よくわからない韓国の保革対立と地域間対立

今回はオタク差別について考えるのだが、その前になぜ差別が存在するのかということについて考察する。オタクについて考えるのになぜか題材は韓国である。

韓国について調べていると保革対立というよくわからない概念がでてくる。日本の保革対立はイデオロギー対立のように見えるが実はそうではなさそうだ。同じように韓国にも保守系と革新系の大統領がいると言われるが、原理的に社会主義が存在しえない韓国で革新系が生まれる理由がよくわからない。

革新系の大統領にはキムデジュン、ノテウ、ムンジェインの3名がいる。あとの人を保守系と呼び、それ以前は軍人が大統領になっていた。

大統領の出身地をプロットしてみた。ほとんどの大統領が南部出身である。中でも目立つのは慶尚道と言われる地域だ。ソウル近辺と忠清道出身の大統領はいない。朴正煕と全斗煥の間にいた崔圭夏という大統領が江原道出身だそうだが8ヶ月しか大統領を務めておらずクーデターによって交代させられた。

よく韓国には地域間対立があると言われる。よく耳にする説明は光州事件起源説である。朴正煕大統領が出身地(大邱の北にある亀尾の出身だそうだ)を優遇して全羅道を差別したので全羅道の人たちが怒って光州事件を起こしたというような説明がされることが多い。

光州事件は朴正煕大統領が暗殺されたあとに起きた民主化運動が鎮圧されたときに発生した。軍の実権を握った全斗煥がライバルになりそうな政治家たちを逮捕し大統領になった。特に反発を強めた地域が光州などの全羅道地域だったとされる。死者数は170名という大事件だったのだが、軍人政権が続けばこのまま全羅道が冷遇されると思った人が多かったのかもしれない。

しかし、この対立は朴正煕の地域優遇の結果だとは考えられておらず、さらに根深いと説明する人もいる。もともと朝鮮時代には慶尚道と京畿道・忠清道の対立があり、全羅道の人たちは政治参加すらできなかったという説明を見かけた。士林派という朱子学を信奉する一派が学術的な闘争を繰り広げたというのだ。

この士林派の対立は、実はイデオロギー対立ではなかった。もともとの保守勢力が腐敗したあとに地方出身者からなる科挙合格者が台頭して生まれたのが士林派である。そこに好き嫌いの争いがうまれ、それが地域を巻き込んだ対立となっていったという歴史があるようだ。最初に何があったのかはよくわからないが、人は群れを作るとお互いを差別し始める。

この不毛な争いがなくならなかったのは韓国が朝献国だったからだろう。敵がおらず外交的なオプションもないので、内部で不毛な争いを続けても国が滅びることはなかったのである。士林派は分裂を繰り返して最後までひとつにまとまることはなかった。

ところがこの争いにすら参加できなかった人たちがいる。それが全羅道出身者である。全羅道の人たちが冷遇された歴史を遡ると高麗の太祖にまで遡る。湖南地域の人たちは最後まで高麗に従わなかったので「今後湖南地域の人たちは登用してはならない」という条項を含む訓要十条が作られたという。いったん作られた地域差別はなくならず、現在につながる差別感情が生まれた。全羅道の人たちは意思決定から外されたままで首都で差別されることになった。

よく日本は集団主義だなどというが、ここまで激しい対立はない。朝鮮半島には人材登用をめぐる激しい対立があり、それが現在まで生きていることに驚かされる。

いったんある種の非差別集団ができると、それは様々な形で利用される。

朴正煕大統領は自分たちの基盤を強固なものにして国をひとつにまとめるために全羅道を冷遇したのかもしれない。それが現在でも残っているのだが、表向きは地域差別とは認めたくないので保革対立と言っているのかもしれない。

韓国の争いは顕在化しているのだが、日本は表向き平等具合の強い社会だ。このため非差別当事者が自分たちは差別されていると声をあげにくい。さらに差別する側も構造そのものを認めたくないという意識を持つ。

この傾向は最近のMeToo運動で顕著に現れる。本来女性は被差別集団なのだがそれを認めてしまうことは社会における自分たちの劣位を認めることになる。また男性に対する敵意の表れになってしまうと男性社会で生きてゆくことができない。こうした事情があり声を上げる不都合な人が現れると女性の中からも「差別される側にも落ち度があったのでは」という意見が聞かれる。

さらに野党議員はこの運動を利用しようとして黒い服を着てMeTooとやってみたが女性は賛同しなかった。もちろん男性側の根深い抵抗意識も背景にはあるのだろうが、女性がまとまれないことも運動が盛り上がらない理由になっているのだろう。野党側はMeTooではなくWithYouとやるべきだった。

こうした地域間差別が念頭にあるためなのか、QUORAで韓国人に保革対立について聞いても地域間対立や構造について教えてくれる人はいなかった。韓国人も日本人同様「自分たちは特殊な世界に住んでいてとても外国人には理解できない」と考える傾向がある上に自らの国が抱える非差別感情については表沙汰にはしたくないだろう。だから説明する人がいなかったのではないかと考える。さらに全羅道差別には歴史的な経緯と首都での権力闘争が絡んでおり普通の人に「なぜ全羅道が差別されるのか」などと聞いても明確な答えは帰ってこないだろう。

こうした動きを解消するためには外に敵を作るのが手っ取り早い。現在は北朝鮮が現実の脅威として存在するのだが、これがなくなってしまえば他に敵を作るしかなくなるだろう。そしてそれは日本である可能性が高い。

今回はこのように「すっきりと」まとめたが、当事者は「それほど問題は単純ではない」と考えるのかもしれない。このことがまた差別感情の解消を難しくしている。当事者が必ずしも問題を認識しているわけではないということがわかったので次のオタクについて考える。

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オタクはなぜ差別されるのか – 現代オタク差別論争

今回のテーマはオタク差別である。時々タイムラインにオタク差別というTweetが流れてきたのだが何を言っているのかがよくわからなかった。だが問題を眺めているうちにこれがフレームワークの問題を含んでおり、多分当事者同士では解決しないだろうなということがわかった。さらにこれを非当事者から見てもよくわからない。年齢的な壁があるからである。最初は特殊な差別の話なのかなと思ったのだが、実は現在の人権論争にも通じる一般性があるように思えてきた。これらを順番に考えてゆく。

オタク論争というのは「オタク差別なんかない」という人にたいして「いやオタク差別はある」というカウンターがあるという話なのだが、そのオタクが何なのか全く理解ができなかった。Twitterで問いかけてみたが当然答えはない。

そこでTwitterをオタク差別で検索してこの文章を見つけた。すべてを理解したわけではないと思うのだがなんとなく概要はつかめたと思う。オタク差別と呼ばれているものは様々な差別の集積であるということを考察している。

