安倍首相の運転するバスは高速で走っている。運転手は何かを操作している。だが、実は気を失っているようだ。

安倍政権は順調に暴走しているが、どうやらこの暴走の様子が少しこれまでとは違っているようである。

外国人労働力の受け入れを短時間で決めてしまった。外交で忙しいから国内の法律はさっさと片付けたいのだという。法案の中身がスカスカだと批判するのは普通は野党だけだ。しかし今回は大島理森衆議院議長も懸念を表明しており、実施段階前にもう一度準備状況を国会に報告するように求めている。(毎日新聞)さらに、政府は「アメリカから一兆円分の戦闘機を購入する」などと言い出しているようだが、こちらも自民党の中に根強い牽制論がある。自民党の一部が「2020年までに国産機開発を始めろ」と圧力をかけている。(日経新聞)さらに、憲法審査会も安倍首相の指示を通さず今国会中に自民党独自案を出すのを諦めたようである。(毎日新聞)公明党も選挙前には波風を立てて欲しくないようで、あまりにも性急だというわけである。

ここからわかるのは、安倍政権では海外人材の安価な調達や水道の民間企業解放などといった財界からの要望がある問題については野党を無視してでも法案を通そうとしているが、それ以外のことでは自民党と官邸の足並みが揃わなくなってきているということである。つまり、官邸は自民党政権を守るために動いているわけではなくなっているということになる。野党支持者は政権維持と選挙で勝つために安倍政権が自民党ぐるみで暴走していると思いたいのかもしれないが、必ずしもそうではなさそうなのだ。だが、何が起こっているのかを明確な証拠から分析することは難しい。

ここで安倍晋三という人が「自分を支持してくれている人や気に入ってもらいたい人」には何がなんでもいい顔をしたい人だという仮説を立ててみたい。安倍首相が気に入ってもらいたいのは、アメリカ(トランプ大統領)、財界、それに自身の母親である。ただ、この「気に入ってもらいたい」のやり方が普通の人とは違っている。

憲法改正については祖父の悲願ということになっているのだが、母方の祖父から政治的に薫陶を受けたわけでもないし、岸信介の婿であった父親の悲願でもなかった。そうすると母親から不完全な形で受け継いだものに、いわゆるネトウヨと言われる人たちからの入れ知恵が入っているのではないかと思われる。このため、安倍首相の考える保守思想には背骨がない。本来の保守主義者は急激な移民の流入による社会の変化を嫌うはずだが、安倍首相にはそのような気持ちはないようだ。さらに、独自憲法を作りたいといいつつ「みっともない憲法を押し付けた」アメリカの機嫌ばかりを取ろうとしている。これも保守とは違っている。

ここから合理的な構造を取り出すのは難しいのだが、この憲法を変えたいというのは誰か別の人の指示であり、なおかつ具体的な道筋については聞いていないという可能性が浮かんでくる。つまり、この人はこう言っているから多分こうなのだろうという類推を安倍本人がしているということだ。

では、なぜ安倍首相は他人の機嫌ばかりを取ろうとするのかという問題が出てくる。おそらくは「自分自身がない」ために「他人に何かしてやること」を自身の存在価値だと勘違いしているのだろう。というより自分がないからこそ、相手に何かをしてやっている時以外に有能さを感じることができないのかもしれない。

自分がある人は当然他人にも自己があると類推するのだから、その人の主張が「本当はどういう意味なのか」ということを聞いて確かめるはずだ。本当には国のためにならないと思えば説得もするだろう。だが自分がないゆえに安倍がそのような説得をすることはない。このため例えば界にとって安倍はいい人だろう。

機嫌を取ろうとしたらへりくだった態度を取るはずなのだが、安倍首相にはそのような姿勢は見られない。むしろ「してやっている」というように考えているとすれば彼のこの不思議な態度に説明がつく。

この自分がない人が危機を感じるのはどんなときなのだろう。有能感の基礎になっているのは他人のご機嫌なのだが、これを自分の資質や価値だと勘違いしている。例えばトランプ大統領の機嫌が悪かったり、国会で野党が怒りした時がそれにあたる。外交とは彼がヒーローになれる好ましい空間であり、国会は彼にとっては非常に苦痛な場である。G20を口実に予定の埋まっていない外交に逃避したのは彼が自己の喪失を感じているからだろう。彼は有能な人間であり続けるためにバラマキによって得られる賞賛が必要なのだ。

このことから安倍はなぜ野党が怒っているのかということがわからないはずである。一方で彼を遠巻きにして距離を置いている人との間にはそれほどの危機感を感じていないのではないだろうか。例えば外に酒場を作ったり、トランプ大統領との会食の席でお酒の失敗をする安倍昭恵夫人がなんらかの不満を持っていることは確実だが、彼女が安倍首相に怒り出さない限り「ああ、人間関係とはこんなものか」と思っているはずである。

安倍晋太郎元外務大臣が「安倍晋三には政治家としての情がない」といったという有名な話がある。普通は「政治家としての思いやりがない」と解釈されているのだが、実際には人間としてのコアにある価値体系というものが存在せず、そうした信条を通じて自己と他人と結びつけられないという意味だったのかもしれない。

いずれにせよ、彼の不誠実な態度は周りを怒らせる。すると安倍首相は機嫌が悪くなり、別の誰かに八つ当たりをはじめる。実は「何かをやってもらっている人」も「本当はそういうことをやってほしいと思っていたわけではないのだけど」などと思っているかもしれない。自分がない人は相手を見ているようで実は見ていない。彼が見ているのは自分の中に勝手に作られた他人という虚像である。これが体系化されずに個別の言動としてのみ宙を舞っているのである。

八つ当たりされた方が最初は「自分に落ち度があるのでは?」と考えるだろう。だが、いずれそうではないことに気がつく。つまり「自分がない人」は常に他人との関係で勝手に心が揺れている。つまり自分には関係がないということがわかるのだ。喜ばせようと機嫌を取っても感謝はされない。突然怒り出しても、それは全て理不尽な怒りである。

八つ当たりされていた人たちはやがてこの「自分がない人」を遠巻きに見るようになる。八つ当たりと言っても何か言いがかりを付けられることがなければ何も怒らない。するとできるだけ相手にせず、当たり障りのない報告だけをし、できるだけ問題を表ざたにしないようになるだろう。「扱いにくい」人はこうやって周りから疎外されてゆく。だが、自分がない人は遠巻きにされていることに気がつかない。元から信条の通い合いはなく、人間関係とはそもそもそんなものだからである。

これが政府では蔓延していて、問題が起きた時にいちいち調査チームを作って内情を探らなければならないほどに広がっている。このままではお互いに連絡がとれなくなり、統一された政府ではなく各省庁や部局の集合体になってしまうだろう。そして安倍首相の周りには同じように信条がない人たちだけが集まってくる。ネトウヨの真の恐ろしさはそこにある。彼らは何かの意図を持っていてあんな酷いことを言っているのだろうと思う人が多いだろうが、実は意図など何もないのだ。

「自分がない人」は他人の動機で動いているので、説得したり共感することができない。とはいえ、その他人というのは実は他人そのものではなく勝手に脳の中に組みあがった虚像である。

日本政治のこの状況は極めて深刻である。安倍晋三という人がなぜこのようになったのかということは誰にもわからないしどうでもいいことだ。選挙優先の家で両親にかまってもらえなかったのだという指摘もあるが、安倍家の問題であって我々には関係がない。

ただ、この明らかに人格になんらかの問題を抱えている人を誰も止められなくなっているという点は問題である。もともと強いリーダーシップを嫌い中心に祭りあげるべき存在を作る日本では、無力な中心が暴走すると誰もそれを止められなくなる。

安倍首相が祭り上げられたのは岸信介の孫という血統的ブランドとその無力さゆえだったと思う。頼みごとをすればなんでも聞いてくれるいい人であり、周りの矛盾を吸収してくれる便利な人だったのだろう。ただ、亥年選挙を前にして自民党は安倍晋三を持て余し始めているようだ。

