安倍首相の運転するバスは高速で走っている。運転手は何かを操作している。だが、実は気を失っているようだ。

安倍政権は順調に暴走しているが、どうやらこの暴走の様子が少しこれまでとは違っているようである。

外国人労働力の受け入れを短時間で決めてしまった。外交で忙しいから国内の法律はさっさと片付けたいのだという。法案の中身がスカスカだと批判するのは普通は野党だけだ。しかし今回は大島理森衆議院議長も懸念を表明しており、実施段階前にもう一度準備状況を国会に報告するように求めている。(毎日新聞)さらに、政府は「アメリカから一兆円分の戦闘機を購入する」などと言い出しているようだが、こちらも自民党の中に根強い牽制論がある。自民党の一部が「2020年までに国産機開発を始めろ」と圧力をかけている。(日経新聞)さらに、憲法審査会も安倍首相の指示を通さず今国会中に自民党独自案を出すのを諦めたようである。(毎日新聞)公明党も選挙前には波風を立てて欲しくないようで、あまりにも性急だというわけである。

ここからわかるのは、安倍政権では海外人材の安価な調達や水道の民間企業解放などといった財界からの要望がある問題については野党を無視してでも法案を通そうとしているが、それ以外のことでは自民党と官邸の足並みが揃わなくなってきているということである。つまり、官邸は自民党政権を守るために動いているわけではなくなっているということになる。野党支持者は政権維持と選挙で勝つために安倍政権が自民党ぐるみで暴走していると思いたいのかもしれないが、必ずしもそうではなさそうなのだ。だが、何が起こっているのかを明確な証拠から分析することは難しい。

ここで安倍晋三という人が「自分を支持してくれている人や気に入ってもらいたい人」には何がなんでもいい顔をしたい人だという仮説を立ててみたい。安倍首相が気に入ってもらいたいのは、アメリカ(トランプ大統領)、財界、それに自身の母親である。ただ、この「気に入ってもらいたい」のやり方が普通の人とは違っている。

憲法改正については祖父の悲願ということになっているのだが、母方の祖父から政治的に薫陶を受けたわけでもないし、岸信介の婿であった父親の悲願でもなかった。そうすると母親から不完全な形で受け継いだものに、いわゆるネトウヨと言われる人たちからの入れ知恵が入っているのではないかと思われる。このため、安倍首相の考える保守思想には背骨がない。本来の保守主義者は急激な移民の流入による社会の変化を嫌うはずだが、安倍首相にはそのような気持ちはないようだ。さらに、独自憲法を作りたいといいつつ「みっともない憲法を押し付けた」アメリカの機嫌ばかりを取ろうとしている。これも保守とは違っている。

ここから合理的な構造を取り出すのは難しいのだが、この憲法を変えたいというのは誰か別の人の指示であり、なおかつ具体的な道筋については聞いていないという可能性が浮かんでくる。つまり、この人はこう言っているから多分こうなのだろうという類推を安倍本人がしているということだ。

では、なぜ安倍首相は他人の機嫌ばかりを取ろうとするのかという問題が出てくる。おそらくは「自分自身がない」ために「他人に何かしてやること」を自身の存在価値だと勘違いしているのだろう。というより自分がないからこそ、相手に何かをしてやっている時以外に有能さを感じることができないのかもしれない。

自分がある人は当然他人にも自己があると類推するのだから、その人の主張が「本当はどういう意味なのか」ということを聞いて確かめるはずだ。本当には国のためにならないと思えば説得もするだろう。だが自分がないゆえに安倍がそのような説得をすることはない。このため例えば界にとって安倍はいい人だろう。

機嫌を取ろうとしたらへりくだった態度を取るはずなのだが、安倍首相にはそのような姿勢は見られない。むしろ「してやっている」というように考えているとすれば彼のこの不思議な態度に説明がつく。

この自分がない人が危機を感じるのはどんなときなのだろう。有能感の基礎になっているのは他人のご機嫌なのだが、これを自分の資質や価値だと勘違いしている。例えばトランプ大統領の機嫌が悪かったり、国会で野党が怒りした時がそれにあたる。外交とは彼がヒーローになれる好ましい空間であり、国会は彼にとっては非常に苦痛な場である。G20を口実に予定の埋まっていない外交に逃避したのは彼が自己の喪失を感じているからだろう。彼は有能な人間であり続けるためにバラマキによって得られる賞賛が必要なのだ。

このことから安倍はなぜ野党が怒っているのかということがわからないはずである。一方で彼を遠巻きにして距離を置いている人との間にはそれほどの危機感を感じていないのではないだろうか。例えば外に酒場を作ったり、トランプ大統領との会食の席でお酒の失敗をする安倍昭恵夫人がなんらかの不満を持っていることは確実だが、彼女が安倍首相に怒り出さない限り「ああ、人間関係とはこんなものか」と思っているはずである。

安倍晋太郎元外務大臣が「安倍晋三には政治家としての情がない」といったという有名な話がある。普通は「政治家としての思いやりがない」と解釈されているのだが、実際には人間としてのコアにある価値体系というものが存在せず、そうした信条を通じて自己と他人と結びつけられないという意味だったのかもしれない。

いずれにせよ、彼の不誠実な態度は周りを怒らせる。すると安倍首相は機嫌が悪くなり、別の誰かに八つ当たりをはじめる。実は「何かをやってもらっている人」も「本当はそういうことをやってほしいと思っていたわけではないのだけど」などと思っているかもしれない。自分がない人は相手を見ているようで実は見ていない。彼が見ているのは自分の中に勝手に作られた他人という虚像である。これが体系化されずに個別の言動としてのみ宙を舞っているのである。

八つ当たりされた方が最初は「自分に落ち度があるのでは?」と考えるだろう。だが、いずれそうではないことに気がつく。つまり「自分がない人」は常に他人との関係で勝手に心が揺れている。つまり自分には関係がないということがわかるのだ。喜ばせようと機嫌を取っても感謝はされない。突然怒り出しても、それは全て理不尽な怒りである。

八つ当たりされていた人たちはやがてこの「自分がない人」を遠巻きに見るようになる。八つ当たりと言っても何か言いがかりを付けられることがなければ何も怒らない。するとできるだけ相手にせず、当たり障りのない報告だけをし、できるだけ問題を表ざたにしないようになるだろう。「扱いにくい」人はこうやって周りから疎外されてゆく。だが、自分がない人は遠巻きにされていることに気がつかない。元から信条の通い合いはなく、人間関係とはそもそもそんなものだからである。

これが政府では蔓延していて、問題が起きた時にいちいち調査チームを作って内情を探らなければならないほどに広がっている。このままではお互いに連絡がとれなくなり、統一された政府ではなく各省庁や部局の集合体になってしまうだろう。そして安倍首相の周りには同じように信条がない人たちだけが集まってくる。ネトウヨの真の恐ろしさはそこにある。彼らは何かの意図を持っていてあんな酷いことを言っているのだろうと思う人が多いだろうが、実は意図など何もないのだ。

「自分がない人」は他人の動機で動いているので、説得したり共感することができない。とはいえ、その他人というのは実は他人そのものではなく勝手に脳の中に組みあがった虚像である。

日本政治のこの状況は極めて深刻である。安倍晋三という人がなぜこのようになったのかということは誰にもわからないしどうでもいいことだ。選挙優先の家で両親にかまってもらえなかったのだという指摘もあるが、安倍家の問題であって我々には関係がない。

ただ、この明らかに人格になんらかの問題を抱えている人を誰も止められなくなっているという点は問題である。もともと強いリーダーシップを嫌い中心に祭りあげるべき存在を作る日本では、無力な中心が暴走すると誰もそれを止められなくなる。

安倍首相が祭り上げられたのは岸信介の孫という血統的ブランドとその無力さゆえだったと思う。頼みごとをすればなんでも聞いてくれるいい人であり、周りの矛盾を吸収してくれる便利な人だったのだろう。ただ、亥年選挙を前にして自民党は安倍晋三を持て余し始めているようだ。

