問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

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貴乃花の変節からわかる日本の組織がいつまでも変わらない理由

前回のエントリーではマクドナルドという古い企業がなぜ新しい技術を導入できないのかを考えた。そして、その原因は日本の村落的な仕組みと責任もって物事を進めるプロジェクトリーダーの不在にあった。では責任を持って物事を前に進めようとするとどうなるのかということを考えたくなるのだが、それにぴっったりな事例が見つかった。それが貴乃花親方問題である。

貴乃花親方の変節を見るとなぜ村落共同体が自浄作用を働かせることができないのかがよくわかる。貴乃花親方の目的は相撲をより魅力的な競技にするために暴力を排除するという、誰が見ても否定できないものだった。だがそれは実現しなかった。この問題だけを見つめていると、単にもやもやして終わりになるのだが、実は問題は簡単に解決する。

貴乃花親方が変節した理由は簡単だ。白鵬の暴力を罰しようとして世論誘導をしていたのだが、今回貴公俊が同じ立場になってしまったので「報復」を恐れたからである。逆に考えると、報復を恐れて拳を振り下ろしてしまったことで白鵬の告発が「報復」であったことを認めてしまったことになる。相撲界は部屋という村落の共同体なので、報復の目的は村落的な競合関係から抜け出して優位な立場に立つことである。つまり、組織全体の改革が親方同士の内乱に矮小化されるという構造的な問題があるのだ。それを解決できるのは理事長だけなのだが、理事長も村おさたちの利権を守る互助会の長にすぎないので抜本的な解決を目指さない。

加えて、改革を訴えた人は人格否定をしているように捉えられてしまう。つまり、暴力追放という目的ではなく、親方の人格に焦点が当たるのだ。マスコミで大きく報道されたこともあって「相撲界はダメなのではないか」という印象が広がったと怒りを感じている親方が多かったのではないだろうか。これが貴乃花を角界から追放しろという声につながった。それに対する八角理事長の答えは「貴乃花は人気だけはあるから、改革などという余計なことはしないで、客寄せとして頑張れ」というものだった。つまり、利用価値があるから黙らせて使うべきだというのである。

こうした社会ではそもそも問題を指摘することが人格否定につながってしまうので改革どころか問題の指摘すらできない。問題を指摘した人は反逆児と考えられて、社会から抹殺されるリスクにさらされてしまう。さらにそれは個人だけではなく部屋への報復につながる。今回もこの騒動が起きてから貴乃花部屋の力士の問題行動が伝えられたが、内部からのリークが多かったのではないかと思う。

前回のマクドナルド問題ではwi-fiという新しい技術をとり仕切るマネージャーがいないことが問題だった。マネージャーに責任だけを与えても本部もフランチャイズも責任を押し付けあって決して問題は解決しないだろう。その上「あいつは嫌な指摘ばかりをする」として出世競争から排除されてしまう可能性が高い。貴乃花問題ではさらに表ざたにしにくい暴力について扱うわけだからそれは新しい技術の導入よりも難しい作業になるだろう。

何か改革をしようとしたら、周りの人を怒らせることになるのは当然のことである。だから権限と責任が大切だ。しかし、日本の組織で「責任を取る」ということは運を天に任せるということになりがちなので、責任が取りたくても取れないという人が多いのだろう。ミドルクラスのマネージメントを経験した人なら多かれ少なかれ同じような経験をしているのではないだろうか。

日本の報道はこの村落を所与のものとして捉える。相撲界の仕組みには詳しくなったし、親方に序列があることもわかった。これはマクドナルドにフランチャイズと本部があることに詳しくなったり、財務省の中にも理財局や地方組織があるということに詳しくなったのと似ている。だが、どうしたら暴力がなくなるのかという問題についてだけは一向に答えが見つからない。

責任を透明にするために日本の民主主義社会は法治主義という制度を取り入れた。あらかじめ、法律で処分が規定されており第三者がどのような責任を取らせるのかということを「周りの人たちの気分とは関係なく」決めるのが法治主義だ。だから相撲界にも法治主義を入れて「相撲裁判所」のようなものを作って報復と切り離せば問題は解決する。親方が反省してもしなくても暴力について評価が出せる。

だが、ワイドショーを見ていると日本人はそもそも法治主義を理解していないので「公正な組織を作って判断すべきですよね」という声は上がらない。代わりに出てくるのは第三者機関なのだが、第三者機関の人選がマネージメントに左右されてしまうので、第三者機関を評価する第三者機関が必要ですねということになる。第三者機関というのはその人たちが人的に評価を決めるということだから、人治主義に人治主義を重ねても法治にはならないのである。

政治の世界も同様だ。日本には法治主義などはなく、その場の気分や内閣の都合で判断が歪められることが「望ましくはないが当然」と考えられている。よく「法治主義を取り戻せ」などというのだが、実際には法治主義などないのだから取り戻しようがない。さらにこう叫んでいる人も「安倍は絶対に怪しいから政権から引き摺り下ろせ」と人民裁判的な報復を叫ぶ。これは逆の立場になったときに同じことをされる危険があるということである。

いずれにせよ日本に法治主義がないことの弊害は、新しい技術を導入した、問題を解決できないことにあるということがわかった。日本マクドナルドはwi-fiを扱えないし、相撲は暴力問題を解決できない。そして、日本政府は透明で公正な行政を実現できないので国民と協力しあって国をよくすることはできない。

問題を解決したり、新しいスキルを導入することを世間一般では成長と呼ぶ。つまり、できるだけ公正なジャッジに基づく法治主義が根付かない国や社会は成長することができないのである。

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マクドナルドのwi-fiはなぜつながらないのか

千葉市のマクドナルドでwi-fiが接続できないという経験をした。近隣の三店舗あるのだがそのうち二店舗がアウトだった。たまたまなのかもしれないのだが、構造的な問題があるようだ。大げさに聞こえるかもしれないのだが、森友学園問題で安倍政権に感じる「もやもや」との共通点も多い。キーワードになるにはまたしても「村落」である。マクドナルドのような外資系の会社にも村はある。




日本国民は政府のユーザーだ。疑問への答えが返って来ればそれ以上は追求しないはずである。森友学園の問題も説明さえしてもらえればいい。しかし、現実はどうだろうか。財務省の内部のセクションの名前や担当者の名前はたくさん出てくるものの、一向に「森友学園へなぜ割安の土地が払い下げられたのか」という問題についての説明はない。そのうち「わざとだろう」ということになり問題はエスカレートしてゆく。

同じようにマクドナルドのwi-fiはつながらずそれについて説明を求めても明快な返事はない。そして同じようにマクドナルドの内部で何が起きているのかということに詳しくなってしまうのである。具体的にはフランチャイズが本部からwi-fi設備を押し付けられているのである。

どうしてもつなぎたい場合にはいったん電波を掴んでから電波の強度チェックをするといいと思う。二階の席でギリギリでここから外れると電波が途切れてしまった。全ての席で使えるようにはなっていないのだ。

近辺の3つのマクドナルドはどれもフランチャイズだ、人の出入りが多いショッピングモールにあるマクドナルドでは問題なくwi-f-接続ができたのだが他に店舗ではダメだった。

最初の店舗ではそういうものなんだろうなと思いカスタマーサポートの技術担当にクレームを入れて終わりになった。「本部に伝えます」とのことだった。しかし二店目ではもっとひどい問題が起きた。

