デジカメ写真のバックアップを取る・遺す

デジカメやスマートフォンで写真を撮っていると、知らず知らずのうちに溜まってくる。これをどう残しておくのがよいのだろうか。
デジタルカメラが日本市場に登場したのは1993年だそうだ。登場してから20年強しか経っていないことになる。最初はフィルムカメラより劣ったおもちゃのような位置づけだったが、2000年にシャープからカメラ付き携帯電話が登場すると状況は一変した。最初は写真メール(写メ)というメールに添付する小型の映像(128×96ピクセル)がスタートだったのだが、現在ではほとんどの携帯電話にはカメラがつくまでになった。1人が1台以上の携帯電話を所有しているのだから、すべてのカメラが記録する情報量は膨大なものになるだろう。なかには買い替えと同時に写真をなくしたという人もいるかもしれない。
人が一生に撮影する写真の量というのはどれくらいになるのだろうか。試しに手元にある写真を見たところ、10,000枚弱で6ギガバイト程度になっていた。初期の写真は640×480ピクセル程度だったが、最近のものは1280×96ピクセル程度(だいたい2L版の写真用のサイズだそうだ)で撮影されており、1枚のサイズは700キロバイト程度だ。最近のスマホは高解像度化が進んでいるので、ファイルサイズはもっと大きいかもしれない。2メガバイトとすると3倍の18ギガバイトということになる。
せっかく撮り貯めた写真がなくなるのは忍びない。どのようにすれば写真を残しておけるだろうか。

Google Photos

第一の選択肢は無料のオンラインサービスを使うというものだ。地震や洪水で家が浸水して家族の思い出が消えたという話をよく聞くが、オンラインサービスに預けておけば安心だろう。
現在最もポピュラーな選択肢は2つのある。GoogleとAppleだ。Googleは、PicasaとGoogle Photosという写真サービスを2つ持っており、お互いに連動している。1600万画素までであれば、無料で制限なく預かってもらえる。圧縮がかかるが、見た目ではほとんど分からないという。1600万画素もあれば、A4で300pdiで印刷できる。スマホの写真をすべてA4で印刷する人などいないから、十分すぎるクオリティと言える。自動でタグ付けもしてくれる。どうやら写真から直接判別しているようである。例えばインド旅行の写真を丸ごとアップロードすると、タージマハルの写真を自動で探し出してくれる。写真はWeb上で共有する事もできる。Google画像検索の対象にはならないらしい。
もちろん欠点もある。無料のサービスなので突然打ち切られても文句は言えない。実際にアカウントを凍結された例も報告されている。自分の子どもの裸の写真を「かわいいから」と言って自動アップロードした人がアカウントを凍結された例がある。児童虐待だと認定されたらしい。海外ではしばらく使わなかった(規約では9か月ということだ)人が、予告もなしにアカウントを閉じられたという例もある。メールアドレスをGoogleに依存していると、ある日突然誰とも連絡が取れなくなったということもあり得るのだ。
しばらくアクセスがないと削除されてしまうのだから、遺族が本人の死後に「いつまでも見られるから」という理由で、そのまま写真を預けておく事はできないことになる。Googleはデータを一括ダウンロードできる仕組みを提供している。

iCloud – Apple

Appleも写真をバックアップサービスiCloudを提供している。こちらは5Gバイトまで無料で預かってくれるそうだ。500万画素の写真を2MBとすると、2,500枚程度ということになる。それ以上になると容量を買わなければならない。iCloudサービスを使うと、どのデバイスで写真を撮った写真も同期される。例えば、パソコン(最新版であれば、Windowsでもよいのだそうだ)で写真を削除すれば、各デバイスの写真も整理される。2500枚というのは人が一生に撮影する写真の量としては少ないかもしれない。AppleTVを使えばテレビで表示する事もできる。LAN環境さえあれば、設定にはほとんど知識がいらない。
Appleのサービスでも写真の共有はできるが、共有する人がiOSを持ったデバイスやパソコンを持っていなければならない。そして、それは常に最新のものである必要がある。5年程度のオーダーであれば問題はないが「一生」見られるかといえば、疑問符がつく。Appleのサービスには継続性がないものが多い。写真を整理するソフトであるiPhotoはいつのまにか打ち切りになってしまった。iDiskというサービスを運営していたが、こちらもiCloudが普及したという理由で打ち切られてしまった。無料メールアドレスを配って、それを有料にし、それを打ち切るというようなことをしているので、今のサービスが今後も使えるかは分からない。

CDやDVDに保存する

長期保存するためには、CDやDVDに保存すればよいではないかという意見もありそうだ。しかし、意外なことにCDやDVDといったメディアの寿命は5年〜10年程度と言われている。最近では光学式ドライブを持たないパソコン(Appleなどが有名だ)も出ているので、昔のフロッピーディスクのような存在になってしまうかもしれない。今DVDを持っていたら、今すぐどこかにバックアップを取った方が良い。
1990年代にはフィルムカメラの情報を読み込んだフォトCDという形式があったが、読み込めるソフトウェアはなくなりつつある。「永久に」画像データを保存するというのはなかなか難しいらしい。フォトCDには100枚程度の小型サイズの写真が保存できたようだ。

