キプロスとお金の話

しばらく前に「キプロスの銀行が大変なのだ」というニュースを聞いた。ところが日本ではあまり伝えられる気配がなく、伝えられたとしてもEUとの関係で少し触れるだけという感じだ。ところが、この話について少し考えてみるといろいろなことが見えてくるように思える。
まず、疑問を並べてみる。

  • なぜ、キプロスは国にはお金があるのに(GDPの8倍もある)経済破綻の危機に直面しているのか。
  • メドベージェフにとってキプロスと北方領土の共通点は何か。
  • 日本銀行が金融緩和してもインフレにならないのはどうしてか。

キプロスの金融危機について、納得の行く説明をしてくれたニュースショーは皆無だった。日本には以前銀行口座が封鎖された歴史がある。そのために「報道を自粛しているのだろう」という人もいる。
唯一、なんとなく分かったように思えたのは、キプロスは昔からロシアの金融オフショア先になっていたというネットの記事だ。どうやら、お金は「お金A」と「お金B」に別れているらしい。お金Aは人々が何かを買うために使う手段だ。しかし、お金Bは「貯めて増やす」ものであり、お金Aとは分離されている。ロシアのお金持ちたちは、儲けた金を国内ではなく海外に逃避させた。これをオフショア金融というのだそうだ。しかし、キプロスの銀行はギリシャ危機をきっかけに資金の一部を失ってしまう。銀行が潰れると、ロシア人のお金持ちたちは資金の一部を失うことになる。
なぜ、ロシア人たちは自分たちで稼いだお金を国内ではなく海外に預ける必要があったのだろうかという点が次の疑問になる。この点についてはよく分からないものの、キプロスが小さな国であり、なおかつロシアと宗教が同じであるという点が重要らしい。さらにイギリスの植民地だった経緯がありビジネスインフラが整っていたことと、EU圏だということも重要なのではないかと思われる。つまり、ロシアにとってキプロスは、EU圏に開かれた出島のような存在だったということになる。EUの立場から見ると、自分の圏内にロシアの出先があるのは面白くなかっただろう。単に規模が小さいから潰すのではなく、この機会に「オフショア金融」を潰したいと考えても不思議はない。政府からみるとそれは「脱税行為」だからだ。
すると、メドベージェフが言った「北方領土をオフショア基地に」という言葉の意味が分かる。ロシアにとって北方領土は「円経済圏の出島」になれる。領有権問題を棚上げにして共同運用区域にすれば、日本の税制もロシアの税制も完全には及ばない(逆に言えば、両方の影響力が等しく及ぶ)区域を作る事ができる。ロシアはEUと日本の間でバランスを取りながら、両方のいいとこ取りができるだろうし、日本の政治家たちにもうまみがあるかもしれないと考えても不思議ではない。
このように世界のお金は、国民の懐からオフショア勘定に流れて行くような仕組みができあがっているらしい。この事が正しければ、いくら金融緩和策を取っても一般消費者が関与する物価が上がらないことが説明できる。これは結局、税金として戻ってこないことを意味する。
お金がそのまま消えてしまえば、それはそれで問題がなさそうだ。しかし、実際には株式、国債、土地、資源、小麦などの農産物などの価格をつり上げる「バブル」が起こる。だから、「株がちょっと上がった」くらいで喜んでいてはいけないのだろう。しかし、バブルを経験した事があるおじさんたちが支配的なマスコミはもウキウキらしい。投資信託や株の本を読んでいる高齢者も多いのではないかと思う。つまり、多くの日本人(多分政治家も含めて)にとって、お金にはAもBもないのだろう。また、経済についての考え方にも一定の「しばり」がかかっているに違いない。1980年代の物の見方が支配的なのだといえる。
メドベージェフの言う事をそのまま受けるのはあまり得策とは言えそうにないが、日本はロシアの提案を戦略的に検討することができる。アメリカとロシアの間でバランスを取りながら、政策選択ができるからだ。ところが安倍首相は「優等生」のように見えるので、このような「リスクを伴う」政策を検討する事はできないだろう。「日本にとってアメリカとの同盟が基軸です」というのが、日本にとっての唯一の正解であり、ここから外れることはない。
例えば、多くの国民はロシアに譲歩することは受け入れがたいと感じるだろう。たぶん選択肢として俎上に載せただけで「売国・親ロシア派」というレッテルが付くのではないかと思う。これも戦後すぐに作られた感情的なフレームをそのまま維持していることによる弊害だ。だから、ロシアと「取り引き」して「新しい金融ゾーンを作ろう」などと言い出せば、国賊扱いされた上でTPP以上の大問題に発展するに違いない。戦後すぐに構築されたマインドセットに縛られていると「北方領土にオフショアセンターを作るとは、さては返す気がないというサインだな」などと読んでしまいかねない。
マスコミがこの件をあまり熱心に伝えないのは、キプロス問題が、基本的にはEUの問題だと考えられているからではないかと思う。だから、EUがこの問題を処理できさえすれば問題は解決するのだろうと思っているのだろう。ところが、実際にはもう少しだけ多面的な広がりを持っているのではないかと思う。
日本はどうTPPを取り扱えるかということを3年も逡巡している。背景にあるのは、アメリカの機嫌も損ねたくないし、戦後すぐに作られた農業利権も損ねたくないという「解答のないパズル」だ。それぞれ一定の時期に作られたマインドセットである。そもそも動けないのだから、新しいスキームが入り込む余地はない。日本が動きを止めている間にも、事態は大きく動いている。しばりから自由になれれば、いろいろな選択肢が手に入るだろうし、今考えている経済政策には実は誤りもあるのではないかということが分かるだろう。
日本人はマインドセットを変更せずに、問題をどのように処理しようかと考えている。このために、周囲で起きている様々な問題が不安定で恐ろしいものに思えるのではないかと思う。
このように、マインドセットは人々の選択肢を大きく制限して物事に対する理解を限定的にしてしまうのである。

