ヘイト発言は麻薬に似ているのかもしれない

世田谷年金事務所の所長さんが韓国に対するヘイト発言で炎上した。Quoraで教えてもらったところによるとIPアドレスで身バレしたそうである。ワイドショーの中にはこの問題を取り上げて個人の異常性をいろいろとあげつらっているものがあった。






この人は、所長(ワイドショーによると外に出された人は本省の課長に比べると偉くないそうだが)までやりながらも自分の発言がどのような影響をもたらすのかということについてはわからなかったということになる。が、本当にそうなのだろうかと思う。ヘイト発言には麻薬に似た中毒作用があるのではないかと思うのだ。

ヘイト発言をしている人たちに話を直接話を聞いてみたいと思ったのだが、これは難しそうである。麻薬を使っていますか?あなた中毒ですか?と言う質問に似ているのでまともなリサーチにはならないだろう。

武田課長の例と違って、この所長はやっている時には「バレたらどうなるのか」と怯えていた可能性もあるのではと思った。人間やめますか?ヘイトやめますか?という感じだったのかもしれないと思うのだ。もちろん安倍政権がヘイトを撒き散らしたとは思わない。が、安倍政権はこうした中毒症状に乗って長期政権を維持している可能性は高いと思う。つまり、日本は一種の戦闘状態にありヘイトなしで生活できない人が増えているということである。

コカイン容疑で捕まったピエール瀧容疑者はコカインのために別の部屋を持っていたという。つまり、「人格のある芸能人」というのとは別の顔として家族のいない部屋でコカインによる開放感を得ていた可能性が高い。同じようにプレッシャーのある仕事をしている人が「別の私」になるために政治的な発言(に見える)ヘイト発言を繰り返している可能性はあるかもしれない。それにしても「他にももっと安全な娯楽はいくらでもあるだろう」と思える。

このような依存症について書いた論文はないかと思って調べてみたのだが、ほとんど研究はされていないようだ。残念ながら、ここにも日本人特有の根拠のない万能感がある。ネット依存を<弱者>のものと勝手に決めつけてしまうのだ。

「ネット依存」という言葉はインターネット移民がデジタルネイティブを揶揄する目的で分析することが多い。2011年の東日本大震災の二年後に書かれた「「ネット依存」の日本的特徴は「きずな依存」」というNippon.comの記事もやや上から目線で書かれている。つまり、ネット依存は「寂しい女」や「自制心のない若者」のものだという考え方である。まず、自分とは関係ない<弱者>が依存を起こすと決めつけた上で分析してしまうのである。

確かに日本のインターネットが変質したのは2011年だという印象はある。Twitterは災害インフラとして期待されるようになり、これが、地震後の不安感を癒すためのツールとして使われるようになったからだ。

他人とつながる感覚を持つのは悪いことではない。しかし、つながりを求めたいがこれといったテーマを持たない人が、相手への憎しみによって他者と連帯感を持つとしたらそれはやはり異常なことである。今回はいろいろなシナリオを立てて所長の気持ちを分析しようとしても全く説明らしい説明にならない。失うものが大きすぎるのである。すると「安倍がヘイトを増長している」とか「厚生労働省は丸ごと変になった」とか「この人がたまたまおかしかったのだ」というような説明がしたくなる。

今回のQuoraの質問には3つ回答がついた。一人は韓国はプロパガンダ国家であると書き込み、直後に表示不可の処置を受けた。それが悔しかったのか仲間に応援を求めていた。そして仲間は「所長は愚か」と切り捨てた上で「やはり逆ヘイトはひどすぎる」と書き込んできた。切り捨てと決めつけはこの種の人たちの刻印のような特徴だが、いったん非難の応酬が始まると議論が「運動会化」することがわかる。

が、元々のヘイトの動機はもっと違うところにあるのかもしれない。賛同する人たちは運動会気分でも元々の人たちの動機は別のところにあるのだろうが、それは当事者でないとわからないように思える。だから本質的に防ぎようがない。

となると、我々ができるのは「政治的発言をしたいなら匿名では相手にしてもらえない」という言論空間を作ることだけなのかもしれない。匿名で運動会が行われるような環境でこうしたヘイト発言をなくすることはできないだろうが「所詮あんなものはゴミなのだ」ということにしていかなければならない。そのためには実名で暮らしの様々なことが安心して語れるプラットフォームが必要である。

Google Recommendation Advertisement



アベノミクスと戦争に引き入れる手口は似ている

前回「バカ」について観測する過程でアベノミクスを肯定する人を見た。政権側が準備した言い訳を使って「アベノミクスはうまくいっている」と言い続けていたのだが、消費税が10%にあがると全てがダメになるとも付け加えていた。消費税は予定通りに上がりそうなのだが、この人はどんな感想を持つのだろうと思った。多分追認するのではないか。






アベノミクスが全く失敗だとも思わないのだが、構造的にはかなりまずいことがある。給料が下がり続けているのである。もちろんこのトレンドはバブル崩壊後から続いているので安倍首相が全て悪いということを言うつもりはないのだが、それを放任するどころか助長しかねないところに安倍政権の危うさを感じる。

政府が人件費抑制に手を貸しているので、企業はどんどん人件費を削る方向に向かいつつある。結果的に企業のケイパビリティは削られてしまうのだがみんなが同じ方向に向いているのでなかなかそれに気がつかない。

終身雇用は将来高い給料を支払うという約束をして若い労働力に依存する制度なのだが、結果的においしいところだけをとって高い人件費を支払わずに済ませようという人たちが続出している。高齢者は雇い止めにする。最近Twitterで流れてきているところでは45歳以上の人たちのリストラがいろいろな企業で始まっているのだという。しかし少子高齢化で搾取できる若者は減ってきているので、これを海外からの労働力で穴埋めしようとしている。しかし、今度は賃金の高い都会に人が流れるので全国一律の最低賃金を導入しようという検討も始まるようだ。こうした動きは企業だけでなく私立学校にも広まっているようである。教育ではなくビジネスとして学校を運営しできるだけ人件費を抑制して儲けたいという人たちが大勢いるのだろう。

こうした動きを止めるためには、ある程度賃金を上げてそれについて行けなくなった経営者たちを切って行く必要がある。だが、自民党にしろ公明党にしろ地方の経営者に支援されている政党なのでそれができない。

本来なら労働者たちは安倍政権を見限りそうなものなのだが、実際にはそうなっていない。前回は党派性で説明を試みた。確かに運動会は人を夢中にさせるところがあり、これで説明できるところも多そうだ。だが、実際にアベノミクスに取り憑かれた人たちを見ていると、単に競争に夢中になっているようにも思えないのである。それくらい普通の人たちの間にも「病としてのアベノミクス」が浸透している。

いろいろ考えてみたのだが「私たちはこんなきつい状況の中でも働いているのだから、ラクをしようという人たちが許せない」という気持ちがあるのではないかと思った。つまり辛いのにアベノミクスを見限らないのではなく、辛いからより応援するのではと思ったのだ。「こんなに辛いのに俺はまだゲームができている」という気持ちが人々をアベノミクスにコミットさせているのではないかということだ。彼らはむしろ「成功者」としての万能感を持っているのかもしれない。

