ワールドカップロシア大会に見る日本人とルール

先日来、リベラルについて考えている。一環として日本人とルールについて考える。日本人はどのようにルールを理解しているのだろうか。

フットボールのロシアワールドカップで日本チームが「フェアでないプレイで16強に勝ち上がった」という悪評が立った。驚いた日本人も多かったようで戸惑いや正当化の議論が盛んに行われた。日本人は一生懸命に西洋社会から認められようとして頑張ってきたのに「本質を理解していない」と言われたことに戸惑いがあったのだろう。木村太郎は「これは人種差別だ」と言い切った。

だがBBCの記事を読むとイギリス人の反発には理由があることがわかる。イギリス人はフットボールをフェアにやってもらいたいのである。このため、消化試合を避けるためにグループごとに試合が同時進行するように運用ルールが改正しており、イエローカードの枚数で優劣を決める今回の改正もその一環だった。日本はこれを通信機器で「ハック」することでルールの背景にある精神を踏みにじったと見なされた。ルールを変えるべきではという指摘すらなされたようだがFIFAはルールを変えるつもりはないと言っているそうだ。

背景には日本人とイギリス人のルールに対する考え方の違いがある。イギリス人やFIFAはフットボールを健全に保つためにルールを作っている。目的はフェアな試合だ。だが、日本人は本質ではなく「ルール」という外形を保つことによって良いコミュニティのメンバーであるということを見せたがる。だから、ルールで決まった範囲なら「何をしてもよい」と思ってしまうのである。

面白いことに日本のマスコミは海外で西野監督の決断が問題視されていることは伝えたが「ヒホンの屈辱」とその精神について取り上げたところはなかった。日本人は自分たちがどう見られているかは気にするが、どうやったらコミュニティを健全に保てるかということにはほとんど関心を示さない。見た目だけを気にしているのである。

西野監督の決断は、日本の政治で横行するルール破りについて考察するよい材料になる。安倍首相がやっていることと非常に似ているからだ。

日本人は決まったことを守ることがよいコミュニティメンバーの条件であると考える。だから、決まりにはチャレンジしない。決まりを変えることでコミュニティに対する異議申し立てをしていると見なされたくないからである。これは西洋のコミュニティがメンバーの合意で成り立ち恒常的な貢献で保たれるという考え方が日本にはないからだろう。村人を縛る村落をメンバーがあえて保つ必要はない。

例えば憲法第9条が変わらないのはこのためであろう。日本人は憲法はルールを守るという意識はあるが、その向こうにある「主権国家が協力して国際秩序を守って行くべきだ」という理念にはあまり関心を持たない。国際社会でいい子であればそれで満足なのだ。そして憲法第9条を「縛りである」と理解する。

このように窮屈な村落観を持つ日本人は「決まりは相手を牽制するためにも利用できる」と考える。体面のために決まりを守らなければならないし、それを押し付けることで相手を牽制できると考えるのである。ルールの範囲内で「ハッキング」する「ズルさ」はある意味大人の条件だ。だが西洋ではこれは単なるズルにしか見えない。こうした違いが文化摩擦を引き起こすことがあり、今回の西野采配もこれに当てはまる。

この「ちょっとずる賢く立ち回ったほうがいいのではないか」という考え方は、「大人な有権者」に広く受け入れられており、今回の自民党総裁選挙でも大きな影響を与えるかもしれない。

最近野田聖子さんや石破茂さんらが安倍首相を公然と批判し始めている。総裁選で「フェアな政治」を求めたほうが有利だと感じているからだろう。だが、これは野田さんや石破さんに不利に働くかもしれないと思う。なぜならばサイレントマジョリティである日本の男性は「日本が国際的に有利にやってゆくためにはまともにルールを守っていては損だ」と感じているかもしれないからである。こうした人たちは「ちょっとしたズルをする安倍首相」を大人だと感じるだろう。実際に石破茂さんには「あの人は真面目すぎて国会の筋論にこだわる」という評判があるそうだが、これは悪口である。女性も男性のように尊大に振る舞う事で「器が大きくなった」と見なされる事がある。その意味では野田さんは「女性的」すぎる。野田さんを支持しない人は「きれいな水に魚はすまないというではないか」と感じるかもしれない。

競争に勝つためには女性を低く使ったり外国人労働者を安く使ったほうが有利だと考えている人は意外と多そうだが、それが表立って語られることはない。安倍首相の嘘に一定の支持が集まるのはこの「ルール内でのずるさ」が支持されるからなのだろう。民主主義的なプロセスさえ踏めば嘘をついても良いと考えるのが日本人なのだ。

そんな日本人でも民主主義にこだわる事がある。

1999年の小渕内閣で自民党は金権政治から脱却できていないという批判にさらされていた。田中角栄のロッキード事件の影響が払拭できず細川内閣で一度下野した。その後も単独で過半数が取れなくなり連立相手を変えながらなんとか生き残っていたという時代である。当時、より近代的でかっこいいスマートな民主党が台頭し始めており「このかっこよさを取り入れたい」という思いがあった。党首討論が導入されたのはそんな気分があったからなのだ。

党首討論はイギリスを真似てクエスチョンタイムと呼ばれた。「西洋流のかっこいい俺たち」を見せたかった民主党と俺たちも負けていないという自民党の利害が一致したのである。議事録を読むと議論は朝ごはんに何を食べたかという鳩山さんの問いかけで始まっている。当然鳩山さん流の洋食(とはいえピザなのだが)のほうがかっこいいわけで、小渕さんは少しためらいながら日本食だったと明かした。この後、鳩山さんはピザの話を政権批判につなげた。「具材が混ざってよく味がわからなくなった温め直したピザ」は連立相手を組み替えて政権にしがみついている自民党を揶揄している。この中に小渕さんが強がりから発したと思われる「冷たいピザも温め直せば美味しい」という発言が出てくるが、小渕さんはこの後「冷めたピザ」と揶揄されることになった。自民党は賞味期限が切れた政党と見なされてしまったのである。

安倍首相が様々なルールを破って党首討論をめちゃくちゃにした上で「党首討論の役割は終わった」と言い放った。それももっともな話だ。政権交代は失敗し民主党(主に鳩山さんだが)のかっこよさも見掛け倒しだということがわかった。民主党にはスマートな政治家が多かったがそれはたいていは意志薄弱さの裏返しだった。自民党はもはや強がってみせる必要がなくなってしまったのだから面倒な議論などしなくてもよいのだ。さらに「ちょっとルールを破ったほうが勝てる見込みが高まる」ということになると議論でもルール破りが横行することになる。

