アメリカに蔓延する政治家不信とクリントン元国務長官のメールサーバー事件

トランプ大統領の弾劾問題について観察しているうちに「そもそものきっかけは何だったのだろうか」と思った。それはヒラリー・クリントン元国務長官(のちに民主党の大統領候補)のメール漏洩問題である。では、なぜあのときメール問題で大騒ぎしたのかと思い返してみたのだがよく覚えていない。記憶とは曖昧なものだなと思った。




結局たどり着いたのは前嶋和弘さんの文章なのだが、要するに自宅にメールサーバーを置いていたのが怪しいというだけの話だったようである。「自宅にメールサーバーを置くとは何か隠し事をしているのでは?」ということがヒラリー・クリントン凋落の主要因になったようだ。そして、私的に管理されていたメールサーバーの脆弱性が外国に狙われた。

つまり、もともと「国家文章はちゃんと扱わねばならない」という常識があり、その常識を守らなかったクリントン元国務長官がけしからんという話になった。背景にあるのは既存のエリート政治家に対するうっすらとした不信感である。クリントン元国務長官の夫は大統領であり「ヒラリー・クリントンを選んだ民主党はもう庶民のことを相手のことを真剣に考えてくれないのではないか」という不信感があった。これがトランプ大統領を活気づけたばかりか、今でも民主党に暗い影を落としている。

現在の民主党の筆頭候補はジョー・バイデン元副大統領だが、彼にも疑惑がある。前のウクライナ政権(現ゼレンスキー政権から見ると敵に当たる)と組んでいたのではないかという話である。BBCはやや否定的に伝えているが、こういう話を持ち出すだけで人々は勝手に語りだす。つまりこの話はバイデン候補にとっても不利に働く可能性がある。今もそうなのだが、彼が最終的に民主党候補になればロシア対ウクライナという泥沼の選挙戦になるだろう。

もともとは共和党は金持ち・大企業優遇の政権という批判があった。だが「親しみやすく」「政治とは無縁の」トランプ大統領が出てきたことでその疑問は払拭されてしまった。面白いことに支持者たちはトランプ大統領も金持ちの実業家だという事実には目をつぶっている。人はみたいものしかみないのだ。

民主党にも金持ちのための政権になってしまったのではないかという疑惑があるのだが、共和党ほどめちゃくちゃにはなれない。だから民主党には支持が集まらない。だから、バイデン候補にこうした疑惑があると騒ぎ立てるだけで民主党支持者を動揺させることができるのだ。

ペロシ下院議長が始めたこの戦争をもちろんトランプ大統領の人格否定につなげることはできるのだが、同時にバイデン候補を傷つけかねない。つまり、泥沼の中傷合戦になる可能性が高いのである。背景にあるのは職業政治家への根強い不信感とポピュリズムだ。

面白いことにアメリカのポピュリズムは中南米のポピュリズムとは違っている。中南米では「みんな平等に分かちあおう」というのがポピュリズムの源泉になっているのだが、アメリカは個人競争社会なので「あなたが個人として勝てるために公平な競争環境を作ってあげよう」というのがポピュリズムの源泉になっている。ポピュリズムとは社会にある道徳を基に有権者の支持を得ようという行動だ。

いずれにせよ、このクリントンメール問題そのものは忘れ去られており、今の焦点はトランプ大統領の新しい弾劾調査を始めるべきなのかという点に移っている。CBSが調査したところ55%/45%という僅差の結果になったようだがCNNは多数のアメリカ人が調査を進めるべきだと言っているいう伝え方をしている。

アメリカが大きく分断されているのがわかるのだが、そのきっかけになったのは、職業政治家への不信感に根ざしたクリントン元国務長官のプライベートメール問題だったのである。

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ニューキャラクター : ゼレンスキー大統領

トランプ大統領の電話の内容が公開された。形のうえではウクライナの新しい大統領ゼレンスキーさんへのお祝いということになっている。大統領就任ではなく議会選挙で勝ったお祝いだったのだそうだ。このゼレンスキーさんについて調べてみて「新しいキャラが登場したなあ」と思った。民主主義が世界各地で音を立てて崩れている感じである。




トランプ大統領はすでに議会から承認されている支援を止めた上で、形ばかりのお祝いを言い、ドイツは何もしてくれないよね仄めかした。その上でお礼をしてくれと言うつもりはないがと切り出す。これだけを見ると「トランプ大統領はとんだゲス野郎だ」などと思える。

そこでゼレンスキー大統領はドイツは何もしてくれないと同意した上で、ミサイルも買いますからと応じた。

ここでトランプ大統領は民主党の情報漏洩問題に関連しているウクライナの会社について話し出し、ウクライナの検察当局者の名前などをあげながら込み入った話を始めた。

さらにゼレンスキー大統領は自分の友人がトランプ大統領と懇意にしていると持ち出して会話を終了した。

会話にはロバート・マラーという名前が出てくるがこれはロシア疑惑を操作したモラー特別捜査官のことだろう。ジュリアーニ氏は現在トランプ大統領の顧問弁護士をしている。ポール・マナフォート氏はトランプ大統領の選対本部長だった人だが、その後選挙キャンペーンの捜査に協力した。だが偽証が多くその後禁固3年11ヶ月の有罪判決を受けている。こうした多くの人名がスラスラ出てきて話が通っている。実はそのこと自体が極めて違和感を感じさせる。トランプ大統領はゼレンスキーさんと会ったことがないようなのだ。

ゼレンスキー大統領

ゼレンスキー大統領は元々俳優コメディアンでプロの政治家ではなかったそうだ。またウクライナ語があまり得意ではなくロシア語の方が得意なためロシアとの親しい関係を望む一般有権者から支持されたという。背景には前大統領のウクライナ主義がある。

