Dolce & Gabbanaと中国の炎上騒ぎ

Dolce & Gabbanaのショーを見て、身長が様々なモデルを使っていることが気になった。「多様性を受け入れてこのようなモデルを使っているのだろう」と思ったのだが、実際にはそうではないようだ。今回はクリエイターに勝手な思いを重ねてしまいがちな我々の性質について考える。






Dolce & Gabbanaのショーには様々な人たちが出てくる。例えば2019年春夏のショーには高齢のモデルが多数採用されている。このような光景を見るとつい「多様性を受け入れているのだ」などと書きたくなる。

ところがこれを裏打ちしようとしても「SNSが主流になった現代の多様性を受け入れるために様々なバックグラウンドの人たちを登場させた」などという記事は出てこない。出てくるのは中国でDolce & Gabbanaが炎上したというような話ばかりである。

中国について、デザイナー2人は苛立っていたようだ。コピー商品の氾濫を防ぐためには本物を浸透させることが大切なのだが、あまり中国マーケットが好きではなかったのはないかと思われる英語のインタビュー記事を見つけた。「コピーでいいならコピーを着ていればいいじゃないか」というようなことを言っている。日本からもD&Gが撤退している。コピーが多かったことに嫌気がさしたのではないかという観測がある。

ただ、同社本国のクリスティアーナ・ルエラ常務取締役は、こうもコメントを寄せた。「日本市場に氾濫(はんらん)するD&Gの模倣品が大きな障害になっている」

http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201006010144.html

彼らはビジネスとして世界に自分たちの商品を売るよりもクリエイターとして尊重されたいという志向が強いようだ。

過去のインタビュー記事を何本か読んだのだが、Dolce&Gabbanaは過去に何回も問題発言を繰り返しているそうである。敵に回したのはアメリカのアンチトランプ、同性愛者などいわゆる「リベラル」な人たちである。デザイナー二人も長い間同性パートナーだった経験があるわけで、ついついリベラルに分類したくなるのだが、実はかなり保守的傾向が強いようである。メラニアトランプと親交がありトランプ大統領を支持している関係で、ショーに出演したモデルに反乱を起こされたこともあるそうだが、イタリア人なので政治に興味はないとこれを一蹴している。(HUFF POST

同性愛関連の発言ではエルトンジョンの怒りを買った。同性愛者だからといって全ての人がリベラルな家族観を持っているわけではないのだ。

「私たちはゲイの養子縁組に反対します。伝統的な家族が唯一のものなのです」。2人はことわざを引用してこう述べた。「化学的につくられた子供や借り物の子宮なんて必要ありません。人生は自然のままに。変えるべきでないものがある、ということです」

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/16/elton-john_n_6875760.html

今回の中国では、このやんちゃぶりが政治議論の枠を越えてしまった。つまり民主主義的な意見対立ではなく、ついに民族的な騒ぎに発展してしまったのだ。デザイナー2人は、最初は謝罪するつもりはなかったがようだが、最終的にSNSで謝罪するという「かっこ悪い」対応になってしまった。(FASHIONSNAP.COM

経済的に自信が出てくると今度は名誉が気になる。これは日本がかつて通った道である。Quoraでも何回か「日本人は中国人をどう思っているのか」というような質問を目にした。国力はついてきたが果たして立派な先進国になれたのかという後発先進国型の自意識だ。日本が長い間欧米の目を気にしてきたように、国もこれから長い間先進国の目を気にすることになるのかもしれない。

Dolce&Gabbanaはキャリアの最初にモデルを雇う金がなく一般の女性にモデルなってもらったことがあるとWikipediaに紹介されている。モデルに様々な人たちが登場するのはこの辺りが背景になっているのかもしれない。決して「政治的正しさ」から来ているわけではなさそうだ。そもそも既存の服のルールを破ったり、ボロボロのジーンズをハイファッションとして仕立てているわけだから政治的な正しさの対極にあるということも言える。デザイナーとしては型破りさが求められるがビジネスマンとしては政治的正しさが求められるというのはとても難しい。また自身も同性愛者なのに保守的な考え方を持っているという点にも難しさがある。

我々は「成功したクリエイティブ」であるファッションデザイナーに政治的正しさを求めがちだ。今回抱いたのは「クリエイティブな人たちは多様性を支持するリベラリストだろう」という根拠のない期待である。しかし、彼らが成功したのは既存の価値観に挑戦したからなのだから、我々の期待通りに「いい子でいてくれる」とは限らないのである。

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韓国のレーザー照射事件は何を意味しているのか

韓国の駆逐艦が日本の哨戒機を「狙った」として問題になっている。具体的には火器管制レーダーというものを当てられたとのことである。「日本が悪いのか韓国が悪いのか」ということが最大の関心事なのだが、大切な点が忘れられていると思う。






韓国軍が日本の哨戒機を狙ったということは韓国軍の中で日本を敵視するような人たちがいる可能性があるということだ。集団主義の序列社会なので「誰かがうっかりやったと」は考えにくい。がだからといって、これを青瓦台が知っていたのかはわからない。現在の政権は革新系であり軍と一体の関係にあるのかよくわからないからだ。朴鍾憲は元軍人の朴正煕の娘なのだが、文在寅はその政権を批判するところから出発している。ゆえに、地域情勢を正確に把握したいなら、軍と大統領の関係がどうなっているのかということを冷静に把握する必要があるのだから対話のチャンネルを閉じるのは得策とは言えない。

例えば革新政権が面白くない保守系の中央日報は日本側の主張を冷静に伝えている。日韓関係が悪化し経済に影響が出ると政権がダメージを受ける。また軍隊も掌握できていないとなれば政権へのダメージはさらに大きくなるだろう。あくまでも朝日新聞の引用の体裁になっているが、わざわざこんなことをほのめかすのは「韓国軍には命令系統上の問題があり、それは文在寅政権の責任ですよね」と言いたいからなのではないだろうか。

  朝日新聞はソウル発の記事で「韓国の軍事専門家の間でもレーダー操作責任者である艦長の統制力に問題があったか、悪化している韓日関係の影響を受けて(誰かが)軽率な行動をした可能性が取り上げられている」と伝えた。

https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=248413

友軍機をロックオンするためにはシステムの解除が必要なのではないかという専門家の観測もある。ここででてくる責任者は「艦長」のようだ。ところが、安倍政権は状況の把握をせず、代わりに問題をエスカレートさせ相手に恥をかかせる作戦に出た。これは体面を気にする韓国や中国の人たちにもっともやってはいけないことである。表に出て恥をかかされたと感じた人たちはなりふり構わず体面を守ろうとする。「お前、軍をきちんと管理ないよね」とみんなの前で政権に「恥をかかせた」ことになってしまう。韓国人や中国人の部下をみんなの前で叱ってはいけないというのは、異文化コミュニケーションの教科書の初歩に書いてあるようなことなのである。

