同性愛者は異常だ

海老名の鶴指市議が酔っぱらって「同性愛者は異常動物だ」と書き込んで大騒ぎになった。Twitterで物議をかもすのはまだしもNHKのニュースにまでなった。議員は発言を削除したが「撤回しない」と言っていたのだが、後に「あれは酒の勢いだった」と釈明している。
残念ながら、バッシングは同性愛理解につながらない。これを機会に同性愛についての議論が深まればよかったのだが、いつものように「政治家イジメ」で終ってしまった。こうした強力なリアクションを見てもわかるとおり、現代日本では同性愛問題は重大なタブーだ。やはり異常だと見なされているということになる。
「同性愛は異常だ」という人はいわゆる「保守」の人が多いのではないかと思う。同性愛は伝統を破壊するという理屈付けだ。いつものように、この歴史認識は間違っている。伝統的に貴族、僧侶の世界では男性同士の「恋愛」が珍しくなかった。この伝統は武士にも受け継がれた。そして、これがタブー視されることはなかった。禁止されるとしたらそれは男性同士が愛し合うことがいけないからではなく、それが主従関係より優先されてしまうからだった。それほどまでに強い結びつきだったのだ。
また、こういった指向を持った人が「生まれつき男しか愛せない」というようなものでもなかった。つまり、男性も女性も愛するということがおおっぴらに行われていたのである。武士の間ではこれを「極めるべき道」とみなす傾向すら見られた。
「同性愛が生まれつきのもので、本人が選ぶものではない」という意識は、少なくとも日本では、近年になって生まれたものだと考えられる。江戸時代の中期頃までは選択的に男を愛したり、女性との間に子供を作ったりする人がいたのだ。
だから、日本の伝統を大事にすると主張するのであれば、安倍首相は美形の側近(国会議員や秘書)を抱えて、生涯に渡って添い遂げなければならない。そして、キリスト教の伝統によって押しつけられた異性愛の伝統に意義を唱えるべきだ。だが、現代の日本ではそのようなことは起こりえないだろう。伝統は「少年愛」にも及ぶが、現代のスタンダードでは単なる児童虐待だ。同性愛者を社会に受け入れるべきだという「リベラル派」からも猛反発を受けそうな話ではある。
タブーなく話すというのはそれほど難しいのだ。
やっかいなことに、同性愛についての科学的な説明は難しい。なぜ人が同性愛者になるかについてはよく分かっていない点が多いのだ。遺伝子のせいだと言う人もいれば、胎児の時のホルモンの影響だという人もいる。脳に違いがあるという説があったが、脳には違いが見つからなかったという研究結果も出ている。原因が分からないのだから正常だという証明もできないし、異常だと決めつけることもできない。
同性愛者は遺伝子を残せないはずなので、「ダーウィン的」に考えれば、自然に淘汰されてしまうはずである。しかし、そうはならない。人類が同性愛者だらけになれば人類は滅んでしまうはずだが、こうした人たちは一定数以上出現しない。全体としてある種のバランスが働いていると考えるしかない。
だから、同性愛者を考える上では、異性愛者の行き過ぎた性的指向についても考察すべきだ。男性の中には「衝動を抑えきれず」不適切な場所で性的な行為に及んでしまう人がいる。この人たちにも理性というものがあり「この場で性行為に及べば人生が破壊される」ということが分かっている。それでも、行為に及んでしまうのだ。性衝動というのはそれくらい強力だということが言える。もし、こうした強い性衝動を持った人たちが支配的になれば、人類は滅んでしまうだろう。
「ノーマル」な人類は、特定の相手とじっくりと子育てをすることになっている。つまり、男性が男性的な性衝動を抑えて、適度に「女性化」しているということだ。性衝動の極めて強い男性と女性化した男性というのは、バランスの両端にあると考える事ができる。
乱婚型の類人猿から見ると人類は異常な猿だといえるし、人類から見ると乱婚型の類人猿は異常だといえる。
ただこの「バランス説」も、同性愛のほんの一部しか説明していない。男性の同性愛者を「女性っぽい」という前提に立った説明だからだ。学説の中には「極めて男性的であるが故に男性が好き」という可能性を示唆する研究もある。つまり「男が女性化したから男性が好き」という説明すら成り立つかどうか分からないのである。

