アベノミクスはどうなったのか

アベノミクス、それはノーベル賞受賞の経済学者クルーグマンが推奨する最新の理論だった。
金融緩和をしてお金が借りやすくなれば、企業の投資や住宅建設が増える。経済規模が拡大すれば売上げが上がる。すると、給与が上がり、税収が伸びる。この成長の指標になるのが物価だ。金利差から円の価値が減り、円安が起きるとされた。円安は「輸出で稼いでいる」日本には有利だと考えられた。
確かに、金融緩和の結果として円安が起きて輸出企業の業績は上がったし、株価も上昇した。しかし、設備投資は増えず、輸出企業は日本には戻ってこなかった。IMFは日本は輸出増でGDPが伸びない唯一の例外だと分析した。円安とGDPの間に相関はなく、従って経済成長にも寄与しなかった。円安で輸入品の価格は上がるはずだったが、エネルギー価格の下落で再び物価の下落し「アベノミクスは振り出しに戻った」と言われた。

給与と雇用については二通りの見方がある。浜田宏一内閣参与は「なぜアベノミクスで庶民の給料は上がらなかったのか?」で、アベノミクスは失業者を雇用に吸収しはじめており、正社員の給与は上がるのはこれからだと説明している。一方で、労働者は生産性が低く給与が上がらないセクターに貼付けられているだけだという観測もある。正規雇用は増えておらず、増えているのは非正規労働者ばかりである。また、医療・福祉系は人材を吸収しているかもしれないが、一般的に給与が低いので、定着率が悪く、将来家庭を持てる程の経済的な余裕は生まれにくいと考えられている。
浜田氏に欠けている視点は「企業の自信」だと考えられる。もし企業が自信を持っていれば、生産拠点を日本国内に戻し、設備投資を増やしているはずだ。しかし、実際に増えているのは公共事業と消費税増税前のかけこみ需要によるものだけだった。
アベノミクスの元ネタとされるクルーグマンは9月に都内で講演し「本当に本当に心配」と述べた。改善の速度が遅すぎるのだという。クルーグマンは「すべての人がデフレから脱却したとの確信に達する必要がある」と言っているが、高齢者にはこれから収入が伸びる見込みはなく、30歳代までの「若年層」はそもそも日本が成長していた時代を知らないので脱却のしようがない。
確かに、クルーグマンの処方箋は短期的なデフレの脱却には効果があると考えられている。実際にヨーロッパはデフレから脱却する事ができた。しかし、日本ではそのような効果は観測されておらず、なぜ日本だけが例外なのかという点について明確に考察した人はいない。
経団連だけはアベノミクスを評価している。安倍政権は法人税を下げ、派遣労働者を使いやすくしてくれているからだと思われる。また、経団連は「外国人労働者を増やして欲しい」と考えているようだ。格安の労働者が使えれば、短期的には企業収益は上がるかもしれない。今、企業には納税や給与を通じて社会に貢献しようという気持ちはないらしい。発想としては経済植民地に近い。
現在の物価下落はエネルギー価格の低下によるものだ。円安によって輸入品の価格は上昇している。近い将来、物価は上がったが、全て海外への支払いに消えたということが起こるかもしれない。仕事は戻らず、給与も上がらない。企業は法人税を支払わず、ますます消費税などに頼るようになるといった具合だ。
このように失敗したと考えられるアベノミクスだが、安倍内閣には何がうまくいっていないかを分析するつもりはないらしい。一部にはさらなる財政出動を求める声もあるが、麻薬が切れたら泣き叫ぶ中毒者のようにも聞こえる。
そもそも、アベノミクス事態が大いなる偽薬の役割を果たしている。偽薬を飲んでいる限り、病気が悪くなったらどうなるかを考えなくて済む。安倍政権はついに偽薬を飲む事すら面倒になり、うまくいったら何もしなくてもいいはずだと言い出した。GDP600兆円を目指すつもりだというが、具体策は何もない。多分、官僚が予算を獲得する為に苦し紛れに書いたメニューがずらずらとテーブルに並ぶのだろう。
さらに悪い事に、野党にも対案がないようだ。出来の悪い歌舞伎役者のように見栄を切ってみせるが、次の台詞が出てこない。舞台にさえ上がれば、官僚や観客が台詞をつけてくれると期待しているらしいが、台詞もないのに舞台に上がるのはやめたほうがいい。政権というのもある種の麻薬なのかもしれない。一度手を染めると、再び麻薬を手にすることしか考えられなくなるのだ。

