日本の男性ファッション誌

ファッション雑誌が嫌いだった。もともとオシャレに自信がないというのが根底にあるのだが、見てもよく分からない。最初はどうして分からないのかすら分からなかった。現在「服が売れない」と言われており、出版社も赤字続きなのだという。ということで、どうしたら新しいアプローチができるのか考えてみようと、今年の始めくらいからファッション雑誌を読み始めた。それに加えて、ちょっとオシャレな人と言われたいという密かな野望もある。いちどはそういうシゴトもしてみたい。
何回も繰り返して読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。どういうアプローチを取ろうかと思ったのだが、2つ実践してみることにした。

  • 自分で買い物するときの参考書にする。
  • あるものを使って工夫できないか考えてみるなかで、参考書として使う。

すると、ところどころに使えるコンテンツがあるのがわかる。スカーフを使ってひと味加えるとか、色を揃えるとか、そういうのがところどころ混ぜ込まれている。だから、ところどころ読んでゆけばいいわけだ。
しかし、結局日本の雑誌は参考にしなかった。参考になったのはGQとEsquireだ。典型的なコンテンツがこれ。The 12 Styles of American Man。Webではスライド式になっていて、ときどき広告がはさまる。アメリカも出版不況なので、Webの広告が大きな収益源になりつつあるのだろう。10とか12のスタイルの中から、気に入ったスタイルが見つかったら右側にある文章を読む。要点が短くまとまっている。気に入ったのはThe Rake(レーキ)で、熊手の意味だ。要は女ったらしで熊手のように女性をかき集める男性だ。ブレザー、ドレスシャツ(ただし上の3つのボタンは開けておく)、大きな時計が特徴だそうだ。まあ、3,400ドルのスーツは買えないので見るだけだとは思う。
結局、こういうのが記憶に残るのは、ヒトが中心にいるからだ、と思った。それを念頭に入れて日本の雑誌に戻る。すると次から次へと新しいモノに関する情報が流れてくる。結局買い物するとしても選べるのはその内の一つか二つだ。いったい何が見所なのか分からなくなる。モノが中心なので記憶に残らない。これがトータルに組み合わせられることによって全体のスタイルが生まれるのだが、部品が散乱したカタログ雑誌みたいになっているのが、日本の現状なのだ。記憶に残るのはパーツではなく、全体の印象だ。所詮、買わせるための雑誌だからなのだという見方もできるのだが、通販サイトはもっと親切になっている。掲載されている情報が売れ行きに直接関わるのだから、雑誌よりも「選ぶのに役に立つ情報」だけが生き残って来た結果なのだろう。
どうしてこういう事になったのか、というのは一応説明ができる。多分、記事の大半がタイアップになっているのだろう。広告主の関心はその服をどう売るかであって、読者がどういうスタイルを持つかということではない。だからでき上がる記事はカタログのようになる。それに「最近服の売り上げは落ちている」という情報が入る。だから「思い切って浪費するのが大人買いなのだ」という特集記事まである。ちょっと共感しかねる。作り手の都合で、記事がつぎはぎされて、最終的に一貫性のない雑誌ができ上がる。それでも売れる雑誌は20万部以上出ているというのだからすごいものだ。
でも、もう一歩踏み込んで考えるとちょっと分からなくなる。それにしても日本人が徹底的に「人間」に関心を向けないのはどうしてなのだろう?アメリカ流のスタイルガイドは、読み手がいろいろなスタイルを持っているのだということを前提にしている。人種的なばらつき、職業、生き方などがあるので「これが正しい」というスタイルはない。日本の雑誌で、同じようなモデルが、同じような服を着ているのとは対照的だ。これは「日本人にスタイルがない」ということなのだろうか。
もう一つは、GQもEsquireもファッション雑誌ではないということだ。男性誌という枠組みで、Esquireにはヌードも出てくる。極端な話をすると、週刊文春や週刊新潮に本格的なファッション情報が出ているのと同じことだ。生活情報の中にファッションが組み込まれているということのようだ。だからこうした雑誌がファッションだけを延々と特集するということはあり得ない。普通のビジネスマンにとってもどう見られるかということは大切な知識の一つなのだろう。
よい風に考えると、日本人はとりわけファッションに関心が高く、ファッションだけに興味を持つ人たちが多かったのだというようにも解釈できる。どのような仕組みでこうした枠組みが維持されていたのかはよく分からない。しかしこれが崩れてしまうと、そこそこの価格で、とりあえずみんなと同じような、こぎれいな格好をしていれば安心という社会ができ上がる。
今日は取り立てて結論のようなものはない。最後に情報アーキテクチャ的な論点からこれを整理してみたい。こうした日本の雑誌の情報はある程度整理することができる。例えば、覚えていられる情報の量は限られているので、読者を調査して全体が把握できる情報量を精査する事は可能だ。また、分類方法を工夫することで、初心者向け情報と中級者向け情報を分かりやすく整理することも可能だろう。するとどこを読んで、どこを読まないかという分類ができるようになり、読者が情報の迷路のなかで迷うことはなくなるだろう。最初にオーバービューを定義して、ディテールに移るという紙面構成もできるようになる。
アメリカの雑誌が読みやすく、日本の雑誌が読みにくいのはこの情報アーキテクチャーが不足しているからだ。ウェブの現場でもそうなのだが、日本のインタラクティブ・デザインのコースでは、情報アーキテクチャについて体系的に教えてくれない。アメリカのコースではインターフェイスデザインは必須項目になっている。しかし、ウェブサイトのデザイナーはこれを勉強せざるを得ない。雑誌と違ってナビゲーションを自分で定義しなければならないからだ。Web情報アーキテクチャ―最適なサイト構築のための論理的アプローチのような本もあるので、これを読んで勉強したヒトも多いだろう。
多分、紙メディアで働く人たち、特に編集プロのような末端にいる人たちはこうした学問があることすら知らないのではないかと思われる。同じように、大学の経済学部あたりを卒業して出版社に入った人たちもこういう勉強をするチャンスはなかったのではないだろうか。
しかし、情報デザインは根本的な問題を解決することはできない。それは「ヒトを中心に情報を組む」か「モノを中心に情報を組むか」とか「ファッションだけで行くか」「総合誌にするか」といったような問題だ。情報整理以前のプロデュースの領域だ。多分、読者に聞いてみても「生活に必要な情報とより快適に過ごす情報が適度に盛り込まれた雑誌」を見た事がないわけだから、こうしたニーズを発見することはできないだろう。
このような一連の問題を整理する事で、今までファッション雑誌が分かりづらいと考えてきた人たちが体系的に買い物ができるような情報を提供することができるようになるはずだ。今持っている専門知識や広告主との関係といったビジネスモデル上の制約が、本来どうあるべきなのかという議論を難しくしているように思われる。

