日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまり女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

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もはや災害レベルの人口減少と徳を失った国会議員たち

杉田水脈の「生産性問題」について考えている。国民を国会議員が支配する対象のようにみなして選別しようとする発言が非難されているという話だった。ここで杉田発言を非難するのは簡単だが、もっと重要な問題が見過ごされてしまう。一緒に騒ぐことによって政治ショーに加担するのは実はとても有害なことなのである。

杉田水脈発言は「伝統的な家族という価値」が復活しさえすれば日本の活力が戻るという信仰に支えられている。そしてこうした言動を支持する人たちは伝統的な家族が復活すれば自分が家庭に君臨できるという根拠のない自信を持っている。だが、実際にはそんなことを言っていられないほどの変化が起きている。日本人が壊滅的な勢いで減っているのである。

Twitterで2020年に人口が毎年50万人減ってゆくという記事が流れてきた。こういう記事を見た時にはまず「嘘だろう」と思うことにしている。そこで検索してみると2018年には人口が37万人も減っているという記事が見つかった。つまり、人口減は現在も進行しているのである。

37万人というと3年で100万人以上の人口が消えることになる。つまり3年で千葉市や北九州市以上の人口が消えてしまうことになる。鳥取県は2年を待たずになくなる。東京23区で人口30万人から40万人規模というのは新宿、中野、北、品川と同じくらいだそうだ。これが一年で消えてしまうというのが今の日本なのである。

最近よく「今までにないレベルの災害」という言葉を聞くようになった。豪雨災害が増えているので「今までの常識で大丈夫だった」からといってこれからも無事でいられるとは限らない。同じような言い方をすると、かつてないレベルで人口が減ってゆくのだから、これまでとは違ったレベルの警戒が求められるということになるのだが、こちらは日常の出来事なので災害という印象が持たれにくい。

日本の人口は均一的に減ってゆくのではないので、まず地方経済が壊滅的な影響を受けているようだ。高齢者は地方に住み続けるが、子供達は都会に出て行ってしまうからである。相続の際に高齢者の資産が都市に流れそのあとは戻ってこないという記事を見つけた。

これからの金融資産は人とともに都市部に集まる。野村資本市場研究所が人口減や高齢化、相続に伴う資産移転の影響を試算したところ、30年までに金融資産が増えるのは東京都と埼玉、千葉、神奈川、愛知、滋賀、奈良の6県だけだった。

日経新聞は「銀行のビジネスモデルを再構築すべきだ」と言っているのだが、アベノミクスにより地方の銀行は儲けられないので、もはや利子による収益は見込めない。地方銀行が潰れるということはその地方の経済が潰れてしまうということを意味するのだが、産業界が安倍政権を支えているので日経はそこまでは書けず、「合併で持ちこたえるべきだ」という意見を出しているのみである。そもそも地方からお金が蒸発するのだから合併したところで収益が上がる見込みはない。

問題は徐々に広がるので地方の有権者も議員たちも問題の大きさには気がついていないようである。鳥取・島根、高知・徳島は合区になった。この県に一人づつ代表を置こうと「憲法改正」を目指したのだが、参議院選挙までに間に合わないということがわかると強引に比例代表制度を変更してしまった。つまり彼らは憲法などに興味はない。興味があるのは自分の議席だけなのである。しかし、どんな選挙制度を作っても根本的な問題解決にはならない。今後も地方の人口は減少してゆくからである。

杉田議員は「まだ余裕がある」と考えているのだろう。そこで生産性の議論を持ち出してマイノリティをイジっている。目的は自分の議席の確保とマウンティングだろう。だが、実際にはそんなことをしている余裕はないほど日本は追い込まれているのである。

こうした問題は新聞を少し検索しただけで出てくる程度の情報の組み合わせでしかないが、自民党から聞こえてくるのは、これからも自分たちが独占するであろう内閣が国民に指図ができるように基本的人権を制限するアイディアや、自衛隊を軍隊にして中国に対して威張れるようにしたいというようなアイディアばかりである。前回「理念なき国」についてみたのだが、国から理念が消えてゆくと「どうやったら自分が利益を独占できるか」ということで頭がいっぱいになってしまうようだ。すると、国全体の問題が見えなくなってしまうのだ。

災害レベルの人口減少なのだから今まで通りの戦略で人口を増やすことはできない。まず伝統的な結婚観や家族観は今すぐ放棄すべきだろう。

結婚しないと子供を作れないという今の制度は効率が悪すぎる。同性愛だからといって子供を育てられないということはないのだから養子制度を充実させて子育てに協力してもらうべきだし、芸能人の結婚報道で「妊娠しておらず予定もない」などという報道は偏見を助長するので法律で禁止すべきだろう。よく児童相談所の職員を増員しろなどという意見も聞かれるのだが、これも考えものである。子供を虐待して減らしてしまうような余裕はないので、問題が露見したら「親権」などとは言わずに子供を育てたい人に育ててもらうべきなのかもしれない。

文句をいう人は出てくるだろうが、もはや「非国民」と言って良い。もはや結婚制度と子育てをリンクできる余裕はこの国にはない。「順番を重視しろ」などとカッコいいことは言っていられないはずなのである。

このような議論を始めると変化を恐れた人たちが「変えないための議論」をやりたがるのだが、毎年30万人以上が減ってしまう状態にどんな選択肢があるのかを逆に聞いてみたい所である。

安倍首相は西日本豪雨災害の時に引きこもって選挙対策をしていたようだ。目の前で「人口減少」という災害が起きているのだが、特に何も手を打っていない。総裁選挙で頭がいっぱいになっているのである。

いずれにせよ杉田議員は国会議員にはふさわしくない。本来ならば国家を総動員して子育てをしなければならないのだが、不用意な発言で同性愛者の人たちを自民党の前に集めるだけで終わってしまった。そして自民党の人たちは杉田議員に問題を指摘できないようだ。安倍首相の派閥に属しており下手なことをいって自分たちの地位が危うくなることを恐れているのではないかと思う。

国会議員たちもまた国が衰退しているという実感を持っているのだろう。だが、自分だけが逃げ切れば良いと考える人が多い。問題を「伝統的な家族がなくなったからなので人権が悪い」とごまかそうとする国会議員もいる。一方で、国民と一緒にこの問題に取り組もうという人はそれほど多くなさそうだ。日本の政治家は徳を失っているのである。

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理念なき国家の行く末

安倍総裁の総裁三選が現実味を帯びてきた。一連の報道で興味を惹かれたのが憲法改正と安倍首相の関係である。これまで憲法改正については「他人に押し付けられてきた夢」だと分析してきた。つまり、実際は岸信介が果たせなかった夢の続きを見ているか、それを端から見ていたお母さんの夢ではないかと考えていたのだ。

どうやら、安倍首相にはさしたる政治的野望はなく、全て首相でい続けるための行動にのみ熱心なようだ。考えてみればこれまでも政策についてはさほど関心は示さずすべて部下に丸投げしてきた。すべてヒモがついていて支持者の望みを叶えることだけが目的になっている。さらに、豪雨災害にも興味がないようだ。これは政策だけでなく統治にも興味がないことを意味している。

首相はこうした「雑事」を忘れて総裁戦に向けた票固めにのみ専念したかったようだ。今回も閣議をお休みして私邸に引きこもろうとしている。さらに三選後のライバルを潰すための工作もしている。今の総裁選挙で勝てなくてて善戦されてしまうと「次世代のリーダー」という印象がついてしまうために、スキャンダルを探して芽を摘んでおこうと考えているようだ。岸田文雄の面子を潰すために「会っていない」と面会を否定したり、面会の内容をリークして優柔不断ぶりを宣伝したりというのがその一例である。

政策にも統治にも興味がない人がどうしてあれほど憲法改正にこだわるのかを考えてみた。来る参議院選挙に勝つためにはなんらかのプレゼントが必要だと考えるのが安倍流だろう。だから、選挙で自民党が勝ったら「何かいいことが起こる」か「悪いことが避けられる」という見込みがなければならない。だが、こうした銃弾を使い果たしてしまったのではないだろうか。

ところが国の財政はことのほか厳しいらしい。最近わかったのは豪雨災害の時に地方にばらまくお金はなく、小学校にエアコンすらつけられないという厳しい状況である。「ケチ」という見方もできるのだが、実際にお金がないのだろう。こうした状況で「地方に夢を見てもらう」ことは難しい。

そこで最終的に残ったのがお金のかからない夢である。憲法というルールを変えれば全てがうまく行くとすれば、議員も頑張るだろうし、有権者もついてきてくれるかもしれない。ただ、ここで問題が出てくる。具体的な項目が示された途端に多くの人が「なんだつまらない」となってしまう。そこで「憲法改正を目指さなければならない」ということをお題目のように唱え続けつつも具体的には何も提示しないことが求められるのだ。憲法改正に必要な議席を確保しておくためには自公政権が大勝しなければならないと言っておけばとりあえず参議院選挙は戦うことができるだろう。

重要なポイントは「憲法改正の中身などどうでもよい」ということである。重要なのは夢が持っている希望なのだ。

だが、実際には憲法改正を具体的に議論し始めると多くの自民党の政治家たちが自分の感覚で語り始めてしまう。それが毎日のように軋轢を生み出している。地方の政治家は各県に一つづつ議席が必要だという。さらに、安倍首相に近い議員たちは限定的自己肯定感の世界を生きており、意味のある人生だけはサポートするがそうでない人生は見捨てても構わないと考えている。人権という権利は義務を果たすことによって生じるなどという妄言をつぶやく人もいれば、自分たちが憲法を通じて生き方を国民に訓示すると言った人もいた。民主主義世界から見れば、実現の可能性も支持される見込みもないのだから、政治的妄想の類である。だが、永田町ではこうした妄言が幅を利かせている。

憲法は理念であり、まだ実現されていない目標を掲示することに意味がある。つまり憲法改正の議論はある意味夢についての議論であるはずなのだ。ところが日本人はこのような理念を持つことを嫌がる。理念はギリシャ語のイデアを和訳したものである。つまりイデオロギーを持つことを日本人は「お花畑」として嫌うのである。

日本人が憲法改正にどのような夢を見ているのかはわからないのだが、美しくはあるが世界には似たような山もある富士山を称揚してみたり、世界一尊敬される強い国になるのだという妄想に集約されてしまう。これは日本人が自らにイデオロギーを持つことを禁止しているからなのだろう。

例えば「経済格差のない平等な国が作りたい」というのはイデオロギーだが、日本人はイデオロギーを理解しないため「ソ連のような統制国家を作るのがイデオロギーだ」と感じてしまう。理念や理想の代わりに社会制度などの外形的なものに注目してしまうのである。

では先進国は理念をどのように広げようとしているのだろうか。

まず目につくのは死刑制度の廃止で見たようなやり方である。問題が起きた時に「自分たちは死刑制度は野蛮だと思うので話し合いましょう」と理念を提示するやり方がある。これは国家が人の命を奪うことなしに平和に統治できるようにしましょうという「お花畑」について語っている。つまり、これがイデオロギーである。

しかし、ただ単に価値観を押し付けてしまうと「内政干渉だ」と言われることはわかっている。そこでほうびと組み合わせる。EUはトルコに対して「加盟申請国は死刑を廃止しなければならない」と提示した。ヨーロッパは夢だけを与えトルコに門戸を開こうとしないのでトルコには死刑制度復活の動きがあるそうだ。

豊かさに触れさせることで影響を与えようとするもう一つの例がオリンピックである。だからオリンピックでは公共工事だけを受け入れて価値観は受け入れないということはできない仕組みになっている。

オリンピックの理念は様々な形で布教される。その一つがGAPという農産物の規格で「持続可能性」がテーマになっている。その規格にそぐわない農産品はオリンピックで使えないらしいのだが、日本ではほとんどこの規格を取得している人たちがいない。だから日本産の食材が使えないというのである。あるテレビ番組によると、JGAPでは養鶏場では鶏が自由に動ける空間が確保されている必要があり、安い外国人労働者を最低賃金以下で使ってはいけないとされているという。

このことから、経済的に豊かということだけで先進国になれるのではないということがわかる。豊かになった国にとっては「個人の理念をどう社会として実現して行くか」ということが重要であり、それを広げて行こうという意欲がなければならない。

だが、憲法改正の議論を見ても農業を見ても、日本人はそもそも理念を理解できない上に経済的余裕もない。とりあえず今あるものにしがみつかなければならないと考えている人が多く、理想を語ると「お花畑」と笑われる。オリンピックをきっかけに日本でも持続可能な都市開発や農業を取り入れて今後も定着させて行かなければならないのだが、これに賛同する人はそれほど多くないだろう。

東京でオリンピックをやるべきではないという声が趨勢のようだが、実際には理念が広がるならば良いきっかけになるのかもしれないとは思う。オリンピックを契機に都市の持続可能性を見直すという動きがあってもよかった。

ただ、実際に出てくるのは広告屋と組織の運営経験のない気まぐれな都知事ばかりで、問題も「会場は暑いのだがクーラーをつけるお金が調達できない」とか「人手は足りないのだが、賃金は支払いたくない」というようなつまらないものばかりである。私たちはこれからの二年間「理念を失いかけており」「夢をみることすら贅沢になりつつある」という現実を突きつけられて過ごすのだろう。

日本がかつてのように先進国の一員であったならば、今は実現されていない平和主義のような理念を実現するためにはどうしたらいいのかということを一生懸命に考えていたのだろうし、70年前にはなかった同性愛人たちがどうしたらもっと暮らしやすくなるかということを試行錯誤してきたのだろう。だが、そのような議論は起こらず「波風立てない方がいいですよ」という善意を装った受動攻撃性に潰されてゆくという社会を生きている。

よく「日本は発展途上国に逆戻りしてしまうのではないか」という懸念を耳にするのだが、発展途上国というのは経済的な意味意外に理念の意味でもこれから成長して行くという意欲があることを意味している。そうした意欲を失い、単に現状維持だけを目指して仲間内で恫喝し合う社会をどう呼んでいいのかはわからない。オリンピックとか憲法改正といった「未来を見据えた」議論を目の前にした時、私たちは先進国から滑り落ちた「単に過去の蓄積のある何者でもない国」になってしまったという現実を目にするのかもしれない。その意味では日本は夢に疲れて擦り切れた国になってしまったのかもしれないと思う。

安倍首相は首相でいたいために私邸にこもって悪巧みを続けているようだが、そのような首相を持ってしまったのも偶然ではないのかもしれない。日本は先進国でいつづけることが自己目的化しており、先進国としてどういう影響を与えて行こうかということを議論する人は誰もいないからである。

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杉田水脈を非難する人はすべて死刑廃止論者でなければならないと思う理由

このところ、オウム真理教の問題と杉田水脈議員の問題を考えている。前者は国家が人を殺してもいいのかという問題であり、後者は生産性のない人間は生きていても仕方がないのかという問題だった。どちらも命の選別を扱っている。この両方を一緒に考えることで日本人が西洋とは違った世界を生きていることがわかる。敬語世界を生きている上に、絶対神がいないので人間がいろいろなことを決められるのである。

オウム真理教の問題でジャーナリストの江川紹子が面白いことを言っている。江川さんは自身も被害者(事件化はされていない)なのでオウム真理教に対して処罰感情があるようだ。教祖の死刑は仕方がないことだと考えている。だが、命令を下したのは教祖一人でその他の人たちは別だとも考えているようである。彼女は麻原彰晃元死刑囚は処罰されるべきだと考えているので正気に戻った教祖に事件について聞くべきだったと主張する人に感情的とも言える反応を示す。

だが、一方で弟子たちについては真相究明に役に立つと考えているようである。

面白いのはこの議論のもとになった森達也という映画監督の人も江川さんも「役に立つ人は死刑を執行しないで調査を進めるべきだ」としているという点である。田原総一郎も同じようなことを言っているところをみると、これは日本人に共通する態度らしい。

つまり、役に立つ人と役に立たない人を峻別して、役に立たない人は先に執行しても構わないと江川さんは考えており森さんも「役に立つことがあるのだから」という点を論拠にして死刑をやるべきではないと考えている。この論争だけを見ると彼らは対立しているように思えるが、実は同じ立場に立っている。

ヨーロッパの死刑廃止論もかつては犯罪抑止や冤罪の回避などの機能論によっていたようだが、実際に死刑が廃止されてしまうと「国家は人の命を奪う権限を持ち得ない」というイデオロギーにとって代わられる。ドイツ政府は「死刑は野蛮だからやめるべきだ」と言っている。いったん社会的了解ができてしまうと「死刑を行っている国は遅れている」という感覚が生まれる。これはかつてあった仇討ちが禁止されてしまうと「それは前近代的だ」という感覚が得られるのに似ている。だが、武士社会においては「家族の心情や伝統はどうなる」という反発があったであろうことが予想される。つまり、日本は未だに国家が国民にかわって「仇討ち」をする制度を温存していると言える。

日本人は「その判断が正しいならば、他の人間が命を奪っても構わない」という社会を生きていることがわかる。これを杉田問題に展開すると面白いことになる。杉田さんは「生産性のない人間に補助をすべきだろうか」という問題を提起した。また別の自民党議員も限定的人権論に立っている。

これを広く捉えると次のような定義が得られる。それは、生存を許されるのは社会に許容された人たちだけであって、誰が生きて良いのかは私たちが決めるということである。Twitterや新聞ではこれに対する反対記事がたくさん出てくるので、国民の間に反発があることがわかる。

だが、人々は何を反発しているのだろうか。

死刑判決を受けた人の中でも「役に立つ人間は生かしておいて利用すべきだ」という論に反対する人はあまり多くないのだが「自分が役に立たないと認定されたら殺されても構わない」という人はそれほど多くない。これは日本人が「限定的肯定感」の世界を生きているからであろう。

だが、これを「絶対神的世界」を生きている人が同じことを考えると、「他人にそういうルールが設定されたのだから、自分にもそのルールが設定されても文句は言えない」ということになる。日本人のように意思決定を保留しておいてその時に都合の良いように考えようとは思わないからだ。

だがその肯定感は限定的なので「生産性がない」と「世間から」認定されたら姥捨されかねないという恐怖感は芽生える。だから、自分には生きてゆく正当性があるということを証明しなければという気分になってしまうのだろう。

Twitterで「寝たきりになった人であっても世話をしている誰かに給与が支払われているから生産性がある」と主張するTweetをみかけた。これはGDPへの貢献を「生産」と見なしており、生産性と生産を誤認しているのだが、その裏にあるのは、役に立たないと認定された人であっても役に立っているとみなされるべきだという止むに止まれぬ気持ちなのだろう。ただ、これを受け入れてしまうと、経済効率性があげられるように効率的に世話されなければならないということになってしまう。人間の価値はGDPへの貢献で決まるということを受け入れてしまっているからだ。介護される人はものではないのだから、ちょっとこれは受け入れ難い議論であろう。

この議論から抜け出すためには「どんな人であっても生存権や人権などが奪われてはならない」という前提をおかなければならない。つまり、限定条件をなくしてやる必要がある。

だが、絶対神の概念を持たず、人間が恣意的に条件を決める日本人にはなかなかこの点が認識し難いのかもしれない。

基本的人権を受け入れた人たちはおのずと死刑の廃止論に傾くのではないかと思う。そうしないと自分の生存権も限定的なものだということを受け入れざるをえなくなり、いつまでも不安がつきまとうからである。

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新潮45と中年の危機

先日来、杉田水脈さんの差別発言から日本の政治の問題を考えている。多様性を許容できない人たちが「差別できるような自分より下の存在」を探しているという問題だと考えた。ここでは視点を変えて新潮社の立場からこの問題を見て行きたい。最終的に見えてくるのは「アサーティブネス」と「新潮45の読者が抱える問題」の対比である。アサーティブネスは自分の意見をしっかり持ちそれを他者に伝える技術のことだった。

新潮社はもともと小説の出版社だった。日本の小説は私小説がメインストリームだった時代がある。実生活では自己実現できない人が夢の世界で物語に耽溺するというのが普通の小説だとすると、それも叶わずに鬱々とした感情をそのまま伝えるのが私小説である。戦後になって新潮社は週刊誌を成功させた。1956年だそうである。新聞がカバーできない領域をカバーするのが週刊誌の役割だ。その後バブルの時代にFOCUSを成功させる。これはきらびやかな芸能界の表向きの姿の下にある芸能人の赤裸々な私生活を暴いたものでありこれも「裏メディア」だった。もともと新潮社はエスタブリッシュが取り損ねた人たちを狙った「傍観者向けの裏的」な位置付けの会社だということがわかる。そして、当事者たちが作る本格的なサブカルが出てくると衰退してしまうメディアを抱えている。そこで、新しい「弾」を準備して生き残るという戦略である。

例えば今私小説が流行らないのはTwitterをみれば十分だからだろうし、FOCUSよりも刺激的な記事はネットでいくらでも見つかる。が、新潮社としては次さえ見つかればそれで構わない。問題は新潮社が次の弾を見つけられなくなっていることくらいだろう。

この中で45歳以上をターゲットにした雑誌が新潮45だそうだ。Wikipediaには最初から「保守・反人権」的な立ち位置だったと書いてあるのだが、保守が反人権と結びつくとは考えにくいので「変化を拒む守旧派」を狙った雑誌だったのだろう。これも政治問題の当事者というよりは傍観者を狙った雑誌だ。一時は女性を取り込もうとセックス特集などを増やしたが成功せず「ジャーナリズム路線」に戻ったのだという。

では彼らがターゲットにする45歳以上とはどのような人たちなのだろうか。現在の45歳といえばちょうどバブルに乗り遅れた世代である。大学時代までは右肩上がりの経済成長が(少なくとも見かけ上は)続いていたのだが、それが蜃気楼のように目の前で消えてしまったという体験をしている「失われた世代」だ。

日本の終身雇用は若い時の丁稚奉公があとになって報われるという仕組みだ。だが、この世代の人たちには下がいない。さらに上の人たちは老後の不安を抱えておりポジションを手放さない。直近の先輩たちは「バブル世代に雇われた無能な」人たちなので尊敬はできない。成果をあげろとは言われるが経済成長期のようには行かないし、後輩も入ってこないので役職にもつけず、マネージメント経験もできない。これより下の世代はそもそも経済成長を知らないので会社に過度な期待はしないから自分のためにならなければついてこない。

50歳にもなれば諦めてしまうのだが、まだ諦めきれないが自分の人生が何だったのかよくわからないという年齢域である。他人から良いと言われた進路を真面目に選択したのにちっとも報われないという人が「自分の人生って何なのだろうか」と考えることを「中年の危機」と呼ぶ。つまり、新潮45が今回たまたま掘り当てたのは「真面目なのに認めてもらえず達成感も得られなかった中年の危機にある人たち」の受動攻撃性だと考えられる。

今回、同性愛の人たちが杉田発言に抗議行動を起こそうとしているのだが、これに対して冷笑的なコメントがついている。問題を認めないし何もしないという態度なのだが見ていると「受動攻撃性」という用語がぴったりなのだ。表面上は穏やかなのだが悪意と攻撃性に満ちている。

ハフィントンポストに受動攻撃性に関する記事があるので、対処方法などを見て行こう。

時にして誰もが受動的攻撃行動をとってしまうことがあるのだが、そこでしなくてはならないことは、あなたが最後に“ノー”と言いたかったのに“イエス”と答えてしまった時のことについて考えることである。受動的攻撃行動をする傾向がある人の中にはいくつかのタイプの人間がいる。衝突を避けたり怖がったりする人々は、自尊心が低く自信がない人ほど受動的攻撃性格になる傾向があり、ブラント博士によると、そういった人々は「感情、特に怒りの感情を持つことを許された経験がない」のだという。

つまり、自分が本当にやりたかったことをやらずに妥協をしてしまったことに憤っているのだが、それを怒りとして表出できない。そのために誰か代理で叩く人を見つけようとするのである。

ハフィントンポストの記事はこうした人たちに対処するためには「毅然と対応すべきだ」と書いてある。つまり、彼らがマイノリティを見つけ出して叩くことを決して許してはいけないということだ。つまり、もし当事者であれば「そのようなことは許されない」と毅然と対応すべきだ。

ただ、例えば同性愛の場合「この人生で納得している」という人は毅然と対応しやすいだろうが、そうでない場合には「承認されたい」という気持ちから弱腰の対応をしてしまうかもしれない。前回見た乙武さんの「自分で選んだわけでもないかわいそうな人生」という自己像は極めて危険である。こうした構造は学校でのいじめにもよく見られる。一見先生に従順な良い子が裏で弱い子供を執拗に攻撃するというケースである。そして、いじめられる側はなんらか自己肯定感の問題を持っているケースが多い。

さらに、今回の杉田発言に関する反論を見ていると「自分たちも見捨てられ不安を持っており」「このままでは大変なことになる」と慌てているようなものが多い。つまり非当事者が進んで獲物として議論に参加しているということになる。こうした感情の揺れは彼らを利することになってしまう。

この「世代論的理解」は意外と重要なのではないかと思った。この風潮を日本社会全体の風潮とみなしてナチスドイツと同一視するような考察がある。野党政治家の中にもそのようなほのめかしをしている人たちがいる。確かにアイデンティティクライシスの側面はあるのだがそれが全体に広がっているとは考えにくい。ドイツの場合は帝国が領土を失ったことにより民族全体に危機意識が芽生えた。さらに民主主義の体験が乏しかったために議会政治が無効化されることになってしまった。だが、日本にはそうした喪失経験は見当たらない上に、それなりの議会運営の実績がある。日本の近代議会運営の歴史はアジアでは一番長い。

ある年代に限ってみると、確かにナチスと重なる側面はある。だが、それが全体に広がることはないだろう。逆に「このままでは日本社会全体が大変なことになるのではないか」と怯えることは、彼らの感情的な餌になる。

