日本はもう先進国ではない

ネット上で「日本の一人あたりのGDPがOECD参加国の中で低い位置にある」とちょっとした話題になった。たぶん、すぐに忘れ去られるのだと思うのだが、よい機会なのでおさらいしてみたい。

gdp

この図は一人当たりのGDPを名目と購買力でプロットした図だ。分布をもとに固まりを作る(クラスター分析と呼ぶらしい)と、日本は緑色のグループに属している。緑は「先進国クラブ」の集まりである。「先進国クラブ」から脱却した国には特徴がある。金融拠点になる・都市国家として交易の中心になる・石油で儲けることだ。

ある程度人口が多くなると「働いて稼がないと」食べて行けない国になる。また、いずれも民主主義国だ。君主とその一族が富を独占するという政治形態が取りにくくなるからなのか、国民に政治を解放したから先進国化したのかは分からない。いずれにせよ、国民の労働力とやる気が成長の源泉になっているのではないかと(希望的観測も含めて)思う。

注目すべきなのは「先進国クラブ」ではなく、その隣にある黒い国のグループだ。ヨーロッパの中で先進国から脱落した国(スペイン・ポルトガル)、旧共産圏の国、そして韓国が入っている。これに隣接するのがイスラエル・日本・イタリアである。日本はマラソンでいうと、息切れして先頭集団から遅れつつある国だと言える。黒い国は、先進国でもなければ後進国(数の上では後進国グループが最も多い)とも言えない。いわば中進国だ。日本は中進国化しつつある。

なぜ、日本が成長を諦めて中進国化しつつあるのかについては様々な議論がある。企業は設備投資を更新のみに限定し、成長の源泉になりそうな労働力に分配することもやめてしまった。企業のポートフォリオでいうところの「キャッシュカウ」戦略だ。労働力自体は不足ぎみなので、成長が見込めそうな分野に人が流れず、生産性の低い分野に人が張り付く構造がある。

中には高齢化の影響を指摘する人もいる。つまり日本は老齢化という意味で「先進国」なのではないかというのだ。アメリカやヨーロッパは移民という形で高齢化を贈らせている。安倍政権は「移民ではなく女性を使う」と言っている。本来なら子供を作って高齢化を遅らせるべきだが、それを労働力として使うと言っているわけだ。

民主主義と先進国化がどのような関係にあるのかは分からないが、結果的には「民主主義が健全な国は、そこそこ豊かだ」ということが言える。一方、民主主義が不完全な国は中進国に留まるか、脱落して行く。

現在、安倍政権は「ファシズム化」しているとか「独裁化」しているなどと言われる。確かに、日々いろいろ考えていると、それは正しいように見える。しかし、立ち止まってみると、少し違った光景が見えてくる。

実は、国民の方が複雑な問題を解決することを諦めているのかもしれない。力強い指導者がいて、あれこれと指導されることを求めているのだ。時には文句をいいながら渋々働いて、そこそこがんばる(あるいは能力を出し惜しみする)という光景は、やる気のないサラリーマン社会でもよく見られる。

すると、政権政党は独裁的な力を手に入れても、国民を動かすことはできない。しかし、ナチスのように拳を振り上げて国民を煽動してみても誰も動かない。ただ、やる気なく冷淡に独裁者たちを見つめているだけだ。福祉にかける金は少なくなって行く。これを政権につく見込みがなくなった左派政党が奪い合うのだ。

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テレビジャーナリズムという幻想

古館伊知郎がニュースステーションを降板するといって大騒ぎになっている。権力を批判する人がテレビから消える。それでは安倍政権の思うツボだというのである。こうした言説には違和感を感じる。そもそも、古館伊知郎が「テレビジャーナリスト」扱いされるようになったのはなぜなのだろうか。
そもそも、テレビのニュースは退屈なものだった。最初にこれを変えたのはNHKだ。1970年代にニュース原稿を読むのをやめて「語りかけるように」したのだ。
バブル期の後半に、テレビ朝日が夜のテレビニュースを変えた。ニュースにワイドショーのような「分かりやすさ」を加えた。しかし、それは「ジャーナリズム」を指向したものではなかった。あくまでもニュースショーだった。NHKとの差別化を狙ったものと思われる。そこで起用されたのが、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」で人気だった久米宏だ。久米はニュースを読むアナウンサーではなかった。
その後、バブルが崩壊し、自民党政治への信頼が失われて行く。自民党の政治家は「金権政治化だ」とみなされるようになる。時代に沿うようにしていテレビニュースショーは「反権力化」していった。自民党を離党した「右派リベラル」の人たちが担いだのは熊本のお殿様の子孫である細川護煕だった。細川首相は近衛家の血も引いている。血筋の良さが重んじられるという点では、とてもアジア的な政権交代だった。
この頃の趨勢は「反自民」だった。しかし、非自民内閣が失敗したために、社会党を巻き込んだ「自社さ」政権ができ「自民党をぶっ壊す」と言った小泉政権へと続いて行く。有権者はこの間、一度も「左派」の政党を支持することはなかった。
ニュースステーションの枠を継いだのが古館伊知郎だ。久米は「ニュースステーションがなくなるのだから、次の司会者がいるはずはない」と主張したという。この人もジャーナリスト出身ではなかった。どちらかといえば、スポーツ中継(特にプロレス)などで活躍していた人である。つまり、テレビ朝日は依然としてニュースをショーだと考えていたのだ。「権力を監視し、提言する」のがジャーナリズムだとすると、ジャーナリズムのように見せるのが報道ステーションだった。
前者を格闘技だとすると、後者は格闘技をショーアップしたプロレスのようなものだ。報道ステーションは、格闘技ではなくプロレスなのだ。その悪役として選ばれたのが「権力」だったのである。
小泉政権が終ると自民党に対するバッシングは最高潮に達する。有権者は「自民でないなにか」を求めるようになった。そこで表れたのが民主党だが、3年間の民主党政治は無惨な結果に終った。東日本大震災のような天災もあり、有権者は民主党を「穢れたもの」として打ち捨てた。古代に疫病があると都を捨ててたようなものだ。民主党の後期ごろから人々は「改革」と口に出して言わなくなった。
「どうせ、変わらない」という空気が蔓延し、有権者は政治への興味を失った。今では一部の人たちが「安倍政権は許せない」と叫ぶ(あるいは呟く)だけである。反対が多いように見えるのに、自民党は支持され、憲法改正さえ伺う勢いである。「反権力」はもうトレンドではない。多分「権力側にいたい」というのが今の気分なのだ。
日本人は戦後一貫して「未来」を向いていた。現在よりも一年後の方がよくなると思っていたのだ。バブルが崩壊してもそれは変わらず「この状態はいつしか改善するはずだ」と考えていたように思う。明治以降「脱亜」の意識が強かったので「日本人は西洋に比べて劣っている」と考える人が多かった。実際は世界第二位の経済大国だったのだが「日本は小国である」と考えていた。
ところが、最近では「日本はここが優れている」という番組が多く見られるようになった。先進国最低レベルのGDPなのだが「日本はまだ西洋諸国と肩を並べている」と漠然と信じている人も多い。中国を中進国だと見下しているのだが、経済規模では遥かに及ばない。日本人は未来よりも過去の良かった時代を見る事に決めたのだろう。不安な未来を見つめるよりも、確実な過去を見て安心したいのだ。
だから「反権力」や「ジャーナリズム」はもう流行らない。商品価値がなくなったショーを続ける意味はない。だから、見ていて安心できるキャスターや、現状を肯定するニュースショーが求められるはずだ。多分「官邸から圧力をかけられたから反権力的な人たちが降ろされた」のではないのではないかと思う。
そもそも、現代のビジネスマンはスマホでYahoo!ニュースを見ているはずだ。これまでのように「権力批判」が売り物になるのは、高齢者相手のニュース番組だろう。TBSの時事放談やサンデーモーニングなど、今の政治の不出来を嘆くショーが生き残るのではないだろうか。

