動物農場

図書館で1年に一度無料の古本配布会をやる。「ろくな本がないな」と思っていたら、オーウェルの動物農場 (角川文庫)を見つけた。文庫本だし、面白くなければ捨てればいいと思い、もらって帰ることにした。近くの公園に東屋がある。曇っていて寒いので、その東屋で本を読む事にする。スーパーで買った50円の缶コーヒー(ブラック)と、80円の格段にでかいどら焼きを開けて、本を読み始めた。
東屋の中には男がいて、AMラジオで野球を聞いている。すると、別の男がやって来て、缶ビール(あるいは発泡酒かもしれない)とフライが入ったパックを開いた。外にいる二人を呼ぶためにガラスをどんどんと叩く。「中で食べるとまずいんじゃないのか」という友達に対して「ダメだと言われれば外に出ればいいんだ」という。金を払うよという友達に「誰が奢ろうと関係あるもんか、黙って食えよ」と太っ腹なところを見せる。缶ビール(いや多分発泡酒だろう)は1人に2本あるのだそうだ。揚げ物は1人1パック。ちょっと欲しいなと思ったが、分けてくれそうな様子はない。
動物農場の話は、老いた豚が夢を見る所からはじまる。それは実現しそうもない夢に思えたのだが、動物達は豚の死後、蜂起して人間を追い出してしまう。人間は搾取するだけで働かないじゃないかというわけだ。革命は成就し、動物達は7か条からなる理想を掲げて共同生活をはじめる。しかし革命の理想はみんなに理解されていたわけではなかった。あるものはそもそもアルファベットを最後まで覚えられなかったし「四つ足はいいけど、二つ足はダメだ」というような単純なスローガンしか理解できなかったものたちもいた。最初のころこそ良かったものの、革命の指導者だった豚達が権力闘争をはじめ、7か条の理想はゆがめられ、最後には人間よりも醜い支配者となりはててしまうところで話は終わる。
全体的にはソ連の歴史をふまえた悲劇なのだが、流して読むと動物達のどたばたぶりが面白い。寓話的に書かれているので大抵の権力抗争に当てはめることもできる。多分、未来のある時点から今現在の日本を見たら「ああ、あのときの民主党もそうだったよね」と思えるのかもしれない。最初は動物達の支持を集めて革命が成立するのだが、豚達の腐敗を見るにつれて「あれ?これはおかしいよね」と思う所が出てくる。しかしなんとなく言い訳できる範囲だし、言い訳ができなくなれば最初の取り決めを書き換えりゃいい。それでも説明がつかなくなると「実は、敵の仕業だった」とか「それでも、前よりはマシだろう」言えば丸め込める。
苦しくなって来たとき、最後のよりどころになるのが自尊心だ。どんなに貧しい暮らしをしていても、奴隷であるより主人である方がいいだろうということだ。だけどそれはまやかしでしかない。
多分、今民主党に入れた人たちも同じようなことを感じているだろう。亀井さんや小沢さんといった強面のオジサマたちを見て「あれおかしいのでは?」と考える。でも、いったん権力の椅子に座った人たちがいつまで自制心を保っていられるものなのだろうか。いつのまにか「そんな話は聞いていない」とか「それは俺のなわばりだ」などと言い出さないとも限らない。
動物農場の革命では知識の差が不公平を生じさせる。知識といってもアルファベットを全部読めるか、読めないかという程度の違いだ。途中で生産性を上げるためのアイディアというのが出てくるのだが、それも他人から奪ったアイディアだった。そして裏ではしっかりと権力が搾取する仕組みが作られてゆく。
さて、これを読んでいる間、おじさんたちはずーっとおしゃべりをしていた。最初は野球選手の年棒、成績、勝敗について話している。多分スポーツ新聞を追っているのだと思うが、話の内容はかなり複雑だ。主婦が芸能人の人間関係をかなり正確に記憶しているのに驚嘆させられることがあるが、同じくらいの複雑さがある。
どうやら人間の関係性を記憶するのが日本人はかなり得意なように思える。こうしたデータを持っていても野球がうまくはならないだろうが、楽しく観戦するのには役立つのかもしれない。やがて話は楽天の経営状態に移り、インターネットの話になった。一人のおじさんが詳しいらしく、楽天やYUSENとホリエモンの関係、光ファイバー(値段が高いから普及しないのだそうだ)について仲間に説明していた。「インターネットでいろいろやったってさ、どうせ金儲けだろう」と一人のおじさんがいい、その話は終わりになった。
スポーツ新聞とか週刊誌は政治家を理解するのにこういった手法を使っているし、女性週刊誌は芸能人のこういった人間関係を事細かに描写する。