県という呪縛と憲法違反問題

自民党の礒崎陽輔先生が、こう呟いている。


要するに「県という呪縛は外せないから、憲法違反するしかない」と言いたいらしい。
確かに県単位で割ると無理が生じる。だから、区割りを大きくすればよい。いわゆる道州単位で配分すればいいのだ。約43万人に1名の代議士が割り振れるらしいので人口の少ない鳥取県でも1名以上の代議士が割り振れるので、地域から代表がいなくなるということはない。区割りが面倒なら地域比例区にすればよいと思うが、1人区のほうが有利な自民党は比例には反対なのではないかと思う。
この構想の最大の障害は党の組織だろう。大きな党は県別の組織を持っているはずだ。中央の代議士は地方議員と系列関係があり「持ちつ持たれつ」の関係性を構築している。代議士組織だけをそこから切り離すことはできそうもない。
だから、これは区割りの問題というより党の統治機構の問題なのだ。あるいは、コミュニケーション技術の問題かもしれない。県域を越えてしまうと情報共有ができないのではないかと思う。
県という行政単位は見直しの時期を迎えているかもしれない。神奈川、静岡、大阪、福岡のように複数の政令市を抱える大都市圏では二重行政が問題になる。一方で都府県単位では解決のできない問題もある。災害対応などがその典型例かもしれない。最も大きな問題は人口の偏りだ。人口60万人を切る鳥取県から、1200万人を越える東京都までが1つの自治単位と見なされているのだ。
歴史的な一体感を保持したいと考える人たちもいるかもしれない。確かに高知や徳島など県域と地域的なまとまりが一致している区域もある。一方、福岡県、兵庫県、福島県のように県の中に違う文化と方言を抱えている県があるのも事実だ。さらに、沖縄県(沖縄と宮古)や長崎県(壱岐と対馬)などのように地域的な一体性を持たない県もある。その区割りは意外と恣意的なのである。
自民党は70年経った憲法は経年劣化していると主張する。ではなぜ、それより前に決まった県の区割りを変えることができないのだろうか。
だが、この呟きに感じた違和感は別のところにある。磯崎先生が、気にしても仕方がないことを気にしているように見えるからだ。
衆議院選挙の区割りは憲法違反のようだが、最高裁判所は決して選挙そのものを無効にすることはないはずだ。最高裁判所は責任を取りたくないのだろう。評論家のように「これはいけませんねえ」と言えば自分たちの役割を果たしたと思っているのではないかと思う。
そもそも、自民党は安保法制の問題ですでにルビコン川を渡っている。例えは悪いが、人を一人殺しているみたいなものだ。あとは何人殺しても罪が減る訳ではない。最高裁判所は安保法制でも無効判決を出すことはないだろう。罪は国会議員で背負うしかない。
国民は経済が順調に見える間は、多少の憲法違反は気にしないはずだ。ただし、経済が傾けばバッシングの空気が一気に広がるはずである。その場合、どんなに遵法的な態度を取っても無駄だ。警察がいないからやりたい放題だとも言えるのだが、警察がいない恐ろしさというのもあるのではないかと思う。

最低時給1,000円について考える

「最低時給を1,000円にする」と安倍首相がぶち上げたというのがニュースになっている。よく聞くと2020年代の中盤までに1,000円を目指すということらしいので、たいしたニュースではなさそうなのだが、それなりにインパクトがあった様だ。
自称経済学者の池田信夫氏は「そんなことをすれば製造業は日本を出て行くだろう」と歌舞伎役者のように見栄を切ってみせた。この人は、現在経済の中枢にいる「変わりたくない」経営者層をお客にしているのだろうなあと思った。一方で電波利権を叩いたり、反原発の人たちを「立憲主義を無視している」などと批判している。さしずめ、居酒屋の扇動者といったところかもしれないが、確実に今の空気を反映している。変わりたくないのだろう。
一方、本物の経済学者は、賃金の抑制が消費の低迷に影響をあたえているのだと指摘する。野口悠紀雄氏の観察によると、人件費の抑制が企業の収益の源泉になってしまっているだそうだ。ただし、野口先生は「政府が介入して給与を上げろ」とは主張していない。企業が新陳代謝すれば、高付加価値の産業が出てくるだろうと信じているようだ。
「ブラックバイト」の項目で見たように、最低賃金依存が顕在化しているのはサービス業だ。例え最低賃金が上がっても、サービス業が日本を出て行く事はない。もっとも、サービス産業の経営者が一律に最低賃金の引き上げに反対しているというわけでもない。参議院議員の松田公太氏は引き上げに賛成のようだ。コーヒー屋が付加価値型の産業だということもあるだろうが、よく考えてみると「自分のところの賃金が上がると、競合社の賃金も上がる」わけだから、競走条件は変わらない。却って付加価値勝負になることが予想される。経営や扱っているサービスに自信がある人ほど、人件費の高騰は怖くないのかもしれない。
確かに、人件費が高騰すれば、製造業は日本を出て行くかもしれない。しかし、出て行くとしたら原因は市場が縮小してゆくからだろう。需要のない市場でモノを作っても仕方がないからだ。例え出て行ったとしても、効率が悪い企業は淘汰されてしまうだろう。
効率の悪さはITに対する取り組みに顕著に表れている。今でも10年以上前のプログラムを使い(例えばグループウェアの代わりに、メールでやり取りをしている)、手書きのFaxがコミュニケーションツールになっているが、西洋諸国からは驚かれる事も多いそうだ。しかしながら、日本にいるとこうしたことは「当たり前」に感じられる。競争に強くなるという意味では、積極的に海外に出て行くのはよいことなのかもしれない。ただし、グループウェアの導入に消極的な人たちが英語を学習して海外に出て行きたがるという理論には信ぴょう性がない。
ただし、一部の人が考えているように、最低賃金の引き上げがすべての問題を魔法のように解決するということはなさそうだ。
第一に、人件費が高騰すれば、人件費をかけない方向で競争が進む可能性がある。小売業の現場では、品数を減らしコンテナのままで陳列することで従業員数を減らしたスーパーマーケットというものが登場している。加工食品ばかりで生鮮品が少ないのだが、遠くに行けない高齢者や安い食品を買いたい人たちが利用している。新型ディスカウントストアとかハードディスカウンターなどと呼ばれるようだ。これが消費者にとって必ずしも好ましい様態かどうかは分からないが、人件費が上がれば、企業はそれなりに対応するだろう。
次に、最低賃金の引き上げは貧困対策にはならないらしい。ある研究による、最低賃金の引き上げは、新規就労者(若年層)や主婦パートなどの就労機会を奪う効果があるのだという。たしかに、最低賃金のモデルとされるヨーロッパでは若年層の失業率が高い。だから、最低賃金引き上げを「政府支出のない福祉政策だ」と考えるのは正しくない。もし池田先生が本気で最低賃金について勉強していれば、この線で引き上げに反対すべきだったかもしれない。(と書いたら本当にこの線で反対を始めた。お前らのシゴトがなくなるぞという書きぶりだ。そもそも、実行する気がないお偉いさんの発言で振り回されるのは下々なのだということを痛感する。)
最低賃金の引き上げは、低賃金労働に依存する生産性の低い産業や経営者を淘汰する政策だと考えるべきだろう。低い生産性に張り付いていた人的資本がより生産性の高い分野に移動する可能性があるからだ。問題はそれが自然に起こらず、政府が強制しなければならないという点かもしれない。
この件で一番割を食ったのは民主党かもしれない。自民党に政策を「パクられ」て、集票に有効なカードをまた一つ失ってしまったからだ。かといって、民主党がかわいそうだとも思えない。もともとは2009年のマニフェストに掲載されていたのだそうだ。政権についている期間が3年もあったのだから「やる気がなかった」わけである。
自民党、民主党ともに「最低賃金で働くような貧乏人で情報リテラシーも低いだろうから、言うだけ言っておけば、ほいほい投票してくれるだろう」という姿勢が透けて見える。