ジェーン・スーさんへ「女の敵は女ですよ」

コラムニストで作詞家、生粋の日本人であるジェーン・スーさんがツイッターで「女の敵は女などという男はクズ」というようなツイートを発信していた。これを見てあるエピソードを思い出した。表立って「女の敵は女ですねえ」などと言ったことはないが、内心でそう思ったことはある。
数年前、待機児童が問題になっていたとき、政治家や市の取り組みが知りたいと話を聞きに回ったことがある。自民党や市の対応は「問題は認識しているが、鋭意解決中である」という当事者意識のなさそうなものだった。「隣の市や近隣政令指定市と比べるとまだマシ」という人もいた。
当然「福祉」を標榜する市議会議員は保育所増設に賛成しているのだと思い、近所の革新系の議員事務所を尋ねた。この地域には社民党の議員はいないのだが「市民ネットワーク」という革新系の団体がある。もともと生協系だったということで、事務所に詰めているのは年配の女性たちだ。
意外なことにこの議員さんは保育所の設置にあまり乗り気でなかった。そればかりか「子供を置いて働きたがる女性はわがまま」と言われて、大いに驚いた。夫の稼ぎだけでは足りず、お小遣い稼ぎのために働きたい人が多いのだと言うのだ。事務所に詰めている女の人にも聞いてみたが、同じような意見だった。そこで「女の敵は女だな」と思ったのだ。
もちろん、彼女たちには言い分がある。市は介護に予算を割くべきだというのである。「贅沢をしたいだけの嫁世代」に予算が付くと、介護関連の予算が減ってしまう。男性の立場から見ると、漠然と「女性同士だから協力しあっているのだろうな」などと思うのだが、実際には競合しているのだ。彼女たちはお年寄りが困窮する深刻な現場をたくさん見てきたのだろう。
何回か通ってみてあることに気がついた。事務所に詰めている人たちは、何か満たされていないようである。夫へのグチなどを聞く事もあった。どうやら「政治みたいな難しい事は分からない」と言われて、辛い思いをしているらしいのだ。子育てと同時に社会から切り離されたと感じる人たちが多いのかもしれない。
そこで人気を集めるのが「お勉強会」だ。何度となく「お勉強会」に誘われた。そこで「憲法第九条の意義」とか「原発は危ない」とか「市の予算を節約するためにはゴミを分別しなければならない」といった知識を身につけるらしい。その学習の成果を「通信」という短い印刷物にまとめて壁に貼ったり、近所に配ったりするのが、彼女たちの大切な仕事だ。
当時、待機児童問題は彼女たちのアンテナにひっかからなかったのだろうし、本部のアジェンダにも乗らなかったのだろう。こちら側としても「お勉強会」に出てこないことは聞いてはいけない。そういったことには答えられないし、男性から「無知だ」と決めつけられるのも嫌がるからだ。
一方、働いている女性たちは忙しすぎて政治的な活動に時間を割くことはできないはずだ。代表がいないから、この手の問題はいつまで経っても解決しないのではないか、と思った。
男性がこの手の話を書いたり言ったりすると「女を見下している」と思われがちだ。だから、男性はこうしたことを表立っていう事はない。だが、お互いに協力しあわない限り、幸せにはなれないだろうなあとは思う。
もちろん、こうした「お勉強」をしているのは、女性たちばかりではない。共産党の支持者たちにも同じような人たちがいる。こちらは労働組合の影響を受けた高齢の男性が多い。マルクス史観を叩き込まれており「資本家は労働者の敵である」というようなことを言っていた。「労働組合も既得権化」してますよねとか「株を買っている人も多いので、労働者も資本家なのでは」などというと、スルーされる。お勉強会で出てこないことは分からないのだろう。そして、勉強の成果を他人に披瀝したくて仕方がないようだった。しきりに不破さんの書いた本(当時、マルクスについて分かりやすく書いた本が人気だった)を勧められた。
いずれにせよ、革新系というのはこうした人たちに支えられている。働いても給料が増えない非正規労働者とか、生活のために働かざるを得ない主婦というのがなかった時代に社会常識を身につけた人たちだ。労働運動の従事者や主婦といった人たちが多いので、経済や経営には疎い。だから、予算のパイを増やそうという議論にはなりにくい。そこで限られた予算を現役世代との間で争奪し合うという議論に発展しがちなのだと思う。
つまり、左翼の敵は左翼なのである。バブル崩壊以降、幾度も左派政権ができかけては自滅していった。反自民という旗印以外にはまとまりがなく、結果的に利益を「仲良く」仲良く分け合おうという右派勢力に負けてしまうのである。