高度プロフェッショナル制度にそれほどの反発が起きなかったのは日本人の多くが「誰かが犠牲にならなければ今の豊かさは維持できない」という見込みを持っているからだろう。だが、自分だけはそこから逃げ出すことができるという楽観的な見込みも同時に併せ持っている。第二次世界大戦でも、日本人の多くが政府に取り入って儲けたいと考えた一方で、家族や財産を失うと想像できた人はそれほど多くなかったはずだ。ズルさを支持する裏にはこのような見込みの甘さもある。

西野監督や安倍首相を見ていると、日本人がルールを曲げようとしているのは負ける見込みがある時だということがわかる。だから、脱法的なルール運用が横行するようになったら日本人が逃げの姿勢をとっていると考えたほうがよさそうである。西野監督は自分のチームがポーランドに勝てると思えばあのような戦術は取らなかったであろう。また、試合を続行すれば選手が焦ってイエローカードをもらうという見込みもあったのかもしれない。西野監督は選手をうまく乗せて勢いづかせることができるという自信はあったのだろうが、選手をコントロールできているとは考えていなかったのであろう。

安倍政権を応援する日本人も「負けるかもしれない」という認識を持っているからこそ安倍首相を応援し続けるのだろう。もっとも安倍首相が西野監督のように客観的に状況を判断しているとは思えない。西野監督は試合後の会見で「本意ではなかった」と発言したのだが、安倍首相はルール無視をしている俺はかっこいいなどと主張してますます拒否反応を呼び起こしている。選手を西野ジャパンの試合後のインタビューを見るとかなりフットボールコミュニティを意識してい情報を集めていることがわかる。せっかく強いチームなのだからもっと好きにやればいいのにと思うくらいだ。これは国際的なプレイヤーが多くマイノリティとして自分の文化を客観視する姿勢が身についているからなのかもしれない。これが永田町と選挙区しか知らない政治家との決定的な違いだ。

今回の議論はリベラルとポピュリズムについて考えている。これをトピックに当てはめると、まず「まともにやっていても勝てる」という見込みがなければルール順守を訴えることは難しい。リベラルの人たちの人権と多様性を保護すればより豊かになれるという見込みは実は自信の表れであり、それを自信のない人たちに信じさせるのは難しい。もしかしたらリベラルを自認する人も自分に自信がないから騒いでいる可能性もある。ここを越えるのはとても難しい。

それに付け加えて「ルールはなぜできたのか」ということを考えるべきだ。日本の平和憲法はある理念の元に作られている。これを理解しないで単に平和憲法には指を触れるべきではないと考えていてはいつまでたっても平和国家を実現する事はできない。もし「平和国家日本」を守りたいならば、もっと外にでて多くの人と意見交換をすべきであろう。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



リベラルはポピュリズムの温床になる

今回の文章は思いつくままに一度書いたのだが、何が言いたいのかよくわからなかった。Twitterを見ながらいろいろ考えたところ次のような結論が得られた。が、感覚的にはいろいろ許容できないところがある。心情的には人権伸長という意味でのリベラリズムが勝利すべきだと考えているからだろう。だが、考察結果はそうはならなかった。反論や政党の主張などがある方はコメント欄を利用していただきたい。感情的な反論を避けるために掲載の権利はこちらで持たせていただくができるだけ多様な意見を残したいと考えている。

日本では安倍政権の嘘が庶民階層の暴走を防いでいる。嘘が解消しなければ、やがて不満がティッピングポイントに達してポピュリズムが蔓延する。その担い手は二つ考えられる。第一の候補は共産党を中心としたリベラル勢力だ。一方で、リベラルに支持が集まらなければ自然法則に従って均衡化が進行する。それがハイパーインフレである。資産フライトができない人たちは全ての資産を失うので結果的に貧富の格差が解消する。これは究極のポピュリズムである。

世界各国で民主主義の破綻が問題視されている。ここでいう民主主義の破綻とは複雑さに疲れた民衆が自ら民主主義を手放してポピュリストの独裁者に一任してしまうという事例である。南アフリカ・ブラジル・インドで懸念され、トルコにも同じような現象が見られるようだ。独裁化にはこれといったレシピはないのだが共通する幾つかの特徴も見られるという。経済が行き詰まった国では政治の汚職が蔓延し、それを疑問視した有権者が「民主主義を超越した」強い指導者を求めるのである。

経済が比較的好調なアメリカにも置き去りにされた人たちがおりポピュリズムの萌芽が見られる。選挙プロセスそのものが疑問視され国民の対立を煽る主張で知られるトランプ大統領が当選した。だが、アメリカには経済的に豊かで民主主義を守りたい勢力がおり、それなりに民主主義的な防衛手段も準備されている。最近では17の州とワシントンDCがトランプ大統領を訴えた。地方自治がしっかりしており、ある程度司法もそれに応えていることになる。

日本には「安倍政権がファシズムになるぞ」と脅す人たちがいる。見ていると共産党や社民党といった左派の人が多い。だか、彼らは民主主義的なプロセスが信頼できないので「デモによって民意を反映させよう」という気持ちの強い人たちであり、結果的に独裁化の要件に当てはまってしまうという逆転現象が起きている。

この勢力は韓国で起きた政権交代を支持しているようだ。背景にはオアク政権の汚職体質に対する庶民の怒りがあったのでポピュリズムの要件を満たしている。民主主義や自治の歴史が短い韓国ではこうした非民主的な政権交代が起こるのだが、同時に軍事独裁を経験しているので、独裁化に対する拒絶反応が強い。この微妙なバランスが独裁国家と韓国の違いなのだろう。

また経済政策を無視したバラマキもポピュリズムの特徴だ。これは左派政権を模倣した山本太郎の政策によく表れている。裏にいるのは小沢一郎なので「政権のためにはイデオロギーを利用する」という意味ではよりポピュリストに近いかもしれない。幸いなことに小沢さんにはポピュリストに必要なカリスマ性がない。人を煽ったりルックスの良さでひきつけたりすることができないのだ。そこをルックスの良い俳優出身の非政治家に託しているのだろう。

このため日本では面白い状況が起きている。ヘイト発言を繰り返すのは「ネトウヨ」と呼ばれる人たちである。この人たちは権威主義的に政権と結びついており、リベラルな主張をする人たちに差別的な発言を繰り返す。だが、実際に政権を運営しているのは既得権を持った経営者たちなので、彼らのヘイトが直接政策に結びつくことはない。これがポピュリズムに結びつくと暴発するのだから、政権の嘘が暴発を防いでいることになる。安倍政権はお子様ランチ的にいろいろな政策を詰め合わせているので、結果的にこのような「幸運」が起きているのかもしれない。