嘘の芸術 – なぜ集団的自衛権の議論は分かりにくかったのか

アメリカのジャパンハンドラー達は自分たちの勢力を拡大するために日本にレポートを書いた。その中で「日本が一流国になって尊敬されたければ集団的自衛権を認めてアメリカ軍に協力すべきだ」と明確なビジョンを示した。これを「アメリカに尊敬されたくて仕方がない」安倍晋三や麻生太郎などが支持した。レポートには、国民を説得する為には中国の脅威を煽り、日本人の民族意識を鼓舞しろと書いてあったので、その通りに実行したが右翼系雑誌以外では無視されていた。レポートには例としてホルムズ海峡の話も書いてあったので、それも引用することにした。
オバマ米国政府は軍事予算を削減するために、日本に極東防衛に積極的な役割を担って欲しいと考えていた。しかし、当初オバマ大統領は中国と仲良くしたいと考えており、ナショナリストである安倍晋三を遠ざけていた。しかし、中国は南シナ海に進出しアメリカを刺激した。また、韓国は中国に接近し軍事パレードにも参加するなどアメリカを警戒させる動きに出た。
安倍晋三は日米安保(日本の防衛のための取り組み)の下にあるガイドラインを改訂して地域限定を外した。このため、日本は世界中でアメリカと協調行動が取れるようになった。ただでさえはっきりしない憲法、日米安保、ガイドラインの関係はますます分かりにくくなった。
安倍晋三と中谷元はアメリカの議会に「北朝鮮がアメリカを攻撃したら、日本が防衛してあげます」と宣言して拍手喝采を浴びた。これはフルの集団的自衛権行使宣言だった。オーストラリアとも準軍事同盟的な関係を結んだ。
従来、日本政府は軍事費にお金をかけずに経済成長重視で行きたい(吉田ドクトリン)と考えていた。ところが朝鮮戦争で日本の治安維持(日本人が暴動を起こした時に日本人を取り締まる)が手薄になったので、マッカーサーの要望で自衛隊を作る事にした。自衛隊は警察力の拡張だったが、そうは言えないので「日本を守る」と言い換えた。今度は憲法との間に矛盾が生じたが「解釈によっては自衛力は持てるし、あればそもそも軍隊ではない」と主張することにした。一方で、アメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争などへの参加を求めたので「憲法(そもそもアメリカが与えた)では集団的自衛権は認められない」と言って断る事にした。しかし、憲法解釈上は無理があった(憲法には軍隊は持ってはいけないし、戦争はしてはならないとしか書いていない)。そこで、最高裁判所はこの矛盾に触れないことにした。
アメリカの期待に応えるためにはフルの集団的自衛権を認める必要があったが、安倍晋三には国民を説得して憲法改正ができないことを悟った(あるいは自信がなかった)。そのために「これは日本を守る為なのだ」と言い換えることにした。こうして限定的集団的自衛権という概念がうまれた。ここからアメリカからのリクエストと国内向けの説明(ホルムズ海峡の機雷除去と朝鮮半島からの邦人帰還)の間にずれが生じた。ホルムズはどうしても枠に収まりきれないので例外ということになった。
たくさんの法律を短い時間に書き直したためにアラが目立つ法文ができ上がった。そもそもアメリカが何をリクエストするかは分からないので「なんでも内閣の裁量で決める」ことにした。そもそもアメリカに対してポイント稼ぎをしたいのは外務省なので、官邸と外務省が法文を作った。防衛省には根回しをしなかったのではないかと思われる。後に自衛隊から共産党に情報が漏洩したりした。内部に反発があったのではないかと思われる。
船田元が全く別の審議会でよせば良いのに憲法学者に「今度の安保法制は違憲か」と聞いた。空気を読まない憲法学者は「当然違憲だ」と言ったので、大騒ぎになった。政府はこれまで集団的自衛権は違憲だと言っていたので、これに追随していた人も多かったものと思われる。学者の中には自衛隊は違憲だと思っている人もいた。これに安倍晋三と自民党の憲法改正案(と、その進め方)に反対する憲法改正派の大御所も合流し「立憲主義の破壊だ」とか「民主主義の危機だ」と大騒ぎになった。
民主党は内部に「集団的自衛権行使容認派」を抱えていたが、野党としての存在感を示す為に反対することにした。党として対案を出そうとしたが、どういうわけか反対に合い、領域軽微法を除いて国会への提出は見送られた。Twitter上では「実は賛成派」と「断固反対派」がそれぞれの主張を呟いていた。社会主義国が破綻しており、憲法第九条(と、原発再稼働反対)しか拠り所がなくなっていた社民党と共産党も強行に反対した。どちらも数では勝てなかったので「戦争法案」と言い換えて「徴兵制もあるかもしれない」と感情に訴えることにした。
安倍晋三は集団的自衛権(アメリカなどの同盟国を守る)と個別自衛権(日本を守る)をわざと混同して説明していた。これを真に受けた橋下徹は「集団的自衛権と個別的自衛権には重なるところがある」とベン図を持ち出して主張したので、話がさらにややこしくなった。
安倍晋三はテレビに出て母屋と離れの火事というよく分からない事例を挙げて「丁寧に説明」した。後に生肉だと騒がれることになった。インターネットテレビでは麻生君が殴られたらとか、菅君の家に泥棒が入ったらなどと説明したので、国民を不安に陥れた。国会ではホルムズ海峡の例と朝鮮半島からの帰還者保護の事例は取り下げられた。
自衛隊は軍隊のようで軍隊でないので、ジュネーブ条約で守られず、さらに偶発的な殺人に関する罰則の取り決めがないことが分かった。しかし、安倍晋三はこの危険性を無視した。中谷元は内閣と外務省が作った法律を防衛省のレクを受けて答弁したため、答弁が曖昧になり、さらに国民の不安を煽った。建前上、自衛隊は危険な場所に行かないことになっているが、アメリカには「日本を防衛する米軍の盾になる」というような約束をしているらしく、危険なときに撤退するかしないのか曖昧なまま議論が進んだ。確かに、日本防衛時に自衛隊が先に逃げ出しては話にならない。
ブッシュ大統領はありもしない大量破壊兵器を理由にイラクを攻撃した。戦争が終らないと日本が参加できないので、戦争が終ったことにして自衛隊の出動を要請した。小泉純一郎は国連の復興支援だという名目で自衛隊を送り、米兵を輸送したが「内容を知らなかった」ことにした。イラクの状況は泥沼化しており、民間人と反乱兵の区別がつかない状態だったので、米軍は結果的に民間人への攻撃という戦争犯罪を犯した。つまり、自衛隊はすでに戦争犯罪に加担して「見て見ぬふり」をしたことになる。山本太郎に質された安倍晋三は「知らない、分からない」と答弁した。片山さつきはテレビで「日本政府は正しかった」と言い張った。
こうした不安の中で、女性誌が「戦争があるかもしれない」「将来子供が兵隊に取られるかもしれない」という特集が組み、主婦の不安を煽った。女性がデモに参加することになった。デフレが続き学資を得られなくなっていた学生は「経済的徴兵制」に反応した。学費を肩代わりしてもらう代わりに兵隊に行くという制度だ。将来に不安を持っていた学生がデモに参加することになった。さらに、イラク戦争は間違っていたという人たちが加わりデモは拡大した。
安倍晋三は「中国の脅威があるから集団的自衛権を行使するのだ」と説明していた。それを真に受けた支持者はデモ参加者や法案反対派を「売国奴」だと攻撃し始めた。アメリカが日本に加勢して中国を成敗してくれると勘違いしている人もいたのではないかと思う。小川和久は「憲法も日米安保も集団的自衛権も全く矛盾していない。すべて整合している」と主張し「これですっきり分かった」と膝を打つ人が増えた。
イラク戦争の例を見ても情報開示されない国会の審議は意味がないことが分かっているのだが、野党の存在感を示しつつ自民党に恭順の意を示したい野党各党は「必ず国会審議をします」という付帯決議を入れさせて「妥協を勝ち取ったのだ」と言い張った。
佐藤正久は国会で「集団的自衛権」を行使し、防衛大学校仕込みの防衛術で鴻池祥肇を守り、小西ひろゆきをグーでパンチした。騒ぎの中で委員会採決されたが、議事録には「採取不能」ということで記録が残せなかった。自民党も野党も女性を利用し「セクハラだ」とか「女性暴力だ」などとお互いを罵り合った。国会は国民に「女性活躍社会」の範を示した。山本太郎は焼香パフォーマンスを見せて、山崎正昭に「次は容赦しない。議員バッジ を外すことになるかもしれない」と言われ、小沢一郎にも怒られた。
安保法案が成立し、アメリカ人は「これで日本がアメリカを防衛してくれる」と歓迎した。ヨーロッパのマスコミの中には「日本は戦争ができる国になった」と報道するところもあったらしい。
民主党、共産党、社民党は「民意は国会の外にある」と言い出した。選挙に行かなかったであろう人たちを含むデモ参加者の中には「選挙では政策は選べないので選挙は意味がない」という主張をする人まであらわれた。マニフェストは完全に忘れ去られた。一方、自民党の支持者はマニフェストには(小さな字で)書いてあったと主張した。選挙では安保法案は争点ではなかったと主張するSEALDsの奥田愛基に対して田崎史郎は「集団的自衛権は争点だった」と怒鳴り、伊藤利尋は愛想笑いを浮かべた。
唯一本気で反対していた共産党は民主党に連立政権の樹立を迫ったが、もともと本気度が薄い民主党は動揺することになった。民主党は「共産党が勝手に候補者を引き上げて、民主党に票を入れるのは自由だ」と上から目線で応じた。デモで法案に反対してい人たちは民主党の態度に落胆した。
集団的自衛権を巡るやり取りを見ていると、日本に政党政治が根付き、民主主義が根付いているとは言いがたいように思える。しかし、日本は依然として「完全な民主主義」が実現している数少ない国の一つであり、世界にはこれよりも悪い国がいくつもあるらしい。少なくとも、太陽は東から昇り、西に沈んでおり、いつもと変わりなく見える。

