憲法第9条は変えた方がトクなのかソンなのか

本日は憲法改正について考えたい。「憲法第9条は変えるべきかいなか」ではなく「変えたほうがトクなのか」という議論である。現在、三つの案が出ているのでおさらいしておこう。

一つ目の案は「憲法第9条を変えると戦争になるから絶対に変えてはダメ」という案である。主に立憲民主党・社民党・共産党などの野党が提案してる。次の案は自民党の石破茂議員らが提案している案で自衛隊の交戦権を認めて国際的な軍に格上げするというものである。最後の案はこの「間をとった」と称される案だ。提案者は安倍首相で、今までの憲法をそのままにして「自衛隊は合憲である」と書き込もうというものだ。

安倍首相は何を考えているかわからないからとにかく反対という意見もあるだろうが、首相の動機は多分「おじいちゃんがそういったから」というものだろう。岸信介首相は「吉田派が勝手にGHQ と相談して決めたみっともない憲法だ」と考えていて、それが気に入らないのである。しかし、岸信介首相には人望がなかった。本来は日米安全保障条約を改訂してから憲法に着手するはずだったのだが、説明不足から大混乱を招き、結局首相に返り咲くことはなかった。そのルサンチマンが現在まで続く「議論」の全てではないだろうか。

こうした経緯を置いて個人の意見を述べる。個人的には石破案に賛成である。自衛隊は実質的には軍隊であり国連の安全保障活動でも軍隊として行動している。にもかかわらず交戦権が認められない(あるいは曖昧)ということは、すなわち自衛隊を海外に派遣している政府やそれを黙認している国民として非常に無責任である。国連から引き上げるという手もあるだろうが、国連の活動は不安定化する国際情勢に対応するためには必要不可欠になっており、撤退するのは得策ではないしまた撤退すべきでもない考える。自衛隊を軍隊にしたら戦争になるというのは確かだが、実際にはその戦争はもう始まっている。しかしそれはかつてあったような国と国との間の争いではなく、いわばがん細胞のように広がるテロリストや不満を持った個人なのだろう。

もっともこの筋立てが多くの人に共有されているとは思わない。石破論考える集団的自衛権は多分日米同盟のことを言っており、改憲派の人たちの本音は「中国が怖いから日本の軍備を強化したい」というものだろう。

しなしながら、今回は国際情勢については考えない。むしろ考えたいのは国民にとってこれが「損なのか得なのか」である。

現在の国会答弁を聞いているとよく出てくるフレーズがある。それは「相手に手の内をさらしてしまうから何も答えられない」というものだ。国防議論はすべて答弁上は「黒塗り」になっており、これが当然のように使われている。国会議員は国民の代表なのだからこれは「国防については国民は知らなくて良いですよ」と言っていることになる。つまりあくまでも表面上の主語は「敵」なのだが、日本人は簡単に主語を転換させてしまうので、実際の主語は別のところにあるのかもしれない。

ではなぜ国民に知らせてはならないのか。三つの理由があると思う。第一の理由は日本が主体的に戦争(防衛)に関与していないために国民の理解と予算の承認が必ずしも必要がないという事情である。この意味では日本の国防というのは第二次世界大戦前と似ている。すなわち国会は軍隊を監視することはできず「統帥権」という名目で独立しているのだ。もちろん戦前と違って現在の自衛隊は内閣に参加していないので、自衛隊が気に入らないからといって内閣が瓦解することはない。また、天皇もスルーされており内閣はアメリカと直接やりとりをしている。つまり、天皇が一段下がった形になっている。それ以前の内閣はこれほどあからさまに国会を無視しなかったから、安倍内閣は日本国民は日本防衛の当事者ではないと見なしていることになる。

次の理由はこれと似ているが異なった理由である。日本はアメリカの軍隊を補完する形になっており当事者ではない。つまりそもそも情報が入ってきていないという可能性である。アメリカには独特のラインがあり軍隊と国務省は別の動きをしているようである。これを統合するのは大統領なので、外から動きを見ていても最終的に大統領がどう決断しそれを議会がどう承認するか(あるいは承認しないか)がわからない。つまり日本の防衛について最終的に決めるのはアメリカ議会なのだ。最後までわからないのだから日本政府が勝手に自分たちが作ったストーリーを正当化する議論を積み重ねることはできない。だから何も言えないのである。

ここまでの敵は例えば北朝鮮や中国だろう。つまり日本政府が憶測でものをいってアメリカの作戦を邪魔してはいけないという遠慮があるのだろう。日本人は軍事的にアメリカに依存することに対して抵抗はないので、日本人の運命を最終的に決めるのはアメリカの納税者なのだということを受け入れていることになる。

最後の理由はこれとは少し違っている。すでに国内の議論が形骸化しており、実際には憲法や法体系をかなり踏み越えた運用が行われている可能性がある。つまり、これまでの議論をオープンにしてしまうとこれまでの議論が単に「議論のための議論だった」ということがわかってしまうばかりか「憲法など最初から度外視されていた」ことがバレてしまう。すると国内左翼が騒ぎ出す。安倍政権はこれが面白くないのではないだろうか。例えば、オバマ大統領が核兵器廃絶を訴えた時日本政府の姿勢は慎重だった。国内の「サヨク」にいい思いをさせてはならないと考えたからだ。つまり「敵に手の内を見せてはならない」の「敵」とは国内政治の政敵のことなのである。

つまり、日本人は自分たちの運命を自分では決められないのだから、最低限何かに巻き込まれないようにするのがトクということになる。よく自衛隊を軍隊にして自分たちの身を守らなければならないなどと言っている人たちがいるが、それは「お花畑」であり現実を見ていないと言える。

よく、改憲派の人たちの中に「憲法第9条があっても中国が明日攻めてきたらどうするんだ」ということをいう人がいる。「そんなことはありえないだろう」などと言ってみても「100%ないのか」と言われれば言葉に詰まってしまう。これは中国との間にラインがなく相手の出方がわからないといことが背景になっている。つまり、信頼できないから備えなければならないということになる。

しかしながら、おなことがアメリカに対しても言える。「アメリカが日本を見捨てたらどうするのか」とか「自国防衛のために利用したらどうするのか」という質問ができる。中国が攻めてこないことが「絶対にない」ことはないのと同じように、アメリカが日本を見捨てないという可能性も絶対にない。アメリカ人は100%いい人なのかもしれないが、防衛という究極の状況では自分たちの身の安全を優先するだろう。

もちろん自分たちで何かができるならどうにかすべきである。しかし、問題の本質は「国民から見て政府がどのように動くかわからないし、そもそも当事者能力があるのかすらわからない」という点にある。よくゲーム理論で「囚人のジレンマ」ということが言われる。二人の囚人が意思疎通ができる場合とできない場合では最適な戦略が異なるというものである。もちろん協力して示し合わせるのが最適解なのだが、そうでない場合には自分の身の安全のみを考えたほうがよい。それは「いかなる取引にも応じず、何も協力しない」ということになる。

もちろんこれは国益を大きく損なう可能性がある。しかしその問題を作っているのは「敵に手の内を知られては困るから」といって何も説明しない政府であり、我々には何の落ち度もない。

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国体議論と憲法議論はなぜ不毛になるのか

前回は、日本人がマルクス・日蓮・立憲主義・憲法第9条がどれもお経のように捉えているというような話を書き、その中に国体主義を入れた。つまり、国体もお経のようなものなのではないかということである。

今回は国体について扱う。燃えやすいテーマなのでいったん読むのをやめて「自分が思う理想の国」について考えていただきたい。

先に「私が思う国の形」について考えたい。それは、自分たちの運命を自分で決めながらそれぞれが考える理想の形で「まだ見えていない可能性」を追求できる社会だ。まだ見えていない可能性を成長と呼ぶと、もし成長にとって必要だと考えれば社会を作れば良いし、いったん作ったなら他人の成長も巻き込んでいるのだから、それに責任を持つべきである。もちろん、これに賛同していただかなくても、以降の読み物は読むことができる。

国体主義はこの中では唯一の日本独自の概念であり英語のウィキペディアでもkokutaiという項目が設けられている。いろいろな概念が誤解されるのはそれが輸入概念だからなのだが、国体は日本独自の概念であり、解される可能性などないのではないかと思える。元をたどれば古事記や日本書紀のような伝統的な書物にまで遡ることができる古い概念だ。

ところが、古事記も日本書紀も天皇家の正当性を主張するために作られた物語であり、真実をベースにしているのかもしれないがいわばフィクションである。そして、国民すべてが合意するような「国体論」は未だに存在せず、それどころかほとんどの国民は国体には興味がない。国柄などということを考えなくても日本という島の形があり日本語という言葉があるからだ。