さて、昨日来、創造的な自尊的感情を問題にしているのだが、自尊感情を理想的に捉えすぎているのかもしれない。
動物農場では、理想として始まったはずの革命は徹底的に歪められてしまう。知識の足りない自尊心は搾取のために都合良く利用されるだけなのだ。作中に働き者の馬が出てくるのだがその末路は悲惨だ。結局重労働が祟って死んでしまうのだが、豚たちは馬を売り払い、お酒に替えて飲んでしまうのである。また豚達も「支配階級である」という自尊的な感情を持っているのだが、単に動物達を搾取してもいいと考えてしまうだけなのだ。
どうしてこういった違いが出てくるのだろうかと考える。いったんは自尊感情には「よい自尊感情」と「悪い自尊感情」があるのだと結論づけたくなる。しかし、もうすこし考えてみるとそんなものはないことがわかるだろう。そこにあるのは自尊感情があるから生み出される良い結果と、悪い結果に過ぎない。出発点は良くても、最後には悲惨な結末を迎えることもある。
創造性にも同じことが言える。よい創造性と悪い創造性があるわけではない。原爆も創造性が生み出した。原爆が戦争を止めたという人もいるし、これがなかったらドイツ軍がユダヤ人をもっと殺していただろうと考える人もいる。だが、大量破壊兵器であることも確かだ。あれは良い創造性だったのか、悪い創造性だったのか。考えるだけ無駄なことだ。
ここで大騒ぎしているおじさんたちに創造的な自尊心があるようには思えない。多分、個人の感情の赴くままに好きに生きていいよと言った所で、発泡酒(もう完全にそうだと決めつけているのだが)の本数が2本から3本になり、入って来た収入を仲間に振る舞って使ってしまうか、競輪かなにかにつぎ込んで終わりになってしまいそうだ。
かといって、誰かがすばらしい創造性を得られるように指導してあげますといったところで、それは動物農場の豚と同じくらいの醜悪さしか持たないだろう。とりあえず、おじさんたちは週末に集って、トランジスタラジオを聞きながら、仲間と野球監督を気取っているのが楽しいわけだ。それはそれでいいんじゃないか。
このおじさんたちが、林住期にさしかかり「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と思う日がくるだろうか。そうは考えにくい。同じように新聞で日々移り変わる政治状況を見ているひとたちも、国の将来を心配しているというよりは、一種の娯楽として大臣達の人間関係を眺めつつ「俺が総理大臣だったらこうするのになあ」と思っているかもしれない。
こうした自尊心や創造性の不確実さは、例えば企業の経営者のような創造性を生産性に結びつけたい人たちにとっては大変厄介な問題だ。まず第一に自分の自尊心が、「正しい」ものであるかを内省した上で、自分達が管理している人の創造性が「そこにふさわしいものであるか」を吟味しなければならないからだ。
そもそも現実がそこそこ楽しいからいいやと思う人たちに無理にモチベーションを与えることも、志が低いと責め立てることもできないし、モチベーションが高い人たちが「お俺だったらもっとうまくやるのに」と思い始めたとき、チームは瓦解してしまうだろう。
一方、たまたま「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と考えるに至った人たちも、ある意味運が悪かったとしかいいようがない。そういった考えに取り憑かれて生活や家族の義務を離れてしまう人たちもいるし(それを自己愛性の障害だと捉える人すらいる)、それが後の人類が感謝する偉大な創造物につながる可能性もないとはいえない。作者のジョージ・オーウェルもそういった「意義」に取り憑かれるに至った1人だったようだ。
どうやら生い立ちが関係しているようなのだが、階級社会に疑問を抱き、イートン校を卒業したものの大学には行かず、フリーターのような生活に入った。時には浮浪者として街から街へとさまよい、あるときには戦場に出かけ死にかけたりする。その後社会主義に傾倒して文筆業に入るものの貧乏生活が続き、動物農場で一応の経済的安定を得る事になる。しかしこの成果に満足せず、病身をおして取り憑かれたように『1984年』(ハヤカワ文庫 NV 8)を書きそのまま死んでしまうのだった。
どうしてこの人がこういった警鐘文学に取り憑かれたのかはよくわからない。あまりにもテーマが直裁過ぎて、これが芸術なのだろうかとも思う。しかしこうした彼のある意味気違いじみた献身のおかげで後世の我々は全体主義の危うさや権力闘争のばかばかしさを考察することができるのだ。