日本が共産主義国になる日

安保法案の成立を受けて、共産党が民主党などの野党に向けて「選挙協力」を訴えた。国民連合政府を作るのだと言う。これが実現し、国民の支持を得る事ができれば、日本ではじめて共産党が政権党になることになる。共産党は今でも共産主義の実現を目指しているので、政権が根付けば日本は共産主義の国になるかもしれない。戦後、資本主義の先進国が共産化した事例ははない。
これを受けてTwitter上には様々な声が上がった。安保法案に反対していた人たちの中には期待する声が多い一方で、ジャーナリストの江川紹子さんは「本気でやるなら水面下で交渉していただろう」と指摘している。
安保法案は早くも民主党にとっての鬼門になりつつある。「戦争は良い事ですか、悪い事ですか」と聞かれれば、大抵の国民が「悪い事だ」と言うに決まっている。ところが「地域を活性化します」と約束する政党と「戦争法案を廃止します」という約束する政党が並んだら、有権者はどのような反応を示すだろうか。「有権者の利益を放ったらかしにして、安保法案か」と思うに決まっている。経済でよい政策を出せないから、安保法案を言い続けているのだろうと考える人も多いかもしれない。
加えて自民党寄りの思想信条を持つ議員は動揺し、一部は離反するだろう。Twitter上では既に動揺している議員もいる。
一方で、共産党との共闘を断れば「民主党は、やはり自分たちの支持拡大の為に安保法案を利用していただけだ」という印象を与えるだろう。反対派は「運動に本気を示した」共産党を支持する事になる。選挙区では勝てないだろうが、比例区では躍進できる。
さて、この状況は結果的に自民党を利する事になる。自民党は利益誘導型の選挙活動を続けるだろう。特に地方の有権者は「自民党が地域に利益をもたらしてくれる」と感謝すらするかもしれない。この原資の半分は国債由来で原資の多くは国民の預貯金だ。つまり、国民は「自分の預貯金をばらまいてくれてありがとう」と言っているのである。私有財産を国家が召し上げて(あるいは一時的に借りて)国有化しているのと同じことで、社会主義的な考え方なのだ。
安倍首相の祖父である岸信介は日本を社会主義化した「革新官僚」だった。戦争で資源が逼迫したために、国家総動員態勢を構築する必要があったのだ。革新官僚はソ連の計画経済をモデルとしたので共産主義的だと非難された。その体制は戦後も引き継がれ、現在でも劣化したまま残っている。安倍首相は「給与を上げるように」と企業に指示した。自由主義経済の国ではあり得ないことだが、日本ではこれを批判する人はいない。
また、電波行政でも社会主義的な体制が残っている。携帯電話やテレビなどの電波は国家からの割当制になっているそうだ。外資が参入するのを嫌がっているのだと指摘する人もいる。しかし、競合がなくなり携帯電話料金が高止まりしたので、首相自ら「携帯電話料金を下げるように」と指示し、通信各社の株価は下落した。私企業の経営を妨害するのは、資本主義国ではタブーだが、日本ではこれを非難する人は誰もいなかった。
日本が共産党政権を支持して共産主義国が成立する見込みはほとんどないと言ってよい。利益誘導型の政治に慣れた有権者は、民主党が安保法案にこだわればこだわるほど離れて行くだろう。だから、政権を取るつもりのある野党は早くこの問題から離れるべきだ。一方で、利益誘導型の政治は持続可能性が低いことを有権者に分からせないと、私有財産は国有化されて返って来ないかもしれない。
自由主義を標榜した共産主義国家が憲法改正なしに成立する可能性もある。共産主義を標榜しつつ格差を拡大させて世界第二位の資本主義国になった中国と並ぶという不思議な光景が東アジアに並ぶかもしれない。

