憲法第9条は変えた方がトクなのかソンなのか

本日は憲法改正について考えたい。「憲法第9条は変えるべきかいなか」ではなく「変えたほうがトクなのか」という議論である。現在、三つの案が出ているのでおさらいしておこう。

一つ目の案は「憲法第9条を変えると戦争になるから絶対に変えてはダメ」という案である。主に立憲民主党・社民党・共産党などの野党が提案してる。次の案は自民党の石破茂議員らが提案している案で自衛隊の交戦権を認めて国際的な軍に格上げするというものである。最後の案はこの「間をとった」と称される案だ。提案者は安倍首相で、今までの憲法をそのままにして「自衛隊は合憲である」と書き込もうというものだ。

安倍首相は何を考えているかわからないからとにかく反対という意見もあるだろうが、首相の動機は多分「おじいちゃんがそういったから」というものだろう。岸信介首相は「吉田派が勝手にGHQ と相談して決めたみっともない憲法だ」と考えていて、それが気に入らないのである。しかし、岸信介首相には人望がなかった。本来は日米安全保障条約を改訂してから憲法に着手するはずだったのだが、説明不足から大混乱を招き、結局首相に返り咲くことはなかった。そのルサンチマンが現在まで続く「議論」の全てではないだろうか。

こうした経緯を置いて個人の意見を述べる。個人的には石破案に賛成である。自衛隊は実質的には軍隊であり国連の安全保障活動でも軍隊として行動している。にもかかわらず交戦権が認められない(あるいは曖昧)ということは、すなわち自衛隊を海外に派遣している政府やそれを黙認している国民として非常に無責任である。国連から引き上げるという手もあるだろうが、国連の活動は不安定化する国際情勢に対応するためには必要不可欠になっており、撤退するのは得策ではないしまた撤退すべきでもない考える。自衛隊を軍隊にしたら戦争になるというのは確かだが、実際にはその戦争はもう始まっている。しかしそれはかつてあったような国と国との間の争いではなく、いわばがん細胞のように広がるテロリストや不満を持った個人なのだろう。

もっともこの筋立てが多くの人に共有されているとは思わない。石破論考える集団的自衛権は多分日米同盟のことを言っており、改憲派の人たちの本音は「中国が怖いから日本の軍備を強化したい」というものだろう。

しなしながら、今回は国際情勢については考えない。むしろ考えたいのは国民にとってこれが「損なのか得なのか」である。

現在の国会答弁を聞いているとよく出てくるフレーズがある。それは「相手に手の内をさらしてしまうから何も答えられない」というものだ。国防議論はすべて答弁上は「黒塗り」になっており、これが当然のように使われている。国会議員は国民の代表なのだからこれは「国防については国民は知らなくて良いですよ」と言っていることになる。つまりあくまでも表面上の主語は「敵」なのだが、日本人は簡単に主語を転換させてしまうので、実際の主語は別のところにあるのかもしれない。

ではなぜ国民に知らせてはならないのか。三つの理由があると思う。第一の理由は日本が主体的に戦争(防衛)に関与していないために国民の理解と予算の承認が必ずしも必要がないという事情である。この意味では日本の国防というのは第二次世界大戦前と似ている。すなわち国会は軍隊を監視することはできず「統帥権」という名目で独立しているのだ。もちろん戦前と違って現在の自衛隊は内閣に参加していないので、自衛隊が気に入らないからといって内閣が瓦解することはない。また、天皇もスルーされており内閣はアメリカと直接やりとりをしている。つまり、天皇が一段下がった形になっている。それ以前の内閣はこれほどあからさまに国会を無視しなかったから、安倍内閣は日本国民は日本防衛の当事者ではないと見なしていることになる。

次の理由はこれと似ているが異なった理由である。日本はアメリカの軍隊を補完する形になっており当事者ではない。つまりそもそも情報が入ってきていないという可能性である。アメリカには独特のラインがあり軍隊と国務省は別の動きをしているようである。これを統合するのは大統領なので、外から動きを見ていても最終的に大統領がどう決断しそれを議会がどう承認するか(あるいは承認しないか)がわからない。つまり日本の防衛について最終的に決めるのはアメリカ議会なのだ。最後までわからないのだから日本政府が勝手に自分たちが作ったストーリーを正当化する議論を積み重ねることはできない。だから何も言えないのである。

ここまでの敵は例えば北朝鮮や中国だろう。つまり日本政府が憶測でものをいってアメリカの作戦を邪魔してはいけないという遠慮があるのだろう。日本人は軍事的にアメリカに依存することに対して抵抗はないので、日本人の運命を最終的に決めるのはアメリカの納税者なのだということを受け入れていることになる。

最後の理由はこれとは少し違っている。すでに国内の議論が形骸化しており、実際には憲法や法体系をかなり踏み越えた運用が行われている可能性がある。つまり、これまでの議論をオープンにしてしまうとこれまでの議論が単に「議論のための議論だった」ということがわかってしまうばかりか「憲法など最初から度外視されていた」ことがバレてしまう。すると国内左翼が騒ぎ出す。安倍政権はこれが面白くないのではないだろうか。例えば、オバマ大統領が核兵器廃絶を訴えた時日本政府の姿勢は慎重だった。国内の「サヨク」にいい思いをさせてはならないと考えたからだ。つまり「敵に手の内を見せてはならない」の「敵」とは国内政治の政敵のことなのである。

つまり、日本人は自分たちの運命を自分では決められないのだから、最低限何かに巻き込まれないようにするのがトクということになる。よく自衛隊を軍隊にして自分たちの身を守らなければならないなどと言っている人たちがいるが、それは「お花畑」であり現実を見ていないと言える。

よく、改憲派の人たちの中に「憲法第9条があっても中国が明日攻めてきたらどうするんだ」ということをいう人がいる。「そんなことはありえないだろう」などと言ってみても「100%ないのか」と言われれば言葉に詰まってしまう。これは中国との間にラインがなく相手の出方がわからないといことが背景になっている。つまり、信頼できないから備えなければならないということになる。

