日馬富士の引退

このエントリーは記録のために書いている。暴行問題が取りざたされていた日馬富士が引退した。貴ノ岩に暴力を振るったことは認めたが「指導の一環だった」し「これまでお酒を飲んで暴力を振るったことはない」と言っていた。

今までの同じようなことがあったかどうかはわからない。もしあったとしても「お酒を飲んで暴力を振るったことはありますか」と聞かれても「はい」とは言わないんじゃないだろうかと思った。これまでも「指導の一環として頭蓋骨が陥没するほど人を叱ったことがあるか」と聞けば、あるいは結果が違っていたかもしれない。

日馬富士の言葉の端々には「お世話になった」とか「育ててくださった」などというようなニュアンスが入っており表面上は日本の伝統である「謙譲さ」が身についているようだった。たまたま、安藤優子のコメントを見たのだが「日本精神をよく理解している」というようなことを言っていた。彼女としては善意なのだろうが、この人は本当は馬鹿なのかもしれないと思った。すでに国際化してしまった上に暴力行為が蔓延している相撲界で日本精神が押し付けられているのをみて何が楽しいのかと思ったからだ。が、普通の日本人ならば「ガイジンなのに日本のことがわかっていてえらいね」と思うのが。普通なのかもしれない。

足を怪我したらしくしばらく出てこれなかったデーモン小暮は「相撲界では指導のための暴力が必要だと考えている人が多い」というような意味のことを言っていた。つまり暴力は蔓延しているが、それを改めるつもりなどないということである。いわゆる「会友」と呼ばれる御用記者や自らも暴力に手を染めてきたであろう力士出身者には決して言えないコメントだったと思う。

ここで日本社会が発信しているメッセージは極めて単純だ。つまり、表面上日本の精神がわかったようなことを言っていれば、裏では何をしても構わないということであろう。その意味では日馬富士は相撲界が彼に対して持っている期待をうまく理解したがために、引退に追い込まれたのかもしれないなどと思った。

日馬富士が本当に「反省」していないことは、東京に戻って記者に対して「何もいうことはない」と言い放ったことで明らかになったと思う。しかし、国籍差別がある相撲界には残れないようなので、もう日本精神を遵守する義理はない。にもかかわらず彼を追いかけ回して「反省」を迫る記者たちに異様なものを感じた。彼らは読者の「日本にいるときには俺たちの文化に従い、集団リンチを受けても黙って耐え忍ぶべきだ」という、全く根拠のない期待に答えているだけなのだろう。これもとても気持ちが悪い。

今後の焦点は、これが当初から言われてきたように相撲界の権力闘争につながるかどうかである。もともと貴乃花親方は現在の相撲協会のやり方に反発しておりクーデターを企てたなどという憶測が飛び交っている。貴闘力が賭博問題で解雇されたことを恨みに思っているなどという憶測記事も読んだ。

表面上誰かを犠牲にして「更生した」ふりをしていると、それを恨みに思った人が報復に出る可能性があるということだ。もし今回の反省が形だけのことに終われば、今度は伊勢ヶ濱部屋が貴乃花親方に報復するということにもなりかねない。合理的な理由のある権力闘争だと思っていたのだが、もしかしたら狭い村の単なる遺恨合戦を村人根性が抜けない日本人が見ているというのが本当のところなのかもしれない。

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期待が持てそうな大塚耕平新代表

久々に希望が持てそうな政治の話題だ。大塚民進党新代表が予算委員会での質問に立った。これまでの野党といえば決めつけた言い方で政府を批判しするばかりだったのだが、大塚さんは一味違っていた。

大塚さんは「わからない」が言えるのである。

野党が批判に傾く理由は自分たちも実は何をどうしていいかわからないからである。また日本人はせっかちなので、ついつい「批判ばかりでなく対案を出せ」などと言ってすぐに正解を欲しがる。そこで議員立法をとりあえず100本出しましたなどと言って威張ってみせる。

しかし大塚さんは経済指標などの統計データを示しつつ「わからないから統計の取り方も含めて一度相談をしてほしい」と言っていた。安倍政権は「アベノミクスのおかげですべてはうまくいっている」ことになっているのだが、経済実感としては景気がよくなった感じはしないし、実際に給与所得などは下がっているようである。指標と実感が違っているということは、統計がどこかで間違っているか、故意に隠蔽している可能性が高い。おそらく実際には両方が起こっている。

政府が様々な対策を立てていることは確かだし、日銀の政策も「異次元緩和」と呼ばれるくらい思い切ったもののはずである。しかしながらよくならない。どこかで何かが間違っているはずなのだが、何が間違っているのかがわからない。だから現在の正解は少なくとも経済に関しては「何が間違っているか」を探すことなのだ。

何が間違っているのかを探すためにはまず、どこが間違っているのかを見つけなければならない。だが、経済についてわからないと「いったいどこが間違っているのか」すらわからない。だから大塚さんのように少なくとも「何がわからないか」を説明するのはとても大切でとても難しい仕事なのではないかと思う。

もし仮に民進党が政権をとっているとこんな悠長なことは言ってはいられない。だが自民党の政権が続きそうなのでこの際「何がわからないのか」を整理してみるのもよいかもしれない。

多分、大塚さんのこの提案が受け入れられることはないだろう。安倍首相の顔を見ていたが全く興味がなさそうだった。自民党には問題意識が全くないようで、午後に質問に立った山本一太議員などは自分の自慢話を披瀝しつつ「俺はこれがやりたいから、大臣は賛成しろ」と騒ぎ立て、大臣たちの「それはいいですね」とのお愛想に大喜びしていた。

また、安倍首相は情報を独占することで優位に立てると考えているようで「民進党に情報を渡してなるものか」と考えているのではないかと思う。この人のリーダーとしての度量のなさには呆れるばかりだが。多分「知らないから勉強しよう」などとは全く思わず「数字が悪いんだったらなんか料理して持って来なさいよ」などということを期待しているのではないかと思う。

少し心配なのは野党支持者が安倍憎しのあまり「大塚さんはなまぬるすぎる」などと言い出すことである。確かに安倍首相を攻撃してわずかばかり支持率が下がるのを見るのは楽しいかもしれないが、政権交代が起こるほどに下がるわけでもなく、一方的な攻撃はあまり建設的ではないと思う。

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竹下亘大先生の精神を崩壊させかねない日本の同性愛的な伝統

竹下亘先生が、同性愛は日本の伝統ではないと言っている。竹下さんが日本の伝統について知ることになればおかしくなってしまうのではないかと思った。産経新聞によると発言は次の通り。

フランスにオランドさんという大統領がいて日本に来て宮中晩餐(ばんさん)会があった。オランドさんが連れてきたのはパートナー。女性は奥さまではない。天皇、皇后両陛下と並んで座るのでどう対応しようかと宮内庁は悩んだ。その時はパートナーとして宮中晩さん会にお入りになった。

問題はここからだ。もしパートナーが同性だった場合どう対応するのか。日本国として近い将来必ず突き付けられる課題になるのではないか。

私は反対だ。日本国の伝統には合わないと思う。それぞれ皆さんの人生観の中でご判断いただければこのように考えるわけだ。

これについてネットで反論の声が出ている。一つ目の反論は「世界では同性愛者の結婚が許容されはじめているので、時代錯誤的で恥ずかしい主張だ」というあまり面白みのないものだ。辻元清美議員は国会で追求すると大真面目である。

が、もう一つの声はなかなか面白い。日本は伝統的に同性愛がタブーとされていなかったというのである。この例としてフランシスコ・ザビエルが書いた文章を引用している人がいる。フランシスコ・ザビエルは日本のことを褒めているのだが、唯一許せないのは同性愛などの性風俗の乱れだと書き残している。キリスト教的な道徳観念のなかった日本では一夫一婦制も厳格には遵守されていなかったし、同性愛や少年愛もおおっぴらに行われていた。