大阪維新の勝利によせて

大阪維新の会が大阪府知事選挙と市長選挙で勝利した。この意味を考えていたのだが、大阪が良くなるか悪くなるかに余り興味がないせいか「よく分からない」というのが感想だった。
考えを巡らせて行くと、これは自民党にとってかなり深刻な事態なのではないかという結論になった。さらに、来年の参議院選で自民党が勝てば取り返しのつかないダメージをあたえるのではないかと思う。
憲法改正を睨んで、安倍執行部が大阪維新の会とのつながりを深めていたという話がある。もし、そうだとしたら、それは執行部が大阪自民党がアテにならないと判断したということになる。執行部は政治の最前線にあり「改革」を熱望している。にも関わらず国民の協力が得られない。だから、より大きな権力を手中に収め改革を推進しようとしており、そのためには憲法改正が必要なのである。
にも関わらず大阪自民党には改革の意欲はない。「今のままでええやろ」くらいにしか思っていないように見える。彼らの家業(政治家)が守られるためには、地元の支持者たちだけを見ていればよいからだ。自民党は地方組織の寄せ集めだ。つまり、地方組織の衰退はそのまま自民党の衰退を意味する。
そこで表れたのが大阪維新の会だ。大阪維新の会の執行部は様々なものを利用して「バーゲニングパワー」を得ようとしている。お金を出してでもいいから政治家になりたがる人たち、「改革」を熱望する有権者たち、そして地方組織の退廃に直面する自民党の執行部である。
大阪維新の会の執行部は、自民党の議員団に入って「雑巾がけ」するよりも、外からいろいろと注文を付けた方が「儲かる」と判断したのだろう。創業者に至っては、政治家をやるより外から操作したほうが「おいしい」と考えているのではないかと思う。裏を返せば「政治家は旨味がない」ということだ。政治家になると公人として扱われるので説明責任が生じる。首長となれば各種の訴訟リスクに晒されるのである。
自民党は今や「絶好調」だ。この好調さが危機を作り出している。地方組織は緩んでいるに違いない。勝っているのだから、リスクを取ってまで身を切る改革などしなくてもいいのだ。
好調の裏側で、経済政策は行き詰っている。アベノミクスには敵対する政策がない。しかし、それはアベノミクスがベストな政策であるということを意味しているのではない。先日「お家元」のクルーグマンが自説を見直したばかりだ。クルーグマンはアベノミクスではデフレを脱出する初速は得られないだろうと言っている。これの意味するところは近い将来の財政破綻だ。
にも関わらず野党も経済政策を出せていない。もし野党の経済政策が良ければ、自民党はそれを「パクる」だろう。しかし、代替案が出ないということは「そんなものはない」ということを意味する。それほどまでに状況が絶望的なのか、それとも改善策を考える意欲がないだけなのかは良くわからない。
危機感を煽れば、無党派層を刺激し、野党勢力に有利になる。そこで「今の政策はうまく行っている」と宣伝する。すると地方組織や国民は安心してしまい「今のままで良いではないか」と思い始める。いざとなったら助けて貰えるだろうというわけだ。
ここから、参議院選挙の勝利は自民党を内部から崩壊させてしまうだろうという結論が得られる。野党勢力の分断に成功し「何もしなくても勝てた」という成功体験は、自民党内の改革意欲を減衰させるだろう。これは民主党が2009年に経験した状況と似ている。彼らは今でも「風さえ起せばまた勝てるかもしれない」と思っており、自分たちを改革してゆこうという意欲を持てないでいる。で、あれば野党にはこのまま内部分裂を繰り返してもらった方がよいのかもしれない。
もっともこれで自民党が崩壊したとしても、それに取って代わる政党がまともなものである可能性は高くないかもしれない。もっともひどいシナリオは、憲法改正で国家が大きな権力を握ったまま、もっとひどい簒奪者に奪われてしまうというものだろう。

