菅原経産大臣の辞任と安倍政権の無気力

菅原一秀経済産業大臣が辞表を提出した。2500円くらいのメロンを配っていたというような話が出ていたが香典が最終的に駄目押しになったらしい。一連の経緯を見ていて心配になったことがある。それは安倍首相の任命責任ではなく、その無気力さである。






菅原さんの評判は最初から悪かった。Twitterを見る限りは野党や野党支持者はかなり反発していたようだ。だが、世論には全く影響がなかった。政権側はこれを容認だと見ているはずだ。さらに、今回の香典の件は一連の騒ぎが起きていた10月17日に起きている。菅原さんは「自分は守られていて何をしてもいい」と思っていたのだろう。こういう人が内閣にいて「自分たちは何をしてもいいのだ」と考えながら日々の政治を行っていたことになる。恐ろしい話である。

そこで、彼らはなぜこのように気楽な気持ちで政治に臨めたのかという疑問が湧く。

新聞は知っていてこの手の話を書いてこなかった。マスコミが知らなかったはずはないので積極的に扱いたくない事情があったのだろう。テレビはこの間韓国の法相の件を面白おかしく取り上げてきた。自分たちの身の安全を最優先に考える大手マスコミは自国の政権の腐敗は追求しないだろうということを政治家たちは知っているのだ。

今回の一連の辞任劇のきっかけになったのは官邸に嫌われても構わない週刊文春であった。記者クラブに入っていない(つまりお友達ではない)メディアだけが政権を追求できた。だが、その追求も政治的な正しさのためではない。商業主義である。食べるためにやっている。ゆえにこの追求劇が政権のマインドセットに本質的な影響を与えることはないだろう。

安倍首相が菅原さんを積極的にかばうような様子は見られなかった。今回「抵抗」を示さなかったところから菅官房長官との間に緊張関係があるからだろうという観測が出ている。

ところが面白いことに後任の梶原弘志(梶山静六さんのご子息ということで「自民党世襲名誉クラブ」の一員である)も菅派なのだそうだ。菅原さんも菅さんに近しいとされているのだが、後任も菅派ということになれば「通産省は菅さんの領地だ」と認められていることになる。

ここから「安倍首相の任命責任」を問うてもあまり意味がないことがわかる。そもそも有権者は政治に興味をなくしているので「誰が大臣になっても同じだろう」くらいしか思っていないだろう。だから、安倍さんに説明責任を求めない。

もし安倍さんにやりたいことがあれば「それをやるのにふさわしい人」を大臣に選ぶはずだ。だから説明責任が出てくる。ところが安倍さんは明らかに「派閥の言ってくる人を適当に入れよう」としか思っていないのだから、つまりやりたいことがないのではないかと思われる。菅官房長官にやりたいことがあるのかはわからないのだが、少なくとも形式的には説明責任を果たす必要はない。結果的に誰も責任は取らない。

ここからわかるのは、有権者は特に政治家には何も期待しておらず、首相にもやる気がなく誰も責任を取るつもりがないということだ。安倍首相は憲法がやりたいのだろうと思うかもしれないが、そのための布陣を敷いている形跡もない。単にいろいろなところでみんなに「議論しようよ」と言っているだけだ。誰も責任を取らず、どこに行きたいのかもよくわからず、とにかく「今のままでいてくれればあとは何も言わない」という政治環境である。

ここで一生懸命に働いた人が一人だけいる。食べるためにネタが必要な週刊文春のスタッフだ。一生懸命に張り込んだ結果検察も見逃していた事実を掴み現職大臣を辞任に追い込んだ。

ここからやる気のなかったもう一つの集団があったことがわかる。週刊誌が一生懸命張り込めば見つけられた事実を検察が見つけられなかったのはなぜなのだろう。これは検察の怠慢でもあった。だがもはや誰も正義には関心がないのだから検察の怠慢を嘆いてもあまり意味がない。

ここに型通りに「首相の説明責任を問う」という野党の歌舞伎質問が入る。すると与党支持者は安心して「野党は政権批判しかしない」と言い続けることができる。なんとなく政治的な言論に参加できるような気分に浸れるのである。

日本人は自分たちの未来には希望を感じていないが、かといって今は困っていない人が多い。もう考えてもどうしようもないという諦めが静かな堕落を生んでいるのではないかと思う。

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半島国デンマークは本当に半島なのか

Quoraで半島国家についての質問があった。韓国や朝鮮を揶揄するものなのだと思うのだが、面白そうなので答えてみた。






インド、アラブ、イタリア、スペイン、朝鮮などたいていの半島は山脈や砂漠で大陸と切り離されて独自世界を形成している。しかし実際には完全に切り離されているわけではなく時々外国に攻められたりする。朝鮮半島はその典型で中国・モンゴル・女真族などに支配されたが完全に支配されることもなく、結果的に朝鮮人という人たちの塊ができた。

ところが半島にも例外がある。それがユトランド半島とスカンジナビア半島である。ドイツとの間に山脈がないのだ。今の人口規模からみると「なぜドイツに支配されなかったのだろう」と思ってしまう。ところが調べてみるとこれは誤認だった。さらに調べてみるとそもそもドイツ人という塊がないということもわかった。あのあたりは意外と複雑なのだ。

歴史的経緯を調べてみると実は北のほうから大陸に侵攻があったことがわかる。ゲルマン人には北と西という区別がある。理由は諸説あって定まらないそうだが海から大陸をめがけて北方ゲルマン人が降りてきた。彼らはデーン人と呼ばれる。その侵攻が終わったのがデンマークのあるユトランド半島なのである。そしてユトランド半島を追われた西系の人たちが作った国がイングランドだ。玉突き的に周辺に拡大し他民族を征服するということが各地で起きている。

シュレスヴィヒ・ホルスタインからオランダにかけてフリースランドという地域がある。ここにフリジア諸語という英語に近い言葉が残っているという。英語はユトランド半島にいたジュート人・アングロ人・サクソン人がブリテン島で作り出した言葉なので、あのあたりがもともと同じような言葉を話す人たちの世界だったことがわかる。地域はのちにフランス人に支配されラテン語化が進んだ今の英語になった。