もちろん、これを科学的に検証するのはなかなか難しい。何かの質問や統計を調べてみようと考えてみたのだが、こうしたマインドセットを説明するような資料が見つかりそうな気がしない。

こう考えたのは「アベノミクスは総動員の戦闘態勢に近いのではないか」と考えたからだ。戦時中を扱ったドラマでは全ての人が「戦争に疑問を持っていた」ということになっているのだが、それは嘘だ。実際には「お国のために我慢しろ」といってプレッシャーをかけてくる近所の人たちというタイプキャストが出てくる。婦人会だったり防火訓練のおじさんだったりする。しかし彼らには彼らなりの動機がある。例えば「息子を戦死させてしまった」人はどうにかして戦争状態を正当化しなければならない。戦争を無意味なものと認めてしまうと、その瞬間に無駄に息子を失ってしまったことになるからである。

むしろ戦争で儲けた人たちは他人に辛さの共有をしない。彼らは「自分たちだけが得をしている」ことを知っているのでそれを知られたくないのである。こうした人たちを戦争を礼賛しない。むしろ戦争で辛い思いをしている人ほど、他人にもその辛さを押し付けようとするのだ。

冷静に引いて考えると「人材が足りなくなっているのにより低賃金に流れて行くのはおかしい」と思えるわけだが、それがなかなか受け入れられない。それはすでに我々のマインドセットが新しい戦時下に突入しているからなのだろう。そしてこの戦争はまだら模様になっている。全く感じていない人もいれば、ものすごく不機嫌な人もいる。例えば、コンビニでたまにものすごくイライラしている人を見ることもあるし、道路をとてつもない速度で飛ばしている人たちもいる。緩やかな日常と戦争状態がまだら模様になっていてとても見えにくくなっているのだ。

だとすれば、我々が社会としてできることは一つしかない。説得も世界の共有もできないわけだから、死ぬまで戦争を続けるか、社会全体が惨めな敗戦を迎えることだけが唯一の解決策になる。人々が協力すれば乗り越えられるはずなのに「本質的に解決できないのではないか」というのは極めて残酷な話に思える。

Google Recommendation Advertisement



追い詰められた厚生労働省官僚が韓国の空港ででピンポンダッシュしてしまった件

質問サイトというのは面白い。先日書いていて図らずも安倍首相の功績について書いてしまった。が、論理的に導き出したものなので感覚とずれていてもこれは「正解」なんだろうと思う。ただ、この<正解>は政治を救う代わりに官僚機構を破壊したと思う。






質問は、嫌韓・嫌中の人はなぜ日本の家電で韓国製品に遅れをとっていることが気にならないのかというものだったが、「家電と韓国は関係ない」と言っている回答者が多いことに気がついた。日本の家電が優れていたことを知らない人が出てきているのである。

そこで嫌韓には二つのフェイズがあるのだろうと書いた。ゴーマニズム宣言の初期には実は韓国は日本のライバルではなかった。1988年にオリンピックが開かれ民主化が始まる。このあと1991年から1992年にバブルが弾ける。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年頃だそうである。そして多くの人はバブル不況はいつか終わると思っていた。

この後、徐々に韓国の家電が市場に出回るようになり、日本はアジア唯一の優等生ではなくなってしまう。それどころか証券会社が潰れたりすることになった。日本がまとまれないのにどんどん韓国や中国が伸びてくるのを目の当たりにした時、日本人の中に焦りが生じた。これが嫌韓発言につながってゆくのである。

ところが、今の嫌韓はそれとは違っている。もう若い人たちは日本が家電大国だったという時代は知らないので韓国をライバル国だとは思っていない。だから回答として「なぜ家電を持ち出すのか」などと言ってしまうのだ。すると、韓国がライバルではないのになぜ嫌韓発言が出てくるのかという謎が生まれる。

これについて考えていて、一通り回答を書いてから「2009年頃が断層だったのだな」と思った。2009年の政権交代から東日本大震災のあった2011年をはさんで民主党政権が終わる2012年頃までに状況が変わってしまったのだ。

自民党が下野してから二つのことが起こった。天賦人権がいけないから自民党が下野したという憲法改正論と、保守系の「安倍晋三を慰める会」である。もともと、北朝鮮からの拉致被害者奪還でその界隈のヒーローになっていた安倍晋三が保守系雑誌と接近したのである。

このころの日本人が気にしていたのはこれまで循環的に起きていた好景気が消えてしまったということだった。つまり高度経済成長期が終わり低成長の時代に入ったことを気にしていたわけである。そしてこれを「デフレ」という本来の経済用語ととは違う言葉で説明しようとした。そして民主党はそれに乗って「デフレを起こしているのは自民党政治だ」と単純に説明した。多くの人たちはこの話に乗ったが、一部の人たちは自分たちの日本が攻撃されていると感じたのだろう。「日本を取り戻す戦い」を始めてしまう。

民主党政権が国民に失望されて終わると、安倍首相は円を下げて株をあげてみせる。これがリーマンショックの回復期に重なった。すると投資が割安になった日本に集まるので株価が上がる。安倍首相は「これで経済は回復しましたよ」と宣言した。これが「もはやデフレではないという状態を作り出す」という意味である。

もともとデフレでないものをデフレといっていただけなので、もはやデフレではないというとあたかも安倍晋三が何かをしたように見えてしまうわけだ。経済がわかっている人にはこんな無茶苦茶なことは言えない。だが、引き続き経済がよくなったわけではなかったからなんらかの敵の設定が必要である。

ちなみに本当の敵は明確である。大企業が生き残りを図るために労働者と零細企業を犠牲にしているのだ。ダイヤモンドオンラインに「大企業の著しい利益増加は零細企業の惨状と人件費抑制が原因だ」という野口悠紀雄の分析があるが、経済がわからない人が見たら「野口さんは共産党員なのか」と思うだろう。安倍首相跛行したまともな分析を「日本を奪いたい人たちが難しいことを言って人々をたぶらかしているのだ」と思わせることに成功したのだ。

安倍首相は嫌韓・嫌中思想を自民党の中央理論として組み込んだ。もともと産経新聞と組んで北朝鮮拉致問題解決のスーパースターだったという成功体験があり、下野している時にこの時に知り合ったお友達の人たちと「本当は自分たちは悪くない」というような繰り返していた。つまり下野のルサンチマンの攻撃先を「中国と韓国」に切り替えるのに成功した。つまり、安倍首相は「自民党が下野する理由」をなくしただけでなく「新しい浮動票」を捕まえてきたのである。この時点で嫌韓思想の持ち主は単なるルサンチマンに囚われた惨めな人たちではなく「日本を取り戻す崇高な闘い」の闘士となり聖なる闘いに組み込まれた。

安倍首相は自民党の中で唯一浮動票を惹きつけることに成功した稀有な政治家なのだが国会運営は必ずしも上手ではない。このため党内には首相・総裁分離論があるそうである。日経新聞が伝えている。

