キプロスとお金の話

しばらく前に「キプロスの銀行が大変なのだ」というニュースを聞いた。ところが日本ではあまり伝えられる気配がなく、伝えられたとしてもEUとの関係で少し触れるだけという感じだ。ところが、この話について少し考えてみるといろいろなことが見えてくるように思える。
まず、疑問を並べてみる。

  • なぜ、キプロスは国にはお金があるのに(GDPの8倍もある)経済破綻の危機に直面しているのか。
  • メドベージェフにとってキプロスと北方領土の共通点は何か。
  • 日本銀行が金融緩和してもインフレにならないのはどうしてか。

キプロスの金融危機について、納得の行く説明をしてくれたニュースショーは皆無だった。日本には以前銀行口座が封鎖された歴史がある。そのために「報道を自粛しているのだろう」という人もいる。
唯一、なんとなく分かったように思えたのは、キプロスは昔からロシアの金融オフショア先になっていたというネットの記事だ。どうやら、お金は「お金A」と「お金B」に別れているらしい。お金Aは人々が何かを買うために使う手段だ。しかし、お金Bは「貯めて増やす」ものであり、お金Aとは分離されている。ロシアのお金持ちたちは、儲けた金を国内ではなく海外に逃避させた。これをオフショア金融というのだそうだ。しかし、キプロスの銀行はギリシャ危機をきっかけに資金の一部を失ってしまう。銀行が潰れると、ロシア人のお金持ちたちは資金の一部を失うことになる。
なぜ、ロシア人たちは自分たちで稼いだお金を国内ではなく海外に預ける必要があったのだろうかという点が次の疑問になる。この点についてはよく分からないものの、キプロスが小さな国であり、なおかつロシアと宗教が同じであるという点が重要らしい。さらにイギリスの植民地だった経緯がありビジネスインフラが整っていたことと、EU圏だということも重要なのではないかと思われる。つまり、ロシアにとってキプロスは、EU圏に開かれた出島のような存在だったということになる。EUの立場から見ると、自分の圏内にロシアの出先があるのは面白くなかっただろう。単に規模が小さいから潰すのではなく、この機会に「オフショア金融」を潰したいと考えても不思議はない。政府からみるとそれは「脱税行為」だからだ。
すると、メドベージェフが言った「北方領土をオフショア基地に」という言葉の意味が分かる。ロシアにとって北方領土は「円経済圏の出島」になれる。領有権問題を棚上げにして共同運用区域にすれば、日本の税制もロシアの税制も完全には及ばない(逆に言えば、両方の影響力が等しく及ぶ)区域を作る事ができる。ロシアはEUと日本の間でバランスを取りながら、両方のいいとこ取りができるだろうし、日本の政治家たちにもうまみがあるかもしれないと考えても不思議ではない。
このように世界のお金は、国民の懐からオフショア勘定に流れて行くような仕組みができあがっているらしい。この事が正しければ、いくら金融緩和策を取っても一般消費者が関与する物価が上がらないことが説明できる。これは結局、税金として戻ってこないことを意味する。