山口の大内義隆は美少年をたくさん囲っており、これを咎めたザビエルは山口では布教を許されなかったとのことである。大内は美少年を囲うことを、特に恥ずかしいことだとは思っていなかったようだ。

このことから、日本には同性愛者という概念すらなかったことになる。つまり、男性を愛しつつ女性を愛しても構わないということである。実はどちらかに決めなければならないというのも、どちらかといえば西洋的な思い込みなのかもしれない。禁止されているのだから「それでもあえて男性を選ぶ」という男性が「カムアウト」せざるをえない。しかし、日本にはそのようなタブーはなかったので、子孫を残しつつも、美男子も好きという人がいたということになる。

武士道では男老師の「友情を超えた関係」を許容する動きさえあった。「葉隠」には同性愛についての記述があり、浮気をしてはいけないとか若いときにはこのような経験をすることがあるから心得が必要だと書かれているという。「葉隠」は戦時中に大義のために死ぬという側面が戦争に利用されたのだが、同時に同性愛についても書いてあるのだから、保守と呼ばれる人はぜひ実践しなければならないとさえ言える。だが、実際には「国のために死ね」という保守はいるが、一生をかけて一人の男性を愛する(が、女性は複数いても構わない)と公言する保守の人は見たことがない。

ユダヤ人はもともと少数民族なので子種を無駄にすることを嫌ったのではないかと思う。同性愛も自慰行為もいけないということになっている。これがキリスト教に流入したのではないかと(勝手にではあるが)思っている。

さらに修道会には男性しかいないのだから男色行為が広まると何のために貞操を誓ったのかわからなくなってしまうどころかさらに深みにはまることになる。実際にアメリカのキリスト教会では少年への性的暴行が問題になっていて、wikipediaに専用の項目までできている。つまり、頑なに禁止していないと防げないほど魅力的な行為だったのだろう。

日本人は明治維新で開国した時に「西洋人に笑われないために」としてさまざまな「伝統」をでっち上げたのだが、同性愛の禁止もこの時に広まったのではないかと思って調べてみた。しかし、実際には明治時代の初期を覗いて刑罰で禁止されるようなことはなかったようだ。それでも一夫一婦制が徹底されることはなく妾なども一般的だったので「家族は一人の男性と一人の女性が作るものだ」という厳格な一夫一婦制は戦後の<伝統>なのかもしれない。

いずれにせよ、マスコミは「西洋では同性愛も認められつつあり、グローバルスタンダードに反する」などというつまらない反論をするのではなく、日本の男色は普通のことだったのだから、保守はこれを実践するべきだと竹下さんに聞いてみてはどうだろうか。

保守派が歴史を知らず知性もないというのは別に驚くべきことではない。夫婦別姓について調べた時に散々同じような話をさんざん書いたような気がする。最近の興味はむしろなぜ保守派は歴史に無関心なのに「日本の伝統」を盾にして自分の価値観を押し付けたがるのだろうかということである。

これは護憲派にも言えることだ。護憲派は「戦争はいけないから憲法第9条を守れ」といい「憲法第9条があるから戦争ができる国になってはいけない」という循環話法を得意としている。これは護憲派に守るべき価値観や原理原則ではなく「システムとして存在するから」という理由で現状を肯定しているということを意味している。だから「では、憲法を変えれば戦争をしてもいいんですね」という反論が生まれると、それに反論できない。だからこそ「絶対に変えるな」と変化そのものを拒否するのである。

同じように、保守派という人たちも、多分自分たちが知っている家族像というものがあり、それを肯定するためにありもしない日本の伝統というものを持ち出して平気な顔をしている。保守の場合には男性が優位に立てる家族を「日本の伝統的な家族」と呼んでいるにすぎないのだが、専業主婦がいる家族は一般的でなくなりつつあるので、制度だけを守っても彼らが憧れるような家族制度は復活しないだろう。

彼らにとって伝統とは彼らの憧れを正当化するための道具にすぎないので「日本は昔から男色が行われていたんですよ」などということを言っても「伝統だから」という理由で男色推進派になったりしないのである。

本来、民主主義は、何らかの目的や原則を達成するために法律を利用する制度だと考えられる。しかし、日本でそれを当てはめようとすると行き詰まるケースが多い。もともと所与の「あるべき状態」というものが存在し、それを弁護することが行動に目的になっていると考えた方がわかりやすい。

護憲派は天賦人権に基づいた民主主義と平和主義という建前を是認することで相手から優位に立とうという企てであり、いわゆる保守派は男が威張っていられる社会を是認する立場であると考えるとわかりやすい。それを守ることが自己目的化しているのだから、そもそも議論は成り立たない。

さらに所与のシステムの肯定なのだから、変化には対応できない。護憲派はアメリカの関与が減り日本も対等なメンバーで参加している国連の関与が増えているという国際情勢を認識もできないし対応もできない。それは彼らが実は世界平和にはなんら関心を持たないからである。と同時に保守という人たちも男性の経済的な支配力が弱まっているという状態には対応できず家族という<絆>さえ強めれば自分たちの憧れが実現するのではないかと夢想しているのである。

実は日本人にとってのイデオロギーというのは、彼らが認知できる範囲のシステムの自己肯定ということになる。こうしたシステムはお互いに矛盾していても「すでに何らかのバランスをとりながらある」のだから、日本人はそれが何らかの寄せ集めであってもそれほど戸惑ったりはしないのかもしれない。

日本人を理解するための鍵はこうした<ホリスティックさ>にあるのではないかと思う。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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内田樹さんの痛ましい迷文を味わう

サンデー毎日に内田樹さんの痛ましい文章が掲載されている。これが無料公開されていて、毎日新聞のヘッダーがついていたせいもあり拡散されていた。

当初「知の巨人」と書かれていたのでそれだけで読む気がなくなり放置していたのだがこのツイートを見て精読してみることにした。心理分析としては面白そうだったからだ。

内田さんの文章を批判するつもりはないが、読んでいて痛ましい気分になった。表面的な痛ましさは現在を理解するのに欠かせない「複雑性」がすでに彼にとっては理解不能な概念になっているにもかかわらず三流の週刊誌から「知の巨人」と持ち上げられているという点に由来するのだろう。

だが、この文章を読んでゆくと、日本のリベラル運動というものがどのようにして砕け散ったのかということがよくわかるし、そもそも存続することさえ無理なのではないだろうかと絶望的な気分になる。では、日本のリベラル(内田さんは自身を左派リベラルとは認識していないとは思うのだが……)はなぜ砕け散ったのだろうか。

