かみ合わない議論が経営コンサルを殺す

今朝労働規制について書いたので行きがかり上仕方がなく国会中継を見ていた。現在、田村智子さんという共産党の議員さんが塩崎厚生労働大臣とかみ合わない議論を繰り広げている最中だ。これを聞いていて「ああ、これは経営コンサルが死ぬなあ」と思った。
田村さんは裁量労働制が適応される人の例としてIBMの企業常駐SEや電通の高橋まつりさんを挙げている。一方、塩崎さんが例に挙げているのが「外のお客さんに経営指南をする」人だ。どちらも「コンサル」には違いがないわけだが、塩崎さんが念頭においているのはコンサルティングファームで高給を取っている経営コンサルなのだということがわかる。
田村さんを説得するのは無理そうだ。多分、自分たちに近い労働組合の事例を念頭において(IBMの労組が共産党系なのかもしれないなあと思った)しまっている。強い信念と思い込みがある上に「自分の方が現場を知っている」と考えているのだろう。こういう人は覆せない。
確かに塩崎さんは裁量労働制の導入意図について理解しているのだろう。外資系コンサルファームはたぶん高収益産業なのだが、日本の硬直的な給与制度のもとに優秀な人材を雇うことはできない。労働法制を変えればこうした産業が日本に入りやすくなるのかもしれない。
だが、実際にドメスティック系の経営コンサルと働いたことがある人なら、実際に彼らが何をしているか知っているだろう。彼らは経営者が納得するような絵を描くのが主なお仕事である。金曜日に出た経営者の気まぐれに基づいて月曜日の早朝までに資料を作るのである。こうした資料のことを「ポンチ絵」といっている。つまりマンガである。
外資系の企業は、経営コンサルが持っている「成功事例」に基づいて経営を変える。経営者の権限がしっかりしており改革が断行できるからだ。だから外資系の経営コンサルは「自分の時間割」で裁量的な労働ができる。しかし、日本人経営者は会議に会議を重ねる。あまり責任を取りたくないし、自分たちが今やっていることを変えたくないからである。それにあった資料を作るのが日本の経営コンサルだ。つまりベクトルが異なっている。
このベクトルの違いはIT産業で働いている人ならよく知っているだろう。外資の会社はシステムに合わせて業務を変えるのでシステム改変が簡単に済むが、日本は業務にあわせてシステム開発をしている。だからSEが過労死するまで働き、客先も成功事例も導入できない。みずほ銀行のようにいつまでたってもシステムが完成しない企業すらある。同じようなことが経営コンサル業界でも起きている。まじめな彼らは徹夜してでも資料を作るのだが、経営者が理解できるかどうかわからない。
つまり、労働法制の問題は実は法整備の問題なのではなく、日本の労働慣行の問題だということになる。つまり、外資系コンサルやITベンダーがこのようにリスクの高い国にエース級の人材を投入するとは思えない。にもかかわらずアメリカ型の労働法制を適応してしまうと、死者が増える可能性すらある。
結局誰も優秀で根性のある労働者を助けてくれないのだ。この文章は30分ほどで書いたのだが、田村さんは「労働者のために」熱弁を振るい続けていいる。とても熱心で情熱的なのだが、この情熱は空回りしているようだ。とはいえ政府側が正しいということを意味しない。結局、犠牲になるのはまじめで優秀な人たちなのである。

豊洲移転問題の識者達は全員大学からやり直せ!

東京スポーツWebを見て、おじさんわかっちゃったよ!と思った。次の瞬間これまでウンウン悩んだのはどうしてなのかと思い、そして腹が立った。どいつもこいつも大学からやり直すべきだとすら思った。

と、意気込んで書いたのだが、その後数時間経って「過去の調査費用が高すぎる」とか、専門家委員会がちゃんと検査したかどうか評価し直すという話が流れてきた。科学が理解できていないというだけでなく計測すらまともにできない人たちだったみたいである。

「豊洲の土地が汚染されている」といったとき、我々素人が考えるのは「きれいな土地と汚い土地」があって、その検査値はいつも変わらないという世界だ。きれいな土地からは有毒物質は出ないし、汚い土地からは有毒物質が出る。ゆえに、検査値がまちまちということは「誰かが隠蔽していた」か「検査方法が間違っていた」ということになる。
ところが、実際には地下水処理の仕組みが働いている。つまり、豊洲は動的に動いていることになる。もちろんそれ以外にも雨が降ったなどという環境の変化もあるだろう。これまでの調査ではこの処理システムがどう動いていたか、どれくらいの影響があったのかということは全く問題にされていない。が、よく考えてみると「条件が同じでないのなら結果がちがっていて当たり前」である。
小池都知事はこのことがわかっていない可能性がある。検査機関を複数にしてやり直すと言っているからだ。これは検査機関が「エラー」を起こす可能性は排除していないが、環境が変わること想定していないということになる。もし観測対象が動的に変化している可能性がわかっていれば、複数の人から話しを聞いていたはずだ。環境が違うのだから安全数値がでても、過去の測定が間違っていた証明にはならないのだ。
これがどれくらい馬鹿げているかということを簡単な例で説明しよう。昨日と今日で外の温度が変わっているが、それは温度計が壊れているか誰かが嘘をついているのではないかと疑っているような状態だ。実際には雲とか地球の傾きなどが複雑なふるまいをした結果温度が変わっているだけなのだ。つまり、昨日20度あったからといって、今日が9度しかないということを否定することはできない。
しかし「温度が10度以下だとお外に出てはいけませんよ」と言っているので、気温が10度を下回ると「本当は10.1度あったのではないか」とか「外に出てはいけない基準は半ズボンのときだから長ズボンを履いてはどうか」などと言い争っていることになる。別の人は「みんな10度ルールを守っているのだから、それが違うなどと言い出すのは人の道に反する」と叫んでいる。
じゃあ、安全に管理できるなら豊洲に移転してもいいんじゃないかという声が出てきそうだが、そうではあるまい。リスクがある土地に移転した場合、そのリスクを管理し続ける必要がある。だが、都のリスク管理能力はほぼゼロに近く、モニタリングすらまともにできない。
多分モニタリングするチームと地下水処理のシステムを動かすところなどが別のセクションにありお互いに調整しないままに事業が進んでいるのではないだろうか。都はプロジェクト管理能力がないのだから、豊洲移転などもってのほかだということになるだろう。
なぜ都が当事者能力を持っていないのかはわからない。日本の大学教育がぶっ壊れているか、集団になるととたんに無能化するのだろう。
 

