ウィリアム・ジェームズ – 死にたくなったら読む本

ウィリアム・ジェイムズ入門―賢く生きる哲学という入門書を読んだ。この本を読むまで「ウィリアム・ジェイムズ」という哲学者を知らなかった。そのあと、ウイリアム・ジェイムズ本人が書いた本も読んでみたのだが、それほどピンとこなかった。にも関わらず、あえてご紹介しようと思う。
とりあえず、まだ死にたい程でもないなあという方は天才はいかにうつをてなづけたかがお薦めだ。うつは外面と内面を統合する機会であるという主張だ。ストーはこれを創造のモチベーションのひとつだと考えている。
さて、ウィリアム・ジェイムズに話を戻す。彼のポイントは簡単だ。考えるのをやめて、実感に任せるということだ。ポイントは簡単なのだが、これを実現するのはなかなか難しい。
ウィリアム・ジェームズは1842年生まれ。家族の期待に応えるべく医学を学び、めでたくM.D.の学位を取得して医者になった。彼はその過程で「魂の病」にかかる。どうやら医者になりたかったわけではなかったわけだ。さまざまな身体症状が出た後、神経衰弱になり、鬱を経て、最後に自殺を図った。この経験のあと、医者になるのをやめてハーバードで心理学を教えながら、最終的に哲学者として知られるようになった。
ウィリアム・ジェームズ入門は、ウィリアム・ジェイムズは「復活」をテーマにしているのだという。これは、伝統的なライフスタイルが壊れた後の文化的な混乱の最中で、人々が陥っている、無気力、消極性、自己破壊的なシステムを克服することを目指すと説明される。これが今回、この本をご紹介する理由だ。私たちの社会も今同じような状況に置かれていると考えるからだ。
もちろん、哲学者にお説教されたからといって「消極性」や「自己破壊」が克服できるわけではない。最近よく聞く「日本を成長させるために、みんなが起業家にならなければならない」とか「就職して社会的に望ましいステータスを得る事ができないのは、個人が怠けているからで、これは自己責任だ」という、奇妙な集団主義的個人主義が蔓延している。こうした近視眼に陥った人たちに、欠けているものが、ウィリアム・ジェイムズを読むことで見えてくるように思える。
ウィリアム・ジェームズがよりどころにしているのは実感だ。人生の意義のようなものを観念で証明しようとすると、内的な破綻を来たすと断言する。つまり考えても無駄だったということだ。しかし、そんな中で彼は「それでもわきあがってくる実感」を感じたのだという。
考え抜いて、何もかも期待が消え去ってしまった。それでも、人間はわき上がった実感の喜びを経験することがある。そこで、はじめてその存在が当たり前のものではないということを知ったわけだ。考えてみても無駄で、考えるのをやめた時に何かが見つかった。それはそこにあるのだから「それを信じることを決めよう」というところに自由意志の入り込む余地があると考えているようだ。
仏陀のストーリーの中にも同じような記述がある。あらゆる修行をこなしたものの心理は見えてこない。そこで差し出された粥のおいしさに目覚め、そこから修行を再開することで悟りに至ったのだった。