読むのが面倒だという人のために要約してみた。冒頭の一文はめちゃくちゃだが、実際にこう書いてある。

小選挙区は株式市場のような複雑系だ。複雑系は予測しない変化を生み出すはずだったが、投票率が低く決定論的システムになった。これは既得権に有利な状況である。

安倍政権は国会審議と党運営を通じて用意周到に立法府を機能不全にし、結果的に行政府が優位になった。

安倍首相の言い間違いはフロイトによると無意識の発露で行政府のおごりを象徴している。

法律の制定と実行が重なった安倍政権は独裁政権だがマスコミはそれを咎めなかった。

この最終段階が緊急事態条項だ。民主的な手続きで独裁制を完成させようとしている。

いったん立法府が停止されるとデモで意思表示するしかなくなるのだが、デモは社会秩序の混乱として緊急事態を正当化するのに利用されるだろう。

家庭も学校も部活もバイトも就職も全て株式会社的なので出口のない独裁に向かっていても国民の反応は鈍い。

日本人は株式会社しか知らず民主的な組織を見たことがないから、民主主義は空想にしか感じられず「お花畑」と揶揄される。

しかし対処方法はある。良識の府としての立憲政治を回復しなければならない。このためには選挙制度を改めて、首相の解散権を制限すべきだ。

以上である。以下、しみじみと鑑賞して行きたい。まずは科学的知見が使われているが間違っている。

複雑系はフィードバックが込み入っており予測が難しいかあるいは不可能な状態を意味する。例えば砂山は複雑系で崩れることはわかってもいつ崩れるのかはわからない。つまり複雑系とは予測ができないことを意味している。確かに自由経済市場において株式市場は複雑系なのだが、小選挙区は投票の結果なのでフィードバック体系が複雑とは言えない。出口調査で予想できる程度の複雑さしかない。むしろ、小選挙区は小さな違いが結果を変えるという意味で「投票意思の単純化装置」である。

そもそもこの冒頭の文章はそもそもが破綻している。複雑系だと言っておきながら複雑系にならなかったと言ってしまっているからである。そもそも小選挙区制度は複雑系ではないので論に無理があるのだが、それでも論が成立しているように見えるのは「小選挙区制度にケチさえつけられればどうでもいい」からなのだろう。

無論、小選挙区には問題があると感じる。少数意見が反映しない点が問題なので、いつまでも不満がくすぶり続ける。これが民主主義への信頼を失わせる。だからそういえば良いのである。小選挙区制が採用され続けるのはこれが自民党に有利だからであり、何も有権者が小選挙区制を望んでいるからではない。

だが「絶対に小選挙区制はダメ」と言いたい時日本人はもう一つの宗教である科学に頼ることがある。複雑系は新しい概念なので宗教としての効果はそこそこあるが、どうやら筆者には全く理解されていないようだ。これを読んだ編集者も読者も理解していないはずである。一方、フロイトは理解しやすいが心理学の現場ではすでに古びた理論であり宗教としても役に立たない。それでも構わないのは科学は単に権威付けのために利用されているだけだからなのだろう。

次に痛々しいのは自民党が票を集め続ける理由である。普通に考えると民主党政権が政権維持に失敗したから自民党への支持が集まるのだが、民主党の問題を迂回しているために大惨事が引き起こしている。これを意図的に隠蔽しようとしているのかあるいは無意識なのかがわからない。フロイトに聞いてみるべきかもしれない。民主党の失敗のせいにするとこの後が続かないので、制度の問題と飼いならされた民衆の問題になっているのである。

だが、この文章にも見るべきところはある。そもそも、内田さんは何をイライラしているのだろうか。つまり、民主主義的な投票の結果自民党が勝っていることの何が気に入らないのだろうか。多分、あるべき社会の雛形がありそれが実現されないことに憤っているのではあるまいか。

この点を踏まえつつ次に進みたい。多くの人が違和感を持つのは「株式会社」の使い方ではないだろうか。株式会社にはそれなりのガバナンスがあり研究も加えられている。その知識体系が経営学である。この文章の痛々しさはそうした西洋流の経営学が日本に根付いていないということからくるのだが、内田さんの背景が学者であり経営には無縁であるという点を除いても、必ずしも内田さんのせいだけとはいえないかもしれない。内田さんは多分「儲け主義で温かみがない」というような制度のことを「株式会社」と読んでいるのだろう。この特に学校や社会で問題になるのは「温かみのなさ」である。

経営学的には株式会社には正解がないとされる。こちらもいろいろな学派があるのだが、たとえばミンツバーグの「戦略サファリ」には様々な株式会社の形が書かれている。ミンツバーグは陶芸をやっている妻に影響を受けてこれを書いたというようなことを言っており、科学ではなくアートであるととらえるべきだろう。

そもそも正解がないのだから「典型的な株式会社像」はない。にもかかわらず内田さんが典型的な株式会社像を描けてしまうのはなぜなのだろう。

日本の株式会社的社会は人件費を抑制することでとりあえず営業収支と経常収支を安定させる方向に進化した。だから日本から株式会社を眺めている人がこのような感想を持つのも無理からぬことだ。アカデミアも経費削減のプレッシャーにさらされているので、多分共通した感想を持つのであろう。ではその裏にある「温かみ」の合理性とは何なのか。

温かみの排除とは「短期的につじつまを合わせるために中長期的な視野を放棄せざるをえなくなった」という日本的な事情があるように思える。日本の知的資産は暗黙知的に蓄積されているので崩壊過程がわかりにくく、わかった時には手遅れになる。つまり、困窮した人たちはついつい目に見えない宝から先に売り払ってしまうのである。

この日本的に破綻した状態を<株式会社>とくくってしまうとそれ以上のことを考えなくなってしまうので、却って解決から遠ざかってしまうのではないだろうか。

実は同じような問題が「民主主義」にもあるのではないかと思われる。

そもそも、日本人が感じる自然で民主的な社会とはどのようなものだろうか。「お互いがお互いを家族のように思いやっていて、それぞれの役割を果たしてゆく」という村落的な光景を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そしてそれは森や川のような障壁で外部から守られている。山懐に抱かれたような安定した社会である。

だが、これは戦後の荒廃した都市に住んでいた人々が憧れた架空の村落なのではないだろうか。実際の村落は閉鎖的空間であってお互いに既得権を守りながら他者を排除する場である。共同管理にも入会地のような複雑な利権が設定されている。実は日本人はこうした閉鎖空間がいやで都市に逃げ出してきたという経験を持っている人が多い。

西洋的な民主主義がどのような背景を持って生まれたのかはわからないが、そこには拡張への憧れがある。拡張には不安がつきものなので、それをどのようにして超えてゆくかというのは民主主義の大きな課題だ。そして皮肉なことに、西洋的な民主主義社会はキリスト教的な価値観を持ちながら自由に経済的利益を追求するというような代物で、試行錯誤を背景にした内田さんのいうところの「株式会社的」な社会である。

つまり、実際に民主主義の名前のもとで行われていることと、日本人が憧れている民主主義と、西洋型の民主主義はどれも異なっている。

では、内田さんが理想とする社会はどのような社会で、それは実現可能なものなのだろうか。それはよくわからない。わからないものの、とりあえず目の前にある自民党政権は理想とは程遠いということだけはわかる。

そもそも民主党政権の間違いは何だったのだろうか

それは実は選挙で約束したことを実行しようとしたことなのではないだろうか。選挙で有権者は「変化を起こしてくれ」と要望したのだが、実際に予算の妥当性の審査が始まると、国民はこれに不安を覚えるようになった。さらに地震や原発事故などの不測の事態が起こると、日本人は予測不能性にいいようのない不安を感じた。これは有権者だけではなく自民党にも大きな影響を与えた。反動として生まれたルサンチマンを結晶させたものが二つある。徹底的に話し合いや説明を拒む安倍政権と国民主権を否定する憲法草案である。

つまり、日本人は民主主義というものがよくわかっておらず、それが実現したことに恐れおののいたということになる。

実は自分たちが探しているものが何なのかよくわからないという問題は何も内田さんだけのものではない。実はこの文章の痛々しさを探って行くと「我々がどこにゆこうとしているか、我々自身が決めかねている」というかなり大きな問題に辿り着いてしまうのだ。

日本人は民主主義を宗教のように扱ってきた。同じような傾向は科学にも当てはまる。実は誰も複雑系について理解していないのだが誰もその間違いを指摘しない。それは街のおしゃれな看板にある英語のようなもので文法や綴りが間違っていても誰も気にしないのと同じことである。