サラリーマンは二級社員になる

今回はトランプ大統領が出したイスラム地域からの流入禁止とサラリーマンの将来について考えたい。「全く違った話ではないか」と考える人が多いかもしれないのだが、実際にはつながるのだ。つまり「閉じた国」で既得権益のある層を守ると国は衰退するのである。

急速に閉じつつあるアメリカ

このブログを書き始めた頃、アメリカに憧れていた。日本はITすらまともに使いこなせず、移民も排斥しているが、アメリカは世界から才能を惹きつけていた。リチャード・フロリダのクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるのような本を読んで本気で羨ましいと思っていたし、ダニエルピンクがいうようにハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代が来ると思っていた。
だが、その見込みはたった数年で揺るぎつつある。「1980年代のアメリカ」が息を吹き返し「外国がアメリカの製造業をダメにしている」というような主張がみるみるうちに支持を広げた。そしてトランプ大統領は本当にいくつかの排斥措置を実行してしまった。

米国務省は28日、BBCに対して、イラク、シリア、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、イエメンからの渡航者はすべて、二重国籍者も含めて、米国への入国が当面禁止されると話した。有効な査証(ビザ)を持つ人も含まれるという。

日本では移民問題を人権と関連付けて考える人が多いのだが、実は経済問題でもある。移民の中には教育にお金をかける人たちがいる。知識は持って逃げられるからである。アメリカのIT産業を牽引しているのは中国人とインド人だった。さらに「クリエイティブ都市論」で示されたように、才能のある人材は、開けた場所を好む。つまり自由は人々を惹きつける。東京のように外国人が家を借りるのに苦労するような場所よりもロスアンジェルスのような多様性のある街を好むのである。

自由は人を惹きつけることを知っているカナダ

ということで、カナダのトルドー首相が「トランプに排除された人たちを受け入れる」といったことは、人権に配慮したという側面もあるだろうが「優秀な人材が必要な産業はカナダに移動すべきだ」というメッセージでもある。つまりシリコンバレーは北に移ったほうがいいですよというメッセージになっている。
トランプ大統領が選択したのは製造業に強いアメリカなので、中国やインドあたり価格で競合することになる。実際にトランプ政権の貿易担当者は中国シフトだ。さらに、IT産業を直撃しそうな就労ビザ政策の変更もささやかれている。これは現在日本が経験しているようなデフレへの道である。日本はIT化が遅れ、未だに製造業が地域の就職の最大の受け皿になっている。当然人件費では中国に勝てないので、非正規雇用で補うか、外国人を安く入れて使いたおすという方向の議論が起こる。アメリカも日本を模倣した移民政策をとり続ければ、自ずと賃金の下落が起きるだろう。一部では「ロボット化が進むだけ」という観測もあるようだ。つまり外国人ではなくAIが使われることになる。そのAIはトロントあたりで開発されているのかもしれない。

実は高技能移民を議論し始めている日本

さて、実は安倍政権は移民受け入れに積極的である。安倍政権の移民政策は二つある。一つは高技能移民の導入で、ホワイトカラーエグゼンプションはこれに伴った措置だと考えられる。もう一つは労働者クラスの移民でこちらは「研修生」として受け入れて、子供も作らせず定住もさせず(定住すると福祉給付の対象になる可能性がある)に一定期間だけ働いてもらおうというような制度だ。
実はこの議論はとても面白い。毎日、国会を見て笑い転げている。議論をしている人たちがこれをよくわかっていないように見えるからだ。本当にわかっていない人たちと、わかっていてわざとボケている人が混じっているようなのだが、外からみると誰がどうなのかがわからない。
ホワイトカラーエグゼンプションは残業ゼロ法案というレッテルが貼られていて、日本人の正社員層が「残業ゼロ」になるような印象を与えている。これに対して管さんは「すべての社員に当てはまるわけではない」と言っている。管さんは知っているのだろう。

転落が予想される正社員

とはいえ、政府は本当の意図をおおっぴらには説明できない。高技能社員を輸入すれば、何のスキルもなく英語すら話せないのに非正規雇用の人に対して威張り散らしている正社員はホワイトカラーの元で働く「二級社員」になってしまうからである。加えて「同一賃金同一労働」が推進されている。これは正社員の特権剥奪だ。
実際には高技能移民の受け入れ政策はあまりうまく行かないだろう。普通の日本人は英語をろくに話せず外国人を受け入れる度量もインフラもないので、先進産業は香港やシンガポールなどの旧英国植民地に行ってしまう。高技能移民が来るとしても東京くらいだろう。東京の都市魅力度はかなり高いとされている。
そうなると大阪を含む地方都市は、二級社員になった正社員が海外にいる特急社員に使いたおされるというような国になるのかもしれない。そこからも漏れたような人達は大学で細かな法規制を学んだあと老人介護などをして過ごす。決して働きがいがないとは言わないが、給与は伸びず家庭を作ることはできない。

