フィンランド人とエストニア人 – 民族とは何か

エストニアでIT化が発展したのは民族が他国から侵略されても民族が存続するためだという話を読んだ。いい話なのだが疑問が残った。調べてみたがよくわからない。
ご存知のようにフィンランド人とエストニア人の言葉はお互いに通じる。つまりエストニア人というのがなくなっても困らないということになる。たとえていえば九州がなくなっても日本人がなくならないというのと同じような話である。
だが、話はそれほど単純でもなさそうだ。そもそも、エストニア人とはどういう人たちかという点がよくわからない。もともとエストニア人という概念は無かったようだ。この地域の支配民族はドイツ人で、バルトドイツというのだそうだ。その地域が、デンマーク、スウェーデン、ロシアなどに占領されてゆく。フィンランド地域も状況は似ている。違いはドイツ人が北上しなかったという点だけだろう。フィンランド人という民族集団は意識されず、カレリア人とかスオミとか呼ばれる人たちがいただけだった。これがスウェーデンに占領されて逆にローカル意識が生まれたという経緯のようだ。今でもスウェーデン語はフィンランドの公用語の1つだという。
この集団はアジア系の言語を話すコーカソイドの人たちだ。都市ではなく農村に住んでいて被支配層として認識されていた。つまり「山の人たち」だったわけである。ところがそのうちに「民族性」というものを身につけていった。
国と民族というのは別の概念だったのだが、そのうちに民族国家という概念ができて、話がややこしくなった。例えばドイツとロシアが領土を分割した際に、ドイツ語を話す人たちをドイツ圏に移住させるということが起こった。そのうちにドイツのアイデンティティを持つ人たちはもっと西の方に移動することになる。ヒトラーがドイツを東方に拡張するという野望を抱き、それの揺り戻しが起きたからだ。
いずれにせよ、これらの民族性がどのように作られているかということを考えてゆくと「土地に住んでいるドイツ語を話せない人」というのがエストニア人だということになってしまう。つまり、他者によって規定されているということだ。
とはいえこれだけで規定されているわけでもない。北に住んでいる人はフィン人と自認しており、ロシア圏に入っている人たちはカレリア人というアイデンティティを持っている。さらにフィンランドに住んでいるカレリア人やエストニアに住んでいるフィン人などもいる。
いっけん、国がなくなっても民族がなくならないようにという説明は正しいように見えるのだが、実際には民族というものが複雑に規定されていて、一筋縄で生成されたりなくなったりするというものでもないのではないかと思われる。
ヨーロッパの状況を見ると自明に見える民族という概念だが、日本に当てはめるとよくわからない点もある。日本地域は中国との関わりから2つに分かれている。早くに中華圏から独立した九州・四国・本州地域と、中華圏に止まった琉球地域だ。しかし、本土と呼ばれる地域には猿田彦信仰が残り、大陸から来た人たちを先導したことになっている。しかしネイティブの言語を持っている人たちは残存せず、かといって先住民族を惨殺したという歴史も残っていない。
言語を見ると明らかに半島との連続性が見られるのだが、語彙は全く異なっている点から、徐々に別の言語が混交したような形跡がある。ヨーロッパでいうと、ウラル系の言語とゲルマン系の言語がいつのまにか新しい言語を形成していましたというような話である。
なぜヨーロッパでは言語の統合が起こらず古い民族集団が温存されたのか、なぜ日本ではこうした違いが溶解してしまったのかというのは、なかなか説明しづらいのではないだろうか。ポイントになりそうなのが、リーダーを作らないという点だ。バルト世界のように、ドイツ人という支配層ができなかったことで、被支配層も形成されなかったのではないだろうかと想像してみた。だが、本当のところはよくわからない。大陸のような他者を持たなかった日本人は、日本人だという意識をあまり持たなかったのだ。
 
 
 

