我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。

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反社会組織と吉本興業 – 運命の別れた双子

吉本興業の芸人たちが「反社会勢力とつながっている」として一斉にテレビから締め出された。今日はこれについて考える。




もともと、反社会組織と芸能界にはつながりがあった。つながりがあったというより一体だったと考えられる。吉本興業と山口組に100年のつながりがあるという記事を見つけた。これを読むと「興業」と「反社会勢力」がつながっているように思える。だが、実際には反社会勢力の前身は興業もやっていたし労働組合のような色彩も持っていた。共産主義というイデオロギーと結びついた過激な労働運動は鎮圧されたが、イデオロギーとの結びつきがない方はいわゆる「虚業」と呼ばれていたサービス産業と結びついた。

「食えない職業」になったヤクザという記事に神戸芸能社という記述が出てくる。

傘下組員にも土建、港湾荷役、金融、不動産などの会社を興させたことで、山口組は暴力装置を持つ企業集団となった。そして、双方を組み合わせて巧みに全国制覇に乗り出す。50年代以降その道具となったのは、神戸芸能社の看板スターの美空ひばりであり、田岡三代目が日本プロレス協会副会長として「西の興行」の面倒を見た力道山だった。

「食えない職業」になったヤクザ

美空ひばりの名前があるが神戸芸能社が面倒を見ていたのは美空ひばりだけではなかった。お笑いだけでなくプロレスのようなスポーツ興業も音楽も暴力団と完全に切り離しはできなかった。例えば昭和のレコード会社にも「反社対策」の人たちがいて「その筋の人たちとの調整」を担当していた。地方興業の調整もイベントも「そういう人たちのとの関係」なしには成立しなかったのである。

これが変わっていったのは、芸能がスポンサーの広告によって成り立つようになったからのようだ。つまりテレビの登場によって表の企業と結びつくことでテレビもまた「身綺麗にする」ことを求められるようになったということになる。今回も、アメトーーク!から「きれいな」スポンサーが撤退している。企業はSNS経由で炎上するのを恐れたのかもしれない。社会の不満が悪者叩きに向かいかねないことを企業とテレビはよく知っているのだ。

かつての芸能界はこの辺りをきっちりと分けていたようだ。

なべおさみが「ヤクザと芸能界、全部バラすぞ!なべおさみが見た昭和の大スターたち」という記事を書いている。映画のスターたちは反社会的なつながりが表に出るのを嫌って私生活を表に出さない人たちがいたのだという。映画からテレビの移行期には、テレビのカタギの人たちに迷惑をかけないように、テレビではカタギのふりをしていたということになるだろう。

テレビでは木村太郎が「歌手をお嬢と呼ぶことがその筋の人のステータスになっていた」と言っていた。アナウンサーたちは木村太郎が美空ひばりを名指ししたとは思わなかったようだが、ある世代の人たちにはそれが誰のことなのかがすぐにわかる。

テレビが大勢の芸能人を抱えるようになると、芸能界はクリーンになった。チケット販売も「近代化」され地方の興行主に頼らなくても興業が行えるようになった。こうして芸能界は「普通のサービス産業」になったかにみえた。

しかし、こうした芸能界の出自は時々ヒョッコリと顔を出す。島田紳助が芸能界からいなくなったのは2011年のことだそうであるが、今回もまた同じようなことが起こった。

今回の吉本新喜劇の件は、テレビが抱えられなくなった芸人がかつていた場所に戻っていったというだけの話でもある。もちろん、テレビではなくYouTubeなどのインターネットメディアに進出する人もいるが、先祖返りする人もまた多かったのだろう。だが、SNSによって緊密に結びついた時代にはかつてあった「優しい隙間」はないので、彼らはそれが露見すれば消え去るか忘れてもらうまでいなくなるしかない。

この間吉本興業は近代化に向けた何も努力をしなかったし、これからもしそうにない。吉本興業の会長は遠く離れたバンコクで記者に「教育が悪かった」と語ったそうだ。つまり彼らは一切変わるつもりはないということである。お笑い芸人に依存する以上テレビもこれ以上の追求はできないだろう。

吉本興業がやったのは「研修」と「禁止」だけだ。生活を保障するギャラを払わず契約書もかわさないという前近代的なやり方は残り続け、それを誇らしげに語る芸人もまだ多い。千原ジュニアさんの言い分を認めると「労働契約を交わしてしまうと生活保障をしなければならなくなる」からなのだろう。

千原の発言は芸能界全体の意識の低さを表している。生活保障をしないで「頑張って真面目に乗り切れ」と個人の資質の問題に落とし込んでしまい、問題があった時には「個人が悪かった」といって切ってしまう。日本の悪いところが全部出ている対応だ。そして千原はそれを「外資の参入障壁になっていて好ましい」とまで言い切っている。成功者の部類に入る人は知らず知らずのうちに旧体制を擁護してしまうのである。

もともと芸能人は「こうした意識の低い人たちなのだ」と考えて、芸能人をみるということも可能なのだろう。ただ、最近ではそうもいかなくなっている。お笑いタレントの方が「身近で視聴者目線で」政治を語れるというような風潮もあり、テレビ局に代わって正義の側にたちに社会罰を下す代理執行者の役割を担うことも増えている。

このためテレビは表向きの清廉さを演出するためには「かつていた場所」に戻ってゆく人たちを切り離すか「なかったこと」にし続けなければならないのである。

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日米同盟破棄報道の真相について考える

先日、Bloombergの日米同盟(正確にはアメリカの日本防衛)放棄報道(英語原文)が話題になった。この「真相」について考えた。




出元は3人と複数であり確実性が高そうに見える上に「あの経済紙ブルームバーグ」が書いているのでそのまま受け取った人も多かったのかもしれない。Twitterでは張り切ってトランプ大統領の野望について推理している人もいた。

この騒ぎを見ていて、そういえばマイケル・ブルームバーグさんは政治家だったんだよなあと思った。これがまたかなり複雑な経歴の方のようだ。もともとは民主党だったが共和党からニューヨーク市長選挙に出るために共和党に転じて市長になった。その後2期だった任期を3期に伸ばして再選し任期満了で退任した。