クリエイティブな脳の作り方

日々、検索キーワードを眺めていると、いろいろ面白いものがある。今回は「クリエイティブな脳の作り方 本」というのがあった。クリエイティブってなんだよ、とひとしきり毒づいたあとで、気を取り直してこのテーマについて考えてみることにする。
「クリエイティブってなんだよ」と毒づくのは「ネットでクリエイティブって検索して、すぐに見つかるほど甘いもんじゃないよ」という気持ちがあるからだ。多分、検索して1時間くらい本を読んだら「クリエイティブになれる」くらいの安直なものを探しているのだろうなどと思ってしまう。
ところが、世の中にはそうした人たちに向けて書かれた本というのが実際に存在する。『リファクタリング・ウェットウェア – 達人プログラマーの思考法と学習法』の「ウェットウェア」とはつまり脳の事である。著者は「本書で紹介するテクニックを実践すれば、読者の学習スキルおよび思考スキルは向上、日々の生産性を20%から30%改善できる」と主張している。
この手の本はいくつも存在する。しかし、本が指南するのは生産性を上げる方法であって、それが「必ずしもクリエイティブであるか」とは限らない。
そもそもクリエイティブってどういうことなのだという問題は残されたままである。
次の本はウォートンビジネススクールが出版した『インポッシブル・シンキング 最新脳科学が教える固定観念を打ち砕く技法』という本だ。この本は「メンタルモデル」について書いている。
メンタルモデルとはいわば「固定概念」や「思い込み」の事だ。メンタルモデルを持つ事自体は悪い事ではない。メンタルモデルがあるおかげで人は様々な情報を知識として理解することができる。
しかし古くなったモデルは様々な問題を引き起こす。そこでモデルそのものを疑ってみる事で、新しいアイディアを得ようとするのがこの本のアプローチである。
この本の優れた所は「固定概念はいけないことだ」との断定を避けている点だ。逆に古いモデルを完全に捨ててしまうことで起こる不具合というものも存在する。また、新しいモデルを他人に受け入れてもらうためにはどうしたらいいのかという点 – いわゆるチェンジマネジメント – についても言及している。新しいアイディアを考えても、現実に受け入れられなければ意味がないという姿勢が見える。
最初の本『リファクタリング・ウェットウェア』は、自分の与えられている職務の範囲でのクリエイティビティを扱っていた。ゴールそのものには意義を差し挟まない。ところが、ビジネススクールは経営を扱っているので、チーム全体が生き残れるように最適なモデルを提供する必要がある。
同じ「クリエイティブ」でも、そのレイヤーによって違いがあるらしい。だんだんと「クリエイティブ」が何を意味するかということも明確になってきた。
次の本は名著『天才はいかにうつをてなずけたか』である。Amazonの書評は辛い。実際にうつ状態にある人が解決策を見つけようとして、この本を買うらしい。ところがこの本は「うつを克服する」方法には触れていない。「どう、てなずけるか」というのは「うつ状態」が持つ役割について理解する、折り合いをつけるということだ。
いっけん、クリエイティビティとは関係がなさそうだが、人間の創造性の破壊的な側面について書いてあるともいえる。創造力というのは、現在にないコンセプトやメンタルモデルを作り上げるということだ。
心理学、政治、物理学などの課題にまじめに取り組んでいると、革新的なアイディアに行き当たることがある。『インポッシブル・シンキング』と用語を揃えると、こうした「メンタルモデルの変更」は人生やキャリアそのものを大きく脅かすことがある。
しかしながら、それを乗り越えた所に偉大な業績がうまれることがあるのもまた事実だ。チャーチル、カフカ、ニュートン、ユングなどの事例を紹介しつつ、彼らの「創造性」について考察している。
このレベルの創造性は「社会的な常識との折り合い」が付けにくい。人が一生をかけて身を投じるレベルの「創造性」だ。また「創造的になろう」と思ってこのような境地に至ったということですらなさそうである。
多分「ネットでクリエイティブについて検索してやろう」と考えている人は、このようなレベルのクリエイティビティを求めているわけではないと思う。例えば、日々CMを作っている「クリエイティブなディレクタ」が、全く創造的な映像表現手法を思いついたとする。それは高い確率で「お茶の間にはそのまま流せない」ような映像のはずだ。この考えに取り憑かれたディレクタが、その後も仕事を続けたければ、その思いつきをきれいさっぱり忘れてしまう必要がある。