とはいえ現状では総裁4選の現実味は乏しい。自民党は連続2期までと定めていた総裁任期に関する党則を連続3期までに変えたばかりだ。いま60歳代の「ポスト安倍」の有力者らはあと5年たてば70歳をうかがう年齢になる。

そこで安倍氏が首相は続投し、総裁は別の誰かが務めればよいというのが、外交面からの総総分離論だ。

外交からの「総総分離」論 

これを唱える人たちは安倍首相の強さがある層の人たちを「宗教的に」引きつけているということを本能的に知っている。宗教的な勢力を祭り上げて分離することにより自分たちは利権の確保に邁進し、外交的勝利に邁進する安倍晋三という男がスターでいつづける宗教的伝説を作ろうとしているということになる。

もともとバブル崩壊のショックから立ち直れずに犯人探しをしていた「正解のない状態」から、アジアにおける法秩序と自由を「取り戻す」闘いというありもしないプロジェクトを作り出したのが安倍晋三という人の成果だということになる。つまりある種の「アウフヘーベン」が図られたということだ。

こうした中で面白いニュースが入ってきた。厚生労働省の武田康祐賃金課長が韓国に行って暴言を吐いたというニュースである。意味のわからないニュースだが、多分官邸がニュースをもみけすだろうから、こちら側で勝手に分析するしかない。調べてみるとこんな記事が見つかった。

武田氏は今月7日、最低賃金の全国一律化を目指す自民党議連の会合で、外国人労働者受け入れ拡大の対象となる14業種に関し、一律化を目指す意向を表明。直後に菅義偉官房長官が全面否定し、発言が問題視された。武田氏は19日、フェイスブックに「変な国です」などと投稿。20日には最低賃金に関する自身の発言を念頭に「また新聞沙汰(笑)」とも記載していた。

厚労省課長「韓国人は嫌い」金浦空港で職員を蹴る

これだけを読むと外国人人材と日本人の最低賃金の話に見える。だが、実際は違っている。これは14種について日本国内の最低賃金を統一しようという動きなのである。黙っていると最低賃金の高い東京に人が集まってしまうので地方に人がいつかない。だから東京の最低賃金を地方並みに抑制することで人口流出を抑えようとしているのである。

政府は、地域間で異なる最低賃金について、全国一律化を業種別に導入する方向で検討に入った。四月に始まる外国人労働者の受け入れ拡大の後、労働者を地方へ定着させる効果を狙う。厚生労働省が七日の自民党議員連盟会合で明らかにした。厚労省は、建設や介護など受け入れを拡大する十四業種を対象にすることを想定。外国人だけでなく、日本人も対象となる。

最低賃金、業種で一律化 政府検討会、来月にも発足

自民党は地方で支持されている政党なので地方の人たちは大喜びだろう。だが、東京や大阪では支持を失っている。もし自民党が「東京・大阪の最低賃金を抑えようとしている」というニュースが出回れば自民党は都議会選挙、大阪府知事選挙、大阪市長選挙などで不利になるだろう。

つまり「武田さんに動かれたら選挙に不利なので」党側が武田さんを黙らせようとしていたかもしれないという推論が成り立つ。だから金浦空港での大暴れは武田課長にとってみれば「体当たりの聖戦」なのかもしれない。韓国に言って「韓国が嫌いだ」と叫べばその界隈のスターになり安倍首相に可愛がってもらえるかもしれないではないか。

このくらいの説明をしないとこの理不尽な動きは説明ができないのだが、もしそれが当たっているとすると、官僚のモラルは完全に破壊されているということになる。嘘と隠蔽が飛び交う中で、何が正しくて何が間違っているのか誰もわからなくなってしまっているということである。

安倍政権は選挙に勝つことだけを優先し大企業を温存し零細企業と労働者を潰す道を選んだのだが、NHKしか見ない有権者はこれに気が付かなかった。今度は自民党が疲弊させた地方がもっと安い人材をと要求してきたので、大都市の最低賃金を抑制しようとしている。これは確実に都市に貧困をもたらすだろう。だが、日本の高齢者はNHKしかみないし、若い人たちは日本を取り戻す戦いに夢中である。この安倍政権の戦略は成功することになるのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



「もはやデフレではない」とは一体何だったのか?

Quoraで面白い質問を見つけた。景気の変化を感じたことがないというのだ。






経済が動いていないので実感できないのは当たり前のことである。これからの世代は「景気」そのものを実感していないのに、景気が良くなった・悪くなったという話を延々と聞かされることになるだろう。つまり、坂道を知らないのに「今は登りだ」いや「下りだ」という話を延々と聞かされることになるのだ。

高度経済成長期には昨日より明日が良いことが当たり前だった。これが時々滞ることがありそれが「不景気」だった。不景気は「正常ではない」状態だったので人々は何かがおかしいと感じて政府に対策を求めた。これが景気対策である。つまり坂道を登っており時々その坂道がなくなると政府に対策を求めていたのだ。

では戦後の不景気とは何だったのか。基本は景気循環なのだが、これが外的要因によって刺激を受けるという特徴がある。

  • ニクソンショック:ニクソン大統領がドルと金の交換を停止し、円高ドル安が起こって交易条件が変わった。
  • 第一次オイルショック:第四次中東戦争が起き石油価格が上昇し、国内の物価が急騰した。
  • 第二次オイルショック:イラン革命によりイランの石油供給が止まった。
  • 円高不況:円高不況と呼ばれている時期はいくつかあるようだが、円の価格がじわじわと上がり国内の製造業を苦しめたとされる。

日本には高度経済成長という基調がありそれが交易条件の変化(為替とエネルギー調達)によって不況になっていたということがわかる。だがそれは一時的なものであり、その時期さえ乗り切ればまた高度経済成長に乗れるというような認識があった。

ところが最後の円高不況は違っている。日本が経済的に強くなるにつれて円高が進んだ。日本はこの条件を変えることはできないので、製造業で蓄積した資金を別産業に投資する必要があった。つまり、日本は製造業の最適圏を抜けつつあった。が、余剰資金を他産業に投資せずに土地などの資産につぎ込んだために資産バブルが起こる。これをバブル景気と言っている。加熱を恐れて政府が介入したのをきっかけにバブルが弾けた。すると次に何に投資していいかわからなくなり長期的な停滞期に入ってしまったのである。

儲かったら土地を買えばいいという正解が無くなって日本人はどうしていいかわからなくなった。そこで、何が正解かという<議論>が始まる。これが延々と続いた時代がほぼ平成時代と重なる。自民党単独政権が崩壊し、社会党の凋落、小泉政権、ポスト小泉政権の混乱、民主党政権の改革の失敗、安倍政権という時期だ。改革勢力が次々と現れ軒並み人々を落胆させ、その度に劇場化が進行するという、政党政治が破綻しつつある時代である。

高度経済成長期を知っている人たちは「何かおかしい」と感じてきた。もちろん政府も非難され、最終的には自民党がいけないということになった。が、その他にも「構造改革をしなければならない」とか「ものを買わない消費者がいけない」などとの犯人探しが行われてきた。これが「デフレ」の正体である。デフレは経済的に定義された用語ではなく、高度経済成長期が終わったことを認められない人々の不満の声だったのである。デフレを叫ぶ人たちが本当に言いたかったのは「正解を!」ということだった。