この不安を払拭すつためには、まずはそれぞれが「自分たちが本当は何を求めているのか」ということを知らなければならないのだが、日本人は不安になりすぎていてそのようなことができないのだろう。そこでルールや仕組みを変えれば自ずから理想が実現するというように思い込みたがるのだろう。与党側にとってはそれが憲法であり、野党側にとっては選挙制度なのかもしれない。

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加計学園は今治に獣医学部を作ってもよいと思ったわけ

加計学園問題に関する文部科学委員会の答弁を一部聞いた。これを聞いて「特区下で認可するというのならそれはそれで構わないのでは」と思った。

加計学園が今治に獣医学部を開学するにあたって政府は石破4条件をクリアしたこれまでにない素晴らしい獣医学部ができるという理由での「説明」を試みていた。しかしこれは日本で多く見られるように単なる説明のためだけの説明である。これを日本語では建前といい本音は別のところにあるということは与野党共わかっている。

この説明が嘘であることは委員会審議を通して明らかだった。与党は「手順通りに行われたのですね」ということを確認するばかりで答弁も当然「手順通りに行われた」というものばかりだった。つまり中身について説明できないのだ。さらに野党の逢坂委員の説明はたびたび中断した。そもそもこれまでの答弁の解釈について当事者が説明できないのである。本来はこれまでの答弁から内容を明らかにし、それからその矛盾を追求するというやりとりになるはずなのだが、そこまで行かないで質問が終わるのである。(毎日新聞の記事によると10回中断したそうだ

しかしながら、答弁の内容は実は人によって微妙に異なっていた。林文部科学大臣は「所管ではないから答えられない」と言っていた。政務官レベルは「法律の趣旨に基づいてやっている」と主張した。そして、文部科学省の官僚は「上から降りてきたから審議はしなければならないし、訴えられるのも怖いので形式的に流した」と説明した。

特に顕著だったのは官僚の答弁である。彼らは実は加計学園問題には関心がない。委員会答弁に実績として「自分たちは責任がない」という理屈を残しているだけなのである。判断したのは有識者だが彼らも議事録を残さないことで責任を取らなくてもよいことになっている。

どうやら戦略特区の背景にある精神は「政治の力を使って無理筋のものをねじ込む」というものらしい。ある議員はTwitterで「裏口入学」と言っていた。つまり、政府関係者に近い筋にある人たちを優遇するための制度なのである。もともとそれが狙いなので「私物化した」ということを証明しても違法だという認定はできないのだ。

石破4条件というかなり高いハードルが設定されたのだがそれは単に建前であって、実際には表から入れない人たちを役人の智恵で合格させるという制度だ。官僚たちは「忖度」しているわけではなく実は法の精神に基づいて働いているのである。計算違いがあったとすれば、学校がとんでもないどらむすこであったという点くらいのものだろう。普通の精神であれば「30点しかないから勉強しなさいね」と言われれば恐縮して勉強しそうなものだが、それでも勉強せずにほとんど何も書かない答案を出して「名前はあるから合格でしょ」と言っているのである。

もともと入り口選定のプロセスは特区の許認可とは別のところで行われている。つまり、政治的に選抜しているのだ。政治的に選抜というと聞こえはいいのだが、要は自民党の要職にある人たちの意向が反映されやすいということである。つまり、戦略特区とはもともと政治が行政に介入するために設計された制度なので、今回のような議論になるのは最初からわかっていたことなのだ。

この過程で京都産業大学は特区を利用することを辞退したのだが、実際には辞退する必要はなかった。加計学園程度でも形さえ整えれば学校を作れるのだから、京都産業大学も厚かましさを発揮して残ればよかった。今回の過程を見ていれば、多分「ああ入ってしまえばあとは何をやっても良いのだな」と思う人が大勢出てくるだろう。今後特区は「席に座って名前さえかければあとは努力しなくても周りがなんとかしてくれる」制度になるはずである。

これまでの日本の制度は「問題がありそうなものをすべて排除する」ことによって、民意が反映されないという制度だった。つまり、民意というのは間違える可能性があるので「親心」で何もさせないというのが日本のやり方だったということになる。つまり、完全な民主主義国家ではなかったということだ。

だが今回の特区はつまり「政治家が責任をとるからとにかくやってみよう」という制度である。安倍首相に一つ間違いがあるとしたら、国会でこう言わなかったことくらいなのだ。

加計学園が私のお友達であるのは確かだが、実力が足りない学校でもないよりはマシだし、そうでもしなければ地域振興ができないのだからグダグダ言わずに認めるべきだ。とにかく選挙で自民党が負けなかったのは、つまりこのやり方が黙認されたということなので、野党にとやかく言われる筋合いはない。

国民が自民党政権にあまり拒否反応を示さないのは、何か問題があっても霞ヶ関の優秀な官僚がなんとかしてくれるだろうという了解があるからだろう。ついでにいえば防衛に関してはアメリカに管理されておりこちらも間違胃がないと思っているのではないだろうか。つまり、完全な民主主義ではなくどこかで修正されるという期待があるから政治にあまり関心を持たないのだ。

この加計学園の委員会審議はすべての国民が見るべきだと思った。つまり、民主主義が実現していて、もう官僚やアメリカの「親心」が期待できないということである。

今回は学校だった。実際の生活にはそれほど影響がない。今治市は「土地を無償で譲渡して市民生活に影響がある」と言っているが、実は道路誘致と土地政策の失敗であって、大学がこなければ早晩破綻する土地だった。つまり、あの土地は何かに利用できる土地ではなくお金をかけたものの森に戻さなければならない程度の土地だった。さらに、獣医師になる試験を厳しくすれば実力のない獣医師が入ってくることはない。

しかし、冷静になってこの特区を見てみると「外国から労働者を入れて格安で使う」という制度が多いことがわかる。これは地域に大勢の格安労働力が入ってくるということだとわかる。日本にはパスポートコントロールがないし、入ってきた人のパスポートを取り上げることはできないので、こうしてなし崩し的に入ってきた経済移民が多くの町で見られるようになる日も近いだろう。

つまり、今回加計学園のでたらめを放置したことで起こる影響は実は広範囲に及びかねないわけだが、これも民主主義の帰結なのである。その時に官僚をせめても彼らは「自分たちが責任を取らない理由」という長大な論文を国会答弁のなかに仕込んでおり何もしてくれないだろう。

我々が知らなければならないことは一つしかない。日本は官僚的温情主義を捨てて、普通の民主主義国になろうとしているのである。

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日馬富士の暴力騒ぎに見る日本人が憲法を作れないわけ

日馬富士がビール瓶で後輩力士の頭を思い切り叩いたらしい。興味深いのは後輩力士が殴られたのが10月26日頃で表沙汰になったのが11月13日だったということだ。半月のタイムラグがあったということである。故に被害者・加害者ともに隠蔽しようとした可能性があるということになる。貴乃花親方はすでに事件直後に被害届けを出して「撤回するつもりはない」と言っているので、どちらかといえば日馬富士側が隠蔽と示談を模索していたのだろう。少なくとも警察はこれを知っていたのだが、捜査はしていなかったようだ。

この件については未だにわかっていないことが多い。かなりひどい怪我なのだという声もあるのだが27日には巡業に出ていたという情報もある。貴乃花親方も一方的な被害者というわけではなく巡業を監督する立場にあったらしい。また相撲協会はしばらくは知らなかったという情報がある一方ですぐに被害届けが出ているという情報もある。

これが事件化するかというのは相撲界の問題なのでさておくとして、ここではなぜ日本人が憲法が作ることができないかという問題に置き換えて考えたい。端的に言うと日本人は自ら最高規範たる憲法を作ることはできない。善悪の明確な区分けがなく多様な価値観も収容できないからである。

