日本の護憲派は失敗したんだなと思ったという話

社会化されない内心について調べている。ネトウヨという極端な社会現象を見ながらいろいろ考えた。だが、Quoraでそれとは全く異なるものを見た。憲法なんか守っている場合じゃないというのである。




憲法の平和主義精神などというものは日本人には贅沢だと考える人が現れているということである。護憲派は負けたんだなと思った。

この短い議論は「日本が中国や韓国(原文では伏字になっている)に抗議ばかりしているが実効性がない」という質問で始まった。最初にこの質問を目にした時点では2つ「だから憲法を改正すべきなのだ」という回答がついていた。つまり軍事力がないからナメられるのだと考えていた人だけが回答をつけていたのだ。

そこに「国連憲章」について書いた。現在の国連憲章は問題解決のための単独軍事行動を認めていない。連合国(国連のことで具体的には安全保障理事会だ)がまとめて面倒をみるから個別にぐちゃぐちゃやるなと言っている。そもそもそんな必要があるかが疑問なのだが、いずれにせよ日本が憲法を改正して自衛隊を軍隊にしたところで中国や韓国とことを構えることはできない。

すると質問者から「憲法というのは社会情勢が安定している時の約束事」という返事が返ってきた。一瞬頭の中が真っ白になった。今は自分の身に危険が降りかかってきているから「警察」もあてにならないと続いていた。これを見たとき大げさでなく戦慄が走った。この人は憲法というのは贅沢品であって守る余裕がある時だけ守ればいいと言っている。めちゃくちゃなのだが、安倍政権下の日本では必ずしも笑っていられる話ではなさそうだ。

この人は「憲法は警察である国連が機能しているという前提で書かれているのかもしれない」が「国連は機能していない」のだから「憲法なんか守っている場合じゃない」と言っている。そして、確かに国連安全保障理事会が機能していないのは事実かもしれない。欧米社会とロシア・中国は牽制関係にあり、安全保障理事会は駆け引きの場に使われることが多い。そして、それをバックアップしている意見というのは「喧嘩しないと決めている人はナメられるよね」という居酒屋的政治議論だ。新橋のガード下では「一発カマしてやれば韓国も黙るだろう」と続くのかもしれない。

問題なのはこの人が「匿名で無知なネトウヨ」ではないという点である。まず名であって役職名も提示した上で議論に参加しており、情報も集めている。言い方も丁寧で「ちょっと過激に聞こえる意見だったかもしれない」と自省もしている。極めて落ち着いた冷静な理解なのだ。が、その結論は「憲法なんか守っている場合ではない」というものである。

少し考えてみたところ、憲法を粗末に扱っていることが問題なのではないということがわかった。その危機意識が問題なのだ。例えば、ナチスドイツは共産党が我々の暮らしをめちゃくちゃにするといって国会を「民主的な手段」で奪取した。そして、その範囲をユダヤ人に広げて数百万人を殺害した。戦争が終わって「なぜドイツ人はあんな残虐なことをしてしまったのだろう」と我に返ったとき人々の生活はめちゃくちゃになっていたのである。恐怖は民主主義を機能不全に陥れる。トランプ大統領もメキシコの壁の監視カメラ映像をTwitterに投稿し「二期目を務められなければ彼らがやってくるぞ」とほのめかす。

この意見がバランスを欠いていることはもちろん明らかである。北朝鮮は核爆弾を手に入れたので日本が核攻撃される可能性がある。アメリカは巻き込まれるのを恐れて北朝鮮の核攻撃に介入しないかもしれない。つまり現実的な脅威としてはありもしない中国や韓国の攻撃に備えるよりも「日本独自核武装論」の方が優先度が高い。

そう考えてみると、日米同盟という既存のものには過度な信頼が置かれており、なおかつ新しく出てきた変化に対しても過度に反応しているのだろうということがわかってくる。実は変化に対する不安なのだ。ただ、不確実性を回避する傾向が強い日本人がこの「戦後に構築された日米体制の揺らぎ」に心理的にどこまで耐えられるのだろうかと考えるといささか不安な心持ちになる。

ここでもっともやってはいけないことは非難である。これまでの考察では非難は人々を心を頑なにするだけで態度変容には結びつきそうにないということがわかった。かといってほのめかしも効きそうにない。この短いやり取りですでに彼の内心は「ああ、これは外向けに言ってはまずいことなんだな」として抑制されはじめている。日本では平和主義は正義であり正解だ。ちょっとほのめかしただけでも正解でない個人の内心は抑制されてしまうのである。

かといって、彼の内心が変わったわけでもないだろう。つまり「これはヤバイ状況なのだがみんなわかってくれない」という内心を抱えたままになる人が実は大勢いる可能性があるということである。そしてわかってもらえないのは「平和主義という正義を使ってマウンティングする嫌らしいリベラル」のせいだということになってしまうのだ。

これは手っ取り早く支持を集めたい政治家にとっては「宝の山」である。「あの人があなたの財布を狙っていますから私が預かってあげますよ」と言えばいいからである。国民主権などと言ってもそれは脆いもので、冷静でない人の手から権力を奪い去ることなど実に簡単なのだ。

前回は、素朴な内心をTwitterでつぶやいた人たちが「正解でマウンティングしたい」リベラルにバカにされて恨みを募らせてゆくというストーリを妄想した。確かにこういうことはありそうである。

だが、実際はそれほど単純ではないということがわかる。穏やかに「それは平和主義に反する」と言ってみても一旦芽生えた「心配事」が消えることはない。心配事は見えたものだけから構成されており、例えば今回の北朝鮮の核保有のように見えないものは見逃されている。さらに説得しようとすると内心が抑圧されてゆき蓄積されると権力が欲しい人たちに発掘されてしまうのだ。

今一番知りたいのはこうした漠然とした不安とか恐怖心がどのくらい広がっているのかという点なのだが、現実に先導政治家によって引き出されるまでは見えてこないのかもしれない。そして、それが見えたときにはもうあるいは手遅れになっているのかもなどと思った。

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他人を変えたい人と一発ドカンと変えたい人

ダイエットして少しスリムになったので「このまま腹筋が割れるのかな?」と思った。最初はベッドの中でちょっとした腹筋をやっていたのだが、15分くらいの運動にまとまった。最近腕立て伏せを加えたら体つきがちょっとだけ変わってきた。だいたい1年くらいかかっていると思う。変化はとてもわずかなのだが確実に変わっているという実感がある。