SDカードに保存する

デジカメは保っているがパソコンがないという人もいるだろう。その場合、SDカードに保存しておいてカードごと変えているという人もいるのではないだろうか。ところが、SDカードにも寿命があるのだという。頻繁に書き換えをしていると5年程度でダメになるという報告がある。すべてが壊れるわけではなく部分的に痛んでくるということだ。すぐに発見できないので却って厄介だ。
さらに、SDカードは放置しておくと5年程度でデータが飛ぶのだそうだ。記録されている電子が放電してしまうらしい。と、いうことでSDカードは中期的にデータを保存する媒体としては使えない。DVDに保存しろと書いてあるものもあったが、DVDも中期的にデータ保存ができないのは同じである。

ハードディスクやSSDに保存する

ということで、データを中期間以上保存するにはパソコンがあった方が安心だ。最近では家庭内ネットワークに対応したハードディスクやSSDも登場している。パソコンがなくてもモバイル機器(スマホなど)だけがあればバックアップできる装置もあるようだ。こうしたネットワーク対応型ハードディスク(NAS)であれば、1TB(約1000GBに当たる)が15,000円程度で手に入る。二重バックアップができるものは20.000円を越える。家庭内LANに対応した装置(スマホ、タブレット、テレビ用のセットトップボックス)などで写真を共有する機能を備えたものもある。
ハードディスクの難点は壊れる可能性が高いことだろう。機械式なのでいつかは寿命が来るのだが、いつ来るのかは分からないのだ。このため、ネットワークの知識とバックアップの知識が必要になってくる。自動バックアップを取るためには、ハードディスクドライブを2つ以上揃える必要がある。アップロードしてしまえば整理まですべてやってくれるGoogleのクラウドサービスに比べると難易度は高いかもしれない。最近のネットワーク対応型のディスクは接続に複雑な仕組みを使っている。デバイスのOSが変わったら接続できなくなったというケースもないわけではない。
SSDはハードディスクと違ってうるさい動作音がない。理論上読み書きに寿命があるということだが、100年程度の耐久性はあるだろうとされているようだ。SSDは今のところテラバイト単位の製品を作るのは難しいらしい。128GBの製品が10,000円強で売られている。一生安泰という程ではないが、そこそこの保存容量ではある。

古いパソコンをサーバーとして利用する

WindowsXPのサポートが切れて、ネットにつなぐのはちょっとはばかられるという人もいるかもしれない。こうした古いPCをサーバー代わりに利用するという手もある。昔のパソコンは大きい代わりに作りが単純なのでハードディスクの増設などもしやすい。単純という事は壊れにくいということでもある。OSが古いままなので、古いアプリが「いつのまにか使えなくなる」ということもない。
古いパソコンの難点は部品が手に入りにくいということだ。中古品店を探せば安い部品が手に入るが、サポートは全くないので、すべて自前で解決する必要がある。
終わりに
ということで、バックアップには正解がない。残念ながら永遠にデータが保存できる媒体は存在しないのだ。
現実的には、オンラインサービスと自宅に複数の選択肢を保っていると良さそうだ。かつてのパソコンは100ギガバイト程度のハードディスクしか認識してくれなかったが、最近ではテラバイトクラスがスタンダードになった。ハードディスクの価格も安くなっているので、余裕を持って複数の装置や手だてを準備すると良さそうだ。改めてNASを準備しなくても、古いパソコンをサーバー代わりに利用するという手もある。