高齢者を中心とした新聞の世論調査では半数以上が安倍政権を支持しているという。私たち有権者の中にもこれまでと同じようオリンピックや万博を誘致して、地方に交通インフラを整備すれば昔のようになれると思っている人が大勢いるのかもしれない。

よく安倍首相は「ヒトラーのような独裁者で日本を戦争に導こうとしている」と言われるが、この分析は実はかなり危険だと思う。官邸が個人の欲望で動いているならまだ説得ができるし、なんらかの方法で「気持ちを折れさせる」ことも可能だ。しかし、自分の中を探してみたが本当にやりたいことが何も見つからないという絶望を抱えて走っている人の中に育った「誰かのために働いていて有能な自分」という虚像を止めるのはとても難しい。

もちろん、今回の分析は全て確証がない。ただ何かがおかしいのは確かだし、その深淵を覗こうとしても何も見えてこない。バスは高速道路を全速力で走っている。確かに、運転手は前をじっと見つめており、ハンドル操作もしているように見える。でも何かが変なのだ。みんなうすうす「あれ、この人はおかしいのでは?」と気がついているのだが、誰かが「この運転手は気を失っている!」と感じた時にパニックが始まる。だから、誰もそれを指摘できないのだろう。これが一番恐ろしい点だと思う。

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英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

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ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

フレームを見極めれば安倍政権から卒業できる

Quoraでまた面白い質問を見つけた。自分が被害者家族になったとして死刑制度がない状態に納得ができるかというのだ。ところがこの質問には別の観点がくっついている。殺人を犯しそうな反社会的な人がいたらあらかじめ死刑にしてしまった方が良いのではとも言っている。

今回は「安倍政権からの卒業」というタイトルで書くのだが、内容のほとんどは死刑制度について考えている。安倍政権は入管法を生煮えのまま通してしまった。報道によると審議をすればするほど問題点が見えてくると自民党も認めているらしい。大島理森議長も懸念を表明し、とりあえず法案を通した後で全体像が見えた段階で途中経過を国会に報告するように求めた。(毎日新聞)このことから日本の政治全体が物事を考えられなくなっていることがわかる。立法府のトップが何が書かれているかわからないがとりあえず通してくださいと言っているのだ。

しかし、この問題を正面から捉えるのは難しそうである。全体像がわからずどこに糸口があるのかが見えてこない。そこで別の問題から「問題の解決には何を行うべきなのか」を探ってみようと思う。

死刑制度についておさらいしておく。日本では死刑制度が維持されており国民からの支持もある。内閣府の調査では「積極的には支持できないがやむをえない」と考える人が多いようである。一方死刑制度を維持している国は少ない。アムネスティのレポートによるとアメリカ合衆国、中華人民共和国、日本、及びイスラム諸国だ。その他にベトナム、ポーランドが死刑制度を残している。

内閣府の調査でも「家族の気持ちを考えると……」とする人が多いようだ。一見、家族の気持ちを慮った優しい日本人という姿が見えてくると言いたくなる。質問はこの一般的な国民感情に沿って世論を誘導しようとしている。

死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,その理由を聞いたところ,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が52.9%などの順となっている。(複数回答,上位2項目)

ただこの質問には面白い点がある。建前の家族擁護とは別にきちんと本音が書かれているのだ。それが反社会性である。殺人を犯すような人たちは反社会的なのだからそれを抑止するためには死刑のような極刑が必要であり、できることなら予防的に拘禁したいと考えている。本音は「人殺しをするような恐ろしい人たちは自分たちとは違っており、したがって死刑という極刑がないと防げないのでは?」と疑っていることになる。

ここまでは何回も考えたことがあったのだが、今回書いていてちょっと別の考えが浮かんだ。世界では死刑制度が廃止されており国際世論には抗えそうにない。そこで国内でも「人権問題」として死刑廃止したい人たちが増えてくる。世の中には自分たちと違った恐ろしい反社会的な人たちがいると考えても闇雲に人は疑えないので「家族感情があるから」という別の理由で死刑を存続させたいと願うわけである。

ではこの人が他の人から「あなたの本音は間違っていない」と言われたとする。彼はどう行動s流だろうか。

社会を支配したいと考えている人は「誰かの不安を利用したい」と考えるだろうし「死刑のような究極の支配装置は手放したくない」とも思うだろう。つまり、殺人者という反社会性の他に権力に飢えた獣という反社会性を持った人をおくとフレームが全く変わってしまうのである。

そういう人が、家族を殺されて極限状態に陥っている人を公衆の面前に引き出して、こう演説したとしよう。

さあ、みなさん。あなたの眼の前に大切な家族を殺されて泣いている人がいます。この人は家族を返して欲しいと願うが、それはもう叶いません。せめて、憎い犯人を殺さないと気が済まないのです。だが、中には人権という何の役にも立ちそうにないものを振りかざし、この人から大切な「報復する権利」を奪おうとしています!こんな理不尽が本当に許されていいのでしょうか。

この反社会的な人は、究極的な状態におかれている人を利用して自分の欲求を満たそうとしている。「かわいそうな家族」を利用して自分が他人に成り代わって誰かを殺す権利を保留しようとしているのだ。反社会的な彼は大衆が振り向いてくれるなら喜んで被害者家族を利用するだろうし、大衆を扇動していることに喜びを覚えるかもしれない。そうして犯罪被害者家族は犯人に人生をめちゃくちゃにされたうえに別の人たちに利用されてしまうことになる。

そう考えると、死刑廃止議論の背景にはこのアジテータの存在があるということに気がついた。民主主義の隙間をぬって国民の支持を得たヒトラーは支持母体である労働者や農民に対して「知識階級を利用して浸透してくる共産主義者と、どこにも属そうとしない都市住民のユダヤ人がドイツを破壊しようとしている」と訴えた。これがエスカレートしてユダヤ人の大量殺戮につながってゆく。これは当時の体制では国家権力による合法的な死刑であった。

YouTubeにはヒトラーの演説が多数残っている。今我々がこれを見るとヒトラーは狂っており無知な大衆が懐柔されているように見えるのだが、当時の人たちは合理的な判断でヒトラーを支持していると思っていたはずである。

ドイツ人が敗戦後に自分たちは間違いに気がついたが、奪われたユダヤ人の命が戻ってくることはない。彼らは自分たちを善良なキリスト教徒だと信じていたわけで、この過ちが彼らを後悔させたことは間違いない。彼らは自分たちの家族や民族を守るためと説得されて「自分たちとは違っている」ユダヤ人を殺したのだ。

強烈な前例があるからこそ、ヨーロッパの人たちは「国家権力は決して間違えないだろう」とは言えないわけである。

こうしたフレームワーク探しは自分だけで考えていてもできるのだが、あえて質問と問いを繰り返すことで探しやすくなると思う。なぜならば答えだけではなく問いの中にフレームが含まれているからである。議論にとって結論や思考過程は大切だが、実は質問自体にも機能はあるということになる。

古くから日本人はこれを問答と呼んでいた。禅問答という言葉が示すように東洋的な伝統でもある。移民問題のようにどこから手をつけて良いかわからない問題も問答を繰り返すことで新しい発想の糸口を探すことができるのではないかと思う。

ここから逆に発想すると安倍政権の問題が見えてくる。この問題点は安倍首相の資質によるものだ。安倍首相は本来的には「いいひと」なのだろう。お母さんの言いつけを守り政治家になっておじいちゃんの夢を実現させようとしているし、お友達、支持者、自分が恐れている人から何か注文をされると「なんとかして応じなければ」と思考能力が低下してしまう。ところが、安倍首相はたんにお友達の願いを聞こうとするばかりで自分でフレームを作らない。このため次第に問答によるチェックに耐えきれなくなるし、聞いている側もあまりのデタラメさにイライラしてくる。だから対話ができなくなってしまうのだ。

こういう人に反省を求めても無駄である。もはや海で溺れている状態なのだから反省ができるようなメンタリティではないだろう。そして我々の側にもゆとりはない。事実や統計が歪められているうちに何が真実なのか誰もわからなくなりつつある。今や日銀ですら政府の経済統計はあてにならないから自分たちで作らせろと主張している。経済の再生どころか現状把握すらできない。

大島議長は立法府のトップとしての役割を放棄しており、とりあえず議案は通せと言っている。が同時にこの問題は行政府には解決できないと思っているのだろう。さらに良心も残っているからこそ調停を行っているのだ。これに対応できる人は与野党限らず国会の中にまだいるはずである。

事態を懸念した大島理森衆院議長は自民党の森山裕、公明党の高木陽介両国対委員長と国会内で会談。「この法案は大変重い。政省令も多岐にわたる。施行前に法制度の全体像を明らかにすべきだ」と述べ、政省令ができた段階で政府から国会に報告するよう促した。野党も大島氏のあっせんを受け入れ、27日夜に衆院本会議が再開した。

良心ある与野党の議員有志は不毛な国会審議に見切りをつけて事態を収束するために対策を講じるべきである。少なくとも問答ができる体制を作らないと本当に大変なことになるだろう。日本には古くからの対話の伝統があるのだからやる気になれば今からでもできるはずである。

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安倍政権が破壊した村を引き継げるのは誰か?