民主党政権でもこのデフレの犯人探しは続き「コンクリート(自民党主導の公共工事)が悪いということになった。そこで象徴的にダム工事を止めてみたのだが問題は全く解決しなかった。最後に「やっぱり消費税を上げさせてくれ」ということになり、国民の信任を失った。民主党は国民の「正解を与えてくれ」という期待に応え損なった。

安倍首相は「もはや経済は回復しないがこれが当たり前の状態なのだ」という宣言をした。そもそも経済は成長し昨日より明日がよくなければならないというのは思い込みなのだから、その思い込みをやめてしまえば犯人探しはしなくてすむ。これがもはやデフレではないの正体だ。もともと人々が言っていたデフレは経済用語ではないので、それを解けるのも経済や政治を理解しないリーダーだけだったのだ。

ところが安倍首相はここで大きな間違いを犯している。それは、この新しい定常を「経済成長」としてしまった。つまり坂道ではないのに、坂道は続いていると言ってしまい、今では「坂道でなくてはならない」ということになっている。単に坂がなくなった状態を「下り坂だ」と言っていた人たちを黙らせることには成功したのだが、今度は「これは実は上り坂なんですよ」と言い出した。平らな道を上り坂だと言ってしまったことにより、いろいろな統計を操作する必要が出てきた。

だから冒頭のような疑問を持つ人たちが出てくる。平らな道を下り坂だと感じている人は「今は不景気なのではないか」と考えている。が、一方で政府は今は上り坂なのだと言っている。が、実感としては上りも下りもしていないだらだらとした日常が続いているという感覚を持っている人が多いはずだ。

こうしたことが中高年に問題にならないのは、好景気を体験してきており「坂道の状態」を肌感覚で覚えているからだろう。一方若年の人たちは、地面が傾いているのか平らなのかがわからないままで二極化した「上り坂だ下り坂だ」というメッセージを聞かされ続けてきた。ある意味空中を浮遊しているような状態になっている。彼らが何が好景気かなのかを実感するためには中国やアメリカに出稼ぎに出る必要があるだろう。

安倍政権は平らな道を上り坂だといい続けなければならない事情がある。国民は政府が正解を提示してくれるまでいつまでも犯人探しの議論をするだけだろう。しかし政府は国民が経済を成長させてくれるまで自分たちで何かをすることはできない。国がビジネスをしているわけではないからだ。このため経済は絶対に成長しない。しかしこれを認めると日本の財政は破綻する。国が借金を返済するためには経済が上り坂でなければならないという前提があるのだ。もし国がこれを諦めてしまうと「政府に借金返済の意思はない」と認めたことになり、円建て資産が売られはじめる。これだけは絶対に避けなければならないのである。

Google Recommendation Advertisement



勝ちたい日本人が夢中になる「抜け感」

先日来、劇場型政治を燃え上がらせる日本人の勝ちたい感情について書いている。が街に出て一味違ったキーワードを見つけた。それが「抜け感を出すためのテクニック」である。これは勝ちたい日本人の屈折した感情を表していると思う。そしてこの抜け感によってファッショントレンドそのものが成り立たなくなっているように感じられる。






まずこの「抜け感」という言葉から見て行きたい。頑張っておしゃれをするのは粋ではないと見なされ、リラックスしたさりげなさを演出するのがよいとされている。つまり、洋服が良いのではなく自分がかっこいいから洋服もよく見えるというような見られ方が好まれるのである。

確かにここまでは納得ができる。「ファッションを理解していない」人は服の理解を内面化させず「洋服に着られている」ことが多いと思うからだ。今でもたまに1990年代の洋服の理解をそのまま正解として引きずっている大人を見かける。周りの動向に関心を持っていれば「ああはならないだろうな」と感じることがある。1990年代は、とりあえずトレンドには手を出しておけばなんとかなっていたというのも事実であるが最近では自分らしさが求められる。

自分らしさを出すためにはトレンドに合わせているだけではダメで、それを理解してこなさなければならない。だが、ファッション業界は内面的な理解に行かず外形的にそれを落とし込んでしまった。それが「抜け感テクニック」だ。雑誌をみると「今更聞けない抜け感の出し方」というような不思議な特集が組まれていることもある。そして不思議なことに「気にしていないがおしゃれに見える」ようにするためにみんな必死になってしまう。ここでも日本人は勝ちたいのである。

抜け感はそもそも服を理解して着こなしている人がかっこいいというところから始まっているので、すぐに真似できる正解がない。この傾向は繊研プラスによると2015年ごろから見られるようになったそうだ。繊研プラスは「曖昧で正解がない」と言っているのだが、同時にファッション界では正解になりつつあるのでセールストークとして有効だと言っている。つまり正解がないことがわかっているのだが、それが蔓延しているのでお店側が合わせてしまっていることになる。

こうしてできた抜け感スタイルは「単にだらしない」になりがちだ。手っ取り早く抜け感を出すためには、スタイルがいい人を連れてきて少し抜いてしまう「引き算」をすればいいが、これを普通の人が真似をすると似合わないのは実は当たり前なのである。

この抜け感の裏にある価値観は非常に複雑である。洋服で自分のスタイルを作ろうとすると他者とは違ったことをしなければならない。最初からうまく行くことはないので失敗があるのだが、この失敗が許されないのだろう。みんなと同じであることが求められ失敗も許されないが埋没してはいけない。これではいわゆる「無理ゲー」である。気がついた人から抜けて行くのは当然なのだ。

このため「抜け感が何なのか誰もわからない」という状態が生まれる。にもかかわらずこの言葉はファッション雑誌やアパレルブランドに蔓延していてあたかも正解のように語られる。

この言葉はリベラルのいう「私らしく生きたい」に似ている。正解がない言葉なのにあたかも正解として語られる。それでも自分なりの正解を見つければいいと思うのだが、実際に私らしく生きようとすると「普通」から逸脱してしまう。そしてその逸脱は失敗と見なされて非難の対象になる。さらに、多くの人が「実は他人に勝ちたい」と思っていて、自分なりの生き方やスタイルを見つけたい人たちの足を引っ張る。こうして最終的に行き着くのが「あの人たちよりマシ」という心理状態である。

これまで政治の問題として、リーダーシップを取ろうとする人たちが同僚間の闘争に巻き込まれてやがて不毛な足の引っ張り合いになる様子を観察してきた。行き着いた先は自己否定されたと感じて傷ついた人たちの二極化した匿名のつぶしあいだった。とてもナイーブであり同時に苛烈だ。この背景には何が正解かわからなくなった人たちが自分たちと異なる他者を見つけて叩きたいという動機があるのだろう。

政治はSNSの登場で二極化した<議論>が生まれたが、ファッションのこうした闘争は個人化しており社会的な結びつきを持たない。が、これはマイルドな突出(ファッショントレンド)の破綻なので、ファッションそのものが成り立たなくなってしまっているのである。