暴力性の萌芽は左派リベラル側に顕著に見られる。電気信号的に(つまり政治的主張を外してみると)こちらが対立を煽っているように見えてしまうためなのかリベラル系のTwitterでアカウントが凍結されることが増えているようである。彼らが権威と結びつけば旧弊で人権を理解しない人たちを対象にした「親父狩り」が始まるだろう。

このように「必要悪」的な要素のある安倍政権の嘘だが、すでにルビコン川を渡っているという観測がある。

安倍首相は就任当時からある嘘をついている。それは株価である。この週刊朝日の記事によると現在の株価水準は12000円程度程度であるべきなのだそうだ。日銀と年金が株価を押し上げているのである。参議院の財政金融委員会の議事録などを読んでみたのだが、野党側の追求の歯切れが悪い。

安倍首相がこの政策を止めてしまうと株価が下がる可能性がある。バブルは大蔵省が加熱する土地の値段を抑制したことで崩壊した。株価バブルが弾けるとそれと同じかあるいはそれよりも悪いことが起きる可能性がある。話し合いにで他者との調整をすることが苦手な日本人は、絶対に上がるという土地を頼るようになった。これがなくなると日本人は何を信頼していいかわからなくなった。不安にかられた企業は内部に自己資金を溜め込む道を選び給与や投資として分配しなくなりこれが現在の恒常的な「デフレ状態」の原因になっている。

誰も表立っては言わないが、多くの経済人は「政府がバブルを起こしてくれないかな」と期待していた。これを成し遂げてくれたからこそ安倍政権は支持されているのだし、今後の政権はこれを引き継がざるをえない。

このため日銀出身の大塚代表はある程度以上は問題に踏み込まない。自分たちが政権を引き継いでも同じようなことをしなければならないからだ。またハイパーインフレを恐れているとされる藤巻議員も「ブレーキがないのではないか」という指摘はするが深くは追求しない。Twitterで藤巻さんは仮想通貨で資産フライトができると言っている。この人の狙いはハイパーインフレの回避ではなく仮想通貨のプロモーションにあるようだ。個人資産がベータテスト状態で何の保証もない仮想通貨に流れると言う危険性がある。政府与党の人ならばとてもこんなことは言えないであろう。維新は政党として政権を取るつもりがないのかもしれない。加計学園が野党に利用されているのは実害がないからなのだが、日銀の場合は嘘の暴露がそのまま経済の破綻につながる。だから野党は加計学園にこだわるのだ。

株価が下がり金融危機が起これば「野党が引き金を引いた」と見なされるだろう。一部では黒田総裁にも後継者がいないのではと言われているそうだ。すでに「職人芸」によって危ない綱渡りを始めている可能性があり誰も引き継げないということだ。

いずれにせよ、安倍政権はすでにポピュリズム的な政策に手を染めている。これを喧伝する必要がなかったのはすでに野田政権の「敵失」で政権を取っていたからだ。庶民がポピュリズムを帰厩しなくて済んでいるのは実は安倍政権がすでに手を染めているからなのである。

ただ、この政策がいつまでも続く保証はない。トルコではすでに通貨下落が起きているそうだが、民族資本が日本に比べると薄いという事情がある。日本は資産規模が大きいので問題が露見しにくい。逆に問題が起きた時には誰も救えなくなるだろう。

日本の政治を見ていると「GHQのような存在が仲裁してくれればいいのに」と思うことがあるのだが、ハイパーインフレシナリオではIMFがGHQの代わりをすることになるのかもしれない。しかし、破綻規模が大きすぎるのでIMFが破綻した経済を数年で戻すというようなことができないだろう。優れた人材が残れば復興は可能だが、その時になってみないと何が起こるかはわからない。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



お子様定食しか食べられなくなった国会の議論

6月25日に参議院で集中審議が行われた。見ても意味はないなと思いつつ見たのだがやっぱり意味はなかった。参加者から目の輝きが失われていて「ああ、本当にアディショナルタイムなんだな」と思った。

以前から書いているように日本の国会審議は民主主義をリチュアル(儀式)だとしかみなしていない。このため票を引き換えに集めてきた要望に勝手な意味をつけて「よかったね」といって送り出すのが自民党の大切な仕事になっている。自民党の議員は「成長」というキーワードを使って意味不明な意味づけをしており、それに安倍首相が意味不明な返しをしていた。中でも意味不明だったのがNHKスペシャルから取ってきたと思われるネアンデルタール人とホモサピエンスの違いだった。社会協力があるからホモサピエンスは生き残ったという内容なのだが、もともと「寿ぎ」のために無意味なことを言っているだけなのでなんでもよかったのだろう。

一方で野党も勉強を諦めている。Twitterで仕入れてきた情報を頼りに安倍政権を攻撃し、期待通りの答えが得られないといって子供のように怒っていた。もっとも典型的なのが福山哲郎議員と福島瑞穂議員である。最近はこの二人が出てきたら自動的に耳がオフになる。こちらも自民党と同じことをしている。ただし立場が違うのですべて「悪かったね」というキーワードになっている。つまり自民党は意味不明な寿ぎの歌を歌っているのだが野党は呪っている。

共産党に至ってはもうどうしようもなかった。アメリカの企業が日本のカジノ事業を独占するとみなした上で空想のお話を組み立てていた。ラスベガスやマカオを見たことがある人から見るととても異様な質疑に見えたのではないかと思う。それでも支持者たちは満足したようで、次の日のTwitterにはこの決めつけをコピペして叫ぶ人々の姿があった。

ただ、この辺りはまだ決まり切った議論であり安心して聞いていることができたのだが、時々「あれ?」と思うことがあった。最初に違和感を感じたのは確か立憲民主党だったと思うのだが女性議員の質問だった。ワイドショー的に出回っている事件についてのコメントを首相に求めていた。違和感を感じたのは安倍首相が「事前通告がない」ということで答えなかったからである。普段から世情に興味を持っていれば答えられた程度の内容だったと思うのだが、安倍首相はもはや世情には興味も関心もないということが感じられる。もしかしたら新聞すら読んでいないのかもしれない。この類の質問を積み重ねていれば、もっと早く安倍首相の異様さややる気のなさが浮かび上がっていたかもしれない。ちょっと惜しいことをしたのではないだろうか。

安倍首相はもう首相という仕事に興味は持っていないのではないかと思った。単に目の前に出された料理を食べるだけの人になっているのだ。支持母体からは決まったルートで「票を引き換えに」法案を通すように求められる。自民党はそれが自分たちの儲けになるということを確認した上で調整する。さらに官僚がフォーマットを整えて安倍首相がそれを公式見解として読むのである。上がってくる要望を原材料だとすると、自民党が下処理をして官僚が料理にしたものを並べて「さあ召し上がれ」となる。

