日本人の中流意識 – 転落の恐怖と戦いながらつく嘘

安倍政権が嘘をつき続けているのだが野党の支持率は伸びない。これを説明するために「世論調査が操作されている」などという人たちがいる。この説明には無理があるが、認知的な不協和というか居心地の悪さを感じる気持ちはよくわかる。

この認知的な不協和の理由をいろいろと考えてみた。安倍政権が支持されるもっとも多い理由は「他に適当な政権が見当たらないから」であり、一方不支持の理由は「安倍首相が嫌いだから」らしい。このことから日本人が政策ではなく好き嫌いで政権を選んでいるということと、野党に支持が集まっていないことがわかる。

さらに、実際に実名で記事を書いてみると「政権を悪く言う」と支持が集まりにくいという経験がある。このことから<オモテ>では政権や現体制を承認することの方が「普通の態度」と認識されていることがわかる。このブログで反政権的な言論が許されるのはこれが<ウラ>だからだろう。そもそも<ウラ>に何かを書き続けるというのは普通の態度ではない。

安倍政権を叩くニュースは少なくとも<オモテ>で普通の人が見るワイドショーでは飽きられつつあるようだ。ワイドショーが今盛んに扱っているニュースは日大のアメフト問題である。ワイドショーでは内田前監督がしきりに叩かれている。識者が専門的立場から内田前監督を叩き、それを普通の人代表の芸能人が追認するというのが基本フォーマットである。アメリカでは昼間から討論番組をやっていて、個人が意見を戦わせたり勇気ある発言を誉めたたえるのが普通の態度なのだが、日本のワイドショーは普通の人が普通でない人を叩くのが普通お態度であるということがわかる。だが目的はムラから普通でない人を追い落とすことにあるので、叩いても転落しないとなると飽きてしまうのである。

普通の人は体制を承認すべきなのだが、普通の人たちが叩き始めると一転して「首相降ろし」の風に変わる。それを感知した議員たちが騒ぎ始めて内部で総裁が変わるという仕組みになっている。しかし、今回はまだこのような状況にはなっていないようだ。そのうち「少しくらい嘘をついたり友達に口利きしても、贈収賄にならなければいいのだ」という新しいスタンダードが導入されてしまった。もちろん風向きが変われば普通の人たちも安倍首相を叩き始めるだろうが、それまで日本人は口利きやごまかしのある社会を生きてゆくことになった。我々が集中して叩ける素材は限られているので、嘘や不公平が社会に蔓延することになるだろう。

そもそも「普通」とはどんな人たちなのだろうか。興味があって調べてみた。

日本では昔から90%の人が自分は中流であると答えるそうだ。しかし、実際に所得をみると多くの人たちが「下流」に転落しつつある。日本人は中流から脱落しかけている人が多いのだが、それを認められない社会と言える。(もう「下流」なのに「中流」だと言い張る日本人!ー誤った「中流意識」が社会の発展を阻害する!?ー)だが、ここで聞き方を変えて「生活は苦しいか」と聞くと多くの人が「生活は苦しい」と答えるということだ。(もはや日本の「中流」は全体の3分の1

つまり、多くの人が薄々自分は中流ではないとわかっているにもかかわらず、それを認めたがらない社会が出来上がっていると言える。現在では中流の大体の目安であった年収600万円を維持している家庭は少ないそうだ。ところが社会全体が縮小しているためにスタンダードを下げて、かつての下流的な暮らしを「普通だ」と認識しなおすことで現実から目を背けている。さらに全体が地盤沈下しているために自分たちが下流に転落したことがわかりにくい東京に住んでいる一部の人たち以外は転落に気づきにくい。。東京には格差がある。実際に成長している区域があり、ここでは格差が広がっている。

日本人は自分たちが中流から脱落しかけているということを知っていて、それを認めたくない。いったん「普通でない」というレッテルを貼られるといじめて叩いても構わないという社会なので普通から「転落する」のが怖いからである。小学校の段階で「普通学級」にいない生徒はいじめられるし、ワイドショーでも毎日のように普通叩きが行われている。

これまで安倍政権下でなぜ嘘が蔓延するのかということを考え、無理めのゲームに勝ち続けるために嘘をつき続けているのだと結論付けた。確かにそれはその通りなのだが、その背景には「中流から堕ちてゆくのだけどそれを認められない」という有権者たちがいるように思えてならない。その意味では安倍政権は最初から嘘に支えられた政権であり、嘘をついているのは実は政権ではなく有権者である。

日本人は自信を失っており自分たちが状況を変えられるとは思っていない。しかし、下流に転落することは怖いので自分たちは体制側にいるという仮想的な帰属感覚だけを頼りに誰かをアウトカーストに認定して叩いているように思える。もはや普通だという確信が持てない状態では普通から転落した人を叩いているときだけ社会との一体感が得られる。上流にも登れないし中流にいるという確信も持てない。下を見ているときだけ満足感が得られるという社会なのである。

普通から逃れることでより良い社会が作れるかもしれない。かつての日本にはそう考える人がいた。だからこそ勇気を持って「ダメなことはダメなのだ」と言えたのである。しかし、多くの人が転落を予想するようになると、上を目指すのは限られた一部の人たちの特権であると考える人が多くなる。社会変革的な動きが止まってしまったのにはこのような原因もあるのだろう。その証拠に人権について語る場合でも「今あるものがなくなる」ことを恐れる人は多いが、新しい権利を獲得したいと主張する人はほとんどいない。

誰もが普通でいたい社会において、政権を支持することが普通なので、その政権が不正を働いたということはあってはならない。もし不正があったとすると自分たちは偽物の政府を信仰していたということになる。だったら不正はなかったことにしたほうがいいし、欺瞞は見なかったことにしたい。かといって「嘘を容認しますか」と新聞社から聞かれれば、それは道徳に反すると思ってしまう。こう考えると今の世論調査は整合的に解釈できる。

嘘は嘘なのでそのうちに行き詰まるのだろうが、今後どのような展開をたどるのか予測ができないところではあるが、その間にも社会は着実に壊れてゆくように思える。

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安倍首相の嘘を懲らしめるためには野党はどう動くべきか

今回は交渉をテーマに書くのだが、ちょっと気が進まない。自分自身は交渉ごとが下手で「話し合うくらいならもう関係を維持できなくてもいいや」などと思ってしまうからである。戦略を立てるのが得意ではないのでゲームも苦手である。そんな人が交渉について書くのであまり説得力はない。

今回テーマは森友・加計学園問題の追求なのだが、なぜ「交渉」がテーマになるのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれない。実は野党は有権者との交渉に望んでいるのだが、振り向いてもらえないために代わりに首相を追求している。これが森友・加計問題が進展しない理由なのである。

野党は「首相の関与を認めさせる」ゲームをしているが、これは実は彼らが求める結果には繋がらない。これが唯一にして最大の失敗の原因だ。しかも、最初から着地点がバレているのでうまく攻められないのである。


加計学園の問題と日大のアメフト部の問題を絡めて考えている。「そのままでは勝てそうにないという見込みがあると反倫理的行為が蔓延する」共通点があるとQUORAに書いたところ「アメフトが反倫理的だというのはわかるが、安倍首相が反倫理的だというのはなぜか」というコメントが入った。

この疑問に答えるために、公平性に注意しながらかなり長い文章を書いた。内部の人たちにとっては正義のための戦いであっても外の人がどう思うかはわからないという筋である。公平性を担保しないと「反政府側に偏っている」と思われて支持が得られなくなるというところに今の政治議論の難しさがある。日本人は集団の規則に従わない人をかなり嫌うのだと思った。