永田町の病とは

橋下徹大阪市長が維新残留組の「永田町病」を批判している。国会議員だけで何でも決められると思ったら大間違いだという。永田町が病気にかかっているのは間違いない。かといって、地方議員が国会議員と対等だというような意味ではない。もっと別の病 – 正常化バイアスだ。
現在、維新の党も民主党も主導権争いしている。ポストによる見返りのある自民党にはこうした兆候は見られない。両者には共通点がある。「アベノミクス」により経済的な危機が去り、権力争いしたりポスト争いをする余裕がある、と思っているのだ。
だが、状況は変化しつつある。アメリカが利上げを検討しているからだ。利上げが行われば、金余りの状況は変化するだろう。現在、先進国の金利は低く抑えられており、ヨーロッパではマイナス金利の国さえ出現した。日本でも使い道がない金を日銀の当座預金に寝かせることが一般化している。結果的にインフレは抑えられており、政府は安い(ほとんどないに等しい)金利で金が借りられる。
アメリカが利上げをすると、今までだぶついていたお金はアメリカに向かうだろう。日本の金利もそれにつられて上がるはずだ。今まで安い金利でお金を調達できていた人たちは誰でも(それは日本国政府を含む)高い金利に苦しむ事になる。国内の株に投資されていた金もアメリカに向かう。株価は「暴落」まではいかないにしても下がるにちがいない。ドルの需要が増せば、ますますの円安になり、食料とエネルギーのコストは増大し、家計を圧迫することになる。株式に投資された年金資金が戻るのかは分からない。
こうした事態は、大地震のように「いつかあるかもしれない」危機ではない。既に計画されていることだ。だが、日本の政治家は「困ったら日銀がなんとかしてくれる」と思っているのではないかと思う。自分たちが日銀に命じさえすれば、なんとかなると信じているのだろう。今と同じ状況がずっと続くという錯覚を持っているということになる。これが正常化バイアスだ。
永田町には誰1人として「今とは違う状態になったらどうしなければならないか」と自分の頭で考える人がいないのかもしれない。さらに自分たちが政策を決めていると思い込んでいるのも問題だ。実際の政策は国の外で決められており、永田町はそれを後追いしているだけだ。
自民党の政策が立ち行かなくなることは既に分かっている。前回と違って民主党のせいにすることもできない。つまり、民主党は「まともに作用する」経済政策さえ作っておけば、自民党に勝てるチャンスが生まれることになる。果たして民主党が経済政策を立案する力があるかという問題はあるが、これは外部の力を借りればよい。国内外から専門家を募ってくればすむだけだ。
維新の党(大阪系)に期待する向きもあるが、彼らはフリーライダーのようだ。法律的なリスクを回避した上で、利得がありそうなプロジェクトを物色しているように見える。持続性のない短期勝負型だ。権力と政党助成金を目当に集ってくる政治家がたくさんいるので「カモ」には困らないといったところだろう。政治家にしがみつきさえしなければ、短期利得を得る機会は多く転がっているということになる。
共産党は政権を担うつもりがないので、分配政策さえ訴えていれば良い。良い悪いは別にして、それが左派政党というものだ。
それより大きい問題は民主党の意欲の欠落だ。政権を担える政党になると言っている民主党だが、経済政策を自ら立案しようという意欲と自信を持っていないように見える。「政権が担える政党になる」とは言うものの、具体的な政策が立案できず、その意欲も見えない。実際には永田町の人たちは「お手上げ状態」になっており、国民の財産をあたかも自分のもののように分配することだけを「政策」なのだだと誤解しているのかもしれない。
この「疑念」が確かなのかは分からないが、もしそうなら、日本は漂流した挙げ句、国民の資産がシロアリのように食い尽くされて行くことになるだろう。立憲主義が守られていようが、破壊されていようが、たいした違いはないのかもしれない。

jQuery File Uploadでファイルが削除(デリート)できない

jQuery File Uploadは画像ファイルをサーバーに一括アップロードできるとても便利なjQueryプラグインだ。しかし、サーバーの設定によってはファイルのアップロードはできても削除(デリート)ができない場合がある。ブラウザーで見ると、403エラーが表示される。
その場合にはdelete_typeという項目をDELETEからPOSTに変更すると削除ができるようになる。具体的には’delete_type’ => ‘POST’とする。ハマる人が少ないのかどうか分からないが、GOOGLEで検索しても分からなかった。
よく見ると、コメント欄に書いてあった。