ウクライナにはポロシェンコ前大統領が私腹を肥やしているのではという疑念があった。そこで、政治素人で実績のないゼレンスキー大統領が地滑り的に勝利したという記事を朝日新聞で見つけた。ただ、このゼレンスキー大統領には後ろ盾がいるようだ。ポロシェンコ前大統領にに敵視されていたお金持ちのコロモイスキー氏との関係がありそうだというのだ。

また朝日新聞の記事にはEUの大使たちが大統領のあまりの政治知識のなさに呆れたという話も出てくる。全く政治知識のないはずの人がトランプ大統領と彼の人脈については事細かに知っている。

ポロシェンコ前大統領はヨーロッパに接近しロシアと離れることで政治勢力を保とうとした。それを追い落としたい勢力は当然別の勢力と結びつけばいい。となると彼らの関心事は一体何なんだろうかということになる。

トランプ大統領の電話記録を読んでもすべての人間関係を即座に把握することは難しい。トランプ大統領はロシア疑惑を「ヒラリーのでっち上げ」にしたいという話があり、それとは別にバイデン候補のことも頼んでくれないかと依頼しているようだ。ヨーロッパの大使から「政治については素人」と評されたゼレンスキー大統領なのだが、とにかくトランプ大統領の件についてはツーカーなのである。

壊れゆく共和制民主主義

いわゆる共和制民主主義の国は国内を一つにまとめることが難しくなっているようだ。アメリカはもうそうなっていてトランプ大統領はありとあらゆる手段を使って民主党の選挙を妨害しようとした。まずロシアを味方につけ今やウクライナもて名付けようとしている。ところがウクライナにも国家権力を掌握したい人とそれでは困る人がいる。そこでアメリカと結びついて権力を奪取したということになる。

実は韓国も同じことになっている。軍・検察・保守・財閥という結びつきがあり、それに弾圧された側が政権についた。そこで政権は民意を背景にして検察改革を行おうとしている。この時に保守側が結びついていたのとは違う国に接近するのは定石である。だから朝鮮民族主義が出てきたり中国が出てきたりする。

問題なのはこうした国内の分断が海外と結びつき始めているという点である。ある種国家主権を脅かす病気のようなものだがそれが伝染するように各地に広がっているようなのだ。

こうしてその時の内政によって国同士のアライアンスも流動的に動くというのが現在の国際政治のようだ。決して先行きが読めないのである。場合によっては極端から極端に揺れ動くことになるのだろう。

日本は立憲君主制の決められない国だ。実質的には主権者不在の状態であり、誰も何も決められないし決めたくないからである。そのため関係を構築して固定しようとする傾向がある。おそらく独裁国家や君主制の国とはそれでうまくゆくはずである。しかし共和制の国は次から次へと手を打っていないと相手に食われてしまうという状態になっている。日本人が外交について潜在的な不安を抱えているのは多分そのためなのだろう。先行きが読めなくなったと思っているのだろうが、実はもはやその先行きそのものがないのかもしれない。

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アメリカ大統領の弾劾プロセスにはどのような法的根拠が必要なのか

アメリカで大統領弾劾のプロセスが始まった。これについて日本ではあまり報道されていないのだが、アメリカでは連日政治ショーが繰り広げられている。これについてQuoraでは「どういう規定で弾劾が行われるのか」というかなり鋭い質問があった。実はそんな話は読んだことがなかったのだ。




アメリカではトランプ大統領が選挙のために自分の権力を使おうとしたと問題視されている。具体的にはウクライナへの支援を止めた上で「バイデン民主党大統領候補とその息子が何かやってないか調べてくれ」と頼んだのではないかという疑惑が持たれているのである。この件についてはなぜかBBCがよくまとまっている。

もともと内部告発から始まったこの話だが、やりとりがあったことはすでにわかっていて、トランプ大統領も認めており、結果的に電話の内容も公開された。

ただその前に隠蔽が起きたようだということもわかっている。日本でも加計学園問題でたびたび問題になった記録隠しだが同じようなことがアメリカでも起きていたことになる。

電話協議から数日後、複数のホワイトハウス高官は政府関係者による電話記録へのアクセスを大幅に制限する措置を施した。ホワイトハウスの法律顧問は文書を広く閲覧できる電子システムから米ウクライナ首脳の電話記録を削除するよう関係者に指示した。電話記録は機密性が非常に高い文書を扱うはずの別の電子システムに移された。

米ホワイトハウス高官、電話記録を隠蔽か 内部告発状

日本では曖昧に終わってしまった公的記録の問題だが、アメリカには「国に忠実な」高官がいて内部告発者になった。ここが大きな違いである。元当局者たち300名も捜査に協力すると言っている。アメリカは元当局者が新しく仕事を見つけることができるので自由な立場で愛国心を発揮することができるということなんだろうなあと思った。コミュニティの狭い日本で愛国心を発揮すればその人は裏切り者として集団から罰せられてしまうだろう。だから日本からは全体の利益に奉仕する愛国者は出てこない。

外国の介入をアメリカ人が嫌っていることはわかる。ただ、どの記事を読んでも「民主党が何をもってして」これを弾劾相当であると見なしているのかという答えがない。アメリカ人は外国の干渉を嫌っており、民主党はバイデン候補が狙い撃ちにされたことを怒っていることしかわからないのだ。

まず、議会は上院であっても下院であっても弾劾プロセスを始めることができる。BBCは要するにきっかけはなんでもいいという言い方をしている。

違法かつ(または)非倫理的な行為を犯した大統領に対して憲法が定める対応は、下院の多数による弾劾と、上院の3分の2以上による有罪認定と罷免だ。

米憲法は弾劾の理由を「反逆罪、収賄罪またはその他の重犯罪や微罪」と規定している。詰まるところ、下院がそうだと言えば、何であろうと「弾劾相当の違反」となる。

【解説】 トランプ氏とウクライナの電話に何が? ウクライナ疑惑とは

議会の権限の強力さと大統領との対決というのが立憲君主制の国と決定的に違っているところである。韓国にも同じような構図がある。共和制民主主義の国は主権者と国家権力を調停する人(君主)がいないので「ガチンコ対決」になる。