誰がどう考えても、あったものをなかったと言ったり、文書をごまかすことはよくないことだ。それでもニュートラルさを装わないと納得してもらえない。アメフトだと気軽に「嘘だ」と言えるわけだから、やはり権力に対する遠慮があるのだろう。「明らかな嘘」があっても、実は野党というのは最初からかなり不利な立場にある。

このことからわかるのは「国会」というステージで首相の嘘を暴くのは難しいということである。

野党の人たちは「首相が嘘をついているということが知られていないから不支持が広がらないのだ」と考えているようだ。そこで執拗に安倍首相に様々な攻撃をしかけている。しかし、すでに国民は安倍首相が正直であることに何の期待も持っていない。野党に政権を渡してしまうと「また大変なことになる」と思う人が多く、さらに普通の人は体制側に疑問を持ってはならないというマインドセットがあるので、野党の追求には支持が集まらないのだろう。

政権側は撤退ゲームを行っている。つまりあるボーダーラインを決めて<事実>を組み立てている。今回は財務省と愛媛県から新しい文書が出てきたことが問題になっているのだが「本筋には影響がなかった」と言い張るつもりのようだ。何か隠したいから文書を隠蔽したわけで、これはおかしな言い訳である。ゴールポーストは動いていて「明確な証拠がない限りごまかし通す」ということになっているので、いくら攻撃しても得点につながらないのだ。

野党側は安倍政権が作ったルールと安倍首相が置いたゴールの元でゲームを行っている。フィールドも敵地(アウェイ)である。これでは勝てそうにない。つまり、野党が勝つためには彼らが得意なゲームを設計しなければならないのである。

与党側も撤退戦なのだが、実は野党側も不毛な「言った言わない」でしか政権を追い落とすことができないと思い込まされている。追い詰めても相手は「ご飯戦法」で議論をすり替え、ゴールも動かす。そうして「絶対に勝てない戦い」を強いられている。

では、こうした状態を解決するにはどうしたらいいのだろうか。何か参考にできるものはないかと考えたところ北朝鮮とアメリカの「ディール」が思い浮かんだ。ディールは、あらゆる機会を捉えてゲームを作り出すところにその妙味がある。

トランプ大統領と金正恩委員長の間での交渉は決裂したとも言われており、実際に会談が実現したとしても非核化は難しいだろうと予想されている。日本人からみると「トランプ大統領は負けた」と思われても仕方がないゲームである。だが、これは日本人が最初から高めのゴールを設定して、そこに到達しなければ負けだと認識してしまうからである。

だが、実はトランプ大統領は負けていないという観測がある。トランプ大統領の目的は北朝鮮がアメリカに攻撃できないようにすることであるという。北朝鮮も核兵器の保持を既成事実化すればよい。つまり、交渉を始めて「ICBMさえ放棄させてしまえば」北朝鮮とアメリカにとってはWin-Winなのだ。文在寅大統領にとっても北朝鮮との間にパイプができれば独自に経済交渉などができるし、核兵器を持っていたとしても突発的な攻撃も防げる。これもいわばWin-Winである。つまり、彼らは意図的に衝突なりコンタクトを起こして「ディール」を作ることで何かをゲインするという方法をとっている。

と、同時に実際のどの程度のことを獲得できればいいのかということは最初から明かさないし、そもそも手持ちのカードを最初から全て見せるようなことはしない。だから相手もゴールを動かしてゲームを撹乱することができない。

実は野党の中でこの戦略をとっている政党が一つだけある。それが共産党だ。共産党は時々新しいデータや文書を出してくる。多分内部に協力者がいるのだろう。だが、それは表に出さない。会議の場で新しい情報が出たから、もう少し慎重に審議をしなければなりませんねといって相手を追い詰めて行く。彼らは完全にゲームを掌握しているわけでもないが、すべての手の内を見せているわけではない。共産党がこうしたゲームができるのは共産党を信頼している人が館長の内部にいるからだろう。彼らは彼らが得意なゲームを戦っていることになる。

この戦法をとるのであれば「最終ゴール」である安倍首相への攻撃はやめた方が良いと思う。それよりも周りにいる人たちを避難して相手に高めのゴールを吹きかけた方が良い。例えば加計学園や財務省など攻撃できる人たちはたくさんいるし、さらに言えば国会ではなく法廷闘争でも構わない。国会であれば安倍首相に守ってもらえるという人でも、別のステージで「守られないかもしれない」と思えば心理的な揺さぶりができるし、中には口を破る人も出てくるだろう。そこで、おもむろに本来の目的を遂行すればよい。

さらにテレビを通じて論戦をすることもできる。スタジオに与党議員を呼んで安倍首相の無茶な理論を繰り返し説明させれば良い。これを証明できないと「自民党の議員の質が問われる」とすればよいのである。そのうちネトウヨ議員が出てきて人権を無視するコメントなどを出してくれれば「追加ボーナス」だ。安倍首相の人格ではなく、自民党議員一般の資質を問題にすれば良いのだ。

さらに、獣医師会をいじめるというゲームも考えられる。加計学園で獣医学部は需要があるということがわかったのだし、新潟と京都はやりたいと言っているのだから総理の強いリーダーシップのもとでこの二校も作ってやればよい。すると獣医師会は慌てるだろう。そこで「加計学園は特別なのか」と言えばよい。

日本人がこうした交渉をやりたがらないのは「そうまでして勝ちたくない」と思う上に同質性が高く「政治というのはこうやって行うべきだ」という同意と思い込みが強いからだろう。しかしルールを設定して戦うことは「ルール無視の無法」とは違っている。ぜひ積極的に勝てるゲームを作るべきなのではないかと思う。

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加計学園問題 – 嘘が嘘を呼ぶ

2015年4月2日に会議があったかなかったかで大騒ぎになっているのだが、あまりにも細かすぎていったい何が問題になっているのかがさっぱりわからなくなってしまった。加計学園は継続開削の対象なのでそれなりに追いかけているつもりだが、それでもしばらく目を離していると何が起こっているのかがわからなくなってしまう。今回の騒ぎの原因は首相が2017年1月21日まで「知り得る立場にいたのだが知らなかった」と言ったことが「嘘だったのではないか」ということが問題になっているようだ。これが嘘だとすると安倍首相と加計理事長の間に収賄の容疑が生じるとのことである。

この件は幾重にも「嘘」が積み重なってできているのだが、国民の間にはすでに一定の「真実」ができあがっているように思える。みんなが何を思っているかということが真実なのであって、実際に何があったのかというのはそれほど重要ではない。だがこれを言葉にしてみることは実は重要だ。意外と曖昧さが残っているのである。

加計学園の理事長と首相は昵懇の中である。同時に、加計学園は今治市との間で新しい学校を作りたいという計画もあった。しかし、関係省庁が反対し石破大臣も越えられそうにないハードルを設置したので首相に口利きを依頼した。首相は柳瀬秘書官を使って省庁に圧力をかけると形勢が逆転し、加計学園は獣医学部を作る事に成功した。

ところが、曖昧さも残る。加計学園がいつ獣医学部を作ろうと決めたのかはよくわからない。また最初に加計学園が今治市に話を持ちかけたのか、それとも安倍首相が積極的に制度を作って加計学園を応援したのかもわからない。また選定過程にも曖昧さがある。つまり、今治市が加計学園と政府を仲介したのか、それとも加計学園が今治市と政府を仲介したのかがよくわからないのである。

うろ覚えの知識では、戦略特区制度では地方自治体が事業者を選んで選定が進むことになっていたと思うのだが、調べてみるとこれについて明確に書いている資料は意外と少ない。国家戦略特別区域会議というものを開催するらしいのだが、これの主催者が誰なのかがよくわからないのである。

