フリーライダー討伐と世界で頻発するデモの関係について夢想する

今回の「政治家が嘘をつく」というエントリーはリツイート率が高かった。肌感覚に合致しているところがあるのだろう。だがこの嘘をどうやって防げばいいのかという知見は示されていない。競争から協力へという流れを作るためには一体何が足りないのだろうか。最後に「孤独と共感」で協力について読んだ。無私は最高の戦略というタイトルが付いている。これを読んでいて意外なところに着地した。それは破壊的なデモの正当性である。一昔前ならかなり危険思想として叩かれたのではないだろうか。




人間は親族だけでなく知らない人にも手を貸すことが知られている。極めて未開な文化でも全く協力のない文化は見られないので、人間は遺伝的に協力する性質備えているのではないかと考えられる。

しかし、政治哲学の分野では利己性が協力を生むという説が有力だった。マンデンヴィルは「蜂の寓話」という著作で「個人の悪徳が公共の利益を支えている」と主張した。マンデンヴィルは自分の利益のために動けば考えうる最大の善が得られるので人間がエゴイズムをやめたら社会は崩壊するだろうとさえ主張した。

19世紀の経済学者と社会科学者はホモエコノミクスという仮説を立て、人間は自分自身の利益を最大にするために行動しているのだろうと考えた。そして、進化生物学者もその考えを支持している。相手に協力してやる代わりに見返りを期待したり、自分の評判を上げるために善行を積んで見せるというわけである。こうして人々は協力を説明しようとしてきた。

ところが、実験行動学で違った知見も見えてきた。人は懲罰を与えるとき自分の利得を犠牲にすることがあるというのだ。これは個人の功利最大化仮説では説明ができない。

240名を対象にして20ドルを賭けた実験を行った。それぞれが手持ち資金の中から投資を行い投資金額の60%増しを均等に配る。実はこのゲームではフリーライダーを作っている。つまり自分は出資しないで見返りだけを受け取ることもできるのだ。フリーライダーは持ち出しがないので純粋にトクなのだ。

人々はフリーライダーを抑制するのにどれくらい犠牲を支払うのだろうか。今回はフリーライダーを罰することができるというルールを作った。フリーライダーが出てきたら懲罰するかどうかを尋ねるのである。この時参加者はコストとして配当から1ドルを支払う。1ドルでフリーライダーの資産を3ドル減らすことができる。プレイヤーはその都度変わるので懲罰にはフリーライディングを抑制する効果はない。ゲームはメンバーを変えて6ターン行われる。

フリーライダーを罰しても支出をした人の利益が増えることはない。それでも80%が少なくとも一度はフリーライダーを罰したそうである。公益に平均以上の投資をした人ほど他人を罰する傾向が強かったそうだ。罰せられたプレイヤーはそのあと平均で1.5ドルほど投資を増やすようになったという。

次に投資額を知らせた上で罰則規定を設けないゲームを作った。この場合95%の人が公共への投資額を控えるようになった。最終ラウンドでは60%が投資をしなくなってしまった。

最後にメンバーを固定して10回ゲームを行った。メンバー入れ替えがあった場合よりも公共への支出は50%増えたという。

結果的に、人は懲罰効果がなくてもフリーライダーを罰する傾向があり、フリーライダーが野放しになると協力を抑制するということがわかる。そしてフリーライダーが社会的に抑制できるということがわかると協力が促進される。

この文章は個人主義の欧米人が書いているので、フリーライダー抑制はもともと遺伝的に組み込まれた行動様式なのだろうと類推しているようである。日本のように相互監視が厳しい社会ではまた違った感想を持つ人もいるかもしれない。日本ではフリーライダーは文化的に極めて嫌われるし、学校の集団生活を通してそのことを叩き込まれる。

文章は、もともと人間には自発的にフリーライダーを罰する遺伝的(生得的)傾向がありフリーライダーが排除されるのを見たり経験することによって、群れからフリーライダーが排除されて協力が促進されるのではないかというような結論を出している。これは神の見えざる手の補正版である。

この文章で重要なのは「協力」が極めて明快に利得を増やすことが理解されているという点である。この場合フリーライダーを取り除くことで人々は公共にアクセスしやすくなる。ところが現実世界では協力をしても利得が得られるということは明快ではないし、誰がフリーライダーなのかということも実はよくわからない。ルールが明快でないということはつまり情報が明快でないということなのだから、コミュニティを整理するか情報を明快にすることでフリーライダーの問題は解決され、結果的に協力が促進されるはずである。

日本の場合文化的にフリーライディングを抑制する傾向が極めて強い。現実社会ではメンバーが固定されているので懲罰がしやすいからだろう。今でもテレビで不倫や脱税などの逸脱行為は極めて強く排除されてしまう。ところが文化的にフリーライディング抑止効果が高すぎるため、それを超えてしまうと社会的な対処が極めて難しくなる。するとゲームは一転して「持ち出しをしない」というルールになる。現在では日本人は政治に口出しせず、法人は税金を支払いたがらない。人々は消費を控え自己防衛に走り、それが結果的に経済を縮小させている。

こうした環境は何も日本にだけあるわけではないようだ。実際にはSNSは協力を促進する方向ではなく競争のための議論を促進し協力を阻害している。人々はお互いの話を聞かなくなり協力どころではない。破壊が先行する中SNSが現在目指しているのは構造の破壊である。世界各地ではデモが起こるようになり手法がSNS経由で拡散している。今デモが起きているところでは「協力」が生きているのだが、それは生産ではなく破壊の方向に向かう。

2019年10月は世界で同時多発的にデモが起こった月として記憶されることになった。多分今の経済構造は人々が把握できるより大きすぎるのではないかと思う。戦争によって経済構造が破壊されることがなくなった現代において、それに変わる何かが生まれてきているのかもしれない。それは法的にはいけないことなのだが、善悪を超えたところで何かが起きているのかもしれない。