注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞で注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞(アルフレット・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞というのだそうだ)のキーワードはガバナンスだった。受賞した1人の研究対象はコモンズだそうだ。新聞報道を読む限りは、人間が社会を維持するために相互協力が有効だという主張のようだ。国家でも経済でもない公共をみなおそうということらしい。これを市場競争主義の反省に立った主張だと見る向きもいる。

自律的に運用される市場

ちょっと極端な例なのかもしれないが「ヨーロッパの朝市」みたいなことを考えてみる。みんながチーズやら野菜やらを持ち寄って、そこそこの値段で売る。お客さんも新鮮な食糧が手に入るので市場をありがたいと思うだろうし、一人が10種類の野菜を作るより、得意な野菜に特化して収穫を交換した方が効率的だ。よく考えてみればこれも市場だ。うちのトマトの方が甘いといってちょっとした自慢合戦をするのが「競争」ということになる。ところがそこに大きな街の資本家が乗り込んで来て、安い労働力を集めて作った野菜を売り出したとしても、これも市場だ。
「ヨーロッパの朝市」には自主的なルールが作られる。みんなが使えるテントなどの機材や、野菜が洗える場所なんかが備え付けられる。そういった場所はみんなで管理する。しかし悪辣な資本家はそういった場所を利用しないし、保持するために金を出したりもしないかもしれない。

競争と協力は両立する。また両立させなければならない。

脱線する前にここでやめておくことにするが、何が言いたいかというと、「市場」と「コモンズ」は二律背反の概念ではないということだ。ただ、みんなで協力して作っている市場と何人かが独占している市場は明らかに違った市場だろう。前者の市場は参加者によって守られている。しかし後者の市場は常に警戒する必要がある。いつ搾取されて怒った労働者が石を投げてくるかもしれないからだ。
ここにお客さんを加える。お客さんがコミュニティの一員である場合には、悪辣な資本家の店では買い物をしないかもしれない。「あの人悪い人よ」というのをみんなが知っているからだ。しかし、例えば表からそのことがわからなかったり、お客さんがコミュニティの参加者でない場合には、単純に店構えがきれいだから、値段が安いからという理由で品物を選ぶことになるだろう。どちらも市場原理に従った(つまりお客さんに選択されるので)淘汰が起こるはずだが、その結果は大きく異なってしまう。

従来の貨幣理論だけでは説明できない市場の成り立ち

この違いを「通貨流通量」で説明することは難しい。
経営学の方でも、このところ資産としての信用が大切みたいなことが言われ続けている。共生もキーワードになりつつあるようだ。かならずしも「新しい」ことが賞賛されるわけではなく、どのような価値観を提供するかが重要ということだろう。
一方、今年の経済学賞には批判もある。例えば池田Blogは「変だ」といっている。この批評によると、理論としては新しくも、わかりやすくもないそうだ。この分析はたいへん面白い。なぜならば「美しい数式では解けない」ようだからだ。つまり、群れを維持するために、人間はかなり複雑な行動を取っているのかもしれないということが提示されているようだ。純粋な理論家ではなく、フィールドワークに基づいてという点がこうした違いを生んでいるのかもしれない。
こうした議論が起こる背景には、経済学かくあるべきという専門家の見方があり、市場原理で泣いている人がいるから、市場原理は批判されるべきだと考える人がいるということなのだろう。フレームは世界を理解するために有用なのだが、それがうまく作用しなくなった場合にはフレームを再編成する必要がある。
多分これから1年は、市場主義や数式の美しさというものより、「共生」やら「信頼」といったウエットな議論が多くなってくるだろうと思われる。個人のレベルではコントロールできないように思えるが、一人ひとりの心持ちが実はシステムに重大な影響を与えているというような世界だ。それが受け入れられて改めて考えるまでもないというレベルに落ち着いたあたりで、再び「個人」「スキル」「起業」といった個人にを示す言葉が流行することになるだろう。