鏡の国の経済政策

ヨーロッパで面白い動きが出ている。中央銀行のマイナス金利が常態化しつつあるのだそうだ。経済が不安定化してデフレへの懸念が増す中で、先進国通貨建ての資産への人気が高まっている。人気が高まると民間投資が抑制され、通貨高になる。中央銀行はそれを嫌い金利をマイナスにしているのだそうだ。投資家たちは「手数料を払ってもよいからお金を借りてください、使ってください」と国に頼んでいることになる。今までの常識が反転する鏡の国の世界である。お金を使ってもらうのに支払いが必要という世界だ。
企業や個人に投資するよりも国にお金を貸し付けた方が安心だという認識があるのだろう。こうして金利は下がり続け、ついには0を割り込んでしまったのだ。
先進国の中央銀行は経済を減速させない為に通貨の供給量を増やし続けてきた。ところが発行したお金は必要な人たちのところには回らず、一部の人に滞留し、安定資産に向かう。オックスファム・アメリカの調査によると、1%の富裕層が世界の富の半分を抱えており、その額は年々増えているそうである。「1%の最富裕層、世界の富の50%余り保有へ-オックスファム」
投資の不振は日本でも起きている。ここ数年のアベノミクスで企業の儲けは随分増えたといわれているが、企業は儲けを投資に回さない。流通されずに死蔵されている通貨は単なる紙切れにしか過ぎない。実際には紙切れですらなく、電磁的に記録された記号のようなものだ。企業が蓄えている利益余剰金(内部留保)の総額は300兆円を越えるそうである。
日銀の当座預金にもお金が積み上がっており、日銀はそれに利息をつけている。その額は2015年3月時点で200兆円だ。いわば電磁的な記録の桁が増えているだけなのだが、それがどうしてインフレ期待を引き起こすことになるのかはよく分からない。
円高で国民の資産や給与はドルベースで40%減価した。その一方で企業と銀行は500兆円を越える金額を死蔵している。これは日本のGDP1年分に相当する。蓄積された富の量は増えた一方で、企業の投資は伸びず、給料も増えない。人々の消費意欲も縮小したままである。
本来、お金は使われない限り利益を生まないはずだが、デフレが予想される世界では現実世界に投資をしても損をするだけだ。だから企業は現金を保有する。利息はほとんどつかないが損をすることはないだろう。銀行も現実世界に投資するよりも日銀に預けた方が(わずか0.1%ほどの利息のようだが)儲けが出る。リスクを冒してベンチャー企業に投資するようなことは起こらないだろう。
企業は自己保身のために現金(もしくは債権かもしれないが)を貯め込む。給与や投資として市場にお金が回らないので、消費者も消費を控える。すると市場はますます縮小し、悲観的になった企業はますます利益を貯め込むようになる。政府は将来を悲観する企業の頼みを受け入れ、法人税ではなく消費税から税収を得ようとする。すると、消費はますます冷え込む。
まともに考えれば、通貨供給量を増やしてインフレを期待し、将来の税収アップを目指す政策はすでに破綻しているといえる。オックスファムの統計を見ても(あるいは見なくても)トリクルダウンが起こらないのは明白だ。
鏡の世界でも、投資や消費を活発にし、インフレを起す為に必要な政策はいくつもある、という識者もいる。Bloombergのウィリアム・ペスク氏は富を蓄積した企業に課税する方法を提案している。(Japan Needs to Think Different) いわゆる「内部留保」に課税し投資(これは給与支払いを含む)を促進するという政策だ。このアイディアは政府でも検討されているらしいが、政府は「さすがに社会主義的過ぎるだろう」と逡巡しているようだ。
ペスク氏は投資に回らない形で直接消費者にお金をばらまくという制度も提案している。日銀が資金提供者となるデビットカードを作って直接消費者にばらまくのだ。このカードは消費には使えるが、貯蓄はできない。1年経つと消えてしまうからだ。この提案は常識はずれで実現性が薄いように思えるが、形を変えて実現している。
政府の地域振興券は政府支出が原資になっていて、一定期間を過ぎると紙くずになる仕組みだった。政府はプレミアムを支払って「今すぐお金を使ってください」と国民に頼んだわけだ。国民はそれに熱狂し各地の引換所では長い列ができた。一部では奪い合いのような騒動も起こったようだ。
そう遠くない昔、政府は国民に「貯蓄をするように」と説得していた。預貯金は開発の資金になったからだ。ところが現在では政府は「お金をあげるから消費をしてください」とお願いしなければならない状態に追い込まれている。そればかりか税金を徴収するのではなく、政府が(正確には中央銀行だが)が国民にお金を払うべきなのではないかという議論さえ起こるようになったのだ。

ただ、ジーンズを探したいのだが、ファッション雑誌は僕に優しくないのだった

毎日同じジーンズを穿いているうちに、ついに股がすり切れてしまった。素直にユニクロにでも行って「普通の(スリムストレートとでも言うのだろうか)」を買えばよいのだろうが「今、どんなものが流行っているのだろうか」と思い、いろいろ調べてみた。
試しに、ファッション雑誌を立ち読みしてみたのだが、いくつか問題がある。情報が脈絡無く並んでいる上に「生き方」を雑誌に合わせなければならないらしい。なぜ雑誌に生き方を強制されなければならないのか。
次にメーカーのウェブサイトをいくつか回ってみたのだが、知っているウェブサイトはどれもとても重い。しばらく待って表示されるのは馬鹿でかいイメージ画像で、どれもなんだかぴんと来ない。さらに、ファッション系サイトというのは、どれもイベントやキャンペーンの情報ばかりが並んでいる。あれは製品を売出そうとしているのではなく、マーケターが日々の仕事や知っている人たち(いわゆるセレブ)を自慢しているに過ぎないのではないかと思う。
では、全く参考になる素材が転がっていないのか、といわれるとそうでもない。例えば、Pinterestにはユーザーが選んだ素材が多くアップロードされている。気に入った素材を検索すれば、多くの情報を手に入れることができる。日本にもWEARのようなサービスがあり、多くのコーディネートを研究することができるのだ。
素材探しは楽しいのだが、結局何を探しているのだろうか、と考えた。全体を支配する法則のようなものを見つけ出して、効率よく「すっきり見える」形を探したいのだった。
20151024-001ジーンズというのは全体を形作る部品になっている。いわゆるシルエットというものだ。昔の服装は製造工程の都合に従って直線的な形をしていた。今でも規制服の標準的なものを選ぶと、箱形のシルエットが作られるだろう。
20151024-002ところが人間の体系はどちらかというと曲線を持った楕円のような形をしている。その楕円の重心をどこに置くかによってシルエットが決まる。この何年かのシルエットはこの重心を操作することによって「新しさ」を演出しているし、きれいな楕円が作れると全体的に「すっきり」した印象が作られるようだ。太さの違うジーンズというのは、こうした全体を作る為に利用されるのだ。
20151024-003モデル体型から外れた普通の人は「細長い」すっきりとした体型を作る必要があるのだが、体型は変えられない。安い服を着るとシルエットは直線的になるので、視覚効果に頼ることになる。そこで利用されるのが「ヘルムホルツ」「ミューラーリヤー」「フィック」といった視覚効果だ。これはシルエットとは違っているが、効率よくまとめるためにはとても重要な情報だろう。
20151024-004さらに体型が整っていれば、上半身の逆三角形を強調するために、セーターやTシャツの模様などを調整することもできるだろう。これも視覚効果の一つだろうと思われる。
こうした「シルエット至上主義」はイタリアのハイブランドが腰骨ぎりぎりのジーンズを売出したころには最先端だっが、若干揺り戻してから一般化した。普通だったジーンズの丈は流行遅れだということになってしまった。最近では「ノームコア」と呼ばれるミニマムなスタイルが「流行」し(脱ファッションの流れが流行するというのは奇妙なことだが)色や装飾がなくなったぶん、洗練されたシルエットの役割がとても大きくなった。
ファッション雑誌もこうしたシルエットごとに情報をソートしてくれればいいのにとは思うのだが、いくつかの点から実施は難しそうだ。第一に、ファッション雑誌は新しい製品を売りださければならないので、シルエットやディテールを絶えず操作する必要がある。さらに、整理された情報は「整然と」しているぶんだけ、退屈に見えるだろう。雑多さが活気を現すというのはよくあることだし、読者は同じお金を出すのだったら。さまざまな情報が欲しいと思うものなのかもしれない。最後に、そもそも雑誌は情報のソートができない。
さて、このように「全体を決めるシルエットさえ見つければよいのだ」という結論になったのだが、移り変わるのがファッションというものだ。同じようなものばかり作らされているデザイナーの間には、それを打破したいと考える人も多いのではないかと思う。実際に、最近のコレクションを見ていると体型を見せないシルエットなどがぼつぼつと登場しつつあるようだ。最初は試行錯誤かもしれないが、徐々に一般に受け入れられるシルエットが登場するのかもしれない。