ゲルマン語という言葉はもともと意思疎通が可能な言語だったようだが、地域に広がる過程で三方言に別れ、そのうち北(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・アイスランドなど)と英語・ドイツ諸語・フリジア語などの西方言が生き残ったということのようだ。北ゲルマン語は今でもお互いに近しい関係にあるが、西ゲルマン語も共通の祖語があったのではないかという説があるそうである。

ゲルマン語は英語とフリジア語が一つの塊を作るのだが、それと並列して低地ドイツ語と中高地ドイツ語という系統があるという。説によって違いはあるようだが、全部で三系統の西ゲルマン語があるというのだ。英語とドイツ語が違う言語であるというのと同じように、低地ドイツ人と高地ドイツ人の言語は通じ合わないという話もある。

だが、ドイツは国民国家を形成する過程で「高地ドイツ語」を標準語にした。このため低地ドイツ語は単なる方言扱いされており言語としては認められてこなかったという。しかし近年では見直しが始まり低地ドイツ語を言語として認めようという動きが出てきているそうだ。

北ドイツのデンマーク語というエッセイにはその複雑さが書かれている。ユトランド半島の付け根にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にはそれぞれのマイノリティ言語が残っているそうだ。ここでも低地ドイツ語はドイツ語とは別言語として扱われている。

言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語……

132.北ドイツのデンマーク語

朝鮮半島は行き止まりになっており南方の島から来た人たちと北方から来た人たちが混じり合って朝鮮人という民族を形成していったのだろう。韓国には三韓に由来するであろう全羅道・慶尚道方言が残っているが独自言語・独自民族であるというアイデンティティはもうない。

一方でユトランド半島は回廊になっておりスカンジナビアから大陸への通路になっている。また海に着目すれば北海とバルト海の間の回廊でもある。このため複雑な言語と民族が残っている。だからデンマークは厳密には半島とは呼べないのだ。

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皇室外交は政治より一歩先に行っているのかもしれない

新天皇即位礼当日の嵐も過ぎ去り打って変わった晴れになった。いつものようにアメリカのABCニュースを見ていたのだがあいかわらずトランプ大統領の弾劾関係の話から始まりツイートのトラブルの話をしていた。






今回の即位礼にアメリカは大統領・副大統領ともに来日せず代わりに運輸長官がきていた。トランプ大統領は儀礼そのものに興味がないのだろうがペンス副大統領もウクライナ問題で忙しかったと報じられた。アメリカにはお祝い事に参加する余裕はもうない。

トルコのエルドアン大統領はプーチン大統領と会っていたそうである。アメリカが撤退した後にロシアが入ったのだ。トルコもロシアもシリアの戦争を巡りお祝いどころではなかったのだろう。当のシリアは国が揉めているという理由でそもそも招待されなかったそうだ。

一方ヨーロッパは国王や大統領が来ている国が多かった。ヨーロッパの余裕を感じさせる話とも言えるし、日本の皇室がヨーロッパとの関係を重要視してきた表れとも言えるだろう。英語ができる新世代の天皇と皇后が皇室外交を展開する意味は大きいだろう。日本人は少なくともあと一世代か二世代は安心してそれを見ていられる。

今回の即位の礼は国内政治的には「憲法の規定」を守った微妙なやり方が取られていた。天皇は明確に規定された元首ではないので高いところに立って参加者を見下ろすようなことはなかった。本来は宮内庁の職員を臣下に見立てて石が敷き詰められた中庭に集める予定だったようだが雨でそれも叶わない。国内外からの賓客はガラス越しのショールームのようなところに入れられて、古式ゆかしい即位ショーを観察するというような感じになっていた。

もともと中国に対して「国として成り立っている」ということを見せるために行われてきたショーの要素が強い。もともと視線の先には中国があったが、明治維新ではそれがヨーロッパに変わった。

こうした和様装束を天皇が即位式で着用するようになったのは、実は比較的新しく、明治天皇以降のことだ。江戸時代までの長い期間、即位式は中国文化を色濃く反映した古代からの形式がそのまま受け継がれていたため、「礼服(らいふく)」という中国風の装束や冠が用いられていた。

歴史伝える「即位礼正殿の儀」

Quoraで確認したところ産経新聞は単純化しすぎており誤解が生じているという指摘もあった。だが、明治政府が近代化を意識して「脱中華」をアピールしたかったという本筋はあながち間違っていないと思われる。西洋式の晩餐会という別のショーも入るようになった。このため今回も天皇・皇后の着替えはかなり煩雑で大変なものだったようだ。

もともとあった神事・和式に再解釈された中国由来の儀式や服装があり、そこに西洋風の晩餐会が加わっているのだが、西洋風とも中華風とも言えない何かになっている。世界のどこにもないスタイルである。面白いことに皇室はその時々の最先端を真っ先に取り入れるのである。

日本人がこうした柔軟性を持てるのは古くからある伝統は変わらないという自信が裏打ちになっているからだろう。新しいものを取り入れても本質が変わるわけではないという自信がある時、保守は最先端の様式を取り入れることができる。変化を拒否する保守は保守ではない。それは単なる原理主義に過ぎないのである。

最先端が反映されるからこそ、日本の保守の根幹である皇室の儀礼にアメリカが参加しなかったことには特別の意味があるのかもしれない。そのことを実感する記事を見つけた。

ニューヨークタイムズとワシントンポストが日本の前近代性を揶揄する内容の新聞を日本人が紹介している「即位の礼「日本はもうしませんでした?」「安倍超保守政権が支持を得るための儀式」米2大紙は皮肉たっぷり」というものである。

筆者は「安倍政権や皇室、そして日本の国民は、こんな指摘をどう受け止めるのだろうか?」と意味ありげに結んでいるのだが、答えは「受け止めない」だろう。その場に存在感がない人たちに何を言われても別になんとも思えない。