「牛を見ても美味しいと思えない」ことが弊害になっているのが維新の党の藤巻議員との議論だった。主な話題はブロックチェーンと低金利政策である。ブロックチェーンと仮想通貨は新しい技術なのだが、安倍首相と麻生財務大臣は明らかに理解するつもりがなかったようで瞳からは輝きが消えていた。藤巻議員は一生懸命に新しい分野に取り組むことの重要性を訴えていたのだが、それは「新しい食材があるから料理して食べなくては」というような議論である。藤巻さんはこれを熱心にプレゼンしていた。だが、いくら熱心にプレゼンしても社長にやる気がなければどうしようもない。彼らの瞳の中にはもはや国を動かすという情熱は見られない。単に惰性的に地位にしがみついているだけだ。

ビジネスマンであれば藤巻議員の言っていることはよくわかったはずである。たとえば「中国が熱い」となったら、これはもう飛び込むしかないわけで、プレゼン上での結論や取るべきポジションは決まっている。だからブロックチェーンが熱いということになればもう行かなければならないわけである。そこでそれがどのように利益に結びつくかというビジネスモデルだけを学習し、リスクを折り込みながら戦略を考えてゆくということになる。だが、社長に「儲けよう」という気持ちがなければもう話は噛み合わない。首相と財務大臣には「もっと美味しく利権が得られる」見込みがあるのだろう。が、それは国全体の成長には繋がらない。

一方で藤巻議員の方にも問題はあった。日銀の政策が成長率と利子率を押し下げているということを言っているのだが「具体的に何が起こる」ということまでは予測できていないようで「今に大変なことが起こるかもしれない」というような議論になっていた。ビジネスマンであり学者ではないので、全体のフレームワークは管理できないのだろう。この質問について、官僚はもう考えること自体を放棄しており「これは財政ファイナンスではない」といういつも通りの答弁をしていた。この質問にはこの答えというスタンプ出てきていて右から左に処理をしている。

この国会を見ているとなぜ日本が成長できなくなったのかがよくわかる。疲れているのか飽きているのかはわからないのだが、もう自分で何かを取ってきて料理しようという意欲がないのだ。政治家には二世や三世が多いので仕方がないのかもしれないが、こうした人たちが選ばれているということは、有権者の側も意欲を失っているのかもしれないと思った。

今回の国会はお子様定食のようだと思った。与党は寄せ集めの料理に旗を立てて「うわーすごい」と言っている。野党の側はそれが面白くないのでケチャップライスの上にある日章旗を外して「こんなものくだらない」と言って騒ぐ。中を見てみると濃い味付けがされてあまり噛む必要がない料理ばかりが並べられているので、かみごたえのある料理などは見向きもされないのではないかと思うのだ。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



ネトウヨ対策について考える

先日来、政治議論にまつわる様々なテーマについて考えている。「政治家の嘘」「民主主義の死」「政治議論の呪い」などである。今回はこれについておさらいしながらネトウヨ対策について考えたい。

もともと日本の政治家は嘘を「本音と建前」として管理していた。ウチとソトの境目が曖昧になり本音の一部が「嘘として露出」することになった。これを攻め手に欠け有権者から見放された野党が攻撃して「民主主義の死だ」と叫んでいるというのが真相だろう。野党も組織や社会を管理する側に回れば「本音」という名前の真実を建前で隠蔽するようになるはずだ。一方、彼ら(野党と与党の支持者たち)の政治議論の多くは基本的にフレームワークの押し付け合いである。これは、身内がお互いが気持ちよくなるための言い訳と他人への抑止なのだから集団を共有するつもりのない議論は全て無意味なのである。基本的に他者を前提としないのが日本人なのでルールがないときには違いを前提とした外交交渉はできない。ただ、建前を真実だとして語ることが一種のマニフェストになってしまうので、これが呪いとなりお互いの選択肢を狭めてしまう。だからこれは無意味であると同時に有害でもある。

日本人は民主主義の本質について理解しているわけではないし特に興味もない。ゆえに双方の議論はめちゃくちゃになりがちである。例えば基本的人権は「自分は人生の主人公であるべきなので、自分の内心を表現したり、同じような気持ちを持った仲間と協力する自由がある」から存在する。ところが早いうちから集団に頼って自我を増長させる日本人にはこの民主主義はあまり意味を持たない。このため日本人の人権に対する理解は控えめに言ってめちゃくちゃになる。政治家は「公のためにわがままである人権はちょっと抑えるべき」などと発言し、ネトウヨの人たちも「表現の自由というなら朝鮮人は国に帰れという自由もあるはずだ」などと言い出す。とはいえリベラル側も基本的人権についてよく理解していないので「憲法に書いてあるからダメなのだ」などという水準の説得しかできない。彼らもまたルールを作る側になれば規範を押し付ける側に回るはずだ。

他にも山の登り方はいくつかあるのだろうが、これを観察すると二つの疑問に行き着く。一つは民主主義など存在しないのにどうして民主主義社会が崩壊しないのかという疑問である。実際に日本の民主主義は破綻していないので、なんらかの別な仕組みが独裁制を防いでいるのだろうという仮説が立つ。そしてもう一つ、なぜ日本人は表で本音の議論をすることが前提になっている民主主義的な行動ができないのだろうかという疑問がある。日本人は早いうちから集団に自我を同化させるので、個人の資格で誰かから反対されることを極端に嫌うのだろう。表で反対されると嫌なので「甘えることができる」環境でしか自分の欲求を表出することができない。

こうした本音の議論では身内の結束を高めるために「他人に対する嫉妬や陰口」とか「自分は社会の約束事からは自由なのだといった強がり」などといった甘えた感情によって結びついた「とんでもない」議論が行われる。派閥の会議がたいてい下卑た冗談で埋め尽くされるのはそれがボーイズクラブだからだし、逆に女性が多い会合では「規範の押し付け合い」や「嫉妬」が渦巻くことになるのではないかと思われる。

安倍首相が反発されるのは「選挙に負けた」時に生じた内輪の強がりを社会の要請として誤解して「社会一般の規範」に格上げしようとしたからだろう。もともとネトウヨ的議論はこれまでも一部の右翼的な雑誌で横行していた。こうした議論がそれほど問題にならなかったのはそれが影響力のない雑誌での「サブカルチャー」的な議論だったからである。