1999年のウェブデザインを振り返る

フォルダーの整理をしていたら、昔のウェブサイトのスクリーンショットが出てきた。1999年のもので、主にテレビ局と音楽レーベルのサイトを集めたものだった。
この頃のサイトにはいくつか特徴がある。まず、文字がぎざぎざしている。この頃のブラウザーはスムーズな字が出力できなかった。スムーズな文字を出す為には文字を画像化する必要があった。いつごろ文字がスムーズになったのかと思い調べてみたところ、Windowsの文字をスムーズにする方法という記事が見つかった。Windowsでは2007年頃にはまだ文字はギザギザしていたようだ。マッキントッシュでスムーズなフォントが表示されるようになったのは2001年のOS Xからだ。
また、曲線も表現できなかったので、曲線を表示するためには画像に頼らざるを得なかった。しかし、画面全体を覆うような大きな画像は使えなかった。電話線を利用するモデムの速度は最終的には56kまで「高速化」していたが、それより早いADSLが登場するのは2000年代に入ってからのことだったようだ。
最大の特徴は全体を統合するグリッドという概念が薄いということだろう。現在のウェブサイトはまず大きな枠組みを決めて、その枠組みを分割してゆくことで画面全体を支配するデザインを作っている。中には画面幅を変えると全体の枠組みを維持したままで画像やセクションが拡大・縮小することもある。こうしたシステムをグリッドと呼ぶ。
当時のウェブサイトのデザイナーの中には出版出身の人たちもいたので「グリッドを意識したデザイン」というものは存在した。ところが、HTMLはもともと文章の構造とリンク関係を記述する言語であり、デザインには主眼が置かれておらず、部品は置くだけのものだった。当初は枠組みを記述するdivというタグがなく、デザインにはテーブル(もともと表を作るのに利用されていたものだ)を流用していた。1990年代の終わりにdivタグが登場した(1999年に出されたInternet Explore 5でもdivタグは表示される)あとも、しばらくはテーブルが多用されていた。縦線を記述するHTMLもなかったので、縦枠を引くためだけにテーブルタグを使うこともあった。
画像が使える事になったことで、ウェブにデザインという概念が持ち込まれたのは良い事だった。しかし、何でもできたために統一感がない上に「盛りだくさん」に情報が氾濫していたが、これが刺激的で新しかったのだ。
現在のウェブサイトは上部にグランドナビゲーションを横配置するのがお約束になっているが、当時にはそのようなお約束事はなかった。メインのメニューは左側に縦に並べられるものが多かった。中には画面の下にグランドナビゲーションを配置したコンテンツもある。メインコンテンツ(左)とサブコンテンツ(右:広告など)という概念もあまり明確ではなかった。現在の決まり事はこうしたさまざまな思いつきが淘汰された結果だといえる。
このように、1999年のウェブサイトと2015年のそれで一番違っているのは画面デザインについての考え方だろう。1999年のデザイナーはさまざまなパーツを組み合わせることで全体のデザインを組み上げていた。画面全体で個性を表現していたのだ。ところが、現在のデザインからはこうした個性が消えている。ウェブデザイナーの役割はモジュールとその配置方法を決める事であって、個性を決めるのはそれぞれのモジュール化されたコンテンツだ。
こうしたモジュール化はスマートフォンの登場でさらに加速しつつあるようだ。過剰なデザインはコンテンツに対する理解を妨げらるものだと捉えられている。そこで、過剰なグラデーション、背景の模様、陰影などは消え行く運命にある。陰影のついたデザインは小さな画面では視認性が悪い。そこでフラットなデザインが好まれるようになった。断片化された情報はソーシャルメディアによって切り取られ、横幅320ピクセルほどの画面でシェアされている。

メニューやナビゲーションにはリストタグを使うべきか?