洋服選びを自動化する

日経ビジネスオンラインに「店員頼みのアパレル店は立ち行かなくなるのではないか」というような記事が載っている。代わりに提案されているのが、AIとスタイリストが提案する洋服を選ぶサービスで、アメリカでは一般化しつつあるとのことだ。とはいえ、このようなサービスを作るのはなかなか敷居が高そうである。実際に概念だけ設計してみた。
洋服選びにはいくつかのアプローチがある。第一のアプローチは「とにかく暖かければなんでもいい」という人たちである。郊外の住宅街の高齢者はやたらプラスティック製の服を着ているのだが、これは洋服屋を知らないというよりは、そういうものを好んできているということなのだろう。こうした人たちには「安くて暖かい」服を売っていればよい。ユニクロ派と名付けてみた。意外と多いはずである。
次のアプローチは素材にこだわる人たちだろう。バブル期を経験した人たちが多いのではないだろうか。まず質の良いジーンズ(例えば3D加工されたもの)にテクスチャーの入った素材のトップスなどを提案することになる。ベーシックな組み合わせに飽きてきたらトレンドものを提案してやればよい。Safariなどで使われている方法だ。これも比較的簡単かもしれないのだが、お金はかかりそうだ。バブル期にコーディネートに悩まなかったのは、みんなジャケットに高級な素材のインナーを着ていたからだろう。
styleselector001もっとも難しいのが三番目の人たちだろう。いわゆるコーディネートを必要とするのだが、そもそもコーディネートって何なのだろうか。コーディネートはスタイルと色彩の組み合わせである。
このうちスタイルはデザイナーが割り振ることができる。ファッション雑誌からランダムに拾ってみたらすぐにこのくらいは集まった。最近では古いスタイルがアーカイブされており、種類が飛躍的に広がった。
この中には太っている人が着ることができないもの(細めのパンツ)や痩せている人が着ると貧相に見えるものなどがある。これはユーザーの体型をインプットしてもらえれば自動的に結びつけができそうだ。多くの人は標準体型なので機械化が容易だし、例外的な人にはスタイリストが対応しても良い。
また、季節展開の重複が見られるので整理は必要だろう。
styleselector002次はカラースキームである。実際には白もしくは黒(黒の代わりに紺が入ったりする)となんらかの色の組み合わせか、同系色あるいは補色の関係で整理できる。補色の場合には白を間に挟む、純色と鈍色の組み合わせにする、明るい色と暗い色の組み合わせにするという組み合わせ方がある。
茶色と赤が同系色であるというように発見が難しいものもある。この場合、オレンジから薄い黄色くらいまでを含めることができる。
また赤にもいろいろな種類がある。例えば純色の赤はくすんだ補色(緑など)と組み合わせる。バーガンディは紺色と白というのが定番のようである。さらに小豆色はチノパンと組みわせるときに利用される。つまり、色を規定しただけではダメで配色の中に位置づけてやる必要がある。
これが終わったら実際の洋服に展開してゆく。すでにスタイルができているものとし、簡単なアメリカンカジュアルのスタイルを作ってゆく。
styleselector003まずキーになる色が決まる。今回はチノパンである。そこに合わせることができる同系色のものを集めた。まずTシャツが入り、シャツが加わり、シャツの柄を見せるためにカーディガンが2つ入った。1つは秋冬用のカーディガンだが、1つはTシャツと組み合わせるコットンのカーディガンだ。灰色などのモノトーンはコーディネートを整えたり調整する働きがある。それだけではつまらないので補色の入ったシャツを加えてみた。
これで季節がカバーされる。
ここまではスタイリストが提案できるのだが、スタイリストが提案できないものもある。コーディネート派の一番の問題はそれが「イケているか」という点である。イケているかという情報はどうやったら分かるのだろうか。一番目と二番目の人たちは自分で洋服を選んでいるが、三番目の人たちは他者志向が強いと言えるのだ。
第一に売れ筋の情報を見るとある程度の情報がわかる。次にコーディネートコンテストなどを開催するという方法がある。「ファボられた」数が多いコーディネートは多分高感度が高い組み合わせと言えるだろう。
現在のオンラインショップはアイテムごとの人気は計測できるが、クローゼット単位での計測は出来ない。つまり、アイテム単位の販売からどう脱却できるかということが重要なのだということがわかる。あとは、このような知識をデータベースに入れてゆくだけである。意外と簡単に実装できるのではないだろうか。
現在は各アパレルメーカーがとりあえず売れそうな「アイテム」を作っている。日経ビジネスオンラインの別の記事によれば、正規の価格で売られるのはごく少数なのだそうだ。これがメーカーがユーザーの動向を把握していないということから来る問題だ。しかし、洋服は単体で着るものではないので、そもそもアイテムだけを見ていても生産計画など建てられるはずはないのだ。つまり、コーディネートごとの把握ができれば、より効率的な生産計画が立てられるようになるだろう。一方ユーザーが定番しか着ないのは、どう着て良いかわからないからだろう。黒や紺のアウターはコーディネートを整える効果があるので、これはよく売れるということになる。
こうした発想をすると例えばジーンズを売るよりも黒のパンツを売ったほうが得策というようなこともわかる。ジーンズは紺色なので使える色は限られてくる。一方で黒はコーディネートを整えられるので、グラフィックTシャツなどを簡単に組み合わせることができるのだ。情報が氾濫するとユーザーの側で単純化が進むのだ。
一方で、ユーザーはさらに簡単な方法に走るかもしれない。これはクローゼットの中身を全て写真で撮影して並び替えたものである。もともと古着屋で安いものを購入していた。割と難しい色合いのものが売れ残る(従って安くなる)傾向にあるので、それに合うものを研究する癖がついてしまったのである。
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雑然としたものもある程度蓄積するとそれなりのスタイルができる。すると足りないものも見えてくるので、足りないものを安価で買い足すということができるようになる。手作業で面倒なのだがクローゼットを整理するシステムをアパレルメーカー以外の会社が作ってしまうと、今まで以上にアパレルメーカー離れが加速するということになる。