ローコンテクスト文化と是々非々文化

松田公太という参議院議員が、菅官房長官の「是々非々」発言に疑問を呈している。多分、松田さんは是々非々という言葉の意味が分からなかったのだろう。海外経験が多いことが影響しているのではないかと思われる。
菅官房長官は、おおさか維新の党を指して「是々非々を歓迎する」と言っている。これは「取引が可能だ」という意味合いを含んでいる。おおさか維新に大阪府市の改革をやらせる代わりに憲法改正への道筋を立てて欲しいと考えているのだろう。お互いの利権には踏み込まず、目標を達成する協力をしましょうということである。
一方で、ローコンテクスト文化圏の是々非々は「出された法案を検討し合理的な判断を下す」という意味合いだろうと思われる。例えば社民党や共産党のような万年野党が「とにかく政府の方針にはなんでも反対する」のと比べて合理的に聞こえる。
ハイコンテクストの人たちは「関係性」に注目する一方で、ローコンテクストの人たちは「対象物」に着目する。同じものを見ているつもりで、まったく別々のものを見ているのだ。
菅官邸にとって、おおさか維新は好ましい相手だ。自民党に近寄る議員たちは「あわよくば自民党に入れてもらいたい」と思っている人ばかりだ。いわば「フリーライダー候補」と言える。また「万年野党」とも利害圏が共通している。だから「万年野党」は何かにつけて反対するのだ。一方、おおさか維新は自前の支持者を持っていて自活している。中央と地方なので利権の棲み分けも完璧である。これがおおさか維新が好まれる原因だろう。
菅官邸は取引を持ちかけるのが好きだ。沖縄に対しては「遊園地を誘致してあげるから、基地に反対しないでね」と言っている。「あなたたちのことは分かってますよ。おいしい思いをしたいんですよね」というわけだ。それは「私達もおいしい思いをしたいんですよ。分かっているでしょ」というメッセージを含んでいる。これを仄めかすように伝えるのが日本式だ。
一方、菅官邸はこうした「是々非々」の取引ができない人たちが嫌いだ。原発を稼働に「とにかく反対」という人も嫌いだし、軍事費で儲けたいと思っているのに「とにかく戦争反対だ」と叫ぶ人たちも嫌いだ。「沖縄の誇り」を持ち出されると取引ができないので、これも嫌がる。そして、こうした人たちがいないように振る舞う。
菅官房長官や安倍首相はこうした人たちと対峙するときに、目を見ないで嫌な顔をすることが多い。特に女性(多分見下しているのだろう)などが相手の場合には露骨に嫌な顔をする。取引ができないとどうしていいか分からなくなってしまうのだ。
松田さんの党は(党でなくなったみたいだが)安保関連法案には賛成しているので「是々非々党」だと思われがちである。日本人の受け手(つまり有権者)もそのように受けとめている。「政権と取引したのだろう」という具合だ。しかし、実際には「国会で審議できるようにしよう」と言っている。官邸から見ると取引したいと考えている利権に踏み込もうとしているように見えるのだ。日本人は自分の縄張りに他人が入ってくるのを嫌がる。さらに、こうした取引をするのに言語的な交渉を行わない傾向がある。お互いに目をみて「分かっているでしょ」と非言語的なやり取りを行う。
このハイコンテクストな「是々非々文化」はかなりの弊害を生み出している。そもそもコンテクストを理解できない外国人もいる。アメリカのようなローコンテクスト文化圏の人だと「日本人は集団で私を排除しようとしているし、はっきりと要求を表に出さない」と思うかもしれない。もっとやっかいなのは女性だ。「女の人は建前だけ言って困る」というのは「是々非々の対応ができない」という意味である。だから、日本では地位が上がるほど女性の管理職が少ない。「女は面倒」なのだ。
こうしたハイコンテクストな文化が残っている企業には優秀な外国人や女性が近づかないだろう。多様性がないということは、こうした顧客のニーズが満たせないということである。ハイコンテクストな人たちとの間でのやりとりが好まれるので、ガラパゴス化してしまうのである。
最近ではオリンピックでこの是々非々文化が問題を起している。ザハ・ハディド氏は外国人であり女性でもある。組織委員会の人たちは「それとなく」要求を伝えた(あるいは仄めかした)はずである。それがうまく伝わらなかったのだろう。利益が確保できない事を怖れた建設会社が法外に高い見積もりを出して「自爆テロ」を演じたのではないだろうか。代わりに出てきたのが「話が分かる」日本人男性の建築家だ。
さらにはエンブレムでも「話がわかりそうな」広告代理店が「話のわかりそうな」アートディレクタを採用して形だけのコンペが実施された。日本人にとっては「利益を分配する」というのは自然な文化なのだ。
大きな公共事業には国際コンペが義務づけられている。TPPが発効すれば地方レベルの公共事業にも国際コンペが義務づけられそうだ。日本の「是々非々問題」は国際的な軋轢を生じさせそうである。この文化は、アメリカやアングロサクソン系の人たちからは「非関税障壁」と見なされているからである。