高齢者を中心とした新聞の世論調査では半数以上が安倍政権を支持しているという。私たち有権者の中にもこれまでと同じようオリンピックや万博を誘致して、地方に交通インフラを整備すれば昔のようになれると思っている人が大勢いるのかもしれない。

よく安倍首相は「ヒトラーのような独裁者で日本を戦争に導こうとしている」と言われるが、この分析は実はかなり危険だと思う。官邸が個人の欲望で動いているならまだ説得ができるし、なんらかの方法で「気持ちを折れさせる」ことも可能だ。しかし、自分の中を探してみたが本当にやりたいことが何も見つからないという絶望を抱えて走っている人の中に育った「誰かのために働いていて有能な自分」という虚像を止めるのはとても難しい。

もちろん、今回の分析は全て確証がない。ただ何かがおかしいのは確かだし、その深淵を覗こうとしても何も見えてこない。バスは高速道路を全速力で走っている。確かに、運転手は前をじっと見つめており、ハンドル操作もしているように見える。でも何かが変なのだ。みんなうすうす「あれ、この人はおかしいのでは?」と気がついているのだが、誰かが「この運転手は気を失っている!」と感じた時にパニックが始まる。だから、誰もそれを指摘できないのだろう。これが一番恐ろしい点だと思う。

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英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

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ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

安倍政権が破壊した村を引き継げるのは誰か?

新しい外国人受け入れの問題が引き続き審議されている。立憲民主党と国民民主党はなんとかして有権者に振り向いてもらおうと「あれが大変になるかもしれない」とか「これがよくわからない」などと騒いでいる。多分、多くの有権者はヘッドラインしか読まないだろうから彼らの懸念が支持者以外に伝わることはなさそうである。

この議論を見ていて「ああこれは大変なことになっているな」と思った。今審議しているのは移民制度である。社会に大きな影響を与えるので、受け入れが必要だったとしても慎重に運用する必要がある。管理に必要なのは全体を把握して人数を決めるという「計画経済的」なアプローチであり、極めて緻密な行政運営が求められる。

前回の議論で「計画経済は社会主義的であり自由主義経済の日本ではそもそもありえない」というような主張をしているのだが、今回の議論はこれを乗り越えないと前に進めないので、いったん計画経済を是認して先に進みたい。

計画経済で重要なのはまず政府が「そもそもどれくらいの外国人労働者が必要で」「彼らが従事するのはどんな労働で」「今どうなっているのか」ということを把握しなければならない。だが、政府は「それらは法律が決まってから別途決める」との一点張りである。そこで我々は政府は隠しているのだなと勝手に推測してしまう。

そんな中で、技能実習生の問題でいい加減な統計が見つかった。これがどうなっているのかということを調査するために政務事務次官をトップにした調査チームを作ったようである。これは大臣がいたにもかかわらず現場から適切な報告が上がっていないことを意味している。しかしこれはおかしいのではないか。

不都合な現状があればそれを隠すことはできるが、そもそも隠すためには現状を知っている必要がある。知らなければ隠すことすらできない。

以前、オイルショックの対応についてみた。中曽根通産大臣が通産省の職員と「一体となって」緊急対応を決めたという。高度経済成長期の日本ではこういうことができていた。中曽根自体は官僚出身ではなかったが終戦時には海軍主計少佐だったので数字に強かった。実質的には軍内官僚だったわけだ。一方で官僚も自民党経由で国会議員になるという通路があった。だから彼らはお互いに共通した文化を持っていた。

日本人は公式の役割分担や通路のほかに験が共有されている人たちの間での親密な関係作りを好む。ゆえに中曽根はわざわざ公式な制度など作らないでも人間関係で情報が取れていたはずだし、気心の知れた官僚たちは情報を隠すというようなこともなかったのではないかと思われる。通産省は手計算で全体が把握できる程度の村であり、大臣と官僚の間には「経理」という共通言語があったことがわかる。

安倍政権は実務経験がない世襲の人たちが「政治主導」という名目で官邸の力を強化て作った政権である。麻生財務大臣は東大をバカにしているようで「税金で勉強したかわいそうな人」というようなことを言っているし、安倍首相も東大には行けず成蹊大学を卒業している。そもそも東大を中心にしたエリート層にシンパシーを持たない人たちなのである。

日本人は強いリーダーシップを嫌い経験を同じくする村の調和を好むので、こうした「政治主導」に嫌気を覚えて情報を上げなくなるだろう。政権側ができるのはポジションを使った操作と恫喝だけであるが知らない情報を出せとまでは言えない。だから、官僚はボトムアップ的に情報を上げなくなると政権は全体で何が起きているのかわからなくなってしまうのだ。

例えば「今どれくらいの労働力が不足しているのか」とか「外国人研修生がどのような状態になっているのか」という情報は実は現場の人たちしか持っていない。それがあがってこないということはそもそも計画すら立てられないということを意味する。そんな中で無理やりな計画を立てれば、今度は官僚が「うまくいっていますよ」という報告用のファンタジーを創作することになる。これが改竄や隠蔽である。そして官僚はもともと創作能力に長けた「頭の良い」人たちなのである。

複雑なことに有権者からみると内部の嘘は官邸の嘘と見分けがつかない。山下法務大臣は福山哲郎委員に個票が出せないと主張していた。訴えられる可能性があるからだという。これに対して福山委員は、すべて国外退去しているのだから訴えることなどありえないだろうと応戦していたが、山下大臣は一度隠すと決めた情報は頑なに出さない姿勢のようだった。つまり、あからさまな嘘があるために、「ああ、官僚たちも自己保身のための嘘をついているな」ということにまでは気が回らないのだ。

安倍政権は「誰をどれくらい入れるのか」ということを決めないままで新しい制度を導入しようとしている。これにたいして民主党系の人たちは「審議が拙速だから数字が上がってきてから改めて審議をしてはどうか」と提案していた。しかしこれは「いずれ政府が状況を把握できるだろう」という見込みに立っている。ということは野党は政権は情報を把握する能力があると思っているということだ。

民主党系の人たちが「本当は政府は何もわかっていないのではないですか?」と聞いて欲しいところなのだが、それは無理かもしれない。民主党もまた強い政治主導を標榜して失敗した経験があるからだ。彼らもまた組織というのは上から命令すれば思い通りの結果が返ってくるはずであると思い込んでいる。だが、官僚はそういう動き方はしてくれない。

前回の議論では日本人が村性から脱却できないのではないかということを正面から受け止めるべきだろうと書いた。これについて「日本人をバカにしている」と憤った人もいたのではないかと思う。だが、実際に「自分が官僚の立場だったら問題を積極的に上にあげるだろうか」と考えてみるとよい。官邸は都合が悪いことは聞きたがらないだろう。異論を不快に感じるかもしれないし、「なんとかしろ」と問題を官僚に押えつけるかもしれない。村で生きて行かなければならない日本人はこれを超えて自浄作用を発揮することは絶対にできないのだ。

官邸は情報がない中で無理な計画を立てる。野党があれこれ心配するので「心配しなくてもうまくやれるから大丈夫だ」と言って押し通してしまう。官僚はなんとかそれを形にしてみせるが実は問題が起きている。ただそれを報告してしまうと「自己責任だ」といって報告した官僚が責任を取らされる。だからごまかした報告書を作る。すると全体につじつまがあわなくなるので、今度はそんな報告資料などないと官邸が野党に嘘をつくことになる。

確かにひどい状況だが、野党は安倍政権が村を破綻した状態で政府を引き継ぐことになるので、これを見越した調査をするという難しい能力が求められる。気に入った答えが返ってこないといって子供のように机を叩く野党にその度量があるとは思えない。そう考えながら国会審議を見ると、極めて憂鬱な気分になってしまう。

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強いリーダーを望まない日本人

カルロス・ゴーン容疑者が逮捕されてしばらくたった。テレビでは人民裁判的に「腐敗して堕ちた」英雄像が作られている。この経緯を見ていると面白いことがわかる。

ゴーン容疑者が「救った」当時の日産は、赤字が出ることがわかっている車の開発を止められなかったという。あえて開発を止めて悪者にはなりたくないが、責任もとりたくないの。誰もリーダーシップを取らない会社だったわけだ。そして結果が出るとお互いに指をさしあって口々に相手を非難し始めるという状態になっていた。担当という意味の責任はなく、結果責任をめぐって指の差し合いをしていたということである意味現在のTwitterに似ている。業績が落ちても不思議ではないし、NECのように同じような状況に陥った大企業は珍しくない。