悩むほど考え抜くことが「ムダ」だったのか、という疑問も湧く。考え抜いたからこそ実感が大切という洞察を得たのかもしれないし、そもそも考えすぎない方がラクに生きられるよということなのかもしれない。悩みの中に答えはないのだが、その体験そのものはムダにはならないかもしれない。
さて、日本語版のwikipediaでウィリアム・ジェームズについての記述を見ると、日本の哲学者や夏目漱石などの文学者に影響を与えたという点に主眼が置かれている。また言葉が力強いので「起業」「モチベーション」「人生の成功」と結びつけた名言として語られることも多いようだ。つまり積極性を得るための言葉として利用されているわけだ。
しかし、ネズミ車のような環境で日々のノルマに疲れ果てているサラリーマン、自己実現ができないと悩んでいる女性総合職のような人たちが、ウィリアム・ジェイムズがどうしてこのような考えに至ったのかという経緯を抜きにして、結果だけ聞かされると「とりあえずがんばれ」のようなメッセージになってしまうのではないかと思う。これは、もうエネルギーが切れかけて睡眠もとらなくてはならないのに、カフェインの力だけで走らせるようなものだろう。生きる実感は頭で理解できるようなものではないのである。加えて、積極性は強制できるようなものではないだろう。
つまるところ、積極性や生の喜びというものは「努力をしなければ手に入らない」というものでもないというのがこの考え方のポイントだと思う。時には、逆に全てを手放したり、自分の内面を探ることによって得られる場合もあるということだ。
全てを自分でコントロールしようとするネズミ車から抜けてはじめて「自分が喜びを実感できるのは何か」ということを考えることができる。しかし、経済が縮んでゆく中でこうした決意をするのは大変な勇気がいる。今まで「誰に受け入れられるのか」ということだけを考えて生きてきたわけだから(コンカツ、シュウカツの活は「受け入れられるように動く」ということだろう)生まれてはじめて考える「自分が何をしたいか」かもしれないのだ。
ウィリアム・ジェイムズの本そのものはあまり面白くなかった。いったん脱却してしまうと、当たり前に思えてくるからだと思う。ウィリアム・ジェイムズのやり方は、同じような内的な葛藤を味わい、実感を心理学に昇華したユングに似ているように思える。この時代の実感だったのかもしれない。ニーチェは1844年の生まれだが、この人は考えすぎた末に悲劇的な死を迎えている。ユングはそれを体系化してユング派心理学の基礎を作るのに成功した。一方、ジェイムズは体系化を望みながら実現しなかったのだそうだ。
ユングとジェイムズに共通するのは「スピリチュアリズムへの傾倒」だ。ジェイムズの場合「全てを投げ出しても、生きる喜びは実感できる」ということを「神の恵み」と同一視している。日本人は幼少期に宗教体験を持っている人が少ない。だから、この種の体験に忌避反応を持つか、逆に埋没することがある。こうした事情も我々がなかなか「考えすぎる」ことから抜け出せない理由になっているのかもしれない。

