麺とグローバリゼーション

CIMG3509最近、秋に収穫をしたトウガラシを使ったペペロンチーノを作っている。
単純なパスタだが、水とオリーブオイルを混ぜ合わせる乳化という作業があり、なかなか難しい。
単純なだけに却って熟練を要するように思える。なんとなく挑戦しがいがある料理なのだ。
さて、パスタといえばイタリア料理である。日本風の食材を使うと和風のペペロンチーノができる。ほとんどそうめんなのだが、それでもなぜか「これはイタリア料理なのだ」という気分になる。多分スパゲティのソースもイタリア風の名前をつけたほうが売れるに違いない。
なぜヨーロッパではイタリア人だけがパスタを食べるのか気になって調べることにした。以下『ヌードルの文化史』を参考にした。
小麦は中央アジアからイランのどこかに自生していたイネ科の作物だ。これを乾燥させて持ち運んだのもこの地域の人たちなのだそうだ。これが東に広がり「麺」と呼ばれ、アラビア経由でヨーロッパに持ち込まれたのが「パスタ」だ。中央アジアやロシアにも小麦を加工した食品は広く食べられている。
イタリア人も古はからパスタを食べていたと主張する。当初彼らが食べていたのはヌードル状になったパスタではなく、シートになった今でいうラザニアのようなものだ。パスタはエトルリア時代の遺跡からも見つかっているのだそうだ。
現在の「パスタ」はシチリア島に持ち込んまれた。シリチアは当時イスラム圏だった。そこからジェノバやナポリに広がり、ナポリでトマトと出会った。当時南イタリアを支配していたのはスペイン人で、ラテンアメリカから持ち込まれたトマトやトウガラシなどと合わさって、現在のような形ができた。
このことから、現在のようなパスタは「イタリアでうまれた」というよりは、貿易の拠点として栄えた多国籍文化を背景に育ってきたことが分かる。
結局、どうしてヨーロッパでイタリア人だけが麺料理に取り組んだのかはよく分からなかった。スペインもかつてはアラブ圏だったのだが、こちらは、パエリアのような米料理は食べても、ヌードル状の料理はなさそうだ。ギリシャとトルコにはヌードルやパスタがあるそうだ。

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台湾には牛肉麺と呼ばれる麺料理がある。

日本人はヌードル状の料理を麺と呼ぶ。これらはうどんを含めて中国経由だと考えられている。特にラーメンは「中華料理」の一種と見なされることが多い。
ところが、台湾や中国では、日本人が想像するようなラーメンを見かけることは少ない。例えば台湾で有名な牛肉麺はどちらかといえば、牛肉のダシで食べるうどんみたいな印象である。
そもそも中国語の「麺」には「ヌードル」の意味はないそうだ。麺は小麦粉を練って作った食品全般を指す。
とにかく、大陸生まれとされるラーメンは日本に入り様々な変化が加えられるようになった。特に劇的な変化は、麺を揚げたインスタントラーメンだ。この時「即席うどんを作ろう」という発想にならなかったのは、ラーメンが外来食品だとみなされていたからではないかと思われる。うどんやそばのような既成概念がなかったから却って自由な発想ができたのだろう。
これがさらに国際化されてカップヌードルがうまれる。
私達が英語だと思っているヌードルだが、語源はドイツ語なのだそうだ。ただしドイツではヌードルに麺という意味はなく、国際化された結果「麺のようなもの」を表す言葉として広く使われるようになった。中国の「麺」が日本で「ヌードル」の意味を持つようになったのと似ている。
例えば、ソバは小麦料理ではないので中国では「麺」とは呼ばれない。そもそもソバは穀類ですらないのだそうだ。
このように食べ物には保守的な側面と革新的な側面が共存している。土着の食べ物に対しては保守的な気持ちが働き古い性質が残される。ところが、外国から持ち込まれた食品に対してはとても大胆な改良が加えられることがある。その一部が土着化して固定される。麺やヌードルのように、ある国でうまれた言葉が誤解された結果、別の国に広がることもある。
例えば、日本産とされる寿司はsushiになる。西洋人は生魚など食べないという日本人の常識に反して、アメリカ人はランチにスーパーで買ったsushiを食べる。その中身を見ると、アボガドやサーモンなどが使われていて、主食というよりはサラダの感覚で食べられているようだ。
21世紀はグローバリゼーションの時代と言われるのだが、実際には紀元前から国際交流があり、その結果私達の食生活は豊かになった。こうした交流からイノベーションがうまれることがある。
 

共感の欠落と理系脳

このところ、日経サイエンスが面白い記事を載せている。一つはサイコパスに関するもの(日経サイエンス2013年2月号)。そして今月は理系脳と自閉症の関係(日経サイエンス 2013年 03月号)について書いている。

自閉的な傾向とは

「自閉的な傾向」とは相手の言っていることがうまく読み取れない特性だ。相手の気持ちを読み取れない代わりに、一つのことに執着する傾向を見せることがある。自閉的脳は世界を「パターン化・システム化」したがる脳だということが言える。そして、自閉症の子どもの親は有為に高い確率で科学者なのだそうだ。故に科学者の適性と自閉的な傾向にはつながりがあるものと類推される。数学が得意な学生も自閉的特性(AQ)が高い人たちがいる。調べてみると、胎児期に浴びるテストステロンの濃度などが関連しているらしい。
「自閉的傾向」といっても、ある境界で「正常」と「異常」が区切られているというようなものではない。故に、境界にいる人たちは「なぜか相手を怒らせてばかりいる」とか「空気が読めず、顰蹙を買う」というようなことが起こるかもしれない。「共感」とは相手の気持ちを読んで、その場で適切に対応する能力だ。特に「集団に従う」ことを要求される社会では居心地の悪い思いをする可能性もあるだろう。

自閉的傾向の人たちが集る地域と職業

こうした特性の脳が世界中が集ってくる地域がある。記事によると、シリコンバレーでは自閉症児の出現する確率が高いのだそうだ。金融高額やゲノム解析などに欠かせないプログラマの適性は高い付加価値をうむ。つまりこのような特性は「異常」というよりは、アウトライヤーである可能性が高い。逆に「お互いの気持ちを読み合うばかり」の教育が、こうした高い能力を持った人たちを排除してしまう可能性もある。潜在能力が高くても、「自分は社会からの落伍者なのだ」と認識してしまえば、その能力が伸ばされることはないだろう。

アウトライヤーが切り開く可能性

現代は「モノ作り」が一段落して、より高い精度で消費者と感性を一致させることが必要な時代だ。だからより「共感」が求められるのだと考えることもできる。ところが何が共感なのかと問われると、よく分からないことが多い。
まず、自閉脳とパターン認識の関連で見たように、消費者の反応はある程度パターン化できてしまう。このため、データさえ集める事ができれば、あとは自動計算ができるようになるかもしれない。また、相手と共感できないが故に「より適切に」共感関係を築くことができる特殊な人たちもいる。
サイコパスの人たちは、相手を思いやる回路に欠落がある。このため、大抵のサイコパスたちは、社会生活を破綻させてしまう。しかし中には過剰に適応している人たちがいる。この人たちは相手を騙すことをなんとも思わず、むしろゲームのように楽しむ事ができる「天性の詐欺師」のような人たちである。彼らは相手の思っていることが手に取るように分かってしまうので、表面的にはとても魅力的に見える。ところが実際には、相手とは全く共感していない。むしろ「どうやって、相手を騙してやろうか」などと考えているのである。

変わり続ける自閉的傾向の位置づけ

アメリカでは、サイコパスや自閉症という正常範囲から外れた脳の特性をどう位置づけるかについて、様々な研究や議論があり、最近も区分が変わったばかりだ。サイコパスという言葉自体も精神医学では使われなくなりつつあるそうだ。
詐欺を働くと犯罪者だが、このような能力はいろいろなところで活かすことができる。犯罪に手を染めさえしなければ、相手に心地よい言葉をささやきかけるマーケターになれるだろうし、お互いの協力関係がすべて利害につながっている企業のトップにも適した才能なのかもしれない。ビジネスの現場で「善悪の判断がつかない」ことが問題にならないことが多いのもまた事実である。

過剰な脳の進化によって支えられた危うい社会

日本は、集団で面接し相手の気持ちを読み合うような作業を延々とくりかえす。こうした作業の結果「共感できない」人たちが排除されてしまう可能性は否定できない。また「どうしても子どもを愛せない」という母親が期待される母親像とのギャップに苦しむことがあるが、女性も男性よりは確率が低いとはいえ、こうした傾向を持っている人たちがいるのだそうだ。さらに「共感」といっても、相手の気持ちを読み取る能力や相手の喜びを自分の喜びにすることができる能力など複数の能力の組み合わせになっていることも分かる。
もともと脳には多様性がありそれぞれ得意分野がある。これを活かす事ができれば、社会の成長に貢献するだろう。逆にヒトの脳は進化しすぎたために、社会生活を営むうえで正常と異常ぎりぎりのところで危ういバランスを取っているのだと考えることもできる。

蝶ネクタイの結び方

靴ひもが結べますか?だったら、蝶ネクタイも結べます

ボウタイ、もしくは蝶ネクタイ。結び方が分からない、という人は多いのじゃないだろうか。ネットで調べると、イラストやビデオが山ほど出てくる。しかしなんだか要領を得ない。肩も頭も痛くなってくる。
しかし、探しているうちにわかりやすいページを見つけた。ダンヒルのページ。一言「ボウタイは誰にでも結べます」と書いてある。靴ひもと同じですということだ。そう、靴ひもと同じ蝶結びなのだ。

太ももにボウタイを巻いて、蝶結びにしてみた。あっさりとできた。次に首に巻いて鏡を見たら、またできなくなる。
テレビをみながらやると簡単にできた。どうやら蝶結びのやり方は頭でなく、手が覚えているらしい。不思議と意識をそらしたほうがいいのだ。
意外と新しいボウタイの歴史
男はなぜネクタイを結ぶのか (新潮新書)によると、ボウタイはネクタイを蝶結びにしていた時代の名残で結び目の部分だけが残った形なのだそうだ。

歴史は意外と新しく、初出ははっきりとはしないものの1850年代頃だそうで、最初に流行したのは1900年頃だということだ。
この本にはチャーチル、リプトン、プッチーニがボウタイ好きとして挙げられている。それぞれにストーリーがあって、意外と面白い本だった。リプトンのボウタイは蝶の形ではなく、クローバーの形に開いている。アイルランド系の出自を現しているということだ。最初から結ばれているボウタイも売られているのだが、手結びのボウタイは、すこし崩している方が味がある。緩く結んでもほどけないのは、よいシルクを使っている手結びボウタイにしか出せない「味」なのだという。
普通のスーツにボウタイをあわせてしまうと、なんだか古めかしい感じになってしまう。最近は、意外とカジュアルでもありのようだ。
手結びのボウタイを売っている店は少ない。ブルックス・ブラザーズと、ポロ・ラルフローレンには置いてあった。だいたい7,500円から8,500円程度。この他にも「アメカジ」とか「フォーマル」のコンテクストで売られているボウタイもある。ブルックス・ブラザーズは通販でも購入可能だ。