もちろん「真実は一つなので真実が何なのかはっきりさせるべきだ」とというポジションは成り立つ。これはこれでポジションとしては成立する。が、ここでまた問題が出てくる。日本は弱いと見なしたものには居丈高に対応するが強いとなると一転して弱気になってしまうのである。

最近、トランプ政権と安倍政権の間はあまりうまくいっていないようだ。予算措置などで追い詰められ政府職員の給料を人質にとって予算を通そうとするほど追い詰められたトランプ大統領は「麻生副首相も連れてこい」と呼びつけたようだ。日本からファイナンスを使用としているという意見もある。そして、アメリカと日本の間にどのようなやり取りがあるかは「外交交渉なので言えない」と答弁するばかりである。今回のビデオの発表とは180度異なる弱気な対応なのだ。

アメリカに対しては恩寵を期待しているのだろう。つまり、相手に全てを委ねて悪いように扱われないようにせいぜい頑張ろうという態度だ。一方韓国についても自分たちで状況を把握したり問題を解決するという努力を放棄している。この0か1かという外交下手な極端さが安倍政権やネトウヨの人たちの最大の弱点なのかもしれない。つまり、自分の勝手な思い込みによって態度を変えており、それとは違った反応が出てきても「正常性バイアス」を働かせて問題点を見ないようにしている。

法律を通してもらう立場なのに社民党と立憲民主党の女性議員をついつい挑発してしまう態度に似ているところから、安倍首相が韓国などのアジアの国や女性に根拠のない蔑視感情を持っていることがわかる。この問題から、安倍政権の外交の稚拙さが見えてくる。外交というより国会論争を含めた対話ができないのだ。

防衛省も当初はビデオを表に出して韓国を挑発するのをためらった(時事通信)ようだ。これからも韓国軍と対峙する防衛省としては当然の態度であるし、韓国軍が青瓦台から統制されていないとなると、偶発的にもっととんでもないことが起こる可能性もある。交渉を各省庁に丸投げし、最悪の事態も想像できない安倍官邸だけが公開に前のめりだったということになる。

政権が自らの国の命運について何らの責任感が持てていないということがよくわかる話なのである。

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日本人には民主主義はとても理解できない

今日は日本人には民主主義はとても理解できないというステートメントについて考える。






まずこれを聞いて腹をたてる人は「日本はそれほど劣っている国ではない」と考えて怒るのだと思う。高度経済成長期にはそういう人が多かったように思う。だが、この「日本人」は、ポジティブだと自分は含まれるがネガティブだと自分は含まれないという二重性がある便利な言葉なのでそもそも「自分が民主主義が理解できない」と考える人は少ないかもしれない。昔からポリティカルアパシーという言葉があったがこれは有権者について分析するための言葉であり当事者としての無力感ではなかった。

しかし、日本人が本質的に民主主義を理解していないのではないかという兆候はある。民主主義は政治参加は平等であるべきだというイデオロギーだが、このイデオロギーというワードがネガティブな含みで語られることが多い。イデオロギーというと「共産党やナチスなどの極端な人たちが個人に押し付ける極端な考え」のように理解されてしまうことが多い。多分言っている人たちも気がついていないと思うのだが、個人は「極端な考えを持たず中庸であるべき」とする東洋的な伝統に基づいているのだろう。

このため日本人は個人や集団が自分の考えを述べようとすると自動的にそれを拒否しようとする。「自分の利得のために言っているのだ」「誰かに言わされているのだ」「私は構わないと思うが、仕事に差し障ることもあるのではないか」とその反応は様々なのだが、背景には「個人が意見をいうなどとんでもない」という前提がある。まっとうな人は社会の原則に従っており、偏った意見など持つべきものではないという考え方がある。

民主主義は現代では正解と見なされているので「偏った考え方」ではない。だから民主主義はイデオロギーとはみなされない。このため日本人は自分たちが西洋型の民主主義に基づいて国を運営していないということに気がつきにくい。

正確に言えば日本に民主主義がないわけではないと思う。日本には「集団が利益確保のために根回しと談合する」というボトムアップ型の民主主義はある。だが、不思議とこの日本型民主主義の研究は行われない。

面白いことに保守の人たちもこうした集団型の民主主義について研究していないし、そもそも真面目に考えてもいないようだ。そのために日本では「日本は民主主義で17条憲法が日本の民主主義だ」などと言い出す人がいる。彼らに政治の話を聞くと「中国の脅威が危険で」「天皇を中心とした長い歴史が誇らしい」という話になるのだが、政治的な諸問題は「どれも取るに足らない」くだらないものと片付けられてしまう。問題解決手段としての政治には興味がないのだろうということだけはわかる。さらにリベラルの人たちも村落型の民主主義を嫌う。リベラルはそもそも集団や村に拒否反応があるので個人が集団を形成して一致協力するという考え方をとらない。お互いに話を聞かないのでまとまらない。

集団型の民主主義を再興するためには家族的で終身雇用的な雇用環境を復活し、排除が少ない中選挙区制度を再導入すべきだろう。しかし、政治はどういうわけかここから脱却したがった。「強いリーダーシップと理念による政治」という日本にはないものを追求してきた。一方で個人のイデオロギーが主導する民主主義を導入するならば、一年かけて政策コンペを行うアメリカ大統領選挙のような仕組みを導入するか、完全比例代表制で多様な意見を集め、その政党が政権を模索するという制度を導入すべきだろうが、集団型の民主主義を脱却して個人のアイデアをベースにした政治に転換すべきだという人もいない

日本人は西洋型の民主主義が理解できないわけではなく、そもそも問題を解決「する手段」としての政治に興味がないのかもしれない。放置しておけば何らかの問題は起こるだろうが「なったらなったでそのとき対処しよう」と考えているのかもしれない。

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マティス国防長官の辞任に全く反応しなかった日本人

マティス国防長官が辞任することがわかった。またしてもトランプ大統領によるTwitter辞令だったために日本などの同盟国には告知されなかったのではないかと思われる。今日はこれについて考える。






マティス国防長官は辞任にあたってトランプ大統領に手紙を書いており、これが各媒体で紹介されている。(New York Times)日本でいえば防衛長官の解任がTwitterで知らされその反論が朝日新聞から出るというような感じで、極めて異常な何かが起こっていることがうかがえる。マティス国防長官は新聞を使って説明責任を果たし、トランプ大統領はTwitterを使い説明責任を放棄した。