ボウタイと日本が忘れてしまったもの

グロービスの堀さんが、日本は「ものづくり神話」を捨てて「経営力」を磨けと主張している。いっけんまともな意見に見えるが、僕はこれには反対だ。「ものづくり神話」を闇雲に否定しても、経営力は磨けないだろうと思う。そもそも、ものづくりのどのあたりが神話だったのか、日本の経営者や現場の人たちは言語化して説明できるだろうか?
さて、15年程まえにアメリカでボウタイを買った。しかし、それを使うことはついになかった。理由は簡単でボウタイの結び方が分からないからだ。今年になって、ありものを組み合わせて着るというテーマのブログをはじめたので、ボウタイの結び方を練習することにした。いろいろサイトを調べてみた。ダイヤグラムを見ても、ビデオを見ても最後の部分がよく分からない。ビデオを観察すると、うらでこちょこちょっと何かをしているようなのである。結局、ダンヒルのサイトで見つけた「ボウタイは誰にでも結べます。靴ひもと同じやり方だからです」というのがヒントになって謎は氷解した。ボウタイは単なる蝶結びなのだ。ふとももに巻いてやったらすんなりとできた。どうやら右手の中指がフックになっているらしい。しかし首に巻いてもできない。鏡を凝視すること5分。で、疲れ果ててテレビをみながらやったら、すんなりとできてしまった。「あれ、どうやったの?」僕は未だにボウタイの結び方を説明することができない。でも、ボウタイは結べる。体が先に覚えてしまっていたのだ。
これについて後日考えてみた。つまり、できるけどどうやってできるかが分からないということが世の中には存在するのだということだ。一応出来ているのだから問題ないじゃないかと思った。本当に問題がないのか。これを考えるヒントは「ナレッジマネジメント」の中にある。
知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代 (ちくま新書)でなくてもいいのだが、野中郁次郎さんの話を読むと、暗黙知という概念が出てくる。これは言葉にあらわせない知識全般をさす。これが学問の一領域として認知されたのは、日本の製造業がその頃アメリカを脅かしていたからだ。「どうにかして日本に学びたい」とアメリカ人は必死でその神秘を探ろうとした。それが暗黙知だった。日本人は逆に暗黙知を形式化する必要があるとも指摘された。
説明ができなくても困ることはない。これが問題になるのは、それを学ばせる必要が出て来たときだ。師匠に当たる人は説明できないので「馬鹿野郎、技術は盗んで覚えるもんだ」という。弟子も一生そのシゴトをやってゆくしかないわけだから、下仕事をしながら必死で師匠を盗もうとするわけである。15年経ったある日、師匠は弟子にそのシゴトをやらせてみる。するとだいたいのことは分かっているので、あとは簡単な手ほどきだけで知識の伝達が終わるのである。これが暗黙知の教え方なのだ。
これができなくなるのはどのような時だろうか。考えてみるまでもない。ここ20年くらいで日本に起こったことを想起してみればいい。

  • 熟練労働者が派遣労働者に切り替わる。盗もうとしている間に、労働者が入れ替わってしまう。盗ませる側もいつのまにか引退する。
  • IT化が進み、見ても盗めなくなる。(笑い話みたいだが、これは結構大きいと思いますよ)
  • 技術の入れ替わりが激しくなり、一生をかけて一つのシゴトをするということができなくなる。

トヨタの場合には、もう一つ問題があったようだ。それは急な成長にともなって現地の会社にこうした暗黙の前提が伝わらなかった、もしくは最初から理解されていなかったのではないかということだ。日本人にとって当たり前のことが、外国でも当たり前とはいえない。日本人が暗黙知として理解していたものを、形式化して覚え込んでいただけなのかもしれない。こうしたことは、これから先、各地のビジネススクールで研究されるようになるだろう。新しいケーススタディの誕生である。
さて、日本人はマクドナルドやディズニーランド型のマニュアル運営をとても嫌う。職人シゴトが一生ものなのに対して、マニュアルを見ればできるアルバイトシゴトは「腰掛け」だからだ。確かにマニュアル化すると細かいニュアンスが失われる。最初のボウタイの例に戻ると、素材や襟の形にあわせて微妙な結び目を作る技はマニュアルには載せられない。日本には誰にでもできるようにすることを蔑視する土壌がある。もともと終身雇用で長く勤めている人がエライのは、それだけ暗黙知をたくさん蓄積しているか、シゴト上のネットワークをたくさん持っているからである。
しかし、経営者がこうした職人芸に頼るようになると何が起こるだろうか。1990年代、バブル景気のころ「工場のヒト」が優れた製品をつくるのは当たり前のことで、そんなことはスキルだとさえ見なされなかった。「本社のヒト」は、だからこそリストラのようなことができたわけだ。コアの人材さえ残しておけばスキルは残るだろうと思ったのかもしれないし、もともと何が起こるかということを考える余裕すらなかったのかもしれない。
グロービス堀義人さんのブログにもどる。経営学には「製造業=擦り合わせ」という暗黙の了解があるようで、まずこれが物事の理解をややこしくしていると思う。しかし、一方で製造業の現場が、モノ作り=品質だと考えているのが問題であることも確かだ。またボウタイの例に戻るが、暗黙知に基づいた経営での強みは「ごちゃごちゃいわなくても、一定の品質を持ったものが、すらすら作れる」つまりスピードだからである。からなずしも高品質がウリではないのだ。
堀さんは経営力を「経営力」とは、何か。それは、必要な改革を行い、「戦略」を描き、「実行」する力だと考えるとわかりやすいと定義している。しかしここには一つ大きな問題がある。それは現時点が問題だというためには、私たちの強みがかつて何であって、何が変わったのかという分析が欠かせないのだ。
もし、日本の会社が内向きになっているのであれば、もうそれを徹底的に活かしてみてはと思う。自分たちのことを知っていれば、何か起こったときにうろたえることはない。「本社のヒト」はもう「工場のヒト」が何をしているのか分からなくなっているのではないかと思う。だから、これ以上動かすことはできないのだろう。これが自信のなさにつながる。自信のなさが自己否定につながるわけだ。かつてはバカにしていた「韓国企業」に追い抜かれるのを見ると、もう内心は穏やかではいられない。
変革管理において、関係各者が自信を持つのはとても大切なことだ。競合を横目に「どうしてウチはあそこみたいにできないのかね」という社長は尊敬されない。「お前やってみろよ」と言われるだけである。
もし毎日靴ひもを結べていたのに、それがある日突然結べなくなったらどう思うだろうか、ということを想像してみればいい。かなりの自信喪失につながるはずだ。よく分からないままにマジックテープの靴に変えても「かつてはオシャレなひも靴だった」と嘆くことになるだろう。歩いていても楽しくない。
難しい言葉を使うと、今あるリソースを分析するところからはじめよということになる。多分、結構正しく認識されていないのではないかと思う。出来ているのに認識されていないということがあるはずがないと思うかもしれないが、実はそういうことは頻繁に起こりうるのだ。

色の好みを知ってクライアントを攻略する

フェイバー・ビレンは、色についての研究を進めるうちに、色と性格には関係があるのではないかと思い始めた。12色の色紙を好きな順に並べさせて、好き色と嫌い色を見つけさせる。それを「性格」と結びつけようというのだ。
この人がこういう研究をしたのは、色が占いやオーラの色といったようなスピリチュアルなものと結びつけられがちだからだ。もっと「科学的な」やりかたはないかと考え、このテストを探求したのだった。しかし一方で、1950年代の研究なので今の心理学と異なっているのも確かだ。
また、当時のアメリカの価値観を反映していることには注意をしなければならないだろうと思われる。
このテストいろいろな応用方法があると思うのだが、ここではクライアントと話をしているWebデザイナーが、どのような色を提案すればいちばん手戻しが少ないかという視点で説明して行きたいと思う。お客さんの中にはどういう色を選んでいいかわからない癖に、デザインを仕上げてゆくと「これ違うんだよね」というヒトが少なくない。それを見ていちいちむかついたりするわけだが、やはりお客さんのいうことなので聞かないわけにはいかない。ただ、なんちゃって理論なので失敗しても当局は一切責任を負わない。成功を祈る。

人間が好む色の傾向はたいてい決まっているそうだ。それは赤、青、黄色という原色だ。その中でも人気が高いのが赤。だから赤か青を選んでおけば当たる可能性が高い。情熱と興奮をあらわす。外向的な性格のヒトは赤を選ぶ可能性が高いという。そして、喜怒哀楽が激しいヒトは赤が好きな可能性が高い。なかにはおとなしいのだが、こういった外向的な性格に憧れる人たちがいる。そういうヒトも赤を好む可能性がある。
現に赤は欲求と関係のあるところで多く使われている。例えばマクドナルドは赤を使っている。食欲の赤だ。

一方、冷静に見られたい、理知的になりたいというヒトも青を選ぶ。なのでビジネスシーンではよく使われる色だ。アメリカの金融機関を見ると、スーツの青よりも、若干薄めな青が選ばれている。すこし若々しい感じを出したいのかもしれない。こうした輝度や彩度の違いはビレンの本には出てこないし、50年代にはこうした嗜好はなかったのかもしれない。

黄色

企画力があり、いろいろなことを知っている。しかし実行段階になるといろいろな調整はめんどくさいと思うタイプ。ビレンの黄色の項目を読んでいるとそんな人物像が浮かんでくる。黄色をメインに使うことはあまりないだろうと思うが、刺し色に使うことはあるかもしれない。企画会社とかで提案してみてはどうだろう。

オレンジ

ビレンはオレンジが好きなヒトは精神的な欠点がないといっている。オレンジのあるヒトには社交性があるのだという。IT企業でオレンジを使うところって結構あるような気がする。みんなと仲良くやってゆきたいタイプ。ビレンはアイルランド人と結びつけている。

安定を求めるタイプ。今の状態に甘んじたいという気持ちもあるのだそうだ。アメリカ人がいちばん好きな色だと書いてあるので、昔のアメリカにはそういう気質があったのかもしれない。今「エコ」がキーワードなので、緑は受け入れやすい色になっているかもしれない。緑が好きな人たちは変化を嫌う。

青緑

ビレンによればヒトは原色を好むのだという。青緑が好きな人は、後天的にこういう色が好きになったことを意味しているのだと彼は考えた。こだわりとナルシシズム。実際には増えてますよね、こういう色。単純な青で「ちょっと違うんだよね」と言われた場合にはつかえるかもしれない。

紫には神秘的、哲学者、芸術家といった、実務的な要素とはかけ離れた傾向がある。これがラベンダー色くらいに転ぶと家で悠々自適の生活をする主婦が好むような色合いになるそうだ。いずれにせよ難しい色には違いがないように思われる。

茶色

堅実派。しかし肛門期的な性格を示唆しているともいう。親に厳しく躾けられると、茶色で汚く絵を塗りつぶす子どもがいるそうだ。このようにビレンの分析には精神的な問題と関係している記述がある。多分この頃にはアースカラーという選択肢はなかったに違いない。

ピンク

主婦が好きな色。安穏な暮らしをしている。大人がこの色を好む時には純粋さを失いたくないという気持ちがあるという。例えば赤ちゃん本舗はピンクでした。

白が好きな人は純粋でいいヒトではないかと思ったのだが、ビレンは「わざわざ色が使えるのに白を選ぶのは怪しい」と考えている。自分の気持ちに正直でない、隠したいという気持ちを感じ取っているのだ。マックス・ピスターのカラーピラミッドの研究によると、統合失調症のヒトが作るカラーピラミッドには75%以上の確率で白が出てくるということだ。健康な人たちは赤、黄色、青を選ぶ傾向がある。
しかし、一方で白で構成されたサイトは写真で構成されるコンテンツを邪魔しない。何が来るか分からないところでは白は有効な選択肢になりそうに思える。

灰色

隠れて平安を求めたい色だとビレンは言っている。このモノトーン系、よくアルマーニでは使われる色合いだ。色を使っても彩度が低い傾向にある。多分ウェブサイトで灰色を前面に押し出すということはないと思うのだが、洋服などではよく使われる。別のところに興味深い記述がある。人間は最初色に反応を示す。鮮やかな色であればなんでも好きなのだ。やがてその傾向は崩れ始め、形への興味へと変わってゆく。大人になっても色に執着を持つ人たちには何か問題があるに違いないという。
アルマーニはシルエットで見せる服だ。これが大人の洗練を演出するのだろう。逆にモノトーンを使うということは形やプロポーションに対して関心を払わなければならないということになるように思える。

黒が好きな人には世間を呪いたいという気持ちがあるのだとビレンは言う。しかし一方で、都会的で洗練されたヒトも黒を好む。こういう色が好きになるのは後天的なものではないかというのだ。ビジネス指向。濃紺のスーツがどんどん暗くなると、どんどん黒に近づいてゆく。別の本によると、黒の人気は年々高まっているのだそうだ。これが隠遁したい気持ちを現しているのか、どんどん洗練されてきているのかは分からない。
例えば、Appleは年々使う色が少なくなって来ている。今では黒とメタリックなシルバーそして白が使われる。一方、画面の中では青や紫といった色が使われている。一方マイクロソフトは安心感を現す青を使っている。

まとめ

多分、デザイナーの人たちは既に分かっているはずだが、こうした色の中から同系統のものを使うと統一感がでる。ユーザーはコンテンツや中身に集中することができるだろう。一方、違った色を使うと「注意を喚起する」ために使われる。好きな色を聞くために「どんなウェブサイトが好きか」を聞いたりすることがあるが、意外と言葉では説明できない理由でそのサイトの色合いに引きつけられていることがあるのかもしれない。
色の研究は今では脳波を調べたり、カメラで行動を観察しながらユーザーのリアクションを取ったりというところまで進んでいる。しかし、普通のデザイナーがいちいちこのようなリサーチを行なう事はできない。ビレンの研究は初歩的なものではあるがいろいろなヒントを含んでいるように思える。

集団主義と議論

送信者 Keynotes

この図表を覚えていらっしゃるヒトはかなり古くからKeynotesを購読してくださっている方だと思う。昔作ったホフステードの指標から個人主義の度合いと、男性的傾向を抜き出したもの。男性的傾向とは「くつろぎよりシゴト」という価値観のこと。いわゆる先進国と言われる国々は個人主義的傾向が強い。ITや金融を引っ張って来たのはこうした国々だ。図表の真ん中にBRICSと呼ばれる国々が入っている。イギリスで発明された資本主義は、ラテン諸国に広がり、この帯を右から左へと移動している。
この順番の例外が日本だ。どうして例外になっているのかは良くわからないが、いわゆる富国強兵(がんばっておいつけ)がうまく行った結果だと思う。つまり「がんばってなんとかしてきた」わけだ。工業型資本主義ではこのやり方がうまくいった。しかし、プログラムはがんばっただけでは動かない。
ホフステードの本を読むと「集団主義」でいう集団は、家族や地縁といったようなものをさすようだ。日本は東アジアの中では集団性が低い国だが、これは早くから血縁関係が形式化したことと関係があるように思える。養子や娘婿が家業を継ぐことが容認されている。例えば中国や韓国では娘婿が娘の実家の姓を継ぐ事は考えられないので(妻は結婚しても姓が変わらない)入り婿ということはあり得ないだろう。この入り婿や養子が「才能を家に取り込む」ための装置として作用しており、一つの家業が100年続くということが頻繁に起こる。
さて、新しいアイディアが生まれ、それがプラットフォーム化するのはいつも右端の国々だ。個人主義社会では、一人ひとりが意見を持っていて、それをすりあわせるということを毎日やっている。アイディアは基本的には個人の頭の中でしか生まれない。だから個人主義は「新しい何か」が生まれるための重要な資質である。乱暴に言えばこのプロセスが「議論」だということになる。
もちろん、集団主義の国にも議論はある。しかし集団主義の議論は、個人主義の議論とは異なっている。メンバーは基本的にどの集団に属するのかを選べないので、議論が起こったときに妥協する余地は少ない。また、集団内部での議論では、どんな議論が行なわれるかということよりも、最終的な決定にどれだけ自分の意見が反映したかが重要だ。
ちょっと話はずれるけれど、今民主党、国民新党、社会民主党が行なっている、沖縄の基地問題は集団主義の議論のあり方を典型的に見せてくれていると思う。「私たち、これだけ検討しました」ということが重要なのだが、各政党がどういった「プリンシパル(原理原則)」で候補地を検討しているのかということはあまり重要視されない。そもそも外向問題で民主社会党と民主党が外向問題のプリンシパルで合意に達する事はあり得ない。個人主義の国の人たちは、プリンシパルが見えないことをとても嫌がる。「透明性がない」というわけだ。でも、これが日本のやり方なのだ。
また「ファクト」も重要視されない。これは日本だけでなく、結束した欧米の集団にも見られる特徴だと思う。「ファクト」をどう解釈するかは集団によっていかようにも決められるから、かならずしも正しくなくても良いのである。
1980年代から90年代の日本研究を読むと、日本人は議論のプロセスにやたら時間をかけるという観測が書かれている。次から次に「関係者」と呼ばれる人たちが渡米してきて、あれこれと聞いてゆく。議論は永遠に続くように思われる。しかしいったん決まると行動は早い。コンセンサスを得るプロセスでは、一応全員が意思決定に参加したという実績が大切だ。根回しが済んでみんなが重要なのだということが分かったら、みんな満足して一気呵成に物事が進むのである。このやり方が日本の成功の秘訣だとすら言われた。
日本の悲劇はこうして効率的に資本主義を押し進めた結果、製造業の分野でアメリカなどの先行諸国を追い抜いてしまったということだろう。模倣すべき相手がいなくなると、自分たちでモデルを作り上げて合意形成をしなければならなくなる。この時必要なのが「議論」なのだが、日本人は個人の利害関係をすりあわせることをしてこなかった。車や電化製品はアメリカで成功しているものを開いて分析すればなんとか模倣ができたが、金融商品やITプロダクトは開きようがない。また、真似しても仕方がない。だから日本はこの分野には乗れなかった。
すると、社会のいろいろなところに不満が貯まる。それをいろいろ議論するのだが、一向に決まる気配がない。実際には議論をしているようであって、集団の中のプレゼンスを競っているのである。つまり、誰がいちばん影響力があるかを見せつけたいだけなのだ。例えば、未だに「財政出動すべきか」「インフレを起こすべきか」みたいな議論には決着が付かない。良識のある人たちは「成長分野を見つけよう」と言うが誰も耳を貸さない。自分たちの集団の主張を繰り返しているだけなのだから、もともと決着しようがないし、決着をつけたいとも思っていないだろう。単に時間を稼いでいるだけだ。
このホフステードの記事から見える事は、日本社会が再びがんばってなんとかなる工業型資本主義に戻るのであれば、中国やインドに出てゆかなければならないだろうということだ。どうしてなのかは分からないが、資本主義の中心地はこうした国に移りつつある。そして、アイディアを形にする資本主義に行く(つまり資本主義社会の中で成熟したポジションに移る)ためには、集団主義を捨てて、個人主義的な態度を取るべきだろうということになる。具体的には集団で考える思考方式を捨てて、個人の意見が反映される社会的な仕組みづくりを目指さなければならないということだ。
日本の社会の今ひとつの特徴は、日本語文化圏=日本国=日本の社会=日本列島であるということだ。あたりまえじゃないかと思われるかもしれないが、1億人規模で他者とまったく接していない地域は世界中どこにもない。つまり日本的なマインドを脱却するためには、これのどれかから脱却しなければならないということだ。多分、いちばん近いのは英語で議論に参加することだろう。地理的には中国がいちばん近い。
新しいITプロダクトは、人間がどのような言論を嗜好するかということに影響を与えることはできない。ただ、今までやりたくてもできなかったことの生産性を上げたり、手が届かなかったヒト達が活動に参加できるように助けたりということはできる。もし日本語インターネット圏が匿名性を持っているしているのであればそれは2ちゃんねるのせいではない。もともと個人の名前で発信することを好まない社会なのだろう。散漫な情報がTwitterを流れていたとしてもそれはTwitterのせいではない。個人の判断で物事を進めてゆく社会ではなく、リーダーの庇護のもと一致団結したいと思っている人たちがあつまっている社会なのだ。
この事から分かるのは「議論」を考えるときに、その議論がどのような社会的な意味を持っているかを分析することが大切なのではないかということだ。個人主義社会では個人の間でぶつかり合う主張をすりあわせるのに使われる。新しいことが価値を持つ社会では、それが本当に有効なのかをチェックするために使われる。目的が明確なときには、どうすれば効率よく目的が達成できるかを議論して調整する。そして、妥協点が得られない社会では、お互いのプレゼンスを主張しつづけるのに「議論のようなもの」が交わされるのだろう。
どういう議論がどの社会で好まれるかを分析するためには、社会や集団そのものの分析が重要なようだ。