日本社会はこれまでコミュニティの抑止効果が高かった。お互いがお互いを監視する体制なのでいざという時に協力して破壊するという体制が作れない。このため日本は穏やかな衰退と漠然とした不安という道をしばらくは歩み続けるのかもしれない。

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嘘つきが信頼される時

今回は安倍政権やトランプ政権が嘘をついているのに支持がなくならないのはどうしてなのかという話である。




孤独と共感」を読んでいる。これまで勝つための議論について読み、次に自己愛と攻撃性について読んだ。次は嘘についてである。今回は嘘つきの方が正直な人より信頼される可能性があるという結論なのだが、科学論文は一読しただけではよくわからない。そのため書きながら整理している。

まずは、American Sociological Review 2018年2月号に掲載されたという実験の話が出てくる。424人を被験者としたオンライン調査である。架空の大学の自治会の選挙の話を紹介して反応を聞いている。

最終的な質問は「現職に対抗する自治経験が全くない新人を支持しますか?」である。

まず、二つの異なるストーリーを与える。前者では新人は正直だが、後者では新人は嘘つきである。したがって普通に考えると新人は信頼されないであろう。

  • 新人が現職が提示したデータが「査読付き学術誌に掲載されていない」と指摘した。
  • 新人が査読付き学術誌に掲載されているのに掲載されていないと嘘をついた。新人は研究チームのメンバーに性差別的な発言をしていたこともわかった。

次に、これらの2群にそれぞれ違う評価を与えた。全部で4グループになる。

  • 現職には正当性に疑問がある。
  • 現職は立派な人間である。

さらに無作為に二つの異なる条件を与えた。全部で8通りの組み合わせができる。

  • あなたは現職と特性が近い。
  • あなたは新人と特性が近い。

現職に問題があり新人候補と性格が近いとされた人は、新人が正直である時よりも嘘つきで女性蔑視であるとした時のほうが支持率が高かったそうだ。つまり「自分を守ってくれる嘘は良い嘘であり、嘘をつかない人よりも頼れる」と考える傾向があったということだ。ただこの調査はインターネット調査でありこれをそのまま信頼していいのかがわからない。

次に、ペンシルバニア大学の政治学者Diana Mutzが「自分の過去の研究と合致する」と指摘したということが書かれている。ムッツの研究チームはトランプ大統領の地球温暖化がデタラメだという主張が虚偽であると示し、402名の被験者を調べた。

トランプ大統領支持者はこれをエリートへの挑戦と捉えたそうだ。つまり、トランプ大統領支持者はこれが嘘であると示されてもなおトランプ大統領を支持したことになる。トランプ大統領を信頼したのか多少の嘘は構わないと思ったのかはわからない。最初の実験と合わせて考えると「トランプ大統領は良い嘘つきであり自分たちの役に立つ」と考えていたことになるが、独立した実験なので関連付けて良いかはわからない。

前回「人が勝つための議論に耽溺することがある」という研究を紹介した。ここから勝つためには手段を選ばなくなるだろうなというくらいのことはわかる。相手が信頼できなくなると「こちら側も防衛のために嘘をついてもいいのだ」と考えるようになるということである。

人々は協力するためにも議論するのだが、協力関係が成り立たないとなると相が変わるのだろう。人々は勝つため相手の話を聞かなくなるばかりか嘘をついても構わないと思うようになるのである。ただ、協力すればより良い成果が得られるが嘘と競争からは何も生まれない。つまり、コミュニティが崩壊しかけているからこそ議論が競争的になり、さらにそれがコミュニティを崩壊させるということになる。まさに割窓的な社会である。

実際にトランプ大統領には岩盤支持層と呼ばれる人たちいる。アメリカのメディアはトランプ大統領の嘘を暴き続けているのだがそれを自分たちへの攻撃と受け止めているのかもしれない。つまりトランプ大統領は自分たちを守るために良い嘘をついていると受け止めて、それ以外の声に耳を傾けなくなってしまうのである。ただ、そこにはエリートが自分たちを搾取しているという被害者意識がある。

Twitterで野党は安倍政権の嘘を攻撃し続けている。野党は実はこれも無意味かもしれないということにそろそろ気がついた方がいい。安倍政権は嘘をついたり情報を隠蔽しているからこそ支持されているかもしれない。これが成り立つのはつまり有権者たちが「野党は自分たちを傷つけて貶めようとしている」と考えているからなのである。野党が信頼されていないことがそもそもの原因なのだ。

今回は協力と競争というテーマで3つのお話をご紹介した。複雑で理不尽そうに見えるネット言論なのだが実は割と簡単で合理的なルールの組み合わせで成り立っているのかもしれない。

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自己愛に潜む暴力

孤独と共感」に「自己愛に潜む暴力」という記事があった。人はなぜ虐待や言葉による暴力を繰り返すのかについて考察している。つまりTwitterで意見が異なる人を攻撃するのはどんな人なのかというような話である。




相手に暴力を振るう人は自己評価の低さに悩んでいると教科書には書いてある。だが、カウンセラーなどの実務家はそれには当てはまりそうにない事例があるとうすうすは知っている。心理学では有名な「自己評価の低さが暴力につながる」という周知の事実を科学的に解明した人は誰もいないのだそうだ。

この論文の著者R.F. バウマイスターは自己評価が脅かされた人が暴力を振るうようになるというegotism(脅かされた自己中心主義)という仮説を考えて実験してみることにした。自己評価が高い人が下方修正を迫らると防衛のために相手に殴りかかることがあるという仮説である。

