日本の村落構造

これまで、明確に定義することなくなんとなく「村落的」という言葉を使ってきた。ここで一度村落的とは何かということを整理して行きたい。ざっくり定義すると、村落性とは構造の定まらない狭い閉鎖空間を指す。

村落性を考える上で、ノートにいろいろな要素を書き込んでみた。なんとなくお互いに関係しているものが多くどれが本質なのかよくわからない。最後まで残ったのは「閉鎖性」と「不確実さ」の2つである。さらに「個人がない」という属性もありそうだった。

日本の村落は閉鎖的である。三方を山に囲まれており前は海というのが典型で、村落には逃げ場がない。また村落での人間関係は補足可能な程度小さい。このため、一生同じ人たちの間で生活しなければらならないし、決定的な対立が生まれると逃げ場がない。さらにマネジメントのために万人に当てはまるような原理原則を作る必要がない。逃げ場がないので、日本人は決定的な対立を避けて、ほのめかすような対話を好む。日本は村落的だというとこの閉鎖性に注目が集まることが多い。

ところがその内部には絶対的な権力構造や固定的な身分はない。つまり、閉鎖された空間の中でどの程度の地位にいるのかということが安定しない。単に閉鎖していて身分が固定されている空間は、日本型の村落とは呼ばれない。

例えば、アマゾンの部落は小さな補足可能な群れがそれぞれ異なった言語を使って会話するといるという形態になっており、小さくても閉鎖的とは言えない。さらに、外国人の侵入を許していた挑戦型の村落には絶対的な身分制度があり、村落の地位はある程度明確な身分制度に支えられている。インドにはカースト制があるが、これはもともと支配人種であったアーリア系の人たちが現地のドラビダ系の人たちへの差別を正当化するために作った制度である。彼らも固定的な社会を生きているので、実はスクールカーストというのは、正しい表現とは言えないのである。

村長のような人が意思決定するのだが、その意思決定は村人の総意である。このシステムを稟議システムと呼ぶ。だが、稟議システムにおいてすべての人の発言権は平等ではない。基本的に地位をめぐる争いは発言力と影響力を巡る闘争だと言えるのではないだろうか。

さらに、村の掟を破ると村人からの攻撃が起こり、ひどい場合にはひとりぼっちや村八分にされてしまう。これが基本的な炎上のメカニズムである。ただし炎上とは呼ばれず「世間を騒がせた」ことが罪になる。村八分になっても逃げ場はない。

例えば「不倫」が問題になるのは、それが世間で悪いということになっているからである。つまり、悪いとわかっているのにそれをやったということは、世間に挑戦しているということになり、それ自体が罪なのだと言える。ワイドショーが本当に言いたいのは、私たちがいけないって決めたことをあなたやっちゃいましたよねということである。だからその人は世間に反抗していないことを全力で示さないと世間から消されてしまう。このため改めて「なぜワイドショーは執拗に不倫を追いかけるのだろう」と考えると答えがない。にもかかわらず専門の記者が「世間」から雇われていて、芸能人や政治家の不倫を常時監視している。

ここまで考えてきたとき、とりあえず「個人がない」という性質が消せることがわかった。そもそも日本には独立した自我を持つ個人などという概念はそもそもないと考えたほうがいろいろわかりやすくなる。個人が自分なりの意見を持つことはないし、自分なりの言葉で話すということもない。さらに個人が支える公共というものはない。だから、そもそも個人主義については全く考える必要がないのだ。

これは世間が所与のものであり、個人が作るものではないというところからきている。つまり、いったん世間が壊れてしまうとそれを修復することはできない。あとは「村八分」になったか「孤立した」個人の集まりになってしまうということである。つまり、個人がないということは、公共が再設定できないということなのである。

見かけ上「個人がない世界」というものを考えるのは難しいのだが、いずれにせよ「主義」とか「原理原則」というものは、個人が考えを持って社会を形成するという前提の言葉なので、日本ではそもそも理解されない。理解されるのは、一人ひとりを正当化するために利用される道具としての論理だけである。「改憲」にせよ「護憲」にせよ原理が理解される必要はない。だからネトウヨの理論は常に破綻しており、パヨクの平和主義は「何が戦争なのか」ということを言えないのである。言えないというより、どちらも興味がないと言えるだろう。

これが顕著に現れるのが学校なのではないだろうか。学校は勉強をする場所ではなく、スクールカーストを通じた闘争を学ぶ場である。この下の方に位置付けられた人たちの視点から見たのが「いじめ」なのだが、それ以外の人たちはこれをいじめだとは考えておらず「いじり」であるとみなす。さらに、いじめは表立った権力闘争ではなく冗談めかして行われる。このため、日本には権力闘争を巡る言葉はなく、カーストやマウンティングという外来概念を使って初めて意識されている。

日本のお笑いはすべて「いじり」であり、その本質はいじめられた経験のある人なら「いじめだ」と感じるようなものばかりである。漫才の二人組は、いくつかの例外を除いては「いじる側といじめられる側」だ。相撲の世界ではいじめは教育の一環だと意識される。が、教育としてのいじめがなくなると、今度は「管理される側」の跳ね上がりがある。いわゆる下級校が荒れる時、先生たちは「暴力や権威化なしにこの生徒たちを管理するのは無理だ」と感じるのではないだろうか。

日本の学校からいじめをなくすのは簡単である。閉鎖された集団であるクラスをなくして、教科によって教室を移動するようにすれば良い。クラブ活動を学校でやる必要はなく、放課後にクラブチームに参加すればよい。だが、このように提案しても日本人はこのような形態を教育とは認めないだろう。教育の本質は閉鎖された空間で競争することを学ぶことであって、その学ぶ内容や体得するスキルなどはどうでもよいのである。

いったんこれを認めてしまうと、企業が体育会系の人材を好む理由がわかる。企業は’特に顕著なスポーツの成績を重要視しているわけではなく、スクールや体育会でのカースト競争に順応した人が欲しいのである。彼らは仲間を牽制し部下たちに忍従を強いることによって「企業が一つになり強くなる」と考えるのだ。

ゆえに、今の形の教育を温存した上でいじめをなくすためには「いじめる側にならなければ、いじめられるぞ」という教育を徹底すべきだということになる。

いっけん狂っているように見える考察が続くが、同時に多くの問題を外来概念に頼らずにすらすらと解くことができる。日本の問題の多くはこの村落性によって説明できるのだ。

不倫についてはすでに述べたが、例えば日本のワイドショーが日馬富士の暴行問題ばかりを取り上げるのも日本人にとっては村の内部の権力闘争だけが物事の本質だからである。相撲村の中で認知されたいモンゴル人、興行としての利権を温存したい八角理事長、日本人だけの純化した相撲を取り戻したい青年将校としての貴乃花親方という図式が面白くて仕方がないのではないか。

相撲報道は「原理原則」を巡る統治の問題としては意識されない。お互いの言い分や文章を事細かく比較して「どちらが正しい」とか「誰が間違っている」などということを延々とやっている。相撲村は閉鎖されていて逃げ場がないが、同時に何が正義であるという絶対的な価値観もなければ、中心となって村を収める権威もないという流動的な空間である。これが日本人にとっては自然な状態であり、この内部のやりとりこそが面白いのである。

と同時にこうした村落的な状態が多く露出することが「日本の衰退」を印象付けているのかもしれないと思う。

例えば安倍首相は、世界で通用するような合理的な説明をやめ、身内でしか理解できない理屈でその場限りの政治を行うようになった。つまり、西洋的な政治を捨てて日本型の村落内部の権力争いに戻ってしまった。しかしながら野党も特に問題解決する様子は見られず、単に自分たちの立場を補強するための理屈を並べ立てばかりいる。現在の政治は、原子力村とか教育村とか公共事業村といった利権村のかばい合いと、野党村の争いであると言える。