新しい外国人受け入れの問題が引き続き審議されている。立憲民主党と国民民主党はなんとかして有権者に振り向いてもらおうと「あれが大変になるかもしれない」とか「これがよくわからない」などと騒いでいる。多分、多くの有権者はヘッドラインしか読まないだろうから彼らの懸念が支持者以外に伝わることはなさそうである。

この議論を見ていて「ああこれは大変なことになっているな」と思った。今審議しているのは移民制度である。社会に大きな影響を与えるので、受け入れが必要だったとしても慎重に運用する必要がある。管理に必要なのは全体を把握して人数を決めるという「計画経済的」なアプローチであり、極めて緻密な行政運営が求められる。

前回の議論で「計画経済は社会主義的であり自由主義経済の日本ではそもそもありえない」というような主張をしているのだが、今回の議論はこれを乗り越えないと前に進めないので、いったん計画経済を是認して先に進みたい。

計画経済で重要なのはまず政府が「そもそもどれくらいの外国人労働者が必要で」「彼らが従事するのはどんな労働で」「今どうなっているのか」ということを把握しなければならない。だが、政府は「それらは法律が決まってから別途決める」との一点張りである。そこで我々は政府は隠しているのだなと勝手に推測してしまう。

そんな中で、技能実習生の問題でいい加減な統計が見つかった。これがどうなっているのかということを調査するために政務事務次官をトップにした調査チームを作ったようである。これは大臣がいたにもかかわらず現場から適切な報告が上がっていないことを意味している。しかしこれはおかしいのではないか。

不都合な現状があればそれを隠すことはできるが、そもそも隠すためには現状を知っている必要がある。知らなければ隠すことすらできない。

以前、オイルショックの対応についてみた。中曽根通産大臣が通産省の職員と「一体となって」緊急対応を決めたという。高度経済成長期の日本ではこういうことができていた。中曽根自体は官僚出身ではなかったが終戦時には海軍主計少佐だったので数字に強かった。実質的には軍内官僚だったわけだ。一方で官僚も自民党経由で国会議員になるという通路があった。だから彼らはお互いに共通した文化を持っていた。

日本人は公式の役割分担や通路のほかに験が共有されている人たちの間での親密な関係作りを好む。ゆえに中曽根はわざわざ公式な制度など作らないでも人間関係で情報が取れていたはずだし、気心の知れた官僚たちは情報を隠すというようなこともなかったのではないかと思われる。通産省は手計算で全体が把握できる程度の村であり、大臣と官僚の間には「経理」という共通言語があったことがわかる。

安倍政権は実務経験がない世襲の人たちが「政治主導」という名目で官邸の力を強化て作った政権である。麻生財務大臣は東大をバカにしているようで「税金で勉強したかわいそうな人」というようなことを言っているし、安倍首相も東大には行けず成蹊大学を卒業している。そもそも東大を中心にしたエリート層にシンパシーを持たない人たちなのである。

日本人は強いリーダーシップを嫌い経験を同じくする村の調和を好むので、こうした「政治主導」に嫌気を覚えて情報を上げなくなるだろう。政権側ができるのはポジションを使った操作と恫喝だけであるが知らない情報を出せとまでは言えない。だから、官僚はボトムアップ的に情報を上げなくなると政権は全体で何が起きているのかわからなくなってしまうのだ。

例えば「今どれくらいの労働力が不足しているのか」とか「外国人研修生がどのような状態になっているのか」という情報は実は現場の人たちしか持っていない。それがあがってこないということはそもそも計画すら立てられないということを意味する。そんな中で無理やりな計画を立てれば、今度は官僚が「うまくいっていますよ」という報告用のファンタジーを創作することになる。これが改竄や隠蔽である。そして官僚はもともと創作能力に長けた「頭の良い」人たちなのである。

複雑なことに有権者からみると内部の嘘は官邸の嘘と見分けがつかない。山下法務大臣は福山哲郎委員に個票が出せないと主張していた。訴えられる可能性があるからだという。これに対して福山委員は、すべて国外退去しているのだから訴えることなどありえないだろうと応戦していたが、山下大臣は一度隠すと決めた情報は頑なに出さない姿勢のようだった。つまり、あからさまな嘘があるために、「ああ、官僚たちも自己保身のための嘘をついているな」ということにまでは気が回らないのだ。

安倍政権は「誰をどれくらい入れるのか」ということを決めないままで新しい制度を導入しようとしている。これにたいして民主党系の人たちは「審議が拙速だから数字が上がってきてから改めて審議をしてはどうか」と提案していた。しかしこれは「いずれ政府が状況を把握できるだろう」という見込みに立っている。ということは野党は政権は情報を把握する能力があると思っているということだ。

民主党系の人たちが「本当は政府は何もわかっていないのではないですか?」と聞いて欲しいところなのだが、それは無理かもしれない。民主党もまた強い政治主導を標榜して失敗した経験があるからだ。彼らもまた組織というのは上から命令すれば思い通りの結果が返ってくるはずであると思い込んでいる。だが、官僚はそういう動き方はしてくれない。

前回の議論では日本人が村性から脱却できないのではないかということを正面から受け止めるべきだろうと書いた。これについて「日本人をバカにしている」と憤った人もいたのではないかと思う。だが、実際に「自分が官僚の立場だったら問題を積極的に上にあげるだろうか」と考えてみるとよい。官邸は都合が悪いことは聞きたがらないだろう。異論を不快に感じるかもしれないし、「なんとかしろ」と問題を官僚に押えつけるかもしれない。村で生きて行かなければならない日本人はこれを超えて自浄作用を発揮することは絶対にできないのだ。

官邸は情報がない中で無理な計画を立てる。野党があれこれ心配するので「心配しなくてもうまくやれるから大丈夫だ」と言って押し通してしまう。官僚はなんとかそれを形にしてみせるが実は問題が起きている。ただそれを報告してしまうと「自己責任だ」といって報告した官僚が責任を取らされる。だからごまかした報告書を作る。すると全体につじつまがあわなくなるので、今度はそんな報告資料などないと官邸が野党に嘘をつくことになる。

確かにひどい状況だが、野党は安倍政権が村を破綻した状態で政府を引き継ぐことになるので、これを見越した調査をするという難しい能力が求められる。気に入った答えが返ってこないといって子供のように机を叩く野党にその度量があるとは思えない。そう考えながら国会審議を見ると、極めて憂鬱な気分になってしまう。

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聞きたい歌だけを聞きたがる日本人

最近、コメントなしでリツイートしてもらうことが増えた。このとき、この人は意見に賛成なのだろうか反対なのだろうかと思うことがある。まあリツイートくらい好きにしてもらっていいとは思うのだがちょっと気になるのだ。

このブログではこのところ「日本は村社会」で公共という概念はないという話をしている。さらに、日本人が文脈によって日本人という枠を伸ばしたり縮めたりすることを観察した。損はできるだけ排除し利得はできるだけ取り込もうとするのではないかと考えているわけである。