ウェブサイト制作には「なんだかよく分からないが、そう決まっている」という決まりごとがいくつかある。そのうちの一つが「メニューやナビゲーションにはリストタグを使え」というものだ。しかし、その理由を尋ね歩いても、納得のゆく答えを見つけるのは難しいかもしれない。「そういうものだから」というのが、大方の意見だろう。
そもそもリストタグはメニューを横に並べるのには適していない。メニュー(とくに、グランドナビゲーション)のために発明されたのではないことは明らかだ。大抵のグランドナビゲーションは横に並べてあるので、CSSのディスプレイ指定を使って無理矢理に横に並べなければならない。
そこでいろいろと探したところ「ナビゲーションにリストタグを使うべきか」という英語の文章を見つけた。この文章によると、大抵の(多分、アメリカのことだろう)教科書には「ナビゲーションにはリストタグを使え」と書いてあるそうだ。たぶん、この習慣が日本にも伝わったのだろうと思われる。
ところが、目の見えない人用の支援ツールを研究した結果「リストタグを使ったメニューは認識しにくい」ということが分かったのだと言う。ユニバーサルデザインに配慮すれば、スパンタグを使った方がよいらしいのだ。
HTML5には、NAVというタグがある。だから、NAVタグで囲みさえすれば、仕様には合致していると言える。NAVタグを使うと「そこは、本文とは関係がない」という指定ができる。メニューやナビゲーションにリストタグを使うかどうかは、好みの問題だということになるだろう。
しかし、話はそれほど単純なものではなさそうだ。レスポンシブデザインが一般化し、それに対応したプラグインが発展した。「ナビゲーションにはリストタグを使う」ことが一般化しているので、大抵のプラグインもナビゲーションのリスト構造の把握に、リストタグとそのネストを利用している。つまり、レスポンシブデザインを意識すると、ナビゲーションやメニューにはリストタグを使わざるを得なくなるというわけだ。
ここで出てくるのは「メニュー構造をネストすべきか」という問題だ。確かに、ネスト構造を取るとサイト構想は把握しやすくなる。アコーデオンやドロワーを使えば、かなり多くのメニューを表示できるだろう。しかし、これはPCを使ってメニューを縦に並べた場合に言えることだ。これをタブレットやスマートフォンで表示するとかなり分かりにくい画面構成になることは間違いない。
そもそも、どうしてメニューにリストタグを使うようになったのかはよく分からない。昔のウェブサイトデザインを見ると、ナビゲーションが左横に縦に並んでいるものが多く見られる。単に文字を並べているだけなので、リストタグをそのままメニューとして使っていたのだろう。意外とそのころの名残が習慣として残っているだけなのかもしれない。