少し前なら「民主主義大国のアメリカからこういうことを言われると体裁が悪い」と思ったのかもしれないのだが「あの失礼な」トランプ大統領を生み出した国の新聞に日本は近代的でないと書かれてもそれほど悔しくもない。我々の意識はそこまで変わってしまっている。日本はヨーロッパと同じように伝統と現代政治を折り合わせている国であり、アメリカはもうそれに参加できる余裕がない。

安倍首相の変な万歳さえなければもっと喜べたのかなあとも思う。安倍首相は明らかに天皇権威を利用したがっているしアメリカの威光にも依存しているのだろう。だが安倍首相の意図はあの万歳程度にしか響かない。祝宴はそれなしでも進んで行くのである。

いずれにせよ政治勢力は日米同盟にしがみつきたいと考え続けるかもしれないのだが、新しい時代は多分それとは違ったものになるのだろう。実は皇室外交のほうが政治より一歩先んじているかもしれないのである。

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令和の即位儀式はなぜ盛り上がらなかったのか

新しい天皇即位の儀式が淡々と進んでいるのだがあまり盛り上がりが感じられない。「なぜだろうか」と考えていたのだが安倍政権がいけないということになった。






なんだか今回はパッとしないなあと思った。最初に考えついたのは背景の違いである。平成の即位儀式ははちょうどバブルで経済状況が良かったこと、かなり長い期間昭和天皇の体調が悪く自粛ムードがあったあとであったことなどそれなりの開放感があった。だが、Twitterを眺めていたのだが特に皇室関係の話題は飛び交っていないようだった。

お天気も悪かった。嵐が通過中であり10月にしては寒く感じられた。途中風も強まり「日本は前途多難なのか?」などと思ったのだが、即位礼正殿の儀で即位の宣誓をするために紫色の帳が開くと天からも光が差し込み人々を安心させた。

フジテレビを見ていたのだがアナウンサーたちのデタラメな敬語に少しうんざりした。普段使い慣れていない敬語が「駆り出されてここにきました」という場違い感を振りまいていた。

NHKは国民みんなで祝う天皇即位というような演出をしたかったらしく、災害被災地宮城県や沖縄県などと中継を結んでいたのだが、全く盛り上がった印象はなかった。集団ではなく個人にインタビューしているので国民がこぞってお祝いしているという映像になっていないのだ。

宮中三殿儀式の映像を見て「皇族の数も減ったなと思った」前回と違って成年皇族の中に男性は1名しかいないのである。ロイターは13歳の一人が皇室の未来を担っていると伝えている。これがうら寂しい感じを増幅させてしまうのである。

権威の徒花である「アンチ」も少なかった。前回の平成の議論では政教分離の観点から、皇室の私的儀式と国家行事との間の切り分けがかなり話し合われた。社会党が勢いを増していた時期だったという事情もあるのだろう。しかし今回はそのような話し合いはほとんど行われなかったようだ。共産党が一連の儀式に参加しないということが粛々と決まっただけだった。NHKはくどくどと宗教行事は告示行事から切り離されていると繰り返していた。前回は「政教分離原則違反」という裁判が多かったそうでそれを避けたいんだろうなあということは伝わってきた。日本にはアンチを遊ばせておく余裕はない。SNS炎上即失敗という社会である。

共産党が指摘するように、即位礼は国民代表を見下ろす形で行われる。また内閣総理大臣ら三権の長と大臣たちも皇族方に恭しく頭を下げる。天皇の即位を臣下がお迎えするという形式をとっているのは明白である。ところが出てくるのは内閣総理大臣だけである。見ている時にはよくわからなかったのだが後々考えると多分これが盛り上がりに欠ける理由だと思った。

もし安倍晋三という人が巷間言われているような支配者然とした人なら、天皇の筆頭家臣として皆を従わせるような映像を作ったはずだ。アリーナみたいな舞台を作って監修が居並ぶ中で万歳を叫んでもいいし部下を階位別に並ばせて自分だけがお側に近寄ればいい。イギリスでもウェストミンスター大聖堂には長い観客席とひな壇があるし、確か韓国の王宮もそんな感じになっていた。

また別の国では軍の意向を背景にした王様がわざわざ「国民がたくさんいる中」で即位することもあるだろう。これは逆に力による支配を感じさせない演出になっている。

つまり、こういう映像を作るためには他人から見て自分がどう映るかということを意識しなければならない。安倍首相にはそれができなかったのだろう。

だが招待客はガラス製の陳列ケースのようなところに入れられており「たくさんの人がお祝いに来ましたよね」ということを見せているだけだ。天皇と招待客の関係がわからないように巧みに映像が作られているのだ。

安倍首相が国民を巻き込んで権力誇示しなかった裏には宮内庁スタッフや皇室の方々の配慮もあるのかもしれないのだが、安倍晋三さんの「他人が見えずとりあえず自分だけお父さんとお母さんに褒めてもらいたい」という個人の資質が今回の盛り上がらなさを作ったと考えることができるだろう。安倍首相としては天皇の前に進み出て皇族が居並ぶ中で万歳することだけが念頭にあったのだろうと思える。

同じことは多分安全保障にも憲法議論にも言える。安倍晋三さんは多分トランプ大統領やオバマ政権時代のジャパンハンドラーが怖かったから安保関係で無理筋の法案を通したのだろうし、多分おじいさんの岸信介元首相に褒めてもらいたいから憲法改正をやりたいと考えているのだろう。その視線には国民は入っていない。だが、皮肉なことにそれが日本の平和を守っている。つまり独裁者として人を巻き込む才能がないゆえに日本人はそれぞれ好き勝手な話題にのみ注目していられる。だから今回の日本人は「国体」に大した関心を向けることはなかったのである。

翌日のニュースは「外国から偉い人がたくさんきたね」という話と「古くから伝わる伝統がすごいね」というような話になっていた。ちょうど世界遺産の番組を見ているような感じである。天皇権威が歴史領域の話題として扱われていることになる。まあ、健全といえば健全である。下手に国威発揚に使われるよりは盛り上がらなかった方が良かったのかもしれない。