アルバイトという名前の戦争

NHKでブラックバイトの特集をやっていた。最低賃金に近い給料で働かされるのに、正社員並の責任を負わされる。サービス残業はあるが、残業代は出ない。売れ残りの買い取りノルマがあり、売上げが落ちれば「連帯責任だ」ということで給料を引かれる。にも関わらず時間的制約がきつく、次第に大学の授業にも出られなくなるのだという。学生たちは「社会とはそういうものか」と諦めてしまい、新しく入ってきた学生にも同じような働き方を強要するのだという。
もちろん辞めてしまうことはできるのだが、辞められない。一つには経済的に困窮しており「新しいバイトがないと生活してゆけない」という事情がある。それに加えて、心情的にアルバイトに縛り付けられてしまう。自分が抜けてしまうとバイト仲間や店長たちに迷惑がかかるのが予測からだ。「仲間を捨てて逃げ出せない」というのだ。
この話を聞いて「戦中の日本のようだな」と思った。もともと上層部が状況を見誤ったまま始まった第二次世界大戦は、当初の予測通り負け続きになった。しかし撤退することはできないので、各地の部隊にしわ寄せが行った。十分な補給を受けられなかったので、戦死者の多数を占めるのが餓死者だったそうだ。戦況がさらに悪化すると「他人を犠牲にする」作戦が始まった。犠牲の代表例が沖縄(本土を守る為の捨て石にされた)と特攻隊だった。
日本のサービス業も同じような状況にあるようだ。つまり、負けかけているのだ。で、あれば何と戦争をしているのかが気になるところだ。大日本帝国軍の場合は、戦力に勝るアメリカ軍という存在があったのだが、現代日本の場合、戦う相手は同じように困窮した軍隊なのだ。複数の負けかけている軍隊が膠着戦を行っているのが日本の特徴だと言えるだろう。つまり「内戦状態」にあるわけである。
こうした状態から逃れる為には、生産性を上げなければならない。生産性を上げる為には高度に教育された学生が必要である。しかし「優秀」(だがお金がない)学生たちが単純労働に従事せざるをえないために、こうした高度な人材を育てる事ができない。故に企業にはノウハウが溜まらず、内戦状態が温存される。
「内戦とは大げさな」という方もいるかもしれない。しかし、これはやはり戦争だろう。敗戦直前の日本にも学徒動員があり、優秀な科学者になるはずだった学生たちを爆弾代わりにして敵艦に突撃させたりしていた。戦況が逼迫していた当時に「学生を無駄にしないでしっかり勉強させろ」などと言えただろうか。
なぜ「勉強させろ」と言えなかったのかといえば「負けたら大変な事になる」という意識があったからだろう。一種のパニック状態だが、パニックの最中にある人たちは、自分たちの状況がよく分からないものなのだ。同じように、現代の戦争の指揮官たちは「事業から撤退しては大変なことになる」と考えているはずだ。
なぜ、こうした状態に陥ったのだろうか。実は、これはとても簡単な問いだ。「戦争に勝つ為の技術」が10年単位で移り変わるのに、本社にいる人たちの世代交代に30年から40年かかるからだ。これは、本社側に終身雇用的な体制が残っているためだろう。こうした人たちが「撤退」し、技能を更新することができれば、技術の世代交代は進みやすくなるはずである。構造はとても簡単だが、実行は難しい。現代の日本でいったn正社員層から脱落した人は、非正規雇用の安い労働力になるしかないからだ。で、あれば他人を犠牲にしてでも生き残るしかないのである。
日本政府は「一億総活躍」を目指しているが、サービス業界で内戦が続いている状態では、これが「一億層玉砕」に変わるのは時間の問題だ。しかし、こうした状態を放置している。国から成長機会を奪うという意味では「国家的犯罪に加担している」のだといえる。