この件が表沙汰になった理由はよくわからないが、表沙汰になると相撲協会の体裁を取り繕うような報道が相次いだ。取り繕ったのは相撲の事情通という人たちで、長年の取材を通じて相撲界と心理的に癒着してしまった人たちである。これは明らかな暴行事件であり刑事事件なのだがこれを「事件だ」とい言い切る人はいなかった。さらに、これを隠蔽しようとした相撲協会にはお咎めがなく、NHKは相撲の中継を中止しなかった。

ここからわかる点はいくつかある。最初にわかるのは「横綱の品格」の正体である。ビール瓶で後輩を殴る人がいきなり豹変したとは考えにくい。普段からこのような激情型の人間であったことは間違いがない。少なくとも一般人の品格とは性質が異なっていることがわかる。許容されている行動の中には、一般人が行うと犯罪行為になるものが含まれているということである。

品格が非難されるのは「ガムを噛む」とか「挨拶をしない」などという村の掟的なものが多く、咎められるのはそれがマスコミに見られた時だけである。すべて外見上の問題なのでいわば「相撲村の風俗に染まる」ことが品格なのだということがわかる。外から見て体裁が整っているのが「品格」なのだ。キリスト教世界であれば品格とは内面的な善悪を指すのだが、日本語の品格は外面的な体裁のことであり、集団の掟と違った行動をとらないという意味になる。いずれにせよ、日本人は内面的な善悪を信じないしそれほど重要視しないのである。

次にマスコミ報道を見ていると、犯罪かどうかは警察が逮捕するかしないかによって決まるということがわかる。警察がまだ動いていない状態では、あたかも何もなかったかのように扱われる。しかしながら、いったん逮捕されてしまうと罪状が確定していない状態でも犯罪者として扱われてしまう。これはどの権威が罪人であるというステータスかを決めるまで周りは判断しないということである。つまり、いいか悪いかは文脈(相撲協会の支配下にあるか、それとも日本で働く一外国人として裁かれるか)によって決めるというかなり明確な了解がある。

例えば、薬を飲ませた状態で女性を酩酊状態にした上でホテルに連れ込んで陵辱したとしても、首相に近い筋であればお咎めはない。これは一般社会ではレイプと呼ばれるが警察が動かない限りこれをレイプとは言わない。さらに「女性にもそのつもりがあったのだろう」といってセカンドレイプすることも許されている。

このことからも日本人が善悪を文脈で決めていることがわかる。横綱は人を殴っても構わない場合があるし、政権に近いジャーナリストはレイプをしても構わない場合があるということである。

これが問題になるのは、相撲界の掟と社会の善悪が異なっているからであり、マスコミと一般の常識が異なっているからである。つまり、今回の一番の問題は日馬富士が貴ノ岩を殴ったことではなく、それがバレて相撲協会のマネジメントが破綻していることが露見したからである。同じようにレイプの問題では被害者が沈黙を守らずマスコミの慣行と一般常識が違っていることが露見して、マスコミが「バツの悪い」思いをしたのが問題なのだ。だから、れいぷされて黙っていなかった女性が叩かれて無視されたのである。感情的には受け入れがたいが、メカニズムは極めて単純である。

さらに、これが公になるのに時間がかかったことから、相撲協会は事件についてまともに調査していなかったことがわかる。多分調査というのは「いかに風評被害が少なくなるか」という研究のことだったのだろう。被害届が出ていたのだから、警察ですら「相撲協会の問題」と考えて捜査を手控えていたようだ。つまり、相撲協会の中の問題であるので、日本の法律は適用されないと考えていることになる。

これを「日本の問題」と捉えるのは大げさなのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、同じことが起こる閉鎖空間がある。それが学校だ。

大相撲では虐待・暴行のことを「可愛がり」と呼び訓練の一環だとする。同じように学校内での暴行はいじめと呼ばれ、それが自殺につながるようなものであっても生徒間の些細なトラプルとして矮小化されてしまう。この「いいかえ」は社会一般の規範が必ずしも集団では適用されないということを意味している。さらに、警察は学校に介入するのをためらう傾向にある。つまり学校の中には日本国憲法は適用されないということである。むしろ学校側は「人権などとうるさいことをいって、学校の事情と異なっているから憲法が変わってくれればいいのに」と考えているのではないだろうか。

さてこれまで日本人には内面化されてコンセンサスのある善悪が存在しないということがわかった。しかし、まだまだ解決しなければならない問題がある。これがモンゴル人コミュニティで起きたということである。モンゴル人の気質についてはわからないが日本人との違いが見受けられる。だから、日本人について分析するのにこの事件を持ち出すのは適当ではないのではないかという批判があるだろう。

モンゴル人と日本人の違いは日本人が擬似的な集団を家族と呼ぶことである。モンゴル人同士の交流がありそこに上下関係があったことを考えると、どうやら血族集団的なまとまりがかそれに変わる何らかの統合原理があったことが予想される。彼らは外面的には「イエ(つまり部屋のこと)の掟に従って師匠(イエにおける父親のようなもの)」に従うということを理解したが、その規範が内面化されることはなかったようだ。中学校や高校の頃から日本語を習得するのであまりモンゴル訛りがない日本語を話すのだが、それはあくまでも外見的な問題であって、実際には日本人化していなかったということになる。彼らは日本社会に溶け込んだ移民集団のようなものなのだ。

モンゴルがユーラシアを席巻するときに強みになったのは徹底した実力主義であるとされているそうだ。つまり年次によっての違いはなく、実力があればとって代われるということである。これも年次が一年違えば先輩後輩の差ができる日本人とは違っている。

マスコミはモンゴル人横綱は日本に溶け込んだと思いたがるので、このことが報道されることはないと思うのだが、社会主義だったモンゴルには敬語があまりないそうだ。貴ノ岩は「これからは俺たちの時代だ」と日馬富士を挑発したということがわかっているが、これが日本語でなければ「タメグチ」だったことになる、。日本人から見るととんでもない暴挙だが、モンゴル人にとってはこうした挑発は当然のことであり、挑発したら「実力で押さえつける」のも当然だったということになる。だからある意味ビール瓶は適当な制裁だったのかもしれない。

今回は、日本人と規範について分析しているのだから、こうしたモンゴル的要素が絡む事件は特殊なものではないかと思えるかもしれない。しかし、実はモンゴル人コミュニティが管理できていないということは、実は日本人が多様な価値体系を包含する規範体系を作ることができないということを意味している。これは日本人が価値体系を作る時に「イエ」というローカルな規範を部品として再利用するからなのである。

前回のエントリーでは、戦前の日本人論が破綻した裏には、国の1/3を占めるまでになった朝鮮人コミュニティをうまく取り扱えないという事情があるということを学んだ。日本人はこれを身近な集団である家族で表現しようとしたのだが、実はこの家族という概念は極めて日本的で特殊な概念だった。中国・朝鮮との比較でいうと「血族集団対人工集団」という違いがあったのだが、モンゴル人と比べると「年次による秩序の維持対実力主義」という違いがあったことになる。かといってアメリカのような完全な個人の集団ではなく、例えば年次の違いや風俗の違いに完全に染まることを要求され、その習得には一生かかる。

つまり、日馬富士問題を相撲協会が管理できず、マスコミが適切に報道できなかった裏には、第一に内在化された規範意識がないという問題があり、第二に家によって記述された秩序維持が必ずしもユニバーサルなものではないという事情がある。