「やれば変わるんだな」という達成感は嬉しいものだ。体つきが変わるとちゃんと変化として実感ができるので自分の体をコントロールできているという実感が生まれる。だが、逆に言うとちゃんとやらないと変化が感じられないということでもある。体に気に入らない部分はきちんと努力していない部分なのである。

「毎日コツコツやっていると変化は現れる」のが実感できるということは「やらないと変化が現れない」ということがわかってしまうということでもある。つまり、今まで変われなかったのは誰のせいでもなく「何もやらない自分がいけなかったのだ」ということになる。いわば「自己責任」の世界である。ただし、他人が協力を拒むために使う自己責任ではない。あの自己責任は困っている人の眼の前で扉を「バタン」と閉める拒絶の音である。

前置きが長くなった。今回は虐待やネトウヨという病について見ている。他人を操作したいのにどうしていいかわからないという人たちが増えているのではないかという前提を置いた。ネトウヨや虐待者はその極端な例だが、潜在的にはもっとたくさんの「他人が思い通りにならずイライライしている」人たちが多いのかもしれないと思った。それは裏返せば自分が変われない、変わるために動き出せないということなのかもしれない。

「自分は変えられる」とキレイゴトをいうのは簡単なのだが、ダイエットで一番難しいのは自分の食事のコントロールだ。忙しくて健康に良いものが食べられないとか、子供の頃から習慣で食べているものがやめられないというのが最大の障壁になってくる。中には栄養知識のない人もいて「炭水化物まみれ」の食事が出てくることもあるだろう。コンビニ飯も外食も油と調味料に「まみれて」いる。ストレスがたまるとどうしてもビールを買ってスナック菓子と一緒に流し込みたくなるかもしれない。つまり、こうしたしがらみを断ち切って一人で始めないとダイエットそのものに着手できないという難しさがある。

ネトウヨはそもそも自分の意見を構築するまとまった時間が取れない。情報を集めようとするとすでに極端な思考で炎上商法に走る人たちが大勢いて容易に引っかかってしまう。さらにそれを社会に確かめようとしてうっかり何かを発信すると「それは人権侵害だ」という非難にさらされるかもしれない。食事を見直そうというところまでは良かったが探せたのがコンビニ飯だけだったというような状態だ。

こうして人々は実名で何かを発信するのを諦め、集団になって暴走する道を選ぶ。ただ、これは今に始まったことではなくバブルが崩壊した1990年代からはじまっている。サラリーマン雑誌がLight Right(軽右翼)的なコンテンツを取り上げるようになってきたのがその頃なのだ。

日本社会は、変わりたいのに変われない人たちが持った素朴な政治感情を社会化するのに失敗した。代わりに蔓延しているのが、人権が悪い・憲法が悪い・中国と韓国が悪いという恨みである。政権交代によって政治を変えたいという運動は3年で挫折してしまったので、結果的にこれだけが残った。そしてそれが政権内部にまで浸透してしまったというのが平成末期の政治状況だった。考えてみれば悲惨な話である。

日本は1990年代から経済停滞が始まっていて、それ以降「成功体験」が持ちにくくなっている。ダイエットの例でいうと「やれば痩せるんだな」というのはすなわち「やらないとダメなんだな」ということに気がつくことだ。だが、そういう成功体験そのものがサラリーマン社会にはない。というより成功体験を目指すことすら許されていない。彼らにできるのは現状の維持だけである。買い替えが必要な車をもっと早く安全に走らせろと脅迫されているのだ。

こうした中で変化を望む気持ちだけは大きく膨らんでいるようである。最近気になっているのが、テレビのビジネス向け番組で盛んに語られる「なんとか革命」の類である。政権が使い始めたのが浸透したのだろうが、安倍首相が自力でこんな言葉を発明できるはずもない。大河ドラマと日曜劇場が好きなおじさんたちが考えたのだろう。努力したり話し合ったりして変化をもたらすことが苦手な日本人が「なんか世の中がガラッと変わってくれないかなあ」と思い始めているのかもしれない。例によってQuoraで聞いてみたが「大阪都構想の時にはサラリーマンの支持者が多かったですよ」と教えてくれた人がいた。なるほどなと思った。

自分はどうせ変われないし周囲も動いてくれない。相手を非難しても状況は変わらない。中には弱いものをいじめてうさを晴らす人も出てくる。内に篭ればいじめになり、外に出ればネトウヨ的言動になる。だが、それでも何も変えられないとなると「一発逆転」を狙うようになってくる。状況はそこまで積み上がっている。

革命志向が大きくなり、地道な議論のプロセスを信じられなくなった社会はやがて、全体主義やポピュリズムという政治的機能不全に侵されてゆく。それを防げるのは実は個人の継続的な変化だけなのだと思うのだが、そのためにはしがらみを断ち切って一人で何かを始めるしかない。今の道を降りたらよりひどい選択肢しか残っていないことがわかっているのだから、多くの人たちにとってこれは単なるキレイゴトにしか聞こえないのだろうなということもよくわかる。

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「自分を良く見せたい」というもう一つの麻薬

前回は、ネトウヨ発言を内心の社会化というキーワードで考えてみた。今回は積み残し課題を整理する。それは社会化されない内心を暴走させる善意についてである。




前回は、虐待当事者でない人が虐待問題に首をつっこむことの是非について考えた。東ちづるさんには何の恨みもないのだが、虐待者は取引をしようとしているという仮説は危険だろう。

東さんは「人間は共感的であるべきだ」という立場から飴と鞭を使い分けて取引する虐待者を非難していた。このように取引をする人格を「サイコパス」と呼ばれることがある。助け合いを社会の基礎理念とするリベラルには許し難い「新自由主義的な」人たちである。つまり、東さんは知らず知らずの内にリベラル対抑圧者という構図を作っている。その上で「リベラルを擁護する私」をアピールしていたのだ。

だが、実際は違うのではないかと思う。虐待者は共感概念を持てないと仮説立てすると全く別の可能性が出てくるからだ。ある構図を自動的に当てはめてしまうことで、あるいは救われるはずだった被虐待者が取り返しのつかない傷を負う可能性があるのだが「リベラルな私」に酔ってしまうととてもそんなことには気がつけないだろう。

