動物農場

図書館で1年に一度無料の古本配布会をやる。「ろくな本がないな」と思っていたら、オーウェルの動物農場 (角川文庫)を見つけた。文庫本だし、面白くなければ捨てればいいと思い、もらって帰ることにした。近くの公園に東屋がある。曇っていて寒いので、その東屋で本を読む事にする。スーパーで買った50円の缶コーヒー(ブラック)と、80円の格段にでかいどら焼きを開けて、本を読み始めた。
東屋の中には男がいて、AMラジオで野球を聞いている。すると、別の男がやって来て、缶ビール(あるいは発泡酒かもしれない)とフライが入ったパックを開いた。外にいる二人を呼ぶためにガラスをどんどんと叩く。「中で食べるとまずいんじゃないのか」という友達に対して「ダメだと言われれば外に出ればいいんだ」という。金を払うよという友達に「誰が奢ろうと関係あるもんか、黙って食えよ」と太っ腹なところを見せる。缶ビール(いや多分発泡酒だろう)は1人に2本あるのだそうだ。揚げ物は1人1パック。ちょっと欲しいなと思ったが、分けてくれそうな様子はない。
動物農場の話は、老いた豚が夢を見る所からはじまる。それは実現しそうもない夢に思えたのだが、動物達は豚の死後、蜂起して人間を追い出してしまう。人間は搾取するだけで働かないじゃないかというわけだ。革命は成就し、動物達は7か条からなる理想を掲げて共同生活をはじめる。しかし革命の理想はみんなに理解されていたわけではなかった。あるものはそもそもアルファベットを最後まで覚えられなかったし「四つ足はいいけど、二つ足はダメだ」というような単純なスローガンしか理解できなかったものたちもいた。最初のころこそ良かったものの、革命の指導者だった豚達が権力闘争をはじめ、7か条の理想はゆがめられ、最後には人間よりも醜い支配者となりはててしまうところで話は終わる。
全体的にはソ連の歴史をふまえた悲劇なのだが、流して読むと動物達のどたばたぶりが面白い。寓話的に書かれているので大抵の権力抗争に当てはめることもできる。多分、未来のある時点から今現在の日本を見たら「ああ、あのときの民主党もそうだったよね」と思えるのかもしれない。最初は動物達の支持を集めて革命が成立するのだが、豚達の腐敗を見るにつれて「あれ?これはおかしいよね」と思う所が出てくる。しかしなんとなく言い訳できる範囲だし、言い訳ができなくなれば最初の取り決めを書き換えりゃいい。それでも説明がつかなくなると「実は、敵の仕業だった」とか「それでも、前よりはマシだろう」言えば丸め込める。
苦しくなって来たとき、最後のよりどころになるのが自尊心だ。どんなに貧しい暮らしをしていても、奴隷であるより主人である方がいいだろうということだ。だけどそれはまやかしでしかない。
多分、今民主党に入れた人たちも同じようなことを感じているだろう。亀井さんや小沢さんといった強面のオジサマたちを見て「あれおかしいのでは?」と考える。でも、いったん権力の椅子に座った人たちがいつまで自制心を保っていられるものなのだろうか。いつのまにか「そんな話は聞いていない」とか「それは俺のなわばりだ」などと言い出さないとも限らない。
動物農場の革命では知識の差が不公平を生じさせる。知識といってもアルファベットを全部読めるか、読めないかという程度の違いだ。途中で生産性を上げるためのアイディアというのが出てくるのだが、それも他人から奪ったアイディアだった。そして裏ではしっかりと権力が搾取する仕組みが作られてゆく。
さて、これを読んでいる間、おじさんたちはずーっとおしゃべりをしていた。最初は野球選手の年棒、成績、勝敗について話している。多分スポーツ新聞を追っているのだと思うが、話の内容はかなり複雑だ。主婦が芸能人の人間関係をかなり正確に記憶しているのに驚嘆させられることがあるが、同じくらいの複雑さがある。
どうやら人間の関係性を記憶するのが日本人はかなり得意なように思える。こうしたデータを持っていても野球がうまくはならないだろうが、楽しく観戦するのには役立つのかもしれない。やがて話は楽天の経営状態に移り、インターネットの話になった。一人のおじさんが詳しいらしく、楽天やYUSENとホリエモンの関係、光ファイバー(値段が高いから普及しないのだそうだ)について仲間に説明していた。「インターネットでいろいろやったってさ、どうせ金儲けだろう」と一人のおじさんがいい、その話は終わりになった。
スポーツ新聞とか週刊誌は政治家を理解するのにこういった手法を使っているし、女性週刊誌は芸能人のこういった人間関係を事細かに描写する。