いずれにしても、クリエイティブであるということは、オリジナルであるということと同じ意味らしい。そのためにはキャリアの最初に「ただひたすら作る」とか「経験を積む」というスキルを伸ばす時期が必要だ。
今回、ご紹介した本は、例えば「オリジナリティのある帽子を作りたい」というような人には向かないかもしれない。しかし、考えてみれば専門学校を卒業した時点で何の蓄積もなく「オリジナルでクリエイティブな帽子」が作れるはずはない。もし、若くしてオリジナルな何かが作れるとしたら、それはその人が持っている特性とか経験や物の見方に根ざした何かがあるからだろう。また「クリエイティブな帽子」が出てきた背景には、なんらかのマインドセットの変更があるはずだ。
ことさらに「クリエイティブ」になろうと思わなくても、人間の脳には「クリエイティビティを指向する回路」というものが組み込まれているのではないかと思う。でなければ、人生が台無しになる危険を冒してまで創造性に生きようという人が出てくる理由が説明できない。

Twitter Cardsを利用する

最近、Twitterに「概要を表示する」とか「画像を表示する」とかいうリンクが付いている投稿がある。知っている人は知っているのだと思うのだが、Twitter Cards(リンク先はTwitterの仕様書)という仕組みを利用している。特に写真は直感的でわかりやすいので、写真素材を使ったサイトは、ぜひ利用を検討すべきだろう。tumblrではこのように表示される。
twittercards001
Twitter Cardsにはちょっと分かりにくい仕組みがある。申請方式になっているのだ。つまり、タグを実装しただけではカードが表示されない。申請にはかなりの時間がかかる。「数週間」ということになっているが、本当に数週間待たされる。
twittercards002
しかし、いったん認証されてしまうと、ドメイン全体に効果が及び「過去にさかのぼって」展開されるらしい。同じドメインの中で複数サービスを展開するというのはよくある話だ。また、tumblrのようにオリジナルドメインが使えるものは、別途申請しなければならないらしい。ドメインごとに表示するかしないかを切り替えているようだ。
さて、この仕組み「メタタグ」という情報を読み取っている。メタタグは、具体的にはFacebookとTwitterで使われている。分かりにくいかもしれないが、title、description、url、imageは共用だ。
<meta property=”og:type” content=”article” />
<meta property=”fb:app_id” content=[app_id] />
<meta property=”og:title” content=”Key Questions” />
<meta property=”og:description” content=”key Questionsは次世代クリエータのためのちょっと変わった考察プラットフォームです。” />(もしくは、各記事の概要など)
<meta property=”og:url” content=”http://wpmu.hidezumi/” />(もしくは、各記事のURLなど)
<meta property=”og:image” content=”http://wpmu.hidezumi.com/keyquestions_logo_150.jpg” />
<meta name=”twitter:card” content=”summary” />
<meta name=”twitter:site” content=”@hidezumi” />
Facebook(リンク先はFacebookのデバッガ)にもTwitterにもこのような情報をテストできるツールがある。また、Wordpressにはこのようなメタタグを自動的に付加してくれるプラグインがあり、特に難しい技術仕様を知らなくても展開することが可能だ。
このメタ情報はいろいろな所で利用されるので、ブランディング対策を行う必要がある。気まぐれにいろいろなキャッチコピーを付けたり、ロゴを使ったりしていると、収拾がつかなくなってしまうに違いない。(と、いうより収拾が付かなくなりつつある)
ということで、サイトのマネジメントをしっかり行う必要がある。また、いろいろなところでロゴを使っているので、ウェブサイトやサービスを提供する時には、サイト用に集客効果がある(または印象に残りやすい)ロゴを作る事を考えるとよいと思う。企業ブランドの場合ロゴのガイドラインにオンラインサービス用の規定を設ける必要もあるだろう。