ロードサイド店の荒廃

Macbookが発表された。キーボードに若干変更が見られるだけで目新しさがなかったところから、失望の声も大きかったようだ。「Surfaceの方が感動した」という声があり、逆にSurfaceってそんなにすごいのかと思った。よく分からなかったので、近所のロードサイド店に見に行った。
SurfaceそのものはiPadみたいなものだった。こういうのがいいという人がいるのかと思った。Macはお金持ちの道具なので、タブレットはタブレットで買って、そのほかに3年ごとにパソコンを買い換えてねというような発想で作られている。一方マイクロソフトは、パソコンもタブレットも1台でというコンセプトのようだ。どちらがいいのかは正直分からない。
ここで驚いたのはパソコン売り場の荒廃ぶりだった。売り場には店員があふれているのだが、みんなソフトバンクなどから派遣されているようでインターネット回線を売っている。
一方、店員たちは少ない人員でいろいろなことをやらされているらしく、このぶらぶらしている回線販売員が店員を呼び出す仕組みになっているらしい。だが、店員は呼び出されたことに明らかに腹を立てていた。Surfaceなんかたいしたことはないと言い放ち「では何が売れているのか」と聞くとパソコンなんか売れないという。もはや売る気がないわけだ。最新機種はこんなところに来ませんよ、とのことだ。「パソコンを買う人はアキバに行きます」というのだ。何か売りたいものがあるのかなあと思ったが、とにかくふて腐れていて早く開放されたいようだった。
この姿勢は理解できる点がある。パソコンを電気店で買う人はいないのだろう。Amazonか直販で買うのではないだろうか。店頭に来る客は冷やかしばかりなのだろう。いわゆる「ショーウィンドウ化」だ。
そこで、店側は人員を削減して、インターネット回線を売りつける人たちに貸すことにしたようだ。不動産業態になっているわけである。最近トレンドになっているようだ。松坂屋は銀座から撤退し専門店に店を貸すことにしたというニュースを目にした。「小売はリスクがある」ということで少ないスタッフで定期収入があるほうがよいのだろう。リスクとはすなわち販売員を抱えることを意味する。労働者はリスクなのだろう。
インターネット回線はそんなに売れるのかと思ったのだが、係りの人に聞いてみると、NTTから回線を借りているので違いはないという。あとは値段とサービスなのだが、サービスにもそれほど差がないし、値段もある点に収束している。つまり、基本的に売ることができないわけだ。そこでビンゴ大会をやっていたが、あとできる努力と言えば年寄りをだますことくらいだろう。だますというより必要のない人に光回線を押し付けて、あわよくば付帯サービスも買ってもらうというのが彼らの「努力」になるのだろう。
アパレル店をいくつか見て「ああ、荒れているな」と思った。アウトレット店はまだマシなのだがデパートはかなり荒廃しているようだ。荒廃ぶりが分かるのは立ち姿とおしゃべりだ。
電気はそれ以上に荒廃しているようである。そんな中で店員は「どうせ売れない」と考えており、いやいや土日を潰しているわけだ。
メーカーはそれなりに「おお、これはすごい」といえるものを出しているはずなのだが、それはもはや伝わらない。多分、Macのようにメーカーの発表をインターネットで見るような人でもなければ新製品の良さを発見することはないだろう。つまり、それだけものが売れなくなるということになる。
今回訪れたケーズデンキはそれでもまだましな方だ。ヤマダは本業をあきらめて住宅販売に力を入れている。売り場が荒廃してしまったために誰も寄り付かず、余った売り場に生活雑貨や食品を扱うようになった。多分そのうちにロードサイド店は淘汰されてゆくんだろうなあと思った。

