開き方を覚える

まず、ビハインド・ザ・サンというブラジル映画を題材に、国家の調停力がないとどのような状態が起こるのかについて見た。協力がなくなると全体の生産性は落ちる。また、将来的な協業の可能性も奪われる。しかし映画を見る限り。当事者同士で分断された状態を協業に持ち込むのは難しそうだ。これが生存本能に基づくものだからだろう。こうしたフレームワークを拡大するとお互いに争っている企業や国家の状態を分析することができるだろう。
映画の洞察から、いくつもある国家の機能の中から「プラットフォーム」を作るという働きを取り出した。この国家観のもとでは、国が持っている労働力とリソースを最大限に活かすことが最大限の目標になる。ここではアイデンティティの保持、防衛力、公平などの概念は棚上げした。特に公平については別に議論しなければなるまい。国が持っている労働力とリソースを最大限に活かすためにはどうしたらよいのだろうか。経済学者はすべてを「市場原理」に任せるとこうした状態 -パレート均衡- を実現できるのだという。この考え方では、所得再分配などの政府の介入はすべて「コスト」として捉えられるのだった。しかし市場原理には限界もある。競争の結果リソースが一カ所に偏在してしまう可能性があるのだ。こうした状態を市場の失敗と呼ぶ。また空気や環境といった公共物も適切に扱う事はできない。こうした公共物をコモンズと呼ぶ。
ここまで見ると、市場競争は「分断」と「一極集中」という2つの失敗があることがわかる。そして国家の過度の介入はコストとなるのだ。ゲームルールの組み方次第でどれだけ円滑に長期間ゲームが続けられるかが決まるようだ。
さて、国家などの「単位の枠組み」は常に変動しているらしい。例えば、新重商主義と呼ばれる形態では、国が主体となってシステム化されたもの -例えば高速鉄道や携帯電話のようなもの -を売り込もうとする。これはいっけん、国家がスポンサーになってある地域の貿易を独占したかつての重商主義に似ているように見える。しかし見方を変えれば、かつて企業単位で行なっていた活動を国家が担うようになり、国単位だった市場が世界市場に変わりつつあるのだとも考えられる。この「単位」に関する揺らぎはこのあと至る所で目にするようになるだろう。
さて、こうした国家観とは別に、日本には国は利益誘導のためのパイプラインだという考え方があるようだ。こうした考えかたを分かりやすくするために「水田に水を引く」という例を挙げた。水田には、水門や水路がある。場所に利権がはりついているのだ。場を離れてしまうと、利益が得られにくくなる。故に流動性が妨げられるという仮説だった。例えば高速道路の建設に関する議論を見ていると、インフラを整備して全体の効率化を図ろうという「建前」の他に、公共工事を通して中央部で得られた利益を地方に分配したり、ETCのように長期間利権が得られるように水門を作るというような「本音」が見えるのだった。そして建前よりも本音の方が理解されやすい。選挙のための理屈としては「本音」のほうが優れている。
こうした利益誘導型の社会システムがいつも悪いというわけではない。中央に潤沢な利益があれば効率的かつ安定的に利益分配ができるよい制度とすら言える。アジアの開発途上国の中にはこうした利益誘導システムがないために、国力を十分に活かしきれないところがある。しかし一方で、利益ソースが外部にありコントロールが不能である点、システムが緻密すぎて柔軟性にかける(変化に対する耐久性がなく、不確実性に弱い)という欠点があるのだった。柔軟性のあるシステムは単純でモジュール化が可能である必要がある。単純なシステムは拡張が簡単だし、古い機械を新しい機械に置き換えるのも簡単だ。しかしシステムの変更は難しいかもしれない。特に当事者間の調整でシステムが変更されることはないかもしれない。こうしたシステムが変化するのは、全体の急速な崩壊が起こり、極端に不安定化した状態を経て、新しい秩序が生まれるというような急速な変化だろう。日本のシステムはクローズなシステムだが、拡張可能なシステムはオープンなシステムと呼ぶ事ができる。
さてクローズなシステムは自前主義を取っている。このような仕組みが病的な相を見せているのが「ゴミ屋敷」だ。ゴミ屋敷は過去に蓄積したものを全て自前で貯め込んだ姿である。もはやリソースの活用もできなければ、何がゴミでなにが資産なのか分からなくなった状態だと言ってよい。しかしこれも自然な人間の生存本能がもたらす状態の一つなのだ。人には所有欲があるのだし、他人は信頼できないと思うかもしれない。
こうした問題を解決してくれるかもしれないのがオープンイノベーションだ。これは自社で扱いきれなくなったイノベーションの種をサプライヤや顧客などの力を借りて推進するやり方である。さらに資産を解放するオープンソースというやり方すら行なわれている。こうして外部への開き具合をコントロールする事で、イノベーションの為のエコシステム(プラットフォーム)を作るのだ。しかしオープンイノベーションには一つ大きな障害がある。クローズな世界に慣れている人たちには、この開け放ったところから利益を生み出すという概念を理解することはできないのだ。つまり人間の自然な欲求の一部を諦める必要があるということになる。これはビハインド・ザ・サンのような状態だと考えられる。つまりゴミ屋敷に閉じ込められている状態は、貧しいサトウキビ農家が競合しているような分断を生み出しているわけである。
例えば「地域主権」は、地域をグローバル市場で独立したプレイヤーとして機能しうる単位に分解することを目指して作られた。うまく行けばシンガポールのような通商国家として繁栄することもできるだろう。九州のようにヨーロッパの1国と同じくらいの経済規模を持った地域もある。しかし議論をしている内に、いつのまにか議論が「水路」や「水門」をどうするかという利害関係の話にすり替わってしまう。そもそも有権者の間には「どうして地域分権するのか」という理解はないように思える。意識を変える事は、時にはほとんど不可能と思えるほど難しい。結果的に、依存的な制度が温存されたり地方同士の分断を加速させてしまったりするのである。
さて、今回の議論はここまでだ。この中では「オープン」なシステムの良さは分析できたものの、どうやって既存の組織を再活性化できるかというアイディアはない。変革には危機意識とリーダーシップ(目標を明確にし、ゴールを指し示す事)が必要なように思えるが、利益分配型の政治にリーダーシップは期待できそうにない。また日本人が「本当に変わらなければいけないのだ」と考えるに至るような深刻な事態は未だに起こっていない。また議論の途中で競争的市場原理に際して公平性をどう担保するのか、そもそも公平とは何なのかということは扱えないでいた。そもそも市場主義がうまく行かず、格差が拡大する(これはパレート均衡に反する)のはなぜなのか、十分には分からない。
協業がどれほど難しいかを考えるに当たっては、例えば隣の部署と垣根を越えて協業ができるかどうかを考えてみると良いだろう。きっとどれくらい分断されているかということがよく分かるはずだ。
日本ではまだ労働力をどう流動化させるかというレベルで議論が止まっている。いわゆる正社員・非正規社員問題というやつだ。一度正社員を辞めると二度と雇用ができないのでは技術移転は進まないだろうし、海外の優れた技術を内部に取り込むことも難しいだろう。海外にはこうしたオープンな協業ができている企業は多く、もともと日本よりは流動化が進んでいるのだから差はひらく一方である。海外の企業と協業していればこうした状態に危機感を覚えることもあるだろうが、人材の交流が進まず、孤立した状態ではこうした危機感を抱くことすらままならないに違いない。
外に向かって開いて行くということは自信のあられとも言える。全てを解放する必要はないし、強制されるべきものでもない。しかし、開き方を覚えることで企業や国家の打ち手の自由度は増すはずである。

ビハインド・ザ・サン

ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。ビハインド・ザ・サン [DVD]は2001年のブラジル映画。原作はアルバニアの小説。
20世紀の始まりごろのブラジル。川が干上がってしまった荒涼とした大地。2つの家の間で土地の争いが起こっている。この土地を取ったり、取り返したりする過程で、殺し合いが起こる。殺し合いは様式化されていて、もはや家の名誉のかかった闘争になっている。まず長男が殺される。次男は長男の復讐のために相手の家のものを殺す。満月までは休戦協定があり安全なのだが、そのあときっと殺されてしまうだろう。
映画を見ている我々は客観的な視線でこの映画を見ている。だから「土地を巡ってこんな争いをしていては、いつかは一家は皆殺しになってしまうだろう」ということが分かる。逃げてしまえばよさそうなものなのだが、名誉がかかっているので逃走するわけにもいかない。逃げ出せば、きっと土地は相手の家に渡ってしまうにちがいない。つまり、解決策は「殺されること」しかないわけだ。
この映画のキーになっているのは、映画を見ているひとと同じ目線に立っているサーカスの2人(途中で「あの人たちはバカなことをしている」とつぶやくシーンがある)だ。人々が労働に勤しんでいる間、広場で楽しそうに祝祭に興じている姿はある意味ドロップアウトした人々だといってよいだろう。次男はこのサーカスの世界に触れる事で復讐に疑問を持つようになる。
もう一つは名前のない3人目の息子。まだ復讐に巻き込まれておらず、サーカスの女性から本を貰い、字が読めないのに本を読むことになる。(つまり、空想の中で、自分が知っている世界を再構成しつつ物語を創作しているわけだ)多分、この子どもに名前がないということが重要で、この子どもが「解決策」になる。ぜひ結末はDVDなどを見て確認していただきたい。

人殺しはなぜいけないのか

ヤノマミを考えたときに、なぜ人殺しはいけないことなのかということについて考察した。いったん命に値段をつけてしまうと、人の命をもってあがなえば何をしてもよいということになる。この一家の闘争の歴史はそれを象徴している。人の命に等価なのは人の命しかないので、いったん殺し合いが始まると、解決策は「逃げる」(ヤノマミはこうする)か「誰もいなくなるまで戦う」の二者択一ということになってしまう。この権利を人々から取り上げて、国が一括管理しようというのが死刑制度だといってよい。よく死刑制度を存続させる議論で「抑止力として死刑を残すべきだ」という人がいるが、死刑は抑止力にはならない。「私の命をかけて、相手を殺してしまおう」という人はいなくならないだろうからだ。国が「人々の財産を守るために殺し合う権利」を取り上げるという抑止力も、国対国の争いでは無効だ。ある程度様式化されていたり、兵士の人権に関する取り決めがあったりするのだが、やはり戦争は集団同士の人殺しなのだ。
闘争を止めることができるのは、関わっている人たち全員が「ああ、こんな事をしていても何も変わらない」と思う出来事だけだ。映画の中には少なくとも片方の当事者の間にはそれが起こる。すると、対立していた視点が一段上に上がる。それがサーカスの視点であり、映画を見ている人たちの視点だ。だから、この映画を見ると、俯瞰的な視点の重要性がよくわかる。
つまり命を取ったからといって、人殺しやその他の重大犯罪をあがなってもらったことにはならないのだと人々が思ったとき、はじめてこの手の犯罪がなくなる可能性が生まれるということになる。そう思った人たちは、罰として命を取ろうとは思わなくなるはずだ。
一方、こうした冷静で客観的な思考を持ち得るのは、我々が当事者ではないからである。もし子どもが殺されたとしたら、相手も命をもって罰してほしいと思うようになるかもしれない。しかし一方当事者の視点は問題を根本的には解決してくれないのだ。
解決策にはロジックはない。つまり議論から解決策は生まれない。我々が「ふ」と思うことだからだ。ロジックがないからといって、意味がないというわけでもない。

俯瞰する事

例えば同じことが、いろいろな論争にも当てはまる。例えば、基地の問題が解決しないのも同じことだ。例えば基地の問題を解決するためには、世界的な軍事の枠組みをどう変えてゆこうかという視点がないと根本的には解決しないだろう。そう考えると、核の枠組みについて話し合う現場ではもっと積極的に議論に参加してもよかった。
なぜこういう視点を持てないかということについて考えてみたい。「あの政党」が選挙に勝つ事を軸に意思決定をしているからだ。パイが拡大しているときには成長利益を誘導してくればよいのだが、パイが拡大しないと仮定すると、誰かがもっている利益を取り上げて持ってくるしかない。基地はマイナスの利益なわけだから、損の付け替えをせざるをえないわけだ。
現実の問題を解決するのは、当事者の視点を越えたリーダーシップから生み出される解決策か、我々一人ひとりが「ああ、当事者で闘争していても、何も変わらないだろう」と考えて行動を変えて行くかのどちらかだろうと思われる。
日々の議論の中で、我々は当事者的な視点から逃れることはできない。小説や映画といった創作物はそうした視点を脱するためのきっかけを与えてくれる。この映画の中では、3番目の男の子が持っていた本と、サーカスがそれにあたる。人々が本を読んだり、映画を見たり、テレビドラマを鑑賞するのは、こうした機能を持っているからなのだ。
ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。これがある限り、出版物が日々のつぶやきに取って代わられることはないだろう。逆に本が一冊残らず消えてしまったとしたら、出版物から普遍的にあてはまるテーマが消え去り、日々の闘争の中に埋没してしまったということなのだろう。