別の知識では首相が強いリーダーシップを発揮して岩盤規制を打ち破ることになっているのだが、首相がどこで力強いリーダーシップを発揮したのかはよくわからない。そもそもなぜ首相が力強いリーダーシップを発揮しなければ物事が進まないのかもわからない。

さらに同じ業種の戦略特区をいくつ作るのかということもよくわからない。今回は京都と新潟が落とされたようだということになっているが、この特区は地域を決めてから事業者を選ぶようになっているとすると新潟と京都は今治の件には関係なく特区を立ち上げればよい。今治プロジェクトが走っている間は新潟は同じようなプロジェクト提案をしてはいけないというルールはないはずだ。なぜ首相が力強いリーダーシップを発揮する特区制度をブロックするために別の大臣の作った基準が発動しうるのだろうか。考えてみると、なんらかの裏事情の想定を使って追加説明を加えないと特区制度そのものがうまく説明できないのだ。

つまり「あるべき姿」が何だったのかがよくわからなくなっており、従って何が嘘なのかもよくわからないという状態になっている。だが、攻撃する方もされる方もあまりそのことには興味がないようで、しきりに誰が嘘をついたとか嘘をついていないとか言い合っている。有権者も「嘘つき探しゲーム」に熱中しているようだ。

いずれにせよその意味では官邸が嘘を吐き続けるのは実は当然だ。ゴールは「加計学園の今治プロジェクトは決まり通りに行われた」ということを証明することなのだが、その途中で曖昧な意思決定が行われている。そこでそれに合わせてつじつまを合わせようとしているうちに誰もが大混乱に陥っている。するとどこかが整合しなくなる。この場合切り捨てられるのは中央から遠い人たちなので、彼らが文章を持ち出して「自分たちは正しい報告をした」と言いだして騒ぎが大きくなり、もはや収集がつかない状態だ。

この原因になっているのは首相の「力強いリーダーシップ」という嘘である。首相のリーダーシップがどのように発揮されたのかがよくわからないので。首相秘書官の関与もよくわからなくなっている。誰もが首相は日本で一番偉い人だからなんとかしてくれるのだろうと思っているのだが、実は何もしていないし監督もしていないということがわかってしまった。

加計理事長は2015年2月25日に加計学園理事長と安倍首相が会ったというのが記憶違いだったといっている。これは少なくとも加計学園が事業主体であり国も関与していると主張していることになる。関係としては「国」→「加計学園」→「地方自治体」である。柳瀬秘書官の説明でも「国」→「加計学園」→「地方自治体」ということになっている。加計学園が連れてきた専門家が「新しい獣医学部」について熱心に語ったことになっており、地方自治体はいたのかいなかったのかよくわからなかったことになっているからである。だが、実際には国は地域を設定してから事業者を決めることになっているはずである。いったいどっちが正しいあり方だったのだろう。

加計学園は今治市に96億円の支援を要請している。この支援自体は学校が認可されたら行われるということなので県や市の説明責任には直ちに影響はない。しかしながら実際には工事は先行して行われておりそのためにはお金が必要だったはずだ。加計学園が自己資金ですべての工事費用を調達できているのなら問題はないわけだが、加計学園には借金があり銀行からお金を借りていたはずである。つまり「まだ認可されるかはわからない事業」が担保になってお金を借りていたことになる。首相の関与には担保価値があるのである。すると「首相がいいねと言っていた」と誰かがほのめかしていたとしたら、その人は詐欺行為を働いていた可能性が高い。理事長がこれを主導していたとしたらこれは学校ぐるみの詐欺行為だし、別の人が主導していたとしたら加計理事長は使用者としてこの人を特定して告発する責任がある。

プロセス通りに許認可をしていたとしたら開学は間に合わなかったはずだ。すでに提案が間に合わないといって降りた学校があることがわかっている上に、認可が降りるかどうかまだわからない状態で借金もしなければならない。このような提案ができる事業主体はない。

もともと、戦略特区は外国に対する利益供与として設定されたという話がある。日本市場は監督官庁の既得権保護のために閉鎖的な空間になっている。アメリカが自分の国のルールで事業を展開しようとした時省庁の関与が邪魔になる。そこで首相が関与して省庁の既得権を排除しようとしているというのである。外国への利益供与のために国内産業が犠牲になることを一般に「売国」という。

嘘の追求はそれなりに続けていただいても構わないと思うのだが、野党になるのか後継の自民党の首相でも構わないのだが、この制度の問題を洗い出して問題点を国民に説明すべきだろう。背景にある問題は首相の「お友達の要求を叶えていい格好がしたい」という首相のわがままだ。ただ、実際にプロジェクトを進めようとすると臆病になってしまう上に、お友達が何をやりたがっているのかを理解しようという気持ちもないので、状況が大混乱する。この制度を温存している限り同じようなことが度々繰り返されることになるだろう。

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護憲派はアメリカの元での戦争を容認しているという説

今日はこのTweetを肴に「護憲派はアメリカの元で戦争に協力している」という主張をします。次回護憲派の人に会ったら、ぜひ教えてあげてほしいと思います。批判をすると対案を出せと言われるので対案も考えて最後に掲載してあります。「これは気に入らない」という方も多いと思うので、みなさんの考える憲法第9条草案を出してみませんか?コメント欄で募集しております。コメントにはDisqusのアカウントが必要です。

ということで英文に当たってみました。

Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce(放棄する) war as a sovereign right(国家主権)of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state (国家が交戦する権利)will not be recognized(認識しない).

日本語では戦争放棄ということになっていますが、原文には「国家主権(a soverign right)としての戦争を放棄」と書いてあります。これを主権を保持したまま戦争を自主的に放棄しているとは読めません。主権の一部を諦めて誰かに委ねるという意味になります。そのために、陸海空軍やその他の武力も持たないし、交戦する権利も認められないとしてあります。ただし放棄する主権は国際紛争を解決する手段であり、自衛についての言及はありません。

さて、これを厳密に解釈すると、日本は主権国家として、国際紛争を解決する戦争はできないが、自衛についてはよくわからないということになります。

しかし、この憲法ができた当時にはそのことを心配することはありませんでした。なぜならばそもそも日本は主権国家ではなくアメリカが日本の防衛を担当していたからです。

もっともアメリカは日本に対して「憲法を金輪際変えてはいけない」などとは言っていません。むしろ「状況が変わったら」自分たちで憲法を変えるだろうと思っていたかもしれません。日本が独立した以降の憲法改正は国家主権に関わることなので、アメリカが指示することはできません。しかし、なぜか日本人は独立しても憲法を変えるという主張はしませんでした。

この経緯から、この状況で護憲を貫くことは、被占領下の状況をそのまま受け入れるということになります。「国家主権としての軍隊は持てないのだから、指令系統を占領時の状態に戻してアメリカのスーパビジョンのもとで自衛網を整備するべきだ」としなければなりません。護憲派は解釈による集団的自衛件の行使を認めていないのですから、解釈によって日本国民が自衛について決まりを持たず、国際紛争時の軍事について国家主権を放棄していることを都合よく決めることはできません。

日本は戦争種する主権を持たないということは、誰かが日本の代わりにそれを決める可能性があるということを意味しています。戦後の経緯からそれはアメリカであることは明白です。米軍を日本から追い出してしまえば関係は切れるかもしれませんが、依然米軍は日本に駐留していますし、朝鮮戦争の後方支援部隊が日本に存在します。この点で日本は継続する戦争の当事国です。

日本国民は主権者なので国家主権を首相に移譲できますが「持っていない権利」を主張することも行使することもできません。それを持っている主体は必ずしも明確ではないのですが、占領下の状況を引き継いでいると考えると「アメリカが戦争をすると決めたら日本も参加するのだ」ということになり、それを禁止する条項も原文にはないということになります。