これらのことから、日本人は国の最高法規である憲法のような規範体系を自ら作ることができない。それは必ず曖昧でいい加減なものになる。

もし、日本人が一から憲法を作るとそれは学校でいういじめが蔓延することになるだろう。つまり「校長という家族の元でみんな仲良く」という規範意識だけでは、生徒の間に起こる様々な軋轢や紛争をうまく処理できないということだ。相撲協会の場合には「みんなが見て立派な人間に見えるようだったら何をしてもよい」とか「部屋の父親である親方の顔にドロを塗るなよ」いうのが規範になっており、これではモンゴル人集団のような多様な価値観が収容できなかった。

保守という人たちは既存の体系に疑問を持たないので、決してこの欠点を超克することはできないのだ。

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なぜネトウヨの議論は机上の空論なのか

面白い本を見つけた。「単一民族神話の起源」という名前が付いている。日本は単一民族の国だというのは「神話だ」と言い切っているのだ。

いきなり明治時代の日本人像の構築過程から始まるのでとても読みにくい。これは小熊英二さんの修士論文なので「結論が先にあって各論で補強する」という構成にはなっていないのだ。「日本人は白人である」などの各論も面白いし「ここに書かれているものを全て読んだのか」という驚きもある。だから「ざっくり概要をまとめる」というのは一種の冒涜行為かもしれない。だが、先に進めるために概略だけを説明すると次のようになる。

日本は開国以降自己像の構築を迫られる。紆余曲折を経て「日本人はもともと純血である」という純血論と、「南北アジア人の混血である」という雑種論の二種類が生まれ、最終的には雑種論が優勢になった。純血論は外からの働きかけに対して国を防衛しようという考え方の表れであって、雑種論はアジア圏に日本人が進出してゆくのに都合がよかった。

日本が国の形を整えて、帝国に移行すると、純血論では支配地域の人間を日本帝国に飲み込むことができない。そこで雑種論が優勢となる。しかし、一方では統合のための原理を確保する必要があったので「日本は天皇を父とする家族である」というような論が採用された。しかし、血による家族では人口の1/3を占める朝鮮人が統合できないので、家族は血によって統合されるのではなく「養子もあり」ということになった。つまり、養子でもその家の雰囲気に染まれば立派な家の子供になれるというような理屈だ。しかしそれは、名前と言葉を捨てて日本文化に染まるべきだという考え方に変わりなんとなく採用されてゆく。

ところが、このような議論が国によって統一された形跡はない。議論に逮捕者がでると議論全体が萎縮し、第二次世界大戦時期には議論そのものがほとんど行われなくなる。そして、海外領土が失われると雑種論を推進する根拠がなくなり、今度は純血論が優勢になり、これもなんとなく日本人は単一民族なのだという論が採用されることになった。これが現在にまで続いている日本人が単一民族なのであるという神話の成り立ちである。

統合原理のない国

この論文にはいろいろな読み方があるのだが、下記の点に注目した。

第一に現在のネトウヨの議論が机上の空論に終わる理由がわかると思った。つまり日本人が何者かという議論は収束しないままうやむやになって終わっているので、都合の良いところをつまみ食いするとどこかで必ず破綻してしまうのである。なぜ破綻するのかを考えてゆくと大切なところを決め込んでいないからだということがわかる。では何が大切なところなのだろうか。

第一に、日本人は純血なのか混血なのかという対立点がある。他のアジア民族から優位であると思われるためには純血であった方が都合がよいのだが、朝鮮半島や中国を支配するためにはユニバーサルなアジア人だと思われた方が良い。だが、ユニバーサルなアジア人モデルを使うと、日本人と朝鮮人に外見的・遺伝子的な違いはないのだから支配の正統性が証明できなくなる。日本人が持っていた優越感は中国が世界経済の担い手に復帰する1990年代までは続いたのではないだろうか。

日本人論ができ始めた当時は民族主義が台頭していた時期なのだが、同時に植民地支配も正当化されていた。つまり日本人を規定する際に、支配者たる資格があるのか、それとも中国人のように植民地支配されても仕方がない民族なのかという問題が降りかかる。このために「日本人はもともと白人だった」というような説すら真面目に議論されていた。このため、単一民族か、混血なのか、しかも惨めなアジア人の一員にすぎないのか、特別に選ばれた選民なのかという揺れに決着がつかなかったのだろう。

この問題は朝鮮人が国内に流れ込むことによって、日本に住んでいる人であっても、日本人と非日本人がおり、世代を重ねて朝鮮人が日本語を習得すれば、違いがなくなってしまうという問題も生み出した。朝鮮人が国をまとめられないほど無能な民族だと仮定すると、彼らが日本人になるのは由々しき問題である。しかし、もう内包してしまったのだからこれを押し戻すことはできない。

この第一の問題は小熊論文では多く取り上げられて問題視されている。だが、日本人論が定まらなかった理由のもう一つは別のところにあるかもしれないと思った。

権威は利用したいが支配はされたくない

第二に、西洋と対峙するにあたってキリスト教の聖書のように教義がはっきりした経典を作りたいという気持ちと、特定の権威を認めたくないという気持ちの間に揺れがあったのではないかと思った。これは、天皇の権威は利用したいが、かといって天皇に支配されるのはいやだということである。このことから日本人論に国家機関が絡むというようなことはなかったようである。つまり、社会の間に定説が生まれなかったのである。

この傾向は実は長い間日本人に意識されることはなかった。戦後、河合隼雄やロラン・バルトがそれぞれ「日本の中心はがらんどうである」という論を出すと、日本人はそれを驚きを持って迎えた。この中空構造は日本人が権威を利用しつつ支配されないようにするための巧妙な仕掛けだったのだが、あまりにも巧妙すぎて日本人すら気がつかなかったということだ。

日本人は小さな集団を作り、相手からあれこれ指図されることを嫌う。しかしながらそれでは国がまとまらないし内戦状態に陥ってしまうので、トップに「何もしないがとても崇高な」ものを置くことでお互いを牽制するという智恵がある。これががらんどうの中心である。

例えば東京都は中心に都知事をおいている。強い権力を持っているが東京都知事はこれを行使しない。そのことによって特別区の中にそれぞれの権力構造を作ることができる。小池知事が間違えたのはここで、東京都を大統領制の国のように考えたのだろう。各区の利権構造に手を入れてしまったので何もまとまらなくなってしまった。江東区と大田区が領土紛争を起こしたり、江東区と中央区の間で魚市場を巡った争いが起きている。つまり、権力者になるということは争いの当事者になるということだから、調停する人が誰もいなくなってしまうのである。東京都民が都知事に期待しているのは尊敬はされるが何もしないというような人なので、小池人気が凋落するというメカニズムが働くわけである。

このような傾向は今でも続いていて保守派を名乗る人たちに顕著に見られる。天皇の権威は利用したいが、天皇が退位したいといえば「わがままだ」という保守の人がいる。天皇陛下が高麗神社を参拝された時には「反日天皇」という言葉すら生まれた。同じようにアメリカの軍事的権威は利用したいが押し付けられた憲法は嫌だという保守派も大勢いる。軍事的には利用したいが経済的な注文は無視したいと思うような人たちだ。つまり、権威だけは利用したいが決まりごとで縛られるのはいやなのだ。

いずれにせよ、日本で中核的な日本人論ができなかった裏には、誰かが中核的な議論を作りそれに進んでしたがおうという気持ちにならなかったからだろう。戦前の日本人論の成り行きをみると、権威が生まれると、議論と称して足を引っ張り合い、最終的には「あいつは不敬だ」という言いがかりをつけて辞任や出版禁止に追い込むようなことになる。結果議論は萎縮し、決着をえないまま、なんとなく戦後になだれ込むようになったのではないだろうか。