個人的な体験から話をしたい。大学では文芸系のサークルに2つ所属していた。一つは純文学系でもう一つはSFである。筒井康隆が好きで文学部に通っていたのでこれは普通の選択だった。文芸系の人たちは周りがどういう趣味を持っているのかを気にしない。不思議に思ったのは、SF系のサークルの人たちが被差別感情を持っているという点であった。彼らは漫画が好きで漫研と掛け持ちしている人もいた。首都圏出身者が多く「コミケ」というところで同人誌を売ったりしていた。

大学に通っていた時に宮崎勤事件が起きたのでオタクという言葉や概念はあった。だからコミケに通う人=オタクという概念はあったはずである。だが、地方にはこうした非差別感情はあまりなかった。今にして思えばコミュニティがなく非差別集団としての意識が希薄だったからではないかと思える。

逆にSFが好きな経営学部出身の先輩もい。この名古屋出身のの先輩からやたらと友達を紹介され、丸井とか笹塚のバーなどに誘われた。ファッション雑誌にスナップを撮られるようなおしゃれな人だったので、多分脱オタクを志向していたのだろうが、当時はその意味もよくわからなかった。非差別集団的なオタクがおり、いや趣味として認められるべきだが外見が見すぼらしいと差別されてしまうのだと思っていた人がいたということである。

つまり、オタク文化に触れており、容姿と趣味はオタク的だったのだが、純正オタクというほどオタク文化に埋没しているわけでもなく、かといっておしゃれでもなかったということになる。

数日前にQuoraで「大学デビューしたから普通に見えないといけないと考えると底知れないプレッシャーを感じる」という質問を見た。今回のオタク論争に関する文章を読んだ時に似ているなと思った。つまり普通から滑り落ちたらまずいという感覚である。この感覚はバブル期にはなかった。

Quoraの説明を論理的に考えると「普通」というものを統計的に割り出して定義するところから始めなければならない。だが、実際には普通というカテゴリは存在しない。大学は多様性を許容するはずなのだから「自分なりの普通を見つければ良い」というようなことを書いたのだが、今にして思えばそれは綺麗事でしかなかったのかもしれない。

現在には普通という存在しないものから「逸脱してはならない」というプレッシャーがあるのだろう。そして普通というものが存在しないからこそ人は「何をしでかしたら普通だと思われないのだろう」と怯えながら過ごすことになる。

なぜこんなことが起こるかというと、中流に止まるのが難しいからなのだろう。ファッションで普通でないとみなされると「オタク」という烙印を押されるし、趣味が違っていても「オタク」になる。下流になったらそこで差別されてしまう。排除する理由は趣味でも外見でもよいわけだから、趣味から見たオタクと見すぼらしい格好をしていて体型が不恰好なオタクという区別にはあまり意味がないということになる。

我々がこれを理解できないのは高度経済成長期に育っているからなのかもしれない。高度経済成長期は頑張れば上流に上がれるがそうでなくてもそこそこの暮らし(中流)があるという世界だった。だが今は縮小社会なので黙っていると下流に転落してしまうのだ。そして転落した人たちのことをオタクといって差別しているということになる。

逆にいうと転落を恐れる人はオタクという下層を作ることによって「自分たちは普通なのだ」という満足を得られる。これは統計をとって「普通」を定義するよりも簡単にまとまりを作ることができる。前回の韓国の全羅道差別では「普通をまとめるための被差別集団」を観察した。これと同じことが日本でも起きているということになる。自分たちが普通だということを感じるためにはオタクが必要なのである。

すると、オタク差別はなくならない。そして何をしたらオタクになるのかという定義も存在しえない。多数の人たちから「お前は違うよね」と宣告された人が結果的にオタクになるからだ。

さらにオタクを差別する普通の人たちは「見下して当然」の人を差別しているだけなのだから、そこに差別意識を感じない。これは女性差別に似ている。女性差別は存在するが、女は男よりも劣っていて当然だと思っている人が「当たり前の処遇」をしているに過ぎない。だから女性が「差別はあるだろう」と言っても「当たり前のことをしているだけなので差別などありえない」と答えてしまうのである。

結果的に差別されている人がオタクなのだから「オタク」という属性は存在せず、従って何がオタク差別かどうかということは決められない。だから定義について議論しても何も生まれないのだ。だが、それが決められないのは実は普通が決められないからだ。

オタクという言葉の定義はこのように「普通でない」ことを意味し、何が普通なのかがわからない。にもかかわらず何がオタクなのかという了解がなんとなくあるようだ。この問題について藤田直哉という人がまとめたものを見るとそのことがよくわかる。それはかつてあったコミケのような社会的集団が続いているからなのだろう。

オタク差別は確かに存在するが、それは「非普通差別」である。そして非普通差別される人たちをオタクと呼んでいるので、オタク差別というのは別の言葉でいうと「差別者差別」であり、議論の対象にはなりえない。差別者という属性は存在しないが、差別そのものは存在するので、お互いに話がかみ合わないのだ。

だがその背景にあるのは普通の不確かさである。常に脱落する恐怖にさらされているのだが、何をすると脱落するのかがわからないので被差別者を作って安定を図っているのではないかと思われる。これは韓国の士林派が神学論争を繰り返しお互いを差別しながら結束を図ろうとしていたのに似ているし、朴正煕大統領が地域差別を利用して韓国の他地域をまとめようとしていたのに似ている。

ここからがこの一連の話の一番残酷なところである。そもそも人権運動というのは多様性を認めるところから出発する。オタクであればオタク的趣味やルックスをそのまま認めろということである。女性差別であれば女性的な行動様式が認められなければならない。しかし日本人は差別を内在化しているので、オタクを普通の人と同列に扱えとか、女性にも男性並みの普通を認めろということになりがちだ。

だが普通というものが溶解しているので「普通に扱う」ということに実態がない。だからいつまでも普通に扱われることはないということになる。これは差別者の側の問題でもあるのだが、差別される側も「ゴールを持たない」ということになる。さらに多様性を前提にした人権問題のフレームワークを使って問題を処理しようとしている傾向も見られるのだが、これは破綻が見えている。西洋の人権意識は多様性を前提にしているのであって普通への復帰運動ではないからである。

オタク差別は確かにあるのだが、それをブレークダウンしようとするといくつもの問題にぶちあたる。だから議論をすればするほど解決から遠のいてしまうということになる。

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朝鮮半島情勢 – 見えない大きな手によって押さえつけられる日本人

北朝鮮が韓国との対話を始めた。どうやら非核化と在韓米軍の韓国撤退がバーターになっているようだ。専門家は次のように分析している。

 さらに、在韓米軍に関しても宣言で触れられなかったことについて「”核なき朝鮮半島”の核が在韓米軍やグアムの戦略爆撃機をも含むのであれば、米韓同盟、日米同盟にも影響する。米朝首脳会談でアメリカに届くICBMが全廃されたとしても、韓国や日本に届く短距離、準短距離ミサイルはどうなるのか。すでに核弾頭が装着可能で連射も可能になっているし、海上に展開しているSM3と東京のPAC3でも防衛しきれない可能性があり、日韓にとっては脅威だ。今後うまく非核化とICBMの問題が解決されたとしても、日本には拉致と、この課題が残ると真剣に考えなければいけない」と訴えた。