もし自衛隊がなければ戦闘行為を行う主体がないので従う必要はないですが、自衛隊は他国を攻撃する能力を持っているので、軍事行動も可能です。しかし、日本はそれを主体的に動かす権利を放棄しているか決めていないのです。

伊勢崎さんのTweetの狙いは「独立を回復したのだから主権を回復しなければならない」ということだと思うのですが、防衛や国のあり方に関心がない国民は意外と今の現実をすんなりと受け入れてしまうのではないかと思います。国民的な視点で日本的な憲法第9条を考えると次のようなものになると思うのですが、ご賛同いただけるものかどうか、確信は持てません。みなさんのご意見はいかがですか。

 

あの第二次世界大戦はひどいものだった。しかし、責任の所在が曖昧なので、誰がどうしてこんなことを引き起こしたのかわからない。そこで、国際問題を解決する手段としての戦争のような面倒なことは主権国家としては一切考えない。また、よその国が攻めてくるなどと考えると言霊が働き現実のものになってしまうからそれも考えないことにする。
軍隊やそれに似たものを持つと戦争したくなってしまうから、そういう面倒なものは今後一切持たない。
幸運なことに日本を守ってやると言ってくれている奇特な国があるので、ご機嫌を損ねないようにしながらその好意に頼ることにする。なにぶん大きな国なのでよその国が攻めてくることもないだろう。ご機嫌を損ねると面倒なので、とりあえず必要な人とお金はできる限り出してやることにするし、責任を取らされないことが保障されるなら海外にも出かけて行く。国際的なお付き合いも大切だからである。

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元号システムの崩壊は政府の統治能力の崩壊である

まもなく平成が終わるのだが、政府の内部で元号が切り替えられないという問題が起きているようだ。朝日新聞が伝えた記事が広まっており「もう平成のままでいいよ」とか「このまま元号を使うのをやめてはどうか」などという意見が出ている。これほどまでに嫌われながらも廃止の議論がでないという稀有な仕組みと言える。

ただ、その一方でもう一つの問題が見過ごされている。それはコンピュータインフラの老朽化である。文書管理ができないということを意味している。日本の伝統ではこれは統治の完全な失敗を意味している。

元号を管理するということは歴史を管理するということだ。日本が中国の暦から切り離されて独自の暦を持つというのは中華圏からの離脱を意味している。最初の元号は大化で645年のことだそうである。そしてその暦を元にして文書を管理するということで、日本という文明・文化圏を天皇が支配しているという自己認識が作られていった。その後、天皇の地位は相対的に低下するが、官位の権威付けと時間の支配について挑戦する権力者は現れなかった。今回の政府は「それができません」と言っているのだ。

朝日新聞は「コンピュータシステムの利用が広がっており影響が予測できないため」という曖昧な結論に落とし込んでいる。コンピュータに詳しくない人は「プログラムって大変なんだろうなあ」くらいにしか思わないのだろうが、ちょっと詳しい人は「そもそも日付を変更する必要などないはずだ」と考えている。そこに疑問が生まれるはずだから、書いている人はあまりコンピュータに詳しくないのだろう。

最近のコンピュータは日付を秒で管理している。例えばUNIXでは1970年1月1日からの秒数を数えており2038年までは正しく日付を計算できるそうである。2038年には問題が起こるのだが、システム全体が影響を受けるのでベンダーでなんらかの処理をするのだろう。これを「日付型」と呼び、通常の数字ではない。

最初この話を聞いたときは内部キーを西暦にすれば良いのではないかと思ったのだが、実際には日付型を使っていればこうした問題は起こりえない。そこでコンピュータに詳しい人は「役所がサボっているのだろう」と思うのだろう。

ところがバブル期にコンピュータを学んだ人はうっすらと「昔は日付型なんか習わなかったなあ」という記憶を持っているのではないかと思う。かつては日付型というデータの持ち方はなく例えばCOBOLなどではテキストで管理するのが一般的だった。コンピュータに詳しくない人にはわかりにくいが、これはExcelで書式化された文書をワープロで置き換えるようなものだ。

しかし、現役のプログラマは「COBOLのような古いシステムが残っているはずがない」と認識する。COBOLはかなり古びた帳票管理システムであり、もう新しい言語に完全に入れ替わっていてもよいはずのものである。つまり「今時ワープロで文書管理している人などいないだろう」というようなものなのだ。だが「日付が切り替えられない」という問題の裏にはCOBOLを含むレガシーシステムの存在があるのではないかと思われる。

ここから浮かび上がる問題は、そもそもレガシーシステムがどれくらい広がっているかという調査がなく、問題のそのものも認識されていないということだろう。新聞記者さえ疑問に思わないのだから不勉強で情報を報道に頼っている政治家が問題を認知するはずはない。

COBOLのようなレガシーシステムが残っているかもしれないというということは、サポートするハードウェアと技術者が入手できないという問題に直結する。つまり、変更そのものができない可能性があるのだ。全てをリプレイスすることは可能なのだろうが、そもそもどれくらい広がっているのかがわからない。

さらに、厚生労働省はコンピュータシステムが苦手だ。消えた年金記録問題の時には「誕生日が明確でないので丸めた」結果誕生日が曖昧になったり、漢字を一括してカナに置き換えた挙句、その仕様をなくしてしまったという問題を起こした。ASCIIに当時の問題点が列挙されているのだが、原因はいくつかある。

  1. 社会保険庁に担当者がおらず、調整権限のないSIerが代わりにシステム担当者として機能していた。
  2. 業務にもコンピュータシステムに載せられない問題があった。例えば重複する年金手帳番号があったようでキーにできなかった。しかし、SIerはこれを調整できないので目をつぶったままシステムを作ってしまった。
  3. さらにデータにも問題があることがわかったが、後にはひけないのでスケジュール通りに作業を調整し、予想通りに失敗した。

さらに「厚生労働省はコンピュータが扱えないだろうから」という理由で総務省にやらせた結果「監督しているSIerを悪く描かれては構わない」ということになり、うやむやな報告書が作られたようだ。記事には(笑)と書かれているが笑い事ではない。

芳賀氏:おそらくね、これは本来厚労省の主管なんです。ところが社会保険庁は厚労省ですから、厚労省に検証をやらせては、身内に甘くなってだめだろうっていうんで、総務省がやったんです。そうするとたしかに社会保険庁に対しては厳しくなった、その代わりSIrに甘くなった。総務省の身内ですから(笑)。

セクショナリズムが蔓延する状態を安倍政権は改善できないだろう。強引な官邸主導で省庁間のバランスが崩れており「協力して作業する」ようなリーダーシップを発揮できないからだ。さらに首相は難しいことを部下に丸投げしてしまう悪癖があり、問題が起これば省庁間の指の差し合いや「資料の発掘」によるリーク合戦が起こる可能性もある。

そこで無理に本番を実行してしまうと、また消えた年金問題と同じようなことが起こるかもしれないので、最終的なゴーサインが出せなくなれば永久に平成が使い続けられることになるだろう。

実は朝日新聞が「コンピュターシステムが社会に広まっているので」という政府の言い分をそのまま垂れ流していることも問題である。政治部の新聞記者は霞ヶ関のゴタゴタした人間関係には詳しくても、コンピュータの難しいことはわからない可能性が高い。

モリカケ問題ばかりをやっているべきではないという気持ちもわかるのだが、実際にはこの問題を清算しないと次に進めない。しかし安倍首相と周囲の人たちはそもそも何が問題なのかよくわかっていないようだ。さらにはコンピュータシステムのカレンダーの切り替えができないのに「電子決済システムを使って意思決定過程を透明化する」などと言っている。ここまでくるとうわ言のように鹿思えない。