Google Recommendation Advertisement



現代版劇場型政治を支える日本人の勝ちたいという気持ちについて考えた

これまで、現代版の劇場型政治を見てきた。間接民主主義による議論と分配による問題解決がうまく機能しなくなると、敵を作って乗り切ろうとするというのはどこにでも見られるありふれた光景のようだ。ではそれを支えている熱はどこから来るのだろうか。






このような劇場型の政治状況では、いったん権力を奪取すると契約期間には何でもできてしまうのだが、それが終わると倒される側に回ってしまう。なので、いつまでも権力を降りられない。契約期間を先延ばしにするためにはできもしない約束を掲げ、それが叶わないのは「大きな敵がいるからだ」と宣伝し続ける必要がある。これが現代型の劇場政治の概要だろう。だが、これは権力側の都合であって有権者が耳を貸す理由にはならない。

日本は普通選挙が実施された時からこの劇場型政治による潰し合いを経験した。韓国は1988年に民主化されてから政権が変わるたびに大統領が粛清されているのので、議会制民主主義を導入した国が乗り越えるべき試練だったのかもしれない。が、現在の日本は議会制民主主義をもう長い間経験してきており、なぜ揺り戻しが起きているのかよくわからない。

この日本型劇場政治を観察するきっかけになった小西さんは小粒すぎるし優等生すぎる。「民主主義が守られていない」とか「法治主義がわからない」などといったクイズで熱狂させられる人たちの数はしれている。人々を熱狂させる肌感覚の煽りは「政治的なバカ」でなければ思いつかない。この煽りを冷静に文章化すると、なぜ人々がこうした簡単な騙し文句に引っかかるのかよくわからないのだが、実際にこれらはうまく機能している。闘争心が強い人が口からでまかせで言ったなかから選び抜かれた主張なのだろう。

  • 日本の成功はズルをしている中国に奪われた。中国のようなけしからん国は正義の側に立つ日本が成敗しなければならない。そのためには強い軍隊が必要であるから、憲法を改正したい。
  • 自民党の古い人たちが女性を苦しめている。私を厚化粧のババアと罵った政治のせいで「私たちは自分らしく生きられない」のだ。だが、私たちはその古い政治に一泡吹かせてやる能力がある。今こそ緑色のものを持ってそれを示すべきだ。
  • 大阪も東京のような仕組みにさえすれば東京のようになれる。万博が来れば高度経済成長が再びやってくる。大阪が停滞したのはあなたたちのせいではない、府市の役人が怠慢だからである。
  • アメリカは怠け者のずるい同盟国にいいように利用されているからいつまでたっても私たちは豊かになれない。アメリカの軍隊が役に立っているのならそのサービスには利益が乗っていいはずだし、彼らは一生懸命働いてその対価を支払うべきだ。我々にはその権利がある。それが資本主義というものだろう?

アメリカのトランプ政権はラストベルトと呼ばれる発展から取り残された地域で根強い人気があるようだが、日本の劇場型政治は東京と大阪という都市に根付いている。特に都市に貧困層が集まっているということは言えないので、組織化されていない「砂つぶのように孤立した群衆」がこうした劇場を支えているのだろうと思われる。

こうした煽りに乗る人たちは小泉選挙では確か「B層」と呼ばれていたはずだ。IQが低いが既得権益の恩恵を受けているという人たちである。小泉政権下では「郵政民営化の必要性を学ばせるべき」だとされていた。当時、まだインターネットは今ほど普及しておらず「肌感覚」の情報を流す媒体がなかった。

だが、現在のB層はネトウヨである。ネトウヨは帰属先を持たず「日本」というバーチャルな帰属先を求めている人たちである。ネットの存在がなければ彼らは未だに砂つぶだったのかもしれない。無党派層というとどこか弱さと結び付けれれることが多い。ポリティカルアパシーとは「政治的な感情を失ってしまった」という意味なのだそうだ。だが、日本人はそうは認識しない。自分たちはとても力強い存在であるという自己認識がある。

日本人は「強くて多い側」に立つことを求め「一見合理的な説明に彩られた感情論」を好む。つまり「上から勝利」したい人たちが多い。トランプ流のポピュリズムに乗っている人たちは「自分たちは本来は優秀な自由主義経済のプレイヤーであるのだが、他人にそれを邪魔されている」と感じているはずだが、日本人は人生という闘争の勝利者だと信じている。このように弱さを感じたくない人たちに偽のエンドースメントを与えることが、劇場型政治にはとても重要なのだろう。

日本人はアンパンマンから始まり戦隊モノやプリキュアを通じて「正義の側にたって勝つ」という正解を何度も刷り込まれる。例えば高度経済成長期からバブルの後にも人気があった少年ジャンプも「勝つことが自己目的化」した闘争に溢れていた。日本人は「どうあるべきかを自分で見つける」というような面倒なことには関心を持たず「勝つことの大切さ」を教え込まれて大きくなる。そして、スーパーサイヤ人のようにどんどん自己を肥大化させてゆく。日本人にとって成長とは円熟味を増してゆくことではなく、ただただ強くなってゆくことなのである。戦前の朝日新聞が戦争に勝ち続ける日本を題材に大きく販路を伸ばしたように、現代でもこれに火をつけさえすれば日本人を扇動することができるだろう。普段の暮らしに没頭しつつも、新聞やTwitterを眺めながらヒーロー気分が味わえる。

多くの日本人は「合理的な理由」を聞いて劇場型の政治を支持しているのだろうが、その合理性は思い込みと自己目的化した闘争心に裏打ちされている。そして戦いの動機も肌感覚によって彩られた合理性も表には出てこない。社会化された時間は従順な社会人として振る舞い、個人の時間でヒーロー気分を満喫するのだ。

今朝の電車であなたの隣に座っているおとなしそうな人も、実はネットでネトウヨ的な発言に「いいね」しているかもしれない。高度経済成長期には会社での戦い二勝つことでこうしたエネルギーを満足させていた人たちが勝てるプロジェクトがなくなりつつある。当座はネットゲームに課金して闘争心を満足させるのだろうが、それで飽き足らなくなる日があるいがやってくるかもしれない。

日本人の闘争心はぼた山の屑石炭のように地中に堆積している。これに火をつけることに成功した人は、一瞬はかなりの成功を手にするだろうが、やがてその火を消すことができる人は誰もいなくなるだろう。

Google Recommendation Advertisement



既得権益打破という大阪の政治ショーと劇場型政治

これまで、小西参議院議員の質問を例にとって、国会が劇場政治化しているということを見てきた。多くの人は呆れているかそもそも関心を失っているのだが、当事者だけは気がついていない。だが、そろそろ笑っていられる時期は終わりを迎えそうだ。もっと大きな大波が襲ってきそうだからである。






小西さんの政治ショーはちょっと難しすぎる。民主主義などという題目に興味のある日本人はそれほど多くない。有権者が好むのはもっとわかりやすいメッセージである。それを発信して勝ったのが東京と大阪だ。どちらも政治的な実力はなく政権運営そのものは行き詰っているのだが、大阪の劇場型政治はまだ一定の人気があるようだ。