しかしながら、おなことがアメリカに対しても言える。「アメリカが日本を見捨てたらどうするのか」とか「自国防衛のために利用したらどうするのか」という質問ができる。中国が攻めてこないことが「絶対にない」ことはないのと同じように、アメリカが日本を見捨てないという可能性も絶対にない。アメリカ人は100%いい人なのかもしれないが、防衛という究極の状況では自分たちの身の安全を優先するだろう。

もちろん自分たちで何かができるならどうにかすべきである。しかし、問題の本質は「国民から見て政府がどのように動くかわからないし、そもそも当事者能力があるのかすらわからない」という点にある。よくゲーム理論で「囚人のジレンマ」ということが言われる。二人の囚人が意思疎通ができる場合とできない場合では最適な戦略が異なるというものである。もちろん協力して示し合わせるのが最適解なのだが、そうでない場合には自分の身の安全のみを考えたほうがよい。それは「いかなる取引にも応じず、何も協力しない」ということになる。

もちろんこれは国益を大きく損なう可能性がある。しかしその問題を作っているのは「敵に手の内を知られては困るから」といって何も説明しない政府であり、我々には何の落ち度もない。

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私らしさとドメスティックバイオレンス

前回までは日本の村落構造について見てきた。人間関係が濃密な村落的環境がもたらす安心感とそれが崩れたときの再構築を巡るお話である。

今回はここから少し離れて「私らしさ」について考える。私らしさという概念はどこか漠然としているのだが、絶対に手に入れなければならないものと考えられており、多くの人を苦しめている。ではなぜ私らしさはこれほど人々を苦しめるのだろうか。そこには「個人主義的な私らしさ」と「日本人が個人を徹底的に嫌う」という問題がある。

「私らしさ」とはつまり人生の成功の指標を自己責任で見つけてくださいということだ。ところが、日本人は個人を徹底的に嫌うので、内面に指標を見つけることができないし見つけたとしてもくだらないものとしか思わない。そこで外に向かって「私らしさ探し」が始まる。自分の中にないわけだから当然どこかからコピーして持ってくることになる。例えば女性の場合には「ドラマの主人公のように生きること」だったり「海外セレブのように」愛されるということかもしれないし、男性の場合には「明治維新の志士」だったり「戦国武将」がそれに当たるだろう。

ロールモデルを持ち込んでそれに近づきたいということ自体はそれほど悪いものではない。最初からオリジナルを作ることはできないわけだから「戦国武将とあなたは違う」とか「海外セレブのようなスタイルを持っているわけではない」という点を除けば模倣もある種の入り口にはなり得るからである。

ところが、外からモデルを持ってきたとしてもそこから満足を得ることはできない。ここで問題になるのは慰安婦問題のところでみた対象物と関係性の問題だ。

慰安婦問題の基本構造は、韓国は日本の慰安婦問題について語っているように見えて実はアメリカのレスポンスを問題にしているという点だ。つまりコミュニケーションの相手と議題がずれているのである。これは村落でのポジションが「みんながその人をどう思っているか」という周囲の目によって決まるからなのだろう。つまり、アメリカを代表とする国際コミュニティの評判で韓国の国際的位置が決まると考えるのだ。

これを「私らしさ」に置き換えてみよう。男性が女性にモテたいと考えているとする。すると彼がやるべきなのは相手の女性が気に入るように変わるか自分の長所を伸ばすことのはずである。しかし、実際に彼が気にするのは周囲の人たちが「自分をモテる人間だと認めてくれるか」ということなのだ。

だが、これだけでは終わらない。なぜならば女性の方も「付き合った男の価値で自分の価値も決まる」と考えているかもしれないからである。そうなると、付き合っている男がどの程度のランクにいるのかということが気になる。女性の場合は常に「自分が付き合っている男の品定め」が行われいるのである程度「村のランキング」がわかるのだが、それはコントロールができないし当然男性の方では操作ができない。

この状況に勝利するためには「全ての事柄において平均以上」の点数を取らなければならない。男性の場合は仕事さえしていればそれなりの社会的評価が得られるのでこのゲームに勝利するのは割と簡単である。しかし、女性はそうはいかない。職業的にも成功しなければならないが、それだけではダメで同窓会で自慢ができる程度の男性と結婚して、子供を作り、姑との間の関係も良好でなければならない。つまり、いつの間にか減点ゲームになってしまい、それが手に入らないと「負けた」ことになってしまうというわけだ。

世間が無理を要求するという見方もできるのだが、逆に自分の内面にあるありもしない過剰な成功事例に縛られているとも言える。この鎖は自分を縛るだけではなく他人をも縛り付ける。比較によるゲームの始まりだ。序列がはっきりしない世界ではこれはたちまちのうちにマウンティング合戦に発展する。こうして新しい村ができるのだが、この村は利益を伴わない無駄な村である。

村から解放されて自分が好きなように人生の価値を追求できるようになったにもかかわらず、個人の中に価値観がないために進んで価値観の鎖に縛り付けられていると言えるだろう。

女性の場合は不機嫌さを溜め込むだけなのだが、男性の場合はこれをコントロールしようとして暴力に走る場合もあるようである。女性よりもさらに自分の気持ちを言語化することに慣れていないからだろう。

NHKの番組でドメスティックバイオレンスの加害者の特集をやっていた。「従属物である」妻が自分の思い通りに行動しないとカッとなって女性を精神的に追い詰めたり、代替物(例えば車のシートや机)を叩いたり妻に暴力を振るったりするというのが典型例のようである。彼らは「自分の従属物である妻」が自分の思い通りにならないことを怒っているように見えるし、番組でも「コントロールできないという怒り」が注目されていた。しかし、実際にコントロールできていないのは自分の感情であろう。自分の感情をうまく補足できておらず、それを相手に伝えることもできない。これが蓄積して暴力に訴えかける。