市長退任後はBloombergのCEOに復帰するが、民主党に復帰して大統領選挙に出るのではないかと伝えられた。だが、民主党は現在候補が乱立しており出馬を諦めたようだ。民主党が分裂したままではトランプ大統領に勝てないからだろう。現在では環境問題にお金を使う「いいお金持ち」になったようだ。

Bloombergには「創始者であり過半数の株主である」と書かれているので、Bloombergは実は反トランプ陣営の新聞社なのである。そう考えると「本当に情報提供者は三人はいたのか?」ということも含めて疑問に思えてくる。

日本では辺野古の問題について「土地に価値がある」というようなことを言っていたという発言が削除されているという話があった。

Abe reached a deal in 2013 with Obama to move the base out of Okinawa as early as 2022 if a replacement could be constructed. But Trump believes the land underneath the base is valuable for development, and has told confidants the real estate could be worth about $10 billion, the people said.

安倍は2013年にオバマと2022年までに代替施設ができれば沖縄の外に基地を移すというディールに到達した。しかし、トランプは基地の下の土地は開発価値があり不動産価値は100億ドルくらいあると腹心に話していると人々は語った。

https://www.bloomberg.com/news/articles/2019-06-25/trump-muses-privately-about-ending-postwar-japan-defense-pact

トランプ大統領はFOXのインタビューで「日本との同盟は不公平だ」と語っているので、日米同盟に不満があるのは確からしい。だが、この記事だと大統領ではなく不動産屋として話をしているように聞こえてしまう。「なんかいいそうだ」というのがポイントなのかもしれない。さらによく考えてみると、FOXで日本の悪口を言っているとわざわざ伝えているのも実はBloombergなのだから、多分Bloombergは日本を意識して記事を書いているのだろう。

マイケル・ブルームバーグさんは自分が大統領になりたいわけではない。トランプ大統領を追い落としたいのだ。もし大統領になりたいなら民主党の候補者選定に参加していたはずである。そして、トランプ大統領を追い落としたいのだからあらゆることをするだろう。

これをアメリカ人に聞いてみた。フェイクニュースだという人が二人いたが、もう一人はBloombergは信頼できると書いていた。政権内部に不満がある人がリーカー(通報者)になる可能性があるということである。もしその読み通りなら、偶然3人が同じリークをするとは思えないので日米同盟についてなんらかの意思が働いていて「絶対に秘密を守ってくれる」陣営の新聞から情報を出したのだと見ることができる。つまり政権内部の駆け引きはそれほど熾烈になっていてバランスが危うくなっている可能性があるということだ。

これがリークなのか確実に知っている人が一人いる。それがトランプ大統領である。もしリークだと気がついているなら「この中に通報者がいるのだ」と怯えながら残りの任期を過ごすことになるだろう。

もうひとつ言えるのはアメリカ人があまりにも2020年の大統領選挙に夢中になっているということである。つまり、すべての報道やアドバイスは誰かの思惑がらみである可能性が高いことになる。信頼性は確実に落ちているのだ。

日本人は「マスメディアというのは中道でなければならない」と信じ込んでいる。だから、外国のメディアと外国の選挙の動向がそのまま日本に入ってきてそれが日本の政治に動揺を与えかねないということはなかなか想像しにくい。かといって、こうした報道をすべて無視していいとは言えない。我々は疑いを持ちつつも本当のことはわからないというかなり不確実な状態に耐えなければならない。

とにかくアメリカさえ信頼していれば大丈夫だとしてきた安倍政権はオバマ大統領からトランプ大統領に変わっても変わらぬ盲従の姿勢を示してきた。そしてトランプ関係者とのパイプがなかった政府(外務省はクリントン側が勝つと思っていたようだ)も「安倍首相と大統領の個人的な関係」に頼ってきた。

普通日本人はアメリカがこれほど分断されているとは思わないはずだ。だからこれが一番確実なやり方のように思える。だが、深刻な分断を抱える側からみれば「誰でもいいのか」ということになりかねない。今までメリットだと思っていたものがリスク要因になりつつある。

この安倍首相依存の安易な姿勢は日米関係をさらに悪化させる可能性があると言えるだろうし、イランとアメリカにどっちつかずの態度を取ったことも、中国に安易に近づいたこともこの後大きな禍根を残すに違いない。しかしよく考えてみれば全方位にいい顔をして「いい奴と思われたい」という外交の安倍の一番「いい点」なのである。

周囲が不確実な文、日本はこの先「自分たちがどうしたいのか」を鮮明にして国際社会と付き合う必要があるのだが、よく考えてみればそれは日本人の一番苦手なことなのかもしれないし、少なくともみんなに嫌な顔を見せたくない安倍首相にとって一番苦手なことなのだろう。

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日米安保条約破棄とシーレーン独自防衛

アメリカのトランプ大統領が「日本と中国はシーレーンのタンカーは独自で守るべきだ」と発言した。そしてそのあとで「トランプ大統領が日米同盟破棄を仄めかした」と重ねた。さらにFOXテレビでも日米同盟は片務的だと今度は大統領自らが発言したようだ。G20直前であること、2020年選挙キャンペーンが始まったこと、イラン情勢の悪化などを含め様々なフレーミングで憶測することが可能である。




このニュースからわかるのはトランプ大統領が総合的な戦略を持っておらず、個別のディールをつまみ食いする「その日暮らしの」大統領だということである。日米同盟をネタに日本を恫喝すればある程度のベネフィットを得ることはできるだろうが、アメリカの中東でのプレゼンスがリスクにさらされる。沖縄の基地は中東の後方支援基地の役割を果たしているからだ。これで喜ぶのは中国だ。アメリカがグアムに「後退」すれば自由度が増すからである。日米同盟支持の識者たちは困惑気味である。