ミツバチと農業の多様性

 
2006年にアメリカ合衆国でハチが大量に失踪するという出来事があった。『ハチはなぜ大量死したのか』はそれを扱った本だ。結論から言うと、この本を読んでも、ハチが大量に失踪した理由は分からない。分かるのは「あまりにも複雑すぎてよく分からない」ということだけだ。原因は未だによく分からないらしい。
セイヨウミツバチはいろいろな作物の果実を実らせるために利用されている。だから、ミツバチの大量死は、農業そのものの崩壊につながりかねない。そして、農業の崩壊は局地的に起こるわけではない。ミツバチは世界各地を人の手で移動させられている。世界が緊密に連係しているせいで、ある地点で広がったウィルスは直ちに別の場所に広がる。
各地で使われている農薬も多岐に渡る。単体ではテスト可能だが、複合的にはどのような影響を与えているのか、実はよく分からないし、実験室レベルでは確かめる方法もない。
このように様々な理由が積み重なって、結果的にミツバチの群れが崩壊したのではないかというのが、最終的な結論だ。
この実例は「アイルランドのジャガイモ飢饉」に似ている。アイルランドでは、限られた場所に単一の品種のジャガイモを植えたために、ウィルスが劇的に広がったのだった。アイルランド人はジャガイモに極度に依存していた結果、人口は大幅に減少し、その後の回復には長い時間がかかった。
ミツバチの例はもっと複雑だ。原因は1つではないし、影響を受ける範囲も限定的ではない。地球上がアイルランドのようになっても、逃げる場所はどこにもない。
生態系というものは、注意深く積み上げられたパズルのようなものだ。そして多様な生態系ほど、変化やストレスに強い。システム内で回復力が働くからである。世界中が緊密につながると、その変化に系が対応できなくなる可能性がある。そこで起こるのが「系の崩壊」である。
つまり、世界を緊密に連携させることを決めたのであれば、その一方で多様性を守るために何ができるかを考える必要があるようだ。
日本の農業は、多様性にはあまり注意を払っているとは言えないのではないかと思う。スーパーマーケットも消費者も均一な大きさの人参やブロッコリを好むし、兼業農家はあまり手のかからない米ばかりを作りたがる。。時折提案めいたものが出てくるが、それは「工業」や「経営」の立場から出てくる生産性向上の提案ばかりだ。
とはいえ、以上の議論はあくまでも当事者ではない人の意見だ。やはり、単純に「多様性を守れ」と言うのも抽象的な議論に過ぎない。その意味では「美しい国を守れ」という議論とそんなに変わりはないのかもしれない。
すると、本当に問題なのは、当の農業従事者や流通の側から「今後日本の農業をどうしたいのか」といった声が全く聞こえてこないという点なのかもしれない。経験に即した発信ができる人がいないという点が、日本の農業の大きな問題なのかもしれない。