これまで北朝鮮には「韓国からアメリカ軍を撤退させてくれ」と言える材料がなかった。核を持ったことではじめて取引材料を得たのである。仮に核を廃棄することになったとしても在韓米軍がなくなってしまえば北朝鮮の目的は達成できるし、アメリカが在韓米軍の撤退をためらえば北朝鮮の核兵器保有は既成事実化できる。

この件については冷静に見ている人とそうでない人たちがいる。さらに具合の悪いことに思考停止に陥っている人たちも多い。

冒頭で見たように、冷静に見ている人たちは今回のフレームワークが北朝鮮の非核化ではなく朝鮮半島の非核化になっていることに着目しており、在韓米軍や在日米軍に影響があるということを指摘している。つまり日本人全体がバカだというわけではない。実は政治家の中にもそう考えている人はいるようである。だがそうでない人たちは「圧力をかけて北朝鮮の非核化を成し遂げなければならない」とか「武力でなく対話で物事を解決する今回の件は全面的に良いことだ」と従来の主張を繰り返している。現実を見て対応することが目的ではなくマウンティングが目的になっているからだろう。俺が正しかったと言いたいわけだ。

しかしもっとも厄介なのは実は旧来のフレームワークにとらわれている人ではない。実は思考停止におちっている人たちの方が問題なのだ。安倍首相が「自分が圧力をかけたから北朝鮮が対話に応じた」という正解を提示してしまったために何もいえなくなってしまっている政治家が多い。

東アジア地域のの安全保障体制は大きく変わるかもしれない。アメリカ軍を撤退させずに4か国をつなぐ安全保障体制ができる可能性があるからだ。外国軍が撤退するという選択肢の他に、中国軍とアメリカ軍が共同で朝鮮半島の安全保障にコミットするという体制が考えられる。停戦監視の枠組みがそのまま安全保障の枠組みになるということになる。もちろん非現実的な構想ではあるが、去年までは北朝鮮と韓国の元首が手を取り合って軍事境界線を渡るなどということを予測できた人は誰もいないのだから、何が起きても不思議ではない。

この体制に日本が入るのはとても難しい。どうやら北朝鮮は日本の立ち位置をわかっているようだ。まず戦後保証が先だと日本に迫ったという話が出ている。つまり、日本が戦後補償で誠意を見せるまでは安全保障関係はおろかいかなる経済体制にも加えてやらないということである。これは、日本は蚊帳の外どころかお金を払わなければ新しい体制作りに全く関与できないことを意味する。あるいはアメリカを通じて間接的に「お布施」を支払わされることになるかもしれない。安倍政権の決定的な外交失策と言えるだろう。安倍政権は地域の安全保障交渉に乗り遅れた政権として歴史に名前を刻むことになる。

いずれにせよ、安倍配下の自民党の議員たちはこの件についてはあまり言及したくないらしい。岸田文雄はまだ何のコメントも出しておらず党の公式見解を出したままで沈黙を続けている。野田聖子も河野太郎も小泉進次郎もブログに公式見解は出していない。これは安倍首相が「自分がプレッシャーをかけたから北朝鮮が非核化の対応に応じた」という正解をいち早く提示してしまったからだろう。今回の「朝鮮半島の非核化」という現実に対応すると、どうしてもこの物語を踏み越えてしまうことになるのだ。

例外的なのは党運営や内閣に距離を置いている石破茂だ。

「北朝鮮の非核化」ではなく「朝鮮半島の非核化」を謳い、「停戦協定を平和協定に切り替える」というのがポイントで、韓国は休戦協定の当事国ではないため、中国と共に実質的な当事国である米国に対して要請することになるのでしょうし、平和協定が締結されることは在韓米軍の駐留の根拠を喪失させることに繋がります。

石破だけは極めて当たり前のことを言っているのだが、これがとても特異なことに見えるのが、現在の安倍自民党の異様さを表している。だが、おかしくなっているのは安倍自民党だけではない。存在感のなさに疲れた野党から白旗が上がっている。

例えばこの無所属になった長島昭久は次のようにTweetしている。無所属なのに旧来のフレームに縛られているという痛ましい事例なのだが、別のツイートでは批判を避けて建設的な提案ができる議員になりたいなどと言っているところにさらなる痛ましさを感じてしまう。リベラル色を鮮明にした立憲民主党に合流するわけには行かないし、希望墓塔のチャーターメンバー外しをしたい国民民主党にも加われない。このため自民党と協力関係になりたいので、安倍首相が提唱した物語の枠組みからは外れられなくなってしまうのかもしれない。

最初このTweetを見た時には「ネタなのかな」と思ったのだが、自民党との連携を念頭に妥協を図っているとしたら痛ましい限りである。

もちろん、長島のいうように北朝鮮が非核化してそのまま消えてしまうシナリオは考えられる。アメリカが朝鮮半島に駐留することになるのだが中国がこれを許すはずはない。また北朝鮮がこれまで開発してきたやすやすと核兵器を手放すはずもない。シリア紛争などを抱えておりイランとも対立しているアメリカが中国を交えた戦争に参加するとは思えない上にトランプ大統領は和平を実現して名誉を手に入れたいらしい。つまり残念ながらこのシナリオにはあまり現実性がない。

もちろん今までの現実が続く可能性もあるのだが、いったんことが動き始めた以上何もかもこれまで通りというわけには行かないだろう。

第三のシナリオはこのままアメリカ、中国、韓国、北朝鮮がなんらかの形で結んでしまうというものである。皮肉なことだがこのシナリオではアメリカが戦争のリスクを減らすことができる上に費用負担を減らしつつ地域にコミットし続けることもできる。北朝鮮にはアメリカの資本が入るのでビジネスチャンスは増えるし、トランプ大統領には「オバマ大統領も獲得している」ノーベル平和賞のチャンスが舞い込む。あながちない話とも言えない。

すると、そもそもなぜあるのかよくわからない在日米軍が浮いてしまう。在日米軍は日本が再軍備化しないための瓶の蓋になってしまうのだが、それを日本の費用で支えているというわけのわからない体制だ。こうなると日本政府は国内向けに在日米軍の意義を説明するのが難しくなるだろう。もし仮にアメリカが中国と結んでしまったらどうなるだろう。仮想敵がいなくなると日本が在日米軍を抱える意味がなくなってしまう。

個人の内心がなくイデオロギー対立がありえない日本人は誰が敵で誰が見方かという主観に注目して政治姿勢を決めている。ここまで大きな動きが起きているのにその変化とは全く違った線で憲法改正の議論が続いているのは、彼らが世界情勢ではなく彼らの内的世界に基づいて憲法議論をしているからである。