戦争に参加するということについてもう一度だけ考えてみて欲しい

何気なくPEOPLEという雑誌を開く。載っているのは、主に芸能人のゴシップ記事だ。そんな雑誌の終わりの方に決まって手や足のない人の写真がある。顔にやけどのある人を見かける事もある。イラン戦争の復員兵たちだ。日本ではなかなか想像できないことだが、アメリカでは普通の光景らしい。
春頃から始まった集団的自衛権を巡る対立を見るたびに、このことが頭に浮かぶ。日本人はこの光景に耐えられるのだろうか、政府はどう「説明する」のだろうかと思うのだ。
米軍の死者数は4,000名以上だとされるが、日本ではイラク戦争の死傷者は単なる数字として扱われる。この他に、けが人が30,000万人以上いるのだが、この人たちが消えてなくなることはない。そのまま社会が受け入れなければならない。だから、アメリカではこれは単なる数字の問題ではないのだ。
復員兵の中には自殺をする人もいれば、精神的に異常を来して殺人を犯す人もいる。こうした「事件」が新聞に載ることもあるのだが、全てがマスコミで扱われることはない。アフガンとイランの復員兵は1日に22人も自殺しているという話がある。もはや日常なのだ。
今回の法案については、賛成とか反対とかいろいろな意見があるだろう。こんな悲惨な経験をするくらいなら「戦争法案」を絶対に認めたくないという人もいるだろう。だが、アメリカ人の立場に立つと、アメリカ人はそれだけ多くの犠牲を引き受けているのだから、便益を受けている国が知らないふりをするべきではないという意見を持つ人もいるかもしれない。
永田町の周辺では、今日一日混乱が続くだろう。目の前にいる対立に目を奪われて、自分たちが何をしようとしているのか、どこに行こうとしているのかについて考える事は難しいかもしれない。
それでも、と思う。せめて一分間だけでも冷静になって、普通の新聞や雑誌に復員傷兵の記事が載るのを想像してみて欲しい。その記事をみたあなたは納得して彼ら(彼女かもしれない)を受け入れることができるのかを考えてみるべきだ。
一分間目をつぶった後に、もう一度テレビを通じて行われていることを見て欲しい。デモの現場にいるなら目の前で行われていることを見てもらいたい。きっと、その光景を今までとは少し違って見えるはずだ。
できることならば、その気持ちを周囲にいる人と共有してもらいたい。本当の話はそれから始まるのではないかと思う。

佐野研二郎氏はなぜ追い込まれたのか – デザイナー叩きについて考える

デザイナーの佐野研二郎氏がデザイン撤回に追いこまれてからしばらく経った。パクリの常習犯だから追いつめられたのは当然だという意見もあれば、ネットのいじめは執拗過ぎたという批判もある。どうしてこのようなことが起きたのだろうか。人間には「人をいじめたくなる遺伝子」のようなものが備わっているのだろうか。
手始めに「いじめが快感を生み出すのか」について調べてみた。一般に人は他人の苦痛を自分の苦痛として感じる能力がある、とされる。「いじめ常習犯の中には、他人の苦痛に快感を感じる人がいる」という研究もあるにはあるのだが、ごく一部に限られているようだ。サイコパスという気質があり、他人と共感関係を結び回路が壊れている人もいるようだが、これも一部に限られる。どうやら、いじめが快感を生み出すという仮説は証明できそうにない。
脳に快感をもたらす活動は多岐に渡る。その中でも特に複雑なのが学習に関する活動だ。人間は、不安定な状況で新しい技術を獲得し、状況をコントロールすることに快感を感じる。また、情報の一部が隠されるとそれを埋めて知識を完成させたくなる。これを形式化したのがゲームである。
研究によると、ゲームをしている人の脳では複雑な活動が起きている。側坐核や扁桃体といった快感に結びつく領域とともに、作戦を考える前頭前皮質のような領域が活発に活動するのだという。快感に結びつく回路を報酬系というのだが、報酬系は欲求が満たされた時だけではなく、報酬を得ることができると期待しただけで活性化される。
思い返してみると、騒動の最初のきっかけは「たまたま似ている」デザインがテレビで公表されたことだった。佐野氏がこれを「パクリではない」と主張したために、ネットでは佐野氏が「パクっている」証拠を掴もうとやっきになった。過去の作品から似たデザインがいくつも見つかると「似たデザインを探し、嘘を暴く」というゲームが生まれた。似たデザインを探して公表すると、ネット上では反響があり社会的報酬が得られた。ゲームが拡大するとテレビでも取り上げられる。報酬が増え、さらに参加者が増えた。これを助長したのは組織委員会側だった。状況が過熱したところで、デザインが修正される経緯を発表したのだが、これはゲームに参加する人たちに新しいパズルを提供することになった。
つまり、これは巨大なソーシャルゲームであり、社会協力を通じた学習活動が遊戯化されたものだったのだと言えるだろう。そして、最終的にデザインが撤回されることでコンプリートした。「ラスボス攻略」だ。
ゲームに夢中になっている人は、相手がどのように苦しむのかを考慮していないという点は忘れてはならない。シューティングゲームで人を殺しても罪悪感を案じないのと同じ事だ。実際のいじめを防ぐ為には「できるだけ報酬を与えず」「行われている行為はゲームではないと認識させる」ことが重要だろう。
いずれにせよ、社会協力を通じた学習活動は脳の働きを活発化させる働きがあるようだ。ネットの活用でかつてのようなコストをかけずに、こうした活動ができるようになった。これを社会改革やイノベーションのために活かす事ができれば、世の中を良くする為に役立てることができるだろう。
もともと日本人は社会協力を通じた学習活動に熱心に取り組む国民だ。かつては製造業の現場では「改善活動」という品質管理の取り組みが行われていた。チームで協力して状況を改善すると金銭的報酬の他に社会的な報酬が得られたのだ。これはKAIZENという英語になり、各国に輸出されたほどだった。
ネットを使った社会協力が現状破壊にしか向かわないのは残念なことだ。裏を返せば、企業の生産活動や社会改善では報酬が得られにくくなっているという現状があるのだろう。

選挙とデモのどちらが民主的なのか

安保法制に関する議論が過熱するに従って各地で反対デモの動きが広がっている。デモ推進派はデモこそが民主主義だと言っている。一方で、法案賛成派は「選挙に行かないお前たちが悪いんだろう」と主張する。経済学者の池田信夫は選挙を無視してデモが民意だという朝日新聞はナチスを思わせるとまで論評した。さて、どちらの言い分が正しいのだろうか。
デモに参加している人の方が「守旧的」な考え方を持っている、というのは確かだ。
民主主義にはいろいろな物事の決め方がある。多数決とコンセンサス合意型の意思決定だ。このうち根回しを重要視するコンセンサス型の方が日本的だ。根回しを怠ると「俺は聞いていない」と文句をいう人が出てくる。今回のデモは「戦争するなんて俺は聞いてないよ」というものだから「根回しの失敗」だと言える。
これを変えようとしているのが、安倍晋三や橋下徹といった「西洋型」のリーダーだ。「決める政治」を行おうとしている。一度従ってみて、ダメなら選挙で交代させればいいというのが多数決型の政治だ。実は「決める政治」への指向は随分前から高まっていた。それがマニフェストによる政権選択選挙だった。政党が予めマニフェストを決めて、国民に選んでもらおうという仕組みである。
ところがマニフェスト型政治は3年で行き詰った。国民が変わらなかったからだ。
日本人はコンセンサス型なので、マニフェストには既に合意の形成された(つまり当たり障りのない都合の良い)事しか書けなかった。また、党内の幅のある(言い換えればバラバラな)意見の集約が十分にできず議論を呼ぶような政策は書けなかったのだろう。有権者にも原因はある。重要なことは前もって相談してもらえるはずだという思い込みがあり、事前に「契約書」であるマニフェストを読まなかった。コンセンサスが重視されるはずだという思い込みはかなり根強いのだ。
次に、今回デモをしなければならない「やむにやまれない事情」があったかを考えてみたい。
通常、デモが用いられるのは、議会に十分にアクセスができない時だ。例えばアメリカの公民権運動ではデモが多用された。黒人にも選挙権は与えられていたのだが、難しいテストを受けさせられて、理由もなく登録ができないことが多かったのだそうだ。意見表明するためにはデモをするしかなかったのだ。最近ではカタルーニャ州の独立を求めるデモが行われ、140万にが参加した。カタルーニャ人はスペインでは多数派になれないので、自主決定権の拡大を訴えてデモをしている。
つまり、大規模なデモは「民主主義が失敗して、代表者を議会に送れない」時に起こるのだ。イギリスの機関が調査した民主主義指数では、日本は「完全な民主主義国」に分類される。完全な民主主義国は2014年の調査では24か国しかない。だから、民主主義が失敗しているとは言い切れない。
しかし、現実的に日本でもデモが起きている。一体何が失敗しているというのだろうか。
小選挙区の元では限られた選択肢の中から1つしか政策を選ぶ事はできない。加えて、どの政党も当たり障りのないことしか言わない。さらに、いざ選挙で選ばれても党首の意思で政策の幅が制限されてしまうのだが、国民は党首を選べない。つまり、現在の選挙制度は国民の意思をほぼ反映しない制度になっている。
つまり、もしデモをするなら「選挙制度改革」こそが重要なターゲットだと言えるだろう。できるだけ多様な意見を国会に送り込むことこそが民主主義を成功させる秘訣だといえる。一方でこれは「コンセンサス型」政治の復活を意味するだろう。
これまでの議論で分かるとおり、コンセンサス型の政治は「決められない」「現状維持の」政治に陥る危険がある。だから、日本では長い間「強力なリーダーが状況を打開してくれればいいのに」という待望論があった。橋下徹のような「決められる政治家」が期待されるのはこのためだ。もし、決められる政治を指向するのであれば、アメリカで行われているように、1年くらいかけて政治家のマニフェストをじっくりと精査するべきだ。ただし、この場合は後で「聞いていなかった」というのはナシだろう。
いずれにせよ、次の「聞いていなかった」はかなり致命的なことになるはずだ。自民党の新しい憲法草案は、内閣の一存で集会の自由を制限ができるようになる規定がある。内閣が「公の秩序を乱すから集会は禁止だ」と言うだけで良く、かっこうよくラップなんかできなくなってしまうだろう。争乱に関する規定もあり、内閣に強力な権限が付与されるようにもなっている。
「気に入らないならデモをすればいい」は通用しないのだ。
一方で、中国の脅威から身を守るために憲法第九条を変えたいと思っている人たちにとっても都合の悪い内容だといえる。自民党の憲法修正案は革新的な(あるいは過激な)内容なので、憲法改正への国民のコンセンサスは容易には得られないだろう。

合意形成型意思決定の方法とメリット

近年、様々場所で「民主主義の危機」が叫ばれるようになった。その議論の根本を探って行くと、合意形成に関する知識が明文化されていないことに原因があるのではないかと思う。言い換えれば、日本人がかつて持っていた暗黙知に基づく合意形成の秘密が失われたにも関わらず、それに代わる新しい合意形成の方法が見つかっていないことが問題になっているのだと思う。つまり、先に進むことも戻ることもできなくなっているのだ。






合意形成型の意思決定には多くのメリットがある。そのメリットとデメリットについて知ると、民主主義がどうあるべきかということが議論できるようになる。

合意形成のメリット

合意形成型の意思決定は面倒なプロセスだがメリットも多い。まず、多様な知恵が集められるのでより良い判断が下せるようになる。また、グループ内の人間関係も円滑になるだろう。さらに、実行段階では関係者の協力が得やすくなるというのも優れた点だ。

アジェンダの明確化

合意形成を目指すためには、まず「何を決めるべきか」を明確にする必要がある。次に利害関係のある関係者(ステークスホルダ)をできるだけ多く集める。さらに、関係者にできるだけ多くの正確な情報を渡して考えてもらう必要がある。いつまでに何を決めるべきかというゴールを設定するのも大切だ。さらに、議論や意思決定のプロセスに信頼がなければせっかくの合意も無駄になってしまうかもしれない。

意見と対立点の可視化

人の意見は多様なので、できるだけ多くの人から意見を聞くのが大切だ。賛成か反対かを尋ねるのではなく、その裏にある理由(個人的な好み、心配事、利害や関心)などを聞き出すべきだ。問題点はできるだけ明瞭に言語化する必要があるが、全ての人が本心を明確に言語化できるわけではない。聞き手(ファシリテータ)の手腕が問われる。また、透明性を高めるためにも、意見はみんなが見ている前で表明すべきだ。裏で一部のグループがこそこそと話しあうのはルール違反だろう。

次に、対立点を明確に提示しよう。最初にA案とB案があるとして、その案が全ての人を満足させるとは限らない。歩み寄ったり、新しい案(C案)を作る必要があるかもしれない。議論をしているうちに、最初とは違った考えを持つ人もいるだろう。

感情的な議論を避けるには

意見の相違は人と人との対立になることがあるがこれは避けるべきだ。個人攻撃も避けるべきだ。また、相手の立場になって考えることも重要だ。切迫した議論が続くと興奮して感情的な議論に発展することがあるので、小休止を入れる必要もあるだろう。中立な調停者(メディエータ)を立てると対立が激化するのを防ぐことができる。

合意形成は全員一致とは違う

合意形成は「全員が完全に納得する」のとは違う。賛成とまではいかなくても全ての参加者が受け入れ可能な案を作る事が需要だ。また全てのメンバーが採決に参加すべきだというわけでもない。情報提供だけで十分な人もいれば、議論にコミットするべき人もいる。また、できるだけ多くの人が満足する案を作らなければならない人もいるだろう。重要なのはできるだけ多くのメンバーが平等に意見を述べられるようにすることだ。

合意形成型意思決定のデメリット

合意形成型の民主主義には少数派の意見を聞き、よりよい解決策を模索できるというメリットがある。しかし、合意形成型意思決定は万能というわけではない。まず、合意形成型の意思決定は現状維持に陥りやすい。次にいつまでも合意が得られないと反対派メンバーへの敵意が造成され、グループが仲間割れする危険性もある。さらに安易な解決策に流れるグループシンキング(集団思考)も陥りやすいわなの一つだ。

つまり、民主主義は必ずしも合意形成型であるべきとは言えない。多数決で結論を出すタイプの民主主義もあれば、多数派のリーダーが意思決定を行うタイプの民主主義もある。ただし、多数決で物事を決めた場合、うまくいかなれけば、形勢が変わって合意形成がひっくり返ってしまうことも覚悟しなければならない。変革には向いているが失敗する可能性もあるのが多数決型の民主主義なのだ。

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戦前の二大政党制は、崩壊した生徒会に似ていた

民主党と維新の党の一部に「解党して出直し」という声がある。党内の複雑さを解決できない人たちが、組み合わせを変えたらなぜ国民の支持を得られると思うのか、全く理解できない。目的は単に「二大政党制の一翼を担う」ということだ。つまり政権を取ることが自己目的化しているのだ。しかも、再編に自信がないらしく、一部の議員はTwitterで仄めかすような呟きを送り続けている。
過去にも大正時代から昭和の初期まで二大政党制が実現した時代があった。イギリスやアメリカの政治状況を模範とし「一つの内閣が失敗した対立する政党が政権を担えば良い」という仕組みだった。二大政党同士が次第に相手の足の引っ張り合あうことになり、国民の信頼を失った。代わりに国民の期待を集めたのが「実行力のある」軍部だった。
日本で政党政治が根付かなかった理由には諸説あるようだ。理由の一つとして挙げられるのは調停者の存在だ。主権者は天皇なのだが、実際は天皇の側近(元老や内大臣)が調停して首相を決めていた。議会には決定権がなく、首相は議員でなくてもよかった。
つまり、戦前の政党政治は生徒会に似ていた。生徒は自治をしているようだが、実際に権限を持っているのは先生だ。生徒会に二つの異なる意見を持った派閥が対立に陥っても、生徒は妥協する必要はない。最終的には先生が出てきて「仲良くしなさい」と言ってくれるからである。
戦前の政府が扱った問題は不況だったが、内閣は有効な対策を打つ事ができなかった。これを打開するために中国に進出するかどうかで揉めることになる。そこで軍人が「暴走」して既成事実を作り、不況が解決した。
総理大臣には大臣を解任する権限がなかった。そこで意見の違い(閣内不一致)が起きると、内閣が瓦解するという仕組みだった。形式上は天皇という強いリーダーがいたために、総理大臣が強い権限を持つことは許されなかった。「みんな仲良く」が原則だったのだ。
実際には天皇が強いリーダーシップを発揮して最終的な決断をすることはなかったし、総理大臣をアポイントしていた重臣たちが行政に対する責任を取る訳でもなかった。責任を問われるのは内閣だが、強い権限はなかった。
これは先生が学級内の対立に対して見て見ぬ振りをするのに似ている。生徒たちも自分たちで問題を解決すするつもりはなく(あるいは解決する能力がなく)問題はエスカレートするばかりだ。先生が介入しない理由は簡単だ。介入して問題解決に失敗すれば、先生の威厳に傷がつくからだ。そもそも、先生は自分で問題を解決するスタッフを抱えているわけではないので、主導権を持って動くことはできなかっただろう。
日本は誰も問題が解決できずに、戦争という画期的な打開策に飛びつき、最後には自滅した。
現在の状況は戦前に似ている。とはいっても、安倍首相が日本を戦争に導くというわけではない。日本には国防に関する主権がない。アメリカは中国との全面対立を望まないだろうし、世界第二位と第三位の経済大国を戦争させることもないだろう。
現在の主戦場は終わりの見えないデフレ状態、進む高齢化、増え続ける社会保障費などだ。経済はグローバル化しており一国の経済政策で解決することはできない。政党は問題を解決できないのだから、問題を先送りするか相手を非難して罵り合うだけになってしまう。
これを打開するために「アベノミクス」対策が打たれたのだが、これが決定的な打開策なのか、軍部の暴走に近いものなのかはまだ分からない。日銀が国債を買い受けてくれるという画期的なプランであり「いくらでも」借金ができるのだが、どこまでできるのかも、山がいつ崩れるのかも予測はできない。さらに豊富な年金資金で株価をつり上げているのだが、株式市場は乱高下を続けており、いくら損をしたのかも分からないのだ。
戦前の軍部はアメリカと敵対して勝てる見込みのない戦いに突入していった。議会と政党は内輪もめを繰り返し、ただ傍観しているだけだった。今度の「敵」はグローバル金融市場だ。野党はなんら解決策を打ち出さずに、身内の論理で「純化闘争」を行っている。
学校でいうところの先生である主権者はただそれを傍観しているだけなのである。

普通でない国の普通の若者が叫ぶ

SEALDsの代表者だという学生がテレビのニュース番組に出て、淡々と自分の意見を述べた。安倍首相は日本を「軍隊を持つ普通の国」にしたいと考えている。ところが、軍隊のない国で育った「普通」の学生の感覚から見るとそれはおかしなことなのだ。
集団的自衛権を巡る不毛な争いは意外な問題を顕在化したと思う。代表者は「我々は不偏不党だ」と言った。どんな党でも受け入れますよという意味らしいが、すなわち全ての党が「偏っている」という認識の裏返しだ。
これは、かつての自民党や公明党が「中道」を唱っていたのと似ている。今でも自民党支持者は(端から見れば右翼的でも)自分は中道だと考えているのではないかと思う。また、かつて多くの日本人は自分が中流に属すると考えていた。
どうやら、日本人は「偏り」を嫌うらしい。普通でいたいのだ。
これまでの「無党派層」というくくりへの認識を変えなければならない、と思った。無党派とは政治に興味がなく、自分のポジションと合う政党を見いだせない人という暗黙の認識がある。ところが実際の無党派は「自分たちがポジションを持つべきだ」とは考えていないのかもしれない。代わりに「普通で正統な」何かを求めているのだ。
SEALDsを応援する人たちの中には非正規労働者が含まれるだろう。しかし、彼らが党派を主張することは、普通ではなくむしろ下流だということを認めてしまうことになる。「弱者が訴えるのは痛々しい」という人もいる。だから、彼らは党派を形成しないだろう。
ポジションそのものが否定されているわけだから、二大政党制も存在し得ない。あるとすれば「正統な政党」が一つと、それを否認する政党だろう。それはアクセルとブレーキという「普通」の二つの側面だ。二つはある意味では一体なのだ。
この「普通」に関する認識は田崎史郎さんのいらだちによく表れていた。SEALDsの代表者が偏った意見を持っていれば、声を上げることはなかっただろう。むしろ「政治を良く知っている自分」が善導してやろうとすら考えたかもしれない。しかし、この「普通の学生」が整然と自分の意見を言うのを聞いて、ついに声を荒らげた。内心、かなり焦っていたのではないかと思う。なんとかしないと、自分が普通と乖離した「偏った」存在であることがバレてしまうからだ。テレビは彼の焦りを遠慮なしにさらけ出した。と、同時に普通の持つ呪縛のような根深さが浮き彫りになった。
SEALDsの代表者はまた「現在の野党には期待していない」旨の事の発言をしていた。一昔前の有権者はある種の落胆を持って「頼れる政党はないものか」と思っていた。ところが、もはやそうした期待すらなくなってしまったらしい。政党はすべからず偏っており、劣っているという認識なのだろう。
民主党と維新の党の一部は安保法案に対する不信が高まっているのに、自分たちへの支持が上がらない事にいらだちを見せている。そこで法案成立が目の前だというのに、自分たちの勢力争いのための議論を始めてしまった。これでは法案を反対していたのが自分たちのプレゼンス誇示のためであることがあまりにもあからさまだ。「うらごころ」は嫌われるが、今回の動きは注目すらされなかった。
党派は権力闘争を生み先鋭化し、主導権争いは自己目的化する。これは過激な左翼闘争から学んだ教訓だった。現代の学生団体はこれに学び、強力な指導者が強い主張をすることを避けている。一方で、既存の政党は党派の支配権を得る為に、数年ごとに離合集散を繰り返し「普通の」人たちから見放されてゆく。中心を求めれば求めるほど、周縁に弾き飛ばされてしまうのだ。
今回の安保法制制定過程では、黙して語らないはずの中心が特定の意見を述べてしまったために、全体を巻き込んだ大騒ぎが起きたのだ、と考えることができる。いったんできた溝を埋められる人は誰もおらず、全ての人が自分が正しいのだと主張して止まない。全ての人が冷静さを失い、自分たちの物語を呟いている。
ここで、多様な意見を持っている人が全て普通でいることなどできないはずではないかという疑問が湧く。物事には全て中心と周辺があるはずだ。そこで日本人は中心に何も置かないことを決めた。よくある例えだが、神社の中心には何もないか、中心を覗くことができない。東京の中心には大きな森があり、そこに政治的には何も言わない精神的な指導者が住んでいる。中心について何も語らないことで、周縁を作らない工夫をしてきたものと思われる。
こうした日本人が持っている感覚は普段は隠れている。何かの隙にふと立ち現れるのみだ。表面上は西洋的な民主主義国家を装っていても、その下には全く別の層が隠れているのだ。