このままでは、平成は永久に使い続けられるかもしれない。しかしその背後にある本当の問題はコンピュータシステムをまともに扱えないという官僚システムの崩壊であり、これは官僚が文字を書けなくなっているのと同じような意味合いを持っている。調整どころか事務処理もまともにできなくなっているのだ。

元号システムの目的は政府機関が文書管理につかう暦を支配することで民を統治するという点にある。実は日本が持っていたこの統治の仕組みそのものが崩壊の危機を迎えていると言える。

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マレーシアから考える「モリカケ問題くらいでガタガタ騒ぐな」に一定の説得力がある理由

森友加計学園問題で大騒ぎが起きているのだが「そんなことよりもっと大切な問題があるだろう」という人がいる。これは、たいていは民主主義が何なのかよく理解できてきない人たちの戯言である。民主主義の公平性を担保するためには「透明性の高い説明」が欠かないのだが、安倍政権はこれを理解していない。このために世論の反発を受けて「政治の信頼性が低下」しているのだ。

だが、アジアの他の国と比べると「モリカケ問題」はそれほど大した問題ではないとも言える。加計学園の問題はたかだが獣医学部を一校作るためだけにビクビクと怯えながら法的な整合性を持たせようとしたという事例に過ぎない。最初は岩盤規制を打破すると大見得を切っていたようだが途中で横槍が入り「じゃあ、一校だけなら勘弁してもらえるかも」と軌道修正を図った経緯がある。このため却って「加計学園だけが優遇されたのでは」と問題になっている。やるなら堂々とやれば良かったとも言える。

実はアジアにはもっとおおっぴらな汚職が起きている国がある。例えば最近マレーシアで政権交代が起きた。背後には数年にわたって解明されなかったナジブ首相の汚職疑惑であるという。早速ナジブ首相夫妻の出国が禁止された。

マレーシアは複数のスルタン国からなる立憲君主制の国だが選挙制王政であり王様には実質的な権限がない。ナジブ首相は父親も首相という二世であり、7億ドルを口座に振り込ませた収賄容疑がかけられているとのことである。日本とは大胆さが違う。

しかし長い間マレーシアはこの問題を民主的に解決することはできなかった。野党がまとまらず与党には自浄作用がなかったという分析もある。最終的には与党から出た90歳を越えるリーダーが登場せざるをえなくなった。民主的に選ばれたリーダーとしては最高齢だという話もある。

それでも、ナジブ首相は政権交代を阻止するためにありとあらゆることをやったようだ。選挙区の区割りを変えてみたり野党を活動停止にするなどというようなやり方には「なりふり構わない」という表現がぴったりだ。

マレーシアは権力者が権力者として振る舞うことが社会的に許容されている社会である。韓国も上下関係が厳しそうだが、数値を見る限りでは韓国のパワーディスタンスがかわいく見える。リーダーシップへの挑戦はないということなので、汚職に対する自浄作用も働きにくいのではないだろうか。さらにその権勢の誇り方もおおっぴらで、おくさんはかなり嫌われていたとの情報もある。

いったん権力が不正に手を染めると取り返しがつかなくなる。こうしたことは韓国でも見られた。優遇措置を求める人たちが大統領を頼ってくると断りきれなくなってしまうのだろう。最終的には法の制限を超えてしまい、政権交代が起きて断罪されるということが繰り返されている。

日本でここまでおおっぴらな汚職や身贔屓が起こらないのはなぜだろうか。それは「民主主義が徹底されているからだ」と言いたいのだがそうではなさそうだ。

Twitterなどの批判を見ても民主主義の契約理念に基づいた批判は少ない。代わりに「ずるい」とか「汚い」という感情の方が強いことがわかる、このように日本人は誰か一人が優遇されるのを極端に嫌う社会である。縁故は好きなのだが「身分保障」という意味合いが強い。昔から知っている人は滅多なことはしないだろうし、何かあっても身内の目があるから自粛するだろうと期待するのだろう。この縁故を使って「おいしい思い」をしようとすると途端に断罪されてしまう。

もう一つの特徴が集団による牽制である。今回は通産省が内閣府を独占したことが問題の発端になっているのだが、首相が落ち目になるといろいろな省庁や地方から政権にとって不都合な情報が出てきた。彼らはこうした情報を普段から蓄積しており「出しどころ」を見計らっていたものと思われる。つまり倫理観から闘争しているのではなく集団の競い合いの一環なのだろう。その裏には既得権をめぐる経済的な理由もあるのだろうが、それよりも大きいのが「通産省ばかりが優遇されていてずるい」という心理的な反発だろう。

このことから、日本社会が実は民主主義ではなくまた別の原理でその健全さを保っているということがわかる。

安倍首相が間違えた点は民主主義を理解しなかったことではなく、お互いのことは干渉せず仲良くやって行こうやという日本的な村意識を毀損したことである。これをあまりにもおおっぴらにやってしまったので、揺り戻しが起きているわけだ。そしてそれが結果的に大胆な不正を防いでいるということになる。つまり日本は個人間の契約や倫理観ではなく、集団による均衡が権力の増長を防止する社会であり、それは「あの人たちばかりがトクをしてずるい」という生理的な嫌悪感に裏打ちされている。

みんなで仲良くお互いを干渉しないでうまくやっていこうやという気質はどうやって生まれたのだろうか。

ここで一つ着目したいのが人種や地域差別の少なさである。マレーシアは多民族国家なのだがマレー人優遇が徹底されているようである。しかし経済的な実験を持っているのは中華系であり、今回の汚職にも中華系のジョー・ローという富豪の関与が囁かれている。人工的にバランスをとっているので歪みが強制できないのだろう。

前回、韓国の保革対立の裏には南東部の差別があるということを学んだ。身内の票を固めるためにもともとあった差別感情を利用しており、それが解消されずに大きく育ってしまったということになる。

つまり国内が一枚岩になれないからこそ身内への優遇が起こりそれが取り返しのつかないことになるということになる。日本は単一性が強いので集団による均衡が保たれており表立った対立が起きにくいものと思われる。

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日本は基本的人権と民主主義を受け入れるべきか

今回は基本的人権について考える。日本人が「世界から押し付けられた」基本的人権という概念を受け入れべきかということを考えつつ、基本的人権そのものについて見て行きたい。このエントリーはあまり受け入れられていない仮説を含んでいる。

人権はすべての人々が持っている属性のことだ。つまり人が人であるのに欠かせない基本的な一部で切り離すことができない。それゆえに、誰かが勝手に取り上げたり、自分で売ったりすることもできない。権という言葉には「権力」のように他人に行使するという意味合いがあるのだが、この漢字に惑わされると基本的人権の持っている意味の一部が損なわれてしまう。

基本的人権は「天賦」人権というように「天が賦与した」という印象がある。これは基本的人権の概念がキリスト教の元で育まれたことを意味している。日本はキリスト教国ではないので「日本の国情に合わない」という人がいる。英語ではナチュラルヒューマンライツと呼ばれており、自然に持っている権利というような意味で理解されている。複数形で用いられることから幾つかの諸権利によって成り立っているということがわかる。誰かに支配されない自由権と社会に参加することができる社会権がその主なものである。

もともと古代ギリシャ時代から人権という概念があったが、それがヨーロッパのキリスト教の影響下で精緻化されて今日に至っている。これが国際的に広まるきっかけになったのは第二次世界大戦後に作られた世界人権宣言である。

世界人権宣言は、ドイツがユダヤ人を迫害したり日本がアジアの国々を蹂躙した反省のもとに作られたとされている。日本に「天賦人権は国情に合わない」とする人が多いのはこうした経緯に反発しているからだろう。いわば「戦争に負けた日本が悪者になった」と思っている人が少なからずいるわけだ。

