同性愛者は異常だ

海老名の鶴指市議が酔っぱらって「同性愛者は異常動物だ」と書き込んで大騒ぎになった。Twitterで物議をかもすのはまだしもNHKのニュースにまでなった。議員は発言を削除したが「撤回しない」と言っていたのだが、後に「あれは酒の勢いだった」と釈明している。
残念ながら、バッシングは同性愛理解につながらない。これを機会に同性愛についての議論が深まればよかったのだが、いつものように「政治家イジメ」で終ってしまった。こうした強力なリアクションを見てもわかるとおり、現代日本では同性愛問題は重大なタブーだ。やはり異常だと見なされているということになる。
「同性愛は異常だ」という人はいわゆる「保守」の人が多いのではないかと思う。同性愛は伝統を破壊するという理屈付けだ。いつものように、この歴史認識は間違っている。伝統的に貴族、僧侶の世界では男性同士の「恋愛」が珍しくなかった。この伝統は武士にも受け継がれた。そして、これがタブー視されることはなかった。禁止されるとしたらそれは男性同士が愛し合うことがいけないからではなく、それが主従関係より優先されてしまうからだった。それほどまでに強い結びつきだったのだ。
また、こういった指向を持った人が「生まれつき男しか愛せない」というようなものでもなかった。つまり、男性も女性も愛するということがおおっぴらに行われていたのである。武士の間ではこれを「極めるべき道」とみなす傾向すら見られた。
「同性愛が生まれつきのもので、本人が選ぶものではない」という意識は、少なくとも日本では、近年になって生まれたものだと考えられる。江戸時代の中期頃までは選択的に男を愛したり、女性との間に子供を作ったりする人がいたのだ。
だから、日本の伝統を大事にすると主張するのであれば、安倍首相は美形の側近(国会議員や秘書)を抱えて、生涯に渡って添い遂げなければならない。そして、キリスト教の伝統によって押しつけられた異性愛の伝統に意義を唱えるべきだ。だが、現代の日本ではそのようなことは起こりえないだろう。伝統は「少年愛」にも及ぶが、現代のスタンダードでは単なる児童虐待だ。同性愛者を社会に受け入れるべきだという「リベラル派」からも猛反発を受けそうな話ではある。
タブーなく話すというのはそれほど難しいのだ。
やっかいなことに、同性愛についての科学的な説明は難しい。なぜ人が同性愛者になるかについてはよく分かっていない点が多いのだ。遺伝子のせいだと言う人もいれば、胎児の時のホルモンの影響だという人もいる。脳に違いがあるという説があったが、脳には違いが見つからなかったという研究結果も出ている。原因が分からないのだから正常だという証明もできないし、異常だと決めつけることもできない。
同性愛者は遺伝子を残せないはずなので、「ダーウィン的」に考えれば、自然に淘汰されてしまうはずである。しかし、そうはならない。人類が同性愛者だらけになれば人類は滅んでしまうはずだが、こうした人たちは一定数以上出現しない。全体としてある種のバランスが働いていると考えるしかない。
だから、同性愛者を考える上では、異性愛者の行き過ぎた性的指向についても考察すべきだ。男性の中には「衝動を抑えきれず」不適切な場所で性的な行為に及んでしまう人がいる。この人たちにも理性というものがあり「この場で性行為に及べば人生が破壊される」ということが分かっている。それでも、行為に及んでしまうのだ。性衝動というのはそれくらい強力だということが言える。もし、こうした強い性衝動を持った人たちが支配的になれば、人類は滅んでしまうだろう。
「ノーマル」な人類は、特定の相手とじっくりと子育てをすることになっている。つまり、男性が男性的な性衝動を抑えて、適度に「女性化」しているということだ。性衝動の極めて強い男性と女性化した男性というのは、バランスの両端にあると考える事ができる。
乱婚型の類人猿から見ると人類は異常な猿だといえるし、人類から見ると乱婚型の類人猿は異常だといえる。
ただこの「バランス説」も、同性愛のほんの一部しか説明していない。男性の同性愛者を「女性っぽい」という前提に立った説明だからだ。学説の中には「極めて男性的であるが故に男性が好き」という可能性を示唆する研究もある。つまり「男が女性化したから男性が好き」という説明すら成り立つかどうか分からないのである。