日本人は戦後70年以上、西洋のように個人主義を理解すれば世界村に認めてもらえると思って努力してきたのかもしれない。多分、これが見込み違いだったということをうすうす感じているのではないだろうか。

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いい加減な国防議論のツケ

先日、ある国防に関する記事を読んだ。これを読んで「いい加減な議論のツケの代償は大きいな」と思った。どう判断していいかさっぱりわからないからである。安倍政権などは「好き勝手できていいや」と思っているかもしれないが、失敗したら、例え国民の理解不足に起因する失敗だったとしても結果責任を厳しく問われることになるだろう。

記事は、相手の領土に到達する武器を持ったとしても専守防衛を逸脱するとは言えないと主張している。途中まで我慢して読んだのだがよくわからなかった。島嶼防衛でもいったん占領されたら遠くから狙わなければならないから必要だという。しかし、これだけでは同じ武器で敵国の本土も狙えるのだから議論としては全く何も言っていないに等しい。例えて言えば「うちのなかで必要になる日がくるかもしれないから、外でも人が殺せる武器をもたせて欲しい」と言っているようなものである。

武器導入の妥当性を判断するためのはその前提条件が妥当かどうかということを見極めなければならないのだがそれは難しい。「できる」という人がいたら、その人は確実に嘘をついていると思う。

そもそもの国防議論が幾重にも積み重ねられたミルフィーユ状の欺瞞の上に成り立っているからである。日本は軍事的オプションを放棄したことになっているが、日本にある米軍基地を防衛する必要から自衛隊が創設された。しかし、それでは理解が得られないので、表向きは国防の権利までは放棄したわけではないから自衛隊があるということになっている。そもそも自衛隊は米軍を守るためにあるわけだから全くの違憲でもともと集団的自衛を前提としている。だからこれ以降の憲法議論は全て欺瞞か嘘である。しかし、それでも通っているのは、軍事が法学者の神学論争によって成り立っているわけではなく、軍事的なバランスによって成り立っているからである。

沖縄の場合は、米軍が直接統治に失敗したために日本に統治を丸投げした。しかし、日本は形式的には主権国家なので、地位協定を憲法の上にかぶせて軍事的植民地を確保した形になっている。米軍は今でも沖縄を演習地のように考えているので、ヘリコプターから窓枠が落ちても何の調査もしないで「兵士が失敗しただけだから問題はない」などと言っている。沖縄がおかしなことになっているのは、日本には軍事的に沖縄を切り離して特区として統治する枠組みがないからだ。このため沖縄に許した米軍の治外法権が法律的には本土にも及びかねない状態になっておりこれを調整で乗り切っている。沖縄の県知事は主権のない軍事植民地のチーフのような存在なので、アメリカに抗議に行っても相手にしてもらえるはずはないし、日本政府は軍事基地の管理を任されているランドオーナーに過ぎないので交渉力はない。もし沖縄の人たちが本気で現状をなんとかしたいなら、実質的に米領であることを認めて国際社会に訴えるしかない。植民地は現在の国連憲章上は認められておらず、やがて独立させなければならないことになっているからである。米国がこれを持ち続けることはできるが、すると他の国にも同じことを認めなければならない。しかし、沖縄の人に「あたなたちは軍事植民地に住んでいるんですよ」などと言えば屈辱されたと感じるのではないだろうか。

実運用上は憲法より上に米軍との取り決めがある。ただし、このような軍事植民地は国連の取り決めでは作ることができないし、アメリカは民主主義国家の守護者ということになっているので、表立っては憲法の方が最高法規だということになっている。

このように日米関係は極めて複雑で「アート」になっているので、法律では扱うことができない。そこで日本は砂川事件をきっかけに「裁判所はあずかり知らぬこと」として司法が逃げてしまった。この時から日本は軍事・防衛に関する限りは完全な法治国家ではなく「運用でカバー」する国になった。安倍政権以前の政権が防衛政策を変更できなかったのは、いったんこれを動かそうとするとその不自然さが国民に知られてしまうからなのだが、幸いなことに安倍首相はこれが理解できなかったため、その怖さがわからなかった。

現在ではさらに複雑なことになっている。予算の関係から米軍が一国で覇権の維持ができなくなっているので、今度は米軍を肩代わりする必要が出てきた。主目的は米国の覇権の維持だが、表向きは日本の防衛ということになっている。素直に「集団的自衛が必要だ」と言えばいいのだが、それも言えないので個別的自衛が拡張すると集団的自衛になるのだというわけのわからない議論で押し通した。そして日本の領域は大切な石油を輸入する中東の海を含むなどと言っている。さらに、昔から憲法は集団的自衛の一部は容認されていたと言い出した。しかしながら、過去に憲法を変えないと国際的需要(実際には米国の要望だ)に応えられないといっていたこととつじつまが合わなくなるので、自衛隊を憲法に書き込むと付け加えている。

いろいろ書いてきたがこれをいちいち理解する必要はない。一言で言えば「めちゃくちゃ」だからである。

ところが問題はこれだけではない。状況がめちゃくちゃであることがわかっているのに、それに噛み付いて見せて目立とうとする人たちがいるのである。

「ガイドラインを曲解している」ということなのだが、そもそも憲法すら曲解しているわけだから、ガイドラインを曲解していることは驚くに当たらない。さらに実質的には憲法の上に軍事的枠組みがあるので(その意味では共産党が憲法と国会を管理する中華人民共和国と変わらない)国会議員が何かをいっても全く無駄なことである。多分、小西さんはそこまでわかって騒いで見せているのだろう。

もともとこの人は目立つためなら大げさなことを言って耳目を惹きつけるのを厭わない人である。今は「民進党と立憲民主党が合同会派を作るなら刺し違えてでも止める」などと歌舞伎のようなことを言っている。国会でプロレスラー顔負けの乱闘をやって見せたところからわかるように、政治はファンを満足させるための歌舞伎だと思っているのだろう。だが、刺し違えるつもりなんかない。


もともと嘘と欺瞞という砂の上に築き上げられたお城なので、もはや国防議論が有効なものなのか、それとも無駄なのかということがわからない。だから、国民は現在の世界情勢に合わせて国防議論を組み替える議論には参加できないし、参加するつもりもない。だから、実質的には何も変えられない。

いろいろな報道を読むと、どうやら日本はアメリカの国土防衛のためにミサイルシステムなどを「買わされて」いるようだ。だが、それが有効なものなのか(例えばグァムを防衛できるのか)もわからない。なぜならば表向きは日本を防衛するために設置されることになっているからである。いずれにせよ、何もなければこのままなんとなく許容されるだろうし、防げなければ大問題になる。

もう一つの懸念は政権の意欲の低下である。日本の政権はそもそも米国の軍事的主権に隷属しているので国土を守ろうという意欲はない。このため、北朝鮮から船が押し寄せても予算を増やして領域を警護するような地道な対応はしていないようだ、大和堆のような日本の領域であっても「北朝鮮の船が怖くて漁ができない」状態だというが、これを印象論で乗り越えようとしている。それは「北朝鮮が悪いことをしているから止めなければならない」というのである。

政府は日米同盟を維持するために、アメリカ政府の機嫌をとることには極めて熱心だが、国土防衛などはどうでもよいと思っているのは明白である。トランプ大統領が「日本はアメリカから武器を買っていればよく、それでアメリカの雇用が守られる」と言い捨てて帰ったことがいまになってじわじわと人々を不安にしている。単にお金儲けのために利用されているのではないかと考えて始めているのだ。日本人はそれでも日米同盟にしがみつくだろうが、それが破られるのは実効性がないことがわかった時だろう。

この数年、極めて杜撰で「歌舞伎的」な「プロレス的」な議論が行われている。歌舞伎もプロレスもショーなのでそれでも構わないのだが、実際には国の予算が無駄に使われていて、さらに実際上の脅威は増している。