マティス長官が防衛についてオーナーシップを持っているのは明らかで、その意味ではマティスにとってこの仕事は所有集団になっていることがわかる。そのため、後に残る軍人やその他の職員について言及しており、十分な引き継ぎ時間を取ったと説明している。と同時に後任は勝手に決めたらいいと言い放ってもいる。日本人は仕事に対して所有感や所属感を感じると後任についても色々と言いたがるものだが、マティス長官はトランプ政権に必ずしも所属感情を抱いてはいなかったようである。その意味では「わが軍隊」ではあっても「わが政府」ではなかったということだ。

この件について思い出したのは天皇誕生日の会見だった。実はニュースは見ていないのだが声を詰まらせて「30年の間に戦争がなくてよかった」と語られたそだ。よほどの重圧だったということがわかるのと同時に、今上陛下が日本の平和について政治的権限がない中でオーナーシップを感じていたことがわかる。戦争と平和ということを語る上でこの重圧と責任感というのはとても大きな視点だと思う。

マティス国防長官はトランプ大統領の予算措置には感謝している。しかし、英語の場合「だがしかし」の後が重要である。そのだがしかしの中身がいささか深刻だ。戦争と平和にオーナーシップを感じていたであろうマティス国防長官は、同盟国との関係が重要視されていないことがアメリカの国益を損ないかねないと言っている。

マティス国防長官によると、アメリカは自由・民主主義社会を守るために同盟国と組んで中国やロシアと対峙している。であるから、同盟国を大切にしなければならないと言っている。この価値観がトランプ大統領と合わないと言っているので、言い換えると「トランプ大統領はアメリカの価値観がよく理解できていない」と批判していることになる。

トランプ大統領は目先の利益を優先し同盟関係を取引の材料にし始めている。これがアメリカという国の国益を損なうというのがマティス国防長官の主張なのだろう。そんななか彼はアメリカの戦争と平和に責任は持てないと言っているのだ。

今上陛下の発言はある程度日本人の心を動かしたようだが、マティスの件はあまり関心を集めなかったようだ。日本人には正常化バイアスが働いていて「同盟を維持する価値観が揺らいでいる」と考えたくない人が多いのではないかと思った。つまり、意味がわからなかったという人と、なかったことにしたいという人が多かったのではないかと思う。日本人は戦争と平和について真剣に考えていない。国民だけでなく政権も実はそれほどの責任感は持っていない。

このオーナーシップのなさが顕著に表れているのが辺野古の埋め立てである。埋め立ては始まったが工事が着工できるめどは立っていないそうだ。まだ調査も終わっていないそうで、予算執行が見送られたと伝えられた。(琉球新報)巷ではファッションセレブのローラさんが「辺野古を守れ」と表明したことが話題になっている。これは国防とはリンクせず単に環境破壊はいけないという文脈だ。実際には単なる反対派への嫌がらせのための無駄な環境破壊が起こっているだけなのでローラさんの指摘は実はあっていたことになる。官邸は反対派が面白くないという村の論理で必要のない埋め立てをやっているのだ。毎日新聞によると海底が軟弱でコンクリートの構造体が置けない可能性もあるそうで(毎日新聞)そうなるとアメリカのアセスメントに通らないから基地は移転できない。

最後に、損得で国防を考えがちな日本人は、価値観が同盟を支えているということをあまり理解していない可能性があると思った。アメリカは人工的に作られた国なので自由を守るというイデオロギーがとても大切だ。それを守るためにアメリカの国境を固めて国際的には引きこもるというのが孤立主義であり、世界の同じ価値観の国と連携するというのがマティス国防長官らのイデオロギーなのだろう。

日本人はどうやら「アメリカが世界で一番強いのだから、それに依存するのが一番トクである」と損得勘定で考えているように思える。安倍首相が「自由主義という共通の価値観を」と主張すればするほど、このうわ滑った感じに薄ら寒さを感じる。平たく言えば「アメリカの意向を背景に中国に対して威張りたい」と考えているのではないかと思ってしまうのである。

アメリカで同盟関係を維持する価値観が揺らいでいるということは近い将来日本に対して重大な問題になるだろう。アメリカが日米同盟を経済的取引のための道具として利用すると、これまで近隣諸国とうまくやってこなかった日本はそれを拒否できない。日本人は強いものに守られていると感じると弱いものにことさら居丈高になる。関東軍を背景にして日本人が、満州人や中国人を「指導」したというのと同じことである。相撲のかわいがりと同じようにそれは暴力的な威圧だった。結局関東軍は逃げ出してしまい、取り残された日本人は今度は満州で逃げ回ることになった。同じようなことが起こるかもしれないし、守ってやっているのだからという理由で過剰な貢献が求められるようになるかもしれない。実際にアメリカの兵器産業への貢献は進んでおり、国会ではほとんど議論になっていない。

さすがにトランプ大統領も国防を恫喝の道具にはしないだろうと思いたいのだが、トランプ大統領は先日政府機関の一部閉鎖に踏み込んだ。(時事通信)彼にとっては政府機関とは自らと支持者の欲求を満たすための道具にすぎない。もともとは自身が責任を取ると言っていたそうだが、支持者たちが騒ぎ始めると一転して民主党非難に転じた。これを同盟国との関係でやらないとは言い切れない。

さらにニューヨークタイムスはあまり心配しない日本人の代わりに同盟について心配している。価値観によって結びついているヨーロッパが離反すれば、いくつかのことが起こる。日本がアメリカと一緒に孤立し、アメリカからは守ってもらえず、中国とヨーロッパが接近して相対的に中国の力が強くなる可能性があるのだ。

しかし最悪なシナリオが実現しても日本のジャーナリズムはこれを見て見ぬ振りをする可能性が高い。記者クラブという既得権益に守られて政府の御用報道になったジャーナリズムは分析力を失いつつあるからである。これが結果的に国民の知る権利を侵害し、更新されない古びた世界観を持った保守とリベラルが不毛な論争を繰り広げる可能性がある。

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所属集団と所有集団

国際捕鯨委員会(IWC)から日本が脱退することが決まったそうだ。これでクジラの肉が食べられる!と喜んでいる人たちがいる。






この件については国際的非難が予想されるのでリスクの高い判断と言えるのだが、いわゆる保守と呼ばれる人たちはそうしたリスクについてあまり関心がないようだ。人の目を気にし、リスク回避傾向の強い日本人としては極めて異例のことと言える。国内にいるとクジラを食べるのは当たり前と考えらているからだろう。つまり「みんながやっていることなので別に良いのではないか?」というバイアスが働くわけである。これは「ムラバイアス」だ。