同時に、弾劾は権力闘争に使われる可能性をはらんでいる。元当局者たちが「どちらかの政党に肩入れするものではない」と言っていることからもわかるように、党派同士の争いだという印象がついてしまうと弾劾劇は失敗に終わるだろう。

また、憲法には、大統領などの地位にある人が勝手に議会の承認なしに外国から栄典を受けたり報酬をもらったり便宜供与を受けてはいけないという規定もある。ここからもアメリカが外国からの介入を極端に嫌う国であるということがわかる。外国生まれで帰化した人が大統領になれないのもその一つの表れなのかもしれない。そこはやはり植民地が独立した国なのである。

弾劾を始めるのは簡単なのだが、それを証明するのは簡単ではない。ニクソン大統領が弾劾裁判を受けかけたがその前に止めているという。なの弾劾が完了したという先例はないようだ。また上院が大統領弾劾に賛成する見込みは今のところそれほど高くない。

さらに民主党の中にも大統領の弾劾まで行くのはやりすぎなのではないかと考える人がいるようだ。つまり民主党の中にも「民主党が権力闘争をはじめた」と見られることを恐れている人たちがいるのだ。

民主党のディベートを見ていると急進的な社会主義者と穏健な民主党の人たちの間に溝ができておりお互いに内部分裂しているというような印象がある。外に敵を作って選挙を有利に進めたいという思惑は垣間見えるので、この下院の動きが国民の支持を得られるかどうかはまだわからない。

早速、ウクライナの大統領がトランプ大統領に機嫌を取ろうとしてお世辞を言ったという話も出てきている。トランプ大統領側は疑惑を晴らそうとして「この程度のことは大丈夫だろう」というつもりで会話を出しているのだろが、あまりにもあけすけであからさまなので呆れてしまう。そしてこれにへつらうようなウクライナの大統領も政治的に厄介な問題を抱えることになってしまった。

これを見て余計なことだが「安倍さんもたくさん武器を買っているから聞かれたくない話はたくさんあるだろうなあ」などと考えてしまった。トランプ大統領と関わることにはリスクしかないということをもう多くの人が気づいているのではないだろうか。

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権限がないのに責任だけ取らされる日本人と誰も責任を取らないイギリス – 主権者と立憲主義

BBCによるとイギリスで大変なことが起きているそうである。歴史上曖昧にしてきた主権者は誰かという問題を議論せざるをえなくなっているというのだ。




ボリス・ジョンソン首相は何が何でもEUから離脱したかった。ところが議会は反対している。そこで議会を停止して既成事実を作ろうとした。そこで女王に「議会を停止しないといけません」と報告して議会を閉じてもらった。ところが議会は首相には勝手に交渉する権限はないと議決し、さらに裁判に訴えて議会停止の判断を無効にしてしまった。伝えられたところでは「虚偽の報告を女王にした」というような言い方になっていて女王をきゅうだんするかたちにはなっていない。

ところが、議会停止の判断自体は英国女王が行っている。つまり、結果的に女王が国民が大切な問題を決める権利を奪ったことになってしまった。そして、臣下の分際である裁判所が女王の判断を覆したという事態になった。歴史上君主が糾弾されたり処刑されたりしたことはあるがあまり居心地のいい状態ではないだろう。だが、裁判所にそんな権限があるのかということを考えると結果的に「誰が権限を持ち、誰が責任を取るの?」という問題になる。政治の世界ではこれを「主権者」という。イギリスは主権国家だがその主権がどこの誰に存在するのかというのは意外とふわふわしている。

そもそも君臨はするが統治はしないというのがあいまいな約束事になっており、イギリスの主権者は議会における王(女王)ということになっているそうである。成文憲法を持たないイギリスは主権者の問題を語りたくない。だから「最終的に誰が責任を持って決めるのか」ということがあいまいになってしまう。首相は代理人に過ぎないので従って逃げられる。とはいえ国民も主権者ではないから最終的な判断は下さない。その責任はないし権限もない。

主権者があいまいながらなんとかやってきたのがイギリスなのだが、ボリス・ジョンソン首相はそれをぶち壊しにしてしまった。だからBBCは戸惑いつつ怒っているのである。

では日本にとってそれは他人事なのだろうか、ということになる。実は日本人も同じ問題を抱えていることに気づく。

日本の首相が日米貿易協定を決めてきた。アメリカに譲歩したのではないかと言われている。有権者は主権者としては当然それをチェックしなければならない。なぜならば最終的に責任を取るのは主権者だからである。平たい言葉で言えば「何かあっても誰にも文句が言えない」のが主権者だ。だが、内閣が説明するこのあとの審議プロセスは恐ろしく曖昧で、ついでにマスコミもほとんどそれを問題にしなかった。

安倍晋三首相とトランプ米大統領は25日午後(日本時間26日未明)米ニューヨークで会談して貿易協定締結で最終合意し、合意文書に署名した。米国産の牛、豚肉は環太平洋連携協定(TPP)水準まで一気に関税を引き下げる。コメはTPPで設定した無関税枠を認めず死守するが、日本の自動車や関連部品への関税撤廃は見送られるなど米国への譲歩が目立つ内容となる見込み。協定文書の法的審査完了は署名より遅れるが、国会の承認を経て早ければ年内にも発効する。