NHKばかり見ていると人はどうなるのか

テレビのリモコンが壊れそうだ。チャンネルを変えるのが面倒になったのでNHKに固定されている。すると、人はどのような信用体系を持つようになるのだろうか。
まず、日本には政党は自民党1つしかない。携帯電話の料金を下げようとしたり、給与を上げるように働きかけたりとなかなかよくやっているように見える。麻生さんは「企業は金を貯め込むのはよくない」的なことを言っていた。なかなかいいことを言うなあと思った。一度だけ岡田党首の顔を見たがなんだか顔色が悪そうだった。政府を批判しているようだが、何を言っていたのかは忘れた。共産党や維新の党(そういえば、今どうなっているのだ……)という党は存在しない。軽減税率の問題にも取り組んでくれているようだ。税金が安くなる(いや、上がるから高くなるのか?)はいいことだ。
安保反対のデモはちゃんと見かけた。若い人が政治に関心を持つのはよいことだ。最近の若者は恋愛を面倒がっているようだ。どうしてこんなことになったのかは分からないが嘆かわしい限りだ。若者はもっとしっかりしなければ、と思う。沖縄戦の特集もやっていた。戦争はいけないことだ。
そもそも政治は大きな問題ではない。それより大きいのは認知症だ。繰り返してキャンペーンをやっている。個人の努力でなんとかしなければならない。いくつになっても動けるように日々の体操も重要だろう。寝たきりになったり、ボケたりすると社会に迷惑がかかる。
TPPは農業の問題だ。農家はかわいそうだが、仕方がないのかなあと思う。安い肉や野菜が食べられるようになればいいなあ。企業が政府を訴えたりするらしいのだが、そういう例はいまだにないということなので、あまり考えなくてもよいだろう。なんとなくよく分からなかったが裁判はアメリカでやるようだ。英語ができない企業は大変だろうなあと思う。食べ物の安全についても懸念があったようなのだが、政府はちゃんとしてくれているらしい。農家に直接補助をするということだが、あんまりばらまいても良くないんじゃないのと思った。バターの品薄は改善されないそうだ。結局、情報が少ないのでよく分からない。
外国人研修生が逃げ出したのだそうだ。家族同然の付き合いをしていたのに、逃げられた建築会社の社長はかわいそうだった。ヨーロッパでは移民の問題があり、何かと大変そうだ。まあ、遠く離れているので、日本では大丈夫だろうが。アメリカは間違った情報を基にリモコンで人殺しをしているらしい。情報が間違っているので、当然間違った人を殺す。ひどい話だ。
繰り返し、傾いたマンションの問題をやっている。住んでいた人たちは運が悪かったのかもしれないが、儲けを優先する企業はもっといけない。こうした企業は国が厳しく取り締まるべきだろう。
ざっと、こんな感じ。特に何かを隠蔽しているといういわけではないのだが、政府の広報をそのまま流していて「それをどう効果的に伝えようか」というアプローチのために、批判的な態度は取りにくくなる。現在の政府の態度は「困った事は自分たちで解決しろ」「何かあったら、自分から申請してこい」という態度なので、情報構成もそうした内容になっている。
「弱者」を扱う分量が多いのはよいことのように思えるが、問題も多い。多分、問題だけでなく成功事例を扱うようにという規定か暗黙の了解があるのだと思う。成功事例はとても希なものかもしれないのだが、「困っている人は努力が足りないか、運が悪かったのではないか」という印象が残るのだ。実際に、その場になって解決策が見つけられない、解決策にアクセスできないということになるケースも多いのではないかと思われる。
もめ事に対しては、両論を流して「はい、公平に扱いましたよ。あとは、自分で考えてね」という態度のために、結局は「断片的な情報」と「よく分からないからいいや」という感覚だけが残る。
外国人研修生制度の問題は、結局のところ非定住型格安労働力の確保のための制度が破綻したものなのだが、こうした背景は扱われない。しかも、当事者である「逃げ出す外国人」にも取材をしないので、結局日本人雇用者の言い分だけが放送されることになる。
この夏、安保法制に反対した人たちには信じがたいかもしれないが、野党のプレゼンスはほとんどないと言ってよい。プレゼンスがないので、選挙のときの選択肢に入る事もないのではないかと思われる。取り扱われない理由はよく分からないが「公共放送はプライベートなパーティーの意見をいちいち取り上げない」という考え方があるのではないかと思われる。
NHKが地域に開かれた最も公平な放送局であることは確かだ。しかし、受信料を取りはぐれる心配がないので、経済や社会が傾いてゆくことに対しての危機感を持ちにくいのだろう。困っていないのだから、社会や政府に対して批判的な態度を取るようにはならないだろう。だから、社会には問題が山積していたとしても、それはすべて他人事のように扱われる。見ている人も知らず知らずのうちに「困っている人たちは大変だなあ」という感想を持つことになるのではないかと思う。