ジョージア大学のカーニス教授が1980年代に行った研究では自己評価が高くなおかつ変動がある人に高い攻撃性が見られたという。高くて安定している人は攻撃性が最も低く、もともと低い自己評価の人は中間の攻撃性を持つという。犯罪者の中にも自己評価が高い人たちがいるし、チャイロットの著作「Modern Tyrants」は誇りが高く当然受けるべき敬意が払われていないと考える国の間で戦争が多発すると指摘している。さらに今まで培ってきた高い自己評価が破産やスキャンダルなどによって損なわれると自殺(これは自分に対する攻撃である)を選ぶ人もいる。

経験的に自己評価の危機が攻撃性をうむという事例はあるが、対照実験がないのでこれをもって「高い自己評価が攻撃性を生む」という仮説を証明することはできないだろう。

そこでR.F. バウマイスターはまずナルシシズムのある人と攻撃性について調べてみることにした。ナルシシストは極めて高い自己評価を持っている。自己愛(ナルシシズム)は肥大した根拠のない自己評価と言ってよく、したがって他人から「正当に」評価されないことがある。ナルシシズムについてはタルサ行動研究所のラスキンの指標を用いた。

  1. 肥大した誇大な自己観を持つ。
  2. 偉大さを示す幻想にとらわれる。
  3. 自分は特別なので特別な人間しか自分を理解できないと考えている。
  4. 過剰な賞賛を求める。
  5. 根拠のない過剰な権利意識を持つ。
  6. 他人を自分の目的のために利用する。
  7. 他人の感情に共感できない。
  8. 嫉妬しやすく、嫉妬されていると思い込んでいる。
  9. 傲慢で尊大。

自己評価と自己愛(ここでいう自己愛というのはナルシシズムのことである)は別の指標なので二つとも調べた。自分が得意分野を持っていてそれを自覚していても傲慢にならない人もいるからである。そのあとで小論文を書かせ「他人が評価した」という触れ込みの良い評価と悪い評価を渡す。さらにその評価をしたちいう人に会わせる。そのあと「反応時間を調べる」と嘘の説明をして大音量を聞かせる実験をした。大きな音を出すと相手はひるむので攻撃性の指標になるのだが、実験者には「反応時間を調べているのだ」と行動を正当化する説明が与えられている。

予想通り低い評価を聞かされたナルシシストがもっとも攻撃的になった。ナルシスストでない人の攻撃性は低かった。さらにナルシシストに別の相手(評価をした相手ではない)を当てると彼らは攻撃的にならなかった。つまり、ナルシシストは自分の評価を低めた人を攻撃するが誰でも攻撃するわけではないのだ。

ナルシシストはいつでも攻撃的になるわけではない。それが脅かされていると考えている時だけ暴力的になるのである。

ナルシシズムが条件付きで暴力を生むとすれば、自己評価が低い人を無理に褒めるのは危険かもしれない。自己評価を肥大させ自己愛的な傾向を強める可能性があるからである。根拠がない自己評価を与え続けられた人は常に承認を求め続けるようになるだろうし、そのバブルが弾けた時相手に対して攻撃性を向けるであろうということになる。

自己評価を肥大させるのは親などの周りの大人かもしれないし集団なのかもしれない。

いじめなどいろいろな分析に使えそうな実験だが、例えば日韓の関係に当てはめるのは簡単だ。日本人は東洋唯一の優等生として高すぎる自己評価を持っていたのだがバブル崩壊後その自尊心が傷つけられた。しかしそのままでは自己愛が満たせない。そこでそれを攻撃してくる韓国に対して過度の攻撃性を見せるようになったという説明ができる。また、「日本すごいですね」という番組も自己愛の確認である。日本人は自分たちが経済的に成功しているというよりも西洋から注目されちやほやされる存在でいたいのである。

さらにトランプ大統領を支持している白人も、もともと国内の有色人種を見下しておりさらに経済的な成功を手にしていたと考えることができる。彼らが没落したのはAIやオートメーション化のせいかもしれないが、そうとは認められない。だから自己評価が傷つけられた結果として中国やメキシコに攻撃性を向けているのだという説明をすることができる。トランプ大統領のように肥大した自己評価を持っている自己愛の強い人間が彼らの王となり「多少の嘘はやむをえない」として賞賛されているのは実は当然のことなのかもしれない。

こうした議論をどうやって沈静化させられるのかを考えるのは面白いが、彼らを褒めれば自己愛が肥大化するだけだ。かと言って否定すれば攻撃される。そうなると「彼らが求めている餌(賞賛)」はここにはありませんよとするのが一番良い方法に思える。だが、そのためにはスルーする側が安定した自己評価を持っていなければならない。

SNSは脅かされた自己中心主義同士が接触する危険性をはらんでいる。彼らが攻撃性を帯びた競争を始めた時、その議論は全て戦争状態に突入してしまうのである。その議論には落としどころがなくしたがって延々と続くだろう。

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政治議論は勝たなくては意味がない?

別冊日経サイエンス「孤独と共感」を読んだ。コミュニティについて学ぶのに良いのかなと思ったのだが意外と政治関係の話題が多くびっくりした。この本はもともと経営学でいうところのハーバードビジネスレビューみたいなものなのだが、政治的な分断が進んでいるアメリカでは問題意識や危機感を持っている学者が多いのかもしれない。




この中に「勝つための議論の落とし穴」という短い論文がある。議論の仕方によって考え方が変わってしまうという話である。

議論には学ぶための議論勝つための議論がある。アカデミズムの世界では議論は学ぶために行われることが多い。ところが政治的分断が進むと勝つための議論が横行する。勝つための議論では相手を打ち負かすことが議論の目的になっていて、人々は相手から学ぶことに興味がない。以前から政治議論はネットワーク的な島を作るということは知られていたがトランプVSクリントンの時期からアメリカでは二極化した議論が目立つようになった。あまりにも生産性が低く愚かに見えるので「どうしてこうなったのだろう」と考える人も多いのだろう。TwitterやFacebookでは敵対的な議論の方が広まりやすいという。つまり、SNSは議論分断の温床になっているようだ。