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資本主義社会というカジノでデモは伝染する

香港でデモが暴徒化してからしばらく経った。このデモはいいデモなのか単なる暴徒なのか、中国の影響があるのでは、いや資本主義社会が先導しているのではないかと、様々な議論が生まれた。だがその憶測は急速に無意味化しつつある。デモや暴動が広がり続けているからである。






香港の手法の一部はカタルーニャ地方に飛び火した。独立派の禁固刑に反対した人たちが道路を封鎖して火炎瓶を投げたりしている。空港に行く道や観光名所が封鎖されたとも伝えられている。香港のデモを快く思わない人たちは「香港がデモを輸出した」と揶揄した。つまりインフラを封鎖して外国に影響を知らしめようとした手段が似ているというのである。お気に入りの観光地を失うまで世界は振り向いてくれない。暴動の担い手たちにはそんな気持ちがあるのかもしれない。カタルーニャの民族主義者たちに司法の光は差さないからだ。

香港のデモに対する感情はうっすらと日本の政治事情を反映している。自民党支持者たちは中華人民共和国を嫌っているので香港のデモを応援したりしていた。普段は野党のデモをバカにしているのだからこれは奇妙なことである。自分が守りたい立場がありそのために意見が変わってゆくのである。

ところが、カタルーニャに飛び火するとこれがわからなくなる。香港のデモを応援するならカタルーニャのデモも支持しなければならないが中国という敵はいない。これが政治的な主張に支えられているならそこで煩悶する人がでてきてもよさそうだが、そうはならない。所詮はバラエティ番組を見るようなノリでしかないのだろう。彼らは沈黙してしまった。

ところが今度はまた別の展開があった。

チリの首都サンチアゴで非常事態宣言が出された。地下鉄の運賃値上げに反対したのだという。1月に3円値上げした後今回は5円上がったそうだ。「消費税が上がっても文句を言わない日本人」から見ると「たったこれだけ?」と思うのだがこれが暴徒化した。チリはもともと安定した政治状況で知られるだけに驚きも大きい。さらに経済が極端に悪いというわけでもない。太平洋向けの貿易を頑張ってきた国だからである。OECDの中では先進国に分類される。

面白いことにTwitterでは暴徒を応援するつぶやきが見られた。高校生が運賃ゲートをこじ開けて中に入ったらしい。これが好ましいという人が出てきたのだ。心情的には香港のデモに学生が参加しているのを見て応援を始め、それがサンチアゴの高校生への心情と接続しているのであろう。若い人たちが社会改革をしようとしているということなのだが、やっていることは犯罪である。ここまでくるともう何が正しいのか何が間違っているのかがわからなくなるが、日本にもこうしたラディカルな社会改革にためらいなくシンパシーを表明する人が出始めているというのは確かである。つまりこれまで既存政党のデモの担い手たちの一部が「これは生ぬるいのでは?」と感じ始めている。参議院選挙の時にれいわ新選組を応援していたような人たちも混じっているのかもしれない。

そこに重ねてレバノンのデモの動きが入ってきた。こちらもタイヤを幹線道路で燃やしたりして街を麻痺状態にしようとしたようである。数千人が参加しており負傷者も出ているという。デモ参加者はアラブの春のスローガンなどを叫んでいるとAFPは伝えている。

どうやら、香港の「交通インフラに影響を与える」という手法がSNSなどにのって拡散しているのは間違いがないらしい。原因は表向きはバラバラである。香港は中国本土の政治的影響を懸念しているようだしカタルーニャは独立したがっている。チリとレバノンでは経済的な不安がデモを過激化させているようだが民族問題は関係がなさそうだ。しかしそこには未来への漠然とした不安という共通の問題意識がある。こうしたバラバラの動きがSNSによって結びつけられているという意味では実は日本も例外ではない。

1989年以降共産主義が倒れた時には独裁者という明確な敵がおり政治が民主化することがソリューションだった。ところが30年後の我々の目の前には明確な敵がいない。だから暴動には終わりがない。

考えてみれば資本主義はカジノのようなところである。資本主義社会に生きるということはこのカジノに賭け続けるということである。だが、その勝負は賭ける前からついている。お金のない人や後から勝負に参加する人(つまり若い人たち)ほど巻き上げられる可能性が高まる。

政府は彼らに賭け金を提供し続けなければならないのが、提供すればするほどお金持ちの取り分が増え政府には借金が残る。欧米ではこれが持続可能な領域を超えつつある。日本は破綻を先延ばしにしているが共通の仕組みに乗っているのだからやがては同じような未来が待っている。

共産主義崩壊の30年後である2019年に始まった形のない崩壊は今後しばらくは続くだろう。基本的に資本主義カジノ問題を解決する策はないからである。もうこうなってしまうと「良いデモ・悪いデモ」というような区別は意味を失ってしまう。

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東京2020オリンピックは衰退した日本の悲鳴

東京2020オリンピックがIOCの「英断」によりマラソンなどの競技を札幌に移すことに決まった。前代未聞だそうである。






この問題の本質はお金だろう。移転を言い出した人が移転費用を支払わなければならないのだ。スポーツ報知によると事前調整が行われてきたことは明白であり「知らなかった」というのはすべて嘘である可能性が高い。

IOCのコーツ調整委員長は16日、「先週には(北海道出身の)橋本聖子五輪相が前向きであることも知った」と、事前調整があったことをにおわせた。また8日には、組織委は五輪チケットの2次抽選販売を突如、延期すると発表。この時点で見直しの検討が進んでいたもようだ。組織委の森喜朗会長は、9日には安倍晋三首相、10日には橋本氏と一緒に札幌市の秋元克広市長と会談。その場でIOCの意向に関して協議があった可能性もあるという。

極秘に進んだ五輪マラソン・競歩の札幌開催…北海道出身・橋本五輪相が「前向きだった」

力強いリーダーであるはずの安倍首相まで連座しているのだが「腹をくく流からどんと任せろ」という人はいないかった。皆、知らぬ存知ぬで押し通すつもりなのだろう。政治も安全保障も全てそうなっているわけでオリンピックも例外ではない。