この予言は当たるか

日本は現在の支持者達を刺激せず、製造業も守り、なおかつIT産業に代表されるような高技能労働者重視の産業を惹きつけようとしている。いわばおいしいところ取りなのだが、政策に整合性がなく効果が出るかどうかよくわからない。
だが、トランプ大統領の政策をみると製造業を守る動きが高技能型の産業に対する競争力を削いでいるのは明らかだ。
ここから考えると、現在の日本の労働改革は失敗する可能性が高いと言えるのではないだろうか。
 

決めない国日本・決めすぎる国アメリカ

トランプ大統領が就任してからわずか一週間でさまざまな大統領令が発令された。ある報道では17に上るという。これを聞いた日本人は「革命でも始まるのではないか」と怯えている。戦後70年以上アメリカとお付き合いしているわけだが、日本はアメリカの新しい側面を知りつつあることになる。
「決めすぎる国」を知ることは「決められない国日本」を知ることでもある。この「決められない」性格は、長時間労働や豊洲移転問題の混乱などを解くカギになる。

決めすぎる国と権力の独立

アメリカにはWHY NOT?という言葉がある。WHY NOTには悪い含みはなく、積極的に推奨されている。「なんでやらないの」といような意味だ。つまりアメリカ人は「思いついたら試してみたい」人たちなのだ。
トランプ大統領は気に入らない国からの移民は入れないという方針を打ち出し、それをWhy Not精神で即座に実行してしまった。その影響でたまたまテヘラン生まれだったアメリカ人や戦争時に通訳とて貢献したイラク人などなどが入国を拒否されたり飛行機に乗れなくなった。中には空港で手錠をかけられた人もいるそうである。
「根回し」が何もなく、当局者は「ボスがそういうなら」と後先考えずに命令を実行してしまった。だが、この混乱はすぐに収束した。裁判所が人権団体の申し立てを受けて大統領令を差し止めたからだ。権力者は間違える可能性がある。だから権力が分散しておりそれぞれ独立性を保っている。同じような分立は議会との間にも働いている。トランプ大統領は「壁を作る」と言っているが、予算が通らなければ壁は作れない。
権力がにらみ合っているからこそ、トランプ大統領は安心してむちゃなことができる。「俺はやろうと思ったけど議会がねえ」と言えるのだ。トップが思い切った対応ができるのは、それぞれが独立しており、うまく機能しているからだ。

決められないし責任も曖昧な国日本

むしろ面白かったのは日本人の反応の方だった。大統領(つまりアメリカで最も偉い人)が決めたからみんな従うだろうと思っている節がある。だから「トランプの意向」を気にするのだ。だが、これは極めて東洋的な考え方だ。
日本人は集団で決める。そのため意思決定が遅い。さらに、誰が何を決めたのかはっきりしない。このため、意思決定が遅い。しかし一旦決めたことをやめるのはさらに難しい。誰が決めたかがわからなくなっているからだ。

実例1:もめ続ける豊洲移転問題

例えば誰が考えても破綻している豊洲移転問題はまだもめているようだ。外野からも「論客」の参入があり話がややこしくなっている。池田信夫さんなどはこれでフォロワーが増えたと喜んでいるくらいだから、世間の関心が高いのだろう。池田さんのような外野でも「ネットで揉めているから俺に発言権がある」と考えてしまう人が出てきて、それに同調して騒ぐ人がいるのだ。
こうしたことが起こるのは権限が曖昧だからだ。「誰が何を決めているのか」がさっぱり見えてこない。ボスは石原慎太郎だが、部下に権限を委託(しかもインフォーマルに)しており、それを忖度した周囲も言うことを聞いてしまう。浜渦武生さんは選挙で選ばれていないので責任が取れない。浜渦さんの無理を聞いているうちにいろいろと無理が生じるので数字の改ざんなどが起こった。数字や議事録を隠した人を探しているうちに、なんとなくトップの責任は有耶無耶になってしまう。有権者にとっては責任者だったはずの石原さんは「俺にそんな難しいことがわかるはずはない」と嘘ぶいている。

実例2:延々と調整を続けて過労死する労働者

この権限の曖昧さは長時間労働などの原因にもなっている。職掌が曖昧なので有能な人に仕事が集中する。また中間管理職は誰に話していいかわからず調整に右往左往する。ひどい場合には全く関係のない人が出てきて「俺は話を聞いていない」などと言い出す。そういう人を収めるのに長い会議を行なうのである。みんな責任は取りたくないのでいつまでもなにも決めない。しかし重要な会議のたびに膨大な資料が必要になり「情報が少ないから決められない」と言い出す人が出てくるのだ。

実例3:東芝の関東軍

東芝では巨額の損出が発覚するまでは「社長すら何が起こっているかわからない」という状態だったそうだ。実際は専門家集団が勝手に決めて、責任が取れなくなってはじめて経営陣に「どうしましょう」と泣きついてきた。このために切り売りされるのは儲けを出している(つまり一生懸命働いている)人たちだ。つまり東芝の原子力部門は、本部から独立して関東軍化していたのだ。