数学や科学には正解があることは明確とされるが、イデオロギーはその人の意見であり客観的な正解がない可能性が高い。それでも人々はそこに客観的な正しさを求めようとする。そしてどちらが正しいかを競い合うようになるのだ。

イデオロギーに正解があると考える人は自分と意見が異なる人と生活を共有するのを好まない。「意見が間違った人とは暮らせない」と考える傾向が強いということはこれまでも知られていたようである。「客観性があるだろう」という考え方が「多様性の否認」という行動に結びついている。

  • 考え方→行動

ところが政治的議論で勝つための議論を奨励すると「政治的意見には客観性がある」と考えるようになる傾向があるということがわかったという。つまり因果関係が反転している。実験ではその議論の時間はわずか15分だった。15分で考え方が変わってしまうのだ。

  • 行動→考え方

つまり、勝つための議論は多様性の否認というフィードバックループを生むらしいということがわかる。ここまではわかりやすい。

ところがここから議論が怪しくなる。論文を書いた人は明らかに多様性を重要視している。つまりいろいろな意見を受け入れるためには決めつけを排除すべきだと言っている。これは典型的にリベラルな姿勢だろう。

だが、このあと論文の議論は迷走しているように見える。地球温暖化に懐疑的な人の意見を受け入れる議論をするのは「間違っている」のではないかと言っている。リベラルにとって環境問題は重要でありその科学的知見は明らかだが、もしかしたら科学が地球温暖化の全容を知っているという前提そのものが間違っているのかもしれない。リベラルな人はそこを認められないのだろう。すでに「勝つための議論」に汚染されているということになる。

そこで論文の筆者たちは「温暖化懐疑派を受け入れてどっちつかずの態度」をとるのは間違っているのではないかと逡巡したのち「どちらの議論モードが”最善”であるかを直接的にきめることはできない」とまとめてしまっている。

もともと「なぜSNSが介在する現在の政治議論が決めつけと分断を呼んでいるのか」ということについて何も示唆はないので、どうしたら議論を「正常化できるか」というソリューションは提供しない。知見で終わってしまうというのが経営学との一番大きな違いだろう。

ただ、この短い文章を読むと議論で勝ちたがるのは日本人だけではないということだけは明白にわかる。さらに議論で勝ちたがっている人がいたら勝たせてやったほうがいいのだろうな。洋の東西を問わずどっちみちそうした人たちからは何も学べないだろう。つまり時間の無駄なのだ。

別冊日経サイエンス「孤独と共感」は政治議論がなぜ荒れてしまうのかということを考えるために役に立つ多くの知見が掲載されている。他にもトランプ大統領のような明白な嘘つきが信頼されるのはなぜかということを扱った論文や、いじめ加害者として暴力的になる人はどんな人なのかということを扱った論文がある。

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線状降水帯の恐怖を経験する

千葉市付近に強烈な雨が降ってきた。朝の時点では昼頃にはやむかなあなどと気楽に構えていたが止みそうにない。そのうち不安になってきた。食べるものがないわけではないが「このまま閉じ込められたらどうしよう」などと思ってしまったのだ。今回感じたのは雨の恐怖ではなく情報氾濫の恐怖である。




雨が止まないのはこの付近で雲が湧いて線状に北から南に伸びていたからだ。いわゆる線状降水帯というものである。話には聞いていたが経験したことはなかった。ただ、気象レーダーがあるので雨についての状況はすぐわかる。記録を見るとわかるのだが、それほど壊滅的な雨が降っているというわけではないのだが、それが数時間同じところで降り続けるのである。つまり、雨としては未曾有という感じではない。

雨がひどくなって移動できなくなってから千葉市が警告を出し始めた。自治体が出す警告にはなんとなくアリバイめいたたいものがあるのだがこれが出てから行動しては間に合わない。というよりその時にはもう外には出られない。これが最初の急につながる。つまり「そんなに大変なことが起きているのか」と思ってしまうのである。

ところが止み間が出てくる。そこで外に出て買い物をすることにした。後で冷静に考えたら別に買いに行かなくてもよかったのだが、慌てていると冷静さが幾分失われてしまうのである。ところが雨はそこでは止んでくれない。また降り始めた。

そのうちにTwitterがおかしくなり始めた。千葉駅が浸水したとか佐倉駅が川みたいになったというのである。事前にこの近くは台地になっていて大きな川がないということはわかっていた。それでも不安になる。もともと心の準備が全くできていないうえにあれよあれよという間に情報が氾濫するので追いつけなくなってしまうのだ。

テレビは駅などのメジャーな場所は扱ってくれる。そのうち部分的に都川や村田川といった近くにある川が溢れかけているようだという話が断片的に入ってきた。ところが肝心の周りの状態がわからない。千葉市は近くの川がモニターできるカメラなどを持っていないようだ。そこで「外に出て様子が見たくなってくる」のである。よく川を見に行って流されたという話は聞くし「ばかだなあ」と思うのだが、急激に状況がエスカレートすると合理的な判断ができなくなるのだろう。特に普段の流れが穏やかな中小河川ほどウェブカメラを設置したほうがいいかもしれないと思った。一級河川ではないありふれた都市水路のほうが実は状況が豹変しやすい。

雨が止むとほっとして状況が確認したくなる。この付近には大きな川はないが、県をまたぐような大きな川はあとから水が押し寄せてくる可能性がある。1日遅れで街が氾濫したというような話もあるのだが行政単位ごとに情報を区切っているので全容がわからないのだろう。周囲の状況が確認できる情報システムを整備しない限り、こうした犠牲者はこれからも出続けるだろうと思った。