ところがゴーン容疑者が救ったはずのメンタリティは20年弱もの間それほど変わっていなかったようだ。朝日新聞の記事では「巧妙でわからないように隠蔽していた」ということになっているが、彼らが事前に空港に張り込めたことからみて、これが検察の意図に沿った筋書きなのかもしれないと思う。フランス政府との駆け引きになっていたことからすでに政治問題化していたのかもしれない。

額があまりにも多いことから、取締役たちはみな知らないふりをしていたのではないかと思う。ただ、彼らはそんなことは別にどうでもいいことだと思っていたのではないだろうか。自分たちの領域から収奪されたのならそれは問題だが、そもそも配分前の利益なのだから「まだ誰のものでもない」。つまり、村を生きているに日本人には自分には「まだ」関係がない金だったのである。日本には公共という概念がなく村があるだけなので、会社という公共のためにリスクをとって状況を変えようという人は恐らくいなかったのだろう。

つまり、ゴーン容疑者が救った頃の日産に日産という会社がなかったと同じように、今の日産にも日産という会社はない。日産は単なる巨大なセクションの集合体なのだ。

面白いのは、20年弱の間に経営陣が入れ替わっているということである。さらに彼らはゴーン容疑者に取り立てられたものたちであり、当時の文化を引き継いでいるわけではなさそうである。にもかかわらず同じようなメンタリティが見られるところをみると、これが日本人かあるいはこの会社に特徴的な文化だったということになる。日本の文化の背景にある村社会がいかに強力なものかがわかる。

ゴーン容疑者はフランス大統領からのプレッシャーを受けて「不可逆的な統合」に乗り出していたという話がある。つまり「このままでは永遠に植民地化されてしまうぞ」ということがわかってからはじめて内部で慌てる人が出てきたか、彼らの責任は司法取引で問わないことにするから協力しろという外部からの働きかけがあったのだろう。つまり、自分たちの村が危ないと考えてはじめて村のリーダーたちはお互いに協力することにしたのではないだろうか。この場合には誰かに責任を押し付けてその人を生贄のように非難する臨時同盟が作られる。ワイドショーでおなじみの光景である。危機が去ればまた村の共同統治のような形に戻るのかもしれない。

いずれにせよ、逮捕されてから西川社長が「ゴーン容疑者は許しがたい」というところまでの流れがスムーズだったことから、政府・検察・マスコミ・日産社内にまで意思統一が図られていたことがわかる。当然ルノーの介入が予想されていたわけだから、彼らが動き出す時間を与えないことが極めて重要だったわけである。誰に習ったわけでもないのだろうが、村という集団民主的統治方法はかなり根強く日本に生きている。ただ、この集団民主主義は誰も全体への責任は取らない。

このことから、日産にDNAのように残っている誰も責任をとりたがらない気風が復活することは間違いがないのだが、集団で責任を押し付け合い最終的に誰も意思決定しないという意味では典型的な日本企業のあり方であり、何も日産だけが特別というわけではないだろう。こうして消滅しつつある大企業は他にもある。次に買われる時の飼い主はあるいは中国か台湾の企業なのかもしれない。

自民党にも同じような構造が見られる。各派閥が形式的には私物化を進める官邸には逆らわないが、かといって積極的に総理の政策にコミットしない。安倍首相の自民党支配が後何年続くのかはわからないが、外部からの介入やそれなりの危機がない限り、日本人は改革をせずに「強いリーダーにお付き合いしよう」と考えるわけである。そして、何かがあったときには、これまでの経緯とは全く関係なくバッサリと切ってしまうのだ。一部のネトウヨ議員を除いて安倍首相に味方する人はいないはずである。

このように日本で「一見強い」リーダーが出てきてもそれは実質的に強いリーダーとは言えない。日本はその意味では強いリーダーのもとに集団が協力するという主義の社会ではないのである。だが「自分たちの領域が支配されるかもしれない」となると一気に文脈が変わる。今までとは態度が一変してしまうことになる。

ゴーン容疑者は取締役会を支配することで企業を支配していたつもりでいたのかもしれないが、村の集合体である日本にとって一番大切なのは実は実働部隊だ。自民党で言えば、各利益団体とか地域の選挙区などがそれにあたる。権限の割り振りという西洋流のものの見方をしていたゴーン容疑者はそこを読み違えたのだろう。普段の日本人のリーダーはあえて均衡を崩すことは考えない。ところが村が理解できないゴーン容疑者は「意思決定をしているのは取締役会であるから、当然取締役を掌握すれば上から企業が抑えられるはず」と思い込んでいたのではないだろうか。

歴史ヒストリアで鳥羽伏見の戦いの回を見た。外から迎えられた徳川慶喜がしぶしぶ戦いを承認するが、途中で逃げてしまうという回である。慶喜には子飼いの部下がいたわけでもなかっただろうし、家臣たちにもそれほどの信頼も置いていなかったようだ。彼が現場を掌握できず油断した部下たちを引き締めることもできなかったのは当然のことである。結果的に徳川慶喜は逃亡し幕府は滅亡したが徳川慶喜自身はその後も生き続けた。

また、昭和天皇も、なし崩し的に大陸に進出して責任を取らない部下たちを掌握できなかった。昭和天皇も直属の軍隊や領地を持っていたわけではなく、単に祭り上げられる存在だった。

日本人は仲裁のために調停者としての権威を祭り上げたがるが、強いリーダーを置きたがらない。一見強いリーダーが出てきたとしても村には手出しできないし、手出しをすれば放逐されてしまう。だから中からトップダウンで改革するのがとても難しいのである。

皮肉なことに安倍首相は日本人なのでこうした村の仕組みがなんとなくわかっているのだろう。彼が実際に自分でやりたいことを始めた時、あるいは彼が去ってこれまで先送りしていた問題が全て表面化してくる2020年ごろには日本は大変なことになるのかもしれない。憲法の問題は進展していないので、このまま問題が先送りされオリンピックの後にはかなり大変なことが起こるかもしれない。これまで隠していた問題が次々と浮上するからだ。この時安倍首相を形式的に祭り上げ、あるいは下ろす時に同盟を組むことになる村長たちは自分たちで責任を取るために同盟できるだろうか。

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「日本人が英語を話せないのはなぜか」問題

Quoraによく日本人が英語を話せないのはなぜかという質問が出る。あまりにも繰り返し出てくるので、逆に「なぜ日本人は日本人が英語を話せない問題」にそれほどまでに関心があるのだろうかと思い始めた。






TOEFLなどの英語テストのランキングをみると、確かに日本の成績はあまり良くない。先進国と比べると「欧米とは言語体系が違っているから仕方がない」という理由付けができるのだが、アジアの各国にも負けている。

ところがテストができない理由も明確だ。そもそも、日本人はそれほど英語を必要としていない。英語が必要な理由は二つある。学問とビジネスだ。例えば、現地の言語に学術用語が充実していない国があり、そうした国では最初から英語で高等教育を行った方が良い場合がある。ラテン語経由の学術用語を豊富に使えるからである。日本はすでに漢字を輸入しており学術用語の造語にはそれほど困らなかった。

もう一つの理由はビジネスである。国内のマーケットが狭い国は海外へ出て行く必要がある。この場合英語か中国語が必要だ。中国語は中国では圧倒的な人々に話されているものの、第二言語話者は英語の方が圧倒的に多い。つまり英語ができればビジネスに有利だ。さらに、外貨が少なく海外からの投資が必要な国も英語が必要になる。国内に一億人以上の人口を抱えるマーケットがあり、外貨も十分にある日本にはこの必要がない。