虐待者に「共感を持つべきですよ」と言っても虐待者は理解しない。が、理解できていないことも理解できないので自分の目に見えているものからなんとかして「共感のようなもの」を想像しようとする。虐待者は慈悲深い自分であるということには価値を置くので「慈悲深い私」を演出するようになるのだ。これは却って怒りを増幅させる。本当の私は慈悲深くないし、相手は依然理解不能だからである。こうして虐待は繰り返される。

これをネトウヨに当てはめてみたい。ネトウヨは何らかの理由で病的に相手をバッシングしたいと考えている。これを正論で諭すのは危険である。なぜならばネトウヨは何らかの理由でリベラルの言っていることが理解できない可能性があるからである。虐待は内にこもる病巣だったが、ネトウヨは外に向かって暴発する。

虐待とネトウヨは攻撃の方向性は異なるのだが共通点もある。自分と違う他者を予測不能な異物と捉えているのである。子供や動物は内心が想像できない人にとってとても恐ろしい存在である。例えるなら自分の手が勝手に動くようなものなのだ。一方でネトウヨは自分たちで勝手に秩序世界を作っており、それに逆らうものの存在を許容しない。例えば女は黙ってお茶を出し食事を作るべきであるのに「いきなり怒り出す」というのは彼らにとって恐怖なのである。

つまりネトウヨという人たちは、韓国人にも民族の誇りがあり、アイヌ人も自分たちの年間行事を通して心の底から「ああ、アイヌの伝統を引き継いでよかった」と思うことがあり、女性が不自由な選択を迫られることなく人生を享受したいのだということは基本的に想像できない。彼らは自分たちの社会を構成する書き割りのような存在であり、それが勝手に動き出してもらっては困るのである。彼らだけでなく世の中の他人は全て自分の人生の書き割りなのである。

つまり虐待は個人的な予測不能性に対する防御反応である可能性があるのに対して、ネトウヨという病は組織的・社会的な防御反応であると仮説できる。だが、柔軟に相手の気持ちを思いやる共感というものが持てている人たちはそれが想像できない。その想像できない人たちが「何でそんなこともできないの?」と詰め寄ってきた時に予測もつかないような反応が返ってくるということである。

そもそもネトウヨが追い詰められたのは2009年に自民党が政権を追い落とされたからである。蓮舫議員の「二位じゃダメなんですか」に代表されるようにこれは善意による粛清だった。彼らは社会的に不正解と見なされて迫害されたという自意識があるのだろうし、安倍首相が「悪夢の出来事」というように実際にそのような動きも多かった。これが補強され「さらに厄介になって戻ってきた」のが安倍政権だ。ある意味社会的正解に対する耐性をつけてきた人たちなのではないだろうか。

アレルギーを根性で克服できないのと同じように虐待のある人間関係は基本的に修復できない。だから虐待は恐ろしいのだが、そんなことをしみじみと語っているような場合ではない。逃げないと社会生活が送れなくなる可能性すらある。同じようにネトウヨも官僚の秩序を破壊しつつある。蔓延する嘘を何とか誤魔化せていた時代は過去のものとなり、外国に出かけた厚生労働省の課長がヘイト発言で逮捕されたり、匿名でヘイトの書き込みをしていた年金事務所の所長が更迭されたりしている。もう彼らは何が正しいかわからなくなり混乱が始まっているのだろう。

我々はわからないならわからないなりにこの状況を変えなければならない。そして、その時に私たちが持っている正解を彼らに押し付けるべきではない。そんなことをしても何の役にも立たないし却って反発心を強める恐れがある。最優先しなければならないのは問題の解決であり病根の粛清ではない。

こういう文章を書いていて私にも「自分を良く見せたい」という気持ちはある。それもある種病のようなもので完全に除去することはおそらくできないだろう。だが、自分にもそういう気持ちがあるのだということは自覚しておくべきだろうと思う。

いずれにせよ「相手が自分の言うとおりにならない」ということが多くの問題を引き起こしているようだ。忙しい人たちは、余裕のある社会なら笑って許せていたことが許容できなくなってきているのかもしれない。昨日も「子供を虐待して殺した」というニュースを見た。こうした苛立ちを社会と共有することができず内側に抱えているという人は意外と多いのではないだろうか。

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問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

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ヘイト発言は麻薬に似ているのかもしれない

世田谷年金事務所の所長さんが韓国に対するヘイト発言で炎上した。Quoraで教えてもらったところによるとIPアドレスで身バレしたそうである。ワイドショーの中にはこの問題を取り上げて個人の異常性をいろいろとあげつらっているものがあった。




この人は、所長(ワイドショーによると外に出された人は本省の課長に比べると偉くないそうだが)までやりながらも自分の発言がどのような影響をもたらすのかということについてはわからなかったということになる。が、本当にそうなのだろうかと思う。ヘイト発言には麻薬に似た中毒作用があるのではないかと思うのだ。

ヘイト発言をしている人たちに話を直接話を聞いてみたいと思ったのだが、これは難しそうである。麻薬を使っていますか?あなた中毒ですか?と言う質問に似ているのでまともなリサーチにはならないだろう。

武田課長の例と違って、この所長はやっている時には「バレたらどうなるのか」と怯えていた可能性もあるのではと思った。人間やめますか?ヘイトやめますか?という感じだったのかもしれないと思うのだ。もちろん安倍政権がヘイトを撒き散らしたとは思わない。が、安倍政権はこうした中毒症状に乗って長期政権を維持している可能性は高いと思う。つまり、日本は一種の戦闘状態にありヘイトなしで生活できない人が増えているということである。

コカイン容疑で捕まったピエール瀧容疑者はコカインのために別の部屋を持っていたという。つまり、「人格のある芸能人」というのとは別の顔として家族のいない部屋でコカインによる開放感を得ていた可能性が高い。同じようにプレッシャーのある仕事をしている人が「別の私」になるために政治的な発言(に見える)ヘイト発言を繰り返している可能性はあるかもしれない。それにしても「他にももっと安全な娯楽はいくらでもあるだろう」と思える。

このような依存症について書いた論文はないかと思って調べてみたのだが、ほとんど研究はされていないようだ。残念ながら、ここにも日本人特有の根拠のない万能感がある。ネット依存を<弱者>のものと勝手に決めつけてしまうのだ。