確かにこれは一面の心理なのだろう。日本が入ったことで世界人権宣言が作られたという経緯は確かなのだが、別の考え方もできる。

これを理解するには北朝鮮が核を持った現実を考えてみるとわかりやすい。今まで五大国が核兵器を持つことは容認されてきた。これは戦勝国という特別なクラブなら核を持っても「安心だ」という歪んだ考え方がある。北朝鮮は特別なクラブの一員ではないので世界各国が慌てている。実は国連ができる前にも同じような時代があった。

日本が入ってくるまでヨーロッパは「自分たち」と「それ以外」を分けて人権を考えていた。ヨーロッパの国には主権を認めていたが、ヨーロッパ以外は植民地にしても構わないと考えられていた。ヨーロッパには神の恩寵がありそれ以外の世界を善導してやる責任があると考えられていたからだ。

ここに、日本が入ってくることによりプロトコルさえ守れば非白人国にも国家主権を認めなければならないということになった。帝国主義のフロンティアがなくなり争奪戦になったことも合わさって「これ以上、帝国主義を維持するのは無理だ」ということになったのだろう。そこで世界は日本も入れた世界に対して「キリスト教に変わり得るような普遍的な理屈」を作る必要に迫られた。そこでキリスト教から宗教的な匂いを消したのが基本的人権なのではないかという仮説が立てられる。

キリスト教はウエストファリア体制の中で重要な役割がある。それが相互主義だ。

自分たちの権利が侵されないように他人の権利も認めるという相互主義は人権の基本的概念になっている。つまり他人の権利を認めることで自ら収奪の対象になるのを防ぐという実利的な側面があるのだ。日本人がこうした権利と義務の相互主義を認識できないのはこのキリスト教の持っている「愛」という概念を偽善的なものと捉えてしまうからだろう。

さらに日本は個人ではなく集団で牽制し合うことで均衡を保ってきた歴史がある。ヨーロッパと比べると均質性が高い社会だったのでこれでも十分だったのだろう。しかし多民族社会のヨーロッパには「話さなくてもわかる」というような信頼感はない。そもそも通訳かリングワフランカをおかなければいなければお互いの意思疎通すら難しいという社会である。

この違いのために、日本人には「個人と個人の安全保障」という権利と義務の相互主義の概念を理解するのが難しい。後述するようにこのことが人権に関する議論をやっかいなものにしている。一方、キリスト教国もキリスト教的な人権意識をイスラム世界に押し付けておりこれが反発されている。

いずれにせよ、帝国主義が切り替わる形ですべての国家の主権を相互的に認め、その基本理念として人権が採用されて新しい国際ルールになった。ウエストファリア体制はキリスト教という普遍的な理念が基礎になっているのだが、それを非宗教的にしたのが世界人権宣言と言える。キリスト教を発展的に解消することで新しい世界秩序を作ろうとしたのかもしれない。

日本の文明が特殊なのはこうした価値観をいったん何も考えずに受け入れてしまい、自分たちが持っている集団的な安全保証維持の仕組みと「なんとなく折り合わせてしまう」という性質を持っているという点である。これが一神教のアラブ社会や中華秩序という一極階層構造を持っていた東洋社会との違いになっている。

キリスト教違反に罰則がないように、世界人権宣言そのものには法的な拘束力はない。人権を無視しても道義的な非難を浴びることはあるが国際的に処罰されるということはない。

ただしその道義的非難は時として軍事行動にまで結びつくほどの激しさを持っている。キリスト教(カトリック・プロテスタント系)は人権の本場だという自己認識があり、それ以外の国を<善導>してやりたいという気持ちがあるのだろう。これが中国やイスラム圏のような非西洋諸国からの反発されることも多く、時には「文明の衝突」とまで言われる軍事的な軋轢を生んでいる。

前述した通り日本には「天賦人権は国情に合わない」と考えておおっぴらに主張する人たちがいる。これについてはいくつか考慮すべき問題がある。最初の問題は世界人権宣言の導入過程である。日本が国際社会に復帰する際に条件として「人権を遵守する国になる」という約束をした。これは帝国主義国と植民地を結びつける新しい理念として必要だったということになるが、日本はその中の唯一の例外だった。つまり日本は人権についてはある意味当事者と言える。その日本人が「天賦人権は日本の国情に合わない」というのは、この統合理念の全否定でもある。近視眼的に国内世論を機にする勢力はこのことをあまり考えないが、これは究極的には軍事的な衝突を生み出すことになるだろう。

しかし一方で日本人は「本当は民主主義など理解していないのにとりあえず国際社会に入るためのパスポートとして飲み込んでしまった」という自らの才能については過小評価している。飲み込んでしまったのだから社会の根底からキリスト教的になっても構わないのにそうはなっていない。

付け加えるならば明治期以降の日本の成功もいち早く国際社会のプロトコルを理解したところにあった。つまり短時間に帝国主義社会の体裁を整えることで収奪される側ではなく収奪する側に回ることができたわけである。さらに、戦後はよくわからないものの人権を取り入れることで国際社会にいち早く復帰することができた。「よくわからないがとにかく飲み込んでしまえ」という気風がプラスに作用していたことになる。

つまり、天賦人権を否定して<国情にあった>称する体制に戻ることは戦後日本が築き上げてきた地位を否定することになるのだが、実はその<伝統>とやらは明治政府が帝国列強に参入するために一神教を手本にして急ごしらえしたものに過ぎない。だから原理化するのである。もともとの新党には教義がない。日本人は構造的に原理化を防いでいる。つまり書かれた教義を作らないので、教義が暴走することが理論的にありえないのである。これをユニバーサルに解釈すれば、キリスト教対イスラム教というような正面衝突を避ける仕組みが日本人の中に備わっているということを意味する。この曖昧さが「日本人の本当の憲法第9条」なのかもしれない。

ここまでは、日本人が日本人の持っている特質を過小評価しているという点について考えてきた。ここから先はTwitterで見られる暴論について考えて行きたい。

さ権利ばかりを主張する人がいるから自衛隊にぶち込んでしまえという議論は暴論にすぎない。権利ばかり主張するのではなく他人の権利も尊重すべきだというのが正解である。権利と義務は相互関係にあるからである。となると、お互いの権利が整合するようにするのが政治の役割だが、それを放棄した上で「獣人になるように軍隊的な集団生活に放り込む」という主張は人権社会の政治の全否定になっている。自民党の憲法草案は下野のルサンチマンを晴らすためのものなので、こうした暴論は彼らの潜在的な怯えの産物だと考えるべきだろう。

また「人権侵害の政治主張も言論の自由だ」と言ってはばからない人たちがいる。これはもう少し単純に論破することができる。言論の自由は人権に乗っている。つまり人権の一部である。この中には自分が生きたいように生きる権利がある。そしてその中には自分が生きたい社会を作るために仲間を募って主張するという権利が含まれている。人権の中に結社の自由や表現の自由があるのはそのためである。

権利と義務というのはコインの裏表に当たる。ただ、これは100円分の権利を使ったから100円分の義務を負うというような等価値交換の原理ではない。自分の権利を主張するのであれば他人の権利を尊重する義務を負うというのが裏表になっている。

ゆえに「他人の権利を侵害する言論」が同じ人権によって許容されることはない。例えば「アイヌ人などいないから少数民族としての権利など認められるはずはない」というのは言論の自由にはならない。それは「自分たちは民族の出自を明確にして誇り高く生きて行きたい」という権利を侵害する権利はだれも持たないからである。つまり、言論の自由があるから他人の人権を制限していいというのは単なる屁理屈である。そしてアイヌ民族の人権をも守るのは「日本人が日本人として生きてゆく権利」を主張するために必要なことなのであり「アイヌ人がかわいそうだから守ってあげている」わけではないというのも重要な点だ。