健康ゴールド免許制度について考える

健康ゴールド免許制度が批判を浴びている。このニュースが出始めたときそれがどのような制度なのかは分からなかった。名前がキャッチーなので名前が一人歩きししているようなところがあるのかもしれない。
批判する人は、頑張っている人を優遇することは不幸にも病気になってしまった人を排除することにつながるという前提を置いている。日本は過去20年以上椅子取りゲーム状態が続いている。負担を「自己責任」の名の下に排除する社会だ。
医療費の削減は避けられないので、政治が成人病にかかった人に「怠惰な生活をしていた」というレッテルを貼って排除するための制度なのではないかという懸念は十分に理解できる。
この問題を取り上げる気になったのは、やる気は見た目や健康に顕著に影響するということを実感したからだ。
病気のために気力がなくなり10Kgほど太ってしまった。かなり悲しい気分になり過去のパンツなどを捨てた。2サイズほど大きなものを買ったのだがこれが悲しくなるほど似合わない。そこで腹筋運動(といっても1日に45分程度)をやり、酢(最近はダイエット用に飲みやすいものが出ている)を飲み、1時間ほど姿勢を意識して歩くことにした。
それまでも歩いてはいたのだがまったく体重に影響はなかった。姿勢が悪いと歩いていてもたいした運動にならないようである。だが、一連の運動を始めてたった2週間で体重はまったく変わらないのに体型が変わり前のパンツがはけるようになった。過去の服を捨てなければよかったと後悔するとともに、たった2週間なんだと思った。
この個人的な体験から分かるのはモチベーションの大切さである。モチベーションがあればそれなりに組み立てて行動を起こすことができる。やる気になれば健康にも影響がある。だから国が制度を作ってモチベーションを上げられるような仕組みさえ作れれば、国民の健康によい影響があるだろうなとは思う。つまり、着想そのものは悪くないのではないかと考えたのだ。
しかしゴールド免許制度には大きな問題点がある。それは健康診断の受診率を指標にしているところだ。
第一に日本の健康診断は、本来の趣旨はともかく効率的に新しい患者を作り出すことに主な目的がある。これは実に日本的で指標を決めうちして、そこから外れた人に定期的に投薬する。そのために中高年は薬漬けになってしまう。つまりマーケティング活動の一環なので、健康診断の受診率が上がると医療費が上がるという関係にある。そればかりではなく、病院も込み合うようになるだろう。現在でも病院は大変な混雑なのだが、受診時間は本当に短い。
第二にそもそも健康に興味のない人は健康診断を受けない。学歴が低く、年収も低いという関係があるとのことである。つまり、補助が必要な人ほど補助が得られないという仕組みになりそうだ。もともと健康診断はマーケティングなので「病気が発見されたら金がかかる」と考える人は医者に行けない。重篤化しそうなのはこういう人たちだろう。結局この人たちを「自己責任」の名の下に切り捨てますかという話になってしまう。それは無理だろうから医療費の抑制にはつながらない。
モチベーションを与えるのは確かに効果がある。しかし、そのためには人間の内面に働きかける必要がある。外からインセンティブを与えてしまうと内在的な動機を損なうことがある。画一的な健康診断で投薬を開始され「薬さえ飲んでいれば安心なのだ」と考えれば、個人の健康維持の努力を毀損してしまう可能性すらある。
日本人は一人ひとりがもっている動機をうまく引き出すというのが苦手で、画一的な指標を作って効率を上げようという方向に走りがちだ。
内面的な動機に働きかけるためにはカスタム化された医療コンサルティング制度を作って一人ひとりに合ったプログラムを作るというような制度が必要だが、現在の医療制度は画一的に報酬を支払っているので、コンサルティングは「やるだけ無駄」な作業になってしまっている。
結局は画一化された医療制度が問題を引き起こしている。それを患者の自助努力によって解決しようというのはそもそものアプローチが間違っているといえそうだ。

残念だが廃止せざるをえない日本レコード大賞

文春が、Exile系の事務所が一億円を支払ってレコード大賞を買っていたというニュースを伝えている。これを聞いた一部のファンが「三代目は実力でレコード大賞をとった」と抗議する騒ぎになった。このニュースを聞いてTBSは放送をやめるべきだなと思った。次に賞を取るアーティストはいくらで買ったのだろうと噂されることは間違いがないからだ。
レコード大賞が実力でないということはほとんど周知の事実になっている。配信数やCDの売り上げと全くリンクしていないからだ。売り上げにリンクした賞としてはゴールドディスク大賞というものがあるがあまり有名ではないかもしれない。他に音楽性を讃えるということが考えられるがスポーツ新聞社に音楽性が評価できるかは微妙なところだ。
レコード大賞が評価するのは「何が売れたか」ということだ。日本ではすなわちテレビに出たかということが売れたということなので、その指標として意味があるのだろう。
そもそもなぜ領収書の費目がプロモーション費用だったのだろう。LDHから委託されたプロダクションはいろいろな手を使って関係者に働きかけていたということになる。関係者に飲み食いさせても何ら違法性はない。プライベートな賞だからだ。これを営業活動と見なせばLDHの支払いも違法とはいえないし、請け負ったプロダクションも違法とは言えない。
そこでプロモーションの方法が問題になる。どうやらこのプロダクションは反社会勢力との関係が囁かれているようだ。スキャンダルを起こしたタレントを脅かしてプロダクション優位の版権契約を結ばせて復帰させたりしているということもあるということである。
マスコミがプロダクションのドンの名前を決して口に出さないのは、この人に暗い噂が多くあり関わると面倒だからである。ハリーポッターで言うところのボルデモートのようになっている。名前を口に出せない「あの人」扱いされているのだ。
問題なのはLDHではない。そもそも主観的に決まる賞なので、プロモーション費用が介在する余地があるからだ。いわゆるビジネスに箔をつけるための営業費用なわけで、どんな営業をしようとも発注したところは売れればいいことになる。マスコミ各社が加担している以上、このプロモーションが何だったかということは表沙汰にならないだろう。
だが、この一連の「プロモーション」が反社会勢力の資金源になっている可能性は残る。例えていえば、金融機関が反社会勢力を雇って高齢者を騙していた場合に、金融機関はどのような責任を負うかという話になるだろう。
このような可能性が排除できない以上、テレビ局としては利権の温床になっている賞を放置するのは得策ではないだろう。
さらに異常さは文学と比べてみるとよくわかる。芥川賞も純文学作家に箔をつけるというプロモーションのための賞だが、その選考結果はある程度公開されている。主観的なので出版社の買収合戦に発展する可能性もあるのだが、そんなことをしてしまえば文学そのものの価値が急落することは目に見えている。文学を愛しているからこそ苛烈な買収合戦には発展しないのだ。
裏返すと、芸能界は歌というものが持っている芸術性を尊重しようという気持ちはサラサラないことがわかる。ファンの気持ちはお金と露出でなんとでもなると考えていないようだ。
この件がまずいのは誰も騒がないことだろう。視聴率も13%と低く、番組自体が過去の歌謡界を回顧するような内容になっている。賞自体が忘れ去られており、今回の件で今後の受賞者は好奇の対象にしかならないだろう。