そこで日本人が考えた統合理論が「家」だった。つまり、家族が仲良くするのがいいことだというような理論が作られたとも言えるし、一生懸命考えた挙句にそれしか残せなかったということになるのかもしれない。いずれにせよ、なんとなく道徳的に誰もが否定できないものだけがなんとなく残ったのが戦後保守なのである。

だが、この「誰でも納得するだろう」という統一原理も実はユニバーサルな価値観ではなかった。日本では家に養子を迎えることにそれほどの拒絶反応はないが、中国や韓国では家とは血族集団であり、自分勝手に入ったり抜けたりできるようなものではない。これが「創氏改名」が朝鮮半島で第反発を受けた理由になっている。

これが現在の宗教である民主主義との違いなのだろう。民主主義はキリスト教の後継として生まれてから、様々な社会で試行錯誤された結果、ある程度洗練された思想体系となっている。日本の「みんな仲良く家族主義」はこうした歴史のテストを受けていないので、外国人だけではなく日本人さえも説得することができないのだ。

戦後の憲法議論にも影を落とす

日本では国家像が整理されないままに停止して敗戦を迎えた。ということは、保守の基幹になる統一原理がないということである。つまり日本には保守主義など存在しないのである。こうした矛盾点を見つけるのは実は難しくない。

例えば三原じゅん子議員が「日本には八紘一宇という素晴らしい考えがある」と言った時、これは帝国を前提にしているのでアジアのユニバーサル主義を志向しているはずである。だが、実際には保守派の人たちは中国や韓国に対しては差別的な考え方も持っている。これは日本人は純血であるべきという純血主義だ。ゆえに、これを真面目に考えて行くと必ずどこかで破綻することになるはずだ。これが破綻しないのは、三原議員がそれほど深くこの問題について考えていないか、誰かのアイディアのコピペであり単なる個人崇拝だからなのだろう。いずれにせよ体系化された主義ではなく、戦前の議論の断片が転がっており、それを好きに並べてインテリアとしては機能する程度の「戦前レトロごっこ」ができるようになっているということだ。

さらに安倍首相は、アメリカに押し付けられた憲法だからみっともないと言いつつ、実際にはアメリカの軍事力に依存している。つまり、アメリカからあれこれ指図されるのは嫌だが、アメリカの威光は利用したいということだ。これが破綻しないのも、あまり深く考えないからだろう。

「考えない」ということは意見交換することも論破することもできないということになる。しかし、相手を説得することもできないので、いつまでも議論は膠着することになるだろう。だが、安倍首相はそれでも構わないのであろう。

それでも構わないのは、相手を説得する必要がないからである。なぜ説得する必要がないかというと、新しくできる憲法はみんなを縛らないものになるからだ。

強硬な保守派から「押し付け憲法はみっともない」とか「天賦人権は日本人には向かない」という議論を聞くことができる。であれば、国民を説得する代替えの統合原理を提示する必要がある。だが、実際にこうした論を深掘りしていっても「天皇というのはお父さんみたいなものなので、みんなで仲良くしようよ」というくらいの論しか出てこない。実は日本の保守にはその程度のコンセンサスしかない。

天賦人権は日本人に向かないという論を受け止めたとしても、それに変わるのは「家族でみんな仲良く」というような稚拙な議論だけであり、ではその家族をどう定義されるのですかという問いかけにも「家族といえば家族だろう」くらいの返事しか戻ってこないだろう。

家族は仲良くして、何かあったらその都度話し合おうということは、つまり何も決めないのと同じことである。

歴史的に見ても日本人は自分たちの動機で憲法を作ったことはない。最初は中国に向けて体裁を整えるために憲法を作り、次にヨーロッパからバカにされないために憲法を作った。最後の憲法はアメリカから押し付けられた。つまり、自分たちで自己規定はできず、常に外来的な要因のために憲法を整えてきたのである。日本人にとって憲法とはそのようなものであり、つまりファッションみたいなものだ。

いずれにせよ、日本人は自分は憲法のような経典からは自由でありたいが、他人は縛りつけておきたいと考える。この方法だとやがて社会が崩壊してしまうので、当たり障りのない権威を中央においた上で縄張りを切ってお互いに侵入しないような社会構造を作りがちだ。憲法というのはその意味では日本人には向かない考え方だと言えるし、日本人に向いた憲法は多分「何かあったらその都度仲良く話し合うように」程度のものだということになる。

すべてのイデオロギーは単なる信仰にすぎない

今回の文章は主に保守派と改憲派を批判する内容になっている。つまり、保守派が守りたいと考えている価値体系は実は存在しないということで、価値体系が存在しないのは保守派が無能だからということである。

では護憲派が正しいのかというとそうでもない。民主主義は単なる宗教にすぎず絶対的な原理ではない。つまり、みんなが信じないと無効になってしまうということである。にもかかわらず、護憲派という人たちはこれを絶対的な真実だと思い込みたがる。実は民主主義が内面化しておらずこれを心から防衛することが難しいからなのではないかと思う。

例えば、憲法第9条は宗教なので、常に信仰心を持ち続けることが重要だ。これは単に内面的に信じるだけでは維持できない。キリスト教徒のように教会に通ったり、イスラム教徒のように日に五回お祈りをしなければならない。さらに北朝鮮のような敵国にも「それを信じ込ませる」布教活動が必要だ。つまり、信仰には行動と集会が欠かせないということになる。

だから、これを「絶対的な真理だ」と考えると懐疑派を巻き込めなくなる。絶対的な真実であれば行動しなくてもおのずから実現できるはずだからだ。

だが、護憲派に「憲法第9条は宗教にすぎないですよね」などというと多分ぶん殴られるのではないだろうか。

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外側から崩壊しそうな安倍政権

安倍政権が危ないのではないかと思っている。兆候は些細なものばかりだが、これから安倍政権には辛いことが起こるのではないだろうか。もちろん、この予想が当たるかどうかはわからないのだが、どうしてそう思ったのかを記録して起きたい。

これまで安倍政権がどのようにして崩壊するのかということについて考えていた。最初のうちは「政策のまずさから国民が声をあげて内側から崩れるだろう」という望みを持っていたのだが、どうやらこれは起こりそうにない。幾つかの理由が考えられるので整理してみよう。

  1. 第一に国民の半数程度は政治にまったく関心がない。
  2. 第二に国民は不安を感じると体制を変えることではなく維持することを選ぶ。
  3. 第三に野党勢力に自信がなく一致団結して政権を取ろうという気持ちにならなかった。

まとめると、国民は潜在的に無力感を感じており、自分たちで体制を変えて国をよくしたいという気持ちにはならない。外部から民主的に駆除するという選択肢の他に自民党内で安倍おろしが起こるという可能性があるのだが、これも地方選挙の結果などから誘発されるのだから同じシナリオと考えて良いだろう。つまり、このままだと安倍・自民党政権が続くということになる。

逆に言うと「この状態」が崩れてしまえば国民は自民党政権を支持しなくなるか、あるいは安倍政権を支持しなくなるということがわかる。安倍政権に国民が期待しているのは何だったのかということを念頭に起きつつ、次のツイートを見ていただきたい。すでに報道も済んでいる。

「俺は金正恩のことをチビでデブと言ったことはないのに、なんで俺のことを老ぼれ」とバカにするのだろう。俺はやつと友達になろうとしているのに……でも、もしかしたらそのうちそうするだろう。

このTweetが出た時の最初の反応はトランプ大統領がまた金正恩を挑発しているというものだった。判断には現状バイアスがあるので「トランプは北朝鮮を挑発して戦争したがっている」という判断が働いたのだろう。これがやや修正されるのは海外報道が日本語訳されてからであり、半日ほどのタイムラグがあったようだ。