北朝鮮が核兵器を開発した今となってはもう取り返しがつかない。Twitter上で不毛な「国防議論」を見るたびに言いようのない無力感を感じるが、この感覚はどれくらい共有されているのだろうか。

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共立てのケーキと別立てのケーキはどちらが作りやすくかつおいしいのか

共立てのケーキと別立てのケーキはどちらがおいしいのかが議論になる。初心者向きには別立ての方がよいとか、パティシエは共立てが多いなどの情報が錯綜しており定説がない。

結論からいうと「共立てができるなら共立てにした方が良い」と思う。共立だとコツさえ覚えれば簡単に泡だつ。ハンドミキサーも不要で意外と簡単なのだ。

今回は卵一個を使ってケーキを焼いた。最初はスポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚えるの指示通りに焼こうと思っていた。

「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」は共立てである。まず卵液を温めた上でハンドミキサーでかき混ぜてシロップを混ぜる。さらに小麦粉を入れて独特のやり方でよく混ぜるのある。実は卵液を温めるというのがポイントだ。鍋でお湯を沸かせて沸騰させてその上で卵をかき混ぜればよい。このやり方だとハンドミキサーを使わなくても十分に泡立てることができる。

あとは本に書いてある通りに「小麦粉を入れてからツヤが出るまで混ぜる」のを実践した。こねないで「の」の字になるように混ぜる。実はここでしっかり混ぜないと焼き上がりが硬くなり気泡が出る。バターは入れても構わないが入れなくても膨らむ。

手順さえ守ればきちんと膨らむ。要するに卵をよく温めて混ぜればよいのである。

後日同じ分量で別立てを作ってみた。卵黄だけでは水分が足りない。そこで卵白を入れるのだがこの泡は犠牲になってしまう。ということで共立ての1/2くらいしか膨らまなかった。過去の経験からべちゃっとしたケーキになるのかなと思ったのだが、口当たりはふんわりしていて口どけも悪くない。もし膨らませたいなら卵黄を入れた側に牛乳などの水分を足さなければならないのではないかと思う。

卵白だけの場合には砂糖さえ入れれば簡単にメレンゲのできぐあいがわかるので(力強く混ぜてボウルをひっくり返しても垂れてこないようにすれば終わりである)別立ての方が分かりやすいのだと思う。

卵液をきちんと混ぜることさえできれば、コーンスターチを入れたり、ベーキングパウダーなどを加える必要はない。別のウェブサイトにはレモンを入れろと書いてあった。この方が泡立ち易いのだそうだ。しっとりさせるためにはシロップを入れた方が良いようだが、これもふわふわなケーキを作る要件ではない。

スポンジケーキは単純な材料だけでできているのだが意外と奥が深い。いったんできてしまえば単純で簡単な作業の連続なのだが、そこに行き着くまでが意外と難しいようだ。

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ケーキとイノベーション

最近、ケーキを焼いている。理由は二つある。そもそも「ホールケーキを食べる」というのが贅沢だという印象がある。これが100円均一の安いシリコンの型でできてしまう。もう一つは、そもそもいろいろな材料を混ぜるのが楽しいのだ。

難しく思えるケーキ作りだが、実際にはそれほど難しくはなく、かつ奥が深い。一回の所要時間は、だいたい30分から1時間くらいで、材料は卵と小麦粉などである。100円ショップで売っているシリコン型を使えば洗い物の手間もないし、バターを塗る手間もない。

最初は全く膨らまなかったのだが、原因はメレンゲである。だが、或る日突然できるようになり、ケーキが膨らまないということはなくなった。ではそこで終わるかというと成分や割合を変えることで出来上がりに差が出る。これが面白い。だんだん、何がどういう役割を果たしているのかがわかってくるからである。

例えばバターはコクを生み出している。これをサラダ油に変えるとコクがないケーキができるのだが、コクがないからといって失敗というわけではない。メレンゲ(メレンゲは卵の白身を泡立てたものである)の立て方がうまく行かないとケーキが膨らまないのだが、ベーキングパウダーを入れるとこれを補うことができる。しかしベーキングパウダーをたくさん入れすぎると今度は雑味が出る。小麦粉のふるい方が足らないと当然ぼそぼそとした感じになる。小麦粉をたくさん入れると卵の水分だけでは足りなくなるのだが、これは牛乳などで補うこともできる。砂糖を減らすとカロリーを抑えられるが粉砂糖を周りにかけたりすると全く甘くないように感じてしまう。

もちろん、市販のレシピ通りにやるとうまく行くのだろうが、当然市販のレシピ通りにしかならない。失敗してみることで(もちろんわざと失敗しているわけではないのだが……)何がどの役に立っているのかということがわかる。すると、例えば卵の数を少なくしてみようとかとか、砂糖を加減してみようということができるようになる。本来は卵1個で砂糖と小麦粉が30gづつというのが標準的なレシピなのだが、これを牛乳に変えると卵を節約できたりするのである。

ケーキは材料が少ないので、これが簡単にわかるようになる。できればケーキだけ作っていたいと思うのだが、そういうわけには行かない。本当は条件を変えていろいろとやってみたいと思う。ここでしみじみ思うのは、研究というのは本来こういうもので「何かの役に立ちたい」というようなものではないということだ。単に、体系としての知識がたまってゆき、いろいろできるようになる過程が面白いのである。

プロには失敗と思えるものが大ヒットにつながることもある。軽くてクセのないシフォンケーキはバターをサラダオイルに変えて作られているが、そのレシピは当初秘密だった。実際にはコクがなく美味しくないはずのケーキをみんな好んで食べていたわけである。これを作ったのはプロの料理人ではなく保険の営業の人だった。

ここからわかるのは「シロウト」の方が試行錯誤には向いているかもしれないということである。ケーキ作りにおいて、女子は「手っ取り早く女子力を見せたい」とか「インスタ映えしたい」と考えるので、ケーキ作り研究には向いていないだろう。彼女たちにはプレッシャーがあり、混ぜ方を変えて失敗してみようなどとは思わないからである。同じように男子力が試されるような作業では全く反対のことが言えるだろう。ノコギリで木を切るときに「曲がったから味があってカワイイ」などとは思わないわけである。

最近、学術研究者の環境が悪くなっている。終身のポジションが減っており、さらに事務処理の負担も増えているという。「没頭していたい」という欲求を持った人たちが、心配事を抱えたり、雑事に振り回されるのは本当にかわいそうだなと思う。知識がない方が試行錯誤に向いているのだから、若い研究者ほど没頭できる環境にいた方がよいのに、実際にはポジションを維持して生活に十分なお金を得るだけで疲弊してしまう。

もちろん「没頭する人」だけがいてもイノベーションが盛んになるわけではない。日本に足りなかったのはこうした「没頭したい人たち」が蓄えた知識を体系化したりマネタイズしたりするプロデュース機能の不足なのではないかと思う。

つまり、研究には「没頭する人」とか「何の役に立つのかを考える人」とか「知識をたくさん持っている人」などの役割分担が必要だということになる。国力が衰退するというのは、こうしたイノベーションのインフラが維持できなくなるということを意味するのだろう。こうしたチームの重要性は自ら証明してみせる必要はなくイノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材などを読めばいやというほど痛感できる。

現在の日本では、何が研究成果を作り出すのかがわからなくなっている。そこで、NHKがニュースで「今年はノーベル賞が取れなかったのは留学が少ないそうだ」などとわけのわからない慌て方をしている。かつて製造業大国であった頃の面影はもはやどこにもない。

NHKのニュースによると中国は国費を出したりして研究者を積極的にアメリカに送り出しているそうだが、日本では日本のキャリアから外れる覚悟をしないとアメリカには行けず、アメリカに行くと本当に日本には戻れないということが多いのだそうである。