NHKの女性進出プロパガンダ

古館伊知郎が報道ステーションを降りるといって大騒ぎになっている。官邸の圧力だろうというもっぱらの評判だ。しかし、分かりやすいところにかける圧力は圧力とは呼べない。無知蒙昧な庶民を「教育してあげる」のが本物のプロパガンダだろう。もともとカトリックの宣伝のことを軽蔑的に呼んだのがはじまりだそうだ。
今年撃沈した大河ドラマ『花燃ゆ』の後半のテーマは「女と教育」だった。女は教育をつけて国の経済発展に尽力すべきだというメッセージである。「経済力を付けて自立すべきだ」という台詞が語られた。そうすると「私らしく輝ける」というのである。
今年後半の朝ドラ『あさが来る』のテーマも「女と社会進出」らしい。福沢諭吉(武田鉄矢が押し付けがましく演じている)が「女も教育をつけて経済的自立を果たし責任を負うべきだ」と主張した。ドラマ自体は楽しく見ているのだが、武田鉄矢には「うんざりぽん」だ。
この2つは偶然選ばれたのではないのだろう。女性進出を政治的スローガンとしている安倍政権の動き(ウーマノミクス)と重なるからだ。確かに女性の社会進出自体は悪い事ではない。
確かに女性は期待されている。企業で正社員を非正規で置き換える動きが進んでいるので、女性は貴重な労働力として期待されているのだ。政府によると、女性は働き手であるとともに、家事や育児をこなし、将来は介護労働にも携わるべきだ。
一方で女性が重要な役職に就く事は好まれない。政府は小泉政権の頃に掲げた女性公務員の管理職の割合を30%以上にするという目標を7%に引き下げた。政府は「女性を管理職にしたらカネを払う」と言っているのだが、申請した会社はほとんどない。
そこでNHKのメッセージだ。NHKの考え方によれば、女性の社会進出が遅れているのは、女性に教育と意志がないからである。だから、教育を付ければ自ずから女性は社会進出するであろうというのだ。実際には女性の教育は進んでいるが、女性が教育を付けたからといって男性並に稼げるわけではない。実際には補助労働力として期待されているだけだ。もちろん「学をつければ良い仕事に就ける」という期待を持てる男性も減っている。
もちろん、どのような作品を選び、どんなメッセージを乗せるかはNHKの自由だ。いやなら見なければよいだけだし、朝のドラマにそんなメッセージが込められているとは誰も思わないだろう。うっかり見逃してしまう人の方が多いのではないかと思う。
気になるのは「私らしく」という点だ。女性が意識を高めれば私らしく輝けるというメッセージには宗教的な響きがあるが、実際には取捨選択を迫られる上に自分の選択が正しかったのかについて確信が持てない。そこで周囲との比較が始まるのである。
この無責任なメッセージを政府がNHKに押しつけているとは思えない。おそらく政府の歓心を買う為に「自主的に」行っているのではないだろうか。明白に主張しているわけではないので、罪の意識も薄いかもしれない。しかし、こうした無責任なプロパガンダを流す前に、NHKは自らが雇っている高学歴で意識の高い女性が高い地位に就けるように努力すべきだろう。管理職の割合を50%程度まで引き上げるなら、NHKのメッセージを信じてもよいと思う。

蜩ノ記と無私の精神

テレビで『蜩ノ記』を見た。岡田准一の演技(というより所作というのか)が良かった。腰を落とした歩き方が「ああ、昔のひとはああいう歩き方をしていたんだろうなあ」という印象を与える。
この映画は役所広司(の演じる武士)の無私の精神を鑑賞する映画なのだろう。ただ、役所広司がなぜ切腹しなければならないのかなどという面倒な事を考えはじめると楽しめなくなる。そして、無私の精神がなぜこれほどまでにありがたがられるのかということに違和感を抱くと全く楽しめなくなる。
筋がほとんど分からなかったので、ウィキペディアを見ながら鑑賞するはめになった。多分、本を読んだ人が見る映画だから筋を詳しく説明しなかったのではないかと思う。日本は謙譲が美徳ということになっているので、主人公たちにべらべらと背景を説明させられなかったのかもしれない。本来なら岡田准一がワトソンのように語り手の役割を果たすべきなのだろうが、雰囲気はぶちこわしになっただろう。
ウィキペディア情報によると、あらましは次の通りだ。役所広司の指導で井草が地域の名産になった。しかし、後任者と藩の重役たちの悪政によって、井草は博多の商人が独占するようになり、農民は二重課税されるようになってしまった。当然、農民は困窮する。さらに郡奉行が「不作で米が取れなくなったら、博多の商人に田んぼを売れ」と無理難題を吹きかけ、恨みを買って殺されてしまうのだ。
役所広司が死ななければならないのは、この武士の体制と体面を守るためだ。体制を守りつつ歴史の中に「真実」を記述することにによって体面も守ろうとしたのである。だが、それを両立するためには10年間歴史書を書いてから死ななければならなかった。
確かに、武士の立場に立脚すると、これは美徳ということになるのかもしれない。しかし、生産と成長という観点から見ると見え方は異なる。この体制下では、せっかく振興した産業を潰しかねず、生産者も疲弊させてしまう。さらに、生産性を向上させようとした指導者は死ななければならなかった。残ったのは歴史書だけである。
「民が豊かになる」ことを正当化するためには、生産性が上がること(つまり、成長だ)が正義にならなければならない。生産性が上がることが正義になるためには、移動と競争があることが前提になる。生産性の低い土地から高い土地に移動ができれば、競争力の低い土地からは人がいなくなってしまい、統治失敗だ。だが、当然のことながら江戸時代の農民は移動ができない。生産性を上げても武士と商人に搾取されてしまうのだから、農民の間に生産性を上げるインセンティブは働かない。そもそも田畑の所有権すら失いかねない状況なのだ。武士にも生産性を上げるインセンティブはない。自分たちの社会さえ維持できれば、生産者がどうなっても構わないからである。
そもそも武士は生産者が何をやっているのかさっぱり分かっていない。ただ、利益が素通りするのは困ると考えているだけである。だから、儲けの総額よりも、自分のところにいくら入るかが重要になってしまうのだ。
生産性という点から見ると、武士は「寄宿階層」だ。生産にも寄与していないし、流通を通じて生産された財の価値を高める事もない。単に農民の労働力を搾取しているだけである。彼らの関心事は家の体面だが、これも実利というよりは、血筋の善し悪しと権力争いに過ぎない。
故にこのストーリーをまとめると次のようになる。生産に寄与しない寄宿階層の中間管理職が社内抗争に巻き込まれて社史に真実を残すのと引き換えに自殺に追い込まれてしまう話である。
この話を突き詰めて行くと、武士とは何なのかという話になる。自ら食べるものを生産できない武士が「自分の欲求」を見たそうと思えば相手から搾取するしかないが、生産者である庶民階層から見ると矛盾が生じる。自分たちが「搾取されるだけの階層だ」ということが明らかになってしまうからだ。
そこで「武士は理想的には無私の存在であるべきなのだ」という前提を置くことでこの矛盾を解消しなければならなくなる。言葉で「私は無私ですよ」といっても信頼できないので、死んで見せなければならない。すると「ああ、あの人は自分の命を惜しまずに、みんなのために尽くしたのだ」ということになるのだ。
結局のところ役所広司は隠蔽するために死んでいったことになる。こういう話をありがたがる人が多いのは、日本人の多くが搾取されることを受け入れており、無私というほとんどあり得ない前提を置かなければ平常心を維持できないからなのではないかと思う。武士の立場に立つと、問題解決能力を失った(あるいは始めからない)組織を存続させるためには、死ななければならなかったということだ。そういう犠牲を払った人も多いのだろう。