トップがぐだぐだでも回り続ける

安倍首相の「立法府の長」発言も記憶に新しい。実際には党の人事を握ることで立法府をコントロールしているのだが、表向きは「関係ないから知らない」と言い続けている。安倍首相は多分自分が今何をやっているかわかっておらず、普段は官僚答弁を読んでいる。「でんでん」が話題になっているが、読み言葉としては意味が取れない。つまり安倍さんは国会で「答弁朗読マシーン」になっていて、読んでいる内容を理解していない可能性が高い。つまりボーカロイドでも構わないのだ。
日本の場合は安倍首相がめちゃくちゃでもとりあえず混乱なく(改革も進まず)粛々と動いている。日本は集団合議制の国であり、個人の意思決定など最初から信じていないからなのだろう。だから「アメリカが優れていて日本はダメ」というつもりはない。今、アメリカの空港は大混乱していて「誰に話せばいいんだ」という弁護士の質問に「大統領に話してくれ」と応えている状態だそうだ。アメリカのビザ要件はしょっちゅう変わることで有名なのだが、いくらなんでもこれは前代未聞である。

アメリカを理解すると日本がわかる

この集団合議制は日本にあっていたのだろう。日本と同じようなもたれ合いのある韓国は個人に権力が集中しかねない大統領制を導入してしまったために大混乱している。日本でも二元代表制はあまり機能せず石原慎太郎のような混乱が生じた。つまり、日本がとりあえず回っているのは集団合議制を採用しているからなのだ。
「決めすぎる国」を知ることは「決められない国」を理解するために重要なのである。

流行はどこからくるのか – その4つの起源

日本のファッションカラー100 ―流行色とファッショントレンド 1945-2013を読みながらファッショントレンドについて考えている。この本は日本の戦後のファッショントレンドを100集めているのだが、「よく覚えているなあ」というものばかりだ。特に終息がいつだったかは意識していないと収集できないのではないだろうか。
この本はいろいろなトレンドを扱っているのだが、そのソースは4つに分類できるようだ。

  • モード界由来
  • 憧れの対象由来
  • 不良グループ由来
  • 余暇由来

これにプロダクトデザインを加えるとほぼ全てのトレンドを網羅できそうだ。それぞれを詳しく見てみよう。

モード界

モードが流行の源泉になったケースはそれほど多くない。戦争が終わって「女性は女性らしく」という流れがあり、Aライン、Hライン、Yラインなどが提唱された。このラインを破壊したのが日本人で、洋服を脱構築して黒で洋服を再構成した。明らかに着物のような「巻きつける」系統の伝統がバックボーンにある。
政治に関心を持つデザイナーは少なくないがストリートの動きや反戦運動に形を与えるということの方が多いようである。意外とデザイナーが主導してデパートが広めるというような動きは少ないらしい。

憧れの対象

憧れは流行の大きな源泉になっている。日本人が最初に憧れたのはGHQで、流行をもたらしたのはパンパンと呼ばれるGHQに群がる女性たちだった。その後、映画が憧れの対象になった。最初は洋画が憧れの対象だった(サブリナパンツなどが流行った)が、太陽族という余裕のある学生も映画から憧れの対象となった。余裕のある学生が憧れの対象になるという流れはその後も続き「余暇を楽しむ学生」はファッション流行の源泉になる。人々は加山雄三に憧れ、バブル直前の原田知世・織田裕二ごろまで余暇を楽しむ学生は憧れの対象だった。
さらにアメリカの学生(有名大学の学生やそこに行くための予備校生)のスタイルが輸入された。最初はアイビーと呼ばれ、のちにプレッピースタイルになった。もちろん、こうした動きは日本だけのものではない。イタリアファッションも映画の中の衣装に起源がある。
日本ではよく見られる「アメカジ」だが、当然アメリカにはない言葉だ。面白いことにバブル期までロスアンゼルスに古着を買い付けに来る日本人は現地の人たちから嫌われていた。質の良いものを買いあさるので値段が高騰してしまうのだ。こういう買い付け人たちが再構築したのが「アメカジ」だったわけで、当然日本人が作ったある意味どこにもいないアメリカ人に憧れていたことになる。

不良グループ

逸脱も流行のソースになる。ロカビリーがブームになり、モッズが流行した。モッズはテレビに乗って派手になってゆく。これがビートルズやGSなどの流行につながる。GSはモッズだけではなく様々な流行を取り入れて派手になってゆく。
そのうち竹の子族という美的感覚に欠落がありそうな人たちが独自の流行を作った。裕福な若者がトラディショナルファッションに身を包んでいたのと同じ時期に竹の子族もいるといるという状態いだ。黒人のだらしない格好も音楽を媒介にして日本に伝わった。渋谷できっちりした格好が流行している一方でダボダボのパンツを履いている人もいるというのが流行の特徴だ。つまり、流行は二本立てになっていたことになる。
これとは少し違っている流れもある。厭世観の中でLSDに逃避する若者が作ったのが「サイケ」であり、そのあと、ベトナム戦争反戦の為に街で軍服を着ようというミリタリーブームがあったそうだ。