「女子はケーキ作りの研究には向いていない」と買いたのだが、実際には卵一個でケーキを作ろうという本は出ている。基本を覚えるといろいろとできるのでケーキ作りの幅が広がりますよというのである。こういう本が出ているということは「基本からみっちりと勉強したい」という人がいるのだろう。面白いと思う人は面白いだろうし、何これ?という人には全く響かないかもしれない。レシピそのものはクックパッドと楽天で嫌になる程たくさん見ることができる。

なお、このTwitterでつぶやいたところ「大学生の夜食みたいだ」というご指摘をいただいた。他人にはあまり言わない方がいいみたいだが、今度は混ぜ方について研究してみたい。混ぜ方によって出来上がりに違いができるとのことである。

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「安倍後」最悪のシナリオ

さて、これまで「Gゼロ後の世界」を読みながら、あれこれと考えてきた。予測していたことではあるがページビューがあまり見込めない。定期的に読んでくださっている人はよいのだが、ソーシャルメディアからの流入が少なくなるからだ。ソーシャルメディアは人格攻撃への反応が強い。つまり、現在の日本はかなり不機嫌な社会になっているということがよくわかる。

このことは多分、私たちの社会が自律的で自発的な問題解決能力を失いつつあることを示しているように思える。不調はすべて人のせいであり自分たちは悪くないという社会である。今回の話はいささか込み入っているので先に結論を書いてしまうと、我々は巨大な敵がいなくなったことで、味方同士の「万人の万人に対する闘争」状態に入ってしまったのかもしれない。そこに現れる敵はおそらくなんらかの幻影だろう。

Gゼロ世界を読んで印象的だったのは、ソ連が崩壊したあと却って「安心・安全」のインフラを提供する国がなくなってしまったという点だ。もちろんイアン・ブレマーはそのようなこと言っていないのだが、民主主義が成立するためにはなんらかの統合原理が必要で、それは巨大な敵の存在以外にはないのかもしれない。

第二次世界大戦後の世界は西側から見れば「ソ連と悪辣な共産主義さえなくなれば平和が訪れる」というのぞみによって支えられていた社会だった。しかしそれは同時にある種のまとまりをつくっていたのだとも言える。西側世界がバラバラになって喜ぶのはソ連などの東側世界だからだ。

「日本の民主主義は崩れかかっている」と言えそうなのだが、アメリカでも同じような動きが出ている。トップリーダーを選ぶ仕組みが完全に崩壊してしまったようだ。日経新聞に面白い文章が出ている。「ロシアゲート 厄介なシナリオ」というエコノミストの転載記事である。この記事によると、トランプ政権はトランプ大統領がその場その場での演説の受けしか考えていないというようなことが延々と書いてある。こうしたその場しのぎの対応はどこかで行き詰まりそうなものだが、実際にはそうならない。議会が機能不全を起こしているからである。

議会は大統領を弾劾できるものの、トランプ氏を追い落とすには分断されすぎているようにみえる。アラバマ州連邦上院補選で10代の少女数人へのわいせつ疑惑が出ている候補を応援している共和党は、トランプ氏に背を向けるには道義的に堕落しすぎ、党の未来に不安を抱きすぎているように見える。

つまり、議会が腐敗していて問題解決能力を失っているので、結果としてトランプ大統領が放任されてしまうと言っているのだ。同じような動きはヒトラー誕生前夜のドイツにも見られた。

トランプ大統領がどの程度危険なのかはわからない。ヒトラーとの明確な違いは「アメリカをどこかに導きたい」という明確なビジョンが見えないことである。このままだとアメリカはなにの理由もなく、その場しのぎの対応を繰り返した挙句、今よりももっと大きな対価を支払う社会になるかもしれない。

アメリカ人はうすうす格差が問題の根源にあることに気がつきつつある。しかしながら、それを認められないので「イスラム教徒さえ排斥してしまえばなんとかなる」と考えようとしている。仮にイスラム教徒が排斥できたとして、次に暴動を起こすのは取り残された白人かもしれない。実際に銃を使った白人の犯罪もなくならないが、これは「テロ」とは呼ばず厳格に区別している。

日本の議会でも実は同じことが起きているのかもしれない。だが、アメリカ人が「アメリカの議会が機能不全に陥っている」とは思わないように日本の議会も機能不全に陥っているようには思えない。

日本の議会が機能不全に陥っているのは、背景に恐怖心があるからだ。日本の議員たちは口では経済はうまくいっているなどと言っているが、実際には実社会は地獄だと考えているのだろう。議員の身分がなくなってしまえば、地獄で暮らさなければならない。特に自民党の議員たちは、議員の身分を持っている間は放言を繰り返すが、政権から脱落して失職してしまうことだけは絶対に避けなければならないと考える。

自民党は政権交代を許したトラウマから脱却できていないのだろう。たまたま安倍政権がうまくいってしまったために「これを変えてしまえばまた前のようなことが起こるのではないか」と考えても不思議ではない。安倍政権にしがみついていて官邸に逆らうようなことはできない。野党に至ってはもうなにを言っても国民の支持が得られない。かといって政策立案能力があるわけでもないので、与党攻撃を繰り返し国民から飽きられてゆくというサイクルに入っている。こちらも巨大な敵を作り上げてその幻影にしがみついている。野党が本来戦うべきなのは国民の諦めからくる無関心と与党政治家の間に広がる無力感だ。

議会が正常に機能しなくなると、政府が文書を隠したり、特区を作って法規制をゆがめたりと政府はやりたい放題になる。私たちがこの数年で見てきたのは、実は安倍政権の腐敗ではなく実質的な議会の崩壊なのかもしれない。

つまり、安倍政権が崩壊してしまった後には、バラバラな議会だけが取り残されるということになるのかもしれない。こうしたバラバラな議会をまとめるためには中国や北朝鮮のような巨大な敵が必要だ。麻生太郎副総理の「北朝鮮のおかげ」発言は失言ではないかもしれない。しかし、このような巨大な敵を作ってしまうと協力が難しくなる。

安倍政権が崩壊した後のシナリオは、議会がまとまらなくなり何も決められない政治に逆戻りするか、あるいは巨大な敵をでっち上げてそこに向かっての攻撃をしかける政治に落ちてゆくのかどちらなのかもしれない。

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Gゼロ世界で日本はどう行動すべきか

さて、前回までの二回でGゼロ世界について考えた。Gゼロ世界は、平和維持のためのインフラを世界レベルで提供する覇権国がないという世界のことである。こうした世界では旧来のスキームにしがみつくことが最も危険で、複数の国と協力体制を取りながらいろいろな方向に動けるようにしておくことが重要である。

日本は軍事的に対米追従を強めており、これは極めて危険である。危険という言い方が悪ければ「あまりコスト的に賢い判断ではない」と言い換えても良い。アメリカには世界レベルの治安維持の意欲も実行力もない。だが、第二次世界大戦後に国力の違いをまざまざと見せつけられた日本人にはその自覚がない。そこで世界情勢が悪化すればするほど、アメリカへの追従を強めてしまうのである。反対に中国のイメージも第二次世界大戦後とあまり変わっておらず、従って中国に対しては必要以上に強気に出る人が多い。

こうした日本人の態度は、もちろん安倍首相の卑屈なまでの対米追従を見ていればよくわかる。しかし、それはなにも安倍首相に限った話ではない。例えばNHKの語学テキストの売り上げランキングを見てみると、英語に関してはさまざまな種類のテキストが出ている。これは英語さえ話せればなんとかなるという願望めいた見込みがあるからだろう。しかし英語といってもイギリスに興味があるわけではなく、あくまでもアメリカ人と友達になりたいのである。一方で中国語を学ぼうという人はそれほど多くない。非英語で最も売れているテキストはおそらく韓国語だが、これはドラマや歌手に影響を受けているものと思われる。中国人は一生懸命日本語を勉強してコンビニで最低賃金で働くべきだというような頭担っているのではないかと思われる。日本人がわざわざ中国語を勉強するなどということを真剣に考える人はそれほど多くないのではないだろうか。