放蕩息子の帰還

新しい教皇はイエズス会出身だそうである。ということで、イエズス会の歴史を調べても良かったのだが、代わりに聖書のエピソードを取り上げたい。「放蕩息子の帰還」というお話である。レンブラントの絵でも有名だ。
兄弟のうち弟が、父親が元気なうちから「財産の分け前が欲しい」という。その財産を処分し、弟は遠くに旅立ってしまったのだが、結局散在してしまう。食べるのにも困った弟は使用人でもいいからと考えて父親に赦しを求める。父はその息子を無条件で赦すのだが、兄はそれを認めようとはしない。そこで父は兄をたしなめるという話である。
この話には前後に別の例え話があり「正しい律法に基づいている人は、神様がなさるように罪人をも赦さなければならない」ことを意味しているのだと考えられてる。当時のユダヤ教と達は、宗教的な生活を実践しない人たちを差別していたのだが、キリスト教は、病気の人、貧しい人、そして罪人たちをも救済の対象にした。
現代日本であれば、弟は自己責任で破滅したのだし、実家に戻ってくれば兄の取り分が減ってしまうだろうと解釈されそうな話だ。
放蕩息子の帰郷 – 父の家に立ち返る物語 – 』は、この説話とレンブラントの絵画に触発された著者が、弟の立場、兄の立場、そして父の立場について考えを巡らせている。
弟の立場に立つのは比較的易しい。誰でも罪の意識というものを持っていて、純粋なものに立ち返りたいと思いつつもいろいろ逡巡するものだ。そして、そうした罪を「無条件に赦されたい」と考えている。
ところが「兄の立場」について考えるのは難しい。こちらは奔放な弟をうらやましいと思いつつも、実際には旅立つ事ができなかった人である。正しい立場にあるにも関わらず「嫉妬」というネガティブな感情を抱える。どの人にも同じような感覚があるに違いない。正しい行いを実践している人が、なぜ罪悪感を感じ、叱責されなければならないのか。
著者のナウエンは司祭なのだが、ここから「自分が父の立場」つまり、司祭として息子たちを指導して行く事と無償で与える事の難しさについても考えている。父は無条件の許しを与える神だというのが、聖書の普通の解釈だろう。
キリスト教の伝統的な解釈から外れると、これを一人の人が抱える問題だと捉え直すことができる。ある人が、心の中に欠落感を抱えている。それはなんとなく「昔に旅立ったまま帰ってこない息子」のようなものだ。ところが、ある日その人は「放蕩息子」を自分の中に見つける。そのまま祝福してやりたいが、一方で「まじめに生きてきた部分」があり、どうにも納得できない。そもそも自分がやってきたことのうちにいくつかは全く人生の無駄遣いなのではないかと感じるかもしれない。これをどう捉えるべきだろうか。
この2人の息子は、その人が持っている人格の多様性のようなものである。つまり祝福されたあるべき性質というものはすくすくと伸びて行く。その人の全人格のように生育する。ところが、人にはそれだけでは満たされない部分というものがある。祝福された性質に隠れて伸びる事ができなかった「劣等な性質」というものだ。ある日それを見つけて「劣等な性格に立派な着物を着せてやり」祝福することにする。つまり、放蕩息子に立派な着物を着せてはじめて、全人格が揃い喪失感がなくなるわけである。こうした感情を人生の成長の時期に持つのは難しいに違いない。
この物語には「なぜ、弟は出て行かなければならなかったのか」が全く描かれていない。「単なる放蕩」として語られる。もしかしたら、立派な片一方の人格の裏で育つ事ができなかった別の何かがあるのかもしれない。しかし、それを無視する事はできない。なぜならば、それも含めて個別の何かだからだ。
そして、出て行ったものを再び迎え入れることが「全くムダな行為なのか」という点も、実は考察に値する。弟は「全く無駄だった」と考えているらしいが、出て行く前の状態と戻ってきてからの状態は、単なる現状復帰に見えても、異なる状態のはずだからだ。
このようにこの逸話にはいくつかの解釈の仕方があり、どれが正解ということは言えないのではないかと思う。
さて、ローマカトリックは、現在問題を抱えている。法を守っているように見えて、内部では権力闘争や性的な退廃を完全に排除すること事ができない。ヨーロッパではこのことに失望した人たちがいて、カトリック教会からの離反もある。一方、イエズス会のように「外に出て行って」現地の文化を受け入れつつ、独自の経験を積み重ねてきた人たちもいる。ローマから見ると「必ずしも純粋とはいえない」かもしれない。
ベネディクト16世は、1981年から教理省の長官としてヴァティカンにいた。一方、新教皇にはローマでの経験がほとんどないそうだ。しばらくの間、ローマカトリックは、名誉教皇と教皇という2名の教皇を戴くことになる。