スポーツ

最初の流行はスキーだったようだ。そのあとマリンファッションが流行して「日焼けがかっこいい」という時代が長く続いた。それと並行して、レオタードなどのトレーニングウエアもファッションアイテム化される。余暇を楽しむ学生が憧れの対象になるわけではなく、余暇のスタイルが街にも持ち込まれるのである。いわゆる「陸サーファー」が典型だ。
スキーブームはかなり長く継続し、バブル時期の「私をスキーに連れてって [DVD](1987年)」の頃まではスキーが主流だった。「私をスキーに……」のスキー場は、志賀高原と万座温泉だそうだ。
ワークウェアがファッション化したように、スポーツアパレルもストリートに接近した。しかし、これが効きすぎたのか最終的には街でナイキのシューズを狩るという「エアマックス狩り」にまで発展した。エアマックスは1987年に発売された単なる運動靴なのだが、マーケティングの結果プレミアムがつき、暴力団の資金元になるほど価格が高騰したのだ。このようにしてファッションそのものが壊れていったのがポストバブル期だ。

流行そのものが崩壊したポストバブル期

バブルが弾けてもしばらくの間は「いつかは回復するだろう」という見込みがあった。しかし、ファッションは確実に崩壊していった。「健康」の象徴だった日焼けすら過剰になり最後は「ヤマンバ」と称されるようになった。つまり化物になってしまったのである。
裕福さの象徴だったイタリアファッションも水商売の男性の制服になった。最終的には日焼けした男性がベルサーチなどを着るようになり、穴の開いたジーンズを買うようになると、ファッションが「下流の人たちのもの」ということになってしまった。つまり、洋服にお金をかけるのはドロップアウトの証拠だと見なされてしまったわけである。
一方で比較的余裕のある人たちは「無駄な出費をせずユニクロで倹約するのが正しい」ということになった。ジーンズの裾が広がったり、パンツが細くなったりという変化はあるものの、流行そのものが崩壊してしまった感じがある。ファッションを追求すると世の中から脱落してしまうのである。
アパレル産業はいろいろな施策を打って流行を動かそうとしているのだが、ファッションアイテムだけに注目しても誰もなびかない。それを育てるコミュニティが重要なのだ。

流行を作るのはコミュニティ

日本の流行を見てゆくと、銀座、六本木、渋谷、原宿、裏原宿、表参道、横浜、神戸、湘南、苗場などといった場所に集うコミュニティが源泉になっていることがわかる。流行が消えた裏には集まって余暇を過ごす余裕がなくなっているということを意味しているのかもしれない。
Yahoo!知恵袋には「このアイテムを着るのは正解か」とか「これは今着ていても大丈夫か」という質問が多く見られる。本来ならリファレンスになっていたコミュニティが消えてしまったので、誰もが不安になっているというところだろう。もう20年近くも「減点型椅子取りゲーム社会」が続いているわけでファッションは仲間作る記号ではなく、外れている人を排除する記号として作用しているのかもしれない。
この典型がリクルートスーツだ。「服装自由」と言っておきながら、少しでも外れていると排除されてしまう。かといって、みんな同じ格好をしていると「個性がなくつまらない」と言われてしまう。かといって、誰も正解を知らない。
とはいえ、嘆いていても仕方がないわけで、現実はこれに即した動きになっている。

  • 40歳代から上はかつての流行を知っているので従来型のファッション雑誌が売れている。
  • バブル崩壊期に育った人たちに向けては、シンプルで飽きのこないスタイルが推奨される。かつてのセレクトショップが「ファミリー向け」のラインを出している。
  • それより下の世代には教科書型のファッション雑誌が売れるが発行総数は多くない。

 
 

現在のファッション雑誌を見ても今の流行はわからない

常々このブログでは「ファッションがわからない」と書いている。最近、数冊のファッション雑誌を古本屋で手に入れて電子的に切り取ったりして勉強をしていた。数ヶ月かけて数冊を読むのだ。そうしているうちに「過去のファッション雑誌ってどうだったんだろうか」と思いはじめた。
過去のファッション雑誌を見つけるのは意外と難しい。古本屋は増えているのだが、チェーン店は過去1年分くらいの雑誌しか扱っていない。それ以前のものは廃棄するかそもそも買い取っていないのだろう。一方、町の古本屋は淘汰されつつある。だから、オークションで落とすか国会図書館にでも行かないかぎり、数年さかのぼることすらできない。ネットにファッション雑誌をアップすることは「いけないこと」とされているのでネットにも残らない。そのまま忘れ去られてしまうような状態になっている。
公立図書館では2013年4月までのMen’s NON-NOなどが見つかった。2013年4月号は色の特集をやっている。これは現在のファッション雑誌にはない特集だ。つまり、ここ数年で色が消えて形の方に力点が映っていることがわかる。赤いパンツなどが採用されている。つまり「逸脱が許容される」のが流行なのだが、その逸脱が移り変わっているのである。
日本のファッションカラー100 ―流行色とファッショントレンド 1945-2013によると、多色展開をインダストリアルデザインに持ち込んだのはアップルらしい。iMacで「ボンダイブルー」などと聞くと懐かしく思い出す人もいるのではないだろうか。ファッションに持ち込んだのはユニクロで「フリース」の登場が1998年ごろで、藤原紀香がユニクロのカラーチノのモデルになったのは2009年だそうだ。
多色展開が流行しなかったのかそれとも廃れてしまったのかはわからない。少ないアイテムで着まわししようとするとどうしてもベーシックカラーばかりになってしまう。結局、ユーザーが付いてこなかったのかもしれない。
今、カラーチノを履いていても別に流行遅れだとは思われないだろう。きれいに履けば「おしゃれな人だなあ」と思ってもらえるかもしれない。つまり、色は流行として古びるわけではなく「新しさ」の記号としての意味が失われているというだけなのである。
当時みんながカラーアイテムを着ていたということはない。あくまでもMen’s NON-NO界隈(東京のおしゃれコミュニティ)の人たちの流行に過ぎない。裏にはファッションコミュニティのキャンペーンがあるものと思われる。
現在Men’s NON-NOが推しているのは太パンだが、これを着ていたとしても「お洋服屋さんで働いているんですか」と言われるくらいで、特にオシャレとみなされるわけではないだろう。実際には定番のジャケット(今はMA-1と長めのコートが主流だとされているらしい)が流行している。着回ししやすいからだろう。「おしゃれ」と「流行」は全く別の概念なのだ。
「やってはいけない」逸脱もある。例えばダメージジーンズや黒づくめのロックテイストなどはやめたほうがいい。これは「田舎の不良」くらいにしか思ってもらえない。鋲がついた革ジャンなどもダメである。最近では不良でも「きれいめ」にジャケットを着るのがよいとされているからだ。逆にファッションコミュニティが太いパンツを履いているのだから、昭和とは構図が逆転している。
おしゃれ服はファッションコミュニティの制服のようなものなのかもしれない。ファッションコミュニティでは数年ごとに制服が変わってしまうのだ。
いずれにせよ、現在のファション雑誌だけを見ても今の流行はわからない。過去を眺めて初めて「今はこれがおしゃれではない」ということがわかる。しかしその記憶は残っておらず、これが現在の流行をわかりにくくしているのかもしれない。