ビジョナリー・ピープル

成功した人たちをインタビューした結果をまとめた本。ただインタビューしただけでなく、簡単にフレームワーク化している。いわゆるビジョンは、外から与えられるものではなく、内側から出てくるものだ。好きなことをしているときには、時間は苦にならずにシゴトに没頭できる。故に熟達が進み成功しやすくなるといったところだ。
ただ、こうすればビジョンが得られますよというマニュアル本ではない。かなり多くの人数のインタビューが紹介されており、そこに至る道は様々だ。また、この事業をやったら成功するだろうというビジョンを得る人もいれば、好きだからこれをやろうと思っているうちに結果として成功した人もいる。さらに読字障害に苦しんだり、ケガでスポーツを引退して、仕方なく別の道に進んだという例も出てくる。
インタビューの後に、統計処理された結果が出てくる。そこで強調されるのは、外的な要因(外発的動機づけとも)に従うのではなく、内的な要因(内発的動機づけ)に従った方が成功しやすく、また幸福度も高そうだということだ。外発的動機づけとは、例えば「家族を養うために」とか「給料やボーナスが高いから」といったものを指す。内発的動機づけというのは「やりたいから」とか「これをやっていると幸せだから」といったような動機だ。
外発的動機づけに頼った成果主義は2つの点でうまく機能しなかった。一つは金融機関のように倫理をインセンティブが越えてしまった例だ。ゲームに勝ち逃げして40〜50代で引退し悠々自適な生活をしようと思う人が多くなると、業界全体が暴走することになる。人によっては燃え尽きてしまうこともあるだろう。一方、いわゆる「成果主義」は実際には収益が上がらなくなった会社が、どう損を分配するかという理由で導入されたようだ。元富士通人事部の城繁幸さんの書いた本を読むと、富士通では現場にのみ成果主義を押しつけることによって、効果的に会社全体のモチベーションを下げることに成功している。最後に富士通の社長だった秋葉さんが「日本には成果主義はなじまなかった」といってあっさりと方針転換してしまったのだが、実際には外発的動機づけが内発的な動機を殺す可能性があることを理解すべきだった。インセンティブにドライブされている企業は、逆インセンティブによってモチベーションを失う。
さてビジョンが大切なのはわかったのだが、「やりたい事をやっていれば」「成功できる」という事になるのかという疑問は残る。シゴトに生きる人もいるだろうが、シゴトは生活費を稼ぐための手段にしか過ぎないという人もいるだろう。また「ビジョンの質」が悪ければ、アウトプットの質も自ずから低下する。最悪なのは内的な声に従っているはずのビジョンが実は他人の影響を受けているだけのものだったというケースだろう。例えば人気職業ランキングで志望先を決めている人たちが誰かに強制されているとは思えない。しかしよくよく考えてみると「人気があるから」「社会的に成功しそうだから」というのは外発的な動機だ。つまりビジョンと外発的動機づけを区別するのはとても難しい。
ビジョンは内部からわき出してくるものなのだが、例えば瞑想をしていたらビジョンが浮かび上がってくるというものではないし、天使がやって来て授けてくれるというものでもないだろう。実際にはいろいろな外的な刺激を受けてその中から自分なりのビジョンを組み上げてゆくことになる。実際にやってみて「ああこれをやっていると苦にならないな」ということを発見するまで、内発的な動機に気がつかないケースもあるだろう。
結局、いろいろやってみて、自分で考えるしかない。リーダーに必要な素養であって、全ての人が内発的な動機づけを必要としているわけではない。リーダーでない人たちにはやはりインセンティブ・プログラムは効果的に作用する。しかし成功したい人たちや、組織を成功に導きたい人たちは、内的な動機づけと外的な動機づけの違いを理解するべきだろう。