これまで見てきたように、基本的人権は日本が国際社会に受け入れられるために受容した理念であり、できるかぎり尊重されるべきである。ただしキリスト教的な伝統を持たない日本人がこうした異質な理念を受け入れることができた裏には日本特有の文化的許容性があるというのも忘れてはならない点だろう。日本人自身がこの特質を過小評価しているがゆえに、生産性の低い子供の理屈のような暴論が飛び交っている。これはとても残念なことなのではないだろうか。

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柳瀬参考人招致について – 首相秘書官制度は廃止すべきタイミングなのかもしれない

柳瀬元秘書官が参考人として国会で答弁した。今回の証言を参考にすると柳瀬さんは嘘をついていなさそうである。多分、安倍首相のお友達だから加計学園が優遇されたのだろうが、普段から「安倍首相の関与がなく」見えるように行動していたのだろう。想定内の嘘なので「騙している」という罪悪感が希薄なのだろう。応援する人の中には「法律の範囲内でお友達を優遇して何が悪い」といい出す人がいたが戦後70年経っても日本人は法治主義という概念を完全には理解していないことがわかる。

合間に田崎史郎解説を聞いたのだが、国民も無関心なので「首相の関与が証明できなければセーフ」というのが官邸側の意向のようである。その線だけ守れればあとは明らかに嘘に見えても「負け」にならないと考えているようだ。日本の組織は最終的には信頼によって成り立っているところがあるので「もう有権者との信頼なんかどうでもいい」と割り切ればかなり政権の自由度は高くなる。と同時にこの国の政治中枢にいる人たちが日本人が持っていた「実際の運営は契約ではなく相互信頼に基づく」という社会通念を一切無視しているということがわかる。

一方で野党にも契約と民主主義という概念を理解していない人がいる。この議員は秘書官はジムの調整役に過ぎないのに「絶大な権限」を認めてしまっている。オフィシャルな民主主義とその裏側にある調整主義の違いが混同されているのだろう。

このことからわかるのは日本人は民主主義の契約という概念を理解できていないということだ。だから法律にお友達を恣意的に優遇できる仕組みを入れることにも抵抗はないし、事務調整官に過ぎない秘書官が実際の権力をふるってもそれが当然だなどと言い出してしまうのだ。

だが、というかだからというか、今回の一連の騒ぎには、見過ごされている深刻な疑念を浮かび上がらせた。Twitterを見ていると多くの人がこのことに気がついているようだ。

柳瀬さんが首相に何も報告をしていないとすると、柳瀬さんがどんな資格で特区関係者に話を聞いていたのかがよくわからなくなってしまう。秘書は連絡役であり法的には何の権限も持たないはずである。

柳瀬さんの立ち位置はいわば幕府のお側用人に似ている。将軍と老中の間でやり取りをするのが仕事である。政府では大きな権力を持っていたように描かれることが多いのだが、本来の意思決定者ではなかったはずだ。

お側用人は単なる将軍のスタッフ職なのだが、柳瀬さんは現在経済産業省の事務次官に次ぐ役人側のナンバーツーである。この人が「秘書官」という役職をもらい自由に動けるようになっている。本来は法的な裏付けがないので何の権限も持っていないのだが、逆に「法的な縛りがなくなんでもできる」ことになる。いわば「フリーのエージェント」なのだ。首相には憲法上の責任があるので、誰と会ったかということは国民からの監視対象になっている。しかし、秘書官には権限がないはずなので誰と会ったかは極秘にできる。つまり首相の隠密としても動けるし、首相のお目こぼしがあれば自分や自分が存在する組織のために自由に動けてしまうのである。

情報の流れという観点から政府組織を見ると、秘書官はセキュリティホールのような位置付けになる。

この「セキュリティホール」が数年に渡って自分が誰に会ったかを上司に報告していないと国会で堂々と公言している。例えば首相秘書官は国防上の秘密も知り得る立場にある。彼がマスコミなどから面会記録を監視されないのは首相がスタッフを管理しているという前提があるからだ。しかし柳瀬さんはどうどうと「自分は首相に監視されずに好きな人に会えるのですよ」と言っている。つまり、外交上の秘密をバラしたとしても誰にも気づかれないしそれを国会で罰せられることもないのですよと「ドヤ顔」で語っている。

秘書官の「使い勝手の良さ」を首相秘書官を経験した江田憲司さんはよく知っているようだった。柳瀬さんはそのことがわかっており唯一緊張した顔を見せていた。江田さんも「首相秘書官」として隠密的に動いたこともあるのだろう。その制度の欠陥を指摘してしまうと過去に遡っていろいろな疑念が掘り起こされかねない。そこで江田さんの追求はある種の緊張感を持ちながら中途半端なものになってしまっていた。

首相秘書官が秘密を漏洩するだろうなどとは思えないのだが、実際にドキュメントのごまかしなど「こんなことはやらないだろう」ということがどうどうと起きている。財務省の官僚が嘘をついたりセクハラで解職されたりするなどということは一年前には想像できなかったことだ。政治の世界ではモラルが崩壊しており、もうなんでもありいうつもりでいたほうがよさそうだ。

首相は秘書どころか奥さんも管理できていない。普通の人は夫婦なのだから夫の許可を取った上で夫の意思を忖度して動いていると思う。つまりいくらなんでも夫婦なのだから奥さんが何をしているのか知っているだろうと思うのだ。実際には安倍昭恵さんは自らの感情でふらふらと動いて周りに迷惑をかけていたようだ。そして未だにそのことを反省しているようには思えない。常識では考えられないことが起きている。

首相が夫人を管理できないのは、この人が近くにいる人と本当の意味で意思疎通ができないからだろう。いくらなんでも秘書が何をしているのか知っているだろうとみんなが思っているのだが、首相は本当に管理できていないのかもしれない。

加計学園問題を攻撃したい人は「首相の関与」を証明しようとして躍起になっている。しかしこれは想定されていた嘘であり、加えて柳瀬さんは体裁を取り繕えないことにはそれほどの罪悪感を持っていないようである。だが、実際には首相が必要な意思決定やマネジメントをしないで権限がはっきりしていないスタッフを泳がせていたことの方が問題は大きいのではないだろうか。

お側用人が幕府の政治に悪影響を与えたように、首相秘書官も政策決定の透明性を損ねている。首相が管理できないなら、首相秘書官制度そのものを廃止すべきではないかと思った。

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バカがリーダーになると何が起こるのか – 「戦闘」の定義をめぐる子供じみた争い

日報の「戦闘」、法的な「戦闘行為」でない 政府答弁書」という記事がTwitterで出回っている。もちろん、安倍政権がいつものように嘘をついているので怒っているのだが、なぜこれがいけないのか説明できる人は少ないようだ。

これがいけないのは、法律に使う用語を勝手に定義してしまうと、法律論どころか意思疎通ができなくなってしまうからである。だが、言葉の意味は厳格でなくてはならないと考えている人はそれほど多くない。代わりに「とにかく安倍が嘘をついた」といって騒いでいる人が多い。この人たちになぜいけないのかをかいつまんで説明してみたのだが、よくわかってくれないようだ。

その理由を考えたところ、多分怒っている彼らも「論理」というものの大切さがよくわかったいないからなのだろうと思った。こういう人たちのことを何と呼んでいいのかはわからないのだが、仮に「バカ」と定義してみよう。安倍首相もバカなら反対している人たちもバカということになる。もし「バカ」が嫌いなら適当に口当たりのよい表現に変えてもらっても良い。論理に柔軟な人とでもいえばよいだろう。