次にわかるのはトランプ大統領がたくさんの「オトモダチ」に勝手にしゃべられせているということである。Bloombergの記事は3人の「匿名の人々」がネタ元になっている。同じことは中東でも起きており、娘婿クシュナー氏のパレスティナ「救済」ディールをポンペオ国務長官が「うまく行くはずがない」と揶揄して問題になった。このためなのかイスラエルもパレスティナもクシュナーの登場する集まりには参加しなかったようだ。

話を本題に戻して、シーレーン防衛について確認する。

一方、トランプ氏はツイッターへの投稿で「(ホルムズ)海峡から中国は原油の91%、日本は62%、他の多くの国も同じように輸入している」と指摘した。「なぜ米国が他国のために無報酬で航路を守っているのか。こうした国々がいつも危険な旅をしている自国の船舶を守るべきだ」と不満を漏らした。「米国は世界最大のエネルギー生産国になった。そこにいる必要すらない」と米軍展開に消極姿勢を示した。

「タンカーは自国で防衛を」 トランプ氏、日中に要求 

この62%というのは間違った数字のようだ。細かく刻むことで「ああ、この人知っているな」という印象にはなるが、実際には8割を依存しているそうである。しかし、発言自体は合理的だ。

ホルムズ海峡はアメリカには関係がない。さらに日本は安全保障をアメリカに依存しているという弱みがある。さらにアメリカ民主党が支配する下院は予算を下ろしてくれそうにない。そうなると議会を説得するよりも日本を恫喝した方が「お財布」が得られる可能性は高い。トランプ大統領としてはイランにプレッシャーを与えられれば、そのお財布がどこにあってもよいのだろう。こうしていろいろなところに働きかけをして結果的に「何か当たればいいな」というのがトランプ流といえる。そして成果だけを強調して話すことには自己催眠的な効果も持っている。信念が周囲からの拍手で強化されてしまうのだ。

ただ、これをあれこれ詮索してもあまり意味はないだろう。専門家の情報をいろいろ読んでみたが、そもそも一貫した戦略を分析するのを諦めているようだ。「その場その場で呟いているのだろう」という分析になっているものが多い。大切なのは話を裏読みすることではなく、トランプ大統領も日米同盟ももはや信頼できないということを知ることだけなのかもしれない。

こうなると日本は日本の国益を守るために早速与野党を超えて話し合いを始めた方が良いように思える。日米同盟破棄を通告されたりイランに宣戦布告されたら大パニックが起こるだろうから、今のうちに話し合っておいた方がいい。そのためには争点になるような議論は一時休戦すべきだろう。

例えば、仮にイランの海域で戦争が起こった場合、日本は戦争状態の海域でタンカーを守ることになる。これは専守防衛で片付けられるかもしれない。一方、立憲民主党は「周辺海域の専守防衛」を唄っているのだがこの説明は転換せざるをえないだろう。

我が国周辺の安全保障環境を直視し、専守防衛のための自衛力を着実に整備して国民の生命・財産、領土・領海・領空を守ります。領域警備法の制定、周辺事態対処の強化などにより、主権を守るため現実的な安全保障政策を推進します。

立憲民主党 – 外交・安全保障

しかし、そのためには立憲民主党の顔も立ててやる必要がある。ところが安倍総理大臣は国会総括で会見を開き「悪夢の民主党政権説」をもう一度披瀝し(彼は自民党総裁ではなく日本の首相として会見しているにもかかわらずである)憲法改正に意欲を見せてしまった。安倍首相は国際情勢が変わりゆく中、自ら話を複雑にしてしまっていることに全く気がついていない。

例えば、安倍首相がアメリカの顔色を伺ってイラン封じ込めに参加したとする。日本のタンカーはイランに狙われることになる。さらに集団的自衛の枠組みと専守防衛の枠組みが混乱する。集団的自衛の枠組みでは日本の自衛隊は敵地に近づけないが、個別自衛の枠組みではタンカーを守る必要があるというような具合である。しかし、ここで仲間割れしてしまえばその隙に中国がやってくる。この海路は中国に取っても重要で、なおかつ中国にはアメリカと対抗したい意欲がある。

石油が止まれば原子力という話になるだろう。すると護憲派と反原発が結びつきさらに厄介になる。「テーブルに着いたら負け」という空気が生まれれば、野党支持者は確実に支持を失うだろう。お腹が空いているのに全く妥協しない人たち人たちという印象がつくからである。ところが、自民党は強行採決で押し切ることを余儀なくされ。政治的なリソースは消費され決定は遅れ、したがって国民生活に大きな影響が出るだろう。

潮目は全く変わってしまったことは明白なのだが、当事者たちだけがそれに気がついていない。悲劇のように見えるし喜劇のようにも見える。これが喜劇であることを望みたい。

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秋田県民を非国民呼ばわりする人たち – 他人を縛る喜びを知ってしまった日本人

先日から承認欲求について考えている。今回はイージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかにについて考える。




前回は個人の承認欲求について考えた。日本人は個人の承認欲求を悪いものだと考える傾向が強い。一方で、日本人は集団を通じて理不尽な要求を突きつけることがある。

例示したの理不尽さにはいろいろある。体育会の理不尽な指導、意味のわからない拘束、ハイヒールの強要など、我々の暮らしは理不尽に満ちている。日本人は理不尽さで人を縛ることで「支配している」という実感を得る。合理性は屁理屈とみなされ何の役にも立たない。

個人の承認欲求は罪悪感と結びつけられこれが集団での支配欲に誘導されていると考えるとわかりやすい。一種のフレーミングではあるが、これで説明できることは多いと思う。

例えば、就職活動でハイヒールが強要されるのは「私は自分でものを考えず理不尽なルールでも従う従順で従属的な大人です」ということを顕示している。フラットヒールの靴を履くことは異議申し立てであり、これは日本社会では危険分子である。その危険分子の名前は「自分でものを考える人」である。天賦人権すら否定されかねない日本では、個人主義は危険思想なのだ。

ただその支配者は個人ではないし集団でもない。空気という名前をまとった一人一人の集合体である。ゆえに空気とは、個人でも集団でもない一人ひとりの集まりのことだ。群衆と言い換えても良い。