「ネット依存」という言葉はインターネット移民がデジタルネイティブを揶揄する目的で分析することが多い。2011年の東日本大震災の二年後に書かれた「「ネット依存」の日本的特徴は「きずな依存」」というNippon.comの記事もやや上から目線で書かれている。つまり、ネット依存は「寂しい女」や「自制心のない若者」のものだという考え方である。まず、自分とは関係ない<弱者>が依存を起こすと決めつけた上で分析してしまうのである。

確かに日本のインターネットが変質したのは2011年だという印象はある。Twitterは災害インフラとして期待されるようになり、これが、地震後の不安感を癒すためのツールとして使われるようになったからだ。

他人とつながる感覚を持つのは悪いことではない。しかし、つながりを求めたいがこれといったテーマを持たない人が、相手への憎しみによって他者と連帯感を持つとしたらそれはやはり異常なことである。今回はいろいろなシナリオを立てて所長の気持ちを分析しようとしても全く説明らしい説明にならない。失うものが大きすぎるのである。すると「安倍がヘイトを増長している」とか「厚生労働省は丸ごと変になった」とか「この人がたまたまおかしかったのだ」というような説明がしたくなる。

今回のQuoraの質問には3つ回答がついた。一人は韓国はプロパガンダ国家であると書き込み、直後に表示不可の処置を受けた。それが悔しかったのか仲間に応援を求めていた。そして仲間は「所長は愚か」と切り捨てた上で「やはり逆ヘイトはひどすぎる」と書き込んできた。切り捨てと決めつけはこの種の人たちの刻印のような特徴だが、いったん非難の応酬が始まると議論が「運動会化」することがわかる。

が、元々のヘイトの動機はもっと違うところにあるのかもしれない。賛同する人たちは運動会気分でも元々の人たちの動機は別のところにあるのだろうが、それは当事者でないとわからないように思える。だから本質的に防ぎようがない。

となると、我々ができるのは「政治的発言をしたいなら匿名では相手にしてもらえない」という言論空間を作ることだけなのかもしれない。匿名で運動会が行われるような環境でこうしたヘイト発言をなくすることはできないだろうが「所詮あんなものはゴミなのだ」ということにしていかなければならない。そのためには実名で暮らしの様々なことが安心して語れるプラットフォームが必要である。

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アベノミクスと戦争に引き入れる手口は似ている

前回「バカ」について観測する過程でアベノミクスを肯定する人を見た。政権側が準備した言い訳を使って「アベノミクスはうまくいっている」と言い続けていたのだが、消費税が10%にあがると全てがダメになるとも付け加えていた。消費税は予定通りに上がりそうなのだが、この人はどんな感想を持つのだろうと思った。多分追認するのではないか。




アベノミクスが全く失敗だとも思わないのだが、構造的にはかなりまずいことがある。給料が下がり続けているのである。もちろんこのトレンドはバブル崩壊後から続いているので安倍首相が全て悪いということを言うつもりはないのだが、それを放任するどころか助長しかねないところに安倍政権の危うさを感じる。

政府が人件費抑制に手を貸しているので、企業はどんどん人件費を削る方向に向かいつつある。結果的に企業のケイパビリティは削られてしまうのだがみんなが同じ方向に向いているのでなかなかそれに気がつかない。

終身雇用は将来高い給料を支払うという約束をして若い労働力に依存する制度なのだが、結果的においしいところだけをとって高い人件費を支払わずに済ませようという人たちが続出している。高齢者は雇い止めにする。最近Twitterで流れてきているところでは45歳以上の人たちのリストラがいろいろな企業で始まっているのだという。しかし少子高齢化で搾取できる若者は減ってきているので、これを海外からの労働力で穴埋めしようとしている。しかし、今度は賃金の高い都会に人が流れるので全国一律の最低賃金を導入しようという検討も始まるようだ。こうした動きは企業だけでなく私立学校にも広まっているようである。教育ではなくビジネスとして学校を運営しできるだけ人件費を抑制して儲けたいという人たちが大勢いるのだろう。

こうした動きを止めるためには、ある程度賃金を上げてそれについて行けなくなった経営者たちを切って行く必要がある。だが、自民党にしろ公明党にしろ地方の経営者に支援されている政党なのでそれができない。

本来なら労働者たちは安倍政権を見限りそうなものなのだが、実際にはそうなっていない。前回は党派性で説明を試みた。確かに運動会は人を夢中にさせるところがあり、これで説明できるところも多そうだ。だが、実際にアベノミクスに取り憑かれた人たちを見ていると、単に競争に夢中になっているようにも思えないのである。それくらい普通の人たちの間にも「病としてのアベノミクス」が浸透している。

いろいろ考えてみたのだが「私たちはこんなきつい状況の中でも働いているのだから、ラクをしようという人たちが許せない」という気持ちがあるのではないかと思った。つまり辛いのにアベノミクスを見限らないのではなく、辛いからより応援するのではと思ったのだ。「こんなに辛いのに俺はまだゲームができている」という気持ちが人々をアベノミクスにコミットさせているのではないかということだ。彼らはむしろ「成功者」としての万能感を持っているのかもしれない。

もちろん、これを科学的に検証するのはなかなか難しい。何かの質問や統計を調べてみようと考えてみたのだが、こうしたマインドセットを説明するような資料が見つかりそうな気がしない。

こう考えたのは「アベノミクスは総動員の戦闘態勢に近いのではないか」と考えたからだ。戦時中を扱ったドラマでは全ての人が「戦争に疑問を持っていた」ということになっているのだが、それは嘘だ。実際には「お国のために我慢しろ」といってプレッシャーをかけてくる近所の人たちというタイプキャストが出てくる。婦人会だったり防火訓練のおじさんだったりする。しかし彼らには彼らなりの動機がある。例えば「息子を戦死させてしまった」人はどうにかして戦争状態を正当化しなければならない。戦争を無意味なものと認めてしまうと、その瞬間に無駄に息子を失ってしまったことになるからである。

むしろ戦争で儲けた人たちは他人に辛さの共有をしない。彼らは「自分たちだけが得をしている」ことを知っているのでそれを知られたくないのである。こうした人たちを戦争を礼賛しない。むしろ戦争で辛い思いをしている人ほど、他人にもその辛さを押し付けようとするのだ。