日本人の現状維持バイアスはそれほど強いということが実感できる。従ってこのバイアスが破られたときにはそれなりの揺れが観測されるはずだ。

中国を訪問してからトランプ大統領の態度が変わったと考えてよいだろう。つまりこれは対話路線の可能性の表明だ。しかし日本人はコンテクストを強く意識するので、文面だけを読んで意図を読み取るということをしない。

トランプ大統領は主義主張に一貫性がなく、直前にあった誰かに影響を受けやすいようである。これは価値判断を多分に含んだ表現で「コンテクストを決めない」ことで交渉力を増すという戦略なのである。このやり方を取ると、ギリギリまで多方面からバーゲンを引き出すことができる。

このことからわかるのは安倍政権がトランプ大統領との会談に失敗したか、あるいは最初から成功していなかったということである。これもやや理屈っぽくなるが、安倍首相の戦略はコンテクストを強めることで意思決定に対して印象操作を行うというものだからだ。このために日本人が使うのが「接待」であった。

今回の訪問で印象に残ったのは横田基地の演説だったのではないかと思う。つまり、日本はアメリカからみると半占領状態にある従属国家であり武器の市場に過ぎない。しかしながら中国は対等な大国であり、仕事の受注先だった。皇帝の権威と黄金の富を見せびらかしたのはトランプ大統領に深い印象を残しただろう。

安倍政権はトランプ大統領の北朝鮮政策について「完全に一致した」と言っている。これは、北朝鮮を追い詰めるという文脈あってのことである。そこでもしトランプ大統領が対話路線を言い出したら何が起こるだろうか。国内でのメンツが潰れてしまう。

安倍首相の戦略は「完全に米国の追随しつつ、アメリカに働きかけを行ったと日本人に説明する」というものだ。これによって「アメリカとの緊密に働きかけることによって影響力を行使した」という偽装の物語を作り出すことができる。これが崩れるのはどんな時だろうか。それはストーリーがそもそもないということがわかってしまった時なのである。

最初の分析について振り返ってみると、安倍政権が支持されているのは「アメリカとの関係が良好で現状維持ができそうだから」だった。影響力を与えることができることには2つのメリットがある。日本のプレゼンスが増し、さらにアメリカが攻めてこないという保証が得られるのである。

この強いリーダーというイメージが毀損する映像が空撮でリークされた。ゴルフスコアが国家機密にになり、また足腰が弱くトランプ大統領と松山英樹について行けないということが露見したのである。

面白いなと思ったのはスポーツ紙の論評だった。ゴルフが下手であるばかりか、バンカーの坂を駆け上がってバンカーを崩すのはマナー違反なのだそうだ。日本人には大局観はないがこうした細かいことを通じて「その人の人柄」を推察しようとする傾向がある。これが「接待」が重要視される理由だろう。このことから「重要な接待もできない」無能なリーダーとして、サラリーマンから軽蔑されることは間違いがない。

そんなことを考えていたらまったく別の角度からのツイートを見つけた。

これはこれまでの政権は対米関係を自分だけの利権とはみなしてこなかったということである。安倍政権はこれを独占して「自分だけがアメリカとの関係を結ぶことができる」という印象を与えているのだ。裏を返せばいったん対米関係がギクシャクしだすと、今度はその責任をすべて安倍政権が取ることになるということを意味している。

国民が安倍首相に期待しているのは民主的なリーダーではなく封建王権のようなものだということになる。それは絶対王権ではなく朝貢国の王権に近い。こうした古い雛形が今でも残っているのだという驚きがある。

そして、この時に起こるのは民主的なリーダーの選び直しではなく、王殺しだということになる。

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自民党を立派な政権与党に見せかけるテレビの危うさ

立憲民主党を「にわかヒーロー」に祭り上げたSNSの恐ろしさというおぞましい小論文を読んだ。書いたのは岸博幸という元官僚である。SNSという「愚民装置」が立憲民主党という見せかけの政党を野党第1党にしてしまったといういいがかりである。

この文章のおぞましさは、論理構成が破綻した印象論を振りかざしつつ批判に対しても一応の対策をとっているという点である。だが、しばらく考えてゆくと別の問題も見えてくる。

政権とそれに近い人たちが今回の立憲民主党の躍進について、ネットへの敵愾心を高めたのはどうやら間違いがなさそうである。菅官房長官が発案したツイッター規制スキームを見ても分かる通り、これから「ネットは危ない場所である」という論陣が張られるようになるかもしれないが、これは言論統制の一種であり、民主主義への重大な挑戦である。

この岸小論文の厄介なところは「ネットは人々を愚民化する」という印象を与えつつも、議論の後段でネットを規制しろなどとは言ってはいない点であろう。これが印象に引きずられて炎上しかねない文章を量産している百田尚樹さんなどと違っているところだ。

表向きは言論の自由という建前があるので、政治はネット環境に適応して行かなければならないという結論になっているのだが、かといってネットに興味があるわけではないので提言はない。官僚的な小賢しさが溢れていると言っても良い。しかし、週刊ダイヤモンドを読んでいそうなネットや若者のトレンドについて行けないおじさんたちのルサンチマンを満たすには十分な内容になっている。

一応の対策が立ててあるので、これに反論するのは難しい。しかも「YouTubeは人を夢中にさせる」というなんとなく科学的に聞こえそうな論拠にはふらふらと引き寄せられそうになってしまう。

だが、これについて反論するのは実は簡単だ。別の論を当てて無効化してしまえばいいのだ。

テレビは受け身のメディアである。次から次へと情報が流され、聞いているうちにそうかなと思わされてしまうからだ。新聞は見出しをみて取捨選択ができる優れたメディアであり、読者の判断力が担保される。だからテレビは視聴者を洗脳しやすい危ういメディアということが言えるだろう。

このような洗脳メディアを使うと、失政を隠蔽することができる。NHKをはじめとしたメディアをコントロールすれば受動的に情報をとることしかできない国民を洗脳することも可能だろう。

しかしながら、テレビがあるという状況は今更変えられないし、新聞より影響力が大きいという現実はある。だから、この状態に適応してゆくしかないだろう。

この論には多分間違っているところはない。テレビは新聞に比べると受け身なメディアであることは間違いないし、それを証明する科学的な論文も見つけようと思えば見つけられるだろう。さらにNHKは国民を洗脳しているとは実は書いていない。だから「洗脳は言いがかりだ」という批判はできない。

仮にテレビがダメなメディアであったとしても、それだけが自民党が支持されている理由にはならない。つまり、この文章は実は何も言っていないのだが、自民党は国民を洗脳していると思いたい人にはありがたい文章になっている。

立憲民主党がSNSを利用して成功したのは間違いがないのだが、これは一時的なブームではない。ネットを通じた継続的な政治意思の表明があり、これが現実に反映されないために、継続的な試行錯誤が行われていると考えて良いだろう。枝野代表自身が「ネット左翼・リベラル的」な主張を持っているかはわからないが、このような声を代表するポジションを意図的に洗濯しているのは間違いがない。

だが、岸さんがこのことをわからないで主張しているとは思えない。官僚出身で頭の良い人であり、ネットメディアもある程度使いこなせる年代の人である。最大の問題は岸さんくらいの人が、世論誘導の文章を書いて生きてゆくしかないという現実なのではないだろうか。

社会が継続的に成長している時代には、こういった人たちは改革の担い手になれたはずである。しかし、国民は改革に疲れており現状には満足してはいないが何かを変える勇気はない。また、政権は民主主義を扱いかねており、何の成果も出していない。このような状態で行き場をなくしてしまうのは、多分優秀な人たちなのだろう。

つまり、日本が行き詰った結果として、有り余る才能をすぐに露見するような稚拙な言いがかりにしか使えないという直視しがたい現実があると考えて良いのではないか。

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