面白いことに、#KuToo運動には関係のない人たちからの反対がある。彼ら群衆は他人を縛る側に立つことで「自分も支配する側なのだ」という満足感を得る。ハイヒールによる抑圧に何の関係もない大人が多数参加するのは理不尽だが、理不尽なものを理不尽に押し付けるからこそ意味が生まれるのである。

テレビのワイドショーは芸能人の不倫を叩き、最近では小室圭さんの母親の借金について「人格がなっていない」と執拗なバッシングを繰り返している。この場合は視聴者という群衆がいる。テレビの前の人たちは団結して不倫叩きをしているわけではないのだが、結果的には大きな集団を形成しているように見える。

いったん「道を外れた」と認定されてしまうと、社会的な死に至るまでそのバッシングが止むことはない。「この辺りでやめようや」という指導者はいないからだ。叩いた側は理不尽に他人に有罪判決を下すことで「自分は支配している側にいるのだ」という満足感を得る。そこで「当事者たちはどうすればいいのだろうか」などと考えてはいけない。彼らは理不尽さの生贄であり集団の全能感を得るために屠られなければならない。

まとまりがないゆえに敵が必要なのだとも言えるし、村落・企業・家族といった集団に依存できなくなったから群衆化したのだとも考えられる。

村落共同体を失った我々は社会や公共を作るまで、目の前の敵を叩きながら群衆の中に身を置くしかない。それまで、空気として他人を叩く群衆は我々の目の前に立ち現れては消えてゆくことになるだろう。

秋田県の佐竹知事は「県民に対して説明ができない」から反対をしているわけでそれは合理的で政治的に正しい。さらに、イージス・アショアに対する政府の説明は不誠実だ。陸上イージスはハワイ、グアムは守れても日本は守れない?という記事ではそのことが論理的に説明されている。

政府が嘘をつかなければならないのは「国民を説得できるだけの信頼がない」ということを彼らが知っているからである。しかしそこで誰かが「信頼してもらえるように頑張ろう」などと集団を鼓舞することはない。群衆として「理不尽を地方に押し付けること」で権威を保とうとしてしまう。だから防衛省の幹部は居眠りをしても構わない。というより、居眠りをすることで理不尽さを演出しているのである。

麻生太郎副総理のように「あからさまに他人を挑発しても権力から降ろされない」ということを堅持し続けることが唯一の有能さの証になることがある。政権運営に失敗して引き摺り下ろされた過去のある麻生副総理は政策によって有能さを示すことができない。このように理不尽さは理不尽さを生み、化け物のように増殖してゆく。

佐竹知事や県によると、県のホームページなどを介し「非国民だ」という内容などの批判が寄せられているといい、知事は「(陸上イージスを引き受けず)『秋田には原発もなく、日本の何の役に立っているのか』『知事辞めろ』といっぱい来ている」などと嘆いた。

「イージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかに

日本は軍事的にはアメリカに依存しており「顔色をうかがわざるをえない」という情けない状態にある。これを忘れるためには理不尽に他人を貶めるしかない。こうして貶められたのが沖縄であり今その列に秋田が加わろうとしている。そしてそれはさらに広がってゆくのかもしれない。

日本人がものすごく悪意の側に傾いているとは思わない。おそらく個人の中にある「ちょっとした傾き」がこうした理不尽を生み出しているのだろう。雲を近くで観察しても触れることはできない。しかしそれを遠くから見ると太陽の光を遮る黒い物体に見える。群衆による理不尽の押し付けとはそういうものである。

日本はこれからトランプ大統領に「同盟破棄を持ち出され」「応分の負担」を求められることになるだろう。しかし話し合いによって解決できない日本人はますます「反日異分子」を国内に求めるようになるのではないかと思う。前回と違ってGHQは来ないのだから、私たち自身がこの雲に直面し「これはあってはならない」と考えるまでこの状況はなくならないだろう。

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承認欲求が個人で病化するアメリカと集団で病化する日本

承認欲求という言葉がある。英語ではdesire for recognitionというそうだ。Quoraを見ていて承認欲求が「日本では否定的にしか使われていない」ことに気がついた。違和感程度のものなのだが、これについて聞いてみた




これまで村落や利益集団について観察し、次に日本人が話し合いできないという様子を見てきた。他人と話し合えないため日本人は村落(ずいぶん理想化されてしまっているとは思うが)のような居心地の良い環境を再構築できず、今の不安な社会があるのだということがわかってきた。

次に気になるのはなぜ日本人がお互いの違いを尊重しあえないのかという点である。そんなことを考えながらSNSを見ていて日本人が他人の自己顕示や承認欲求をかなりネガティブに捉えているのだなということがわかった。

アメリカで自己実現欲求が肯定的に語られるのは「個人が成長すべきだ」とされる個人競争社会だからだろう。社会的に自己実現欲求を肯定的に向かわせてそれを社会全体の成長につなげようという考え方がある。だが、日本ではそれが育たなかったので社会の成長はとまり日本人は自己肯定感の欠如に悩むようになった。子供の自己肯定感の低さはかなり深刻なレベルにある。

回答がいくつか寄せられたのだが、承認欲求という言葉が「SNSでの行き過ぎた行為」と結びつけられていることに驚いた。SNSでバイトテロをするのが承認欲求だというのである。正直どうしてこういう結びつきになるのかがわからなかった。インスタグラムに出てくるような「無害な承認欲求」は無視されてしまいこうした病的なものだけを心に止める人がいるのだろうなということだけはわかった。

ただ、自己承認欲求が否定的に取らられるのは日本だけの現象でもないようである。アメリカでも承認欲求がネガティブに捉えられるということがあるそうだ。英語にもValidation from othersという言い方があるという。

リースマンの「孤独の群衆」に他人志向という概念がある。第二次世界大戦後にアメリカの社会が流動化したとき、これまでの社会規範に沿って生きられなくなった人が「陥った」とされる状態である。コトバンクに解説が収録されている。この結果、アメリカでは自分の価値観をしっかり持って「他人に流されないようにする」のが良しとされるようになった。