お店のルーターはカウンターに置いてあるのだが「ルーターは二階の店長の部屋にある」し「お客様に勝手に対応してもらうことになっています」と言われた。実はルーターはカウンターの下にあるのでこれは嘘だということがわかっていた。そこでカスタマーサポートに連絡した。直接話してほしいというと、まず従業員同士で電話の押し付け合いが始まった。チームリーダーみたいな人があまり詳しくない人に電話を押し付けていた。そして押し付けられた人は電話を取ったままで延々とカスタマーサポートの人と話しはじめた。ギロッと睨まれたので多分恨まれているんだろうなあと思ったのだが、こちらもだんだんイライラしてきた。お客さんの私物の電話で延々と話し続けていたからだ。

結局、休憩していたというマネージャークラスの「SHIMIZUさん」が飛んできた。お客さん用の接続マニュアルがありルーターは下にありますという。SHIMIZUさんはマニュアルの存在と初期対応を知っていたのだが、その下の人たちがいうことを聞かないのだろうと思った。

この従業員のやる気のなさの原因は程なくしてわかった。店長が連絡してきて「お店はハンバーガーを売っているだけであって、wi-fiを提供しているわけではない」と言い放ったのである。正直な感想だとは思うのだが、それをお客さんに直接いうんだと思った。さらに「こうなったら設備の電源を切って、ステッカーも剥がして、このwi-fiはつながりませんという但し書きを店内に置く」と言い始めた。

だが、店長にも言い分があった。実はwi-fiの費用はフランチャイズ持ちなのだそうだ。本部に言われるがままに店を改装しパソコンが使える電源を配備した上で、ソフトバックに月々の金を払っているのだという。だが、マクドナルドは何の情報も渡さずあとは勝手にやってくれと言わんばかりだというのである。

さらに店長は「お前は前にもクレームを入れてきただろう、あの時にも本部に連絡したが、機械には問題がないと言われたぞ」と凄んでくる。つまりいちゃもんをつけていると思われたらしい。確かに別店舗についてのクレーム入れたがこの店を利用するのは初めてだった。前にも本部にクレームを入れて適当にあしらわれたということと、この店がwi-fiルーターを持て余しているということはわかる。さらにルーターを再起動してもらったときにSHIMIZUさんにIPアドレスが取れていなかったが取れましたよねと説明してあるのだが、多分誰も理解していないのだろうなと思った。ルーターは再起動しないということなので問題は長い間(もしかしたら1日以上)放置されていたのかもしれない。

だが店長はテクニカルサポートに対しても怒っていて「接続したままで文句を言われなくなるまで」設備は提供しないと客に向かって宣言したのである。具体的には、ちゃんとした技術的案内があるまで設備の提供を中止するのだという。

店長は本部への不満をぶちまけたのち電話を切った。そこでマクドナルドに電話をして「企業の公式見解を求めます」と宣言した。マクドナルドのカスタマーサポートは謝罪はしてくれるが、決して原因究明はしない。本部にレポートはあげるかもしれないがその結果をお客さんにフィードバックする権限はないのである。だから、問題は本部の人が認識するまで放置される。前回の安全偽装の問題でわかったのは、本部の人はネットやテレビで炎上するまで問題を放置するということなのだが、多分この問題も同じように放置されるのだろう。業績は上向いているとはいえ企業体質は変わってしないのだ。

サポートのたかみさんという女性は国会対応に置ける太田理財局長のような役割を担っている。つまり、謝罪はしてもよいが抜本的な改革は約束してはいけないし、顧客に報告する権限もない。それはマクドナルドでは本部と店側の問題だ。太田理財局長は行政府と議会にかわって問題解決を約束してはいけないのだ。

だが、本部も議会も責任はとらないのだから、謝りつつも具体的な約束は何もしないというのが「リスク管理」になってしまう。たかみさんの話を聞いていて「国会答弁みたいだな」と思ったのだが、多分日本中でこの「太田話法」が広がっているのだろう。

マクドナルドでwi-fiが使えなくても特に問題はない。今回は返金してくれた上にポテトのサービス券もくれたのでコールセンターと会話した無駄な時間以外に実害はない。それに、居心地のいい空間が必要ならスターバックスにゆけばよい。不思議なことに同じ機材を使ってもスターバックスやコンビニで接続できないという経験はない。

しかし国の場合には別の国に移住するわけにも行かない。そして相手が逃げようとしていると思うと自動的に追求したくなってしまう。野党が「もりかけばかりに集中する」気持ちがよくわかった。明らかな問題があるのに権限がない現場の人が決して認めようとせず、怪訝がある人たちは決して責任をとろうとしない。するとついつい追いかけてしまうのである。

マクドナルドはwi-fiがまともに扱えない理由はいくつかある。まずは古い体質のフランチャイズの人たちが抵抗していて新しいサービスを覚えようとしない。彼らには拒否権がないのでいやいや設備は導入するが決して納得はしていない。そしてその不満を平気で顧客にぶつけてくる。従業員は「そんなお金はもらっていないから」と言って拒否し、店長は「本部が悪い」と罵る。しかし考えてみればwi-fi機器の仕組みはそれほど難しいものではないし、定期的に状態をチェックすべきだ。しかし、彼らはそれをやらない。

だが、こうした問題は認識されることがない。なぜならばwi-fi環境についての責任者がいないからである。本部は売り上げをあげるのが仕事であり、フランチャーズはハンバーガーを焼くのが仕事だ。そしてサポートセンターはお客さんに謝って何もしないのが仕事になっている。テクニカルサポートはそんな中で「端末を再起動して、ルーターの近くに座って、ダメなら諦めてください」というのが仕事になっている。つまり、それぞれのムラができているということだ。ここに足りないのは新しい技術なりサービスの導入をするために責任と権限を与えられた組織横断型のプロジェクトマネージャーだが、日本的な村落共同体には村の領域を超えたリーダーは生まれない。だからこの問題は村落の構造問題なのである。

この経験から、なぜ私たちが財務省の中の組織に詳しくなってゆくのかがわかる。日本人は「問題が起きた責任」は自分の村の外にあると考えるからである。実際には協力して対処しあえないことが問題なのだが、日本人は決して他人とは協力しない。だから村人が指ししめす通りに歩いていると「村を一周したね」ということになって終わる。もしくは、不満が爆発し「リーダーの首を挿げ替えろ」ということになるのだろう。

今回の森友学園問題の問題では「安倍やめろ」コールが起きている。もしかしたら安倍首相はやめてしまうかもしれないが問題そのものは残るだろう。さらに悪いことに問題の記憶が政権ごと消えてしまうので、また一からやり直しになってしまうのだ。

次回のエントリーではなぜ問題が解決に向かわないのかを貴乃花親方の事例をあげて説明したい。これも村落が絡んでいる。

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自らアジアの大国の地位を投げ捨てて白昼夢に逃げ込んだ安倍政権

金正恩朝鮮労働党委員長が中国を電撃訪問した。報道によるとアメリカと韓国はこの訪問について事前に知らされていたそうだ。この時安倍官邸は「情報収集に努める」としており完全に蚊帳の外にいたことがわかる。

この出来事は歴史の上では大きなターニングポイントとして語られることになるのではないだろうか。それは奇しくも安倍首相が掲げていた「戦後レジーム」の破壊である。日本が東アジアの大国だった時代は終わり、重要なことは中国とアメリカの間で決まる。そしてその二つの大国を地域に繋ぎとめるための道具が朝鮮半島なのだ。この新しい国際秩序の中に日本の存在は必要ない。それどころか日本を悪者に仕立てることで彼らの結びつきはより一層強固なものになるかもしれない。つまり、日本は蚊帳の外にいるわけではなく新たな役割を与えられるわけである。