安倍首相はマリオの道化としてのみ存在しており、実際の議論は菅義政官房長官・橋本聖子オリンピック担当大臣と小池百合子東京都知事の間で行われている。その議論とは「誰が金を出す出さない」問題だ。だが小池さんがIOCからスルーされたことを考えると事前に話が入っていた国側が財政保証することになるのだろう。すなわちこの議論さえ嘘である可能性があるということになる。単に手続き上のパフォーマンスである。

1964年の東京オリンピックは「オリンピックを成し遂げて世界に成長した日本を見せたい」という価値創造型のオリンピックだった。2020年の日本には分配型のリーダーしかいない。だから最初から日本には価値を創造するオリンピックを実現することは無理だったのである。身の丈に合わないことをしたとも言えるし、かつてできていたことができなくなってしまったとも言える。

誰も金は出したがらないが日本は国としては未だかつてなく豊かである。外国からの利子収入などがあり国全体では毎月2兆円の黒字とも言われている。意志さえあれば金は出てくるはずだ。つまり、お金ではなくリーダーシップの問題なのだ。

日本にはリーダーシップがないだけでなく技術的にもついて行けなくなっている。とにかく約束したことが実行できない。リーダー不在の中で技術者だけが懸命に頑張るのは虚しいだけだ。高い見積もりを出しておかないと不足金を後で請求することはできない。

2015年にはザハ・ハディド氏の新国立競技場問題がおきた。建築家たちが理想を高く掲げたはいいが、現場レベルで「とにかくあれができないこれができない」という話になった。ハフィントンポストに当時の記事が出ているが、今読んでみても責任の所在は明確ではない。壮大なビジョンを掲げたものの、結局ゼネコン主導のそこそこのものしか作れなかった。建築家たちが理想を実現したいならやる気がある国に出かけてゆく必要がある。日本にはもう無理なのだ。

2015年の同時期にはエンブレム問題もあった。開かれたオリンピックという触れ込みだったが広告代理店がそれを扱いきれず指定コンペをオープンコンペに偽装したというのが最初の問題だった。ところがこれが偽装・盗作問題になり炎上した挙句、デザインの白紙撤回を余儀なくされた。広告代理店が使っていたデザイナーは「他のデザイナーからインスパイヤーを受ける」という「盗作」の常習者だったというのがオチだった。

この2015年の出来事で建築と広告の巨人が国際的なスタンダードについて行けなくなっているということが明らかになったのだが、日本人はこの時それを総括しなかった。この二つの問題が「ふわっと」「なんとなく」通り過ぎたのはそれを伝えるのもまた国際的なスタンダードについて行けないマスコミだったからだろう。

2016年5月になると誘致に関してアフリカに多額の資金を流していたという疑惑が持ち上がった。日本メディアが口を閉ざす中でイギリスのガーディアン紙が発信元になりくすぶり続けた。実情はよくわからなかったが、のちに竹田JOC会長外しに発展した。今回IOCが強権を発動した形になっているのは、今までなんとなく間に入って納めてきた竹田会長の不在の影響かもしれない。

誘致の際猪瀬東京都知事は「今回のオリンピックは世界一金のかからないオリンピックだ」と言っていたが、彼がこの発言の責任を取ることはなかったしできなかった。途中で退任してしまったからである。その意味では最初からコンセプトが実現できない国であるということはわかっていたし、その不甲斐なさは終始一貫している。

今回バッハ会長が「決断」したことで費用はさらに膨らむだろう。議論が進めば進むほど日本は大きなプロジェクトが回せなくなっているという現実を目の当たりにすることになる。

日本は約束したことが守れない国になったが、誰も責任を取らない社会である。しかし、その現実を目の前に突きつけられても日本はオリンピック開催に突き進まなければならない。社会の衰退というのはこういうことなのだろうと思う。

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オリンピックマラソンの札幌開催は大英断

オリンピックのマラソンと競歩を札幌でやることを決めたそうである。リーダーシップという意味では大英断だろう。これをコアコンピタンスという概念を使って説明したい。コアコンピタンスとは企業の核になる強みのことである。






ドーハでマラソンなどの大会が開かれたが深夜開催にもかかわらず棄権者が多かったという。しかし国際陸連側は改善に前向きではなかった。そこでコーツ委員長から「バッハ会長の権限で」と森喜朗大会組織委員長に申し渡しがあったということになっている。「今日中に」というところから、IOC側は日本の組織委員会のリーダーシップに全く期待していなかったように見える。緊急事態であることを強調するために「今日中に」といい、森会長に「せめて小池百合子都知事に」と譲歩させた。共同通信など日本のマスコミは合意と言っているが日本の運営陣に最大限花をもたせた表現だろう。

緊急事態であることを示し意思決定を促すというのはチェンジマネジメントの基本である。そしてその裏側にあった合理性はIOCの「競技をやるのなら選手のことを第一に考えないと」という強い意志だろう。つまり、IOCはオリンピックの価値の中核は選手であるということを知っていたということになる。オリンピックのコアコンピタンスは世界トップレベルの選手が競い合うスポーツの最高峰なのであり、バッハ会長の役割はその推進と強化である。

ここからIOCは「選手の人権」のために札幌開催を決めたわけではないということがわかる。オリンピックは世界最高峰のスポーツ大会であるというところに存在価値があるわけで、そのためには良い選手を集めてきて良いコンディションの中で走らせなければならない。つまり、彼らはオリンピックのコアになる価値観をよく知っていて必要な措置を講じたことになる。そして、強いスポンサー確保は手段であって目的ではない。

日本側の態度はとても煮え切らないものだった。森喜朗会長がリーダーシップを発揮することはなく「IOCが決めたから仕方がない」と言っていた。東京都の小池都知事などはさらにめちゃくちゃで、顔を潰されたことに怒ったのか「北方領土で開催したらいいんじゃない」と言い放ったという。