日本語で書いていて主語を日本人にしているので、主に日本人が読むことを想定しているわけだが、読んだ人は一体これを読んでなぜ怒り出さないのだろうか。

これを素直に読むと「あなたも私もそうなのですよ」ということになる。つまり、私もあなたも村社会の住人であり、ご都合主義で日本という枠組みを利用していますよねと指摘している。こう言われていい気分になる人は少ないだろうから、非難するつもりでリツイートしているのかなとも思うわけだが、もしそうなら何か言ってくるはずだ。それがないということはもしかしたら、この人たちはもしかして自分たちは日本人の枠の外にいると考えているのかもしれないなどと思う。

その意味では何もコメントのないリツイートにはその人の旋律があるのだなとも感じる。つまり、何も言わないことで聞きたい歌を聞いているのだ。

ITコミュニケーションはジャーナリズムとは違っており相互のコミュニケーションを通じて新しい歌が歌える。しかしそのためには背景にそれを可能にする文化がなければならない。しかし、いわゆるジャーナリズムを自身に都合良く解釈する私たちにはそうした文化がまだ育っていないのかもしれない。だから結局、ITを使っても一方通行のコミュニケーションになる。

お天気のよい日曜日の朝にいわゆるジャーナリズム風のゴシップ素材をみていてこのことを強く実感した。みんな驚くほどいい加減なのであるが、既存のジャーナリズムの担い手たちも「視聴者や読者は聞きたい歌しか聞かない」ことを知っており、進んでその歌を歌っているのかもしれないと思う。

政府の忖度という言葉を嫌っていた朝日新聞社もカルロス・ゴーンの問題に関しては検察とあうんの呼吸を見せている。朝日新聞社は「忖度」という日本の文化を嫌っていたわけではなく、単に自分が気に入らない政権が嫌いだというくらいの態度で政権批判をしていたのだなと思う。あるいは検察庁も朝日新聞さえ抱き込んでしまえば誰からも批判されなくなるだろうと考えたのかもしれない。大抵話をまぜっかえしてややこしくするのは朝日新聞だからである。小沢一郎の例を見てもわかるように、最初に強い印象がついてしまえばそこで勝負がついてしまう。カルロス・ゴーンも日産を追い出された時点で当初の目的は達成されたと言って良い。

フジテレビに至っては朝の番組でカルロス・ゴーン容疑者はブラジル大統領になりたがっており不正蓄財はそのために行われたという「ジャーナリスト」の声を紹介していた。一応、検証するポーズを見せていたが、多分それは何か言われた時に「あの人が勝手に言ったことだから」と言いたいからなのだろう。安倍政権にはあれだけ遠慮して何もいわないのに、話が検証されていないことをほとんど気にしていないようだった。

この番組はパトリック・ハーランにワールドスタンダードについて語らせている。白人の言葉をありがたがるであろう中高年サラリーマンの劣等感を刺激し、さらに彼らが好きそうな企業の噂話を拡散するというものが「ジャーナリズム的」に演出されている番組なのだ。

その上で文筆家と称する変わった髪型の人が「もちろん検察は日産と協力したわけでもなく」「日産がクーデターを起こしたわけでもない」と断言していた。体制に寄りかかって生きる視聴者にとってはこういうことはあってはならないことであり、社会は常に正解を提示しているべきである。この事件は日本を搾取しようとした悪の外人を正義の検察が守ってくれ事件であるべきなのだ。

これも政府に言わされているというより(それはあるのかもしれないが)自分たちが聞きたいあるべき姿について文筆家に語らせているのだと思う。万博がやってくる大阪の未来は明るく、ゴーン容疑者は落ちたカリスマ経営者で、日本の政治はすべて適切に運用されており、それを白人が承認してくれるというおじさんたちのパラダイスがそこにある。だから今日もビールのように見える発泡酒が美味しく飲めるのだ。

ただ、リタイアしてしまったもっと歳の上の人たちは政治は堕落してしまっておりけしからんと考えているはずだ。退屈なので見なかったが、裏番組のTBSではリタイアしたおじさんたちが喜びそうなことを関口宏が語っていたのではないかと思う。こうすることによって俺たちが現役の時代はもっと良かったと思える。さらに9時からはNHKでこれから日産はグローバルスタンダードの経営をしてコーポレートガバナンスをしっかりするべきだという討論が行われたのではないだろうか。実際にそれをやる人は誰もいないだろうが、他人事だといろいろ言えてしまうのだ。

こうした態度は嘆かわしいといえば嘆かわしいのだが、これが日曜の朝の正しい過ごし方なのだなあとも思った。自分が聞きたい歌を聞くのが悪いことだと誰が言えるだろう。

ただ、これが楽しいのはこの人たちが自分たちの村に守られているからである。そもそも公共もジャーナリズムも存在しない日本でこの村から出てしまうと誰もあなたのことを助けてはくれない。終身雇用のやさしさから排除され、戻るべき地域コミュニティもない「さまよえる村人」に歌を歌ってくれる人は誰もいない。

みな、他人の問題については聞きたい歌を聞きたいだけであり、それほど深い関心を持っているわけではないのだと思う。同時にそれは誰もあなたの問題について「正しい洞察」を与えてくれる訳ではないということを意味している。だからと言って彼らを責め立てたとしても彼らが別の歌を歌いだすことはないだろう。

日曜の朝の「ジャーナリズム」には真実はないが、おじさんたちが真実やジャーナリズムを求めている訳ではないという真実は見えてくる。と同時に「このジャーナリズム風の何か」が注意書き・但し書きとかコンプライアンスとか炎上への遠慮とか忖度とかに囲まれているということも否応無しに見えてきてしまう。リアルに見えているそれは実は単なる映画セットの背景の絵のようなものだ。昔の特撮番組でいうとすべて空を飛んでいるはずの飛行機についているワイヤーのようなものなのが見えている。ただ、昔の少年たちはそれほどワイヤーを気にしないのである。

心ある人たちはこの違和感をしっかりと凝視すべきではないかと思う。そしてそれはもしかしたら、我々が幻想の村から一歩足を踏み出そうとしている価値ある1日を作るきっかけになるかもしれない。

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強いリーダーを望まない日本人

カルロス・ゴーン容疑者が逮捕されてしばらくたった。テレビでは人民裁判的に「腐敗して堕ちた」英雄像が作られている。この経緯を見ていると面白いことがわかる。

ゴーン容疑者が「救った」当時の日産は、赤字が出ることがわかっている車の開発を止められなかったという。あえて開発を止めて悪者にはなりたくないが、責任もとりたくないの。誰もリーダーシップを取らない会社だったわけだ。そして結果が出るとお互いに指をさしあって口々に相手を非難し始めるという状態になっていた。担当という意味の責任はなく、結果責任をめぐって指の差し合いをしていたということである意味現在のTwitterに似ている。業績が落ちても不思議ではないし、NECのように同じような状況に陥った大企業は珍しくない。

ところがゴーン容疑者が救ったはずのメンタリティは20年弱もの間それほど変わっていなかったようだ。朝日新聞の記事では「巧妙でわからないように隠蔽していた」ということになっているが、彼らが事前に空港に張り込めたことからみて、これが検察の意図に沿った筋書きなのかもしれないと思う。フランス政府との駆け引きになっていたことからすでに政治問題化していたのかもしれない。

額があまりにも多いことから、取締役たちはみな知らないふりをしていたのではないかと思う。ただ、彼らはそんなことは別にどうでもいいことだと思っていたのではないだろうか。自分たちの領域から収奪されたのならそれは問題だが、そもそも配分前の利益なのだから「まだ誰のものでもない」。つまり、村を生きているに日本人には自分には「まだ」関係がない金だったのである。日本には公共という概念がなく村があるだけなので、会社という公共のためにリスクをとって状況を変えようという人は恐らくいなかったのだろう。