表情豊かなファッション写真を撮るにはビデオがお勧めです

最近、ファッション雑誌の企画やWEARなどでファッション写真を自撮りする機会が増えた。ファッション雑誌はインスタグラムを通じて読者を発見したいという思惑があるのだろう。
中には仕事上毎日複数のコーディネートをアップする機会がある人もいるようだ。しかし、やはりプロのモデルではないので短い時間に効果的なポーズを決めるのはなかなか難しい。そこで、たいていの人はポーズを固定しているようである。中には斜めの構図を使って体型が分からないように工夫している人もいる。だがこれはもったいない。
これを打破するにはどうしたらよいのか。最初にやったのは鏡を準備することだった。あらかじめポーズを作ってからシャッターを押すのだ。しかし、これはあまり効率がよくない。そこでパソコンの内臓カメラを使って動画を撮影してから、フレームを切抜くことにした。
ムービーから画像を切り抜くのは簡単だ。Macの場合QuickTimeでコピーを押し、プレビューで新規作成を選択するとフレームを間単に切り出すことができる。(※ただしQuictTime X搭載機種に限る)
これだと室内でしか撮影できない。どうしたものだろうかと考えたところ、スマホにも動画撮影機能が付いているのを思い出した。ただしレンジがあまり広くないので、できるだけ開けていて木々などの陰影を作るものがない場所や室内がよいようだ。影ができると全身がきれいに写らない。スタンドは100円均一の店で手に入る。
動画撮影のメリットはいくつかある。第一に写真の緊張がほぐれる。今回の個人的なプロジェクトの目的は「かっこいい俺」探しではなく、姿勢の改善が目的だった。つまり写真に写る自分が嫌いなわけである。そこでシャッターを押すと変に緊張してしまうわけだ。動画だとそれはない。
次にプロセスを記録することができる。姿勢をよくするためにはいくつかのプロセスがある。これをセルフタイマーの決められた時間には完遂できない。ビデオだと時間があるので、姿勢が作りやすい。
最後のメリットは新しいポーズの発見だ。プロの場合カメラマンが客観的に指示を出しドライブモードなどで連射してゆく。そこからポーズを選ぶ。だが、自撮りの場合はドライブモードは使えない。そこで普通に歩いたり、足を伸ばしたり、あるいはセーターを手で伸ばしたりしながら、表情を探ってゆくと良い。
服の表情によって必要なポーズは違っているはずだが、マンネリになっている人はそれを発見できていないのではないかと思う。ビデオだったら簡単に自分や服のよいところが発見できる。
写真だけきれいに撮影できても仕方がないのではという声も聞こえてきそうだ。ファッションが似合うかどうかというのは9割方姿勢の問題なのだが、普段から正しい姿勢をとり続けるのはとても難しい。そもそもどういう姿勢が正しいのかということも分からないわけだ。結局、良い姿勢を探していることになる。
しかし、姿勢を意識するだけで代謝がよくなりウエストのサイズなどに変化が見られる。普段かなり省エネで歩いているのだろう。
そのためすでに中年向けのファッション雑誌では肩甲骨はがしのように健康雑誌のような特集が組まれている。クローゼットを更新するよりも、姿勢を探索したほうが安上がりで効果的なのかもしれない。