なぜ自殺しないといじめ認定してもらえないのか

昨日は横浜のいじめについて書いた。その中で「死ぬと祟り神になる」と書いたので補足しておきたい。これを読むと「ああ、また日本人合理的じゃない論」かとウンザリしてしまう人もいるかもしれないからだ。

明確な形のいじめなどない

そもそも、世間が考えるような意味でのいじめは存在しない。つまり人間関係では誰かが明確な加害者で誰かが明確な被害者ということはありえないからだ。当事者から見ても外から見てもそれは同じだ。代わりにあるのは集団での個人の利害のぶつかり合いにおいて、下位にいる人が感じるプレッシャーがいじめなのだ。
群れで優位に立って「他人をいじめても当然」と思っているような子は先生に可愛がられている可能性が高い。人気があったり、成績が良かったり、あるいは足が早かったりといった具合だ。つまり、先生や周りの大人たちはある意味でいじめの当事者なのだ。つまり広義の加害者になっている可能性が高く、調停者にも調査者にもなれない。

裁きたがる大人

にもかかわらず、近年のいじめ事件は「明確な被害者と加害者」を作って放置した学校と加害者を罰したがる傾向にある。これは「罰によってしかいじめを抑止できない」という見込みがあるからなのだろう。犯罪まがいのいじめがマスコミ経由で伝わるにつれその傾向が強くなった。このズレは問題解決を難しくするが、第三者は一向に構わないと考える。
昨日「教育委員会に市民がプレッシャーをかけるべき」という人と対話したのだが、教育委員会には独立性があるということを知っても他罰的な発言をやめなかった。案の定「原発反対」論者だったが、元地方議会議員だということである。
「いじめは犯罪である」というのはかなり危険な思い込みなのだが、それでもやめられない人が多い。

「祟り神」の正体

不明瞭な「いじめ」であっても、明らかに「被害者」が決まる瞬間がある。それは、被害者が死んでしまうことである。
この構図は一般化できる。高橋まつりさんのケースを思い出して頂きたい。高橋さんが生きていれば「この人にも甘えがあって会社に対してごねているだけかもしれない」などと思う人が出てくるはずだ。新入社員に過剰な労働を押し付けたりセクハラがあったりと、明らかに「いじめ」の構造があるのだが、当事者間の紛争がある場合どうしても「社会的に有利なほう(学校でいうと成績の良い生徒)」の言い分が通りがちだ。電通でたくさんの過労死寸前の労働者がいながら今まで問題にならなかったのは、多くのまつりさんが死ななかったからなのである。
死んでしまうと、その人には「私利私欲がない」というポジションが得られる。死んでいるから私利私欲など発揮しようがない。日本人は個人が幸福追求する権利があるなどとは思っておらず、私利私欲やわがままだと考える傾向が強い。だから私利私欲がなくなった(同時に生きていたら得られたであろう楽しいことも全て放棄してしまった)瞬間に、同じような苦しみを抱えている人の代弁者に祭り上げられてしまう。
この同じような苦しみを持っている人たちのやり場のない不安が「祟り」の正体で、そのために「祭り上げられる」空白の中心が「神」の正体なのではないかと思う。
よく小学生や中学生が亡くなった時に「死んではいけない」などという人がいる。それを聞くたびに考え込んでしまう。死ななければ「わがままな個人」として扱われる可能性が高い人にどんな解決策があるのだろう、と思うのだ。

