貴乃花の変節からわかる日本の組織がいつまでも変わらない理由

前回のエントリーではマクドナルドという古い企業がなぜ新しい技術を導入できないのかを考えた。そして、その原因は日本の村落的な仕組みと責任もって物事を進めるプロジェクトリーダーの不在にあった。では責任を持って物事を前に進めようとするとどうなるのかということを考えたくなるのだが、それにぴっったりな事例が見つかった。それが貴乃花親方問題である。

貴乃花親方の変節を見るとなぜ村落共同体が自浄作用を働かせることができないのかがよくわかる。貴乃花親方の目的は相撲をより魅力的な競技にするために暴力を排除するという、誰が見ても否定できないものだった。だがそれは実現しなかった。この問題だけを見つめていると、単にもやもやして終わりになるのだが、実は問題は簡単に解決する。

貴乃花親方が変節した理由は簡単だ。白鵬の暴力を罰しようとして世論誘導をしていたのだが、今回貴公俊が同じ立場になってしまったので「報復」を恐れたからである。逆に考えると、報復を恐れて拳を振り下ろしてしまったことで白鵬の告発が「報復」であったことを認めてしまったことになる。相撲界は部屋という村落の共同体なので、報復の目的は村落的な競合関係から抜け出して優位な立場に立つことである。つまり、組織全体の改革が親方同士の内乱に矮小化されるという構造的な問題があるのだ。それを解決できるのは理事長だけなのだが、理事長も村おさたちの利権を守る互助会の長にすぎないので抜本的な解決を目指さない。

加えて、改革を訴えた人は人格否定をしているように捉えられてしまう。つまり、暴力追放という目的ではなく、親方の人格に焦点が当たるのだ。マスコミで大きく報道されたこともあって「相撲界はダメなのではないか」という印象が広がったと怒りを感じている親方が多かったのではないだろうか。これが貴乃花を角界から追放しろという声につながった。それに対する八角理事長の答えは「貴乃花は人気だけはあるから、改革などという余計なことはしないで、客寄せとして頑張れ」というものだった。つまり、利用価値があるから黙らせて使うべきだというのである。

こうした社会ではそもそも問題を指摘することが人格否定につながってしまうので改革どころか問題の指摘すらできない。問題を指摘した人は反逆児と考えられて、社会から抹殺されるリスクにさらされてしまう。さらにそれは個人だけではなく部屋への報復につながる。今回もこの騒動が起きてから貴乃花部屋の力士の問題行動が伝えられたが、内部からのリークが多かったのではないかと思う。

前回のマクドナルド問題ではwi-fiという新しい技術をとり仕切るマネージャーがいないことが問題だった。マネージャーに責任だけを与えても本部もフランチャイズも責任を押し付けあって決して問題は解決しないだろう。その上「あいつは嫌な指摘ばかりをする」として出世競争から排除されてしまう可能性が高い。貴乃花問題ではさらに表ざたにしにくい暴力について扱うわけだからそれは新しい技術の導入よりも難しい作業になるだろう。

何か改革をしようとしたら、周りの人を怒らせることになるのは当然のことである。だから権限と責任が大切だ。しかし、日本の組織で「責任を取る」ということは運を天に任せるということになりがちなので、責任が取りたくても取れないという人が多いのだろう。ミドルクラスのマネージメントを経験した人なら多かれ少なかれ同じような経験をしているのではないだろうか。

日本の報道はこの村落を所与のものとして捉える。相撲界の仕組みには詳しくなったし、親方に序列があることもわかった。これはマクドナルドにフランチャイズと本部があることに詳しくなったり、財務省の中にも理財局や地方組織があるということに詳しくなったのと似ている。だが、どうしたら暴力がなくなるのかという問題についてだけは一向に答えが見つからない。

責任を透明にするために日本の民主主義社会は法治主義という制度を取り入れた。あらかじめ、法律で処分が規定されており第三者がどのような責任を取らせるのかということを「周りの人たちの気分とは関係なく」決めるのが法治主義だ。だから相撲界にも法治主義を入れて「相撲裁判所」のようなものを作って報復と切り離せば問題は解決する。親方が反省してもしなくても暴力について評価が出せる。

だが、ワイドショーを見ていると日本人はそもそも法治主義を理解していないので「公正な組織を作って判断すべきですよね」という声は上がらない。代わりに出てくるのは第三者機関なのだが、第三者機関の人選がマネージメントに左右されてしまうので、第三者機関を評価する第三者機関が必要ですねということになる。第三者機関というのはその人たちが人的に評価を決めるということだから、人治主義に人治主義を重ねても法治にはならないのである。

政治の世界も同様だ。日本には法治主義などはなく、その場の気分や内閣の都合で判断が歪められることが「望ましくはないが当然」と考えられている。よく「法治主義を取り戻せ」などというのだが、実際には法治主義などないのだから取り戻しようがない。さらにこう叫んでいる人も「安倍は絶対に怪しいから政権から引き摺り下ろせ」と人民裁判的な報復を叫ぶ。これは逆の立場になったときに同じことをされる危険があるということである。

いずれにせよ日本に法治主義がないことの弊害は、新しい技術を導入した、問題を解決できないことにあるということがわかった。日本マクドナルドはwi-fiを扱えないし、相撲は暴力問題を解決できない。そして、日本政府は透明で公正な行政を実現できないので国民と協力しあって国をよくすることはできない。

問題を解決したり、新しいスキルを導入することを世間一般では成長と呼ぶ。つまり、できるだけ公正なジャッジに基づく法治主義が根付かない国や社会は成長することができないのである。

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自らアジアの大国の地位を投げ捨てて白昼夢に逃げ込んだ安倍政権

金正恩朝鮮労働党委員長が中国を電撃訪問した。報道によるとアメリカと韓国はこの訪問について事前に知らされていたそうだ。この時安倍官邸は「情報収集に努める」としており完全に蚊帳の外にいたことがわかる。

この出来事は歴史の上では大きなターニングポイントとして語られることになるのではないだろうか。それは奇しくも安倍首相が掲げていた「戦後レジーム」の破壊である。日本が東アジアの大国だった時代は終わり、重要なことは中国とアメリカの間で決まる。そしてその二つの大国を地域に繋ぎとめるための道具が朝鮮半島なのだ。この新しい国際秩序の中に日本の存在は必要ない。それどころか日本を悪者に仕立てることで彼らの結びつきはより一層強固なものになるかもしれない。つまり、日本は蚊帳の外にいるわけではなく新たな役割を与えられるわけである。

この事態を招いたのは安倍政権と政権を甘やかす人たちの存在である。現実を決して直視しようとせず空想の中に逃げ込んだ。それは安倍政権が積極的な役割を果たしたから北朝鮮が対話路線に切り替えたという誰も信じない物語である。この物語を永田町で繰り返すことで国会議員たちは安倍首相の気持ちを慰撫しなだめている。

北朝鮮は生き残りをかけてピボット的な国際戦略を打ち出したのだろう。ピボット戦略とは米国と中国を関与させることでお互いを競わせるという戦略である。唯一の超大国がない世界ではこのピボット戦略こそが大国の周辺国がとるべき道だ。東アジアでは、韓国と北朝鮮が主導的に対話路線に切り替えて、それをアメリカと中国が後見するという図式である。

この結果、アメリカは戦略の変更を余儀なくされる。常識的に考えると南北融和はアメリカがこの地域から排除されることを意味しているはずだ。韓国を後見するために半島に駐留しているのだから南北が融和してしまえば役割はなくなってしまうからである。しかしながら、この2カ国が現状を維持したまま世代をかけて段階的に融和して行くとすれば、アメリカは一方の後見国としての地位に止まりつつも中国と強調して地域の安定を図る責任ある大国として少なくとも今後しばらくの間は地域に関与する大国として振る舞うことができる。

実はこの体制はヨーロッパと中東での反省を踏まえている。これらの地域では、ロシアとアメリカは競合関係になっており、どちらも地域安定に貢献する大国としての役割を果たせてはいない。そればかりかその間に挟まれた国では恒常的な内戦状態も生まれている。中国はロシアのようにアメリカと全面対決する道を選ばず協調路線を演出して見せることにより、アメリカの手が及ばない中央アジアでのプレゼンスを高め、インド・日本・オーストラリアが協調して中国を封じ込めるという図式を牽制することが可能になる。

さらに金正恩も反逆児という印象を払拭し「責任ある地域の一員」として貢献する世界のリーダーとしてデビューできるだろう。今すぐ核兵器を排除する必要はない。これ以上の開発をやめてアジアの平和が実現したら完全に核兵器をなくすと約束しさえすればよいのだ。中国の影響をほのめかしつつアメリカをこの図式に引き込んでしまえば「ディール」は成立する。非核化は長い間かかる段階的なプロセスなので、アメリカはそれを見守るために引き続き韓国に駐留して牽制を続けて良いですよとさえ言えば良いのである。その間FTAを結んで韓国に一方的な経済ルールを押し付けたとしてもそれは中国と北朝鮮にとってはあずかり知らぬことである。

こうした図式ができてしまえば日本は完全に蚊帳の外である。それどころか「圧力一辺倒」だった日本を排除することで地域融和を演出することもできる。日本は第二次世界大戦を反省していない懲りない悪辣な国であり、その脅威から大陸の平和を守る必要がある。そしてその反動日本を押さえつけるのも日本の役割なのである。つまり、日本を悪者としておいておくことで「日本の暴走をアメリカが抑えておくから」という図式が作れることになる。

このように安倍政権には利用価値がある。第二次世界大戦を反省しない「極右的な」反動国で、常に周囲が監視を続けなければならない。その証拠に北朝鮮に対して圧力一辺倒で核兵器の使用すらほのめかしつつ「恫喝している」というレッテルを貼ることで地域の結束を強めることができる。表面上は反対しつつも実は彼らにとって「おいしい」政権なのである。

この意味で、安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を訴えていたのだが、皮肉なことにこれは自己実現するかもしれない。戦後レジームというのは東西冷戦を前提にした緊張関係を意味していた。朝鮮半島が緊張していたからこそ日米の強固な同盟関係が成り立っていたのである。しかし、緊張関係がなくなり日本が悪者となれば沖縄の基地の意味は全く異なったものになる。つまり、米軍は朝鮮半島から日本を守るために存在するという図式ができる。東アジアで排除されたくないアメリカはこれに乗ってしまうかもしれない。

その意味では、日本だけがこの会談を知らされなかったというのは重要な意味を持っていることになる。安倍首相は4月にアメリカを訪問するのだが、ここでは二つのことを言い渡される可能性があるということだ。一つは地域の融和に水をささないように釘をさされ、アメリカにとって<不当な>貿易不均衡を是正してアメリカの機会が最大化されるように市場を解放しろと迫られるのである。歴史的な大局観がなく、国内政治の行き詰まりを外交で打開したい安倍政権は目先の<成果>と引き換えにこのディールに乗ってしまう可能性が高い。せいぜい半月くらいヘッドラインニュースに乗るくらいの<成果>かもしれないが、政権末期とはそのようなものだ。

物語に固執して現実をみようとしなかった安倍政権は、内政の制圧には成功した。しかし、地域情勢は動いており、大きく国益を損なった可能性がある。安倍政権の支持者たちは白昼夢に浸ることで現実を直視しない道を選ぶだろうし、自民党も現実的なリーダーを選び直すチャンスである総裁選まで形の上では安倍首相を支えなければならない。この間、東アジアの国際情勢の組み替えに一切コミットできない。安倍首相の岸田さんになれば大局観をもって修正を図ることはできるかもしれないが、石破さんでは怪しい。仮に野党が政権を握れば多分取り返しのつかない空白が二、三年続くことになる。そして安倍首相が3期目を迎えれば多分日本は、少なくともこのゲームでは「終了」だろう。

今すぐこの懸念が正しいかどうかがわかるわけではないのだろうが、後からみて「あの時が転換点だ」と呼ばれることになるのかもしれない。

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人の魂が目の前で死んでゆくのをみた – 佐川さんの証人喚問

佐川さんの証人喚問が終わった。これまでの経緯は矛盾に満ちているのだが「訴追されるかもしれないから」と言って一切答えなかった。一方で、首相・その他の政治家・夫人の関与は一切なく、官邸も関与していないと明言した。今回の証人喚問についても自分は官邸と連絡は取っていないとのことだった。

これがあまり不自然に聞こえないのは実は我々がこの件について深くコミットし始めているからだろう。全員が「野党の追求を逃れるためにやっているのだ」と理解しているから佐川さんの節ぜな証言が自然に感じられてしまう。だから、丸川珠代議員は面倒なことは一切聞かなかった。彼女が問題にしているのは首相がやめる原因の排除だけであって、政府で文書の改竄そのものは些細な出来事に過ぎない。もし仮に本当に官邸が何も知らないとしたら足元で官僚が不正を働いていたことになり、官邸の面目は丸つぶれである。しかし、彼女はそれを一切問題にしなかった。

「進展がなかった」と言っている人もいるが、ここまで隠そうとしているのだから政治家が関与していることは明らかだ。と同時に、今の政治はこの問題を正常化することができないということもよくわかった。国会審議というのは儀式(リチュアル)であって形式上整っていれば実質がどんなにデタラメでもよいということを意味する。この態度は安倍政権では一貫しているので特に驚くには当たらないのだが、有権者は単に慣らされているに過ぎない。我々は「政治ってそんなものだろう」と洗脳されているのである。

そんな中で佐川さんは人間になる機会を失ってしまった。ある意味では被害者なのだが、この問題が深刻さは、彼が無責任な安倍政権の忠実な代理人として官僚組織の信頼を完全にぶち壊してしまった点にある。

森ゆうこ議員が午前中の尋問の中で「後輩たちはこれから矛盾をつかれて面倒な立場に置かれることになるが」というようなことを言ってた。佐川さんはこれに対して「私は訴えられる可能性があるからわかって欲しい」と答えていた。佐川さんが何年財務省にいたのかはわからないが「最後に自分が助かるためなら、財務省の信頼などどうなっても構わない」と国民の前で宣言してしまったことになる。

官邸が描いたシナリオは、佐川さんに道義的責任は押し付けるが刑事罰は見逃してやるというものだったのだろう。その代わりに政治家と昭恵夫人の関与だけは明確に否定しろという取引を持ちかけたのではないかと思う。お目付役として数々の不正から政治家を救ってきた検事上がりの弁護士を座らせたうえで、恫喝して証言を買ったわけである。

ただ、佐川さんにもそれが現場に責任を全て押し付けて逃げ切るということを意味するということはわかっているはずだ。検察当局は明確に関与があったことを証明できなければ佐川さんに刑事罰を与えることはできない。殺人でいえば証拠がなく自白頼みだというようなことである。だから証言さえしなければ佐川さんは助かる見込みが強い。だが、現場は実際に文章を書き換えているわけだから罪に問われることになるだろう。


「佐川さんが書き換えをやったと断定しているのではないか」と思う人がいるかもしれないので補足したい。佐川さんは証言の終盤疲れ切っているところで「第三者的な立場から書き換えが起こっているのを見た」というような言い方をしていた。旧知の仲である逢坂さんに対する証言で「起きた」と言っているのだ。つまり、頭越しに書き換えが行われていた可能性がある。ただ、これは別組織(官邸である可能性が極めて高い)と現場が公式なルートを超えて<調整>を行っていた可能性があるということを意味する。現在の電子決済・紙決済システムのもとでは非公式の決済が行われる可能性があるということなのだろう。


さらに嫌な予感もある。この件については少なくとも一人以上は絶対に証言できない人がいる。そのうちの一人は電子決済システムにある途中経過を印刷して唯一の自己証明として持っていたのだろう。彼は「このままでは矛先は自分に向かう」ということを十分すぎるほど知っていたことになる。もう証言できないのだから「あの人が悪かった」ということにしてしまえば、隠蔽はなかったことになり「丸く収まる」のである。

今回の証言から官僚組織には「最後には組織などどうなってもいいから自分たちのことだけは守りたい」という強い気持ちがあることがわかった。だが、それが露出すると官僚組織は「上の人たちは責任を取らないで天下りなどのおいしい思いができるが、下の方にいる人たちはいざとなったら責任を押し付けられる」という極めて病的なものになってしまう。電子決済システムなど取り入れられてしまえば、後からいくらでも改竄ができて、その経過が決して外の守れないような仕組みが作られるだろう。安倍政権は今回電子決済システムがトレースすることで自分たちのデタラメな政治が露見する可能性があるということを学んだわけだからそれに<改良>を加えることになることは明白である。

不健全な官僚組織がこの後どのような悪影響を国にもたらすのかを正確に予想するのは難しい。佐川さんは今回魂を売ることで身の安全を守ろうとしたわけだが、その結果起こるのは官僚組織の良心の破壊である。これは組織の失敗や暴走をかろうじて食い止めるはずの個人の良心が機能を失うということを意味している。そして、政治はそれを食い止めることができないし、そのつもりもないようだ。

日本には、真面目で職人気質の人たちが一人ひとりの仕事を全うすることで組織を健全に保ってきたという誇らしい歴史がある。安倍政権はこれを完全に破壊しようとしている。彼らにとっての美しい国というのは自分たちのついた嘘が決して露見しない国のことである。ただ、組織としての圧力はとても強いようだ。もともと国をよくしようという志を持って勉学に励み、その後もただひたすらに国に尽くしてきたはずの人が、最後には自分の名誉を守るため魂を売ることになったのだ。

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民主主義とは多数決のことなのか

Quoraで面白い質問を見つけた。民主主義は51%の人が49%の人を抑圧する可能性のある制度であるが、その欠点をどう克服すべきかというのである。とても違和感を持った。

考えてみれば、高度経済成長期からバブル期にかけてこのような疑問を持つ人はあまりいなかった。まず民主主義の過程の一部に不具合があるのだろうかと考えたのだが、しばらく考えているうちに「実は誰も満足していないのではないか」と思った。実は民主主義が機能していないからこそ多数決という意見が出てくるのかもしれないと思ったのだ。

かつて、社会党が代表する野党勢力はだいたい1/3程度を占めていた。だが彼らは「社会から排除されている」というような気持ちではなかったはずだ。それほど必死な気持ちで野党を応援していたのではなく単に「多数派に組み込まれるのはかっこ悪い」くらいの気持ちで野党に入れていた人も多かったからだ。もちろん社会に不満を持つ人たちもいた。例えば、首都圏の大学には「天皇制は絶対に反対だ」などという人たちもいて、角棒を持ってデモに参加したりもしていた。しかし、彼らは49%のマイノリティだとは思っておらず、もっと少数派であると思っていたはずである。

Quoraでは交通ルールに例えて民主主義についての説明を試みた。車が自由にどこかに行くためのルールを管理するのが民主主義であり、どこに行くのかを決めるのは民主主義ではないと説明したのだ。つまり、赤信号で止まるというのは民主主義だが、山に行くのはいいが海に行ってはいけないというのが民主主義ではないということになる。例えば商法は商売上のルールを決めているのだが、商売で何を儲けるべきかということは書いていない。どこに行くか(つまり何を商売にするのか)はそれぞれが決めるのである。

だが、実際にはこの「民主主義は自由を保証するためのルール」という言い方はきれいごとにしか聞こえないかもしれないなとも思った。なんとなく、一部の人たちが全てを決めていて自分たちの言い分は通らないような感覚を持つことが多いからだ。さらに国会ではいつも議席の多数を持っている自民党の人たちが全ての物事を決めており、数で劣る野党の言い分はほとんど通らないように見える。多分「51%が……」という質問はこうした状況を念頭に置いているものと思われる。

そこで色々と考えたところ、いくつかのポイントを思いついた。

第一のポイントはすでにあげたように「政府が行き先まで決めている」というものである。つまり、法律が及ぶ範囲が間違っているのである。つまり、民主主義が人々の行動まで支配ようとしているか、ある種の行動を不当に抑制している可能性がある。もともと日本には近代化して西洋に支配されない国を作るという目標があり戦後まで続いた。だから国が行動規範までのを決めているという可能性があるということになる。実際には省庁が「指導」という形で企業の行動に口を出していることが多い。

次のポイントは日本人の妥協ができないという特質だ。このブログでは「村落」と呼んでいる。最終的にすり合わせをするのが民主主義だとしたら、擦り合せる文化がないかやり方がわからないという可能性である。与野党が妥協できないという稚拙さばかりが目につくが、考えてみると学校でも習わない。学校では、先生の言われた通りに行動するか行動規範が最初から決まっている場合がほとんどである。つまり日本人は正解のない状態に慣れていないので、いろいろな意見を聞きながら、当座の正解を決めることができない。生徒はいつもルールに従わされるだけの存在であり、自由というのは「先生の目を盗んで校則を破る」ことだけになる。これが「従わされている」という心理状態を生むのだろう。

しかしながら、もっと考えを進めて行くと面白い可能性に気がついた。つまり自分たちがマイノリティだと感じている人たちが本当にマイノリティなのかという問題である。例えば自民党の支持者は30%程度程度しかないという話を聞いたことがある。少数派にすぎない彼らは、小選挙区制では支持政党のないマジョリティよりも政治的影響力が強い。公明党支持者などはもっと数が少ないがキャスティングボートを握っているので影響力が強い。つまり、実は特定のマイノリティが政治を支配しており、マジョリティが自分たちをマイノリティだと感じている可能性がある。つまりマジョリティの意見が集約されていないということだから、民主主義がそもそも機能していない可能性がある。

しかしながら、当の自民党支持者の人たちも全てを自分の思い通りに動かせているわけではない。あれほど強い影響力を持っているとされた日本会議ですら憲法改正の議論を前に進められていないし、経済団体が期待したようにはアメリカもいうことを聞いてくれないようだ。つまり、彼らも自分たちのことを多数派だと思っていない可能性がある。そもそも少数派だからお金をつかって政治に関与しようとするわけだが、影響力を行使できても結局は思い通りに政治が動かせているとは言えないのである。

最近の政局を見てもわかるように、もともと自民党を支持していた人たちのうちの一部が「やっぱり自民党はやめた」というと、砂山が崩れるように支持率が動く。40%の支持率が30%になると「じゃあ自分たちも支持をやめる」などといって離反してゆくわけである。すると、自民党の中にいる人たちの中にも「次の総裁は安倍さんではないのかもしれない」と動揺する人が現れる。政局は文字通り「流動的に」動いてゆく。最後に残った安倍派は実はほんの少数で、しかも社会常識から乖離した社会的スキルのない人ばかりだ。彼らのことを多数派と呼ぶことはできそうにもない。

ここからわかるのは実は誰も世の中を動かしていない可能性だ。そこでほとんど全ての人が「政治は自分の思い通りに動いていない」という不満を持つのではないだろうか。

民主主義は多数決にすぎず少数派の自分たちの意見はほとんど考慮されないと考える人たちについて考えたのだが、もしかしたらほとんど全ての人が自分たちは少数派にすぎないと考えていて、いたずらに強硬になってゆく可能性があるということになる。そこでなぜそんなことになったのだろうかと考えてみたのだが、さっぱり理由がわからなかった。

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誰か日本の政治を動かすのか – アメリカ陰謀論について考える

安倍政権が大阪地検特捜部に「追い詰められている」。さらにトランプ大統領は日本に敵対的な貿易政策を打ち出して「安倍首相はアメリカにたいしていつも微笑んでいるが、それはアメリカを出し抜いているからだ」と語ったそうだ。

ここで思い出されるのはアメリカ陰謀論である。アメリカの機嫌を損ねた首相は地位を追われるという物語である。今回も安倍首相はアメリカの陰謀によって政権を追われるのだろうか。

アメリカ陰謀論に従えばアメリカに守られている政権は決して特捜部から「挙げられる」ことはないはずだ。実際にこの問題が国会で話題になって以降1年間は「特捜部は親米の安倍政権には絶対に踏み込まないのだ」などとまことしやかにささやかれていた。

だが、実際にはトランプ大統領はそのようなまどろっこしい手を使わなくても直接大統領令を発して日本を経済的に追い詰めることができる。また、恩を売ったからといってそれが相手に伝わっているとは限らない。こうした貸し借りの感情は極めて東洋的であり、西洋では却って不誠実さの現れになってしまう可能性があるのである。トランプ大統領の「安倍がアメリカに媚びへつらうのは計算あってのことであり、決して本心ではないだろう」という理屈の方がアメリカ人にはわかりやすい。

しかし、前回見たように日本の社会は気体のように流れ、変化も突然起こるように見える。そこで「誰かが裏で糸を引いている」ように見えてしまうのだろう。アメリカ陰謀論はそこから生まれたのだと考えられる。

アメリカ陰謀論が生まれる背景にはCIAによる日本政治への介入と、東京地検特捜部の成り立ちと関係しているようだ。CIAが戦後の混乱期とそれに続く時代に日本の政治に介入していたのは事実のようだ。しかし、CIAは日本だけでなく別の国にも選挙介入をしている。一方、東京地検特捜部はもともと戦前の秘匿資産を捜査するために生まれたのだという見解があり、孫崎享さんなどが持論を店展開している。法務省の幹部にはアメリカへの留学者も多いことから「今でもアメリカに支配されているのだろう」という疑惑の背景になっているようだ。

確かにジャパンハンドラーと呼ばれる日本利権はあるのかもしれないが、それが日本を支配しているというのは幻想にすぎない。しかし、アメリカ陰謀論は「日本はアメリカによって見守られている」という安心感も生んでいるのではないかと思う。

皮肉なことに、アメリカ陰謀論などないということを認めてしまうと日本はアメリカの庇護なしでやって行かなければならないということになってしまう。日本人はこれを認めたくないのではないだろうか。現にトランプ政権は日本を敵対的な貿易国として扱っている。この現実を受け入れてしまうと、日本はアメリカに守られて中国に対峙しているという幻想が消えて、二つの大国に挟まれた小国ということになってしまう。

ここで、実際に「アメリカの陰謀によって潰された」とされる政治家について見てみよう。この中で小沢一郎だけが首相を経験していない。

田中角栄

アメリカ陰謀論によると、田中角栄は日中間で国交を結んだことがアメリカ当局の逆鱗に触れたとされている。ロッキード事件に絡む情報をアメリカ政府からリークされて退陣に追い込まれたという通説がある。実際に日本側の調査では全容はわからず、アメリカで公開されなかった情報から疑惑の一部は謎のまま残っている。

田中角栄は政権基盤を磐石なものにするためには豊富な資金が必要だった。その調達をめぐって無理な<資金繰り>を行った可能性が高そうだ。ただ、この頃にはまだ戦後の混乱から資金や資産を獲得した人たちが残っており「全容を解明しようとしたら殺される」というような懸念が持つ人がもいるようである。また、ロッキード事件の裏には軍事兵器の調達計画なども絡んでいたようで、これが陰謀論に彩を添えている。

鈴木善幸

鈴木首相は大平首相が急死した後、突然首相になったという経緯がある。従来の主張と日米同盟という現実の間に緊張があり、それが親米派との間の対立という形で現れた。総裁に再選されれば首相を続けることができたが、突然不出馬を宣言した。このため、アメリカの陰謀があったのではないかとささやかれる原因になったそうである。アメリカのプロキシーだと言われている親米派は岸信介のようだ。

細川護煕

当時の自民党政権は「金権政治」という印象があり、細川はクリーンなイメージから担がれた。しかし、佐川急便からの借入金を未返済にしているということが問題視されて政権を追われた。

だが、支持率が下がった理由は別にある。金権政治を打破すれば政府が効率的に運用されることになり新しい税金は必要がないはずだという見込みがあったのだが、なぜか国民福祉税構想を打ち出し国民から嫌われた。

また、足元では武村内閣官房長官と小沢一郎の対立があったとも言われている。武村側が主張していた北朝鮮に融和的な姿勢が問題になったのだという指摘がある。内輪揉めの結果政権を失った経緯が不透明なので「アメリカの意向が働いたのかも」と指摘する人がおり、これがアメリカ陰謀論の元になっている。

橋本龍太郎

緊縮財政を行い村山内閣で決まっていた消費税の増税も行った。このため批判が収まらなくなり総辞職した。その後急死したためにアメリカから殺されたという風評が生まれた。

細川内閣の事例からもわかるように、国民は消費税増税を言い出す首相に「報復」する傾向があり、橋本龍太郎政権もその類なのだが、従来のスキームからの脱却を訴えた事例が見つかるとそれがクローズアップされてしまう。

橋本政権は特に反米というわけでもなかったのだが、陰謀論を唱える人たちは「過去にアメリカの国債を売ろうかな」と言ったから殺されたのだと主張している。

小沢一郎

政権側にいた時には親米だったのだが、自民党を離脱してから「反米になった」と言われた。東京地検特捜部に「貶められた」時には、反米になったから東京特捜部に狙われたのだと説明された。だが、実際にはその時々のパワーバランスをうまく利用しようとしただけとも言える。

小沢は自民党内で政争をしかけることでのし上がってきたという経緯があり、細川首相を担いで非自民勢力の一員となった。しかし、細川内閣が崩壊して政権にいられなくなったことで収入源を奪われて、従来のスキームが使えなくなった。

アメリカ陰謀論からわかること

日本の政権は表向きは選挙で選ばれたことになっているのだが、実際には内部のパワーバランスによって担がれたり降ろされたりしている。また中心的な首謀者がいるわけではなく、その時々の空気によって動く。誰かが首謀しているように見えてもきっかけにすぎない。すると誰も指示をしている人がいないのに、なんらかの意図があって動いたように見える。そこで「誰かとても重要な人からの指示を受けて動いているのだろう」と思われてしまうのではないだろうか。

そもそも強いリーダーシップが嫌われるので、既存スキームを動かすリーダーは排除される可能性が高い。消費税などはその一例だが、日米安保も既存スキーム担っているのだろう。

安倍政権はアメリカに追従していたから存続していたわけではなく、既存勢力に挑戦しなかったからこそ「便利に」担がれていた可能性が高い。だが、官僚という本来は政権を支えていたはずのパワーバランスを崩してしまったために内部から崩壊が始まった。

とにかく現状維持が目的になっているので既存のスキームを変更する試みは打ち砕かれることになる。この際たるものが憲法だ。政権が安定しないと憲法議論には着手できない。しかし、みんなを納得させて憲法議論を始める頃までには何らかの無理がかかっていて、それ以上政権を維持することができなくなっている。もともと明確な契約のもとに権限が移譲されているわけではないので「権力そのものが強くなる」と内部から崩壊してしまうのだ。

日本の政権は特に明確な約束の元に政権を預かっているわけではなく、みんなが見切りをつけたら自分も見切りをつけるという人が多いのではないかと思う。何かのきっかけで顔のない一部の人たちが離れ始めると、一気に「見切りをつける」人が増えるのだろう。だが、政権への離反が「なんとなく」起こるので、そこに意味を見出したいと感じる人がアメリカを持ち出してくるのではないだろうか。

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官僚と政治家のどちらを信頼すべきなのか

QUORAに官僚と政治家のどちらを信頼すべきかという質問があった。背景はわからないのだが、今の森友学園の問題で野党が官邸を攻撃するのを見て憤っている人がいるのかななどと思った。「反日の民主党政権の残党が官僚とつるんで調子に乗っている」と考えている人も多いのかもしれない。この質問について考えるうちに「歴史を知るのは大切だな」と思った。と、同時に高度経済成長期というのはすでに一部の人々からみると歴史の範疇にあるのだなということを再認識させられた。

民主党政権時代と安倍政権時代を合わせると8年になる。この8年間しか知らない人たちが「安倍政権は政治が安定したいい時代だった」と考えるのはなんとなく想像ができる。確かに株価は上がったし、労働市場も売り手市場になりつつある。と同時に、民主党政権はそれ以前のポスト小泉3政権の負の印象を全て背負っている。就職氷河期が始まったのは自民党政権時代なのだが、なんとなく安倍自民党政権が終わらせたというように考えられているからである。一旦ついてしまった印象はなかなか消えないだろう。

そこでQUORAでは官僚と政治家の関係について改めて調べて回答した。

もともと「政治主導」という言葉はポジティブな意味で使われていた。毎日新聞の記事(購読にには登録が必要)は次のような識者の声が載っている。「説明のつかない取引」とは森友学園への土地の譲り渡しのことである。

「説明のつかない取引」の原因を考えると、1990年代から日本が進めてきた「政治主導」の強化が浮かぶ。日本は長く官僚主導で、その弊害も目立っていたため、細川護熙政権以降、「政治主導」を目指す改革が始まった。その流れは橋本龍太郎政権、第1次安倍政権、民主党政権などに引き継がれ、今の「安倍1強」とも呼ばれる「強すぎる官邸」ができあがった。

バブル経済が崩壊して政治が国民の期待に応えられなくなると、官僚の既得権益に厳しい目が向けられるようになった。そこで官僚機構を改革して行政の無駄を省くという提案がなされることになる。有名な塩川財務大臣の塩川財務相「母屋でおかゆ、離れですき焼き」という有名なフレーズが生まれたのは「構造改革」を訴えた第一次小泉内閣だったので、細川政権の提案は形を変えて自民党にも引き継がれることになった。

このトレンドは民主党政権でも続いた。安倍政権の発案だった内閣人事局構想は頓挫したものの、民主党政権は霞ヶ関に乗り込んで「2位じゃダメなんですか」というパフォーマンスを行い、八ッ場ダムを根回しなしに凍結したりした。どちらもマニフェストという国民の約束に書かれていたものだった。つまり、国民の期待が官僚機構にメスを入れたのだ。

しかし、これが官僚組織の「無駄」を排除することはできなかった。政治主導を行うためには政治が政策を作らなければならない。しかし、なぜか政治家はそれをやらなかった。単に政治指導を提唱し官僚をいじめただけだったのだ。日本には政策立案をするシンクタンクが生まれなかった。代わりに生まれたのがネトウヨ系団体と経済系の団体だ。ネトウヨ系は日本の不調の原因を精神性に求めるようになり、経済系の団体は特区を作って企業を優遇しろと主張した。どちらも誰かの犠牲が前提になっている。

結局、安倍政権は第一次内閣で提案していた人事局制度を採用し、表向きは人事権を掌握したかに見えた。安倍政権が5年も安定していたのはこの仕組みが表向きうまくいっていたからだろう。官邸に反抗するような官僚はいなくなり、国民の監視のもとに官僚組織が統制されたかに見えた。しかし、それでも本当の意味での政治主導は生まれなかった。誰かから極端なアイディアを募ってそれを官僚に押し付ける。都合の悪いデータを改竄し、足元にある不調は無視、そして出口戦略も考えないという無責任な体制ができただけだった。

我々が今見ているのは強すぎる統制の結果、官僚組織が歪められて混乱している現場である。だが、具体的にはどのような不具合が生じているのかはよくわからない。職員がもみ消された文書を自宅に保管しているというような異常事態になっていて、かなり深刻な状態が起きていたこともわかっているし、リークが頻発することからも現場で反抗的な人が増えているのは間違いがなさそうである。にもかかわらず与党は「これはまずい」などとは考えず支持率のことしか心配していないし、野党はパフォーマンスのことばかりを考えているようである。

内部で自浄作用が働かなくなると問題は破裂するまで膨らみ、やがて政権を混乱させる。

自衛隊の日報隠蔽問題や森友学園問題は官僚組織のSOSであり、身体で言えば病気のサインである。しかし現在は体が熱を出しているのに「まだ働けるはずだ」といって出勤してくる人に似ている。

「国民にかわって政治家が官僚を監視しますよ」という約束の結果が、なぜか国民から情報を隠蔽するという制度にかわって行った。理由は様々あるのだろうが、一つだけ言えるのは、官僚組織であろうが政治家であろうが、国民が常時監視していないと腐敗してしまうということである。

「選挙で選ばれた国民の代表なので国民にかわって政治プロセスを監視する」というロジックはよく使われる。しかしながら、実際には権限を持ってしまうと私物化が始まり、結果的に国民に知られないように情報を隠蔽しようと動いてしまう。だが、それは歴史的な経緯を思い返してみないとよくわからない。

いずれにせよ、官僚組織も官邸もどちらも信用してはいけないということになる。これは官僚組織が悪い人たちだとか、官邸が悪の巣窟だということを意味するのではない。だが、権力を握ったり権限を持った人たちはすべて腐敗する可能性があるのである。

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森友学園事件と公益という錦の御旗

森友学園問題の集中審議が始まった。

自民党側は政治家の総理の関与がなかったということを証明したい。そこで財務省が勝手にやったというストーリーを作って審議に望んでいた。多分、官邸が官僚の助けなしに作ったストーリーの杜撰さばかりが目についてしまうのだが、ポイントは別のところにあるのではないかと思う。

自民党のプロジェクトチームは多分疑心暗鬼におちっているのだろう。官僚信頼できないので、官僚にストーリーを作らせなかったのでそのストーリーがずさんなものになった。その上、財務省を恫喝して取り引きをもちかけようとして「財務省を取り潰すぞ」という脅しをかけたものと思われる。ネトウヨ議員たちは他人の心を動かして協力を引き出すことができないので、人事権を握って官僚を恫喝し続けたのだろうということがよくわかる。それでも信じられなくなると声を荒らげて人前で他人を恫喝するのである。こうしたやり方はTwitterでもよく見られる。

Twitterのネトウヨたちがすぐ反日認定したがるのと同じように、ネトウヨ議員の特徴は敵と味方を峻別したがる。そこで「太田理財局長は野田政権に近かったので安倍政権を破壊しようとしている」のではと訴えた。太田理財局長はここではじめて声を震わせて反論した。この和田政宗議員の質問はニュースを通じて拡散され自民党の支持率低下につながりそうである。

一方で財務省側はこの苦痛から早く逃れたいと思っているようだ。ただし、その苦痛は我々が考えているようなものでもないようである。彼らは目の前で辱められたり恫喝されることにはそれほどの苦痛を感じない。ただ、これまでマスコミや野党に対応するために、賽の河原に石を積むように意味を書き換えてきたという経緯があり、それを終わらせたいということだけを考えているようだった。

これが現れたのが福山哲郎議員への答弁だ。太田理財局長がなぜこれほど国会に情報を出したがらないのかがよくわからないのだが、検察当局がこの事件に「意味をつけようとしている」のに、それとは別に国会とマスコミが別の意味をつけることを嫌がっているのではないかと思う。作った意味を再構築する方が罪に問われるよりも彼らには苦痛なのだろうということになる。検察当局は意味を作ることができるのだが、朝日新聞と野党の間には明確な中心がない。そこで、情報がひびきあい予想もできない反応が返ってくることに疲れ切っているのではないだろうか。意味というのは官僚にとってそれほど重要なのである。

見ている方は「この事件で何があったのか知りたい」とか「誰が悪いのか突き止めたい」と思っているのだが、現場はそれぞれのストーリーを確定させたいということに夢中になっており、特に「事実をありのままに解明したい」などとは思っていないということだけはよくわかった。

いずれにせよ、複雑なストーリーは扱えない安倍首相はこの議論の枠外に追いやられていた。「産経ウェブに書いてあるから既知の事実である」というあらかじめ誰かが書いたストーリーを丸暗記した上で壊れたテープレコーダーのように話していたのだが、この産経ウェブが何を意味しているのか、なぜ産経ウェブに書いてあったら首相の関与がなくなるのかということはさっぱりわからなかった。安倍首相はもはや当事者としては議論に参加していないのだ。

それぞれの人たちがそれぞれの物語に夢中になっているのだが、太田理財局長は実は公益について重要な発言をしている。この公益という概念にはバグがあることは明らかで、太田さんはそのバグになんとなくは気がついていそうである。ただ、与野党議員ともに全く気がついていないようで、太田さんの指摘をスルーしていた。

太田さんが指摘していたのは「学校として認可される可能性があると公益化するので他事業とは同列に扱えなくなる」という問題だ。ここで想定外のことが起こる。それは森友学園がいつこの事業を公益化できるのかということが明確ではないということだ。首相は関与していそうだがそれでも学校としての認可が下りない。そこで財務省が書類提出のお手伝いをして「仕事を終わらせようとする」という異常な事態が起きていたことになる。つまり、他部門と調整しないと仕事が終わらないのに政治家の調整が期待できないという状態になっていたことになる。

「公共」という言葉は錦の御旗のようになっていて、今の法体系ではそれを排除することができないようだ。だからこそ、この錦の御旗に群がる人たちが出てきた。経営に行き詰った学校法人の経営者が右翼団体に近寄って首相との関与をほのめかしたり、首相に近い学校経営者が特区を作って地方公共団体から金を出させた上で学校を作るというようなことが起きているのである。

私たちは教育事業は聖職であり「立派な人たちがやるものだ」と思い込んでいる。学校から収益をあげることはできないが、社会を建設するのに大切な次世代の人たちを育てるからである。しかし、実際には補助金が注ぎ込まれており、これが利権化しつつある。

そもそも安倍昭恵さんがこの問題にふらふらと近づいて行ったのはそれが政治の枠外の「いいこと」という領域だったからだろう。つまり次世代の子供を育てるというのは儲け一辺倒ではできないことであり、社会貢献とボランティア精神に溢れた人を惹きつけるに十分な魅力がある。人生に意義を見出せない人にとって「私は社会に何かいいことをしているはず」という感覚には麻薬のような魅力がある。そこに「安倍首相をわかってあげている」という支援者が現れることで涙を流して感動した。

こうして錦の御旗は問題がある人たちを惹きつける。

これまでの政治家は土地で儲けていた。農地を転用して住宅地を作ったり高速道路を作るとその儲けの一部が政治家に転がり込むことになっていた。しかしバブルが崩壊してこのスキームが崩れるとこの枠組みでは儲けが得られなくなる。加えて、民主党政権時代には「コンクリートから人へ」というスローガンが叫ばれる。だから「人を育てる」という名目で国からお金を引き出すというような手口が発明されたのだろう。社会インフラも教育もどちらも「公共」という名目で「収益計算を度外視すべきだ」という発想があるので、社会インフラ建設の手法が教育に持ち込まれたのかもしれない。

しかし、教育を公のものとして扱うことそのものが教育の質を低下させている。政治家の関心が人を育てることではなく学校の建物を育てることに向かうのはその一例だ。例えば図書館を建設するのには熱心だが、インテリアとして読めない本を積み上げたり古本を並べたりするのに似ている。地域住民は文化的な雰囲気だけを味わいつつ雑誌と新聞をだけを読むのだ。

形骸化する図書館と同じように、社会の学問そのものへの関心は急速に薄れてきている。多くの大学の教員は研究ではなく資金集めに奔走しなければならないし、職員のポジションも有期雇用中心で安定しない。また勉強したい子供を社会が支援することはない。

日本が他のアジア諸国に先駆けて近代化できたのは庶民が教育に熱心だったからだ。だから社会的に「学校を作る」ということに対しては極めて寛容であり、庶民が学問を身につけても意味がないなどと思う人はほとんどいない。だが、その関心は形骸化しつつあるということになる。

社会が荒廃すると学校に儲け主義の人が群がる。すると教育が荒廃しそれが社会を荒廃させる。つまりこの現象は悪いスパイラルを形成しているのではないだろうか。自民党は憲法草案で「公益が人権に優先する」というような提案をしているのだが、実際には法律レベルでも公益が持っている弊害が現れているということが言えるようだ。憲法の提案は公益を使ってもっといい思いがしたいという堕落の現れであり、実際にその堕落が行政を混乱させているのである。

実は目の前でかなり重要な問題点が提示されているのだが、誰もそのことに気がつかない。今日以降も人々は自分たちのストーリーに夢中になり結果的に社会を荒廃させるのだろう。

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この国では意味が人を殺す

夢を見た。ある凡庸な男がノートを移すのが上手だという理由で学校に入りどこかに採用される。最初は単純な書写をしていたがそのうち複雑になってきた。彼には何が書かれているのかはさっぱりわからない。しかし、ハネが違っているとか位置が違うと文句を言われるとその通りに書き直さなければならない。最終的にはノートの内容がシールで隠されるようになる。実はシールの下にはこう書いてあったと言うたびに周囲の同僚からざわめきが起こるのだが、シールの下にはまたシールがあり……と続く。

気分的には悪夢だったのだが、起きてから色々と意味を考えた。この男は官僚組織で働いているのではないかと思った。官僚は法律で定められた通りにプロセスを実行するのが仕事であり、その背後に意味や文脈を考えていてはいけない。つまり、わけがわからなくてもその通りに実行することを期待された人たちであると言える。実際にこれが悪夢にならないのは、手順が明確に決まっているからだろう。

ところが現実の官僚組織はそのようには機能しない。それがどうしてなのかはわからないが、彼らなりの価値判断基準があるからだろう。

例えば理財局は「国の財産を適正な価格で売り渡す」べきというミッションがある。つまり悪夢に出てきたように「自分が何を書き写しているのかわからない」という状態にはないはずである。

しかしながら、問題が二つある。一つ目の問題は公益に関わるものである。これは実は憲法改正で大きな問題になっている。

適正な価格というのはどう算出されるのだろう。理財局の場合「いくらで仕入れたか」ということはわからないのだから、実際にはどれくらいの需要があるかということが問題になるのだろう。できるだけ高いお金で売るのがよいのだから、土地は競売にかける必要がある。

では、買い手はどうやって適正な価格がわかるのだろう。それはその土地が算出する価値の一定期間の総和である。何か工場を作るなら、その工場の儲けから人件費と原材料費を差し引いて、経済成長分の価値を割り引いてやれば土地の適正な価格が出る。

ところが今回問題になっているのは公益性があるとされる学校だ。産業は利潤のないところには支出はしないのですぐに利益が上がらない学校のようなものには投資しない。しかし「誰かが」次世代の子供を育てるのを怠れば社会は荒廃するだろう。そこで国が支出して学校を作る。だから学校向けの土地は優先的に提供されてもよいというロジックがみちびきだせる。

しかし、実際には学校は国の補助金を優先的に貰い受けるための言い訳として使われることが多い。公益を考える時、利益計算は度外視して良いという理屈が成り立つからだ。何が公益にあたるかということは「政治の判断」になり、官僚組織が知ることはできない。

憲法改正問題で自民党がやたらと公益を入れたがるのはこのような理屈による。彼らは理屈はわからなくても「公益」と叫べば自分たちの願いが叶うということを知っているのである。だから、曖昧なままで自民党の憲法改正案を推進してしまうと日本経済はほどなくしてガタガタになるだろう。裁判所も官僚も公益性を判断できないのだから、全ての憲法規範に党の意思決定が優先することになる。理屈としては中間人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と同じ体制になるということなのだが、東アジアで同じ指向性の国が出てくるというのは理由はわからないにせよ重要な視点なのではないかと思う。。

ところが、官僚組織が押し付けられた意味はこれだけではなかった。これが二番目の問題点である。

今回、日本会議の影響があったと言われているわけだが、日本会議は日本の伝統が守られるべきだと考えている。神道の影響があるので政教分離の原則から見ると政治との関係は不適切なのだが、実際には宗教と政治は密接な関係がある。あるものをないと言わなければならない。さらに籠池夫妻がどれくらい日本会議を本当に信じていたのかは曖昧である。単に商売としての学校経営に有利だからという理由でお近づきになっていた可能性もある。つまり、宗教という合理性とは別の価値判断が入ったためにさらに状況が複雑になった。ここによくわからないままで安倍昭恵さんが入ってきて話はさらに複雑になった。この人がどう関わっているのかは結局よくわからなかった。しかし「よくわからない」という点だけが重要である。

現場の人はよくわからなかったので「政治から要請があった」と書いた。それが妥当なことなのかということは彼らにはよくわからないし、よくわからなくても構わなかったはずである。

ところがここで問題が起こる。首相が「関与があったらやめるし役所が適切に処理している」と国会で不規則発言をしてしまったからだ。何が関与なのかという定義が曖昧な上に、ここで首相と学校の関係を証明できれば首相は嘘を言ったということになりやめなければならないという別の意味も生まれた。

このように森友学園問題にはいくつもの曖昧さと意味が生まれているので、もし本当に原因が解明したいなら複雑な意味を取り除いてやる必要がある。少なくとも「首相退陣」と「役人の道義的責任」は取り除いてやる必要があるだろう。しかし、感情的に一年以上も滞ったものがあり「冷静に判断しろ」というのは無理な話なのだろう。

合理性のない意味が政治を動かしている。しかし、籠池夫妻は「この学園には首相が応援している思想が入っており、夫人の関与がある」という意味をほのめかさなければ土地は手に入れられなかっただろう。また、首相が「関与があったらやめる」などとこの件に意味を与えなければ(たとえ野党がそう主張しても)理財局長は嘘の答弁をしなくても済んだであろう。つまり、誰かの発言が意図しない意味をうみ、意味が人を動かした。

さらに、財務省は「いったん行った答弁は絶対に間違っていない」と考えた。これは財務省がプライドの高い館長でありメンツがかかっていたからである。組織として守るべき別の意味が生まれた。さらに現場担当職員は「財務省は適正な値段で国有財産を処分しなければならない」と考えておりその証拠を文章に残そうとした。そうしないと後で犯罪や責任問題に発展しかねないし、職業倫理的にも許されないと考えたのだろう。これを遡って消されてしまったことで「あってはならないことが起きた」と感じた。

つまり、意味の入る余地がなければ、この問題がここまで大きく複雑になることはなかっただろう。国会審議が一年に渡って紛糾するはずはなかったはずだし、何よりも人が何人かが亡くなることはなかったはずだ。

意味はどこに生まれるのか。それは人と人との間に生じる。決して誰か一人の人が何かを言ったからと言って生じることはない。それは目には見えず、あとから厳密に観察はできない。それでも意味は存在する。

森友事件で、職員たちは意味に殺されたということになる。日本は意味が社会的生命を奪ったり人を殺す化け物になる国なのだ。

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「民主主義を取り戻す」が危険な理由

今日は「民主主義を取り戻す」という言葉が危険なのではないかということを書く。これを「法治主義」や「立憲主義」に置き換えてもらっても構わないし、「憲法」に変えてもらっても構わない。

「〜を取り戻す」は正常でないものをあるべき状態に戻すということを意味する。ではそのあるべき姿とはどんな姿なのだろうか。

最近、ワードローブを入れ替えている。季節の変わり目ということもある。当初、ファッションについて勉強を始めた時には法則のようなものがあり、ルールを見つければオシャレになれるのだろうなどと考えていたのだが、それは正しくなかったようである。

ファッションは、枠組みを一旦崩して再構成という作業を繰り返す。ファッションには色や形などいろいろなルールがあるので一つのルールを全てに適用することができない。分類の注目ポイントが変わるので、時折入れ替えを行う必要があるのだ。

さらに変化するものがある。この間に17kg太って痩せたし、トレンドと呼ばれるものが変化する。細いパンツが主流だった時代が終わりワイドパンツ化が進んでいる。また、色を使ったコーディネートが駆逐されてシェイプ中心になったりもした。さらに駆逐されたはずの90年代風のアイテムがリバイバルして最新のファッションに取り入れられたりしている。

いったん「わかった」と思っても諸条件が変わってしまうので、この作業には終わりがない。逆に「わかった」と思ってしまうと、その時から知識の劣化が始まる。例えばバブルの時の知識でファッションが止まっているという人はたくさんいるだろう。

そこでこれまでの蓄積をためておいて、枠組みを変えたら再分類ができるようなシステムを作った。情報をクリアしてなんどでも再分類しなおすことができる。こうすることで「最初から全部やりなおし」をしなくてもすむ。

ファッションに正解はないのだが、知識は増えてゆく。また、正解がないにもかかわらずある程度の合意がありそれが変化するという状態にある。これは本来での意味の民主主語と似ている。

民主主義は変化する状態に対応するために正解を模索する作業である。だから民主主義のプロセス自体には正解もないし終わりがない。保守と革新というのは、単に速度をめぐる争いであり「世の中をよくして行こう」という方向性には違いはない。だから最終的には折り合いをつけることができるのである。

日本の保守と革新は折り合わない。日本の保守は現状を利用して自己の権威を高めようという試みに過ぎない。だから日本の伝統とアメリカへの追従という矛盾するコンセプトが混在しても誰も気にしないし安倍首相が嘘に嘘を重ねても気にしない。一方で革新と呼ばれている人たちは「自分たちの声が届いていない」と考えている人なので、彼らが体制に納得することは永遠にない。

日本のやり方はまず正解を作ってその正解を正当化するためにストーリーを作ってゆくというアプローチをとる。先に正解があるのでそれが折り合うことはありえない。

今回の森友問題の本質の一つは安倍政権の「決められる政治」が破綻したということである。このアプローチが破綻したのは、安倍政権が正解を掲げてそれを官僚が実行するという制度だったからだ。安倍政権が正確に状況を把握していればそれなりの制度になっただろう。しかし、彼らは偏った情報しか入れなかったので徐々に矛盾が出てきて表面化した。その矛盾をどうにかして「隠蔽」することで乗り切ってきたのだが、ついに乗り切れなくなった。その意味ではよく5年ももったものだと言える。

一方で野党側も正解を持っている。それは安倍政権が全て悪くて官僚組織は被害者であるという図式だ。だから野党は正解を押し付けてくる与党を超えることはできない。さらに、よく考えてみると野党側は政権時代に「官僚が全ての悪の根源だ」というようなことを言って官僚組織を叩いていた。「2位じゃダメなんですか」という人たちは、必死になって官僚が間違っている理由を探していた。マニフェストで「官僚が悪いのだという正解」を提示してしまい、そこから抜け出せなくなってしまったのである。

我々は「官僚組織を崩したところで新しい正解がおのずから立ち上ってくることはなかった」ということをもう一度思い出すべきだろう。ここから官邸だけを叩いても秩序が戻るわけではないし、官邸に全てを押し付けたところで政府が再び信頼されることはないということがわかる。この2つは両手のようなものである。パチンと音を立てたのは右手か左手かと聞いてみても答えはない。両手が合わさることで音が出るのである。

本来私たちはまず「正解を捨てて何が起こったのかを調査する」というアプローチをとるべきである。

ただ、今の政治に興味を持っている人たちが、正解を捨てて新しい枠組みを構築するために動き出すだろうかという疑問もあるう。極めて退屈で終わりのない作業だからだ。民主主義というのは、それ自身を組み立てることに何らかの面白さを見出さない限り、かなり面倒で退屈なプロセスなのではないかと思う。その意味では、私たちはこの人民裁判的なショーを通してしか民主主義を学ぶことができないのかもしれないとも思う。

いずれにせよ民主主義には正解はないのだから、民主主義を取り戻すことはできない。ここで正解があると錯誤してしまうと、それが実現しないことに落胆することになるだろうし、場合によっては安倍政権と同じような失敗を生むかもしれない。

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森友問題と安全保障 – 安倍こそが国難の本当の意味

多くの人が森友問題について考えている。様々な分析ツールが提供されておりそれを眺めるだけでも楽しい。ある人は官僚主義の類型について語り、またある人はゲーム理論として捉えているという具合だ。このブログでは主に隠された文化様式について考えている。例えば文脈とか小利権集団としての村などの構造である。

日本人は文脈と事実を分離して考えることができないので、後から分析することができないという結論が得られた。事実そのものが解釈なしには成り立たないので。後から検証しようとすると観察者の主観が入り事実そのものが変化してしまうのである。だから事実解明のための証人喚問は役に立たない。証人喚問は人民裁判としての意味合いしか持たないのだ。

実際、太田理財局長は自民党から公開懲罰を受けている。西田昌司議員は明らかに「理財局が自民党を騙した」というストーリーで太田さんを攻め立てており、空気を読んだ太田さんもまた西田さんのストーリーにあった供述をしていた。

例えば安倍昭恵さんが証人喚問されたとしても彼女がどう考えていたかという解釈が中心になる。ある時点では政治に介入する意図を持って口出しをしていたのかもしれないのだが、正確にはそれを政治課題だとは思っていなかった可能性もある。しかし、当初の意図が明確でなかった分、のちに証人喚問されれば、与党のストーリーに従って「何も知らなかった」と答え、野党のストーリーに従い「私が悪かった」などと言い出すかもしれない。

同じことが佐川元理財局長にも言える。もともと佐川理財局長は安倍首相の不規則発言(首相も議員も辞めますよ)をカバーしようとして泥沼にはまってゆくのだが、そもそも「関与の定義」もわからない上に、今では立場も変わってしまっている。だから、事実を調査したいなら本来はアンダーテーブルで行うべきなのである。

これまで森友問題を理財局と官邸の問題として扱ってきた。だから証人喚問をやっても意味がないが、ショーとして楽しみたいならそれでも構わないと思っていた。しかし、ちょっと状況が変わってきている。

森友問題の本質の一つに「官僚機構という意味の積み重ね」が突発的で曖昧な圧力に極めて弱いという問題がある。籠池夫妻は半ば戦略的に日本会議や首相夫人との関係をほのめかしつつ理財局に圧力をかけたのだが、全体として自分が何をやっているかよくわかっていなかった様子がうかがえる。安倍昭恵さんも自分の立場をわきまえずにふらふらと行動し、公務員を自分の私設秘書のように使っていたようだ。つまり、この3人は官僚機構にとって異物でありそれが毒として作用したのだ。毒のせいで意味が伝わらなくなり、結果として嘘が蔓延し、少なくとも一人以上の死者が出た。

ここで重要なのは籠池理事長夫妻は理不尽なディールメーカーでありお金のない自分たちが土地を手に入れるためにありとあらゆる手段を使ってきたという点だ。

さて、これと似たような環境が現在できつつある。それがトランプ政権である。トランプ大統領は典型的なディールメーカーである。ディールメーカーとは自分が有利な条件で取引するためにありとあらゆる手段を使って相手を揺さぶる人だ。最近では北朝鮮情勢と韓国のFTAを混ぜて話をしている。さらに、ティラーソン国務長官をTwitterで解任した。

トランプ政権はコミュニケーションパスや一貫性を気にしない。それどころか曖昧さを利用してディールを仕掛けてくる。専門家は次のように見立てている。

引用されている記事には要約が書いてある。

  • President Donald Trump appeared to threaten to pull U.S. troops out of South Korea if he didn’t get his way on trade with Seoul, The Washington Post reported Wednesday.
  • “We lose money on trade, and we lose money on the military. We have right now 32,000 soldiers between North and South Korea. Let’s see what happens,” Trump said, according to audio obtained by the Post.

これまでも、韓国が同意しなければ自由貿易協定から離脱するということは言い続けてきたようだが、今度は在韓米軍を退却させるという脅しをかけたようである。32000人が引き上げたらどうなるか見てみようと発言したというのである。

これは日本の安全保障にも大きな影響がある。不安になった韓国が文化的により親密度が高い中国に接近することは明らかだからだ。韓国が共産化することはないだろうが、これは東アジアにアメリカの同盟国としての日本が取り残されるということを意味しているばかりか、アメリカは日本にも同じような働きかけをしかねない。実際に「安倍首相と北朝鮮問題について話し合うついでに日本市場の解放について話した」とTweetした。

こうした恫喝に対抗するためには、まず国益を明確にした上で、官邸が本気になって部門調整をして、トランプ政権に対処してゆくしかない。しかしながら、そもそもそのようなディールメーカーに弱い上に、安倍政権は「政権浮揚のためにはトランプ大統領の気持ちをつなぎとめておかなければならない」という心理的な依存も強そうである。さらに日本政府と日本の官僚組織との関係も悪化している。財務省を「トカゲの尻尾」扱いしてしまったわけだから、他の省庁も同じような目に遭いかねないと警戒されても不思議ではない。

担当者が何人か亡くなっているし8億円の値引きが絡んでいるので「この程度のこと」などと言ってはいけないのだろうが、それでもまだ日本の安全保障問題と比べると「この程度のこと」である。なぜならば土地が不正に払い下げられたとしてもそのこと自体で命が失われることはないからだ。

しかし、これが国の安全保障の問題になるとどうだろうか。国のトップの意思決定の誤りがそのまま多くの人命に関わる。たとえば自衛官がなくなるということもあり得るだろうし、ことによってはそれではすまされないかもしれない。いったんなんらかの問題が起これば「情報を隠蔽した」とか「官僚の面子が」などという問題では済まされない。

ということで、本来ならば保守を自称する人たちの方が深刻にこの問題を捉える必要がある。ブログの片隅でやや反政府的な傾向のある人が心配しても本気にはしてもらえないだろうが、日本の存続にとって大きな危機が訪れようとしている。北朝鮮の問題は外務省と防衛省がうまくやってくれているだろうと考えている人が多いのだろうが、実際には官僚組織は不規則な揺さぶりに弱い。

これまでの問題は、安倍政権がリスクを扱えるかという問題だったわけだが、この程度の問題すらマネージできない人たちが北朝鮮情勢などコントロールできるはずはない。その意味では「安倍こそが国難」という指摘にはきちんとした根拠がある。

森友学園の問題について深刻に捉えるならば選挙のための儀式として財務官僚を叩くのはやめたほうが良い。それよりも実際に何が起きていたのか、安倍官邸に関係がない人が真剣に調査すべきである。野党の協力も得て、次の政権を担う自民党のリーダーを早く決めたほうが良い。

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