ユニクロと女性が活躍できない社会

ユニクロが新しいコマーシャルを始めた。人はなぜ服を着るのかを消費者に尋ねている。ああ終わっているなあと思った。消費者に聞いても提案が得られるわけではないからだ。
多分、ユニクロは「人がなぜ洋服を着るのか」という根本的なところが分からなくなっているのだろう。売り場からはデザインが消えていた。チェックやボーダー柄すら少数派になり、ジーンズのダメージがデザインとして残るくらいだ。カラーバリエーションも消えていた。人気のない色がいつも売れ残っていたのだから当たり前といえば当たり前だ。代わりにユニクロが売り出しているのはストレッチとヒートテックである。つまり、ユニクロはついにデザインというものを放棄してしまったのだ。
人が洋服に機能以外のものを求める理由はいくつかある。例えば差別化やクラスの明示という機能があるが、ユニクロのような大衆服のジャンルには当てはまらない。残るのは「居心地のよさ」の価値だ。デザインというのはこの「居心地のよさ」を作るための一つの要素だと考えられる。ユニクロは「居心地のよさ」がよく分からなかったのだろう。
とはいえ、消費者の側も居心地のよさがよく分かっているとはいえない。消費者の側にあるのは「同調」と「流行」だ。他人と同じ格好をするべきでそれは毎年古びてしまうという強迫観念である。
「日本人はデザインを理解できなかった」などと書きたくなるのだが、これは必ずしも正しくなさそうだ。戦後の日本人は手作りのデザインに目覚め、その中からパリで活躍するデザイナーを輩出した。つまり、日本人が美的に優れていないということはいえないように思える。
ユニクロからデザインが消えた背景にあるのは「効率的・機能的」という価値観と「居心地のよさ」という価値観の対立だろう。前者は男性的な価値観と考えられ、後者は女性的な価値観だと考えられる。
バブルが崩壊して日本人は経済縮小を選択するようになった。ここで切り捨ててきたのが「居心地のよさ」なのだろう。快適に暮らすことを捨て、子育てや教育のように次世代を育てるための予算を切り捨ててきた。
ジェンダーギャップが大きくなっているということが話題になっているのだが、女性的な価値観は今の日本ではハンディでしかない。
だから、女性が男性の中で活躍するためには「女性らしさ」を捨てて見せなければならない。そのロールモデルになっているのが高市早苗や稲田朋美といった人たちである。つまり女性は「政治化に向いていない」という疑念があり、それを捨てるためには敢えて乱暴なことを言わなければならないので。ある。稲田朋美に至っては「これを言っておけば安心だろう」という過去の放言を蒸し返され、国会答弁で泣き出す始末だ。信条の問題というよりは、単にオウムのような存在だったのだろう。
実業でも女性は男性的な働きが求められる。電通の高橋まつりさんの件があれほど注目を集めたのは、人生をすべて企業にささげるべきだという風潮が蔓延しているからだろう。自殺したことで電通の幹部たちは「だから女は使えない」と思ったのではないだろうか。
このような社会で女性が男性並みに活躍し始めたら大変なことになる。次世代を育む役割が放棄され社会が縮小するからだ。
さて、この文章では「次世代を育てる」という役割を女性に押し付けているという反論が出てくるのをひそかに期待している。もちろん、男性が女性的価値観を身につけることは大切だ。これの反証になっているのが女性の男性化である。
女性が「私らしくいたい」のは当たり前のことなのだが、これが持ち物や夫の地位をめぐるマウンティングになることが珍しくない。つまり「居心地のよさ」の競争が行われているわけだ。共感を元にみんなが居心地よく暮らすというのが本来の女性的な価値観なのだから、これは男性的に変質しているということになる。
つまり、女性だからといって女性的な価値観を身に着けているとは限らない。日本はそれほど競争的な価値観が支配する社会なのだということが言えるだろう。
面白いことにアパレル業界はこれを男性的に乗り切ろうとしている。つまり、一生懸命大量生産してコストを削減しようとしている。その結果、売れ残りが増えているそうだ。