バガン朝に見る、功徳の現世利益

NHKでミャンマーのバガン遺跡についての番組をやっていた。バガン朝は治世を安定させるために仏教を用いた。仏塔や寺院の建立には公共事業の役割があったそうだ。王は集めた税を仏塔建立のために資金に当てる。そうすることによって仕事が生まれ、格差が是正される。すると社会は豊かで平和になるので結果的に治世を安定させるのに役立つわけだ。
仏教では利他的な行為は功徳と考えられる。現世での利益はないかもしれないが、次の世ではより平安に近づけると考えられているのである。
現代の感覚から見ると、あるかどうか分からない来世のために功徳を積むことは合理的ではないと思うかもしれない。しかし、「与える」ことによって社会が安定し、自分も助けてもらえると信じることでより大きな安心が得られるのだ。
富を蓄積するのにはいろいろな理由がある。その中で最も大きいのが恐怖心だ。相手より大きくて強くなければ潰されてしまうという怖れがあると富が手放しにくくなる。富んでいるからといって、必ずしも心の平安が得られるとは限らないのだ。
今の日本にはこうした怖れが蔓延している。企業が投資をせずに内部に富を蓄積するのは「何かあったら大変だ」と考えているからだろう。こうした信念体系はバブル崩壊後に徐々に育まれ、リーマンショックを経験したあとさらに強固になった。銀行が投資を渋った時代もあり、自己資金を持っていないと誰も助けてくれないという気持ちもあるかもしれない。
企業は利益を確保するために、正規労働者の雇用をやめ、非正規やパート労働力に頼ることになった。このため、消費が冷え込む。また、法人税を取られては利益確保ができないから、政府に対して消費税に依存するように熱心に勧めている。
こうした信念は結果的に消費市場を冷え込ませる。売上げが上がらなくなり、給与を下げて利益を捻出せざるを得なくなる。こうしてさらに消費市場が冷え込む。将来の利益確保の見込みが得られなくなる為に、投資をして発展しようという気持ちにならない。投資は単に富を手放すことになってしまうからだ。その富は誰か他の人によって退蔵されるだろうし、転落した企業を助けてくれる人は誰もいないだろう。
富を貯め込む行為は「利己的だ」といえる。利己的であることは必ずしも悪い事ではないが、結果的に自分の首を絞めているというのもまた確かなことだ。消費市場を破壊するというのは、持続可能な田畠を捨てて焼き畑農業に戻るようなものだと言えるだろう。政府は企業の競争力を増す為に法人税を減税したいと言っているようだが、消費市場が破壊された国に進んで進出する企業などあるはずがない。世界にはいくつも「タックスヘイブン」と呼ばれる国や地域があり、安い法人税だけが目的ならそうした国に流れて行くだろう。こうして子供が育てられないほど余裕のなくなった国はやがて内部から崩壊するかもしれない。
そもそも、退蔵されている紙幣は富ではない。「信用」を書いた紙切れである。さらに、国債を売った金を当座預金に積み上げているが、こちらは紙切れですらない。単なる、データのやり取りだ。
日本の宗教が社会に対して何をしているのかと考えるとさらに暗い気持ちになる。宗教組織の中には「わがままな他人や外国が正当な日本人を苦しめている」と考えている人たちがいる。女性が家族にしばられていた時代を懐古し、人権は個人をわがままにするだけだと考えているようだ。こうした組織に支えられた政治家たちは、彼らが喜ぶような言動を繰り返し、さらにはそうした考え方を信じ込むようになる。こうした日本の宗教が持っている考え方は、いっけん利他的に見えるのだが、実際には他人の権利を制限し成功をやっかんでいるだけだ。ある意味では「利己的な社会」の気分を反映しているものと言えるだろう。
理想的に見える「利他的」な社会だが、持続はなかなか難しいようだ。NHKの番組では取り扱っていなかったが、バガン朝はその後、寺の勢力が強くなって衰退したそうである。その後内紛から元の侵入を招き、滅亡してしまった。またバガン朝には寺社に付属する奴隷も職人として働いていた。格差が少ないからといって平等な社会だとは言えなかったようだ。
番組だけを見ると「格差がなく理想的」に見える社会だが、その持続は必ずしも容易ではないということも分かる。

避難経路マップを作る

防災をネタにGoogleMapのAPIを勉強している。今回は避難経路マップを作る。HTMLとJavaScriptのプログラミングが必要だが、Googleのサンプルをほぼそのまま使うので、コードを書く必要はほとんどない。
 
まず、近所の避難場所の情報を集めてくる。
住所があれば良いのだが、小学校名や施設の名前でも検索ができる。
次にGoogleMapAPIのページからサンプルを取ってくる。持っていない人はGoogleAPIのキーも手に入れる必要がある。
このページの最初のサンプルはプルダウンメニューから出発点と目的地を選ぶようになっている。このプルダウンメニューのデータを書き換える。valueに入っている値を避難場所の名前(例えば「○○小学校」)などに変更するだけでよい。このままでは車で移動するルートを検索してしまうので、travelMode: google.maps.TravelMode.DRIVINGtravelMode: google.maps.TravelMode.WALKINGに書き換える。
本来であればAとBの位置を割り出し、ルートを検索し、受け取ったデータを地図上に解釈するという手続きが必要なのだが、それはすべてAPIがやってくれる。ズーミングも自動で行われる。つまり、何のプログラミングも必要ないのである。
directionsDisplay.setPanel(document.getElementById(“directionsPanel”));という一文を加え、displayエリアのdiv(idをdirectionsPanelとする)を追加すると経路図も表示してくれる。
出発点の住所を入力できるようにしたければ、プルダウンメニューをテキストボックスに書き換えてやればよいだろう。
このプログラムでは最短距離が自動的に検索される。ユーザーが自分で経路を考えたい場合にはdirectionsDisplay = new google.maps.DirectionsRenderer();directionsDisplay = new google.maps.DirectionsRenderer({draggable:true});と書き換える。すると、経路が動かせるようになる。経路を動かすと自動的に所要時間が再計算される。これもAPIでやってくれるので、自分でプログラミングする必要はない。
map持ち運び可能なタブレット端末がある場合には現地のロケーションを使用することも可能。現地ロケーションを探す機能をジオ・ロケーションと呼ぶらしく、情報取得のサンプルはここから入手できる。ここで取得した値を単にstartに代入すればよいだけらしい。つまり文字列が住所なのか施設名なのかそれとも座標なのかはGoogleで勝手に判断してくれるようだ。
今回は避難経路地図を例題にして勉強したのだが、もちろんこの地図は会社案内の道順案内にも応用が聞く。トラベルモードにトランジット(TRANSIT)という選択肢があり、乗り換え案内にも対応しているらしいのだが、アメリカ国内だけの対応らしい。試しに経路検索したところ、ロスアンゼルスからサンフランシスコまでバスで行けという指示になった。その内に日本でも導入されるかもしれない。