よく考えてみるとその気になれば軍事境界線をただのコンクリートの縁石にしてしまうこともできるのだし、北朝鮮に行って直接話してみようと決めることもできる。そのことに気がついた人たちは単に行動するだけでこれまでの枠組みを変える。

日本だけは内的世界に基づいて議論をしている上に他人の目も気にするので容易に自分の意見が言えない。集団思考が大きな見えない手になって彼らの頭を押さえつけている。自民党議員から感想レベルの観測すらでてこないところをみると、その心理的障壁はとても大きいものなのかもしれない。

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南北首脳会談の生中継に思うこと

南北首脳会談が始まった。北朝鮮の金朝鮮労働党委員長が韓国の文大統領と固い握手を交わした様子が全世界に生中継された。金委員長が文大統領を北に招き入れていたのが印象的だった。ちょっとしたやり取りなのだが金委員長が世界の目を意識して「画を撮らせていた」ことがわかると同時にこの人が最高権力者なのが実感できる。誰にも相談しないで敵国の元首を自国内に招き入れることができるのはこの人だけなのだ。

これまで日本のマスコミは北朝鮮を悪の帝国のように扱ってきた。金委員長の肉声があまりないことを利用して得体のしれないバカな指導者として印象付けてきたのである。これは安倍政権がそう仕向けているというわけではなく、日本の願望が込められているといえるだろう。夕方のニュースではその様子が繰り返し流された。

国際的な変化に無関心で内輪の諍いを好む日本人は世界情勢は変わらないでいて欲しいと思っていたはずだ。それは日本と西洋諸国の間に共通の敵がいるという固定的な世界である。この固定的な世界では西側の価値観に沿って振る舞まってさえいれば「日本はアジアの中で特別にいい子である」と褒めてもらえたのだった。

だがこの構造は崩れてしまうことが明確になった。北朝鮮の非核化と拉致への言及がなかったことばかりが注目されているようだが、実際には中国とアメリカを交えた多国間の枠組みが地域にできることに大きな意味がある。これが軍事的な安全保障体制になる可能性があるということになるがそこに日本が参加できる見込みはそれほど大きくない。すると日本抜きで東アジアの平和を維持する枠組みができてしまうのである。日本はお情けで招待してもらえるかもしれないが、その役割は限定的なものになるだろう。

アメリカ、中国、ロシアはすでに前向きなコメントを出している。もしかすると事前に連絡を受けていた可能性もある。だが日本はこれから情報を集める段階なのではないだろうか。事前に北朝鮮は韓国に対して「日本には連絡するな」と言っていたという話がある。賠償問題をはっきりさせるまで蚊帳の外に置くという意味のようだ。その意味するところは東アジアの安全保障体制に組み込んで欲しいならそれ相当の誠意を見せて金も払えということになる。核兵器保有国として日本にこうした要求を突きつけている。

面白いことに左翼系の人たちは「朝鮮半島の戦争が集結し、この世の中から戦争がなくなる」とか「涙がでた」と言って感動しているようだ。核兵器保有国として堂々と振る舞う北朝鮮に対する好評価は皮肉としか言いようがないが、核兵器を持って初めて国際社会に相手にしてもらえるというのも現実である。

安倍政権は散々北朝鮮の悪口を触れ回ってきたのだが、これは今にして思えば「現状を認めたくない」ことの表れだったのだろう。安倍政権もその支持者たちもこれが何を意味するのかということがよくわかっていたのかもしれない。これが本格的な北朝鮮の非核化や統一につながるかどうかはわからないが、いずれにせよ東西冷戦が終われば、世界情勢を理解しようと努力してこなかった人たちは今後の外交をどうすればいいかがわからなくなる。この不安さが安倍官邸の頑なな姿勢に表れている。「まだわからない」という人たちが多いようだが、わからないのは朝鮮半島の行く末ではなく自分たちの進路であるのは明白だ。

私たち日本人は民主主義を理解していないしありがたがってもいないという様子をこのブログでは観察してきた。しかしそれは必ずしも安倍政権が独裁を狙っているからではないようだ。相撲協会を例に挙げた時には、彼らが近代的なスポーツと経営を理解していないことを学んだし、セクハラ問題について観察した時には官僚や政治家が人を人として扱うという人権のもっとも基礎的なことを理解していないことを学んだ。

戦後日本人は「いい子にしていれば西洋社会という先生に褒めてもらえる」ということは学んだが、それが何を意味するのか全く学んでこなかったということがいえる。こうした人たちにとっては、冷戦構造が溶けてなくなるということは恐怖以外の何者でもないだろう。形が変われば彼らの正解は吹き飛んでしまう。

北朝鮮と韓国の対話がどのような成果をもたらすのか、あるいはもたらさないかというのはまだわからない。だが、それは彼らの問題である。むしろ私たちが問題にしなければならないのは我々がどうしたいかということとどうすればいいかということである。70年以上かけて何も学べなかったという事実を目の前にするといささかくらい気持ちになる。

最後の東西冷戦構造がなくなることで私たちが戦後70年間当たり前だと思っていた構造は崩れつつある。もし本当に東西冷戦が終わってしまえば在韓米軍には駐留の理由がなくなり、後背地である日本の駐留も一定の役割を終えることになる。すると日米同盟の意味は大きく変わるだろう。突然来るかもしれない状況にパニックにならないためには、これから日本人がどうしたいのかということを真剣に話あう必要がある。

だが、国会にはそのつもりはないようだ。野党側は分裂したまま国会審議を欠席し続けている。その原因は安倍政権が民主主義を理解せず文書をごまかしたり隠したりしたことにある。目の前で大きな変化が起きていることを考えるとその有り様は実に情けない。

蚊帳の外にいるといって不安になるのは世界情勢がどう動くかわからないからなのだが、そもそも自分以外の国はコントロールできない。不安を解消したいなら、今後どのように国際社会に貢献できるかを自分たちで提案して決めなければならない。

確かに北朝鮮のやっていることはメチャクチャだ。核兵器を開発しておいて「国際社会に復帰したい」などと言っている。ただしそれでも自分たちで考えて提案しているだけ日本よりマシだと言える。

自民党に具体的な提案ができない理由もまた明白である。彼らは決まった構造にフリーライドしようとしているだけの集団だからだ。具体的にはアメリカに擦寄ることでその権威を背景に「北朝鮮や中国に威張りたい」と思っている。機嫌を損ねないようにお金や土地を差し出してきたがそれもよく考えれば国民の税金であって彼らのお金ではない。自分たちには意思がないのだから提案ができるわけがなかった。これからも彼らを選び続ける限り日本人は不安な数十年を過ごすことになるのではないかと思われる。