そもそも、古事記や日本書紀も、中国語で書かれているのだから中国を念頭に書かれているのかもしれない。もし、文字を持たない日本人を説得するとしたら、それは口伝だったはずだ。現に古事記は歴史をすべて丸暗記していた人からの聞き書の形になっている。当時はかなり長い文章か膨大な伝承をそのまま暗記することができる人がいたのだろう。国を発展させるためには庶民にも文字を教えるべきだなどと考えた人はいなかった。仏教の布教も口伝やきらびやかな仏像を通じて行われた。「お経みたい」というのは、つまり何が書いてあるかわからないがとにかくありがたいということの例えであり、つまり意味がわかっていない人たちから見た仏教の感想である。

明治時代になって国の統治システムを国体と呼ぶようになると、国柄についての議論が始まる’。アメリカに渡った人たちは、アメリカ人が「アメリカの基本は民主主義だ」と明快に理解していることに驚いたのではないだろうか。そこで「日本の統治システムとは何だろうか」ということを考えてみたものの答えられる人は誰もいなかった。考えたことがないのだから答えられなくても当たり前だがm問題は実はそのあとだ。どれだけ考えてもみんなが納得する答えが見つからなかったのである。

明治維新体制は天皇を中心とした国家だ。だから天皇という存在をを動かせないという制約があったがそれでもまとまらなかった。

さらに不幸なことに「国家体制」の議論は政局的に利用されることになりついには言論を萎縮させる事件が起こる。有名なのは昭和10年(1935年)に起きた「天皇機関説事件」だ。ある貴族院議員が美濃部達吉貴族院議員を攻撃した。美濃部は起訴猶予処分になったが貴族院議員を辞任せざるをえなくなる。「右翼に気に入らないことを言ったら逮捕され投獄されるかもしれない」のだから議論が活発に行われるはずもない。さらに日本は経済的に行き詰まり、その打開策として中国に進出するのだが、今度は軍事的に膠着し、最後にはアメリカと対立して破綻してしまう。

そんな中で国体は議論されなくなり、代わりに日本は天皇というお父さんを中心にした仲良し家族なのだということなったのだが、実際の「お父さん」とその取り巻きたちは多くの兵士を餓死させ最後には沖縄を犠牲にして自分たちだけは生き残ろうとした。もし日本が家族だとしたら、とんだ暴力一家である。

最終的に国体は国民を追い詰めたということになり、議論そのものが行われなくなって現在に至る。

戦後の新しい国体議論に進む前に、こんなストーリーはどうだろうか。

ある狭い村に住んでいた人たちが三人平原に連れてこられた。村の狭さにうんざりしていた彼らが「土地をあげるから好きな国を作って良いですよ」と言われた。一人ひとりは理想を追求することができるのだろうが、それでは社会にはならない。そこで話しあいを始めるのだが制約事項が何もないので何も決められない。そうこうしているうちに「なんでも決められる」ことに不安を覚えて取っ組み合いの喧嘩を始めるのである。

現在の国体論は憲法議論の形で行われている。安倍首相は「国のかたち、理想の姿を語るのが憲法」と言っているのはその影響だろう。ただし、その議論に影響力を行使できないことがわかっている野党側は「為政者を縛るのが憲法であり、安倍首相とは憲法観が違うから話し合いすらできない」と譲らない。

もともと安倍首相が憲法を改正したいのはおじいさんの影響だと言われている。ではおじいさんである岸信介はどうして憲法を改正したかったのだろうか。よくわからないののだが、いくつか断片的な話を総合すると以下のようになる。

  • 日米の集団的自衛体制を固定化したかった。
  • 吉田茂らの一派が、岸ら公職追放組がいない間に憲法を決めてしまったのがおもしろくなかった。

つまり、岸信介は「アメリカに基地を貸して、代わりに守ってもらっている」ことを前提に「日本がアメリカに従属しているから」ではなく、「これは集団的自衛でありアメリカに協力してやっているのだ」という理想形を作りたかったのだろう。安保の交渉を見てもそれは間違いがなさそうだ。

しかし一方で、自分がかかわらなかったうちに吉田茂一派が「勝手に」妥協の産物として日本は軍隊を持たずにアメリカに守ってもらっているという体制を憲法として固定化してしまったのが面白くなかったということも言える。「聞いてないよ」というわけだ。

つまり「俺たちがいない間い勝手に決めたからくだらないに決まっている」と言っているだけだと言える。もともとは安倍さんのおじいさんと麻生さんのおじいさん(しかも揃って外孫)の内輪揉めなのだが、それに加わったのが安保反対運動を聞き入れられず、ベトナム戦争も止められなかった左派である。左派に「戦争反対とは何に反対しているのか」と聞いても明確な答えはない。しかし、多分彼らが考えている戦争は第二次世界大戦にベトナム戦争が混ざった戦争なのではないだろうか。

つまり、ここに参加している人たちが言っているのは「決めるときに俺は意見を聞いてもらえなかった」と言っていることになる。これが現代の国体議論である憲法改正議論の正体だ。

つねづね、ネトウヨの人たちは現在のアメリカは大好きなのに、なぜGHQを嫌うのだろうかと思っていたのだが、実はアメリカが二つあるのではないということがよくわかる。つまり「吉田茂が対応したアメリカ」と「俺たちが話をしているアメリカ」があるのだ。これは民主党がやろうとしたTPPと自民党が実際に交渉したTPPが別物だと認識されているのと同じことだ。

もちろん、岸信介の論にも理解できる点はある。現在の体制は世界第3位の経済大国が軍事的にはアメリカに従属しているというのは極めて不自然である。これを対等な軍事同盟にすれば少なくとも形の上では日本は独立国としての体裁を取ることができる。気持ちは違ってくるだろうし、国や社会に対する責任感も生まれるかもしれない。

岸信介にとって不幸だったのは、多分娘が自分の心情をよく理解せず、さらに孫が凡庸(あるいはそれ以下)な人だったことなのだろう。安倍首相は岸信介が憲法改正をしたかったことは知っているし、憲法調査会を作っていたことも知っているようだ。しかし、岸信介が何をやりたかったのかはよくわかっていないようである。

もし仮に「主権国として対等にアメリカと関わることができるようになりたい」というおじいさんの理想を実現するのなら、沖縄で基地問題が起きたときには抗議をするだろうし、北朝鮮問題についても主体的に責任をとって関わろうとするだろう。しかし安倍首相はアメリカの庇護下にあるという状態を楽しんでいるようにさえ思える。さらに自分の政権を維持するためにはアメリカとの親密さが重要だということを理解しているので、決して機嫌をそこねるようなことを言おうとはしない。つまり、従属国の首相であるということを完全に内面下してしまっている。これは多分岸首相が恐れた「堕落した従属国の総理大臣」の姿だろう。

安倍首相は国防に関わることについては一切国会答弁しない。「相手の出方があるので手の内はあかせない」と言っている。実際には日本には軍事的自由がないので「自分たちにはわからないし決められない」ということなのだが、裏を返せば何か問題があったときに国民は「アメリカが勝手にやったことだし」「知らなかったから責任は取れない」と言って良いことになる。これは戦前の陸軍と国民の関係にそっくりである。

こうしたことがいっし問題にならないのは実は憲法や国体の議論が「理想の追求」ではなく単に「プロセス論」に過ぎないからである。つまり、自分たちが決められばなんでもよいわけだし、そもそもそこにすでに国と固有の言語を持った人たちがいるわけだから多くの人は関心すら寄せないのである。

多分、これだけを専門に研究している人から見ると暴論と言えるまとめ方だが、国柄と憲法の議論はいわば壮大な内輪揉めの歴史で、基本的には「俺は聞いていないから気に入らない」という性質のものである。

常に言葉も通じない他者に囲まれて彼らが地平線の彼方からいつ攻めてくるかわからないという状態になればそれなりに「あの人たちを違っている我々とは一体何なのだろうか」ということを考えるのだろうが、日本人にはその必要がなかったということなのかもしれない。

実際には自分たちが行き詰まるかもしれないという不安感を社会に投影している人も多い。つまり「このままでは没落してしまうかもしれない」と不安に考えている人も多いわけで、自分たちのあり方について考えることができないということには実害がある。こうした不安を抱えている人たちの心情を察せず「聞いていないから気に入らない」というような議論を繰り広げているのが、今の政治なのである。

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日本人は安心感をどうやって村落の外に持ち出したのか

聞くとはなく国会の代表質問を聞いていた。既にTwitterなどでご存知の方も多いとは思うのだが、安倍首相にはやる気が感じられず全ての答弁においてコピペ原稿を使い回していた。安倍首相は体調がすぐれないのか声の調子が悪く、ときどき水を飲むために答弁(というより官僚作文の朗読)が止まった。これだけを見ると、三選を目指す総裁候補とは思えなかった。

しかし、今回の話は安倍首相のやる気のなさとは全く関係がない。日本人が宗教を村落からどのように外に持ち出したのかというのがテーマである。

この筋を思いつくまで公明党と共産党という真逆に見える政党の類似点について書くつもりだった。この類似点は「宗教」である。彼らの信奉する宗教は村落的なコミュニティを外に持ち出して人工的に再構成するために利用されているようだが、不完全さを含んでいる。その不完全が何なのかというのが今回のテーマだ。

公明党と共産党はどちらも固定的な支持者を抱える政党なのだがその世界認識は真逆である

公明党は自分たちの支持者である信者に説明ができるようによく組み上げられた演説(質問の形をしているのだが実質的には演説だった)をしていた。創価学会には多分「人間は大切」という基本理念がありそれを発展させる形で様々な政策プランが提案されているのである。

公明党の特徴はプランの名前にありがたみのあるカタカナの名前が使われていることだった。これは既存の宗教に戦後流の科学的なコーティングをまぶした砂糖菓子のように見える。仏教はその普及過程で「難しい言葉を理解できなくてもこのお経さえ唱えれば極楽に行けますよ」という約束として理解されるようになるのだが、公明党のカタカナは現代のお経のように機能しているのだと思った。例えていえば、医学書を読んで聞かせれば癌が治療できるというようなものなのだろう。

一方で、共産党側は「とにかく全てがうまくいっていない」ということを言っている。彼らもまた自分たちの信じる宗教理念が掲げられさえすればたちどころに全てがうまく行くと信者に説明しているのだろう。全てを読み終わったあとで小池晃議員が仲間の議員たちと「言ってやったぜ」というように笑顔をかわすのが印象的だった。もちろん、彼らの経典というのはマルクス経である。イギリスで作られた科学的な思考は海を越えて宗教になったのだ。

この二つの全く異なった世界観について安倍首相は同じような原稿を読んで応えていた。「公明党のご協力で作られたプランを力強く推進する」し「共産党の言っていることは言いがかりだ」という二つのことしか言っておらず、その間を官僚がコピペされた文章で埋めてゆくという調子である。質疑という形を取っていながら質問も答えもない。そこに広がっていたのは全く無意味な言論空間だった。応酬も新しい情報もないのだから、報道は「言い間違い」と「ヤジ」にならざるをえないのだ。

自民党にはこうした宗教的な感覚はない。多分、自民党が村落を離れなかった人たちの集まりだからなのだろう。彼らはコミュニティを再構成する必要がなかったので宗教的なスローガンを必要としなかったと言える。一応、スローガンは使っていたが要するに「地方の中小企業に金を回せ」とか「地方の観光をもっと盛んにしろ」とか「高速道路を作れ」というような主張のために利用しているだけである。こう考えると自民党の作った憲法草案が「ああ、山が美しく四季が心地よいなあ」というものになってしまうのは当たり前である。自民党には政治的な理念はないが、美しい山ときれいな海に囲まれてさえいれば、そもそも理念など必要がないのである。

公明党は農村から都市部にでてきた人たちが作った宗教結社がその出発点になっている。共産党も都市労働者が作り上げた政党である。つまり、彼らには頼るべき農村コミュニティがなく、新しい理念を掲げなければならなかった。その時の最先端のコンセプトを利用しながらそれをご本尊にするというのが共通したやり方である。そして、いったんコンセプトができてしまうとそれを変えることができない。理解していないのだから変えようがないのは当たり前である。

これを他の政党に当てはめることができるかというのが次の課題になる。簡単に想起できるのが護憲経である。これは憲法第9条がご本尊になっている。憲法第9条を北朝鮮にかざせばたちどころに核兵器が退散するという宗教だ。ところが、この宗教はある悲劇に見舞われている。

福島瑞穂議員は安倍首相に「社会民主主義を信じれば救われる」というようなことを主張してスルーされていた。彼らは社会党から社民党になる過程で教義の変更を行おうとしたが、それを信者に浸透することができなかったのだろう。信者たちはもっとプリミティブな形で護憲を理解しているのではないかと思える。その意味では社会党から派生した宗教は術で中途半端に展開している。いわゆる立憲主義というのは少なくとも大衆理解の段階では「平和憲法さえ掲げれば全ての問題はなくなる」という宗教理念なのだが、立憲民主党の人たちの言っていることは「難しすぎる」ということになる。立憲民主党が宗教政党として成立するとすれば「憲法は安倍首相の魔の手から国民を守る護符であり決して手放してはならない」と言い続けなければならないのではないだろうか。

普通に考えると民主主義社会が成立するためには、国民がなんらかの政治的理念を理解した上で政策を支持する必要がある。しかしながら、つぶさに見てゆくと日本の政党の支持者たちが政治的な理念を理解した上で政党を支持しているとは思えない。むしろ、昔から知っているお家の坊ちゃんであるという安心感から政治家を支えていたり、何かありがたいものを掲げることで「全てが丸くおさまる」と考え違っているように思える。このため、教義は更新されず、更新されないから共有することもできなければ折り合うこともできないということになるだろう。

さて、これまでにでてきた仮説は次のようなものである。

  • 日本人は所与の村落を再構成する過程で、美しい山並みや浜辺の代わりに、なんらかの宗教的な教義を必要とする。村落を出ない人たちにはこのような教義は必要とされない。つまり、宗教的教義は狭く閉ざされた環境の代替物である。
  • 宗教的な教義はその時点で最先端の優れたものを取り入れてありがたみをます。そのありがたみは実は何でもよい。もしキラキラ輝くガラスのコカコーラの瓶が最先端であれば、コーラ教ができていただろう。
  • 日本人は教義の本質を理解することはないので教義が更新されることはない。

こうした「村落の再構成」はいろいろなことに見られる。例えば日本相撲協会の内実は単なる体育会系の暴力集団だが環境が変化することでマネジメントが破綻しつつある。それを再構成しようとする時に決して本質的にどうマネージするかということが語られることはなく、代わりに「日本は神の国であり、相撲は国体を支える儀式なり」というような教義が利用される。

これを自民党を支える新たな村落に当てはめてみたい。それは「国体教」である。日本は世界に類のない神の国であり、荒ぶる神によって守護されているという宗教だ。このように宗教的な教義で包むことにより「自主憲法を作ってアメリカの占領体制から抜け出したい」という願いと「アメリカの依存して中国を圧倒したい」という願いが矛盾することなく折り合うことになる。宗教は論理的に矛盾したものを包んで一つのパッケージにする力があるようで、これが都市や地方に住んでおりお互いに連帯する要素が何もない人たちを惹きつける。我々はこの一群の人たちをネトウヨと呼んでいるのかもしれない。

これは比較的新しくできた教義なので今のところ矛盾をすることはない。しかし、アメリカの勢力は衰退し始めていて、やがて現実と合わなくなる可能性がある。つまり、ネトウヨの信じる宗教もいずれは、マルクス経のような運命を辿ることになるのではないだろうか。

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はじかれるべきのは小泉進次郎さんなのではないか

小泉進次郎衆議院議員が「AIで野党の質問をはじくべきだ」と主張したと朝日新聞が伝えている。朝日新聞は自民党の驕った発言として取り上げたいのではないのだろう。確かに二世・三世議員というのは人当たりが良いように見えて時々どきっとするほど常識はずれなことを言ったりする。これもその類だ。やはり二世議員というのはできればなくすべきだなあと思う。

しかし、AIの導入というのはよいアイディアなのではないかと思った。もちろん野党の「無駄な」質問を排除することもできるのだが、AIを使えば与党の無気力な政治も浮き彫りになるだろう。

第一に考えられるのは新聞社が過去の答弁を全てAIに入力して整合性のない答弁を検知するようなシステムの構築である。膨大な答弁を整理するのは難しいがAIを使えばチェックがやりやすくなるだろう。最近Twitterでは与党の妙な答弁についてインフォグラフィックを作って指摘する手法があるようなのだが、これは本来ジャーナリストの仕事である。安倍首相が言葉の定義を巡っていつまでも循環的に答え続けるという手法を発明したために貴重な国会議論が無駄になっているので、システム構築に費用がかかるとしても民主主義にとっては価値のある投資なのではないかと思える。

もっとも、そこまで大げさではなくても文法や漢字の間違いを指摘してくれるAIは簡単に作れるだろう。すでに英語版では実用化しているので日本語でできない理由はない。AIで文法をチェックして何がわかるのだと思う方もいるかもしれないのだが、かなりの割合で「社会の一員としての誠実さ」を計測することができる。

政治家のみならず、できるだけわかる言葉で自分の主張を伝えるのはとても重要である。そのためにはみんなが受け入れ可能な常識の通じる範囲でできるだけ明確な言葉を使う必要がある。小学生に諭すような言い方をしてしまったが、これは大人にも十分当てはまる。

しかし、我が道を行くトランプ大統領は小学校の時に、正確な文法で自分の主張を伝えるということを習わなかったのかもしれない。小学校二年生の時に音楽の先生を殴ったという逸話が伝わっている。

こうした彼の社会人としての破綻は彼の書いたものをみるとよくわかる。このTweet(夜中の11時30分につぶやかれている)は文章がめちゃくちゃだ。これをGrammerlyでチェックしても公文解析ができないようで、andの所が間違っているのではないかということだけを教えてくれる。そこでつぶさに見てみると外国人が最初に習うような文法の間違いを犯していることがわかる。大学入試で弾かれてしまうような間違いである。

Big win for Republicans as Democrats cave on Shutdown. Now I want a big win for everyone, including Republicans, Democrats and DACA, but especially for our Great Military and Border Security. Should be able to get there. See you at the negotiating table!