安倍政権が戦争をやりたがっているというのは、いくらなんでも言い過ぎ

NHKでヒトラーの特集をやっていた。政権初期の経済対策について時間を割いているのが特徴的だった。特集によると、ヒトラーは全国民に仕事を割り振り人気を集めた。福利厚生を充実させ、週休二日制なども導入した。さらに、自動車産業を振興し、全国に高速道路網を張り巡らせた。このため、戦争に突入してからしばらくの間は国民は好景気の恩恵を享受したのだという。
いくつか疑問がある。第一の疑問はなぜソビエトに戦争を仕掛けたのかということだ。当初、ドイツは軍事的に圧倒的に優位だった。独ド不可侵条約があり、ソビエトの侵攻を心配する必要がなかったことも一因になっている。そのままの状態を維持していれば、少なくともしばらくの間は失業対策としての戦争を維持できたのではないだろうか。
もう一つの疑問は、お金を借りることができなかったドイツ政府がどうやって公共事業の原資を得たかという点だ。こちらは調べがついた。公共事業を受注した企業がメフォ手形という手形を発行したのだという。引受先は銀行になっていて、最終的には中央銀行が信用を担保していた。発明者はヒトラーではなく、その前任者たちだったようだ。ヒトラーの政府は現金を用意することなく、国債も発行せずに公共事業ができたのだ。
さらに、高速道路の労働者は給与を得られなかったらしいという記述が見つかった。食料や住居などを現物支給されていたのだという。いわば勤労奉仕だが、それでも失業よりはマシだった。後には兵士が増員され、それが公共事業のような役割を果たすことになった。もっとも、戦争終結期には極寒のソビエトに送られる兵士も多かったのだから「余暇」どころではなかっただろう。
労働者は賃金は得られなかったが、休みと福利厚生施設が与えられていた。さらに「ドイツ民族を復興する」という崇高な目的まであったのだ。現代でいえば、給料は得られないがネットゲームし放題みたいな政策は人気を集めるかもしれない。そう、考えるとどちらがマシなのか考えさせられる話ではある。
海外からの支援は得られず、外貨もなかったので、公共投資を支えた資金は資金は国内で調達されていた。ということは、しばらくの間食べるのに困らないほどの資金が蓄積されていたことになる。ドイツはすさまじいインフレに見舞われており。失業者もあふれていたのだが、そんな不況の中でも「持っている人は持っていた」ことになる。不況とは、持っている人が資金を手放さないということなのだ。
メフォ手形は償還期限を過ぎても引き当てることができなかったようである。償還期限はあったが、逃げ水のように引き延ばされたのだ。また、企業も一定以上儲けることが禁じられるようになった。一定以上の儲けを使って国の証券を買わされたようである。国民にも貯金が奨励された。これも戦争の原資になったようである。つまり、戦争を継続しなければ、ヒトラーの甘言に沸き立っていた人たちが、彼に怒りをぶつけるようになるのは時間の問題だっただろう。このようにしてヒトラーは勝ち続けるしかなくなってしまったのだ。
メフォ手形の原資については推測が多い。資料の多くが戦争で散逸してしまったのだそうだ。だから、ヒトラーの経済政策は評価が分かれる。結局は維持不可能なスキームだったのだが、中には「良い政策だ」と評価する人もいる。結果的に企業や資産家から資金を巻き上げて、格差を縮小したからだ。生産資源も破壊されてしまったので、格差縮小政策としては効果を上げている。よく、最後の希望は戦争」という人がいるが、それを地で行く政策であることは間違いがない。
よく、安倍政権の政策はヒトラーと比べられることがある。安倍政権が戦争のできる国づくりを目指しているのではないかというのだ。ヒトラーと比べる限り、この推測は間違っていると言えそうだ。戦争をするためには国民を抱き込む必要があるのだから、最初はポピュリストとして国民受けする政策を実行するはずである。しかし、安倍政権はどちらかといえば企業寄りの政策を実行している。
また、ヒトラー期のドイツには「世界情勢に対する敵意」のようなものがあり、これが他国への侵攻の要因になった。日本はどちらかといえば「アメリカ中心の平和」に対する信認があり、国民の多くが周辺諸国への敵意を持っているという状態ではない。
一方、安倍政権にはヒトラー期のドイツと似ている点もある。
ヒトラーを首相にした保守政治家たちは共産主義の台頭を怖れて「突破力のありそうな」ヒトラーに期待した。そうして一度はクーデターに失敗して投獄された男を首相に祭り上げたのだ。ドイツには緊急時に内閣に全権を委任することができる法体系があり、それを利用された。こうした体系を作り出したのはヒトラーではない。安倍政権は憲法改正をして似たような条文を盛り込もうとしている。憲法改正はできるかもしれないが、それを利用するのは別の人になるだろう。
現在、政府は国民の貯蓄を原資にして借金をしている。しかし、これが破綻しそうになると「政府は直接通貨を発行すれば増税しなくても済む」などと言い出す人が現れるのだ。経済がわからず、解決する知恵も意欲もない政治家はこうした甘言にやすやすと乗せられてしまう。仮にこういう提案を言い出す政治家が出現したら、その人はヒトラー候補と呼ぶ事ができるだろう。