トウガラシから見えてくるもの

インド料理について調べていて興味を持ったので、トウガラシのことを調べてみた。なかなか面白いことが見えてくる。
トウガラシは中米(現在はメキシコ説が主流らしい)原産のナス科の植物だ。にも関わらず、トウガラシ料理を自国の文化と結びつける民族は多い。例えば韓国と日本を比較するのに「トウガラシとワサビ」という言い方をする人もいるし、インド料理やタイ料理にはトウガラシが欠かせない。
新大陸からヨーロッパに渡ったのはコロンブスの時代であり、それ以前のインド料理にはコショウはあってもトウガラシの辛さはなかったはずだ。こうした料理を見るとグローバル化という言葉が使われる以前から、世界の交易が盛んだったことが分かる。
トウガラシの叫び: 〈食の危機〉最前線をゆく』は、気候変動とトウガラシの関係について書いた本だ。邦題を読むと、いたずらに悲壮感をあおる本のように思えるが、実際にはトウガラシとアメリカ各地の人々の関係について実地調査した「明るめ」の本だ。
この本を読むと各地のトウガラシ – 日本人はひとまとめにしてしまいがちだが、実際には様々な品種がある – とのつながりと「トウガラシ愛」が分かる。気候変動によって引き起こされたと思われる水害によって壊滅的な被害を受けた土地もある。気候変動が将来の可能性の問題ではなく、いま目の前にある現実だということが強調されている。その一方で、過去には育てられなかった作物が収穫できるようになった土地もあるそうだ。
『トウガラシの叫び』は作物の多様性についても言及している。農作物も産業化しており、大量に収穫が見込めるトウガラシがローカルのトウガラシを駆逐して行くことがあるそうだ。それぞれのトウガラシには固有の風味というものがあり、それが失われることで、食べ物の多様性も失われて行くであろう。各地のトウガラシ栽培には、先祖たちのストーリーがある。それが失われるということは、すなわち先祖とのつながりや誇りといったものが切れてしまうということを意味する。
その事は、『トウガラシの文化誌』からも読み取ることができる。この本も人々のトウガラシ愛について言及している。
両方の本に書かれているのが、タバスコ・ソースについての物語だ。現在に至るまでルイジアナの一家が所有した企業によって作られているタバスコ・ソースは、南軍の兵士がメキシコのタバスコ州から持ち帰ったトウガラシから作られている。この一家の先祖は、北軍による攻撃を受けてその土地を追われてしまった。戦争が終わって戻ってくると土地は荒れ果てていたのだが、ただ一本残っているトウガラシを見つけた。タバスコペッパーは生きていたのだ。そのトウガラシから作ったソースは評判を呼び、今では世界中で使われている。
このようにトウガラシから分かることはいくつもある。地球温暖化や気候変動は身近な作物 – つまり私達の生活 – に影響をあたえている。多様な食文化は、食材の多様性に支えられている。グローバル化はそれを脅かしつつある。一方で、伝統的に思えるローカルな料理も実はそのグローバル化の影響を受けて変質している。変質してはいるものの、世界の人たちはおおむねこの変化を歓迎しているようだ。
トウガラシに着目するといろいろなことが見えてくる。理屈だけを見るよりも、具体的な物や人に着目する事で、問題についての理解が深まる。
さて、世界の人々がトウガラシに愛着を感じるのはどうしてなのだろうか。
トウガラシにはカプサイシンという成分がある。ほ乳動物はこの物質を摂取すると舌に痛みを感じる。ところがこのカプサイシンを少量だけ摂取すると体温が上がり、ランナーズハイに似た症状を感じるらしい。エンドルフィンなどの鎮痛成分が生じるためと言われている。
また食べ物の味を明確にする機能があるようだ。よく「辛いものばかり食べていると舌がしびれてバカになる」と言う人がいるが、実際には逆らしい。このことは日本人の好きなスシとワサビの関係を見てもよく分かる。ワサビの辛みが加わる事で、味に「枠組み」のようなものが生じ、うまみが増すのが感じられるからだ。