この文章はandでeverybodyの中身を記述しているのだが、本来の英語では全てをカンマでつないで最後だけandにすべきである。構文としてはA+B+(C+D)みたいなことなのだが、アカデミックな英語ではわかりにくいのでそうは書けない。

つまり、everybody including Repblicans, Democrats, DACA, Great Military and Border Securityになる。

「特に軍隊と国境警備隊」と強調したかったのだと思うのだが、普通のパンクチュエーションではそういう書き方はできない。書くとすれば強調したいものを先に持ってきてはespecially for … as well as などにすべきではないだろうか。いずれにせよトランプ大統領の発言はこうした「俺の言っていることなんだからわかるだろう」というわがままさに溢れている。

同じようなことは麻生副総理や安倍総理にも言える。漢字の読み方がわからなかったり、言い間違いを頻発する。これも「俺の言っていることなんだからなんとか読み取れ」という傲慢さの表れだと思う。麻生副首相のようにわざと周囲をどきりとさせるようなことを言って悪ぶってみせるというのも幼稚さとわがままさの表れである。

トランプ大統領は有名になるために大統領選挙を利用したと言われている。つまり大統領になるつもりがなかったのだろう。しかし、あれよあれよという間に勝ち上がってしまいついにはファイナリストになってしまった。同じように二世以降の議員の人もおじいさんが総理大臣だというだけで今の地位にいるのかもしれない。つまり、どちらも「準備がないままで地位を得てしまった」という共通点があるのだ。

野党が執拗に同じ質問をするのは、政府・自民党が憲法の解釈を歪めたり明らかにおかしな発言を繰り返しているからなので、もともとの発言がAIで読み取れるようなきれいなものになっていれば防げるはずだ。「機械に日本語の微妙さがわかってたまるか」ということを言いたい人もいるかもしれないが、法律の成立過程に関わる答弁なのだから誰にでもわかりやすい文法で伝えるのは大切だろう。決して解釈によっていかようにでも判断できるようなものであるべきではない。

つまり、AIを使うべきなのは、誰にでもわかるような発言をすべきだからであって、気に入らない発言を排除するためであってはならないということになる。もっとも、こんなことを言っても根拠のない特権意識を持っている世襲政治家には届かないかもしれない。本来は地元の有権者がAIの代わりにこうした無責任な発言を繰り返す政治家をチェックしなければならないのだろう。

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西部邁さんの報道について思うこと

西部邁さんという思想家の方が亡くなったそうだ。入水自殺だったそうである。最初にこのニュースを聞いたときには「こんな寒い時期に多摩川に入るのは大変だろうな」と考えた。西部さんのことは昔「朝まで生テレビ!」で見たことがあるだけで、どのような思想の方なのかはわからないのだが、その報道について少し気になったことがあった。そしてしばらく考えているうちに、もしこれが保守本流の思想ならば(そうであるかはわからないのだが)日本はやがて滅びるだろうなと考えた。

どうやら報道を見る限り、西部さんの自殺については次のようなことが言えるらしい。

  • 以前から自死について考えており、そのことを周囲に語ったり周囲に伝えてたりしていた。
  • 自分が社会に貢献できるうちは生きていてもよいがそれができなくなったら死のうと思っていた。
  • 自己決定ができない医療のあり方について全面的に否定をするものではないが、自分は自己決定したいと考えていた。つまり、自主性に重きを置いていた。

これについて、小林よしのりさんは「立派だ」と語っている。別の人は「言葉に殉じたと評価」している。学生の自殺には懐疑的な人が多いが、自己決定による自殺については「立派だ」と評価する人たちが少なからずいるようである。

亡くなった方に対して「正しい」とか「間違っている」などと指摘するつもりはないし、言える資格があるとも思えない。ただ、保守という人たちが抱える問題がわかる気がした。同時に、この違和感を共有できる人は少ないのだろうなあとも思った。

西部さんやそれに近い人たちはある前提を持っているようだ。つまり、人生は自己決定ができるということである。人は本来自由であるべきだとすると、これは否定しようがないように思える。これを共同体に当てはめれば国というのは自主独立の気風を持ち誰にも支配されるべきではないという彼らの主張と連続しており、思想面でも違和感はない。

ここから先が問題だ。この裏側には「人間の価値というものは計測可能で、少なくとも自分ではわかっている」という前提がある。つまり、人生の価値は「可知」なのである。

「そんなの当たり前じゃないか」という人が多いのかもしれないが、キリスト教的な伝統ではそうは考えない。キリスト教では生きているというのは「神様にゆるされているからである」と考える。人間は全知全能ではないから、自分たちの生きている意味や価値については知ることができない。ちょっと聞くと不便で従属的な考え方だ。

例えば、キリスト教(特にカトリック)では自殺は大罪だ。人間は自分の価値をすべて知ることはできないのだから、一生をかけてそれを追求するべきなのだという不可知性がその根拠になっている。その意味では西部さんたちの「自分の言葉に殉じる」というのはかなり不遜に聞こえてしまう。不遜という言い方が失礼ならとても「どきりとする」言い方である。つまり、どうしても、神に代わって自分で自分の価値を勝手に判断していると思えてしまうのだ。

西洋流の民主主義の裏には、人間は自分たちの価値を知りようがないという点では共通なのだからお互いに助け合って神様が考える理想に向かって生きてゆくべきだという前提がある。これを私たちはどこから来てどこに行くのかと表現したりする。最近では無神論の人も増えているのかもしれないが、神の代わりに「自然の摂理」というものを暗黙の了解としている人も多いのではないかと思う。

リベラルな助け合いや人権が擁護されるのはこうした背景があるからだし、資本主義の活動の根拠にも神様に与えられた資源をどうやって伸ばして行くべきかというテーマがある。自由というのは無制限の自由ではなく「神に与えられたテーマの自由な追求」というような意味合いになる。私もその自由を持って今を生きているが、同時に他の人もそうした自由を与えられているということになる。

一見「自分たちの運命を自分で完全に決められない」というのは不自由で従属的であるように思えるのだが、これを「自分たちが到達可能ではあるがまだ知らない領域」と捉えることで成長への余地に変えているというのがキリスト教的な考え方になるだろう。哲学や科学というものは、そうした自然の摂理(あるいは神の原理)に少しでも近づこうという活動であり、であるからできるだけそれに真摯でなければならないという意識につながる。

最近の日本の政治姿勢が人々の反感を買っているが否定しようがないのは、日本人がこれを理解できないからだ。安倍首相は自分は民衆から支持されている総理大臣であるから日本の法律を自由に変えたり解釈できると考えている。首相は「善いことは全て自分が知っている」と考えているだろう。なぜならば自分は国を動かす総理大臣だからである。しかし、自由が全知全能の人間の自己判断によると置いてしまえば、これはあながち否定はできない。これが自己決定論の恐ろしさなのだ。

もっとも「神様」と聞くと胡散臭く感じる人がいるかもしれない。日本人の中には宗教アレルギーを持つ人が多い。そこで「不可知さ」について別の見方をする人たちがいないか探してみよう。

例えば、今年は戌年だがこの漢字は作物を伐採する行為の記号である。つまり物事の完成期にあたる。次の亥年は種の形であり、子年は芽が出るという意味になっている。人間がコントロールできるのは芽が出てから採集するまでの段階であり種の中で何が行われていつ芽吹くのかということは知りようがない。これが循環的に繰り返すと考えるのが中国式の世界観だ。

この不可知さは決して不自由さや人間の限界を表すわけではなく、実は創造性の源になっているとう考えは古くからあり、洋の東西を問わず普遍的なものであると言える。日本の保守思想家の中には中国式の世界観に詳しい人たちがいた。例えば、戦前から戦後までの首相に影響を与えた陽明学者の安岡正篤などがその代表格だ。安岡と最後に結婚したのが細木数子で、細木はのちに運命学を利用して人々の不安を煽りテレビスターになった。

西部さんの論を取ると人間は自分の価値を自己判断で決定できるということになる。完全な自由を獲得したかに見えるのだが、同時に成長の余地が全く残されていないということをも意味する。だが自己決定と自由にとらわれている人たちはそのことに気がつくことができない。ゆえに、これを保守だと仮定してそれを突き詰めてゆくということは、成長を殺してしまうということにつながってしまうのである。

「創造性の破壊力」と「自己決定性」について考えているときに思い浮かんだのが三島由紀夫についてだ。三島は病弱な学生時代を過ごしたが内面にかなり破壊的な創造性を持っていたのだろう。それを病的なまでにコントロールしながら周囲を感動させる文学作品をいくつも作った。しかしながら、その創造性はどういうわけか枯渇してしまう。そこで三島は体を鍛えてコントロールすることに興味を持ち、軍隊のような統制の取れた集団に憧れを持つようになる。実際に彼が作ったのはおもちゃの兵隊のようなものであり、その制服もいまでいうコスプレのようなものであるということは本人も自覚していたようだ。だがこの活動はやがてエスカレートし、周囲を巻き込んだ市ヶ谷自衛隊の自決騒ぎに結びついてゆく。彼にとっては完璧な自己決定の形に思えたのかもしれないのだが、周囲はこれを単なる破滅だと感じたのではないだろうか。

三島の件で重要に思えるのは、彼が持っていた創造性の源というのが「なんだかわけがわからない」ものだったということである。あまりにも破滅的でどこに向かうかもわからないのだが、たまたま最初は文学に興味が向いたので周囲から「役に立つ」と評価され、同じ情熱が保守思想に結びつくと狂気を孕んだ自己決定につながった。また、彼は周囲を説得できず残された選択肢は自分を破壊することだけだったということも言えるだろう。

保守思想が日本を滅ぼすとすれば、それが「なんだかわからないもやもやしたもの」を排除してしまうからではないかと思う。三島の例を考え合わせると、協力もせず全てをコントロールできるとしたらそれは厳密な意味では自己破壊しかないのかもしれないと言える。一方で中国のような出方のわからないものとなんとか折り合わせてゆくことはこうした自己決定権を手放すことであり、決して容認できないだろう。

自己破壊も究極の「わけのわからなさ」の形なので一概に否定するべきではないと思うのだが、現実的には単なるショーに終わるか耽美的に鑑賞の対象になるだけである。しかし、それでも人に影響を与えるとすればまだ成功した部類だ。

途中で見たように、保守の論客たちからレクチャーを受けていたはずの安倍首相は「自分でなんでもきめられるのだからせいぜい好き勝手にやろう」と考えている。日本には様々な問題があるが、それには目を背けて何もしようとはしない。このように、昨今の保守思想は何もしない言い訳として利用できる消費の対象にしかなっていないのである。

「中国はうまいことやっているように見えるが、長くは保つまい」とか「人権は弱者の言い訳だから逆に嘲笑してやれば良い」というのは単に何もしたくない人たちの言い訳にしか過ぎない。この意味でも保守思想は日本を滅ぼしかねないのではないかと思う。

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大切な問題だからこそ冷静な対応が求められる沖縄の基地問題

沖縄県で海兵隊のヘリコプターがまた普天間第二小学校の上空を飛んだというニュース(引用:毎日新聞)があった。これについて米軍側は「そんな事実はない」と否定しているのだが、防衛省は「ビデオテープに撮られた証拠もある」として主張が真っ向からぶつかっている。

日本側の意見は「沖縄は植民地扱いされている」と考える人と「米軍に抗議でもしようものなら見放される」という二つに別れているように思えるように思える。そこでQuoraで日本人と英語圏の人に質問をした。日本側は3つの回答が得られた。一人は多分無関心なのだと思うが、日本側が主張しているから米軍が嘘をついているのだろうという人はいなかった。沖縄の問題なので他人事だと感じているのかもしれないが、意外と冷静な人が多いということも言えるだろう。

今回の問題は沖縄の問題というより、憲法が保証する国民の安全・安心が守られていないというかなり危機的な問題だと思う。故に感情的に主張したいと思うわけなのだが、同じ日本人であっても、かなり冷ややかな目で見られているということがわかる。感情的にレスポンスするのはあまり得策ではなさそうである。

  • 日本人だからこそ、感情的な反論はしないほうがいい。

アメリカ側には少しきつめの言い方で質問した。「なぜ米軍海兵隊は沖縄に嘘をつくのか」という質問をしてみた。「嘘をつく」というのはアメリカではかなりショッキングな響きがあるのではないかと思う。正直さが推奨される社会だからである。

3名からレスポンスがあったが少なくとも二人は退役軍人だった。これは一般人はあまり沖縄の事情に興味がないということなのかもしれない。

まず、第一の人は最初「あなたは教養がないがこの場を荒らそうとしている」と書いてきた。英語で「トロール」といっているのだが「釣り質問だろう」というわけだ。そこで「もちろん双方の視点があり得る」と反論したところ答えが編集されて「嘘をついているわけではないが」「飛行ルートから避けようとしたができなかったのではないか」という主張に変わった。彼は当初「沖縄の人たちはたいていいい人だが、中には熱烈な反対派がいる」とほのめかしていた。つまり「お前もその一味だろう」と考えていたのではないかと思う。

次の人も「この場所が学校だということを知らなかったのだろう」と主張した。そこで、ロイターの記事を添付したところ沈黙してしまった。ロイターの記事には「パイロットは学校の場所知っていて避けたのだ」と書かれていたからである。

最後の人は「言い分が異なっている」ということを認めた上で「適切な調査が必要だ」とした。そこで、日米協定は占領下で作られたので日本政府も警察も調査ができないと書いたが返事はなかった。

いろいろと聞いて回ったところ、個人的に落とし所にした点は次のつである。前提は日米同盟が維持されて沖縄に大半の基地が置かれるというものなので、これに反対する人はいるかもしれない。

  • 日米双方で信頼できる調査機関を作る以外に疑念と相互不審は払拭されないだろう。
  • そのためには協定を変えて少なくとも共同管理に持ち込む必要がある。
  • 努力目標にしか過ぎない協定を結びながら「約束が守られていない」と騒いで見せる一貫しない政府・自民党の対応は非常にまずい。

アメリカ人と会話して気がついた点をいくつか述べたい。

第一にアメリカ人はあまりこの話題には関心がないようだ。この質問に応じたのが軍関係者ばかりだったのがその証左だと思う。そのような状態で「嘘をついている」などと言っても否認されるだけだろう。

これに輪をかけているのが、日本人の姿勢と沖縄の基地反対運動である。日本人は(もちろん沖縄の人も含めて)関係性構築を重視するので目の前にいるアメリカ人に意見を言ったり対立するような言動は避ける傾向があるのではないかと思う。我慢した結果、最終的に爆発して基地反対運動が起こるのだが、普段の「優しい沖縄人」の言動とあまりにも違っているので「あれは極端な人たちが言っているだけなのだろう」と考えるのではないかと思う

このように協調を前提としない反対運動は逆効果にしかならない可能性が高い。日本でも「ネトウヨ」というと学歴が低い人たちの抗議運動だと捉えられがちだが、アメリカでも同じような傾向があるのではないだろうか。一方、共感を示しつつ冷静に対応すると「あれ、何かおかしいぞ」くらいの反応が得られるわけだ。

  • 普段から基地に対する不満を現地の兵士たちに伝えるべきだ。現状を改善したいなら「アサーティブさ」を覚えるべきである。
  • 極端な抗議運動は却って基地の返還を難しくするだろう。

誠意に訴えかけるのが大切かもしれないとも思った。特に英語の質問は運営の仕方によっては荒れるなと思ったので「人を動かす」という本の誠意に訴えかけるという手法を使った。

具体的には日米関係は大切であるということを強調した上で、アメリカ人は一度できあがった約束は守るという印象があるのになぜ海兵隊は約束を破るのだろうかと聞いたのである。今回は人を動かすところまでは至らなかったが、対立は避けられたようだ。

  • アメリカ人と話をするときには相手を尊重する姿勢を見せることが重要だ。
  • かといって相手を慮って妥協してはいけない。

今回の学校の件については英語メディアの関心もありいくつかの記事が出ている。BBCも最初に窓枠が落下した時点で取り上げていたように思える。しかし、協定(飛行空域が守れれておらず深夜の飛行も多い)が守れられていないという件については英語版の記事が見つからない。主に日本政府や本土の人たちの世論に訴えるような記事になっている。

日本政府には心理的にも実力的にも当事者能力があるとは思えない。総理大臣にはアメリカに訴えかける意欲がなく、防衛大臣も困り顔をしているばかりで実行力がない。彼らができることは、近隣諸国の悪口を触れ回ることと、アメリカにすがりついてご機嫌をとることだけである。

  • 日本に訴えかけるのをやめて、アメリカに直接訴求すべきである。つまり英語で情報発信しないと問題は解決しない。

蛇足になるが、今回小野寺防衛大臣が大騒ぎしたのは、選挙が目の前に迫っているからだろう。

普段は米軍に何も言わず、そもそも約束すらしていないのだから、これは抗議をしていますという選挙目的のポーズなのではないかと思う。この不誠実な対応こそが問題を複雑化している。日本政府には当事者能力がなく、政府として憲法が要請する「安心・安全の確保」という義務を果たしていないし、果たそうとする誠実さもなさそうだ。こうした人たちが憲法を改変しようとしているというのは大変危険なことだと思う。

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慰安婦問題に関する日韓の議論はなぜ不毛で有害なのか

しばらく村落性について考えていて、村落について考えるツールボックスが増えたので、今回はなぜ「日韓の慰安婦問題が不毛な議論になるのか」を考えてみよう。

この問題について考える前にサンフランシスコの慰安婦像についてのレポートを読んでいただきたい。第一に、日本の議論が完全に自分たちの思い込みで行われていることがわかる。単にTwitterが思い込みで議論をしているのではなく、日本のテレビや紙媒体も同じように思い込んでいる。

もし、このレポートが正しければ慰安婦像が作られても、それが日本人の体面には何も影響を与えないことになる。この状況で慰安婦像について気にする人がどれくらいいるだろうかという疑問が湧き、それは韓国と難しい合意をしてまで感謝されもしないのに多額のお金を支払うのは果たして得策だったのかという疑問につながるのではないだろうか。

そこで気がつくのは、実は日本人が気にしているのは韓国ではなくアメリカだったのだということだ。

この問題を考えるとっかかりになる最初の要素は村落性である。ちなみに韓国語ではマウルと呼ばれムラという日本語との関係を指摘する人もいる。

韓国は村落性が高い閉鎖的な身内の論理を日本にぶつけている。この身内の論理は文脈に高度に依存しておりその中身を日本人が推察することはできない。一方、日本の側も韓国人が日本を過剰に非難することとサンフランシスコの慰安婦像を勝手に結びつけて「サンフランシスコの人たちも日本を非難する側に回ったぞ」と勝手に思い込んでいる。つまり、どちら側も身内で盛り上がっており、実際に何が行われているかということにはさほど関心がないのである。これが村落性の第一の特徴だ。

しかしながら、それだけではこの問題は解けそうにない。ここから浮かび上がってくるもう一つの問題は冒頭に確認したように、当事者間で話し合っているように見えて実はもっとも重要な人が議論の中に含まれていないという点である。日本がこの問題にこだわるのは、韓国人がアメリカにこの問題を「言いふらしている」と思っているからだ。国際社会で日本の評価が下がることを恐れておりその世界というのは主にアメリカのことなのである。実際に合意にはアメリカの仲介があったと言われており実は両国政府がアメリカを気にしていたことがわかる。

いずれにせよ、アメリカ人はまさか自分たちが焦点になっているなどとは考えない。例えばティラーソン国務長官は日本と韓国の間には感情的な問題があり安全保障上の懸念になっていると言っている。しかしティラーソン国務長官は「日韓がわざと自分の目の前で喧嘩をしている」とは考えていないのではないかと思う。つまり、この話はいつまでも終わるはずはないのである。

もう一歩踏み込むと、韓国人がこの構造を明示的に理解していないという問題もある。

この問題の落とし所がどこなのかを当事者に聞いても「誠意が足りない」とか「謝り方が悪い」などとしか答えないのではないだろうか。本当の目的はアメリカに同情してもらうことなのだが、当事者としては慰安婦について話し合っているつもりになっているので、いつまでもよくわからない説明が繰り返されることになるだろう。

この問題についてこれ以上考えるのは無駄なのだが、かといってこの構造を理解することが無駄とは言えない。もう一度、外交上の責任という観点からこの問題を整理してみよう。

世界が考える国際社会と日本や韓国が考える国際村はその性質が違っている。

世界が考える国際社会は国が一つの意思決定の単位として世界平和の維持に務めるというものである。この責任を持った単位が「大人」である。国は構成員として社会正義の維持に責任を持たなければならないというわけだ。つまり、集団は個人によって支えられている。

日本人や韓国人は「国の社会的責任」という言葉をあまり重要視しておらず印象の良し悪しによって世間の評価が変わるという世界観を生きているのではないかと思われる。つまり、日韓にとって世界は村である。

村人は集団の維持存続には責任を取らない。なぜならば、村は所与のものであって構成員によって変わることはないからである。しかし、国際「社会」はこの二国を無責任な大人になりきれていない国だと見なす可能性があるだろう。

例えば、アメリカは軍事力を使って世界秩序の維持をしたいと考えており日本に具体的な貢献を求めている。しかし、日本人は「世界の中でいい子でいれば良い」と考えるので、関係構築には熱心だが具体的な貢献をしない。責任は取らない代わりに北朝鮮の悪口をふれ回っている。これをみた世界の国は「当事者意識がない」と考えるかもしれない。

一方で、ヨーロッパは「核兵器の広がり」が具体的な脅威であると認識しているようだ。例えばローマ教皇は原爆の被害を受けた少年が弟を背負って焼き場で待つ写真を挙げて「日本は具体的に行動すべきだ」と言っている。ノルウェーはICANにノーベル平和賞を与えてその活動を支援した。背景に北朝鮮の脅威があることは間違いがないが、その中には北朝鮮の脅威に圧力で対抗する日米二カ国が含まれいるのではないだろうか。ところが、安倍首相はICANとの面会を拒否しローマ教皇の訴えも無視し続けている。

日本は国際社会に北朝鮮の悪口をいうことに夢中になっており、話し合いでもなんでもやって危機を回避しようという必死さがない。日本人は5年の間に安倍首相の無責任な言動に慣れてしまったが、国際社会がそういう受け止めをしてくれるという保証はない。これが外交上どれだけマイナスなことなのかということがわからない限り日本が世界から尊敬されることはないだろう。

これを首相が理解できないのは仕方がないのかもしれない。ならば国民が知らしめてやる必要があるのではないだろうか。

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「アイヌ人など存在しない」について考える

Twitterのタイムラインにアイヌについての情報が流れてくる。フォロワーさんの中に一人熱心な人がおりその人が流しているのだが、それがあまりにも多いのでまるで世界がアイヌ人について話しているように見えてしまうのだ。

これを見ていると「アイヌなどいない」と言いたがる人が多いことがわかる。よく観察していると、アイヌ問題は様々なメンタルモデルの上に構築された議論になっている。いわゆる被差別集落の問題に端を発する「同和問題」と同じように語られたり、アメリカ先住民族と白人移住者の問題と同じように語られたりしている。このメンタルモデルの問題が生産性のない議論につながっているようだ。

ここでアイヌ利権について考えることもできるのだが、それには触れないことにする。一度予算の使われ方を見たのだが、箱物に使われることも多いようだ。先住民族の問題を解決するためというより公共事業の口実として使われていることも多いのではという疑念はある。つまり、そもそも全部がアイヌ民族のために使われているわけではないのではないかと思う。

こうした利権を攻撃する人は、特定のセグメントの人たちを下に見ており、なおかつそうした人たちが「いい思いをする」ことに我慢ができないのだろう。

だが、アイヌについて考えることは実は日本人について考えることにつながる。前置きが長くなったが、これが今回言いたかったことである。

そもそも「日本人とは何か」という質問に答えられる人がどれくらいいるだろうか。当たり前のように存在する日本語を話す人たちだが、実際の定義は極めて曖昧だ。

例えばアメリカに住んでいる人たちはアメリカ人だが、実際には様々な人種から成り立っている。アメリカでこの例えがわかりやすいのはアメリカ人がいろいろな肌の色の人たちの集まりだからである。一方、日本列島(北海道から南西諸島全域)に住んでいる人はみな「日本人」と言える。だがその由来は一つではないということも知られている。つまり、日本人は民族名ではなく、実際には地域区分にしか過ぎないという言い方もできるわけである。

日本語を話すから日本人だろうという言い方もできるのだが実はこれも正しくない。英語を話すアメリカ人を「英語人」とは呼ばない。

つまり、アイヌ民族があるという立場とアイヌ民族が日本人に含まれるという立場は併立可能なのだ。つまり、日本人には様々なプロト集団がありそのうちの一つがアイヌ民族であるということである。

そうなるとむしろ問題になるのは非アイヌ系の人たちは何者かということになる。例えば本土に住んでいる人たちと南西諸島にいる人たちは同じ民族なのかとか、そもそも本土に住んでいる人たちは単一の民族なのかという問題が出てくるわけだ。

先日、読売新聞の記事を見かけた。

  1. 縄文人は極めて早い段階に日本列島に来て独自進化したようだ。
  2. 東京に住んでいる人たちの12%が縄文に由来する遺伝情報を持っている。アイヌと沖縄ではこの割合が高い。
  3. 出雲と東北には同じ系統の人たちが住んでいる。
  4. このことから日本は従来の周縁構造(もともと縄文系の人たちがいて、後から弥生系の人たちが渡ってきた)ではなく、三重構造になっているのではないか。

この記事のタイトルだけを見ると、日本人は独自に進化した固有の民族であるというように読めるのだが、内容は必ずしもそうはいっていない。実際に言っているのは日本人は縄文系の固有の血を12%しかもっていないということであり、つまり大陸と同じような征服民族がアイヌ系の人たちと同じような集団を征服して混血しただけとも読めるのだ。

にもかかわらず読売新聞がこのような構成になっているのは、日本人は中国人や朝鮮半島に人たちとは違うということを信じ込みたいからだろう。それは中国人や朝鮮人より優れているという思い込みを強化することにつながるのかもしれない。にもかかわらず実際にその固有性を保持した人たちの存在を否定したがる人もいる。控えめに言ってもめちゃくちゃである。

日本人というのはいろいろなアジア系の移民が混じり合って成立したのだと考えれば、アイヌというのは日本人の基底をなすプロト集団のうちで近世まで日本人に同化しなかった人たちだという言い方ができる。アイヌという民族集団は縄文系の人たちのうち最後まで北方に残った人たちだということになる。これが定まらないのは実は「日本人」に属する人たちのうち、本土系の多くの人たちがその出自を忘れているからなのである。

その意味では、アイヌは先住民族ではないという言い方も成立しうる。つまり、日本列島には多くの先住民族集団がおり、彼らと大陸に住んでいた人たちが混じり合って作られたのが日本人だからだ。アイヌはこうしたプロトタイプ的な日本諸民族の記憶を有しており、一方その他の日本人(アイヌから見ると和人などという言い方になる)はそうした記憶を忘れているということになる。

それとは別に「自分たちは固有の言語を持っている」という自意識があるからアイヌという民族集団は存在するという言い方もできる。例えば、日本人がある日誰かから「日本語を話す集団があるからといって日本人など存在しない」と言われたらどう思うだろうか。抵抗したくなっても当たり前である。日本人の遺伝的定義が曖昧だからといって、いったん成立した民族意識を否定することはできないのだ。

本来問題にすべきなのは、アイヌ系の人たちを含めた日本人全体がどこからきたのかという問題のはずである。日本語が現在のように、発音は太平洋系なのになぜか文法だけは朝鮮系の言語に似ている言語になったのかはよくわからない。アイヌ語はアジアからアメリカ大陸にかけて広がる抱合語としての側面を持っている。日本列島は太平洋系の開音節中心の言語と大陸系の膠着系の言語、さらにアメリカまで広がる包合言語の結節点にあたる。

つまり、真に日本人を大切に思う人たちであれば、アイヌ民族の伝統やアイヌ語を大切に考えるはずである。単に公共事業の題目として利用したり、自分たちより劣るものとして攻撃していいと考えているとしたら、日本人について関心がないということを自分から宣伝しているようなものなのではないかと思う。

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ネトウヨではなく事大主義者と呼ぶのはどうだろうか

ネトウヨがよく「中国が攻めてこないと言い切れないのか」という不毛な質問をして現実的な安保議論を撹乱することがある。これに対しては無視するべきだという意見があるのだが、実際の問題点は別のところにあるのではないかと思った。


先日、沖縄のヘリコプター事故の問題について調べるために布施祐仁さんのアカウントを参考にした。南スーダンの日報問題の情報開示を求めたことで有名になった人だが、沖縄の問題についてもしばしば言及している。

布施さんが特に問題視しているのが「日米ガイドラインなどで、日本は主権の一部を放棄している」という点である。ただし「憲法第9条は絶対変えるな」とか「戦争はダメ」などとは主張しているわけではない。いわゆるリベラル系とか左翼主義者のように単に憲法9条にしがみついているのではないのである。

ところが、この布施さんに対して専門家でもなさそうん人が様々なコメントを寄せている。別に無視しても構わないと思うのだが、布施さんは割と熱心にコメントを返している。特に「中国が攻めてきたらどうするんだ」という質問が後を絶たない。

現実的に考えると、中華人民共和国が日本を侵略する動機を持っているとは考えにくい。天然資源や土地などが得られない割に、アメリカとの全面戦争になる危険が大きすぎるからだ。大日本帝国が中国東北部に侵攻したのにも理由がある。国内で余剰になった人口を支えるための土地が必要でだった。いわゆる「保守」という人たちは日本の歴史に熱心なはずなのだが、こうした事情すら知らない人たちが専門家に絡んでいるというのが実情なのだ。

布施さんを熱心に攻撃するネトウヨの人たちの言い分をいくつか読んでみた。背景には「アメリカに意見などすると機嫌を損ねて守ってもらえなくなるかもしれない」というような怯えだ。その裏返しとして朝鮮や中国には何を言っても構わないという思い込みも伴っているようである。勝手に序列を決めて酔っているのである。

もちろん、序列に酔って無知をさらけ出すのは醜悪だが害悪だとまでは言い切れない。問題はその先にあるのだと思う。

ここで「もしアメリカが何らかの都合で日本を守ってくれなかったらどうするんだ」と聞いてみたい。多分ネトウヨの人たちからは何の返事も戻ってこないのではないかと思う。もちろん「アメリカがもし見捨てたら」というのは「もし中国が攻めてきたら」というのと同じ仮定の質問で「どっちもどっち」とは言える。ただし、全く根拠のない仮定とは言えない。

沖縄の問題で見たようにアメリカ軍の設備はかなり老朽化しているようだ。ヘリコプター事故を見て「沖縄はかわいそうだ」という感想を持つこともできるのだが、一歩先に行くならば「アメリカの軍事インフラには予算的な制約がかかっているらしい」という洞察を持つべきだろう。軍事インフラだけでなく高速道路や水道設備のメンテナンスができないことが問題視されたりする。さらにトランプ政権は「軍に潤沢な予算を回す」と演説しており、これが予算制約の裏返しであるということもわかる。

つまり、アメリカは日本を守る意思はあってもプライオリティの問題から「日本に手が回らない」可能性があり、もし安全保障を論じるならこの危険性に対してなんらかの対応をしなければならないはずだ。

加えてトランプ政権独自の事情もある。トランプ政権は外交官に武器を得るビジネスマンの役割を与えようとしている。要するに武器は売ってあげるけど自分で使ってくれということだ。

このように状況は次第に変化しつつある。アメリカの国力が落ちているとも言えるし、中国の国力が上がってきているとも言える。もちろん極論を展開するわけにはいかないのだが、かといって何もかも今まで通りとは言わない。

にもかかわらずネトウヨの人たちはひたすら「アメリカに尽くせ」と言っている。そう主張することで何かを言ったような気分になれるし、変化しつつある状況を考えなくても済むからだ。

そう考えて行くと、いわゆるネトウヨの人たちのメンタリティはむしろ「事大主義」と呼ぶのがふさわしいのではないかと思った。「分をわきまえた」小国が大国にひたすら尽くすことで安全を守るというような主張であり、宗主国・朝貢国という枠組みの中では有効だった。

この事大主義が支配的だった朝鮮半島は清国が没落しているという現実をうまく捉えることができなかった。もし彼らが事大主義を捨てて自分たちで国を守らなければならないと考えたなら国民を教育して国力を増強するというような明治維新期の日本が行ったような富国強兵策が取れたかもしれない。しかし、朝鮮半島は内部対立を繰り返して、最終的に日本に支配されることになった。日本人の国際理解も一世代前の東西冷戦時の世界観から更新されていない。

ネトウヨが罹患している事大主義的なメンタリティは安倍政権を覆っている病のような気分だ。国際的には「北朝鮮を追いつめろ」とか「中国を囲い込め」などと言っているが、実際には何もしていない。内政においても、日本海に押し寄せる北朝鮮の漁民に対して何か具体的な対策を取ったようには思われない。

前回は「沖縄の問題」としてヘリコプターの事案について調べたのだが、本土に住んでいる私達にとっては、安全保障に対する事大主義的な無為無策の方がむしろ問題が大きいのかもしれない。

つまり「アメリカについていれば大丈夫だ」と信じ込む期間が長ければ長くなるほど、現実的な対応ができなくなってしまう。確かに布施さんや一部の軍事専門家が主張するように「国家主権」について考えると自分たちのことは自分たちで守らなければならないという現実に直面せざるをえない。

日本人は具体的に何かが起こるまで何もしない可能性が高いとは思うのだが、実際に何かが起きてからでは間に合わない可能性が高い。我々がまず考えるべきなのは憲法第9条の改正ではなくアメリカに対する主権の回復なのではないかと思う。

最初の問題に立ち返ると、もちろん中国が攻めてきたらどうするんだという問題について考える必要はあるのだが、もしそれを考えるならアメリカとの問題も同時に処理すべきである。東西冷戦構造が崩れ、アメリカ一極の世界も作られず、世界の極構造が不安定化しているという事実をどう受け止めるかということの方が重大である。北朝鮮のミサイルも沖縄のヘリコプター事故も直接これにつながった問題なのだ。

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沖縄本島ではどの程度ヘリコプターの事故が起こっているのか

沖縄で「またヘリコプター関係の事故が起こった」として話題になっている。しかし、情報が散発的に入ってくるので、どんな頻度と規模で事故が起こっているのかよくわからない。そこでまとめてみた。一昨年にオスプレイが大破してから昨日まで入ったものをまとめている。これだけと思う人もいるかもしれないし、こんなにも起きているのかと考える人もいるだろう。


なお、事実誤認を含んでいる可能性があるので、調べ物の際には必ず原典を確認していただきたい。「どうしても言いたい」ということがあればコメント欄に書き込んでいただくことができる。実名でなくても構わないが荒らしを防ぐために登録制のサービスを使っている。


2018年1月8日の事故をうけ、ニコルソン4軍調整官がはじめて全体の運用について謝罪した(小学校に部品が落ちた件ではすでに謝罪している)と琉球新報が伝えている。また、マティス国務長官も小野寺防衛大臣との電話会談で謝罪したということだ。アメリカ人の謝罪にはなんらかの対応が伴う(はずな)ので、軍あるいは政府がある程度問題を認識していることは間違いなさそうだ。

一連の報道が起こるようになった最近のきっかけはオスプレイの大破事故だと思うのだが、日経新聞によると「オペミスであり機体には問題がない」という結論が出ているようだ。もちろんオスプレイに反対する人たちは、オペミスが重大な事故につながりかねないとして導入に反対し続けている。

報道の分かりにくさのわけ

沖縄のヘリコプター事故・事案の報道が分かりにくい理由にはいくつかあるように思える。

まず、沖縄のメディアは少しでも大きく報道したいために過去の事故・事案を含めて記述していることが多い。老朽化する輸送機の事故とその他の不時着事案や海外の事件などが同列に扱われておりわかりにくい。本土が振り返ってくれないという思いがあるのかもしれないが、これでは、却って全体像が見えにくくなるのではないかと思った。

しかしながら、本土のメディアはさらに輪をかけてひどい状態にある。

本土メディアは基地問題を政局と絡めて伝えることが多い。辺野古基地移転やオスプレイの導入が与野党の政局材料になっているという事情がある。沖縄の人たちには切実な問題だが、本土ではどちらかというと判断材料が少ない野党の貴重な攻撃材料として利用されているのだ。

このため本土メディアの対応は二極化している。東京新聞は「政府は米国政府に真摯に訴えるべき」としており、読売新聞は「政府のいうことを聞いて辺野古に移転しないからだ」と沖縄県を非難している。沖縄のことを考えているというよりは、政府攻撃(あるいは擁護)の材料として使われており、わかりにくさの理由となっている。

しかし、この対立にはあまり意味がない。むしろ問題になっているのは日本の安全保障と主権という国家の根幹に関わる問題がないがしろにされているという点だろう。地位協定は実質的に憲法や日本の法律の上位にある上に、それすらまともに守られていないようだ。沖縄県の上空には日米で取り決めた飛行経路が設定してあるのだが努力目標化しているのだ。区域だけでなく運用時間でも協定破りが状態化しているということである。

この対立は例によっていじめの様相を呈している。今回マップに含めなかった保育園にプラスティック部品が落ちた件では保育園に嫌がらせの電話が殺到したという。本土に与野党をめぐる不毛な争いがあるのは仕方がないにしても、その劣情を不安な気持ちを持っている人たちにぶつけるというのはあまりにも冷酷である。と同時に、こうした類のいじめはエンターティンメントだけではなく様々なところに蔓延しているということがわかる。

沖縄はかなり異常な状態にある

知っている人は知っている程度のことなのだろうが、なぜ沖縄では頻繁にこのような事故・事案が起きているのだろうかと思った。

そこで、同じような条件のグアムの例を調べてみた。グアムはアメリカの軍事的植民地で北マリアナやプエルトリコのようなコモンウエルスを構成していない。しかしながら民選の準州知事が内政を管轄している。

グアムは沖縄より狭いのだが、人口が全く違う。沖縄本島には130万人以上の人が住んでいるのに比べて、グアムの人口は16万人に過ぎない。さらに航空機が利用する基地は島の北端にありハガニア中心部からはかなり離れている。

グアムでは2016年5月にB52の事故が起きている。これはベトナム戦争以来60年以上も使われてきた機種なのだそうだ。

改めて人口の密集する沖縄本島の真ん中に基地を維持し続けることの異常さがわかる。普天間は特に危険なのだが、沖縄本島中で事故が起きているのを見ると、辺野古に持って行けば危険性がなくなるというわけでもないということが理解できるだろう。

全てが大破炎上しているわけではない

沖縄で起きている事故・事案を理解する上で重要なのは、機体の種類によって性質が違っているという点なのではないかと思った。沖縄県側は「とにかく全部停止しろ」と主張しているので、これらを区別して書いていないことが多いのだが、実際には老朽化に伴うものと、計器異常による予防的なものがある。

読谷村と伊計島で事故を起こしたAH1ZとUH-1Yは2000年代以降に投入された同じようなタイプの攻撃機(多目的機と表記しているものもある)のようだ。しかしながら、このタイプのヘリコプターが起こしているのは「計器以上による不時着」であり、大破して炎上するという事故ではないようだ。

「最新鋭だから不時着(もしくは予防着陸)しても大丈夫」と擁護する声もあるのだが、近くに米軍施設があるにもかかわらずその区域外に不時着しているとという見方もできる。米軍が「民有地であっても協定に守られているのだから自分たちの敷地のように使っても良い」と考えているのか「よほどの事態があったのか」ということは情報が少なくよくわからない。ニコルソン4軍調整官が苛立っているところから見ると、トップも状況をつかめていない可能性がある。

翁長知事は「いろいろな機体が事故を起こしているのだから一斉点検しろ」と言っているのだが、単に気の緩みやなんらかの組織的トラブルが全ての事故・事案の原因になっているとも考えにくい。比較的新しい機体の不時着と老朽化したもの炎上では原因が異なっていると考えても問題はないだろう。しかし、こうしたレポートが日本政府や県知事に上がってくることはない。そこで「全部やめろ」という話になってしまうのだろう。

老朽化するCH53E輸送機と放射性物質の危険

最新鋭の多目的機種と違い、老朽化したCH53Eにはいくつかの大きな問題がある。加えて、米軍全体の問題であり解決は難しそうである。CH53Eは50名以上を運ぶことができる大型輸送型のヘリコプターのようだ。琉球新報によると導入から30年以上が経過しており、後継機の導入計画も進んでいないとのことである。部品も枯渇しているとのことなので事故が起こるのは当然だと言える。つまり、総点検などしても意味がないということになる。

ヘリコプターの部品には放射性物質のストロンチウム90や劣化ウランが使われているという説がある。ローターの監視ないしは高密度であることを利用して重りが必要なところに用いられているという説明がなされている情報がいくつかあった。否定する人もいるのだが、事故のあとには防御服を着た人たちが除去作業をしていることから、なんらかの危険な物質が使われていることは間違いがなさそうだ。

もちろん有害物質が含まれていること自体が問題なのだが、反対運動が大きいせいで情報が公開されておらず、却って「落ちたら風評被害も含めて土地が使えなくなるのではないか」という不安を生じさせている。

米軍との協定を安全保障の面から捉えることもできるのだが、憲法上の懸念の方が大きい。財産権が侵害される懸念があるにもかかわらず、事故が起こるたびに「土地に入ってはいけない」と米軍から立ち入りを制限されるということが常態化しており、沖縄県では憲法が保障する国民の権利が守られていない。不測の自体なら仕方がないという意見もあるだろうが、このハフィントンポストの記事によると高江の渡久口さんの土地は「不時着ができる便利なところ」だと目をつけられている可能性すらあるのではないかと疑いたくなる。何回か同じようなことが起きているとのことである。

何もしてくれない日本政府

沖縄では人口密集地に基地が作られており、協定はまともに守られておらず、子供が安心して教育を受ける権利が侵害されており、なおかつ財産権も侵害されている。このことから、沖縄ではフルスペックの憲法が施行されておらず、実質的にアメリカの軍事的植民地か日本の隷属地のような扱い担っていることがわかる。これが非明示的に行われているということなのだから、ある種本土の沖縄いじめのような状態になっている。

政府自民党のもっぱらの関心は選挙にしかないようだ。2月4日に予定されている名護市長選挙と11月の県知事選への影響だけが心配されている。

安倍首相が出てきてなんらかの調整をすることはなく、対応は防衛大臣と外務大臣に丸投げされている。小野寺防衛大臣も河野外務大臣も単に「調査を要請する」だけであり、協定の運用強化などの対策を取るつもりはなさそうだ。

その気になれば政府にはできることがたくさんある。占領時の取り決めを引き継ぐ日米地位協定では米軍の運用に日本政府が関われず、国民の財産や安全を守れないのだから、憲法を改正するよりもやらなければならないことがあるのだ。最低限「米軍は日本の法律を遵守する義務を負う」と書くだけでも状況が改善するはずである。

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