この二つの理由により切実に英語を話したいという人が少ないのだと考えられる。だから別に英語などやらなくても良いのである。

するとますます日本人は英語が必要だと思い込んでいるのかという疑問が湧く。ところがこれがわからない。試しに「あなたは何があれば英語が話せるようになると思いますか」と聞くと答えが戻ってこない。この質問には日本語が堪能で英語もできるイタリア人らしき名前の人が返答してきただけだった。多分どうして英語が話したいのですかと聞いても答えは帰ってこないだろう。

最初は「英語ができない自分を恥じているのだな」などと思っていたのだが、そうではないかもしれないと思い始めた。個人としては英語は必要ないが、他人には英語をやらせたい人が多いのではないかと思ったのである。

おそらく、個人としての日本人は具体的な英語学習に対するイメージを持っていないし、自分の子供に英語をやらせたいとも思っていないのだろう。例えば日本人にメジャーリーガーが少ないのはなぜかと思う人が、別に自分が野球をやりたいわけでもないというのと同じ程度の疑問なのかもしれない。

だから、個人としての日本人は何の努力もしない。なんとなく学校の勉強には不信感を持っていて、学校が変わればみんな英語ができるようになるんじゃないかと思っている可能性はある。

以前に自己責任について見たときに、日本には「結果としての責任」という特殊な概念があり、相手を助けてやらないという冷酷な宣言の代わりに「自己責任」という言葉を使うことを観察した。この対極としてスポーツなどで優勝した人がハーフや米国籍取得者であっても「日本人として誇らしい」などというようなことがある。つまり、日本人は、何か利得があると考えたときには「我々」の範囲を広くとって成果を横取りしたがり、持ち出しがあるときには「我々」の範囲を狭くして扉を閉める傾向があることがわかる。加えて、社会一般と自分の間には明確な区別があり、自分のことを語る場合と社会全般のことを語る場合には意見が変わるのだろう。

だから、日本人には「英語」に対する一貫した意見がない。英語がどのような文脈で語られるかで意見が変わるのからである。ただ、すでに英語が話せる人だけが「日常会話程度の英語ならすぐに覚えられるのだから」といってあれこれ教え他がるのだが、そもそも英語を必要としない日本人にはどうでもいい知識なのだろう。

ここから類推すると「日本人が英語ができない」という疑問の意味がちょっと見えてくる。つまり「私」として英語ができるような努力はしたくないけれども、学校でよりよいカリキュラムができて全体が底上げできるのであれば「なんとなく誇らしい」と考えるだろう人が多いのだろう。だから「あなたは何が解決すれば英語ができるようになりますか」という主語をあなたにおいた質問には最初から意味がないのだ。

こうした「日本」で顕著なのが軍隊の必要性だろう。なんとなく西洋には劣等感を感じていて、軍隊さえ持てば尊敬されるのではと考えている人が多そうだが、具体的に聞いてみると実に曖昧なイメージしか持っていない人が多い。

軍隊を持つようになればなんらかの形で国民が負担を強いられる上に兵隊を出さなければならない。それを他人に押し付けられる自信のあるかあまり考えたことがない人は軍隊を持ちだがり、いつも何かを押し付けられていると不満を感じている人はことさら軍隊を拒否するのだろう。軍隊を持ったからといって個々の日本人が「日本は軍隊を持っていてすごいねえ」と言ってもらえることはないのだが、そもそも具体的なイメージがないのでそこまでは考えない。前回見た米子市長はこうした「具体的なことを考えない」人の典型例なのかもしれない。

よく、日本人は集団主義的だと言われることがある。確かに同調圧力が強く、自分の意見を言いたがらないし自分で考えないなどという集団主義風な傾向が見られる。しかしこの伸び縮み可能なアイデンティティというのは一般に言われている集団主義的感情とはどこか違っているように思える。一般的な集団主義の社会は厳格な秩序と決まりがあり個人の見解で勝手に伸ばしたり縮めたりすることはできない。そもそもこれを便利に使える時点で集団主義ではないのだ。

ただ、これを個々の日本人にぶつけても、決して認めようとはしないと思う。ただ、英語が話せないくらいだと「それはそれでいいのではないか」と思える。問題になるのは軍隊の問題のように「みんな何もしない前提では色々言いたがるが、実際に自分では努力も負担もしないというようなケースだ。

誰かに押し付ける前提で勇ましく行動しても、結局は全部自分たちに降りかかってくるというのが第二次世界大戦の結果だった。韓国や中国からは未だに恨まれており、場合によっては何倍にも誇張されて伝わるケースもある。韓国政府からは繰り返す問題を蒸し返され「ここをつつけば金がむしり取れるだろう」と思われているようだ。これも我々の祖先が後先考えずに大陸で威張り散らした結果なのである。我々は今これを国内でやろうとしている。使い倒しても構わないと侮っているアジアの人たちを大量に国内に招き入れており、これを固定化しようとしているが、将来彼らが怒りを日本社会にぶつけてくる可能性には全く気がついていないし、考えようとすらしない。日本人の非正規労働者は勝手に自己責任を感じて潰れてくれるかもしれないが、送り出し国の政府が騒ぎだしたらそんなことは言っていられなくなるだろう。

集団主義は集団の中での序列をはっきりさせることで結束を強め実力主義が持っている混乱を防ぐというような目的がある。一方、日本型の「集団主義」は他人の権威を笠にきて状況を悪化させいざとなったら誰も何もしたがらない可能性があり、却って集団を弱くしてしまうのではないかと思える。

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官僚主導と政治主導のどちらが優れているのかという議論を研究する

Quoraで面白い質問を二つ見つけた。一つは日本の官僚政治の弊害を問うものであり、もう一つは桜田大臣がいじめられているのはかわいそうなので官僚に全てを任せるべきなのではないかというものだった。なぜ、これが面白いのか「わかる人にはわかる」のではないかと思う。全く逆の要望なのである。

一方、新聞などでは何の前置きもなしに「政治主導を進めるべきだ」とか「行き過ぎた官邸主導(つまり政治主導)はよくない」などと書かれていて、マスコミでさえ何がどうあるべきなのかわかっていないように見える。

なぜ、このような状況が生まれたのだろうかということを考えると、また歴史のおもちゃ箱をひっくり返すことになる。日本の政治状況は文脈がわからないと全く理解できないことが多く、これが国民的な議論を難しくしている。

戦後政治は官僚政治から始まったといってよい。もともとは吉田茂が吉田学校が作り官僚出身者を議員にしたのがきっかけとされているようである。この傾向はしばらく続き、官僚と政治家は半ば一体化していた。例えばオイルショックの時には中曽根康弘のもとで通産省の官僚が手計算で国中の石油配分をしたことが知られている。中曽根が何冊か回顧録を出しているし、ネットでは杉山和男という人の回顧録を見つけた(PDF)。この回顧録を読むと石油が足りなくなるという報告を受けてから配分や行政指導や法律作成までがスピーディーに行われたと書かれている。つまり、この時代には政治家と官僚が協力しながら柔軟に国中を動かすことができており、一体化していたのである。

ところが、バブルが崩壊した頃には全く様子が変わっていた。例えば、小泉政権下の塩川財務大臣の「母屋でおかゆ、離れですき焼き」発言などが有名である。特別会計を作って官僚が贅沢をしているというイメージが作られた。すでに消費税が導入されており「財政破綻を防ぐためにはこれからも消費税は上がり続けるのでは」という懸念があり、それが現代にも引き継がれている。

執行調査で削れる予算の規模はわずかだが、歳出総額が一般会計の5倍に上る特別会計のずさんさが目をひいた。道路整備や国民年金など30以上あり、監視が届きにくく省庁や族議員の既得権益の温床になり無駄が多いとの見方を強めた。(日経新聞

劇場型で選挙を有利に戦おうとした小泉政権は積極的に「官僚はけしからん」というイメージを作ってゆく。そこから生まれた用語が政治主導というキーワード(コトバンク)である。選挙でみなさんが納得できる政治を選んでくださいというわけである。

ただ、これは小泉政権が勝手に作った流れではない。まず自民党で国会議員が官僚をしっかり「管理すべきだ」という議論が起こる。そこで計画されたのが副大臣制度である。偉い人を送り込めば官僚もいうことを聞くだろうと考えた(コトバンク)わけだ。小泉政権下でようやく副大臣制度ができた。