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「山口メンバー」報道に思うこと

TOKIOのメンバーが2018/5/2に記者会見を開いた。過去何回か病院を巡ったが「アルコール依存症」との明確な診断は出ていないそうである。メンバーが知っていて無関心ではなかったということと、無関心でなかったとしてもプロの助けなしでは問題の解決が難しかったということがよくわかる。


TOKIOの「山口達也メンバー」が会見を開いた。ニュースが飛び込んできてから半日空いたので最初はジャニーズ事務所が隠蔽しているのではないかなど周辺のことが気になっていたのだが、本人の記者会見を聞いて考えが変わった。

一晩経ってまた考えが変わった。テレビ局も芸能事務所も「世論を侮っている」と思った。

初動対応はまさにパニックだった。関係者は表向きは反省しているようなことを言っているのだが、頭の中ではこの騒ぎが大きくなって自分たちに損害が及ぶことだけを恐れているのだろう。

NHKが最初にこの問題を伝えたのは火元が自分たちの番組だからだろう。子供向け番組の出演者を管理していなかったせいで起こってはいけない問題が起きてしまった。内部調整して発表する時間はない。調整の兆候が見えた時点で週刊誌は面白おかしく伝えるだろう。そこでまずニュースとして伝え「自分たちは知らなかった」風を装ったのかもしれない。

「NHKが不祥事に対して隠蔽体質なのはむかしからですが、報道局からあがってきた性犯罪をジャニーズだから、微罪だからといって握りつぶしたとしたら、どうなるか。特に今回は加害者被害者が、子供たちを育む役割のEテレから出たことは絶対に見過ごせない。万が一それが変な形で露見して、やはり組織ぐるみで隠していたのかとなったら、国民から受信料不払いが巻き起こり、へたすりゃNHKがつぶれるほどの大変な事態になります」(NHK幹部)

TBSはメンバーの国分太一が司会者をやっていることもあり、表面上は「山口メンバー」を糾弾するような様子を見せつつ、どうにかして穏便に抑えたいという気持ちを持っているようだった。テリー伊藤さんは「相手のあることだから」と言って相手に寄り添うような風を見せていたが、実際には「ことを大きくすべきではない」ということを主張していたのが印象的だった。

印象的だったのは国分さんが「福島の野菜は」と唐突に言及していたことである。まず頭にスポンサーなどのことがよぎったのだろう。ところが、徐々に国分メンバー(あるいは国分司会者)も山口メンバーのお酒の問題を知っていたことが明らかになる。知ってはいたが大した問題だとは思っていなかったようだ。実はこのことがこの問題の本質をよく表している。彼らは多分お酒の恐ろしさを知らなかったのだ。

問題を複雑にしているのはジャニーズ事務所の「隠蔽体質」と放送局の「忖度」体質である。大勢の有力なタレントを抱えているジャニーズ事務所は常々「メディアを押さえつけているのではないか」という疑惑が持たれている。だから放送局はことを荒立てたくないと考える一方で、忖度しているように思われてもならないということで頭がいっぱいになっているのだろう。確かにその意味では脚本はよく練られておりそのあとの対応も含めてよくできていた。芸能デスクという人が全てを統括してバラバラな意見が出ないようにしていた。TBSの芸能ニュースにとってジャニーズ事務所は重要なネタ元に当たる。それを守ることが最重要課題である。

だが、実際にジャニーズ事務所が隠蔽しているのは事件やタレントの商品価値ではないのだと思う。

視聴者は明らかに煮立っている。政治でも同じような問題が起こっているからだ。Twitterの一部には同じ山口である別の人を指差して比較する人たちもいた。権力者は決して不祥事を認めようとしない。だから、不倫や性的な問題に関してはすぐに「社会的生命に対する死刑判決」が出るようになった。これが累積し「この類の問題を起こしたら一発退場」という相場が作られている。普段政治問題について面白おかしく伝えているマスコミは自分たちが「忖度し隠す側になった」として視聴者から襲撃されることを恐れている。政治もテレビ局もこの問題はもはやバスティーユなのだ。

だが、その裏にある認識は「視聴者はバカだから問題について深く考える頭はないだろう」という侮りである。彼らは普段そういう「バカな視聴者」を念頭に番組を作っているのだろう。

だが、本人の会見でわかったことはかなりショッキングだった。本人はアルコールの問題で入院していたのに帰ってきてすぐにお酒を飲み酩酊状態になったということがわかった。さらに本人には自分がアルコール依存におちっているという認識がない。

焼酎を一本空けたという証言があることから山口さんがアルコールに対して歯止めを失っているのは明らかだ。一升瓶か5合瓶かなどと言っていた人もいるが、どちらにせよ「たしなむ程度」で一本空くことはない。このことから、病院では酒量を管理されていたことがわかる。病院から仕事場に通っていたのは多分私生活でこの人がお酒の量をコントロールできなくなっていたからである。つまり、周囲の人は異常を知っていたということになる。

テレビ局が侮っているはずの大衆は実は冷静だった。これはアルコール依存であり周囲のサポートなしには回復できないという意見がTwitterで見られるようになった。つまり世の中には問題を抱えている人やそれを専門的知見からサポートする人が大勢いるのである。だから、相談さえしてくれれば良かったのだ。

このズレの原因は明らかに事務所にある。もともと同性愛志向のある男性が自分の理想の少年を売り出したのがジャニーズ事務所である。そのこと自体は責められるべきではないし、女性たちとの間に共有のシンパシーもあったようだ。ただ、このため少年として魅力がなくなった男性アイドルは放置されることが多い。そこに商品価値を見つけているのが女性たちである。成熟した男性に商品価値をつける。

ただ彼女たちは女性であるがゆえに、男性が持つであろう問題については知識がなくまた無関心だった。

夢を売ること自体は悪いことではない。例えば宝塚はある年代の女性を使って夢を売っているが、彼女たちには第二のキャリアがある。宝塚歌劇団はそれ以降の女性を活用することができないからである。宝塚から巣立って女優になった人は多く、このシステムがうまく機能している。

一方ジャニーズ事務所はその特有の嫉妬心から独立を許さない気風がある。だから中年になってもアイドル以外の選択肢が持てない。彼らが抱える特有な問題はSMAPの3人が「テレビから干された」ことからもよくわかる。

山口さんは会見の中で「事務所の誰に相談していいかわからず」「メンバーにも言い出せなかった」と言っている。私生活上の問題については放任されていたのだろう。

少なくとも、メディアコントロールも含めて会社のマネジメントは極めてずさんだったということがわかる。なぜ酒量が増えたのかはわからないが、本人がコントロールできるような状態ではなかったようなので、周りが親身になって止めるべきだった。これができなかったのは、大人の男性が当然抱える問題に対する事務所の無関心があるのではないだろうか。

ジャニーズとお酒という問題は実は珍しくない。草彅剛さんが全裸で逮捕されたという事件もあったし、最近では「錦戸メンバー」が瑛太さんを殴ったという事件が伝えられた。逮捕が伴わない事件は他にも起きているのだろうがテレビが伝えることは滅多にない。