冷静に引いて考えると「人材が足りなくなっているのにより低賃金に流れて行くのはおかしい」と思えるわけだが、それがなかなか受け入れられない。それはすでに我々のマインドセットが新しい戦時下に突入しているからなのだろう。そしてこの戦争はまだら模様になっている。全く感じていない人もいれば、ものすごく不機嫌な人もいる。例えば、コンビニでたまにものすごくイライラしている人を見ることもあるし、道路をとてつもない速度で飛ばしている人たちもいる。緩やかな日常と戦争状態がまだら模様になっていてとても見えにくくなっているのだ。

だとすれば、我々が社会としてできることは一つしかない。説得も世界の共有もできないわけだから、死ぬまで戦争を続けるか、社会全体が惨めな敗戦を迎えることだけが唯一の解決策になる。人々が協力すれば乗り越えられるはずなのに「本質的に解決できないのではないか」というのは極めて残酷な話に思える。

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「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

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人材に投資しなくなった日本は韓国に負けた

日本のエンターティンメントが韓国に負けているというエッセーを読んだ。人材に投資しなくなったことで負けてしまったのだ。日々嫌韓に勤しんでいる人には耳を塞ぎたくなるニュースかもしれないが、K-POPが日本で人気があるのは偶然ではない。日本のエンターティンメントが堕落してしまっているからである。以下、詳細を見て行こう。




AKB48の影響力が下火になっていて2019年は総選挙をやらないそうだ。きっかけになったのはAKB48グループからK-POPのオーディション番組であるプロデュース48に出場者を送り込んだことらしい。リアリティーショーでさらされることにより韓国と日本の育成システムの差がはっきりと現れてしまったのだ。国内リーグはメジャーに行けなかった人の溜まり場になってしまうのでコンテストをしても意味がないのである。面白いのはこのプロデュース48という番組が地上波ではやっていないという点である。にもかかわらずこのインパクトは相当なものだった。政治ニュースで「NHKが取り上げない」ことがよく問題になるが、実はこれは有権者が高齢化しているからなのだ。

記事によると、AKB凋落の直接の原因はビルボードチャートの導入だそうだ。筆者はビルボードチャートについて「CD販売数だけでなく、音源ダウンロードやストリーミングでの再生数、動画再生回数など7つの項目で楽曲をランキングしている」と書いている。このためCDの売り上げ=人気という偽装ができなくなってしまったのである。アベノミクスが既存統計をハックすることで好況を偽装してきたのと似ているが、こちらはもっと単純に「おまけをつけてCDを売ればいいのだ」というようなことをやっていた。このランキングを元にキャスティングが決まるのでテレビでの露出も増えるというようなからくりである。が、足元ではパッケージ離れとテレビ離れが起きていた。

ところが48グループの真の問題点はもっと深いところにあったことがプロデュース48で露呈してしまった。韓国では若い人たちに投資をして競争をさせる。だが、日本では「そこそこの人たち」を出してきてチャートに合わせて人気を演出しさっさと売り出してしまう。つまり、日本人は人材にお金を使わずシステムに依存してしまうのである。つまり日本人が劣っているわけではなく、日本社会がやる気のある人たちを生かしきれなかったことが今回の人材流出の背景にあるのだ。

これはMBAで海外の経営を学んできた人たちが日本でその知識を生かせなかったのに似ている。日本がまだ「Japan As Number1」とされていた時、企業はハーバード大学やウォートンビジネススクールなどに多くの人材を送り出した。彼らはMBAで多くのことを学んだがそれを生かすチャンスはなかった。派遣元の経営者たちが抜本的な改革を嫌がったからだ。結局MBAホルダーたちは日本で埋もれるかせっかくお金を出してくれた企業を「裏切って」外資系に転職するしかなかった。

同じようなことがこのエッセーには書かれている。高橋朱里という人のインタビューが引用されているのだが、これは多分高度経済成長期の終わりにMBAホルダーの人たちが持っていたのと同じ感覚なのではないかと思う。私は一生懸命やりたいがそれが認められる土壌がないから私は外国に行きますと言っている。そしてそこにはファンも含まれているのだ。ファンを見切ったというのは少し胸が痛くなる話だ。

そのつもりで私はやってます。だけど、全体のシステムを変えることは難しいと思うし、それを強要するのはファンのひとに対しても違うと思うんです。

松谷創一郎「高橋朱里が『PRODUCE 48』で痛感した『日本と韓国の違い』」 『現代ビジネス』2019年1月22日/講談社

これを読むと、日本はこの平成の30年の間「優秀で熱心な人たちを生かせず外に放出してしまう過疎の村」から脱却できなかったことがわかる。私たちは何も変えられなかったのかもしれない。

ここにきて48グループ商法は急速な劣化を見せている。一つはマネージメント能力の劣化である。秋元康に忖度して偉くなった人が多いのだろう。NGT48で山口真帆がファンから暴行を受けた問題では山口本人が釈明記者会見にリアルタイムで反論し会見は3時間に及んだそうである。(スポーツ報知

また、京都では外国人に向けて8,640円という値段をつけた公演がうまく行かず戦略の大幅な見直しを余儀なくされているそうだ。(京都新聞)こちらは秋元康が総合プロデュースをしているそうだが、日本では実力を偽装できても外国人には全く通じなかったことになる。週刊プレイボーイで中身が見られるが惨憺たる仕上がりだ。ただ日本のシステムに慣れきっていてインターネットを知らない秋元さんに総合プロデュースを任せるのは少し酷な話なのではないかと思う。

筆者が「48グループはランキングの仕組みをハックして自分たちの実力をより以上に見せていた」と書いていたのだが、同じことが政治の世界でも起こっている。現在の政権は統計をよく見せたり、株価を底上げすることで「経済はうまくいっているのだな」という印象操作に成功した。このことが「印象さえ操作できれば本質は変えなくてもいいのだ」という怠慢につながり、実際の経済が国際競争力を失うことにつながっているということに、もう多くの人が気がついている。そして優秀な官僚はその手腕を発揮することができなくなり日本のトップ人材を引きつけられなくなってゆくだろう。有権者に見切りをつけて優秀な人は海外を目指すのだ。

政治の世界が問題なのは、音楽のように「新しい要素を取り入れた統計を作ろう」という動きが全く出てこないところである。それができるのは、今政権の中にいない野党の人たちだけであろう。中には経済通の人やもともと日銀で働いていた人などがいる。つまり、やろうと思えばそれを作ることができる人たちがたくさんいるのである。にもかかわらずそういう人たちに光が当たっていないように思える。野党もまた人材を生かすトップリーダーがいないのだ。

日本のエンターティンメントはK-POPに負けつつあるが、ジャニーズのように現役出身の若手を起用してネット活用を模索し始めた会社もある。日本人はもともと優秀なのだからやり方さえ変えればきっと復活できるだろう。海外のアーティストにもアンテナを張っているファンがいるからこそ「これではまずい」という危機感を持つことができるのである。なので、政治や経済の分野でも同じことができないはずはないのだ。

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最低賃金が引き下げられて、都会では貧困層が生活できなくなる?