集団的自衛権議論 – 混乱を越えて

もともとはアメリカのリクエストだった。9.11のあと、アメリカは日本にもアメリカを防衛する義務を負わせ、日本との同盟をNATO並の集団的自衛の枠組みに変えようとしたのだ。こうした構想は過去にもあったが、オーストラリアや韓国などの周辺国が反対していた。韓国は未だに懸念があるようだが、オーストラリアは賛成に転じている。
これは日本政府にとっては名誉なことだった。ようやく、一人前の国として認められたのだ。これは名誉な事だから普通の国になろう、と国民に説明すれば良かったのだ。
ところが、国民に説明する段階になって、安倍首相はひるんだ。アメリカのリクエストに応えるには憲法改正が欠かせないが、それが受け入れられないと見ると、現行憲法下で運用可能だと言い出した。そして「アメリカを守るため」ではなく「日本の専守防衛のため」なのだと国民に説明した。そして表向きは国の名前を挙げずに中国と北朝鮮の脅威を煽った。
こうした制約のもと、内閣官房で大急ぎで「理論構築」したうえで法律の改訂作業に入った。関係する法律が10本もあった。少人数で急いで作ったので完成度の低い法律群ができた。問題だったのはアメリカのリクエストがよく分からない点だ。そのため、自由度を増す必要があり「内閣の裁量で如何様にも解釈できる」体系になった。
時間が短かったせいもあり、防衛省には根回しをしなかったのだろう。防衛省はこれに反発したようだ。外務省の得点稼ぎのために隊員の命を危険に晒す事になる。その上、アメリカ軍との一体化意識が強い。自衛隊のトップは防衛大臣の頭越しに軍関係者と直接やりとりしており、反発する者は機密書類を共産党に流したりした。政府のコントロールが利いていないらしいことが露呈した。
このように色々な欠陥があるので野党は反発したが、数で押し切られるのは最初から分かっていた。そこで憲法の問題を取り出した。しかし、国民はこの件について「違憲」を申し立てることができないことも明らかになった。さらには、憲法を厳密に解釈すると自衛隊も違憲になってしまうということが明白になった。共産党は自衛隊を廃止すべきだと考えており、社会民主党は日米同盟の役割は終ったと考えている。
国民の総意というものがあるとすれば、それは現状維持だ。だから矛盾していても構わないと考えるのだ。憲法改正して第九条をなくすのも不安だし、かといって自衛隊や日米安保がなくなるのも困る。
手詰まりになった野党は「戦争法案」という名前をつけて法案に悪い印象を持たせることにした。民主党は徴兵制度が復活するかもしれないと煽った。主婦向けの雑誌がそれを取り上げたりした。
もともと中国と北朝鮮の脅威論はあった。背景には中国経済の急速な台頭がある。中国が経済的に成長していることを認めたくないので、それを軍事的な脅威にすり替えるようになった。それがネット右翼と呼ばれる下層に広がった。
一方「戦争法案」というレッテルも想像以上に響いた。もともとの憲法九条擁護派(共産主義が失敗した左翼にとって最後の拠り所になっていた)に加わったのは、先行きに不安を持つ若年層だった。現在はそこそこ幸せだが将来に漠然とした不安を抱えているものもいれば、実際に経済的に困窮している人たちもいる。彼らの不安(というより国民全体の不安なのだが)を解決するには、まず問題を知る必要がある。
つまり、この争いの根柢にあるのは、経済的な先行きに対する漠然とした(あるいははっきりとした)不安なのだ。それを「戦争」に投影しているに過ぎない。だから、根本にある不安を見つめないと、いつまで経っても安定した気分を得られないだろう。
本来ならば政党は国民の不安を払拭する必要があるが、それぞれの物語に引きこもってしまい出てこなくなった。