日米、貿易協定で最終合意

さらっと恐ろしいことが書いてある。協定文書に署名するがその時までに法的審査が間に合わないというのである。そして国会審議はすると書いてある。「よくあること」なのかもしれないのだが、署名するということは国会を通すことが前提なのだろうから、すなわち「国会は法的な審査を見ない」可能性がある。国会審議は儀式にすぎないということを誰も(つまり野党も含めて)が本音で了解しているからこそこういうことになる。

多分野党は「反発すること」は決めていてあとは「どこを反発するか」が見たいのだと思う。だから細かい条項が開示されるのを待っているのだろう。Twitterは野党のコピペなのでそれまでは反応しない。野党にも主権者意識はない。彼らが意識しているのは党派だけである。

少なくとも、議会が最終的な責任を負うべきなのだという期待は日本にないことだけはわかる。日本人は自分たちを主権者だとは思っていない。厳密に言うと責任を取らされるとは思っていない。だから主権者の代表が法的チェックがちゃんとできるのかということを気にしないで契約を「はいそうですか」と言って黙認してしまう。日本人が気にしているのは勝ち負けである。野党が勝ったか与党が勝ったか、あるいはアメリカが勝ったか日本が勝ったかを協定の中身から見たいのだ。

なぜこれが好ましくないのか。その答えは憲法に書いてある。憲法第12条の英文原文はthe peopleとthe part of the peopleという言葉が出てくる。日本にはthe peopleがおらず、たくさんのthe part of the peopleがいる。

The freedoms, rights and opportunities enunciated by this Constitution are maintained by the eternal vigilance of the people and involve an obligation on the part of the people to prevent their abuse and to employ them always for the common good.

日本国憲法第12条

一部の人々の国家権力濫用を防ぐためにthe peopleが積極的に関与して監視してくださいねと書いてある。そうしないと権力は濫用されるし、結果責任を問われるのは主権者であるあなたたちですからねと言われているのだ。

そしてそれは一人ひとりではなく総体としての日本人なのである。the peopleというのは集合的な人々なのだが実体がない。実際には野党支持者や与党支持者、あるいは権力を濫用したい人たちというthe part of the peopleがいるだけで、the peopleがいない。つまり日本もイギリスと同じように最終責任者がいない状態になっている。

内閣が憲法の規定を守らないことに「なぜ懲罰がないのか」という人がいる。、これは当然である。主権者の代表だから自発的に憲法を守るべきだし守らなければ有権者全体の判断(the people)で変えられるからだ。アメリカでは今トランプ大統領の弾劾プロセスが進行しているが、アメリカの弾劾も懲罰はなく単に職を追放されるだけなのだそうだ。そして弾劾を決めるのは議会である。

あるいは選挙を通さないならばデモをして反対するという手もあるだろうが、その場合にはデモが国民を代表しているという合意がなければならない。今のデモは野党がやらせているんだろうという了解ができているので国全体にひろがってゆかない。

日本人が主権者意識を持てないのは、なんとなく天皇というものがあり、誰が元首なのかということをあいまいにしてきたからだろう。ただし、これを議論しだしたら多分いつまでも国論がまとまることはなさそうだ。それぞれの「一部の人たち」が我田引水の議論を始めるに決まっているからである。

今回はイギリスと日本という二つの不思議な立憲制の国を見てきた。細かい状況に違いはあるが突きつけられている問題は「誰が最終判断して責任を取るの?」ということである。立憲君主制というのはふわふわしていてつかみどころがない。

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他人と適切な距離が取れない人たちとその対処法

最近Quoraで疲れるなあと思うことが増えてきた。コミュニティが小さいのでどうしても普段接触する人が限られてくる。これが疲れるのである。そこで疲れた時の対処法も含めていろいろ考えてみた。




人が自分の意見を押し付けてくるのはその人が多様な価値観を理解できないからだ。押し付けを拒否するためには自分は異なった考えを持っているということをあらかじめあきらかにしておけばいい。

どうやら多くの人は「個人の考えは様々ある」ということはわかっているらしい。つまり完全に意見が合致する人などいないということが頭ではわかっているのである。だが、それが認められない人が結構いる。わかっていてもその前提で行動しないのである。

例えば、世の中はリアリズムであると考えている人がいる。それはよいのだがアジア人や社会主義に対して強力な蔑視感情を持っており、この部分だけコンパスがおかしくなる。つまりバイアスがかかっているのだ。私は白人・ヨーロッパ社会・資本主義経済を盲従して劣等感をかかけている日本人もたくさん知っているので、盲従する人と威張りたがる人がペアに見えてしまう。なので、そこには賛同できないわけである。

交流期間が長くなるに従って彼らは「韓国は民主主義の機能しないおかしな国であり中国共産党は悪の帝国である」という信仰告白を強要してくるようになった。確かに韓国の民主主義には問題があるが、アメリカやイギリスの議会の混乱も相当なものなんだけどなあなどとかわしているうちに相手は苛立ってくるのだ。

ではなぜ苛立つのだろうと考えてみた。第一の理由は私があまり自分の歪みを相手に伝えていないからなのだと思った。日本人はなぜか自分は中立だと考えることが多い。だから、中立そうに見える相手に自分と同じ歪みを強要してしまうのである。

今回この解決が簡単だったのは最初からキャラを作っていたからである。つまり最初から変な人だということがわかっていれば相手も納得しやすい。若年者が高齢者に対して「その考えは古臭い」という理由もわかった。線を引いて村を分けているのだろう。中には最初から「私は不思議ちゃんです」などといってかわしてくる人もいる。

次にこうした歪みは支配感情に基づいていることが多いようである。自分ひとりではおとなしいのに、民族や国家を代表すると急に体制側に立った物言いをする人がいる。支配側に立っていると思われたいのだろう。そしてそれを否定されると「自分の支配者としての資格」を疑われていると感じてしまうのだ。