さて、昨日来、創造的な自尊的感情を問題にしているのだが、自尊感情を理想的に捉えすぎているのかもしれない。
動物農場では、理想として始まったはずの革命は徹底的に歪められてしまう。知識の足りない自尊心は搾取のために都合良く利用されるだけなのだ。作中に働き者の馬が出てくるのだがその末路は悲惨だ。結局重労働が祟って死んでしまうのだが、豚たちは馬を売り払い、お酒に替えて飲んでしまうのである。また豚達も「支配階級である」という自尊的な感情を持っているのだが、単に動物達を搾取してもいいと考えてしまうだけなのだ。
どうしてこういった違いが出てくるのだろうかと考える。いったんは自尊感情には「よい自尊感情」と「悪い自尊感情」があるのだと結論づけたくなる。しかし、もうすこし考えてみるとそんなものはないことがわかるだろう。そこにあるのは自尊感情があるから生み出される良い結果と、悪い結果に過ぎない。出発点は良くても、最後には悲惨な結末を迎えることもある。
創造性にも同じことが言える。よい創造性と悪い創造性があるわけではない。原爆も創造性が生み出した。原爆が戦争を止めたという人もいるし、これがなかったらドイツ軍がユダヤ人をもっと殺していただろうと考える人もいる。だが、大量破壊兵器であることも確かだ。あれは良い創造性だったのか、悪い創造性だったのか。考えるだけ無駄なことだ。
ここで大騒ぎしているおじさんたちに創造的な自尊心があるようには思えない。多分、個人の感情の赴くままに好きに生きていいよと言った所で、発泡酒(もう完全にそうだと決めつけているのだが)の本数が2本から3本になり、入って来た収入を仲間に振る舞って使ってしまうか、競輪かなにかにつぎ込んで終わりになってしまいそうだ。
かといって、誰かがすばらしい創造性を得られるように指導してあげますといったところで、それは動物農場の豚と同じくらいの醜悪さしか持たないだろう。とりあえず、おじさんたちは週末に集って、トランジスタラジオを聞きながら、仲間と野球監督を気取っているのが楽しいわけだ。それはそれでいいんじゃないか。
このおじさんたちが、林住期にさしかかり「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と思う日がくるだろうか。そうは考えにくい。同じように新聞で日々移り変わる政治状況を見ているひとたちも、国の将来を心配しているというよりは、一種の娯楽として大臣達の人間関係を眺めつつ「俺が総理大臣だったらこうするのになあ」と思っているかもしれない。
こうした自尊心や創造性の不確実さは、例えば企業の経営者のような創造性を生産性に結びつけたい人たちにとっては大変厄介な問題だ。まず第一に自分の自尊心が、「正しい」ものであるかを内省した上で、自分達が管理している人の創造性が「そこにふさわしいものであるか」を吟味しなければならないからだ。
そもそも現実がそこそこ楽しいからいいやと思う人たちに無理にモチベーションを与えることも、志が低いと責め立てることもできないし、モチベーションが高い人たちが「お俺だったらもっとうまくやるのに」と思い始めたとき、チームは瓦解してしまうだろう。
一方、たまたま「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と考えるに至った人たちも、ある意味運が悪かったとしかいいようがない。そういった考えに取り憑かれて生活や家族の義務を離れてしまう人たちもいるし(それを自己愛性の障害だと捉える人すらいる)、それが後の人類が感謝する偉大な創造物につながる可能性もないとはいえない。作者のジョージ・オーウェルもそういった「意義」に取り憑かれるに至った1人だったようだ。
どうやら生い立ちが関係しているようなのだが、階級社会に疑問を抱き、イートン校を卒業したものの大学には行かず、フリーターのような生活に入った。時には浮浪者として街から街へとさまよい、あるときには戦場に出かけ死にかけたりする。その後社会主義に傾倒して文筆業に入るものの貧乏生活が続き、動物農場で一応の経済的安定を得る事になる。しかしこの成果に満足せず、病身をおして取り憑かれたように『1984年』(ハヤカワ文庫 NV 8)を書きそのまま死んでしまうのだった。
どうしてこの人がこういった警鐘文学に取り憑かれたのかはよくわからない。あまりにもテーマが直裁過ぎて、これが芸術なのだろうかとも思う。しかしこうした彼のある意味気違いじみた献身のおかげで後世の我々は全体主義の危うさや権力闘争のばかばかしさを考察することができるのだ。