結果的に5名が亡くなったというところで一旦話は落ち着いた。後になって朝日新聞は千葉と福島で10名が亡くなったと伝えている。あの程度の雨でもまとまるとこれくらいの死者になってしまうわけだし、ある日突然やってくると思ったほうがいい。

朝日新聞には高校生が帰れなくなったという話が出ていたが、千葉市では帰宅困難者も出たそうだ。さらに、成田空港へ行けなくなった人たちもいたようである。外国人は情報が不足して大変だったという話をQuoraで聞いた。いずれにせよ、朝の時点ではそんなことが起こるとは全く予想していなかった。普段から情報が入手できる手段を複数確保したり周囲の状況を確かめたりしたほうがいいが、一旦状況が起きたら逆に慌てないほうがいいのだが、とにかく情報が圧倒的だ。こんな中で平常心でいるのは難しいかもしれないが、それでも落ち着かなくてはいけないのである。

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菅原経産大臣の辞任と安倍政権の無気力

菅原一秀経済産業大臣が辞表を提出した。2500円くらいのメロンを配っていたというような話が出ていたが香典が最終的に駄目押しになったらしい。一連の経緯を見ていて心配になったことがある。それは安倍首相の任命責任ではなく、その無気力さである。




菅原さんの評判は最初から悪かった。Twitterを見る限りは野党や野党支持者はかなり反発していたようだ。だが、世論には全く影響がなかった。政権側はこれを容認だと見ているはずだ。さらに、今回の香典の件は一連の騒ぎが起きていた10月17日に起きている。菅原さんは「自分は守られていて何をしてもいい」と思っていたのだろう。こういう人が内閣にいて「自分たちは何をしてもいいのだ」と考えながら日々の政治を行っていたことになる。恐ろしい話である。

そこで、彼らはなぜこのように気楽な気持ちで政治に臨めたのかという疑問が湧く。

新聞は知っていてこの手の話を書いてこなかった。マスコミが知らなかったはずはないので積極的に扱いたくない事情があったのだろう。テレビはこの間韓国の法相の件を面白おかしく取り上げてきた。自分たちの身の安全を最優先に考える大手マスコミは自国の政権の腐敗は追求しないだろうということを政治家たちは知っているのだ。

今回の一連の辞任劇のきっかけになったのは官邸に嫌われても構わない週刊文春であった。記者クラブに入っていない(つまりお友達ではない)メディアだけが政権を追求できた。だが、その追求も政治的な正しさのためではない。商業主義である。食べるためにやっている。ゆえにこの追求劇が政権のマインドセットに本質的な影響を与えることはないだろう。

安倍首相が菅原さんを積極的にかばうような様子は見られなかった。今回「抵抗」を示さなかったところから菅官房長官との間に緊張関係があるからだろうという観測が出ている。

ところが面白いことに後任の梶原弘志(梶山静六さんのご子息ということで「自民党世襲名誉クラブ」の一員である)も菅派なのだそうだ。菅原さんも菅さんに近しいとされているのだが、後任も菅派ということになれば「通産省は菅さんの領地だ」と認められていることになる。

ここから「安倍首相の任命責任」を問うてもあまり意味がないことがわかる。そもそも有権者は政治に興味をなくしているので「誰が大臣になっても同じだろう」くらいしか思っていないだろう。だから、安倍さんに説明責任を求めない。

もし安倍さんにやりたいことがあれば「それをやるのにふさわしい人」を大臣に選ぶはずだ。だから説明責任が出てくる。ところが安倍さんは明らかに「派閥の言ってくる人を適当に入れよう」としか思っていないのだから、つまりやりたいことがないのではないかと思われる。菅官房長官にやりたいことがあるのかはわからないのだが、少なくとも形式的には説明責任を果たす必要はない。結果的に誰も責任は取らない。

ここからわかるのは、有権者は特に政治家には何も期待しておらず、首相にもやる気がなく誰も責任を取るつもりがないということだ。安倍首相は憲法がやりたいのだろうと思うかもしれないが、そのための布陣を敷いている形跡もない。単にいろいろなところでみんなに「議論しようよ」と言っているだけだ。誰も責任を取らず、どこに行きたいのかもよくわからず、とにかく「今のままでいてくれればあとは何も言わない」という政治環境である。

ここで一生懸命に働いた人が一人だけいる。食べるためにネタが必要な週刊文春のスタッフだ。一生懸命に張り込んだ結果検察も見逃していた事実を掴み現職大臣を辞任に追い込んだ。

ここからやる気のなかったもう一つの集団があったことがわかる。週刊誌が一生懸命張り込めば見つけられた事実を検察が見つけられなかったのはなぜなのだろう。これは検察の怠慢でもあった。だがもはや誰も正義には関心がないのだから検察の怠慢を嘆いてもあまり意味がない。

ここに型通りに「首相の説明責任を問う」という野党の歌舞伎質問が入る。すると与党支持者は安心して「野党は政権批判しかしない」と言い続けることができる。なんとなく政治的な言論に参加できるような気分に浸れるのである。

日本人は自分たちの未来には希望を感じていないが、かといって今は困っていない人が多い。もう考えてもどうしようもないという諦めが静かな堕落を生んでいるのではないかと思う。

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半島国デンマークは本当に半島なのか

Quoraで半島国家についての質問があった。韓国や朝鮮を揶揄するものなのだと思うのだが、面白そうなので答えてみた。




インド、アラブ、イタリア、スペイン、朝鮮などたいていの半島は山脈や砂漠で大陸と切り離されて独自世界を形成している。しかし実際には完全に切り離されているわけではなく時々外国に攻められたりする。朝鮮半島はその典型で中国・モンゴル・女真族などに支配されたが完全に支配されることもなく、結果的に朝鮮人という人たちの塊ができた。