この事態を招いたのは安倍政権と政権を甘やかす人たちの存在である。現実を決して直視しようとせず空想の中に逃げ込んだ。それは安倍政権が積極的な役割を果たしたから北朝鮮が対話路線に切り替えたという誰も信じない物語である。この物語を永田町で繰り返すことで国会議員たちは安倍首相の気持ちを慰撫しなだめている。

北朝鮮は生き残りをかけてピボット的な国際戦略を打ち出したのだろう。ピボット戦略とは米国と中国を関与させることでお互いを競わせるという戦略である。唯一の超大国がない世界ではこのピボット戦略こそが大国の周辺国がとるべき道だ。東アジアでは、韓国と北朝鮮が主導的に対話路線に切り替えて、それをアメリカと中国が後見するという図式である。

この結果、アメリカは戦略の変更を余儀なくされる。常識的に考えると南北融和はアメリカがこの地域から排除されることを意味しているはずだ。韓国を後見するために半島に駐留しているのだから南北が融和してしまえば役割はなくなってしまうからである。しかしながら、この2カ国が現状を維持したまま世代をかけて段階的に融和して行くとすれば、アメリカは一方の後見国としての地位に止まりつつも中国と強調して地域の安定を図る責任ある大国として少なくとも今後しばらくの間は地域に関与する大国として振る舞うことができる。

実はこの体制はヨーロッパと中東での反省を踏まえている。これらの地域では、ロシアとアメリカは競合関係になっており、どちらも地域安定に貢献する大国としての役割を果たせてはいない。そればかりかその間に挟まれた国では恒常的な内戦状態も生まれている。中国はロシアのようにアメリカと全面対決する道を選ばず協調路線を演出して見せることにより、アメリカの手が及ばない中央アジアでのプレゼンスを高め、インド・日本・オーストラリアが協調して中国を封じ込めるという図式を牽制することが可能になる。

さらに金正恩も反逆児という印象を払拭し「責任ある地域の一員」として貢献する世界のリーダーとしてデビューできるだろう。今すぐ核兵器を排除する必要はない。これ以上の開発をやめてアジアの平和が実現したら完全に核兵器をなくすと約束しさえすればよいのだ。中国の影響をほのめかしつつアメリカをこの図式に引き込んでしまえば「ディール」は成立する。非核化は長い間かかる段階的なプロセスなので、アメリカはそれを見守るために引き続き韓国に駐留して牽制を続けて良いですよとさえ言えば良いのである。その間FTAを結んで韓国に一方的な経済ルールを押し付けたとしてもそれは中国と北朝鮮にとってはあずかり知らぬことである。

こうした図式ができてしまえば日本は完全に蚊帳の外である。それどころか「圧力一辺倒」だった日本を排除することで地域融和を演出することもできる。日本は第二次世界大戦を反省していない懲りない悪辣な国であり、その脅威から大陸の平和を守る必要がある。そしてその反動日本を押さえつけるのも日本の役割なのである。つまり、日本を悪者としておいておくことで「日本の暴走をアメリカが抑えておくから」という図式が作れることになる。

このように安倍政権には利用価値がある。第二次世界大戦を反省しない「極右的な」反動国で、常に周囲が監視を続けなければならない。その証拠に北朝鮮に対して圧力一辺倒で核兵器の使用すらほのめかしつつ「恫喝している」というレッテルを貼ることで地域の結束を強めることができる。表面上は反対しつつも実は彼らにとって「おいしい」政権なのである。

この意味で、安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を訴えていたのだが、皮肉なことにこれは自己実現するかもしれない。戦後レジームというのは東西冷戦を前提にした緊張関係を意味していた。朝鮮半島が緊張していたからこそ日米の強固な同盟関係が成り立っていたのである。しかし、緊張関係がなくなり日本が悪者となれば沖縄の基地の意味は全く異なったものになる。つまり、米軍は朝鮮半島から日本を守るために存在するという図式ができる。東アジアで排除されたくないアメリカはこれに乗ってしまうかもしれない。

その意味では、日本だけがこの会談を知らされなかったというのは重要な意味を持っていることになる。安倍首相は4月にアメリカを訪問するのだが、ここでは二つのことを言い渡される可能性があるということだ。一つは地域の融和に水をささないように釘をさされ、アメリカにとって<不当な>貿易不均衡を是正してアメリカの機会が最大化されるように市場を解放しろと迫られるのである。歴史的な大局観がなく、国内政治の行き詰まりを外交で打開したい安倍政権は目先の<成果>と引き換えにこのディールに乗ってしまう可能性が高い。せいぜい半月くらいヘッドラインニュースに乗るくらいの<成果>かもしれないが、政権末期とはそのようなものだ。

物語に固執して現実をみようとしなかった安倍政権は、内政の制圧には成功した。しかし、地域情勢は動いており、大きく国益を損なった可能性がある。安倍政権の支持者たちは白昼夢に浸ることで現実を直視しない道を選ぶだろうし、自民党も現実的なリーダーを選び直すチャンスである総裁選まで形の上では安倍首相を支えなければならない。この間、東アジアの国際情勢の組み替えに一切コミットできない。安倍首相の岸田さんになれば大局観をもって修正を図ることはできるかもしれないが、石破さんでは怪しい。仮に野党が政権を握れば多分取り返しのつかない空白が二、三年続くことになる。そして安倍首相が3期目を迎えれば多分日本は、少なくともこのゲームでは「終了」だろう。

今すぐこの懸念が正しいかどうかがわかるわけではないのだろうが、後からみて「あの時が転換点だ」と呼ばれることになるのかもしれない。

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人の魂が目の前で死んでゆくのをみた – 佐川さんの証人喚問

佐川さんの証人喚問が終わった。これまでの経緯は矛盾に満ちているのだが「訴追されるかもしれないから」と言って一切答えなかった。一方で、首相・その他の政治家・夫人の関与は一切なく、官邸も関与していないと明言した。今回の証人喚問についても自分は官邸と連絡は取っていないとのことだった。

これがあまり不自然に聞こえないのは実は我々がこの件について深くコミットし始めているからだろう。全員が「野党の追求を逃れるためにやっているのだ」と理解しているから佐川さんの節ぜな証言が自然に感じられてしまう。だから、丸川珠代議員は面倒なことは一切聞かなかった。彼女が問題にしているのは首相がやめる原因の排除だけであって、政府で文書の改竄そのものは些細な出来事に過ぎない。もし仮に本当に官邸が何も知らないとしたら足元で官僚が不正を働いていたことになり、官邸の面目は丸つぶれである。しかし、彼女はそれを一切問題にしなかった。

「進展がなかった」と言っている人もいるが、ここまで隠そうとしているのだから政治家が関与していることは明らかだ。と同時に、今の政治はこの問題を正常化することができないということもよくわかった。国会審議というのは儀式(リチュアル)であって形式上整っていれば実質がどんなにデタラメでもよいということを意味する。この態度は安倍政権では一貫しているので特に驚くには当たらないのだが、有権者は単に慣らされているに過ぎない。我々は「政治ってそんなものだろう」と洗脳されているのである。

そんな中で佐川さんは人間になる機会を失ってしまった。ある意味では被害者なのだが、この問題が深刻さは、彼が無責任な安倍政権の忠実な代理人として官僚組織の信頼を完全にぶち壊してしまった点にある。

森ゆうこ議員が午前中の尋問の中で「後輩たちはこれから矛盾をつかれて面倒な立場に置かれることになるが」というようなことを言ってた。佐川さんはこれに対して「私は訴えられる可能性があるからわかって欲しい」と答えていた。佐川さんが何年財務省にいたのかはわからないが「最後に自分が助かるためなら、財務省の信頼などどうなっても構わない」と国民の前で宣言してしまったことになる。

