『最後の授業』の誤解

『最後の授業』という感動的な短編がある。
アルザス地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやらフランス語の先生が、プロシア人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。フランス語の先生は「フランス語は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年はフランス語を習得できなかったことを恥るが、もう二度とフランス語を勉強することはできないだろう。小説は「フランス万歳!(Vive la France)」という言葉で締めくくられる。
この話の教訓は「国語というものの力強さと素晴らしさ」で、一時期、国語の授業では必ず教えられていた。今40歳代の日本人であれば誰でも知っている話だろう。勉強する機会は充分にあったのに、勉強させなかった、という先生の後悔の念が語られ、フランス語をろくに習得できなかった(動詞の活用ができない)生徒も悔しさをにじませる。
これを日本語と中国語の関係に置き換えてみよう。もちろんこんな史実はない。だから中国語を英語に置き換えてもらっても構わない。しかし何語に置き換えても「かなりショッキング」に聞こえるのではないかと思う。どちらも異民族支配をにおわせるからだ。
沖縄地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやら中国語(あるいは英語)の先生が東京人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。中国語(あるいは英語)の先生は「中国語(あるいは英語)は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年は中国語を習得できなかったことを恥じる。小説は「中国万歳!(あるいは英語万歳!)」という言葉で締めくくられる。
アルザス地方に住んでいるから、この人たちは「フランス人だろう」と、私達はついそう思ってしまうのだが、実際に住んでいるのは「アルザス人」だ。アルザス語はドイツ語の一派である。(Wikipediaにはドイツ語の方言と書かれているのだが、これはことの本質に影響する問題だ)小説の中に「フランス人だと言い張っているが、フランス語もろくにしゃべれないじゃないか」という言葉が出てくるのだが、これは当たり前である。アルザス人にとって、フランス語は学校で習わなければ覚えることができない「外国語」(という言葉が適当でなければ、別系統の言葉)なのである。
この状態は実は現在でも続いている。フランスにはバイリンガルな人たちが相当数存在する。
この話のもう一つのポイントは「アルザス人」と「プロシア人」の関係だ。この頃にはまだ「ドイツ人」という概念はなかった。例え話の中で「沖縄」を出したのはそのためだ。現在の沖縄人は標準語をきれいに話すし、琉球方言が日本語と同系統にあるのは間違いがない。しかし、これを「琉球方言」と呼ぶか「沖縄語」と見なすかは、実は大きな問題だ。「独立したアイデンティティ」と見なすことも可能だし「日本人とは違う」という差別の温床にもなる。日本人としてのアイデンティティを持っている大阪府在住の沖縄人(例えば金城さんや仲村さん)を「差別するのか」という問題になりかねない。
フランス留学時にこの話に接した日本人は「ああ、民族にとって言葉は大切なのだなあ」と純粋に感動してこの話を持ち帰ったのだろう。しかし、実際には複雑な背景持ったお話なのだ。だから、最近ではこの話は教科書では教えられなくなってしまった。
アルザス地方にはこうした複雑な背景があり、天然資源や軍事拠点の問題からドイツとフランスの間で領土争いが続けられてきた。現在フランスでは「地方語」を大切にしようという運動があり、アルザス語の他にも南フランスのラテン語、サルジニア語、カタロニア語、バスク語、ケルト系の言語などを保存しようという動きが起きている。フランス語は大言語なのでこうした複雑なことが起こるのだろう、と思いがちだが、フランスの人口は6500万人だ。母語としてフランス語を話すのは7200万人なのだという。
アルザス語話者は「書き言葉としてドイツ語を使い、日常言語としてはアルザス語を話す」ことがあり、その意味では「ドイツ語の方言」ともいえる。これは九州地方の人が日常会話で九州方言を使い、学校で標準語の習うのに似ている。
日本人は「日本語は一つしかないに決まっている」と考える傾向がありそうだが、1億人以上が話す言語なので、それなりの多様性がある。しかも学校では方言の文法を教えないので、扱いが曖昧になることがある。
例えば、西日本方言には共通語にない特徴があるのだが、学校できちんと習わないために、使い方が曖昧になる傾向がある。例えば「買いよー(今、買っている)」と「買っとー(既に買ってある)」は違う意味なのだが、きちんと説明できる人は少ないのではないかと思う。「雨が降りよー(今降っている)」と「雨が降っとー(雨が降ったあとがある)」も違う状態だ。
また「しゃべれる(この人は英語がしゃべれん)」「しゃべりきる(外人とはようしゃべりきらん)(この原稿は長すぎるけん、時間内にすべてしゃべりきらんばい)」は同じ能力を現す表現なのだが、能力的に可能なのか、その意欲や余裕があるのかという違いがある。つまり方言は文化的に下位にあるからといって機能的に劣った言葉であるとは言えないし、日本語の各方言が同じ文法的構造を完全に共有しているわけでもない。
定義や独立した政治意識がないので「九州方言を九州語と呼ぼう」という動きもなければ、どこからどこまでが「九州語」なのかも分からない。例えば瀬戸内海沿岸で話される言語が「九州語を基底にしているのか」「中国地方の言葉を基底にしているのか」「そもそも西日本諸語は一つの言葉なのか」はそれぞれ議論の余地がありそうだ。
琉球方言を例に挙げたので、それだけが特別なように見えてしまうのだが、実は日本語の中にもそれぞれ特徴が異なった言語層がある。それを意識しないで使い分けている。
この「民族の問題」は、頭の体操レベルなのだが、実際の問題を考えるうえで役に立つのではないかと思う。
現在、尖閣諸島、竹島、北方領土など「辺境地域にあるのに、国家や民族のアイデンティティにとって大切な」地域の問題がクローズアップされている。大抵の場合「中国」「日本」「韓国」「ロシア」という国家領域の問題なのだが、ついつい民族問題として捉えてしまいがちだ。民族というのは複雑な概念だ。『最後の授業』では、フランス=フランス人と捉えることで、ドイツとの競争を有利にしようとした。このように、対外的に団結するために「民族=国家」という人工的な概念を作り上げることがある。
よく「我が国固有の領土」という言い方がされる。「北方領土は我が国固有の領土」という言い方は、確かに合理的な正統性があるのだろう。しかし、実際には「アイヌなどの北方民族の地」なのではないかという見方もできる。できるだけドライに「政府が合法的に手に入れたか」を問うべきだと思うのだが、ウエットな感情なしにこれらの問題に肩入れできる国民が果たしてどれくらいいるのか、少し疑問に思ったりもする。つい「日本人の土地を返せ」と感じてしまうのである。
日本国=日本人=日本列島という国に住んでいると「民族」「国家」といった問題はかなり自明のものに映る。しかし「日本語」や「日本人が何なのか」という概念は、実は私達が考えるように自明のものではない。そして対峙している国の中には、ロシアや中国のように多民族の国もある。また韓国のように、1つの言語を共有する民族なのに、3か国によって呼び方が異なる人たちもいる。