ブログが宗教団体の圧力で消されかけたら

知り合いのはてなブログが閉鎖の憂き目に合った。経緯はよく分からないが、ある宗教団体の犯罪行為(どうやら児童虐待らしい)について書いたようだ。よっぽどひどい嘘を書いたか、本当のことを暴いてしまったのだろう。
どちらにせよ、はてなの側としては「ヤバいものは閲覧停止にしてしまえ」と判断してしまったのではないかと思う。該当箇所を削除するようにというお達しと猶予期間はあったようだ。
これについて、別の識者が「アーカイブを消されるのはひどい損失だ」と嘆いていた。が、それだけ重要なアーカイブならばそれなりにバックアップを取っておく必要があるだろう。はてなブログはMT形式でバックアップができる。これは様々なブログサービス(例えばWordpressなど)で読み込む事が可能だ。
そもそも、はてなブログは無料だ。だから、運営者側の判断で消されても文句は言えない。それでも無料のサービスが使いたいのであれば、海外で運営されている無料のサービス(例えば、Wordpress.comなど)に移行するのがよいだろう。
さらに「ブクマが消えてしまう」のが嫌なのであれば、ドメインを取ってしまうことも一つの選択肢だ。多分、1か月に500円程は必要だろうが、運営者に勝手に消される可能性は低くなるのではないかと思う。サーバーが使えなくなったら、サーバーを移転して、ドメインを張り替えたら終わりである。
残念なことにこの事例は「日本人の生産性の低さ」を如実に物語っている。第一にこうした社会運動は、個々の活動として行われることが多い。なかなか参加者同士の支え合いに発展しない。第二にグループウェアなどを使った動きが出てこない。Twitterで呟き、それをまとめて終わりといった具合である。若年層はLINEでやり取りをしているのかもしれないが、これも閉鎖系なので、運動に広がりが生まれない。
新しい世代のサービスはいくつも出ている。例えば、Googleを使ったサービスが考えられる。まず、Googleグループを作る。これはメーリングリストのように機能するが、履歴がすべてGoogleのサーバーに残るという仕組みである。テーマごとにスレッドを設定して利用するので、後からテーマが追いやすい。問題が起こったら担当者にアサインする仕組みも付いている。もちろん履歴は公開も可能なので、検索エンジン経由で新しい参加者が見つかる可能性もある。
この夏の「落選運動」の時にも思ったのだが、日本の社会運動は連帯が下手だと思う。そもそも団体活動が苦手な人たちが、価値観を押しつけられることに反発していることが多いからなのかもしれない。こうした連帯の下手さ加減は、しっかりと野党に受け継がれている。大切な時ほど、内輪もめを起してしまうのである。
運動家のみならず、日本人はチームプレイが苦手だ。これは一般的な日本人の自己像とは異なるかもしれない。特にセクションが違っている人たちの間の「無関心さ」はかなりのものだ。残業があっても「隣の人を手伝わない」のは日本では当たり前だと考えられている。だから、自分でメッセージを抱え込むメールが重要視される。また、閉鎖した空間でやり取りを楽しむLINEの人気にもつながっている。
こうした特性があるので、グループウェアを使った協動が導入されにくいのだろう。
いずれにせよ恊働の問題を解決しないと、いつまで経っても社会運動が広がりを持つことはできないだろう。すると「NHKがとりあげてくれない」と文句を言い続けるだけになってしまうのではないかと思う。NHKを大勢で囲んでも問題は解決しない。で、あれば問題点を共有する仲間で運動を広げた方が手っ取り早いのではないかと思う。

マイナンバーカードの?が教えてくれること

「マイナンバーカードが配達されない」とか「詐欺に使われている」というニュースを見た。この中で特に深刻だと思えるのが、配送ラベルに印刷されている?の問題だ。今の日本のダメなところが凝縮している。
ガラパゴス化した組織は全体でミスをなかった事にする。なかったことにするから、いつまでも失敗から学べないのだ。
住所ラベルに?が印刷されたのは、全角スペースにすべきところを半角スペースにしたからなのだそうだ。これをプログラムが処理しきれず?が印刷されてしまったのだという。
なぜ、半角スペースを入れると?が印字されてしまうのだろうか。報道では詳しく説明されないのだが、多分COBOLを利用しているからではないかと思われる。ビジネス分野でよく使われるCOBOLは全角と半角の取り扱いが苦手なのだという。これを「克服」するためには、予め半角になりやすい文字種を決めておいて、手作業で対照表を作って置き換えるのだという。この処理を失敗すると、文字コードが半角分(全角を基準にすると0.5文字になる)ずれてて、全体が文字化けを起すはずだ。
文字化けを防ぐために、エラーとして「手作業で」?を印字しているのではないかと思われる。?は当てはまる文字が有りませんよとか「データが間違っていますよ」いう意味の「エラーコード」なのだ。プログラマが意図して組み込んでいるのだ。そういう「仕様」なのだろう。
ここまで書いても「だからどうしたの」と言う人が多そうだ。
第一に「なぜ未だに、日本語処理が苦手なCOBOLを使っているのか」という問題がある。1959年に仕様が統一されたCOBOLはもう50年以上もの歴史のあるプログラミング言語だ。多分、役所関係の仕事だけをやっていれば済む(他に仕事がない)会社や部署が使い続けているのだろう。こうした会社では、他の言語を習得する意欲がないはずだ。ガラパゴス化しているのだ。
もし、MicrosoftやAppleのように家庭用機器を作っている会社であればそんな製品を放置する事はなかっただろう。COBOL言語そのものの問題というよりは、改良されたCOBOLが使えないコンピュータを使っている人たちが多いということなのかもしれない。メーカーは古いアーキテクチャに無駄なリソースを割くよりも新しいアーキテクチャに移って欲しいと思うはずだ。いわば、MS-DOSあたりを使っている感覚だといえば分かりやすいかもしれない。
こうした世界では、倒錯した価値観が支配することになる。不完全な状態を「改善しよう」とは思わない。それを使いこなす事に不思議な快感を覚え、それを「職人技」だと賞賛することになるのだ。目的を達成するよりも、職人技を磨く事が尊敬される不毛な世界だ。
しかし、これは問題の半分だ。もしこれがエラーコードだったとしたら、どこかで抽出ができたはずだ。?が印刷されたら、ログを吐いて出荷を止めるようなことができたのではないかと思う。しかし、システムインテグレータはそれをしなかった。これは推測になるが「納期の問題」があったのかもしれない。「納期に間に合わせる為には絶対に半角スペースは入れないでくださいね」というわけだ。
役所の方も納品物をチェックしなかったのだろう。役所側(あるいは業者の営業)が、納品する住所録にある半角スペースを一括で全角に変換してやればよかった。また、納入したものを目視確認すれば問題は表面化しなかったはずである。プログラマは半角スペースをイレギュラーとする仕様で書いているのだから、チームメンバーは(それがクライアントや営業であっても)イレギュラーなデータが流れ込まないようにする責任がある。
「時間がないからミスはあってはならない」が「ミスはあってはならないから、ないはずだ」に変わってしまう。最後には「ミスはないはずだから、これはミスではない」になる。だから、誰も学習しないのだ。そして学習しないから「これをどうにかしよう」とは思わないのだ。
このように考えると、マイナンバーが外部に流出するのも時間の問題だといえる。?で収まっているうちに問題を解決すれば良かったと思う日が来るだろう。
残念なことに、これを伝えるマスコミ側にもコンピュータのことが分かる人がいなかったようだ。政治部や社会部に専門家がいなかったのかもしれない。だから、深刻な問題が起きたとき、初めて専門家を呼んで大騒ぎして「責任者を首にしろ」などと叫ぶわけである。
まあ、問題が起きた時に多額の税金で処理をするのもいいかもしれないし、何度でも叫び続ければいい。何回でも同じ間違いを繰り返せば、そのうち学習するだろう。