今でもアメリカには自分の軸が持てない人が大勢いるのだろう。個人競争社会のアメリカではこうした人々は許容されない。他人依存の承認欲求がValidation from othersと呼ばれるのではないかと思った。

中には「動物愛護」という大義に頼る人もいる。これが行き過ぎると「他人の迷惑行為が病的に気になる」人たちを生み出す。例えばビーガンは肉食主義者を攻撃したり、捕鯨国を攻撃したりする。個人社会で自己顕示欲求が病化し攻撃性を帯びたのが彼らなのだろう。

そのように考えると、バイトテロが日本流の歪んだ自己承認欲求なのだということがわかる。こちらは攻撃が集団化している。

バイトテロの映像を仲間内で自慢すれば「あいつは度胸があるやつだ」ということにはなるかもしれない。そう考えると「外からは危険視されるが中では度胸が認められる」という集団の承認欲求ということになる。そしてそれは彼らなりの「支配に対する抵抗の形」なのだろう。世の中に空気のような規範があり「それに抵抗してみせる」ことで「まだ飲み込まれていないのだぞ」と示しているということだ。

こうした集団の自己顕示欲求は「空気の奴隷」に攻撃されやすい。最近では「自分に合った靴が履きたい#KuToo」ことすら社会運動になっている。あれは空気の奴隷の解放運動であり、空気に従属しつづけたい人たちから見れば「挑戦されているように」みえるのかもしれない。だから、#KuToo運動に否定的な見方をする人が意外と多い。

我々は「自己の成長による高次の承認欲求(マズロー)」というようなモデルを採用してしまっているので「自己承認欲求」をついつい高次の考えてしまう。しかし空気に飲み込まれそうな個人の抵抗運動も自己承認欲求になるのだろう。そして、空気の奴隷であることを選択した人たちからの攻撃を受けるのだ。そこにあるのは「彼らだけが解放されるのはずるい」という感覚なのかもしれない。

ではなぜ空気の奴隷からの解放運動は人々に反対されるのだろうか。

#KuToo運動で冠婚葬祭業のマネージャーがハイヒールを強要するのは「理不尽なルールを設定する側」に立つことで支配者は誰かを示すためである。こうした理不尽なマネージメント慣行は第二次世界大戦頃にはすでにあったのではないか。

軍隊に入った軍曹レベルの人たちが「平和ならば話すらさせてもらえなかった」ような高学歴の二等兵・一等兵に理不尽ないじめを行うのも理不尽による支配である。軍曹たちは理不尽な欲求を突きつけることで「誰が命令する側なのか」を顕示する。これが戦後の学校教育に導入され体育会のしごきや意味のない拘束につながった。社会経験に乏しく学校しか知らない人たちが行える唯一のコーチングが「理不尽による支配」だったのだ。

こうした理不尽さに従属し「従わせる側」に回ることで、我々は集団を通じた歪んだ自己実現欲求を満たすことができ社会から承認されたような気分になる。これは集団的に病化した自己承認欲求だが、意外と社会から肯定的な見方をされることがある。体罰容認論が未だになくならないのがその証拠である。

体罰も健康を損なう靴が肯定される。よく考えてみるとかなりおかしな社会を我々は生き餌いる。

ようやく村から解放された日本人は、空気という誰が作ったのかもわからない規範にがんじがらめにされ、あるいは進んで捕縛され、お互いを縛りあうようになった。こうした状態で「健全な個人の自己承認欲求」など育つはずはない。自己承認欲求は社会を発展させる起爆剤にもなれば、我々を縛る見えない縄にもなるということだろうか。

自由を諦めた方が楽な社会では「承認欲求は人を苦しめるからなくしたい」という切実な質問が生まれ、それを肯定する回答がつく。お互いが認め合うところから始めれば自己実現欲求を通じて建設的な社会が作られ、理不尽さで縛り合えば「いっそ奴隷になった方が楽」な社会が作られるということだ。

一応の整理が終わったので「インスタで自己実現してもいいですか?」という質問をしてみたが答えがつかなかった。いたって真面目な質問だったのだが、ふざけていると思われたのかもしれない。こうした自己実現はチャラチャラした芸能人に憧れる幼稚な思考であって決して真面目に捉えられるべきではないと考えられているのではないだろうか。

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立憲民主党の最低賃金政策と砂漠化しかねない日本経済

立憲民主党が参議院選挙を前に「最低賃金を全国一律1300円にあげるべき」という政策を打ち出したそうだ。これを「韓国のように失敗する」と指摘する識者がいる。本当にそうなのだろうか。




まず反対派の声を見て行こう。呆れるしかない最大野党の参院選公約という経済学者の議論だ。全国一律で最低賃金をあげると「韓国のように失敗する」と言っている。理由は小売業・飲食業が伸びているからだという。確かにこの産業は生産性の上げようがない。

実際に韓国では就職活動生を含んだ若者の4人に1人が失業状態にありアルバイトすら見つけられていないという。日本もそうなったら大変だという気持ちはわかる。韓国、最低賃金の衝撃でバイト19万件減少…青年失業率が通貨危機後初の10%台という記事で中央日報が詳しく書いている。

ではなぜ韓国では最低賃金の引き上げが失業率を押し上げたのだろうか。それは韓国の経済が単純だからだろう。就職できない人たちが周囲からお金をかき集めて「とりあえずできる」事業を開始することが多いのだという。レコードチャイナが韓国のチキン屋は世界のマクドナルド店舗より多い?韓国自営業の問題点に、ネットも共感という記事を書いている。

韓国では外食産業が簡単に始める人が多いが、生き残るのは30%程度だという。実際に韓国のバラエティ番組などを見ていると、お兄さん(ヒョン)に投資してもらって店でも出そうかという話が頻繁に出てくるし、実際に店を始めるリアリティショーなども放送されている。単純な経済で働いて生きて行こうと思えばとりあえず始められることをやるしかない。ちょっと料理が得意な人がいれば「店でも出せるのではないか?」ということになるのだろう。背景には選択肢の少なさという問題がある。つまり産業が単純化し「一歩間違えば砂漠になる」というところまで来ているのだ。