こういう人はスーパーマーケットで観察できる。一人だとおとなしいおじいちゃんが妻を連れて買い物に来ると途端に乱暴な言葉遣いになるというのをこの前目撃した。支配欲というのはある種の人間にとっては本質的なよりどころなんだなあと思った。もちろん女性も同じような支配欲は持っているだろう。

第一の点は克服可能である。つまり自分で「私は中立ではありませんよ」と宣言して仕舞えばいい。第二の点はどうしようもない。これは問題を引き起こすだろうが関わらずに放置するしかない。

村には価値体系が一つしかないので「みんなと同じことを考えていること」が中立の価値体系である。日本から見ると中国共産党は「異質な悪」なのだから「良かれと思って」あれは悪だと言ってくるわけである。彼らにしてみればお掃除をしている感覚なのだろう。汚れた思想があればそれは取り除かれなければ安心して暮らせない。

ただ、そうでない人も増えている。だからこそ余計に村人気質が浮き上がって見えてくるようになった。

SNSに一定数いる彼らは遊牧・放浪型と言っても良いのではないかと思う。つまり移動を前提としている人たちだ。移動を前提としている人たちは意見の相違は恐れないしそもそも気に留めない。情報交換は旅を続ける中で危険を察知するためには重要だが価値観を全て一つにする必要はない。つまり情報交換に広がりが感じられるがお互いに縛りあいはない。なぜならば自分が移動できるからである。定住型から見ると逃げ場があるということになるが、移動型の人にはそんな感覚はないだろう。

この移動を前提とするかしないかというのは大きな違いを生み出しているようだ。そして私が「日本人はXXだから」と決めつける時、定住型と移動型について語っていることがあるんだなと思った。日本人の日本性というのは突き詰めれば「移動を前提としていない」ということなのかもしれない。島国の狭い居住空間で暮らす人たちの智恵である。

彼らには「私は村には住んでいないし偏った考え方を持っている」と宣言しておけばいい。どうせSNSは村にはならない。彼らは困った時には面倒を見てくれないからだ。日本はもう村ではない。

ここまでは合理的に説明ができるのだが、欲求としての「支配欲」は日本人の古層に残る。日本の村は強力なリーダーによって統制されているわけではなく村人の相互監視によって成り立っている。そのため日本の民主主義はそれぞれの家の長が支配者意識を持って集団を相互監視しているという姿になりやすい。普段はこの縄張り意識が表面上の治安の良さを作っている。みんなで空気を読んで当たり障りのない暮らしを作っているとも言えるわけである。

これがある種の感情的危機にさらされた時に硬直して様々な問題を起こす。例えば反日探しというのは民衆レベルの支配欲が暴走した形である。まとまりたいがまとまりを作れないので身内に敵を探し出し「純化」を試みる。これは日本だけでなくまとまりを作れない国ではよくあることで、アメリカでは日系人・共産主義者・イスラム教徒(非キリスト教の人たちだ)などが槍玉にあげられ純化の対象になってきた。その都度反省しているが決してなくならない。

日本の場合はさらにこれが内向きになる。たまたま読んだ「愛玩子」と「搾取子」は支配欲が家族をどう崩壊させるかについてかについて観察している。息子・娘を支配したい親が好きな子供には報償を与え嫌いな子供には罰を与える。それを通して家の中で支配者として振る舞うというのである。

父親や母親が「なぜ支配欲を持って子供にしがみつくのか」という理由は語られない。つまりメカニズムはわからない。ただ、外から見ると「支配被支配」関係を明確にしておきたいと欲求だけは明確にわかる。おそらくは支配欲を通じて子供にしがみついているのであろう。子供には逃げ場がなく中には精神的に病んでしまう人もいるようだ。

本物の村を知らない日本人はおそらく原型になるエデンの園のような村のイメージを持っているのかもしれない。そしてある人は政治議論にしがみつきまた別の人たちは自分の持ち物である子供にしがみつくことによって理想の村を再現しようとする。だが、それが身を結ぶことはない。理想の村の像はおぼろげで再現することができないからだ。

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セクシー小泉 – 小泉進次郎環境大臣のほろ苦い外交デビュー

小泉進次郎新環境大臣がほろ苦い外交デビューを果たした。あるテレビ局がステーキを食べたと報道すれば、別の放送局はピザも食べたと報道した。まるで映画スターかアイドルのような扱いである。だが、Twitterでは別のコメントが並んでいた。環境問題をセクシーと表現したのがけしからんというのである。日本では環境問題が「真剣な政治課題とは捉えらられていないんだな」と感じた。




ま安倍首相から見ると環境のような利権が関係しないことはあまり重要ではなく、したがって人気取りに利用できると考えたのだろう。あるいは野党もそう思って取り組んでいるかもしれない。夫婦別姓のような問題も含めて人気取りだと思っているわけである。日本の環境人権とはその程度の位置付けの問題に過ぎない。だが、世界ではそうなっていない。

これまでそれが見えなかったのは日本の大臣が通訳に守られていて直接外国と結びついていなかったからだ。小泉さんはそれを突破してしまった。彼は英語が話せたからである。突破したこと自体は良かったと思うのだが、評価は散々だった。

小泉大臣の英語力は「中身に結びついていなかった」のは確かだ。Quoraでもこの話題で持ちきりになっていて「中学生レベル」と酷評する人もいる。英語が堪能だけに「中身がない」ことが露見してしまう。例えて言えば高校生や大学生がいきなり学会に登場したような感じになってしまったのだ。これが感覚的にわかってしまうことが今回の痛々しさにつながっている。

このことから日本の英語教育が二段階遅れていることがわかる。多くの日本人の英語はカタカナ・イングリッシュどまりなので「英語さえ話せればなんとかなる」と思っている人が多いが、実は英語で何かを学んでそれを人に説明できなければ「単に英語ができるだけ」の人になってしまう。実は日本人が憧れているのはとても空虚な「英語だけができるが何も話せない人」なのである。

