterなどはアンビエントと呼ばれるようになった。アンビエントとは環境という意味だ。アンビエントを理解するためには、猿の群れについて観察してみるといい。敵を発見した猿は警戒音を出す。警戒音を聞いた猿は理性的な判断をする前に逃げる。群れが逃げはじめると動かなかった猿も後を追う。その内猿の群れは全体で警戒音をならしながら逃げて行くのである。このように社会性を持った動物は、他者の動向をモニターしながら暮らしている。オンラインコミュニケーションは、論文のようなインストラクション情報から始まったのだが、情報量が膨大になるにつれて、アンビエント情報を扱う事ができるようになった。
Twitterではタイムラインを通して他人が何に関心を持ち、どんな反応をしているのかを知る事ができる。個々の情報には意味がなく、情報の総体に意味があるのがアンビエントということになる。ソーシャルメディアにはこうしたアンビエントとしての特性がある。
しかし、ソーシャルメディアの特徴はアンビエントだけではない。インストラクション情報上でも重要な情報を持っている。インストラクション情報を扱う人は、アンビエントとしての特徴を理解した上でソーシャルメディアを組み合わせることができるようになるだろう。
今日のこの情報は、本でいうと「序章(Preface)」にあたる。全体を動機付け、どのような読者の関心をひくかを定義する部分だ。しかし、通常、ブログ記事にPrefaceが置かれることはない。ブログ記事は短時間で読まれることを前提としている。滞在時間が5分を越えることはないだろう。インターネットの記事はこのように断片化された情報を扱うことが多い。
これは必ずしもオンラインコミュニケーションが断片的な情報を扱うのに長けており、本は長時間読むのに向いているということではない。しかし、実際にはそのような使い分けがされることが多いのだ。
たとえば、ホームセンターでミニバラを買う。すると、顧客は本を買わずに、インターネットで「ミニバラの育て方」を検索する。いくつかのサイトがヒットする。ここで必要な情報を得る。肥料が必要だということが分かるとアフィリエイトリンクをたどって入手する。ミニバラを育ててしばらくするといろいろなトラブルに見舞われる。もしくはいろいろなミニバラを集めてみたいと考えるようになる。こうなると本の出番である。
本のよいところは、ミニバラについて体系的に学ぶ事ができるという点だ。大抵のバラの本は季節ごとに記事が並べられている。これは植物を育てるための作業が季節に固有のものだからだ。最後に基本的な情報(たとえば、肥料や土の種類など)が並べられている。しかし、これだけでは本のボリュームが足りないので、よく売られている有名なミニバラが図鑑としてつけられている。
ここに本の特質が表現されている。

  • 本はリニアプレゼンテーションである。つまり、最初から最後まで読み進めて行く。リニアプレゼンテーションにはいくつかの利点がある。まず必要な情報を網羅することができる点だ。たとえば、インターネットで調べると剪定の情報が漏れるかもしれないのだが、本は最初から最後まで読み進めてゆくことが必要なので、情報に漏れがない。
  • ある程度のボリュームが必要である。物流コストがかかり、取次店を通すので、ある程度の価格で販売する必要がある。ミニバラ図鑑を付け加えたり、バラの育て方の一部としてミニバラの育て方が解説されていたりするのはこのためだ。

ミニバラの育て方は、もうすこし大きな分野の一つのセグメントを形成している。バラの育て方の一部であり、ガーデニングの一部でもある。ミニバラ、バーベナ、アイビーと同じような情報を集めて行くと花壇を作る事ができる。花壇を作るためにはレンガを扱う必要がでてくるかもしれない。ミニバラは花壇を作るための一つの要素だ。
花壇を作ることは一つの目標だ。この目標に沿って要素を集める。要素を集めて行くと共通する部分がでてくる。土の作り方や肥料のやり方などは一つにまとめることができる。ミニバラとハーブでは土の作り方が違うのだが、これをいちいち覚えるよりも基本的な土の作り方を覚えてから、ハーブ用のアレンジを覚えた方が早い。
このように、ある目標を最初に設定してから、その目標を達成するための要素を集めていく方が効率的だということがいえる。目標は、個別の要素を束ねるための約束事ということになる。ここでは「バンドル」と呼ぶ。束という意味だ。
バンドルには、様々なものがある。たとえば「イングリッシュガーデンを作る」はバンドルだし、「簡単に育てられる植物だけで気軽にベランダーガーデンを作る」もバンドルだ。バンドルは限られたセットの要素からなっている。イングリッシュガーデンを作るためのセットは、芝の育て方、レンガの積み方、イングリッシュローズの育て方などだ。この要素一つひとつをツールボックスと呼ぶ。バラの育て方は「ツールボックス」だ。この道具箱の中には肥料のやり方や剪定の仕方などの個別の要素がつまっている。バンドルは、作業レベルを定義したり、スタイル(イングリッシュ風の庭やシノワズリの庭)などを定義する。
ツールボックスを前提にバンドルを組む事もできる。たとえば「直線縫いだけで作るスカート」のバンドルでは、曲線や立体裁断を行なわない。曲線縫いは難しいので、限られた道具だけで、目標を達成することができるように作られている。
このバンドルが優れていると、その本には値段をつけることができる。つまり情報が希少でなくても、バンドルの仕方によっては価値を生み出すことができるのである。本には「編集力」が必要だというのは、情報のバンドル方法には価値があるというのを出版業界的に表現した言葉なのだ。
いったんバンドルが形成されると、そこにスタイルが生まれる。一度スタイルが形成されると、そのスタイルに沿って情報を足して行くことができる。「基本のトマトソースで作る簡単料理」というバンドルで本を出版する。その読者向けに基本のトマトソースで作る料理のレシピをウェブサイトで案内することができる。
このレシピはツールボックス程のオリジナリティはない個別の要素だ。これをバリエーションと呼ぶ。バリエーションは無料で公開してもよい。そもそもの本を売るための宣伝になるからだ。本だけでなく追加素材(たとえば乾燥オレガノなど)を売る事もできる。
基本的なインストラクション情報のツールボックスは、ツールボックス・バンドル・バリエーションだけだ。これを組み合わせることで情報の設計ができてしまうのである。この詳細を具体例を見ながらさらに考察してゆく。