生涯を通じて自分を拡張させてくれる集団を見つけられなかった人たちが最後にたどり着くのが実体のない「国家」だ。もし彼らがアメリカに生まれていれば原理主義的なキリスト教に傾倒していたはずである。しかしそれは彼らの満たされなかった所属欲求を満たしてくれるものでなければならないので「日本というのは無謬であり世界に尊敬されていなければならない」という主張を繰り返すことになる。

だが、そんな国はありえない。だから例えばGHQであったり日教組であったり国内の少数民族であったりあるいはその人たちに協力する「反日分子」を持ち込んで合理化を試みるのだろう。

ところがこの甘えた議論がそのまま表出することはない。それが「世間」にさらされるからだ。この文章の冒頭で「何が独裁制を抑えているのだろうか」という疑問があったのだが、この世間が抑制装置になっている。民主主義を理解しない日本人にとって公共とは政治家が好き勝手に解釈できるどうでもいいものだが、世間はそうではない。「世間体」とか「世間の目」に実体はないがこれこそが日本人を縛り付ける。

日本人は世間を恐れている。例えばこのような事例がある。安倍首相はなんとかして憲法を変えたい。中には人権を否定するような動きがある。内輪で話し合っている時にはかなり勇ましい議論がでる。だが自民党が「世間」を意識するとき、その議論は萎縮する。自民党の憲法草案はかなり勇ましい内容だったが、今ではこれを表立って擁護する人はいない。また安倍首相は「憲法第9条を改正したい」と提案しているが、具体的な議論になると及び腰になるのが常である。未だに安倍政権は末期の麻生政権よりは支持されている(最終的には20%以下まで下落したそうだ)なので、安倍首相の機嫌を損ねたくはないのだが、かといって世間と戦ってまでこれに勝ちたいと考えている人は一部のネトウヨ議員たちを除いてほとんどいない。彼らは世間がよく理解できないがゆえに安倍首相を支持するが、世間がわからないがゆえに失言で失脚する。

こうした世間の目はかなり微妙な形で日本の政治に作用している。例えば森友・加計学園の問題では問題が報道されると支持率が下がる。しかし、政権を追い詰めるまでには下がらず微妙なラインを保っている。つまり「政治について監視するのは面倒だが、かといってあまり羽目を外しすぎるとどうなるかわかりませんよ」というラインが維持されていることになる。

もしここで「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが顔出しで自分の主張を喧伝し、それを世間が支持するようになればそれはかなり危険な兆候になるだろう。しかしこの「世間」はとにかく政治について極端なポジションを取らず、いかなる変化も拒む。とにかくリアクションがないのでその層に訴えることはできない。彼らが好む答えは「とにかく何も変えない」ということだけだからである。

さらに世間が民主主義や人権について正しい理解をしているということもなさそうである。女性は家にいるべきであり「ふらふらと外でお勤めすべきではない」と感じているだろうし、犯罪者を糾弾して問題を切り捨ててしまえば問題そのものがなくなると感じている人も多いことだろう。かといって同性婚や夫婦別姓に反対するということもない。自分が強制されれば嫌かもしれないが、特に関係がないと思うと彼らは関心を寄せないのだ。しかしこうした制度ができても同性婚や別姓を差別し続けるかもしれない。今でも夫が妻の姓を名乗るのは自由だがそれを選択する人は多くない。世間で「なぜそんな不自然なことをするのだ」といって抑圧されることが容易に予測できるからである。

世間から相手にされないネトウヨと呼ばれる人たちには観客が必要になる。世間には異議申し立てができないが、リベラルは話を聞いてくれる。挑発すれば怒ってくれる上に危機感も持っていて脅しがいがある相手だ。ネトウヨの実体はそれほど多くないことが知られているので、相手にさえしなければ彼らのメッセージがそれほど広がることはない。するとそういう思想に触れる人は少なくなる。逆に彼らのお相手をすることで彼らの思想を広め、無批判な人たちにその思想を感染させる可能性がある。

政治家の「勇ましい発言」はその都度潰しておいた方が良いと思うのだが、それは「ここは内輪ではなく、従ってあなたたちの強がりを聞く義務はない」といったトーンにすべきだろう。選挙に勝つ必要がある政治家は世間の建前を意識せざるをえないので建前で潰してしまえば良いわけだ。さらに社会的な影響力のないネトウヨは相手にするだけ無駄だし却って彼らを増長させる可能性がある。Twitterでネトウヨに対して何かを書きたくなったらそのことを考えるべきだろう。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



世界で民主主義は死につつあるのか

Twitterを見ているとよく「民主主義が死んだ」と叫んでいる人たちがいる。中には「何回殺すんだ」と呆れている人もいるし、また「冷笑していると民主主義は本当に死んでしまう」と主張する人たちもいる。

これまで観察した結果、日本で混乱しているは日本型の組織管理システムであり民主主義ではなかった。そもそも日本の西洋型の民主主義システムは未成熟だが、本音と建前を分離して管理するシステムがあった。これが機能不全を起こしており結果的に「民主主義が死んでいる」ように見えるのだろう。本音と建前を西洋流に言い換えると嘘と隠蔽と言えなくもないからである。

ただし、世界の民主主義がどうなっているのかについてはわからない点も多い。たまたまタイムラインに流れてきたイアン・ブレマーのチャンネルで取り扱われていたのでご紹介したい。なお「翻訳が違っている」という不満をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。YouTubeには(多分機械翻訳による)字幕がついているので、ポーズしたり巻き戻し(矢印キーで巻き戻しができる)見ながら視聴すれば英語でも比較的容易に読み解くことができると思う。ぜひご自身で確かめていただきたい。

このYouTubeは三部構成になっているのだが、二番目にスティーブン・レビツキー(日本ではスティーブン・レヴィツキーとして紹介されているようだ)というハーバード大学教授のインタビューがある。レビツキーは民主主義の終焉過程について本を出したばかりらしく、この他にも新聞に民主主義の死に関するエッセイを書いたりしているようだ。

いずれ日本でも翻訳されることになるのかもしれないが、日本については全く触れられていない。日本の民主主義が健全なレベルにあるからなのか、忘れ去られているからなのかはわからない。アメリカではトランプ政権が誕生する前後から「民主主義の死」が語られるようになった。確かにアメリカの民主主義は危機にあるが、教授によると「民主主義の死」と言えるようなレベルではないという。

教授によれば、民主主義が死ぬケースはそれほど多くないという。例えば最近の例ではベネズエラが独裁制に移行し民主主義が崩壊した。だがベネズエラは民主主義の歴史そのものがそれほど長くなかった。教授はホアン・リンツのフレームワークをもとに四つのリトマス試験紙を使って分析を行っており、トランプ政権は全てに当てはまっていると言っている。しかし、アメリカの政体は「独裁」と呼べるような領域には達していないという。