生贄としての弱者と中心の空白

いじめはそもそも何が原因なのか。陸軍では多くの兵士がいじめられたのだが、これは大きな目的がなくなってしまったことが原因になっている。戦争に勝つ見込みがなくなると人々は不安になり、下にいる人をいじめはじめる。トップは自己保身に懸命になっており、兵士を助ける決断などしなかった。
電通でも同じ問題が起きている。電通はデジタル化に乗り遅れて、数字の改ざんなどが横行している。しかし、トップは抜本的な改革をせず、不安になった中間管理職が成果を求められて下をいじめ始める。高橋さんの場合、女性であり年次が下だという理由でいじめられていた。つまり、電通が成果を上げられないことの犠牲になっていた。
つまり、目的がはっきりせず成果があげられなくなると下にいる人たちを見つけていたぶるのである。このとき上はリーダーシップを失っているといえる。ではそのピラミッドの上には何があるのか。「実は何もない」のではないかと考えられる。
この「中心が空白である」ことは日本人を語る上でよく使われる。上に相談してきます」といって、上り詰めて行くと誰も意思決定者がいなかったということがよくある。アメリカ人は「誰が意思決定をしているのかがよくわからない」とイラつくことがあるそうだ。会議に「責任を持って意思決定する人」が現れないので「馬鹿にされている」と感じてしまうのである。
この典型例として挙げられるのが、天皇という神である。強大な権力があったのだが、戦前であっても実質的にはなにの権限もなく、開戦を止めることができなかった。にもかかわらず大量の戦死者と原爆を含む都市空爆が出たのは、この空白に多くの人が群がったからだろう。
「天皇が神である」というのは実は西洋人が考えるように神格化されているわけではない。「物言わぬ中心」として祭り上げられていただけなのだ。「天皇制」への回帰が危険なのは、天皇が悪いということではなく、この権力の空白が危険なのである。権力の空白が危険というよりは、何か危機にあった時に何も変えられないというのが問題だと言い換えても良い。

なにも決められないということ

今回の横浜の件は「子供が親の金を持ち出して友達と一緒にさわいだだけなんじゃないの」という疑念があるようだ。よく分からないから加害者のいうことも被害者のいうことも聞かないということになっている。つまり、横浜市の教育は目的を見失っており、権力構造も空白化している可能性が高い。これは多くの大都市で見られる現象なのではないだろうか。

横浜のケースがさらに痛ましいのはこれが「原発」というリスクに関しての反応であるという可能性が排除できないところだ。これは「市の教育」という小さなレベルではなく、国民全体が感じている危機意識である可能性がある。つまり、市の問題ではなくもっと大きな枠組みの問題であった可能性があるのだ。

いずれにせよ、横浜市長は教育長に無害な人を当てることで中心を空白にして学校という権威を守ろうとしていた。教育長は市長の期待通りになにも決めなかった。
実際に必要なのは当事者間の利害の調整だった。こう主張すると「被害者のかわいそうな子供」にも過失があるのかという人が出てくると思うのだが、強く振る舞うべきだと諭すのも教育だと思う。
人は群れを作って弱いものをいじめる。これが抑止されているのは理性の働きではなく、残念ながら警察力のようなものが働いていて群れのメンバーが暴走するのを防いでいるからだ。これを認めない限り、また「死んで解決しよう」という子供がでてくるはずだ。
それに社会が圧力を加えれば加えるほど、教育委員会は閉じて行き、何も決められなくなる。これがさらに中心を空白化させ、事態は悪化する。しかし、決められない事態は救済出来ない子供を増やすのだから、さらに社会的なプレッシャーが増える。まさに悪循環だ。
 
 

「それでも生きる」と決めた少年に大人たちがしたこと

先日来、憲法改正、教育、および政治の中立性などについて見ている。今回は横浜の教育委員会が炎上している問題について考えたい。

震災で亡くなった方を思い出して子供は生きることを決めた

福島から転校してきた子がいじめられた。いじめが止むことはなく小学校の低学年から高学年まで続く。悪いことに先生も「この子は学校カーストの下位にいる」と認識したらしく、それを黙認したまま追随した。この子の偉いところは自殺して逃げることを思いとどまったところだ。神奈川新聞が手記を伝えているが、東日本大震災では生きられなかった人を思ったようである。まずは、この手記を読んでから読み進めていただきたい。
だが、このことが却って「学校のいじめ認定」を妨げることになった。かなり苛烈ないじめをうけており(ハフィントンポスト)友達と遊ぶお金150万円をおごらされたのに「いじめ」を認定しなかった。「自殺したらいじめを渋々認める」という相場観ができているのがわかる。つまり「大人にいじめを認めさせたかったら死んで抗議しろ」ということになる。日本はそういう教育をしているのだ。

大人たちは、まずかばい合うことを決めた

では、なぜ教育委員会はいじめを認めたがらないのか。それはいじめを認定すると、学校が遡って管理責任を問われるからではないかと疑われる。生命や財産が危険にさらされるようないじめがあった場合には学校が「しかるべき措置」を取らなければならないと法律で決まっており、これを怠ったことになってしまうのだ。これは最終的に「校長先生や学校の名誉が傷つき、退職金などに影響が出る」ことになる。教育行政と学校の間には親密な連帯があり、これが隠蔽につながるわけである。
つまり学校などの集団の名誉を守るためは個人は多少の不具合は黙っていろと教育している。集団の方が個人より優先順位が高い。ただ、死んでしまうとこれが逆転する。死ぬと神になって祟ると考えられているからかもしれないとすら思う。
ただし、こうした「相場観」は文脈として空気のように共有されているだけのようだ。ねとらぼが面白いインタビューをしている。学校は責任を取らされかねないが、明確な基準があるわけでもないというところなのだそうだ。つまり「不確定」が生まれることになる。集団はこれを嫌うのだ。

極めてお役所体質が強い教育委員会

今回炎上の対象になっている横浜市の岡田優子教育長はもともと市役所の出身のようだ。高卒の女性ながら高い地位に上り詰めたのだという。この人が「いじめ調査」を主導したというよりは第三者委員会をコントロールできなかった可能性が高いようだ。岡田教育長は「法律に従って第三者委員会を作ったのでその結果を覆すことが難しい」と言っている。
間違いが決して許されない役所としては正しい対応なのだろうが、一般常識に照らして適切な対応をとるという教育委員会としては全く間違った対応である。子供と法令のどちらを守るのかと聞かれて「法令を守る」と言ってしまっているのだが、その意味に全く気がついていない。結果的に「命は大したことはない」というメッセージを子供たちに送ることになった。学校はかばい合う。いじめられた君が守られることはないという過酷なメッセージだ。