例えば相撲界には「暴力は教育の一環である」というムラバイアスがあり暴力問題への対応が遅れた。最終的には公益法人格を返上してはどうかという問題にまで発展したために一転してガバナンスを強化するという方針に転じた。これも本当の意味で周辺が何に怒っているのかよくわかっていないからだろう。つまり理不尽に「怒られている」ように思えると説明や原因究明ではなく厳罰化に走ってしまうのである。実際に中にいる人たちが反省しているわけではないうえに、暴力のメカニズムも分析されていないので罰則だけが強まり暴力事件はなくならないだろう。

また従軍慰安婦問題では「どこの国の軍隊だって多かれ少なかれこういうことはあるだろう」というムラバイアスがある。しかし世界の軍隊は男女平等化が進んでおり女性の人権蹂躙は深刻な問題になっている。従軍慰安婦的なものを許せば女性兵士への乱暴も許容せざるをえない。例えばアメリカでは女性だけでなく男性も性的乱暴を受けることがあり問題になっている。だがムラに住む日本人はこうした一連の変化に気がつかないので、この問題を適切に処理できないわけだ。日本人はムラロジックには極めて敏感に反応するが、ムラの外には全く無頓着である。

考えてみれば、日本人がそもそもそれほどクジラ肉を食べない。冒頭でリンクしたBBCは冷静にこう書いている。

日本では海岸地域の住民の多くが捕鯨を数世紀続けてきた。しかし、クジラ肉の消費が急増したのは、クジラが食肉の主要供給源となった第2次世界大戦終結後だけで、最近数十年間では消費量が急減している。

https://www.bbc.com/japanese/46643430

かつては給食などで出されていたようだが、代用肉という印象が強く、決して美味しいものではなかった。さらに最近の人はそれすら食べたことがないのではないかと思う。この問題は「多くの日本人にとってどうでもいい」はずの問題なのだが、これに強く反応する人がいる。普通の日本人と何が違うのだろうか。

よく集団と呼ばれるが、所属している集団とは別に、強い力を持った集団がありそうだ。意思決定に関与でき、自分のアイデンティティに関わるような集団である。所属欲求は守られたいという欲求だが、これとは別の欲求があるように思える。これが所有欲なのではないかと思った。

アメリカ人は自分が勤めている会社をworking forと表現しour companyとは言わない。our companyでは経営していることになってしまう。この経営という概念は所有である。一方日本人は所属しているだけなのに所有欲求を持つことがあるのである。

この所属しているという感覚は悪用されることがある。アルバイトが仕事に所有感を持っている場合「自分の方がマネージャーよりも現場をよく知っていて」なおかつ「その仕事に責任感を持たねば」と感じることがあるだろう。これを悪用するとブラック企業ができあがる。やりがい搾取と呼ばれる現象である。クリスマスケーキを進んで自腹購入したり、アニメで名前がクレジットされるからといって請負契約で最低賃金以下の時給しか貰わないという現象になる。「やりがい」と言っているが実際には過剰な所属意識が利用されているわけである。やりがい搾取というのは偽の所有欲求を持たせるところから始まるのだ。アメリカのような契約社会では職場に所有欲求を持たないので、過労死レベルまで働いて現場という戦線を維持しようと考える人はそれほど多くない。

日本人が鯨食を擁護したいと思ってしまうのは、これも意思決定と所有欲求に関係しているのかもしれない。海外の人たちが勝手に「鯨食は野蛮だ」と決めていると感じた人は嫉妬心から腹を立てて鯨食を擁護してしまう。強い所有意識を持っている人たちはつい自分が屈辱されたと思い、あまり食べなくてもすむクジラを弁護してしまうのである。

もちろんこの所有欲求は日本だけの現象ではない。韓国では日本人が所有欲求を持たない「国」に所有欲求を持っている人たちが大勢いて、大統領の弾劾のためにデモに参加したりしている。日本人は国に所有欲求を持たないので安倍首相を政治から追放するのにデモをすることはない。むしろ国政に関心を持たない人が大勢いて、このことからも日本人が「所有欲求を持たない集団」に対して極めて無関心で冷淡な態度を取ることがわかる。公共を信じない日本人は何かが決定されたら自分は損をしないように動けばいいと考えており、それが結果的に全体の利益を損ねることになってもそれほどの抵抗は示さない。一方、戦争状態の国にとっては「自分たちの国は自分で守る」という意識を持たせるのは極めて大切なことであり、これが過度な所有欲求につながっているのかもしれない。

そう考えると、何かを自分の支配下におきたいという所有という概念には強い力があるのだということがわかる。他人を支配したいような人はこうした所有欲求をちらつかせて搾取を目論むのかもしないと思った。

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公共財としての笑顔

本日は公共財としての笑顔というテーマについて考える。例えて言えば、住宅地できれいに整備された生垣が街の財産になるというような話である。






毎日写真を撮影しているのだが、一つ気になるところがあった。年齢のせいでほうれい線がきつく出るのだ。これは仕方がないのだろうと思って「簡易整形」をしていた。色味などを修正するついでにレタッチソフトで消していた。だが、このほうれい線は意外と簡単に改善ができることがわかった。

ほうれい線が出る理由は二つある。一つは顔がむくんでいること。もう一つは顔の筋肉を使わないことである。だからこの二つを修正してやるとほうれい線が薄くなって顔がすっきりする。写真というものは恐ろしい。こうした違いをかなり残酷に反映してしまう。毎日写真を撮影しているとそのことが否応なしにわかる。サボるとすぐ顔に出るのだ。

プロではないのでほうれい線を全く消し去ってしまう必要もないし、光の使い方で補正もできるのであまり極端似やる必要もないのだが、できることから始めてみたい。

リンパを流す

まず、顔のむくみを修正する。このためにはリンパ液を外に押し出してやる必要がある。実は首というのは肩からつながっている。だから、最初は胸を後ろに開いて首も後ろに引く。次にぐるぐると回してやるといい。この運動は首筋にできるシワも改善できる。肩が解放されると肩こりにも効果がある。やってみるとわかるが意外と動かしてないのである。

次に顔のリンパを流す。目の下・頬の上あたりを外に流してやる。あまり強くやりすぎるとよくないというのでそっと抑えるように流すのだがやはり液体を外に流すのである程度力が必要である。人差し指の腹で押すようにしないと流れるような感じにならない。このための器具なども売られているようだが、普通に指を使うだけで良いのではないかと思う。

もう一つのポイントは鼻腔である。鼻梁のの脇に力を入れると詰まったものが排出されるような感覚がある。実はリンパ以外にも鼻腔に水が溜まっているようである。これが流れないと鼻づまりが起きる。つまり、鼻づまりが起きている人は顔の筋肉がうまく使われていないことになる。「鼻づまり」と「ツボ」で検索すると点としてのツボが紹介されている(沢井製薬)のだが実際にはこの二つの点を結んだところをマッサージして内容物を流すようなイメージで刺激してやると鼻づまりを改善することができる。