お金がそのまま消えてしまえば、それはそれで問題がなさそうだ。しかし、実際には株式、国債、土地、資源、小麦などの農産物などの価格をつり上げる「バブル」が起こる。だから、「株がちょっと上がった」くらいで喜んでいてはいけないのだろう。しかし、バブルを経験した事があるおじさんたちが支配的なマスコミはもウキウキらしい。投資信託や株の本を読んでいる高齢者も多いのではないかと思う。つまり、多くの日本人(多分政治家も含めて)にとって、お金にはAもBもないのだろう。また、経済についての考え方にも一定の「しばり」がかかっているに違いない。1980年代の物の見方が支配的なのだといえる。
メドベージェフの言う事をそのまま受けるのはあまり得策とは言えそうにないが、日本はロシアの提案を戦略的に検討することができる。アメリカとロシアの間でバランスを取りながら、政策選択ができるからだ。ところが安倍首相は「優等生」のように見えるので、このような「リスクを伴う」政策を検討する事はできないだろう。「日本にとってアメリカとの同盟が基軸です」というのが、日本にとっての唯一の正解であり、ここから外れることはない。
例えば、多くの国民はロシアに譲歩することは受け入れがたいと感じるだろう。たぶん選択肢として俎上に載せただけで「売国・親ロシア派」というレッテルが付くのではないかと思う。これも戦後すぐに作られた感情的なフレームをそのまま維持していることによる弊害だ。だから、ロシアと「取り引き」して「新しい金融ゾーンを作ろう」などと言い出せば、国賊扱いされた上でTPP以上の大問題に発展するに違いない。戦後すぐに構築されたマインドセットに縛られていると「北方領土にオフショアセンターを作るとは、さては返す気がないというサインだな」などと読んでしまいかねない。
マスコミがこの件をあまり熱心に伝えないのは、キプロス問題が、基本的にはEUの問題だと考えられているからではないかと思う。だから、EUがこの問題を処理できさえすれば問題は解決するのだろうと思っているのだろう。ところが、実際にはもう少しだけ多面的な広がりを持っているのではないかと思う。
日本はどうTPPを取り扱えるかということを3年も逡巡している。背景にあるのは、アメリカの機嫌も損ねたくないし、戦後すぐに作られた農業利権も損ねたくないという「解答のないパズル」だ。それぞれ一定の時期に作られたマインドセットである。そもそも動けないのだから、新しいスキームが入り込む余地はない。日本が動きを止めている間にも、事態は大きく動いている。しばりから自由になれれば、いろいろな選択肢が手に入るだろうし、今考えている経済政策には実は誤りもあるのではないかということが分かるだろう。
日本人はマインドセットを変更せずに、問題をどのように処理しようかと考えている。このために、周囲で起きている様々な問題が不安定で恐ろしいものに思えるのではないかと思う。
このように、マインドセットは人々の選択肢を大きく制限して物事に対する理解を限定的にしてしまうのである。