発達障害と職場のコミュニケーション問題

クローズアップ現代が「発達障害」を取り上げてた。クローズアップ現代によると、職場で発達障害の人たちが<問題>になっている。彼らはコミュニケーションが苦手なのだが、実は人口の10%を占めるという。つまり、発達障害のある人たちをどう<対処>するかということは、どの職場にとっても重要な課題だ。
この30分のプレゼンテーションを見て、とても違和感を感じた。とはいえ、なぜ違和感を感じたのかは分からなかった。結論から言うと、発達障害について関心があるから違和感を感じたのではないようだ。
最初に思ったのは、人口の10%もいる人たちを「障害」というのはどうなのだろうということだった。例えば、日本ではAB型の人は10%いるが、その人たちを「血液型に障害がある」とは言わない。次に感じたのは、こういう形質を持った人たちは昔からいたにも関わらず、なぜ今になって問題になるのだろうかという点だった。さらに、発達障害を持った母親というのも人口の10%を占めるはずだ。彼女たちは、育児で子どものちょっとした表情の変化が読み取れないはずだが、それは<問題>だとは言われない。それはどうしてなのだろうか。
このプレゼンテーションは90%の人たちに向けて作られている。途中で「表情と言葉が一致しない」場合に意味が読み取れないのが発達障害の特徴だという例が出てくる。この例示は発達障害の人には分かりにくい。つまり「番組を見ているのは90%だけ」だという前提で作られていることになる。いいかえれば10%の人は最初から視聴者としては排除されていることになる。もし10%の人にも分かりやすい作り方をするならば、これは「不快感を表す表情ではない」ことを強調して説明する必要がある。
ユニバーサルデザインをやっている人ならよく分かる理屈だと思う。二型色覚を説明するのに「色盲の人はこう見えています」と例示するのは、視聴者が正常色覚しかいないという前提に立っていることになるので、デザイナは、この課題を扱う時に表現や見せ方を工夫するだろう。
だから、作り手であるNHKには「コミュニケーションが苦手」な人がいなかったのだろうかという気にもなる。一度、そうした人たちにプレビューすれば問題が明らかになるはずからだ。つまり、番組を作るにあたって90%が作り、視聴者も90%を対象にしているということだ。
どうやら、このあたりに「違和感」の遠因があるようだ。ここから展開できるのは、隠れた問題意識だ。
本当は「コミュニケーションが苦手な人がいるために、効率よい職場環境が作れない」から「これは困った」という<問題>がある。本来なら、そうした人たちにもコミュニケーション技術を習得して貰いたい。それでも無理なら居なくなってほしい。しかし、人権の問題もあってそうはいえない。だから「どう対処すればいいのか」という点に問題を置き換えている。それゆえに一貫して「障害だ」という主張が繰り広げられているわけである。
しかし、この事自体が直ちに問題だという主張がしたいわけではない。
<問題>を進めるに当たって、以前にも増して効率化を進めなければ、これからの職場は立ち行かなくなってしまうであろうという前提がある。コミュニケーションにある特性がある人たちを構っている余裕はない。90%が期待しているとされるのは曖昧に指示を与えてても「適当に解釈して」くれるコミュニケーションだったり、空気を読んで自発的に残業してくれる気配りだったりする。
職場にはいろいろな不調がある。それがどのような背景で生まれたものなのかはわからないが、とにかくそうした不調を「コミュニケーションの問題」として乗り切ろうとしているらしい。そこでますます生産性を上げて、では果たして何を実現しようとしているのかという点には全く触れられないし、そうした分析もない。にも関わらず「これからの職場はますますコミュニケーションが重要になるだろう」という前提が語られてしまうのである。
例えば上司が「どうしていいか全く分からない問題」を「適当にやっといて」と部下に丸投げすることがある。「空気が読める」部下は、なんとなく愚痴の一つでもこぼしつつ適当に処理をするだろう。「ああは言ってるけど、きっと、たいした仕事じゃないんだろうなあ」などと思うわけだ。中にそれが分からない人がいる。この時、上司の側にも部下の側にも問題があるだろう。もし「何のためにやっているのか分からず、適当に指示するほかない」仕事があふれているとしたら、これは経営者の責任である。それを「障害」や「脳の特性」にすることで解決してしまうのはちょっと乱暴だ。
<問題>を見つめるということは、何かを見ないようにするためである可能性がある。浮上している問題を見つめるのは簡単だが、その影に隠れている当たり前の中にある問題を探り出すのは難しい。もっとも、そこまで考えてしまうととても30分で分かりやすくまとめることなどできないだろう。
いずれにせよ、公平であるということは、実はなかなか難しいらしい。