維新は「府知事・市長のダブル選挙に追い込まれた」とする観測が複数あった。大阪都構想の実現が見込めなくなってしまったので「世論を味方につけよう」という劇場型の動機が働いたことが背景にある。確かに「何のために大阪市を廃止するのかよくわからない」という周囲の戸惑いはあるようだ。

なぜ維新が都構想にこだわるのは「既得権益打破」というルサンチマンに維新が乗っているからだろう。村に住んでいる日本人は「誰かがこっそり得をしている」のを絶対に許さない。民主主義はわからなくても「こっそり得をしている」人を許さないというのは肌感覚でわかるのである。さらに「話し合いよりも一発逆転を狙いたい」という願望もあるようだ。藤井聡の文章にそれが現れている。藤井によると「なんかおもろいやんけ」という気分が大阪には蔓延しているのだという。Quoraでも聞いてみたが「大阪の人は権力と距離をとるので、そもそもこれくらいの劇場化は当たり前なのだ」という声が聞かれた。

大阪は米で蓄積してきた金を南部の繊維工業と北部の家電産業につぎ込むことで裾野の広い産業を維持してきた。ところが南部の繊維工業は、生地・縫製・最終製品のうちの中間工程が抜けてしまったことで衰退し家電も中国や韓国などの安価な製品に負けてしまう。つまり、繊維と家電に代わる後継産業を育てることが大阪の再発展には不可欠である。

だが、大阪の人たちはそのような話し合いはしたがらないし、よそから指摘されると「いやうちは楽しんでいるので心配してもらわなくても構わない」とか「まだまだ大丈夫なのだ」と強がってしまう。だが、決して語られない東京への屈折した対抗意識や被害者感情もある。だから「自民党が守ってきた府市の既得権益構造を壊して、東京のように変われば再び発展する」というような、外から見ると無茶苦茶な理論が政治課題として通用してしまうのだろう。

大阪都構想には理屈がないので実現すると「実際には都構想で大阪が変わることはなかった」となってしまう。都構想が実現しても大阪の家電産業も繊維産業も蘇らない。だから闘争過程だけがショーになるのである。だから維新にとっては「会議をだらだら続ける」より選挙に打って出た方が得なのだ。

ただ、日本人は大阪を笑えない。日本に関連するこれより大きな規模の二つの劇場型政治がある。どちらも無意味であり政治を混乱させる。一つは安倍憲法改正議論である。東京と大阪の自民党はどちらも野党である。これは、松井・小池両知事にとって自民党が既得権益として攻撃しやすかったからだろう。小泉政権は「自民党をぶっ壊す」といって選挙に大勝したが、結局自民党は壊れなかった。安倍政権は「自衛隊を軍隊にして中国をやっつける」という実現する見込みのない戦いを続けている。が、この滅茶苦茶なメッセージがなければ全国政党としての自民党は都市部で存続できなかったかもしれない。東京と大阪の自民党政治家たちは有権者を「手なづけるのに」失敗している。

日本村の人々にとって「強いものの側に立って劣っているものをやっつけたい」というのは肌感覚である。Quoraで「自衛隊を韓国に派遣すればいいのでは?」という議論を見かけた。検索すると2つ同じ質問が出されている。もう一つは竹島と北方領土を奪還したいのだという。「国際紛争を武力で解決することは国連が禁止している」などと書き込んでみたのだがなしのつぶてだった。

この質問の背景には、自衛隊が憲法で軍隊を持つことを禁止しているのだったら憲法を変えてしまえばいいのではないかという気持ちがあるのだろう。今、日本はアメリカという世界で一番強い軍隊に守られている。だったら中国に勝てないはずはないし、韓国くらいなら一ひねりであるという肌感覚もあるのかもしれない。いくら「現在の国際世論では」などと言ってみたところで日本人が持っている素朴な「勢いに乗って一発逆転してやりたい」という気持ちを動かすことはできない。日本人には正解の側にいると考えると気が大きくなる「大船感覚」がある。

実際にこんなことは起こりようがないのだが、安倍政権はこれを政権浮揚に使っている。保守の希望の星である安倍首相が憲法改正を成し遂げてくれれば自衛隊は米軍に守られた世界の軍隊になり「法の支配」の名の下で結束し「人の支配」に溺れる中国軍を一発逆転してくれるだろうという、実現可能性のないストーリーがある。これが統計偽装や景気偽装を「大したことのない問題」としているのだから笑い事では済まないのだが、劇場型政治というのは元来そういうものなのだ。

ところが、この淡い期待はもう一つの劇場型政治に揺れている。アメリカでは「日本などの同盟国に軍隊を高く売り込もう」というキャンペーンが始まろうとしている。ビジネスを美徳と考えるアメリカ人にとって「自分のものを高く売りつけてお金を儲ける」というのは肌感覚にあった美徳なのである。まずは駐留費の1.5倍からふっかけて、儲けを得ようというのは実にアメリカ人らしい感覚である。

背景にはトランプ政権の行き詰まりがあるようだ。下院は民主党に握られ、雇用の増加傾向も鈍化してきた。北朝鮮との交渉にも失敗し、様々なスキャンダルで追い込まれている。トランプ大統領自身に非難が向かわないように矛先が必要なのだろう。

日本のマスコミがトランプ大統領の要求をどうとらえるのかはわからないのだが、富の分配機能が破綻した経済ではまともな民主主義は機能しない。我々は大きな劇場の中にいて、外から楽しんでいたつもりでもいつの間にか当事者になっているのである。話し合いができる文化を自分たちで作らない限り、この状況が続くことになるだろう。

Google Recommendation Advertisement



法の支配と法治主義の対義語は何か?

院内活動家の小西洋之先生が安倍首相にクイズを出して悦に入っていた。安倍首相は法の支配という言葉を使っているがその反対語は何のかと問うたのだ。中継が入っている大切な国会の時間をクイズ番組にして何が楽しいのだろうかと思った。






ところがこれに安倍首相が頓珍漢な答えをしたことでこのクイズに意味が出てきてしまった。安倍首相は、インドなど法の支配を原則にしている国で「力による現状変更」を封じ込めたいと言い出したのである。これはすなわち中国を指している。言葉には出さないが中国を非難するために使っている言葉なのだ。

ちなみにQuoraで聞いたところ「情の支配」の韓国と対比している人がいた。つまり、背景には中国や韓国のような新参者の国がいくら経済的に台頭しようが、それはそれだけのことであって日本のように立派な議会政治の伝統のある国とは比べものにならないのだという侮蔑の意識がある。このようにそもそも使い方が異なっているためあの議論は全く噛み合わないのである。

この後、安倍首相は小西さんが何を言おうとしているのかサッパリわからないと言っていた。多分本当にわからなかったのだろう。この人は自己流の解釈で政治や憲法概念を勝手に歪めてしまうところがある。一方小西さんは大学の授業で習った「法治主義」の講義をそのまま覚えているのだろう。大学では日本型の意思決定システムのようなことは教えないだろうから、なぜ日本で法治主義が広がらないのかという理解をしないまま、Twitterで「自民党の政治家も知らなかった」といってさらに悦に入っていた。