つまり、ゴーン容疑者が救った頃の日産に日産という会社がなかったと同じように、今の日産にも日産という会社はない。日産は単なる巨大なセクションの集合体なのだ。

面白いのは、20年弱の間に経営陣が入れ替わっているということである。さらに彼らはゴーン容疑者に取り立てられたものたちであり、当時の文化を引き継いでいるわけではなさそうである。にもかかわらず同じようなメンタリティが見られるところをみると、これが日本人かあるいはこの会社に特徴的な文化だったということになる。日本の文化の背景にある村社会がいかに強力なものかがわかる。

ゴーン容疑者はフランス大統領からのプレッシャーを受けて「不可逆的な統合」に乗り出していたという話がある。つまり「このままでは永遠に植民地化されてしまうぞ」ということがわかってからはじめて内部で慌てる人が出てきたか、彼らの責任は司法取引で問わないことにするから協力しろという外部からの働きかけがあったのだろう。つまり、自分たちの村が危ないと考えてはじめて村のリーダーたちはお互いに協力することにしたのではないだろうか。この場合には誰かに責任を押し付けてその人を生贄のように非難する臨時同盟が作られる。ワイドショーでおなじみの光景である。危機が去ればまた村の共同統治のような形に戻るのかもしれない。

いずれにせよ、逮捕されてから西川社長が「ゴーン容疑者は許しがたい」というところまでの流れがスムーズだったことから、政府・検察・マスコミ・日産社内にまで意思統一が図られていたことがわかる。当然ルノーの介入が予想されていたわけだから、彼らが動き出す時間を与えないことが極めて重要だったわけである。誰に習ったわけでもないのだろうが、村という集団民主的統治方法はかなり根強く日本に生きている。ただ、この集団民主主義は誰も全体への責任は取らない。

このことから、日産にDNAのように残っている誰も責任をとりたがらない気風が復活することは間違いがないのだが、集団で責任を押し付け合い最終的に誰も意思決定しないという意味では典型的な日本企業のあり方であり、何も日産だけが特別というわけではないだろう。こうして消滅しつつある大企業は他にもある。次に買われる時の飼い主はあるいは中国か台湾の企業なのかもしれない。

自民党にも同じような構造が見られる。各派閥が形式的には私物化を進める官邸には逆らわないが、かといって積極的に総理の政策にコミットしない。安倍首相の自民党支配が後何年続くのかはわからないが、外部からの介入やそれなりの危機がない限り、日本人は改革をせずに「強いリーダーにお付き合いしよう」と考えるわけである。そして、何かがあったときには、これまでの経緯とは全く関係なくバッサリと切ってしまうのだ。一部のネトウヨ議員を除いて安倍首相に味方する人はいないはずである。

このように日本で「一見強い」リーダーが出てきてもそれは実質的に強いリーダーとは言えない。日本はその意味では強いリーダーのもとに集団が協力するという主義の社会ではないのである。だが「自分たちの領域が支配されるかもしれない」となると一気に文脈が変わる。今までとは態度が一変してしまうことになる。

ゴーン容疑者は取締役会を支配することで企業を支配していたつもりでいたのかもしれないが、村の集合体である日本にとって一番大切なのは実は実働部隊だ。自民党で言えば、各利益団体とか地域の選挙区などがそれにあたる。権限の割り振りという西洋流のものの見方をしていたゴーン容疑者はそこを読み違えたのだろう。普段の日本人のリーダーはあえて均衡を崩すことは考えない。ところが村が理解できないゴーン容疑者は「意思決定をしているのは取締役会であるから、当然取締役を掌握すれば上から企業が抑えられるはず」と思い込んでいたのではないだろうか。

歴史ヒストリアで鳥羽伏見の戦いの回を見た。外から迎えられた徳川慶喜がしぶしぶ戦いを承認するが、途中で逃げてしまうという回である。慶喜には子飼いの部下がいたわけでもなかっただろうし、家臣たちにもそれほどの信頼も置いていなかったようだ。彼が現場を掌握できず油断した部下たちを引き締めることもできなかったのは当然のことである。結果的に徳川慶喜は逃亡し幕府は滅亡したが徳川慶喜自身はその後も生き続けた。

また、昭和天皇も、なし崩し的に大陸に進出して責任を取らない部下たちを掌握できなかった。昭和天皇も直属の軍隊や領地を持っていたわけではなく、単に祭り上げられる存在だった。

日本人は仲裁のために調停者としての権威を祭り上げたがるが、強いリーダーを置きたがらない。一見強いリーダーが出てきたとしても村には手出しできないし、手出しをすれば放逐されてしまう。だから中からトップダウンで改革するのがとても難しいのである。

皮肉なことに安倍首相は日本人なのでこうした村の仕組みがなんとなくわかっているのだろう。彼が実際に自分でやりたいことを始めた時、あるいは彼が去ってこれまで先送りしていた問題が全て表面化してくる2020年ごろには日本は大変なことになるのかもしれない。憲法の問題は進展していないので、このまま問題が先送りされオリンピックの後にはかなり大変なことが起こるかもしれない。これまで隠していた問題が次々と浮上するからだ。この時安倍首相を形式的に祭り上げ、あるいは下ろす時に同盟を組むことになる村長たちは自分たちで責任を取るために同盟できるだろうか。

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「日本人が英語を話せないのはなぜか」問題

Quoraによく日本人が英語を話せないのはなぜかという質問が出る。あまりにも繰り返し出てくるので、逆に「なぜ日本人は日本人が英語を話せない問題」にそれほどまでに関心があるのだろうかと思い始めた。




TOEFLなどの英語テストのランキングをみると、確かに日本の成績はあまり良くない。先進国と比べると「欧米とは言語体系が違っているから仕方がない」という理由付けができるのだが、アジアの各国にも負けている。

ところがテストができない理由も明確だ。そもそも、日本人はそれほど英語を必要としていない。英語が必要な理由は二つある。学問とビジネスだ。例えば、現地の言語に学術用語が充実していない国があり、そうした国では最初から英語で高等教育を行った方が良い場合がある。ラテン語経由の学術用語を豊富に使えるからである。日本はすでに漢字を輸入しており学術用語の造語にはそれほど困らなかった。

もう一つの理由はビジネスである。国内のマーケットが狭い国は海外へ出て行く必要がある。この場合英語か中国語が必要だ。中国語は中国では圧倒的な人々に話されているものの、第二言語話者は英語の方が圧倒的に多い。つまり英語ができればビジネスに有利だ。さらに、外貨が少なく海外からの投資が必要な国も英語が必要になる。国内に一億人以上の人口を抱えるマーケットがあり、外貨も十分にある日本にはこの必要がない。

この二つの理由により切実に英語を話したいという人が少ないのだと考えられる。だから別に英語などやらなくても良いのである。

するとますます日本人は英語が必要だと思い込んでいるのかという疑問が湧く。ところがこれがわからない。試しに「あなたは何があれば英語が話せるようになると思いますか」と聞くと答えが戻ってこない。この質問には日本語が堪能で英語もできるイタリア人らしき名前の人が返答してきただけだった。多分どうして英語が話したいのですかと聞いても答えは帰ってこないだろう。

最初は「英語ができない自分を恥じているのだな」などと思っていたのだが、そうではないかもしれないと思い始めた。個人としては英語は必要ないが、他人には英語をやらせたい人が多いのではないかと思ったのである。

おそらく、個人としての日本人は具体的な英語学習に対するイメージを持っていないし、自分の子供に英語をやらせたいとも思っていないのだろう。例えば日本人にメジャーリーガーが少ないのはなぜかと思う人が、別に自分が野球をやりたいわけでもないというのと同じ程度の疑問なのかもしれない。

だから、個人としての日本人は何の努力もしない。なんとなく学校の勉強には不信感を持っていて、学校が変わればみんな英語ができるようになるんじゃないかと思っている可能性はある。