この背景には日本側のリーダーの政治的な意識も感じられる。結局主導した人がお金を出すことになるが予算膨張問題はすぐさま議会に反発される。そこで誰も「私が了承しました」とは言い出せないのである。すでに費用負担では押し付け合いが始まっている。彼らは結果だけを欲しがっており負担したり調整する意欲はない。

IOCは価値を想像しようとしているのだが、日本のリーダーには価値が作れない。だから発想が分配型になる。分配型発想では落ちてきた雨水はすべて自分のものにして絶対に誰にも分けないのがベストな戦略である。当然雨が少なくなれば奪い合いが起こる。

一方でこうした煮え切らないリーダーのもとで働くのは楽だろうと思った。一度決まればどんなに不都合が見つかってもそれが変更されることはない。いわゆる日本のインパール化はミドルマネージメントには余計な負荷がかからないし「考えても仕方がない」と言える。コアコンピタンスを理解しているリーダーのもとで働くのは大変である。目的から外れればやり直しを余儀なくされるからだ。

まとめると、西洋のリーダーは強い権限と目的意識を持っている。トップリーダーの役割はコアコンピタンスの強化と追求だ。状況が変化するとミドルマネージャーには負担がかかるが、アスリートはただ自分の記録を追求するためにベストを尽くせばいい。一方で日本の組織はお神輿型のトップリーダーを弱くすることで大勢のミドルマネージャーが楽ができるように設計されている。当然困るのは末端の人たちである。旧日本陸軍は上級ミドルマネージャーを守るために大勢の兵士が餓死した。現在は日本全体がインパール化している。

同じようなことは安倍政権でも起きている。自民党の松川るいという女性議員は台風災害について話し合う委員会で政権擁護をやり同僚や野党議員から顰蹙を買った。朝日新聞が伝えている。彼女は外務省で政権に引き立てられ2019年の選挙で議員になった。彼女は官僚にとって何が栄達の道なのかを極めて正確に知っている。それは被災者のことを考えるのではなく政権を賛美することである。

日本の組織は政権に忖度してミドルマネージャーの階段を上がれば上がるほど楽ができることがわかる。その負担を受けるのは官僚の末端組織であろうし、さらにその先には政府に何も期待できない一般の国民がいる。つまり、日本は声が届かないと考えた人からやる気を失う社会なのだ。だから日本の組織はみんなが苦労しているのに全く成果が出せなくなる。誰も止められないがなんのために仕事をしているのか誰にもわからなくなってしまうのである。

日本は何も変えないリーダーが何もしないフォロワーを生み出しておりその一部が「人でない何か」になりつつある。その裏にはやる気を失ったゾンビのような人たちや果てしなく石を積むその他大勢いるかもしれない。バッハ会長らの意思決定からその原因は「自分がマネージしている組織のコアコンピタンスを理解していない」ということだとわかる。

コアコンピタンスを理解していないリーダーを頂く組織は早かれ少なかれおかしくなってしまうのだ。

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デモよりもSNSの方が政治に影響があるが限界もある

トランプ大統領がシリア問題の収拾を図ってペンス副大統領らをトルコに派遣することにした。エルドアン大統領と会談するという。遅すぎるという気もするが何もしないよりはマシという感じになっている。






大統領自体は撤退を決めてから言っていることが二転三転しており自己弁護に走ったコメントを連発している。自分が何をやっているのかわかっていないのだと思う。諌めてくれる部下の首も斬っているので、ここで軌道修正を図ったのは世論調査よりもダイレクトに伝わってくる国民の声があるからだろう。もともと「風」で当選したことから風向きが変わるのが早いということもまたよく知っているのだろう。SNSにはそれなりの力があるのである。

日本も多分SNSで風を読んで政府運営を変えているのではないかと思う。参議院予算委員会が「台風被害対策」を名目に審議をした。与党も「ほったらかし」という批判を避けられるし、野党も「台風被害より政権批判なのか」とは思われたくなかっただろう。特に与党にとっては失言挽回のチャンスだろう。

二階幹事長は「そこそこで済んでよかった」という発言を事実上撤回したと言われているがよく聞いてみると「言い方が悪かった」とか「もう言わないからいいだろ」と言っているだけで実際には謝罪しているようには思えない。自民党は不規則発言で政権を失っているし、民主党政権凋落のきっかけも東日本大震災だった。災害の多い国だけに災害対応は「統治者の鼎の軽重を問われかねない」問題なのだ。

安倍首相は二階さんの反発を恐れて何も言えないだろうから国民の目を補正予算に転じさせたほうが良いだろうし、実際にそれがこれから長い復興に取り組むことになるであろう被災者の心の助けになる。

台風15号の時には出遅れ批判が出たが何もしなかった。台風19号の時も自宅に引きこもり陣頭指揮はしなかったようである。その場では何が起きているのかがわからず、あとからSNSで上がってくる評判を見ながら軌道修正をしているのかもしれない。トランプ大統領と同じくワンテンポずれているのだがそれでも何もやらないよりはマシだ。

このように、SNSのレスポンスは意外と政治に影響を与えている。ワンテンポ遅れも何もしないよりはマシであろう。意外とSNSの一つひとつのつぶやきは無駄にはなっていない。

SNSが台頭する中で、日本ではデモが力を失っている。一人ひとりのSNSの声が「生の声である」という認識がある一方でデモは対抗勢力によって組織された「加工食品だ」という認識があるのだろう。残念だがこうした作り物に人を動かす力はもうないのだろうなと思う。デモ依存の左派野党は戦略を変えたほうがいい。

だが、このように万能に見えるSNSのリアクションにも限界はある。

自民党女性議員議員は台風に興味がなかったのかそれとも誰かから要請されたのか「日米貿易協定は自動車産業が認めているのだから外野がとやかくいうな」と言い放ち「対馬を韓国人から取り戻すために自衛隊の増強を」などと言っていた。今いうことかと思ったのだが「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」が対策を求めているという記事が見つかった。この動きはコアな支持者には重大関心事なのだろうが、その他の人たちにはほとんど知られていない。そこで「中継が入っているところで言えば宣伝になる」と思ったのかもしれない。