先日、厚生労働省の武田賃金課長が韓国で立ち回りを演じてニュースになった。マスコミはこの話題を「春先に変な人が出てきた」という論調で伝え、Twitterもそれに乗っかってしまっている。このTwitterのおかげで政府は本来の議論を隠すことに成功した。Twitterも使いようなのだ。




この文章を読んでいる人たちを含めた全員が「バカだから騙された」という前提で議論を展開する。読んでいる方は「この文章の書き手は自分をバカ呼ばわりしおり、失礼極まりない」という前提で以下を読み進めていただきたい。

現在の最低賃金は地域ごとに決められている。これを業種ごとに設定しようという動きがあったというのが「春先の変な人ニュース」の影で報道されなかった文脈である。これが話題になったのは3月7日のことだそうだ。伝えられているところによると、厚生労働省の「ある課長」が自民党議員連盟会合で提言したことになっている。発言の後にも「マスコミに向けて年内にまとめたい」と意欲を見せたので気の迷いではなかったということがわかり一部の界隈で評判になった。しかしこれは日本の賃金行政の大転換になってしまうので、菅官房長官が火消しに走った。すべてのニュースは一官僚の意見であってはならない。見え方としては「安倍首相の指導力の賜物」であるべきなのだ。

ダイヤモンドオンラインは「地方の最低賃金が上がる」という前提でこれを南欧に例えて分析している。これを書いた人は問題がわかっているので、今回の定義ではバカではない。ここに南欧が出てくるが「バカ」にはこれがわからないはずなのだ。南欧と聞くとギリシャ危機が想起され、別の人が日本はギリシャと違って外国から借金していないし独自通貨も持っているといって議論を収束させてしまう。

現在、アベノミクスの成果は結果的に大企業に偏っている。応分の負担を求めてこなかったからである。このため東京の景気だけがよくなり地方が取り残されるということが起きている。野口悠紀雄は零細企業から人が離れて大企業に移るときに、非正規転換が起こったのではないかと分析している。正規から非正規に移ることで大企業は安い賃金で多くの人が雇える。こうして落ち込んだ零細企業の中には小売りと飲食が多く含まれているそうだ。経済は再び成長を始めたのだが、それは大企業が地方と零細を切り離すことに成功したからなのである。

大企業は東京など一部の都市に集中しているので都市の経済は潤うだろう。するとますます地方が疲弊する。これが都市と地方の賃金格差を拡大させる。すると、地方で外国人を雇ってもいつの間にか消えてしまい都市に流れることになる。日本人はどこに流れても構わないのだが、海外からの労働力はそうは行かない。この問題を統一的に管理する部局がないのだ。厚生労働省は「不法労働者としての外国人」管理を迫られることになるだろう。だが、実は入国管理局は法務省の管轄であり、企業を管理するのは経済産業省である。複数象徴にまたがる複雑な状況が生まれるはずだが、官邸にその種の調整能力があるとはとても思えない。多分誰かが「なんとかしろ」と叫ぶだけだろう。

実はこれが別の種類のバカになっている。つまり、優秀な人がいても全体を統括することができない仕組みになっているのである。視野は限られできることも法律でがんじがらめになっているという世界だ。

実際に今回の最低賃金闘争では何が議論になったのかがよくわからない。実は議論そのものが行われていないのではないかと思う。つまり、それぞれがそれぞれの正解を抱えているがそれが話し合えない状況があるのではないかと思うのである。するとそれぞれの正解を抱えている人は自分の正解を証明するために「実力行使」をして一点突破を図る必要が出てくる。それが突然の「ご説明」であり韓国での騒ぎなのだ。

自民党の人たちはこれが何を意味するのかわからなかったのではないだろうか。それはこの政策転換が自分たちにどのように得になるかがわからないからである。これが今回最初から書いているバカの正体ではないかと思う。つまり、具体的な影響を聞いてその損得がわかって初めて「賛成反対を決める」のが今回の「バカ」の正体である。これまで安倍政権は官僚が書いてきた作文に「バカにでもわかる解説」を加えることで長期政権を保ってきたということになる。

まとめると次の三種類の人たちがいる。「バカ」と言っていたが実はバカではなく「論理に豊かな色彩がついて見える人たち」だったということになる。逆にいうとバカでない人は「色が見えない」か「あるいは色ではなく形を見るように訓練されている人」ということになるだろう。ではその色彩とは何なのか。

  • 論理的に全体像を構成するが「バカ」が何を気にしているかがわからない人たち
  • 具体的なことを聞いて損得を判断する人たち(第一のバカ)
  • 全体を見ることができないか許されておらず限られた視野の中で論理的判断を下す人たち(第二のバカ)

第二のバカである武田さんが考えたのは賃金政策である。彼の持ち場なのでこれは彼にとっては考えられた正解なのであろう。都市への流出を食い止めるためには最低賃金を一律にしてしまえばいい。都市の魅力はなくなり却って物価高が嫌われる。これは実は完璧な回答なのである。問題はそれを他部局とすり合わせていないという点だけなのだ。

賃金を一律にすると「都市で最低賃金で働く人たち」の給料が低くなるか「地方で最低賃金で働く人たちの」給料が高くなる。ダイヤモンドオンラインの最初の記事は「人件費が上がるから地方の経営が圧迫される」という前提で書かれていて「これを交付金でバランスするのではないか」と書いている。一方、前回の記事と今回のタイトルでこのブログが煽ったのは逆側である。つまり、東京が地方に合わせれば「東京で最低賃金で働く人」の生活が圧迫される。経済的な埋め合わせはできるのだが、これが選挙でどう響くのかというまた別の要素もある。