日本人は伝統的に夫婦同姓だったのか

名前についてはいろいろな議論がある。妻が夫の姓を名乗るべきかという問題を熱心に議論する人もいるし、ネットで本名を使うとプライバシーが暴かれるのではないかと怖れる人たちもいる。これに対して、自称「愛国主義者」達は、日本人は嫁いだら夫の名前を名乗るのが当たり前なのだと「日本の伝統」を持ち出す。
少し調べてみれば分かる事だが、日本人の貴族・武士階級はそもそも複数の氏名を持っていた。例えば徳川家康は、都合によって源家康や藤原家康を使い分けていたそうだ。苗字(屋号)、姓(出自)、氏(位)はもともと違う概念であり、家康のフルネームは「徳川次郎三郎源朝臣家康」だったという。今のような氏名という概念はなかった。
さらに、漢詩や俳句などをたしなむ時には、別の名前を「号」として持っていた。本名を使うのは大げさだと考えられていたのだろう。今で言うところのラジオネームやハンドルネームだ。本名を避けるのは、名前によってその人を霊的に支配できるという畏れがあったからだということになっている。特に目上の人の名前を呼んだり、字を使うことは避けなければならなかった。今でも天皇の名前を呼んだりすることは失礼だとされており、生きている間は今上(きんじょう)と呼称され、亡くなると昭和のように元号名で呼ばれる。年配者の中には「仁」という字を庶民が使ってはいけないという人がいる。
庶民の氏名に至ってはさらに複雑だったようだ。苗字を持っている家はあったようだが、江戸時代には公式に名乗ることは禁止された。お寺の過去帳にのみ記録された家もあっただろうし、そのうちに自分の家の苗字を忘れてしまったという家もあったかもしれない。
女性の氏名も複雑だ。名前を使うと支配される怖れがある。そこで表立って本名を名乗ることはなかった。だから、清少納言や紫式部のように有名な文芸作品を残した人物であっても名前が残っていないという人がいる。
豊臣秀吉の正室は「おね」とか「ねね」が本名だと考えられているのだが、本当のところはよく分からないらしい。朝廷で位が与えられたときには、豊臣吉子と記載されていたそうだが、秀吉の一字を貰った名前だったようだ。このように場面によって名前が使い分けられた。北条政子の姓も実家のもので、政の字は父親から取られたものだという。朝廷から位を授けられる前の名前は不明なのだそうだ。そもそも、側室は夫の姓を名乗らないのだから、女性は「姓を持たない」と言っても過言ではない。
それでも「妻は夫の名前を名乗るべきだ」とがんばる人がいるかもしれない。Wikipediaには明治9年(1876年)に「妻は実家の姓を名乗るべきだ」という通達が出されたという記載がある。これが改められたのは明治31年(1898年)なのだそうだ。一方で、妻が夫の姓を名乗らないのは武士の特徴であって、庶民は夫婦同性だったと主張する人もいる。武家は男子の血族が家を構成すると考えていたのだが、庶民の家は夫婦共産だったからだという説明が当てられるようである。つまり、家と財産が密接に結びついていたのだ。
日本人はもともと本名を名乗らず、それぞれ都合により氏名を使い分けていたということになる。また、夫婦を同性にするか別姓にするかについての決まりは定かではないということになる。
よく「日本のインターネットは匿名文化だ」と言われることがあるが、これは意外と日本人の伝統的な価値観に沿っているのかもしれない。実名が「晒される」ことを怖れている人たちは「霊的に支配されること」に怯えているのだろう。で、あれば「通名」を名乗る事が、日本の伝統的な姿なのではないかと思えてくる。これからはハンドルネームとは呼ばずに「号」とでも言えばいいのではないだろうか。
これを展開して考えると、夫婦の姓は「同性と別姓のどちらも許容する」というのが「伝統的な姿だ」と考えることができるだろう。
「夫婦で新しい財産を創出するのだ」と考えるならば、伝統的な家の名前の他に登録名として夫婦両姓を併記すべきだという考え方もあるだろう。例えば鈴木さんと田中さんが結婚したら、鈴木・田中さんになるという具合だ。
そもそも、マイナンバーができたのだから、戸籍名にことさらこだわる必要は(少なくとも事務的には)なくなった。で、あれば「本名はマイナンバー」として、社会生活ではそれぞれ好きな名前を名乗ればよいのではないかという気もする。マイナンバーを知られると霊的に支配されると考える人も出てくるかもしれない。
狂った提案のように聞こえるかもしれないが、そもそも現在の「混乱」は明治政府が国民管理の都合上、複数合った名前のうち一つしか使ってはいけませんよ、と言ったところから発生している。比較的に新しい問題なのだ。それでも「家の統一感がなくなる」と危惧するのであれば「世帯番号+個人番号」ということにすれば問題は解決するだろう。