この結果、多くの男性は妻や子供にさられることになるという。中には経済的に独立的ないという女性もいて、被害者意識を受け入れて共依存関係に発展する人たちもいる。女性は永遠の被害者として生きるのだが、男性は時々湧き上がる怒りとそのあとの反省という感情の奴隷になって一生を過ごすのだ。

内面的な規範がないにもかかわらず全てをコントロールしなければならないという気持ちは「自裁権」という形で破壊に向かうかもしれないのだが、実際にはコントロールできる(と自分が勝手に思っているもの)への暴力という形で顕在化しやすいのだろう。それが社会において自分より弱いものを叩くことに向かいやすいのではないかと思われる。例えば気の弱い友達であったり、経済的に従属した妻なのである。

日本人が環境や村落と一体化している「個人」という考えを持たなかった。個人が出てくるのは「責任を取らされる生贄」か「村八分にされた仲間はずれ」だけである。ところが、戦後西洋流の個人主義というりんごの実をかじってしまったために、個人主義の毒が我々を苦しめる。その最たるものが「自己責任」でこれは「お前ら勝手にやれ」ということでしかない。

ここから脱するためには個人主義を捨てて「自分の運命は自分の思い通りにはいかない」ということを認識するか、自分の問題を言語化して相手に伝える技術を学ぶかの二つの選択肢があるのだと思える。

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日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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国体議論と憲法議論はなぜ不毛になるのか

前回は、日本人がマルクス・日蓮・立憲主義・憲法第9条がどれもお経のように捉えているというような話を書き、その中に国体主義を入れた。つまり、国体もお経のようなものなのではないかということである。

今回は国体について扱う。燃えやすいテーマなのでいったん読むのをやめて「自分が思う理想の国」について考えていただきたい。

先に「私が思う国の形」について考えたい。それは、自分たちの運命を自分で決めながらそれぞれが考える理想の形で「まだ見えていない可能性」を追求できる社会だ。まだ見えていない可能性を成長と呼ぶと、もし成長にとって必要だと考えれば社会を作れば良いし、いったん作ったなら他人の成長も巻き込んでいるのだから、それに責任を持つべきである。もちろん、これに賛同していただかなくても、以降の読み物は読むことができる。

国体主義はこの中では唯一の日本独自の概念であり英語のウィキペディアでもkokutaiという項目が設けられている。いろいろな概念が誤解されるのはそれが輸入概念だからなのだが、国体は日本独自の概念であり、解される可能性などないのではないかと思える。元をたどれば古事記や日本書紀のような伝統的な書物にまで遡ることができる古い概念だ。

ところが、古事記も日本書紀も天皇家の正当性を主張するために作られた物語であり、真実をベースにしているのかもしれないがいわばフィクションである。そして、国民すべてが合意するような「国体論」は未だに存在せず、それどころかほとんどの国民は国体には興味がない。国柄などということを考えなくても日本という島の形があり日本語という言葉があるからだ。

そもそも、古事記や日本書紀も、中国語で書かれているのだから中国を念頭に書かれているのかもしれない。もし、文字を持たない日本人を説得するとしたら、それは口伝だったはずだ。現に古事記は歴史をすべて丸暗記していた人からの聞き書の形になっている。当時はかなり長い文章か膨大な伝承をそのまま暗記することができる人がいたのだろう。国を発展させるためには庶民にも文字を教えるべきだなどと考えた人はいなかった。仏教の布教も口伝やきらびやかな仏像を通じて行われた。「お経みたい」というのは、つまり何が書いてあるかわからないがとにかくありがたいということの例えであり、つまり意味がわかっていない人たちから見た仏教の感想である。

明治時代になって国の統治システムを国体と呼ぶようになると、国柄についての議論が始まる’。アメリカに渡った人たちは、アメリカ人が「アメリカの基本は民主主義だ」と明快に理解していることに驚いたのではないだろうか。そこで「日本の統治システムとは何だろうか」ということを考えてみたものの答えられる人は誰もいなかった。考えたことがないのだから答えられなくても当たり前だがm問題は実はそのあとだ。どれだけ考えてもみんなが納得する答えが見つからなかったのである。

明治維新体制は天皇を中心とした国家だ。だから天皇という存在をを動かせないという制約があったがそれでもまとまらなかった。

さらに不幸なことに「国家体制」の議論は政局的に利用されることになりついには言論を萎縮させる事件が起こる。有名なのは昭和10年(1935年)に起きた「天皇機関説事件」だ。ある貴族院議員が美濃部達吉貴族院議員を攻撃した。美濃部は起訴猶予処分になったが貴族院議員を辞任せざるをえなくなる。「右翼に気に入らないことを言ったら逮捕され投獄されるかもしれない」のだから議論が活発に行われるはずもない。さらに日本は経済的に行き詰まり、その打開策として中国に進出するのだが、今度は軍事的に膠着し、最後にはアメリカと対立して破綻してしまう。

そんな中で国体は議論されなくなり、代わりに日本は天皇というお父さんを中心にした仲良し家族なのだということなったのだが、実際の「お父さん」とその取り巻きたちは多くの兵士を餓死させ最後には沖縄を犠牲にして自分たちだけは生き残ろうとした。もし日本が家族だとしたら、とんだ暴力一家である。

最終的に国体は国民を追い詰めたということになり、議論そのものが行われなくなって現在に至る。

戦後の新しい国体議論に進む前に、こんなストーリーはどうだろうか。

ある狭い村に住んでいた人たちが三人平原に連れてこられた。村の狭さにうんざりしていた彼らが「土地をあげるから好きな国を作って良いですよ」と言われた。一人ひとりは理想を追求することができるのだろうが、それでは社会にはならない。そこで話しあいを始めるのだが制約事項が何もないので何も決められない。そうこうしているうちに「なんでも決められる」ことに不安を覚えて取っ組み合いの喧嘩を始めるのである。