この問題を「では誰が悪いのか」というところに落とし込んでしまうと、もちろん本人が悪いということになるのだろう。しかしながら、実際には関係性の中で起きていたことがわかる。イメージが損なわれるようなことはできれば考えたくないという気持ちがここまで問題をエスカレートさせたということは認めたほうがよさそうだ。

もし人間が完全に理性的な存在であればこれほど複雑なことを考える必要はない。だが人間であれば自分ではコントロールできない問題を抱えるのが普通だし、トップアイドルも例外ではない。だからこそ周囲がサポートすべきだし、サポートできないなら潔く手放すという選択肢も考えるべきだ。

人間には様々な衝動がありそれを理性で押さえつけることができるとは限らない。我々はこのことを十分に知っておくべきだし、それを感知したら周りは助けの手を差し伸べるべきだろう。だが我々は一人ではない。同じような経験をした人がたくさんいるのである。

テレビ局は「ジャニーズ事務所を怒らせたらどうしよう」ということを考える前に「人間は弱い存在だが助け合いによって救われることもあるのだ」ということを再認識するべきではないかと思う。

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4釦ジャケット・5釦ジャケット

古着屋でComme Ca Ismのコットンジャケットを見つけた。108円だった。よく見るとボタンが4つ付いている。4釦ジャケットだ。「これはどう着ればいいのか」と思った。

他にもスタンドカラーのコットンスーツが売られていた。普通に4釦として着ることもできるが、襟を立てると5釦としても着られるというものである。こちらはSHIPSのもので500円で売られていたものである。

今ではすっかりなくなった多釦スーツだが、以前はちらほら見られたのかもしれない。メーカーにとっては迷惑なのかもしれないが、型番を伝えると発売シーズンと当時の値段を教えてくれる。いつ頃流行したものなのかを調べると、どちらも2003年から2004年のシーズンに作られたものらしい。

メーカーよるち、当時のルックブックなどは残っていないということだ。ある程度時間がくると処分してしまうのだそうだ。さらにネットは今ほど発達していないのでウェブ上にもルックブックは残っていない。手持ちのカタログを調べてみると、DNYKの1997年のカタログとGian Franco Ferreの2000年のカタログに4釦ジャケットが見つかった。さらに調べると1997年のVersaceのカタログにも4つ釦のものがある。この頃にリバイバルとしてウール素材の多釦スーツが扱われていたことがわかる。ちょうどクラッシックな3釦が標準だった頃なので、このような多釦スーツが扱われる余地があったのだろう。DNYKは上二つ掛けにしており、Ferreは三つ掛けにしていた。今でいうチェスターコートのような着方をして縦長のラインを作っているものが多いような印象を受ける。

そもそもいつ頃からこのようなトレンドが始まったのかと思い、図書館で’50s&’60s メンズファッションスタイルという本を取り寄せてみた。

無難なグレーのスーツの中にも4釦が見られるし、オランダが提案しているというTwen Lookというスタイルの一部として4釦スーツが提案されている。この頃には洋服を部品にするような「コーディネート」という考え方は一般的ではなかったようだ。代わりに変わった形のスーツを着るという文化があったことになる。

もともと多釦スーツがあり、それが1990年代にリバイバルした。最終的にコットン素材のカジュアルなジャケットに降りて行き、最終的に消えてしまったことになる。

こうした釦の変遷はある程度西洋の流行を参考にしている。しかし、日本独自で発展した流行もある。日本は大きめの体型の人が多い西洋からスーツを輸入したためにオーバーサイズのものを着るのがかっこいいという時代があった。バブル期には誰もが大きめのスーツを着ていた。ここから揺り戻しがあり、今度はタイト目のスーツが流行する。現在ではこれも収束しオーバーサイズの衣服が流行面では主流になっている。

面白いことにアメリカのファッション指南のウェブサイトを見ると「サイズを合わせる」のが絶対条件になっていてオーバーサイズという概念そのものが存在しない。Fitting Clothesというサイトは次のように言っている。

If you see a man wearing tight fitting clothes on the street, chances are you peg him immediately as ‘gay’ or a self-involved metrosexual. If you see someone wearing baggy or loose clothes, you think of them as sloppy and not someone you would trust to get things done (if they’re at the office).

一時期流行したメトロセクシャルだが、今では日本語でいう「ナルシスト」のような扱いを受けているようだ。1994年の造語であり、2000年代に流行したということだ。タイト目のスーツはナルシストかゲイであり、一般男性は体にあったサイズの服を着るべきだと主張されているのである。

特に若い日本人は体つきが平坦なのでオーバーサイズにした上でレイヤードするという選択の余地があるのだろう。「ストリート系」や「モード系」のファッションサイトなどを見ても、BEAMSのカジュアルカタログもオーバーサイズ全盛だ。日本人は保守的とされているのだが、こと洋服に関しては東京は革新的な都市なのかもしれない。アメリカ西海岸をモデルにしているSAFARIも日本のオーバーサイズの流行を無視できなくなったのか「ジーンズは太いほど余裕があるように見える」などという記事を出している。

4釦ジャケットなど今では全く見なくなったと書きたいところなのだがオーダーメイドなどでは4釦スーツを作っているところもあるようだ。どちらかというと若い人が着るということなのだが、実際にオーダーする若者がいるのかどうかはよくわからない。

またMen’s Clubの2017年4月号の中にも4ポケットタイプジャケットの特集があり、この中に4釦のジャケットが見られた。こちらはテーラードジャケットのように着ることもできるというような提案の仕方になっており、仕事着という位置付けではないようである。タイドアップしてチノパンツと合わせるなどの提案が見られた。ただしそれほど広がっているとは言えないようでWEARには着用事例がなかった。このように多釦スーツやジャケットをリバイバルさせようという機運はあるものの、なかなか着る側が乗ってこないということなのかもしれない。

ただ、最近ではチェスターコートのような長めのスーツ型のコートも流行している。こちらは釦の数が多いものもある。釦が多いほどクラッシックな雰囲気になるので、また釦の数が多いスーツが流行することがあるかもしれない。

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麻薬漬けの日本経済と経営者

安倍政権の支持率は下がっているのだが、企業の70%は安倍政権が存続することを願っているらしい。調査対象は資本金10億円以上の中堅・大企業400社を対象に4月4日─17日に実施され、回答社数は220社程度だそうだ。これを読んで日本の企業は麻薬漬けになっているんだなと思った。だが、いろいろ調べて行くうちに別の考えが浮かんだ。野党は3年間の総括をしっかりと行ったほうが良い。それで支持が回復する稼働かはわからないが、少なくとも今よりはマシな状態になるだろう。

企業経営が安定したと喜んでいる人が多いのは日本が出口のない戦略をとっているからである。日銀が市場から資産を購入しているのだが、この記事では18兆円爆弾と言われている。購入しているのは株価指数連動型上場投資信託(EFT)などの金融資産だ。