経済学という名前のカーゴカルト

高橋さんは、経済状況は好転しつつあり、日本人の給与はそのうち上がり始めるだろうと言っている。すべてはアベノミクスのおかげだ。これを批判する民主党は自らの経済音痴ぶりを披瀝しているだけなのだそうだ。
アベノミクスは物価を上げる。物価が上がると実質賃金が下がる。すると人件費が安くなる。需給曲線の示すところによると、人件費が下がると需要が上がるので、雇用が生まれる。現在、失業率は低く押さえられているので、そのうち人手不足に陥り、今度は賃金が上がって行くだろうと言っている。
wageさて、実際はどうだろうか。日本人の給与総額は2000年頃をピークに下がり始めている。バブル崩壊後も終身雇用体制が残ったために給与調整が進まなかったのだが、その後労働市場の「規制緩和」が起こり、非正規労働へのシフトが起こった。給与所得者の数はそれほ変化しなかったので一人当たりの給与は下がった。つまり、労働市場には構造変化が起きていたということになる。この構造変化はアベノミクスとは全く関係がない。
また、実感としても給与が上がる気配はない。終身雇用の一翼を担っていた家電産業は総崩れ状態で、テレビ・パソコンなどの事業を切り離して、ブランドだけの会社になりつつある。一方で家電に変わる新しい経済の担い手は出現していない。日本の産業は資産の付加価値化に失敗しつつあるように見える。投資資金は潤沢にあるが、それを活かせる経営者がいないのだ。
また、多くの業種で多重請け負い化が見られる。もともと建設業界で見られたものだが、ITやコンテンツ産業(特にテレビなど)では、末端の従業員は「個人請け負い業者」であり、労働者として保護されることはない。価格競争力が低いので賃金は底辺に張り付いたままだ。時間辺りの賃金で見ると「コンビニで働いた方がマシ」という人たちに「あなたの賃金はじきに上がりますよ」と説得してみると良い。嘲笑されるか袋だたきにあうだろう。
確かに、需給曲線理論は教科書的には正しそうだが、理論が成り立つためには前提が必要だ。需給曲線は自由交換に基づいた理論だ。労働者は労働市場を自由に移動でき、需要に見合った給与が得られるというのがその前提であろうと思われる。
しかし、実態は終身雇用制と非正規雇用の二重構造が見られる。いったん終身雇用から滑り落ちてしまうと、低い賃金しか期待できないので、移動が抑制される。非正規から正規への移転はない。さらに、給与は労働力への需要で決まるわけではない。同一労働に正規・非正規という二重の賃金体系ができているからである。
もっとも、高橋理論は「自由な市場」であるパート労働の世界では実現するかもしれない。そこには自由な移動があり、時給を上げなければ人が集らない。つまり、正規から非正規への移転が完了してしまえば、理論が成就する可能性がある。多くの労働者が生産性の低いサービス産業に貼付けられており、製造業も中進国と競争するという世界だ。
多分、介護や福祉などの現場ではこうした現象が起き、人が集らなくなるだろう。外国人研修生は「情報」を利用して賃金の高い現場に脱走する。いずれにせよこの場合、2000年以前の給与水準グラフは「なかったこと」にしなければならない。故に「高橋理論」は、民主党政権時代と安倍政権時代だけを切り取っている。
この世界では、中進国と価格競争するために、給与を下げる必要がある。そこで国民を貧しくしてしまえば、価格競争力が増し製造業が誘致できるというわけだ。この考え方は宗主国が植民地に対して抱いている願望に似ている。
いわゆるリフレ派の理論は既に破綻している。お家元のクルーグマンが「実質的に」失敗を認めているからである。(クルーグマンは、ものすごく思い切った財政政策を取れば回復するかもしれないが、政治的には無理なんだろうなあというようなことを言っており、全面的に間違っていたと認めた訳ではない。)原油価格がさらに下落する(アメリカが原油輸出を解禁するのだという)ことが予想されるので、物価が下がることも予想されるが、これも財政政策とは関係がない。高橋理論に従えば、物価が下落すれば失業率が上がるだろう。
もっともこの件で経済学を糾弾するのは間違っているのかもしれない。クルーグマンは実態を見た上で「自分の理論のどこがまちがっていたのか」を考察している。日本の経済学はそれを輸入して自説に合わせて料理する。その意味ではカーゴカルトの一種なのだろう。もしくは自分のフィールドである財政学に合わせて理論を構築し「すべては財政を中心に回っている」と考えているわけで、これは天動説の一種だ。
つまり、日本には経済学などないのだ。