「場」を作る

Blogos経由でHatenaの記事を読んでいたら面白い記事を見つけた。記事にするのもどうかなと思い3分くらいで、ちゃちゃっとコメントを書いたのだが、まとまりそうなネタがないので、今日はこれをネタにすることにする。クリス・アンダーセンの「フリー」が良くわからないというのだ。この記事を分析すると、日本だけがどうしてデフレと不況に苦しむのかという理由の一つが見えてくる。
この本、昔本屋で立ち読みしただけ。だから書評として正しくないだろう。ここで分析したいのは記事の内容だ。フリー経済と対比させて「漁場で魚をとる」例を挙げている。この人は海にいる魚をとるのはタダだと言っている。六甲の水もタダだ。これを読んで思い出したのは「日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)」だ。日本人がユダヤ人のフリをして書いている本なのだが、この中に「日本人は水と空気はタダだと思っている」という考察がある。しかし実際には漁師たちは漁場を整備したり、水産資源が枯渇しないように調査をしているはずだ。旅館も山菜をとってくるのは無料かもしれないが、そうした山林を観光資源として守るためにはさまざまなコストを支払っている。これを「場を維持するためのコスト」と呼ぶことにする。
つまり、ビジネスには「場」が必要だということになる。しかしそれを無自覚に使うと将来的には「場の資源」が枯渇し、ビジネスが成り立たなくなる。しかし日本人の多くが「場」について無自覚になると、コストを支払うインセンティブがなくなり、最終的にはビジネスを成立させる環境がなくなってしまうのである。
例えばこういう例はどうだろうか。企業の成長のためには「優秀な人材」を育てる必要がある。故に企業は大学卒業者を教育し、こうした人材を育てて来た。しかし、その事に無自覚になると「今いる優秀な人材を使えばいいや」と思うようになる。(育てなくても、中途労働者の市場にそこそこ優秀なヒトたちが集っていたということもあるだろう)誰も次世代の人材を育てなくなり、将来的にイノベーションを担う若手が枯渇する。これは一例だが、こうした例はいくつも考えられる。
例えばフリーではないにしても、ほとんどフリーの実例として「格安バスツアー」とか「韓国10,000円」なんかがある。実際には地方や外国の土産物屋にお客を運んでいるのだ。運賃を格安に抑えることで「ビジネスの機会」を作ろうという戦略だろう。実はよく行なわれていることなのだ。
日本人がこのブログ筆者のような疑問を持つのは、戦後、あまり「場」を維持してこなかったからだろう。本当のところはよく分からないのだが、アメリカで儲かっているビジネスを日本に持ってくればよかったからという事情が大きいように思える。ましてや「場」を作るのはもっと苦手だ。新しい場を作る事ができなければ(難しい言葉では市場の創出とでもいうのだろうか)既存の市場はやがて収縮をはじめる。その内誰も利潤を追求することができなくなり、やがては市場は死に至る。
イノベーションにはいろいろな分類の仕方があるのだと思う。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)によると、既存技術の継続的に洗練する事、ローコストのソリューションを生み出す事、そして新しい市場を作る事だそうだ。継続的なイノベーションはやがて効力を失う。だからそれ(継続的なイノベーション)だけではやがて市場は死んでしまうのだ。これは家電と自動車の凋落を見ているとよく分かるだろう。
オープンソースについては興味深い洞察がなされていると思う。オープンソースのソフトウェアはそのままでは経済的な価値を生み出さない。これを実際の需要と結びつけるのが「格安のPCの販売」だろう。ここに「場を維持するコスト」という考え方を持ちこまないで、「無料なんだしせいぜい利用すればいいや」と考えるとオープンソースを担う労働力はただ搾取されるだけの存在ということになってしまう。オープンソースとはいっても開発のための環境や作ったソフトウェアを配布するためのサーバーなどは必要なわけで、儲けた企業は、オープンソースのコミュニティを維持するためにこうしたコストを分担しなければならない。こうした場ができると、エンジニアたちは自分たちの力量をアピールして次のシゴトにつなげることができる。つまりこうした企業は、シュンペータの言った「銀行家」の代わりにリソースを再配分しているということになる。
同じ「フリー」を見ても「場を作って維持する」ヒトと「場をタダで利用すれば後は知らない」ヒトでは感想が変わってしまう。日本人はいつのまにか、場に寄生するフリーライダーばかりになってしまったのではないかと思える。だからこそ、こういうビジネス市場を自分たちのコストで構築しようというヒトたちがものすごく不思議に見えてしまうのだ。
さて、最後の一言はかなり重みがある。こうして自分たちが場所を作らなかったがために日本の経済は縮小をはじめた。30代より下のヒトたちは、縮小している経済しか知らない。すると「小さくなった市場をより多くの人間でとりあうよう」になる。
そうした中で、フリーミアムを成立させるのはとても難しい。フリーミアムは、結果的に一部の裕福なヒトたちが、他のヒトたちの面倒を見るという形態だ。これについては別の記事をご紹介したい。アパレル企業のGAPは、10,000円くらいするジーンズを売りつつ、横で1,900円のジーンズを売っている。一応値下げしていることになっているが本当にそうなのかは良くわからない。もともと違うものなのではないかと思える。これは、プレミアムを支払ってでも買いたいヒトと、安くならないと買わないヒトを同時におさえる戦略だ。在庫処分ではなく最初から低価格の製品も作っているのではないかと思う。
例えば年収が1,000万円くらいあれば、別に10,000円のジーンズは高くないだろう。別に値下げまで待たなくても、仮に値下げ品があっても定価で値段で買ってゆくと思う。こうしたヒトたちが10%くらいいればこういう商売もなりたつ。このGAPの戦略には落とし穴がある。
一つは、このジャーナリスト氏が言っているように「本当の値段は?」と思い始めたときに起こる。日本は製造業の国だ。だから「モノには原価があり」それに「労働力」と「販売経費」を足したのが、正当な値段ということになっている。だから本当は1,900円で売れるジーンズを10,000円で売るのはよくないのだ。(仮にそれで満足して買ってゆくヒトがいたとしても…)
インド北部のような「ど商人」の国に行くと、正札という概念そのものがない。「いくらだ」と聞いて、本当に欲しいのでなければ値切っても構わない。商人が提示する値段は定価ではない。これくらいで売れるといいなあという願望にしかすぎない。1/10にして売ってくれるかもしれないし、5%もひいてくれないかもしれない。これはヒトによって払う対価が違っているということでもある。ヒトによって支払う金額は違うわけだ。しかし、日本人がこういう場面を見ると「本当の価値はいくらで、高い値段を支払うのは騙されているのだ」ということになる。だから値引かないと損だと考えるのだ。
二点目には、経済そのものが縮小し、誰も「場を維持するため」にコストを支払う余裕がなくなったときの問題がある。みんながフリーや格安に殺到すると、フリーミアムモデルは成り立たなくなる。場を維持する責任感がないとも考えられるし、そもそもそんな余裕がないのだとも言える。すると場が作られなくなり(ジーンズが格安でしか売れなくなればGAPは日本の商売を縮小して中国などの新興国に向かうだろう)、既存の場はやがて消失する。そうして経済がまた縮小してゆくわけだ。
確かに、フリーは目新しい概念ではない。目新しいのは、ネットが登場して市場を創出するためのコストが限りなく無料に近づいているという点だけなのかもしれない。しかし、場所を作るヒトや場所のコストを負担してくれるヒトがいなくなり、代わりにフリーライダーばかりになってしまうと、経済は確実に縮小する。
ところで、僕はもう結論として「だから日本人は場をつくるためにがんばるべきだ」とは言わない。こういうのは自分で実際にやってみる事だし、もしつくれないと確信したらそれができる場所に移住すべきと思うからだ。そもそも「誰かが場所を作る」のを待っていること自体がフリーライダー的だ。やってみると分かるが、自分で場所を作ったつもりでも誰かのアーキテクチャの上に乗っているだけということが多い。なかなか難しいし、最初は誰にも相手にしてもらえない。しかし、ここまで場所や機会がなくなると「もう自分でつくるしかないなあ」と覚悟を決めるヒトも増えるのではないかと思う。そうしたヒトたちが立ち現れることによってしか、新しい成長は生まれないのだろう。

派遣労働

「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。

対価

だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。

処方箋

労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。

個人の自立心が日本を強くするか?

起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。

パーソナルブランディングとウェブ

パーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出すによると、セルフブランディングが必要になるのは、個人や小さな事業のオーナーだ。売り込みをやめて、向こうからあなたを探してくれるように自分を演出しようという目的のもとにコンセプトが組み立てられている。セルフブランディングが成功すると、お客さんがあなたを求めてやってくるばかりではなく、第三者があなたのことを「誇らしげに」宣伝してくれるようになる。
セルフブランディングを成功させるためには、ある領域(ニッチとも)で第一人者にならなければならない。例えばウェブデザイナーというだけでは不足で「バイク見せ方のうまいウェブデザイナー」とか「離婚調停ならこの弁護士」とか、そういった特化が必要なのだ。セルフブランディングは目的達成の最初の手段に過ぎない。一端ブランドを確立した後は、そのブランドが嘘にならないように全力で顧客の要求に応えなければならない。
この本の優れているところはブランディングについて語っている部分ではないと思う。具体的にどう行動すればいいのかということが記述の中心になっている。具体的にはDM、ウェブ、プロフェッショナルの集まり、異業種交流会などの「チャネル」の中から5つ程度を組み合わせてブランドを訴求させるそうだ。プロセスも明確で、まずブランドを確立し、洗練し、最後に展開する。一度展開をはじめると頻繁に変えてはいけない。だから最初のコンセプトメイキングは非常に大切だ。
どのニッチで活動するかを決めたら、まずブランドに関するステートメント(誰で、何をしていて、どんな価値を提供するか)を決める。次にそれを反映する外観(ファッション)を作り、プロにロゴ、ウェブサイトを作らせ、プロフィール写真などを撮ってもらう。DMやパンフレットも用意する。大抵のひとは素人っぽいウェブサイトを持っているので、グラフィックに工夫をこらしたウェブのポイントは高いだろう。
さて、ここまで読んでいて「なんだか面倒くさいや」と思わなかっただろうか。僕はちょっとそう思った。結局やっている事は会社がやっていることと同じだ。会社だと入社してすぐに営業にでかければいい。売れなければ「テレビのコマーシャルをちゃんと流してくれていない」せいだから、居酒屋で仲間と愚痴る。大きな会社に勤めていればブランディングは会社がやってくれる。時々名刺を持って同窓会なんかに参加すれば背広の胸のバッチを見て「あの人はあそこに勤めているのだからちゃんとしたヒトに違いない」と思ってもらえる。結局1人でシゴトをやるということは、これを全部独力でこなすということなのだ。この本の上手なところはマーケティングだ。企業向けのCIのノウハウを個人に向けて展開することで自分自身のニッチを確立しているのだ。
次に難しそうだなと感じたのは絞り込みだ。30代マジメにシゴトをやって来たヒトなら複数のシゴトはこなせるようになっているはずなのだ。いつシゴトが入ってくるか分からないのだから網は広めに張っておきたいと考える。ITもできるし、英語も話せますよ。管理もするし現場もこなせます、とついついセールスしてしまう。するとブランドがボケる。他人の記憶に残りにくくなり、逆効果になってしまうということなのだ。分かってはいるのだが、実行するのは難しい。本の中には「いちばんコアになるスキルは隠しておけ」というアドバイスが出てくる。
絞り込みができたとして、次にやりたくなるのは売り込みだ。しかし人間は売り込まれるとひいてしまう。明日の収入があるかどうか分からないのに「押し売りしない」これもまた難しい。
故に、それらの誘惑を乗り越えて、ブランディングを実行しようと思えたら、あとは簡単なのではないだろうかと思える。ステートメントを作り、それを名前が出るウェブサイトに貼付ける。イメージからパーソナルカラーを作り(これは先日書いた通り。色にはそれが与える印象がある)ロゴを作る。パーソナルカラーを想起させるような写真を撮り、Twitterのプロフィールなどに使う。一度提示したら頻繁に変えずに1年などの期間を区切って見直しを行なう。
さて、こうしたプロフィールは「嘘」になってしまうのではないかという疑念がわく。しかしWired Visionの記事を読むとそうとは言い切れないようだ。自分で自分のブランドを作っているわけで、案外自分の性格を反映したものができるだろうと考えられる。逆に、自分を殺して働くのであれば勤め人になった方がマシという考え方もできる。

Facebook上の性格は非常に現実に近く、一般的に、ネット上で初めて出会う場合のほうが、直接顔を合わせるよりも正確に性格を評価できることがこれまでの研究の結果からも言える、とBack氏は主張している。

こうしたブランディングがすぐにシゴトに結びつくということにはならないと思う。やはり地道な活動だ。最初のコアになる領域を決めるまでが大変かもしれない。このコンセプトはフリー以外のヒトにも役に立つのではないかと思われる。会社でも「この分野であれば、あの人に聞け」と思われるヒトになることは大切だろう。会社がスペシャリティを求めずひたすら労働力としての価値しか期待していないのであれば、外部のネットワークを通じてそうした環境を模索すればいい。
昨今の労働に関する議論を見ていると、日本の労働環境はすぐには改善しそうにない。また、重たい企業年金の負担に耐えかねて破綻する会社も出てくるだろう。こうした環境からすぐに多くのパーソナルビジネスが浮上してくることはあり得ないと思うのだが、水面下ではシフトが進むのではないかと思われる。そしてそれが一般的になってはじめて起業の文化が生まれるのだろう。