記事は株価の下支えのために金融資産を購入していると言っている。なぜ指標に連動する商品を買うと株価が上がるのかはわからない。この界隈の人たちには自明のことなのかもしれないし、あるいは別のメカニズムが働いているのかもしれない。いずれにせよ株価が押し上がることで富裕層と企業には恩恵が期待できる。

株価の上昇は、資産効果などを通じて個人消費を押し上げるほか、企業の資金調達環境やマインドの改善によって設備投資を促すことが期待できる

だが、実際には物価は期待しているほどには上昇していないし、企業も内部留保を蓄積している。つまり期待するような効果は出ていない。株価の下支えには別の目的があるか何かが間違っていて効果が出ていないのだろう。安倍政権は嘘つき政権なので実際の動機と説明が違っているということは十分に考えられる。

だが野党系にも日銀出身の人がおり、彼らが黒田総裁を論破できていないということは、すなわちそれなりには理論構築ができているということになるだろう。あるいはなんらかの想定や見込みがありそれを掲げている限りは政策が破綻しないということになる。

このニュースを見て行くと意外なことがわかる。実はこの政策を始めたのは民主党政権なのである。これは既視感のある話だ。安倍政権は悪事を働くときに自分から動いたりはしない。民主党政権が「決断した」ものを利用する。例えば南スーダンのPKO派遣がそうだった。TPPも自民党内の反対派を抑えるのに「もう始まったことだから」として推進された。

大企業が「株価が上がり」なおかつ「株主の監視の目が薄くなった」ことで恩恵を得ているのは間違いがない。さらに企業経営者たち安倍政権が終わることでこの政策が見直される可能性があることを知っているのかもしれない。

記事はいささか難しく書いているが、そもそも株価を日銀が支えていることはわかっているので、買い入れをやめますといっただけで株価が下がってしまう可能性が高い。だが、国際のような償還期間がないので、日銀が積極的に売る決断をしなければいつまでも持っていなければならない。この記事が「爆弾だ」と言っているのは「いつかは売らなければならないが売ると言った途端に株価が暴落する可能性がある」からである。

この記事にはわからないこともある。多くの国では金融緩和政策が終わりを迎えている。だからうまく行けば日本の金融もそれにつられて自然と上向く可能性がある。そのあとで金融資産を売って規模を縮小しても構わないわけだ。しかし、記事は他の国が金融緩和政策をやめたら日本もやめなければならないので時間がないと言っている。これが理解できない。

一つヒントになるのは記事の中で使われている耳慣れない経済用語「飛ばし」だ。企業が業績の悪化を隠して別の会計に一時退避させることを飛ばしと言っているらしい。

飛ばしがいけない理由については個人的に記事を書いている人がいた。もともと損が出るはずだったのをごまかすのがよくないということのようだ。株価が不当だったということになり、その当時の取引の妥当性が全て失われるということである。つまり、損が出ていると知っていれば投資をしなかった人を巻き込むのがいけないと言っているのだ。

オリンパスの飛ばしについては別の記事がある。いずれは株価が回復するだろうという見込みの元に損出を隠したようだ。

このことから、飛ばしがいけない理由がわかる。企業の場合は法律が禁止しているから飛ばしはいけない。だが、国の場合には飛ばしをしてはいけないという法律はないようなので(だから黒田さんは次も総裁ができるのだろう)それが実質的にいけないことを証明しなければならないことになる。

一時的に国の経済に損出が出たことがわかるとパニック的な売りが広がる可能性がある。だからそれを保護してパニックが起こらない程度に損を均すという効果が期待できる。あるいはそうこうしている間に日本経済は回復するかもしれない。リーマンショックは一時的な問題だったわけだから、この政策に正当性がないとは言い切れない。と同時に「危機が去った」ように見えてしまうので、構造的な問題は解決できない。だから構造的な問題は温存されどんどんひどくなって行く可能性もある。

つまり、回復を織り込むならそれは必ずしも悪いこととは言えないが、構造的な問題を隠蔽するために行ったとしたら問題があるということになる。詳しくはわからないものの飛ばしがいけないのは弱い人間の心理が後者の可能性を否定できないからだろう。さらに付け加えれば「回復するのか、それとも原因が温存されるか」は誰にもわからない。今の日本経済の状況はまさにそれにあたる。

ロイターの調査に戻ると、日本の企業はこの変化が構造的な日本企業の弱体化であることを知っていて「その場しのぎがいつまで続けられるかはわからないが、少なくとも自分が役員をやっている間は続いて欲しい」と願っている可能性が高い。その意味で「麻薬のようだ」と思う。なぜならば、企業が業績の回復を期待するなら設備投資や人材投資が増えるからである。その意味でいうと統計というのは実に正直なのだ。企業は経済の回復に自信はないが、当座は以前よりマシになったと考えているのである。

そもそも、民主党政権はこうした副作用のある政策をなぜ始めてしまったのだろうか。今は政権批判ばかりしているので批判がない問題は「なかったこと」にされてしまう。だから、民主党にいた人たちがこのことを自発的に考察しないのはわかっている。しかも民主党系の野党は批判しかしないので支持が集まらない。

少なくとも民主党は自分たちが政権を手放してしまえば後になって悪用される可能性のある政策を実行していたのは明白なようである。その当時、十分議論しなかった可能性もあるだろうし、わかっていてやった可能性もある。このことを総括して国民の前に提示することは「政権交代ありき」の政治を日本に浸透させようとした人たちの責任だろう。

仮に彼らが自己反省の上で与党攻撃を行ったとすれば、それは今よりもはるかに説得力のあるものになるだろう。それは政党批判ではなく政策批判だからだ。希望の党と民進党はまた集合することに決めたようだが、政党の看板をころころ変える暇があるのなら、政策の総括も同時に進めて欲しいと思う。

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野党の審議拒否はいいことなのか悪いことなのか

野党が審議拒否に入ったようでTwitterでは「野党の職場放棄だ」とか「原因は自民党が作った」と割れている。これはいいことなのか悪いことなのかを考えようとしたわけだが、何を基準にして善悪を見て行けばいいのかわからない。

基準そのものをしばらく考えているうちに考察は意外な方向に進んだ。まず、日本人はこの内輪揉め自体を愛している。だがその姿勢は同時に国際社会からの排除につながっている。

さて、話を本論に戻す。国会が機能不全に陥るのは悪いことなのだが、自民党と公明党がいれば法案は通ってしまうわけだから実は政治にとっては「ニュートラル」な出来事でしかない。つまりどっちでもいいことになる。審議拒否によって決められない法案は「その程度のものだった」といえるだろう。

もちろん審議拒否すれば安倍政権の評価は下がるかもしれないが、野党の支持が上がるわけではない。野党にとっては得とは言えないが、これも「自民党から代わりの政権が出てくるんだろうな」と考えると、現状には何の変化も及ぼさず、従って「別にどうでもいい」ということになってしまう。