経済の砂漠化を防ぐ為には何かを失う必要がある

保育士の給与は低く家庭が持てないと言われる。母子家庭では高い割合で貧困が発生しているらしい。このような話を聞くと「日本にはお金がないのだ」という感想を持ってしまいがちだ。しかし、それが事実と異なるというのもよく知られた話だ。日本の企業は300兆円もの「内部留保」を抱えており、日銀には240兆円の当座預金が眠っている。これを人口で割ると450万円になる。
こうなった理由はいろいろ考えられる。一つ目の理由は企業が国内で稼がなくなったという事情がある。企業は海外子会社からの「あがり」で収益を得るようになっている。ニュースでは貿易収支は赤字だが、経常収支は黒字という言い方で伝えられる。つまり、日本は過去に蓄積した財産を海外に投資して、エネルギーや食料を買っているということになる。企業経済から社会経済への「水路」がなければ、社会経済へ水が流れてこなくなる。
しかし、国は法人税の負担を減らし、その分を消費税で取るようにシフトしている。黒字の経済を太らせ、赤字の経済から徴集しようというのである。そうしないと、企業が海外に流出してしまう懸念があるのかもしれない。
その一方で企業は社会的な支出を抑えるようになった。事業単体で見ると、赤字経済にかけるコストは減らす必要がある。そこで、人件費をカットしている。正社員を減らすことで会社は各種社会保険料の支払いを免れる。また、子供を産んだ女性を正社員から非正規雇用に置き換えるということも行われている。その分の負担は社会が負うことになる。黒字経済は赤字経済へ水が流出するのを抑えようとしているのだ。
人口構成もこの傾向に拍車をかける。高齢者は企業経済から離脱し、赤字経済から収入を得ることになる。年金は税金支出で支えられており、その原資の半分は国民からの借金である。高齢者(海外に会社でも持っていない限りは)は黒字経済から切り離されている。
企業は存続しなければならない(ゴーイング・コンサーン)から、コストを抑える意思決定には合理性があるように見える。ここで忘れられているのが「再生産」機能である。「再生産」のコストは、誰かが負担しなければならない。黒字経済はこれを赤字経済に付け回ししようとしている。そこで、再生産の費用が「投資」なのか「負担」なのかという問題が浮上してくる。
別の例えを考えてみたい。森の木が落葉する。この葉っぱが「無駄」だと考えて拾い集めてどこかに置いておく。するとどうなるだろうか。しばらくの間、森の樹には何の影響もないだろう。下に生える植物に影響が及ぶだけである。樹は高いところで十分に光合成ができるからだ。
ところが、しばらくすると事情が変わってくるだろう。落ち葉は分解されて地上に栄養をもたらしている。これが取り去られることで、地上に循環する養分は減って行く。最終的には地上からは養分が失われ、土壌は砂漠化するだろう。砂漠化した土壌では樹は育つ事ができない。皮肉なことだが、落ち葉という「死」がなければ、森は失われてしまうのである。「死」が大げさだと思えば「手放す事」だと考えてもよい。樹には落ち葉を分解する能力はない。それは地上に「委ねる」しかないのだ。
すべての物事は「相」を成しているに過ぎない。現在の経済学はこうした「相」のスナップショットを取ることはできても、全体を一括して捉えることができない。
再生産という言葉にはどうしても社会主義的な臭いがして好きになれないという人もいるかもしれない。逆に再生産という言葉を聞いて「マルクスは」と飛びつく人もいるだろう。そこで全く別の死を考えてみたい。
アメリカではイノベーションという言葉が好んで使われる。日本でも安倍首相が使ったりする。しかし、このイノベーションという言葉は、古い企業の「死」を意味する。これを創造的破壊とかディスラプティブ・イノベーションと呼んだりする。しかし、古い企業の死は喪失を意味するのではない。古い企業にいた社員は新しい産業に雇用され、古い企業が抑えていた資金は新しい企業に改めて利用されるのだ。日本でイノベーションが起きないのは当たり前だ。それは古い企業を壊す事ができないからである。
つまり「手放す」ことが豊かさを生み出すことになるのだ。こうした思想はもともと東洋的なものだと考えられるのだが、意外と忘れ去られているのかもしれない。

アメリカ人は日本人をどう見ているか

最近、国連絡みで日本人が大騒ぎをしているニュースを二つ耳にした。一つはユネスコが南京事件(大虐殺)を「認定」したというもので、もう一つは、日本の女子高生の13%が性的に搾取されているというレポートだ。日本人は中国人や韓国人が日本をどう捉えているかということにはたいした関心はないのだが、国際社会(つまり、欧米の事だ)が日本をどう思っているのかということを異常なまでに気にする傾向がある。
では、実際に日本人は西洋人からどのように見られいてるのだろうか。アメリカの例を考えてみたい。
よい点として、東洋人は一般的に「賢い」と見られている。東洋系の民族は子供を熱心に教育することで知られているからかもしれない。
しかし、悪く見られている点もある。第一に日本人は何を考えているのか分からない人たちだと考えられている。いったん「イエス」と言っても「訳の分からない言語」で「こそこそと」話し合い、結論を変えてしまう。スターウォーズにでてくる異星人(訳の分からない言語を話す集団)は日本人を揶揄しているのだと考えられる。西洋人は「フェアでストレートフォワードだ」という自己認識に基づく。日本人から見ると、西洋人には文脈(コンテクスト、所謂「空気」)を読み解く能力がないように見えるが、コンテクストに依存しない人たちはこれを薄気味悪いと感じるのだ。
東洋に詳しい人たちの中には、日本人は沖縄人(Okinawan)を差別しているという認識を持った人たちもいる。日本人の多くは沖縄県民を「日本人だ」と認識しているのだが、民族問題に詳しい人たちの中には「日本人は少数民族を差別している」と考える人たちもいるのだ。沖縄どころか、韓国や台湾の位置も答えられないアメリカ人も多いはずで、認識は二極化しているといってよいだろう。
それよりも一般的なのが、日本人男性は女性を所有物だと思っているというものだ。日本人は「アレンジメントマリッジ(お見合いの訳語だ)」をし、渋谷のセンター街(最近はこれが秋葉原になった)で女子高生を買っているというのは割と一般的な認識だ。
ラスト・サムライでは女性は従順に描かれているが、これは女性が男性の所有物だと信じられているからだ。また、女体盛り(裸になった女性の上に刺身が盛りつけられている)というのも割とよく知られているのではないか。日本人の男性は妻を支配し、外ではお金を出して女を買うのだという認識があるのだろう。
こうした認識が一般的なため、アメリカにいる日本人はステレオタイプを否定するような言動を見せる必要がある。日本人同士で話すときには「日本語でごめんなさい」と予め断りを入れる。頻繁に自分の気持ちを言葉にする。そして「自分が女性を平等に扱っているか」をひけらかすように話すのだ。
「沖縄人というのは存在しない」と否定するのは逆効果で、民族としての沖縄人に理解を示しているという言動の方が受け入れられやすい。「沖縄人」をいう言葉を知っているだけで、国際通だという自己認識があるのかもしれない。その知識を否定すると、やっきになって反論される場合があるのだ。
同じように「日本人は女性を差別していない」とか「女子高生搾取は存在しない」などと主張するのも逆効果なのではないかと思う。彼らの認識に合わせると「親の世代にはそういうこともあったが、今の世代は教育されている」と言った方が受け入れられやすいはずだし「政府はこのような対策を取っている」と具体的な施策を使って反論した方がいいだろう。相手は「日本人をよく知っている」という自己認識を持っているので、反対の主張をすると、整合性を取る為にリアクタンス(抵抗)が起こるからだ。
さて、このような話をすると「日本人は差別されている」とか「間違った認識は恥だ」と考える人が出てくるのではないかと思う。
しかし、こうした疑念を持たれているのは日本人だけではない。「白人は黒人や東洋人を差別している」と考えられている。このため、白人男性は自分がいかに人権意識を持っているかということを喧伝しなければならない。こうした言動は「ポリティカルコレクトネス」と言われる。最近ではポリティカルコレクトネスに疲れたアメリカ人も多く「非政治家系」の大統領候補を支持している。
こうした現状を知らない人は「正しく説明すれば必ず分かってもらえるはずだ」と考えるかもしれないのだが、いったん染み付いた認識というのは、例えそれが思い込みであったとしても、そう簡単に覆ることはないのだ。