私が死にたいといったら…

このところ、匿名と実名ということを考えている。その関連で殺人事件や自殺について調べているうちに、精神疾患にかかると家族が崩壊しかねないということを知った。社会的にも偏見が多く、国や自治体からのサポートもほとんどない。
医療的なことも調べたのだが、誤診だった(アスペルガーと統合失調症の区別が付きにくいという話さえあった)としても、治療法は同じようなものだったりするそうである。つまり、よく分からないけどなんとなく効きそうな薬が投薬されているということだ。で、治癒するかしないかは運次第である。
残された家族は「特に悪いことをしたわけではないのに、突然不幸に見舞われた」という状態に陥るだけでなく、何が正しいのか良く分からない上に何をしていいのか誰も教えてくれないという状態になる。
ここにさまざまな「アドバイス」が入る。怪しげでお金目的の宗教もあるだろうし、まじめだが間違ったアドバイスもある。何が原因なのかよく分からないからさまざまな知識が飛び交うのである。
そこで考えたのだが、もしそういう状態に陥ったら家族に迷惑をかけたくない。すると自殺するのが一番いいことになる。だが、心神耗弱状態に陥っているわけだから計画的な自殺は難しそうである。
となると誰かに殺してもらうという方法が残る。自分の命は自分のものだと仮定すると「勝手に処分してもいい」ことになる。それを誰かに委託するわけだ。
法的な枠組みがないという点は置いておいて、テクニカルな難しさはいくつか残る。
生きたいという本能は残るので激しく抵抗することだろう。そもそも不安神経症(ラベルは何でもいいのだが)などの場合には「生きたい」という本能があるからこそ、脅威に対して敏感になるのだろう。基本的には安楽死と同じなのだが「活発に動き回る」という点が違っている。
次に「死にたい」という意思が正常な判断力に基づくかという証明が難しい。精神科医の証明が必要なのだろうが、そもそもそのようなことを考えるということは不調を意識しているということだから、すでに正常な判断ができなくなっている可能性もあるということになる。
さらに誰を<下手人>にするかという問題がある。家族に頼むとすると心理的なプレッシャーは計り知れないものになるだろう。しかし、最終的には迷惑をこうむるのは家族だから、犯罪者にしないためにもいざとなったときには「殺してもいいよ」という許可を与えておくことには意味もあるような気がする。これがないと家族が「殺人者」になるかもしれない。もてあました結果自ら手をかけるということが無きにしも非ずだからだ。
医師に委託するとしたらお金を払って治療行為の一環として殺してもらうということになる。すると、医師は医師免許を取った時点で合法的な殺人者という役割を担うことになるだろう。これは医師の社会的な地位に関わる。実際には高齢者を「治療しない」という選択を通じて医師の役割の範疇に入りつつある。
これが最後の問題だなあと思うのは「それでも生きていたい」という生の執着を捨てられないことだろう。やはり誰かに殺されるなどということは考えたくもない。そう考えるとどんな状態になっても、家族や社会の迷惑になっても生きていたいなあと思ってしまうのである。ひょっとしたらほんの短い瞬間でも生きてさえいたらいいことがあるのではないかという希望を捨てきれないのだ。
死にたいという言葉の裏には、できれば安寧に生きていたいという切なる願いがあるということが実感される。
日本では安楽死は認められていない。普段は自己責任だといわれるわけだが、命というのは本人の持ち物ではないという考えがどこかにあるのだということになる。
ただ、自殺はいけないことだという表向きの認識の裏で、自殺は犯罪扱いされず、命を使って社会的主張をすることは社会的に容認されている。だから「自爆テロ」型の自殺も起こる。経済的な問題を解決するために自分の命を処分することも行われている。たいてい自殺者の苦悩には無関心で「他人を巻き込んだ」ことだけが非難の対象になる。やはり日本は自己責任社会である。
「自分の命を処理すること」が法律的にどのような位置づけになっているのかを知りたいところではある。意外とあまり整理されていないのかもしれない。
高齢化社会に入ると、いやおうなしにこの問題に巻き込まれる人は増えて行くだろう。「かわいそう」だけでは済まされないのではないだろうか。

<キチガイ>と殺人事件報道

匿名、実名問題について考えている。「一般化」は人権問題だという視点だ。
宇都宮で自衛官が自爆テロ事件を起こした。テレビ局の報道を見ていたが、そもそもの原因が娘さんの統合失調症にあるということを伝えた局は皆無だった。NHKだけがかろうじて精神障害との関係をほのめかしていたが、多分あれだけではよく分からなかったのではないだろうか。
SNSが本人のものかどうか分からないというのが当初の「伝えない理由」だったのだが、その後なし崩し的に報道が始まったので「本人認定」はされたのだろう。だが、それでもこの件が話題にならなかったのは、精神障害が面倒なテーマだからではないだろうか。
加害者側が精神障害を抱えていても同じような問題が起こりえる。船橋と千葉で連続通り魔事件が起きたのを記憶している人も多いだろうが、その後さっぱり取り上げられなくなった。容疑者が知的障害者の療育手帳を保持していたからなのではないだろうか。
門真市でも24歳の高校生が知らない人の家に入り込んで人を殺した。小林裕真容疑者は精神疾患を患っていたとされる。こちらも母親の書いていたブログから、疾患が統合失調症だということが特定されているようだ。
殺人事件の報道の目的は他罰感情を刺激することだと考えられる。つまり「悪いやつ」を置くことでテレビを見ている人たちが善人の側にいられるわけである。しかし、そこに精神障害が介在すると話がややこしくなる。責任能力という問題があるので、視聴者の他罰感情が満たせなくなってしまうのである。
精神障害を伝えてしまうと「差別を助長しかねない」という問題がある。精神障害を抱えていると人殺しをしかねないという誤解が生まれるという懸念だ。だが、これは精神障害者をすべて一つの枠で括っている。「正常」な人が、障害者を一般化する行為なので、今回考えている「差別」の構造があることになる。結局、伝える側に差別感情があるのだ。
実はこれが障害者とその関係者を苦しめることになる。普段の社会では自分が差別主義者だと思われないように、精神障害者を括弧で括って見ないようにしている。さらに、精神障害者は何をしでかすか分からないという漠然とした印象もある。
一人ひとり違った顔があるはずなのだが、一般名詞化して閉じ込めてしまう。そして伝えないことでこの印象が更新されてしまう。
またメディアリテラシのない人たちの情報が野放しになる。小林容疑者の場合は、精神疾患の息子を残して水商売にうつつを抜かしていた冷酷な母親という像が一人歩きしたりしている。多分、身内に障害者が出たらひっそりと社会の片隅で国の保護に頼りながらひっそりと暮らせという認識があるのだろう。
しかし「括弧で括って社会から隠してしまう」という方法は取れなくなりつつある。精神障害の範疇が広がりつつあるからだ。
うつ病は治療薬ができてマーケティングが行われる前はこれほどポピュラーな病気ではなかった。中には重度の人もいるだろうし、本来薬が必要のない人が診断されているケースもあるだろう。このように「箱」を作ってとりあえず薬の飲ませるようなことは精神医療の世界では一般的に行われている。
うつ病が安易に診断されるようになった影響で、それに当てはまらない人たちにも箱ができた。それが統合失調症や不安神経症という病気である。
アメリカではACHDという枠ができた結果、10人に1人の若者が当てはまるのではという統計があるそうだ。これを精神障害に加えるかという点には議論があるが、社会的な不適合に名前をつけてとりあえず薬を与えるという点では同じ範疇だろう。結局のところ脳で何が起きているのかは分からないわけだから、誤診も多いはずだ。
ある日突然家族が何らかの精神障害を抱える。しかし、それはタブーとされているので、家族には知識が得られない。そこで知識を求めて役所に行ったり、互助グループを紹介されたりすることになる。だが、それがうまく機能しているとはいえないのだろう。医師すらよく分からないので「とりあえず名前をつけて薬を飲ませている」のが実情なのである。
宇都宮の自衛官の場合、互助組織を紹介されたものの運営方式について異見の相違があったとのことなのだが、これは会社人を経験してきた人にはよくあることではないだろうか。自治会や互助組織などの運営は、会社員経験者からみると「ゆるく」見えてしまうので、男性の方が孤立しやすい。
この家族の場合、父親は互助組織から孤立し、母親は新興宗教に頼って孤立した結果、適切なサポートが得られなかったという事情があるようだ。結果家族で殺意を向け合うという状態にまでなったが、周囲からサポートが得られず、家庭崩壊が起きた。最終的に裁判に発展した結果、裁判官に恨みを抱き、爆破事件を起こすに至ったわけである。
確かに精神障害を一括して扱うことは差別につながるので慎まなければならない。しかし、まったく伝えないことも孤立を生む。問題は「正解の枠からはみ出さないでやってきたのに、それでもうまく行かなくなってしまう」ことだ。
なおそれでも自分には関係がないと考えている人が大多数なのではないかと思う。だが高齢化社会に入り誰でも認知症のリスクを抱えるようになった。私たちが立っている地面は意外と揺れるものなのだ。