写この運動を数分やると顔の修正をしなくても済むようになった。しかし油断してやらないでおくと元に戻ってしまう。基本的には坂道を上がるような作業なので、鏡を見たりして定期的にチェックしなければならない。

笑顔のために筋トレをする

さて、今回は公共財としての顔について考えている。若い時の美男美女は遺伝子によって決まるが年齢を重ねると努力した人の方が美しい顔を保つことができる。しかし、努力と言っても「精神をきれいにすれば内面が自然とにじみ出る」というような精神論ではない。筋トレが必要なのである。いろいろな運動があるようだが、これは口を大きく開いて「あいうえおあおあええおあお」の形を作るようにすると良い。わ行まで通して見て顔が凝るような感覚があるようなら筋トレができている。が、これもやったからといって効果が出るというわけではない。写真を見るなり鏡を見るなりして目標が達成できているかを確認しなければ意味がない。

「男はヘラヘラ笑うべきではない」という価値観があるのだが、実は笑顔も根性で作る必要があると考えると若干イメージが変わるかもしれない。笑えずに顔がたるんでいる人は怠けているのだ。顔の筋肉が動かせない状態で笑おうとすると、表情筋を総動員することになるので不自然で大げさな笑顔になる。写真写りをよくする程度にほうれい線を目立たなくするのはそれほど難しくないし、小顔作りもそれほど難しくない。特に小顔作りは、テレビ通販で「ちょっとやっただけでこんなにきれいに!」などと言っているが、あれは大げさではないと思う。

さりげない笑顔を作るためには口角だけをあげる必要があり、実はこれが意外と難しい。常に口角を上げ続けているためには局所的な筋肉が鍛えられている必要がある。笑顔があまり得意ではなくいつも口角が下がっている人に「笑顔を作れ」といってもなかなかできないのではないかと思う。最初は5秒持たせるのが大変なのではないだろうか。

笑顔は公共財である

さてここまで笑顔の作り方について見てきた。大人が見た目にこだわるなんてとバカにする人もいるかもしれない。しかし、笑顔を作ることは、ささやかではあるが社会貢献になる。アメリカでは笑顔と幸せに関する研究がなされていて科学論文もできいるらしい。Smiing can trick your brain into happiness — and boost your healthという記事では、笑顔を作ると筋肉をモニターしている脳が「喜んでいるのだ」と錯覚してセロトニンやドーパミンなどの脳内物質の分泌を増やすのだという研究があるそうだ。また、誰がが笑っていると「ミラーニューロン」の働きによりその感情が周りに広がる。このようにして群れ全体が幸せな気分を共有することがあるそうである。つまり、笑顔という公共財をみんなで持つようにすれば社会全体が明るくなるのである。

ただ、この社会貢献にはちょっとした鍛錬がいる。まず使っていなかった顔の筋肉の使い方を思い出すところから始める必要がある。他人を幸せにするためにはまずちょっとしトレーニングと心がけが必要なのである。

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北方領土交渉で覚悟なく説明責任を求めるマスコミ

河野太郎という政治家を信頼していない。Twitterでアカウントをブロックされているからである。直接メンションして悪口を行った記憶がないので、多分保守系のブロックリストかなにかを流し込んだのだと思うのだが、批判に耐えられない人なのだと思う。そんな河野大臣がやらかした。ロシアとの交渉について記者団から聞かれたのを無視して「次の質問をどうぞ」と言ったのだそうである。






一応ブログで取り繕ってはいるようだが、批判に耐えられないのと同時に自分の計画通りに話をしたい稚拙な人なのだろう。前回までリベラル系の人たちも自分たちのシナリオでしか話せないというのを観察しているので、特にこれが保守の人や世襲政治家の悪癖だというつもりはない。特に世襲政治家で周りからちやほやされてきたであろう河野大臣が批判に弱いというのは別に不思議なことではなさそうに思える。

加えて河野太郎は党内の批判勢力を気取ることによって有権者やマスコミから一定の支持を得てきた。選挙基盤が強いという背景に加えて平塚・茅ヶ崎という準都市部が地元なので「脱原発」のような「自民党のわりには洒落た政策」も理解されやすかったはずだ。だが、それは多分自民党らしくないという演出で旧来の自民党への批判をかわす目的だったのではないかと思う。政権に入った途端自分の主張を封印し、今度は頑なに韓国などを攻撃し「ネトウヨぶり」を発揮し始めた。

朝日新聞の記事では「「答えられない日ロ交渉に関する質問で限られた会見の時間がつぶれてしまうよりも、(外務省が力を入れていたトピックに)しっかり時間をかけて答えたいと思った」」と書かれているので、自分の言いたいことだけを言いたい人なのだということがわかる。こんな人がタフなロシアとの交渉などできるはずはない。

だが、この問題についてはメディアにも責任の一端があると思う。国民の知る権利などと言っているのだが、実際にあるのは政府に対する不信感であろう。おそらく記者も読者も北方領土が戻ってくるなどとは思ってはいない。その上ロシアは「日本がロシアの主権を認めたらその後の交渉をしてやってもいい」という立場を明確にしてきている。マスコミは今回も政府が妥協してしまうのではないかと思っているのであろう。だから「妥協しないですよね」と言っているのだ。

この場合の説明責任というのは、つまり判断はこちらでするから材料だけを提供しろということである。例えば河野大臣が「難しい交渉が予想され、国民の期待通りにならないかもしれない」といった場合、マスコミが世論をまとめ賛成なり反対の立場を表明するならば、確かに説明責任を果たしていないという批判をする権利がある。

一方で、期待することだけを聞かせてくれというのは厳密には「知る権利」ではない。国民は難しい判断はしたくないし知りたくないという立場なので、知る権利を行使したいとは思っていないはずだ。すると記者たちは単に記事が書けないから怒っているということになる。

判断するつもりがないのに東洋経済は「河野大臣が傲慢答弁で国民の知る権利を侵害している」とご立腹である。これが記者会見に応じない政治家に対する一種のテンプレートとして自動化されてしまっているからだろう。

自然環境によって国境が決まっている日本と違って大陸の国は交渉と戦争によって領土を決めているのだから、日本側には相当の覚悟とある程度の見込みがないと領土交渉はできない。何かを犠牲西手でも両国関係を進めたいという気概もない。この話は全く前に進まないのではないかと思える。逆に彼らが功を焦って何か決断をするとまた誰かが嘘をつかなければならなくなる。こんな交渉は今すぐにでもやめてしまうべきだと思う。