県という呪縛と憲法違反問題

自民党の礒崎陽輔先生が、こう呟いている。


要するに「県という呪縛は外せないから、憲法違反するしかない」と言いたいらしい。
確かに県単位で割ると無理が生じる。だから、区割りを大きくすればよい。いわゆる道州単位で配分すればいいのだ。約43万人に1名の代議士が割り振れるらしいので人口の少ない鳥取県でも1名以上の代議士が割り振れるので、地域から代表がいなくなるということはない。区割りが面倒なら地域比例区にすればよいと思うが、1人区のほうが有利な自民党は比例には反対なのではないかと思う。
この構想の最大の障害は党の組織だろう。大きな党は県別の組織を持っているはずだ。中央の代議士は地方議員と系列関係があり「持ちつ持たれつ」の関係性を構築している。代議士組織だけをそこから切り離すことはできそうもない。
だから、これは区割りの問題というより党の統治機構の問題なのだ。あるいは、コミュニケーション技術の問題かもしれない。県域を越えてしまうと情報共有ができないのではないかと思う。
県という行政単位は見直しの時期を迎えているかもしれない。神奈川、静岡、大阪、福岡のように複数の政令市を抱える大都市圏では二重行政が問題になる。一方で都府県単位では解決のできない問題もある。災害対応などがその典型例かもしれない。最も大きな問題は人口の偏りだ。人口60万人を切る鳥取県から、1200万人を越える東京都までが1つの自治単位と見なされているのだ。
歴史的な一体感を保持したいと考える人たちもいるかもしれない。確かに高知や徳島など県域と地域的なまとまりが一致している区域もある。一方、福岡県、兵庫県、福島県のように県の中に違う文化と方言を抱えている県があるのも事実だ。さらに、沖縄県(沖縄と宮古)や長崎県(壱岐と対馬)などのように地域的な一体性を持たない県もある。その区割りは意外と恣意的なのである。
自民党は70年経った憲法は経年劣化していると主張する。ではなぜ、それより前に決まった県の区割りを変えることができないのだろうか。
だが、この呟きに感じた違和感は別のところにある。磯崎先生が、気にしても仕方がないことを気にしているように見えるからだ。
衆議院選挙の区割りは憲法違反のようだが、最高裁判所は決して選挙そのものを無効にすることはないはずだ。最高裁判所は責任を取りたくないのだろう。評論家のように「これはいけませんねえ」と言えば自分たちの役割を果たしたと思っているのではないかと思う。
そもそも、自民党は安保法制の問題ですでにルビコン川を渡っている。例えは悪いが、人を一人殺しているみたいなものだ。あとは何人殺しても罪が減る訳ではない。最高裁判所は安保法制でも無効判決を出すことはないだろう。罪は国会議員で背負うしかない。
国民は経済が順調に見える間は、多少の憲法違反は気にしないはずだ。ただし、経済が傾けばバッシングの空気が一気に広がるはずである。その場合、どんなに遵法的な態度を取っても無駄だ。警察がいないからやりたい放題だとも言えるのだが、警察がいない恐ろしさというのもあるのではないかと思う。