生前退位という言葉はどうして生まれたのか考えてみた

皇后陛下が「生前退位」と言う言葉に違和感を持たれたという新聞記事を読んだ。陛下自身は譲位という言葉を使っていたのだそうだ。だとすると生前退位という言葉は周りの人が作ったことになる。NHKは「生前退位のお気持ちが滲む」などというあいまいな言い方をしていたが、いかにも役所的な言い回しので、どのように発表するのかということを綿密に政府内で話し合ったのだろう。
生前という言葉は死後に対応している。使われる場面は生前相続、生前贈与、生前葬と限られる。法律的には財産を生前に譲るということが想起されたのだろう。だからつい役人的な発想で生前退位とやってしまったのかもしれない。土地などの財産と天皇の地位が一緒になっていることになり、かなり畏れ多い感じではある。
もう一つ、天皇陛下ご本人と回りにいる<愛国者>のみなさんの間にあるずれを考えてみた。ずれの正体は天皇の地位に関する意識の違いにあるように思えた。天皇ご本人は日本の歴史に例のない「象徴天皇」として即位された。その地位を作りために行為を通じて実践を積み重ねてこられた。つまり行為こそが天皇を作るのであって動けなくなってしまうとその意味づけが損なわれるということである。
一方、回りにいる<愛国者>の人たちの意識は違っている。天皇はそこにいればいいだけなのであって、行為でなく存在なのだ。だからこそ摂政を置いて代行させればよいということになる。極端な話、10年ベッドで寝たきりになっても、息さえしていればいいのである。
話がかみ合わないのはこの違いが意識されていないことから来るのだろう。と、同時に最初から「天皇は利用する存在」であり、その地位にいる人たちは自分たちを邪魔しないように何か毒にも薬にもならない行為(ボランティア的な作業と役に立ちそうもない学問)だけをしておいてもらえればいいやなどと思っているのだろう。<愛国者>ほど信頼できない人たちはいないと思う。そもそも、被災地にいる人たちに寄り添うなどという行為は<愛国者>にとってはどうでもいいことなのである。それは国民が<愛国者>をたたえるための対象物に過ぎないからである。
一般国民にいたっては天皇の地位は「時計」でしかないようだ。天皇が退位を望んでいるというニュースを聞いた平成生まれの人たちの感想は「ええ、平成が終わっちゃうの」という感想しか持たなかった。
本来なら天皇陛下が築いてこられた、国民の安寧の象徴としての国という意思を広げることでご負担を軽減しようという議論が出てきてもよさそうなのだが、そのような声は一切出てこない。代わりに出てくるのは政治的日程との兼ね合いとかテクニカルな憲法の議論などの話ばかりである。嘆かわしいとしかいいようがない。