さて、自衛隊の問題の根幹は何だろうか。このブログを読んでいる人には退屈だろうが、しばしお付き合いいただきたい。自衛隊の問題の本質は「軍隊なのに軍隊ではない」というところである。憲法では国の交戦権が認められないので、原理的に軍隊が持てない。そこで警察予備隊という別組織を作った。これは国内の治安維持のためのものであり「警察のすごいやつですよ」と定義したのである。敵が国内に入ってくれば国家主権の範囲で制圧が可能なのでこのような定義でも特に問題はなかった。

国内に入ってきた敵を警察権の範囲で撃退するのが「個別的自衛権」の本質である。だが、実態はどこからどう見ても軍隊の上にアメリカ人もこれを「日本に軍隊を持たせるためのエクスキューズだ」と考えていたことから話が複雑化する。ある時は軍隊であり、またある時は警察というようなよくわからない存在になった。

これを踏まえて戦闘の意味を読み解くと面白い。政府が本来言いたいのは「あれは国家(もしくは国家に準じる団体)との戦いではないですよ」と言っている。だから憲法に抵触しないという理屈だ。であれば何なのかということになるのだが「警察活動」の範囲なのだ。小競り合いが起きておりそれを鎮圧しているだけだからである。

しかし「警察活動の範囲ですよ」とも言えない。それはPKOが国際法的な警察活動ではないからだろう。自衛隊は集団的自衛の一環として送り込まれた軍隊の集まりに参加している。そこでたまたま起きた警察的活動だったというような言い訳になる。さらに、日本が外国に行って警察活動を行う法的な根拠は国内法にはなく、さらに派遣国との間にもそのような協定は結んでいないはずである。

ここから、政府は自衛隊を都合に合わせて軍隊に見立てたり警察に見立てたりしてきた。その実態はなんだかよくわからないがすでに存在する「自衛隊」である。だがそのうちにそこで議論が混乱して「あれは法的な意味の戦闘ではなく辞書的な意味の戦闘なのだ」というわけのわからない言い訳をせざるをえなくなった。政権が変わったり与野党が交代すればその継続性はますます怪しいものになるに違いない。

安倍政権を攻撃する人たちがここに踏み込んで「言葉の定義を明確にせよ」といえないのは、彼らもまたこのようにご都合主義解釈の世界を生きているからだろう。他人にあるスタンダードを当てはめてしまうと自分にも跳ね返ってくる。冒頭ではこれをバカと言ったり論理に柔軟な人と呼んだりしたいのだが、日本人にはそのような特性があるのではないだろうか。

こうした「柔軟性」があるおかげで、自衛隊という明らかに憲法上黒の存在であっても「もうあるんだしいい人たちなんだから許してあげようよ」ということができる。災害救援活動では役に立っているし、みんないい人そうである。自衛隊の海外派遣を攻撃する人も「災害派遣なら良い」などと言ってごまかしてきた。

しかし、やはりこれはまずい。何がまずいのかを全く別の事例を挙げて考えてみたい。最近相撲協会がちびっこ相撲と女性差別について迷走している。ここにも自衛隊議論と同じ様な股裂構造がある。

相撲は国技を名乗ることで一定のプレゼンスを得た。しかしそのベースになる神道は女性蔑視的な教義を含んでいる。さらに経済活動のために女性ファンを引きつけたり公益法人化も行った。このため本来の神道が持っていた女性蔑視的な理由では土俵から女性を排除できなくなった。そこで八角理事長は苦し紛れの談話を発表した

ここには相撲の神道は国家神道ではなく習俗に近いので女性差別的な含みはないとした上で、男性が一生懸命に頑張っているところを見せる場所だから女性には入ってほしくないと言っている。つまり男は女性ができないような激しいことを行える特別ですごい存在なので尊敬してほしいと言っているのである。

この言葉で女性が納得するはずはない。女性は一生懸命頑張れないのかという反論が考えられるし、レスリングのような格闘技にも女性が進出している。だが、よく考えてみると「体育会系相撲脳」の人たちがそこまで複雑なことを考えているとも思えない。彼らは「相撲取りだって女性にモテたい」ということなのではないかと思う。

つまり、男性が頑張って相撲を取っているところを「男の人って力が強くてすごいのね」とキャーキャー言ってもらいたいのだ。相撲は素直に見れば太り過ぎの男性が裸で抱き合っているという行為でありモテの要素はない。そこで神事であると言ってみたり、女性は入れない特別な場所なんだと主張してみたりしているだけなのだろう。

だが女性も相撲を取りたいなどと言い出したので「危ない」といって排除してしまった。すると最近は女性よりひ弱な(あるいは張り切りすぎたのかもしれないが)男の子が怪我をしてしまい、ちびっこ相撲自体をやめようというような話になってしまった。

しかしそもそも神道は女性蔑視の教義を持っていなかった可能性がある。最初の神様は女性であり、女性の持つ生命力は信仰の対象だった。秩父に宝登とかいてホトと読む神社がある。もともとホトとは女性器のことを指している。生命の源として神聖視されていたのであろう。だが、神社の由来などをみても女性器と神社を結びつけるような話は出てこない。これは神道が整備される過程で女性が政治的な意思決定から排除されてきたからだと考えられる。かつては皇室にも女性の政治参加があった。しかしなんらかの理由で政治の中枢から女性を排除するようになり、後付けで神道にも「穢れた」という概念が導入された可能性がある。

相撲は神道と近代民主主義という二つの構造を使って自分たちを定義しているのだが、実は定義の方も時代によって変わってしまう。そこで八角理事長は「相撲が準拠する神事とは国家神道ではない」という苦しい言い訳をすることになった。一方で、もう一つの接ぎ木である公益にも近代民主主義という概念が付随する。だから「これは女性蔑視ではなく保護だ」と言わざるをえなくなったのだろう。しかしその実態は「モテたい」というある種素朴な願望である。

なぜ相撲がスポンサーを土俵に上げたのかはよくわからないが、多分「神聖な場所に特別に入れてあげる」ということが待遇表現になっていたからだろう。つまり「ここに来るとモテるよ」ということである。だが女性を入れると「特別感」が台無しになってしまうのでなんとかして避けたい。そうこうしてるうちに、女性は不浄だの、男女同権だのとややこしい問題が入ってきて、一体何を議論しているのかがわからなくなってしまうのである。言葉の定義を曖昧にしてなんとなく使っていたためにわけがわからなくなった事例である。

自体隊の問題ももともとは「アメリカと一緒に行動していいところを見せたい」とか「中国に対して威張りたい」といったある種素朴な願望が行動原理になっているのかもしれない。民主党政権が何を考えていたのかはよくわからないが「国連が熱心に言ってくるので、悪いと思って断りきれれなくなった」と言ったところではないかと思われる。こちらも素朴な事情である。

だが、そのように素直で素朴なことは言えないので、いろいろ言い訳をしているうちに議論がどんどんおかしな方向に進んでしまう。その結果行われたのが「日報は捨てちゃったからない」とか「法律の意味は辞書の意味と違う」といった子供じみた言い訳担ったあわわれた。

このような状況を民主主義の危機と呼ぶのはあまりにも大げさなので「バカだなあ」としか評価できないのだが、実際には野党が国会に出てこなくなり、重要なことは何一つ決められなくなった。さらに日本は海外が期待しているような国際貢献もできず、ついには外交交渉から置いて行かれるような事態にまで発展している。「バカ」に政治を任せている代償はあまりにも大きいと言わなければならない。

政治も相撲もバカに任せてはいけないのだ。

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