現在の国体論は憲法議論の形で行われている。安倍首相は「国のかたち、理想の姿を語るのが憲法」と言っているのはその影響だろう。ただし、その議論に影響力を行使できないことがわかっている野党側は「為政者を縛るのが憲法であり、安倍首相とは憲法観が違うから話し合いすらできない」と譲らない。

もともと安倍首相が憲法を改正したいのはおじいさんの影響だと言われている。ではおじいさんである岸信介はどうして憲法を改正したかったのだろうか。よくわからないののだが、いくつか断片的な話を総合すると以下のようになる。

  • 日米の集団的自衛体制を固定化したかった。
  • 吉田茂らの一派が、岸ら公職追放組がいない間に憲法を決めてしまったのがおもしろくなかった。

つまり、岸信介は「アメリカに基地を貸して、代わりに守ってもらっている」ことを前提に「日本がアメリカに従属しているから」ではなく、「これは集団的自衛でありアメリカに協力してやっているのだ」という理想形を作りたかったのだろう。安保の交渉を見てもそれは間違いがなさそうだ。

しかし一方で、自分がかかわらなかったうちに吉田茂一派が「勝手に」妥協の産物として日本は軍隊を持たずにアメリカに守ってもらっているという体制を憲法として固定化してしまったのが面白くなかったということも言える。「聞いてないよ」というわけだ。

つまり「俺たちがいない間い勝手に決めたからくだらないに決まっている」と言っているだけだと言える。もともとは安倍さんのおじいさんと麻生さんのおじいさん(しかも揃って外孫)の内輪揉めなのだが、それに加わったのが安保反対運動を聞き入れられず、ベトナム戦争も止められなかった左派である。左派に「戦争反対とは何に反対しているのか」と聞いても明確な答えはない。しかし、多分彼らが考えている戦争は第二次世界大戦にベトナム戦争が混ざった戦争なのではないだろうか。

つまり、ここに参加している人たちが言っているのは「決めるときに俺は意見を聞いてもらえなかった」と言っていることになる。これが現代の国体議論である憲法改正議論の正体だ。

つねづね、ネトウヨの人たちは現在のアメリカは大好きなのに、なぜGHQを嫌うのだろうかと思っていたのだが、実はアメリカが二つあるのではないということがよくわかる。つまり「吉田茂が対応したアメリカ」と「俺たちが話をしているアメリカ」があるのだ。これは民主党がやろうとしたTPPと自民党が実際に交渉したTPPが別物だと認識されているのと同じことだ。

もちろん、岸信介の論にも理解できる点はある。現在の体制は世界第3位の経済大国が軍事的にはアメリカに従属しているというのは極めて不自然である。これを対等な軍事同盟にすれば少なくとも形の上では日本は独立国としての体裁を取ることができる。気持ちは違ってくるだろうし、国や社会に対する責任感も生まれるかもしれない。

岸信介にとって不幸だったのは、多分娘が自分の心情をよく理解せず、さらに孫が凡庸(あるいはそれ以下)な人だったことなのだろう。安倍首相は岸信介が憲法改正をしたかったことは知っているし、憲法調査会を作っていたことも知っているようだ。しかし、岸信介が何をやりたかったのかはよくわかっていないようである。

もし仮に「主権国として対等にアメリカと関わることができるようになりたい」というおじいさんの理想を実現するのなら、沖縄で基地問題が起きたときには抗議をするだろうし、北朝鮮問題についても主体的に責任をとって関わろうとするだろう。しかし安倍首相はアメリカの庇護下にあるという状態を楽しんでいるようにさえ思える。さらに自分の政権を維持するためにはアメリカとの親密さが重要だということを理解しているので、決して機嫌をそこねるようなことを言おうとはしない。つまり、従属国の首相であるということを完全に内面下してしまっている。これは多分岸首相が恐れた「堕落した従属国の総理大臣」の姿だろう。

安倍首相は国防に関わることについては一切国会答弁しない。「相手の出方があるので手の内はあかせない」と言っている。実際には日本には軍事的自由がないので「自分たちにはわからないし決められない」ということなのだが、裏を返せば何か問題があったときに国民は「アメリカが勝手にやったことだし」「知らなかったから責任は取れない」と言って良いことになる。これは戦前の陸軍と国民の関係にそっくりである。

こうしたことがいっし問題にならないのは実は憲法や国体の議論が「理想の追求」ではなく単に「プロセス論」に過ぎないからである。つまり、自分たちが決められばなんでもよいわけだし、そもそもそこにすでに国と固有の言語を持った人たちがいるわけだから多くの人は関心すら寄せないのである。

多分、これだけを専門に研究している人から見ると暴論と言えるまとめ方だが、国柄と憲法の議論はいわば壮大な内輪揉めの歴史で、基本的には「俺は聞いていないから気に入らない」という性質のものである。

常に言葉も通じない他者に囲まれて彼らが地平線の彼方からいつ攻めてくるかわからないという状態になればそれなりに「あの人たちを違っている我々とは一体何なのだろうか」ということを考えるのだろうが、日本人にはその必要がなかったということなのかもしれない。

実際には自分たちが行き詰まるかもしれないという不安感を社会に投影している人も多い。つまり「このままでは没落してしまうかもしれない」と不安に考えている人も多いわけで、自分たちのあり方について考えることができないということには実害がある。こうした不安を抱えている人たちの心情を察せず「聞いていないから気に入らない」というような議論を繰り広げているのが、今の政治なのである。

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日本人は安心感をどうやって村落の外に持ち出したのか

聞くとはなく国会の代表質問を聞いていた。既にTwitterなどでご存知の方も多いとは思うのだが、安倍首相にはやる気が感じられず全ての答弁においてコピペ原稿を使い回していた。安倍首相は体調がすぐれないのか声の調子が悪く、ときどき水を飲むために答弁(というより官僚作文の朗読)が止まった。これだけを見ると、三選を目指す総裁候補とは思えなかった。