官邸が描いたシナリオは、佐川さんに道義的責任は押し付けるが刑事罰は見逃してやるというものだったのだろう。その代わりに政治家と昭恵夫人の関与だけは明確に否定しろという取引を持ちかけたのではないかと思う。お目付役として数々の不正から政治家を救ってきた検事上がりの弁護士を座らせたうえで、恫喝して証言を買ったわけである。

ただ、佐川さんにもそれが現場に責任を全て押し付けて逃げ切るということを意味するということはわかっているはずだ。検察当局は明確に関与があったことを証明できなければ佐川さんに刑事罰を与えることはできない。殺人でいえば証拠がなく自白頼みだというようなことである。だから証言さえしなければ佐川さんは助かる見込みが強い。だが、現場は実際に文章を書き換えているわけだから罪に問われることになるだろう。


「佐川さんが書き換えをやったと断定しているのではないか」と思う人がいるかもしれないので補足したい。佐川さんは証言の終盤疲れ切っているところで「第三者的な立場から書き換えが起こっているのを見た」というような言い方をしていた。旧知の仲である逢坂さんに対する証言で「起きた」と言っているのだ。つまり、頭越しに書き換えが行われていた可能性がある。ただ、これは別組織(官邸である可能性が極めて高い)と現場が公式なルートを超えて<調整>を行っていた可能性があるということを意味する。現在の電子決済・紙決済システムのもとでは非公式の決済が行われる可能性があるということなのだろう。


さらに嫌な予感もある。この件については少なくとも一人以上は絶対に証言できない人がいる。そのうちの一人は電子決済システムにある途中経過を印刷して唯一の自己証明として持っていたのだろう。彼は「このままでは矛先は自分に向かう」ということを十分すぎるほど知っていたことになる。もう証言できないのだから「あの人が悪かった」ということにしてしまえば、隠蔽はなかったことになり「丸く収まる」のである。

今回の証言から官僚組織には「最後には組織などどうなってもいいから自分たちのことだけは守りたい」という強い気持ちがあることがわかった。だが、それが露出すると官僚組織は「上の人たちは責任を取らないで天下りなどのおいしい思いができるが、下の方にいる人たちはいざとなったら責任を押し付けられる」という極めて病的なものになってしまう。電子決済システムなど取り入れられてしまえば、後からいくらでも改竄ができて、その経過が決して外の守れないような仕組みが作られるだろう。安倍政権は今回電子決済システムがトレースすることで自分たちのデタラメな政治が露見する可能性があるということを学んだわけだからそれに<改良>を加えることになることは明白である。

不健全な官僚組織がこの後どのような悪影響を国にもたらすのかを正確に予想するのは難しい。佐川さんは今回魂を売ることで身の安全を守ろうとしたわけだが、その結果起こるのは官僚組織の良心の破壊である。これは組織の失敗や暴走をかろうじて食い止めるはずの個人の良心が機能を失うということを意味している。そして、政治はそれを食い止めることができないし、そのつもりもないようだ。

日本には、真面目で職人気質の人たちが一人ひとりの仕事を全うすることで組織を健全に保ってきたという誇らしい歴史がある。安倍政権はこれを完全に破壊しようとしている。彼らにとっての美しい国というのは自分たちのついた嘘が決して露見しない国のことである。ただ、組織としての圧力はとても強いようだ。もともと国をよくしようという志を持って勉学に励み、その後もただひたすらに国に尽くしてきたはずの人が、最後には自分の名誉を守るため魂を売ることになったのだ。

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ガン細胞としての安倍政権と免疫細胞としてのデモ

NHKの人体が最終回を迎えた。これまでメッセージ物質という人体内のコミュニケーションプロセスについて扱っていたのだが、今回はガン細胞もメッセージ物質を使って人体をコントロールするというような話を紹介していた。自己増殖が目的化して暴走したのがガン細胞であり、そのために最終的には体を滅ぼしてしまう。この番組を見ながら安倍政権はガン細胞みたいだと思った。

誰かをガン細胞扱いすると単にレッテル貼りだと非難される可能性が高い。だが、やはりこれは重要な視点である。つまり、安倍政権をガン細胞だと考えるとそれを抑制する免疫機能は何だったのかという疑問に突き当るからである。持続可能な社会というのは免疫機能に当たる何かが備えられているはずで、それを突破したのが安倍政権ということになる。実際に重要なのはレッテル貼りではなく、何が免疫機能なのかを知ることなのだろう。

昨日の答弁を見た限りでは自民党は変わりそうにない。「この改竄事件は官僚が勝手にやったことであり、安倍首相も麻生大臣も関わっていない」という筋で乗り切るつもりのようだ。前回官僚機構を恫喝して悪評が立ったので、温和そうな武見議員を前面に押し出して対処していた。その上で国民の目を北朝鮮に向けさせて「こんなことをしているような余裕はない」というシナリオになっていた。トランプ大統領を抑えられるのは安倍首相しかいないという「物語」は事態を悪化させるとは思うが、武見議員は与えられた仕事をうまくやったと思う。ただ、山本一太議員はなぜか安倍首相を持ち上げて「ああ、やっぱりこの人たちは変われないんだろうな」という印象を強く打ち出していた。ただこれは山本さんの味なので、これについてとやかく言うつもりはない。

自民党のこの態度はいつものことなので、特に絶望は覚えなかった。絶望したのは太田理財局長の答弁だ。太田さんは安倍政権の作ったシナリオを「正解」として覚え始めていた。この方は財務省次官候補のエースなのだそうだが「正解がないと何もできない」という病のようなマインドセットを抱えているようだ。こういう人が財務省ではエースと呼ばれるのだなと考えると暗い気持ちになる。つまり、これは官僚組織が現状にあった正解を探索できないということを意味しているからだ。

話をよく聞いていると反省してるという態度は見せつつ何も回答していなかった。最終的に福山哲郎議員に押し切られ「私は答えられない」と追い詰められていた。これには二つの理由がある。そもそも正解に破綻があるので正解を答えてもだれも納得しない。さらに、佐川さんがまだ証人喚問に応じていないので参考書がまだ埋まっていない。佐川さんが答えた時点でそこが埋まるので、そのあとはそれを前提に無理のあるシナリオを答弁することになるだろう。

太田さんの答弁から、日本にはそもそも普通に考える「事実」という概念は存在しないということがよくわかる。普通「事実」というのはありのままに起こったことを指すのだから、個人の見解や心象を聞けばそれが事実になるはずだ。つまり、お話を作って暗記する必要はない。財務省の中だけでも様々な見解があり、お互いにうまくコミュニケーションが取れていなかったようだから、その事実はお互いに矛盾したものになるだろう。だがこれは日本では「個人の見解」や思い込みということになり事実とはみなされない。事実というのは後から作られた「解釈」の事なのである。与党と野党の解釈は異なっているのだから「本当に何が起こったのか」が解明されることはないはずである。

普通の日本の組織には明確な目的があり、ストーリーメーキングが暴走することはない。組織の利得が最大になるようにあるプロセスに従って事実を組み上げるからである。ところが、政治家は外から自己の正当化のためにこの非公式ルートを使おうとした。これが暴走の原因になっている。この事実が気に入らない人がいるから途中経過を持ったまま亡くなる人が出たわけだし、リークも出ている。だがそもそも「ありのままの事実」という概念がないので、新しい事実が明るみに出るたびに事実を変化させてゆく。こうして組織がどこに向かっているのかがわからなくなる。つまり異物が取り付いて外から記憶を操作しているのが安倍政権なのである。ガン細胞という言い方はショックかもしれないが、実際に起こっていることを見ると外からの病変が意思決定と現状認識に影響を与えているのは間違いがない。