日本の政治議論というのは運動会になっており、与党か野党の政治家が主張して初めて「村の意見」になるという構造がある。これまで「バカ」と書いてきたのだが、実はTwitter論壇は「その意見が自分たちの陣営での勝利につながるか」ということをかなり敏感に感じ取っており、それ以外のものには反応しないようにできてるのである。つまり「バカ」ではなく鋭敏な感覚を持っている人たちなのである。逆に色がが付きすぎていて、論理好きの人が「本質」と考えることがわかりにくくなっているのとも言えるだろう。論理好きの人は「その論争に勝ってどうするのだろうか」と考えてしまう。

いずれにせよ、民主党系の野党がこの問題に気がついていないのは自民党にとっては幸いである。もしこれに気がついた人がうまく料理すればかなりの炎上材料になるだろう。野党が都市で勢力を握りたければ「東京に貧困層が増える」と煽ればいいし、地方で勢力を握りたければ「地方の経営が圧迫される」と言えばいい。

この「持分に集中して損得だけを考える」というやり方は高度経済成長期にはうまく機能してきた。つまりバカではなかった。だがその前提になっているのは、基本的な構造がうまくできており「どう利益を分配するか」ということだけを考えていれば良かったという世界である。しかし、現在の議論は「どうやって損を捨てるか」がベースなので、損得勘定だけを考えていると「誰かが損を被る」ことになり、その損はどんどん苛烈なものになる。大企業は中小企業と消費者に痛みを捨てて逃げた。今度はその痛みを都市の住民に被せるのかそれとも地方にばらまくのかという議論になってしまう。その過程で損が濃縮されるとう構造がある。

実際には「何がどうなっているのか」ということはもう誰にもわからない。野口悠紀雄は今あるデータから構造の一部を抜き出して見せたのだが、これを気にする人はほとんどいないだろう。自分にとって得なデータなのかがよくわからないからである。もし、彼が「消費者は傷んでいるから消費税は今すぐ廃止すべきだ」という文脈に乗ればあるいは聞いてくれる人もいるかもしれない。問題は解決しないが「運動会」に乗るからだ。

有権者も政治家も第一のバカなので、本来は問題意識を持った人たちが様々な統計情報を探してきて全体を検証する必要がある。つまり第一のバカのマインドセットは変えられないが、第二のバカの状況は変えられる。多分日本の官僚組織はこうした一部のエリートたちの集団作業でうまく回ってきたのだろう。

野口先生の統計分析を見る限り、消費税が日本の小売りに与えた影響は大きそうだし、地方と零細企業がこれにやられている可能性は高い。だが、日本の官僚は官邸に分断されてしまったので、もうこれもできない。あとは各々が檻の中で各々の正解を叫ぶという動物園さながらの光景が展開されるだけのはずである。その中心では安倍首相が「すべてはうまくいっている」と叫びながら檻の前をうろうろとさまよっている。

いつかは全体像を理解しなかったつけを支払うことになるだろうと書きたいのだが、どうもそうはならない気がする。あとはNHKが疲弊した地方と困窮する都市住民を「不幸で可哀想な人たちがいます。助け合いでなんとかしなければなりませんね」と取材して終わりになる可能性の方が高いのではないだろうか。これを見て視聴者は「ああ自分の問題でなくて良かった」と安心するわけだ。

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追い詰められた厚生労働省官僚が韓国の空港ででピンポンダッシュしてしまった件

質問サイトというのは面白い。先日書いていて図らずも安倍首相の功績について書いてしまった。が、論理的に導き出したものなので感覚とずれていてもこれは「正解」なんだろうと思う。ただ、この<正解>は政治を救う代わりに官僚機構を破壊したと思う。




質問は、嫌韓・嫌中の人はなぜ日本の家電で韓国製品に遅れをとっていることが気にならないのかというものだったが、「家電と韓国は関係ない」と言っている回答者が多いことに気がついた。日本の家電が優れていたことを知らない人が出てきているのである。

そこで嫌韓には二つのフェイズがあるのだろうと書いた。ゴーマニズム宣言の初期には実は韓国は日本のライバルではなかった。1988年にオリンピックが開かれ民主化が始まる。このあと1991年から1992年にバブルが弾ける。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年頃だそうである。そして多くの人はバブル不況はいつか終わると思っていた。

この後、徐々に韓国の家電が市場に出回るようになり、日本はアジア唯一の優等生ではなくなってしまう。それどころか証券会社が潰れたりすることになった。日本がまとまれないのにどんどん韓国や中国が伸びてくるのを目の当たりにした時、日本人の中に焦りが生じた。これが嫌韓発言につながってゆくのである。

ところが、今の嫌韓はそれとは違っている。もう若い人たちは日本が家電大国だったという時代は知らないので韓国をライバル国だとは思っていない。だから回答として「なぜ家電を持ち出すのか」などと言ってしまうのだ。すると、韓国がライバルではないのになぜ嫌韓発言が出てくるのかという謎が生まれる。

これについて考えていて、一通り回答を書いてから「2009年頃が断層だったのだな」と思った。2009年の政権交代から東日本大震災のあった2011年をはさんで民主党政権が終わる2012年頃までに状況が変わってしまったのだ。

自民党が下野してから二つのことが起こった。天賦人権がいけないから自民党が下野したという憲法改正論と、保守系の「安倍晋三を慰める会」である。もともと、北朝鮮からの拉致被害者奪還でその界隈のヒーローになっていた安倍晋三が保守系雑誌と接近したのである。

このころの日本人が気にしていたのはこれまで循環的に起きていた好景気が消えてしまったということだった。つまり高度経済成長期が終わり低成長の時代に入ったことを気にしていたわけである。そしてこれを「デフレ」という本来の経済用語ととは違う言葉で説明しようとした。そして民主党はそれに乗って「デフレを起こしているのは自民党政治だ」と単純に説明した。多くの人たちはこの話に乗ったが、一部の人たちは自分たちの日本が攻撃されていると感じたのだろう。「日本を取り戻す戦い」を始めてしまう。