ここでふと疑問に思った。本当に法治主義の反対語は小西さんがいうように「人の支配」なのだろうか。ではその人とは何なのか。この質問に答えるのは実はそれほど簡単ではないようだ。そして、この質問を考えることによって、なぜ国会が「安倍・小西」の劇場型クイズ番組になってしまうのかということがわかってくる。

元々の「法治主義」は権力者の意思決定に透明性を与えるという概念であるらしい。この大陸的な考え方は必ずしも「王権・帝権」を議会と法が縛るという意味にはならない。法治主義と人治主義(人の支配)が対立概念になるわけではなく、形式主義か非形式主義という違いなのである。

法治主義と法の支配は全く別の概念だ。王様が勝手に税金を決めるのを防ぐために「王様の権利を制限して法律に従ってもらおう」としたのが法の支配であり、日本では「憲法が首相を縛る」というような使われ方をしている。護憲派の理論である。だが、この考え方の前提は議会と権力者の対立である。王様に選挙はないが議院内閣制では首相は立法府の代表なので実は首相は国民の側にいる。だから、法によって選ばれた総理大臣が「勝手に支配者になる」ことはない。

議会政治が機能不全を起こしているのは日本の天皇が政治的実権を持たないからである。このため選挙に勝った国民の代表が天皇から監督されず暴走するという極めて不思議な現象が起きる。これは天皇に統制されていたはずの軍隊が勝手に暴走したのに似ている。小西さんは「法治主義」ではなく「法の支配」について言っているので、反対語は人治主義(元の意味では王様が自分の頭の中にしかない体系で国民を支配すること)でではなく独裁ということになる。だが、「小西理論」は多数派工作に失敗した少数派のルサンチマンでしかない。安倍首相は独裁をしているわけではなく自民との多数派が「安倍さんが便利だから」担いでいるだけだからだ。

普通に考えると、クイズを出した人も騒いでいる人も実はなんとなくしかこの単語を理解していないことになる。つまり、どっちもどっちなのである。

以上で「安倍と小西の戦い」の論評は終わりになってしまうのだが、そもそもなぜTwitterの人たちは小西さんを応援するのだろうか。それは日本人が話し合いによって問題が解決できるとは思っていないからである。それどころか一旦対立が表面化するとその対立を喜んで消費するようになる。日本人は集団で運動会をやるのがとても好きな民族なのである。このため一度運動会に陥った議会はそもそもの調整機能を失う。

日本型の暴走についてはすでに散々観察した。誰が意思決定しているかがわからなくなり集団で暴走するのが日本型である。第二次世界大戦は「誰かがリードした」わけではなく、気がついたらそうなっていて誰も止められなかったというのが正しい。議会政治も自民党側は統制が取れているが野党はすでに分裂してしまった。だが、自民党もやがて分裂期を迎えることになる。現在借金で賄われている「ばらまく地位」と「ばらまく金」がやがて尽きてしまうからである。

安倍首相を独裁者に仕立てたい気持ちはわかる。小西さんとそのお友達は「全ては安倍のせい」という安倍暴走=独裁理論がある。彼らはそのゴールに向かってボールを蹴っているのだが、実はそんなゴールはどこにもない。誰も何も決められなくなるというのが日本型の議論の一つの終着点だからである。

こうしたことはすでに第二次世界大戦の前にも起きており劇場型はその兆候だ。次回はその様子を観察したい。

Google Recommendation Advertisement



修正エンゲル係数という欺瞞

修正エンゲル係数が富裕層優遇だという話がTwitterで流れてきた。ちょっとこれは言いがかりだなと思ったのだが、個人が書いているらしいのでそれほどムキになって反論するような話でもないのかもしれない。が、これを調べてみるといろいろなことがわかる。






修正エンゲル係数とはエンゲル係数を算出するときに貯蓄なども「消費」として計上した値である。このエンゲル係数の上昇は2012年から始まっている。ちょうど安倍政権が始まった時なので「アベノミクスがうまくいっていない証拠なのではないか」とも言われる。

アベノミクスはそもそも通貨の価値を毀損することにより円安誘導するのが目的だった。国民に我慢してもらって企業に儲けてもらおうという政策である。つまり、ドルベースの国民の収入や円建て財産の価値を毀損してでも企業の交易条件をよくする企業救済策なのである。だからそれで国民の生活が苦しくなったとしてもそれほど不思議ではない。

だが、実際にはなぜ2012年からエンゲル係数が上がり続けているのかということはよくわからない。団塊の世代が定年退職する時期にあたり人口動態に変化があった可能性もある。安倍政権には野党転落した経験があり、その「悪夢のような」恐怖感から「現状をごまかしてでも現政権の政策を正当化したい」という<犯罪動機>がある。だから、不都合な変化について現状を調査しようという気持ちにならないのだろう。

実際に経済統計に詳しい人が書いている記事を読むと、問題はそんな程度のものではないようだ。そもそもこの統計は高齢化社会の実情はわからないというのだ。

しかし、修正エンゲル係数にも問題があります。小職の先の記事でも指摘していますように、最近のエンゲル係数の上昇の主因は高齢化なのですが、修正エンゲル係数では実は高齢化要因を把握することができません。なぜなら、家計調査では所得に関する計数は勤労世帯のものしか公表されていないからです。つまり、修正エンゲル係数は、主に現役世代の懐具合を表しているのであり、高齢者も含めた全国民の平均的な懐具合を表すことができないのです。

修正エンゲル係数」という忖度?

そもそもこの政府統計ではそもそも高齢世帯の経済実態はわからないとしている。つまり、統計のあり方を議論しないと実態はわからないのだが、これを議論すると政府の失敗を隠蔽する方向に話が流れてしまうということだ。憲法改正にも言えることだが、政府の不純な動機が議論そのものを妨げているのである。

この記事では消費性向からエンゲル係数分を取り除き2015年までは確かにアベノミクスの効果はあったが、それ以降は経済が不調に陥っているのだろうと分析している。この分析は鈴木明彦の「戦後最長の経済成長」は嘘だったのではないかという観測とも合致する。こちらでも、2015年からは景気後退期で2017年からまた小さな山があったと分析している。つまり、当初のアベノミクスに効果があったとしてもそれは賞味期限切れなので新しい施策が必要なはずなのである。しかし、それを議論しようとすると今度は「消費税を上げるべきではないのでは?」という野党議論にぶつかり、話し合いそのものができない。

大塚耕平参議院議員は統計について安倍首相に具体的な質問をしていた。大塚さんによると「景気判断」というのは数値を参考にした恣意的なものであり議論が紛糾した期間があるという。さらに、調査統計のうち「どうやって出しているか」が公表されていないものがあるそうだ。大塚さんは算出基準を明確に出すように予算委員会に求めていたのだが、これが実現するかは不透明である。内閣のメンバーがこの意味をきちんと理解していない可能性が高いからだ。