そのあと被災地を実際に歩いたという公明党の議員が具体的な要請をしていた。実際に関心を寄せて行動しなければ質問すらできないんだなと思った。公明党の新人国交大臣は真摯に対応策を答弁していた。目の前に困っている人がいたらなんとかしてやりたいと考えるのが人間だ。緊急事態だからこそ「人」と「人の形をしている何か」の違いが明確に現れる。蓮舫議員は目の前で談笑していた首脳がいたと指摘している。

SNSの真摯な声も多分「人の形をしている何か」には届いていないんだろうなあと思う。

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トランプ大統領が生み出した不安が世界に拡大している

日本のニュースは当然ながら台風19号の被害一色になっているのだが、アメリカのABCニュースは時間を割いてシリアの事情について扱っていた。






アメリカはクルド人を支援してきたのだがトランプ大統領が軍隊を一部撤収してしまった。バランスが崩れ虐殺や爆撃が起きているという。トルコはシリアを助けテロリストを殲滅するために侵攻したことになっていたはずなのだが、シリア政府はクルド人を支援し始めた。建前が完全に消滅しているが国際社会は非難はするが結局は何もしない。しないというよりそんな余裕がないのかもしれない。

民間人が犠牲になったという報道があり、例によって犠牲になった子供の映像なども流されてる。トランプ大統領のために子供が死んでいるという図式である。そのあとにトランプ大統領が身勝手なTweetを繰り返すという反発を生みやすい状態になっている。

そのあとに流されるのが弾劾プロセスの話である。ウクライナへの軍事支援をディールとして利用して選挙に有利になるような取り計らいをしてもらったという疑惑だ。やはりこの二つを結びつけてしまうので、シリア撤退も経済絡みなのだろうと結論付ける人も多いだろう。結局は内政の対立に利用されてしまうのである。

対立や宣伝が激化するのはトランプ大統領の支持率はそれほど下がっていないからだ。この辺りは安倍政権の岩盤支持がなくならないのに似ている。アメリカでは支持しない人のほうが多数派なのだが、岩盤支持層が40%以上もいてそこから下がらない。こうした岩盤支持層が何を望んでいるのかはわからない。外国への支援が「自分たちの取り分が取られている」という被害者意識になっているのかもしれない。

トランプ大統領は原因ではなくこうした気分の結果である可能性が高い。共産主義が消えてしまった今、アメリカは世界の警察官であるべき理由を見つけられなくなっている。かといって撤退してしまうと世界各地に混乱を引き起こしかねない。また軍事産業が巨大化しており戦争がやめられない。確かにアメリカは世界情勢に必要以上にコミットしており、実際には撤退したほうが良いのではないかと思える。問題なのは撤退ではなく中途半端な関与なのだろう。

生の情報に接する限り、我々がアメリカに依存するリスクは増えていてる。

第一のリスクはアメリカ撤退することによって一夜にして安全保障環境が変わることである。トランプ大統領のその日の機嫌によって政策は変わるだろう。記者とのやりとりに腹を立てて夜中に決めたことが日本に大問題を起こす可能性があり事前2予想できない。本土が脅かされることはないのかもしれないが、沖縄・北海道などの周辺地域には極度に不安定化するだろう。すでに朝鮮民主主義人民共和国籍と見られる漁船が日本海に進出してきている。アメリカの動向を見ないと対北朝鮮政策が決められないので日本は黙って大和堆を明渡すしかない。日本海は安全保証問題の最前線になっている。

保守を自称する人たちの中には「憲法第9条を改正して北朝鮮を攻撃すべきだ」と夢想する人もいる。護憲派をやっつける想像は気持ちがいいかもしれないが、それ以上の意味合いはない。当たり前のことだが武力で気に入らない政権を制圧することなどできないからだ。

次に逆にトランプ大統領のディールに付き合わされてしまう可能性もある。日米貿易協定がどうなったのか結局よくわからないのだが、中国とは一部妥協したとも伝えられている。つまりトランプ大統領の気まぐれに付き合わされている。経済だけではなく安全保障面でも気まぐれに付き合わされるか、逆に気まぐれに付き合わないように遠巻きになり何も決められないという状態が最悪あと5年も続くことになるだろう。

新興国情勢は自由貿易に依存する日本の経済に影響を与えるだろう。その原因は新興国ではなくアメリカの利上げなのだが一度危機が起これば元々の原因など誰も気にしなくなるだろう。トルコの経済はそもそも不安定になっており、その不安を背景にエルドアン大統領がシリア攻撃に踏み切った可能性も高い。しかし、そのシリア攻撃が経済制裁につながりトルコ経済を破壊する。ロイターはエルドアン大統領の軍事行動によってトルコ経済の軟着陸が難しくなったと伝えている。つまりトルコ経済はどのみちなんらかの形で不況入りする可能性が高くハードランディングの可能性も高まっている。新興国で危機が起きると資金の引き上げが起こりそれが周辺経済に波及する。軍事的な第三次世界大戦は起こらないかもしれないのだが、代わりに連鎖不況が起こる。

最後にトランプ大統領はアメリカ以外の武器使用国を見つけようと懸命になっているという問題がある。アメリカ政府は軍事費を削減しメキシコへの壁の建設に充てたい。すると武器業界が困るのでトランプ大統領は別の国に武器をセールスすることになる。必要かどうかは関係ない。とにかく買えというわけだ。消費税が上がっていることもあり「あの武器を買わなければあれができたのに」と指摘する記事も増えるだろう。これは日本の納税者に直接関わってくる問題である。

そんな中、日本は高齢者が多くなり「とにかく今動いているものはもう変えないでほしい」という気分になっている。このため日米同盟にしがみつかざるをえない。不安なものは見たくないので日本ではアメリカの国内ニュースが一切流れなくなった。世界の動向に注目しなくなった日本人は今後「想定外」の不安にさらされ続けることになるだろう。変えないツケを支払うのは多分将来世代だ。

与党は自分たちの対米追従政策を正当化し続け、野党も「与党の失策」ばかりを追求する。そんな中基本的な政策を見直すべきなのではないかという声は不安にかき消されてしまうのである。