国民は「二島先行返還」とか「ロシアの主権の確認」といった難しい判断はできないししたくもない。安倍首相にも北方領土交渉の成功の見込みはない。にもかかわらず話がここまで進んでしまったのは、もとはといえばプーチン大統領が「(お前にはできるはずもないが)何の条件もなしに平和条約交渉を再開しようではないか」と挑発してきたからである。河野大臣はブログでは手の内を晒してポーカーをやるようなものと言っているらしいが、本当にポーカーのゲームに呼んでもらえているのか、それともからかわれているだけなのかということをマスコミは取材した方が良い。

この問題は「知る権利」について考える良いきっかけになると思う。知ってしまった以上判断が求められるし、結果にも責任を負わなければならない。だが、日本人がそこまでの覚悟をして北方領土交渉に望んでいるとも思えないし、他の件についてもそれほどの覚悟と関心を持っているとは思えない。民主主義が破壊されていると嘆く前にこのことについてもう一度考えてみてはいかがだろうか。

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辺野古はレイプされている!と言い続けることの意味

先日立憲民主党が組織不全に陥っており来年の参議院選挙で自由民主党がそれほど負けることはないのではないかという予想を書いた。離反されるのかなと思ったのだが、意外と多く読まれていて「リベラルに期待してきたけど何か違うのでは?」と思い始めている人が多いことが伺える。






リベラル支持の人たちは有権者がバカで支持が広まらないか、マスコミや安倍政権の陰謀のために支持が広がらないという他罰的な文章を期待したのではないかと思っていた。だが、実際には他人のせいでリベラルが成り立っていないわけではなく「人の話を聞いたり協力体制を作れない」ことが停滞の理由になっているように思える。これは学校の先生に言われていたような当たり前のことである。

保守の人たちも人の話を聞かず既存のルールや合意を破りたがる。こうして他人に従いたくない人たちが「自分でルールを作って人を順わせればいいのでは?」と考えて政治に参加していると仮説するとこの惨状が説明しやすい。

安倍政権が傲慢でやりたい放題だという話と、リベラルが自壊してしまったという話は表裏一体に見えながらも実は別の事象なのではないかと思う。リベラルの側はいろいろと言い立てるのだが、実際には抵抗するために組織化しようという努力を全くしてきていない。

今回は辺野古の埋め立てが始まったということで「辺野古はレイプされている」という声がTwitterで渦巻いている。だが、これも自分たちが支持されておらず、満足な組織体が作れないという辛い現実を忘れるための道具になってしまっている。だが、表立ってこんな指摘をすれば「沖縄の歴史を忘れたのか」という悲しげな抗議の声が殺到することは目に見えている。レイプされているという被害者意識は実はこうした現実逃避効果を生み出しているのである。

リベラルの立場が疲れるのは、すでに分析したように安倍政権が日本の政治的ニーズに合致しているからである。それは嘘と誤魔化しだ。自民党は政権交代の時に総括と自己改革ができないままで民主党の敵失により政権復帰した。反省も総括もしていないので「再び自分たちがやりたいようにやればまた離反されるかもしれない」という潜在的な不安を抱えている。だから自民党の中には嘘とごまかしがある。特に政策に強いはずの”保守本流”の人たちは「自分たちの政策は有権者にまともに理解されない」という被害者意識と政争では喧嘩好きな保守傍流に勝てないという劣等感を持っているはずだ。

安倍政権側にはお互いに矛盾する要望を「虚の中心」である安倍晋三がまとめ上げるという基本構造がある。決定的な決断を先延ばしにしていた日本の社会は根本的には行き詰っている。いろいろな矛盾がぶつかり痛みを感じないためには安倍晋三という虚の中心が必要だった。

しかし、彼が何か意思決定するたびにつじつまが合わなくなるので、嘘や隠蔽が横行することになる。安倍晋三が嘘をついているわけではない。嘘をついているのは周りの人たちで、安倍は単に「自分は興味がないし知らない」と言っているだけである。だから安倍政権というおばけを追求すると疲れるのだ。

少し長いが森友加計学園問題についての有名な山本太郎の質問書をご紹介しよう。安倍はこの問題について「私は関係がない」と言い続けてきただけで嘘は他の人たちがついている。嘘を容認することに慣れきった社会では意外とこの壁が破れないわけである。

 平成二十九年二月十七日の衆議院予算委員会において、安倍首相は学校法人森友学園に対する大阪府豊中市の国有地譲渡等及び当該学校法人の小学校新設に係る設置認可(以下「本件」という。)に関する質疑において「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。」、また「繰り返して申し上げますが、私も妻も一切この認可にも、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして」、さらに「繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います」との答弁を行った(以下「首相答弁」という。)。
 以上を踏まえて、以下質問する。

また外国人技能実習生が亡くなっている件についても「亡くなられた例については、私はいまここで初めてお伺いをしたわけでありまして、ですからわたしは答えようがない」と同じようなことを言っている。この「知らない・答えられない」というのが実は難しい問題を考えたくない日本人の心象にぴったりと合致しているうえに、知らないと言われるとそれ以上のことが追求できなくなる。その上実はリベラルの中にも「でも外国人を犠牲にしないと介護人材が集まらないのでは?」などと思っている人がいるのだろう。だから、この数年間は「知らない」「いやそんなはずはない」という会話だけが壊れたレコーダーのように繰り返されるばかりで、具体的な改善策はどこからも出なかった。

確かに安倍政権はひどい。しかし、このままではまずいと本当に思うならリベラルが総崩れになったのは安倍政権のせいではないと考えるべきだ。自分たちの正当な思いが全く理解されていないのは社会の無理解と有権者のバカさ加減のせいだという独特の世界観を持ったままでは世の中を変革できない。英語にself-pityという言葉があり日本語では行き過ぎた自己憐憫などと訳される。

自己憐憫に浸るリベラルの人たちは「世間に伝わっていない」という話をよくするが、実際には世間はそれを見ている。呆れている人もいるだろうし、手を差し伸べたのに「お前は無理解だからわからないのだ」と逆ギレされた人もいるだろう。中には内部に入って「お勉強」を強要されて嫌になった人もいるのではないかと思う。自己憐憫に浸っている人は無関心な人を叩けないので、関わってきた人を攻撃してしまうのだ。

NHKが伝えないから、大人が悪いからと逆ギレすることで、リベラルは却って世間の支援を当ざけてきたのではないか。世間が遠ざかるとますます被害者意識を高ぶらせて「世の中にはこんなに悪い人がいる」と政権を叩くわけだが、実はその裏で組織化のための努力もしていない。だから口だけだと嫌われてしまうのだ。

Self-Pityは害悪である。第一に自己憐憫に囚われると相手のことを聞かなくなる。次に全てを差別のせいにしてしまうので、自分たちの組織力や実行力がないという問題が棚上げになってしまっている。大人は振り向いてくれないと怒ってみても世の中は変わらない。