判断から逃げた大人たち

この「役人的な対応」が何を意味しているのかということが、おぼろげながら見えてくるのだが、決して像を結ぶことはない。ハフィントンポストの記事を読む限り、教育委員会や第三者機関は独自調査は行っておらず、学校の調査に頼っている。だが、学校側は「生徒同士のお金のやり取りは警察の調査などに任せたい」と及び腰である。つまり「いじめはなかった」と判定したわけではなく、判断から逃げたのだ。
なぜ警察が犯罪扱いしなかったのかと考えてみたのだが、多分「おごらされた子供」がいっしょに遊んでいたからだろう。親からお金をくすねて遊興費に使っていたのか、それとも強要されていたのかということは外からはよくわからない。調査は教育の一環であるべきで、つまりそれは子供に「あなたの命は大切だから学校はそれを全力で守る」というメッセージを送ることだ。だが、教育委員会はそこから逃げた。
福島から来た「穢れ」を背負わされた少年は、例えば非常勤講師みたいなものだ。やりがいを得られない先生たちは「下には非常勤がいる」と考えることで溜飲をさげることができるし、非常勤講師もその中で生きてゆくしかない。これは他人を犠牲にする行為だがいじめとは言われない。大人の世界ではこんなことは日常茶飯事である。つまり、福島からの転校生は集団の犠牲にされたのである。「その子がお金を出せばみんなが楽しい思いができる」と子供が考えても何も不思議ではない。本当に罪の意識はなかったかもしれない。閉鎖された集団は「下」を探すようになる。

正義にこだわる人たち – 政治的に偏りのない市民などいない

大人たちが「決める」という責任を避けているという傍証がある。決める責任がない人は「教育委員会はいじめを認めるべきだ」と圧力をかけ始めた。原子力発電所は悪であると考える人たちが「原発がなければこの子は福島で暮らせたのだから安倍政権の被害者だ」と考えても不思議ではない。学校関係者は決めるという責任から逃げたのだが、こちらは匿名だから責任を取らなくてもいいのである。
今回個人的な考察の対象は「教育は政治から自由でいられるか」ということや「国がスポンサーシップを持った時、教育はどう自立できるのか」ということなのだが、今回の件を見ている限りそれは絶望的に難しいようだ。
教育委員会制度は政治から独立しているという建前なので市長は教育委員会の調査に介入できない。建前としては普通の市民が教育委員会を運営していることになっている。これを「レイマンコントロール」というのだが全く守られていない。
「普通の市民」から見るとこれはどう考えてもいじめだ。つまり教育委員会は学校コミュニティに寄りすぎたあまり市民感覚から乖離している。だが「市民」の中にはいろいろな人がいる。天皇を中心とした家族的な国を作ろうという市民もいれば、安倍政権が嫌いだから原発避難者は社会の被害者でなければならないという人もいる。だから一度出した決定を市民の圧力で変えてしまうのは「政治的圧力」になってしまいかねない。
調整されない意見が教育委員会という官僚機構に直接ぶつかっている。こうした政治的な圧力に晒されて教育委員会は閉じこもり、さらに防衛的な態度をとってしまう。そして炎上だけが強まってゆく。決めたがらない大人と決めたがる大人の対立だ。だが、そこに命を選択した子供に対するリスペクトは微塵も感じられない。

子供へのアドバイス – 大人を信頼するな

あらためて社会の大人の対応をまとめてみよう。

  • 学校はただただ責任を取らされるのを恐れて調査もせず、なかったことにしたがっている。
  • 教育委員会は学校を慮って「いじめとはいえない」といい繕う。
  • 市民たちは自分たちの想いを事件に乗せて炎上を作り出す。
  • これを見た市議会議員たちは「票になるかも」と問題を取り上げる。

このいじめにあった生徒に何かアドバイスをするには何を言えばいいのかと考えたのだが、こんな感じになった。

  • 先生を含めた大人は自分のことしか考えないからアテにするな。
  • 自分の身は自分で守れ。死んだらいじめ認定してもらえるが得られるものは何もない。後で祭り上げて利用するだけだ。よく考えろ。
  • 友達にたかられそうになったり襲われそうになったら証拠をとれ。自分は絶対に関わるな。ある程度証拠が溜まったら迷わず警察に駆け込め。
  • みんな自分のことしか考えていない。あなたもそうしろ。不満が溜まったら自分より弱い相手を探せ。

これは明らかに間違った教育だが、これくらいしか自分の身を守る方法はなさそうだ。これを「震災ではたくさんの方が亡くなった。だから僕は辛くても生きなくちゃ」と受け止めた子供に伝えられますかということだ。
結局この「心苦しさ」を受け止めて「一人ひとりの大人が防波堤になってよりよい社会を作らなきゃ」と考えない限り、教育も社会もよくなって行かないのだろう。
あの震災で私たちは多分何も学んでいないのだろう。

マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。
あなたは教育の無償化に賛成ですか?
このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。
じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。
あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?
もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。
さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。
では、これはどうだろうか。
あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?
明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。
ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。
ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。
あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?
これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。
かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。
つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。

民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……
と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。
ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。
問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。
もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。
つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。
間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。
一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。
さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 
教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。