この日の質問では院内活動家の小西洋之議員が安倍首相を監督する責任があると言って尊大な態度を取っていた。実際の監督責任とは正しい資料をもとに判断することであって上から目線で首相を叱責することではない。だが、不幸なことにまっとうな大塚議員の主張はあまり野党内では人気がないようだ。「勧善懲悪的な歌舞伎要素」に欠けるからだろう。NHKの国会中継は国民のルサンチマンを晴らすエンターティンメントになりつつある。

さて、こんな国会議論の前に、NHKのあさイチでは「一般家庭の家計が苦しくなっている」という特集をやっていた。同じ手取りでも可処分所得は減っているとしている。このため家計を引き締める必要があり、ローンの借り換えなどを行わなければならない。教育費や親の介護で負担が増え自己破産も多いそうだ。社会保障費は上がり続け、実際に支援が必要な人たちには回って行かない。ただ、柳沢さんがいなくなったあさイチではこのプレゼンテーションに疑問を持つ人がもういない。

結果的にNHKのこの特集は「生活が苦しいなら自己責任と工夫で乗り切りましょう」というプロパガンダになっている。生活が苦しいのは工夫が足らぬからだという自己責任論である。NHKは地上波離れを意識して通信分野への権益拡大を狙っており、政府を忖度しつつ生活実感に即した特集を組んでいるのだろう。これが結果的に大本営の失敗を隠す「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」キャンペーンになっている。

NHKは「なぜ手取りの収入が減っているのか」ということは説明しなかった。社会保障費負担が伸びており実質的に負担増社会になっているということは無視されてしまったのだ。野党も政権を取れば手取りの減少と現役世代の減少という条件を変えられない。だから彼らは抜本的で具体的な提案をせず院内妨害活動に勤しむしかない。Twitterを見ている限り大塚議員への応援はなく、森ゆうこさんや小西洋之さんといった院内活動家にばかり拍手が送られる。

こんななか、偽薬効果も含めてアベノミクスの効果は薄れており、諸物価が上がり始めた。これから社会保障費の増大、将来不安への備えに加えて食費の上昇が起こる。しばらくはアベノミクスの元でも豊かさが実感できないのは工夫が足らぬからだという自己責任の時代が続くことになるのだろう。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」は花森安治が考えたという戦前の有名な標語だが、日本はまた戦前さながらの「支援がなくても文句を言わずに精神で乗り切る」時代に入った。こうしていつ乗り込んでくるのかわからないGHQの登場を待つのだ。

Google Recommendation Advertisement



国会というよりアメフトに近い参議院の<論戦>

一時間だけ我慢して福山哲郎さんの質問を聞いた。結論から言うと「院内妨害活動」の一環であり、見なくてもいいやと思った。全く議論になっていなかったのである。






福山さんは辺野古の基地建設について聞いていた。安倍政権は「沖縄は勝手に住民投票をやったが、俺たちは基地建設を進めるもんね」と言っている。住民自治の原則を踏みにじるものでありこれ自体は許されるものではなさそうだ。だが同時に「最終決定するのは有権者」というのも民主主義の原則である。これを深掘りしても意味がない。安倍総理は国民の大多数がこの件に関心がないことがわかっていてやっているから反省など引き出せないのだ。

次に福山さんは「沖縄県が埋め立て承認差し止めをしているのだから工事を差し止めるべきでは」と言っていた。これも筋論としては正しい。これに対して防衛省は「決定の不服申し立て」をしているのだが、不服申し立ては住民が県に対して行うものであって行政府が行うべきものではない。が、これも司法は行政に手出ししないだろうという見込みの元に行われている。なので、これも不毛な議論に終わった。

福山さんが持って行きたかった結論は「想定外の事情(軟弱地盤の改良)が出てきたので工事に十年以上かかりそうですね」というものだったようだ。防衛省の担当者は数十分の不毛なやりとりの末にこれを認めたのである。福山さんは最終的に試合には勝ったのだがかなりの時間をこれに使ってしまった。

福山さんが安倍首相に「これは実質的な普天間基地の固定化なのではないか」と問い詰め、色をなして「民主党時代には何もできなかったのではないか」と感情的な反論をして議論は終わりになった。その間具体的な問題は何一つ解決しなかった。

この間行われているのはゴールのない「アメリカンフットボール」なのである。野党側が押し、与党側は「ここまでだったら下がっても良い」と作戦会議をしている。アメフトは前進後退を繰り返して最後にゴールにボールを持ち込めば決着がつく。だが、国会のアメフトにはゴールがない。つまり、前進と後退をただ繰り返すだけなのだ。

福山さんのやりたかったことはNHKのカメラの前で安倍政権の負けを晒すことだった。一歩前進すればよいのだ。だが「この時間にもっと別のことを聞きたかった」と思っている国民は多いはずだ。日本社会は解決されていない多くの問題を抱えている。それは全く解決していない。ただ、野党が一歩前進したことを喜ぶ応援団は多少はいるだろう。

日本人が議論を嫌がるのは「勝ち負け」を嫌うからである。負けは議論に負けたということを意味するのではない。全面的に人格が否定されたということを意味している。だから、いったん試合が表面化するとどちらも後に引けなくなってしまう。対立構造が固定化してしまうのである。改めて、日本では勝ち負けがはっきりした政権交代は難しいなあと思った。

否定された側は全面的に人格否定されたと感じ「一切の協力」を拒絶するようになる。そしてもう一度政権交代が起こると「前の政権は全てダメだった」という。結局、政党というグループに別れた運動会になり国民を巻き込んでしまうのである。戦前の政友会・民政党系による二大政党制の時代にも不毛な議会運営が横行し、それがのちの大政翼賛会や軍部の暴走につながってゆく。日本人は戦前に起こったことを再現しているのだが、それを忘れてしまっているのである。

ここまでを書き終えても、福山さんの質問はまだ続いている。今度は、厚生労働省の毎月勤労統計の問題で、樋口委員長が「自治体ヒアリングの議事録はあるが手元にないから答えられない」と言い出した。これを指示しているのは自民党側の筆頭理事である。これはもう国民の代表である議員を愚弄する「違法タックル」そのものである。多分安倍監督が理事に指示を飛ばし選手である樋口さんが「メモがないからちゃんとしたことが言えないや」と言わされている。日大の違法タックル事件との違いは「樋口さん違法タックルした選手のように反省しない」という点だけだろう。

このタックルの効果はてきめんだった。一時間半経ったところで一旦休憩となり裏で作戦会議が始まった。せっかくNHKの中継まで入っているのにわざわざ「議事録の記録が残らずカメラも入っていない」ところに隠れて、裏で試合を始めてしまったのである。日本人は表で対立が表面化すると後に引けなくなる。彼らの後ろには大勢の応援団がいるからだ。だから、後ろに隠れて作戦会議をするのだろう。国会のアメフトはルールさえきちんと決まっていないのだ。

裏でこそこそやるなら、もう議会なんかなくてもいいのではないかとさえ思う。出来損ないのアメフトもどきの試合にいくら金をかければ済むのかという憤りしか残らないからだ。この参議院の<論戦>は専門性がなくゴールすら明確でない議論ほど無意味なものはないということを再確認させられただけだけにおわった。

Google Recommendation Advertisement