では最低賃金の引き上げは必ず失敗するのだろうか。デービッド・アトキンソンが全く違うことを言っている。イギリスでは成功したというのである。最低賃金の引き上げが「世界の常識」な理由を読んでみよう。

デービッド・アトキンソンは生産性と最低賃金には正の相関関係があるという。ただ、この記事では「最低賃金をあげたから生産性が上がった」というロジックは書かれていない。つまり、生産性が上がったから最低賃金が上げられたのだということも考えられるし、もともと生産性が高い労働が準備されていて人がそこに移ることができたということなのかもしれない。この文章は途中の議論がスキップされていて(続きは本を読めということなのかもしれないが)問題が多い。

労働政策研究・研修機構がイギリスの最低賃金制度について詳しく分析(PDF)しているのだが、これを展開したウェブ記事は見つからなかった。イギリスではどうやら職種や年齢ごとに細かく最低賃金が規定されているようだ。

つまり、最低賃金保証制度の肝はばらつきを抑えることにあるような印象を受ける。こうすれば日本にあるような歪な二極化はなくなる。一部の終身雇用正社員が非正規雇用を「搾取」するような低賃金労働に依存するというようなことはやりにくくなるだろう。さらに最低賃金は政府保証から企業負担(つまり福祉から就職)という流れに位置付けられているらしい。自立更生を促しているのである。

国は面倒見切れないから自分たちでなんとかやっていって欲しいという方針には反対もあるようだ。最低賃金を引き上げて福祉を削るというような記事もでていて当事者たちが必ずしもこの「福祉切り捨て」に賛同しているわけでもなさそうだということはわかる。

これを踏まえて、アトキンソンの別の記事「企業に「社員教育を強制」するイギリスの思惑」を読んでみる。日本政府は職業教育を国がやりたがるが、これを企業にやらせようとしていると言っている。これらを総合すると、つまりゲームのルールを厳しくして企業を誘導するのがイギリス式で、今の企業(つまり低生産性)を温存しようとしているのが日本式ということになる。

イギリスは産業を一つのアリーナと見立てて企業同士を競わせている。一方日本では護送船団方式方式で一番弱い企業に合わせて生産性の高い企業に競争をさせないというようなことが起こる。そして日本ではそれでも面倒を見切れなくなると「合併」させて大きくして温存しようとするのだ。

労働政策研究・研修機構の資料に戻ると、イギリスがこのような方式を打ち出した背景には保守党と労働等の競い合いがあるようだ。労働党政権は最低賃金を提案して一度負けているので「アイディアのブラッシュアップ」を迫られた結果として、きめ細やかな最低賃金決定の仕組を創案することができたのである。

労働党は当初、最低賃金額を「所得の中央値の 5割」で固定する方式を採用、92 年の総選挙でもこれを主張したが、失業状況が悪化する中で、保守党の「最賃制度の導入は、雇用に対する悪影響を及ぼす」との主張や、広範な企業からの反対に効果的な反駁ができず、選挙にも敗北を喫した。当時、労働党の雇用担当広報官だったトニー・ブレア(94年に党首に選出)はこの結果をうけて、労使などのソーシャル・パートナーで構成される低賃金委員会の提案に基づいて最賃額の決定を行うシステムへの方針転換を決めた。

第 4 章 イギリスの最低賃金制度

最初にこの記事を書いた時「立憲民主党には新しい産業のビジョンがないことが問題だ」という結論で文章を書き終えた。しかし、労働政策研究・研修機構の資料を読んだあとでは「そもそも政府にそんなことがわかるはずはないので、自助努力を促すようにゲームのルールを変える方が実用的である」という感想になった。

「最低賃金1300円」という言葉が一人歩きしているのは大問題だ。年金問題から通しで見るとこれが日本の政策議論の特徴らしいことはわかる。2000万円足りないなどという数字だけが単体で語られてしまい総合政策が作れないのと同じように最低賃金は1300円だいや1500円だという議論がいつまでも続いていて結局誰も何もしない。

その背景にあるのは対論のなさだろう。つまり一度批判され「言い返せないな」と思った時に諦めずに次の案を作れるかが重要なのだ。さらにそのためには「意味のある反論をしてくれる人」を探さなければならない。党首討論のあり方を見ていると、日本の政治家は単に甘えているのかそれとも資質がないのかはわからないが、いずれにせよ対論というものが存在しないということだけはわかる。

もっとも、政権を取るつもりのない立憲民主党が真剣に最低賃金を議論しているとは思えない。彼らは「最低賃金を1300円に上げたいが自民党が邪魔をしている」と言い続けるだけで一定の得票ができるからだ。れいわ新撰組はさらに過激で「政府保証により1500円を目指す」と言っている。つまり賃金を国が保証しろと言っている。つまり、イギリスと違ってすべて国がまる抱えしろと言っていることになる。ただ日本には政治的対論者はいないので、彼らがここから脱却することは多分できないのだろう。

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とにかく戦争がしたいアメリカは戦争10分前まで行った

アメリカがイランと戦争状態に突入する10分前だったというニュースが入ってきた。散発的にいくつか情報が出てきていたが一番ショックだったのがブルームバーグだった。




トランプ大統領は21日に「われわれは昨夜、3カ所への報復攻撃を準備していた。私は何人死ぬことになるのかと質問した。150人というのが将軍の答えだった」とツイート。「攻撃の10分前に私が止めた」と説明した。

トランプ大統領:イラン攻撃は10分前に中止-「相応」でないと判断

トランプ大統領の心理状態がどのようなものなのかというのはTweetをみるとよくわかる。ほぼ選挙キャンペーンの話で埋め尽くされていた。2020年の大統領選挙キャンペーンのキックオフミーティングの高揚感に包まれていたのだろう。そんな中でとにかく戦争がしたいる部下からの一方的な情報を聞き「なんとなく」攻撃を決定したのかもしれない。だが、そのあと「念のために」確認したところ、150人くらい死にますねと言われたらしい。それでそれを止めたのだ。