ところが、自民党では官僚主導政治は打破できないからということで、民主党が「民主党流の」政治主導を言い出した。彼らが政治主導にどのようなイメージを持っていたのかはわからないのだが、有権者は政治主導になればこれ以上消費税をあげられずに済むというような意味でこの発言を受け取ったものと思われる。

ところが民主党は政権を取ると政治主導とはこれだと言わんばかりに八ッ場ダムの建設を中止してしまう。コンセンサスなしに突然プロジェクトが中止されて現場が騒ぎになると(八ッ場あしたの会)それを引っ込めて「現場を混乱させた」と非難されることになった。さらに野田政権は「財務省に取り込まれて」消費税増税を約束してしまい、国民から大きな反発を受けた。多分、国民は民主党を嘘つきだと思っているはずで、今後も民主党後継の政党が政権を取ることはないだろう。

その怒りを利用したのが安倍政権で、今度は官邸主導を言い出した。内閣でもうまく行かなかったのだから「首相の強いリーダーシップ」で国を引っ張るというのである。ところがこれも実態はNSSという一部の人たちによる集団指導体制であり、ほとんどのメンバーが官僚出身である。安倍首相が官僚を書いた答弁しか読まないところから、首相自身は政策についてはあまり理解をしていないことがわかる。東京新聞はこれが忖度を生む悪しき土壌になったのだと言っている。

このように「政治主導」というキーワードは政局に利用されてきた歴史があるのだ。

桜田大臣がパソコンを触ったことがないことを非難されるのはこの流れに反しているからである。つまり、政治家が官僚をグリップすると言っているのに、何をやっているのかさえ理解できないではないかという非難をされているわけである。ところがQuoraの質問からわかるように有権者の中にもこれを理解していない人がでてきており「なぜ、優秀な人たちに任せていてはいけないのだろうか?」という疑問が出てくる。

ところが、中高年の年齢域の人たちはなんとなくこれまでの動きを理解しており「あれ、政治家が官僚を管理すると言っていたのでは?」と思う。さらに新聞の政治部の記者たちは明確にこの流れを知っている。だから前提の説明なしに非難され、それを知らない人たちが置いて行かれてしまうわけである。

実際には安倍政権の官邸主導は「官僚の中のアベトモ主導」であり、つまり官僚政治の延長である。これまでは官僚が「離れですき焼き」を食べていたのだが、結局は官邸とそのお友達が「官僚からすき焼きを横取りした」形になっている。一方で、主導するために集められた大臣や副大臣はこの経緯の中で「いてもいなくてもどうでもいい」存在に変質し、単に失言発生装置になっているわけだ。大臣担って政府に入るとマスコミも叩きやすい。週刊誌あたりは政治家のスキャンダルをストックしていて彼らがポストを得るのを待っているのではないかとすら思う。

いずれにせいても、相変わらず福祉や子育てサービスの入った母屋ではおかゆをすすっている。そしてそれが足りないが消費税は30%も取れないので20%くらいにしては(2018年11月19日自民党野田税調会長の日本記者クラブでの発言)という話すらでてきているのだ。さらに、自民党でも不満がくすぶっており「官邸主導を見直すべきである」という話が出るようになった。

例えば、この2018年初頭のNHKのこの記事を読むと、今書いたような経緯がわかる。

徐々に政府と与党の力関係が変化し、「党高政低」から、政府=首相官邸が主導する「政高党低」になったと言われるようになりました。

経緯で全てが変質してしまう日本では、政治の話とは別にこうした背景記事を読まないと政治記事の意味が読めないという状況になっている。政高党低というキーワードがわからないとこのNHKの記事すら探せない。

欧米の政治はある程度イデオロギーで動くために何がどうなっているのかがわかりやすい。しかし日本の政治は経緯で動いてしまううえに、本心を隠して口当たりの良いラベリングをする癖がある。だから、後から見ると「何がなんだかわからない」ということになりかねない。このことが日本の政治議論をますます難しいものにしているように思えてならない。

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鶏肉から学ぶデフレが進行するミクロ的な仕組み

お金はないが毎日を面白くしたいので新しい趣味を見つけた。腹筋を割るのである。年齢がいっているからムリだろうと思ったのだが、縦に線が入り上の4つがうっすらとわかるようになってきた。体脂肪率20%近辺だとこんなものなのだそうだ。それ以上にしようとすると体脂肪率をもっと下げる必要があるらしいのだが、これから寒くなるので暖かくなってからまた考えようかと思っている。

とはいえ、やることはあまり多くない。1日30分未満で腹筋運動をして、あとは食生活を変えた。昔だったらプロテインを買ってきたと思うのだが、今回は鶏肉とさつまいもを主に食べている。

すると毎日買い物に行って単純なものだけを買うことになる。近所のスーパーにはもともと地元のチェーン店が入っていたのだが数年前に撤退した。代わりに入ったのはイオン系の格安スーパーだ。人件費を減らしPBを増やして価格を抑えるという作戦の店である。

ところが、一人だけいる男性店員が変わった時から、品揃えに変化があった。30円のソーダがバックヤードに下げられて「ありますか」と言われると出てくるようになった。密売品を買っているような気分になる。多分、格安ソーダばかりが売れるのだろう。だが、品物がなくなったわけではないので隠しているのだと思う。女性店員たいは一緒に働いているが、この男性だけは一人で働いているので、仕入れ担当者か店長なのかもしれない。本部から彼に「収益を上げろという指示が出ているだろう」と勝手に思っている。

鶏肉にも異変があった。店にはパックされた鶏肉が並んでいる。トレーがないので小分けで買えるう上に若干お得なのだ。胸肉が68円、ささみが少し高く、一番高いのは胸肉である。同じ大きさだと胸肉が180円から230円くらい買えるのに、胸肉はどうしても300円以上になる。ということで結果的にいつも胸肉は余っている。

ある時から200円以下の胸肉が手に入れにくくなった。単価は変わらないので大きな胸肉を仕入れているようである。しかしそれでももも肉は余っている。そこでついに胸肉が品薄になる日が増えた。仕入れは8時ごろだそうだが、時間をずらして行っても買えない。そしてついに全くなくなってしう日も出てきた。

こうすればもも肉を買うだろうと仕入れの担当者は思ったのではないかと思う。

が、そこで新しいものを見つけてしまった。それは鳥ミンチである。鳥ミンチは小分けパックになっていて量が若干少ないが安く食べられる。最初は炊飯器調理が面倒だと思ったのだが(胸肉はそのまま炊飯器に入れれば調理できるのだ)トレーの上で片栗粉、ハーブ、塩、ニンニクを入れた上で混ぜてスプーンでお湯に投下すると却って味にバリエーションがつけられることがわかった。というかこっちの方が美味しい。つまり、高いものに誘導しようとした店の目論見ははずれ、もっと安いものに誘導されてしまったことになる。

今回は一人で料理を発明したわけだが、実際のデフレ生活では荻原博子が「デフレ対応メニュー」を推奨したり、ページビューを稼ぎたいネットメディアがデフレメニューを掲載したりする。情報が増えると、例えばインテリアなどでも100円均一で買い物をしたほうがお得だということになる。そういう人が増えると100均のほうがおしゃれだということになり、インスタ映えするようになる。こうしてネットワーク経由でお得=デフレが進行してゆく。それを仕入れ担当者の浅知恵だけでひっくり返すことはできない。

鶏肉に戻って「なぜこんなことになったのか」を考えた。お金がもったいないという事情はあるのだが、結局のところ小分けで買い物をしているからだろうと思う。総枠10,000円で買っていた時には、鶏肉が200円だろうが300円だろうがそれほど違うように思えない。そもそも小分けで少量買えてしまう上に節約志向があるので、小さかった差が大きく見えてしまうのである。

すでに見たように、このスーパーは格安のバーリアルなども目玉になっている。バーリアルを国内メーカーが作ると「これで十分だ」という声が広がる。多分、ビールは相当打撃を受けるのではないかと思う。いったん「安い方向に」弾みがつくとそれがメーカーまで動かしてデフレ方向に最適化が進むということがわかる。そしてちょっと高いものは売れなくなり余剰在庫化してしまうのである。