個人的に興味深かったのは「村落共同体」との関連である。日本社会を概観するときに「村落共同体」的な構造が抱える問題と、村落がなくなってしまったが多様性に踏み出せない社会という全く異なった二つの問題がありこれが統合できなかった。だが、これを逃げ切った60歳台の人たちとその下の掴み損ねた人たちの問題と考えるとわかりやすい。掴み損ねた人たちは新しい行動様式を獲得する時間がなかったために「自分の権利を主張する」という非村落的な行動様式を獲得できなかった。だから怒りを誰かよそに向けるしかないのである。

受動攻撃性は自分の欲求を外にうまく伝えることができないために起きている。これを解消するのがアサーティブさである。改めて、杉田発言に抵抗する人たちを見ていると、ゲイの差別に同調するというよりは「あまり騒ぎすぎるとためになりませんよ」とか「そんなことより建設的なことを考えましょうよ」などと問題を無視したがるような発言が目立つ。多分、彼らは普段からそのようなことを言われており、自分たちの欲求が抑圧されているのではないかと思われる。

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多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

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杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

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なぜカジノは日本の民主主義を破壊するのか

カジノ法案ができて日本でも賭博が解禁になった。このカジノは日本の民主主義を破壊するだろう。ただ、話が複数段階に及ぶので一つづつ片付けて行く必要がある。コピペで安倍政権に反対している人には残念ながら理解できないと思う。

第一に考えたいのは、なぜヤクザは賭博をしてはいけないのに海外のカジノ企業はOKなのかという疑問である。

ヤクザは賭博などの反社会的な行為を行うから反社会的なのだと信じられている。賭博場を開場する人を博徒と呼ぶのだそうだ。賭博が反社会的な行為なのはこれが法律で禁止されているからである。法律で禁止しているのは賭博が人々の射幸心をくすぐり「遊びに耽って」労働に従事しなくなるからである。だから統治者は賭博を嫌うのだ。

賭博はレジャーでもあり金融でもある。江戸時代には「主権」という概念が存在しないので、農民にはその持ち時間はすべて働いてもらわなければならなかった。ちょっとした息抜きくらいは許されるが、没頭してしまう行為はすべて禁止しなければならなかったのだろう。しかし農民には理屈はわからない。だから支配者たちは「由しむべし知らしむべからず」として「賭博はいけないものであり、賭博に関わるものはすべて賤業者である」とした。今でもその教えが生きており日本では賭博は反社会的なものとして忌避されている。

しかしながら現在では「被統治者」という概念は存在しない。労働者と定義したとしても彼らは生産のために余暇を持たなければならないし、消費者と定義したとしても消費のためのレジャーは女用されるべきである。さらに主権者となった場合には「誰かに迷惑をかけることさえなければ」どのように時間をかけても構わないということになる。

すると、カジノはレジャーとして認められるべきなのではないかという論点が出てくる。ここで出てくるのが自治体の既得権としての公営ギャンブルである。つまり、国が設けるぶんにはいいが、ヤクザが国の領分を犯してはならないとされている。今回はここに海外のカジノ業者が加わるので、法の元の平等という点を考えれば、ヤクザの人権について考慮すべきであろう。

従来の賭博を行ってきたヤクザの人たちも少なくともこの分野に関しては平等に対処しなければならないということになる。憲法では法律の元で平等と唄っている以上国内のヤクザに開帳させないというのは憲法違反である。枝野幸男さんは立憲主義の政治家としては憲法を遵守すべきで、したがってヤクザの人権を考慮すべきだということになる。立憲民主党はカジノ法案に反対していたが、法律になってしまったからにはこれは法律であり、他の法律と同様に遵守されなければならないであろう。

いずれにせよ、国内では賭博は引き続き禁止される。それは日本人は賭博などにうつつをぬかさず「生産活動に従事」し、奴隷が減らないように結婚して子供を作らなければならない。生産性の低い同性愛者を国が保護すべきではないと自民党幹部が言っていたと主張する議員すらいる。つまり、国内では統治の一環として引き続きギャンブルは規制される。これは天賦人権主義を取らないのが党是であると一部議員が主張する自民党としては当然の考え方である。

国内の民は遊ばせてはいけないし未来永劫自民党政権を支えるために人口を減らしてはならないことはわかったので、次に進みたい。

シンガポールやマカオなどの都市でカジノが行われるのは、カジノが遊戯として認められているからだろう。どちらもリゾート都市なのでその一部としてカジノがあっても違和感はない。では、彼らは誰を楽しませようとしているのだろうかというのが、次の疑問になる。

シャネルのショートムービーの中にカジノが出てくる、有閑階級が繰り出すのはモナコのモンテカルロの国営カジノ場だ。ヨーロッパのカジノには厳格なドレスコードがあり、その源流が貴族などの有閑階級のための施設であったことは明白だ。彼らは働く必要はなかったのだし、そのお金をどう使おうと自由だった。ギャンブルで減らしたとしても小作人がまた稼いでくれればよかった。なのでカジノは文化の一部として認知されており、ファッション業界の宣伝に使うのにふさわしい素材なのである。

つまりカジノは庶民の息抜きのための娯楽ではなく、お金持ちをいい気分にして少しでもお金を落としてもらうための施設なのである。

こう考えると、今回のカジノ法案の意味が見えてくる。つまり、この施設はそもそも日本人をターゲットにしたものではないのだからアメリカ人に日本人の富が吸い尽くされると考えるのは的外れである。

政府は有権者を江戸幕府が被支配層である農民を見ていたような視点で見ていることは明らかだ。怠けないように働かせて賃金は抑制したいと考えている。国民を主権者とみなすのは危険な考え方であって、天賦人権などはあってはならない。そのようなものを労働者に認めさせればバカな国民をつけあがらせるだけである。そして、カジノに出かけて行くような余剰の金は与えてはいけない。

政府がカジノを作りたいのは海外からの貴族階級をもてなしてその上がりをもらうためである。いわばトリクルダウンである。アメリカ企業が狙っているのは中国の富裕層だろう。マカオに行けばカジノができるのだが、マカオも中国の一部になってしまったので所得などが捕捉される危険が出てきた。そこで中国政府の影響の及ばないところにカジノを作れば儲かるというのが目論見ではないだろうか。シンガポールの優位性はそこにある。

では中国人はヨーロッパ貴族のように振る舞いたいからカジノに行くのだろうか。そこには共産主義国家という特殊な事情がある。中国人は自分たちが選んだのではない政府を信頼しない。そこで金をどこかに逃す必要があるのだ。マカオのカジノはマネーロンダリングに使われており習近平政権が取り締まっていたという話もある。アメリカではマネーロンダリングは禁止されているので、アメリカの業者はラスベガスでは稼げない。そこでマカオやシンガポールなどに「需要」がある。

自民党政権は日本を強くして強い国家を作ろうなどとは考えていない。彼らが狙っているのは成功する中国人をもてなして時には脱法行為にも協力しつつ「トリクルダウン」をしてもらうことなのだろう。

税収減につながるマネーロンダリングは国際的に厳しく非難されている。つまり自民党政権がカジノを推進するということは、国際的な非難を呼び、庶民をますます苦しくすることにつながる。

不安定になった庶民は力強いリーダーシップを求めて自民党のような「強い政権」を支持するだろうことはこれまでに学習してきた。加えてカジノ企業から自民党に献金が渡るようになれば、自民党は豊富な資金力を使ってテレビコマーシャルを使った憲法改正キャンペーンなどができるようになる。自民党は「難しいことは考えたくないでしょうから我々が全部やってあげますよ」といって権力を手に入れる。もし自民党にかつての幕府のような「徳」があれば、あるいはそれも幸せな選択肢なのかもしれない。

いくらなんでもカジノがマネーロンダリングに使われるなど妄想ではないかと思う人もいるかもしれない。確かに負けの額が一定であればそう言えるだろう。パチンコでマネーロンダリングするのはかなり効率が悪い。ここで出てくるのがカジノと金融の関係だ。カジノ法案の肝は実はカジノでどんなゲームをやるかではないし、ギャンブル依存症対策も実はそれほど重要ではない。いくらのお金を動かせるかが重要なのだ。

借金ができれば合法的にお金が動かせるのだが、ルーレットに帳簿はない。本当にその額を負けたのかなど誰にもわからない。その金がなくなったことにすればもっと安全な場所に移せる。あるいは共産党幹部が大勝ちしたことにして「あげて」そのお金をお預かりしてもよい。中国本土の出来事ではないので、日本政府がとやかく言わない限りそのお金は賄賂として機能するだろう。

ここで思い出されるのは自民党のある政治家が「ラスベガスで大負けした」と自慢していた例の一件である。裏社会にも通じていたと言われる人物だが、本当に負けたのか、それとも別の金庫にお金が移ったのか証明することはできない。あるいはそういうことだったのかもしれない。

アメリカ本土ではマネーロンダリングは禁止されているのでカジノ業者はオフショアでマネーロンダリングができる場所を見つけなければならない。自民党が無制限の貸付にこだわった理由がよくわかる。つまり、彼らはアメリカの企業と協力していくらでもお金が自由に動かせる箱が欲しかったのである。そしてそれはできるだけ中国の近くにあるオフショアであるべきだったのだ。

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エアコン否定派にされてしまった熊谷千葉市長

千葉市の熊谷市長が学校にエアコンをつけないと表明して物議を醸している。つけないのではなくお金がないからつけられないと言っているだけなのだが、Twitterはいまやエアコン至上主義が正解なので何人であってもこれに逆らうことは許されない。テレビも同じ状態にあるようでコメンテータが財政の問題について触れる時に「エアコンが必要なのはまちがいないですが」と触れるのが常識化している。

中でも面白かったのが、ケチな市長を選ぶと結局市民が損をするという呪いの言葉だった。同じようなことをヨーロッパのポピュリストたちが使う。緊縮財政に耐えられなくなった人たちがよく使ういいかたなのである。

こうした発言が出るのは実は偶然ではない。千葉市は放漫経営を放置して損出を各種団体に飛ばしていた過去がある。その上、政令指定都市になる時に「さいたま市くらいには勝たなければならない」として大型の公共施設も作った。結局、財政再建団体転落一歩手前で踏みとどまったが、これ以上市債が発行できないという状況にある。

その意味で過去に政治に関心を持たなかったから、現在の市民が損をするという指摘は当たっている。

その上県もあてにならない。県知事は「あの」森田健作である。今回は「市町村を応援する」と表明したが、実際には「国に頼んであげる」といっているだけで県がお金を出すつもりはないらしい。ただこうしたいい加減な発言がなんとなく許されてしまう県民風度がある。おおらかと言えばおおらかだが、いい加減な土地柄なのだ。

熊谷市長はこれまでの2期は財政再建ばかりをさせられてきたので、面白みのある政治課題には着手できなかった。やっと整理もできたのでようやく再開発などのまちづくりに着手できるという段階にある。

しかし、今回の件で熊谷市長を応援する気にはなれない。そもそも最初の段階で「共産党」を持ち出してきた時点で彼らを刺激することはわかっていたはずだ。長期政権のおごりが出ているのだろう。

熊谷市長はこれまで改革派の旗手とされており「若いからSNSの使い方も上手」という印象があった。ラクダみたいな顔をしているが、身長が180cmあり市民団体のおばさんたちにも評価が高い。このように味方に囲まれているためアンチに慣れていない。このために自分に都合が良いツイートをリツイートしたりという炎上に油を注ぐようなことをやってしまっている。

その上、今回の議論はすでに結論が「エアコンが正義」と決まっていた。そこに「予算の問題で」などと言っても言い訳にしかならない。

この「正義」については個人的も怖いなと思う体験をした。比較的リーズナブルな反応をする人も「いやいろいろと事情があるのですよ」というとかなり強く反論された。そのあとも幾つかTweetしていたので気持ちが収まらなかったのではないかと思う。「絶対に賛成されるはずなのに賛成されなかった」ことに対して怒りを覚えるようだ。

前回は、個人として意見を表明するのが怖いと考えている人が反論そのものに心理的葛藤を覚える事例だった。日本人が個人として意見をいう時には切腹する覚悟が必要である。ただ、こうした人たちが群衆にまぎれたり、匿名で発言する場所を得たり、もしくはすでに集団として結論が決まっている意見にコミットすると、逆に自意識を膨張させてしまう。裏返せば「正義の側に立ったらなにをしてもよい」とされているからこそ、普段は個人の意見が言えないのかもしれない。

だが、考えてみれば「エアコン至上主義」というイズムがその人の人格に大きな影響を与えるはずはない。実際に市長選挙の時にもエアコンの話はあったがほとんど話題にならなかった。つまり、人々はエアコンをつけなければならないと考えているわけではなく、自分の意見は正義なので通らなければならないと考えていることになる。これは「フォルスコミットメント」なのだ。

熊谷市長は共産党を挑発することで一部の人々に「フォルスコミットメント」を与えた。ただ、そのコミットメントが偽のものだったとしても、それが取りさげられるとは限らない。ビールの代わりに発泡酒を飲んだ人が「これがうまい」と言ってしまったがために、発泡酒を飲み続けるようなものである。つまり、人々を刺激して意見を言わせてしまうと、それが後付けでその人の主張になってしまうのである。

前回はアサーティブさについて考えたのだが、アサーティブな技術ではフォルスコミットメントの問題は解消できないと思う。人々は善意から行動しており義憤に駆られている。そのため、主張が正義の実現に欠かせないと思い込んでしまうのである。

そしてその善意を実現するためには民主主義のプロセスを無視して場外で騒いでも良いし、物理的でなければ言葉の暴力くらいは許されると考えるようになる。皮肉なことにこれがオートクラシーへの階段になっている。

熊谷市長はもともと民主党市議団などから推される形で市長になったようだ。これまで真面目に財政再建に取り組んできた。しかし、こうした地道な努力は評価されない。また予算について市民で話し合ってくれなど言ったとしても、その人は市民ではないかもしれないし、面倒な意見集約などをしてくれるはずはない。単に「あれが欲しい」とか「こうでなければならない」という意見をぶつけるだけなのだ。

市長としてこれがやりたいと言った時点で叩かれる。市長というのはその意味ではサンドバッグのような存在でありそれほど面白みがない。このような面白みのないポジションに進んで立ちたがるのは、政治家の二世とか、企業と結託して彼らの代理人になる人か、自己評価が肥大した人格に問題のある人だけになってゆくだろう。そしてそれを後押ししているのが、何かあった時だけ大騒ぎする「外野」の人たちなのである。

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日本人の男性はなぜ議論ができないのか

先日コンタクトフォームからメールをいただいた。全文掲載したいのだが著作権について取り決めをしていないので二次使用は控えることにする。本来なら全文掲載した上で論評しないと公正にならないのではないとは思う。編集の時点で、どうしてもなんらかのバイアスが生じてしまうからである。

ただ、コメントは著作物なのでそのまま引用してしまうとあとで編集ができないという問題が生じる。このためこのブログではDisqusという仕組みを導入しているのだが「名前が残る」ことに拒絶反応があるようだ。コンタクトフォームはデタラメなメールアドレスが通ってしまうので一方的に気持ちをぶつけるためには利用しやすいのだろう。

まずこのメールの良い点から見て行こう。たいていの人は「日本人はバカだ」と言われても「自分を除いた日本人はバカなのだ」と読み替えてしまう。心の平安を守るためにはよいがそれでは何も変わらない。最初は違和感を持ったり怒ったりするかもしれないのだが、当事者としての違和感を持つことは重要である。今回はどこかで日本人男性は共感を訓練する場所がないと書いたのを「決めつけだ」と憤っているようだった。当事者感覚を持っているという意味では他の人たちより一歩先に行っているのではないかと思った。

「お前には共感がない」と書かれていたが、これは当たっている。周囲との間に共感を求めることにあまり興味がないので「冷たい人」と呼ばれることはよくある。このため技術的ではあるが一致点を見つけようとしたり「わかりますよ」でとりあえず文章を始めるようなことをしている。

Twitterなどでは特に有効な手法であると思う。が、今回は「日本人男性には共感を訓練する場所がない」と書いたことへのカウンターになっている。これもTwitterでよく見られるが自分が指摘されて嫌だったことを相手にもオウム返しにする人がいる。自民党支持者が野党支持者に対して行うことが多い。相手の指摘を呪詛とうけとめ呪詛返しをしようとしているのかもしれない。

最初の問題点はオンラインツールへの理解不足だ。反論であるためには何に対する反論かが明示されており、さらにそれが他者に開示される必要がある。オンラインで履歴が追えるならハンドルネームでも構わないと思う。オンライン上でレピュテーションをためて行けるからである。このためこのブログではDisqusのコメントシステムを採用している。記事ごとにコメント欄があるのでどの記事に対する意見なのかがわかり、縦軸ではその人のコメント一覧が表示される仕組みになっている。また編集もできるので自分の発言をコントロールできるというメリットもある。反論は冷静にDisqusを使っていただきたい。

次の問題は心理的障壁だ。「異議申し立て」に対する日本人の心理障壁の大きさは想像を絶するものがあるようだ。「ああ、また日本人批判か」と思う人もいるかもしれないが、後でアメリカ人も自分の意見を表現するのに苦労しているということをご紹介する。いずれにせよ技術的な難しさがある上に日本は社会が異議申し立てを嫌うので個人がさらに抑圧されてしまうのである。

今回は共感が問題になっているのになぜ自己主張の話になるのだと思う方もいるかもしれない。しかし、相手の話を聞くということと相手に主張を伝えるということは実はワンセットになっている。つまり、共感ができない人は相手に自分の気持ちを伝えることもできない。論理的な主張でなくてもよい。悲しかったということを言わなければ悲しかったことは伝わらない。

今回は、メールアドレスがtokumei@gmail.comになっている。匿名である裏には「悪口をいって攻撃されたらどうしよう」という恐れや「失礼になってしまったらどうしよう」という気持ちがあるのだと思う。しかし、メールアドレスを伝えたくないならデタラメでもよかった。メールアドレスを書く欄があるのでわざわざ体裁を整えてしまっている。この「相手のフレームに乗ってしまう」と弱気さとその代償としてのアグレッシブさ(攻撃性)の表れではないかと思う。

文章の中にも同じ葛藤がでてくる。つまり、相手に従わなければと思うが、根底に違和感があるのでそれが整理されないままに攻撃性になってしまうのである。途中で人格を罵倒した上で、最終的には「机上の空論じゃまともな人間はついてこねえぞ。」という罵倒で終わるのだが、最初は「あなたの記事ですが、意見は正論かもしれませんが、」と丁寧な口調で始まる。文章全体は255文字しかないので、書いているうちにかなりの心理的コンフリクトを感じていたことがありありと伝わってくる。もともとは大変従順な人なのではないかと思う。

なぜ日本人は異議申し立てに葛藤を抱えるのだろうか。それは異議申し立てが「相手を否定することにつながる」とみなすからだろう。例えば、クラスで手を上げて異議申し立てした時点で「先生、それはないわ」とか「お前らみんな間違っている」と言っているのと同じだとみなされる。日本人には自分を殺して全てを受け入れる、影で悪口をいう、相手を全否定するという三種類しか違和感に対する対処方法がない。そして、現実にはこれがないまぜになってしまうのである。

実際には相手を否定しなくても議論はできる。「日本人男性は共感ができない」という課題が間違っていると主張したければ、反証になるデータを持ってくるか、そうではないという個人的な経験を共有すれば良いだけの話なのだ。それは相手を否定することにはならず、そういう事例もあるのだという新しい知見を与えることになるだろう。

こうした反証を持ち合わせていないとしても「自分が気分を害された」ということを素直に開陳するというオプションがある。これも相手を罵倒して否定する必要はない。議論の目的は勝ち負けだけではない。別の視点を持ち込むことも「議論への貢献」である。

しかしいずれにせよ議論を成立させるためには「お互いにわかりあおう」という共通の目的がなければならない。だが、日本人は問題をなかったことにし、異議申し立てを人格の否定と受け止めて禁止してしまう。この反動がTwitterに出ている。抑圧された感情はより激しい形で表出するのである。そして、このために日本人はますます表向きの政治議論を避けるようになる。政治家はヤバい人ばかりで、政治に興味を持つ人もヤバいということをTwitterを見て「知ってしまう」からだ。こうして悪いフィードバックが生まれるということはすでに過去に観察した。

では自分の主張をうまく伝えるためにはどうしたらいいのだろうか。それが「アサーティブコミュニケーション」である。今回はGoogle検索して最初に出てきた英語記事をご紹介するのだが、日本語でもリクルート関係の記事が見つかる。最近では学生を中心にアサーティブコミュニケーションへの関心が高まっているようである。人事面接が高度化してきており面接をクリアするために必須の能力になっているのだろう。

引用した文章は簡単な英語で構成されており誰にでも理解ができるはずだ。さらにアメリカ人であっても「アサーティブになる」には心理的葛藤があり、ついつい弱気になったり攻撃的になったりすることがあるということがわかる。一方で、アメリカ人は定型的な知識を大切にする。これを克服するための方法論もまた共有されているのである。

  1. Understanding the Difference between Assertiveness, Aggression, and Passiveness:アサーティブさと攻撃的なコミュにケーションや受け身のコミュニケーションの違いを学びます。
  2. Learn verbal features of assertive communication: 冷静に理路整然と話す。
  3. Learn the non-verbal features of assertive communication: 感情的になるべきではないが、怒りを感じた時にはきちんと眉を潜めて表現しましょう。
  4. Learn thoughts associated with assertive communication: アサーティブなコミュニケーションでは自分の意見は堂々と主張しましょう。
  5. Understand aggressive communication: アサーティブさとは違う攻撃的(アグレッシブ)なコミュニケーションの違いを学びます。
  6. Understand passive communication: 受け身(つまり弱気な)のコミュニケーションについて学びます。
  7. Think about your influences: これはアメリカ的で翻訳が難しい。本文では年配の男性は感情を表に出すことは弱さの表現だと教えられており、女性は自分の要求を伝えることが怒りの表現であると教えられていると言っている。つまり、新しい世代が新しい規範意識のロールモデルになるべきだと読む人の美徳に訴えかけているのである。
  8. Do not blame yourself for your communication style: アサーティブになったからといって自分を責めてはいけないと言っている。このブログでもよく「日本人は」と書いているので西洋人は最初から自己主張ができるのだと思っている人もいるかもしれないが、アメリカ人であっても冷静に自分の要求を伝えることは難しいのである。

特に、最後の知見は重要だろう。つまりアメリカ人も最初からうまく自己主張ができるわけではないということになるからだ。しかしこれを裏返すと「技術さえ学べば誰でも自己主張ができるようになる」ということになる。

ここでいただいた「お問い合わせ」についてみると改めていろいろなことがわかる。異議申し立てを感情を交えずに理路整然と伝えるには技術が必要だがそれができていない。だが伝え方以前にそもそも自分が何を伝えたかったのかがわかっていないように思える。何かを伝えたいということを整理するためにはまず自分が何を感じ、何をしたいのかという欲求を言葉にしなければならない。

その上で、異議申し立てをすることで相手の感情を害してしまうのではないかという恐れと、それでも自分を主張したいという欲求の間で感情が揺れており、結果的に「いったい何を解決したかったのか」がさっぱりわからない文章になってしまっている。何回か読み直してみたが、この文章を送りつけた目的がわからない。共感を得ようとしたのか、慰めて欲しいのか、泣いて謝って欲しいのか、認識を変えて欲しいのかがわからないのだ。

Twitterのダイレクトメールでも時々この手のクレームをいただくのだが「何が目的なのか」と聞くと話が流れてしまうことが多い。「主語が私」になると途端に話をそらそうとする人がいるのである。日本人はとても私に興味があるが、私を相手に伝えることは嫌う。

ショッピングモールで一方的に子供を叱りつけている親をみると「この子供は自分の欲求を罪悪感なしで伝えることができるように成長するのだろうか」と考えることがある。子供が何か要求すると親の計画が狂ってしまう。子供に邪魔されたことに腹を立てて子供を上から押さえつける母親がとても多い。学校に上がると今度は「お教室で静かにしなさい」という教育が始まるので、多分自分の欲求を伝える技術を身につける機会を持たないままに成長するのではないかと思う。

日本人が学校で「先生のいうことを聞く」技術は学ぶが「自分の意見を正しく伝える」方法を学ばない。先生には無条件に従うのが良いとされている。引用した文章でいうと「アサーティブさ」が禁止された空間で最低9年を過ごすのである。最近では先生が忙しくなってきており「問題を起こさないためには抑圧して管理するしかない」という風潮もあるようだ。こうした教育をうけた親の場合も「自分が何に腹を立てているか」がわかっていないのではないかと思う。「欲求を言葉にしない」ことで、とても悪いフィードバックループが生まれるのだ。

こうした環境で自分が何をしたいのかがわからなくなると共感の持ちようもなくなる。「日本人に共感がない」という時に重要なのは、実は相手が要求を伝えているのに受け取らないということでではない。お互いに何がしたいのか、何がして欲しいのかがわからないなかで、自分の価値観を押し付けることになってまうのである。

男性の場合には「男は黙っているべきだ」という風潮がある上に、仲間同士で「わかってもらえる」相互依存的な環境が作られやすい。みんなが同じような環境にいて居酒屋で相互承認するというような環境である。これを「共感」と呼ぶ人もいるだろうが、何について同意しているのかがよくわからないそれは果たして共感なのだろうか。

だが、日本も契約型の社会になりつつあり、お互いのニーズを確認したあった上で労働契約を結ぶという方向に移行してゆくことになるだろう。そんな中で共感を学ばなかった人たちだけが取り残されて、社会に不満をぶつけるということになってしまうのかもしれない。

だが、自分の言いたいことを伝えるというのは単にスキルの問題なので練習すれば習得することができる。半匿名が許されるオンラインコミュニケーションは本来「自動車教習所」のような場所であるべきだろう。これが多様な価値観を折り合わせるために話し合いをする成熟した民主主義が育つ唯一の道なのではないだろうか。

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