世間では「だれが悪いのか」ということが問題担っているようだが、実際には安倍政権の自己保身と官僚組織の問題二つ(正解を暗記し、組織として正解を作る)が組み合って問題が起きている。

だが、この意思決定の仕組みはかなり曖昧に作られている。少なくとも財務省は近代的な民主主義が受け入れられなかったようだ。電子決済システムは権限を明確にした上で仕様を決めてプログラミングをしてゆく。仕様を作るためには「権限」が規定されている必要がある。しかし、財務省は電子決済システムをうまく運用できていなかったようで、電子決済システムで作った資料を印刷して利用していたということがわかっている。この印刷されたもう一つの決済文書は、法律でプログラムされていない「根回し」に使ったのではないかと思われる。

安倍首相は電子決済を徹底して組織を立て直すと言っているのだが、これは非公式のルートをなくすということを意味している。だが、そもそも政治家の関与があるから非公式ルートがあると考えると、安倍政権には(もしくは野党にも)組織の立て直しはできない。

しかし、こうした非公式な意思決定ルートはそれなりの経緯で構築されており、普段はうまく動いている。安倍政権がここに取り付かない限り暴走が表面化することはなかっただろう。

安倍首相は昨日今井総理補佐官の名前が出た時い落ち着きをなくし、なんども答弁を確認していた。財務省官房は「官邸の関与がなかった」とは断言しなかった。今はまだ追求されていないがこの辺りにも物語があるのだろう。物語は官邸の関与を隠すために作られているようなので、総理の関与は明白である。だが、この関与は少なくともプロセス上の法律違反にはならないように「設計」されていたのだろう。こうした設計ができるのは公式ルートの他に記録に残らない非公式ルートがあるからである。つまり、官僚が持っていた仕組みをうまく利用しているのだ。

前回はデタラメな英語を例にあげて「そもそもコミュニケーションをするつもりがないのにデタラメな文章を綴っている」と安倍政権を分析した。だが、この分析は間違っていたようだ。自己増殖と自派閥の強化が自己目的化しているとはいえ、その暴走は通常のコミュニケーションルートを使って行われるからだ。

さて、普段こうした暴走が未然に防がれるのはなぜなのだろうか。それは常識のある人たちが組織の内部で抑えていたからだろう。亡くなった職員は「信じていたものが裏切られた」と語っているようなのだがこうした一人ひとりの良心が免疫の役割を果たしているはずである。だから免疫を保全する上でのホイッスルブローイング(内部告発)は非常に重要なのだ。

また、Twitterでめちゃくちゃなことを言われても「いやそんなデタラメはないですよね」といなすのも免疫の一部と言えるし、素直な良心からくるデモ行為も健全であれば免疫機能を果たしていると言える。

ただ、この免疫機能がいつもうまく働くとは限らない。この辺りはもう少し丁寧に考える必要があるのだが、免疫不全を起こす例をあげてみよう。

  • 私一人が何かを言っても組織や社会は動かないから何を言っても無駄という無力感。
  • 自分はおかしいと思うが組織の論理というのはこういうものなのだろうという納得。
  • とにかく安倍政権はおかしいというストーリーに固執して違った可能性を受け入れないし、感情的に詰り続ける頑なな態度。
  • 普通の個人が政治に関心を持つはずなどないのだからあの人たちはだれからお金をもらっているのだろうという懐疑心。

個人の「これはおかしいのではないか」という社会常識は意外に健全だと思う。これがうまく働かないと、結果として組織防衛が自己目的化して暴走することになる。私たちは何が社会をかろうじて暴走から守っているのかということをもっと考える必要がある。

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馬鹿は放置しておいたほうが良いのではないか

これまで、村落共同体について見ながら「日本人の行動原理」について考えてきた。その動機はいくつかあるが、日本人の行動原理について知れば合理的な民主主義にコンバートするためのきっかけがつくれるのではないかというのもその一つである。だが、それはちょっと違うのかなと思う出来事があった。「馬鹿には何をいってもダメなのかもしれない」と思ったのだ。

ヤフオクで安いカメラがないか眺めていたところ次のような英文が見つかった。多分、間違った英語にも著作権があるのだろうが、ちょっとがっくりきているのでそのまま引用なしで使うことにする。

Will be determined at the auction will always check the notes on the trading block before you bid, please we accept notes from our

上の日本語をみると「取引する前にメモを見てくれ」というようなことが書いてある。ヤフオクでは取引条件を読まずに入札してあとでいろいろと文句をつけてくる人がいるのだろう。こうしたフレーズ自体は珍しくない。英文にはそれを匂わせる単語が含まれているのだが、全体的に意味をなしていない。多分、そもそも伝える気がないのだろう。こうした伝える気がない英語は実は珍しくない。よく広告の包み紙や看板などで意味がわからない英語が使われている。

と同時に、この人は日本語の文法を理解しているのだろうかと思った。日本語で「あなたはここに書かれている文章を読んでから入札しなければならない」という文章を書き起こせさえすれば、あとはそれを翻訳して行けばよいからだ。もし、文法が意識されないのに普段から日本語が正しく書けているとしたら、日本人はどのように文法を意識しているのだろうかなどと考えた。

そうこうしつつ文章を眺めているうちに、この人が何を理解していないのかということを分析することにどれくらい意味があるのだろうかと思った。明らかに「わけのわかんないガイジンは近寄らなくてもいいんだよ」というのが伝えたいことなので、そもそも英語の文章が成立していなくてもそれほど気にしない人なのだろう。これが平気でいられるのは書いた英文がわからないからである。こういう人が英文法を学びたいと思っているとは考えにくい。

ここでいう馬鹿というのは「中学校レベルの英語すら話せない人」という意味なのだが、実際には「最初から学ぶつもりも意思疎通するつもりもない」人たちを意味している。最初からコミュニケーションを拒否している人を説得するのは不可能だ。

同じことが民主主義についても言える。民主主義というのは単に「みんなで多数決をして何かを決めて行きましょう」ということではない。民主主義はヨーロッパに生まれた社会統治の仕組みであり、文法や文化的背景がある。社会の自由を保証することで競争力を強めて行こうという考え方が民主主義である。もともとは同じ言葉をは話す「民族」をひとかたまりで社会と呼んでいたのだが、そのあり方は変化しつつある。つまり、社会の自由を肯定しつつ終わりのない変化に対して試行錯誤を繰り返すのが民主主義の本来の姿なのだ。

だから、安倍政権のようにそもそも民主主義を理解するつもりがなく「海外では民主主義というものがかっこいいらしいので、とにかく民主主義っぽいものを並べてそれっぽくやっていれば、なんとかなるんじゃないか」などと思っている人にいくら民主主義の基本を解いてみても意味はないのだろう。安倍政権は民主主義という言葉を通じてコミュニケーショを取ることを拒絶しているという意味で「馬鹿な」政権だということになる。