以前社会主義の失敗を見た時にペレストロイカ下のソ連では高価格製品帯を作ろうとしたためにインフレが進行したという話を書いた。だがちょっとわからなかったこともある。つまりソ連は給料を政策的にあげることができたのに(お金は印刷して配るだけで良かった)なぜ人々は高いものを買わなかったのかという問題である。長年の耐久生活に人々が慣れてしまっていたからなのかもしれない。これは一企業の力ではどうにも変えられないし、政府が一つひとつの政策でマインドを変化させることもできない。総合的なメッセージが重要だったはずだが政府にはそれほど信用はなかったのではないか。

そもそも、安倍内閣はお金に困ったこともない人たちとパソコンを触ったことがない人が運営しており、政府への口利きの100万円も高くないと言ったと噂される人さえいる。麻生財務大臣はインスタントラーメンの値段が答えられなかったということで有名な人だ。ちなみに当時は170円くらいのものを400円と答えたという記事が残っている(中央日報)が、今の170円ラーメンはコンビニ価格で割高だと思う。金銭感覚が全く違っている上に、嘘やごまかしが多くあまり信頼することはできない。

もちろんペレストロイカ当時のソ連と現代の日本は違っており、結果もインフレとデフレという違いがあるのだが、似ているところがあるのではないかと思った。政府が信頼できなくなっても人々は抵抗しない。単にその状況に慣れて部分最適の行動を取り始めるのだ。

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日本が目指すべきは二大政党制

先日から出し惜しみ論について考えている。社会主義体制下では出し惜しみが起き産出の効率が悪化する歴史の教訓を踏まえ、日本社会は資本主義自由経済の一部が社会主義化して効率を悪化させているのではないかという仮説を置いた。

今回はこれを裏から見てみたい。つまり自由主義が残ったセクターはどうなるかという問題である。

バブル経済が崩壊し日本では終身雇用が破綻した。過去の高い給料が維持できなくなったがこれまでの労働慣行が温存され首切りができなかった。当初は新人採用を抑え込むことで賃金と福利厚生を押さえ込もうとして失敗した。そこで「専門性の高い派遣労働者」という既存の制度に目がつけられた。もともと専門職を軽んじ総合職をありがたがる組織の日本人はこれをなし崩し的に拡大することで低賃金・熟練労働に派遣労働が認められるようになった。バブルが崩壊したのは1991年ごろだが、1996年には10業種が拡大され1999年には製造業などを除いて原則解禁となり2004年には製造業も解禁された。(毎日新聞)こうして高度技能労働を低賃金で使い倒し、調整をする人たちの制度を守るという社会主義的な素地が生まれたのである。本社で企画に携わる正社員はソ連でいう官僚のような人たちであると考えられる。このチェーンは政府にまで伸びている。

日本の大企業はこれまでのように「潰れては困る」という理由で政府から保護されている。金融機関にも12兆円以上の公的資金が注入されたとされているそうだ。(コトバンク・知恵蔵の項目)また、正社員も温情的な労働組合の元既得権益として守られている。例えば連合は正社員のための労働組合なので、神津会長が独自に与党側と協議して「誰の味方なのか」と野党の反発を受けたりしている。

一方で非正規雇用はこうしたセーフティネットからははずれ、社会の保護が得られないままで放置されている。彼らは自由主義経済のもとに置かれており国や社会からの恩恵は受けられない。これは「自己責任」とされている。つまり、フリーの人たちは自由を享受しているのだから社会に貢献することは当たり前としても社会システムに依存するのは甘えだという論が一般的だ。だが重要なのは実際の生産技術を持っておりそこからイノベーションを起こせるのはこの技能労働者だという点である。彼らはナレッジワーカーなので、サービス産業主体の世界では彼らがイノベーションのキーにならなければならないのである。これが疲弊することで日本は成長ができなくなった。

彼らの勤め先は公的に保護されているのだから、社会主義的な制約が働く。つまり、リスクをとってイノベーションを起こすよりも政府の指導に従っていた方がリスクが少なくラクなのである。わざわざ先行投資をしてリスクを取る必要はない。ライバル企業もそのような「危ない橋」は渡らないからである。結果的に産業全体が低賃金労働に依存するようになり、自由主義部分はますます低賃金労働に張り付くことになる。旧共産圏流に極端な例を挙げると、日本人はトラバントを作らされることになるだろうということになる。トラバントなら新しい技能を身につけなくても作れるだろうが、やがて世界からは取り残されることになるだろう。

制度を精一杯利用しようとする働く両親がわざと保育園の当選を辞退したり生活保護を受けようとしたり、生活保護を受けようとする生活困窮者は社会や政治家から大いに叩かれることになる。生活保護受給者を叩いていた片山さつきが私設秘書と称する人が自分の名前で商売をしていも、選挙中に公職選挙法に触れるような看板を放置してもお咎めはない。制度として準備されている生活保護を使うのは片山にとっては甘えだが、自分の行動は全て正義を実現するための正当な行為として容認してしまう。

同じように豊洲市場問題では明らかな搾取が起こっている。臨海部の土地開発や新銀行の失敗は真面目に働いていた市場の人たちの犠牲のもとで清算された。だがそれを非難する人はいない。さらに、今後この市場が赤字を垂れ流しても誰も責任を取らないだろう。つまり、自己責任は非難されても組織が社会に依存することはそれほど抵抗なく受け入れられてしまうのだ。財政が破綻寸前しそうになれば救済策が議論されることになるだろう。実際に非難されるのは生き残りをかけて築地に残りたい「わがままな目利き」と都が設定したルールを守らない「一部のわがままな業者」である。

しかし、こうしたマクロ的な問題に腹を立ててみても状況は良くならない。問題は複雑に肥大化したシステムそのものにある。システム同士が複雑に絡み合い、いったいどこに問題があるのかということがわかりにくくなっている。マスコミが散発的に炎上したところで問題は解決しない。社会主義や官僚主義が悪いというわけではなく、このシステムの複雑化が問題なのではないかと考えると、やっとイデオロギー的な対立に依存せずに問題が扱えるようになる。

現在の安倍政権は保守色が強いように思える。しかし、大きな政府を志向しているのか自由主義的な政府を志向しているのかがさっぱりわからない。実際にやっているのは、社会主義化しているセクターを守り制度を複雑化させていることだけだ。そして彼らが庇護しているシステムが生産性を失うと、制度を温存したままでその恩恵を受けることができない人を増やそうとする。つまり、誰かから奪ってくることで生き残りを図ろうとしている。派遣労働のなし崩し的な拡大と海外労働者の「輸入」は一続きになっているということになる。この裏で例えば研修生がシステムから逃げ出しているが、厚生労働省の統計では「高い賃金を求めて逃げただけのわがままな外国人」である。

システム全体が守られているのだから「一部の犠牲はやむをえないのではないか」と思う人がいるかもしれない。ところが実際にはこの依存傾向は拡大しつつあるところから、システムの縮小が続いていることがわかる。成人病が進行しているのである。このままでは海外からの人材獲得競争にも製品開発競争にも負けてしまうことになるだろう。

ここから導きだされる仮説は次のようなものになる。まずは社会主義的に作られたシステムを解放し、同時に行き過ぎた自由主義的のもとにある人たちに適切な保護を与えなければならない。これを同時並行的に行わなければならないのである。「混ぜてはいけないが相互にとりくまなければならない」ということだ。これを制度的にやっているのが本来のアメリカだった。これが二大政党制の本来の意味なのかもしれない。意外とよくできた制度だったのだ。

ここで大きな問題が起こる。自民党は自由主義政党とされるが一部で過度な社会主義的な政策を実行している。地方分権的な自由主義政党であったはずの維新もやっていることは万博の誘致や教育の無償化などの保護主義的政策をとっている。一方、野党はいったんは自由主義を目指さなければならないのだが、そのバックボーンは社会主義か社会民主主義なので一定以上の改革はできない。イデオロギーとやっていること、さらにやらなければならないことが複雑に混じり合い、日本の政党政治は身動きが取れなくなってしまっているように見える。