TPPと英語

国会でTPPに関する審議が始まった。とはいえ、1日しかやらないそうである。多分、指摘が上がる前に議論が終るとは思うのだが、無駄足覚悟で書いておく。
安倍首相は「TPPでルールが明確になる」と言っている。これは確かなことかもしれない。しかし、それが日本人に不利になる可能性については考えていないようだ。仲裁はどうやらアメリカで行われるらしい。ということは、英語で行われるのだろう。合意内容もニュージーランド政府が発表した。多分、すべて英語だったのではないかと思う。TPP参加国のうち、英語国はアメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの4か国だ。シンガポールを加えると5カ国が英語国ということになる。
多分「透明なルールは英語で作られる」のだ。日本語しか分からない人はルール作りに参加できないし、何が行われているかも分からない。しかし、プロセスは完全に透明化されている(ただし英語で)わけだから、決まった後で文句を言っても「聞いていなかったお前が悪い」ということになる。不平不満も言えない。日本語で言っても伝わらないからだ。英語圏の人たちが納得できなければ「なぜだ」としつこく聞かれるだろう。それにも英語で答えなければならない。それを怠ると「フェアでない」と言われる。暗黙で「分かってもらえる」ということはあり得ない。
ルールを作ったり、調整する側に回れないということは、その人は「搾取(あるいは使役される)側」に回るということだ。日本の大企業の役員のほとんどの地位は大きく凋落するだろう。日本人のTOEICやTOEFLの成績から見ると、ほとんどの日本人にとっては割の悪い話だが、勉強しなかった人が悪い、自己責任だということになってしまう。
英語ができない親の家庭の子供は英語を話せないだろう。逆に英語が話せる親の子供は早くから幼児教育を受けるだろう。幼児教育にはお金がかかるから、格差は拡大するに違いない。港区とか渋谷区に住んでいれば、インターナショナル教育へのアクセスもありそうだが、地方はどうだろうか。期待できるのは沖縄くらいではないだろうか。
皮肉なのは、これを押し進めようとしているのは「日本の伝統こそが主権を持っている」という所謂「国体信仰」の人たちだということだ。日本の民族性がどこに由来するかは分からないが、日本語はその大きな構成要素であると考えられる。彼ら主流派が物事を決められるのは、意思決定が霞ヶ関と永田町に集中し、それが日本語でなされているからである。
TPPが発効すると、経済的な政策はすべて別のところ(多分、アメリカのどこかだろう)で英語で決められることになる。自分たちの利権を守ろうとして日本語で保護的な政策を打てば訴えられることになる。裁判は多分英語で戦うことになるのだろう。
こうした一連のことを考え合わせると、自民党とそれを支持する人たちの地位が凋落することは間違いがない。その意味で安倍首相は「歴史的な」首相になるのかもしれない。
多分、交渉をした人たちは「言語的に排除される恐ろしさ」というものを知らないのだろう。留学経験のある役人(多分英語が話せる)は実感として分かっているかもしれないが、言語的に単一な社会に住んでいる日本語話者の政治家はマイノリティとしての経験がないのだろう。せめて、EUのように公式言語を決めておくべきだったが「後の祭り」だ。
国の伝統や民族の誇りを重要視しているはずの「右寄り」自民党の人たちは、単に支持者にすり寄りたいだけなのかもしれない。本当に民族性を自覚していれば、日本語や他国語の地位について無関心でいられるはずはないからだ。自民党にも「右翼」といえるような過激な主張をする政治家がいるが、彼らも情けない。彼らが蔑視して蔑んでいる「左翼」は攻撃できるくせに、自分のボスには逆らえない。中国や韓国には大いばりだが、「世界の一等国」アメリカと最先端言語の英語には劣等感を持っているのかもしれない。

アメリカの高い生産性とカスタマーサポート

日本はサービス産業の生産性が低い。これをアメリカ並にしなければ日本の成長はないだろうと言われる。では、アメリカ並になるというのは具体的にどのようなことを意味するのだろうか。
アメリカの銀行は口座維持手数料を取る。最低限の預金金額が決まっていて、それを下回ると毎月手数料を支払わなければならないのだ。バンク・オブ・アメリカはある時、「口座手数料がかからない」画期的な口座を作った。ところが、それが儲からないと見切りをつけるとそのサービスを廃止した。ネットには「ある日突然別の口座に切り替わってしまった」という苦情が殺到したらしい。説明をせず、広告も打たず、一方的にサービスを打ち切ってしまったのである。
どういうわけか、僕の口座はそのままだ。5,000円位のお金が預けてあり、ネットバンキング経由では口座にアクセスできる。しかし、質問をしようとすると「その質問ではチャットサービスはご利用いただけません、メールによる問い合わせもお受けしておりません」などと言われる。緊急の要件か利益が上がる質問(例えば投資口座の開設など)でなければ受けてくれないらしい。アメリカに行って店頭でクラークと話せば解決するかもしれないが、1回話すごとに1000円程度の料金を取られるはずだ。
これに比べると日本の銀行はまだ親切だと言える。親切だということはお金がかかるということでもある。その証拠にシティバンクは日本のリテール部門から撤退してしまった。日本には大勢のお金持ちが住んでいる(意外なことに世界でも有数の富裕者の多い国なのだ)のだが、日本の個人客は利が薄い、あるいは手間がかかりすぎると判断したのだろう。
IT業界も似たようなものだ。
Yahoo(米国)のメッセージサービスがつながらない、とカスタマーサポートにメールで連絡した。問い合わせ窓口があるなんて親切だなと思ったのだが、甘かった。オペレータはよくメールの内容を読んでいないのだろう。パスワードをなくした時の対応を記録したテンプレメールが送られて来た。「いや、違いますから」と返信すると、別の担当者がメールを返してくる。「ヘルプを読め」という。これもテンプレートだろう。「ヘルプは読んだ」と返信したところ「パスワードをなくしたときの回復方法」が再び別の担当者から送られてきた。無限ループだ。最後には「Yahooはメッセンジャーに対するサポートは行っておりません」というメールが送られてきた。
Yahooのオペレータは問題を解決する必要がない。その時に受けたメールに返信しているだけだ。解決せずにお客が怒っても気にする必要はない。その怒りは別の誰かが処理するはずである。多分、カスタマーサポートスタッフはアメリカの人ではないだろう。自分たちの対応がブランドイメージを毀損するという意識はないはずだ。彼らの成績は「一定時間以内にどれだけのメールを裁いたか」だけで計られるのではないかと思う。機械の部品なのだ。
Facebookも似たようなサービスを展開している。こちらは一般者用のカスタマーサポートはない。コミュニティで解決しろという。どういう人が解答しているのかは分からないが、多分ボランティアなのではないかと思われる。不具合について質問しようとすると「不具合はFacebookに登録しろ」というので試してみたが、リンクが壊れているようで、質問が登録できなかった。多分、炎上でもしない限り、自分が作ったプログラムの不具合を知る事はできないはずである。
日本人から見ると「ひどい」と思えるほど低いサービスレベルだが、アメリカ人は日常からこうした世界に住んでいる。これを避けようとすればお金で解決するしかない。日本並のサービルレベルを求めて戦ってはいけない。
顧客の疑問は解決しない。はまったらそこで終わりである。解決策は「そのサービスに関わらない」ことだけだ。だから、競争がないと困るのだ。企業内でも次々と新しいサービスを作って、古いものを勝手に引き上げてしまう。ストレスがより少ないサービスができたら、古いサービスは単に潰れてしまう。それで終わりである。
日本はアメリカ企業の後追いをしているので、10年後には似たようなことになっている可能性が高い。一方で高い競争が導入されているかはわからない。だから、10年後の日本のサービスは「代わりはないが著しく不便」ということになっているかもしれない。
現在の日本人は高いお金を出してサービスを買っている。例えば携帯電話会社の窓口に行くと、大勢の高齢者が機器の操作方法を聞きに来ている。スパムメールが来るからなんとかしてくれというものもある。携帯電話会社の窓口は嫌がらずに使い方を教えてくれる。顧客が安いサービスを使っていても「それは対応しません」というスタッフはいない。別の見方をするとこうした人たちをガイドするために、若い層は高いスマホ代金を払ってあげているのだといえる。
支払いの多寡に関わらずみんながサービスを受けられるのが平等なのか、自分の必要なサポートレベルに応じた料金を支払うのが平等なのかというのは意見が別れるところだろうが、現在の日本の方がアメリカより日本の方が社会主義的だということだけは確かだ。