しかし、今回の話は安倍首相のやる気のなさとは全く関係がない。日本人が宗教を村落からどのように外に持ち出したのかというのがテーマである。

この筋を思いつくまで公明党と共産党という真逆に見える政党の類似点について書くつもりだった。この類似点は「宗教」である。彼らの信奉する宗教は村落的なコミュニティを外に持ち出して人工的に再構成するために利用されているようだが、不完全さを含んでいる。その不完全が何なのかというのが今回のテーマだ。

公明党と共産党はどちらも固定的な支持者を抱える政党なのだがその世界認識は真逆である

公明党は自分たちの支持者である信者に説明ができるようによく組み上げられた演説(質問の形をしているのだが実質的には演説だった)をしていた。創価学会には多分「人間は大切」という基本理念がありそれを発展させる形で様々な政策プランが提案されているのである。

公明党の特徴はプランの名前にありがたみのあるカタカナの名前が使われていることだった。これは既存の宗教に戦後流の科学的なコーティングをまぶした砂糖菓子のように見える。仏教はその普及過程で「難しい言葉を理解できなくてもこのお経さえ唱えれば極楽に行けますよ」という約束として理解されるようになるのだが、公明党のカタカナは現代のお経のように機能しているのだと思った。例えていえば、医学書を読んで聞かせれば癌が治療できるというようなものなのだろう。

一方で、共産党側は「とにかく全てがうまくいっていない」ということを言っている。彼らもまた自分たちの信じる宗教理念が掲げられさえすればたちどころに全てがうまく行くと信者に説明しているのだろう。全てを読み終わったあとで小池晃議員が仲間の議員たちと「言ってやったぜ」というように笑顔をかわすのが印象的だった。もちろん、彼らの経典というのはマルクス経である。イギリスで作られた科学的な思考は海を越えて宗教になったのだ。

この二つの全く異なった世界観について安倍首相は同じような原稿を読んで応えていた。「公明党のご協力で作られたプランを力強く推進する」し「共産党の言っていることは言いがかりだ」という二つのことしか言っておらず、その間を官僚がコピペされた文章で埋めてゆくという調子である。質疑という形を取っていながら質問も答えもない。そこに広がっていたのは全く無意味な言論空間だった。応酬も新しい情報もないのだから、報道は「言い間違い」と「ヤジ」にならざるをえないのだ。

自民党にはこうした宗教的な感覚はない。多分、自民党が村落を離れなかった人たちの集まりだからなのだろう。彼らはコミュニティを再構成する必要がなかったので宗教的なスローガンを必要としなかったと言える。一応、スローガンは使っていたが要するに「地方の中小企業に金を回せ」とか「地方の観光をもっと盛んにしろ」とか「高速道路を作れ」というような主張のために利用しているだけである。こう考えると自民党の作った憲法草案が「ああ、山が美しく四季が心地よいなあ」というものになってしまうのは当たり前である。自民党には政治的な理念はないが、美しい山ときれいな海に囲まれてさえいれば、そもそも理念など必要がないのである。

公明党は農村から都市部にでてきた人たちが作った宗教結社がその出発点になっている。共産党も都市労働者が作り上げた政党である。つまり、彼らには頼るべき農村コミュニティがなく、新しい理念を掲げなければならなかった。その時の最先端のコンセプトを利用しながらそれをご本尊にするというのが共通したやり方である。そして、いったんコンセプトができてしまうとそれを変えることができない。理解していないのだから変えようがないのは当たり前である。

これを他の政党に当てはめることができるかというのが次の課題になる。簡単に想起できるのが護憲経である。これは憲法第9条がご本尊になっている。憲法第9条を北朝鮮にかざせばたちどころに核兵器が退散するという宗教だ。ところが、この宗教はある悲劇に見舞われている。

福島瑞穂議員は安倍首相に「社会民主主義を信じれば救われる」というようなことを主張してスルーされていた。彼らは社会党から社民党になる過程で教義の変更を行おうとしたが、それを信者に浸透することができなかったのだろう。信者たちはもっとプリミティブな形で護憲を理解しているのではないかと思える。その意味では社会党から派生した宗教は術で中途半端に展開している。いわゆる立憲主義というのは少なくとも大衆理解の段階では「平和憲法さえ掲げれば全ての問題はなくなる」という宗教理念なのだが、立憲民主党の人たちの言っていることは「難しすぎる」ということになる。立憲民主党が宗教政党として成立するとすれば「憲法は安倍首相の魔の手から国民を守る護符であり決して手放してはならない」と言い続けなければならないのではないだろうか。

普通に考えると民主主義社会が成立するためには、国民がなんらかの政治的理念を理解した上で政策を支持する必要がある。しかしながら、つぶさに見てゆくと日本の政党の支持者たちが政治的な理念を理解した上で政党を支持しているとは思えない。むしろ、昔から知っているお家の坊ちゃんであるという安心感から政治家を支えていたり、何かありがたいものを掲げることで「全てが丸くおさまる」と考え違っているように思える。このため、教義は更新されず、更新されないから共有することもできなければ折り合うこともできないということになるだろう。

さて、これまでにでてきた仮説は次のようなものである。

  • 日本人は所与の村落を再構成する過程で、美しい山並みや浜辺の代わりに、なんらかの宗教的な教義を必要とする。村落を出ない人たちにはこのような教義は必要とされない。つまり、宗教的教義は狭く閉ざされた環境の代替物である。
  • 宗教的な教義はその時点で最先端の優れたものを取り入れてありがたみをます。そのありがたみは実は何でもよい。もしキラキラ輝くガラスのコカコーラの瓶が最先端であれば、コーラ教ができていただろう。
  • 日本人は教義の本質を理解することはないので教義が更新されることはない。