さらに環境問題が脚光を浴びたことで日本の環境問題に対する意識の低さも浮き彫りになった。

環境問題はかなりアイデンティティに結びついた難しい問題になりつつある。「Trump’s plan to revoke California’s power to set its own automotive-emissions standards isn’t about cars or California — it’s about Obama」という記事は、トランプ大統領がカリフォルニア州の自動車排出基準決定権を取り上げる予定だと書いてある。カリフォルニアの一部の先進的な人たちにとって環境は大切な問題だが、日々の暮らしに追われている人たちにはとても贅沢で現実離れした要求に見えるだろう。そして自動車業界にとっては業界を潰しかねない深刻な問題に見えている。

カリフォルニアの中でも環境意識には差があるようだ。環境問題に関心がある沿岸地域だけ別の州になるべきだという議論さえあるそうだ。たかが環境問題が州や国の形を変えるかもしれない状況は日本人には信じがたい。原発で海や山が汚されても「他人の県でよかった」と思ってしまう日本人には環境問題が理解ができないのだ。

さらにグテーレス国連事務総長は環境問題を自分の代に解決する課題にしたいようだ。16歳の活動家Greta Thunbergが何もしてくれない大人たちにhow dareと訴えかけるスピーチが瞬く間に世界に拡散した。なかにはThunbergさんがトランプ大統領を睨みつけるというショッキングな写真も報道されている。

日本では「セクシー」が一人歩きしているようだが、実際に反発されているのは、日本(全体)が環境問題について大したアイディアを持たず、福島の問題を放置し不始末を文字どおり水に流したうえ、ニコニコ笑いながら「環境問題をかっこよく解決しよう」と言っているという点にある。これが放置されていることの恐ろしさを日本のマスコミは感じることができなかった。

日本のように余裕があると見なされている成功した経済大国が問題意識を持たないということだけでも理解されにくいのだが、自分たちの国で大事故が起こったのに何のメッセージも発信せず、まるで何もなかったかのようにスマートに行動する姿には違和感を感じる人が多いはずだ。

もともと環境問題や人権問題には「余裕がある人の問題」だと捉えられかねない側面がある。社会主義に関してはシャンパン社会主義という言葉もある。リベラルは金持ちの戯言であって中間層は無視されているという理解である。これが保守層への追い風になるのだ。小泉大臣が現実の問題に一切関心を示さず「環境問題はかっこよく解決したいですね」といってステーキ(ステーキは環境に悪い食べ物とされている)を食べたというのはそれだけで反発されてしまうのである。

もちろんこうした感覚を共有する人は日本にもいる。Yahoo!ニュースでこんな記事を見つけた。

原因となる温暖化ガスを排出するのは、工場や交通機関ばかりではない。食料となる家畜の育成には、1年に生成される温暖化ガスのうち約15%が輩出されるという。中でも牛肉は最も環境負荷が大きく、1kgを生産するのに二酸化炭素換算で14.8kgの温暖化ガスを排出する。これは鶏肉の13倍、ジャガイモの57倍にもなるものだ。

「環境問題はセクシー」と発言した進次郎氏は、「まさか」の坂を転げたのか

意識低い系の我々からみると「なんと大げさな!」と思えるのだが、これが今の環境主義者たちの常識になっているのだろう。世界の一部では環境問題はイデオロギーの領域にも来ているのだが、日本人はこうした感覚をもはや理解できない。実はセクシー小泉環境大臣はかなり最先端の領域に丸腰で飛び込んでしまったのである。

単に言葉尻で非難されているわけではないのだ。

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タワーマンションの混乱 – 民主主義ができない困った人たち

面白い記事を見つけた。タワマンの「一斉老化」が止められないという記事である。面白いのは他人事として観察できるからである。日本人は議論ができないのでコミュニティ管理ができない。つまり日本人は「民主主義ができない」のだ。




この話は貴重なサンプルだ。日本人が民主主義ができないというと犯人探しに変わってしまうか、そんなのは決めつけであるという反発をうむ。<右傾化>著しい日本ではよくあることである。問題が切実になればなるほど「他人に変わって欲しいが自分は何一つ変わりたくない」と考えるのが日本人だ。言い換えれば日本人は自分が先に動いて損をしたくないのである。だから外から日本人の行動様式についてみないと我々日本人は日本人を観察できない。

この記事を読むと日本人ができないことがわかる。

  • 日本人はまとまれない
  • 日本人は話し合えない
  • したがって、日本人は決められない

今回ご紹介するのは、タワーマンションが老朽化すると運営が立ち行かなくなるところが出てくるだろうという記事だ。その内容を見ると「決められない住民」という言葉が出てくる。では何故決められないのか。

タワーマンションは管理費の中から将来の改修費用を積み立てて行く。これが税金のような役割を果たしている。ただ、当初の見通しが甘く「税金」だけでは足りず将来行き詰ることが予想されているのだという。政治家が票を買うために甘い見通しを立ててあとで有権者が困って揉め始めるというのはよくある話だ。この場合は票ではなくマンションを買っている。

いずれにせよ甘い見通しを信じて人生設計した住民はどうしていいかわからない。それでもタワーマンションは上と下で収入格差があり意見がまとまらないようだ。記事には書かれていないのだが恐らく普段は上の方が偉いという上下意識があり下の人は反発しているのではないかと思う。当然「金持ちが多く負担すべきだ」という話になるだろう。また最下層には店舗も入っておりこれもまとめられない。村を原型に社会を組み立ててきた日本人はお互いの気持ちを慮りながら言語化して話し合いをすることができない。