クリエイティブな脳の作り方

日々、検索キーワードを眺めていると、いろいろ面白いものがある。今回は「クリエイティブな脳の作り方 本」というのがあった。クリエイティブってなんだよ、とひとしきり毒づいたあとで、気を取り直してこのテーマについて考えてみることにする。
「クリエイティブってなんだよ」と毒づくのは「ネットでクリエイティブって検索して、すぐに見つかるほど甘いもんじゃないよ」という気持ちがあるからだ。多分、検索して1時間くらい本を読んだら「クリエイティブになれる」くらいの安直なものを探しているのだろうなどと思ってしまう。
ところが、世の中にはそうした人たちに向けて書かれた本というのが実際に存在する。『リファクタリング・ウェットウェア – 達人プログラマーの思考法と学習法』の「ウェットウェア」とはつまり脳の事である。著者は「本書で紹介するテクニックを実践すれば、読者の学習スキルおよび思考スキルは向上、日々の生産性を20%から30%改善できる」と主張している。
この手の本はいくつも存在する。しかし、本が指南するのは生産性を上げる方法であって、それが「必ずしもクリエイティブであるか」とは限らない。
そもそもクリエイティブってどういうことなのだという問題は残されたままである。
次の本はウォートンビジネススクールが出版した『インポッシブル・シンキング 最新脳科学が教える固定観念を打ち砕く技法』という本だ。この本は「メンタルモデル」について書いている。
メンタルモデルとはいわば「固定概念」や「思い込み」の事だ。メンタルモデルを持つ事自体は悪い事ではない。メンタルモデルがあるおかげで人は様々な情報を知識として理解することができる。
しかし古くなったモデルは様々な問題を引き起こす。そこでモデルそのものを疑ってみる事で、新しいアイディアを得ようとするのがこの本のアプローチである。
この本の優れた所は「固定概念はいけないことだ」との断定を避けている点だ。逆に古いモデルを完全に捨ててしまうことで起こる不具合というものも存在する。また、新しいモデルを他人に受け入れてもらうためにはどうしたらいいのかという点 – いわゆるチェンジマネジメント – についても言及している。新しいアイディアを考えても、現実に受け入れられなければ意味がないという姿勢が見える。
最初の本『リファクタリング・ウェットウェア』は、自分の与えられている職務の範囲でのクリエイティビティを扱っていた。ゴールそのものには意義を差し挟まない。ところが、ビジネススクールは経営を扱っているので、チーム全体が生き残れるように最適なモデルを提供する必要がある。
同じ「クリエイティブ」でも、そのレイヤーによって違いがあるらしい。だんだんと「クリエイティブ」が何を意味するかということも明確になってきた。
次の本は名著『天才はいかにうつをてなずけたか』である。Amazonの書評は辛い。実際にうつ状態にある人が解決策を見つけようとして、この本を買うらしい。ところがこの本は「うつを克服する」方法には触れていない。「どう、てなずけるか」というのは「うつ状態」が持つ役割について理解する、折り合いをつけるということだ。
いっけん、クリエイティビティとは関係がなさそうだが、人間の創造性の破壊的な側面について書いてあるともいえる。創造力というのは、現在にないコンセプトやメンタルモデルを作り上げるということだ。
心理学、政治、物理学などの課題にまじめに取り組んでいると、革新的なアイディアに行き当たることがある。『インポッシブル・シンキング』と用語を揃えると、こうした「メンタルモデルの変更」は人生やキャリアそのものを大きく脅かすことがある。
しかしながら、それを乗り越えた所に偉大な業績がうまれることがあるのもまた事実だ。チャーチル、カフカ、ニュートン、ユングなどの事例を紹介しつつ、彼らの「創造性」について考察している。
このレベルの創造性は「社会的な常識との折り合い」が付けにくい。人が一生をかけて身を投じるレベルの「創造性」だ。また「創造的になろう」と思ってこのような境地に至ったということですらなさそうである。
多分「ネットでクリエイティブについて検索してやろう」と考えている人は、このようなレベルのクリエイティビティを求めているわけではないと思う。例えば、日々CMを作っている「クリエイティブなディレクタ」が、全く創造的な映像表現手法を思いついたとする。それは高い確率で「お茶の間にはそのまま流せない」ような映像のはずだ。この考えに取り憑かれたディレクタが、その後も仕事を続けたければ、その思いつきをきれいさっぱり忘れてしまう必要がある。
いずれにしても、クリエイティブであるということは、オリジナルであるということと同じ意味らしい。そのためにはキャリアの最初に「ただひたすら作る」とか「経験を積む」というスキルを伸ばす時期が必要だ。
今回、ご紹介した本は、例えば「オリジナリティのある帽子を作りたい」というような人には向かないかもしれない。しかし、考えてみれば専門学校を卒業した時点で何の蓄積もなく「オリジナルでクリエイティブな帽子」が作れるはずはない。もし、若くしてオリジナルな何かが作れるとしたら、それはその人が持っている特性とか経験や物の見方に根ざした何かがあるからだろう。また「クリエイティブな帽子」が出てきた背景には、なんらかのマインドセットの変更があるはずだ。
ことさらに「クリエイティブ」になろうと思わなくても、人間の脳には「クリエイティビティを指向する回路」というものが組み込まれているのではないかと思う。でなければ、人生が台無しになる危険を冒してまで創造性に生きようという人が出てくる理由が説明できない。