最低時給1,000円について考える

「最低時給を1,000円にする」と安倍首相がぶち上げたというのがニュースになっている。よく聞くと2020年代の中盤までに1,000円を目指すということらしいので、たいしたニュースではなさそうなのだが、それなりにインパクトがあった様だ。
自称経済学者の池田信夫氏は「そんなことをすれば製造業は日本を出て行くだろう」と歌舞伎役者のように見栄を切ってみせた。この人は、現在経済の中枢にいる「変わりたくない」経営者層をお客にしているのだろうなあと思った。一方で電波利権を叩いたり、反原発の人たちを「立憲主義を無視している」などと批判している。さしずめ、居酒屋の扇動者といったところかもしれないが、確実に今の空気を反映している。変わりたくないのだろう。
一方、本物の経済学者は、賃金の抑制が消費の低迷に影響をあたえているのだと指摘する。野口悠紀雄氏の観察によると、人件費の抑制が企業の収益の源泉になってしまっているだそうだ。ただし、野口先生は「政府が介入して給与を上げろ」とは主張していない。企業が新陳代謝すれば、高付加価値の産業が出てくるだろうと信じているようだ。
「ブラックバイト」の項目で見たように、最低賃金依存が顕在化しているのはサービス業だ。例え最低賃金が上がっても、サービス業が日本を出て行く事はない。もっとも、サービス産業の経営者が一律に最低賃金の引き上げに反対しているというわけでもない。参議院議員の松田公太氏は引き上げに賛成のようだ。コーヒー屋が付加価値型の産業だということもあるだろうが、よく考えてみると「自分のところの賃金が上がると、競合社の賃金も上がる」わけだから、競走条件は変わらない。却って付加価値勝負になることが予想される。経営や扱っているサービスに自信がある人ほど、人件費の高騰は怖くないのかもしれない。
確かに、人件費が高騰すれば、製造業は日本を出て行くかもしれない。しかし、出て行くとしたら原因は市場が縮小してゆくからだろう。需要のない市場でモノを作っても仕方がないからだ。例え出て行ったとしても、効率が悪い企業は淘汰されてしまうだろう。
効率の悪さはITに対する取り組みに顕著に表れている。今でも10年以上前のプログラムを使い(例えばグループウェアの代わりに、メールでやり取りをしている)、手書きのFaxがコミュニケーションツールになっているが、西洋諸国からは驚かれる事も多いそうだ。しかしながら、日本にいるとこうしたことは「当たり前」に感じられる。競争に強くなるという意味では、積極的に海外に出て行くのはよいことなのかもしれない。ただし、グループウェアの導入に消極的な人たちが英語を学習して海外に出て行きたがるという理論には信ぴょう性がない。
ただし、一部の人が考えているように、最低賃金の引き上げがすべての問題を魔法のように解決するということはなさそうだ。
第一に、人件費が高騰すれば、人件費をかけない方向で競争が進む可能性がある。小売業の現場では、品数を減らしコンテナのままで陳列することで従業員数を減らしたスーパーマーケットというものが登場している。加工食品ばかりで生鮮品が少ないのだが、遠くに行けない高齢者や安い食品を買いたい人たちが利用している。新型ディスカウントストアとかハードディスカウンターなどと呼ばれるようだ。これが消費者にとって必ずしも好ましい様態かどうかは分からないが、人件費が上がれば、企業はそれなりに対応するだろう。
次に、最低賃金の引き上げは貧困対策にはならないらしい。ある研究による、最低賃金の引き上げは、新規就労者(若年層)や主婦パートなどの就労機会を奪う効果があるのだという。たしかに、最低賃金のモデルとされるヨーロッパでは若年層の失業率が高い。だから、最低賃金引き上げを「政府支出のない福祉政策だ」と考えるのは正しくない。もし池田先生が本気で最低賃金について勉強していれば、この線で引き上げに反対すべきだったかもしれない。(と書いたら本当にこの線で反対を始めた。お前らのシゴトがなくなるぞという書きぶりだ。そもそも、実行する気がないお偉いさんの発言で振り回されるのは下々なのだということを痛感する。)
最低賃金の引き上げは、低賃金労働に依存する生産性の低い産業や経営者を淘汰する政策だと考えるべきだろう。低い生産性に張り付いていた人的資本がより生産性の高い分野に移動する可能性があるからだ。問題はそれが自然に起こらず、政府が強制しなければならないという点かもしれない。
この件で一番割を食ったのは民主党かもしれない。自民党に政策を「パクられ」て、集票に有効なカードをまた一つ失ってしまったからだ。かといって、民主党がかわいそうだとも思えない。もともとは2009年のマニフェストに掲載されていたのだそうだ。政権についている期間が3年もあったのだから「やる気がなかった」わけである。
自民党、民主党ともに「最低賃金で働くような貧乏人で情報リテラシーも低いだろうから、言うだけ言っておけば、ほいほい投票してくれるだろう」という姿勢が透けて見える。

県はなぜPrefectureなのか

英語圏で、日本の行政単位はPrefectureだというと変な顔をされる。Prefectという言葉には学校の風紀委員という意味がある。監督官というようなニュアンスかもしれない。英語のウィキペディアによると、日本の小さな行政単位をPrefectureと呼び始めたのは江戸時代のポルトガル人なのだそうだ。ポルトガル人がPrefectureと呼んだ組織は国(今でいう県)よりももっと小さな単位だったとのことである。
Prefectはラテン語圏では地方の行政長官の意味があるそうだ。風紀委員とニュアンスは似ている。監督者の名称なのだ。その歴史はローマ帝国に遡るという。ラテン語圏では、地方の行政長官がいる役所をPrefectureと呼び、そのうち、地域の主府(いわゆる県庁所在地)をPrefectureと呼ぶようになった。つまり、Prefectureは行政単位の名前ではなく、役所の名前なのである。地域名はProvinceと呼ばれる事が多い。Provinceは日本語では州(ローマの場合は属州)と訳される。
そもそも、県はどのような行政単位だったのだろうか。これもWikipediaによると、県の起源は古代中国に遡る。地方の人口稀薄地を郡と呼び、面積は小さいが人口の多い地域を県と呼んだ。もとは地方官庁を示していたという。秦の時代になり、郡の下に県が置かれるようになった。
日本の県は明治政府の直轄地のうち都市部でない地域の呼称だった。都市部の直轄地は府と呼ばれた。正確には行政単位の名前ではなく、その行政単位を治める役所の名前だ。小さな単位に過ぎなかった県だが、明治政府が藩を廃止して直轄地として編入したために、県の相対的な地位は高くなった。さらに都市に置いた府を廃止(東京、大阪、京都を除く)したために、地方の役所の名前に過ぎなかった県はいつのまにか行政単位の一般的な名前になったのだ。
現在、英語版のWikipediaではPrefectureは「県」という字の訳語として使われている。歴史的に見ると、日本で結びつけられ、後に同じ漢字で現す単位をPrefectureと呼ぶようになったのではないかと考えられる。少なくとも英語ではPrefectureを行政単位としては使う人がいないので、このラテン語由来の語をなんとなく(あるいは恭しく)受け入れてしまったものと思われる。
明治時代には地方の行政長官や役所の名前をPrefectureと呼ぶのは自然なことだったのかもしれない。中央政府が地方に設置する管理役所が県だからだ。知事も県令も官職であり、地方自治とは関係がなかった。この状態が戦後の昭和22年まで続いた。戦中まで知事は公選で選ばれる政治家ではなく官僚だったのである。
ところが、戦後になり県知事が公選になっても、県をPrefectureと呼んでいる。一方、県の責任者の名前はPrefectとかPrefectureとは呼ばれずアメリカの州知事と同じGovernorである。中央から任命されるわけではないから、当然と言えば当然だ。
それでは県の訳語として正しいのは何なのだろうか。
イギリスでは国(Country)の下の単位をCountyと呼んでいる。一般的に、Countyは郡と訳されるが、イギリスの行政単位は州と訳することが多いようだ。しかし、これは例外的だ。
大抵の国では、国の下の行政単位はProvinceと呼ばれる。カナダの州もProvinceだ。ベルギーは3地域(Region)の下に10州(Province)がある。中国の省や韓国の道もProvinceである。フランスはProvinceを廃止してDepartmentと呼ばれる固まりを作った。今ではDepartmentの上にRegion(地域)というまとまりあるそうだ。そして、県の主府のことをPrefectureと呼んでいる。イタリアの州は英語ではRegionと呼ばれ、その主府がPrefectureである。
このように考えると、県の訳語も、Provinceが妥当なのではないかと思える。もっと正確に言うと地域名称がProvinceであり、県庁所在地がPrefectureだ。これを当てはめると、今「県」と呼んでいるものは「州」と呼んだ方が良さそうだ。西洋的な伝統に従うと県庁所在地を県と呼ばねばならず、東洋的な伝統に従うと郡の下部組織が県ということになる。
そうなると九州や東海などの単位はRegionと呼ぶのが相応しいということになる。Regionは一般的には州ではなく地域と呼ばれる。だから道州制は正しくは地域再編とでも呼ぶのが相応しいことになる。最初に道州制を名付けた人は、アメリカのようになりたいという含みがあったのかもしれない。しかし、アメリカの州はProvinceではなく、State(国)なので、そもそも訳語が間違っていることになる。
不思議な事に、誰が地域の固まりを県と呼ぶことを決め、その訳語をPrefectureにしたのかは分からなかった。文献を調べて行けばわかるのかもしれないが、そうした史料をまとめた人はいないらしい。今となっては、誰がどのような意図で行政単位を県と呼び、それにPrefectureという訳を当てたのかは分からないのである。

大阪維新の勝利によせて

大阪維新の会が大阪府知事選挙と市長選挙で勝利した。この意味を考えていたのだが、大阪が良くなるか悪くなるかに余り興味がないせいか「よく分からない」というのが感想だった。
考えを巡らせて行くと、これは自民党にとってかなり深刻な事態なのではないかという結論になった。さらに、来年の参議院選で自民党が勝てば取り返しのつかないダメージをあたえるのではないかと思う。
憲法改正を睨んで、安倍執行部が大阪維新の会とのつながりを深めていたという話がある。もし、そうだとしたら、それは執行部が大阪自民党がアテにならないと判断したということになる。執行部は政治の最前線にあり「改革」を熱望している。にも関わらず国民の協力が得られない。だから、より大きな権力を手中に収め改革を推進しようとしており、そのためには憲法改正が必要なのである。
にも関わらず大阪自民党には改革の意欲はない。「今のままでええやろ」くらいにしか思っていないように見える。彼らの家業(政治家)が守られるためには、地元の支持者たちだけを見ていればよいからだ。自民党は地方組織の寄せ集めだ。つまり、地方組織の衰退はそのまま自民党の衰退を意味する。
そこで表れたのが大阪維新の会だ。大阪維新の会の執行部は様々なものを利用して「バーゲニングパワー」を得ようとしている。お金を出してでもいいから政治家になりたがる人たち、「改革」を熱望する有権者たち、そして地方組織の退廃に直面する自民党の執行部である。
大阪維新の会の執行部は、自民党の議員団に入って「雑巾がけ」するよりも、外からいろいろと注文を付けた方が「儲かる」と判断したのだろう。創業者に至っては、政治家をやるより外から操作したほうが「おいしい」と考えているのではないかと思う。裏を返せば「政治家は旨味がない」ということだ。政治家になると公人として扱われるので説明責任が生じる。首長となれば各種の訴訟リスクに晒されるのである。
自民党は今や「絶好調」だ。この好調さが危機を作り出している。地方組織は緩んでいるに違いない。勝っているのだから、リスクを取ってまで身を切る改革などしなくてもいいのだ。
好調の裏側で、経済政策は行き詰っている。アベノミクスには敵対する政策がない。しかし、それはアベノミクスがベストな政策であるということを意味しているのではない。先日「お家元」のクルーグマンが自説を見直したばかりだ。クルーグマンはアベノミクスではデフレを脱出する初速は得られないだろうと言っている。これの意味するところは近い将来の財政破綻だ。
にも関わらず野党も経済政策を出せていない。もし野党の経済政策が良ければ、自民党はそれを「パクる」だろう。しかし、代替案が出ないということは「そんなものはない」ということを意味する。それほどまでに状況が絶望的なのか、それとも改善策を考える意欲がないだけなのかは良くわからない。
危機感を煽れば、無党派層を刺激し、野党勢力に有利になる。そこで「今の政策はうまく行っている」と宣伝する。すると地方組織や国民は安心してしまい「今のままで良いではないか」と思い始める。いざとなったら助けて貰えるだろうというわけだ。
ここから、参議院選挙の勝利は自民党を内部から崩壊させてしまうだろうという結論が得られる。野党勢力の分断に成功し「何もしなくても勝てた」という成功体験は、自民党内の改革意欲を減衰させるだろう。これは民主党が2009年に経験した状況と似ている。彼らは今でも「風さえ起せばまた勝てるかもしれない」と思っており、自分たちを改革してゆこうという意欲を持てないでいる。で、あれば野党にはこのまま内部分裂を繰り返してもらった方がよいのかもしれない。
もっともこれで自民党が崩壊したとしても、それに取って代わる政党がまともなものである可能性は高くないかもしれない。もっともひどいシナリオは、憲法改正で国家が大きな権力を握ったまま、もっとひどい簒奪者に奪われてしまうというものだろう。

アルバイトという名前の戦争

NHKでブラックバイトの特集をやっていた。最低賃金に近い給料で働かされるのに、正社員並の責任を負わされる。サービス残業はあるが、残業代は出ない。売れ残りの買い取りノルマがあり、売上げが落ちれば「連帯責任だ」ということで給料を引かれる。にも関わらず時間的制約がきつく、次第に大学の授業にも出られなくなるのだという。学生たちは「社会とはそういうものか」と諦めてしまい、新しく入ってきた学生にも同じような働き方を強要するのだという。
もちろん辞めてしまうことはできるのだが、辞められない。一つには経済的に困窮しており「新しいバイトがないと生活してゆけない」という事情がある。それに加えて、心情的にアルバイトに縛り付けられてしまう。自分が抜けてしまうとバイト仲間や店長たちに迷惑がかかるのが予測からだ。「仲間を捨てて逃げ出せない」というのだ。
この話を聞いて「戦中の日本のようだな」と思った。もともと上層部が状況を見誤ったまま始まった第二次世界大戦は、当初の予測通り負け続きになった。しかし撤退することはできないので、各地の部隊にしわ寄せが行った。十分な補給を受けられなかったので、戦死者の多数を占めるのが餓死者だったそうだ。戦況がさらに悪化すると「他人を犠牲にする」作戦が始まった。犠牲の代表例が沖縄(本土を守る為の捨て石にされた)と特攻隊だった。
日本のサービス業も同じような状況にあるようだ。つまり、負けかけているのだ。で、あれば何と戦争をしているのかが気になるところだ。大日本帝国軍の場合は、戦力に勝るアメリカ軍という存在があったのだが、現代日本の場合、戦う相手は同じように困窮した軍隊なのだ。複数の負けかけている軍隊が膠着戦を行っているのが日本の特徴だと言えるだろう。つまり「内戦状態」にあるわけである。
こうした状態から逃れる為には、生産性を上げなければならない。生産性を上げる為には高度に教育された学生が必要である。しかし「優秀」(だがお金がない)学生たちが単純労働に従事せざるをえないために、こうした高度な人材を育てる事ができない。故に企業にはノウハウが溜まらず、内戦状態が温存される。
「内戦とは大げさな」という方もいるかもしれない。しかし、これはやはり戦争だろう。敗戦直前の日本にも学徒動員があり、優秀な科学者になるはずだった学生たちを爆弾代わりにして敵艦に突撃させたりしていた。戦況が逼迫していた当時に「学生を無駄にしないでしっかり勉強させろ」などと言えただろうか。
なぜ「勉強させろ」と言えなかったのかといえば「負けたら大変な事になる」という意識があったからだろう。一種のパニック状態だが、パニックの最中にある人たちは、自分たちの状況がよく分からないものなのだ。同じように、現代の戦争の指揮官たちは「事業から撤退しては大変なことになる」と考えているはずだ。
なぜ、こうした状態に陥ったのだろうか。実は、これはとても簡単な問いだ。「戦争に勝つ為の技術」が10年単位で移り変わるのに、本社にいる人たちの世代交代に30年から40年かかるからだ。これは、本社側に終身雇用的な体制が残っているためだろう。こうした人たちが「撤退」し、技能を更新することができれば、技術の世代交代は進みやすくなるはずである。構造はとても簡単だが、実行は難しい。現代の日本でいったn正社員層から脱落した人は、非正規雇用の安い労働力になるしかないからだ。で、あれば他人を犠牲にしてでも生き残るしかないのである。
日本政府は「一億総活躍」を目指しているが、サービス業界で内戦が続いている状態では、これが「一億層玉砕」に変わるのは時間の問題だ。しかし、こうした状態を放置している。国から成長機会を奪うという意味では「国家的犯罪に加担している」のだといえる。

パリとブリュッセルはどれくらい近いのか

まずは基準になる日本のマップから。東京を中心とすると仙台から名古屋を経て大阪までが地図に収まる。だいたい新幹線で2時間から3時間くらいの距離で、海外旅行の行き先としてセットで語られることが多い。
map1
ブリュッセルを起点にした同縮尺のマップにはロンドン、アムステルダム、ケルン、ドルトムント、フランクフルト、パリが入る。ブリュッセルからパリまでは特急タリスで2時間かかる。パリからロンドンまではユーロスターで2時間程度だ。つまり、ブリュッセルとパリの間は感覚的に東京から名古屋あたりの距離であることが分かる。
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この地域は国境を越えての交流が盛んだが、国境に対する意識も違うかもしれない。この狭い地域に言葉が全く通じない諸民族がひしめき合っていて、何百年も戦争を繰り返していた。このように狭い国同士で国境を設けていては通商の邪魔になるとは分かっていても、それをなくす事ができないという歴史が長かったのである。
さて、アメリカだとどのような距離感なのだろうか。ニューヨークを中心にすると、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンあたりまでが射程になる。北東回廊という高速鉄道路線が引かれている地域に該当する。こちらも1回の観光で訪れることができるエリアなのかもしれない。北西部にカナダ国境が少しだけ見える。ロングアイランドは小さな島にしか見えないが、横断すると鉄道で2時間45分かかるのだそうだ。距離も東京-浜松くらいある。
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アメリカといっても東と西では状況が異なる。ロスアンジェルスを起点にするとサンフランシスコとラスベガスが射程に入る。ほとんどがカリフォルニア州だ。こちらも1回の観光で訪れることができるぎりぎりの広さかもしれない。ロスアンジェルスとサンディエゴの間には鉄道が走っているが、サンフランシスコに行くのには飛行機を利用する人の方が多いのではないだろうか。北カリフォルニアは感覚としては別の州に近い。一方、メキシコが近い。スペイン語系の住民も多く、ファストフード店などに行くと「英語が通じないのでは」と思う事も多い。カリフォルニアの家庭の40%以上が英語以外の言語を話すという統計もある。
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デリーを中心にすると、ジャイプールとアグラ(タージマハルなどが有名)が近いことが分かる。1回の観光旅行でセットになる典型的な3都市である。北東に見えるのは中国だが、直接行き来することはできない。この3都市の間はそれほど離れていないように見えるが、鉄道で移動するとそれぞれ4時間以上かかる上に遅延も多い。
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一方、同じ都市圏と言ってもよい程近いのに遠く離れているのが朝鮮と韓国だ。ソウルを中心にすると、韓国全土と朝鮮のほとんどが同じ地図に収まる。この狭い地域で戦争状態が50年以上も続いている上に、ソウルは休戦ラインに近い。ソウルから釜山までの所要時間はKTXで2時間50分だそうだ。昔ながらのセマウル号で5時間の所要時間だ。平壌から丹東の手前にある新義州までは3時間45分かかるとのことである。
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戦争状態といえば、シリアの首都ダマスカスはどうなっているのだろうか。驚く事にレバノンやヨルダンとは目と鼻の先といった近さにある。シリア北部からだとトルコが近い。内戦が長い間続いているのだから、多くの国民が逃れて行くのも当たり前なのかもしれない。ヨーロッパに多くの難民が流れて大騒ぎになったのだが、トルコ、レバノン、ヨルダンにはそれ以上の人数の人たちが逃れているのだという情報もある。
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これを見ると東京という都市がいかに外国から離れているのかということがよく分かる。地図の中に国境が引かれていないのは東京の地図だけだ。同じ日本でも福岡を中心にすると違った図が見える。韓国が射程に入るからだ。東京に住んでいる人たちが、移民とか外国人というものに実感がないのもある意味当たり前なのかもしれない。

障害者は生まれるべきではない、について考える

茨城県の教育委員の女性が「障害者は生まれると大変なので、堕胎できる早期に発見できた方がいい」と発言し「炎上」した。女性は発言を撤回し、教育委員も辞めると言っているらしい。これに対して橋本知事は何が起きているのか分かっていないらしい。この無自覚さは一種の罪だろう。多くの他人の人生に影響を与えるという意味では、重い類いの罪といえるかもしれない。
「炎上」したのはこれがナチスの主張に通じるとされたからだ。ナチスの主張とは「自分の持っている価値観を外れた他人は死んでも(あるいは殺しても)いいのだ」というものだ。堕胎は合法的に認められた数少ない殺人行為だ。だから、長谷川さんは「役に立たない子供は殺してしまえ」と言っているということになる。
ナチスばかりではなく、イスラム原理主義の首謀者たちもそう信じている。首謀者たちはパリ市民の命をなんとも思っていないばかりか、犯人たちの命も利用して構わないと思っている。ナチスは「合法的に」他人の命を奪ったのだが、イスラム原理主義者は違法に行っている。とはいえ、彼らは「国家格」を主張している。彼らの「法」に従えば、それは合法的な行為なのだろう。
長谷川さんの言動に対して「いや、障害者も役に立っている」とか「意義のある人生を送れるはずだ」という人がいる。さて、それはどうだろうかと思う。
そもそもそうした論法が成り立つ為には、その話し手が「自分の人生には意義があり、人の役に立っている」という視点を持たなければならない。しかし、障害の有無にかかわらず、人の人生に意義はあるのだろうか。
多分、県知事や画廊の経営者というように名を成した人は「自分の人生は意義があり、自分は人の役に立っているのだ」と考えているのかもしれない。70年も生きていて「そもそも人生というのは無為なものなのではないか」という疑問を持った事が一度としてなかったのだろう。時に人生に立ち現れる不条理に遭遇したこともなければ、そうした境遇に立ち会った人に共感したこともなかったのだということになる。
そういう人が教育行政を差配しているということに対して、深い闇を感じる。教育とは「役に立つことだけを教える」ことではないはずだ。不意にぶち当たる不条理に対しての準備をさせる事も教育だろう。
「人生には意義がない」が「意義がない」ということを受け入れることは難しい。そこであえて、何かを見いだそうとするのが人生なのかもしれない。生きて行く事に何の意味がなかったとしても、新しい朝は訪れる。
不条理に対する準備がないことは何を招くのだろうか。
「意義のある人生」と「意義のない人生」を切り分けることが、地獄の入り口になることがある。無為に苦しむ人もいるが、さらに危険なのは、無為を感じた人が「何か大きくて意義深いもの」に触れた時に感じる高揚感だ。
イスラム原理主義の人たちはそれを神と呼ぶ。神に祝福される世界を作るのが「ジハード」だ。天国に行ける事が保証されているのだから、他人の人生を奪ってもよいのだ。同じように「目覚めた人」が「目覚めていない人」を善導してやるのが、オウム真理教の「ポア」だった。この場合、善導とは相手を殺してしまうことである。無為を感じたまま「偉大なもの」に触れた人たちは、いとも簡単に、他人の人生を踏みにじってしまうのだ。
無為を教えない現代の日本にも無為を感じる人たちは大勢いる。宗教はヤバいということになっているので、代わりに目をつけられたのが「連綿と続く日本の伝統」だ。「国体原理主義」といえる。こうした人たちは「日本の伝統」を盾に他人の権利を踏みにじろうとする。ただ、実際には伝統とは切り離されているので、歴史的な経緯というものには、驚く程興味がない。
彼らの思想も「ナチス」や「イスラム原理主義」に通底するものがある。「意義のあるもの」と「意義のないもの」を分けた上で「意義のないもの」を奪おうとするのだ。しかし、その裏には「自分たちの意義」への疑いがある。だからこそ「意義のないもの」を作り出して、自分たちの人生に意味を与えようとしているのだ。奪う事でしか生きていけないのである。
日本の政治家はこうした人たちを単なる確実に票が読める集票マシーンくらいにしか考えていないのかもしれない。しかし、これは危険な状態だ。なぜならば、意義に飢えた人は少し奪うだけで満足する事はできないからだ。奪っても奪っても満足する事はできないのではないだろうか。
今回の件を原理主義と重ねるのは、いくらなんでも極端だという批判はあるかもしれないが、底を流れる構造は似通っている。このように人の人生を「意味の重さ」で計ることは危険なことなのだ。無自覚であるからこそ、罪が深いのだとも言える。
もっとも「人生に意義などないなら、他人の人生を奪ってもよいのではないか」という疑問は残る。確かにそうなのかもしれない。しかし、飢餓感情から他人の人生を奪い続け、いくら奪っても満たされないというのはどういう状態なのだろうかと考えてみたい。人はそれを「地獄」と呼ぶのではないだろうか。