ここで調停を求めるのだが、管理組合は「最終的には決めるのはオーナー様ですから」というような言い方をする。これは政治家や司法関係者が最終的に何も決めないのによく似ている。最終的には同じようなバックグラウンドの人たちだけであつまってバラバラに意思決定をするということが起こっているようだ。つまり、低層と高層で村が分かれてしまうのである。

もともと規制緩和でできた高層マンションにはまた運営のノウハウがない。そこで筆者は「国が入ってなんとかしてほしい」といっている。

国交省は、容積率を緩和し、補助金を投入してタワーマンションの建設を後押ししてきた。「都心回帰」の旗を振った責任があるのだから、一日も早く、ガイドライン作りを始めてほしいものだ。

タワマンの「一斉老化」が止められない…日本を蝕む「不都合な真実」

なんとなく気持ちはわかるのだが「規制緩和」というのは自分たちで判断するから好きにやらせてくださいということである。ところが日本人はここで「自分たちで判断しよう」というつもりにはならない。

住民には「主権者意識」がない。主権者はなんとかして物事をまとめて最終結論を出すという意思が必要なのだということがわかる。リスク評価と意思決定はしないのである。住民は希望は出すがあくまでもお客様気分であり経営のことは考えない。そして誰かに調停を求めていつまでもまとまらずに言い争いをする。裁定者は出てこない。誰も責任は取りたくないからである。だからいつまでも揉め続け、その間にも建物は老朽化してゆく。

多分一生に一度の買い物をした人も多いはずで、課題は切実なはずだ。しかし、それでも日本人はそうなる。本質的に「民主主義」ができないことがよくわかる。多分同じことはタワーマンションだけではなくいろいろなところで起こっているはずである。学級会くらいからやり直したほうがいいとは思うのだが、そもそも学級会運営のノウハウすらないかもしれない。

どうしてそうなるかはわからない。でもそうなるのだ。

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Twitterで絡まれたらまず3本の蛍光ペンを取り出そう

前回は政治議論のために、意見・証拠・反証・印象の4つを分析してみようという提案をしてみた。ただ、このままでは広まらないだろうなあと思う。建設的な議論をしたい日本人はそれほど多くないはずだからである。




日本人が好むのは「他人があたかもその人の意見かのように自分の意見を主張する」のを聞くことと「自分と異なる意見を持っている人がひどい目にあう」ことだけだと思う。社会が同質的な村から出発しており他者の存在を受け入れないのだ。

つまりこの3つの蛍光ペン理論を広めるために応用編を作るとすればそれは「自説を補強し」て「カラまれるのを防ぐ」ところにあるということになるだろう。特にTwitter論壇のコメンテータである我々にとって「カラみ防止」は喫緊の課題だ。なぜならばTwitterは我々の理想の村を再現してくれないし、場合によってはひどいストレスをもたらす。電車の中でスマホを読んでいて腹が立ったらまず心の中に蛍光ペンを取り出してみよう。

まず、相手の文章が「印象」なのか「エビデンスを含んでいるか」を分析する。もし印象だったら「折り合いをつけてもいいのか」「妥協できないのか」ということを決めよう。いったん飲み込んで見て数日置いてみるのも手である。反論には意外と新しい発見があるかもしれない。しかし「それでも折り合えないな」と思ったら特に相手にする必要はない。印象なので折り合うことはできないし多分説得も無理だろう。相手の経験とあなたの経験が異なっている。それだけのことなのだ。黙ってミュートボタンを押そう。

厄介なのはエビデンスを含んでいる場合である。この場合「反証」が含まれているのか、つまり批判を織り込んでいるのかということを見てみよう。もし、特定の立場を補強する証拠だけが集まっているとしたら、証拠そのものでなく取捨選択がその人の態度を表していることになる。その人の態度を変えることは難しいだろう。これは印象なので結局印象で話をしているのと同じ状況なのだ。これもミュートボタン対象だろう。

中にはわざと反論されやすい言い方をして相手を煽ってくる人がいる。その場合には「炎上商法」を問題にすべきであって、その人の歪んだ(あるいは経済的に困窮した)人格や証拠二反論しても意味がない。「嘘をついてはいけませんよ」というだけで十分なように「大切な問題をおもちゃにすべきでない」と言えばいい。これはミュートしなくてもいいかもしれない。だが、最近ではもっと派手なショーを望んでいる人がいて「裁判で訴えますよ」と一般人に脅しをかける人も出てきた。多分戦っている自分が好きなのだろう。相手するかどうかはあなた次第である。

時々、偏った情報を選択していてもそこに批判的な精神を持ち込んでいる人はいる。そういう人であれば「私とあなたの意見は違う」という地点くらいまでにはもって行くことができるかもしれない。最終的に折り合えないとしても議論ができるのはその時点からなのではないだろうか。この議論のメリットは実は相手の分析ではない。自分の意見をチェックすることである。相手の文章を分析する過程で実は自分の議論もチェックしなければならなくなる。

証拠と検討材料(法律用語では反証とは「嘘だと示すための証拠」という意味だそうなので「意見を検討するために考え直すこと」を反証と書いたのは適当でなかったのかもしれない)が含まれているとすれば導き出された意見には何らかの意味があるはずである。

あとは証拠の妥当性を評価すればいい。自分も証拠と検討材料を持っているはずなのでそれをすり合わせて行けばいいわけである。証拠そのものが重要なのであって、最終的な意見はそれほど重要ではないということと、ましてやそれを言っている人の人間性やバックグラウンドは意味がないということは覚えておいたほうがいい。

「最終的な意見」もそれほど重要ではないのはどうしてだろうか。それは議論を通して意見が変わることはお互いに十分考えられることだからである。そもそも意見が全く変わらないなら議論に意味はない。

「日本人は議論ができない」というのはこれまで諦めがちに扱ってきたテーマだった。学校教育が悪いなどと言いながらなかなかその実態がつかめなかった。だが、いったん仕掛けがわかってしまうとそれほど大した問題ではないし克服も簡単なように思える。