ここまで考えると「倫理的な良し悪しはわからないものの、結果だけを見るとどっちでもいい」ということがわかる。

では日本には解決する課題はないのだろうか。例をあげてみた。

  • 国際社会からは置いて行かれる。
  • 株を買って支えているだけの経済の立て直しが難しくなる。
  • 少子高齢化が進行する。

どれも日本人が見たくないものばかりである。これに最近の問題を加えてみる。

  • アメリカは貿易交渉を迫っている。
  • 北朝鮮情勢が変化しアジアに新しい枠組みができようとしている。

審議拒否をしている時間はないように見えるが、かといって日本がどうこうできる問題でもなさそうである。

ではどうしてこんなことが起こるのか。前回までは北朝鮮の問題を見ながら考えた。日本人は異質なものに囲まれてこなかったので過剰に敵と味方を区別したがるというような分析をした。しかし味方だと勝手に考えているのは日本人だけでアメリカからは「薄笑いを浮かべる気持ちの悪いやつ」と思われており、中国、韓国、北朝鮮の悪口を触れ回っているうちに「あの人たちは仲間に入れるのはやめておこう」と遠ざけられるようになった。

安倍首相の幼稚で頑なな「僕の友達、僕の敵」思考がどうやって育まれたのかは興味のある話題なのだが、同じようなメンタリティは野党の側にもある。野党の人たちも細かな違いにこだわりくっついたり離れたりしている。共産党は嫌だが人気のない第二自民党も嫌だ。だったらどっちにつこうかなといってうろうろとさまよっている議員が大勢いるのだ。戦略的に連携しようという人はいない。

ではなぜ戦略的に連携しようとする人はいないのか。それが今回の問題を考えるキーになる。

少なくとも審議拒否に陥る原因が「与野党どっちにあるのか」というのはかなり愚問だことがわかる。安倍政権は特に頑なな政権であり嘘をついても絶対に認めないし、野党の言い分を取り入れることを「敗北だ」と思っている。だが、野党の方も自民党の別のルートを使って妥協を探ったり違いを乗り越えて味方を増やすというようなことはやらない。

自分にも断絶した関係がある。そこで個人的に歩み寄れない理由を考えてみた。日本人はとくくっていいかもしれないと思うのだが、本質を理解しない。ただ「相手が怒ってはいるようだからとりあえずこれをいうのはやめておこう」という理解をするようだ。だから繰り返し問題が起こる。

「本質を理解しない」というと理屈っぽく聞こえるので、最近起きた事例をご紹介したい。長尾敬という自民党の議員がMeToo運動を揶揄して世間の反発を買った。彼は「セクハラ問題を無視するのはまずいな」ということまでは気がついたようだ。そこで「俺は絶対にセクハラしない」と宣言した。しかしそれがなぜ悪いのかということは全く考えなかったようだ。ワーワー騒いでいる女性議員は容姿に問題があると思ったのだろう。だから「あの人たちはセクハラからは縁遠い」と言ってしまった。オフィシャルな場では男女の違い考慮しないというのがセクハラ問題の「本質」なのだが、表面だけを見て全部理解できたと思い込んでしまう。だから同じような問題がいつまでもなくならない。

本質というのが大げさなら裏側にある原理と言っても良い。では、日本人が相手の行動の裏にある原理を理解できないのはなぜなのだろうか。それは原理を考えずに自分の常識を接ぎ木するからだろう。接ぎ木で構わないのは相手と自分の行動原理が似ているという環境に育ったからだ。

この能力は外国語の習得に似ている。英語が苦手な人は日本語の文章を英語でどう言えばいいのだろうかと考える。そして多くの人がここから抜け出せない。しかし日本人が英語ができないというのも嘘だ。高卒の野球選手の英語がメジャーリーグで通用することもある。英語が上達した人は最初から英語で考えているということである。

少し理屈っぽくなるがつまり「言語によらない考え」というものがあって、それを表現から分離することができれば2カ国以上を話すことができる。ネイティブ言語というのはこの考えと表現が一体化しているということだ。男性社会をネイティブ文化とする人が男女機会均等方時代を生きるということは外国語を話すというのに似ている。

その意味では長尾さんが「怠けているから失言する」というのではないかもしれない。他人との共感を結ぶという政治スキルに欠けているのだろう。こういう人に何を言っても無駄なのだとも言えるし、長尾さんを執拗に攻撃するのも残酷ということになる。

日本人はこのネイティブ文化を意識できないのから変えることができない。そこで変化が起きないように内輪揉めを繰り返している。しかしこの内輪揉めにはそれ自体が楽しい。自分のネイティブ文化が優位であると考えて優越感に浸るのも楽しいし、何かに抗議しているのも楽しい。でなければTwitterがこれほど盛り上がるはずはない。実は野党の人たちも永遠の政界再編を楽しんでいるかもしれない。

ではなぜ我々は内輪揉めに耽溺できるのか。ここからが問題である。それは大した問題が起きないからだ。これは野党を見ていればよくわかる。問題は山積しているのだが、それはなかったことにしてみんなで大騒ぎしている。

さてこの裏返しが中国やアメリカは北朝鮮と共存できる理由になる。日本人にとって北朝鮮の物語は桃太郎である。つまり悪い鬼である北朝鮮が成敗され「めでたしめでたし」となる。桃太郎の物語のあとについて考える人はいないが村人は「仲よく暮らしましたとさ」となるはずだ。しかし、中国やアメリカが北朝鮮を受け入れられるのはそれを不確定要素として組み込むからだろう。彼らは永遠の闘争を生きていることになる。

野党再編でとりあえずの妥協ができないのは野党の人たちが桃太郎を念頭に置いているからだろう。つまり、新しい野党ができたときには自分の価値観が優位になり「いつまでも幸せに楽しく暮らしましとさ」となるはずなのである。

安倍首相も「日米同盟はもう出来上がった」と考えているからこそ愛想笑いを浮かべていることになる。だが、アメリカ人は「もう出来上がった関係」などというものは考えない。だから違いが生まれるということになる。例えば、トランプ大統領から「ディール」をとったら何が残るか。もしかしたら退屈で死んでしまうかもしれない。日本人が内輪揉めに耽溺できるのと、北朝鮮問題に対処できないという問題はつまりコインの裏表になっているのではないだろうか。

もし、日本に対応する問題がないなら、野党の審議拒否はニュートラルな価値しか持たない。しかし、日本が変化に富んだ状況に対応して行かなければならないとしたら、それは悪いことだ。さらに、その原因を作っているのは野党だけではないが、かといって誰かが怠けているからというわけではない。変化に対応するためのスキルに欠けている。

さらにいえば、世界と日本では安定に関する考え方が全く違っているということがわかる。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。

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