ところが半島にも例外がある。それがユトランド半島とスカンジナビア半島である。ドイツとの間に山脈がないのだ。今の人口規模からみると「なぜドイツに支配されなかったのだろう」と思ってしまう。ところが調べてみるとこれは誤認だった。さらに調べてみるとそもそもドイツ人という塊がないということもわかった。あのあたりは意外と複雑なのだ。

歴史的経緯を調べてみると実は北のほうから大陸に侵攻があったことがわかる。ゲルマン人には北と西という区別がある。理由は諸説あって定まらないそうだが海から大陸をめがけて北方ゲルマン人が降りてきた。彼らはデーン人と呼ばれる。その侵攻が終わったのがデンマークのあるユトランド半島なのである。そしてユトランド半島を追われた西系の人たちが作った国がイングランドだ。玉突き的に周辺に拡大し他民族を征服するということが各地で起きている。

シュレスヴィヒ・ホルスタインからオランダにかけてフリースランドという地域がある。ここにフリジア諸語という英語に近い言葉が残っているという。英語はユトランド半島にいたジュート人・アングロ人・サクソン人がブリテン島で作り出した言葉なので、あのあたりがもともと同じような言葉を話す人たちの世界だったことがわかる。地域はのちにフランス人に支配されラテン語化が進んだ今の英語になった。

ゲルマン語という言葉はもともと意思疎通が可能な言語だったようだが、地域に広がる過程で三方言に別れ、そのうち北(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・アイスランドなど)と英語・ドイツ諸語・フリジア語などの西方言が生き残ったということのようだ。北ゲルマン語は今でもお互いに近しい関係にあるが、西ゲルマン語も共通の祖語があったのではないかという説があるそうである。

ゲルマン語は英語とフリジア語が一つの塊を作るのだが、それと並列して低地ドイツ語と中高地ドイツ語という系統があるという。説によって違いはあるようだが、全部で三系統の西ゲルマン語があるというのだ。英語とドイツ語が違う言語であるというのと同じように、低地ドイツ人と高地ドイツ人の言語は通じ合わないという話もある。

だが、ドイツは国民国家を形成する過程で「高地ドイツ語」を標準語にした。このため低地ドイツ語は単なる方言扱いされており言語としては認められてこなかったという。しかし近年では見直しが始まり低地ドイツ語を言語として認めようという動きが出てきているそうだ。

北ドイツのデンマーク語というエッセイにはその複雑さが書かれている。ユトランド半島の付け根にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にはそれぞれのマイノリティ言語が残っているそうだ。ここでも低地ドイツ語はドイツ語とは別言語として扱われている。

言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語……

132.北ドイツのデンマーク語

朝鮮半島は行き止まりになっており南方の島から来た人たちと北方から来た人たちが混じり合って朝鮮人という民族を形成していったのだろう。韓国には三韓に由来するであろう全羅道・慶尚道方言が残っているが独自言語・独自民族であるというアイデンティティはもうない。

一方でユトランド半島は回廊になっておりスカンジナビアから大陸への通路になっている。また海に着目すれば北海とバルト海の間の回廊でもある。このため複雑な言語と民族が残っている。だからデンマークは厳密には半島とは呼べないのだ。

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皇室外交は政治より一歩先に行っているのかもしれない

新天皇即位礼当日の嵐も過ぎ去り打って変わった晴れになった。いつものようにアメリカのABCニュースを見ていたのだがあいかわらずトランプ大統領の弾劾関係の話から始まりツイートのトラブルの話をしていた。




今回の即位礼にアメリカは大統領・副大統領ともに来日せず代わりに運輸長官がきていた。トランプ大統領は儀礼そのものに興味がないのだろうがペンス副大統領もウクライナ問題で忙しかったと報じられた。アメリカにはお祝い事に参加する余裕はもうない。

トルコのエルドアン大統領はプーチン大統領と会っていたそうである。アメリカが撤退した後にロシアが入ったのだ。トルコもロシアもシリアの戦争を巡りお祝いどころではなかったのだろう。当のシリアは国が揉めているという理由でそもそも招待されなかったそうだ。

一方ヨーロッパは国王や大統領が来ている国が多かった。ヨーロッパの余裕を感じさせる話とも言えるし、日本の皇室がヨーロッパとの関係を重要視してきた表れとも言えるだろう。英語ができる新世代の天皇と皇后が皇室外交を展開する意味は大きいだろう。日本人は少なくともあと一世代か二世代は安心してそれを見ていられる。

今回の即位の礼は国内政治的には「憲法の規定」を守った微妙なやり方が取られていた。天皇は明確に規定された元首ではないので高いところに立って参加者を見下ろすようなことはなかった。本来は宮内庁の職員を臣下に見立てて石が敷き詰められた中庭に集める予定だったようだが雨でそれも叶わない。国内外からの賓客はガラス越しのショールームのようなところに入れられて、古式ゆかしい即位ショーを観察するというような感じになっていた。

もともと中国に対して「国として成り立っている」ということを見せるために行われてきたショーの要素が強い。もともと視線の先には中国があったが、明治維新ではそれがヨーロッパに変わった。

こうした和様装束を天皇が即位式で着用するようになったのは、実は比較的新しく、明治天皇以降のことだ。江戸時代までの長い期間、即位式は中国文化を色濃く反映した古代からの形式がそのまま受け継がれていたため、「礼服(らいふく)」という中国風の装束や冠が用いられていた。

歴史伝える「即位礼正殿の儀」

Quoraで確認したところ産経新聞は単純化しすぎており誤解が生じているという指摘もあった。だが、明治政府が近代化を意識して「脱中華」をアピールしたかったという本筋はあながち間違っていないと思われる。西洋式の晩餐会という別のショーも入るようになった。このため今回も天皇・皇后の着替えはかなり煩雑で大変なものだったようだ。

もともとあった神事・和式に再解釈された中国由来の儀式や服装があり、そこに西洋風の晩餐会が加わっているのだが、西洋風とも中華風とも言えない何かになっている。世界のどこにもないスタイルである。面白いことに皇室はその時々の最先端を真っ先に取り入れるのである。