こうした「村落の再構成」はいろいろなことに見られる。例えば日本相撲協会の内実は単なる体育会系の暴力集団だが環境が変化することでマネジメントが破綻しつつある。それを再構成しようとする時に決して本質的にどうマネージするかということが語られることはなく、代わりに「日本は神の国であり、相撲は国体を支える儀式なり」というような教義が利用される。

これを自民党を支える新たな村落に当てはめてみたい。それは「国体教」である。日本は世界に類のない神の国であり、荒ぶる神によって守護されているという宗教だ。このように宗教的な教義で包むことにより「自主憲法を作ってアメリカの占領体制から抜け出したい」という願いと「アメリカの依存して中国を圧倒したい」という願いが矛盾することなく折り合うことになる。宗教は論理的に矛盾したものを包んで一つのパッケージにする力があるようで、これが都市や地方に住んでおりお互いに連帯する要素が何もない人たちを惹きつける。我々はこの一群の人たちをネトウヨと呼んでいるのかもしれない。

これは比較的新しくできた教義なので今のところ矛盾をすることはない。しかし、アメリカの勢力は衰退し始めていて、やがて現実と合わなくなる可能性がある。つまり、ネトウヨの信じる宗教もいずれは、マルクス経のような運命を辿ることになるのではないだろうか。

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社会的劣等機能の発露としてのTwitter

先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。

保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。

こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。

一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。

もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。

日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。

さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。

ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。

このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。

例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。

さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。

しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。

そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。

現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。

保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。

問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。

ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。

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はじかれるべきのは小泉進次郎さんなのではないか

小泉進次郎衆議院議員が「AIで野党の質問をはじくべきだ」と主張したと朝日新聞が伝えている。朝日新聞は自民党の驕った発言として取り上げたいのではないのだろう。確かに二世・三世議員というのは人当たりが良いように見えて時々どきっとするほど常識はずれなことを言ったりする。これもその類だ。やはり二世議員というのはできればなくすべきだなあと思う。

しかし、AIの導入というのはよいアイディアなのではないかと思った。もちろん野党の「無駄な」質問を排除することもできるのだが、AIを使えば与党の無気力な政治も浮き彫りになるだろう。

第一に考えられるのは新聞社が過去の答弁を全てAIに入力して整合性のない答弁を検知するようなシステムの構築である。膨大な答弁を整理するのは難しいがAIを使えばチェックがやりやすくなるだろう。最近Twitterでは与党の妙な答弁についてインフォグラフィックを作って指摘する手法があるようなのだが、これは本来ジャーナリストの仕事である。安倍首相が言葉の定義を巡っていつまでも循環的に答え続けるという手法を発明したために貴重な国会議論が無駄になっているので、システム構築に費用がかかるとしても民主主義にとっては価値のある投資なのではないかと思える。

もっとも、そこまで大げさではなくても文法や漢字の間違いを指摘してくれるAIは簡単に作れるだろう。すでに英語版では実用化しているので日本語でできない理由はない。AIで文法をチェックして何がわかるのだと思う方もいるかもしれないのだが、かなりの割合で「社会の一員としての誠実さ」を計測することができる。

政治家のみならず、できるだけわかる言葉で自分の主張を伝えるのはとても重要である。そのためにはみんなが受け入れ可能な常識の通じる範囲でできるだけ明確な言葉を使う必要がある。小学生に諭すような言い方をしてしまったが、これは大人にも十分当てはまる。

しかし、我が道を行くトランプ大統領は小学校の時に、正確な文法で自分の主張を伝えるということを習わなかったのかもしれない。小学校二年生の時に音楽の先生を殴ったという逸話が伝わっている。

こうした彼の社会人としての破綻は彼の書いたものをみるとよくわかる。このTweet(夜中の11時30分につぶやかれている)は文章がめちゃくちゃだ。これをGrammerlyでチェックしても公文解析ができないようで、andの所が間違っているのではないかということだけを教えてくれる。そこでつぶさに見てみると外国人が最初に習うような文法の間違いを犯していることがわかる。大学入試で弾かれてしまうような間違いである。

Big win for Republicans as Democrats cave on Shutdown. Now I want a big win for everyone, including Republicans, Democrats and DACA, but especially for our Great Military and Border Security. Should be able to get there. See you at the negotiating table!

この文章はandでeverybodyの中身を記述しているのだが、本来の英語では全てをカンマでつないで最後だけandにすべきである。構文としてはA+B+(C+D)みたいなことなのだが、アカデミックな英語ではわかりにくいのでそうは書けない。

つまり、everybody including Repblicans, Democrats, DACA, Great Military and Border Securityになる。

「特に軍隊と国境警備隊」と強調したかったのだと思うのだが、普通のパンクチュエーションではそういう書き方はできない。書くとすれば強調したいものを先に持ってきてはespecially for … as well as などにすべきではないだろうか。いずれにせよトランプ大統領の発言はこうした「俺の言っていることなんだからわかるだろう」というわがままさに溢れている。

同じようなことは麻生副総理や安倍総理にも言える。漢字の読み方がわからなかったり、言い間違いを頻発する。これも「俺の言っていることなんだからなんとか読み取れ」という傲慢さの表れだと思う。麻生副首相のようにわざと周囲をどきりとさせるようなことを言って悪ぶってみせるというのも幼稚さとわがままさの表れである。

トランプ大統領は有名になるために大統領選挙を利用したと言われている。つまり大統領になるつもりがなかったのだろう。しかし、あれよあれよという間に勝ち上がってしまいついにはファイナリストになってしまった。同じように二世以降の議員の人もおじいさんが総理大臣だというだけで今の地位にいるのかもしれない。つまり、どちらも「準備がないままで地位を得てしまった」という共通点があるのだ。

野党が執拗に同じ質問をするのは、政府・自民党が憲法の解釈を歪めたり明らかにおかしな発言を繰り返しているからなので、もともとの発言がAIで読み取れるようなきれいなものになっていれば防げるはずだ。「機械に日本語の微妙さがわかってたまるか」ということを言いたい人もいるかもしれないが、法律の成立過程に関わる答弁なのだから誰にでもわかりやすい文法で伝えるのは大切だろう。決して解釈によっていかようにでも判断できるようなものであるべきではない。

つまり、AIを使うべきなのは、誰にでもわかるような発言をすべきだからであって、気に入らない発言を排除するためであってはならないということになる。もっとも、こんなことを言っても根拠のない特権意識を持っている世襲政治家には届かないかもしれない。本来は地元の有権者がAIの代わりにこうした無責任な発言を繰り返す政治家をチェックしなければならないのだろう。

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西部邁さんの報道について思うこと

西部邁さんという思想家の方が亡くなったそうだ。入水自殺だったそうである。最初にこのニュースを聞いたときには「こんな寒い時期に多摩川に入るのは大変だろうな」と考えた。西部さんのことは昔「朝まで生テレビ!」で見たことがあるだけで、どのような思想の方なのかはわからないのだが、その報道について少し気になったことがあった。そしてしばらく考えているうちに、もしこれが保守本流の思想ならば(そうであるかはわからないのだが)日本はやがて滅びるだろうなと考えた。

どうやら報道を見る限り、西部さんの自殺については次のようなことが言えるらしい。

  • 以前から自死について考えており、そのことを周囲に語ったり周囲に伝えてたりしていた。
  • 自分が社会に貢献できるうちは生きていてもよいがそれができなくなったら死のうと思っていた。
  • 自己決定ができない医療のあり方について全面的に否定をするものではないが、自分は自己決定したいと考えていた。つまり、自主性に重きを置いていた。

これについて、小林よしのりさんは「立派だ」と語っている。別の人は「言葉に殉じたと評価」している。学生の自殺には懐疑的な人が多いが、自己決定による自殺については「立派だ」と評価する人たちが少なからずいるようである。

亡くなった方に対して「正しい」とか「間違っている」などと指摘するつもりはないし、言える資格があるとも思えない。ただ、保守という人たちが抱える問題がわかる気がした。同時に、この違和感を共有できる人は少ないのだろうなあとも思った。

西部さんやそれに近い人たちはある前提を持っているようだ。つまり、人生は自己決定ができるということである。人は本来自由であるべきだとすると、これは否定しようがないように思える。これを共同体に当てはめれば国というのは自主独立の気風を持ち誰にも支配されるべきではないという彼らの主張と連続しており、思想面でも違和感はない。

ここから先が問題だ。この裏側には「人間の価値というものは計測可能で、少なくとも自分ではわかっている」という前提がある。つまり、人生の価値は「可知」なのである。

「そんなの当たり前じゃないか」という人が多いのかもしれないが、キリスト教的な伝統ではそうは考えない。キリスト教では生きているというのは「神様にゆるされているからである」と考える。人間は全知全能ではないから、自分たちの生きている意味や価値については知ることができない。ちょっと聞くと不便で従属的な考え方だ。

例えば、キリスト教(特にカトリック)では自殺は大罪だ。人間は自分の価値をすべて知ることはできないのだから、一生をかけてそれを追求するべきなのだという不可知性がその根拠になっている。その意味では西部さんたちの「自分の言葉に殉じる」というのはかなり不遜に聞こえてしまう。不遜という言い方が失礼ならとても「どきりとする」言い方である。つまり、どうしても、神に代わって自分で自分の価値を勝手に判断していると思えてしまうのだ。

西洋流の民主主義の裏には、人間は自分たちの価値を知りようがないという点では共通なのだからお互いに助け合って神様が考える理想に向かって生きてゆくべきだという前提がある。これを私たちはどこから来てどこに行くのかと表現したりする。最近では無神論の人も増えているのかもしれないが、神の代わりに「自然の摂理」というものを暗黙の了解としている人も多いのではないかと思う。

リベラルな助け合いや人権が擁護されるのはこうした背景があるからだし、資本主義の活動の根拠にも神様に与えられた資源をどうやって伸ばして行くべきかというテーマがある。自由というのは無制限の自由ではなく「神に与えられたテーマの自由な追求」というような意味合いになる。私もその自由を持って今を生きているが、同時に他の人もそうした自由を与えられているということになる。

一見「自分たちの運命を自分で完全に決められない」というのは不自由で従属的であるように思えるのだが、これを「自分たちが到達可能ではあるがまだ知らない領域」と捉えることで成長への余地に変えているというのがキリスト教的な考え方になるだろう。哲学や科学というものは、そうした自然の摂理(あるいは神の原理)に少しでも近づこうという活動であり、であるからできるだけそれに真摯でなければならないという意識につながる。

最近の日本の政治姿勢が人々の反感を買っているが否定しようがないのは、日本人がこれを理解できないからだ。安倍首相は自分は民衆から支持されている総理大臣であるから日本の法律を自由に変えたり解釈できると考えている。首相は「善いことは全て自分が知っている」と考えているだろう。なぜならば自分は国を動かす総理大臣だからである。しかし、自由が全知全能の人間の自己判断によると置いてしまえば、これはあながち否定はできない。これが自己決定論の恐ろしさなのだ。

もっとも「神様」と聞くと胡散臭く感じる人がいるかもしれない。日本人の中には宗教アレルギーを持つ人が多い。そこで「不可知さ」について別の見方をする人たちがいないか探してみよう。

例えば、今年は戌年だがこの漢字は作物を伐採する行為の記号である。つまり物事の完成期にあたる。次の亥年は種の形であり、子年は芽が出るという意味になっている。人間がコントロールできるのは芽が出てから採集するまでの段階であり種の中で何が行われていつ芽吹くのかということは知りようがない。これが循環的に繰り返すと考えるのが中国式の世界観だ。

この不可知さは決して不自由さや人間の限界を表すわけではなく、実は創造性の源になっているとう考えは古くからあり、洋の東西を問わず普遍的なものであると言える。日本の保守思想家の中には中国式の世界観に詳しい人たちがいた。例えば、戦前から戦後までの首相に影響を与えた陽明学者の安岡正篤などがその代表格だ。安岡と最後に結婚したのが細木数子で、細木はのちに運命学を利用して人々の不安を煽りテレビスターになった。

西部さんの論を取ると人間は自分の価値を自己判断で決定できるということになる。完全な自由を獲得したかに見えるのだが、同時に成長の余地が全く残されていないということをも意味する。だが自己決定と自由にとらわれている人たちはそのことに気がつくことができない。ゆえに、これを保守だと仮定してそれを突き詰めてゆくということは、成長を殺してしまうということにつながってしまうのである。

「創造性の破壊力」と「自己決定性」について考えているときに思い浮かんだのが三島由紀夫についてだ。三島は病弱な学生時代を過ごしたが内面にかなり破壊的な創造性を持っていたのだろう。それを病的なまでにコントロールしながら周囲を感動させる文学作品をいくつも作った。しかしながら、その創造性はどういうわけか枯渇してしまう。そこで三島は体を鍛えてコントロールすることに興味を持ち、軍隊のような統制の取れた集団に憧れを持つようになる。実際に彼が作ったのはおもちゃの兵隊のようなものであり、その制服もいまでいうコスプレのようなものであるということは本人も自覚していたようだ。だがこの活動はやがてエスカレートし、周囲を巻き込んだ市ヶ谷自衛隊の自決騒ぎに結びついてゆく。彼にとっては完璧な自己決定の形に思えたのかもしれないのだが、周囲はこれを単なる破滅だと感じたのではないだろうか。

三島の件で重要に思えるのは、彼が持っていた創造性の源というのが「なんだかわけがわからない」ものだったということである。あまりにも破滅的でどこに向かうかもわからないのだが、たまたま最初は文学に興味が向いたので周囲から「役に立つ」と評価され、同じ情熱が保守思想に結びつくと狂気を孕んだ自己決定につながった。また、彼は周囲を説得できず残された選択肢は自分を破壊することだけだったということも言えるだろう。

保守思想が日本を滅ぼすとすれば、それが「なんだかわからないもやもやしたもの」を排除してしまうからではないかと思う。三島の例を考え合わせると、協力もせず全てをコントロールできるとしたらそれは厳密な意味では自己破壊しかないのかもしれないと言える。一方で中国のような出方のわからないものとなんとか折り合わせてゆくことはこうした自己決定権を手放すことであり、決して容認できないだろう。

自己破壊も究極の「わけのわからなさ」の形なので一概に否定するべきではないと思うのだが、現実的には単なるショーに終わるか耽美的に鑑賞の対象になるだけである。しかし、それでも人に影響を与えるとすればまだ成功した部類だ。

途中で見たように、保守の論客たちからレクチャーを受けていたはずの安倍首相は「自分でなんでもきめられるのだからせいぜい好き勝手にやろう」と考えている。日本には様々な問題があるが、それには目を背けて何もしようとはしない。このように、昨今の保守思想は何もしない言い訳として利用できる消費の対象にしかなっていないのである。

「中国はうまいことやっているように見えるが、長くは保つまい」とか「人権は弱者の言い訳だから逆に嘲笑してやれば良い」というのは単に何もしたくない人たちの言い訳にしか過ぎない。この意味でも保守思想は日本を滅ぼしかねないのではないかと思う。

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二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

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カルボナーラを炊飯器で作るべき理油

時々カルボナーラを作るのだが、フライパンの上で卵が炒り卵状になり失敗する。何度やっても失敗するので作り方が間違っているのだと思うようになった。そこで色々と調べてみたのだが、どうやらカルボナーラを作るには蒸気が必要なようだ。だから炊飯器を使えば良いのではないかと思った。

ヒントになったのはあるYouTubeの動画だった。後半2分くらいのところで出てくるのだが、パスタを茹でているところに行って卵と麺を混ぜている。フライパンで炒るようにして卵を混ぜるから「炒り卵スパ」になってしまうのだ。

もちろん、フライパンを使う動画もあるので、これじゃなきゃダメということもないのだろうが、このやり方でやってみようと思った。

スパゲティを半分に折って塩水を多めに入れた炊飯器に投入する。10分ほど経過するとふつふつと煮立ってくるし、お湯で始めれば袋の表記通り7分で済む。パスタは炊飯器でも茹でられるし、時間を研究すればアルデンテも作れる。

パスタの水を切ったら、テフロンの釜にオリーブオイルをスプーン一杯垂らす。小麦粉がすでに溶けているので水と油が乳化してソースが絡むようになる。

そこに卵とパルメザンチーズの粉をまぜてしばらく置いておいたものを入れる。混ぜてからすぐに入れると卵とチーズが分離した状態になる。コメント欄にもあるように本来はパルメザンチーズは使わないそうだ。つまり、これは「カルボナーラ風」ということになるだろう。

このような手順で作るとビデオと同じような状態になり炒り卵にはならなかった。今回はハムは入れなかったがフライパンで調理したハムを入れてもいいかもしれない。代わりにチキンスープを入れて茹でても美味しい。

あと何かやることはあるかと思ったが何もない。カルボナーラにはニンニクも入らないし、一部のレシピのように生クリームも入れない。湯加減や油加減の調整だけで好みの味が調整できるので意外とクロウト好みかもしれない。しっかり水切りをすれば水分が少なくなり、ざっくりと水切りをすればスープっぽい仕上がりになる。

ということで、テクニックというほどのテクニックもなく完成した。簡単だし具材もあまり入らないので給料日前などいいかがだろうか。

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