北朝鮮制裁を見ていると、国際的な協調はほとんどうまく行っていないことがわかる。北朝鮮は核兵器を開発する可能性が高いだろう。しかしアメリカのメッセージはそれほど役には立たない。イランの核開発凍結合意にしろ、エルサレムへの大使館移転にせよ、トランプ大統領はなんら実効的な手段を講じておらず、単にスピーチの時に支持者の拍手を得る材料として利用しているにすぎない。トランプ大統領の北朝鮮に対する挑発は北朝鮮が核兵器を開発するための口実にはなっても、実際の抑止力としては働かない可能性が高い。こうした矛盾が累積するとアメリカ国内の世論が持たない。そこで出てくる最終手段が「戦争」というわけだ。

世界情勢が不安定になればなるほど、日本人は「強いものについて行きたい」というしがみつき行動に陥るのではないかと思える。つまり、対米追従策を支持する政権が選択されることになるだろう。これが「いいオプションなのか」「悪いオプションなのか」はわからないのだが、一番金がかかるオプションであることは間違いがなさそうだ。アメリカから割高な防衛装備品を購入させられた上に、オペレーション上の自由度がない。さらに、実際に北朝鮮から流れ着いてくる漁民に対しての警備にかける金はないようで、すべて地方に丸投げになっている。つまり、実際の脅威への対応はおざなりになり、アメリカの機嫌を取るために武器を買うのに使われてしまうのである。

有権者が冷静ならば野党を支援して自民党にプレッシャーをかけようという気分になるのだろうが、有権者は静かなパニックに陥っている。そこでもっと自民党を支援して昔のような平安を取り戻したいと考える。

では、なにがもっとの賢い選択肢になるのだろうか。第一の選択肢は自前の防衛と国際的なプレゼンスの維持である。アメリカに追従するのをやめて、国連などを中心とした平和維持活動に積極的に参加するなどのオプションが考えられる。しかし、日本には「専守防衛」をいう人はいても、国際的な貢献を語る人はいない。

この専守防衛は多分二番目にお金のかかるオプションである。つまり、平和維持のための支出をすべて日本だけで賄う必要があるからだ。日本人に「日本は小さな国か」と聞くと七割がた以上の人は「そうだ」と答えるだろう。しかし、実際には日本の海洋面積は世界第6位なのだそうだ。つまり、外国からの海からの進出に対する防衛にはとてもお金がかかる国であるということだ。これを1カ国で守るのはとても難しい。だから普段から様々な貢献が必要で、それはアメリカとは無関係に行う必要がある。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と言っていたのだが、実際には戦後レジームそのものが崩壊の危機にあることがわかる。そんな中で「自衛隊を正規軍化」するというのはもはや避けられない。一方で、日本の政治は第二次世界大戦のトラウマを抱えたままで、東西冷戦の印象を引きずっているので、未だに「西側世界につく」か「戦争をしない国になるのか」というもはやなにの意味もない議論が延々と繰り広げられている。

あえて言うと、隣の国が核兵器を開発して日本海に向けて配備しようとしているのに「第二次世界大戦が正しかったか間違っていたか」などというのはもうどうでも良い議論なのである。どうでもいい議論というのは言い過ぎかもしれないが、だったら「余裕のある人たちが神学論争的にやっていてくれればいい」ということになる。

第二次世界大戦では言論の自由がなく「大本営発表」があったために国民は「自分たちは騙された」と思わずに済んだのだろう。ところが今回は言論の自由も報道の自由も認められている。にもかかわらず産経新聞と読売新聞は、なにの軍事的・予算的な裏打ちもなく「北朝鮮を追い詰めろ」というようなキャンペーンをやっている。もし仮に何か問題が起こったときに彼らはどういう言い訳を考えるのだろうかと思うのだが、おそらく何も責任をとらないか「想定外だった」というのだろう。

もちろん対米追従からの脱却はそれほど簡単ではない。ヨーロッパはアメリカの軍事力に過度に依存する形になっている。NATOの中ではアメリカが突出して軍事力支出が高いのだそうだ。しかしそれでもEUが機能しているので、NATOを補完する形で独自の軍事力を増強して行こう(日経新聞)という動きが見られる。

一方で日本にはアジアの経済同盟すらなく、さらに国民もなんとなく「日米同盟があれば良いのではないか」と考えているのではないだろうか。日本人はバカで、何か重大なことが起こらなければ目が覚めないなどとは思いたくないが、現実にはその可能性が極めて高い。

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Gゼロ世界とは

先日の疑問を抱えたままで「Gゼロ」後の世界―主導国なき時代の勝者はだれかを読んだ。疑問点はだいたいこんな感じだ。

  • 日本はこのままアメリカについていって良いのか。もしよいとすればそれは何なのか。
  • 北朝鮮はなぜ核兵器開発に成功しつつあるのか。
  • アメリカがイランにこだわるのはなぜか。

イアン・ブレマーの「Gゼロ」とは覇権国家がない世界のことである。覇権国家は軍事的に他国を制圧する国ではなく「平和」のインフラを提供する国のことだ。平和を提供するためには軍事力が必要なのだが、軍事力を支えるためには経済力がなければならない。

冷戦構造が崩壊した当時にはアメリカ一強の世界ができると思われた。しかし実際には、アメリカは覇権国家から転落しつつある。財政的にインフラが支えられないのである。アメリカ人は国内の安全保障や福祉などを優先するか、外国のために軍隊を維持するかの選択を迫られている。

中国が取って代わるのではないかという期待や不安もあるのだがそれもすぐには実現しそうにない。中国は経済大国になったが人口が多すぎるので一人あたりのGDPはまだ低いままである。

覇権国家は軍事的に世界を制圧するだけではなく「平和を維持するためのインフラ」を提供しなければならない。アメリカ一国でこうしたインフラを提供することはできなくなっており、国民も覇権国としての役割を担うことに否定的である。かといって同盟国もこれに取って代わる意欲はない。地域の安定は重要だが、それが世界レベルとなると二の足を踏んでしまう。

これにとって代わるかもしれないと期待されたのがG20である。だが、G20は今の所機能していないというのがイアン・ブレマーの見立てである。G7時代には先進国が集まって世界的な問題に対処していた。この7カ国は民主主義や交易の促進という基本的な価値観を共有しており、問題解決に注力することができた。しかしG20の時代に入るとこうした基本的なコンセンサスがないので、つまでたっても話がまとまらない。いずれの国もどうしたら自分たちの国益が追求できるかということだけを考えており、世界をまとめようという気持ちにはならないようである。

世界がこのような混沌とした時代をそのまま受け入れるとは考えにくいので、いくつかのシナリオに従って新しい秩序が作られるだろうとイアン・ブレマーは考えている。それは次の通りであるが、可能性の順列組み合わせであり、どれが起こるかはわからない。

  • アメリカと中国の二強体制が作られる。G2が実質的に全てを決めることになる。
  • アメリカと中国が新しい冷戦構造を作る。
  • G20のような協調体制が機能するようになる。
  • 地域ごとに分裂した体制が作られる。

しかしながら、そのうちどれがメインのシナリオになるかはわからず、さらには主権国家体制が崩壊するような「Gマイナス社会」が作られる可能性すらある。

Gゼロという概念が提唱されたのは2011年で、この本はその続編にあたる。2012年にはオバマ政権ができていたが、日本では民主党政権の最末期にあたる。イアン・ブレマーは日本の政治は長期的な機能不全に陥っていると書いているのだが、小泉政権以降、安倍・福田・麻生・鳩山・菅・野田と首相が1年ごとに変わっていた時代である。従ってこの本には安倍政権の評価は出てこない。