  • 民主主義のルールに疑問を投げかける
  • 野党やメディアの基本的人権に脅しをかける
  • 暴力を許容する
  • ライバルの合法性に疑問を挟む

YouTubeの中には出てこないのだが、日本では「民主主義のルール」は守られている。自民党が選挙に勝ち続けているからである。三番目の暴力がどのような現れ方をしているのかはわからないので安倍政権がこのチェックに合格しているかはわからない。

ただ、基本的人権の制限についてはかなりおおっぴらに議論されるようになった。また、ライバルの合法性に疑問を持つことはないが「結果的に失敗した」とことあるごとに喧伝しており、中にはデマを使って野党を貶めるようなことまで行われているようだ。いずれにせよ日本も、危機にはあるが民主主義が死ぬようなレベルには至っていないと言ってよさそうである。むしろ政権交代が常に意識されるようになり、その分与党が「なりふり構わなくなった」と考えたほうがよさそうだ。

教授は民主主義が軍隊やファシズムによって外から攻撃されるとは考えていない。むしろ民主主義的な過程を踏みながら内部から崩壊してしまう。だが、民主主義社会の側もやすやすと破壊されることはない。そのカギになるのが豊かさと民主主義の経験(YouTubeの中ではageと紹介されている)である。アメリカは豊かな国であり民主主義の歴史も長い。

日本は全体が貧しくなる中で取り残された中間層がポピュリズムを希求するようになった。ネトウヨと呼ばれているのがそれである。しかし、彼らが政党に先導されて選挙結果を左右するような状態にまではなっていない。今自民党政権を支えているのは仏教・神道系の宗教組織がもたらす組織票である。こうした過程をみると、民主主義が死につつある社会と共通する要因がある。YouTubeに戻って見てみよう。

ベネズエラではエリートへの反発が大衆を動かしてポピュリズム(YouTubeの中ではポピュリズムという言葉は使われていないが)が台頭し民主主義が崩壊した。その前段階には二大政党制があった。ベネズエラは1980年代から新自由主義的な政策が行われて庶民層の怒りを買っていたとされる。チャベス大統領はその反発を利用して大統領になり当初は絶大な信任を受けていた。だがその政策は石油に依存したいびつな経済に支えられており、石油産業が行き詰ったところで民主主義体制が崩壊してしまった。

教授が心配している国は3つあるという。それがブラジル、インド、南アフリカだ。ブラジルでは汚職が広がっておりエリート層への反発が出ている。インドや南アフリカは与党が強いのだがこれが権威主義に結びつく危険性が高いという。つまり、与党が失敗して急進的な野党が政権を引き継ぐことで民主主義が死ぬ場合と、与党が権威主義化して民主主義が死ぬ場合があるということになるだろう。

南アフリカの件はYouTubeの中では既知の事実として受け入れられているのだが、日本ではズマ大統領が辞任してからのニュースはほとんど流れてこない。南アフリカはアパルトヘイトを戦った政党に人気が高かった。投資が呼び込まれて経済が成長すると未成熟な民主主義でもなんとかやってゆくことができていたが、リーマンショック後に経済停滞が始まると汚職が表面化した。日経新聞によるとズマ大統領が去ったからといって経済状態がよくなったわけではなく、現在でも低成長が続いているという。これが独裁に移行するのではないかと心配されているようだ。

ブラジルではブラジルのトランプと呼ばれるボウソナロという下院議員が「台風の目」になっている。庶民層から支持されたルラ大統領は汚職で捕まった。混乱する政治状況下で過激な発言を繰り返すボウソナロ氏が台頭する様子を現地のニッケイ新聞が伝えている。

ルラ大統領が支持された様子は田中角栄に似ているかもしれない。中卒で今太閤と呼ばれた田中角栄は庶民層に人気が高かったのだが最終的には汚職により政界を追われることになった。この後自民党は「金権政治」懸念を払拭することはできず、細川政権によって最初の下野に追い込まれ、そのあとも自民党が単独で政権を得ることはなかった。自民党は当初は左派と組みやがて宗教政党に乗り換え、その過程で一部の議員が原理主義化した思想を自民党に持ち込んだ。その意味では日本はブラジルや南アフリカなどの経験をすでに済ませているということになる。

日本は西洋型の民主主義の歴史は長くないのだが、その前進に日本型の立憲政治を経験している。これが分厚い素地となって民主主義とは違った形で政体を安定させている。「本音と建前の分離管理」というのもそのうちの一つなのではないかと思う。だが、民主主義そのものの歴史は短いために説明責任やプロセスの透明化などという理念は理解されず、これが表に出ると「民主主義は死んだ」と大騒ぎになるのであろう。

日本では多くの人たちが自分を中流と考えており政治に頼ってエリート層を打ち負かしたいという感情はそれほど強くない。また、中流層がそのまま国全体で没落しており格差の拡大もそれほど大きくない。つまりエリートへの反発というルートから民主主義が壊れる危険性はそれほど高くなさそうである。つまり、日本は民主主義とは別の社会と統治のシステムがあり西洋型民主主義システムを補っていると言える。日本の中間層は正直に問題点を教えて欲しいとは考えておらず、上手に隠蔽して管理して欲しいと考えている。

ヨーロッパでもアメリカでも中道右派・中道左派と呼ばれる人たちはグローバリゼーション(自由貿易と移動の自由の確保)を支持しているという。しかしながら30%程度の人たちはこのグローバリゼーションには賛成していない。こうした人たちがトランプ政権などのポピュリズム(繰り返しになるがYouTubeの中では使われていない)の支持層になり民主主義を脅かす。日本は移民がおらず、自由貿易によって利益を享受している側なので移民に対する反発が広がりさえしなければこのルートから民主主義が崩壊することもなさそうである。

日本の民主主義はそれほどの危機にはない。だが民主主義の歴史の長いアメリカでさえ民主主義は常に崩壊するリスクを持っている。基本的人権がないがしろにされる時その危機は高まる。だが、問題になるのは一部のネトウヨと呼ばれる人たちではなく「政治的な意識をあまり持たない」人たちだがこうした感激思想に<感染>することだ。その意味では一部の不見識な議員やネトウヨの取り巻きたちの一挙手一投足に腹を立てて感情をすり減らすべきではない。このようなことは日常茶飯事で起きているが「もう疲れた」と一発逆転を狙った瞬間に瞬間に崩壊が始まるかもしれないからだ。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