だが、それほど悪気はなかったのだろう。だからTweetしてしまったということだ。一番恐ろしいのは「もうちょっとで戦争だったんだよね」と気軽に世界に発信してしまったところにあるのかもしれない。

このことから戦争など簡単に起こるものなのだということがわかる。問題はそれが継続できるかである。

日本の新聞を読んでいる人は、世界はイラン包囲網を形成していて国際的にイランを攻撃する空気ができていると思い込んでいるかもしれない。イギリスのようにそう考えている国はあるのだが、実際にはアメリカの言い分に懐疑的な国も多い。

また、民主党もアメリカはイランと戦争をする気がないと言っている。コトバンクで調べたところ、宣戦布告はもともと大統領の権限とされていたようだが「事後でもよいので議会の承認を得るように」と変わっているようだ。さらに予算措置は議会が行う。つまり、攻撃してイランを怒らせても戦争ができない可能性があるのだ。この基本的構造はアメリカが全ての戦争を泥沼化させる要因になっている。大統領が先走り議会が反発すると根本的解決ができず事態が長期化する。被害を受けるのは現地の住人と周辺の国際社会である。シリアの場合は難民の流出がヨーロッパに広がりヨーロッパの民主主義が大きく動揺した。

「大統領の気まぐれで戦争が回避された」というニュースは日本のマスコミではほとんど取り上げられていない。ご存知のように参議院選挙が近くなり「総理大臣が議会を解散するのか」というようなことばかりが話題になっているからである。内政の問題は選挙になれば休戦だが国際状況はその間も刻々と変わり続ける。

しかし、アメリカが単独で戦争を維持できずヨーロッパも協力者がいないとなったとき、これまでトランプ大統領に最大限「いい顔」をしてきた安倍晋三さんがトランプ大統領の要請を断れるかどうかはよくわからない。日本だけが頼みの綱になってしまう上に、石油をホルムズ海峡に依存する日本の方が当事者度合いが高い。

これまでこうした要請を断るのに便利に使われてきたツールがある。それが憲法第9条だった。賛成派も反対派もいろいろなことを言っているが実は自民党はこれを隠れ蓑にしてアメリカの要請を断り続けていたという経緯がある。最近デイリー新潮に「ベトナム戦争の派兵は憲法第9条があるから断ればいい」と田中角栄が言っていたという記事が出たばかりだ。

「角栄は『そういう時には、憲法9条を使えばいい』と返したそうです。アメリカが日本に押し付けた憲法を逆手に取って、日本が派兵しない理由に使うというのは、リアリストの角栄らしい理論だと思います」

田中角栄が「憲法9条」を盾にベトナム戦争への派兵要請を断っていた

安倍首相は周囲の反対を押し切ってまでこのカードを放棄してしまった。その際にわざわざ焦げた肉のような模型まで使ってホルムズ海峡の話をしていたことを記憶している人も多いはずだ。野党が騒いでいた巻き込まれ不安が現実的な問題になりつつある。

さらに、アメリカとイランが国家間の戦争をしたくない場合、イランは革命防衛隊やそのシンパを使って「ゲリラ的に」ホルムズ海峡を封鎖するこができる。ホルムズ海峡は日本にとっては重要な航路だが、アメリカにとってはそれほど重要ではない。

2020年に向けて対立を「演出したい」アメリカ議会はトランプ大統領に戦争をする権限は与えてくれないかもしれないのだ。結局、戦争にもならずに緊張だけが高まった時一番被害を受けるのは日本かもしれない。

そうなればすべてのアジェンダが中止されてイラン対応一色になることは想像に難くない。

日本はとても厄介な問題を抱えたのではないかと思う。「世界で一番トランプと仲が良い」と自認しているのなら安倍首相はテヘランなどに行かずトランプ大統領が軽率な動きを取らないように止めるべきだった。

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大変だ!年金が7兆円足りなくなる!!

今日は国会議論がなぜかみ合わないのかという話を書きたい。日本人が本質的に議会議論ができず党派対立に夢中になってしまう様子が嫌という程よくわかる。




実際に録画してあった党首討論を聞いてみた。確かに安倍首相は何回も7兆円と口にしているので言い間違いではなさそうである。共産党は「高額所得者からとれば1兆円くらいはなんとかなる」と言っている。それを7兆円足りないからダメだと答えているのである。予算の話なので1兆円は1年間に捻出できる額と考えてよいだろう。

ところが何回聞いてみても「どういう算出根拠で出てきた7兆円なのか」という説明はない。そこにどうとでも解釈できる余地が生まれる。折しも2,000万円足りないとかいや3,000万円だというような話が飛び交っていて国民は年金に不安を持っている。そんななか7兆円足りなくなるのではないかというのはインパクトのある話である。他にも新聞では年金資金が14兆円溶けたというような見出しが飛び交っている。知れば知るほど不安になってしまうのである。

さらに、安倍首相は今後の年金支給額の判断を選挙の後に発表しようとしている。選挙期間中は何も説明しないだろう。これも「安倍首相は何か隠しているに違いない」と国民を不安に陥れる効果がある。

問題は不安を煽るだけ煽っても解決策に全く結びつかないところである。そこで与党を信じたい人は「野党は不安を煽って対案を出さないから、そんな話は聞かなくていいのだ」と言ってすべて耳をふさいでしまう。一方野党支持者たちは大変だ大変だと騒ぎ続ける。

ではこの7兆円という話はどこから出てきたのだろうか。新聞などを検索してみたが記事は見つからない。唯一見つかったのはWikipediaだった。

2004年の導入以来、物価上昇率の低迷が続いたことから、マクロ経済スライドによる年金額(780,900円×改定率)のほうが、物価スライド特例措置による額(2012年度は786,500円)よりも低くなっているので、実際の年金額は、物価スライド特例措置による額が続き、結局マクロ経済スライドは2014年度まで一度も実施されなかった。このため、当初からマクロ経済スライドが実施された場合の想定よりも約7兆円も多く年金給付を行っていて、厚生労働省の想定を上回るスピードで積立金の取り崩しが進んでいる。