その意味では小沢一郎らが作ろうとした二大政党制は本質的に間違っていたことになる。日本人はその制度の意味を理解せず形だけを輸入しようとする。小沢らはイデオロギー的に混乱した自民党内部の権力闘争を野党にも拡大し、そこから抜け出せないままで政治人生を終えようとしているのかもしれない。

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自由主義と社会主義を混合するとどうなるのか

先日来、出し惜しみ論を考えている。理想的な自由主義社会では個人が幸福の追求をすることで社会が発展する。一方、社会主義化が進むと出し惜しみが起こり社会が衰退するという論である。当初は自由主義が行き過ぎると自己保身を図った労働者が出し惜しみをするのではないかと考えていたのだが、どうやらそうではないようだ。新自由主義で出し惜しみが起こるというような話は聞かないが、社会主義について調べていると出し惜しみの話がよく出てくる。

一見すると、日本で社会主義が進行しているとは考えにくい。もしそうなら社会民主党や共産党が大躍進しているはずである。実際に生産の現場では自由主義化が維持されている。しかし、その他の分野では社会主義化が進んでおり出し惜しみが起きているのではないかと思う。今の所出てきたのが保育のような福利厚生と賃金労働分野であるが、銀行なども国家が経営を保証することで国有企業化に近い保守的なマインドが生まれソフトな経済制約に似た状況がうまれているのかもしれない。

社会主義は失敗するがその理由はよくわからない

ソ連の誕生と崩壊は壮大な社会実験だった。ソ連の特徴は中央集権的な計画経済だ。産業発展の中期には集中的な資本投下が必要なので計画経済は著しい成果をあげるのだが、そのあとが続かない。ソ連では1960年代にはすでに問題が顕在化していたようである。恒常的な日常物資の不足が起きたのである。これについては相当研究が続いており膨大な知見があるようなのだが、実際には何が原因で生産機構が立ち行かなくなったのかということはよくわかっていないようだ。

原因の一つだとされているのがインセンティブの不足だ。つまり社会主義のもとではやる気がでないというのである。どれだけ働いても働かなくても給料は一緒なので誰もまじめに働かなくなる。起業家が一生懸命努力をしても努力をしなくても同じなので誰も努力しなくなるという。ただこの悪平等問題が社会主義を破綻させたという決定的な証拠もないということである。

これとは別にソフトな予算制約(コルナイ)ということをいう人もいる。社会主義体制下では資本主義のような倒産が起こらない。企業はできるだけ多くのプロジェクトを獲得し、投資資源を出し惜しみし、売れるかどうかに関係なく生産を行う。すると、結果的にすべてのものが足りなくなってしまうという。このソフトな予算制約説は日本にはゾンビ企業が多いから早く潰してしまえという主張によく使われており、安倍政権が登場した時にはリフレ論を攻撃するのに使われたりしていたが、その後金融改革派が衰退してしまい聞かれなくなった。

さらに官僚主義の問題を指摘する人もいる。経済が複雑化すると命令系統が長くなり肥大化する。それが非効率につながるという。命令系統の途中にいる人は失敗を恐れるようになるうえに、現場で何が必要なのかわからなくなり、全体として硬直化が起こるというのである。日本では「大企業病」などと言われる。市場というシステムと意思決定システムが切り離されて不具合が起きるのである。

適切な自由主義がうまくゆく理由

ソ連型の社会主義がうまく行かない理由はよくわからないものの「人は支持された通りには動かないかもしれない」ということと「計画を立てる人たちが肥大化する」ことがやがて生産性の低下につながっていることはわかる。このことから逆に考えると、自由主義がうまく行くのは需要と供給の決定が効率的につながっているからだということがわかる。一人ひとりの判断はわがままに見えても市場全体としては正当化されるのである。企業は利益を追求しようとして営利企業を運営し、労働者は自分の労働力が高く売れるところで就職して賃金を得るということだ。

ところが、自由主義は別の問題を引き起こす。自由主義もまた強者を生むのである。例えば企業は労働者より力が強いので労働者の自己選択は制限される。すると、企業は地位を利用して労働者を搾取するようになる。さらに大きな企業も特権的な地位を利用して中小企業を搾取するようになる。こうした地位の格差までを自由主義の一部として肯定しようというのがいわゆる新自由主義であり、格差をできるだけ少なくして自由主義をうまく回して行こうという社会民主主義があると考えられる。アメリカのように社会主義への抵抗が強い国ではリベラルなどと呼ばれたりする。

いいとこ取りは可能なのか?

このように共産主義も自由主義的資本主義も欠陥があるのだから「いいとこどり」をすればいいのではないかと思いたくなる。

日本では生産と賃金労働者には自由主義経済を割り当てている。生産者はものを作らなければならず、労働者は働かなければ賃金が得られない。ところがそれとは別に国に守られているセクターがある。中小企業は潰れるが大手や金融機関は政府に保護される。また国家プロジェクトも国二保証されている。ところが国や地方自治体のプロジェクトはいつの間にか肥大化する。

例えば豊洲新市場が移転に失敗したのも社会主義の行き詰まりで説明ができる。経営意欲も能力もない東京都が魚市場という自由主義的経済に片足を突っ込んだ結果大惨事を引き起こしたという事例だ。

築地市場が豊洲に移転したのは、築地が蓄積していた儲けを都の他の事業の失敗の穴埋めに使いたかったからである。背景にあるのは小説家出身の政治家がもっとも資本主義的なノウハウが必要な銀行事業に手を出した失敗の穴埋めという事情がある。都はその他にも臨海部の開発に失敗していた。そこで、銀座近隣にあり高く売れる見込みが高い築地の土地を処分して有毒物質が埋まっていてマンションが建てられないところに移転するという計画が建てられたのだ。

しかし、それでも建築さえうまくできればまだ見込みはあった。しかし、初期投資にも出し惜しみがあった。結果として、汚水が上がり、トイレが水浸しになり、壁にヒビが入り、床も抜けている。予算制約のある中で現場の意見を聞かずに建物を作ったのだろう。資産は搾取され、プロジェクト予算は過大に要求されるが、実際の支出は抑えられてしまう。都側は「床に穴が空いたのは業者がルールを守らなかったからだ」と言い訳をするのではないだろうか。つまり、都側の出し惜しみを利用者に転嫁し「わがままだ」と断罪するのだ。魚市場は自由主義的に作られた流通システムの一部なので誰も責任を取らず改革案も生まれない豊洲はこのままでは崩壊するだろう。だがこれを温情的に温存することによって都民はこれからも高い補填を迫られるだろう。この豊洲の問題は市場という限られた環境で起こっているので社会主義の失敗が見えやすい。

ところが、保育園の問題は全体が見えにくい。国が予算を割けば企業がそれにフリーライドする。しかし保育予算という費目ではフリーライドがわからない。実際には企業は人件費を削減し、保育という支出をどうするのかは父母の問題と考えられるからである。最終的にはかつては企業が正社員である夫の人件費として肩代わりしていた保育費用を税金で賄うということになってしまう。受益者は父母なので、消費税などの直接税で賄おうという話になってしまう。消費税を福祉目的税にという話に騙される人は多い。結局、企業が福利厚生から退出しているだけなのだが、子育てというと何かいいことのように感じられて反対しにくくなるからだ。

さらに、雇用確保のために企業を潰さないようにしようとして政府が労働市場に介入することになれば、さらに複雑な問題が起こるだろう。この上憲法が改正され高等教育が無償化されることになれば、実質的に国有産業化する。こうなると産業の発展も教育も社会主義化されることになるのだが、国が「介護に人が足りない」といえば、その労働者を育成する教育に予算が割り振られ、そこに「出し惜しみ企業」が参入し、システムが非効率化するというようなことが起こるようになるだろう。これが「弱肉強食」の新自由主義セクターと混合することにより、予測ができない事態が起こるものと思われる。それぞれのシステムについて計算する人はいるが、全体を計算する人はおらず、また「神のように万能」でない限り計算できる人もいないのである。

自由主義の一部混合で崩壊したソ連

日本は自由主義経済の一部が社会主義化しているという点で混合経済化が進んでおり、これが複合的な汚染を引き起こしている。実際に起こっているのは総合デザインなきシステムの複雑化だ。例えていえばやみくもに広がった石油コンビナートに設計図がないようなものである。どこで不具合が起きているのか誰もわからないのである。

この逆をいったのがペレストロイカだそうだ。ペレストロイカでは自由主義市場を作らないままで意思決定を分権化してしまった。このため部分最適化が起こり市場が不均衡を起こしたという。

具体的には中央計画経済が中止され何がどれだけ必要なのかがわからなくなった。その状態で企業が儲けを優先して高価格製品を中心に製造を始める。すると日用品が不足する。しかし、国営企業なので労働者が生活を維持できるだけの賃金を供給する。すると貨幣が余り品物が足りないという事態が起こり、結果的にインフレが起きたのである。

このため中国は経済を拡大する時に特区を作り地域を限定して市場経済を導入した。狭い範囲から始め、これを徐々に拡大することにより「混合による混乱」を避けたのである。ソ連の失敗から学んだのかもしれない。

現在の政治議論は日本の問題を解決できない

今回の出し惜しみ論の結論は出し惜しみは社会主義の結果であるというものだ。ここから一歩進んで「資本主義的経済と社会主義的経済を混ぜてはいけない」ということも見えてきた。人々は自分たちが関連するセクターしか見ていない上に、政治議論も「築地豊洲の問題」とか「保育所が足りない問題」など細分化されている。だから、本質的に部分最適化の議論しかできないようになっているのである。

政治家たちは自分たちは制度を作ってやっているのにこれがうまく働かないのは国民がわがままで出し惜しみをしているからだと考えている。そしてまた別の制度を作ったり、苛立ちから「人権を取り上げるぞ」などと恫喝して議論を混乱させている。

このように政治家はあてにできない。我々は一度立ち止まって現在の政治議論の対立構造から抜け出すために努力をすべきではないかと思う。

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安倍政権はどうやって国の活力を奪うのか – 出し惜しみ説序論

今回は社会主義的出し惜しみ理論というものを提唱したい。手始めに取り上げるのは自民党憲法草案と今回の海外労働者の受け入れである。共通点はないようだが根幹にあるマインドセットが似ている。

前回は2012年の自民党憲法草案を見た。これは過去の国民主権を継続しているように見えながら、実際には国体が先にあり、国民がその構成物という役割を割り当てられていることがわかった。国民は国体を継続させるための添え物であり、何かあった時には率先して国体を守るべきだと考えられてる。政治家が動員できる便利なリソースが国民なのである。

なぜ隠れた主語画政治家なのだろうか。それは君主であるところの天皇に権力を戻すべきだとはなってはいないからだ。天皇には元首という役割が与えられているものの、天皇の権能について定めらているわけでもなく、天皇から下賜されたという形式もとらない。

政治家はうっすらと、国民主権からも天皇の監督からも解放され独自の権限を持つことができるようになる社会を夢想している。つまり、戦前の軍隊のような存在になれるということである。政治家が国民から選挙されて選ばれるという点は変わらないので権威は国民に由来するはずなのだが、その権限は「公」によって制限され、その「公」は実際には国会議員と官僚からなるという込み入った回路のようなわかりにくい統治機構が想定されている。

現行憲法はアメリカの憲法を「コピペした」とされているそうで、この複雑な回路の問題はない。アメリカ憲法は「アメリカの人たちは自由な国に住みたいからアメリカ合衆国を作りましたよ」と言っているし、「日本国民は平和を望む人たちと仲良くやって行きたいから日本の憲法を作って日本という国を構成することにしましたよ」と言っている。こうすることによって国民を団結させ、理想とする社会の建設を促しているわけである。つまり、権威や権限というのは実は活力とつながっているという隠れた配線がある。

いずれにせよ、自民党が考える世界では、日本という入れ物があり、そこに入れるものとして日本国民がある(「いる」ではない)と考える。さらに政治家は国民はわがままだから制御ができないと思っている。(片山さつきの天賦人権否定発言)では、その日本を支えるもの(人ではなく「もの」である)が減ったらどうするのだろうかという問題が出てくる。

支え手がいなくなるのだから国から活力が奪われる。というより、活力が奪われているから国民が減っているのだとも考えられる。本来なら国民を動かして「自分たちのよりよい社会を守るために頑張ろう」と「みんな」が考えるというのが国の姿である。ところが国民を理不尽でわがままだと思っている政治家は誰の心も動かせない。

不況が定着しており団塊の世代が働いていた時にはまだ少子化の問題は喫緊の課題としては捉えられていなかったようだ。このころには女に無理して子供を産ませればいいんじゃないという政治家がいた。女性を「産む機械」と定義して「一人一人に頑張ってもらうしかない」と言っていた。(柳沢伯夫の産む機械発言・2007年)批判が多かった発言だが、自民党の議員にとっての人間は「もの」なので彼らにはそれほど違和感のある発言ではなかったのだろう。

ところがこの後も出生率は改善しなかった。そのうちに団塊の世代が退職しはじめ、景気も上がり始めたことから、低賃金の働き手が足りないという事態に陥っている。ここから「働き手」という機械が足りないなら外国から連れて来ればいいじゃないかという発想につながっている。貧乏なら自分たちのいうことを聞いて働いてくれるだろうということだ。これは奴隷使いの発想だが政治家は多分そうは思っていないはずだ。彼らは政治家には国民を隷属物として使役できる正当な権利があると考えているからこそ、自民党の憲法草案が書けるからである。

野党は一応反対しているが、5年間の不足の見込みを出せと言っている。これは中国やソ連がかつてやっていた産業計画の発想だ。

すると不思議なことに本当に見込が出てきてしまう。給料が改善すれば人手不足は解消するだろうし、景気が上向いたり下向いたりすれば製造業の見込も変化するだろう。しかし野党も5年の見込をだせといい、政府も数字(5年後は安倍政権ではない)が出てしまうのである。彼らは国を統計と捉え、そこにいる人たちを操作可能な何かだと考え、それがコントロール可能だし、できるべきだと考えている。そして思い通りに動かなければ統計を操作する。ついには日銀が独自に統計が出したいからソースを寄越せと要求するまでになっている。(日経新聞

ここで海外移民を入れるということを考えてみたい。一旦国体というちょっと受け入れがたい概念を受け入れてみよう。これを動かすためには低賃金の働き手が必要だがそれが調達できない。だから海外から人を調達してくるわけである。

すると日本人が明治維新以来悩んできた問題に再度直面することになる。戦前のそれは日本人を日本列島に古来から住んでいた人たちに限定するのか、それとも天皇の統治のもとにいる人たち(朝鮮や台湾人を含む)に広げるのかという問題だ。国民も装置なので海外労働者も装置だ。では日本人というのはこの装置のどの部分を指すのかという問いに答えられる政治家がいるだろうか。

戦前の日本人はこの問いに答えられなかった。列強との競争のためになし崩し的に領土を編入したがそこには生きている人がいた。それを植民地の支配民として受け入れるのか同胞として捉えるのかが決められなかった。

今度はこれを日本列島の中でやろうとしているのだから、戦前と同じ問題が起きるだろう。コントロールできないものをコントロールできると錯誤しており、その上に別の変数を加えようとしている。社会は確実に混乱するだろう。

この誰が国民で、誰が社会を支えるのかという問題が曖昧だったとして「何がすぐに困るのか」という人が多いのではないかと思う。さもなければこのような恐ろしい議論は続けられないと思う。

では、国民はどう対処するだろうかというのが次の問題になる。例えば女性はまず子供を生むことがキャリアに邪魔になると考える。さらに最近では落選前提に保育園に申し込む女性もいるそうだ。保育希望があったが叶えられないという実績があれば職場復帰が遅らせられるのだそうである。このように制度を作って市場を歪めれば歪めようとするほど(政治家から見れば制度を作って状況をコントロールしようとすればするほど)国民は「制度ができたらその枠内で一番得になるように行動しよう」と考えるようになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。

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