集団主義も個人主義もない日本人は協力せず人の話を聞かない。単に自分の主張が伝わらないからといって相手を攻め立てて大きな声で叫び続ける。自分が勝ちたい人が多いので、相手を否定して我こそが正しいのだと政権を取ってみたが実際には実力不足で何もできなかった。こうなると、もう現実を逃避して自分たちが想像した空間に逃げ込むしかない。自民党は政府文書を隠したりなくしたり忘れたりすることで逃避を図り、野党側は沖縄の自然が破壊されるといって自己逃避をしているのだ。

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日本のリベラルが崩壊し、安倍政権のやりたい放題が続く理由

野党の書き起こしで技能実習生が174名亡くなっていた(日経新聞)ということがわかった。さすがにこれはひどいと思ったのだが、かといって個人でできることには限界がある。この問題を提起したのは立憲民主党の有田芳生さんなので党としても今後の対応を考えているのではないかと思った。自分では何もできなくても彼らの主張を伝えることくらいはできるだろう。だが、ちょっと動いてわかったのは立憲民主党は騒ぐだけ騒いでもそれ以上何もしないだろうということだった。よくマスコミが何も伝えてくれないと大騒ぎしている人がいるが、マスコミを批判するのは多分筋違いだ。リベラルという人たちは何もやっていないし、何かをするつもりもないと思う。だから有権者が離反してしまったのだ。






最初に見たのは有田さんの一連のツイートのリツイートだったと思う。自分も留学した経験がありいい思いも悪い思いもしているので、他人事ではないという気持ちがある。何もできないかもしれないが、少しくらい手伝えることがあるのでは?と地元の接触先を調べ始めた。

ところが調べてみたところ意外なことがわかった。そもそも千葉県には立憲民主党がないのである。県連合というのがあるので連絡してみたのだが電話とファックスがあるだけだという。電話で「この件について応援したいので何ができるのか教えて欲しい」と簡単に依頼したのだが、電話だとあなたが何を言っているのかわからないのでファックスで文章にして送って欲しいと言われた。せめてメールがないかというとそんなものはないという。実際に出かけていっても良いと提案してみたのだがそれは難しいといわれた。狭いところでやっているから対応できないそうだ。一応担当者につないでくれるようにと携帯電話番号を渡したが二日経っても連絡はなかった。

ここから、有田さんが組織対応を考えずに「とりあえず場当たり的に情報を出した」ことがわかる。世間の注目を集めて「騒ぎになること」だけを狙ったのだろう。そもそも問い合わせの主体を作るつもりすらなく、民進党が場当たり的に党を割ったこともわかる。県のレベルでも党組織を維持するお金を準備していなかったということだ。だから、立憲民主党は最初から党としては何かするつもりはなかったことになる。

日本のリベラルがなぜダメになったのかがよくわかる。政治理念とか文化風土とかそういう難しい問題ではない。単に計画性がなく、協力して横の連携を取ろうとせず、選挙の時だけ体裁を整えようとするから、国民から見放されてしまったということだ。そうした彼らができるのは扇情的に国民世論を煽ることだけであり、それを知った人たちがますますリベラルから距離を置くという悪循環が生まれている。これを安倍政権やマスコミの陰謀論に仕立ててみたところで、彼らが組織運営ができないという事実は変わらない。党が運営できない人たちが政府を動かせるはずもない。

だから技能実習生がこれから先何人亡くなり、それが日本という国への印象がどれだけ悪くなっても、国民は見て見ぬ振りをする以外に道がない。悲しいことだが、私たちはまずこれを受けとめなければならない。

国民民主党系の地方議員事務所も開店休業状態になっているので、例によって市民団体系の事務所に話を聞きに行った。監査をやっているらしく珍しく3名がいた。ここでは「ネットでは技能実習生の問題について心を痛めている人がいて、何かできないかを考えている。そこでリベラル系の団体で何か運動を起こしている人はいないか取材している」と言ってみたのだが、そもそもこの段階で理解してもらえなかった。

一人(監査を受ける会計係)は黙って話を聞いており、もう一人(お留守番役)はこれまでの活動議事録を引っ張り出してそこに答えが書いていないかを探しはじめた。そして監査に来ていた人は「自分たちは一生懸命活動しているが誰も話を聞いてくれない」と自分の話を始めた。そのあと30分ほど彼女の苦労話を聞いた。他人の話には興味がないが自分がいかに理解されていないかということは話たくて仕方がなかったようだ。被害者意識でいっぱいになっているが、普段からお勉強会友達としか話をしていないせいで相手が言っていることが理解できないのだろう。この監査の女性は「80歳代のお年寄りが政治のことなんか理解できるはずがない」からリベラルの素晴らしい活動が理解されないのだということを言っていた。

一方、活動議事録を探している人を見ていて面白いなと思ったことがある。実は彼女はうまく言語化できないだけで外国人技能実習生が介護に関わっているという認識は持っている。彼女は高齢者なので介護に関心がある。そして海外から来た人を安く使わないと制度が維持できない(つまり技能実習生を止めると損をする)という認識も持っている。しかし、技能実習生が劣悪な環境で働くのが良いとも言えない。それは<共生主義的>には間違った思想だからだ。そこで、一生懸命公式の答えを探そうと答えが書いていない議事録を漁り始めたということだ。彼女は言語化できないだけで、この問題の本質にある難しさには気がついている。ところがリーダー格の人たちは「こうした人たちは単なるお手伝いでみんな無知蒙昧なバカだ」と感じているためこうした違和感を持ったまま黙っている人たちのことが理解できないということになる。

市民系の団体はもともと地域の交通安全や給食の問題を扱っているので地域のお母さんの中にも子育て中は参加してくれる人がいるらしい。彼女たちが居つかないのは多分押しが強い人たちが嫌になるからなのではないかと思った。押しが強い人たちは相手のいうことを聞かず、相手がバカであると感じるのだろう。だから、普通のお母さんたちはバカ扱いされた上によくわからない護憲・反原発活動や各種のお勉強会に動員されることに違和感を覚えるのではないだろうか。

日本ではよくインテリゲンチャ発の社会主義が失敗したと言われる。普通の日本人は自分が持っている違和感を言語化できないので、インテリから見ると言語化できない人たちが単なるバカに見えてしまうのだろう。だが、言語化できないということと認識していないということは実は全く別の問題なのだ。

技能実習生や海外移民の問題は新しい問題なのでそもそも答えがない。何かを選べば何かを諦めることになるので、みんなで協力して新しい答えを探して行かなければならない。立憲民主党のお留守番の人もそうだったのだが、彼女たちは言われたことを暗記して人に伝えることはできるのだが、新しい概念を理解して答えを模索したり、相手がどんなニーズを持っているのかを汲み取ったりするということが全くできない。正解をひたすら暗記させる教育のせいもあるだろうが、指導層の人たちが一般の担い手を啓蒙されていない暗愚な集団としてしか扱わないという日本独特の村落構造もあるように思える。