オバマ政権はそれでも世界の警察官の役割を意識していたが、トランプ政権は本格的にそこから降りてしまった。ビジネスによる圧力と戦争とを区別しておらず、実際に不用意な発言から中東では抗議運動が起きて死者も出ている。大統領の地元でも自爆テロ騒ぎが起きており死者こそ出なかったもののけが人が出ている。「実行力はなくポーズだけだった」という見立てが有力なのだが、それでも大騒ぎになる。アメリカが世界平和の調停役になれる時代は終わったのである。一方、日本では長期政権が作られ「決められない政治」からの脱却は進んでいる。少なくともアメリカからみれば久々の「決められる(決めてくれる)」政権の誕生である。しかし、国民は内向きで地域の覇権国になることにすら抵抗がある人たちが多い。専守防衛だけを行うように憲法を厳格化するべきだという主張さえ出てきている。

この中にはイランと北朝鮮の話が出てくる。

イランの核兵器開発に抵抗しているのは中東唯一の核保有国であるイスラエルの(イスラエルは核保有を公表していない)ようである。スタックスネットというコンピュータウィルスの話が出てくる。アメリカとイスラエルはコンピュータウィルスを使ってイランの核兵器開発を阻止しようとしたが、流出して大騒ぎになったのである。アメリカとイスラエルは特に親密な関係にあり、ほかの同盟国とは違った関係にある。アメリカ国内には多くのユダヤ人がおり選挙結果に大きな影響があるからだ。つまり、アメリカがイランにかかりきりになれば北朝鮮のような東洋の辺境の国は「どうでもよくなる」可能性が高い。

こうした混沌とした世界で生き残るためには、特定の構造に依存せず、かといって孤立もしないという戦略を取るのが好ましいとイアンブレマーは考えている。

イランの場合にはアメリカとの関係は悪くなっているが、新興国の中にはイランの天然資源に期待している国がある。このため国際的な封じ込めはうまく機能しなかった。一方で、北朝鮮も影で協力している国があるようで、中国の影響力も限定的になってきている。つまり、覇権国がなくなった結果として、意欲のある国が覇権国に挑戦しやすくなっている。核保有五大国の既得権はなくなっていると考えたほうがよい。

イランや北朝鮮ほどではないにしても、ある特定の大国の支配から逃れて多極的な協力体制を作れる「ピボット国家」が成功を収める可能性が高いとイアン・ブレマーは考えている。その裏返しとして、世界的な圧力や一国との関係にしがみつく国は「負け組」になるだろうという。負け組の代表例として出てくるのが、日本とイスラエルである。アメリカの影響力が強すぎるのである。特に日本は中国の脅威をほのめかしつつアメリカとの関係を強調することで国内の指示を得るという政治手法がすっかり定着しきっている。

このGゼロの概念が出てきてからしばらく経った。

今の所、日本人がアメリカとの同盟関係に疑問を持つというようなことは起こっていない。それどころかアメリカへのしがみつき行動すら見られる。もちろんアメリカと断行する必要はないのだが、少なくともイアン・ブレマーの見立てによると多層的な国際協調体制を作ったほうが、Gゼロ世界では成功しやすいはずである。

なお、イアン・ブレマーはTwitterもやっている。時々世界情勢を60秒で語るというイベントをやったり、今週の荒らしを表彰したりとなかなか面白いアカウントになっている。

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戦争の季節がやってくるのか

今回は何回かのシリーズにわけて「戦争のシーズンがやってくるのか」について書きたいと思う。このこういったシリーズものの難点はあとで読み返したときに面倒になって全部読まないという点にあるのだが、それでもこういう構成にしようと思ったのには理由がある。

NewsWeekの記事を読んだ後に「Gゼロ」後の世界―主導国なき時代の勝者はだれかを読んだ。漠然とした情報を入れた後でフレームワークを導入するといろいろ見えてくるところがあって面白いのだが、問題意識なしに読むと「さらっと」読み飛ばしてしまうなと思ったのである。

ティラーソン国務長官が解任されるかもしれないというNewsWeekの記事を読んだ。次に来る人は軍人出身ではないかといわれているそうだ。このニュースを聞くとやっぱりトランプ大統領は戦争をやりたがっているのかなと思う。すると北朝鮮を封じ込めようとした安倍首相は正しかったのではないだろうかとも思えてしまうのである。

しかし記事を読みすすめてゆくと「あれ」と思うことがある。アメリカ人の関心はむしろイランの核問題にありそうだというのである。イランの核合意にも国際的な枠組みがあるのだがあまりうまく行っていないようだ。だからといって政府を転覆するというのはいささかやりすぎではないかと思える。天然資源が豊富とはいえアメリカにはシェールオイルがあるのだから、そこまでしてイランにこだわるのは不自然だ。

いずれにせよ、イランや北朝鮮のようなルール破りが起こりそれが成功するのはどうしてなのだろうか。冷戦期であれば特に北朝鮮には勝機はなかっただろう。多分、ソ連か中国に睨まれて終わりになったのではないだろうか。多分何かが変わったために北朝鮮にもチャンスが出てきたのだと思うのだが、そのチャンスとは何なのだろうか。北朝鮮は勝者になるのだろうか。

日本にとって重要なのは、アメリカの北朝鮮封じ込めプランに同調する国がなさそうだということである。ヨーロッパはトランプ大統領が「エルサレムはイスラエルの首都である」と宣言したことについてかなり本気で怒っているようだ。ヨーロッパがアメリカに同調していたのはアメリカが西側世界のリーダーだったからなのだが、アメリカは自らこの役割を降りてしまった。すると、北朝鮮問題についてアメリカに同調する国は多くなさそうだ。アメリカはイランへの対応にかかりきりになり、ヨーロッパの支援も得られない。すると日本の役割はおのずから大きくなる。

これは、安倍首相にとっては誇らしいシナリオなのだろうが、日本には独力で対北朝鮮戦争を遂行する国力はない。安倍首相は忘れていると思うのだが、憲法でも戦争は禁止されている。加えて国民は特に世界平和に日本がコミットするなどという野望を持ち合わせておらず、社会保障体制さえ維持できればあとはどうでも良いと考えている。つまり、安倍首相が一人で張り切っておりそれを周りが冷ややかな目で眺めているという図式がある。

自民党が安倍首相の方針を支持しているのは、それが選挙に勝つための最善の道だと考えているからだろう。つまり、選挙に負けてしまえば一気に状況が流動化する。かといって政権を代替えできそうな野党もない。つまり、この安倍一強体制が崩れてしまうと政局が一気に流動化することになる。これが「盤石な日米同盟」という絵と一緒に崩れてしまったら一体何が起こるのだろうか。

憲法議論の焦点の一つになっているのが自衛隊と集団的自衛という国防上の問題だが、実際に話されているのはアメリカ一強の世界でどのようにうまく立ち回るのかという話である。ところが、アメリカは世界のリーダーの地位を自ら降りてしまった。もともとその外交力は極めて稚拙で戦争によって問題を解決ようとしてきた歴史がある。しかし、憲法議論を見ていると日本は国民も含めてこのアメリカ一強の世界にしがみつこうとしているように思える。

アメリカ一強体制が崩れたのを目の当たりにしたら日本人は突然目覚めて「これからは自立して行こう」と考えるだろうか。それとも「信仰心が足りないからだ」と考えてさらにしがみつこうとするだろうか。多分、後者を選択する可能性の方が高いのではないだろうか。