放蕩息子の帰還

新しい教皇はイエズス会出身だそうである。ということで、イエズス会の歴史を調べても良かったのだが、代わりに聖書のエピソードを取り上げたい。「放蕩息子の帰還」というお話である。レンブラントの絵でも有名だ。
兄弟のうち弟が、父親が元気なうちから「財産の分け前が欲しい」という。その財産を処分し、弟は遠くに旅立ってしまったのだが、結局散在してしまう。食べるのにも困った弟は使用人でもいいからと考えて父親に赦しを求める。父はその息子を無条件で赦すのだが、兄はそれを認めようとはしない。そこで父は兄をたしなめるという話である。
この話には前後に別の例え話があり「正しい律法に基づいている人は、神様がなさるように罪人をも赦さなければならない」ことを意味しているのだと考えられてる。当時のユダヤ教と達は、宗教的な生活を実践しない人たちを差別していたのだが、キリスト教は、病気の人、貧しい人、そして罪人たちをも救済の対象にした。
現代日本であれば、弟は自己責任で破滅したのだし、実家に戻ってくれば兄の取り分が減ってしまうだろうと解釈されそうな話だ。
放蕩息子の帰郷 – 父の家に立ち返る物語 – 』は、この説話とレンブラントの絵画に触発された著者が、弟の立場、兄の立場、そして父の立場について考えを巡らせている。
弟の立場に立つのは比較的易しい。誰でも罪の意識というものを持っていて、純粋なものに立ち返りたいと思いつつもいろいろ逡巡するものだ。そして、そうした罪を「無条件に赦されたい」と考えている。
ところが「兄の立場」について考えるのは難しい。こちらは奔放な弟をうらやましいと思いつつも、実際には旅立つ事ができなかった人である。正しい立場にあるにも関わらず「嫉妬」というネガティブな感情を抱える。どの人にも同じような感覚があるに違いない。正しい行いを実践している人が、なぜ罪悪感を感じ、叱責されなければならないのか。
著者のナウエンは司祭なのだが、ここから「自分が父の立場」つまり、司祭として息子たちを指導して行く事と無償で与える事の難しさについても考えている。父は無条件の許しを与える神だというのが、聖書の普通の解釈だろう。
キリスト教の伝統的な解釈から外れると、これを一人の人が抱える問題だと捉え直すことができる。ある人が、心の中に欠落感を抱えている。それはなんとなく「昔に旅立ったまま帰ってこない息子」のようなものだ。ところが、ある日その人は「放蕩息子」を自分の中に見つける。そのまま祝福してやりたいが、一方で「まじめに生きてきた部分」があり、どうにも納得できない。そもそも自分がやってきたことのうちにいくつかは全く人生の無駄遣いなのではないかと感じるかもしれない。これをどう捉えるべきだろうか。
この2人の息子は、その人が持っている人格の多様性のようなものである。つまり祝福されたあるべき性質というものはすくすくと伸びて行く。その人の全人格のように生育する。ところが、人にはそれだけでは満たされない部分というものがある。祝福された性質に隠れて伸びる事ができなかった「劣等な性質」というものだ。ある日それを見つけて「劣等な性格に立派な着物を着せてやり」祝福することにする。つまり、放蕩息子に立派な着物を着せてはじめて、全人格が揃い喪失感がなくなるわけである。こうした感情を人生の成長の時期に持つのは難しいに違いない。
この物語には「なぜ、弟は出て行かなければならなかったのか」が全く描かれていない。「単なる放蕩」として語られる。もしかしたら、立派な片一方の人格の裏で育つ事ができなかった別の何かがあるのかもしれない。しかし、それを無視する事はできない。なぜならば、それも含めて個別の何かだからだ。
そして、出て行ったものを再び迎え入れることが「全くムダな行為なのか」という点も、実は考察に値する。弟は「全く無駄だった」と考えているらしいが、出て行く前の状態と戻ってきてからの状態は、単なる現状復帰に見えても、異なる状態のはずだからだ。
このようにこの逸話にはいくつかの解釈の仕方があり、どれが正解ということは言えないのではないかと思う。
さて、ローマカトリックは、現在問題を抱えている。法を守っているように見えて、内部では権力闘争や性的な退廃を完全に排除すること事ができない。ヨーロッパではこのことに失望した人たちがいて、カトリック教会からの離反もある。一方、イエズス会のように「外に出て行って」現地の文化を受け入れつつ、独自の経験を積み重ねてきた人たちもいる。ローマから見ると「必ずしも純粋とはいえない」かもしれない。
ベネディクト16世は、1981年から教理省の長官としてヴァティカンにいた。一方、新教皇にはローマでの経験がほとんどないそうだ。しばらくの間、ローマカトリックは、名誉教皇と教皇という2名の教皇を戴くことになる。