安倍政権は明らかに民主主義が理解できていなかった。議会というのは単なる儀式にすぎず、行政府と立法府の違いすらわからなかった。憲法は単なる努力目標で自分たちの考える美しい国柄を定めたものだなどといって憚らなかったし、統計資料というのは都合のよいデータだけを引っ張り出してくればよいなどと思っている。さらに外交についても単にお金をばら撒いて相手の機嫌をとりつつ自分たちの売りたいものを売れれば良いと考えているようだ。それを支援する人の中には「日本人に天賦人権は似合わない」という人や、弱肉強食の国際社会でみんな友達などという間違ったことを教えるのはよくないといって憚らない人たちが大勢いる。日本人の目から見ても異常だし、西洋の基準に照らし合わせてもデタラメである。

こういう状態が長く続いたために「なんとかしなければ」と考えてきたのだが、それは全て無駄な試みだったのかもしれない。民主主義を理解するつもりがない人に何を言っても無駄だ。こういう人たちに民主主義の基本的なルールを弄ばれてはたまらない。

色々と考えていると疲れてしまうし、本当は民主主義なんかないんじゃないかという気分にすらなってしまう。ネトウヨ化した自民党をいくら眺めてみても解決策は見つからないだろう。英語を学ぶためには簡単な文法を学んだ上でちゃんと英語を話せる人とコミュニケーションを取る必要がある。同じように民主主義を学ぶためには基礎を学んだら、民主主義が機能している国の人とコミュニケーションを取る必要があるのだろう。

日本には日本にあった統治の仕方がある。日本はもともと小さな利益共同体を核にした変化しない社会である。ただ、安倍政権を見ているとこちらの文法も正しく理解していない可能性が極めて高い。無自覚なのかもしれないが、省庁間の緊張のバランスを崩してみたり、自分たちの利権を導入してみたりとやりたい放題だった。しかしその結果利権を侵害された官僚組織から様々な形で復讐され始めている。

その意味では次の政権は正しく民主主義を理解している人が首班になってほしい。だが、それも叶わないならば正しい日本の利権構造がわかっている人が首班になるべきだろう。それはかつてあった政官財が癒着した政治の姿なのだが、それでも全く会話が成り立たないよりはマシである。いずれにせよ、日本型の利益共同体と西洋型の民主主義のどちらも理解しないままで「決められる政治」など目指せるはずはない。安倍政権の唯一の成果はそれが大衆レベルで理解されたことなのかもしれない。

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民主主義とは多数決のことなのか

Quoraで面白い質問を見つけた。民主主義は51%の人が49%の人を抑圧する可能性のある制度であるが、その欠点をどう克服すべきかというのである。とても違和感を持った。

考えてみれば、高度経済成長期からバブル期にかけてこのような疑問を持つ人はあまりいなかった。まず民主主義の過程の一部に不具合があるのだろうかと考えたのだが、しばらく考えているうちに「実は誰も満足していないのではないか」と思った。実は民主主義が機能していないからこそ多数決という意見が出てくるのかもしれないと思ったのだ。

かつて、社会党が代表する野党勢力はだいたい1/3程度を占めていた。だが彼らは「社会から排除されている」というような気持ちではなかったはずだ。それほど必死な気持ちで野党を応援していたのではなく単に「多数派に組み込まれるのはかっこ悪い」くらいの気持ちで野党に入れていた人も多かったからだ。もちろん社会に不満を持つ人たちもいた。例えば、首都圏の大学には「天皇制は絶対に反対だ」などという人たちもいて、角棒を持ってデモに参加したりもしていた。しかし、彼らは49%のマイノリティだとは思っておらず、もっと少数派であると思っていたはずである。

Quoraでは交通ルールに例えて民主主義についての説明を試みた。車が自由にどこかに行くためのルールを管理するのが民主主義であり、どこに行くのかを決めるのは民主主義ではないと説明したのだ。つまり、赤信号で止まるというのは民主主義だが、山に行くのはいいが海に行ってはいけないというのが民主主義ではないということになる。例えば商法は商売上のルールを決めているのだが、商売で何を儲けるべきかということは書いていない。どこに行くか(つまり何を商売にするのか)はそれぞれが決めるのである。

だが、実際にはこの「民主主義は自由を保証するためのルール」という言い方はきれいごとにしか聞こえないかもしれないなとも思った。なんとなく、一部の人たちが全てを決めていて自分たちの言い分は通らないような感覚を持つことが多いからだ。さらに国会ではいつも議席の多数を持っている自民党の人たちが全ての物事を決めており、数で劣る野党の言い分はほとんど通らないように見える。多分「51%が……」という質問はこうした状況を念頭に置いているものと思われる。

そこで色々と考えたところ、いくつかのポイントを思いついた。

第一のポイントはすでにあげたように「政府が行き先まで決めている」というものである。つまり、法律が及ぶ範囲が間違っているのである。つまり、民主主義が人々の行動まで支配ようとしているか、ある種の行動を不当に抑制している可能性がある。もともと日本には近代化して西洋に支配されない国を作るという目標があり戦後まで続いた。だから国が行動規範までのを決めているという可能性があるということになる。実際には省庁が「指導」という形で企業の行動に口を出していることが多い。

次のポイントは日本人の妥協ができないという特質だ。このブログでは「村落」と呼んでいる。最終的にすり合わせをするのが民主主義だとしたら、擦り合せる文化がないかやり方がわからないという可能性である。与野党が妥協できないという稚拙さばかりが目につくが、考えてみると学校でも習わない。学校では、先生の言われた通りに行動するか行動規範が最初から決まっている場合がほとんどである。つまり日本人は正解のない状態に慣れていないので、いろいろな意見を聞きながら、当座の正解を決めることができない。生徒はいつもルールに従わされるだけの存在であり、自由というのは「先生の目を盗んで校則を破る」ことだけになる。これが「従わされている」という心理状態を生むのだろう。

しかしながら、もっと考えを進めて行くと面白い可能性に気がついた。つまり自分たちがマイノリティだと感じている人たちが本当にマイノリティなのかという問題である。例えば自民党の支持者は30%程度程度しかないという話を聞いたことがある。少数派にすぎない彼らは、小選挙区制では支持政党のないマジョリティよりも政治的影響力が強い。公明党支持者などはもっと数が少ないがキャスティングボートを握っているので影響力が強い。つまり、実は特定のマイノリティが政治を支配しており、マジョリティが自分たちをマイノリティだと感じている可能性がある。つまりマジョリティの意見が集約されていないということだから、民主主義がそもそも機能していない可能性がある。

しかしながら、当の自民党支持者の人たちも全てを自分の思い通りに動かせているわけではない。あれほど強い影響力を持っているとされた日本会議ですら憲法改正の議論を前に進められていないし、経済団体が期待したようにはアメリカもいうことを聞いてくれないようだ。つまり、彼らも自分たちのことを多数派だと思っていない可能性がある。そもそも少数派だからお金をつかって政治に関与しようとするわけだが、影響力を行使できても結局は思い通りに政治が動かせているとは言えないのである。

最近の政局を見てもわかるように、もともと自民党を支持していた人たちのうちの一部が「やっぱり自民党はやめた」というと、砂山が崩れるように支持率が動く。40%の支持率が30%になると「じゃあ自分たちも支持をやめる」などといって離反してゆくわけである。すると、自民党の中にいる人たちの中にも「次の総裁は安倍さんではないのかもしれない」と動揺する人が現れる。政局は文字通り「流動的に」動いてゆく。最後に残った安倍派は実はほんの少数で、しかも社会常識から乖離した社会的スキルのない人ばかりだ。彼らのことを多数派と呼ぶことはできそうにもない。

ここからわかるのは実は誰も世の中を動かしていない可能性だ。そこでほとんど全ての人が「政治は自分の思い通りに動いていない」という不満を持つのではないだろうか。

民主主義は多数決にすぎず少数派の自分たちの意見はほとんど考慮されないと考える人たちについて考えたのだが、もしかしたらほとんど全ての人が自分たちは少数派にすぎないと考えていて、いたずらに強硬になってゆく可能性があるということになる。そこでなぜそんなことになったのだろうかと考えてみたのだが、さっぱり理由がわからなかった。

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誰か日本の政治を動かすのか – アメリカ陰謀論について考える

安倍政権が大阪地検特捜部に「追い詰められている」。さらにトランプ大統領は日本に敵対的な貿易政策を打ち出して「安倍首相はアメリカにたいしていつも微笑んでいるが、それはアメリカを出し抜いているからだ」と語ったそうだ。

ここで思い出されるのはアメリカ陰謀論である。アメリカの機嫌を損ねた首相は地位を追われるという物語である。今回も安倍首相はアメリカの陰謀によって政権を追われるのだろうか。

アメリカ陰謀論に従えばアメリカに守られている政権は決して特捜部から「挙げられる」ことはないはずだ。実際にこの問題が国会で話題になって以降1年間は「特捜部は親米の安倍政権には絶対に踏み込まないのだ」などとまことしやかにささやかれていた。

だが、実際にはトランプ大統領はそのようなまどろっこしい手を使わなくても直接大統領令を発して日本を経済的に追い詰めることができる。また、恩を売ったからといってそれが相手に伝わっているとは限らない。こうした貸し借りの感情は極めて東洋的であり、西洋では却って不誠実さの現れになってしまう可能性があるのである。トランプ大統領の「安倍がアメリカに媚びへつらうのは計算あってのことであり、決して本心ではないだろう」という理屈の方がアメリカ人にはわかりやすい。

しかし、前回見たように日本の社会は気体のように流れ、変化も突然起こるように見える。そこで「誰かが裏で糸を引いている」ように見えてしまうのだろう。アメリカ陰謀論はそこから生まれたのだと考えられる。

アメリカ陰謀論が生まれる背景にはCIAによる日本政治への介入と、東京地検特捜部の成り立ちと関係しているようだ。CIAが戦後の混乱期とそれに続く時代に日本の政治に介入していたのは事実のようだ。しかし、CIAは日本だけでなく別の国にも選挙介入をしている。一方、東京地検特捜部はもともと戦前の秘匿資産を捜査するために生まれたのだという見解があり、孫崎享さんなどが持論を店展開している。法務省の幹部にはアメリカへの留学者も多いことから「今でもアメリカに支配されているのだろう」という疑惑の背景になっているようだ。

確かにジャパンハンドラーと呼ばれる日本利権はあるのかもしれないが、それが日本を支配しているというのは幻想にすぎない。しかし、アメリカ陰謀論は「日本はアメリカによって見守られている」という安心感も生んでいるのではないかと思う。

皮肉なことに、アメリカ陰謀論などないということを認めてしまうと日本はアメリカの庇護なしでやって行かなければならないということになってしまう。日本人はこれを認めたくないのではないだろうか。現にトランプ政権は日本を敵対的な貿易国として扱っている。この現実を受け入れてしまうと、日本はアメリカに守られて中国に対峙しているという幻想が消えて、二つの大国に挟まれた小国ということになってしまう。

ここで、実際に「アメリカの陰謀によって潰された」とされる政治家について見てみよう。この中で小沢一郎だけが首相を経験していない。

田中角栄

アメリカ陰謀論によると、田中角栄は日中間で国交を結んだことがアメリカ当局の逆鱗に触れたとされている。ロッキード事件に絡む情報をアメリカ政府からリークされて退陣に追い込まれたという通説がある。実際に日本側の調査では全容はわからず、アメリカで公開されなかった情報から疑惑の一部は謎のまま残っている。

田中角栄は政権基盤を磐石なものにするためには豊富な資金が必要だった。その調達をめぐって無理な<資金繰り>を行った可能性が高そうだ。ただ、この頃にはまだ戦後の混乱から資金や資産を獲得した人たちが残っており「全容を解明しようとしたら殺される」というような懸念が持つ人がもいるようである。また、ロッキード事件の裏には軍事兵器の調達計画なども絡んでいたようで、これが陰謀論に彩を添えている。

鈴木善幸

鈴木首相は大平首相が急死した後、突然首相になったという経緯がある。従来の主張と日米同盟という現実の間に緊張があり、それが親米派との間の対立という形で現れた。総裁に再選されれば首相を続けることができたが、突然不出馬を宣言した。このため、アメリカの陰謀があったのではないかとささやかれる原因になったそうである。アメリカのプロキシーだと言われている親米派は岸信介のようだ。

細川護煕

当時の自民党政権は「金権政治」という印象があり、細川はクリーンなイメージから担がれた。しかし、佐川急便からの借入金を未返済にしているということが問題視されて政権を追われた。

だが、支持率が下がった理由は別にある。金権政治を打破すれば政府が効率的に運用されることになり新しい税金は必要がないはずだという見込みがあったのだが、なぜか国民福祉税構想を打ち出し国民から嫌われた。

また、足元では武村内閣官房長官と小沢一郎の対立があったとも言われている。武村側が主張していた北朝鮮に融和的な姿勢が問題になったのだという指摘がある。内輪揉めの結果政権を失った経緯が不透明なので「アメリカの意向が働いたのかも」と指摘する人がおり、これがアメリカ陰謀論の元になっている。

橋本龍太郎

緊縮財政を行い村山内閣で決まっていた消費税の増税も行った。このため批判が収まらなくなり総辞職した。その後急死したためにアメリカから殺されたという風評が生まれた。

細川内閣の事例からもわかるように、国民は消費税増税を言い出す首相に「報復」する傾向があり、橋本龍太郎政権もその類なのだが、従来のスキームからの脱却を訴えた事例が見つかるとそれがクローズアップされてしまう。

橋本政権は特に反米というわけでもなかったのだが、陰謀論を唱える人たちは「過去にアメリカの国債を売ろうかな」と言ったから殺されたのだと主張している。

小沢一郎

政権側にいた時には親米だったのだが、自民党を離脱してから「反米になった」と言われた。東京地検特捜部に「貶められた」時には、反米になったから東京特捜部に狙われたのだと説明された。だが、実際にはその時々のパワーバランスをうまく利用しようとしただけとも言える。

小沢は自民党内で政争をしかけることでのし上がってきたという経緯があり、細川首相を担いで非自民勢力の一員となった。しかし、細川内閣が崩壊して政権にいられなくなったことで収入源を奪われて、従来のスキームが使えなくなった。

アメリカ陰謀論からわかること

日本の政権は表向きは選挙で選ばれたことになっているのだが、実際には内部のパワーバランスによって担がれたり降ろされたりしている。また中心的な首謀者がいるわけではなく、その時々の空気によって動く。誰かが首謀しているように見えてもきっかけにすぎない。すると誰も指示をしている人がいないのに、なんらかの意図があって動いたように見える。そこで「誰かとても重要な人からの指示を受けて動いているのだろう」と思われてしまうのではないだろうか。

そもそも強いリーダーシップが嫌われるので、既存スキームを動かすリーダーは排除される可能性が高い。消費税などはその一例だが、日米安保も既存スキーム担っているのだろう。

安倍政権はアメリカに追従していたから存続していたわけではなく、既存勢力に挑戦しなかったからこそ「便利に」担がれていた可能性が高い。だが、官僚という本来は政権を支えていたはずのパワーバランスを崩してしまったために内部から崩壊が始まった。

とにかく現状維持が目的になっているので既存のスキームを変更する試みは打ち砕かれることになる。この際たるものが憲法だ。政権が安定しないと憲法議論には着手できない。しかし、みんなを納得させて憲法議論を始める頃までには何らかの無理がかかっていて、それ以上政権を維持することができなくなっている。もともと明確な契約のもとに権限が移譲されているわけではないので「権力そのものが強くなる」と内部から崩壊してしまうのだ。

日本の政権は特に明確な約束の元に政権を預かっているわけではなく、みんなが見切りをつけたら自分も見切りをつけるという人が多いのではないかと思う。何かのきっかけで顔のない一部の人たちが離れ始めると、一気に「見切りをつける」人が増えるのだろう。だが、政権への離反が「なんとなく」起こるので、そこに意味を見出したいと感じる人がアメリカを持ち出してくるのではないだろうか。

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なぜ日本の政治議論は賽の河原に石を積むような感じになるのか

Twitterで、警視庁が東京都の条例を変更しようとしているという話が流れてきた。一読すると男女関係に絡むストーカーなどに関するように思える。これが政治や結社の自由に結びつくわけではなさそうなのだが反対する人が多い。背景に見えるのは反政府的な人たちの被害者(危機)意識だ。なぜか、政府や権力者は言論弾圧を行いたがっているという確信があるようだ。

確かに安倍政権にはマスコミに介入してきた歴史があるのだが、これも一部のネトウヨ議員たちが官邸の歓心を買いたくてやっている可能性を否定できない。何にせよ集団心理でなんとなく動く国なので、あとから意図や中心人物を特定するのが難しい。「悪の安倍首相が手下に指示を与えている」ようにも見えるし「みんなが勝手にやっている」ようにも見えてしまう。これが漠然とした不安を生み、強硬な反対運動にもつながっているようだ。

日本の政治を語る上で欠かせないのが、この集団の振る舞いだ。ある種無責任で核を持たないのだが、かといって全く実体がないとも言えない。

デモはこの実体のないものに対して行われている。だから、デモがどの程度、政権や政策に影響及ぼすのかがよくわからなくなってしまうのだ。これまでの経験から見ているとデモが政治に影響を与えたことはないようにしか思えない。

効果がないばかりか、デモが逆効果に働くことが多い。一部の特殊な人が何かやっているという印象を与える上に、何かまずいことがあったら彼らが止めてくれるだろうという安心感も生まれてしまう。すると、一般の人たちはますます政治に関心を持たなくなる。

例えば実名の質問サイトであるQUORAで明らかに反政権的なことを書くとあまり高評価が得られない。もともと政治についてはあまり意見を持ってはいけないというような規範意識が働いているようにも見えるのだが、偏りを検知して濾過してしまうのかもしれない。

この社会的機能は英語圏とは違って見える。英語圏には「ポリティカルコレクトネス」という規範体系がある。過去の反省から蓄積された正解があり、その正解に反するようなことをいうと一斉に批難されるのだ。その意味では一種の偏りが社会に組み込まれているといって良いかもしれない。社会には記憶装置が付いていて、そこにいろいろな人が知恵を付け足してゆく社会と言える。つまり社会は媒体なのだ。

しかし日本人は少なくとも名前を出している場所では「個人としてどちらかに味方するようなことは言ってはいけない」という規範があるのかもしれないと思う。この偏ってはいけないという規範意識はどこから生まれるのか、そしてどうやって習得されるのか、考えてみてもよくわからない。

いずれにせよ、日本人は集団では別の振る舞いを見せる。何かに所属している場合は「個人としての意見は言ってはいけない」ということになっている。個人として誰かの悪口を言うということは、何かの組織に所属しているということを半自動的に意味する。個人は意見を持たないという前提があるからだ。だからこそ「偏った」意見は個人ではなく集団の意図が働いていると半自動的に認識されるのだろう。だから、表向きは個人であってもそこに集団の影を見てしまうのだ。

これは言い換えれば、個人の集団は村によって決まるので個人は色を持ってはいけないということになる。だから、個人が個人の資格で参加する社会には色があってはいけないのである。

このため、SNSで特定の政治家について公平でないコメントを繰り返していると、時系列的に分析されて「この人はこの政治家とは違う勢力に属しているか雇われているのだろう」という類推が働く。そうした意見は全て「立場が言わせていることだから」という理由で考慮リストから外される。警察が取り締まるまでもなくこうした意見は政治的にはあらかじめ排除されてしまうのだ。

では、権力者は何に支配されているのだろうか。実はここにも集団が出てくる。それが支持率である。

もともと安倍政権が語っていたストーリーとは違う「物証」がでてきたことで「風向きが変わり」支持率が下がったことが自民党を動揺させている。支持率は匿名なので「だからこそ真実が映し出される」と考えられているということになる。デモと支持率の違いは「顔がでた集団かどうか」なのだ。

面白いことに、個人としての名前が出ていないことで「公平なのだ」という受け止めがされる。その結果「みんながダメだと言っているのだからもうダメなのだろう」ということになり、自民党の中からも「安倍政権はもう長くないかもしれない」という動きが起こりつつあるということになる。

面白いのはデモが全く政治に影響を与えていないのに、匿名の一部がなんとなく動くと、それにつれて一斉に「これは安倍官邸がやっていたことで自民党は関係がない」などと「自民党のみんな」がざわつき始めるということだ。実際には全ての支持者が反安倍に傾いたわけでもない。

このように社会は風に流されて何も記憶しない。英語圏の社会は媒体だったのだが、日本の社会は気体であり記憶を定着させることはできない。デモの主体であれば説得したり懐柔したりすることもできるのだが、世論調査で流される人たちは説得ができない。世論は、良いと思えば持ち上げるし、単に嫌になれば離れてしまうのだ。

安倍政権はその意味では空気に支えられた政権だった。今回森友学園問題で弁護士役を買って出た人たちは安倍チルドレンと呼ばれる利益集団を持たないネトウヨ議員たちだ。麻生財務大臣も菅官房長官もあれだけ安倍政権を支えていたのに、今では「いつ離れるか」ということがマスコミの最大の話題になっている。

利益集団が安倍政権を支持していたのは「なんとなく世論調査で支持されている」からにすぎなかったということだ。だから、憲法を変えたいというオーダーがあれば、あまりやる気はないのに、なんとなく議論を行う。国の根幹をなす憲法議論は利益集団とは関係がないのだから「お付き合い」にすぎない。

しかし、いったん「みんな離れ始めているなあ」という観測が出ると、総裁選を前倒しして安倍政権を切り離してしまったほうが得なのではないかと思い始める。その時点で「実は嫌いだったんだよね」などと言い出す人がでてくる。結局、個人として確固とした意見はなくみんなに流されていただけということになる。

最初にみたように英語圏の事例では社会という集団があり、ある程度明確な行動規範があった。政治議論というのはそこに記憶を定着させてゆく作業なのである程度の手応えがある。一方、日本の政治議論は空気に向けて字を書いているようなところがある。風向きが変われば全てが消えて最初からやり直しになる。

では記憶さえできれば良いのかという疑問もわく。デモには様々な記憶が蓄えられてゆく。逆に蓄えられた記憶が現実によって書き換えられることはないので、いつの間にか「あの人たちは特殊な人たちなのだ」ということになってしまうのだろう。一方で、ネトウヨと呼ばれる人たちもいろいろな陰謀論や記憶を蓄えていて独自世界が構築されている。その意味では、日本の政治議論というのはムラに記憶を蓄えてゆく作業にすぎないということになってしまう。

これで本当に良いのかというのが今回の最後の疑問になる。

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