コモンズ

よく「若者の公共でのマナーがなっていない」という言葉を聞く。また、給食費などの費用を払わなくなったというニュースが話題になったりもした。一見、関係のない二つの話題だが「公共」や「準公共」が崩れてきているのではないかという認識が背後にある。
まず、公共についておさらいする。公共には二つの力が働いている。一つは群れを維持しようという力、もう一つは公共への費用負担せず利用だけしようといういわゆるフリーライダーの脅威だ。前者は、信頼といういっけん無償の行為に見えるものに社会的なベネフィットがあるということを示唆している。普段は二つの力がバランスしているのだが、フリーライダーが増え公共財が蚕食されると公共財は維持ができなくなってしまうのだった。
電車の中で化粧をする若い女性が「群れを維持する力」を失ったとは思えない。彼女たちを観察するとむしろ必要以上に群れの秩序を大切にしている様子がわかるだろう。ただその様子は地下組織のようだ。場所を持たないので常に連絡を取り合っていなければならない。
社会には公共に使える場所がある。これを「コモンズ」と呼ぶ。スマートモブズ―“群がる”モバイル族の挑戦は渋谷の交差点で携帯電話でテキストメッセージをやり取りする若者達の描写ではじまる。北欧にも同じような光景があったそうだ。作者の観察によると、両者に共通するのは、こうしたひと達は、家に居場所と地位がない。こうした居場所のなかった人たちが見つけたのが仮想空間としての携帯電話だった。そして期せずして新しいコモンズが無線上で成立したのが、日本や北欧の携帯電話だということだった。
人々は意外と合理的に行動している。例えばOLと言われる人たちは予め会社の意思決定から排除されている。この人たちが「一般職」から「派遣」へと移行するに従ってその度合いが強くなるが基本的に「公式の意思決定」から排除されているという点は変わりがない。政治の現場でも状況は同じだ。そこには影響力が与えられる群れの下位のメンバーとして留まるか、それとも別の公共権を作るかという選択が生まれる。そこで作られたのが新しい携帯電話の空間だったというのだ。そこにあるのはとりとめのないやりとりの無秩序なやり取りだ。しかしそこに秩序が生まれ、ついでに多くの商機を生み出した。
その人たちがとどまった環境を子供部屋と呼ぼう。子供部屋には生活の維持に必要なもの(例えば台所や風呂といったような)がない。ここで育つと生活を維持する力を学習できない。にも関わらず消費生活は豊かだった。台所がなくてもコンビニがあるという具合だ。そこにはお金を出せば、しがらみなく好きなものが買えるという自由がある。お金には重要な性質が二つある。一つは消費行動が匿名であるということ、もう一つは等価交換の原則が成り立つということだ。何かが必要であればそれに見合った費用を払わなければならないのである。コミュニティ参加へのインセンティブがなかったのはこういった事情によるものだろう。コミュニティには私有地と共有地がある。
村は私有地の他に共有地を持っているのが普通だ。この共有地はコモンズと呼ばれる。日本語には入会地という言葉もある。同義だという人もいるのだが、日本語と英語の概念は少し異なっている。日本語と英語のWikipediaを見てみるとわかるが、英語のthe commonsには「Shareされる」という定義しかない。一方、日本語のコモンズには、公共財は全ての人に開放されるが、コモンズはメンバーに対してのみ開かれているというのだという限定条件がついている。なぜか定義が二本立てになっているのだ。国が管理するのは公共財だ。しかし公共事業は公共財ではないことがあるし、特定の団体(メンバー・エクスクルーシブだ)に税金投入が行なわれる場合もある。漁業権や水利権も入会だがここにもメンバーシップの問題がある。入会地には利権とメンバー以外を排除するという「おまけ」がついている。どこまでも本音と建前の二段構えの構造がある。
日本が第二次世界大戦に負けたとき、アメリカからの憲法を受け入れた。(押し付けられたという人たちもいる)このときに受け入れた国家観概念は「万人に開かれた」ものだ。日本国憲法は全ての国民が差別を受ける事なく一定以上の豊かな生活がおくることができる国になることを約束している。当の国民はあまりこのことを理解しなかったのではないかと思われるが、このときにコモンズにあたる制度も作られた。たとえば地域住民が参加してコミュニティを支える人材を教育する教育委員会も、こういうコモンズの考え方に基づいている。