実は読書感想文的なアプローチ – つまり読んだものに印象をくっつけて行く – が問題なのであって、別に日本人の知性に問題があるわけではないからだ。

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四本の蛍光ペン – 日本人は議論ができないのだが解決策も簡単

4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。




1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。

まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。

がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。

白い紙を取り出して整理してみることにした。

一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。

ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。

この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。

突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。

自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。

  • 意見・主張・試論(これがメイン)
  • 意見をバックアップするための事実
  • 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
  • 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)

ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。

これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。

エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。

一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。

今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。

これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。

例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。

「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。

そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。

先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。

自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。

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民主主義が多数決という暴力に変わる時

高度経済成長期の人も実はそれほど公共や政治のことを語らなかった。若者は選挙に行かない・政治に興味がないとして「ポリティカルアパシー」などと言われていた。民主主義が日本に導入された時期と比べて高度経済成長期の人たちが政治に興味を持たなかったのは、終身雇用と年金制度が盤石だと考えられていたからだったのではないか。日本は東洋随一の先進国でありライバルはいなかった。すでに周辺国より勝っていて、いまや戦争で負けた国に挑もうとしていた。うまくいっているのだから、あえて新しいシステムを作る必要はなかったのである。




こうした「平和ボケ」な状況に、大人たちにはそれなりの危機感があったのだろう。ウルトラマンのように自衛隊と米軍を模したようなヒーローものも作られたし、川内康範の『愛の戦士レインボーマン』や『正義のシンボル コンドールマン』のように仏教的・東洋的な哲学の民間理解が原型になったヒーロー物もあった。当時のヒーローものには世相が入っている。

川内作品は戦争の悲惨さや強欲の非道徳性などを「子供向けに」解釈したものだ。彼らはそれを正義と呼んでいた。高度経済成長期の正義の理解は印象の寄せ集めであり学術的に体系化されたものではなかったのだが、それで事足りていたともいえる。ヒーローものは「正義に目覚めた孤独な青年」が「一部の悪と戦い」「一般庶民を守る」という体裁になっている。一般庶民はサイレントマジョリティとして描かれているのである。

いずれにせよ当時の子供はこうしたメッセージを咀嚼することなく大人になった。例えばヒーローものはおもちゃを売るために集団化した。さらに、戦いの目的は成長になった。成長と言っても日本の場合はレベルアップのことを成長と言っている。ゲームでスキルが上がって行くようなイメージである。現在生き残っている日本のヒーローものには統合や変容という内面の成長を描いたものはない。とにかく強く・大きく・うまくなることが求められる。日本人は経済成長をそのようなものだと認識していたのだろう。

いつごろから人々が政治や公共について語り出したのかはよくわからないのだが、いまTwitterを見ると政治的な議論で溢れている。ある意味日本人はかつてより政治や公共について話すようになった。しかしそれはSNSの中の話だけである。普段の生活では誰も政治については語らない。それはいままで以上に「厄介ごと」と考えられている。日本人は集団に紛れてしか政治を語らない。

ぽっかりと日常の中にだけ政治がないのだが、お茶の間のテレビにもスマホの中にも政治が溢れている。そしてその政治というのは実は昭和の高度経済成長期の残り香なのである。

SNSを支配するのは怒りに支配された人たちである。彼ら中流層にはかつてのような約束されている未来はないからヒーローのように成長することができない。こうした人たちの一部が「嫌韓」に流れていることは間違いがないと思う。強くなるためには敵が必要だからである。SNSを支えるのは、あるいは定年退職したかつての真面目なサラリーマンかもしれないし、毎日黙って荷物を運んでいる現役のドライバーたちかもしれない。

ところが彼らの敵には実態がなく、したがって勝利の感覚は得られない。そうなるとそのエネルギーはどこに向かうのか。これが恐ろしい。最近トリチウム水をめぐる議論を観察した。

こういう話である。福島原発の処理は進まない。山から水が流れてきた。貯めてみた。溢れてきた。でも海にいま流すと非難されそうだ。漁民は怒っているし韓国は騒いでいる。だからとにかく貯めて、一生面名対策を考えたフリをしよう。うまくいかないだろうがとりあえず土を凍らせてみた。やっぱりダメだった。やっぱりダメみたいです。

誰も責任を取らない日本の縮図がここにある。

ここに明確な悪を求める人たちもいる。裁判では「いろいろ規制をしていたら原発など作れなくなる」と言っていた。司法は自分たちの判決がかろうじて動いている社会の仕組みを止めてしまうのを恐れている。原発が全部止まって電気が不足すれば裁判所が非難されるからだ。多分司法は「国民は理性的にこの問題が解決できる」とは思っていないのだろう。だが、実際に人々が司法に求めているのは「とにかく悪者を作ってその人を断罪すること」なのである。人々は悪を求めているのだ。

だがそれよりひどい人たちもいる。司法は有罪判決を出さなかった。政権が正義に決まっているのだから、誰も責任を取らずとりあえず海に撒き散らすのが正義なのだと言い出す人が出てきた。彼らはつまり正義を求めて暴走する人こそが少数派であり悪であると言い始めた。人々は問題解決ができないヒーローを捉えて悪の組織に売り渡し「自分たちが正義なのだ」と叫んでいる。ヒーローは孤独な一人かあるいはチームであり一般庶民は多数だ。多数決をすればヒーローは負けてしまうのである。

悪夢のようなヒーローものの完成である。

かつてヒーローものを見ていて素直に喜んでいた子供達は正義について真面目に考える時間を持たなかったし持たせてもらえなかった。こうして人々はダークサイドに堕ちてゆくのである。もはや何が正義かなどどうでもいい。とにかくどうにかして勝てればいいのだ。

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