日本人がこうした柔軟性を持てるのは古くからある伝統は変わらないという自信が裏打ちになっているからだろう。新しいものを取り入れても本質が変わるわけではないという自信がある時、保守は最先端の様式を取り入れることができる。変化を拒否する保守は保守ではない。それは単なる原理主義に過ぎないのである。

最先端が反映されるからこそ、日本の保守の根幹である皇室の儀礼にアメリカが参加しなかったことには特別の意味があるのかもしれない。そのことを実感する記事を見つけた。

ニューヨークタイムズとワシントンポストが日本の前近代性を揶揄する内容の新聞を日本人が紹介している「即位の礼「日本はもうしませんでした?」「安倍超保守政権が支持を得るための儀式」米2大紙は皮肉たっぷり」というものである。

筆者は「安倍政権や皇室、そして日本の国民は、こんな指摘をどう受け止めるのだろうか?」と意味ありげに結んでいるのだが、答えは「受け止めない」だろう。その場に存在感がない人たちに何を言われても別になんとも思えない。

少し前なら「民主主義大国のアメリカからこういうことを言われると体裁が悪い」と思ったのかもしれないのだが「あの失礼な」トランプ大統領を生み出した国の新聞に日本は近代的でないと書かれてもそれほど悔しくもない。我々の意識はそこまで変わってしまっている。日本はヨーロッパと同じように伝統と現代政治を折り合わせている国であり、アメリカはもうそれに参加できる余裕がない。

安倍首相の変な万歳さえなければもっと喜べたのかなあとも思う。安倍首相は明らかに天皇権威を利用したがっているしアメリカの威光にも依存しているのだろう。だが安倍首相の意図はあの万歳程度にしか響かない。祝宴はそれなしでも進んで行くのである。

いずれにせよ政治勢力は日米同盟にしがみつきたいと考え続けるかもしれないのだが、新しい時代は多分それとは違ったものになるのだろう。実は皇室外交のほうが政治より一歩先んじているかもしれないのである。

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令和の即位儀式はなぜ盛り上がらなかったのか

新しい天皇即位の儀式が淡々と進んでいるのだがあまり盛り上がりが感じられない。「なぜだろうか」と考えていたのだが安倍政権がいけないということになった。




なんだか今回はパッとしないなあと思った。最初に考えついたのは背景の違いである。平成の即位儀式ははちょうどバブルで経済状況が良かったこと、かなり長い期間昭和天皇の体調が悪く自粛ムードがあったあとであったことなどそれなりの開放感があった。だが、Twitterを眺めていたのだが特に皇室関係の話題は飛び交っていないようだった。

お天気も悪かった。嵐が通過中であり10月にしては寒く感じられた。途中風も強まり「日本は前途多難なのか?」などと思ったのだが、即位礼正殿の儀で即位の宣誓をするために紫色の帳が開くと天からも光が差し込み人々を安心させた。

フジテレビを見ていたのだがアナウンサーたちのデタラメな敬語に少しうんざりした。普段使い慣れていない敬語が「駆り出されてここにきました」という場違い感を振りまいていた。

NHKは国民みんなで祝う天皇即位というような演出をしたかったらしく、災害被災地宮城県や沖縄県などと中継を結んでいたのだが、全く盛り上がった印象はなかった。集団ではなく個人にインタビューしているので国民がこぞってお祝いしているという映像になっていないのだ。

宮中三殿儀式の映像を見て「皇族の数も減ったなと思った」前回と違って成年皇族の中に男性は1名しかいないのである。ロイターは13歳の一人が皇室の未来を担っていると伝えている。これがうら寂しい感じを増幅させてしまうのである。

権威の徒花である「アンチ」も少なかった。前回の平成の議論では政教分離の観点から、皇室の私的儀式と国家行事との間の切り分けがかなり話し合われた。社会党が勢いを増していた時期だったという事情もあるのだろう。しかし今回はそのような話し合いはほとんど行われなかったようだ。共産党が一連の儀式に参加しないということが粛々と決まっただけだった。NHKはくどくどと宗教行事は告示行事から切り離されていると繰り返していた。前回は「政教分離原則違反」という裁判が多かったそうでそれを避けたいんだろうなあということは伝わってきた。日本にはアンチを遊ばせておく余裕はない。SNS炎上即失敗という社会である。

共産党が指摘するように、即位礼は国民代表を見下ろす形で行われる。また内閣総理大臣ら三権の長と大臣たちも皇族方に恭しく頭を下げる。天皇の即位を臣下がお迎えするという形式をとっているのは明白である。ところが出てくるのは内閣総理大臣だけである。見ている時にはよくわからなかったのだが後々考えると多分これが盛り上がりに欠ける理由だと思った。

もし安倍晋三という人が巷間言われているような支配者然とした人なら、天皇の筆頭家臣として皆を従わせるような映像を作ったはずだ。アリーナみたいな舞台を作って監修が居並ぶ中で万歳を叫んでもいいし部下を階位別に並ばせて自分だけがお側に近寄ればいい。イギリスでもウェストミンスター大聖堂には長い観客席とひな壇があるし、確か韓国の王宮もそんな感じになっていた。

また別の国では軍の意向を背景にした王様がわざわざ「国民がたくさんいる中」で即位することもあるだろう。これは逆に力による支配を感じさせない演出になっている。

つまり、こういう映像を作るためには他人から見て自分がどう映るかということを意識しなければならない。安倍首相にはそれができなかったのだろう。

だが招待客はガラス製の陳列ケースのようなところに入れられており「たくさんの人がお祝いに来ましたよね」ということを見せているだけだ。天皇と招待客の関係がわからないように巧みに映像が作られているのだ。