民主党政権が国民に失望されて終わると、安倍首相は円を下げて株をあげてみせる。これがリーマンショックの回復期に重なった。すると投資が割安になった日本に集まるので株価が上がる。安倍首相は「これで経済は回復しましたよ」と宣言した。これが「もはやデフレではないという状態を作り出す」という意味である。

もともとデフレでないものをデフレといっていただけなので、もはやデフレではないというとあたかも安倍晋三が何かをしたように見えてしまうわけだ。経済がわかっている人にはこんな無茶苦茶なことは言えない。だが、引き続き経済がよくなったわけではなかったからなんらかの敵の設定が必要である。

ちなみに本当の敵は明確である。大企業が生き残りを図るために労働者と零細企業を犠牲にしているのだ。ダイヤモンドオンラインに「大企業の著しい利益増加は零細企業の惨状と人件費抑制が原因だ」という野口悠紀雄の分析があるが、経済がわからない人が見たら「野口さんは共産党員なのか」と思うだろう。安倍首相跛行したまともな分析を「日本を奪いたい人たちが難しいことを言って人々をたぶらかしているのだ」と思わせることに成功したのだ。

安倍首相は嫌韓・嫌中思想を自民党の中央理論として組み込んだ。もともと産経新聞と組んで北朝鮮拉致問題解決のスーパースターだったという成功体験があり、下野している時にこの時に知り合ったお友達の人たちと「本当は自分たちは悪くない」というような繰り返していた。つまり下野のルサンチマンの攻撃先を「中国と韓国」に切り替えるのに成功した。つまり、安倍首相は「自民党が下野する理由」をなくしただけでなく「新しい浮動票」を捕まえてきたのである。この時点で嫌韓思想の持ち主は単なるルサンチマンに囚われた惨めな人たちではなく「日本を取り戻す崇高な闘い」の闘士となり聖なる闘いに組み込まれた。

安倍首相は自民党の中で唯一浮動票を惹きつけることに成功した稀有な政治家なのだが国会運営は必ずしも上手ではない。このため党内には首相・総裁分離論があるそうである。日経新聞が伝えている。

とはいえ現状では総裁4選の現実味は乏しい。自民党は連続2期までと定めていた総裁任期に関する党則を連続3期までに変えたばかりだ。いま60歳代の「ポスト安倍」の有力者らはあと5年たてば70歳をうかがう年齢になる。

そこで安倍氏が首相は続投し、総裁は別の誰かが務めればよいというのが、外交面からの総総分離論だ。

外交からの「総総分離」論 

これを唱える人たちは安倍首相の強さがある層の人たちを「宗教的に」引きつけているということを本能的に知っている。宗教的な勢力を祭り上げて分離することにより自分たちは利権の確保に邁進し、外交的勝利に邁進する安倍晋三という男がスターでいつづける宗教的伝説を作ろうとしているということになる。

もともとバブル崩壊のショックから立ち直れずに犯人探しをしていた「正解のない状態」から、アジアにおける法秩序と自由を「取り戻す」闘いというありもしないプロジェクトを作り出したのが安倍晋三という人の成果だということになる。つまりある種の「アウフヘーベン」が図られたということだ。

こうした中で面白いニュースが入ってきた。厚生労働省の武田康祐賃金課長が韓国に行って暴言を吐いたというニュースである。意味のわからないニュースだが、多分官邸がニュースをもみけすだろうから、こちら側で勝手に分析するしかない。調べてみるとこんな記事が見つかった。

武田氏は今月7日、最低賃金の全国一律化を目指す自民党議連の会合で、外国人労働者受け入れ拡大の対象となる14業種に関し、一律化を目指す意向を表明。直後に菅義偉官房長官が全面否定し、発言が問題視された。武田氏は19日、フェイスブックに「変な国です」などと投稿。20日には最低賃金に関する自身の発言を念頭に「また新聞沙汰(笑)」とも記載していた。

厚労省課長「韓国人は嫌い」金浦空港で職員を蹴る

これだけを読むと外国人人材と日本人の最低賃金の話に見える。だが、実際は違っている。これは14種について日本国内の最低賃金を統一しようという動きなのである。黙っていると最低賃金の高い東京に人が集まってしまうので地方に人がいつかない。だから東京の最低賃金を地方並みに抑制することで人口流出を抑えようとしているのである。

政府は、地域間で異なる最低賃金について、全国一律化を業種別に導入する方向で検討に入った。四月に始まる外国人労働者の受け入れ拡大の後、労働者を地方へ定着させる効果を狙う。厚生労働省が七日の自民党議員連盟会合で明らかにした。厚労省は、建設や介護など受け入れを拡大する十四業種を対象にすることを想定。外国人だけでなく、日本人も対象となる。

最低賃金、業種で一律化 政府検討会、来月にも発足

自民党は地方で支持されている政党なので地方の人たちは大喜びだろう。だが、東京や大阪では支持を失っている。もし自民党が「東京・大阪の最低賃金を抑えようとしている」というニュースが出回れば自民党は都議会選挙、大阪府知事選挙、大阪市長選挙などで不利になるだろう。

つまり「武田さんに動かれたら選挙に不利なので」党側が武田さんを黙らせようとしていたかもしれないという推論が成り立つ。だから金浦空港での大暴れは武田課長にとってみれば「体当たりの聖戦」なのかもしれない。韓国に言って「韓国が嫌いだ」と叫べばその界隈のスターになり安倍首相に可愛がってもらえるかもしれないではないか。

このくらいの説明をしないとこの理不尽な動きは説明ができないのだが、もしそれが当たっているとすると、官僚のモラルは完全に破壊されているということになる。嘘と隠蔽が飛び交う中で、何が正しくて何が間違っているのか誰もわからなくなってしまっているということである。

安倍政権は選挙に勝つことだけを優先し大企業を温存し零細企業と労働者を潰す道を選んだのだが、NHKしか見ない有権者はこれに気が付かなかった。今度は自民党が疲弊させた地方がもっと安い人材をと要求してきたので、大都市の最低賃金を抑制しようとしている。これは確実に都市に貧困をもたらすだろう。だが、日本の高齢者はNHKしかみないし、若い人たちは日本を取り戻す戦いに夢中である。この安倍政権の戦略は成功することになるのかもしれない。

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