スターウォーズと日米のコンテンツ産業

もともと大陸間弾道ミサイルを開発したのはヒトラーだった。敗戦でその技術がソ連とアメリカに移り、ミサイル技術は核爆弾と結びつく。と、同時に同じ技術を応用して人を宇宙に送る計画が米ソで立ち上がる。最初に人を送り込んだのはソビエトだったので、アメリカ人は大いに自尊心を傷つけられた。そこで、登場したのがアポロ計画である。月に人を送り届けようというのである。
アポロ計画は1960年代初頭に始まり1969年に最初の宇宙飛行士が月に立った。この様子はテレビ中継され、いよいよ宇宙旅行というものが現実味を帯びるようになった。
ジョージ・ルーカスはもともと戦前の宇宙活劇『フラッシュゴードン』を制作したかった。しかし、権利が買えなかったために映画化を断念し、代わりにオリジナル脚本を書いた。これが『スターウォーズ』の前進になるプロットだ。当初のプロットは『フラッシュゴードン』のような勧善懲悪のストーリーだったと言われる。
ルーカスはやがて、エンターティンメントの基礎として、神話や古典などの要素と、好きだったウェスタンや黒澤映画などを混ぜ合わせて、3話分のストーリーを作り上げた。しかし、予算や時間上の制約から3話分を盛り込むことができず、さわりとなる一部だけを映画化することにした。同年(1977年)に公開された『未知との遭遇』の予算が2000万ドルだった一方で、『スターウォーズ』の予算は1300万ドルと比較的低予算だった。
基本的に勧善懲悪の分かりやすいストーリーで、狭い世界にいる若者が広い世界を探検するという親しみやすい要素も盛り込まれている。それに加えて、神話の要素を加えたので、スターウォーズには子供が良い父親と悪い父親像を統合するという心理学的な要素がある。ユングによると、長く語り継がれる神話や伝説にはこうした基本的な構造が見られるとされる。こうした要素は「元型」と呼ばれている。
SFは単に子供向けのエンターティンメントと見なされるか、芸術性で難解なものが多かった。スターウォーズはこの両方を統合して興行的にも成功した。このため、テレビドラマだったスタートレックなども映画化されることになった。しかし、スターウォーズの成功がもたらしたの影響はそれだけではなかった。
スターウォーズで培った映像制作技術はコンピュータを使った特撮技術の発展に一役買った。ルーカスフィルムのアニメ部門だったピクサーは1979年に独立し、アップルを退社していたスティーブ・ジョブズに買い取られた。ジョブズはもともとピクサーをハードウェアの会社にしたかったようだが、後にソフトウェアとコンテンツ制作の会社になった。
デジタルビデオ技術の発展はコンピュータの需要を作り、技術革新に貢献した。今ではパーソナルコンピュータレベルで、かつてのワークステーションレベルの仕事をこなすまでになっている。
ピクサーは顧客獲得に苦労するが、アニメーションの制作コストを削減したかったディズニーとの関係を構築する事に成功した。その後、ディズニーはピクサーを子会社化し、最近ではルーカスフィルム本体を買収した。ルーカスは『スターウォーズ』の最後の3部作を制作するつもりはなかったようだが、ディズニーによって制作が継続されることになった。
スターウォーズは、物語に元型の要素を加えて普遍化を図った。文化依存性が低いので、世界各地で興行的な成功を収めた。その資本で高度な演算能力が必要なコンピュータグラフィックス技術を発展させた。つまり、コンピュータ技術の発展にも一役買っている。ディズニーも労働集約的な産業構造から脱却するためにコンピュータグラフィックス技術を積極的に採用した。
ハリウッドやベイエリアには世界各地からハリウッド映画に憧れた才能が集ってくる。こうした移民の多様な才能が映画産業やコンピュータ産業を支えている。最近のハイテク業界ではインド人のCEOが「トレンド」である。また、ハード、ソフト、コンテンツのような異なった文化を統合することに成功している。文化統合はアメリカの得意分野なのだ。
一方、日本の映画界はどうだったのだろうか。
戦後、映画は唯一の娯楽であり、1950年代には1000万人の動員数を誇っていた。日活が映画業界に参入するのを防ぎたかった映画会社五社は1953年に「五社協定」を結び、監督や俳優を囲い込んだ。その後、テレビが登場すると映画産業は斜陽の時代を迎える。1000万人いた動員数は、1965年頃には400万人にまで落ち込み、1970年代には200万人頃まで下落した。
結局、斜陽に陥った映画産業は所属俳優を雇いきれなくなり、1971年に協定は崩壊した。新規参入組だった日活はロマンポルノに活路を見いだし、大映や東映もテレビコンテンツを作る会社になった。
映画を救ったのはテレビだった。21世紀に入り興行収入の面では映画黄金期を上回っている。また、テレビで露出の高い俳優やコンテンツが人気を集める一方で、俳優になじみのない洋画は敬遠される傾向がある。このため、テレビで人気のある俳優を声優として起用する「日本語版」が人気を集めている。
スターウォーズが公開された1977年には、日本の映画業界はすでに斜陽化していた。スターウォーズがすばらしい興行収入を納めたというニュースが伝わると、便乗しようという話が出た。しかし「どうせ、子供相手の宇宙チャンバラだろう」とされ、スタッフはやる気を見せなかった。1978年に作られたのが『宇宙からのメッセージ』だ。やる気のなさが反映された駄作となった。後にテレビシリーズも作られたが、視聴率は芳しくなかった。
とはいえ、日本人にコンテンツ作りの才能がないというわけではない。確かに、SFやアニメは子供向けのコンテンツだと見なされていたのだが、社会性を織り込んだものも多かった。例えば、ゴジラには原子力への不安が反映されており、ウルトラマンには、アメリカに頼らなければ存立ができない日本の不安定な心情が織り込まれていると言われている。アニメの分野では手塚治虫が少ない予算でできるだけ質の高い作品を作ろうと腐心した。作り手はエンターティンメントと社会性のバランスを取りながら、コンテンツ制作をして来たのだ。
しかし、日本の産業はこうした才能や資産を活かしきれているとはいえない。異なった文化を統合できないために、映像コンテンツのような複雑な産業に対応できないのかもしれない。
1989年、資産バブルで儲けていたソニーは、コカコーラから独立していたコロンビア映画などを買い取り、ソニーピクチャーズを作った。1993年にはソニーコンピュータを設立しており「総合エンターティンメント企業」への移行を目指したものと思われる。
ソニーは2005年にハワード・ストリンガーを会長兼CEOにした。その頃から企業文化が怪しくなり、本流であった日本人のエンジニアたちの離反を招いた。また、各種の資産を活かしきれているとはいえず、ゲーム事業は当初赤字が続き、2014年にはVAIO事業も売却した。映像コンテンツやゲームコンテンツとハードウェアの統合ができず、日米の文化差も吸収できなかったものと思われる。
日本のアニメは海外から高い評価を受けているが、アニメ産業はかなり悲惨な道を歩んでいる。
初期には手塚治虫のような偉人が出たが、アメリカのような技術革新が起こらず「手書きこそが芸術的である」という認識が強かった。面倒な職人技が尊ばれる文化があるのだろう。ヒット作を生み出す監督への依存も大きく、世代交代が進まなかった。このため、労働集約的な企業文化が温存された。
アニメ産業はITや建設と同じような多重請け負い構造になっている。権利関係は出版者やテレビ局が押さえているので、制作者に金が回らない仕組みになっているのだ。結果的にアニメ産業に携わる人たちの年収は上がらず「若者の夢を食いつぶす」構造になっている。
動画担当者の平均年収は100万円を少し越える程度で、個人事業主が多いという。個人事業主には労働基準法が適用されない。最近では安い労働力であるアジアへの受注なども広がる。アメリカが移民を競争力の源泉にしているのと比べて、日本は移民を安い使い捨ての労働力だと捉えていることが分かる。
庵野監督は「アニメ業界はもってあと数年」と発言している。潰れることはないかもしれないが、不安定な状況が温存されているのが問題だと考えているようだ。一方で、日本政府は搾取労働に依存する産業を「クールジャパン」として売り込もうとしている。
御存知のようにジョブズはAppleに戻り、ハードウェアとコンテンツの統合を果たした。Appleから出ていたときの人脈や経験がiPhoneの成功につながっている事は疑いがない。ルーカスは制作会社を手放すことによってスターウォーズに新しい可能性を加えた。アメリカではこのように経営者が循環することで、文化統合が図られている。これが複雑な産業への対応を可能にする。
一方、日本の経営者は技術や利権を囲い込む傾向がある。このことは5社協定の時代から変わっていない。日本の経営者は、技術的に優位性で先進的な市場を持っていたモバイルフォンを「ガラパゴス化」してしまった。ガラパゴス化の背景には、一つの事業や会社から離れない経営者の存在があるものと思われる。安い賃金で夢を食いつぶし、持て余すとリストラしてしまうのだ。