アメリカがあてにならないことがわかり、状況が読みにくくなってきているのだが、国内問題はあくまでも内向きに進んで行く。その間に当然大騒ぎが起こるだろう。すると政治的なリソースは憲法と戦争の問題に浪費され、その他に解決すべき問題について与野党が協力する機運が奪われてゆく。かといって野党にも支持が集まらず国民が政治にますます興味を持たなくなるのではないか……

NewsWeekの記事を読んだだけなのだが、漠然とした不安が広がってゆく。

今までの経緯を見ていると「戦争をするか」とか「憲法をどうするか」というような問題ばかりが語られる一方で、日本は衰退にどのように立ち向かうかという現実的な議論が忘却される可能性が高い。ある意味概念的な戦争の話をしていた方が目の前の問題に直面するよりも気が楽なのである。「国民もようやく目を覚ましてまともな議論ができる政治家を選び直すだろう」と言いたいところなのだが、果たして期待してもよいのだろうか。

そのような疑問と問題点を抱えたままで、イアン・ブレマーの本を読んでみたいと思う。

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なぜ日本は北朝鮮情勢の扱いを絶対に間違うのか

今日のお話は、日本人は北朝鮮情勢を必ず間違えるだろうというものだ。この推論は極めて論理的なものではあるが、感情的には受け入れられないという人が多いはずだ。

様々な情報から推論できるのは、安倍政権は北朝鮮情勢についてある一定のシナリオを持っているということだ。安倍政権のシナリオは概ね次のようなものだろう。

アメリカを中心とした国際協調が成功した結果、北朝鮮が経済的に封じ込められる。最終的に北朝鮮の側から泣きながら「もう勘弁してください」と言い出す。核開発計画を凍結し、国際調査団を受け入れて全ての開発の成果を放棄する。結果的に北朝鮮の核兵器開発は終わり、核兵器が朝鮮半島からなくなる。アメリカが勝ち、トランプ大統領に協力を惜しまなかった安倍政権は世界中からその慧眼を称えられる。

第一にわかるのは、このスキームが極めて日本的に理解されているという点である。前提として国際村があり村には村の身分と掟がある。その掟が破られそうになると村八分にして相手を追い詰めて行く。最終的には村八分になった人は出て行くか泣いて謝るしかない。

この村八分的スキームは現在でも紛争解決に用いられる。例えば国会議員の不倫問題などがその一例だ。企業の不正問題にしてもそうなのだが「世間を騒がせた」ことが問題になるし、不倫がなぜいけないのかなどということは議論の対象にはならない。村八分は村人たちの団結力を強め、あるいはお互いに監視し合う檻として作用する。

例えば日本の学校で陰湿ないじめがなくならないのは、これが無視などの村八分の掟を含んでいるからである。日本人にとってコミュニティの維持には村八分と教育という名前の暴力が欠かせない。不思議なのは日本人がこれをいつの間にか体得し、なんとなくこれに頼ってしまうという点である。

逆にこれを「確信犯的に」破る人が出てくると村は無茶苦茶になる。最近では貴乃花親方が自分の信じる相撲道を追求するために警察権力を持ち込んで大騒ぎになっている。村のかばいあい政治では自分の理想が追求できないと思ったのだろう。いったんこうなると相撲協会は「圧力をかけてますよ」とマスコミにパフォーマンスするくらいしか対応策を思いつかない。北朝鮮と貴乃花親方を一緒にするなと言われそうだが、村の掟を破っているのだが、周囲の圧力に対して警戒心をあらわにしているという点では全く同じである。

公の場で「北朝鮮を村八分にしようとしている」といえば「お前は北朝鮮の言い分を認めるのか」とか「反日だ」などという反論をされるだろう。だが、これこそが日本人が村の掟を大切にしているとう証明になる。事の是非は問われない。ただ一度村八分のスキームが作られるとそれを抜け駆けしようという動きは全て罰せられるのである。

こうした村八分的スキームはもちろん国際社会でも見られる。もともとヨーロッパは特権社会なので「主権国家」と「植民地」という身分制度があった。これがアメリカ中心の秩序に変わり核を持っても良い「常任理事国」とそれ以外の国という構造に変わった。日本は敗戦国なので貴族の一員にはなれないが、アメリカと軍事的に一体化すること、あたかも貴族の一員になったように振舞うという道を選んだ。これが維持可能なのかということが問題になるはずなのだが、そのような議論は一切見られない。

しかし、これだけでは「日本は必ず失敗する」とまではいいきれない。この問題でむしろ重要なのは「日本人の意思決定方法」である。

「世界は常任理事国を中心にした村」シナリオに沿って物事が進むと、日本も韓国も戦争について心配する必要はないし、アメリカ中心の地域覇権も保たれたままになるだろう。たいていの戦争は常任理事国間の代理戦争だが、核を持つというのは常任理事国支配体制への挑戦なので起こるはずがないシナリオだからだ。

このシナリオはアメリカを中心とする地域秩序があってそこに日本が位置付けられているという「一定の絵」が元になっている。つまり静的なシナリオである。この静的な状態から出発して、もっと都合がよく物事が進むためには憲法を改正して自衛隊を正規軍化した上で、アメリカに協力的な体制を取れば良いというアクションが得られる。つまり、静的な絵がありそこから直線的にスケジュールを引いてそれを厳格に守るというのが日本人なのである。

ではこのシナリオは国際情勢を映したものだろうか。それは会議室で決められた「絵」であり、その通りに物事が進むかどうかはわからない。絵が動いているのだから、直線的なスケジュールは立てられない。

トランプ大統領は気まぐれな発言を繰り返している。ティラーソン国務長官は必ずしも戦争には賛成ではないようだ。国務長官のシナリオにカナダなども同調しているらしい。ロシアのラブロフ外相のように北朝鮮問題に積極的にこれに関与しようという国もある。

一方で、戦争になれば北朝鮮が暴発する可能性も高い。北朝鮮に勝てる見込みはないのだろうが、いったん暴れ出すと泥沼化する可能性はある。日本には漁船を偽装した船が流れ着いても感知できない程度の国防力しかないようなので「一発食らわせる」くらいは可能だろうし、それがかなりの大騒ぎになる可能性もある。このように実際の状況はそれぞれが「可能性」によって記述される動的な絵である。

日本人は不確定さを嫌うので、あらかじめ物事が動かないように決めておきたがる。そして国内的にはそれが通用する。日本の政治状況が膠着していても誰も文句を言わないのは、日本人があえて物事を動かしたいとは思わないからだろう。与党が作った絵と野党が作った絵があり、その絵を見比べてどちらが正しいのかということを延々とやっているのが、ここ数年の国内の政治状況だ。どちらも絵なので実はどちらも正しくはない。

ではなぜ日本人は絵がないと物事が決められないのか。

原子力発電所には様々な事故が起こり得るのだが、建設時に事故の前提は全てキャンセルされていった。日本人は「何かを想像して口に出すことでそれが起こるかもしれない」という言霊信仰を持っているので、関係者たちは事故の可能性について語りたがらなかった。そこで、こうした事故は決して起こらないのだと合意した上で全ての計画を決めて行く。考えないから起こらないと考えるのだ。だから最終的な計画には事故が起きた時の対応策はない。事故は起こらないのだから事故が起こった時に責任をとる人はいない。

事故が起こるとそれは「想定外だった」と言われる。想定していなかったのだから誰かに責任があるわけではないということになる。だから、結局責任はうやむやにされ、消費者がお金を払った。つまり事故の責任を取ったのは会議に参加しなかった消費者である。

もし最初に事故の想定をしていたら誰かを責任者に任じなければならなくなる。それは「かわいそうだ」し「無理だ」ということだ。改めて記述するとめちゃくちゃだが、実際にはこうした考え方をする。第二次世界大戦に参戦する時にも同じことが起きた。つまり、戦争に負けるというシナリオは立てなかった。負けるシナリオを立てると誰かが責任をとることになりそれは「かわいそうだから」である。「負けるかもしれないですが、その時は天皇に責任を取ってくれ」などとお願いする人は誰もいなかった。結局責任を取ったのは国民だ。生産設備が完全に破壊された上に猛烈なインフレが起こり国民の資産はほとんど吹き飛んだ。