政治の世界で「発言の撤回」が頻繁に起こるわけ

衆議院予算委員会の河村委員長が自身の発言を撤回した。首相が「集中審議は勘弁してくれ」と言われたらしいのだが、野党から攻撃されると一転して「そんなことは言わなかった」というのである。この人もまた「嘘をついている」と思うのだが、どうしてこのような嘘が蔓延するのか考えてみたい。これは「気の緩み」なのだろうか。

これについて考えているうちに、かつて日本人は恒常的に「管理された嘘」をついていたのだという考えにたどり着いた。ただし日本人はこれを嘘とは言わなかった。今になってなんらかの理由で嘘を管理できなくなっているのだろう。さらに西洋流の個人主義が間違って解釈されたことも原因になっているのではないかと思う。日本人はかなり特殊な集団制を生きていた。それが失われつつあるのかもしれない。

この言葉を考えてゆくと「政治にとって言葉は命である」という言葉も誤解されているということがわかる。言葉は命であるというと多くの人は「政治家は正直でなければならないのだな」と考えるが、本当にそうなのだろうか。

まず最初に個人主義について考える。ヨーロッパを起源とする文化はまず個人を考える。しかし階層構造がないわけではないし個人の欲求もぶつかることがある。そこで個人が協力するための様々な工夫が作られてきた。例えば個人主義のアメリカでは上司と部下はなんでも好きにいい合えると誤解している人は多い。しかし、アメリカで部下が上司に逆らえばクビになってしまう。アメリカ人は上司と部下の間が「フラットに見える」のを好むが、実際には上限関係があるからだ。

こうした文化の違いは、これまで紹介してきた異文化コミュニケーションの本にまとめられている。これまで「文化が衝突するとき」と「異文化理解力」という本をご紹介した。他にもホフステッドの指標などがありオンラインでも個人主義というのはどのようなものなのかを学ぶことができる。他の社会ついて学ぶことで日本人の集団主義が何を意味しているのかということも明示的に理解できるだろう。

日本ではアメリカ人のようにズバズバものをいうのがかっこいいという間違った個人主義理解が進んだ。このため集団の中の日本人が地位を利用して自分の意見を好き勝手に述べるというようなことが蔓延している。最近も大分選出の穴見議員が肺がんの患者の参考人に対して「いい加減にしろ」と恫喝したニュースが話題になった。規制の影響を受けるレストランチェーンの創業者一族であり分煙・禁煙を敵視しているのだが、のちに「喫煙者の権利を守りたかった」と釈明したそうだ。個人主義は自分の権利を守ると同時に相手の権利を尊重する主義のことなのだが、穴見さんは典型的な「甘やかされた日本人」でありこれが理解できなかったのだろう。だが、これが日本人にとって典型的な個人主義の理解であるのも確かである。多くの日本人にとって個人主義とはわがままな個人のことなのである。

しかしながら、これとは違った状況も見える。かつて日本人は本音と建前を使い分けていた。もともと個人の欲求などなかったことにして全てが自然と決まったと考えることを好んだ。これは集団と個人の間にマイルドな癒着があったからだ。だから欲求がぶつかるようなことは裏で根回しとして行い、表面上は「しゃんしゃん」と決めて表面上の和を大切にしてきた。こうして生まれたのが本音と建前である。みんなが気分良く過ごすためには建前が必要なのだが、それだけでは不満がたまる。そこで親密な仲間同士と甘えられる場所で本音をぶつけ合っていたのである。

政治にとって言葉は命であるというのは政治家が建前を管理する仕事だからだろう。日本で民主主義が崩れたなどという人がいるが、これは誤解だ。もともと日本の意思決定は最終的には儀式で終わる。この儀式の最新のファッションとして選ばれたのが民主主義なのだ。その意味では、日本の政治家は「建前の司祭」という帽子をかぶっていたことになる。つまり言葉というのはこの儀式に用いられる言葉のことだったのである。

ではなぜ河村さんは記者たちに「裏であったことを正直に語ってしまった」のでだろうか。河村さんは安倍首相と昵懇の仲であり「本音を打ち明けてもらえる仲間である」ということを見せびらかしたかったのではないだろうか。首相と仲良くなった人はみな首相との仲をほのめかしたがる。例えば籠池理事長がそうだったし、加計学園の渡辺理事長も県庁に行き「これは首相プロジェクトなのだ」と自慢していた。ところが彼らが地位の優越性をほのめかすと、それは「安倍首相はルールを作る側なので、多少の無茶はやってもいいのだ」という自慢になってしまう。実際に安倍首相はそのように行動していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

自民党はこの「儀式力」を失いつつある。これは裏を返せば安倍首相に「建前の司祭長」としての自覚がないからである。例えばいま立憲民主党が政権をとれば彼らは緊張して建前と本音を分離しようとするだろう。だが自民党は「一度失った政権を取り戻した」と考えており「多少のことは許されるようになった」と誤解しているのではないだろうか。だから「建前と本音」を分離して聖域を確保するという気持ちが薄くなってしまうのかもしれない。また、最初の政権では儀式性にとらわれて言いたいことも言えなかったという気持ちがありそれを取り戻したいということも考えらえる。なぜ「気が緩んでいるか」は多分本人たちに聞かなければわからない。

もちろん、政治家全体が西洋流の「説明責任」を学び民主主義を尊重するというアプローチも取れる。個人主義社会に出た日本人は問題なく個人主義の文化を学ぶことができるので「日本人には無理だ」とも思わない。だが、一人ひとりの議員を見ているととてもそのようなことはやってくれそうにない。意識が低いというか「ぼーっとして何も考えていない」ように見えてしまう。二世議員が多く「集団に守られている」という油断があるのだろう。その一方で、建前と本音を意地でも守り通す(つまり本気で民主主義ごっこをやる)気迫も感じられない。こうして嘘が蔓延しそのたびにマスコミが大騒ぎするという気風が生まれてしまった。

我々はかつて本音と建前という二重性を生きていた。しかし今では西洋流の民主主義や組織統治の上に本音と建前がかぶさる三重性を生きている。

国民が「政治家が嘘をついている」というとき何を求めるのだろうか。本物の民主主義国のように正直に意思決定プロセスを伝えて欲しいと思っているかもしれないのだが、これは同時に不都合な事実も受け止めるということを意味する。多くの人は不都合なことや醜いことは「そちらで処理して」きれいな結果だけを見せてくれと思っているのではないかと思う。つまり、政治家は嘘をついているという非難は、必ずしも「正直になってくれ」ということを言いたいのではなく、なぜもっと上手に嘘をついてくれないのかという非難なのかもしれない。