以前に自己責任について見たときに、日本には「結果としての責任」という特殊な概念があり、相手を助けてやらないという冷酷な宣言の代わりに「自己責任」という言葉を使うことを観察した。この対極としてスポーツなどで優勝した人がハーフや米国籍取得者であっても「日本人として誇らしい」などというようなことがある。つまり、日本人は、何か利得があると考えたときには「我々」の範囲を広くとって成果を横取りしたがり、持ち出しがあるときには「我々」の範囲を狭くして扉を閉める傾向があることがわかる。加えて、社会一般と自分の間には明確な区別があり、自分のことを語る場合と社会全般のことを語る場合には意見が変わるのだろう。

だから、日本人には「英語」に対する一貫した意見がない。英語がどのような文脈で語られるかで意見が変わるのからである。ただ、すでに英語が話せる人だけが「日常会話程度の英語ならすぐに覚えられるのだから」といってあれこれ教え他がるのだが、そもそも英語を必要としない日本人にはどうでもいい知識なのだろう。

ここから類推すると「日本人が英語ができない」という疑問の意味がちょっと見えてくる。つまり「私」として英語ができるような努力はしたくないけれども、学校でよりよいカリキュラムができて全体が底上げできるのであれば「なんとなく誇らしい」と考えるだろう人が多いのだろう。だから「あなたは何が解決すれば英語ができるようになりますか」という主語をあなたにおいた質問には最初から意味がないのだ。

こうした「日本」で顕著なのが軍隊の必要性だろう。なんとなく西洋には劣等感を感じていて、軍隊さえ持てば尊敬されるのではと考えている人が多そうだが、具体的に聞いてみると実に曖昧なイメージしか持っていない人が多い。

軍隊を持つようになればなんらかの形で国民が負担を強いられる上に兵隊を出さなければならない。それを他人に押し付けられる自信のあるかあまり考えたことがない人は軍隊を持ちだがり、いつも何かを押し付けられていると不満を感じている人はことさら軍隊を拒否するのだろう。軍隊を持ったからといって個々の日本人が「日本は軍隊を持っていてすごいねえ」と言ってもらえることはないのだが、そもそも具体的なイメージがないのでそこまでは考えない。前回見た米子市長はこうした「具体的なことを考えない」人の典型例なのかもしれない。

よく、日本人は集団主義的だと言われることがある。確かに同調圧力が強く、自分の意見を言いたがらないし自分で考えないなどという集団主義風な傾向が見られる。しかしこの伸び縮み可能なアイデンティティというのは一般に言われている集団主義的感情とはどこか違っているように思える。一般的な集団主義の社会は厳格な秩序と決まりがあり個人の見解で勝手に伸ばしたり縮めたりすることはできない。そもそもこれを便利に使える時点で集団主義ではないのだ。

ただ、これを個々の日本人にぶつけても、決して認めようとはしないと思う。ただ、英語が話せないくらいだと「それはそれでいいのではないか」と思える。問題になるのは軍隊の問題のように「みんな何もしない前提では色々言いたがるが、実際に自分では努力も負担もしないというようなケースだ。

誰かに押し付ける前提で勇ましく行動しても、結局は全部自分たちに降りかかってくるというのが第二次世界大戦の結果だった。韓国や中国からは未だに恨まれており、場合によっては何倍にも誇張されて伝わるケースもある。韓国政府からは繰り返す問題を蒸し返され「ここをつつけば金がむしり取れるだろう」と思われているようだ。これも我々の祖先が後先考えずに大陸で威張り散らした結果なのである。我々は今これを国内でやろうとしている。使い倒しても構わないと侮っているアジアの人たちを大量に国内に招き入れており、これを固定化しようとしているが、将来彼らが怒りを日本社会にぶつけてくる可能性には全く気がついていないし、考えようとすらしない。日本人の非正規労働者は勝手に自己責任を感じて潰れてくれるかもしれないが、送り出し国の政府が騒ぎだしたらそんなことは言っていられなくなるだろう。

集団主義は集団の中での序列をはっきりさせることで結束を強め実力主義が持っている混乱を防ぐというような目的がある。一方、日本型の「集団主義」は他人の権威を笠にきて状況を悪化させいざとなったら誰も何もしたがらない可能性があり、却って集団を弱くしてしまうのではないかと思える。

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「拉致被害者を取り戻すためには軍事行動もやむなし」なのか

朝日新聞に少々過激な記事が出ていた。伊木隆司米子市長が北朝鮮への軍事行動を仄めかしたというのである。日本人は言いにくいことは人のせいにする傾向がある。「安倍首相がそう望むのであれば」というのは要するに自分が「拉致をするけしからん北朝鮮は軍隊を使って懲らしめてしまえ」と思っているということなのだろう。1973年生まれのまだ若い市長は普段からこうした言動で知られていたということなので、要するに米子というのはこういう人をよしとする土地柄なのだろうと思う。

北朝鮮による拉致問題の解決を訴えるシンポジウムが20日、鳥取県米子市であった。伊木隆司市長(45)は「安倍内閣が軍事行動をするというのであれば、全面的に支持したい」と述べ、北朝鮮への軍事行動を容認する考えを示した。

「とんでもない話だ」で終わって良いところなのだが、一応基本的なバックグラウンドを整理しておこう。今回はWikipediaで戦時国際法日本国憲法第9条の項目を読む。

まず日本の憲法は国の交戦権を放棄している。では交戦権は何かという問題がでてくる。実はこれが意外と曖昧なのだ。英語の原文ではBelligerent Rightsなどと表現される。もともとはラテン語で戦争を意味しており武力を行使することが全般的に含まれる。つまり戦争する権利そのものと言って良いので、言葉自体は何も説明してはいない。

Wikipediaに詳しい議論がまとまっている。もともとマッカーサーは自衛も侵略も全部禁止したかったようだが、のちに「自衛は良いのではないか」という議論になった。それでも共産党は「自衛ができないのは危険だ」という今とは全く異なった理由で憲法第9条に反対していたことから、交戦権に自衛のための武力行使が含まれるという明確な保証はなかったことになる。

1946年(昭和21年)の憲法改正審議で、日本共産党の野坂参三衆議院議員は自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、「自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする」と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。

ではなぜこのような曖昧な議論が生まれたのだろうか。二度の世界大戦に直面した結果、戦勝国だった連合国(のちに日本では国連と言い換えられた)の管理のもとですべての戦争を禁止しようという動きが生まれた。このため国連には法的には戦争という概念がないそうだ。

ただし現代では国際連合憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(英: International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。

ウェストファリア体制では主権国家の権利として戦争が認められていた。ただしやみくもに戦争をされるとヨーロッパ全体が大混乱するので、ある程度戦争の決まりを作ろうということになった。これが破綻したのが第一次世界大戦で、第二次世界大戦ではついに核兵器という大量破壊兵器が使われることとなった。さらに、当時の植民地にも主権国家格を与えざるをえない状態になったので「このままでは大変なことになる」と考えて戦争そのものを禁止しようとしたのだろう。

日本はこの国際体制のもとで管理されるべきだと考えられてたのだから、交戦権一般が否定されたのは当時の国際標準化を目指した動きだったことがわかる。その後の議論は実は全て内向きの後付け議論であり、実際に何も変得られなかったからこそ成立している議論に過ぎない。

憲法を改正しても国連憲章を変えるか破棄しない限り人質奪還作戦は実行できない。ところが米子市長の発言からわかるように、日本人は「そうはいっても国際世論を味方につけさえすればなんとかなるのではないか」と考えている人が多い。市長は「戦争を支持するつもりはない」と釈明したようだが、発言自体は撤回せず議論が必要としている。これは、議論をすればなんとか軍事行動ができる余地があるのではないかと考えていることを意味するが、これは間違っている。

日本人は多神教的な村社会を形成していて「原理原則というのは結局みんながどう解釈するかによってどうとでもなる」と考えているかもしれないが、一神教が支配的な欧米が主導する国際世論は原理原則を気にする。だから村の発想で国際法規を議論してもあまり意味はないのだ。

実際の国際紛争を見ているとそのことがよくわかる。例えばイラクの戦争では「イラクが大量破壊兵器を持っていて何か良からぬことを考えている」という疑いがあったことが介入のきっかけになっている。実際には欧米が利権を守りたいという動機があったとしても「国際秩序へのチャレンジ」などというそれなりの理由付けは必要なのである。また現在のイエメン内戦はサウジアラビアなどがイエメンに介入しているが表向きは「暫定政府の支援」という名目になっている。クリミア半島も住民投票で現地の人たちがロシアの編入を望んだのにウクライナが邪魔をしたという表向きの言い分がある。「国際世論をまとめればなんとかなる」なら、こんな面倒な言い訳をしないで、さっさと踏み込めばいいわけだが、そうはならないのだ。

主権国家が単独で自国の利益のために軍隊を動かすことはできないので、拉致を解決するという理由では軍事行動は起こせない。たとえ、自衛隊が軍隊になり、日本が交戦権の放棄を撤回したとしてもそれは現在の国際法上は無理である。

米子市長は一連の発言を通じて「日本人が軍隊や軍事行動について全く理解していない」と言っている。こんな人たち(つまり日本人)に武器を持たせるのは危険だと思われかねない。主権国家は問題解決の軍事行動はできない。かろうじて国際社会の治安維持という名目で集団行動ができるだけである。

時の政府が、軍事行動や、軍事行動ができるよう憲法改正をするというなら、問題解決のために私は支持したい

ただ、Quoraで質問したところ「アメリカはしょっちゅう映画のようなことをやっている」と回答してきた人がいた。アメリカは力が強いから軍事行動ができると思い込んでいる人がいることになる。多分ハリウッド映画を見すぎているのだろう。ただ、こう思い込んでいる人は意外と多いのではないだろうか。

産経新聞までもがアメリカが軍事行動を仄めかしたからアメリカ人が3名戻ってきたなどと書いているのだが、実際にはアメリカは仄めかしただけで実際の行動には出なかった。オットー・ワームビアという青年が昏睡状態で帰国した事件があった(GQ)が、この時も軍事行動というオプションは提示されていなかった。Quoraの同じ質問で、イラン革命の時に人質奪還を企てて失敗したと教えてくれた人がいた。革命の混乱時の出来事であり、外交官を保護しなかったという特殊な事情があったそうだ。だが、これも軍事作戦としては失敗している。つまり、どこに誰がいるかわかっていたとしても、現地で動けるように訓練しておかないと、いざという時に作戦は実行できない。拉致被害者はそもそもどこにいるかさえわからないのである。

さらに、イギリス軍がシェアレオネで人質を奪還したという作戦を見つけたのだが(wikipedia)これはシェアレオネ政府からの奪還作戦ではなく、シェアレオネに駐留していたイギリス軍が主権格を持たないテロリストに対する作戦である。北朝鮮は確かに「テロリスト的」に見えているのかもしれないのだが、一応少なくとも形式上は多くの国に承認された主権国家なのでテロリスト扱いすることはできない。

この一連の議論や発言から日本人が軍隊や戦争についてあまり理解しないままで憲法改正の議論をしていることがわかる。さらに拉致被害についてもあまり真剣に捉えていないのだろうということがわかる。軍事攻撃の意味も具体的なイメージも、主権国家とテロリストの形式的な違いも理解していない。

この件について調べていて一番説得的だったのは、日本政府は朝鮮語ができる人を養成していないので朝鮮半島で人質を探すことはできないだろうという分析だった。つまり、拉致被害者を救うために朝鮮の政府を軍事攻撃で打倒したとしても、拉致被害者を見つけられないのだから救いようがないというのだ。このことからも、改憲を目指している人があまり拉致被害者の救出のことを真面目に取り合っていないということをうかがい知ることができる。彼らは単に勇ましいことが言いたいだけであり、それが取り上げられたとしても日本は依然何の反省もしていない危ない国なのだと思われて終わりになってしまうのである。

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官僚主導と政治主導のどちらが優れているのかという議論を研究する

Quoraで面白い質問を二つ見つけた。一つは日本の官僚政治の弊害を問うものであり、もう一つは桜田大臣がいじめられているのはかわいそうなので官僚に全てを任せるべきなのではないかというものだった。なぜ、これが面白いのか「わかる人にはわかる」のではないかと思う。全く逆の要望なのである。

一方、新聞などでは何の前置きもなしに「政治主導を進めるべきだ」とか「行き過ぎた官邸主導(つまり政治主導)はよくない」などと書かれていて、マスコミでさえ何がどうあるべきなのかわかっていないように見える。

なぜ、このような状況が生まれたのだろうかということを考えると、また歴史のおもちゃ箱をひっくり返すことになる。日本の政治状況は文脈がわからないと全く理解できないことが多く、これが国民的な議論を難しくしている。

戦後政治は官僚政治から始まったといってよい。もともとは吉田茂が吉田学校が作り官僚出身者を議員にしたのがきっかけとされているようである。この傾向はしばらく続き、官僚と政治家は半ば一体化していた。例えばオイルショックの時には中曽根康弘のもとで通産省の官僚が手計算で国中の石油配分をしたことが知られている。中曽根が何冊か回顧録を出しているし、ネットでは杉山和男という人の回顧録を見つけた(PDF)。この回顧録を読むと石油が足りなくなるという報告を受けてから配分や行政指導や法律作成までがスピーディーに行われたと書かれている。つまり、この時代には政治家と官僚が協力しながら柔軟に国中を動かすことができており、一体化していたのである。

ところが、バブルが崩壊した頃には全く様子が変わっていた。例えば、小泉政権下の塩川財務大臣の「母屋でおかゆ、離れですき焼き」発言などが有名である。特別会計を作って官僚が贅沢をしているというイメージが作られた。すでに消費税が導入されており「財政破綻を防ぐためにはこれからも消費税は上がり続けるのでは」という懸念があり、それが現代にも引き継がれている。

執行調査で削れる予算の規模はわずかだが、歳出総額が一般会計の5倍に上る特別会計のずさんさが目をひいた。道路整備や国民年金など30以上あり、監視が届きにくく省庁や族議員の既得権益の温床になり無駄が多いとの見方を強めた。(日経新聞

劇場型で選挙を有利に戦おうとした小泉政権は積極的に「官僚はけしからん」というイメージを作ってゆく。そこから生まれた用語が政治主導というキーワード(コトバンク)である。選挙でみなさんが納得できる政治を選んでくださいというわけである。

ただ、これは小泉政権が勝手に作った流れではない。まず自民党で国会議員が官僚をしっかり「管理すべきだ」という議論が起こる。そこで計画されたのが副大臣制度である。偉い人を送り込めば官僚もいうことを聞くだろうと考えた(コトバンク)わけだ。小泉政権下でようやく副大臣制度ができた。

ところが、自民党では官僚主導政治は打破できないからということで、民主党が「民主党流の」政治主導を言い出した。彼らが政治主導にどのようなイメージを持っていたのかはわからないのだが、有権者は政治主導になればこれ以上消費税をあげられずに済むというような意味でこの発言を受け取ったものと思われる。

ところが民主党は政権を取ると政治主導とはこれだと言わんばかりに八ッ場ダムの建設を中止してしまう。コンセンサスなしに突然プロジェクトが中止されて現場が騒ぎになると(八ッ場あしたの会)それを引っ込めて「現場を混乱させた」と非難されることになった。さらに野田政権は「財務省に取り込まれて」消費税増税を約束してしまい、国民から大きな反発を受けた。多分、国民は民主党を嘘つきだと思っているはずで、今後も民主党後継の政党が政権を取ることはないだろう。

その怒りを利用したのが安倍政権で、今度は官邸主導を言い出した。内閣でもうまく行かなかったのだから「首相の強いリーダーシップ」で国を引っ張るというのである。ところがこれも実態はNSSという一部の人たちによる集団指導体制であり、ほとんどのメンバーが官僚出身である。安倍首相が官僚を書いた答弁しか読まないところから、首相自身は政策についてはあまり理解をしていないことがわかる。東京新聞はこれが忖度を生む悪しき土壌になったのだと言っている。