北朝鮮情勢についてプランBを作らないのは安倍首相が責任をとりたくないし、責任も取れないからである。うまく行けばいいがうまく行かなければ国民が責任を取ることになる。北朝鮮から新潟に小型の核爆弾でも落とされればそれが何だったかということがわかるだろうが、こう書いただけで「お前は縁起でもないことをいう」と非難されるだろう。言霊があるのだから言ってはいけないのだ。

いずれにせよ、世界情勢は動いている。戦争や軍拡競争などは相手を出し抜いて自分の意思を通すことが目標になっているのだから想定外のことしか起こらない。つまり、安倍政権が会議室で決めたように、相手が一方的に妥協するようなシナリオなど望みようがないということになる。

例えば、北方領土を取り戻すためにはロシアに対して想定外の問題をしかけたり、何かの時に想定外に動いて見せて動揺を誘わない限り現状(つまりロシアの実効支配である)は絶対に変わらない。ところが日本人はこうした想定外を扱えないので、ロシアに経済協力して関係を強化して相手の温情を得ようとい作戦に出る。日本人としては極めて当然の心情だが、実際にはロシアの実効支配の現状を追認することになる。

最後にどうして日本人は動的な状況が扱えないのかを考えたい。アメリカ人は権限を与えた上でいろいろな動きに備える。だが日本人は誰も責任を取りたくないので一旦持ち帰った上で合議をして最終的な意思決定をする。合議のためにはシナリオをピンでとめなければならない。日本人は個人に権限を与えないので、国際情勢のように動いているものは扱えない。さらに、今の状況では絵を固定することすらできない。トランプ大統領とティラーソン国務長官の言っていることが違うからだ。

日本人には動的な状況は状況は扱えないので、北朝鮮情勢については必ず間違うことになってしまうだろう。

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日本の外交的無策について散漫に考える

ティラーソン国務長官が北朝鮮との対話を模索しているという話がある。これについて日本政府が不快感を表明したと産経新聞が勇ましく伝えている北朝鮮の封じ込めに水を差すというのである。

ここからいくつかのことがわかる。

第一に日本政府はトランプ政権と必ずしも盤石なコミュニケーションのラインを持っていないようだ。トランプ大統領が本当に北朝鮮を追い詰めてくれるのかという疑心暗鬼があり、対話の動きに対して過剰に反応してしまうのだろう。産経新聞は「ティラーソンが罷免されるかもしれないからここで彼の提唱した会議に乗ると梯子をはずされるかもしれない」などと書いているわけだが、ティラーソン国務長官が大統領とは全く無関係に動くことなどありえない。もっとも大統領は事前の根回しとは関係なく言いたいことを放言するかもしれない。つまり、どちらかというと無関係に言いたいことを言うのがトランプ大統領である。

次に日本には当事者意識がないことがわかる。仮に戦争に突入するとしても、国際的には「対話を模索したが北朝鮮が応じてくれなかった」という説明が必要である。多くの国は実際に兵隊を派遣しているので国内向けに「和平を模索したが仕方がなかった」と説明する必要があるからだ。つまり、実際には戦争が念頭にあるからこそ和平を模索している可能性も高い。安倍政権は国民などどうでも良いと考えているので一人で勇ましいことが言えるのだ。

さらにここから実は日本が北朝鮮問題について貢献するつもりがないということがわかってしまう。日本は国内に説明する必要がないからこそ(たとえ建前であっても)和平を模索する必要がないと考えている。これが成り立つためには自衛隊からは犠牲者がでないという前提が必要だ。他の国からは死者が出る可能性があるが、日本政府は高みの見物を決め込んでいると思われるのは必至である。

最後にわかるのは安倍首相が「プランB」を持っていないということである。つまり、北朝鮮が周囲からの圧力に屈して核兵器を放棄するだろうというシナリオがあり、それ以外のことを想定していない。つまり大規模の戦争も起きないし、北朝鮮がアメリカと交渉するということがあってはならない。だからそのシナリオが外れそうになると駄々っ子のようにごねるのである。こうした姿勢を繰り返すとどうなるだろうか。有権者はこの5年間内政でこのような手法をうんざりするほど見せられているので、安倍首相の言うことを聞いて自分の行動を変えたりはしない。

安倍政権の外交無策は特に驚くことではないのだが、最近ではアメリカも同じような状況になりつつある。アメリカは表向きは公正な裁判官か警察官として振舞っており、裏でどちらかを応援するというような手法を使って世界情勢に関与してきた。これが崩れつつあり、単なるプレイヤーの一人になってしまっている。

トランプ大統領はイスラエルの首都はエルサレムだと認めて大騒ぎになった。パレスチナもエルサレムを首都だと考えており、アラブ圏が大騒ぎしだした。しかし、実際に反発しているのはアラブ諸国だけではなかった。欧州は世界の秩序の維持に積極的に関与しており自分たちが騒ぎを作り出す側に回りたくないという事情があるのだろう。マクロン大統領は「認められない」とツイートし、メイ首相もトランプ大統領と直接話すと議会で発言したようだ。

北朝鮮情勢も仮に戦争になれば韓国の甚大な被害は避けられそうもないし、場合によっては東京などにも核攻撃がありそうだ。中東も紛争が起こればどのように展開するかはわからない。どちらもアメリカが作り出しているとなれば国際的な非難は避けられないだろうし、場合によっては国際的な治安維持にどの国も参加しないかもしれない。

さらに、戦争が始まるとアメリカの軽率な行動が同盟国に被害を与えたということになり、アメリカの外交力はかなり深刻なダメージを受けるはずだ。一方で北朝鮮に核兵器の開発を辞めさせられなかったときもアメリカは当事国を説得できなかったということになりアメリカの外交力は大きく低下する。アメリカにとっては都合の悪い状況で、だからこそ当事者として各国と対話しているティラーソン国務長官はトランプ大統領の<積極路線>に反対しているのだろう。

にもかかわらず日本は単にアメリカに追随すると主張するばかりである。つまり、軍事的圧力に北朝鮮が屈するという他人任せのシナリオがあるだけで、それが失敗した時のプランBなど全く考えられていない。国民に説明するつもりもなく、仮定の質問には答えられないという。それでも日本がことさら非難されないのはもともと当事者意識も意欲もないということが見限られているからだろう。

エルサレムの件については「何か言わなきゃ」とは思ったのだろう。河野外部大臣が「心配している」というのを聞いた。意見がないなら言わなきゃいいと思うのだが「何か言うべきだ」という空気だけは察したようだ。しかし、どっちに参加したら褒めてもらえるかが明確ではないので、どっちつかずのことしか言えなかった。

日本の外交戦略は先進国が言うことに「そうだそうだ」といってあたかも先進国の一部のように振る舞うことだったのだろう。一芸のないガヤが大物政治家に気に入られて番組に取り立てられるみたいなものである。地元の商店街にある居酒屋で「俺も芸能人なのだ」と威張ることはできる。しかし、一芸がなければやがて忘れ去られることになる。

そもそも外交は安倍首相がいばりちらすために存在するわけではない。北朝鮮の問題では核兵器開発をやめさせることができないだけでなく、拉致被害者は帰ってこないし、北朝鮮から船が流れ着いても何もできない。病原菌防護ができる服をきて「何かやっていますよ」というパフォーマンスをすることくらいしか対策がない。それでも国民が怒り出さないということは、何も期待していないということだ。政府はそろそろ国民の無関心を真剣に心配した方が良い。

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