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世間から浮遊する国会と漠然とした不安を抱える高齢者

国会論戦を見ていたのだがついに音を切ってしまった。フォローするニュースが多すぎるからである。台風19号も接近している。そんな中、野党は「政権のあれが気に入らない、これが嫌だ」といい続けている。






アメリカはもう無茶苦茶になっていて、ついにはトランプ大統領のTwitterのつぶやきがトルコで死者を生んだ。背景にあるのは大統領弾劾でその背景にあるのは大統領選挙である。イギリスの曖昧な約束は民主主義を知らない香港で騒乱を引き起こした。さらに北アイルランドを中心に来月どうなっているかわからないという事態になっているそうだ。元はと言えば保守党が労働党や第三勢力から票を奪おうとしたのがきっかけになっている。

こうした問題は「ある一点」に突き当る。誰が最終的に国の方向性を決めて責任を取るかという問題である。民主主義が徹底している国であっても「主権者としての国民」などという核はない。まとまりがなくなると民主主義は機能しなくなる。特に勢力が拮抗した場合は危険である。政権を取った側が報復しまた報復の報復が起こる。韓国がそうだしアメリカものそのような状態になりつつある。二大政党制を議会にとどめておくというのは実はこうした争いを防ぐ効果があるのかもしれないと思う。

一方で、主権を曖昧にしている国(イギリスなど)は隙間で問題が発生する。Brexitの問題も誰が最終的に責任をとるのかが曖昧になったことから起きている。意思決定したのは国民だが国民は嘘の情報に踊らされた上に最終的な主権者ではない。とはいえイギリス女王が離脱を決めたわけでないし、主権者の一部である議会は意見がまとまらない。

イギリス型の問題は戦前の日本にもあった。日本は議会がまとまらないままで軍隊が天皇の意思を「勝手に代理」しはじめて暴走した末に止まった。イギリスは単にそれが戦争ではないだけだ。歴史的に磨かれた装置でも起きる時には問題が起きるし、イギリスがこれをどう解決するかはわからない。

では最初から主権などという欠陥だらけのものをおかなければいいのではないかという気になってくる。中国がそうなっている。中国は少数者が「みんなに良かれと思った」ことを「やってあげる」という国だ。だから「みんなから外れた少数者は容赦なく迫害される。さらに国民は主権について考えないので「結果が悪い」とだけいうだろう。多分、中華人民共和国や香港は経済が成長しなくなった段階で治安が維持できなくなる。つまり「みんな」が消えた時点で政治が成立しなくなるのが中国のやり方なのだ。

実際には国会でも国際状況の変化の議論は行われている。前原誠司議員が安倍首相に保守とはなんぞやとお説教をしたりしているのを見た。だが、前原さんは足元の野党側さえまとめ切れていないので単なる残念な人になっている。彼に人望があれば野党はまとまっていたはずである。

一方で、日本の有権者はこうした枠組みの問題には興味がなさそうである。国にはお金があり毎月2兆円ずつ入ってくるそうだが、政府にはお金がなく消費者にもお金が回らない。

大企業だけが逃げているわけではなく中小企業も6割しか税金を払っていないそうだ。税金を払うのが惜しいからといって子供や奥さんを従業員にして家族に給料を払うという「節税」もまかり通っているそうだ。法人税は下がり続け消費税に転化されてゆく。消費税は節税対策ができないので「取りやすい」という事情もあるのだろうし、与野党ともに支持者に税金を負担してくれとは言えないのだろう。

表面的には誰も政治に文句は言わない。だがやはり不安を感じているのだなあと思う出来事があった。

台風19号がくるというので昼間にスーパーに行ったらパンがなくなっていた。ホームセンターでは養生テープやポリタンクなどもなくなっていたそうだ。いざとなったら備えをしなければならない。一見あたりまえに思える。

だが数分歩いてコンビニに行くと品物はたくさんあった。スーパーで品薄になっているのを見て危機感を感じた人たちが買い占めたのだろう。ホームセンターでも「ない」となると不安になり別のホームセンターにわざわざ買いにゆく人が出てくる。「誰も助けてくれない」上に「誰も教えてくれない」という不安があることになる。

棚の周りをくるくると回っている高齢者はいた。だが誰も「何も問題はない」というような表情をしていた。目の前に起きているのは異常な事態なのだが動揺しているとは悟られたくないのだ。自分が出遅れて慌てているところを見られたら「先を見越した賢い」人に笑われる。そうした思いがあるのかもしれない。つまり、誰も助けてくれない氏教えてくれないのではない。何も言い出せない人が多いことになる。お互いに不安を募らせるが日本人は協力ができない。

近所で話を聞くと昨日もパンは午後に売り切れていたそうだ。確かに、未曾有の台風が来るからという警告は出ているので備えたい気持ちはわかる。だが、コンビニにはまだ食料があるのだから「それほど慌てなくても大丈夫だ」ということはわかるはずだ。

背景にあるのは台風15号の接近で困窮する人たちを行政が助けてくれなかったというニュースだ。これを見ていて不安になった人は多いのだろう。実際に千葉県・千葉市の書道も遅かったし、今回も電話したら現場レベルでは「必要になったら考える」それほどの危機感は持っていないようだった。行政はあてにできない。

特に高齢世代は戦後政府が機能していなかった時代を知っているのでいざという時に政府は何もしてくれないということを知っている。だから声も上げないが実際には過剰な預貯金などもしているに違いない。それは個人だけでなく中小企業の経営者も同じ気持ちなのだろう。

いざという時には誰も助けてくれないという確固たる気持ちがあるのだから、お金もモノも回らない。危機感が強まれば停滞も強まるが誰も何も言わない。黙ってパニックになる。この静かなパニックが徐々に進行したのが平成期の日本だったのかもしれない。

国際情勢にも対応できず、かといって国民の潜在的な不安も理解できない。野党はそんな中、誰かが振り向いてくれるのを待ちながら政府の不始末を追求し続ける。だから「そんな話は聞かなくてもいいや」と思ってしまうのだ。

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