このように「政治主導」というキーワードは政局に利用されてきた歴史があるのだ。

桜田大臣がパソコンを触ったことがないことを非難されるのはこの流れに反しているからである。つまり、政治家が官僚をグリップすると言っているのに、何をやっているのかさえ理解できないではないかという非難をされているわけである。ところがQuoraの質問からわかるように有権者の中にもこれを理解していない人がでてきており「なぜ、優秀な人たちに任せていてはいけないのだろうか?」という疑問が出てくる。

ところが、中高年の年齢域の人たちはなんとなくこれまでの動きを理解しており「あれ、政治家が官僚を管理すると言っていたのでは?」と思う。さらに新聞の政治部の記者たちは明確にこの流れを知っている。だから前提の説明なしに非難され、それを知らない人たちが置いて行かれてしまうわけである。

実際には安倍政権の官邸主導は「官僚の中のアベトモ主導」であり、つまり官僚政治の延長である。これまでは官僚が「離れですき焼き」を食べていたのだが、結局は官邸とそのお友達が「官僚からすき焼きを横取りした」形になっている。一方で、主導するために集められた大臣や副大臣はこの経緯の中で「いてもいなくてもどうでもいい」存在に変質し、単に失言発生装置になっているわけだ。大臣担って政府に入るとマスコミも叩きやすい。週刊誌あたりは政治家のスキャンダルをストックしていて彼らがポストを得るのを待っているのではないかとすら思う。

いずれにせいても、相変わらず福祉や子育てサービスの入った母屋ではおかゆをすすっている。そしてそれが足りないが消費税は30%も取れないので20%くらいにしては(2018年11月19日自民党野田税調会長の日本記者クラブでの発言)という話すらでてきているのだ。さらに、自民党でも不満がくすぶっており「官邸主導を見直すべきである」という話が出るようになった。

例えば、この2018年初頭のNHKのこの記事を読むと、今書いたような経緯がわかる。

徐々に政府と与党の力関係が変化し、「党高政低」から、政府=首相官邸が主導する「政高党低」になったと言われるようになりました。

経緯で全てが変質してしまう日本では、政治の話とは別にこうした背景記事を読まないと政治記事の意味が読めないという状況になっている。政高党低というキーワードがわからないとこのNHKの記事すら探せない。

欧米の政治はある程度イデオロギーで動くために何がどうなっているのかがわかりやすい。しかし日本の政治は経緯で動いてしまううえに、本心を隠して口当たりの良いラベリングをする癖がある。だから、後から見ると「何がなんだかわからない」ということになりかねない。このことが日本の政治議論をますます難しいものにしているように思えてならない。

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鶏肉から学ぶデフレが進行するミクロ的な仕組み

お金はないが毎日を面白くしたいので新しい趣味を見つけた。腹筋を割るのである。年齢がいっているからムリだろうと思ったのだが、縦に線が入り上の4つがうっすらとわかるようになってきた。体脂肪率20%近辺だとこんなものなのだそうだ。それ以上にしようとすると体脂肪率をもっと下げる必要があるらしいのだが、これから寒くなるので暖かくなってからまた考えようかと思っている。

とはいえ、やることはあまり多くない。1日30分未満で腹筋運動をして、あとは食生活を変えた。昔だったらプロテインを買ってきたと思うのだが、今回は鶏肉とさつまいもを主に食べている。

すると毎日買い物に行って単純なものだけを買うことになる。近所のスーパーにはもともと地元のチェーン店が入っていたのだが数年前に撤退した。代わりに入ったのはイオン系の格安スーパーだ。人件費を減らしPBを増やして価格を抑えるという作戦の店である。

ところが、一人だけいる男性店員が変わった時から、品揃えに変化があった。30円のソーダがバックヤードに下げられて「ありますか」と言われると出てくるようになった。密売品を買っているような気分になる。多分、格安ソーダばかりが売れるのだろう。だが、品物がなくなったわけではないので隠しているのだと思う。女性店員たいは一緒に働いているが、この男性だけは一人で働いているので、仕入れ担当者か店長なのかもしれない。本部から彼に「収益を上げろという指示が出ているだろう」と勝手に思っている。

鶏肉にも異変があった。店にはパックされた鶏肉が並んでいる。トレーがないので小分けで買えるう上に若干お得なのだ。胸肉が68円、ささみが少し高く、一番高いのは胸肉である。同じ大きさだと胸肉が180円から230円くらい買えるのに、胸肉はどうしても300円以上になる。ということで結果的にいつも胸肉は余っている。

ある時から200円以下の胸肉が手に入れにくくなった。単価は変わらないので大きな胸肉を仕入れているようである。しかしそれでももも肉は余っている。そこでついに胸肉が品薄になる日が増えた。仕入れは8時ごろだそうだが、時間をずらして行っても買えない。そしてついに全くなくなってしう日も出てきた。

こうすればもも肉を買うだろうと仕入れの担当者は思ったのではないかと思う。

が、そこで新しいものを見つけてしまった。それは鳥ミンチである。鳥ミンチは小分けパックになっていて量が若干少ないが安く食べられる。最初は炊飯器調理が面倒だと思ったのだが(胸肉はそのまま炊飯器に入れれば調理できるのだ)トレーの上で片栗粉、ハーブ、塩、ニンニクを入れた上で混ぜてスプーンでお湯に投下すると却って味にバリエーションがつけられることがわかった。というかこっちの方が美味しい。つまり、高いものに誘導しようとした店の目論見ははずれ、もっと安いものに誘導されてしまったことになる。

今回は一人で料理を発明したわけだが、実際のデフレ生活では荻原博子が「デフレ対応メニュー」を推奨したり、ページビューを稼ぎたいネットメディアがデフレメニューを掲載したりする。情報が増えると、例えばインテリアなどでも100円均一で買い物をしたほうがお得だということになる。そういう人が増えると100均のほうがおしゃれだということになり、インスタ映えするようになる。こうしてネットワーク経由でお得=デフレが進行してゆく。それを仕入れ担当者の浅知恵だけでひっくり返すことはできない。

鶏肉に戻って「なぜこんなことになったのか」を考えた。お金がもったいないという事情はあるのだが、結局のところ小分けで買い物をしているからだろうと思う。総枠10,000円で買っていた時には、鶏肉が200円だろうが300円だろうがそれほど違うように思えない。そもそも小分けで少量買えてしまう上に節約志向があるので、小さかった差が大きく見えてしまうのである。

すでに見たように、このスーパーは格安のバーリアルなども目玉になっている。バーリアルを国内メーカーが作ると「これで十分だ」という声が広がる。多分、ビールは相当打撃を受けるのではないかと思う。いったん「安い方向に」弾みがつくとそれがメーカーまで動かしてデフレ方向に最適化が進むということがわかる。そしてちょっと高いものは売れなくなり余剰在庫化してしまうのである。

以前社会主義の失敗を見た時にペレストロイカ下のソ連では高価格製品帯を作ろうとしたためにインフレが進行したという話を書いた。だがちょっとわからなかったこともある。つまりソ連は給料を政策的にあげることができたのに(お金は印刷して配るだけで良かった)なぜ人々は高いものを買わなかったのかという問題である。長年の耐久生活に人々が慣れてしまっていたからなのかもしれない。これは一企業の力ではどうにも変えられないし、政府が一つひとつの政策でマインドを変化させることもできない。総合的なメッセージが重要だったはずだが政府にはそれほど信用はなかったのではないか。

そもそも、安倍内閣はお金に困ったこともない人たちとパソコンを触ったことがない人が運営しており、政府への口利きの100万円も高くないと言ったと噂される人さえいる。麻生財務大臣はインスタントラーメンの値段が答えられなかったということで有名な人だ。ちなみに当時は170円くらいのものを400円と答えたという記事が残っている(中央日報)が、今の170円ラーメンはコンビニ価格で割高だと思う。金銭感覚が全く違っている上に、嘘やごまかしが多くあまり信頼することはできない。

もちろんペレストロイカ当時のソ連と現代の日本は違っており、結果もインフレとデフレという違いがあるのだが、似ているところがあるのではないかと思った。政府が信頼できなくなっても人々は抵抗しない。単にその状況に慣れて部分最適の行動を取り始めるのだ。

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