自発的に国家や地域運営をしていないと、誰かに自由を浸食されるかもしれないという場合には「コモンズ」はうまく機能するだろう。アメリカの場合にはイギリスの王権に対してこういった主張をする必要があったのかもしれない。しかし日本の場合には利権と
一体になった入会地を持つ村落が積み上がって作られた国家だった。つまり、モデルとしては、誰にでも開かれた「公共」の下にメンバーにだけ開かれた「入会地」がある二重国家なのだ。こうした場合「公共」がどんな目にあうのかは火を見るよりもあきらかだろう。利権を求める人たちに切り売りされて、入会地化しまうのである。
村落共同体は、いくつかの方法で崩壊した。地方から都会に出て来たときに村落は再構成されなかった。地方では後継者がいなくなり村落共同体は縮小してゆく。後に残ったのはベッドタウンという小さな私有地の集まりだ。ここではコモンズも入会地もなくなっている。「核家族」といわれたこの共同体は群れを形成するには小さ過ぎる。
もう一度、電車で化粧をする女性を見て「若い人たちは公共のマナーがなっていない」という時にどういう心理が働いているかを考えてみよう。指摘した人が考えているのは「電車で化粧をするのはマナーに反する」と考えている。そして「当然のことながら、女性たちはそのマナーに従わなければならない」と主張しているのである。こうした「公共の場」は二重の構造を持っている。実際には全員に開かれていることになっているが、実は利権が存在し、社会の一部に支配されているわけだ。
女性やコドモ達は、こうした場所で自己主張して公共の支配権を獲得しようとは思わなかった。家でも職場でも誰かが支配していて、彼らの流儀を押し付けるのだが、他にも楽しい所はたくさんあった。ネットはそうした「楽しい所」の一つだ。こうした「楽しい場所」にはローカルの流儀がある。それはとても厳しく、流儀の入れ替わりも激しい。バーチャルの世界でも、多数の入会地が生まれている。継続性がなく不安定なのが新しい公共圏の特徴だ。加えて現実の入会地には利権があるのだが、バーチャルの入会地には確固たる利権がない。
デジタル入会地の悲劇は「はてな」や「2ch」の悲劇として知られる。2ちゃんねるにはそれなりのルールがあるが「2ちゃんねるのようにでたらめ」というように認識されることがある。そこには3つの原因がある。一つには内部ルールが成熟されていないこと(そもそも学習する機会がなかったのかもしれない)、次にルールを理解しない人たちからもアクセスされてしまうこと(つまりそもそも入会地にすることができない)、最後に匿名であるためにある種のはけ口として利用される可能性がある。こうした所はくだらないから排除してしまえという人たちもいる。一方、こういうところがなければ、自分の考えを再編成し知識を体得する機会がない人もいるのが現状だ。
まず、コモンズの伝統がありそれが世代間で受け継がれてきた国のインターネットにはデジタルの公共圏も作りやすい。例えば知識を貯蔵し、誰でも使えるようにしようというWikipediaもコモンズの一つだ。しかし、そもそもそういった伝統がなく、世代間で継承もされなかった国のインターネットでは、コモンズは新しく作られる必要がある。それもできればオトナ達に浸食されないように「こっそり」とだ。政府の援助は期待できない。もともと利権のない所に投資は行なわれないだろうからだ。
さて、ここまでコモンズについてだらだらと考察を積み上げて来た。最後にどうして「コモンズ」が必要なのだろうかを考えてみたい。エンジンが回転するためには最初のイグニションが必要だ。コモンズはその最初の一押しという役割を持っている。コモンズに投資することは誰の利得にもならないので、誰にとっても損のように思える。しかし公共物がなければ、エンジンは周り続けることはできないのだ。こうした「公共」があってはじめて、自由競争が担保されると言ってもよいだろう。
開かれたコモンズにはもう一つの価値がある。開かれた空間は新しい才能を集めてくることができる。これは閉じられた空間である入会地にはない特色だ。多様性は競争力を増すという前提を受け入れるとするならば、コモンズを持っている集団は内部の競争を円滑に進められるだけでなく、外に対しても競争力を持つことができるということになる。
ともすると「日本には公共圏がない」とか「若者は公共マナーがなっていない」というような論調になりがちなのかもしれない。しかし、日本語でもWikipediaが成り立っているところを見るといちがいにそんなことも言えないようだ。逆に「公共」と言われている場所が誰かの専有物になっていて、社会の発展を阻害している場合もあるのではないだろうか。