女性が子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うことだ

NHKで保育士が足りないという話をやっていた。実際には資格を持った人は70万人も余っているのだという。にも関わらず、保育士として働いていない人が多い。平均給与が20万円程度しかないので、続けたくても続けられないのだという。気概に燃えて保育士を志しても、現場の課題な要求に燃え尽きてしまうひとも多いということだ。
いろいろ検討してみると、この状態で子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うということである、ということが分かる。
番組を見ているときには深く考えなかったのだが、後になって疑問に思ったことがある。50歳代の人を加えても給与が20万円しかないということは、この人たちが働いていた当初から、保育士の給与は低く抑えられてきたということだ。番組ではこの点には触れず「社会の関心を高めなければならない」というような論調で議論が進んでいた。しかし、社会の関心が高まっても保育士の給与が上がる訳ではない。
昔から平均給与が低かったということは、保育士というのは一生続ける仕事だとは認識されていなかったということになる。お嫁さんになる人の仕事だったのだろう。一般の企業でいうところのOLさんのような位置づけだ。確かに子供が好きそうだから、よいお嫁さんになれそうだ。もしくは、子育てが終ってから仕事に復職するということも考えられる。
こうした現象は統計的に確かめられている。OECDで統計をとると、日本の賃金格差は韓国と並んで高い部類にある。両国で共通するのは女性の就業者がM字カーブを描いているということだ。つまり、女性は補助労働力として位置づけられており、子供を産む時に一度キャリアを中断されるのだ。
この労働慣行が残っている中で、一生「女性向きの仕事」に就くということは、補助労働力に留まる事を意味する。と、同時に子供を産む事を諦めるということになってしまうのだ。男性がこの職に就くという事は世帯主になるのを諦めるということである。
問題の一端は、補助労働力ににも関わらず、かつての男性のように長時間職場に縛り付けられてしまうという点にある。企業や社会はこうして補助労働力に依存する構造になってしまったようだ。
企業は、制度の「いいとこどり」をしているつもりなのだろう。補助労働力に依存しつつ、その補助労働力に過大な負担を追わせている。学生が学業に専念できないという「ブラックバイト」と同根だ。
日本の社会は男性の正社員を、女性の補助労働力が支えるという構造になっている。このバランスが崩れたことが、保育師不足の直接の原因であると考えられる。故に、保育士の問題だけに注目しても、保育師不足は解消されない。
解決策は2つある。かつての終身雇用に戻るか、生産性を向上させて短時間労働の集積でも生産性が落ちないような工夫をするということだ。労働者には、短時間労働でも生活が成り立つような賃金を与えなければならない。
日本のサービス業の労働生産性は低い。これが低い賃金で長時間労働に貼付けられる原因になっている。しかし、日本は製造業依存の期間が長かったので「一生懸命働けばよいものを作れる」と考えるのが一般的だ。しかしながら、サービス産業では一生懸命働いて過剰なサービスをするほど、労働時間だけが伸びて賃金が上がらないことになる。これが日本のサービス産業の生産性を下げているのだ。がんばる方向が真逆なのである。
現在の状況で保育士になるということは、子供を持つ事を諦めるということだ。しかも、保育士の資格を取る為には学校に通って資格を取らなければならない。現在、学生の半数は奨学金(という名前の学生ローン)に頼っているので、借金をして、一生子供を持つ見込みのない仕事につくということになる。これは合理的な選択とはいえない。故に、保育士は減り続けるだろう。
つまり、女性が子供を産むということは、別の女性(つまり保育士)に子供を産ませないということを意味する。あるいは保育士の争奪競争に打ち勝つということで、それは別の母親が働けないということである。男性保育士を女性並に処遇するという事は男性に家庭を作らせないということであり、間接的に夫候補を減らすということだ。
問題の根源は企業文化にあるので、保育師不足は政府の責任ではない。しかしながら、昔風の企業慣行を放置しているという意味では、与党(企業よりの政策を実行)も野党(正社員労働組合に依存)も共同正犯と言えるだろう。