マクロ経済スライド

どうやらマクロ経済スライドを導入する前に7兆円払い過ぎていたという計算があったようだ。これが、安倍首相の言っている7兆円なのかはわからないのだが、これならつじつまは合いそうである。ただ、この7兆円は単年度の話ではない。

小学校で「何かを比べる時には単位を揃えましょう」と習う。安倍首相はお手伝いさんに宿題をやらせたためなのか小学校の算数が習得できていないようだ。「ああ、共産党か面倒だな」という気持ちも透けて見える。

新聞にはぜひ「7兆円の根拠は?」とか「実際にいくらい減るのか?」聞いてみてほしいのだが、官邸の御用機関になっている記者クラブにそれができるかはわからない。「今は言いたくないらしいから聞かないでおこう」と忖度しているのだろう。

ところが、共産党も負けてはいない。そもそも相手が議論を面倒臭がっているということもわかっているし、新聞社が「ファクトチェック」をやらずひたすら永田町という村の事情ばかりを追いかけていることもわかっているのだろう。さらに有権者も議論の中身には興味がない。つまり日本人はそもそも議論には興味がない。興味があるのは議論に勝つことだけである。であれば「思い切り騒ぎましょう」「不安を煽ってやりましょう」というのは共産党として取り得る唯一の選択肢なのかもしれない。

7兆円足りませんよといえば誰か振り向いてくれるかもしれないと考えてこういうTweetを流しそれが支持者たちに広がるという仕組みになっている。共産党は試算を出しているのだから、この7兆円が単年度のものでないということは知っているはずだ。なので注意深く読むと「1年で7兆円足りなくなる」というような書き方はしていない。

この食い違いの元は安倍首相だ。大学レベルの議論だけではなく、多分小学校レベルの算数も苦手だったはずである。彼が政治家としてやって行けているのは「岸信介」と「安倍晋太郎」の孫であり子供であるからにすぎない。世襲というものの恐ろしさを感じる。ただし、こうした人がのうのうと政治家を続けられるのは日本人が小学校の算数レベルの間違いも「おかしい」と思わないからである。我々普通の有権者がそれに気がつかないのはまだ仕方ないのかもしれないのだが、実は新聞社ですらそれを問題だとは思わないところに根深さがある。今、新聞社が関心を持っているのは解散だけである。

日本では政策ベースのマニフェストが全く根付かなかった。だから、この先も漠然とした不安が払拭されない。だから、閉塞した不安な政治状況に向き合うかなかったことにして無視することになるだろう。そんな中でできるのは自己防衛だけなので、ますます誰も消費をしなくなるだろう。結局政治がデフレマインドを作っているのだ。

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Facebookのリブラが壊す?通貨と銀行

Facebookがリブラという仮想通貨を始めるそうだ。2020年発行を目指すという。




日本語では概ね好意的な報道が流れている。日経ビジネスが伝えるように「あのFacebookが安心できる通貨を始めるらしい」という論調だ。別の記事はリブラはステーブルコインであり投機目的の仮想通貨とは違っていると言っている。背後に実体通貨バスケットの裏打ちがあり、乱高下しないという。

このニュースを聞いたときに「日本円が崩れた時の逃避先に使えたらいいな」と思った。アメリカの銀行口座を持っていたのだが、横行するマネーロンダリングの規制が厳しくなり外国在住の人は口座が持ちにくくなりつつある。

MMT理論なども平然と主張されるようになり、どうやら日本が財政破綻する可能性は高まっているようだ。しかし、これまで大企業でなければ資金逃避(分散投資)はできなかった。都市銀は国債から逃避しているようだが地銀はまだ国債を保有している。このことから規模の小さい企業と個人は否応なく円に縛り付けられてしまうということがわかる。リブラがどれくらいの資金を蓄積できるかはわからないのだが、逃避先としては使えそうである。

ところが、これに水をさす動きもある。アメリカの下院では早くも反対意見が出ているそうである。表向きの反対理由は「Facebookは個人情報保護が信頼できない」というものが。だが、この「個人情報云々」は単なる口実に過ぎない可能性もある。

アメリカには銀行口座を持てない人たちが大勢いる。彼らはUnderbankedとかUnbankedなどと言われる。アメリカでは25%程度がこのカテゴリーに当たるという記事もある。彼らは口座に入れるお金がなく、彼ら貧困層が住んでいる地域には支店すらない。Facebookはあくまでも途上国対策としているのだが、実際にはUnderbankedの人たちもターゲットになる可能性があることになる。

アメリカの銀行が困窮者を無視できるのは銀行などの既存金融機関に代わる手段がなく独占状態にあるからである。もし、中間層がFacebookに流れれば、今度は非効率的な金融機関が打撃を受けることになるだろう。このほかに、現行の国際送金のネットワークが影響を受けるかもしれないという観測もある。

Facebookには別の懸念もある。とにかく信頼されていないのである。

例えばPaypalは決済・移動サービスだがブロックチェーンは使っていないしその必要もない。ギズモードの記事は同じようなサービスはどこもブロックチェーンを使っていないのに、なぜFacebookはブロックチェーンを強調するのかが疑問だと言っている。

さらに「あまり儲かりそうにないものにザックが手を出すはずはない」という懸念もある。トランザクションデータを手に入れればそれを加工して売ることもできるわけで「形としては会社を切り離しているがそれは嘘なのでは?」という疑念がどうしてもついて回るのだ。

イアン・ブレマーは、リブラによってFacebookがますます政府から狙われやすくなるというリスクがあるが、うまく行けば銀行にアクセスできない人に手軽な支払いの代替手段を提供できるようになるかもしれないと言っている。

アフリカのように既存の資本主義インフラが使えない地域では同じようなスマホベースのサービスが爆発的に伸びており、Facebookがここに参入したいと考えてもなんら不思議ではないし、Facebookはこれをうまくこなすだろう。その一方でFacebookが単なる慈善事業としてリブラを始めるとも思えない。

いずれにせよ、「銀行」や「通貨」というかつて我々が当たり前だと思っていたものが崩れつつある。好むと好まざるに関わらず我々は急激な変化に直面しているのである。

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