安倍首相が国民を巻き込んで権力誇示しなかった裏には宮内庁スタッフや皇室の方々の配慮もあるのかもしれないのだが、安倍晋三さんの「他人が見えずとりあえず自分だけお父さんとお母さんに褒めてもらいたい」という個人の資質が今回の盛り上がらなさを作ったと考えることができるだろう。安倍首相としては天皇の前に進み出て皇族が居並ぶ中で万歳することだけが念頭にあったのだろうと思える。

同じことは多分安全保障にも憲法議論にも言える。安倍晋三さんは多分トランプ大統領やオバマ政権時代のジャパンハンドラーが怖かったから安保関係で無理筋の法案を通したのだろうし、多分おじいさんの岸信介元首相に褒めてもらいたいから憲法改正をやりたいと考えているのだろう。その視線には国民は入っていない。だが、皮肉なことにそれが日本の平和を守っている。つまり独裁者として人を巻き込む才能がないゆえに日本人はそれぞれ好き勝手な話題にのみ注目していられる。だから今回の日本人は「国体」に大した関心を向けることはなかったのである。

翌日のニュースは「外国から偉い人がたくさんきたね」という話と「古くから伝わる伝統がすごいね」というような話になっていた。ちょうど世界遺産の番組を見ているような感じである。天皇権威が歴史領域の話題として扱われていることになる。まあ、健全といえば健全である。下手に国威発揚に使われるよりは盛り上がらなかった方が良かったのかもしれない。

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神戸市のいじめ問題に見るリベラルの劣化

テレビ朝日で神戸市のいじめの問題を扱っていた。昔からいじめ気質あったという男性教師の問題から始まったのだのだが、なぜこのような人をスクリーニングできなかったのかというところに議論が及んだとたん問題の深刻さが浮き彫りになった。最近は先生の志望者が少ないので不合格が出せないのだそうだ。最近のワイドショーは誰かを叩くつもりで始めても日本社会の衰退を直視させられるという構造になってしまっている。




さらに教師の間の格差もいじめの原因になっていたようだ。「先生の質が落ちている」というバッシングがあった問いに「一般社会のように成績をつければいいのではないか」として制度を弄ったのが裏目に出ているようだ。成績の良い先生が悪い先生をバカにするようになってしまったというのである。

成績をつけるのは上司なので、最終的には校長先生の資質によって採点基準がまちまちになる。安倍政権下で優秀なはずの忖度官僚が政治に引き上げられてダメ議員に闇落ちするようなことがあるが、おそらく同じようなことが教育現場でも起きているのではないかと思われる。

バッシングのみでろくな対策を取らず教育の専門家と政治家に改革を丸投げしたツケがここにでてきている。だが、長年蓄積した問題なので複合的すぎてどこから手をつけていいのかわからない。今までソリューションを出してこれなかったのだからこれからもソリューションは出てこないだろう。

ところが番組としてはソリューションめいたものを出さなければならない。最後には尾木直樹さんに「専門家を集めて分析させ提言を出すべきですね」とまとめてさせていた。「ああまた同じような過ちが繰り返されるんだろうなあ」と思った。

教育現場は複合的な問題を抱えている。その根本にあるのは社会の援助不足である。社会は失敗には厳しいが援助はしたがらないという目線で教育現場を見ている。だから失敗すればするほど世間の目は厳しくなる。これは予算不足という衰退が生み出した副次的な症状だがそれが改善する見込みはない。政治が有権者を無視して自発的に援助を決めるまで日本の教育はこのまま荒れ続けるだろうが、自民党は自分たちの考えを道徳として押し付ける以外具体的なアイディアは持っていないように思える。

もう一つ「触れられなかった」面白いことがあった。それが革新市政と神戸方式についてである。テレビ朝日だから触れないのかそれともテレビ局がこの問題を政治と絡めたくないから触れないのかはわからない。

神戸市は1960年代から1970年代に革新市政となったらしいということは前に書いたのだが、Quoraでは阪神大震災の時に革新市政だったから自衛隊の援助をなかなか要請しなかったのだという話を聞いた。怒っている人も多いようだ。阪神大震災当時は村山政権時代だったので少なくともその頃まで革新市政が続いていたということなのかもしれない。その後革新市政がどうなったのかはよくわからない。

革新市政の全てがいけないとは思いたくないのだが、今回の件に関しては学校現場の性善説への過信は問題の根幹の一つだと思う。共産主義が崩壊したのは「人が権力を握れば独占したがる」という単純なことを忘れていたからだと思うのだが、リベラルは全般的に性善説を信じすぎチェックや抑え込みを過度に嫌いすぎるところがある。人は善人でも悪人でもないと思う。それは結果論である。

ただ、今回のプレゼンテーションを聞いて、確かに経済発展期には自主性を重んじる性善説の方が良かったのかもしれないなあと思った。かつて先生は聖職でありバブル崩壊後には狭き門でもあった。こうした時代には「自発的な改善」が成り立つ。ところが環境が悪化してきてしまうと「社会からの援助のない閉ざされた空間で行われる個人間の闘争」に変わってしまうのである。つまり、日本はもうリベラルを包摂する力がない落ちぶれた国になったのかもしれない。

テレビ局はこの問題を扱わないだろうが、多分神戸市では問題になっているはずである。社会が余裕を失い失敗を許さなくなると、かなり強烈な揺り戻しの動きが広がるだろう。多分報道されないであろう「改革」は教育現場への不信に彩られた改悪になってしまうかもしれない。

今回の問題は考えてみれば4人の教師の不埒な行動の話に過ぎないはずだ。だが、ソリューションを導き出そうとすると、様々なパンドラの箱が空いてしまう。問題がゴミ屋敷のように積み上がっている。だから、我々視聴者は誰かを叩いてそこそこ満足したらそのあとの解決を丸ごと諦めてしまうのである。

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