日本人と味覚

インド料理について調べていると「日本人が持っている味蕾の数は世界一である」というような記述があった。なかなかすばらしいことではあるが、日本人が書いた日本人論を見ると「これ、本当かなあ」と思うことがある。特に、客観的な事実が書いてあり、出典がないものは要注意だ。ということで調べてみた。
この「日本人が持っている味蕾の数は世界一」という表現は、いくつかの事実が合成されてできた「風説」のようだ。このフレーズだけを聞くと「ああ、僕の味覚も優れているんだなあ」などと思ってしまう。そして「トウガラシばかり食べている他の国の人と違い、日本人は繊細な味が分かるのだ」という結論を出したくなる人もいるかもしれない。
味覚を調査した論文がいくつ載っている本には「白人に比べて、アジア系には味蕾の数が多い人の割合が高い」書いてあるものがある。この研究は中国人と白人を比べているが、アジア系一般に言えることらしい。インド料理の本で読んだのはこの「アジア系」を日本人に置き換えたもののようだ。
一方、オーストラリア人と日本人を比較対象した研究には別の記述がある。オーストラリア人と日本人を比べて味の識別能力がどれくらいあるかを調べた。「うま味」(グルタミン酸など)で優位な差が出たが、その他の感度に違いはなかった。この調査は溶液を使ったものだ。ところが、実際の食品の味付けを変えて出した所、オーストラリア人と日本人には違いがあった。(以上『味とにおい – 感覚の科学-味覚と嗅覚の22章』)
どうやら「白人と比較するとアジア人(日本人も含まれる)には味覚が鋭敏な人が多く」「日本人は西洋の人の味の好みは違う」というところまでは「事実」らしい。一般的な体験を重ね合わせても、日本人の方が薄味を好むという点までは合意ができそうな気がするが「日本人の味覚は世界一」とまでは言えないようだ。
この「日本人の味覚は優れている」という説には続きがある。ネット上でいくつか見つけたのは「うま味は日本人が見つけた。これがわかるということは日本人が繊細な味つけを好むからだ」というような主張だ。確かに「うま味」は世界共通語になっていて、5つの基本的な味(しょっぱい、あまい、すっぱい、にがい、うまい)の1つとして認知されている。ところがこれも「日本人」をどう捉えるかで、意味が違ってくる。
うま味を見つけて、命名したのは、池田菊苗という日本人だ。1907年に発明して特許も取っている。ところが「うま味は日本人が発見した」と聞くと「日本人一般が古くからうま味の存在を知っていた」というようにも取れる。
ところが、東南アジアから東アジア一帯には魚醤を使う文化圏がある。魚が発酵するとタンパク質が分解されうま味成分が作られる。例えばキムチにもこうしたうま味成分が含まれている。つまり、日本人は海洋アジア系の伝統を引き継いでいるということは言えても「日本人だけがうま味を知っている」とまでは言い切れないことになる。アジア人は古くからうま味を利用してきたのだ。
一方で、日本人が諸外国の人々と比べて特に際立っていることもある。それが「風味」に関する欲求だ。風味は「フレーバー」と翻訳されたりするのだが、どちらかというと「新鮮さ」を識別する指標として使われることが多い。スーパーでも「産地直送」の新鮮な野菜や魚などに人気が集る。そのために物流網が発達し、鮮度を保つ冷凍技術なども充実している。デパートの売上げが落ちていると言われているが、デパ地下の人気だけは衰えない。
強い味付けが好まれないのは「魚や野菜の素材を活かして新鮮なうちに食べるのが一番おいしいのだ」と思っている人が多いからなのかもしれない。
こうした鮮度に対する欲求が際立っているせいで、外資系のスーパーマーケットはなかなか日本で成功することができない。コストコのように価格で成功している店もあるが「日用品」「加工食品」「肉」といった主力商品は、どれもあまり鮮度が重要でないものだ。
また、新鮮な素材が豊富に手に入り、消費者の食べ物への関心が高いために、東京では世界各国の料理が食べられる。
総論すると、日本人の味覚が世界一と言えるかどうかは分からないが、新鮮な食べ物が手に入れやすい点と、世界各地の料理が食べられる点では、かなり幸福な環境に暮らしているということはいえそうである。