自民党は経済政党なので出資と情報がボトムアップで上がって行く。ところがリベラルの人たちにはそれもないので「党の偉い人たちが決めたこと」を伝達することしかできなくなる。だから、なんらかの形で協力を申し出る人がいてもそれが有機的に結びついて行かない。党の中央部はアイディアが吸い取れなくなり思い込みで動いてますます離反が強まるという「意図しない引きこもり」が起きているのだと思う。

この上意下達が成功しているのはリベラルでは共産党だけである。共産党は日本に来て独自の宗教になったうえに信仰に支えられた赤旗という経済的な基盤がある。彼らの宗教の経典は憲法第9条である。経典があるので党本部の主張を下に伝達することはできる。共産党支持者はとにかく朝に憲法第9条を唱えれば極楽に行けると信じており、そうでない人は安倍に騙されているか可哀想なバカだという立場なので精神的には救済されている。しかし、その他のリベラルはこうした経典すら持たず、経済基盤もなく、組織運営にも興味がない。だからあとは消えてゆくしかないのである。

立憲民主党と国民民主党が分裂した当時の状況を見てみると、議員たちが地方組織に一切相談することなく永田町の村の中で全てを決めてしまったことがわかる。地方組織は後からついてくるだろうと思ったのだろう。だが、自分の頭で考える能力もなければ他人の言っていることも理解できない地方組織は基本的に自律的に動けない。

今回話を聞いた市民団体はかなり焦っていた。来年4月の市議会議員選挙の準備をしているが全く支持が集まっていないようなのだ。参議院議員選挙のことを聞いてみたがそこまで考えが及ばないらしく「党の方で考えたら協力するところは協力する」と言っていた。しかし、ここまで何もできなかったのだから、これから何かができるということはないのではないかと思った。

先生が答えを押し付けて生徒の自主性を信頼しないというのも、生徒が自分で考えずに教科書を暗記するというのは典型的な日本の教育の弊害だ。保守系のように嘘でも神話でもいいから信じられる答えを見つけた人や、共産党のように憲法を宗教にしてしまった人はそれでも幸せになれる。しかし、そうでない人は政治を単なる苦しみだと捉え離反してしまうことになる。多くの学生は「何のために勉強するのかわからない」と感じるがそれと同じなのではないかと思う。だから、日本からは保守もリベラルも消えさり、政治から経済的な恩恵だけを受けようとする人たちだけが生き残ったのだろう。

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産業革新投資機構の失敗はなぜ起きたのか

産業革新投資機構の役員人事で政府と会社側もめているそうだ。これについて調べてみたのだが「さっぱりわからない」ということしか分からなかった。いくつかのテレビも見たのだがそれでもやっぱりわからない。この「わからない」というのが問題の核なのではないかと思った。






このニュースはいろいろな媒体が取り上げているので経緯はわかってきている。いったん承認したはずの役員報酬を経済産業省が取り消したことに役員が反発して感情的な問題に発展したらしい。2兆円規模のファンドだったという話もあるので、2兆円規模の喧嘩ということになる。中学生よりタチが悪い。

ただ、それがいいことなのか悪いことなのかを考えようとするとさっぱりわからなくなる。誰が何を何のために決めているのかがわからないからだ。細かいことを考えないで読んでみるとその原因もわかる。前身の組織は2009年に作られている。ちょうど自民党と民主党の政権交代の時期にあたり政治がまともな判断ができなくなっていた時期に重なる。さらに財務省と経産省からそれぞれ人が入っており(予算は財務省が出すが内容は経済産業省が管轄するという仕組みになっていたようである)意思決定の最終責任者が誰なのかということがよくわからなくなっていたということもわかる。

それでも省庁だけが管理していたのならまだよかったのかもしれない。ここに官邸の意向を気にした「国会担当の経済産業省の人」が入ってきたことで、経産省が一度決めたことが他の人によって覆されるということが起きたようだ。さらに、経済産業省から先に「異例のコメント」が出たことにより問題が収拾不能になった。

このことから窺い知れるのは、官邸+経済産業大臣はマスコミを通じて世論を作り相手を追い込んでゆくという宣伝主導のやり方に多分慣れきってしまっているのだろうなということである。もともと目的も意思決定者もはっきりしないのだから揉めるということは大いに考えられるのだが、これに世論誘導が加わると問題がさらに複雑になってしまうのだ。世耕大臣側は「自分たちはマスコミを操作できるのだからそれを優位に利用することは賢くて良いことなのだ」と思い込んでいたのかもしれない。そして、内政に関してはこの作戦がうまく機能しているのだろう。

世耕大臣の当初の目論見は成功している。数ヶ月のやり取りの中で一本気な田中正昭社長に嫌気がさしていたのだろう。世耕大臣ら官邸側は経済に疎く業務がわからないのだからファンド側を精神的に支配する必要があるが、実務では勝てないために「無理を言って屈服させること」で支配を試みる。これは前回みたいじめの構造に似ている。心ない言葉を投げかけて相手を支配しようとするのと同じことである。世耕大臣は機構側をいじめて「誰がボスか」を知らしめようとしたのかもしれない。

ただ、世耕大臣側は読み違いをしたと思う。恫喝が効果的なのは恫喝される側が村で生きて行かなければならないからである。しかし、田中社長らはグローバルに活躍していて日本の村に頼る必要はない。だから「ああ、そうですか」といって出て行ってしまった。

今回は日本型の「相手を恫喝して精神的支配を試みる」という習性を観察している。これが個人的な対人関係の不安から生じる場合もあるし、合理的に「相手より上に立たないと搾取支配される」という恐れだったりもする。いずれにせよ、日本人は閉鎖的な空間に慣れているので、こうしたやり方が効果的であることが多い。集団主義で年功序列がある場合にはそれに従っていればいいが日本はそこまで集団主義ではないので年功序列には頼れない。かといって個人の意見が尊重されるわけでもない。こういう極めて特殊で不安定な集団構造がありなおかつ閉鎖的な日本の空間では常に闘争に参加し勝ち続ける必要がある。

つまりこれは村の論理だ。一体どれ位規模のファンドかはわからないが世耕大臣はこれを村の論理で処理しようとして失敗したのである。

今回の件で日本の投資環境は極めて閉鎖的だということがわかった。これは国際金融という村に広まり誰も日本政府にコミットしようとは思わなくなるだろう。もともと前身である機構の失敗の隠蔽から始まった機構改革だったが、世耕大臣の稚拙で陰湿な村落的な「解決策」のために失敗が露呈してしまったということになる。

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