この文章を読んでくださる方にはぜひ、これからも「上手な嘘」のある社会を求めるのか、それとも正直な社会を求めるのかということを考えていただきたい。誰かに伝えるつもりならお化粧が必要だが、誰にもいう必要はないのでその分だけ正直になれるはずだ。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



「貧乏人はカップ麺を食べるからダメなんだ」について考える

先日来、リベラルの呪いについて考えている。今回は知らず知らずのうちに他人を呪う人について考える。ここから得られる教訓は二つだ。日本人は知らず知らずのうちに他人にフレームワークを被せてしまう。多分自分も含めてそこから逃れることはできない。そしてそれが他人だけではなく自分の行動を制約してしまうのである。これが「人を呪わば穴二つ」の意味である。

先日「貧乏人はカップ麺を食べるからダメ」というTweetが回ってきた。普通の日本人は日本人であるだけで「誰かに何かの意見を押し付けている」と思った方が良いんだなと思った。特に自分がリベラルだと考えている人は要注意である。無自覚に価値観を押し付けるのだが、他人から何かを押し付けるとことさらに怒り出す傾向にあるからである。思い込みが激しい人しかリベラルになれないのではないかと思えてしまう。

実際に「低所得の人ほど安価なものでお腹を膨らませたがる」という傾向はあるようで、一定の真実が含まれているのは確かである。しかし、これが中途半端に科学的なので、自分の思い込みを接ぎ木してしまうと結論を間違えてしまう。

このTweetは「カップラーメンは高い割に健康に良くないから和食を食べなければならない」と主張していた。その背景には「人間というのは和食を食べなければならない」という思い込みがあるようだ。実はこれがリベラルの人が嫌っている「日本人は夫婦同姓でなければならない」という思い込みと相似形になっているのだ。

具体的には米を炊けと言っている。「和食がよい」というのがその人の「聖書」になっており、それを主張する自分に酔っているのだろう。だが、なぜそれが呪いになるのか。

和食を成立させるためにはおかずをどこかから調達してくる必要がある。自分で作ると手間がかかり割高になるので「調理」という選択肢はない。この人は、当然スーパーかコンビニに行けばいくらでもおかずが調達できると考えているのだろうが実はこれが間違っている。

コンビニエンスストアは「いつでも一定のものが手に入る」という便利さを売っているので、ある程度の所得以上の人しか利用できない。割引サービスがないこともあり、年金暮らしの高齢者などはコンビニには行かない。

もちろんスーパーに行けばそれなりのおかずは購入できるだろうが、そもそも地方には徒歩圏内にスーパーがない場所がある。統計に出てくるわけではないし政治課題にもならないので、小型スーパーがなくなっているということに気がついていない人は多くないかもしれない。

人件費がかかる小型スーパーは斜陽産業になっている。代わりに台頭しているのが地域の大型店と簡便なミニスーパーだ。ミニスーパーは商品入れの作業を軽減したり陳列を簡素化したりして対応しているので生鮮食品が置けなくなる。つまり、生鮮食品を作って並べるということがそもそも「贅沢な行為」なのだ。

それでも「頑張って」安い値段でおかずを提供していた店はある。記憶に新しいのはポテトサラダを提供して食中毒を出してしまった北関東のスーパーだ。できるだけ手間をかけずにお惣菜をおこうとしたのだろう。このニュースのインパクトは凄まじかった。日本農業新聞によるとジャガイモの需要が減るほどの影響が出ているそうだ。

日経新聞のこの記事によると、去年食中毒を出したスーパーは全店閉鎖になってしまった。ブランドイメージが毀損したという理由のあるのだろうがそれだけではないだろう。手間のかかる上に収益の上がらない業態が成り立ちにくくなっているのではないかと思える。普通に見ているだけではこういうニュースの後追いには気がつきにくいだろうし「リベラルな自分」に酔っている人はなおさらであろう。

「手間がかかる惣菜」の代わりに安くなっているのが加工食品である。日持ちがするので無駄が少ない上に箱や缶に入っているので輸送費が安い。

それでもご飯食に拘ると保存食品かレトルト中心となり、塩分過多の問題が出てくる。もちろんインスタントラーメンも塩辛いのだが、漬物と味噌汁(そもそも味噌汁は贅沢品なのだが)でもつけようものなら塩分はインスタント食品よりも高くなるかもしれない。日本人はインスタントラーメンのような工業製品的な食品にはうるさいのだが、梅干しや漬物などの塩分はなぜか度外視してしまう。和食は体に良いという刷り込みがあるのではないだろうか。肥満と並んで高血圧も成人病の元になる。

お金もなく、買い物も頻繁にできないという条件下では加工食品にうまく依存しないと選択肢の少なさに苦しめられることになる。これが「呪い」になるのだ。加工食品ばかりという制約された条件ではこうした思い込みを解体して「必要な栄養をどうやって摂取するか」ということを考えなければならない。

調理が必要な「野菜」は贅沢品なので、野菜ジュース(これは1日分の野菜というようなものが100円以下で売られている)と炭水化物の組み合わせが「現実的な」ソリューションになる。もう少し贅沢すればビタミンを補うような補助食品も売られている。この<野菜>には繊維質が含まれていないので、健康に気をつけるならば小麦粉を使った菓子で補うことになる。こうした食事を「普通でまとも」と思える人は少ないのではないだろうか。

さらに一回あたりのカロリーが低いので三食も難しいかもしれない。つまり、こまめに食事をして空腹を防ぐことになる。実はこれは「ダイエット」の基礎になっている。

一番安いのは一番安いのは袋入りのラーメンである。ガスがないなら炊飯器で調理できる。次が安売りのインスタントラーメンだ。50円くらいの違いがあれば卵が二個足せる。日清のカップヌードルなどは廉売されないので「贅沢品」と言える。つまり「インスタント麺を同列で語る」時点でその人は「何にもわかっていない人」なのである。

ここからわかるのは、思い込みは他人と自分の選択肢を同時に狭めてしまう効果があるということだ。そしてそれを否定すると今度は慌ててそれを否定する情報を探してしまう。実はサヨク・ネトウヨ対立にはこうした呪いが満ちている。

もちろん「何も知らずに上から目線で貧困について自分の意見を押し付けてくる人」を非難するつもりはない。なぜならば自分もやっているからである。だが、知らないのなら当事者を否定するのではなくまず何が起きているのかを実際に聞いてみるべきだと思う。だが、意外と「自分は知らない」ということもわからないので、少なくとも情報が取得できるように対話の窓は開けておくべきかもしれないと、自戒を込めて思う。

その一方で具体的に社会問題を考えてみることで様々なニュースが面白く読み取れることもわかる。思い込みを捨てた方がいろいろなことがわかるのではないだろうか。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement