村落からの分離とあるべき再統合

さて、これまで日本は村落共同体であるという仮説を作ってきた。ここに成長とは何かという視点を入れることで「統合」と「分離」というツールを組み合わせることができたと思う。そこでこれまでの振り返りをしつつ、簡単にまとめを作ってみたい。

日本は村落的な社会だった。村落的な社会とは所与の環境で他者と向き合うことがなかった人たち暮らしている社会をモデル化したものである。村落では、環境を自発的に作る必要もなければ、自分たちのあり方を定義する必要もない。この条件が崩れたにも関わらず中にいる人たちが順応するスキルを持たないことで様々な問題が起こるというのが仮説の内容だ。

現在は様々な危機に直面した時代であるという認識もあるのだが、このブログでは現在はきわめて不安な時代であると考えている。つまり、具体的な危機があるわけではないのだが何かが欠落していると考えるのが不安社会だ。

様々な問題について考えたが、幾つかの類型がある。

まず最初に考えたのは目的のない不安定な社会だった。例えば、クラスは目的のない不安程な社会である。クラスは自動的に割り当てられ児童や生徒に意味は伝えられない。そこに絶え間ないマウンティングが起きることになる。これが「いじめの原因」なのではないかと考えた。いじめとは構造が不安定な集団で起きる絶え間ないマウンティング合戦を階層の下の方から見た現象であると規定した。

いじめられている人が「このクラスしか世界がない」と思い込むと「生き残るか」「逃げるか」という極端な二者択一を求められて自殺に至ることがある。だから、この強制的なコホートシステムを解体すれば、クラスからいじめはなくなるだろう。

こうした目的のなさがどう生じたのかはわからないが、最近では競争が目的化することも起きている。ある地域ではクラスの目的の中に隣の学校よりも高い人間ピラミッドを作ることが組み入れられている。体育大学の先生によるとこれは野蛮な行為であって下の方にいる人には耐えられないほどの重さがかかる。中には生涯つきあってゆかなければならないほどの怪我を追う人もいるが、一度競争意識が生まれるとそれをやめることはできない。事実やめたいと言った人は「この人は例外的でおかしな人なのだ」というレッテルが貼られる。だがおかしいのは実は学校の方なのだ。

この無意味な人間ピラミッドの事例はいろいろなことを教えてくれる。着目すべきなのは「人は競争をしたがる」ということである。これを成長と言い換えることもできる。人は成長を求める生き物なのだ。

相撲の事例では、もともとあった出自がゆがめられていったあ状態について観察した。相撲は神事を模した興行だったが「スポーツである」とか「伝統神事である」というマーケティング用のパッケージがいつのまにか本質として信じられるようになった。

一方で他の興行には負け始めており、経済的な不調も生じている。これをカバーするために公益法人化が押し進められた。しかし、公益法人化するということは内部のガバナンスを近代的に強化するということでもある。このため相撲協会は外からの「近代化欲求」と内部の「原始的な村落生」がいり混じることになった。

中から見ると「どうしていいかわからない」という感想を持つかもしれないのだが、相撲協会はそれほど悲観的になる必要はない。

第一に学校と違って追求すべきものがはっきりしているし、どこから来たのかが分かっているからだ。また組織として成長する必要はない。競技そのものが成長の過程だからである。事情を複雑にしているのは「親方の成長欲求」である。彼らは単に興行主であり選手のマネージャーなのだが「自己実現を図ろう」とすると精神的な相撲道の世界に入ってしまう。しかし、この相撲道は極めて曖昧であり麻薬のような陶酔作用もあるようだ。先生が生徒を通じて自己実現する際にピラミッドの下の方にいる人たちを犠牲にしたように、親方はかわいがりで殺されたり生涯残るような怪我をする力士には関心を寄せない。

相撲は、かつてのような興行に戻るか、あるいは柔道のような近代的なスポーツに生まれ変わるという選択肢がある。後者を取るならば、相撲は部屋を解体し選手がコーチを自由に選べるようにすればよい。すでにこうした提案は行われている。

最後にネトウヨについて考えたい。

ネトウヨとは、もともと自分たちで作ったのでもなければ考えてもこなかった環境を自らが規定しようとしていることで混乱している人たちであり、その世界観には欠落が多い。しかし、彼らの夢物語がこれほど深刻に捉えられるようになったのはそれが政治と結びついたからだろう。

日本人は自らを規定する必要がなかったのだが、西洋に対する遅れを実感する中で「アジアでもっとも尊敬されて、西洋に変わってアジアを牽引する民族でなければならない」というありもしない自己像を持つようになった。この間違った自己認識が「将来敵に達成されるべきものだ」という認識ではなく「かつてあった理想型だった」と錯誤することで、混乱が生じた。かつてあった訳ではないので再現はできないし、再現したとしても無理が生じる。

しかしながら、このありもしない民族像は実はありもしない自己像から生まれている。日本には男性が社会で優位性を持っていたという時代がある。しかし、現代社会の男性はこうした優位性を持てず女性から取捨選択される立場になってしまった。男性はかつてあった「はずの」社会を夢想する中で、アジアで優れた民族であった素晴らしい日本人のリーダーになれるはずだったという幻想を抱くようになった。

彼らが本来持っているのは、自分たちが何者にもなれなかったという怒りである。とりあえず就職して家族を養うことはできたが、では人生で何を達成するのかということを考えた時に答えがでない。また、社会には普通のサラリーマンが自己実現するための正解例などというものは存在しない。サラリーマンは単に明日も会社に行って給料をもらってきてくれればよいのだし、定年したら家の人の邪魔にならないようにお金のかからない趣味を持てば良いと考えられている。

そこで歴史を捏造したり「反日分子」という要素をを持ち出すことによって「かつてあった理想型が損なわれたのは反日分子のせいだ」という問題意識を持つことになる。反日分子とはつまり自分たちの社会が持っている克服すべき欠点を突きつけてくる人たちである。しかし、実際に彼らが反発しているのは男女同権という「人権屋の戯言」である。彼らはリベラルのせいで天国から追いやられたと感じているのだ。

例えばレイプ被害にあった女性にたいして「あの人はもともと売春婦的な要素があったはずだ」というクレームの裏には「このような人たちが自分たちの特権を盗んだ」という怒りがあるのだろう。

しかし、これだけではこの問題はそれほどの深刻さを持たなかっただろう。これが深刻な問題になったのは民主党政権期だった。天国から追い落とされたと感じている自民党の一部の政治家は自分たちを否定した民意を否定するために夢想的な憲法草案を作った。さらにそれだけでは飽き足らず、ネトウヨが集まるサラリーマン向けであったり高齢者向けであったりする雑誌と結びつき民主党批判を繰り返した。

やがて民主党政権が世間から失望されると、改革を唄っていた人たちはそこから離れて行き、二度と政治には関心を向けなくなった。日本人は改革に疲れてしまい政治に対しての関心を失った。一方で世襲政治家には「日本をこのような方向に導きたい」という意欲はない。

政治に期待するのは本人の何らかの欠落を「かつてあった何かが損なわれている」という喪失感を持った人たちだけだ。それでも共産党や公明党のような人たちは「自分たちがどこから来てどこに向かうのか」を意識しており、そうした社会は実現できていないということも明確に知っている。

しかし、ネトウヨは理想の世界は「かつてあったが何者かに盗まれた」と感じており厄介だ。彼らは回復すべき世界を持っている訳ではないので、どうやったらその状態に行き着くことができるのかということが分からない。だから盗んだと彼らが勝手に信じ込んでいる人たちを攻撃するのである。

だが、この欠落は日本独自のものではないのかもしれない。

西洋にも似たような心の動きはある。最初から社会と個人の間に分離がある西洋人は「失われたものが統合されるべきだ」という心の動きを持っている。これを個人のレベルで行うのが個性化だが、社会との間にも同じような動きがあり様々な物語のプロトタイプになっている。

公明党や共産党の支持者のように西洋人もこれを「まだ実現できていないものだ」と考える。だから、他人に腹を立てるのではなく自分たちの手で作ろうとするし、必要があれば協力して成し遂げようとする。これは社会や個人の成長につながる。

しかし、トランプ大統領のMake America Great Againは「本来あったはずの偉大なアメリカという像」が何者かによって損なわれているという主張だ。そのために、メキシコや日本といった外国やイスラム教徒の移民が非難される。トランプ大統領がこうした主張をするのは彼が大統領になりたいわけではなく、キャンペーンに勝ちたいだけの人だったからである。安倍首相のような世襲政治家ではないが、彼も政治家としては空なのだ。この空に人々の怒りが惹きつけられることに日米共通の悲劇性がある。

背景には「Yes We Can」によって変われなかったか乗り遅れたという事実に直面できない人たちの弱さがある。協力して成長できないという恐れが確信に変わった時に誰かに対する非難が始まる。

トランプ大統領は今の所、国内にいる政敵を彼らの怒りの矛先にしている。しかしながら、これがうまく行かなくなると外国をゆびさすことになるだろう。最初は貿易のような非戦闘的な戦いなのだろうが、それでもおさまらなくなれば、今度は軍隊を稼働することになる。

もし仮に「戦争」が引き起こされるとしたら、それは成長欲求の歪んだ結果なのではないかと思える。社会はこのようにして暴走しかねないということが言えるだろう。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



日本とアメリカのヒーローは何が違うのか

QUORAに「アメリカのヒーローは最初から力を持っているのに、日本のヒーローは普通の人が道具によって強化されるのはなぜか」という疑問があった。これは日本の村落性を考える上で面白い質問だなと思った。QUORAには途中まで書いたのだが、こちらでは少しそのあとを補強したい。なおQUORA版には「日本人の匿名性について知りたい」というので追加したのだが、まじめに分析しだすと膨大な資料をもとに網羅的な研究が必要になりそうだ。


アメリカのヒーローが能力を持っているというのは正しいと思うのだが、日本の場合は少し見方が違うように思える。

日本では「いっけん普通の人」がヒーローになるというのは合意できるのだが、実は普通の人たちではない。例えば仮面ライダーは「ただ装具をつけたから変身できる」というわけではなく、仮面ライダーになれる人(適合者)とそうでない人がいる。例えば、初代のガンダムも適合者が能力を開発する話だった。また、戦隊もの前作のキュウレンジャーもキュウタマに選ばれなければならない。実は日本型のヒーローには「潜在的な能力があるが顕現していない」という特性がある。

こうした特性は少年ジャンプなどにも見られる人気の類型で、ジャンプはこれを「成長」と呼んでいる。ジャンプは戦いと成長の話がメインで「能力を持っているがそれが発揮できていない」という物語が人気なのだ。こうした埋もれた個人が社会的接触によって磨かれて最終的に勝利するという類型が多いのだといえる。

アメリカにも「成長」はあるが日本ほど類型的なわけではない。

例えば、スーパーマンは異星人の能力が必ずしも社会に受け入れられないというラインがある。これを受け入れさせるためには責任を引き受けなければならない。最初に能力がありこれを社会的に折り合いをつけて行くというコースは日本とは真逆である。これは移民国家というアメリカなりの建国の歴史が元型になっているのかもしれない。

バットマンにはそもそも能力がなく、表向きの「成功したビジネスマン」という像と裏の「悪を成敗したい」という欲求が分離している。ブルース・ウェインはこの異なる目標を折り合わせる必要がある。どちらかといえば内面的な統合がテーマになっている。

これが極端に表現されたのがスターウォーズだ。旧六部作は個人の成長物語に見えるが、実際には「良いものと悪いもの」という分離をどう統合させるかという話である。ユングの理論が元になっているとも言われる。

これらの物語の共通点は分離と統合だ。失われた「完全で統合された状態」があり、そこに回帰してゆくという物語は日本ではあまり見られない。しかし、これらの物語は日本でも人気があるのである程度の汎用性があるものと思われる。

日本の場合にはまず所与の村落がありそこに差別化されていない人たちがいる。この差別化されていない「普通の」個人が社会的な接触を経て能力を開発し、最終的に環境と社会を超克するというように話が展開する。これが戦いを通じた「勝利」という形で表現される。

一方、アメリカはいろいろな個性があり最初から社会から差別化されている。しかし社会的同化欲求があり、最終的には社会に自分なりの形での統合を目指す。この同化欲求が「失われてはいるがあるべき形」という形で認識されるのだろうと思う。スターウォーズの元になったとされるユングはドイツの心理学者なので、キリスト教の文化には統合欲求という日本とは逆の感覚があるのかもしれない。

ここから、日本とアメリカにはコミュニティ対する感覚の違いがあるのではないかと思う。日本は環境は所与のものだと考えており、そこからどう抜け出すかとうことが「成長」と見なされる。しかし、そのコミュニティは明確な形を持っているので、成長をしたからといってもともとのコミュニテイが失われるという不安はない。しかし、西洋は個人が最初から環境から分離しており、その不安とどう折り合ってゆくかということが重要なテーマとして語られるということになる。


この後、リクエストを受けて書いた話には「匿名性」という言葉が出てくる。実は最近の日本のヒーローものからは抜け落ちている観点だということが分かる。だが、経緯を研究しだすと話が複雑になるので分析するには手に余る。

この話をブログに転載しようと考えたのは、これがネトウヨ分析に使えそうだからだ。いわゆる左派リベラルは古びた日本からの脱却を目指すという意味では成長神話を生きている。これは裏返せば土台になっている日本という環境を知っていてなおかつそれが崩れないものだという確信があるということになる。

ところがネトウヨと言われる人たちにはこの確信がない。つまり日本が崩れそうだとい危機感があるということだ。だからこそ元いた場所に回帰しようとするのだが、その元いた場所を正確に記述できない。彼らが語る古き良き日本とは、日本書紀などの記述をもとに国家が国民を戦争に動員するためにでっち上げた神話か、恵方巻き程度の歴史しかないマーケティングによって作られた伝統である。

西洋人は成長のゴールを「まだ見たことはないが、かつてあったと知っていた統合された状態だ」と置いているのだが、ネトウヨの人たちはそれが何者かによって壊されたと感じている。正確に記述できないのに壊されたと感じているので、実はネトウヨの人たちは理想の形を作り上げることができない。だから「外国や反日分子が邪魔をしている」と騒ぎだすのだということになる。

だが、こうしたマインドセットを持っている人は増えているようだ。日本が分離型の成長を追い求めてきた結果、多くの人が戻るべき場所を見失い不安になっているということなのかもしれない。これはこれまで見てきた村落の崩壊とは少し様子が違っている。

例えば相撲協会は他の興行やスポーツと競争する過程で、出自に対する自己認識を変えてきたという歴史があった。もともとは神事を真似た興行だったのだが、公益性のある伝統行事だと言い続けていたために、それを信じ込む人が出てきたということになる。中には伝統的な神道ではなく新興宗教に傾倒する人もいるようだ。いずれにせよこれは経年劣化であると分析できる。道のりは苦しいかもしれないが、単なる経年劣化なのだから、現状に合わせて変わるか先祖帰りするかという二者択一ができる。

だがネトウヨの場合は、元の場所が何であったのかが分からなくなっているのだから、変わることもできなければ、元いた場所に戻ることもできない。その意味ではより深刻な状態にあると言える。日本はもともとアジアのどこにでもある優れた点もあれば劣った点もあった社会だったに違いない。だが、ネトウヨにとってそれは受け入れがたい自己認識なのではないだろうか。

その意味ではネトウヨの総本山である安倍首相は歴史を改竄したり資料を隠したりするという野蛮な行いに手を染めるべきではなかった。元いた場所が分からないから頭の中で仮説をでっち上げているのだろうが現実と合致しない。だから、現実の方をあわせようとしているということになる。しかし、そんなことを繰り返していても状況は悪くなるばかりだ。外から誰かが破綻させない限り政府はますますコントロールを失い漂流することになるだろう。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



なぜ携帯ゲーム会社は儲かり、自民党は若年層の支持を集め続けるのか

最近ジャンクのデジカメにはまっている。今手元にカメラが9つある。一眼レフカメラ2台、使えるデジカメ3台、使えるが多分使わないもの2台、使ええないデジカメが2台だ。カメラは1つあればよいのだが、それでもまだ探していて「あれ、これは病気なのかな」と思った。

最初に思ったのは買い物は楽しいということだ。楽しいのは買ってからではなく買うまでの過程である。あれとあれを組み合わせたらこんなこともできるのかななどと想像するのが楽しいのだ。これがジャンクカメラあさりにはまった理由になっているのだが、同じことはいろいろな買い物に当てはまると思う。組み合わせによって変化する洋服などはその一例だろう。

ジャンクカメラを趣味としてコレクションしているといえばよいという気持ちもあるのだが、どうにも後ろ暗さを感じる。明らかな浪費だからだ。フィギュアやカードなどのコレクションにはまったことはなかったのだが、この人たちの気持ちがちょっとわかる気がした。結婚してもやめられず家族に反対される人がいる。理性的に処理すればいいのになどと思っていたのだが、多分周りから指摘されている本人にも後ろ暗さがあり、捨てなさいなどといわれると反発してしまうのかもしれない。

もともと「デジカメが買えない」という状況があった。持っていたカメラの写真が徐々に白くなって行き「これはやばい」ということになっても新しいものを買う踏ん切りがつかない。ようやく一眼レフカメラを買ったのだが外に持ち出して壊してしまった。こうした一連の危機感が熱を生み出したというのが今回のカメラ熱のそもそもの始まりである。つまり、カメラがなくなるのに買えないという気持ちを数年間持っていたのだ。

ある日、ハードオフでジャンクセクションを見つけた。ここで探すと意外と使い物になるカメラが安く見つかる。例えば、500円でカメラを探してメディアをヤフオクで500円で落とすと1,000円で買えてしまう。「意外と安く買えるんだ」と気がついた。

ここで焦燥感がソリューションと結びついた。

しかしこれだけでは病気にならなかったと思う。ヤフオクにしろハードオフにしろ動作するカメラがそのまま売られているというのは稀で検索して充電池の形を調べたりしなければならない。実は無関係に見えるものが一組になっている。これが病気に火をつけたようだ。中毒性のキモは探索行動にあるのだ。

探索行動には「能動的」であり「時間がかかる」という特徴がある。つまり、積極的に調べ物をすることで消費行動に参加しているという意識が生まれる。これによってコミットメントが強まるのだろう。カメラのように組み合わせによる認識ではなくても、例えばフィギュアなどの場合、キャラクターの背景を調べるなかで「ああ楽しいな」という感覚が味わえるのかもしれない。

こうした探索はカメラ本来のものとは異なる。例えばカメラの歴史を調べるために古いカメラを網羅的に集めるというようなことではないし、目的に合わせてカメラを選ぶという合理的な行動でもない。人間はこのように合理的でない行動で「遊ぶ」という習性がある。この習性が何かの役に立っているのか、あるいはそうでないのかはわからない。

もう一つ思い当たることがある。最近ダイエットをしている。つねに飢餓状態にあるのだが、それに気がつかない。

ということでこの状態が「特異なんだな」と気がついたのは、前提が崩れたからである。

第一にダイエットがプラトー(これ以上体重が落ちない時期)に入ったので食事の制限をやめた。お腹がすかなくなって二つの変化があった。朝起きる時間が遅くなった。そして、カメラに対する病的な探索意欲が減退した。お腹が空くことでいつも覚醒状態にあり何かを探しているというモードに入るのだが、これが減退するのである。

さらに散策行動も無意味かもしれないと思う出来事があった。別のハードオフに出かけた時にジャンクのカゴに充電器とカメラがセットになっているものを見つけたのだ。別のハードオフに遠征に出かけるほど検索熱が上がっていたのだが、実際には別に検索しなくても大丈夫なんだと思った瞬間に熱がかなり冷めた。

最初にある危機感と飢餓があり、その危機感から潜在的に検索モードになっている。そこに正解が提示される。だが、その正解は積極的に問題を解かないとわからない仕組みになっている。すると人は一種の興奮を覚えて探索行動が中毒性を帯びるのだろうと思った。あるいは「お腹が空いている」とか「社会認知が欲しい」という行動が何か別のものに転移しているだけなのかもしれない。

探索行動を喚起するマーケティングは実は増えているのではないかと思う。こうしたマーケティングは「ティザー」広告として知られている。焦らし広告と訳されるようだが、映画の断片をチラ見せして本編を見たくなるように仕向けるというような使い方がされる。エンターティンメント業界では古くから行われている手法で、シリーズもののゲームなどでも時々見かける。ゲームは探索行動そのものが消費の対象になっているので、フランチャイズの古いものを解き終わると新しいものが欲しくなるのだろう。

携帯ゲームはこの特性をうまく利用している。お金もなく時間もない人に「スマホのなかだけでは自由にできますよ」という正解を提示して「これくらいだったら使えるかな」という料金を課金するのだ。これを理性的にストップさせるのは多分難しいのではないだろうか。

逆に「消費者のためにすべてを解決してあげますよ」といって情報量を増やすのはマーケティング上必ずしも好ましくないかもしれない。日用品のリピート買いでは役に立ちそうな手法ではあるが、危機感に根拠があるマーケティングの場合逆効果になってしまうだろう。

この飢餓感を最もうまく利用しているのは自民党かもしれない。

非正規に転落しそうな末端労働者が自民党を応援するのはなぜかということが問題になるのだが、これは「社会認知のなさ」が逆に危機感を煽っていると考えるとうまく説明できる。政権常に飢餓状態を作っておけば政権が盤石になる「正解」で、ある意味生かさず殺さずで農民を管理していた江戸幕府と同じような状態なのだろう。合理的な政策選択が歪められるという意味では社会のバグなのだが、意外と自民党が支持される理由はこんなところにあるのではないだろうか。

自分のデジカメ熱を考えると、こうした飢餓感を理性的に制御することはほぼ不可能だ。あれおかしいぞと思ってもおさまらず、客観的に「ああ、これはブログに書けるな」と考えてもおさまらず、さらに書いてみても明日ハードオフに行けばまたジャンクのカゴを漁ってしまうかもしれないと思う。その意味では若者の自民党支持も容易におさまらないのかもしれない。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



憲法とハードコーディング

どこにでも頭が悪い人というのはいるものだが、そういう人に「あなた頭が悪いですね」と言ってはいけない。なぜならば感情的になってあとにひかなくなってしまうからだ。

しかし、こと憲法の議論においては頭が悪い人が多いという印象がある。特に、安倍晋三という人は頭が悪いと思う。

ここでいう頭の悪さとはなにか。それは「あれ何か変だぞ」と気づく力のなさである。言語化するのに時間がかかるのは構わないのだが、そもそも、最初の「あれ」がないと途方もなく長い時間を無駄に過ごすことになる。

憲法の問題は頭が悪い人が始めたせいで、明後日の方向に向かっている。それは政治リソースを食い尽くし、その質を悪化させる。

もっともおかしな議論が自衛隊を憲法に明記するという提案である。もともと日本の憲法は成立時に軍隊をあり方が変化している。だから、自衛隊を明記しただけでは不具合はなくならない。根本のアルゴリズムが間違っているからである。一方で、下手なプログラマほどアルゴリズムを無視して目につく問題点をプログラムで直接操作したがる。こういう方法を「ハードコーディング」という。アルゴリズムが間違っている上に例外処理が書き込まれるので、場合によってはひどいバグを引き起こすことになる。

しかし、下手なプログラマに「ハードコーディングはダメ」というと感情的にキレられることがある。ハードコーディングがまずいということが直感的に理解できないのだ。そういう人ほどめちゃくちゃな議論で人を困らせてなんとか自説を押し通そうとする。

こういう頭の悪い人が議論の起点になっているので、反対する方もなんだかおかしなことをいっている。野党は憲法を「権力者を縛るものだ」と言っている。確かに気持ちはよいだろうが、それは必ずしも正しいものの見方とは言えない。権力者と国民を別のものとしておいているからだ。日本は民主主義国家なので「権力者」という階層の人はいない。もしいるとしたら、その人たちは「自分は決して権力者にはなれない」と思っていることになる。

民主国家における憲法は「国と国民の間の契約」と言った方が正確だ。全てを国民全体の話し合いで決めることができればよいのだが、それはできない。だから誰かに委託する。委託するときに「このような手続きでこれとこれを任せるからあとはよろしくね」というのである。権限を委託された人たちのことを権力者と言っている。そして契約に基づく権限なので説明責任が生じるし、結果責任も取らなくてはならない。憲法は契約書であると同時に手順も決めてる。だから、憲法はプログラミングにも似ているのである。手順や付与する権限に設計上の問題があると、運用者が苦労することになる。

今までも自衛隊の問題では政府は運用に苦労してきた。日本は軍事力を持たないという建前があり、かといってアメリカが全部面倒見切れないという現実もあった。またアメリカは同盟国だという建前になっているが実は日本が軍事的に暴発するのを抑える役割がある。このために憲法第9条には問題が多く、それを解釈で乗り切ってきた。しかし、昨今の議論を見ているとこれが限界だろう。あまりにも運用に頼りすぎてきたために正当なジャッジができないので司法は国防に関する諸問題を無視し続けている。

だから、不具合に対処しようというのが正しい姿勢なのだが、なかなかそうはいかない。なぜならば起点が間違っているからだ。安倍首相は「日本がアメリカの仲間になって戦える国にしたい」と考えているようだ。そうすれば「今度は戦争に勝てる」からである。こういう人に向かって「国際情勢が変化しているので柔軟に対応できるようにしましょう」などと言っても無駄である。物事の複雑さが扱えないので、単純化して理解してしまう。だから議論が成り立たない。

その意味では護憲派は安倍首相に感謝しなければならない。安倍晋三が首相をしている限り憲法第9条のまともな議論はできないだろう。しかし、それがよいことなのかもわからない。護憲派はいつまでも国際情勢を無視したままで思考停止していられる。だから彼らは「権力者を縛るものだから権力者は変える提案をしてはダメ」などと言って平気な顔をしていられるのだ。

では、安倍晋三が首相の座を降りれば憲法議論は前に進むのだろうか。とてもそうとは思えない。それは現在の国会議論が堕落しているからである。堕落というと批判しているように聞こえるかもしれない。確かに不愉快な現実だが、決してどちらか一方を批判しているわけではない。

例としてあげられるのが労働法制の議論である。日本の生産性は低いのでこれをなんとかしなければならないという問題意識は誰でも持っている。しかしながら「個人が努力したところでどうしようもない」という諦めもある。すると、自分が頑張ってもどうしようもないのだから、せめて得点を得ようという気分の人が出てくる。

現在の労働法制の議論は経団連と連合の代理戦争になっている。経団連は製品やサービスによって経済をリードすることができないということがわかっているので、人件費を下げて生き残ることしか考えられなくなった。そこで生まれたのが派遣社員、残業代がつかない正社員、福祉給付をしなくても構わない外国人労働者への欲求だ。経団連は昔からこれを繰り返し訴えている。一方で、連合の方も「経団連の要求を排除できたら自分たちの得点だ」というマインドセットがある。

政治はこの問題を打開できないので「飴と鞭」を使って取引をしようとしている。野党が目指すのは飴だけを取り上げて鞭を回避したい。これができれば野党の勝ちで、飴が手に入れられなくても鞭を取り上げることができなければまずまずと考えているのだろう。裁量労働制は鞭にあたる。だから8本の法案のうち裁量労働制だけを取り下げろと言っているのである。

この「取引マインド」は政治全体を支配しているようだ。もはや全体設計ができなくなった人たちは意欲を失い取引を求めるようになる。例えば、維新の党は「教育の無償化」という取引材料を求めている。しかし、財源が確保できそうにないので、自民とはこれを「努力目標」にしたいという。

もし、自民党の人たちが憲法は契約であるということを正しく理解していれば「努力目標」などという発想は生まれなかったはずだ。なぜならば相互契約において一方が努力目標になればもう一方も努力目標になってしまう。つまり、国民も普段は権力を国会議員に委託しているが嫌になったら必ずしも従わなくてもよいということになってしまうからである。これでは憲法どころか法律すら守る必要はなくなる。これを法律の専門家がどう評価するかはわからないが、直感的におかしなことになってしまうのである。

そもそも「とにかく憲法を変えたい」という人が始めた議論なので、議論の目的が極めて曖昧である。そこで「憲法は美しい国柄を規定する」とか「権力者を縛る」とか「努力目標」だとか「議席を得るためのバラマキの根拠だ」などといったさまざまな倒錯した議論が起こるのである。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



日本人論と反日は実は同じもの

先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。

驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。

日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。

昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。

これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。

日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。

  • 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
  • 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
  • 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国

しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。

しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。

いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。

しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。

安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。

安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。

彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。

自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。

さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。

一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。

戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。

日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。

恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。

では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。

これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。

つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。

振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。

この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



左右対立は実はイデオロギーの対立ではないかもしれない

本日は政治の左右対立について考える。この対立はイデオロギー対立のように見えるのだが、実は年代対立ではないかというお話である。

この文章は、最初に対立が年齢対立であるということを示した上で、なぜそうなったかを書き、最終的に日本人のものの見方について短く考える。全部で3000文字程度あるので、途中で読むのをやめても一向に構わない。

先日来「自衛隊を国軍にしてもよいのでは」という文章と「安倍首相がサンドバッグのように叩かれている」という記事を二日続けて書いた。するとアクセスする人たちの年齢構成に変化があった。前者を書いた時に18歳から34歳くらいまでの読者が顕著に増えた。ページごとの年齢構成まではわからない(多分ページビューが足りないのだと思う)のだが、多分「自衛隊を国軍に」という主張が右派的な主張に見えたのだろう。

いわゆる「ニュースジャンキー」と分類される人たちは自分の主張と合致した記事を次から次へと読みたがる。だから、この傾向はしばらく続くものと思われる。だが、次の日にはまた34歳より上の人たちが伸びていた。彼らは「安倍首相が叩かれている」という記事に反応したのだろう。それぞれの年齢で読みたがる記事が違うのだ。

このことから、いっけんイデオロギー対立に見えているのはたんにデモグラフィー上の対立なのだかもしれないと思った。普段、日本人はイデオロギーなどの対象物には興味を持たず、人間に興味を持つのではないかと書いているのだが、その仮説がまた補強されたことになる。

実際に若年層の政治動向について調べている人たちの間でも、若年ほど安倍政権の支持率が高いことが観測されているようだ。イミダスの「若年層の内閣支持率はなぜ高い?」は次のように分析する。

まず、年長世代とは違い、若年世代は安倍内閣という政治的光景が標準的なものになった、言い換えれば、他の政治状況を少なくとも経験的には知らない世代と見なすことができるということです。安倍首相は戦後の歴代首相の中でも、長期の政権維持を続けていることは紛れもない事実です。この層には、安倍政権こそが日常の光景であり、安倍内閣になれ親しんでいる世代であるということです。

東洋経済も「若者の自民党支持率が高くなってきた理由」という分析記事を書いている。この記事で特筆すべきなのは、それぞれの世代が最初に見た失敗を強烈に覚えていて、それだけで「あの政権はダメだ」と考えているということだ。自民党政権が不安定だった時のことを覚えている人と小沢一郎が民主党政権をかき回したことを覚えている人で政治に対する見方が全く違っており、日本人の減点主義をよく表している。日本では、一度失敗したものが再び浮かび上がることはない。

バブルの最終期に就職した人たちが子供の頃、日本をよく言う人はあまりいなかった。戦後第一世代の親を持っている世代で「日本式」というのはつまり脱却すべき戦時体制を意味したからである。親からそう聞かされいたという人もいたかもしれないが、テレビの子供向け番組でも旧弊で時代遅れの日本を脱して豊かで進んだ西洋流の個人主義を受け入れるべきだというようなメッセージが流れていた。

面白いことに当時の日本人は外国人からダメ出しされることをとても喜んでいた。「イザヤ・ベダサン」という自称ユダヤ人の書いた「日本人とユダヤ人」という本が300万部を超えるベストセラーになったこともある。この筆名をよく読むといささか下品な日本語になっている。著者は著名な日本人の評論家だった。

いずれにせよ、多くの人は「日本人」はだめな存在だと信じてるのに、自分たちはそのだめな日本人に含まれるとは考えていなかった。つまり日本人というのは自己像ならぬ他己像だったのだ。

なぜ、中高齢者にとっての日本人が他己像なのかというのは興味深いテーマだ。個人で追求したい理想と集団での現実が乖離しているせいなのかもしれないと思う。実際にバブル期に入社した人たちは、内心では個人主義に憧れを持っていても、どちらかというと個人を抑圧する側に回っているのではないだろうか。一方で若年層では集団そのものが壊れていて、いざ帰属集団を求めると日本人という漠然とした集団しか思い浮かばないのだろう。

政治状況は日を追うごとに劣化している。確かに昔の政治家が全て立派だったとは言わないが、今の安倍政権ほどひどくはなかった。先に引用したイミダスのコラムでは「若い人には安倍政権はデフォルト」と書かれているのだが、高齢の世代にとってはかなり劣化した政権であることは間違いがない。しかし、若年世代にとっては先行きが見えないのに内紛が続く民主党政権こそ不安の象徴なのだ。

このように、ポストバブル期のあとの就職氷河期世代とゆとり世代は全く異なった世界観を持っている。若年層といっても自民党末期のゴタゴタと民主党末期のゴタゴタを覚えている人たちの差は数年しかない。こうして細かい違いが積みかさなっている上に他世代への反発もあり、政治的な意見が形成されているのだろう。だから、政治的な諸課題について相手を説得しようとしても無駄なのだ。

戦後生まれた「日本を脱却して西洋基準に従おう」という運動は屈折した形で「ダメな日本を攻撃する人たち」という民主党政権に行き着く。民主党は「ダメな日本人」という他己像を自民党に重ねてテレビで宣伝することで支持された政党である。いったんはこれが受け入れられたものの民主とは統治に失敗する。あくまでも他己像なので詳細に日本人性を分析せず、同じ罠にはまってしまったのであろう。そしてそれを今度は次の世代が攻撃する。言語化してみるととても不毛な論争だ。

さて、このくらいの文字数で若年層は脱落しているのではないかと思う。あくまでも統計的にみればだが、「国軍化」の滞留時間は2分程度であり「反安倍」の人たちの滞留時間は4分だった。じっくりと長い文章が読めていた時代の人たちと比べると、若い人たちはもはや長くて複雑な文章は読めない。これは能力差というより環境の差ではないだろうか。かつては図書館にこもってじっくり本を読んだ人が多かったが、現在ではスマホがあり注意力は普段から分散している。

安倍政権は短いフレーズを連発しヘッドライン作りを得意としている。一方で立憲民主党の主張は文章を読まなければわからない。政治的経験だけでなくリテラシの問題も両者の乖離を大きなものにしている。いずれにせよ、中堅の域に入った人は若い人に何かを伝えたければ1分以内に読める文章を箇条書きで書くくらいでないと伝わらないと考えた方が良さそうだ。「説明すればわかってもらえる」などと考えてはいけないのだろう。

そもそも世代間対立なのでトピックはそれほど重要ではない上に情報処理の仕方も違っているのだから、両者が折り合うことはなさそうだ。

日本人がかつて語っていた日本人論は「自己像」ではなく他己像なのではないかと書いた。これが揺り戻しを受けているのが過剰な日本擁護なのだが、これも自分たちのことではなく、実は上の世代への反発を投影したものにすぎないということになる。

こうした対立に魅せられてしまうと、そこから「利点と欠点」を洗い出して冷静に見ることができない。我々のような一般の庶民もそうだが、分泌を生業にしている人たちの中にも対立に溺れている人たちが少なくない。自転車操業的に思索を繰り返しているうちに対立に取り込まれてしまうのだろう。

ここまでで3100文字程度なのだが、ここまで読むことができた人たちは、こうした心地の良い不毛な対立構造から抜け出して行く努力をし、できればそれを自分の周りに伝えて行くべきなのではないかと思う。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



多様な働き方というのは企業と安倍首相の嘘なのか

さて、国会審議は依然紛糾している。実質的には経団連と連合の代理戦争であり、経団連の主張が潰せれば野党の勝利となる。だから、多様な働き方とか裁量が何かということが議論されることはないだろうと思われる。

こうした議論は一般の労働者や消費者には不毛であり、日本の生産性議論にとっては悪いことだ。だが、なぜ悪いことなのかと問われると説明はなかなか難しい。問題になっているのは「相互不信」ではないかと思う。労働組合と経営者の対立はそれを示している。表立って対立はしないのだが、裏で蹴り合いをしているという意味では冷戦構造と同じなのだと言えるだろう。

しかしながら、経営者と労働者は違うのだからそもそも妥協など出来るはずはないのではないかという疑問も浮かぶ。そこで、今回は本当に「多様な働き方」が単に企業と安倍首相の嘘なのかということを考えて行きたい。

企業は労働者が自主的に働き方を決めてほしいと考えて「多様な働き方」を推奨している。裁量労働制も労働者から見ると「企業が都合よく人材を使い捨てられる制度」と思われがちだが、経営者はもっと労働者に自立してほしいと考えているだけなのかもしれない。特に高度経済成長期を記憶している人は正社員が「将来の経営者だ」という意識を持って一致協力していた時代を懐かしんでいるかもしれない。今では信じられないことだが、かつての新入社員はそう考えていたのである。

かつての終身雇用は成り立たなくなり、企業は従業員の一生をまる抱えすることができなくなった。だから、経営者は労働者が企業にべったり張り付くのではなく「オーナーシップを持って仕事に取り組んでほしい」と思っているはずである。誰でも自分のことだと一生懸命になるが、言われたことをいやいややっているだけでは単に時間を潰して終わりになってしまう。つまり、企業がこの制度を通じて持ち込みたいのは「従業員の自主性」だと言えるだろう。

経営者は「労働者がだらだらと働くだけ」の状態を苦々しく思いつつ何をどうしていいかわからない。そこで政治への期待が高まる。そこで、「主体的な労働者の多様な働き方」というメッセージが生まれたのではないだろうか。

ところが大企業の考える理想の働き方という姿はすでに成り立たなくなっている。大企業ではかろうじて成り立つかもしれないのだが、中小企業に広がっているのはいつ終わるともしれない低成長に対する疲弊感だ。毎日新聞に有期雇用の無期雇用転換を迫られた苛立ちに関する記事が紹介されていた。この記事を読むと人件費を抑制して生き残るしかないと考える追い詰められた企業経営者と有期雇用で下に見ていた人たちに自分たちの福利厚生や特権が侵食されてしまうのではないかと恐れる正社員の赤裸々な姿がわかる。

これに輪をかけて「支援者のいうことを聞いてやるから票をよこせ」というこれまた主体性のない政治家が加わり、泥沼のような共依存関係が生まれていると言えるだろう。経営者は社会が変わってくれることを望んでおり、労働者は今まで通り会社にしがみつきたいと感じている。そしてビジョンを失った政治家は、なんでもいうことを聞いてやるから票をよこせと言っているのだ。

この議論のさらに厄介なところは、やる気だけあっても主体的な態度は生まれないという点にある。つ日本の企業は現場教育は得意だが経営者になるための教育を行って来なかった。これまでの延長から新しい提案が生まれることはない。経営者は現場を離れて経営教育を受ける期間を設ける必要があったのだが、そんなことをしているうちにポジションがなくなってしまうという恐れから現場を離れることができなかった。

多くの企業は、とにかく目の前の状況に合わせて明日の売上をあげなければならない。負け続けている状況に長時間耐えられるほど人は強くない。彼らにとっては意識の高い労働者が経営者と団結して自らの活路を切り開くたというのはおとぎ話にしか聞こえないだろう。

このように追い詰められた状況のもと、議論は楽な方に転がり始める。それは自分以外の誰かの安定性を犠牲にして明日を生き残ろうという議論だ。

例えば、派遣労働は専門職向けに例外的に作られた制度だがなし崩し的に広がってしまった。この前例があるので「残業代0法案」もいったん例外を許してしまえばなし崩し的に拡大するだろうという見込みがたつ。だから「何も触らせない」という議論担ってしまうのだろう。

政府に当事者意識があれば労働者と経営者の間にある意識の乖離を埋めて調停するようなことが起こっても良い。しかし、現在の政府は「経営者の言う通りに法律を変えてあげるからあとは現場でなんとかやってください」という態度に終始している。問題を収拾する意欲がないばかりか問題の認識すら面倒な様子である。

今度は介護現場で人が足りないから外国から調達するなどと言っている。これも現場の声なのだろうが、一方で「移民は嫌だ」という支援者の人たちがいるので、家族は呼び寄せられず、福祉対応はせず、一定期間で帰ってもらう制度が提案されつつある。制度としては完成するだろうが、海外からの人材を引きつけることはできないだろう。優秀な人ほど移民政策がしっかりした国に移りすみたがるだろうし、そうでない人たちも帰国して一から生活を立てなおさざるをえない出稼ぎ労働に出かけるとは考えにくいからである。

今回の議論は安倍首相の国会運営のまずさと稚拙さにばかり目が向いているのだが、実際に怒っているのは、労働者と経営者の間にある冷たい対立である。これがわからないで政局を見ていても単に混乱しているようにしか見えない。しかし、これがわかってからこの騒ぎをみるとどちらも日本の将来に責任を持とうとしているわけではなく、支援者に向けて歌舞伎芝居をしているということが見えてしまう。

この騒ぎの後ろにあるのは主体的に国が運営できるという自信と見込みが持てなくなった人たちの惨めさなのかもしれない。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



裁量労働制議論でサンドバッグ状態の安倍首相

生産性革命とか働き方改革と銘打った労働法正義論がどこか怪しい方向に向かっている。いろいろな情報が錯綜してわかりにくいので、自分のために整理してみることにした。

今の状況

アメリカのいうことを聞いて平和安全法制を通した安倍首相だが、今度は経団連のいうことを聞いて労働者をいろいろな形で使い倒せる法案を準備している。しかしそれでは受けが悪いので「生産性に革命が起こりますよ」とか「多様な働き方を選べるようになりますよ」と説明した。このうち残業代なしで労働者が使えるようになるのが裁量労働制だ。労働者と企業の間の関係は平等ではないので労働者は法律でかなり慎重に守られている。これを岩盤規制と位置付けて取り払ってしまおうというのがもともとも目論見である。背景には国際競争力を失いつつある現在の日本の状況がある。
法規制を撤廃すれば矛盾が噴出することは明らかだ。その対策を迫られるのは政府である。しかし、現在の政府は自分たちが支援者の言いなりになって問題が起きるということを全く想定していないようだ。答弁からは何の問題意識も感じられない。
そこで政府は「裁量労働になると勤務時間は短くなりますよ」という謎の統計データを調査方法を明らかにしないままで提示して2015年から使い続けてきた。しかし、数字のつじつまが合わないので野党が精査したところ、そもそもそんなデータはないということがわかった。そして厚生労働省も社会から非難されることを恐れたのか、野党の事情聴取に応じて情報を流し始めている。財務省が安倍首相を守ってバッシングされたことが聞いているのではないかと思われる。
しかし、安倍首相は「調査は根拠がなかったが、法案自体は良い法案だ」と開き直り、加藤厚生労働大臣は「裁量労働制をうまく使いこなしている企業もあるから、調査なんかしなくても大丈夫」という説明を繰り返している。確かに政府は長時間労働の是正を目的にした仕組みも準備するようだが、そもそも間違ったデータで説明をしていたほど不誠実な政府がこうした対策をまともにとってくれる保障はどこにもない。
一方、国民からの支持が得られない野党もここぞとばかりに過労死の被害者を国会に呼び涙ながらに「私たちは命を守ろうとしているのです」という歌舞伎風の質問をした。野党は連合の支援を受けているのでもともとこの法案には反対だし、手元には過労死した遺族の情報がかなり入っているのだろう。しかし、狙いは「経団連に失望させる」ことなのではないかと思う。人件費の抑制は経団連にとって大きな要望なので、これが安倍首相の稚拙な運営で潰れてしまえば、経団連は別の人を首相に据えようとするだろうからだ。安倍首相もそのことがわかっているから「調査をします」とは言わないのだろう。
ニュースではきれいに編集されていると思うのだが、これが現在の国会である。どちらもそれなりに必死なのだろうが、見ているとある種の絶望感さえ感じられてしまう。

そもそもなぜ裁量労働制なのか

まずは議論の動機から見て行きたい。自民党は残業代0法案を推進したがっているのだが、これは経団連が長い間推進している政策であり、今急に安倍首相が思いついたものではない。
裁量労働制の提案者は経団連だろう。あまり表立って報道はされないが経団連はこれを隠しているわけではなく、インターネットでも公開されている。規制改革の今後の進め方に関する意見(2015年)安倍首相の「多様な働き方」という説明そのものが経団連の意図に従っているのだろう。

意欲ある若者や女性、高齢者を含む国民誰もが、活き活きと働くことができる環境を整備することは、喫緊の課題である。高度プロフェッショナル制度の創設や裁量労働制、フレックスタイム、短時間勤務、地域・職種限定正社員、テレワーク、在宅勤務等、多様な働き方を可能とするための柔軟な雇用・労働基盤を確立すべきである。先の通常国会に提出された労働基準法の改正案を早期に成立させるとともに、労働者派遣法についても、労働政策審議会の建議のとおり、労働契約申込みみなし制度やグループ企業内派遣規制など、2012年改正の内容について見直す必要がある#10

もちろん企業側が自分たちに有利な主張をするのは間違ったことではない。だからといって全て企業の言いなりになってしまえば労働環境はめちゃくちゃになってしまうだろうし、高齢化が進み労働者調達が難しくなった社会では却って企業にも害があることになる。さらに、連合を支持基盤とする民主党系の政党が反対するのは当たり前の話である。
長妻議員は「営業などのチームプレイでは裁量労働は成り立たない」と言っている。これについては過去に書いたように、必ずしもそうなるとは言い切れない。チームが明確なジョブディスクリプションを元に業務を分担すればこの限りではないからだ。日本のようにチームの役割と責任が曖昧になりやすい企業文化では長妻さんが言っていることの方が正しい。急民主党は労働組合が支持基盤なので現在の労働者の状況が集約されているのではないかと思われる。
本来なら、裁量労働制やその他の多様な働き方を正しく機能させるためには企業が変わってゆく必要があり、政府は企業を導いてゆく責任があるはずだ。

資料は捏造されたのか

野党は「政府は野党を騙そうとした」と言っているが、これは「歌舞伎的な」芝居も入っているものと思われる。実際の経緯はもう少し複雑だ。安倍首相が嫌っている朝日新聞が経緯を書いている。これに今回の国会答弁を重ねると次のようになる。

  1. 第一次安倍政権が裁量労働制の対象拡大を画策した。記事には書かれていないが経団連の要望を叶えようとしたものと思われる。
  2. 厚生労働省に適当な資料がなかった。そこで監督時に聴取したデータなどをもとに、一般労働者と裁量労働にについて別個の資料を作成した。担当者がでっち上げたという類のものではなく、当時の部長と課長が決済した。記事には書かれていないが、今回の答弁で加藤厚生労働大臣は「塩崎大臣には報告が上がらなかった」と主張している。もともとは資料によるとなどと言っていたのだが、間違いがわかったので「役所が勝手にやった」と言い出したのだ。
  3. 内容は労働時間を比較したものではなく、それぞれの長時間労働の是正について議論をするための個別の資料だった。目的も違っているし、資料の関係性も今の使われ方とは違っていた。
  4. 野党が「残業代0」だと騒いだために、議論は2年たなざらしされた。こちらも記事には書かれていないが連合が反対したのではないかと思われる。つまり法案を精査して修正したのちに提出しようなどという機運はなかった。
  5. 与党は今回は「多様な働き方」と表書きを変えて、経団連の主張通りに残業代を支払わずに労働者を使役できる法案を紛れ込ませようとし、予想通りに野党から反発された。
  6. 今回はなぜか別個の資料が「労働時間を比較したもの」という文脈で安倍首相の答弁に引用された。安倍首相がどのようなつもりで答弁したかわからないが、今回の国会答弁では「報告通りに読んだだけで、いちいち細かいところまで理解できるはずはない」と開き直っている。
  7. 記事には書かれていないが、加藤厚生労働大臣はこの資料の根拠が薄弱だということを知ってから資料を引き合いに出さなくなった。その間も安倍首相はこれを使い続けた。つまり、資料が違っていて虚偽の答弁になっているということを数日の間知っていたことになる。
  8. この後「隠蔽するつもりはなかった」とか「だますつもりだったんだろう」という議論になり、収集がつかなくなりつつある。対立する理由のない維新もさすがに「調査をしなおしては」と提案しているが、安倍首相は応じるつもりがなさそうだ。
  9. 自民党は当時のデータを厚生労働省がそのまま持ってきたと説明し、厚生労働省のミスであるとの印象を与えようとしている。一方、厚生労働省はそもそもの資料の目的と今の使われ方は違っていると野党やマスコミに抗弁し始めている。

もちろん政権側の運営はデタラメなのだが、一方で政権が「騙そうと考えて」資料を準備していたという説も成り立ちにくい。そもそも当時の厚生労働省は裁量労働制の優位点を強調するために調査をしたわけではなかったのだが、当時の数字を「うっすらと覚えていた」安倍首相が「自分勝手な解釈をして」答弁した可能性が高い。いずれにせよ、安倍首相は支援者のいうことは何としても聞かなければならないと思い込んでおり、議会は単なる儀式として取り扱われているのだが、野党もこれに慣れてしまい型通りの歌舞伎芝居を続けている。
しかし、こうした議会を軽視したやり方はついにここまでひどい国会運営に成り下がったのである。

日本人は議論の際に何を重要視しているのか

このセクションは蛇足だが、与野党の姿勢には面白い特徴がある。働き方の議論ではなく、どっちが信頼できる人なのかという議論が延々と行われているのだ。もちろん与党は信頼してくれというだろうし、野党は信頼できないという。議論が決して交わらないのはこのためである。そしてそれが日本で二大政党制が根付かない理由になっている。政権交代が可能な状態ではどちらも政局に夢中になってしまうのである。
この件が「炎上」することを恐れた自民党は冒頭で申しひらきの時間を作った。これはとてもおざなりなものだった。質問に立ったあべ俊子氏は多分このことに興味がなかったのだろう。型通りに状況を聞いてから「だますつもりはなかったのだから良いではないか」と言って切り上げようとした。も自分の利益団体(看護)のための質問時間が「くだらないことで」削られるのが嫌だったのだろう。その後「地方の病院には国費をつぎ込むべき」という自説を述べて質問を終えた。多分、自民党の議員は選挙のことで頭がいっぱいで「自分には関係がない」政府が何をやろうとしているかには興味がないようである。「結論は決まっているのだから私が何かしてもしかたがない」と感じているのかもしれない。これはとても恐ろしいことのように思えるが、与野党が派手に対立している現在、こうした無気力さを気にする人はほとんどいないようだ。
一方、野党側は’首相が逃げているという印象を作りたがっている。安倍首相は「厚生労働省が間違ったデータを報告してきたのだ」という形を作ろうとしており説明を全て加藤厚生労働大臣に押し付けている。これがわかっている長妻さんら野党は大げさに「総理に聞いているんだよ」と歌舞伎のように言って審議を度々中断させようとした。多分テレビ向けの演技なので、安倍首相は早くこのスキームに気がついた方が良いと思う。
いずれにせよ、自民党は「自民党は良い政党なのだから、悪いようには取り扱わないだろう」と考えており、野党は「自民党は悪い政党なのだから、全て嘘である」と言っている。議論の参加者も見ている方も、対象物ではなく関係性と人間性に強い関心があるのである。
 
 

自衛隊が国の軍隊になって何が悪いのか

今回のお話は小林節先生の指摘から考えたい。

小林先生が「警察、消防、海上保安庁などの役所の名前が憲法には出てこないのに自衛隊を憲法に書き込むのはおかしい」という趣旨の発言をされたというツイートを見かけた。しかし、文章は「自衛隊を国軍にしたら大変なことになる」と結ばれており、おやおやと思った。

面白いことに出典元がない記事が多い。検索してみるとどうやら出典は赤旗らしいのだがどうもはっきりしない。共産党の人たちは自分たちが嫌われていることを知っているのだろう。それで出典を隠したかったのかもしれない。いずれにせよ共産党支持の読者層には受けそうな発言なので、それなりの合理性はあるのだが「国軍」を作るのがどうして悪いことなのだろうかと思った。

確かに、憲法解釈に矛盾があるからといっていちいちいろいろな役所を書き出していてはキリがない。だから自衛隊を憲法に書くのではなく条文を見直して明確に合憲であるとするか、あるいは軍隊的な組織をなくしてしまえばよいということになる。

海上保安庁などに問題がないのに自衛隊が問題になるのは、日本国憲法を作る時に日本が独自で軍隊を持つことが想定されていなかったからだろう。だが、軍隊がなくても国が成り立つという意味合いではなく、集団的な体制で敗戦国を監視するという意味合いが強かったのではないだろうか。例えばドイツはヨーロッパの軍事組織に組み込まれており、独自展開はできなくなっているはずである。

日本は当時このような集団的自衛体制がなく、アメリカは関係当事国(フィリピン、大韓民国、日本、オーストラリア・ニュージーランドなど)とそれぞれ防衛の枠組みを作った。記憶によるとオーストラリアは日米豪の同盟に反対したというような話があり、のちに核武装に関する意見の違いからニュージーランドが日米豪ニの枠組みから離脱し、アメリカをハブとしてそれぞれの国が防衛体制を作るというスキームが定着した。

赤旗の読者の方には申し訳ないのだが自衛隊は国軍化すべきだと思う。「お前も戦争がしたいのか」という人もいるかもしれないが、実際は逆である。

前回書いたように日本は北朝鮮と戦争をしたがっているようだ。主語を日本としたが実際に戦争を従っているのは安倍首相とその仲間たちとするべきかもしれない。安倍首相にはアメリカのような強い国が後ろ盾にあれば必ず北朝鮮に勝てるはずだという見込みがあり、「先制攻撃した方が有利である」と考えているようだ。これがさほど騒ぎにならないのは「その通りだな」と思っている人が多く、手を汚すのはアメリカ軍だという認識が日本人の中にあるからだろう。

高度経済成長期にウルトラマンを見たことがある人は知っていると思うのだが、この状態はウルトラマンが来て解決してくれるから我々は何もしなくてよいと科学特捜隊が考えるのに似ている。科学特捜隊の時代にはまだ戦争の記憶があり「本当にそれでよいのか」という悩みが度々語られ、最後はウルトラマンが地球を離脱することで「これからは科学特捜隊が地球を守る」という決意が語られる。しかし、現在の科学特捜隊はそのことを忘れてしまったようだ。怪獣はウルトラマンがなんとかしてくれるから我々は何もしなくて良いのだという楽観的な見込みがある一方で「ウルトラマンが光の国に帰ってしまったらどうしよう」という不安を抱えている。

とても皮肉なことなのだが「軍隊を持たない」ということは気の持ちようによって全く逆の二つのマインドセットを生み出す。軍隊がないから外交によってなんとかするしかないと必死になる人たちもいれば、他の国が全部面倒を見てくれるから自分たちは無責任に状況を煽って良いと考える人が出てくる。実は安倍政権というのは平和憲法が生み出した化け物のような存在なのかもしれない。だが、首相の言動を容認したり賛同したりする人が多いところを見ると、安倍首相が特殊というわけではなさそうだ。

加えて沖縄の問題もある。アメリカ軍のヘリコプターが沖縄に墜落しても我々が罪悪感を感じないのは「所詮アメリカのヘリコプターなのだから沖縄とアメリカがなんとかやりとりをすればよいのだ」と思っているからだ。つまりアメリカというブラックボックスを間に挟むことで責任を回避することができる。これも実は平和憲法が生み出した無責任なマインドセットと言えるだろう。

その意味では安倍首相は非常に良い役割を果たしている。憲法改正の機運を作っただけでなく、悪い見本として「日本が今軍隊を持ったら大変なことになる」ということを教えてくれているのだ。多分、安倍首相が軍隊を手渡されたら無責任に状況を煽り<事実>をでっち上げ、交渉の結果を国民に知らせないで戦争に突入するだろう。こうした無責任極まりない首相が今後出てこないとは限らない。

このことから、自衛隊を国軍として位置付けた上で、行政にチェックさせる仕組みを作るのはもちろんのこと、立法府が判断して「その都度予算調達する」仕組みを作り、執行についても定期的に監査しなければならない。そして、記録がない場合には(数の上でどんなに有利であっても)予算の執行を即時停止するくらいの強い権限を国会に与えなければならないということになる。つまり、野党が強力に監視する体制を作らない限り、自衛隊であろうが国軍であろうが極めて危険だということになる。

確かに理論上は不要不急の問題も出てくるはずなので、首相に強い権限を持たせた方がよさそうに思える。強力な議会が不利に働くことも出てくるだろう。しかし、今の制度とマインドセットだと何の準備もなく「先制攻撃した方が有利だ」などと考える首相が「相手に手の内がばれると困るので」というめちゃくちゃな理由で国会に何も告げずに開戦してしまう可能性が強い。国会でも度々「事後承諾でも構わないわけですが」と思い出したように答弁することが多い。安倍首相は「可能性としてできる」ということと「やっても良い」という区別がついていないようなので、極めて危険性が高く、後に続く首相のマインドも保障できない。

憲法を改正するとしたら、自衛隊を国軍化した上で国会の権限を強めるべきだということになるだろう。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



日本の典型的な負けパターンはどんなものなのか

今日は戦前と現在の状況は似ているという指摘について考えたい。

よく「現在の日本は戦前に似ている」という人がいる。戦争に突入するというような状況にはなさそうなので被害妄想なのではないかなど思える一方で、やはり似たような状況はあるのではないかと思ったりもする。一体何が似ていて、何が異なっているのか。

そこで、日本が第二次世界大戦に突入した背景をもう一度考えてみたい。根本にあるのは経済的な行き詰まりを話し合いで解決することができなかったという事情である。明治政体が欠点を抱えていたという人もいるだろうし、文化的な問題を指摘する人もいるだろう。そこで、打開策として軍隊が出てくる。他民族の土地を侵略して新開地を開くことで経済発展を可能にし、問題を解決してしまった。この軍隊万能神話にマスコミは疑問を持たなかった。しかし、軍隊頼みの施策はやがて制御不能になり、最終的には国民の資産を全て食い尽くすまで膨張したて、終戦という形で収束した。

確かに同じようなことが今起きているのだが、その形は解体されてわかりにくくなっている。第一に経済的な行き詰まりがある。これは少子化と低成長という形で現れている。これらの諸問題を国会による話し合いで解決できないでいるという点も近似している。打開策としての軍隊は持っていないのだが、代わりにアメリカ軍依存が強まっている。

問題をわかりにくくしているのは、日本は軍隊を持っているわけでもなければ攻撃対象になってもいないという点である。アメリカと直接対決したがっている国は多いのだが、日本はむしろそれに乗って「戦勝国」になろうとしているように見える。そこにあるのは「アメリカのような強い国が先制攻撃すれば勝てる」という極めて楽観的な見込みである。

日本人が現在持っている閉塞感はいわば未来に対するみ投資のなさである。しかし、これを直接解決しようという人はそれほど多くない。その一方で日本人は「勝てる何か」を追い求めている。北朝鮮に勝ったとしても日本に経済的なメリットがあるわけではない。それでも「勝ちたい」と考えている人が多いようだ。

なぜこれほどまでに「勝ちたい」という気分が広がっているのかがよくわからない。あるいは高度経済成長期の「勝ち続けていた記憶」から抜けられない人が多いのではないかと思うが、騒いでいる人の中には高度経済成長期を知らない人も大勢いる。

戦前の人々がなぜ中国大陸進出に浮かれたのかはよくわからないのだが、それ以前の戦争の記憶と結びついていることは間違いがない。だが、当時の国民は状況をよく理解していなかった。清に勝ったのは実力だったのかもしれないが、ロシアに勝った時の状況は実はそれほど芳しいものではなかった。日本はそれ以上ロシアとの戦いを遂行できなかったのだが、それが国民に知らされることはなかった。それどころか「勝ったのになぜ賠償金を取れなかったんだ」と考える人たちもおり、賠償金を要求した焼き討ち事件まで起こっている。(ポーツマス条約で日本人激怒!日露戦争は日本にとってオイシかった?

ちょっとした変化を恐れる日本人は、なぜか「正解」を見つけてしまうとそれに飛びつく傾向があるようだ。現在多くの国民が「アメリカに乗れば戦勝国になれるぞ」と考えているわけではないと思いたいが、少なくとも安倍首相とその一派の人たちは北朝鮮を攻撃さえしてしまえば問題はたちどころに解決すると信じているようだ。最近有名になった山口壮と安倍首相のやりとりによると、安倍首相の頭の中にはこのような妄想が広がっているという。

ひとたび攻撃を受ければこれを回避することは難しくこの結果先に攻撃した方が圧倒的に有利になっているのが現実であります。

確かに米軍が瞬く間に平壌政権を制圧することも考えられるが、そうならない可能性もある。日本の総理大臣は問題が起こった時の解決策を考えておく必要があるのだが、少なくとも安倍首相にはその気はないようである。それどころか、一人前のめりに戦争を熱望している。山口さんとの対話から見えるのは「アメリカへの見捨てられ不安」や「北朝鮮の軍事大国化」という脅威と表裏一体になった仮想的な万能感だ。自分たちは主体的に問題を解決できないので、一発逆転のチャンスに賭けてしまうのである。

このような思い込みは、真珠湾を攻撃さえすれば米軍に勝てるに違いないという見込みと非常に似たところがある。何も決められず何も達成できなかった人たちが、そのあとのことを考えずに作戦に突入してしまうのだ。その過程でどういうわけか「もし勝てなかったらどういう対応策をとるか」というような対応策は忘れ去られてしまう。だが、真珠湾も、シンガポールの不意打ちという「成功体験」に裏打ちされている(太平洋戦争の始まりは「真珠湾」ではなかった──日本人の知らない「暴力の歴史」を訪ねて|新連載 日本の「侵略」を行く 小原一真)という話がある。つまり、小さな成功体験の積み重ねが判断を狂わせてしまうわけだ。

背景には「不安への耐性の低さ」があるのかもしれない。日本人が決められないのは「間違ったらどうしよう」という不安のせいなのだが、ある正解が提示されると今度はそれがうまく行かなかった時のことを考えて不安になる。決められない態度も決めすぎる態度も、同じ不安が根元にあるのだがその出方が180度変わってしまう。これが日本人が豹変してしまうように見える原因なのかもしれない。

現在、この抑止力となっているのはアメリカ議会である。例えば大統領が先制攻撃を模索したとしても議会が割れている状態では予算が承認されることはないだろう。しかし、抑止力を他国に依存しているということは、いったん戦争や混乱が始まればそれを自前で解決できないということを意味している。多分、その時の日本は自力では混乱を止めることはできなくなるだろう。

この「事態が打開できなくなった時の一点賭け」は多分日本の典型的な負けパターンなのではないだろうか。その背景には「協力できない」という文化的背景と「不安を払拭できない」という気持ちがあるのではないだろうか。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement