日本の男性ファッション誌

ファッション雑誌が嫌いだった。もともとオシャレに自信がないというのが根底にあるのだが、見てもよく分からない。最初はどうして分からないのかすら分からなかった。現在「服が売れない」と言われており、出版社も赤字続きなのだという。ということで、どうしたら新しいアプローチができるのか考えてみようと、今年の始めくらいからファッション雑誌を読み始めた。それに加えて、ちょっとオシャレな人と言われたいという密かな野望もある。いちどはそういうシゴトもしてみたい。
何回も繰り返して読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。どういうアプローチを取ろうかと思ったのだが、2つ実践してみることにした。

  • 自分で買い物するときの参考書にする。
  • あるものを使って工夫できないか考えてみるなかで、参考書として使う。

すると、ところどころに使えるコンテンツがあるのがわかる。スカーフを使ってひと味加えるとか、色を揃えるとか、そういうのがところどころ混ぜ込まれている。だから、ところどころ読んでゆけばいいわけだ。
しかし、結局日本の雑誌は参考にしなかった。参考になったのはGQとEsquireだ。典型的なコンテンツがこれ。The 12 Styles of American Man。Webではスライド式になっていて、ときどき広告がはさまる。アメリカも出版不況なので、Webの広告が大きな収益源になりつつあるのだろう。10とか12のスタイルの中から、気に入ったスタイルが見つかったら右側にある文章を読む。要点が短くまとまっている。気に入ったのはThe Rake(レーキ)で、熊手の意味だ。要は女ったらしで熊手のように女性をかき集める男性だ。ブレザー、ドレスシャツ(ただし上の3つのボタンは開けておく)、大きな時計が特徴だそうだ。まあ、3,400ドルのスーツは買えないので見るだけだとは思う。
結局、こういうのが記憶に残るのは、ヒトが中心にいるからだ、と思った。それを念頭に入れて日本の雑誌に戻る。すると次から次へと新しいモノに関する情報が流れてくる。結局買い物するとしても選べるのはその内の一つか二つだ。いったい何が見所なのか分からなくなる。モノが中心なので記憶に残らない。これがトータルに組み合わせられることによって全体のスタイルが生まれるのだが、部品が散乱したカタログ雑誌みたいになっているのが、日本の現状なのだ。記憶に残るのはパーツではなく、全体の印象だ。所詮、買わせるための雑誌だからなのだという見方もできるのだが、通販サイトはもっと親切になっている。掲載されている情報が売れ行きに直接関わるのだから、雑誌よりも「選ぶのに役に立つ情報」だけが生き残って来た結果なのだろう。
どうしてこういう事になったのか、というのは一応説明ができる。多分、記事の大半がタイアップになっているのだろう。広告主の関心はその服をどう売るかであって、読者がどういうスタイルを持つかということではない。だからでき上がる記事はカタログのようになる。それに「最近服の売り上げは落ちている」という情報が入る。だから「思い切って浪費するのが大人買いなのだ」という特集記事まである。ちょっと共感しかねる。作り手の都合で、記事がつぎはぎされて、最終的に一貫性のない雑誌ができ上がる。それでも売れる雑誌は20万部以上出ているというのだからすごいものだ。
でも、もう一歩踏み込んで考えるとちょっと分からなくなる。それにしても日本人が徹底的に「人間」に関心を向けないのはどうしてなのだろう?アメリカ流のスタイルガイドは、読み手がいろいろなスタイルを持っているのだということを前提にしている。人種的なばらつき、職業、生き方などがあるので「これが正しい」というスタイルはない。日本の雑誌で、同じようなモデルが、同じような服を着ているのとは対照的だ。これは「日本人にスタイルがない」ということなのだろうか。
もう一つは、GQもEsquireもファッション雑誌ではないということだ。男性誌という枠組みで、Esquireにはヌードも出てくる。極端な話をすると、週刊文春や週刊新潮に本格的なファッション情報が出ているのと同じことだ。生活情報の中にファッションが組み込まれているということのようだ。だからこうした雑誌がファッションだけを延々と特集するということはあり得ない。普通のビジネスマンにとってもどう見られるかということは大切な知識の一つなのだろう。
よい風に考えると、日本人はとりわけファッションに関心が高く、ファッションだけに興味を持つ人たちが多かったのだというようにも解釈できる。どのような仕組みでこうした枠組みが維持されていたのかはよく分からない。しかしこれが崩れてしまうと、そこそこの価格で、とりあえずみんなと同じような、こぎれいな格好をしていれば安心という社会ができ上がる。
今日は取り立てて結論のようなものはない。最後に情報アーキテクチャ的な論点からこれを整理してみたい。こうした日本の雑誌の情報はある程度整理することができる。例えば、覚えていられる情報の量は限られているので、読者を調査して全体が把握できる情報量を精査する事は可能だ。また、分類方法を工夫することで、初心者向け情報と中級者向け情報を分かりやすく整理することも可能だろう。するとどこを読んで、どこを読まないかという分類ができるようになり、読者が情報の迷路のなかで迷うことはなくなるだろう。最初にオーバービューを定義して、ディテールに移るという紙面構成もできるようになる。
アメリカの雑誌が読みやすく、日本の雑誌が読みにくいのはこの情報アーキテクチャーが不足しているからだ。ウェブの現場でもそうなのだが、日本のインタラクティブ・デザインのコースでは、情報アーキテクチャについて体系的に教えてくれない。アメリカのコースではインターフェイスデザインは必須項目になっている。しかし、ウェブサイトのデザイナーはこれを勉強せざるを得ない。雑誌と違ってナビゲーションを自分で定義しなければならないからだ。Web情報アーキテクチャ―最適なサイト構築のための論理的アプローチのような本もあるので、これを読んで勉強したヒトも多いだろう。
多分、紙メディアで働く人たち、特に編集プロのような末端にいる人たちはこうした学問があることすら知らないのではないかと思われる。同じように、大学の経済学部あたりを卒業して出版社に入った人たちもこういう勉強をするチャンスはなかったのではないだろうか。
しかし、情報デザインは根本的な問題を解決することはできない。それは「ヒトを中心に情報を組む」か「モノを中心に情報を組むか」とか「ファッションだけで行くか」「総合誌にするか」といったような問題だ。情報整理以前のプロデュースの領域だ。多分、読者に聞いてみても「生活に必要な情報とより快適に過ごす情報が適度に盛り込まれた雑誌」を見た事がないわけだから、こうしたニーズを発見することはできないだろう。
このような一連の問題を整理する事で、今までファッション雑誌が分かりづらいと考えてきた人たちが体系的に買い物ができるような情報を提供することができるようになるはずだ。今持っている専門知識や広告主との関係といったビジネスモデル上の制約が、本来どうあるべきなのかという議論を難しくしているように思われる。

ボウタイと日本が忘れてしまったもの

グロービスの堀さんが、日本は「ものづくり神話」を捨てて「経営力」を磨けと主張している。いっけんまともな意見に見えるが、僕はこれには反対だ。「ものづくり神話」を闇雲に否定しても、経営力は磨けないだろうと思う。そもそも、ものづくりのどのあたりが神話だったのか、日本の経営者や現場の人たちは言語化して説明できるだろうか?
さて、15年程まえにアメリカでボウタイを買った。しかし、それを使うことはついになかった。理由は簡単でボウタイの結び方が分からないからだ。今年になって、ありものを組み合わせて着るというテーマのブログをはじめたので、ボウタイの結び方を練習することにした。いろいろサイトを調べてみた。ダイヤグラムを見ても、ビデオを見ても最後の部分がよく分からない。ビデオを観察すると、うらでこちょこちょっと何かをしているようなのである。結局、ダンヒルのサイトで見つけた「ボウタイは誰にでも結べます。靴ひもと同じやり方だからです」というのがヒントになって謎は氷解した。ボウタイは単なる蝶結びなのだ。ふとももに巻いてやったらすんなりとできた。どうやら右手の中指がフックになっているらしい。しかし首に巻いてもできない。鏡を凝視すること5分。で、疲れ果ててテレビをみながらやったら、すんなりとできてしまった。「あれ、どうやったの?」僕は未だにボウタイの結び方を説明することができない。でも、ボウタイは結べる。体が先に覚えてしまっていたのだ。
これについて後日考えてみた。つまり、できるけどどうやってできるかが分からないということが世の中には存在するのだということだ。一応出来ているのだから問題ないじゃないかと思った。本当に問題がないのか。これを考えるヒントは「ナレッジマネジメント」の中にある。
知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代 (ちくま新書)でなくてもいいのだが、野中郁次郎さんの話を読むと、暗黙知という概念が出てくる。これは言葉にあらわせない知識全般をさす。これが学問の一領域として認知されたのは、日本の製造業がその頃アメリカを脅かしていたからだ。「どうにかして日本に学びたい」とアメリカ人は必死でその神秘を探ろうとした。それが暗黙知だった。日本人は逆に暗黙知を形式化する必要があるとも指摘された。
説明ができなくても困ることはない。これが問題になるのは、それを学ばせる必要が出て来たときだ。師匠に当たる人は説明できないので「馬鹿野郎、技術は盗んで覚えるもんだ」という。弟子も一生そのシゴトをやってゆくしかないわけだから、下仕事をしながら必死で師匠を盗もうとするわけである。15年経ったある日、師匠は弟子にそのシゴトをやらせてみる。するとだいたいのことは分かっているので、あとは簡単な手ほどきだけで知識の伝達が終わるのである。これが暗黙知の教え方なのだ。
これができなくなるのはどのような時だろうか。考えてみるまでもない。ここ20年くらいで日本に起こったことを想起してみればいい。

  • 熟練労働者が派遣労働者に切り替わる。盗もうとしている間に、労働者が入れ替わってしまう。盗ませる側もいつのまにか引退する。
  • IT化が進み、見ても盗めなくなる。(笑い話みたいだが、これは結構大きいと思いますよ)
  • 技術の入れ替わりが激しくなり、一生をかけて一つのシゴトをするということができなくなる。

トヨタの場合には、もう一つ問題があったようだ。それは急な成長にともなって現地の会社にこうした暗黙の前提が伝わらなかった、もしくは最初から理解されていなかったのではないかということだ。日本人にとって当たり前のことが、外国でも当たり前とはいえない。日本人が暗黙知として理解していたものを、形式化して覚え込んでいただけなのかもしれない。こうしたことは、これから先、各地のビジネススクールで研究されるようになるだろう。新しいケーススタディの誕生である。
さて、日本人はマクドナルドやディズニーランド型のマニュアル運営をとても嫌う。職人シゴトが一生ものなのに対して、マニュアルを見ればできるアルバイトシゴトは「腰掛け」だからだ。確かにマニュアル化すると細かいニュアンスが失われる。最初のボウタイの例に戻ると、素材や襟の形にあわせて微妙な結び目を作る技はマニュアルには載せられない。日本には誰にでもできるようにすることを蔑視する土壌がある。もともと終身雇用で長く勤めている人がエライのは、それだけ暗黙知をたくさん蓄積しているか、シゴト上のネットワークをたくさん持っているからである。
しかし、経営者がこうした職人芸に頼るようになると何が起こるだろうか。1990年代、バブル景気のころ「工場のヒト」が優れた製品をつくるのは当たり前のことで、そんなことはスキルだとさえ見なされなかった。「本社のヒト」は、だからこそリストラのようなことができたわけだ。コアの人材さえ残しておけばスキルは残るだろうと思ったのかもしれないし、もともと何が起こるかということを考える余裕すらなかったのかもしれない。
グロービス堀義人さんのブログにもどる。経営学には「製造業=擦り合わせ」という暗黙の了解があるようで、まずこれが物事の理解をややこしくしていると思う。しかし、一方で製造業の現場が、モノ作り=品質だと考えているのが問題であることも確かだ。またボウタイの例に戻るが、暗黙知に基づいた経営での強みは「ごちゃごちゃいわなくても、一定の品質を持ったものが、すらすら作れる」つまりスピードだからである。からなずしも高品質がウリではないのだ。
堀さんは経営力を「経営力」とは、何か。それは、必要な改革を行い、「戦略」を描き、「実行」する力だと考えるとわかりやすいと定義している。しかしここには一つ大きな問題がある。それは現時点が問題だというためには、私たちの強みがかつて何であって、何が変わったのかという分析が欠かせないのだ。
もし、日本の会社が内向きになっているのであれば、もうそれを徹底的に活かしてみてはと思う。自分たちのことを知っていれば、何か起こったときにうろたえることはない。「本社のヒト」はもう「工場のヒト」が何をしているのか分からなくなっているのではないかと思う。だから、これ以上動かすことはできないのだろう。これが自信のなさにつながる。自信のなさが自己否定につながるわけだ。かつてはバカにしていた「韓国企業」に追い抜かれるのを見ると、もう内心は穏やかではいられない。
変革管理において、関係各者が自信を持つのはとても大切なことだ。競合を横目に「どうしてウチはあそこみたいにできないのかね」という社長は尊敬されない。「お前やってみろよ」と言われるだけである。
もし毎日靴ひもを結べていたのに、それがある日突然結べなくなったらどう思うだろうか、ということを想像してみればいい。かなりの自信喪失につながるはずだ。よく分からないままにマジックテープの靴に変えても「かつてはオシャレなひも靴だった」と嘆くことになるだろう。歩いていても楽しくない。
難しい言葉を使うと、今あるリソースを分析するところからはじめよということになる。多分、結構正しく認識されていないのではないかと思う。出来ているのに認識されていないということがあるはずがないと思うかもしれないが、実はそういうことは頻繁に起こりうるのだ。

社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

色の好みを知ってクライアントを攻略する

フェイバー・ビレンは、色についての研究を進めるうちに、色と性格には関係があるのではないかと思い始めた。12色の色紙を好きな順に並べさせて、好き色と嫌い色を見つけさせる。それを「性格」と結びつけようというのだ。
この人がこういう研究をしたのは、色が占いやオーラの色といったようなスピリチュアルなものと結びつけられがちだからだ。もっと「科学的な」やりかたはないかと考え、このテストを探求したのだった。しかし一方で、1950年代の研究なので今の心理学と異なっているのも確かだ。
また、当時のアメリカの価値観を反映していることには注意をしなければならないだろうと思われる。
このテストいろいろな応用方法があると思うのだが、ここではクライアントと話をしているWebデザイナーが、どのような色を提案すればいちばん手戻しが少ないかという視点で説明して行きたいと思う。お客さんの中にはどういう色を選んでいいかわからない癖に、デザインを仕上げてゆくと「これ違うんだよね」というヒトが少なくない。それを見ていちいちむかついたりするわけだが、やはりお客さんのいうことなので聞かないわけにはいかない。ただ、なんちゃって理論なので失敗しても当局は一切責任を負わない。成功を祈る。

人間が好む色の傾向はたいてい決まっているそうだ。それは赤、青、黄色という原色だ。その中でも人気が高いのが赤。だから赤か青を選んでおけば当たる可能性が高い。情熱と興奮をあらわす。外向的な性格のヒトは赤を選ぶ可能性が高いという。そして、喜怒哀楽が激しいヒトは赤が好きな可能性が高い。なかにはおとなしいのだが、こういった外向的な性格に憧れる人たちがいる。そういうヒトも赤を好む可能性がある。
現に赤は欲求と関係のあるところで多く使われている。例えばマクドナルドは赤を使っている。食欲の赤だ。

一方、冷静に見られたい、理知的になりたいというヒトも青を選ぶ。なのでビジネスシーンではよく使われる色だ。アメリカの金融機関を見ると、スーツの青よりも、若干薄めな青が選ばれている。すこし若々しい感じを出したいのかもしれない。こうした輝度や彩度の違いはビレンの本には出てこないし、50年代にはこうした嗜好はなかったのかもしれない。

黄色

企画力があり、いろいろなことを知っている。しかし実行段階になるといろいろな調整はめんどくさいと思うタイプ。ビレンの黄色の項目を読んでいるとそんな人物像が浮かんでくる。黄色をメインに使うことはあまりないだろうと思うが、刺し色に使うことはあるかもしれない。企画会社とかで提案してみてはどうだろう。

オレンジ

ビレンはオレンジが好きなヒトは精神的な欠点がないといっている。オレンジのあるヒトには社交性があるのだという。IT企業でオレンジを使うところって結構あるような気がする。みんなと仲良くやってゆきたいタイプ。ビレンはアイルランド人と結びつけている。

安定を求めるタイプ。今の状態に甘んじたいという気持ちもあるのだそうだ。アメリカ人がいちばん好きな色だと書いてあるので、昔のアメリカにはそういう気質があったのかもしれない。今「エコ」がキーワードなので、緑は受け入れやすい色になっているかもしれない。緑が好きな人たちは変化を嫌う。

青緑

ビレンによればヒトは原色を好むのだという。青緑が好きな人は、後天的にこういう色が好きになったことを意味しているのだと彼は考えた。こだわりとナルシシズム。実際には増えてますよね、こういう色。単純な青で「ちょっと違うんだよね」と言われた場合にはつかえるかもしれない。

紫には神秘的、哲学者、芸術家といった、実務的な要素とはかけ離れた傾向がある。これがラベンダー色くらいに転ぶと家で悠々自適の生活をする主婦が好むような色合いになるそうだ。いずれにせよ難しい色には違いがないように思われる。

茶色

堅実派。しかし肛門期的な性格を示唆しているともいう。親に厳しく躾けられると、茶色で汚く絵を塗りつぶす子どもがいるそうだ。このようにビレンの分析には精神的な問題と関係している記述がある。多分この頃にはアースカラーという選択肢はなかったに違いない。

ピンク

主婦が好きな色。安穏な暮らしをしている。大人がこの色を好む時には純粋さを失いたくないという気持ちがあるという。例えば赤ちゃん本舗はピンクでした。

白が好きな人は純粋でいいヒトではないかと思ったのだが、ビレンは「わざわざ色が使えるのに白を選ぶのは怪しい」と考えている。自分の気持ちに正直でない、隠したいという気持ちを感じ取っているのだ。マックス・ピスターのカラーピラミッドの研究によると、統合失調症のヒトが作るカラーピラミッドには75%以上の確率で白が出てくるということだ。健康な人たちは赤、黄色、青を選ぶ傾向がある。
しかし、一方で白で構成されたサイトは写真で構成されるコンテンツを邪魔しない。何が来るか分からないところでは白は有効な選択肢になりそうに思える。

灰色

隠れて平安を求めたい色だとビレンは言っている。このモノトーン系、よくアルマーニでは使われる色合いだ。色を使っても彩度が低い傾向にある。多分ウェブサイトで灰色を前面に押し出すということはないと思うのだが、洋服などではよく使われる。別のところに興味深い記述がある。人間は最初色に反応を示す。鮮やかな色であればなんでも好きなのだ。やがてその傾向は崩れ始め、形への興味へと変わってゆく。大人になっても色に執着を持つ人たちには何か問題があるに違いないという。
アルマーニはシルエットで見せる服だ。これが大人の洗練を演出するのだろう。逆にモノトーンを使うということは形やプロポーションに対して関心を払わなければならないということになるように思える。

黒が好きな人には世間を呪いたいという気持ちがあるのだとビレンは言う。しかし一方で、都会的で洗練されたヒトも黒を好む。こういう色が好きになるのは後天的なものではないかというのだ。ビジネス指向。濃紺のスーツがどんどん暗くなると、どんどん黒に近づいてゆく。別の本によると、黒の人気は年々高まっているのだそうだ。これが隠遁したい気持ちを現しているのか、どんどん洗練されてきているのかは分からない。
例えば、Appleは年々使う色が少なくなって来ている。今では黒とメタリックなシルバーそして白が使われる。一方、画面の中では青や紫といった色が使われている。一方マイクロソフトは安心感を現す青を使っている。

まとめ

多分、デザイナーの人たちは既に分かっているはずだが、こうした色の中から同系統のものを使うと統一感がでる。ユーザーはコンテンツや中身に集中することができるだろう。一方、違った色を使うと「注意を喚起する」ために使われる。好きな色を聞くために「どんなウェブサイトが好きか」を聞いたりすることがあるが、意外と言葉では説明できない理由でそのサイトの色合いに引きつけられていることがあるのかもしれない。
色の研究は今では脳波を調べたり、カメラで行動を観察しながらユーザーのリアクションを取ったりというところまで進んでいる。しかし、普通のデザイナーがいちいちこのようなリサーチを行なう事はできない。ビレンの研究は初歩的なものではあるがいろいろなヒントを含んでいるように思える。

集団主義と議論

送信者 Keynotes

この図表を覚えていらっしゃるヒトはかなり古くからKeynotesを購読してくださっている方だと思う。昔作ったホフステードの指標から個人主義の度合いと、男性的傾向を抜き出したもの。男性的傾向とは「くつろぎよりシゴト」という価値観のこと。いわゆる先進国と言われる国々は個人主義的傾向が強い。ITや金融を引っ張って来たのはこうした国々だ。図表の真ん中にBRICSと呼ばれる国々が入っている。イギリスで発明された資本主義は、ラテン諸国に広がり、この帯を右から左へと移動している。
この順番の例外が日本だ。どうして例外になっているのかは良くわからないが、いわゆる富国強兵(がんばっておいつけ)がうまく行った結果だと思う。つまり「がんばってなんとかしてきた」わけだ。工業型資本主義ではこのやり方がうまくいった。しかし、プログラムはがんばっただけでは動かない。
ホフステードの本を読むと「集団主義」でいう集団は、家族や地縁といったようなものをさすようだ。日本は東アジアの中では集団性が低い国だが、これは早くから血縁関係が形式化したことと関係があるように思える。養子や娘婿が家業を継ぐことが容認されている。例えば中国や韓国では娘婿が娘の実家の姓を継ぐ事は考えられないので(妻は結婚しても姓が変わらない)入り婿ということはあり得ないだろう。この入り婿や養子が「才能を家に取り込む」ための装置として作用しており、一つの家業が100年続くということが頻繁に起こる。
さて、新しいアイディアが生まれ、それがプラットフォーム化するのはいつも右端の国々だ。個人主義社会では、一人ひとりが意見を持っていて、それをすりあわせるということを毎日やっている。アイディアは基本的には個人の頭の中でしか生まれない。だから個人主義は「新しい何か」が生まれるための重要な資質である。乱暴に言えばこのプロセスが「議論」だということになる。
もちろん、集団主義の国にも議論はある。しかし集団主義の議論は、個人主義の議論とは異なっている。メンバーは基本的にどの集団に属するのかを選べないので、議論が起こったときに妥協する余地は少ない。また、集団内部での議論では、どんな議論が行なわれるかということよりも、最終的な決定にどれだけ自分の意見が反映したかが重要だ。
ちょっと話はずれるけれど、今民主党、国民新党、社会民主党が行なっている、沖縄の基地問題は集団主義の議論のあり方を典型的に見せてくれていると思う。「私たち、これだけ検討しました」ということが重要なのだが、各政党がどういった「プリンシパル(原理原則)」で候補地を検討しているのかということはあまり重要視されない。そもそも外向問題で民主社会党と民主党が外向問題のプリンシパルで合意に達する事はあり得ない。個人主義の国の人たちは、プリンシパルが見えないことをとても嫌がる。「透明性がない」というわけだ。でも、これが日本のやり方なのだ。
また「ファクト」も重要視されない。これは日本だけでなく、結束した欧米の集団にも見られる特徴だと思う。「ファクト」をどう解釈するかは集団によっていかようにも決められるから、かならずしも正しくなくても良いのである。
1980年代から90年代の日本研究を読むと、日本人は議論のプロセスにやたら時間をかけるという観測が書かれている。次から次に「関係者」と呼ばれる人たちが渡米してきて、あれこれと聞いてゆく。議論は永遠に続くように思われる。しかしいったん決まると行動は早い。コンセンサスを得るプロセスでは、一応全員が意思決定に参加したという実績が大切だ。根回しが済んでみんなが重要なのだということが分かったら、みんな満足して一気呵成に物事が進むのである。このやり方が日本の成功の秘訣だとすら言われた。
日本の悲劇はこうして効率的に資本主義を押し進めた結果、製造業の分野でアメリカなどの先行諸国を追い抜いてしまったということだろう。模倣すべき相手がいなくなると、自分たちでモデルを作り上げて合意形成をしなければならなくなる。この時必要なのが「議論」なのだが、日本人は個人の利害関係をすりあわせることをしてこなかった。車や電化製品はアメリカで成功しているものを開いて分析すればなんとか模倣ができたが、金融商品やITプロダクトは開きようがない。また、真似しても仕方がない。だから日本はこの分野には乗れなかった。
すると、社会のいろいろなところに不満が貯まる。それをいろいろ議論するのだが、一向に決まる気配がない。実際には議論をしているようであって、集団の中のプレゼンスを競っているのである。つまり、誰がいちばん影響力があるかを見せつけたいだけなのだ。例えば、未だに「財政出動すべきか」「インフレを起こすべきか」みたいな議論には決着が付かない。良識のある人たちは「成長分野を見つけよう」と言うが誰も耳を貸さない。自分たちの集団の主張を繰り返しているだけなのだから、もともと決着しようがないし、決着をつけたいとも思っていないだろう。単に時間を稼いでいるだけだ。
このホフステードの記事から見える事は、日本社会が再びがんばってなんとかなる工業型資本主義に戻るのであれば、中国やインドに出てゆかなければならないだろうということだ。どうしてなのかは分からないが、資本主義の中心地はこうした国に移りつつある。そして、アイディアを形にする資本主義に行く(つまり資本主義社会の中で成熟したポジションに移る)ためには、集団主義を捨てて、個人主義的な態度を取るべきだろうということになる。具体的には集団で考える思考方式を捨てて、個人の意見が反映される社会的な仕組みづくりを目指さなければならないということだ。
日本の社会の今ひとつの特徴は、日本語文化圏=日本国=日本の社会=日本列島であるということだ。あたりまえじゃないかと思われるかもしれないが、1億人規模で他者とまったく接していない地域は世界中どこにもない。つまり日本的なマインドを脱却するためには、これのどれかから脱却しなければならないということだ。多分、いちばん近いのは英語で議論に参加することだろう。地理的には中国がいちばん近い。
新しいITプロダクトは、人間がどのような言論を嗜好するかということに影響を与えることはできない。ただ、今までやりたくてもできなかったことの生産性を上げたり、手が届かなかったヒト達が活動に参加できるように助けたりということはできる。もし日本語インターネット圏が匿名性を持っているしているのであればそれは2ちゃんねるのせいではない。もともと個人の名前で発信することを好まない社会なのだろう。散漫な情報がTwitterを流れていたとしてもそれはTwitterのせいではない。個人の判断で物事を進めてゆく社会ではなく、リーダーの庇護のもと一致団結したいと思っている人たちがあつまっている社会なのだ。
この事から分かるのは「議論」を考えるときに、その議論がどのような社会的な意味を持っているかを分析することが大切なのではないかということだ。個人主義社会では個人の間でぶつかり合う主張をすりあわせるのに使われる。新しいことが価値を持つ社会では、それが本当に有効なのかをチェックするために使われる。目的が明確なときには、どうすれば効率よく目的が達成できるかを議論して調整する。そして、妥協点が得られない社会では、お互いのプレゼンスを主張しつづけるのに「議論のようなもの」が交わされるのだろう。
どういう議論がどの社会で好まれるかを分析するためには、社会や集団そのものの分析が重要なようだ。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。